国文学研究資料館所蔵品に み る 生巧館 の 活動と木口木版 の 受容
石井香絵
要旨
明治二一年、フランス留学から帰国した合田清は、洋画家山本芳翠とともに生巧館を設立し、日本に本格的な木口木版の
技術をもたらした。初期の新聞附録から雑誌の表紙、挿絵、口絵、教科書の口絵、挿絵、広告、商標、パッケージなどの多
くの複製メディアに登場し、生巧館は出版文化の隆盛とともにその活動が広く知られることとなった。しかしその全貌につ
いては不明な点が多く、研究も充分には進められていない。
国文学研究資料館には生巧館が残した木口木版による膨大な数の清刷り(印刷にかける前の試し刷り)が所蔵されている。
本稿では特定研究「生巧館制作による木口木版の研究―国文学研究資料館所蔵品を中心に」のこれまでの研究成果をふまえ、
生巧館設立前後の時代を見直しつつ当館所蔵品の美術および歴史的価値について考察する。初期新聞附録の時代、続く雑誌・
教科書の時代、後年の時代それぞれの活動状況と所蔵品がどのように関連づけられるか検討し、併せて所蔵品を手がかりに
生巧館の活動の一端を明らかにしていくことを試みる。
はじめに
本稿は国文学研究資料館特定研究 「生巧 館 制作に よ る 木 口木 版の研究 ― 国 文 学 研究 資 料 館所蔵品 を中 心に 」 ( 研 究 代
表者
石井香
絵 、 研 究 分 担 者
岩切
信一郎、向後 恵里子、谷川ゆ き 、中村茉貴、増野恵子、森登)の現在までの 研 究成
果を ふ ま え 、 国 文 学 研 究 資 料 館 が所 蔵す る 生 巧 館 資料 が 、 本邦 に お け る 木口 木版 受 容 の歴 史 の なかで ど の よ うに関 係
付けられ るか 検討する もので あ る。
同館 が所蔵する の は生 巧館 が明 治二〇 年 代 か ら 大 正に かけ て 制 作し た木 口 木 版 約 六五 〇〇 点の清 刷 り で ある 。木口
木版とは 通常 の木版が 桜や 桂 な どの 木材を 縦 に切 った 板目面を 版 に 用 い るの に対 し て 、黄 楊や 椿などの 木目 のつま っ
た堅 い 木 を輪切 り にし た木口面 を用い る も の である 。 直 彫 銅 版 ( エ ン グ レービング) で使用される ビ ュ ランとい う道
具を彫刻 に使 う こ と で 細密 な表現を 可能 とする。 「西洋 木 版」 「写 真木版」とも 称された。 清 刷り とは出版 物に 掲載 さ
れる 前 の 試し摺 り の こ と で あ る 。 薄 葉 紙 に 数 枚 版 木 か ら直 接摺 り出 すた め、美麗 な状態が 保た れて いる が、 仕上が り
の確認や 割付 に使用された 後は廃棄さ れ る こ とが多く 、ま とま っ て 何千点も 、と り わ け明治期 のものが残されて い る
のは非 常 に 稀 な例といえ よ う 。
( 1)
特定研究 で は こ れ ら紙片 に 摺られた 一点一点のデー タ ベ ー ス 化 を 進 め 、 図版が 出 版 物
あ る い は 商 品 と し ていつ ど の よ う に 用 い ら れ た か 可 能 な 限 り 明 ら か に し ていく と と も に 、 生 巧 館 の 活 動 お よ び近 代日
本に おけ る木 口 木 版史 全体 の考察を 進 め る こ とを 目 的 と し て い る。 まず は日 本に フラ ンス 式の 本格 的な 木口 木版の 技
術をもた ら し た合田清と生 巧館設立前後の活動歴をた ど っ た のち に 、 当館所 蔵 品 の 成立事情や 掲 載媒体 な ど個々の 事
例 に つい て述べる こととする 。 なお当 館 所蔵 の生巧館作 品 を掲載 す る 際 は図版頁に 併 せ て 作 品 番 号 を記し た 。
生巧館設立から初期の活動
生巧館 ( 当 時 の表記 は 生 巧 舘 ) は明治 二 一年 ( 一 八 八 八) 三月、 フ ランス 留 学を 終え て 帰 国した合田 清 ( 文 久二 〈一
八六二〉 〜昭 和一 三年 〈一九三八〉 )と山 本 芳翠( 嘉 永三〈一 八五 〇〉 〜 明 治三 九年 〈 一 九〇 六 〉 ) に よ っ て芝区 桜 田
本郷町一四番地に設立された。
( 2)
一階が合田 の 木口 木版工 房 、二階が山 本 の 洋 画塾 で あ った。合田 は 明治 一三 年( 一 八
八〇 )一 八歳 の 時 、実 兄田 島 応 真の フラ ンス公 使 館勤 務を 機 に 渡 仏 し、下 宿 先で 当時ジャ ン・ レオ ン・ ジ ェ ローム の
ア ト リ エ で 絵画 修 業 中 で あっ た山 本 芳 翠と 知 り 合っ て い る 。 農学 を学 ぶ予 定 で あっ た 合 田は 、山 本 に まだ 日本 に な い
ものをや っ て み て はど うか と勧められ 、 木口木版習 得 の 道 に志望を変 え る こ と と な る 。 一 八世紀 末 イギリス のト マス ・
ビューイック によっ て 開発 さ れ た こ の技 術は、銅版が 凹版 で あ るの に対し て 凸版で あ る た め活 字と同じ版に 組み込ん
で刷 り出せる利 点が あり、 合 田 の 滞仏 期に は 新 聞雑 誌 や 単行 本の 挿絵に 用 いら れ る な ど 欧米 で 広 く 普 及 し て い た 。 合
田は翌年 シ ャ ルル・ バ ルバンに師事 し明治一九年( 一 八八六)ま で 木 口木版 の 技 術 を学び 、 以 後 も帰国 ま で 研 究 を 続
けた。 明 治 一 八年( 一 八八 五)と一 九年 にはフラ ンス 美術家協会 サ ロンに入 選して お り、 一九 年入選の エミ ール・ ア
ダン《 一 日の 終 わ り》の木口による 複製 画は電胎 版と し て 持 ち 帰 ら れ 、 生巧 館の 広告に使用されて いる 。
( 3)
明治二 〇 年( 一八八 七 ) 七 月に帰国 した合田と 山 本は、大日 本 印刷株式会 社の 前身 で あ る秀 英舎の創 立 者 佐久間 貞
一 の 援 助 を 受 け 、 生 巧 館 設 立 に 着 手 し た 。当 初 木 版 部 は 道 具 の 用立 てに 苦 労 が あ っ た よ う で、 合 田 の 回 想 に よ れ ば彫
刻刀 や版 木は多少持 ち 帰って い たも のの 弟子の分ま で は足りず 、何 人もの刀鍛冶 に依頼し製造を試み て いる。
(4)
また 当
時日本に は大き な 黄楊 が無 か っ たので 寄 木のよう に版 木を 何枚も 組 み合わ せ る必要があり 、 版 木 屋から 穴 あ け 職人 、
鍛冶屋 で ボルトと ナッ トの 製造 依頼と一枚 の 版木を準 備す る た めに三箇所の 手 を 経由する 必要 があっ た とい う 。 さら
に 合 田は西欧で実用化さ れ て い た裏 焼 き し た 写真膜を 版木に 貼 り付け て 直接彫刻する 技術を写 真師成 田 常吉の協 力 の
もとに成 功さ せ、佐久 間の 尽力で 秀 英舎 に て 印刷 技術 の研究を 行い 、版木を 電気 銅版(電 胎版 )にお こ し て 大量印刷
の可 能な版 を 作成するな ど 新しい印刷技 術 を 導入し て いる 。
この よう に 合 田 は 木 口 木 版 の 本 格的 な 技 術 を 日本 に も た ら し た のだ が 、 合田 の帰 国 以 前に おい ても 独 学 で 木 口 木 版
を手がけ る彫 師 た ちは存在 し て い た 。そのう ち島 崎天 民 を 中心とす る大成社 とい う一派は 『 絵 入朝野新 聞』や外国 語
の教科書 挿絵 、 『 慨世史 談 断逢奇縁 』( 全 四 冊、小 宮 山 天 香訳、鳳文 館 、一八 八 七 年 )挿絵 等 に活動が知ら れ る 。
( 5)
生
巧館木版 部初 期の入門 者はこ の 大成社の 彫師が多 くを 占め て い た。 彼らの活 動は 生巧館入門前 後 と もに詳細 は明 らか
で な いが 、設 立当初か ら注 文 を 受けて い た木版部 にと っ て 、大 成社 の彫師たちの 存在は合 田か ら 本 格的 な技 術を教わ
る立 場 で あり ながら、受注仕事の助けにもなっ て い た と思 われ る 。
生 巧 館最 初期 の仕 事は文部 省 編 輯局が発行 す る 『 高等 小 学 読本 』 挿 絵お よ び 『毎 日 新 聞』 『 東 京 朝 日 新 聞 』 の 絵 附録
で あ っ た 。 明 治二一年三月 一七日の 『毎日新聞』 五一七二号附 録記 事「ドイツ 皇 帝 ウヰリ ア ム 一 世の小 傳 」 に 付され
た《 独逸 皇帝之 肖 像》 は生 巧館設立 後の 合田の最 も早 い作例 で ある。
(6)
また 開業早々 に文 部省 の仕 事 を 担うとい う厚 遇
は佐久間貞一の伝手に より 得 ら れた も の で 、
( 7)
明治二 一 年 五 月 二 五日 出 版 『 高 等小学 読 本 』 巻之 一 か ら 明 治二二 年 一 〇
月二八日 出版 の巻之七 ま で 木口 木版 によ る挿絵が 掲載 され た。 朝日 新聞と生 巧館とのつな がり も合田の 帰国 間もなく
始 ま っ て いる 。 朝 日新 聞社 社 長 の 村 山龍 平 は 、めざ ま し新 聞を 買収 し東 京進 出を 果た す前 年の 明治二 〇 年に 大阪で 合
田と面会 し、同社への 入社を勧め て いる。 生 巧館創業 の予定が あり 、また「 一つの新聞社 に縛られ るの はつらか った
し、また 若く も あ った ので 、東京へ 出 て 一旗 あげ た い 希望」 が あった と いう合田 は こ れを 断 る が、いず れ 東 京 で 協力
する旨を こ の 時す で に 約束 し て い た 。
(8)
生巧館に よる木口 木版 が
最初に朝日新 聞に 登 場 するのは明治二一 年七月 一 〇日 に創刊さ
れた 『東 京朝日 新 聞』 ( 『 め ざ まし新聞 』 継 続号 (数一〇七六号) )
附録の《貴顕之肖像》 (明 治 天 皇像) ( 図1 ) で あ る 。一面の社
告には次のように 報じら れ て い る 。
「 曩 に仏 国に 於 て 八年 間の留 学 をな し専 ら此 技術 を研 究 し て
帰 朝 し 爾 来 洋 風 彫 刻術 の門 を府 下に 張 り 精 妙 巧手 を以 て知 ら
れたる 生 巧館 合田清氏の彫刻に 係 る 貴顕肖像の 図 の附録相添
へ申候 本 図ハ刻者合 田 氏 と 同じく 多 年仏国に在て 欧 風 画 を 攻
究せら れ し同 館山本芳翠 氏 の助修 に 成 り 且つ府 下 各 印 刷会社
中最 も信切にし
て 精錬 の聞へある秀英舎
市 ヶ 谷 工 場 に 於て
一々刻 者 の 臨 視を 得て 印刷せ し めた る 者 なれ バ 本 社 ハ 諸氏の
苦心の 為 に 一 入の御 愛 看を希望せざるを 得 ず 」
( 9)
天皇肖像 で あ る こ とだ け で な く 、木 口 木 版自体が創刊 号の目
玉と して 強 調 されて い たこ とがわ か る。 さら に 一 ヶ月 後の 八 月
一日には同じ く山本 、 合田 による 《 磐梯 山噴火真 図》 ( 図 2) が
図 2《磐梯山噴火真図》郡山市立美術館蔵 図 1《貴顕之肖像》杜若文庫蔵
附録とし て 発 行さ れた。七 月一五日 福 島 県会津地 方磐 梯山 で起きた 大 噴 火 に 際し、 朝 日新聞 か ら委 託を 受けた山本は
現地に赴き下 図 を 完成 させ 、 合 田は こ れ を 二 日一 晩 か けて 彫刻し 原 版を制作したと い う。
(また 明治 二三 年 ( 一八九 〇 )
10)元 旦 には円 山 応挙の虎 図が 干支に ち なんで 木 口 木 版に よる附録 として 付 けられ 、 以 後 毎年継 続 し て 十二 支の 附録が 発
行 さ れた。いずれも大変な反響 を呼び、 生巧館 の 名は設立間 も ない時期よ り 広く 知 ら れる こ と となっ た 。
所蔵品:新聞附録
さ て 国文 学研 究 資 料館 所蔵 品 と の関 連 で あ る が、 初 期 の 新 聞 附 録に 関 係 する 所蔵 は 僅 か で ある 。 華 々し い 活 動 も つ
かの間、 再現 性と迫真 性に 優 れ た画像 を 活版と同 じ方 法 で 大量 生産で き る木 口 木 版への需 要 は 、新聞と いう 媒体 に お
い て は数 年 で 安価な 写 真銅 版に取って 代 わられ る こ と となる。 木口 木版が報 道と し て の役 割を 担っ た期 間は 日清戦 争
前後ま で の短 いもの で あった。 一方教科書挿絵の 仕事 は以後も 長く 続い て お り所 蔵品
に も 多数の作例 が確 認でき る が、 『高等小学読本』 の挿絵 は 現在 のと こ ろ 見つ か っ て い
ない。
(11)
所 蔵 品 の うち 最も早 い 時 期 の制 作 と 思われ る の が 明治二二 年( 一 八 八九) 一月 三日
発行の『東京 朝日新聞 』一二二一 号 附録 に掲載された 《帝国議会仮議員全図 》の う ち
の 《 議員椅 子 》 ( 図 3 ) で ある 。 同 図に つい て、 明治 二一 年 一 二月 二九 日 の 『東 京朝 日
新聞』は 次 の ように報 じ て いる 。
図 3《議員椅子》A-04
「来 新 年 の 初 刊即 ち 一 月三日刊行の本紙に ハ 曾 て 屢々本 紙 附録に
て諸君の御高評 を 蒙り た る 彼 の 生巧館主山本 芳翠 合田清 等 の 手 に
成りし極めて 精妙巧 緻 な る 帝国議会 仮議堂全図を附 録 とし て 刊 行
し尚他 に 全 紙 大の附 録 を も 相 揃 候」
(12)
創刊号の附 録 、続い て 磐 梯 山噴 火 の 図で高評を得 た 生 巧館の仕事
を新年に再 度 掲載する旨が告知 され て い る 。 題 材 は明治二三 年 の国
会開設を 目指 し て 建設 中の 仮議事堂で あ っ た 。 《 議員椅子》 は 「背 後
に直に筆記台を設け之を次列議員の使 用 に 便 ず る もの」
(であ り 、 国
13)文学 研 究 資料 館 に は 同 一の 版 と 思 わ れ る 清刷 り が 六点 存 在 す る 。 現
段階 ( 平 成二 八年一〇月) で は 所 蔵 品の う ち 、山本 が 下図 を 担 当し
合田が彫 刻した こ とが 確認でき る唯 一の 作例 で あ る 。
そ の 他所蔵品中 新 聞 附 録 に 用いら れ た 図 版は 明 治 二 四 年 ( 一八九
一)五月一六 日『東 京 朝日 新聞』 一 九三 八号附 録 に掲 載され た 《 露
国皇 太子ニ コ ライ殿下御肖像》 《希 臘 親 王ジョ ー ヂ殿 下 御 肖 像 》 ( 図
4、 5) 、 同 年 一 一月一 五 日 『 東京 朝日新 聞 』 二 〇八八号の 《 濃尾 震
災惨状 真 図》 ( 図 6) の う ち の 《 大 垣 本 町之惨 状 》( 図 7 )《 名古 屋 栄
町 惨 状》 《笠松道 路壊 裂》 《長良 川 鉄 橋 傷折》 ( 図8)の四 図 で あ る 。
図 5《希臘親王ジョーヂ殿下御肖像》
A-02
図 4《露国皇太子ニコライ殿下御肖像》
A-01
ニコ ラ イ と は 後に 最 後 の ロ シ
ア皇帝となったニ コ ラ イ 二 世
(ニ コ ラ イ ・ ア レ ク サ ンドロ
ヴィチ ・ ロ マ ノ フ ) 、 ジ ョ ーヂ
とはギリ シ ャ 国王 ゲオ ルギオ
ス一 世の 三男ゲ オ ルギ オス・
ティス ・ エラ ザスで あ る。 ウ
ラ ジ オス ト ク に 向 かう 途 上 の
皇太子 ニ コ ラ イがゲオ ルギオ
スとともに来日し た 折 の こ と
で、 附録 が 発 行 さ れた の は 、
大津 で 警 察官 がニ コ ラ イを 斬
りつけ暗殺 未 遂を起こ し た い
わ ゆ る 大 津 事 件 の 五 日 後 で
あっ た。ただ附録は 事 件と は
直接関係が無 く、連 日 その 動
向が 報 じ ら れ て い る大 国から
来た 王 族 の 貴 重な 近 影 を 公 開
図 6《濃尾震災惨状真図》杜若文庫蔵
する こ と が目的 で あったようだ 。五月一四日の社告には次 の ように述べら れて い
る。 本図 は画家を 介さず 、 写 真 から 直接彫りだされた もの で あ っ た 。
「 露 国皇 太 子 殿 下 并に 希臘 親王 殿 下 の御 真 影 ハ世 に 流 布 す る も の少 な か ら ざ れ
ど最近のもの至 て 鮮 し 我社ハ幸に最近の御撮 影 に て 然 も御直筆御署名あるもの
を得 たる に 付 鮮明 な る 写真木 版 に 彫 刻 せ し め 附録とし て発行 す る こ と と な せ り
(」
14)《濃尾震災惨状真図 》 は、 《磐梯山噴火真図》 同 様に自然災害の現況を迫 真 的な
視覚イ メ ー ジ とともに素早く 伝 える こ と を目的と し て い た 。自然災害 を 木 口 木 版
によっ て 報道 する手法は磐 梯山噴火以降 度々見られ る こ と とな る 。 たとえば 明 治
二二年は 災害の多い年で あ り、七月 二八 日に熊本県下で 地 震が 発生 し、八月 一 八
日から九月七 日ま で 和 歌山県から奈良県 南部に か け て 大雨が降 り続き 大 規模な水
害を もた ら し た。 熊 本 地震 は 詳 細 な 報 道 が な され ず に い た とこ ろ 、「実 写 し た る 写
真到着せ し を 以 て ( 略 )例 に依りお名染 の欧風彫 刻生 巧館技師合田 清山本芳 翠の
両 氏 に 依託し精 細 な る 真図に 模 刻し 」
(
九月一日 の附録《 熊 本 県下飽田 郡高 橋町市
15)街震 災被 害真 図》 ( 図 9) が 発 行され た 。 原図は仕上が り から判断す る に、 写 真 を
参考に描かれ たものと写真 そのもの と二 通り で あ っ た と思 われ る 。 なお 記事は合
田と山本の名を挙げ て いるが、生巧館木版部 の一番 弟 子 で あった薗田三佐雄の回
図 7《大垣本町之惨状》A-03 図 8《長良川鉄橋傷折》0929
想によれば、薗 田 は 明 治二二年 八月、 合 田と生巧館画
学校門 下 生 の 大山翠 松 とともに熊 本 地震 の附録編集の
ため 館山に 滞 在し て い たという
(
。こ のた め 本 附 録 の下
16)図 を 担 当 し た のは山 本 で は なく玄々堂印刷所以 来山本
の弟子 で あった大 山翠松 ( 大 山周蔵 の 弟 ) の可能性が
あり、 彫 刻は 合田と と も に 薗田も そ の役を 担 って いた
と思わ れ る。 また 水 害 の状 況は「 罹 災地 及び 罹 災 人家
人物 等を模 写 し た る惨況真 図出張社友の 手に依て 得 た
るを 以て 」
(
同紙九 月 一五 日の 附録《奈良県下十津 川 地
17)方変 災 実 況之 図》 ( 図
10 )と して 発 行 された 。 そ し て
明治二 四 年一 〇月二 八 日 に 発 生 し た 濃 尾 地震 に 際 し て
は、東 京 朝日 新聞は 磐 梯山 噴 火 時 と 同 様 に記者 と 画家
を現地 に 派遣 し て いる 。 こ の時派遣さ れ た画 家は当時
生巧館 に 通い 山本芳 翠 に師 事し て い た 藤 島武二で あっ
た。 一 一 月一 一日の 社 告 で は次の よ うに報じられて い
る。
図 9《熊本県下飽田郡高橋町市街震災被害真図》
杜若文庫蔵 図10《奈良県下十津川地方変災実況
之図》杜若文庫蔵
「惨状 真 図発行
(略 )今回の 震災 た る 実に 安政 江戸 の大 地 震 に勝ると も尚 劣
ら ざ るの大災にし て 罹 災地方 の 状況ハ 得 て 文 字のみの尽 く す
可ら さ る も の あるな り 是 を 以て 我 社 に 於 て ハ 曩 に 社 員 古 谷 次
郎氏を 特 派 し て震害地の 実 況を視察せ し む る と共に 尚 欧風木
版の技 に 都下第一 を 以 て 知 られた る 生 巧 館に委嘱し同館画手
藤島 武 治
ママ氏を し て 即時 震 災 地 に 向ひ 星行 露宿 深 く 岐阜 大垣の
惨状を 探 ら し め因つて 得た る所の 幾 多 の 写 生 図を齎 ら し還り
て尚 之を精描細 写 し爾来同館 主 合田清氏に 嘱 し て 製版中 な り
し ( 中 略 )愈々来る十五日 を以 て 一 大附録とし て 之を刊行せ
んとす
(
」
18)はじ め日本画 を学 ん で いた藤 島 は明 治 一 七年(一八八四) 一
七歳の 年 に上 京し翌 年 川端 玉章の門に入り、明治二三 年に洋 画
に 転 向 し た。 曽山幸 彦 、中丸精十郎、松岡寿に学んだの ち 生巧
館に移って い る。 《濃 尾震 災惨状真図 》 は入門 し て 間 もな い画 学
生の 藤島 に与 えられ た 大役で あ ったとい えよう。 なお 大山や 藤
島 の よ う に 、 木口 木 版 の 下 図制 作 は しば しば 生 巧 館 画 学 校 の 画
図11《和歌山県下西牟婁郡中変災実況之図》杜若文庫蔵
家たち が 担って い た よ う で ある。 そ れ は 山本が黒 田 清 輝と久米 桂 一 郎 に 画塾 を 譲 り 、 天真 道場 に受け継 がれ て か ら も
同様 であっ た 。
ま た 東京 朝日 新 聞 が生 巧館 に 依 頼し て い たのに対し、 大 阪 朝日 新聞 では生巧 館以 前 か ら大 成社系 の 彫師 小永 井 天 橋
が木 口木版による挿 絵 を手がけ て い た。 馬渕録太郎によ れば、小永井は明 治 一 九 年に朝日新聞 に 入 社 し木 口 木 版によ
る挿絵や 絵附 録を 手が け て いたが、 明治 二 一 年に 一時 退社 しサ ンフ ランシス コで 修行を 積 み、 翌年六月 に再 入社 した
という 。
( 19)
明 治 二二年 の 大 水 害の際、 小永 井は 和歌 山 県 にお ける 被 害 図 を 制作 し 一 〇月 一日 に 《 和歌 山 県 下 西 牟婁 郡 中
変災 実 況 之図》 ( 図
11 )が発 行 されて い る他、濃尾地震の被害状況 におい て も小 永井が附録を 手がけ、明治二四年一
一月八日 と一二日に《 岐 阜県下震 災之 図 》 が発行 さ れ た 。 い ず れ も写 真を 原 図 と し て い る。
(このよ う に 合 田 の 帰 国 後
20)も木 口木版は生 巧 館一色 と なっ た わ け で はな く、旧来の系 統による活動 も継 続し て い たので あ る 。
雑誌・教科書の時代
生巧館 は 上 述 した新 聞 附 録 の時代 と 、 続 く雑誌の表 紙 ・口 絵・挿絵、 教 科書の口絵・挿絵を 飾 っ た 明治三〇年 ( 一
八九七 ) 頃まで が その 黄金 期で あった。 生巧館が 知名 度を上 げ て い った 時期 は雑 誌刊 行の 時代 と 重 なって お り 、 二 〇
年代に刊 行された雑誌の表 紙は一時 期ほ とんどが 木口 木版 となる ほ ど流行のスタ イ ル とな っ た 。また山 本 芳 翠は明治
二六年 ( 一八 九三)に黒田 清輝と久 米桂 一郎が帰国す ると 翌年に画塾 を 譲 り 、生巧館は明治二 七年 (一八九四)一〇
月 よ り 画 塾 天 真 道 場 と な っ た
。 塾
生 で あ っ た 湯 浅 一 郎
、 北
蓮 蔵
、 白
瀧 幾 之 助 等 は こ の 時 黒
田 ・
久 米 門 下 に 移 っ て い る
。
山本はパリ 時 代に黒田 と出会いその 画才を見 出し 、法律を学ぶ 予定で あ っ た 黒田 を説得し 画家 に転向さ せ て いる。 画
塾 を 明 け 渡す こ と は予 てから話し 合 われて い たと いうが、 黒田 らが 引 き 継い だの は生巧館 画 学 校の方 で 、木版部は そ
の後 も存 続した。明 治 二四 年 、 大 量 に注文 を 受け て い た木 版部は 赤 坂 区 溜池町に工場 を 設置し、 天真道場開設後 は こ
の溜池の 地に 拠点を移 し活 動 を 継続 し た 。合田と黒田 はフランス 留 学時以来の関わ り があり、 山本、久 米ら ととも に
白馬会を 結成 し研究 所 を溜 池の工房二階に 開 設す るなど、 生巧 館と 洋画界の い わ ゆる「新 派」 との活 動 は以 後も 続く
こ と とな る 。 さらに明治二 九年 (一八九 六)に東 京美 術学校に洋画 科が新た に設 けられ 、 黒田 と久米が 着任 すると 、
合田は同 校の フランス 語講 師となって い る 。
明 治 二〇年代 後 半 は、 生巧 館 の 膨大 な仕 事 量 と合 田の 活動 の幅 の広 が り が認めら れる 充実し た 時 代 で あ っ た と い え
る 。 し か しこ の 頃 の 作 例で 、 新 聞 附 録 の よ う に 合 田 の 手 仕 事 で あ る こ と が 判 明 し て い る も の は 少 な い 。 充 分 な 数 の 弟
子が育っ て い た で あ ろ う こ の時期より、合田は徐 々に制作の場を離れ経営 に 注力 するよう にな っ た と思われ る 。
国 文 学研 究資 料 館 所蔵 品の 多 く は こ の時 代 に 制作 さ れ た も の で ある 。 清 刷り は 紙 片 に 摺 り だ さ れ た 図 以 外に 情 報 の
無いもの がほ とんど で あるため、掲 載先を特定す るた めには刊 行物を 予 測し 掲載 図版と逐 一照らし 合わ せ て いく作業
が必要と なる。 し たが っ て 図版の特 定は 容易 で は なく 、現段階で 判 明し て い る点 数は全体 の一割に満た ないのが実 情
であ る 。 ゆ え に 判 断材料は未だ 充分 でない の だ が 、 特 定 で きた 作 品 や関 連調査 を もとに 推 測 す れば、 所 蔵 品 のう ち 一
定の 割合 を 占 め て いる の が 明治二四 〜三 〇 年 頃の 木口 木版 雑 誌 ・教 科書 全盛 期の 図版で あ ると 考えられ る。 合田・ 山
本の手に よる 初期の時 代 を 過ぎ、弟 子が 育ち工房 が拡 大し、大 量の 受注に応え て いた時代の清刷りが当 館 コ レク シ ョ
ン の ひ と つ の 核となっ て い るよう で ある。以下より所 蔵 品 を 中心に、 同時代の特筆す べ き 作 例や傾向 を述べて い く こ
ととする。
下図を描いた画家
山本芳翠や 藤 島武 二のよ う に、 木 口 木版の版 下を担 当 し た 画家 は
複 数 名確 認 で きる 。雑 誌 の 表 紙 で は 原 田 直 次 郎の手 が け た 民友 社発
行の 『 国 民之 友』が よ く 知 られ た 例 で あ ろ う 。 生 巧館 は 明 治 二 一 年
七月六 日 発行の『国 民 之友 』第二 五 号より表紙を担当 し て おり、 原
田は翌年八月二二日発 行の同誌第五八号 に森鷗 外 翻 訳 詩 集 「 於母影」
が掲載さ れた 際初め て 挿画を寄せて いる。そ の 翌 年 の 明 治 二三年か
ら表 紙の 下図 を手 がけ、 生 巧 館 との仕 事 が 継 続す る こ と と なる 。所
蔵品の 清 刷 り の う ち 『 国 民 之 友 』 の 表紙 は 一 点 の み確 認で き る が 、
明治二九 年八 月一五日 〜明治三〇年八月 七日 (第三 〇 九 〜 三六〇号)
の期間 掲 載された後年 のも の で あ る ( 図
12 ) 。
同 図 は 右 下 に
「 生 巧
館 刀 」のサ イ ン が ある のみ で下図の 制作者は 特定出 来 てい ない が、
時 期 が下る こ と 、 また作 風 が 異 なる ことか ら 原 田 ではな い と考 えら
れる 。
また 和 田 英作は明治二五 年 に原田の画塾鍾美 館に入門し、同二 七
年 原 田の 病 気 療 養 に伴 い 天 真 道 場に 移 る と い う生 巧 館 に 縁 のあ る 経
歴 を 辿 っ た画家 で 、木 口木版の下 図 制作も担っ て い た よう で あ る。
図12《『国民之友』第309〜360号表紙》
B-0341 図13《『家庭雑誌』第69〜111号表紙》
作品番号未定
明 治 二九 年一月四日〜八月 一日 『国民之友 』(第二 七 七〜三〇七号) の 表 紙
には和田 の サ イン 「
E . W .
」 が 刻 ま れてお り 、 同 年 一 月〜 明 治 三〇 年一 二月
家庭 雑誌社発 行 の 『 家 庭雑誌』 (第六九〜一一一 号 ) の表紙 に も 「
E . W A D A
」
と記され て い る ほ か、明 治 三一年一月一日〜一 〇 月一五 日 (第四巻第一号
〜二三 号 )の 博文館発 行『 少年世界 』に 木口木版 によ る口絵「 動物 標本」
の掲載が確 認 できる 。 この う ち 『 家 庭 雑 誌』 の清刷りが所蔵 品 に 収 め ら れ
てい る ( 図
13 ) 。
所 蔵 品 に は 同 図 以 外 に も
「
E . W .」のサイン の 入っ た清刷
りが四点 確認でき る 。
ま た 本 多 錦吉 郎 の 画塾 彰技堂 の 後 小 山正 太 郎 の画 塾不 同 舎 に 学 んだ 佐久
間文 吾 は 、明治二七年 一 二 月二八日 博文 館発行の 『太陽』創刊号の 表紙を
デザイ ン し、 木口 木版 によ る口絵《 戦捷 の元 旦》を 手 がけ て い る。 同 誌 は
佐久 間 に ついて 「 生 巧 館に 入りて 絵 事に 従事し」 と記 し て い る 他、
(馬渕 に
21)よれ ば 佐 久 間 は 生 巧 館 の 版 下 画 家 と して ほ と ん ど 専 属 の よ う に 描 い て い た
というから、
(
佐久間 は こ の 仕事に限らず多 く の 下 図を 手 が けて いたと 考 え
22)られ る 。 所 蔵 品 に は創 刊 号 の 他 複数の 『 太陽 』 表 紙 図 が 存 在 す るほか ( 図
14
〜
16 ) 、
戦 場 を 描 い た 挿 絵 と 思 わ れ る 清 刷 り 二 点 に
「
B . S A K U M A」のサ イ
ンが確認でき る ( 図
17 、
18 ) 。
た だ し 専 属 の よ う に 描 い て い た と い う の で
あ れ ば 、 『太陽 』 表紙のよ うに サインの 無い ものの方 が多 いと思わ れ る 。 少
図14《『太陽』第1巻 第1〜12号表紙》B-0381 図15《『太陽』第3巻
1〜27号表紙》B-0359 図16《『太陽』第4巻
1〜25号表紙》B-0342
なくとも同誌の他の号の表紙につい て
は佐久 間 が下 図 を 描 い た可能性が あ る
だろ う。
黒田 清輝に よ る下 図もまた所蔵品の
うち に 確 認で き る 。 黒 田 と 合 田 と の 仕
事は、黒田が 日清戦 争 に従軍 し た 際 の
スケッチを合田がお こ し 『 ル ・ モンド ・
イリ ュ ス トレ 』 に 送 っ た も の が 早 い 時
期の作 例 で あ る。 当 館 が所 蔵する の は
さら に 時 代の 下 っ た 明 治三 五年( 一 九
〇二)三月金港堂発 行 の『文藝界』 創
刊号を 飾 った 表紙と 背 表紙 、裏表 紙 の
清刷 りで あ る ( 図
19 ) 。
し か し 同 図 は
木口 木 版 に特 徴 的 な 細 か い 線条 に よ る
黒線と白線 を 活かした陰影 な ど は無く、
また実 際 に出版され た 際の 表紙は 多 色
刷り で 、 木 口 木版の モ ノト ーン で 緻 密
な表 現 と は 全 く印 象 が 異 な っ て い る
図18 2374 図17 2373
図19《『文藝界』第1〜5号表紙》B-0360
(図
20 ) 。 そし て 『 文藝界』創 刊 号目次には、 「表紙( 石版 色摺)
黒
田清輝画」 と 記さ れ て お り 、 清 刷り (図
19 )に 使 わ れ た 版 は 使 用 さ れ
てい な い 可 能 性 が あ る 。 清 刷 り は 出 版 さ れ た 表 紙 ( 図
20 )の う ち の 墨
刷りの部 分に該当する。 た だし 「文 藝界
第一號
」 の文字は使 わ れて お
らず別の書体 となっ て いる。また こ の表紙は同年七月 一五日発 行の 第
五号 まで 続いて い るが 、 配 色や 「 文 藝 界
第◯號」
の 文 字は号 に よって
変わ っ て いる。 こ の他の墨刷り部分のデ ザインは 細部ま で 酷似 し て い
るが、 一 部衣服 の 皺 な ど に 微 妙 な違い も 見 ら れ る 。 本 表 紙 は所 蔵品 ( 図
19 ) の 存在から 一度木 口 木版 にお こ さ れて い た こ と が分るものの 、 そ
の 用 途 は 今 の と こ ろ判然 とし てい ない 。
教 科 書の 口絵 や 挿 絵に 使 用 さ れ た清 刷り に は 藤 島 武二 、 浅 井 忠 、中
村不折、二世 五 姓 田芳 柳の 名がサインに よっ て 確 認 で き る 。 藤 島の 挿
絵は明治 二八 年 ( 一八 九五 )九月博 文館発行の『 新撰 日本小歴 史 』 に
掲載さ れ た 「 天孫 降臨の図」 で あ る ( 図
21 ) 。
右 下 に
「 フ ジ シ マ
」 、
左
下あ たり に 「 生巧 舘刀」の サインが 入っ て い る 。 藤 島 は明 治二 六年 よ
り二十九 年まで 三 重県 立第 一中 学校 に赴 任し て お り、同 図 は藤島が 東
京美術学 校助 教 授 に着 任す る前 年の 制 作 で あ る。 また 生巧館は 黒田 や
久米、その門 下 で あると こ ろの新派 と親 しい関係 にあ っ た のだが、 教
図21《天孫降臨の図》0005 図20《『文藝界』第1号表紙》杜若文庫蔵
科書の 挿 絵 に は浅井 、 中村 、二世 五 姓田 と い った いわ ゆる「旧 派」 の 画 家
の名が見られ る 。 挿絵 の仕 事は国粋 主義 の時代、 木口 木版に限 らず 洋画家
にと って 生活 の糧 と な っ て いたで あ ろ う し、とり わ け それ は「 新 派 」 の 活
躍の陰に 隠 れ る こ とと なる「旧派」 の画家に顕著で あ っ た と思われ る。
たとえば明治二六年九月学海 指 針社発 行 の 『 帝 国 読本
巻之
一 〜 八』 には
浅井、 中 村、二世五 姓 田、下村為山(二 神純 孝 ) 等に よる木口 木版 の挿絵
が多数 掲 載されて いる(こ のう ち 五 姓田 は板目木版の 挿絵も 手 がけて い た
よう で ある) 。 同 書のう ち 所蔵品には巻之四掲載の浅井のサイン「
C A
」の
入っ た挿絵 ( 図
22 ) 、 巻之 五掲 載の 中村 の サ イン 「
S . N .
」 の
入 っ た 挿
絵 (
図
23 、 S は 本 名鈼 太郎の頭 文字) 、 巻之 八掲載の二世五姓田 の サイン 「
H . G .
」
の入っ た 挿 絵 (図
24 )の 清刷 りが存在 する 。
中 村 不折につい て は同じく 学海 指針社 が 明 治 二 六 年七月に 発 行した『万
国地理 初歩』上下巻にも挿絵が多数 掲載 されて お り、上巻の「 不折」と 記
され た 挿 絵 ( 図
25 )は 所 蔵 が 確 認 で き る 。 石 井 柏 亭 は 中 村 に つ い て 「 生 活
の為めに佐 久 間 や下村と一緒に 絵手本 を 描い た。 そ れ は 普 及社 といふ処か
ら出したもので あ る。 また 其後旅籠 町に あつた学 界
ママ指針社に雇はれて 教 科
書の 画 を 書き も し た 。
(」と述べて い る。中村は挿 絵 の 掲載が確認でき る 明
23)治二六 年 頃、学海指針 社の 挿絵 画家 として 活 動して い たよう で ある。な お
図23 0592 図22 0572
引用 中の 「 佐 久間」 は 佐久 間文吾 、 「下村 」 は下 村為山で あり 、 三 人 は 不同
舎の門人で あ っ た 。
二世 五 姓 田芳柳 も また挿絵を多く 手 がけ て い た よ う で 、 所 蔵品には 上記
の挿絵 の 他明治二四年九月 金港堂発 行の 『理科入門 有用之 動 植物 』口 絵
(図
26 )他 二 点 「
H . G .
」と 記 さ れ た 清 刷 り が 存 在 す る 。こ の 他 明 治 三 〇 年
一月 一 日 〜一 二月 一五 日( 第三巻第 一号 〜二 六号 )の 博 文 館発 行『 少年 世
界』に木口木版による口絵 「日本 武 将鑑」を 掲載 し て いる。
図25 1030
図26 B-0339
図24 0668
生巧館の彫師
次に彫 師 に つ い て 検討したいが、 生 巧 館 の修行制度や 、どの よ う な 人物が 入 門 し 彫師と し て 活 動し た か と い っ た 詳
細 に ついて 知 れ る とこ ろ は 僅 か で あ る。 参 考 資料 と し て 板 橋 区 立美 術 館 発 行 『日 本の 木口 木版 画
明治
から今 日 まで 』
に彫 師の 一覧 がまと め られ て い る ほ か 、
(
明 治 三六 年 ( 一九 〇三 ) に 生巧 館に 入 っ た馬 渕録 太 郎 が回 想記 を『 木 口 木版
24)伝来 と余談 』 に 残 し て お り 、 貴 重 な 文 献 となっ て い る 。馬 渕に よ れ ば 生 巧館開業 時に最初 に入門し たの が上 述し た 薗
田三 佐雄で あ り、続いて 大 成社 一派 の島 崎天民や 加 藤 保民 で あ った 。 明 治二 三 年 には北君衛( 北蓮蔵の 姉) 、 大 江 太 、
合田舜子 (合田の妻) 、 中 山要太 郎 の 名 が挙げ ら れて おり、 馬 渕の入門し た 明治三 六 年に生巧館の館員 で あ ったのが 森
島清 三郎 、 志 津順哉、渡辺 広五 郎、岸上 光吉、 菊 地武 嗣、吉沢 六朔 、山形駒 太 郎 で あ っ た とい う 。 彼ら が彫 刻し た 図
版は印 刷 物 や 当館 所蔵品の 清 刷 りに多く残さ れて いる で あ ろ う が、具 体 的に 誰 が 何 を 手がけ た か特定 で きる 例 は 後述
する大正期の 作例 を除 い て 稀 で ある。 「 生 巧 館」 の名 は最 新の複製技術 とし て 開 業時 よりブラ ンド となっ て いた が、 合
田以外に彫師の名前が 表に 出る こ と はほ とんど無かったよう で ある。
所蔵品 の 清刷りには下図の作 者 や 彫 師のサイン の 入 っ て い な い も の が大半で あ る 。たと え ば 《 磐梯山噴火真図》 に
は「 生巧 館 山本 芳翠 画 合田清刻」と 生巧館の 名と ともに画家と彫師 の名 が記 さ れ て い るが 、所蔵品 にそのよう な
例は見 当 たら ない。 最 も多 く確認で き る のは個 人 名が 入ら ず 生 巧館の制作 で あるこ と のみ記された サイン で 、その 数
はおよそ二〇〇点 で あ る 。
(
表記は 「 生巧舘 刀 」 「 生巧刀」 がほ とんど で 、「 東 京 生巧舘 刀 」 「
25)S e i k o k a n . s
」
c「
S E I K O K A N」
も一 点 ず つ 確 認 で きる。また「生 巧 く わ ん亜鉛 ば ん 」 のサ インも二点存在す る が 、 これは 木 口 木 版 で は な く合田が 一
時期試みて い た亜鉛版 と思われ る。
(生 巧 館のサイ ン は 雑誌 の表 紙 や 著名 な画 家 が 下図 を手 が け た場 合な ど の 重 要 な仕
26)事の際に記して い たと 考え られ るが 、 無 記名の図版と のより細 かい 違い や 「 生巧舘 刀 」 「 生巧刀」 など表 記 の 使 い分け
につい て は判断 し 難く 、 今 後の課題 とな っ て いる。
館 員 のう ち 、 ど の よう な立 場 で あっ たか判 然 とし ない の が 大成 社の 彫 師 たち で あ る 。 生巧 館開 業後 すぐ に入 門し た
と伝えられ る こ の 一派で あ るが、完 全に その 傘下 には 入っ て い なか った 可能 性が 考えられ る。 たとえば 生巧 館開業 後
に博文館で 発 行された 雑誌 『日本之 少年 』は表紙 が木口 木 版で 挿絵 にも多数 掲載 されて い るが 、第二巻 第一号〜三 号
(明 治二三年一 月 一 日 〜 二 月一 日)の表紙に は 「 大 成 社刀 」の サインが入っ て い る 。 そし て 次号の第二 巻四号(二 月
一五日) から は表紙の デザ インが変わ り 、 「 生巧 舘 刀 」 に サイン が 代 っ て い る。 また大成社 系 の 彫 師 で あ る 森 山 天葩 は
生巧館に 入ったとさ れて い る が、
(「天葩刀」と個 人 名の サイ ンの入った挿絵は生巧 館 開 業 後の年 代 に お い て も 多 く 見
27)受けられ る 。
(
生巧館のな か で 個 人のサイ ンが確認 できるのは合田清 の み で 、 「合田刀」 「
28)K . G A U D
」 の 表記が多い。 こ
Aのほか に 薗田 三 佐 雄 と 思わ れ る 「
M . S O N O D A . S . C
」のサ イ ンも 『実 業 世 界太平洋 』第二巻 第二号(博文館、 明治三七
年一月一 五日 )表紙に 確認でき るが 、馬 淵によ れ ば 薗 田は こ の 頃既 に独立して 自 営 し て い たと いう。
(開業以前から 活
29)動し て い た 館 員について は サインを 記す 風潮があ っ た のかもしれ な いが、森 山に つい て は そも そも生巧 館門 人の時 代
があっ た かど う か 疑問で あ る 。
所蔵 品の清 刷 り に は大 成社系 の サイ ンの入 っ たも のは 見当 たらない 。お そ ら く当 館 の 所蔵 品は 生 巧 館設 立 以 降に
育っ た弟 子の 手によるもの が大半 で あ ろ う。 しか し コ レク ショ ンの 性質を 知 るうえ で も、 また 木口 木版 の歴 史を 知 る
うえで も 、大 成社の活 動お よび 生巧 館と の 関 係性 につい て は調査 を 進め て い く必要があると考える 。
所蔵品:雑誌・教科書
出 版 社と の関 わりにつ い て もい くつ か傾 向が 指摘 できる 。 当館 所 蔵 品の
う ち 、雑誌の 表紙に使われ た こ とが 確認でき る清刷り は三二点 、重 複分や
掲載先 が 確認 出来 て い ないものも含 める と五〇点 ほど 存在する。また 広 告
用 に 雑 誌 名等 がデザイ ンされた 図が 一〇 点確認で き る 。雑誌の 表紙 は前 述
し た
『 国 民 之 友
』 、
『 家 庭 雑 誌
』 、
『 太 陽
』 、
『 文 藝 界
』 の 他
、 博 文 館 発 行
『 少
年世 界』 ( 図
27 ) 、
学 齢 館 発 行
『 小 国 民
』 (
図
28 ) 、
三 才 社 発 行
『 天 地 人
』 、
大 日 本 社 発
行 『
大 日 本
』 、
東 京 同 文 館 発
行 『
商 業 世 界
』 、
経 済 雑 誌 社 発
行 『
史
海』等 様 々で あり 、掲 載期 間は 明治 二七 〜三〇 年 で あ るものが 多 い 。こ の
う ち 特 に 生巧 館と密接 に関わ っ て い たと 思われ る のが 博 文 館と 学齢 館 で あ
る 。 木口木 版 の表紙は 明 治 二〇年代におい て 流行とな っ た が、 中 身 の口絵
や 挿 絵ま で木 口 で あ る 例 は 表 紙 の 数 ほ ど 多 く は な い 。 木 口 木 版 の 挿 絵 が 特
に多く 掲 載され る のは 児童 雑誌 や 少 年雑 誌の類 で あり 、大抵の 場 合 は 板目
木 版 や石 版 や 写真 版と混 雑 する か た ち で 挿入 さ れ ている 。 し た がっ て上記
の雑誌のな か で は 『少 年 世 界』 や『小国 民』に生巧館の仕事が多く見られ
るので あ る。
図28《『小国民』第6年1〜12 号表紙》B-0379
図27《『少年世界』第1巻7〜
18号表紙》B-0352
博文館は明治二八 年にそれま で の雑誌を統 廃 合し て 『 太 陽 』 、 『少年世 界
』 、
『 文 藝 倶 楽 部
』 の
三 誌 を 新 し く 刊 行 し た
。
(
清刷 り に は 『 太陽 』 と 『少
30)年世 界 』 および 前 年の二七 年に刊 行され た 『日 清戦争 実 記』の表紙 が 確
認 で き る 。し かし これ以 前 に 発 行さ れ た 雑 誌 の表 紙 は 所蔵 がな い よ う で
ある。 た と え ば 『 少年世 界 』 の 前身 で あ る 『 日本之 少 年』 や 『 幼 年 雑誌』
には表 紙 ・挿 絵とも に 木口 木版が 用 いられて い る が、 そ れ ら の 表紙 は 所
蔵品 に は 見 当 たら な い 。 後 年のも の につ い て は 明 治三 七 年 ( 一 九〇 四 )
に 発 行 さ れ た
『 日 露 戦 争 実 記
』 、
『 実 業 世 界 太 平 洋
』 の 表 紙 が 清 刷 り と し
て所蔵さ れ て いる 。 さ らに表紙の 清 刷りが所蔵さ れ て いる 場合はその 誌
面中 の 挿 絵も所蔵 されて い る可 能 性 があるが、博文館発行誌全 体の 調査
は未だ充 分に は進められて お ら ず 確 かなこ と が述べられ な い状況 で あ る 。
現在特定出来 て い るのは『太 陽 』に掲載さ れ た 挿 絵六 一 点 で あ る 。 こ の
他の雑 誌 、特 に『少 年 世 界 』は木口 木版 の挿絵 が 多く 入っ て い るので 今
後の 調 査 課題 と し た い 。 な お、博 文 館の 仕事 に つ い て は表紙 や 挿絵 だ け
でな く新 刊 報 告 や 広告ペ ー ジ の デザイ ン も生 巧館 が 多 く手 がけ ていた よ
うで ( 図
29 、
30 ) 、 両 者 の密 接な 関係性が窺え る。
『小 国民』 は 学齢 館の創 業 とと もに明治二二 年七月 に 創刊 し た 児 童 向
けの雑 誌 で あ る。
(編集は当 時小学 校 教員で あ った石井 研堂( 民 司) が 担
31)図29《博文館新刊報告》
B-0396
図31《『少国民』第8年1号 甲種表紙》
図30《『帝国文庫』広告》
B-0346
当し た。 所蔵品には明治二 五年 から 二八 年の期間 に掲 載された 表
紙五 点の 清刷 りが存在 する。また同 誌は 国策 を 否 定したとし て 明
治二八年九月 一五日発 行の 第七年第 一八号 で 発行 停止処 分 を受 け
て お り、同年一一 月一〇日 に雑誌 名 を『少 国 民』に 変 え改 題第 一
号を 発 行 した 。こ の 『 少国 民』時代 の 表 紙 図 も 一 点所 蔵されて い
る( 図
31 ) 。 『
小 国 民
』 は
『 少 年 世 界
』 以 上 に 木 口 木 版 の 挿 絵 や 口
絵が多く 入って お り、所 蔵 品にも現 在まで の 調査で 六 四点が確 認
できる 。 挿 絵 は動 植物 や風景といった木口木 版の細 か い 表 現が活
かさ れ る 題材が多い一方 で 、 戯 画 の よう な 写 実的で あ る必要の な
いものまで 表 現されて いる 場合 があ り興 味深 い( 図
32 ) 。
教科 書の挿絵もま た 『 高等小 学 読 本 』以来生巧館 の 重 要な 活 動
分野とな っ て いる 。現 在まで の 調査をも とに 推測す れ ば、そ の 最
盛期は雑 誌 と 同じく明治二〇年代 か ら三 〇年代あたま頃 で ある。
また教科や 出 版社によ っ て も傾向の 違い が見られ る。 木口木版 の
図版は地 理 や 理科の教 科に多く、 清 刷り にも国内外 の 風 俗 や風景 、
動植物と いった該 当科 目ら し き 図が 多 数 確認で き る。 た だ し上 述
し た 『帝国読 本』 や 『 新撰日本 小歴史』 などの歴史教 科書、また
リ ー ダー と思 し き 挿絵 も多 数存在す るた め、他教 科も 含め広く 調
図32 B-0539 図33 B-0067
査し て い く必要がある。また出 版 社 に つい て は 金港堂と学海指 針社 に木 口木版の 図版が特 に多 く、他に冨山房、文學
社、 三省堂、大 日 本 図 書にも多く 見 ら れ る 。 教科書の挿 絵 ・口 絵で 現在清刷 りの 掲載先が 特定 し て いるのは 、上述 し
た資 料 で は『新撰 日本小歴史』一 六 点、 『帝 国読本
巻之
一〜八』 三点 、 『 訂正帝 国 読 本 』四点 、 『理 科入門 有用 之 動
植物』一三点 の他、明治二 四 年九月 金港 堂発行『 理科 入門 人体及 ビ 動物生理』 一三点、 明治 三三年 ( 一九 〇〇)二
月 大 日 本 図書 発 行 『動 物教 本』五〇 点 な ど合 計で 一〇 〇点ほ ど で あ る。
なお 所 蔵 品の清 刷 り に は 、 一枚 の 紙 にまとめ て 複 数の版が刷 り ださ れて いる ものが多く存在する 。 また紙の端に穴
が開 けら れ 、 こ よ りで 複数 枚まと め られ て い る例 も多 く見られ る。こ れ ら は 雑誌や 教 科書 など 一冊に複 数の 挿絵を 掲
載する場 合 、 出版社 に 見 本 を 提 出す る際 にとられ た 形 態と考え られ る。こ の た め 同 一 の紙 やこ よりで ま と め られ た 束
にある図版は同じ出版 物に 掲載されて い る可能性 が高 い。 た と えば 図
33 の一 〇図 はす べ て 『 小 国民』 第 五年 第二一 号
または二 二号 ( 明 治 二 六年 一一月三 日、 一八日 ) に掲 載されて いる し、 『動 物 教 本 』 に掲 載され た 挿絵 五〇点 の 清刷 り
は三 図を 除 い て 同 一のこ よ りの 束の なか に収 めら れて いる。こ の よ うに印刷 前の 確認 に使用された状 態 がそ のまま の
かたちで 残 っ て い るの も 本 所 蔵 品の 大 き な特徴 で ある。
所蔵品:広告・煙草パッケージ
生 巧 館は出版 社だ け で なく、 商 品や企業の広 告デ ザ イ ン の 製版もま た多く手 が け て いる。清刷りに 残 っ て いる 最も
早い時期 の 例 がスコ ッ ト 乳菓で ( 図
34 ) 、
他 に 胃 活
( 図
35 )や 吉 沼 時 計 店( 図
36 )な ど 明 治 二 〜 三 〇 年 代 の 新 聞 や 雑
誌 で 頻繁 に目 にする広 告を 作成し て いた よう で あ る。 た だ し胃 活の 広告は清 刷りで は 西洋 人だ が、実 際 に出版 物 等で
出回っ て いるのは日本 人の 姿 で あり 、清刷りの案 がそのまま採 用さ れ
たわ け で はな いよう で ある。また大阪の 楽器店 で ある開成館三 木楽 器
店は会社 の広告用デザ イン のみなら ず 、 商品 で あ る オ ルガンの 図も 生
巧館が担 当して い る ( 図
37 、
38 ) 。
さ ら に 三 木 楽 器 創 業 者 の 三 木 佐 助
が明治三 三年 に発行した『鉄道唱歌 』 の 表 紙も担 当 して おり、 第 二 集
の表紙に ついて は 清 刷 りの所蔵が確認 で き る 。 こ のほ か明 治三 七年 の
煙草専売 法が施工され るまで の 煙草のパ ッケージ デザ インも多 数作 成
して い た よ う で あ る 。 創 業 者 の 岩 谷 松 平 が 自 ら 広 告 塔 と な って 派 手 な
宣伝 を繰り広げ た 岩 谷 商 会 の天 狗 た ば こ も生 巧館が パ ッケー ジを担 当
し て おり 、天 狗たばこ の シ リ ー ズの うち 「 中 天狗 」の 清刷 りが 所 蔵 品
の う ち に 確 認 で き る
(
(
図
32)39 )
。 さ ら に 木 村 商 会 の
「
T H E H A W K C I G A R E T T E S」 (
図
40 )
や 東 海 煙 草 株 式 会 社 の
「
T H E T O K A I C I G A R E T T E S」 (
図
41 )のほか 、商品名が入 ると思 わ れ る 部分が余 白
で 残 され 、「 精 撰 刻莨」 ( 図
42 )
の 文 字 と デ ザ イ ン の 施 さ れ た 清 刷 り も
複数パタ ーン 存在する。こ のほか詳 細は 明らか で ない が、様々 な会 社
の商標も 多数制作し て い た よう で あ る 。
図34《「スコット乳菓」
広告》0564 図35《「胃活」広告》B-0274
図36《「吉沼時計店」広告》
B-0271
図38 B-0108 図37《「三木楽器」広告》B-0148
図40《「THE HAWK CIGARETTES」
パッケージ》B-0127
図39《「中天狗」パッケー ジ》B-0122
図42 B-0283 図41《「THE TOKAI CIGARETTES」
パッケージ》B-0278
後年の活動
このよう に生 巧 館 は創 業か ら明 治三 〇年 代 に かけ て 新 聞 、 雑誌 、 教 科 書 、 広 告と 様々な 分 野 で 活動 の 場 を 広 げ て いっ
たが、その 後 の需要は 印刷 技術の更 新と 流行の変 遷に よっ て 次 第に減 少 するこ と となる。 他の 版におされ 就 業者が 多
く去っ て いく その様を 小 野 忠 重 は坂 を下 るまりの はや さ で あったと 表現 し て いる。
(しか しながら 生巧 館は 最 盛 期を 過
33)ぎた 後も 、昭 和二 、三 年頃 まで は存 続して い た よ う で ある。
(そし て 具 体的 な年代は 特定 出来 て い ないものが多 いが 、
34)後年の時 代の 仕事もまた 当 館所蔵品 の一 角を 占めて い ると考え られ るので あ る。
生巧館 は 明治四一年 ( 一 九 〇八) 、 合田 の転居に 伴い 豊多摩郡 渋谷 町に工房を移 し て いる。 馬 渕は自身 が入門 し た 明
治三六年頃の合田につ い て 次のよう に述 べ て いる。
「生 巧 館 へいらっ し ゃ っ て も、 彫刻の仕事 は もうな さ ら れ ず、専 ら 外交方 面 である が 、 そ れも多く 著 者 の家に 招 ば
れ て 、 原 画 の 説明 を聴か れ る の である 。 ( 略 ) 合 田先生な ら ば 、 著 者の意 の ある と こ ろをよく汲み 取る こ と が で き る
ので 、 い つも 著 者 か ら 招 か れ る ので あ る 。 ( 略 ) 生 巧 館 へ 戻 っ て 来 ら れ て 、 館 員 の 一 番先 輩で 年 長 者 に 、 原 画 の 説 明
を さ れ る ので あ る が 、 先 輩 も よ く 心 得て い る ので 、著 者 の 思 う とこ ろ が 完全 に彫 られ るの で 、 ど う して も 生 巧 館 へ
依 頼 し な け れ ばと 、 出 版 社 も生 巧 館 を 信 用し て任せ る こと に な っ て い た の で あ る 。
(
」
35)生巧館の活 動 は 徐 々 に 専門的 か つ写真では表せ な い細 かい 描写の 必 要な仕事に 比 重 を 傾 け て い っ た と考えら れる。
所蔵 品には 多 数 の 人 体 解剖図 や 植物の組織図、金属 製 品の 図が確 認 できるが 、 こ れらがおそ ら く後 期の 仕事に 該 当す
ると思わ れ る 。 ま た合 田 の 帰国 以前 から 木口 木版 の彫 師と し て 活 動 し て いた 芝築 地 派 の 芝 築地 三郎 は 、 大正 から 昭 和
期の戦時 中まで そ の仕 事が 続い て い たこ とを記述 し て いる。
(印刷業と し て の木口 木 版の 仕事は細 々と ながらも 継続 し
36)てお り 、 当 館 所 蔵 品 は そ う し た 後 年 の 仕 事 を 知 る 貴 重 な 資 料 と な っ てい る の である 。
この時期 の清 刷 り で 制 作年 代 の 判明 し て い る もの が、 大 正 五年 ( 一 九 一 六) の至誠 堂 書店 との仕 事 で あ る 。 所蔵品
には「大正五年 ◯ 月 」 あるいは「大正六 年 ◯ 月 」 「入金済」 「 支 払 済」 と紫 色の 判 で 押された もの が一〇〇点以上存 在
する。 そ し て これ と同 様の 判 で 「大 正五 年四月七 日」 「 入 金済」 と 押 印 された 至 誠堂編集 部から 生 巧館に 宛 て た 葉書 も
所蔵 さ れ て い る た め、押印のある清刷りは至誠 堂書店と の 仕事と 推 測 で きる。葉書に は 「井上 英 和辞 典挿 絵 木 版六拾
弐点右確 に受 取申候 也 」と 記されて いる が、 これ は井 上十吉著 『井 上 英 和 中
辞 典 』( 至誠 堂書店、 大 正五年) で あ る こ とが判明し て いる 。 本 書には辞 典に
示 さ れた 語 を 説明 する多数の小さな挿図が掲載され て お り、図版の特定作業
は未だ進 行中 で あ るが 、アルファベット 順に 見るとA〜Fのペ ージ ま で で 既
に五 二点 の挿 図が清 刷 りの う ち に確認 で き る 。 清 刷 り は 図
43 のように一枚に
複数の挿 図が 並んで い る状 態 で あり 、挿 図の総点 数を 予測すれ ば 、 葉書 に あ
る「 六拾 弐点 」 と は清 刷り の 枚 数を 指 し て い ると 考え られ る。 本書 の挿図 は
ほとんど言及 さ れ る こ との ない大正期の 生巧館 の 仕事とし て 注 目すべ き 作 例
といえよう 。 押印 の入 っ た 清 刷 りは 他に教科 書や 一 般 書籍に掲載されたと思
われ る図 にも 多数確認でき るた め、 大正 五、六年頃の 至誠堂書 店の 出版 物 に
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