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『巴里籠城日誌』校訂現代語訳 (5)

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(1)

『巴里籠城日誌』旧名 「法普戦争誌略」

渡正元 著 巻の5

西暦1870年12月25日(和暦明治3庚午年11月4日)。

12月25日1

欧州に世界の有力国が集まり、万国が深く羨む。そして、その中、強国 と言えるのは、英、仏、普、露、墺、伊が主である。これらの国は、皆、

長い間その軍備を蓄え、その威力を競い、ついにはお互いに盛んに侵略や 攻撃をしようとし、並立できなくなり、この夏、仏普2強国の開戦から既 に5 ヶ月経ち、仏国パリの籠城がほとんど100日になる。そして普軍の威 力は、日毎に盛んで、その破竹のような勢いは、間近にパリ城を陥れよう とする。今、普国がこの機会に乗じ、またルクセンブルクを併合しようと 企てている(このルクセンブルクは、仏白(ベルギー)独3国に挟まれ、

かつて蘭(オランダ)に属していた。しかし、少し前、欧州の有力国が相 談し、この土地を分け、独立国とした。まず、1839年8月18日、仏、英、露、

普、墺、伊、蘭、白等諸国が会合し、条約を作り、その強大な力でこの国 を脅かし、威嚇してはならないと約束した。その後、1867年3月11日、英 国ロンドンで大会議を開き、英、仏、露、普、墺、伊、蘭、白等諸国の全 権代表が皆、参加し、お互いにその国を助け、強暴な行為を慎むと誓う7 か条の新条約を作った。そしてもし、この条約の締結国中の一国がこの国

『巴里籠城日誌』校訂現代語訳 (5)

松 井 道 昭・横 堀 惠 一

1

パリは、晴。

(2)

に傲慢に強暴な行為に及べば、その他の締約国が協力し、制裁する。この 誓約が確固とした決定であり、変わらない。その抄訳をここでは省略する)。

この条約があるのに、露普2強が互いに助け合い、密かにその勢力を欧州 に広げようと企て、この夏以来、独国が仏国と戦い、勝利に乗じ、その土 地を占領し、その地域を併合しようとする。ここで、露国がその腕を伸ば し、トルコの地を併合しようと企てる。そして、普国がまたその威武を誇 り、ルクセンブルクを取ろうとし、新たに使者を英、墺の諸国に送り、ル クセンブルクの誓いを破ろうとした。しかし、普露両国が協力し、その思 いの侭にしようとするので、英国も、今この条約の破棄の申入れを拒めな い状況である。まだその成行きがわからない。昔から強暴な者は、不正で 道理を制する。今、普国に勢いがあり、人がその傲慢さを憎むべきと分かっ ていても、あえてこれを抑えられない。今の英国の武力でも、これに対抗 することは難しいとみえる。これから先のことは、どうするのだろう。

北独同盟で普王を独国の帝位につかせようと計画し、さる12月14日、

北独同盟議会の議員が30名、言上の一文書を作り、仏国ヴェルサイユ城の 本陣で普王に捧げるため、出発した。その内容が以下のとおりである2

寛大な王にして、君主へ

陛下の呼掛けに応じ、人民は、指導者の周りに集まり、犯罪のように 挑発された祖国を外地で守る。戦争が大きな犠牲を強いる。しかし、か くも大事な息子たちを失って、経験する苦しみが、より安全な国境が嫉 妬深い隣人の新たな攻撃から平和をしっかり守るようになるまで武器を 置かないという、固い決意を動揺させることはない。忠実な独同盟軍が 陛下にもたらした勝利により、国民が永続する連合を期待する。北独同 盟議会は、独諸君主と同意し、陛下に対し、独皇帝の冠位を受け、統一 の事業に献身されるよう願った。陛下の頭上の皇帝の冠が法による保護 の下、独国に再建された帝国に力強さ、偉大さ、平和、繁栄と自由の日々

2

12月25日付le Journal des débats引用のl’Electeur libre掲載の12月16日付la Gazette de Breslau記事の仏語訳で、「一昨日30名の議員が出発した」 旨記載があるので、14日 のことと判断される。

(3)

を開くであろう。祖国は指導者と光輝ある軍に感謝し、その先頭に征服 した地で陛下がおられる。国民が陛下の子らの献身と武勲を忘れまい。

神よ、光輝ある独皇帝による平和を人民がやがて享受できるように祈る。

統一した独国はその王の下の戦争で強さを示したが、独帝国は強大で、

平和を皇杖の下、愛好するであろう。陛下にとり、極めて慎ましく、忠 実な北独同盟議会より。

今日は、キリストの誕生日(ノエル祭日3)で欧州各国の大祭日である。

12月26日4、パリ市の籠城は、今日で既に100日である。

近日、戦争の報道がない。この朝、戦況報告5では、昨日、終日諸軍が 野外に駐屯し、築城のため土木工事の兵士を使ったが、地中50センチメー トル(日本の1尺5寸余り)のところが全て凍り、働けないという。今日 の寒気が野外の陣営では、非常に苦難であることを市民に知らせるためな のだろう。

1870年12月24日付国防政府令6で、(去る23日の戦い)に陣頭に立って 指揮し、戦死したブレイズ准将の葬礼を国費により行うこととし、軍務大 臣がこの命令を執行すると発表した。

12月27日7

今日は雪が降り、市中に3寸積もった。

12月26日、夕4時27分発、司令官ヴィノワ将軍の報告8に今日メゾン・

ブランシュの地で先陣の兵の小戦があった。味方が1人戦死、8人負傷、

うち1人は士官であった。等々。

昨日、政府の布令が新聞中にあり、『パトリー』9という新聞社が3日間 その営業を禁止され、新聞を出版することができない10。この新聞が軍中

3

クリスマスのこと。

4

パリは、晴。

5

12月26日付官報。

6

12月25日付官報。

7

パリは、「雪風殊更に厳酷」。

8

12月27日付官報。

9

”La Patrie”(「祖国」 の意味)

10

出典未確認。

(4)

の兵隊の挙動を掲載した(これは、かねてから軍務省が発表していた一つ の大きな禁止事項である)ためである。

12月28日11

パリ市の砲撃が始まる。

昨27日夕の戦況報告書12による。今朝から普包囲軍砲台が姿を現し、我々 の東(レスト)、ノワジィからノジャン諸要塞、アヴロン高地要塞の一部 を攻撃した。敵砲台は、皆遠距離砲から構成されていた。11時現在、上記 砲台への砲撃も激しく、敵攻撃を撃退する総攻撃の前触れとしてあらゆる 措置が取られている。今夜、モン・ヴァレリアン要塞の外で、ルアン線の 鉄道鉄橋の破砕と思われる大きな爆音が2回轟き、響いた。今朝、普軍が ショワジーの牛駅(ガル・オ・バフ)を破壊した。これらは、100余日と 長いパリの籠城、抵抗に敵軍が持て余し、長い間集めた長距離砲で、この 攻撃を始めたのだろう。敵の攻撃はパリ市民の勇気を高める効果しかない。

普軍は、エルミタージュからレンシィまでの道路上、また、ガニー、ノワ ジィ・ル・グラン、グルネイ各所に大口径の諸砲台を造営した。今朝か ら上記の砲台がノワジィ、ロニィ、ノジャンの要塞、アヴロンの陣地に向 け、激しく砲撃した。砲撃戦は、5時まで続いた。我が損失は、死者約8人、

負傷者が海軍士官4名を含む50名であった。我が強力な砲火が敵に相当の 損失を与えたはずである。等々。

今日、我が軍左翼の司令官ヴィノワ将軍が軍中に発表13した命令。

過日、ブレイズ将軍が接近戦をし、陣頭で指揮し、戦死した日、軍の 規則に違反し、我が国民衛兵隊の士官や兵士がその隊から脱走したとい う。これは、全く一時的な状況の変化から起きたとしても、そもそも軍 中に厳格な命令があることは、皆が当然知っているところである。たと えいかなる事変が起こっても、その隊から脱走し、軍の規則に背いては ならない。今後、その兵器を捨て、陣中から脱走する者を直ちに捕え、

11

パリは、小雪、気温零下6度。

12

12月28日付官報。

13

出典未確認。

(5)

軍の規則に従い、厳罰に処する。等々。

今日終日、遠く城郭外に砲声が絶え間なく響き、轟くのを聞く。これは 今朝から普軍が諸要塞を攻撃するものだという。

12月29日14

昨28日朝10時30分発トロシュウ大統領の戦況報告15による。敵軍が昨 日ほどの激しさでは、アヴロン陣地を攻撃しなかったが、砲火が止まなかっ た。昨日、トロシュウ大統領がアヴロンを朝から視察したが、異常がなかっ た。ボンディと付近の砲台が森の中に正確に砲撃し、敵を悩ませた。セイ ヌ第5大隊デルクロ指揮官の部隊がバ・ムードンなどで活発に偵察し、敵 軍が何人か捕虜を残し、退散した。偵察隊がイッシ要塞に戻る際、かなり 激しく砲撃されたが、敵が撃退された。我が軍に戦死2名、負傷6名があっ た。等々。

昨27日のアヴロン高地の死傷士官は、戦死が副官の大尉1名、大尉1名、

少尉1名、従軍司祭1名、負傷が海軍陸戦隊大尉2名、少尉1名、海軍中尉 3名、海軍大尉1名、国民衛兵大隊長1名、支出官1名、大尉2名、少尉1名、

全16名である16

昨日市内にあった発表17

例のない厳しい寒さが我が兵に極めて酷い苦痛を与えている。市民の 愛国心に訴え、羊の毛皮、毛の靴下や手袋を提供できる全パリ住民がそ れらを自分の区役所に持参するようお願いする。区役所がこれらを軍務 省に渡す。

27日の発表18

国防政府、各閣僚、主要官僚は、元旦の儀礼を遠慮する。各人は、こ の措置の必要性と適切さを理解されよう。

14

パリは、晴、寒気酷。

15

12月29日付官報。

16

12月28日付官報。

17

同上。

18

同上。

(6)

27日の発表19

パリの都心から離れた区の様々な場所で極めて遺憾な混乱がある。多 くは余所者の集団が空き地の囲い板を剥がし、ある者達は、資材置き場 を荒らし、ある者達は、庭に入り込み、樹木を切り始めたりする。この 悪党を追い払うには国民衛兵の巡回で十分である。多数の逮捕もあった。

これらの犯人は、軍法会議に送られ、市民に危険な問題を起こす行為の 再発を防ぐため、厳しい措置が取られよう。敵が我々に攻撃しようとし、

市が全力で反撃しようとする時に、秩序の維持と法の執行を断固として 行うことは政府の義務である。パリ市長は、数日来、パリ周辺の森で燃 料源を増やすための伐採を命じたところである。等々。

今日の新聞中に、昨夕、仏兵死傷者40名と病人40名を市内に送り、病 院に入れたという20

今日、城郭外の要塞や城において終日砲声が轟き響くのを聞いた。

12月30日21

昨29日付戦況報告22による。敵軍の攻撃が午後と夕刻極めて激しかった。

このため、我が砲撃隊が発砲を止める他なかった。大統領が大砲を要塞の 後ろに引き揚げさせた。また、アヴロン高地の陣地を前夜撤退した。陣営 を維持することもできなかった。引き揚げた74門の方はほぼ無傷であっ た。日中の敵の猛烈な砲撃が殊にロニィ、ノジャンやノワジィ要塞に向け られたが、非常に大規模で、長距離からの雨のように降る砲弾の下で、冷 静に対応した。等々。

去る27日以来、普軍が砲撃し始め、連なった諸砲台から遠距離に達する 大砲で仏軍の陣地、諸要塞やアヴロン高地等を同時に猛烈に撃ち、その勢

19

12月28日付官報。

20

出典未確認。

21

パリは、曇。酷寒。気温零下6度。

22

12月30日付官報掲載の複数の報告で31日の項の記載と重複。なお、『漫遊日誌』旧暦 8日(新暦12月29日)の項に、今夜、太田が来て語るには、今朝、仏軍パリ城外のアヴ ロン山の陣営を棄て、退陣し、74門の大砲を引き揚げたが、これはこのところ、独軍の 長距離砲で日夜激しく攻撃されたためであるとのこと、と記載する。

(7)

いに逆らえず、仏軍前衛が皆撤退し、砲撃を避けた。そこで、昨日非常に 多くの砲弾が雨のように降ったが、仏軍の死傷者が僅か死者2名、負傷者 6名に過ぎなかった23。昨日、仏軍がついにアヴロン高地を守れず、その 歩兵と砲兵の2軍を引き上げた。

近頃、独軍が猛烈に発射する大砲を普国のクルップの大砲という。この クルップの大砲が欧州の陸戦では、無二の長距離の大砲である。今を去る 3年前、1867年、パリ博覧会に普国がこの大砲を出展し、世界中の人の目 を驚かせ、万国の人の胆を冷やしたという。仏人は、昔からよく知ってお り、常にこの大砲に恐怖をもって久しい。今、普軍がパリ攻撃にこの大砲 で近距離からパリ城郭外の諸要塞を撃つ。仏軍の大砲がこれに応戦できず、

一層、兵の気力を挫く。

今朝未明から夕暮れ後まで、砲声が市内に轟き、実に絶え間がない。こ れは皆、普軍があの長大砲で城郭外の2、3の要塞を攻撃し、仏軍が要塞か ら応戦する大砲の響きである。

仏国も、当然大砲を多く持つが、遠距離に到達する普国のクルップ砲に 比べられるものがなく、一昨日以来、敵の弾丸を受けるだけで、これに対 抗できなかった。アヴロン高地の近くの村に配置した砲兵の諸部隊を引き 上げ、皆要塞中に入ったという。

このクルップ砲の弾丸が8,000から9,000メートル(我が国の2里から2 里10町)の地点に達する。そこでパリ市民は、皆この大砲を恐れ、内心舌 を巻いた。

12月31日24

戦況報告25による。昨日、普軍が我が4要塞とアヴロン高地の陣地を終 日猛烈に砲撃し、勢いが防ぎ難く、アヴロン高地の兵隊と74門の大砲を全 て引上げ、辛うじて退陣した。同日、この長大砲による4要塞の死傷者が 次のとおり。ノジャン要塞中、負傷者14名、ロニィ要塞中、死者3名、負

23

31日の項の記載の通り、これはボンディ要塞のことである。

24

パリは、曇。気温零下6度。

25

30日の項記載の30日付官報掲載の29日付戦況報告のやや詳細な引用。

(8)

傷者9人。ノワジィ要塞中、負傷者若干有り。またボンディ要塞中、死者2名、

負傷者6名。等々。

28日付第2地区司令官の報告26による。同日、普砲兵発射の砲弾が5,000 から6,000発と思われ、非常に多くの砲弾が落ち、ロニィとアヴロン間の 道が使えなくなった。村や鉄道で負傷者が出た。

ヴァンセンヌ城への通報27による。夜極めて静かで異状がない。昨夜8 時半、普軍がこの要塞に向け発射した長大砲の砲弾4発が要塞の上を飛び 越えた。また、敵兵が何人か砲台の国民衛兵と銃火を交えたが、その弾丸 がこの城の堀の中に落ち、城中に負傷者がいなかった。等々。

モン・ヴァレリアン城の29日付報告28による。ルアン鉄道の鉄橋に変化 がない。一昨日、敵兵がサン・ジェルマン鉄道の鉄橋を破壊した。また、

敵軍が日々兵力を増やす。

30日夜付戦況報告29による。敵の砲撃が今朝7時45分に再開し、日中の 一部は、その砲火が激烈であったが、深刻な効果がなかった。主な目標の ノジャン要塞では、3人しか負傷せず、ロニィ要塞で2名負傷した。ノジャ ン要塞が朝8時から夕4時半まで砲撃された。総督自身が要塞守備兵の士 気と団結を目の当たりにした。等々。

パリ籠城が100余日となり、市民の気持ちが大きく挫け、嫌気がさし、

最近、しきりに休戦の策を望む状況である。以前、9月4日に政治体制を 一変し、共和制度にしてから、人民は、ただ政府の動きを仰ぎ望み、トロ シュウ大統領がきっと普通ではない働きで、速やかに敵を追い払う成果を 挙げると思っていたが、今では籠城が既に100余日に及び、トロシュウが 軍頭で指揮しても毎日毎夜、敵軍の乱入を聞き、これを抑える良策がある ことを聞かない。また、市内の食料や諸物品がまさに尽きようとするので、

市民には、トロシュウ大統領の処置が果断でなく、遅く頼りにならないと

26

12月30日付官報。冒頭に、モントルイユ門の参謀将校報告とする。

27

上記官報掲載。

28

上記官報掲載。

29

12月31日付官報。

(9)

言う者もあり、そのため民衆が指導者を選び直そうと密かに主張し、動揺 させようとする。このため、トロシュウ大統領が市内の諸街路に広く以下 の宣言30を壁書きした。

市民と兵士諸君!パリの籠城が100日を超えても我らが挫けず、抵抗 するのは連帯の気持ちと相互の信頼の賜物であるが、それを打ち砕こう とする大きな試みがある。敵は、盛大に宣言した、このクリスマスの祭 日にパリを独国に捧げることを諦め、守備軍を苛立たせようと様々な脅 迫の上、我が前衛陣地や要塞を砲撃する。異常な冬、疲労や終わりない 苦痛が我らを苦しめるという誤算を世論に訴えようとする。また、政府 閣僚に課せられた大きな利害の方向につき、彼らの中で意見が違うとも いわれる。軍は、他の軍が経験したことのない敵の激しい砲撃で必要な 短い休息も妨げられている。軍は国民衛兵の協力を得、作戦に備え、一 丸となり、任務を尽くそうとする。私はここに宣言する。政府の会議で 意見の違いはなく、不安と国の危機に面し、解放を思い、希望し、我ら は緊密に団結する。

1月1日(和暦明治3庚午年11月11日)31

12月31日付戦況報告書32による。敵が大口径の砲兵隊を増し、その中の 多くを攻撃地点に近づけている。本日中、かなり多数の砲弾がグロスレィ の農園33、ドランシィ、ボビニィ、ボンディに、又、幾つかの弾丸がラ・フォ リオとノワジィ・ル・セックまで飛来した。同時に、敵がロニィ、ノジャ ンとノワジィ諸要塞城を砲撃した。しかし、幾つかの物的損害とごく少数 の負傷者しかなかった。

昨31日夜、市庁舎中で一つの会議があった。諸軍司令官が全員会合した34 等々。

30

12月31日付官報。

31

パリは、晴。酷寒。

32

1871年1月1日付官報。

33

ブルジェの戦いの戦場近く。近くにモンモランシー要塞(同市)、ラ・ビュット・パ ンソン砦(モンマニー市)がある。

34

出典未確認。

(10)

今朝、新聞中に、政府が今処置すべき2つの課題があるという35 その1は、今日の市内の状態は、政府がなお一層の軍事力を奮い、抗 戦し、決着をつけるべきか、もしそうであれば、その策略をどうするのか。

その2は、現在の事情で、戦って興廃が一度に決められなければ、断然 終戦にし、和平を図るべきであり、もしそうであれば、どう進めるのか。

まさに、今事態が切迫し、終戦和平の他に策がない。察するに普軍は、

既に長い間の包囲戦に飽き、うんざりする様子である。ヴィルヘルム国 王、ビスマルク首相もまた、別の考えではなかろう。今、もし速やかに 和平を図れば、我が共和制度を維持できるだろう。また、我が軍の敗戦 が極まり、普軍がその必勝を極めるならば、あの傲慢でわがままな普王 が我が国に一層、苛酷となり、必ず、再び新たに国王をおこうとするだ ろう。このため、今日は速やかに和平を図ることが我が共和制度にとり 良い策であると。等々。

今日、市内の事情がまさにこのようである。人民が既に食料に困窮し、

戦争に疲弊し、抗戦の気分も段々緩み、民衆が皆、和平を望む。また、政 府の事情を良く見ると、政府は、自ら、その武力がこの強敵の噛み取るよ うな勢いに敵わないと深く理解する。しかし、諸地方の国民衛兵が敵の背 後に迫ることを内心期待する。今もし和平を望めば、あの強大な2地方36 を分割し、加えて50億フランの賠償金と手足と頼む海軍を奪われよう。こ のため、躊躇する。また、この共和制度を永久化しようと、その策を諸軍 の将帥に問い、密かに人民の意向を知ろうとする。今、私は他国から来た、

一人の学生に過ぎないが、これを傍観し考えると、今日の政治につき、よ くその内容を理解してはいない。しかし、以前の内政変革の日に、今日の ように切迫する可能性があることを当然予想できたはずで、当然、確固た る一定の方策をたて、少しも躊躇すべきでなかった。なぜならば、この戦 争を起こした始めから、仏軍の敗戦の報告が日夜来て、兵の気力が大きく 挫折し、敵と争えない状況であった。ついに、9月4日、ナポレオン仏帝

35

出典未確認。

(11)

がスダン要塞の籠城に敗れ、自ら抗えないことを知り、敵の軍門に降り、

その軍の将軍兵士と共に捕虜となった。この時、仏国は、急に内政を変革し、

共和制度を立てた。当時、今回の戦は、ナポレオン仏帝が自ら好んで起こ したもので、かつて一度も仏人民が求めたこともなく、あえてこれに関わ らないと仏人皆が言った。一斉にその失策をナポレオンのせいにし、民衆 が競い、逃げ口上にしたのは非常に醜くやかましい。普軍も今度の戦争で は、我々はナポレオンと戦い、仏人民と戦うものでないと言う。これは、

実にご都合主義である。そして、今もしさらに政府を委された各大臣政府 諸官達がこの機に乗じ、開戦の罪をナポレオンのせいにし、急に和平を謀 れば、普王の望みが決して例の3大問題37には至らないだろう。その理由は、

仏帝ナポレオンがその軍とともに全てスダンで捕虜となっても、その残り の精兵がいまだ数多く、かつ有名な老練の将帥がこれを率い、前後におり、

また、パリも簡単には陥落しないことを知っているからだ。そこで、仏共 和制度を立てた初め、ナポレオンの起こした戦争の和平を図れば、その補 償金が僅かで、その後の損害も受けず、仏国の挫折が今日のようにならず、

共和制度の功績が大きいといえた。そして当時その和平を図り、その賠償 として土地を譲れば、金貨、海軍を維持できた。しかし、その状況が今日 のように切迫し、仏政府に抗戦する策略がなく、和平する方法がなく、日々 逡巡するうちに、外には敵軍が日夜に迫り、内には朝夕にも食料が尽き、

飢えて叫ぶ声が街区に満ちている。結局、鷲、鷹、豹や虎が噛みつき殴る に任せる他ない。このため、仏国の内政変革の時機だとはいえない。また、

その国のためにもならないと私は、思う。

1月2日38

1月1日付戦況報告39による。昨夜、大半の夜中、敵が砲撃した。我が軍 に死傷者が若干あった。ボンディへの砲撃が夜中倍加したが、ロニィへの

36

アルザスとロレーヌ地方のこと。

37

アルザス・ロレーヌ割譲、賠償金50億フランと海軍分割を指す。

38

パリは、曇、雪。

39

1月2日付官報。

(12)

砲撃が並みであった。今朝、攻撃が激化し、ほぼ休みなく射撃が続く。

新聞の附録40にある。

去る9月4日に仏国が共和制度を立てて以来、政府はこの市城を守る 他に策がない。民衆が皆その挙動を仰ぎ見ている。そうであるが、今日 切迫が極まってもなお、確固とした態度をとる様子がなく、我が民衆が 何を目標とし、何を仰ぎ見るのだろうか。今日すべき事は、講和すると いうただ一つであり、他にはない。その理由の一つは、今、市内の人民 が格別に発憤し、城郭外に満ちている敵兵を追い払うべきであるが、そ の策略をどうするのか。その二は、今、市内の軍が敵を追い払うのに足 りなければ、速やかに講和を交渉し、平和終戦を謀る他に道がない。今、

政府が明確にその方向を定めるべきである。今日なすべき事は、ただ、

戦争か平和か二つがあるのみである。等々。

新聞に載っているパリ市内20区居住者の人数は次のとおり41

この数字は、陸軍、遊動兵、海軍を含まない。

1月3日42

1月1日夕発戦況報告43による。敵の砲火が午前11時から次第に減り、

午後、ノワジィとロニィ要塞へはほぼ止んだ。ノジャン要塞へは、緩慢な

第 1 区 第 2 区 第 3 区 第 4 区 第 5 区 第 6 区 第 7 区

第 8 区 第 9 区 第 10 区 第 11 区 第 12 区 第 13 区 第 14 区

第 15 区 第 16 区 第 17 区 第 18 区 第 19 区 第 20 区 総計   77,831

77,671 96,422 96,341 98,213 90,803 68,883

75,880 102,215 141,485 183,723 100,877 79,828 82,100

92,807 44,034 120,064 154,517 113,716 108,299 2,005,709 人数(人) 人数(人) 人数(人)

40

出典未確認。

41

1月1日付le Siècle。

42

パリは、晴、雪。

43

1月2日付官報。

(13)

砲撃が続き、要塞中1名の負傷者があるだけだった。

1月2日朝発戦況報告44による。昨夜は静穏であった。2、3の爆発がシャ ティヨン45高地で聞こえた。トゥール・デザングレ塔46が爆破された。敵 が活発に活動したようだ。敵のノジャン、ロニィ、ノワジィとその周囲の 村落への砲撃がこの朝から今なお続くが深刻な損害がない。ノジャンへの 砲撃が極めて激しく、飛弾が、多くは空中で破裂するが、村に向かうという。

等々。

1月4日47

1月2日夕発戦況報告48による。敵の砲火が今日ノジャン要塞に向かい、

その数は600発であった。しかし、物的損害なく、ただ軽傷者1名のみであっ た。

1月3日朝、戦況報告49による。今朝、グロスレィ近くで斥候兵が小さな 偵察をし、普軍の数名を殺し、6名を捕虜にした。我が方は、1名の士官 を含む3名が負傷した。今朝から砲撃戦が始まったが、特段の損害はない。

ノジャン要塞では、この朝から夕4時45分まで、砲撃が特に激しかったが、

ただ1人の軽傷者のみであった。ボンディ要塞への砲撃が1分間に3発の頻 度であった。ロニィ要塞では、砲撃がかなり弾丸の爆発で3名が軽傷を負った。

今日、新聞附録中に、ナポレオン第1世の経歴を記したものがあった。

そこには、過去に西暦1810年代に欧州の数々の実力者全てを追い払い、ほ とんど欧州を席巻し、掌握しようとした仏帝ナポレオン第1世は、最後の 一戦で大きく敗れ、英国により捕虜となり、アフリカ西部のセント・ヘ レナの孤島に送られ、6年の後1821年、ついにこの島で亡くなった。つま り、今を去ることまさに50年である。帝がこの一孤島に流され、亡くなる 前、常に慨嘆し、長い溜息をついて言った。50年後、欧州に一大変革があ

44

1月3日付官報。

45

パリ南西郊外の市。

46

「イギリス人の塔」 の意味。シャティヨン市の南西部にあった。

47

パリは、晴。寒い。

48

1月3日付官報。

49

1月4日付官報。

(14)

り、各国がそれぞれその国の体制を変化させ、我が仏国のような国は、全 て露国に併合されなければ、共和制度となるだろう。そして露国、独国の 間で最も強大となる時があり、その勢いが欧州を制圧するだろうと。しば しばこの言葉を述べ、亡くなったという。奇妙なものだ。実に今年3月5日、

ナポレオンが亡くなった日からまさに50年の年月が経過する。そして今欧 州各国の盛衰状態を見れば、まさにこのとおりになっている。ああ、才智 ある英雄の優れた見識には、また感嘆の他はない。

ナポレオンの業績は、万人がよく知るところである。しかし、私は今、

その生前の経歴の年月をここに付け加える。帝の姓はボナパルト、名はナ ポレオンと称する。その父は、シャルル ボナパルトという。地中海コ ルシカ島アジャクシオの身分の低い役人50であり、この地に住んでいた。

1768年8月5日、ナポレオンがアジャクシオに生まれる。1777年、ブリエ ンヌの士官学校に入る。9歳の時である。1784年、パリの兵学校に入る。

16歳である。1785年、軍務初等士官の中尉となる。17歳であった。1795年、

将軍の位に登る。27歳。1804年3月18日、仏帝の尊号を得て即位し、帝王 の位に登った。これをナポレオン第1世と称する。36歳であった。1812年 9月14日、露国を攻め、モスクワに入り、退却した。1814年4月11日、帝 位を剥がれ、エルバ島へ流されること10か月、翌15年2月26日再び仏国 に入り、兵を集め、再びパリ城に入り、帝の座についた。1815年3月20日 である。同年6月18日、ワーテルローの一戦に敗れ、英国の捕虜となり、

同月22日、アフリカ西部の一孤島であるセント・ヘレナ島に流された。6 年この地にいて、1821年3月5日島で亡くなった。時に52歳であった。今 を去ること、実に50年である。

1月5日51

籠城が既に110日である。去る12月27日以来、日夜普軍が例の長大砲で パリ城郭外の諸要塞を攻撃し、その砲声が絶え間ない。

50

ナポレオンが生まれた後、アジャクシオの判事補に任命され、コルシカの貴族にも選 出された。

51

パリは、曇。

(15)

昨4日、一日中激烈な砲声が聞こえた。今朝このことを聞くと、敵軍が モン・ヴァレリアン城を激しく砲撃し、また城中からもこれに応戦し、両 軍の砲声が震えるように轟いたという。また、今日非常に激烈な砲声が轟 くのを聞いた。

4日朝1時発の戦況報告52による。今暁4時頃、普軍の一隊がメシュ農園 前を奇襲しようとし、激しい銃撃を受け、何人かの怪我人を担ぎ、駆け足 で逃げた。半時間後、我が斥候が敵の巡視隊を奇襲し、普兵3名を捕虜に した。同夜、敵兵がモントルイユとボンディの要塞を同時に激しく砲撃し たが、大きな損害がなかった。等々。

4日夕の戦況報告53による。今日、東部要塞に敵が砲撃を続け、ノジャ ン要塞が砲弾1,200発を受けたが、前日以上の損害がなかった。

普軍の長大砲について新聞中に付録でいう。去る12月27日以来、普軍 が長大砲でパリ市外諸城砦を攻撃する。日夜、朝晩の間隙もない。この27 日から1月1日夜まで6日6夜の間、これら要塞に発射した全砲弾が2万5 千発となる。この砲弾1発の重量が50キログラム(我が国の13貫333匁で ある。)、この2万5千発の総量が125万キログラム(我が国で33万3,333貫 目である。)となる。この砲弾を独国からパリ城外に運送すると220両のワ ゴン(汽車の中の貨車である。)が必要だという。この長距離弾1発の費用 が69フラン(日本の約14両)であり、この2万5千発の費用が172万5,000 フラン(日本の34万5千両)に上るという。

1月6日54

1月5日夕5時、政府より市街への発表55

パリの砲撃が始まった。敵は、我が諸要塞を攻撃するのに満足せず、

我々の家に向け弾丸を発射し、我々の住まいや家族を脅かす。この暴力 は、戦い、勝とうとするこの市の決意を倍加するだけである。絶え間な

52

1月5日付官報。

53

1月5日付官報。

54

パリは、晴。

55

1月6日付官報。

(16)

い火で覆われた要塞の守備兵がその冷静さを全く失わず、攻撃者に恐る べき報復を行うであろう。パリ市民は、この新たな困難を勇敢にも受け 入れる。敵がパリ市民を脅えさせようとするが、強力な反撃を受けるだ けだ。パリ市民は、敵を撤退させたロワール軍や我々の救援に向かう北 部軍にふさわしい。仏国万歳、共和国万歳。

戦況報告56による。クレトイユ陣地でバイェルン軍士官1名を捕虜にし た。今朝、敵兵ボンディ要塞を襲撃したが、狙撃兵は撃退された。朝8時 から夕4時半まで、ボンディ要塞と東部諸要塞が砲撃されたが、例により、

損害がなかった。一日中、イッシ、ヴァンヴとモンルージュの諸要塞が大 小の口径の砲で激しく射撃された。砲弾が幾つかサンジャック57通りまで 届いた。今日、戦死が士官1名を含む9名、負傷者が士官4名を含む約40 名である。昨夜、敵が夜通し、ノジャン要塞を砲撃したが、効果がなかった。

今朝から敵兵がモンルージュ、ヴァンヴ、イッシの3要塞に向け激しく射 撃した。敵の砲台がシャティヨン高地にあった。我が諸要塞からも激烈に 応戦した。等々。

後装砲58は仏国の近年の新製品である。その弾丸の形が尖った円柱であ り、かつ旋條弾である59

(原本に長さ 8寸1分5厘8毛、直径2寸8分3厘の砲弾の図)

この弾丸の速力は、1秒毎に400メートル(約211間)を飛行する。そし て、この弾丸が砲口を出た後、1メートル80センチメートル(日本の5尺 9寸4分)を過ぎる間に1回転する。これはその弾丸に旋条があるためで ある。そこで、1秒間に螺旋状に212回回転する。その速力が迅速である ので、弾丸の威力が激烈であることを理解できる。 

普軍が一昨日以来、あの長距離カノン砲を発射し、パリ城南西の要塞の

56

1月6日付官報掲載の幾つかの報告の要約である。

57

パリ左岸の5区にある大通り。

58

弾を砲尾から装填する大砲のこと。

59

出典未確認。原本記載の砲弾は、長さ約24.7センチメートル、直径約8.6センチメー トルとなる。

(17)

外から市内の鉄道を崩壊しようとし、やたらに多く発射する弾丸が乱れ落 ち、市内の西南の隅で破裂し、近辺の人家を少なからず損壊した。これに より、街の中で男女の死傷者が若干あった。

今朝、私の知人の仏人1名が来て、話すには、その友人、某中尉が、昨 夕外の陣から市内に入り、この街の中を過ぎ、家に入ろうとしたところ、

忽ち、あの砲弾が飛来し、その脇腹に当たり、左の手足がともに吹き飛び、

全身が破れて亡くなったという。

昨夕、パリ市セイヌ河の左岸にある兵学校の側の運動場60に弾丸が2、3 発飛来したという。

1月7日61

昨6日夜戦況報告62による。モンルージュ、ビセートルを含む南部の諸 要塞へは、1時間に30発の砲撃があった。ノジャンに、敵の砲撃が明け方 3時から止み、8時に強烈な砲撃が再開された。その時刻から全線で再開さ れた砲撃による深刻な損害がない。外部と城壁の砲台が敵の砲撃に激しく 反撃した。市中にかなり多くの砲弾が落下したが、市内の人心が揺るがな かった。市民や軍の決意や冷静さがこの酷い砲撃に良く耐え、敵の威嚇が かえって我が民衆の勇気を強めるものでしかない。各自は、祖国がパリ防 衛者に求める大きな義務を感じ取っている。

昨日、パリ総督がパリ住民に宛てた壁書きの宣言63

今、敵が威嚇を倍加する努力をしようと、欺瞞や中傷でパリ市民を悩 まそうとする。守備に対し、我々の苦痛や犠牲に付け込もうとする。何 事も、我々に手中の武器を離させない。勇気、信頼、愛国心だ。パリ総 督は、降伏しない。

『ヴェリテ』64という新聞社の社長が政府の壁書きを誹謗する文を数章記

60

シャン・ド・マルスを指すと思われる。

61

パリは、晴。

62

1月7日付官報。

63

1月7日付官報。

64

La Verité 「真実」 という意味である。

(18)

していた。その一章では、次のように言う65

政府は、敵軍の猛烈な襲撃に対する2つの壁書きを発表した。1つを 一昨夜、他を昨朝、市中に発表した。去る9月4日、国の体制が一変し、

共和制度となって以来、政府が市内にその真意を明らかにするよう務め てきた。そこで、市内に発表した文書が正直であり、添削の跡がない。

しかし、ストラスブール要塞とメッス要塞が陥落し、オルレアンに敵が 略奪侵入した後、度々言うことが違った。それが民衆の信じ、納得しな い一因である。そこで、人心が一日で離れようとする。現在、危急が切 迫するが、今日まで、その弊害を見ないのは、思わぬ幸運である。

一昨日、政府が市中に発表した文書中に、怪しい、疑わしい、そのため、

信用できない一文言があった。つまり、我が市内の人民は、近い内にロ ワール軍が敵を撤退させ、北部軍が我々の救援に向かうのを見るだろう という。この文が曖昧で不確かな失言である。ロワール軍が敵を打ち負 かし、北部地方の国民衛兵が我が市の応援に来ることだ。ロワール軍の 敵を追い払い、北部の国民衛兵がわが市に応援に来るという2点につい て、いつ、どこでその根拠となる報告があったのか。市民や我々がまだ その報告を聞かない。最近、新聞報道での政府発表は、ブロワ、ヴァンドー ムやヴァールの諸地方や市全てが普軍に略取された等々という。他に異 なる発表を聞かない。そこで、政府がその後の報告を得ても隠し、市民 に発表しないことが明白である。今、尋ねるが、このロワール地方の兵 が敵を攻撃し、また、北部の国民衛兵が我が市の応援に来るならば、ど ういう形や状態であるのか、教えて貰えるのか。もしそれを教えて貰え ないのならば、政府の一昨日の発表が明白に嘘偽りである。もしそうで あるなら、今の政府の罪も軽くはない。なぜならば、今日わが億兆の住 民が全く政府の発表を信じ、その方向を求め、死生の間を歩き回ってい るからだ。そして、その文の最後にある、「仏国万歳、共和国万歳。」 は、

仏人が常に唱える国の言葉、祝いの言葉である。この言葉は、共和政体

65

出典未確認。

(19)

に変革以来、今日に至るまで政府公文書の文末に記す、定型の無用の文 である。今この言葉が何に役立つのか。この古い言葉は、今日の仏国や その共和政府の命を救えない無駄な言葉である。

また、第二の文章は、昨日発表されたが、その意味が極めて古めかしい。

今日になり、民衆に対し、しきりに義勇や報国を求めるが、当然民衆が 分かっていることである。恐らく、政府がその義勇報国の防戦力がもは や不足するだろうと推察するのだろう。ただし、これらの文意をここで 批判することが主ではない。しかし、その末尾で、「パリ総督は、降伏 しない。等々」と言う。この言葉の意味が最も分からない。今、その約 束の主意が何か。敢えてその回答を求める。これは、人民の命に関わる 重大事件を軽率に扱うものではないか。なぜならば、今、市内の人民が 一致協力し、あくまでも防戦し、開城をしないという者は、ただパリ総 督一人だけではない。また、その一人に限られない。市民全てでなくて はならない。なぜ、今、我が総督がこのような一言を市民に発表したのか、

または、今、市民達が容易く開城を図って良いのかと恐れる。今夜、時 既に深夜に及び、新聞を発行する時間が迫る。そして、文章を続ける時 間がない。今私は、上の最大の疑問を挙げ、謹んでその答えを待つ。上 を仰ぎ、政府の弁明を、下に伏し、市民の回答を求めたい。私がその解 説や討論を聞いた後、全てこれを新聞に書き、広く公開しようと。等々。

私は常に嘆く。仏国の人民の心は、傲慢で上司を恐れず、政府に遠慮せず、

勝手にその政治体制を誹謗し、その政府を軽蔑するという、その習慣が常 にパリの風俗である。そして、彼らは、その舌先の才能を発揮し、容易に 国の政治を喧しく罵るが、もとより出て、重要な国政を担当できない。無 用に市民を煽り、過激に動き、その政府を変革しようとし勝ちである。そ のため、権力が大体民衆にあり、政府が深く民衆を恐れる。もっとも政治 の道の奥義は、ここが拠り所でなければならないが、その民衆の上に立つ 者としての威厳や権力は、当然その主導者にある。思えば、仏国のような 国は、傾向として、ナポレオンのような帝王が上にいて、自ら市内を足元

(20)

に治め、全国を一つに掌握しなければ、とてもこれを制御できない。とても、

この傲慢な人民では、民主共和の政治は永く行なえないだろう。以前その 国の体制を変革し、共和制度を立てた後から我々は、次第に密かに、この トロシュウ・パリ総督・大統領やその他共和政府各閣僚の進退や挙動を見 てきたが、その処置が常に市内の人心に媚びるようであり、今仏国が危急 存亡のときに至っても、なお、ただその人心を宥め、安心させ、密かにそ の衝動を押え、政府の計画を進めることが難しい。そこで、民衆の意見が 常に政府の上にあり、新聞社の論者でさえ、その大げさで傲慢な言葉が極 みに至る。有識者は、さらに激しい。そして今日、その国家が興廃の日に至っ ても、政府と民衆の間の実情が大体このようである。その国の政治状況が 推察できる。今、私は、拙い文章力を尽くし、前の文章を要約した。これ はつまり、後日、事情を顧みる時の参考にするためである。

1月8日66

パリ市総督から発表の1月7日付戦況報告67による。夜と日中のある時 間、敵軍がサン・モール砦とシャンピニー橋付近の建物を砲撃したが、成 果がなかった。ノジャンとロニィ要塞で微弱な砲撃による微かな損害があ り、誰も傷つかなかった。ノワジィ要塞では、3個の強力な舷側砲により 敵の全砲台を砲撃した。今朝8時から敵軍がクールヌーヴ要塞への砲撃を 再開し、負傷者3名、死者1名があった。イッシ、ヴァンヴ、モンルージュ の3要塞への砲撃が一時極めて激しかったが、工事に少し損害があり、死 者4名、負傷者が数名であった。オット・ブリュイェールとムーラン・ド・

サケの前線砦では、敵の砲火が前日よりも少し弱く、工兵大尉1名を含む 負傷者5名であった。ビセートル要塞に若干の砲弾が落ちたが、誰も傷つ かなかった。ティエの敵軍砲兵が我がヴィトリ近くの砲台とセイヌ河左岸 に向け砲撃したが、成果がなかった。我がムードン要塞も第6と第7地区

66

パリは、曇。

67

1月8日付官報。

(21)

を砲撃し、市民のみが苦しんだ。また、ポワン・デュ・ジュール68とブロー ニュ(この町はパリの西南の隅にある)で数名が負傷した。南部前線か らの報告全てが今夜シャティヨン平原でのかなりの集結を知らせている。

等々。

普軍が今パリ市城周囲に配備をし、日夜遠く市内の市街を攻撃する長大 砲が欧州でも比類ない独国の有名なクルップ砲(クルップは製造者の名で ある)で、この大砲200門をその城の外郭に配備し、1門ごとに砲弾400発 を配分し、総計が8万発だという。

普軍がパリ東側の諸要塞に向け約80門の砲を備え、これを仏側要塞に向 け、毎日発砲した。この時、仏前線要塞や周囲の村に乱れ落ちる弾丸が約 2万発だという。

南部の諸要塞や市内市街に乱れ落ちる弾数は、大体上の文と同じである。

クルップ砲は鉄製の後装砲であり、その口径が仏国の単位では、223ミリ メートル(日本の7寸3分5厘9毛)の大砲である69。その重量が仏国の単 位では、2万5千キログラム(日本の6,667貫)である。その砲弾を仏語で オビュス(obus)という。鉄製砲弾のことであり、その形は先の尖った円 柱である。その略図を下に書き付けておく。

(原本に以下の長さと直径の砲弾の図)

長さ 1尺8寸1分5厘、その径 7寸3分5厘9毛70、その重量が142キロ グラム(日本の37貫867匁)この弾丸の速力は1秒間に仏国の尺度で420 メートル(日本の231間)を進み、一昼夜に150発を発射する。その距離 が9キロメートル(日本の2里11町)に達する。欧州の陸軍では未曾有の 長大砲であり、人が舌を巻き、胆を冷やす。

1月9日71

68

パリ市東南端のセイヌ河畔。

69

1月9日付Gaulois。

70

1月6日付官報掲載戦況報告記載の不発弾の寸法が口径0.22m、長さ0.55mとされてい るのとほぼ合致する。

71

パリは、曇、午後雪降る。

(22)

1月8日付戦況報告72による。敵軍の砲撃が前日と同様に続く。要塞の守 備兵も市民も団結が変わらない。今日、パリ総督が敵砲火に曝される城壁 の全要塞を巡察し、パリ市民の愛国心の大きな発露の証を直接見た。

昨日パリ市内諸区中への発表73

現在、我が都市パリが包囲され、籠城が既に長い。先日、市中に発表 したように、大麦小麦全て穀類を貯蔵する者は、これを政府に申告せよ。

政府はそれを相当の値で買い入れる。この穀類を市中の食料のパンに使 う。この命令に違反し、隠し、貯蔵し、出さず、籠城後に商務大臣の許 可証なく穀類を売り出す者を罰し、500から1000フランの罰金を課す。

等々。

パリ市長から第2区への1月8日付発表74

最近、敵軍の砲弾が日夜市内に雨霰のように乱れ落ち、市中北部の市 民には、体や家が傷つく者が少なくない。そこで、その災害を避けるため、

市内第2区に転居する者が非常に多い。そこで、この区に空き家、空き 部屋を所持する者が貸して欲しい。もっともその貸借の方法は、この区 の区長から切符を渡すこととする。

今日、パリの環状鉄道の全ての駅での掲示75

砲撃のため、環状線の鉄道の運行を一時、中断する。また、遊覧船(バ トー・ムーシュ)の1隻が砲弾で沈められたので、遊覧船のポワン・デュ・

ジュールとアルマ橋の間の通行を中断する。

昨日、セイヌ河左岸の市内リュクサンブール地区で若干の砲弾が散乱し、

家屋を焼失させ、負傷者が少なくなかった。その中、路上で男性1人がそ の頭を砕かれ、倒れ、亡くなったことが憐れだ76

新聞中に現在のパリ市城守備兵の数を記載する77。海陸の正規兵士7万5

72

1月9日付官報。

73

出典未確認。

74

出典未確認。

75

1月10日付le Temps。

76

出典未確認。

77

出典未確認。

(23)

千人、諸地方からの国民衛兵9万5千人、パリ国民衛兵45万人、寄集めの 救援兵士3万人、全て合計が65万人以上という。

1月10日78

パリ総督の1月9日夕刻発戦況報告79による。昨日午後、マルメゾン脇 で、敵と数回の遭遇戦があり、今朝、攻撃が再開され、我が軍が敵を引き 付け、損害を与え、退散させた。パリのパンテオン付近と第9地区に多く の敵砲弾が落ちた。30発超の大口径の砲弾がピティエ病院に落ち、婦人が 1名即死し、1病室の病人が地下蔵に移った。ヴァル・ド・グラース病院も 同様に砲撃された。敵軍が市内の病院を標的に砲撃するようだ。この行い は、憎むべきであり、彼らが戦争法規や人道に背くのが一度でない。昨日、

敵の砲撃が南部の諸要塞にも、終日続いたが、前日よりも激しくなかった。

等々。

昨日、伝書鳩が市内に帰り、地方からの報告2通を運んだ80。ガンベッ タ内務大臣が送ったもので、地方の兵が日夜尽力してパリ市内の救援をし ようとし、その兵の威力が大きく振るうという文であるが、極めて長く、

内容が深いので、その抄訳をここに略記した。

上記伝書鳩が一緒に運んだ報道によれば81、ガンベッタ内務大臣は、12 月20日ブルジェを退去し、リヨンに8日間滞在し、28日ボルドーに入った。

また、地方都市ニュイ82で仏軍1万名が2万5千名の普軍と戦い、仏軍の 戦死が1,200名、普軍の戦死が北独同盟バーデンの司令官ヴィルヘルム親 83を含む7,000名と目覚ましい戦果を挙げた。また、普軍は、仏領内に進 入の後、この12月まで既に兵30万名を喪失し、寡婦10万名、孤児20万名 がいる。現在仏内の独兵が60万名いるが、内病人が10万人である。独軍 が郷土防衛兵を召集するが抵抗に遭う。最近、我が地方を略奪し、蹂躙す

78

パリは、曇霧。

79

1月10日付官報。

80

1月10日付官報。

81

1月9日付官報掲載のアヴァス通信社の報道。

82

ブルゴーニュの町。

83

この時の戦死は誤り。1897年4月28日に没。

(24)

る敵兵の掃討が大きな功果を挙げるという。等々。

西国の王(伊国王の子)84が去る12月27日に、即位のため、同国に入国 した85。翌28日夜、首都マドリードで悪者がプリム元帥を射った。プリム 元帥は、3発の銃弾を受け、傷が非常に重く86、かろうじて命を保ち、そ の館に帰ったが、30日夜9時、ついに亡くなった87という。翌31日、西国 の新王は、即位の儀式を広く、全国に公開し、その法令を発布したという。

この日、西国文民政府は、民兵を解散し、その武器の返納を命じた。同 日中に大半の武器は返納されたが、同夕、返納されない武器の捜索が家毎 に行われる。88等々。

欧州列国には、国際法の規律の下で互いに対戦する。そのため、守備側 がその本城に籠城したときに、攻撃側が落城させるために他の方法がなく、

その市城に対し砲撃しようとするときは、これを砲撃する前に使者を出し てそのことを守備側に伝え、これにより、その守備側の市内の老人、幼児、

婦女、病人や外国人達をその場所から退け、避難させる。その後、攻撃側 がこれを砲撃する。これが近世の欧州の国際条約であり、列国軍事法規中 の一規則とする。しかし、今回、普軍がパリを囲んで後100日の12月27日 以来、勝手にあの長距離砲を使い、遠くからその諸要塞や市内の市街を破 壊し、好き勝手に攻撃するが、以前にこのようなことを聞いたことがない。

1月1日以来、頻繁にその砲弾を飛ばし、傲慢、残酷に、市内を射撃し、爆 弾が病院や負傷者がいる建物内に落ち、そのために死傷する者が少なくな い。仏人がこれを罵り、怒り、その行動を残忍の極みと怨む。そこで、今日、

仏政府が協議し、普軍が都市砲撃の国際戦争法規に従わず、傲慢残酷行為 をするとした文書を外務大臣が広く欧州各国政府に送ったという89。等々。

84

アマデオ1世。

85

1月8日付le Figaro。

86

1月9日付官報。

87

1月9日付le Figaro。

88

1月9日付le Figaro。

89

1月10日付官報に外務大臣が欧州各国駐在仏外交使節に訓令したことと医師団からの 病院への砲撃への非難文を掲載する。

(25)

私が考えると、普軍は、始めはパリ籠城を、その人民の意見が一つに纏 まらないので、必ず近い内に市内が混乱し、直ぐ開城するだろうと思った。

しかし、今や籠城が既に100余日に及び、未だに開城の様子がなく、そこ で、速やかに開城させるには、その中の老人、幼児、婦女を避難させずに、

早く城中の食料を尽きさせ、その後さらに一発が雷のような轟音の砲弾で 日夜その市内に爆音を散乱させ、先ず、婦女子を恐れさせ、次に、市民の 肝を冷やさせ、急に市内を混乱させ、開城を速やかにしようとの策略に出 たのだろうか。しかし、この都市攻撃の戦時国際法は、当然、強大な国で あっても破って良いものではない。そのため、国際法上も、その行いが残 忍で横暴といっても良いだろう。しかし、私が思うに、普軍には知識や勇 気のある良い将軍がいる。そうであれば、なぜその強大な力を背景に強暴 を示し、国際法を犯すのか。従って、兵力の強大な者は、その重要な法律 を正しくし、その国際法を守らせるよう努める必要がある。これは、強者 が他者を制御する方策ではないか。人がもし、その強大な力に任せ、その 法律を疎かにすれば、どうして国際法や制度を実施できるのか。このとお りであっても今日、欧州の事情は、強国が必ずしもその古い法律や前例を 第一とせず、殊更に力ずくで百戦百勝した後、隣国を分割し、土地を併合 し、その勢いで掟を定めようとする。今日の欧州は、強猛な者の考え次第 である。先日、ナポレオンが普国に向かい、開戦したとき、その大義名分 をどうしたのか。一学生に過ぎない私がこれを見ても、傲慢や嫉妬により 強暴な力を振るうという外は、ない。これが概ね今日の欧州の変動の事態 ではないか。今、仏国がこの事態になり、欧州各政府に通牒を送るのは、

後日、責任追及の一つの世論を促す意味のものなのか。しかし、天下の国 際法を一日でも忽せにしてはならないと私が思う。その上、欧州の人は、

常にその文明開化を世界中に誇る。恐らく、その意味は、法律を尊び、強 大な力で思うままに他国に乱暴をしないことであろう。そうであれば、今、

仏国が急いで軍使を普国の本陣に遣り、その誤りを数え、その過失を詰問 し、2国が各々法律を犯さず、公明に、快くその戦争を遂行するのが良い

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