エストニアのペッツェリ領土問題 : 分断されたセ トゥ人をめぐって
著者 庄司 博史
雑誌名 国立民族学博物館研究報告
巻 22
号 4
ページ 765‑801
発行年 1998‑03‑31
URL http://doi.org/10.15021/00004132
庄 司 エ ス トニア のペ ッツ ェ リ領 土 問題
エ ス ト ニ ア の ペ ッ ツ ェ リ 領 土 問 題 一 分 断 さ れ た セ トゥ人 を め ぐ って
庄 司 博 史*
The Setos and Petseri Territory:
Problems of a Split People by a Russo-Estonian Territorial Dispute
Hiroshi SHOJI
The recent dissolution of the Soviet Union has had manifold effects on the reorganization of nations and small ethnic groups, especially in border areas. In this article I examine problems that confront the Setos, a small Estonian subgroup in the southeastern border area of Estonia.
After briefly reviewing the birth of the Estonian nation, I will describe the historical background of Petseri question, one of the Russo-Estonian territorial disputes. I will then highlight practical problems and conflicts that have arisen from the dispersion of the Seto community, following re- cent demarcation of the border.
Disintegration of the Soviet Union was definitely put into full swing by the successful departure of the three Baltic republics. Estonia, accor- ding to its present formal stand, should recover the whole territory as of
1940, when it was annexed to the Soviet Union by military force threat.
In fact, most part of Estonia's former Petseri region (Pechora in Rus- sian) , in the Southeast, has remained under de facto Russian control.
Until 1920, the Petseri region was part of the Russian Pskov Prov- ince (guberniya) , but it was ceded with its inhabitants to the newly born Estonian Republic by the Tartu Peace treaty, which recognized for the first time the independency of Estonia with clear borders. Almost two thirds of the approximately sixty thousand inhabitants of Petseri were,
国立民族学博物館第3研 究部
Key Words : Estonia, Seto, border, subethnic group, ethnic consciousness キ ー ワ ー ド:エ ス ト ニ ア,セ ト ゥ 人,国 境,サ ブ エ ス ニ ッ ク 集 団,民 族 意 識
however, ethnic Russians, whereas three fourths of the remaining twenty thousand Estonians were orthodox Setos. Estonia, during its short history of independence, tried to integrate and 'civilise' the Setos, who had been denigrated for example for their distinct dialect and conserv- ative living traditions. Later in 1945, after reintroduction of the Soviet regime, three quaters of Petseri were again restored to Russia's Pskov Province (now termed oblast) , thus dividing the Setos into two ad- ministratively different areas.
Due to the very limited sovereign controle of borders between former Soviet republics, local residents could freely cross borders for dai- ly needs in many areas. Setos on both sides were therefore able to keep close contacts with each other.
For local communities, real problems have only emerged in the early 1990's with Estonia's splitting from the Soviet Union, and with its aspira- tion to recover the whole Petseri territory. Russia reacted to this in various ways, including unilateral demarcation of a border, that divides the Setos into two groups that are unable to maintain regular and daily contacts.
The Setos launched efforts to preserve and activate Seto cultural traditions in the late 1980s, and they see the present border issue as ex- tremely threatening to both daily life and to their cohesion as an ethnic group. The present paper examines the growth and vacillation of Seto ethnic consciousness in the face of conflicts between Russia and Estonia.
は じめ に エ ス トニ ア分 離 後 の 対 ロ シ ア 関 係 1,エ ス ト ニ ア の 誕 生
1.民 族 的 背 景 2.エ ス ト ニ ア 封 建 時 代 .3.民 族 意 識 の 覚 醒
4.独 立 共 和 国 時 代 5.ソ 連 時 代 6.独 立 回 復
皿.ペ ッ ツ ェ リ領 と セ ト ゥ人 1.タ ル ト講 和 条 約 とペ ッ ツ ェ リ領
2.ペ ッ ツ ェ リ の エ ス トニア 編 入 の 背 景 3,エ ス トニ ア 共 和 国 時 代 の べ ッ ツ ェ リ 4.エ ス トニ ア の ソ 連 へ の 併 合 と ペ ッ ツ
ェ リ領 割 譲
5.エ ス トニ ア の ソ 連 か ら の 分 離 後 の 失 地 回 復 運 動
6.分 割 さ れ た セ ト ゥ人 7.セ ト ゥ人 の 帰 属 意 識
8。 セ ト ゥ人 か ら み た べ ッ ツ ェ リ領 土 交 渉 皿.終 わ りに
庄 司 エ ス トニア のベ ッツ ェ リ領 土 問 題
は じめ に エ ス トニ ア分 離 後 の対 ロシ ア関 係
1991年 ソ連 の解 体 の大 きな き っか け とな った の は,バ ル ト諸 国 の分離 運 動 であ った が,こ れ らの諸 国 は そ の後 現 在 に至 る ま で,実 質 的 な 自立 の 回復 に と もな う様hな 諸 問 題 に直 面 して きた。 中 で もそ れ まで ソ連 体 制 に 完 全 に 組 み込 まれ て い た経 済 ・行 政 等 の諸 制 度,機 構 を,現 在 では ロシア連 邦 共 和 国 と名 を 変 え た 相手 か ら分 離 し,建 て 直 して い くの は 最 も深刻 な問 題 と して 立 ち はだ か っ て きた 。 か つ て ソ連 の 標榜 した民 族 自決権 に よ る共 和 国 の独 立 性 が 名 ぼ か りで,実 際 に は共 和 国 の基 幹 機 能 が モ ス ク ワ 中 央 に よ って 牛 耳 られ て い た こ との 結 果 で あ った。
他 のバ ル ト諸 国 と同様 に,エ ス トニ ア も1991年 晩 夏 の独 立 回 復 以来,か つ て1919年 一1940年 の共 和 国時 代 に築 い た 基盤 を も とに ,ま ず先に司法制度 ・議会制 度の切 り替
えが 達 成 され,流 動 的 な 国 際情 勢 の なか に あ りな が ら経 済 の完 全 な 自立 と安 定 化 に む け て努 力 を続 け て きた 。 そ して 旧 ソ連 企 業 の 接 収 ・撤 退 を推 進 させ,自 国通 貨 へ の切 り替 えを 行 うい っぽ う,今 まで 資源 の供 給 源 と して ほ とん ど全 面 的 に依 存 して いた 旧 ソ連 に変 わ る供給 相 手 の獲 得 に 奔走 して きた 。 そ の 結 果 現在 エ ス トニ アはバ ル ト三 国 の 中 で も,民 営 化,外 国 資 本 の 誘致 な どに よ って 経 済 的 回 復 は 最 も進 み,通 貨 も安 定 す る な ど,ソ 連 時代 の後 遺 症 か ら よ うや く脱 却 しつ つ あ る よ うに 見 え る。
しか しこれ に も ま して現 実 問 題 と して深 刻 化 して い る のが,ソ 連 か らの 分離 後 も残 留 す る こと に な った ロ シア系 住 民 の 処 遇,そ して エ ス トニ アが ロシアか らの返 還 を要 求 して い る ペ ッツ ェ リとナ ルバ 川 東 岸 の2ヵ 所 の領 土 問 題 であ る。 これ らは エ ス トニ アに と って単 な る国 内 問題 で は な い。 前 者 は ロ シア との 間 で も っ と も利 害 の 対 立 して い る問 題 で もあ り,最 悪 の ば あ い には 武 力 衝 突 さえ 引 き起 こさ ない と も限 らな い 危 険 性 を は らん だ時 期 もあ った。 ロ シアは ロシ ア人 の処 遇(市 民 権,選 挙権,言 語 権)を 人 権 問 題 と して 国際 世 論 に 提 訴 し,さ らに天 然 ガス 供 給 条件 等 と連 結 させ て エ ス トニ アへ 経 済 的 圧 迫 を ほ のめ か せ て きた点 で もエ ス トニ アに と って 困難 な 問題 とな っ て い る。 エ ス トニ ア独 立 回復 後6年 あ ま り経 過 し,次 第 に エ ス トニア在 住 ・シア人 とエ ス トニア人 双 方 の 勢 力 関係 が安 定 化 しつ つ あ る現 在,一 時 ほ ど急激 な変 動 が生 じる お そ れ は な くな った が,問 題 は未 解 決 の ま ま残 され て い る。
一方 領 土 問 題 は 当 初,両 国 間 に外 交 レベ ル で は ロ シア人 住 民 問題 ほ ど,表 面 的V'は 緊 迫 した状 況 を作 り出 して は い なか った 。事 実 上 全 ヨmヅ パ が 拘束 され て い る欧 州 安 全 保 障協 力機 構 の ヘ ル シ ソキ宣 言 にお い て,第 二 次大 戦 後 確 定 した ヨー ロ ッパ 内 の
国 境 の変 更 は 認 め られ て い なか った し,エ ス トニ ア も ソ連 か らの分 離 の 際 に は,そ の 国 境変 更 の要 求 を あ え て お こなわ な か った。 そ して エス トニア独 立 回 復 後,エ ス トニ ア側 か らの領 土 の 返還 要 求 が あ らわ れ 始 め る 中 で も ロシ アは あ くま で問 題 は 存 在 しな い とい う立 場 を と り続 け る一 方,エ ス トニア は交 渉 に よ って平 和 裏 に解 決 しよ うと し て きた の であ る。しか しエ ス トニア の市 民 ・政 治 団 体 に よる領 土 返 還 の世 論 が 高 ま り, 扇 動 的 な行 動 も見 られ る よ うに な る と,ロ シア側 も一 方 的 に 事 実上 の 国境 線 を 固 定化
し,柵 の敷 設 な ど の措 置 を と りは じめ,突 如 分 断 され る こ とに な った地 元 の住 民 の 間 に 動揺 と絶 望 感 が 広 が った の で あ る。
本 稿 で は,ソ 連 解 体 が及 ぼ した ヨー ロ ッパ地 政 と民 族 間 関 係 の再 編 の事 例 と して, エ ス トニア の領 土 問 題 の ひ とつ,エ ス トニア 南部 の ペ ッツ ェ リ領 土 問題 とそ の なか で 翻 弄 され る少 数 民 族 セ トゥ人 の状 況 に つ い て 述 べ る こ とに す る。 まず,本 論 に 入 る ま えに,民 族 国家 と して の エ ス トニア の誕 生 の い きさ つ,お よび そ の 背景 とな った 民 族 状 況 を概 観 して お きた い1)0セ トゥ人 問題 も実 はそ こか ら始 ま っ て い る。
1.エ ス ト ニ ア の 誕 生
1.民 族 的 背 景
エ ス ト ニ ア は 面 積 約4万5千 平 方 キ ロ,ほ ぼ 九 州 に 匹 敵 し,人 口 は150万 人(1995 年)足 ら ず で,ヨ ー ロ ッパ で は 最 小 の 共 和 国 の 一 つ で あ る 。 全 人 口 中 エ ス トニ ア 人 の 割 合 は64.2%で,28.7%は 「少 数 派 」 ロ シ ア 人 が し め る 。 北 米,オ ー ス ト ラ リ ア な ど 海 外 に は 約15万 人 の エ ス トニ ア 人 が い る とい わ れ る 。
地 域 的 に エ ス ト ニ ア は バ ル ト3国 の 一 つ で あ る が,言 語 ・民 族 学 的 に エ ス トニ ア 人 は ラ ト ビ ア 人,リ トア ニ ア 人 よ り,フ ィ ン ラ ソ ド湾 対 岸 の フ ィ ソ ラ ン ド人 と極 め て 近 い 関 係 に あ る 。 双 方 と も,ラ トビ ア 人,リ トア ニ ア 人 や ロ シ ア 人 な ど 印 欧 語 族 と は 異 な る ウ ラル 語 族Y'属 す る 言 語 を 話 し て い て,同 系 の ウ ラ ル 諸 族 は ロ シ ア ・ボ ル ガ 川 流 域 や そ の 北 の 針 葉 樹 林 帯 に 現 在 も広 く分 布 して い る 。 ボ ル ガ 川 流 域 に は,マ リ人,ウ
ドム ル ト人 な ど 人 口数 十 万 人 足 ら ず の ウ ラ ル 系 諸 族 が 居 住 し て お り,民 間 信 仰 や 口承 伝 統 な ど文 化 の 古 層 に お い て 西 の エ ス ト ニ ア 人 や フ ィ ソ ラ ン ド人 と共 通 す る と こ ろ も
1)一 章 に 関 す る 文 献 資 料 は,主 に ソ連 の 民 主 化 以 降 に 出 版 さ れ た 一 般 的 な 歴 史 書[Estonian Cultural、 研 曽'αッ1996)IOlspuu1992][vorrPlsTo肌KoRs1993】 【RAuN1987】 【VAHTRE l993】 【ZETTERBERG1995】 を 中 心 と し て 用 い た 。 特 に 特 殊 な 見 解,一 般 に 知 ら れ て い な い 史 実 以 外,引 用 箇 所 は 明 記 して い な い 。
庄 司 エ ス トニ アの ペ ッ ツ ェ リ領 土 問 題
多 い 。 しか し エ ス ト ニ ア 人 た ち は,そ の 後,こ れ ら 同 系 諸 族 と は 異 な った 運 命 を た ど っ て き た 。 前 者 が,一 千 年 来,ブ ル ガ ー ル,モンゴル,タ タ ー ル 諸 族,そ して 後 に は ロ シ ア 人 の 圧 倒 的 な 支 配 の 下 に お か れ て き た のY'対 し,エ ス ト ニ ア 人 た ち は 西 欧 文 明 の 影 響 を 強 く受 け る こ と に な っ た の で あ る 。 そ れ は 一 方 で は 中 世 以 来 の ドイ ツ 貴 族 に よ る 封 建 支 配 そ し て 他 方 で は カ ト リ ッ ク,後 に な っ て は プ ロ テ ス タ ソ ト教 会 を 通 じ て もた ら さ れ た も の で あ っ た 。
2.エ ス トニ ア 封 建 時 代
バ ル ト地 方 は 西 暦10世 紀 前 後 よ り東 進 し た ヴ ァ イ キ ン グ で あ る ヴ ァ リア グ,キ エ フ, さ ら に は デ ソ マ ー ク や ドイ ツか ら の 交 易 や 略 奪 の 対 象 で は あ っ た が,外 部 か ら の 本 格 的 な キ リス ト教 布 教 や 植 民 を 目的 と し た 侵 略 が 始 ま っ た の は,13世 紀 以 降 の ドイ ツ騎 士 団 に よ る も の で あ っ た 。1400年 頃 に は 現 在 の エ ス トニ ア と ラ トビ ア に あ た る 地 は ド
イ ツ騎 士 団 の 支 配 下 に お か れ た 。の ち こ れ ら の 地 は ドイ ツ騎 士 団 の 手 か ら ポ ー ラ ン ド, ス ウ ェ ー デ ソ,ロ シ ア の 統 治 下 に うつ る こ と に な る が,こ れ ら の 時 代 を 通 じ て 農 村 人 口 の99%ち か く 【voNPIsTo肌KoRs1993:170】 を し め る 農 民 を 直 接 支 配 した の は 各 地 で 領 主 と し て 君 臨 した ドイ ツ封 建 貴 族 お よ び 教 会 で あ った 。 か れ ら は,土 着 の 住 民 に 重 い 賦 役 を 課 し土 地 に 拘 束 す る 一 方 で,都 市 で は ドイ ツ 人 ブ ル ジ ョ ワが 経 済 を 支 配 し, ほ ぼ 前 世 紀 半 ぽ ま で 華 や か な 上 層 文 化 を 築 き 独 占 し て きた 。 しか し ドイ ツ人 上 層 階 級 と ほ と ん ど交 わ る こ との な い 断 絶 の 存 在 に よ っ て,結 果 的 に 土 着 の エ ス ト ニ ア 人 た ち は 言 語 や 文 化 の 面 で 伝 統 を 保 護 す る こ とに も つ な が っ た[VAHTRE1993:64】 。
1400年 代 後 半 か ら の ドイ ツ騎 士 団 の 衰 微 に と も な い,バ ル ト地 域 は ス ウ ェ ー デ ン, ロ シ ア,ポ ー ラ ン ド各 国 の 抗 争 の 地 と な る 。1500年 代 な か ば か ら の リ ヴ ォ ニ ア 戦 争 の 結 果,エ ス トニ ア 南 部 以 南 は ポ ー ラ ン ド ・ リ トア ニ ア の 勢 力 圏 に お か れ,以 北 で は 南 北 に の び る ペ イ プ ス 湖 と ほ ぼ そ の 延 長 線 を 東 境 と し て,バ ル ト海 へ 西 進 を も く ろ む ロ シ ア と対 峙 す る こ と に な っ た 。 こ の 際,ペ イ プ ス 湖 南 端 の プ ス コ フ と そ の 周 辺 は,正 教 圏 で あ っ た ロ シ ア 領 土 で あ っ た が,の ち 本 論 で 扱 うエ ス トニ ア 系 セ ト ゥ人 の 地 ペ ッ ツ ェ リ も こ れ に 含 まれ て い た の で あ る 。 一 方 エ ス トニ ア 北 部 に 権 力 を 確 立 し て い た ス ウ ェ ー デ ン は1600年 代 に は い っ て 急 速 に 勢 力 を 拡 大 し,1629年 に は エ ス ト ニ ア 南 部 か ら現 ラ トビ ア 北 部 に か け て の 地 域(リ フ ラ ソ ト)が ポ ー ラ ン ドか ら ス ウ ェ ー デ ン領 土 と な っ た 。 こ れ 以 降,ス ウ ェ ー デ ソ は 約 百 年 の 間,普 通 教 育 の 開 始,ド ル パ ト(タ ル ト)大 学 設 立 な ど文 化 振 興 や 貴 族 の 特 権 の 制 限,農 民 へ の 賦 役 強 制 の 緩 和,接 収 農 地 の 返 却 な ど い くつ か の 改 革 を お こ な っ た 。
地 図iエ ス トニ ア領 土 の返 遷
しか し1700年 に始 ま る北 方 戦争 で ス ウ ェーデ ンが敗 北 し,エ ス トニアは 現在 のエ ス トラ ン ト県(現 エ ス トニア 北部)と リフ ラ ソ ト県北 部(現 エ ス トニア南 部 お よび ラ ト ビア北 部)に 二 分 され た ま ま,帝 政 ロシ アに 編 入 され た 。 ロシア の エ ス トニ ア統 治 は ドイ ツ貴族 の特 権 を 回 復 す る こ とで間 接 的 に お こなわ れ た 。 これ に とも ない農 民 の 自 由は 極 限 に まで制 限 され,事 実上 農 奴 の状態 に まで転 落 す る こ とに な った 。一 昔前 の ス ウ ェ ーデ ソ時 代 が 古 き良 き時代 と して 偲 ぼ れ た とい う。 そ の後1918年 ロシア 革命 に 乗 じて独 立 を達 成 す る ま で の約200年 間,エ ス トニア人 は ドイ ツ貴 族 階 級 と ロ シア皇 帝 に よ る二 重 支 配 構 造 の も とで堪x忍 ぶ こ とに な る。 抑 圧 と分 断か らエ ス トニア人 た ちが 民 族 の意 識 に 目覚 め,国 民 と しての 自立 を志 向 し始 め た の は,や っ と19世 紀 半 ば に な って か らで あ った 。
3.民 族 意 識 の 覚 醒
中 部 ヨーRッ パ で は18世 紀 半 ば か ら人権 思 想 や ロマ ン主義 の昂 揚 で抑 圧 か らの 解 放
庄 司 エ ス トニア のペ ッツ ェ リ領 土 問 題
を求 め,ま た 民 族 の 根 源 へ 回帰 を模 索 す る機 運 が 高 ま って いた 。 しか しエ ス トニア で は これ らに呼 応 した 動 きは半 世 紀 も遅 れ,そ れ も ドイ ツ人 知 識 層 か らわ き起 こ った も の で あ った 。 彼 らは エ ス トニア人 農 奴 の悲 惨 さを 訴 え る一 方,純 朴 な農 民 や 土着 の文 化 に 関 心 を よせ 始 め た 。1816‑19年 の 農 奴 解 放 な ど皇 帝 ア レ クサ ソ ドル ー 世 の穏 健 な 政 策 を 背 景 に,支 配 層 の 危 惧通 りこれ らの思 想 的 影 響 は エ ス トニ ア人 の 間 に 着 実 に浸 透 した 。 そ して エ ス トニ ア人 の 社会 階層 の分 化,都 市 ・工場 労働 人 口の増 加,知 識 階 層 の 出 現 な ど社 会 的 条 件 の 変 化 と と もに,意 識 面 に お い て もエ ス トニ ア民 族 出 現 の条 件 は 急 速 に 整 って い った[voNPIsTo肌KORS1993:180]。
19世 紀 後 半,学 校 教 育 の 普 及 に よ り識 字 が一 般 化 す るの に と もな い エ ス トニ ア人 の 知 識 人 に よ る文 筆 活 動 が盛 ん に な り,出 版物 を通 して民 族 と して の 自覚 や 世 界 的 な 民 族 自立 運 動 へ の 関 心 が 一層 高 ま った2)0そ の最 初 の 大 きな 動 きは1860年 代 は じめ エ ス トニ ア南 部 ヴ ィ リヤ ンテ ィの教 師 や 農 民 に よ って始 ま った ア レクサ ソ ドル学 校 設 立構 想 で あ る。 こ の 目的 は エ ス トニ ア語 に よ る高 等教 育 機 関 の設 立 で あ った が,そ のた め の募 金 運 動 が69年 に 開 始 され る と全 国 に 活動 網 が広 が り,民 族 的 理 想 の も とに多 くの 人 々 を動 員 す る こ とに な った 。 さ らに1869年 初 め て 開催 され た 民 族 歌謡 祭 は大 衆 に よ る民族 的示 威 運 動 とな り,民 族 賛 歌 と ともに エ ス トニア人 と しての 意 識 は広 く民 衆 の 間 に 根 付 い て い った[VaxTRE1993:100】 。 それ ま でみ ず か ら を,個 別 の民 族 的,言 語 集 団 と して で は な く,「荘 園 領 主 」(ド イ ツ人)に 対 す る 「土 地 の 人 」 と して しか認 識 しえ な か った庶 民 に も,民 族 と して の エ ス トニ ア人 に ち か い意 味 で,現 在 と同 じエ ス トニ ア人(エ ース テ ィ ラバ ヴ ァスEestirahvas)と い う語 が 用 い られ始 め た の は よ うや く1858年 に な っ てか らの こ とで あ る[ZETTERBERG1995:71‑2]3)0
この よ うな 運動 の背 景 には,ロ マ ソ主義 思想 と歌 謡 祭 や 民俗 伝 承 研 究 とい う民 族文 化 運 動 を 持 ち込 ん だ ドイ ツ文 化 人 の 影 響 と と もに,人 々の 意識 の凝 集 や 質 に お い て一 足 早 く国 民 レベ ル に ま で熟 成 しつ つ あ った フ ィ ソ ラ ン ドの 存在 を無 視 す る こ とは で き
2)1850年 エ ス トラ ン ト,リ フ ラ ソ ト と も10歳 以 上 の90%以 上 は 識 字 能 力 が あ っ た と さ れ て い る 【voNPIsTo肌KORSI993:182】 。
3)こ の 語 は パ ル ヌ の 教 師 で あ り作 家 で も あ っ たJ,V.Jansenが 同 年 発 行 し た ペ ル ノ ・ボ ス テ ィ メ ー ス に お い て 初 め て 用 い た も の で あ る。 と こ ろ で 庶 民 史 を 研 究 対 象 と す る場 合 常 に つ き ま と う 問 題 で あ る が,直 接 に は ほ と ん ど 記 録 さ れ る こ と の な か っ た 彼 ら の 意 識 は,民 族 意 識 を 含 め,我 々 の 推 量 の 域 を で な い 。 こ こ で ホ プ ス ボ ー ム がJ.Kahkの17世 紀 エ ス トニ ア に お け る 農 民 の 民 族 意 識 に 関 す る 研 究Peasants'movementsandnationalmovementsinthehistory
ofEurope,(1985)ActaUniversitatisStockholmiensis.StudioBalticaStockholmiensia2.を 引 用 し て の べ て い る よ うY',文 字 に よ り記 録 を す る こ と に な か っ た 庶 民 と知 識 ・上 流 階 級 の 意 識 に は 相 当 に 開 きが あ った こ と は 確 か でt後 者 に よ る 記 録 か ら,庶 民 の 民 族 的 自 覚 を 測 る こ と の 危 険 性 は 否 定 で き な い[HOBSBAVMl994:58‑59]。
な いlvoNPISTOHLKORS1993:184]。 フ ィ ン ラ ン ドは 同 様 に ロ シ ア 帝 政 下 に あ りな が ら 立 憲 制 の 大 公 国 と し て の 自 治 を 享 受 し,19世 紀 半 ば に は 民 族 叙 事 詩 カ レ ワ ラ や フ ィ ン ラ ソ ド語 意 識 の 高 ま りな ど に よ っ て,600年 に もわ た る ス ウ ェ ー デ ソ の 支 配 の くび き か ら文 化 的 に も 自立 を 達 成 しつ つ あ っ た 。 エ ス トニ ア で 始 ま った エ スh=ア 文 語 の 創 成 や 国 民 叙 事 詩 カ レ ヴ ィ ポ エ ク の 誕 生 に こ の よ う な フ ィ ン ラ ソ ドが 先 駆 的 モ デ ル と な っ た こ と は 疑 い な い 。 そ し て エ ス トニ ア に お い て も,文 化 か ら経 済 生 活 に い た る ま で 深 く根 を 下 ろ した ドイ ツ の 影 響 か ら ロ シ ア に 近 づ く こ と で 脱 却 し よ う とす る動 き も 現 れ る に い た った4)0
し か し1881年 専 制 的 な 皇 帝 ア レ クサ ソ ドル 三 世 が 即 位 し 強 引 な ロ シ ア 化 政 策 が 始 ま る と,学 校 の ロ シ ア 語 教 育 の 義 務 化,公 用 語 の ロ シ ア 語 化,ロ シ ア 人 官 僚 の 導 入 な ど が 実 施 さ れ た 。 芽 吹 き 始 め た ぼ か りの 民 族 文 化 活 動 に 打 撃 を 与 え る こ と に な っ た が, 1880年 代,大 学 都 市 タ ル トを 中 心 に 民 族 自 立 へ の 思 い に 沸 き 立 ち つ つ あ った 青 年 達 の 息 吹 を も は や 抑 え る こ と は で き な か っ た 。 折 し も世 紀 末 ロ シ ア 内 部 の 民 主 化 要 求,階 級 運 動 に よ る 政 情 不 安 が 増 す 中 で,エ ス トニ ア を 始 め ・ミル ト諸 国 で も政 府 や ドイ ツ人 上 層 階 級 へ の 民 衆 の 不 満 は 募 っ て い った 。 当 時 エ ス トニ ア 南 部 の 大 学 都 市 タ ル ト(当 時 ドイ ツ 名 ドル パ ト)と 北 部 の タ リ ソ(ド イ ツ名 レ ヴ ァル)に お い て 欝 積 す る 民 衆 の 不 満 を そ れ ぞ れ 新 聞 に よ っ て 世 論 へ と 導 い て い た の がJ.テ ニ ッ ソ ソ と後 エ ス ト ニ ア 大 統 領 に 就 任 す るK・ パ ッ ツ で あ っ た 。
4.独 立 共 和 国時 代
1905年 の血 の 日曜 日事 件 は バ ル トの民 主 運 動 や 民 族運 動 に も火 を つ け,エ ス トラ ソ トに お い ては 多 くの領 主 館 が 焼 き討 ち に あ った 。 これ らの事 件 は エ ス トニア人 を 次 第 に政 治 的 自立 志 向 へ 向か わ せ る契 機 とな り,そ れ を抑 え よ う とす る政府 の間 に 緊 張 は 高 ま っ て い った 【61sPuu1992:57]。 第 一次 大 戦 が 勃 発 し ドイ ツ軍 がバ ル トへ の 侵攻 を進 め る さ なか,ロ シ アニ 月 革命 後 の臨 時 革 命 政府 は1917年4月 エ ス トニア人 の 悲 願 で あ った エ ス トラ ソ トと北 リフ ラ ソ トの合 併 を 認 め,ほ ぼ現 在 の形 の統 合 され た エ ス トニア県 が 成 立 した。 そ して同 時 に設 置 され た エ ス トニア県 国民 議 会 は10月 革 命 が 起 こ る と主 権 の掌 握 を宣 言 した の で あ る。 しか しま もな く赤 軍 の援 助 の も と レヴ ァル に ソビエ ト政 権 が 樹立 され た。 と ころ が これ も翌 年2月24日 エ ス トニ アが 間隙 を ぬ って
4)1864年 南 エ ス トニア の 農 民た ち が皇 帝 に直 訴 す るた め の嘆 願 書 を作 成 し,ド イ ツ貴族 の地 代,土 地 売 買 に お け る 特 権 や 地 方 政 府 へ の 干 渉 の 排 除 を うっ た え よ う と して い る 【ZET‑
TERBERG1995:73Jo
庄 司 エ ス トニ アの ペ ッ ツ ェ リ領 土 問 題
独 立 宣 言 を した 直後,ド イ ツ軍 に よ りあ っけ な く排 除 され た 。 そ の年11月 第 一 次 大 戦 で ドイ ツが 敗 北 し,あ らため て エ ス トニア議 会 に よ る組 閣 が行 わ れ るが,再 び 赤 軍 の 進 撃 を受 け る こ とに な った。 エ ス トニア 人 が 「解放 戦 争 」 と よぶ 抗 争 の始 ま りで あ っ た 。 エ ス トニア国 軍 は フ ィ ソ ラ ソ ド,イ ギ リス な どか らの 支援 に よ りもち こた え,有 利 な戦 況 で1919年8月 ソ連 との停 戦 を迎 え る こ とに な った 。 そ して翌 年2月 タ ル トに お いて ソ連 との 間 に講 和 条 約 が むす ばれ,独 立 の承 認 を 得 る と と もに,国 境 も画定 さ れ た。 本 論 で扱 うエ ス トニ ア南 部 の ペ ッツ ェ リ県 は こ の条 約 に お い て,ロ シ ア ・プス 台 フ州 か らは じめ て エ ス トニア 側 へ 帰属 す る こ とに な った の で あ る。 当 時約58000人 の住 民 の うち3分 の2は ロシ ア人 で残 りのエ ス トニア人 の うち大部 分 は正 教 徒 の セ ト
ゥ人 で あ った 。
こ う して エ ス トニア は歴 史 上 初 め て エ ス トニ ア人 のn国 家 と して 登場 す る ことに な った 。 しか し,人 口構 成 に は 他 の 民 族 も含 まれ て お り,当 時 約110万 の 人 口 の うち エス トニア人 は約88%,ロ シア人 は8%,ド イ ツ人 は2%に 満 た なか った 。 ロ シア人 の約 半 数 は タル ト条 約 で エ ス トニ ア とな った ペ ヅ ツ ェ リ とナ ルバ 地 域 の 住 民 で あ っ た。 ちな み に独 立 以前 の1897年,つ ま り問 題 の 二つ の領 域 が 併 合 され る前 のエ ス トニ ア に おけ る ロシア 人 は4.5%,ド イ ツ人3.5%で あ った161sPuu1992:41】 。 独 立 に至 る まで の数 十 年 の短 期 間 の うちに エ ス トニア人 は 国 民 と して の意 識 的 成熟 を とげ た とは い え,エ ス トニア の 国家 と して の経 済的,政 治 的基 盤 は脆 弱 な もの で あ った。 そ の た め エ ス トニ ア政 府 は 西 欧諸 国へ の接 近 を はか り,ま た それ らの援 助 の も とに近 代 国家 体 制 の基 礎 固 め を 急 い だ。 ま た文 化 政策 に お い て も,エ ス トニア語 や 民 族文 化 を振 興 す る と同時 に,学 校 網,出 版,各 種 研 究組 織 な ど文 化 的 基 盤 づ く りに も国 家事 業 と し て取 り組 ん で い る。 一 方,独 立 に い た る過程 や それ 以 降 も続 くソ ビエ トロシア との 緊 張 関係 の た め,エ ス トニ ア政 府 は 国 内 の左 翼 的動 きに は 極 め て 厳 しい態 度 で臨 ん だ。
30年 代 に は い り顕 著 化 す るパ ッツの独 裁 体 制 と と もに 当 時 小 国 エ ス トニアを と りま く 緊迫 した 国 際 状 況 を反 映 す る も ので あ った 。
当時 の特 筆 す べ き政 策 の一 つ に 少 数 民族 に対 して と られ た 文 化 自治 法(1925年)が あ った。 これ は 最低3000人 の登 録 会 員 を有 す る民族 は強 制 力 を持 つ 文 化 自治政 府 を 形 成 す る こ とを保 証 す る もの で あ った 。 実 際 この権 利 を行 使 した のは ドイ ツ人 とユ ダ ヤ 人 だ け で あ ったが,そ の 他 の民 族 も子 弟 へ の民 族 語 教 育,宗 教 活 動,出 版 や人 的 な本 国文 化 との交 流 な どは ゆ る され た 【◎lsPuul992:180‑182]。 これ は,現 実 に は母 語 に よる学 校 教 育等 を可 能 にす る進歩 的 な多 文 化政 策 であ った とい え る。
実 質 的 な 独 立 共和 国 は独 立 か ら約20年 後,ソ 連 へ の強 制 的 編 入 に よ って終 焉 を 迎 え
る こ とに な った 。 しか し,こ の短 い 共和 国時 代 は エ ス トニア に と って,近 代 国家 と し て の基礎 を 固 め る うxで か け が え の ない 時代 で あ った 。 ま もな く訪 れ る数 十年 の ソ ビ エ ト体 制 下,「 古 き良 きエ ス トニア時 代 」 と よばれ,郷 愁 を も って 回想 され て きた だ け では な い。 この間 に 築 か れ た 国家 と して の制 度 的 ・精 神 的 基 盤 は の ち,半 世 紀 を経 て突如 訪 れ た 独立 回復 の好 機 にお い て国 家秩 序 の再建 に大 き く貢献 す る こ とにな った 。
5.ソ 連 時 代
30年 代 後 半,ヨ ー ロ ッパ を 第 二 次世 界 大 戦 へ と導 く大 国 の野 心 を 背 景 に,東 バ ル ト 海 沿 岸 で も局 地 的 な緊 張 感 が 高 ま りつつ あ った 。 バ ル ト三 国は,ソ 連 へ の軍 事 挑 発 を 理 由 に した 口実 で,進 駐 した ソ連軍 の威 圧 下 での 「自 由意 思 に基 づ く」議 会投 票 に よ り,1940年 ソビエ ト政 権 へ の移 行 を受 け入 れ た 。 この ソ連 の強 硬 な 併 合 の裏 には,バ ル ト地 域 の領 土 分 割 に つ い て,の ち モ ロ トフ ・リ ッベ ソ トロ ッ プ議 定 書 と よばれ る密 約 が,東 進 を も くろむ ドイ ツ との 間 に1939年 に交 わ され て い た こ とは 現在 で は周 知 の
こ とで あ る。
以 降第 二 次 大 戦 中 の ドイ ツに よ る 占領 期 の 中断 を のぞ い て,エ ス トニ アは 急速 に ソ ビエ ト体制 確 立 へ の政 策 が実 施 され て い った。 資 本 の 国有 化,農 村 の集 団 化,旧 組 織 の 解 体 等 とな らん で,重 点 を おか れ た の が,旧 政 治 家 と知識 階級 の解 体 と再 編 成 で あ った 。 これ に と もな って 戦前 戦 後,粛 清 され,あ る い は シベ リアを始 め ソ連 各 地 の収 容 所 へ お くられ た 人 々は お び ただ しい 数 に 上 る。 ま た混 乱 の 間 隙 をぬ って 海 外 に脱 出 した 人 々 も多 く,大 部 分 が 北 米,ス ウ ェーデ ン,オ ー ス トラ リアに政 治 亡 命 者 と して 受 け 入 れ られ た。 これ ら亡 命者 は戦 後 海 外 に て 旧 体制 下 の文 化 活動 を継 続 す る と と も に,独 立 体 制 の復 活 をめ ざ した様 々な反 ソ運 動 を 組 織化 され た 運 動 に よ って維 持 して きた5)0ソ 連 解 体 の 契 機 とな った バ ル ト諸 国 の 民 主 化,ソ 連 か らの 分 離 運 動 に お い て 海 外 亡 命 者 た ち の は た した役 割 に は大 きい もの が あ った 。
とは いえ 国 内 に お い て も ソ連 化 が順 調 に 行 わ れ た わ け で は な い。 圧倒 的 な ソ連 軍 の 占領 下 に おい て も,武 力 に よる ソ連軍 へ の抵 抗 と独 立 回 復 を か かげ る ゲ リラ組 織 が バ ル ト諸 国各 地 で 活 動 を続 け て い る。森 の兄 弟 とよば れ た この抵 抗 組織 は50年 代 まで 民 衆 の支 援 の も とに 存 続 した こ とが 知 られ て お り,む しろ存在 自体 が 反 ソ意識 の 象徴 的 役割 を担 い語 り継 が れ て きた。 ソ連 体制 が 進 行 し,安 定 し始 め る60年 代 以 降 で も,エ ス トニア人 た ち の とった 基 本 的姿 勢 は 体制 へ の積 極 的 な 消 極 的参 与 とで もい え る もの
5)1945‑64年 亡 命 エ ス トニ ア 人 に よ っ て 海 外 で 出 版 さ れ た エ ス トニ ア 文 学 は そ の タ イ トル 数, ペ ー ジ数 に お い て 本 国 よ り上 回 っ て い た と い わ れ る[EstonianCulturalHistory1996】 。
庄 司 エ ス トニ ア のペ ッ ツ ェ リ領 土 問題
で あ った 。 エ ス トニア語 も話 せ な い とい わ れ た ロ シア 出身 の エ ス トニア人 が 党,政 府 の要 職 を 占め る名 ば か りの共 和 国に あ って,民 衆 の関 心 は ひ た す ら教 養 ・文 化 活動 と 私 的 生活 の 向上 に 向 け られ て きた とい って よい 。 実際 これ らの 点 で エ ス トニ アは ソ連 では 最 高水 準 に 達 し,そ れ 故 に ス ラブ系 労 働 者 の 流入 を招 く一 因 に もに な った 。 一 方 では60年 代 以降 緩 和 され た 海 外 との郵 便,在 外 エ ス トニア人 との部 分 的交 流 再 開 を 巧 妙 に利 用 し,世 界 との接 触 の 維持 に努 め て い る。 また 国 内 で も厳 しい 情報 管 理 体 制 下 に もか か わ らず,知 識 階 級 を 中 心 に した エ ス トニ ア人 間 の私 的 な交 流 網 を 通 じ様hな 情 報 が 往 来 して い た。 こ う して 日常 目にふ れ あ う ロシ ア人 とは,個 人 的 に は ほ とん ど 交 わ りあ うこ とな い生 活 が 営 まれ て い た。モ ス ク ワの数 々 の テ コ入 れ に もかか わ らず, エ ス トニ ア人 の ロシ ア語 能 力者 数 は 自己 申告 に よる統 計 上 で は増 えず,ソ 連 の 他 の 地 域 とは 逆 に70年 代 末 に は む しろ低 下 して い る。 「族際 語 」 ロ シア語 へ の無 関 心 を 装 う
こ とで,体 制 へ の参 与 を拒 否 す る意 図 が あ った の は疑 い ない が,皮 肉 に も ロシ ア語 教 育 の強 化 の 口実 を与 え る こ とに もな った 【庄 司1989]。
6.独 立 回 復
冒 頭 で ふ れ た1991年 の エ ス トニ ア の 独 立 回 復 は,長 い 間 そ れ を 切 望 して い た エ ス ト ニ ア人 に と っ て も,余 りに も突 然 の 出 来 事 で あ った 。 そ れ に 先 立 つ 約2,3年 前,中 央 ア ジ ア,コ ー カ サ ス の 民 族 紛 争 や ア フ ガ ソ戦 争 で 疲 弊 し き っ て い た ソ連 の 経 済 と 秩 序 の 混 乱 に 乗 じた 形 で,バ ル ト国 民 が 相 次 い で,モ ロ トフ ・ リ ッベ ソ ト ロ ッ プ 議 定 書 を 暴 露 し,ソ 連 の 占 領 を 無 効 と し て 宣 言 す る ま で,実 際 の 独 立 を 再 び 手 に で き る と 信 じた 人 が 何 人 い た か 疑 わ しい 。 そ の 後,主 権 宣 言,言 語 法 の 制 定 な ど独 立 回 復 へ の 動 き が め ま ぐ る し く進 展 す る 間 で も,住 民 意 識,政 治 機 構,産 業 構 造,治 安 等h隅 々 ま で 浸 透 し き っ た ソ ビ エ ト体 制 か ら,間 も な く離 脱 で き る も の な ど とは 思 え な か っ た は ず で あ る 。 実 際 後 に 述 べ る よ うに エ ス ト ニ ア 最 高 議 会 は1989年11月 モ ロ トフ ・ リ ッ ベ ソ トロ ップ 議 定 書 の 無 効 性 を 決 議 した が,そ の 後 ゴ ル バ チ ョ フ と の 会 談 に お い て さ え 目標 は ソ連 か ら の 離 脱 で は な く,真 実 の 確 認 で あ る と議 員 に 言 明 せ しめ て い る の で あ る 【KINNUNEN1989】 。
しか し強 固 に み え た 体 制 も そ の 表 面 下 で は,崩 壊 へ と導 く人hの 動 きが70年 代 末 よ り始 ま っ て い た 。 戦 後 の ソ ビエ ト体 制 復 活 と と も に モ ス ク ワは オ イ ル シ ェ ル 鉱 山 を は じめ 中 央 直 轄 企 業 を 北 部 エ ス トニ ア に 誘 致 し,大 量 の ロ シ ア 人 を 中 心 とす る移 民 を 送 り込 ん だ 。1990年 代 末 エ ス トニ ア 人 口 の32%,首 都 タ リ ン で は 過 半 数 が ロ シ ア 人 を 中 心 と す る非 エ ス トニ ア 人 で あ った と さ え い わ れ て い る 。 そ れ と と も に,ロ シ ア 語 は 族
際 語 と してお よそ ロシ ア人 の存 在 の予 想 され る と ころ で は第 一 公 用 語 の地 位 を 占め る に い た り,タ リ ソで は ロ シア語 ぬ き では 日常 生活 さえ不 自由な 状 態 とな って いた 。 さ らに70年 代 末 か ら の中 央政 府 に よる ロ シア語 教 育 の 強化 政 策 は,明 らか にバ ル ト諸 国 の 意 識 的 な ロシ ア化 を め ざ した もの で,ま す ます 強 ま る ロ シア人 の進 出 と と もにエ ス トニ ア人 の 間 に 危 機 感 を 募 らせ る こ とにな った 【ERONEN1987]。 そ の不 満 は あ る時 は エ ス トニア語 授 業 削 減 や 言論 弾圧 へ の反 発 と して 爆 発 し,し ぽ しぼ 流 血 暴動 に まで 発 展 して い る 【L,AURI$T‑Netal.1989:96‑ll31。 こ うして 当局 の厳 しい報 道 統 制 と検 閲 に もか か わ らず70年 代 末 か らエ ス トニア は じめ バ ル ト諸 国 で頻 発 す る事 件 は,観 光 客 や 留 学 生 を 通 じ北 欧 な どで も しぽ しぼ漏 れ 聞 くこ とが で きた。 なか で もエ ス トニア 知 識 人 が 公 開 書 簡 を80年10.月28日 付 で ソ連 の新 聞 数 紙 にお く り,エ ス トニ アで進 行 す る ロ シア化 の 実 態 を 訴 え た。 こ の いわ ゆ る 「40人の手 紙 」 事 件 は 何千 も の コピ ー と と もに 内外 で大 きな反 響 を呼 び起 こす こ と とな った6)0
1985年 以 降 グ ラス ノス チ に よる言 論 統 制緩 和 が進 行 す るな か で,当 局 の反 応 を うか が い つつ 様 々 な運 動 が起 こ り始 め た。 当初 北部 エ ス トニアの 公 害 企業 か ら環 境 を守 る 運動 と して,ロ シ ア人 イ ソテ リま で を も巻 き込 ん だ形 で 出発 した 環境 保 護 運 動 は,瞬
く間 に エ ス トニ ア郷 土 擁護 運 動 へ,そ して エ ス トニア の言 語 や 文 化 を守 る運 動 へ 変質 して い った の は誰 の 目に も明 らか で あ った 。 こ うして,87年8月 エ ス トニア人 た ちが も っ と も切望 して きた,エ ス トニア の ソ連 へ の 強制 編 入 の経 過,と くに そ の背 景 とな った ドイ ツ との間 にか わ され て い た リ ッベ ン トロ ップの議 定 書 の存 在 を 明 らか にす る こ とを要 求 し始 め た の で あ る 【VISPUU1992:270‑71】 。 ソ連 へ の 併 合 の不 当性 を 当局 に認 め させ る こ とは エ ス トニ アが ソ連 か ら分 離 す るた め の第 一 歩 で あ った。 人 民 戦 線 を 中心 に 盛 り上 が る大 衆 運 動 と世 界 世論 の支 持 を背 景 に1988年11月16日 エ ス トニ ア最 高評 議 会 は 主 権宣 言 を行 い,1989年1月18日 エ ス トニ ア語 は言 語 法 にお い て唯 一 の国 家語 と して規 定 され るに いた った 。 さ らに 同11月12日 に は リッベ ソ トロ ップ議 定 書 と そ れ に基 づ きお こな われ た1940年 の エス トニア の ソ連 へ の 併合 自体 を 無 効 とす る 決議 が くだ され た 。 これ は,タ ル ト条 約 に 依 拠 した エ ス トニ ア領土 返 還 要 求 を の ち浮 上 さ せ る きっか け とな る もの で あ った。
これ 以 降1991年 秋 の独 立 回復 に いた る約3年 は民 主 化,独 立 回復 運 動 と ソ連 当 局 と の 駆 け 引 きの激 動 の時 代 で あ った が,す で に 数 多 くの報 告 に よ り扱 わ れ て い るの で,
6)こ の 書 簡 は ソ連 全 国 紙 プ ラ ウ ダ,エ ス トニ ア の ソ ヴ ィ エ ッ カ ヤ ・エ ス トニ ァ お よ び ラ バ ヴ ァ ・バ ー ル に 送 ら れ た が 勿 論 掲 載 は さ れ な か っ た 。 しか し,1980年12月10日 に は ス ト ッ ク ホ ル ム の エ ス ト ニ ア 語 新 聞 を 皮 切 りに,1981年 初 頭 に は,ア ル ゲ マ イ ネ ・ ツ ァイ ト ゥ ン グ,ル
・モ ン ド,ザ ・タ イ ム ズ 等 に 相 次 い で 翻 訳 が 掲 載 さ れ た[Knxetal.1990:198‑200]。
庄 司 エ ス トニ アの べ ッ ツ ェ リ領 土 問 題
そ れ らに譲 る こ とにす る。 た だ こ こで一 言 つ け 加 え て お かね ぽ な ら ない こ とが あ る。
この独 立 回復 運動 は一 般Y'考 え られ て い る よ うに 単 な る独立 運 動 で も再 独 立 で もなか った 。 彼 らに と って は,占 領 され て い た 独 立 国 の 当然 の主 権 の 回復 で あ った[ZET‑
TERBERG1995:144】 。 先V'も 述 べ た が,バ ル ト諸 国 は ソ連 時 代 も教 育 水 準,生 活 レベ ル と もに ソ連 の も っ と も先 端 に あ った。 これ が共 和 国時 代 や そ れ 以前 の西 欧 との長 い 接 触 に よる文 化 の もた ら した も ので あ った こ とは 明 らか で あ る。 中世 以降 ロシ ア帝 政 時 代 に い た って も,土 着 の人hは 大 部 分 が一一握 りの ドイ ツ封 建 貴 族 に支 配 され,両 者 の 間 に は 歴然 た る差 は あ った とは い え,ド イ ツ人 を経 て 持 ち 込 まれ た 中部 ヨー ロ ッパ の文 化 は,数 百 年 の間 に 人 々の 日常 生 活 か ら思 想 に いた る まで,地 味 で は あ るが 確 実 に浸 透 して いた の で あ る。 特 に1816‑19年 の農 奴解 放 以 降,エ ス トニ ア共 和 国 独 立 に い た る100年 間 に,エ ス トニ ア人 が 民族 と して の 意識 を近 代 国 家 樹 立 に お い て 体 現 す
る過 程 では,明 らか に ドイ ツや北 欧 諸 国 を モ デル と して取 り込 んで い た の で あ る。
皿.ペ ッ ツ ェ リ領 と セ ト ゥ 人
エ ス ト ニ ア 民 族 そ し て エ ス トニ ア 国 家 の 誕 生 は ま さ に 近 代 と い う時 代 の 産 物 で あ っ た 。 そ し て 以 下 に 扱 うセ ト ゥ人 は こ の 過 程 で 一 足 遅 れ エ ス トニ ア 国 家 に 吸 収 さ れ エ ス トニ ア 人V'仕 立 て 上 げ られ て い っ た 人hで あ る。 そ の 大 き な 契 機 の 一 つ は1920年 エ ス トニ ア の 実 質 的 独 立 を 確 定 し た タ ル ト条 約 に お い て,そ の 居 住 地 ペ ッ ツ ェ リと と も に Rシ ア か ら エ ス トニ ア へ 編 入 さ れ た こ と で あ った 。 第 二 次 大 戦 後,ペ ッ ツ ェ リの ほ と ん ど は 再 び ロ シ ア 共 和 国 ヘ ー 方 的 に 併 合 さ れ た が,ソ ビ エ ト体 制 下 に お い て 領 土 問 題, 民 族 問 題 と して 言 及 す る こ と は 当 然 タ ブ ー で あ っ た 。1980年 代 末 ソ連 民 主 化 とそ れ),Y 続 く エ ス トニ ア の 独 立 回 復 と と も に,現 在 こ の 領 土 の 帰 属 を め ぐ る論 争 と セ ト ゥ人 の 存 在 の 主 張 が 注 目 を 浴 び 始 め て い る。 こ こ で は,領 土 と主 権 に お い て 譲 り得 ぬ 二 国 家 の 狭 間 で,地 域 住 民 お よ び 民 族 集 団 と し て の 存 続 に お い て 苦 慮 す る セ ト ゥ人 の 問 題 を 明 ら か に した い 窺
7)第 二 章 の 記 述 は,エ ス トニ アに お け る セ トゥ民族 集 団 の 形成 に か かわ る主 要 な 研 究論 文(文 中 参照)の ほ か,主 に 以下 の 新 聞 ・雑 誌 記 事 に よ る。TheBalticIndependent,1989‑1996 Tallinn;TheBalticTimes,1996‑Riga;PetseriPostimees,1909‑1910Tartu;Postimees,1991‑
Tartu;TheMonthlySurveyofBalticandPost‑SovietPolitics,1992‐Tallinn:Panorama‑Press
SakalaCenter;Setomaa,1995‑Polva(Estinia).ま た1993‑1997年 に か け て,数 度 に わ た り実 施 した短 期 の聞 き取 り調 査 に お い て,セ トゥ人 の 民族 意 識 や マス メデ ィ ア等 に の らな い情 報 を 得 た 。 聞 き取 りは,旧 ペ ッツ ェ リの うち現 エ ス トニア側 にあ る ヴ ァル ス カ,メ レマ エ,ミ キ ッタマ エ のす べ て の郡 か ら数 村,ロ シ ァ側 で は ペ チ ョラ郡 の ポ ル ス テ村,コ シェル キ 村, ツ ェ ロ ソデ村 お よ びペ ッツ ェ リ市 の セ ト ゥ住 民 を 中心 に お こ な った 。 以 上 に 加x,エ ス トニ/
セ ト ゥ人 の 社 会 的 状 況 や 近 隣 民 族 との 民 族 関 係 を 扱 っ た 研 究 と し て は,帝 政 時 代 と 共 和 国 時 代 に 発 表 さ れ た 数 点 に 限 られ て お り,こ れ らは セ ト ゥ人 の お か れ た 当 時 の 状 況 を 示 す 資 料 と し て は 貴 重 で は あ る が,セ ト ゥを と りこ も う と す る エ ス トニ ア 側 の 意 図 お よ び,セ ト ゥ に 対 す る 偏 見 な ど が 散 見 す る も の で あ っ た 事 は 否 定 で き な い
【MARKus1936;BucK1909;HURT1903】 。 一 方 セ ト ゥ人 文 化 に 関 す る研 究 は,エ ス トニ ア の 他 の 地 域 と比 較 し た 際 の 特 異 性 と保 守 性 に よ り,ロ シ ア 帝 政 時 代 か ら現 在 ま で,口 頭 伝 承,民 間 信 仰,衣 装,装 飾 な ど に お い て,盛 ん に お こ な わ れ て き た 。 し か し セ ト ゥ研 究 と い う と,ソ 連 時 代 の エ ス トニ ア で は 現 在 ま で ほ ぼ 以 上 の 分 野 に 限 ら れ て お り,民 族 集 団 と して の 存 在 や 危 機 意 識 に 関 す る 問 題 を 扱 っ た ま と ま っ た 研 究 は, 現 在 ま で ほ と ん ど存 在 し な か っ た 。 た だ 歴 史 書,百 科 事 典 等 に お い て は,セ ト ゥ人 の 存 在,ペ ッ ツ ェ リ領 の 帰 属 の 変 遷 な ど が 歴 史 経 過 の 記 述 上 止 む 終xな い 場 合,簡 単 に 触 れ ら れ る こ とは あ っ た が,そ れ ら に ま つ わ る問 題 点 に 言 及 さ れ る こ とは な か っ た 。 ソ連 時 代 セ ト ゥ人 と 他 民 族 間 の 民 族 動 態 を あ つ か っ た 研 究 と し て ほ と ん ど 唯 一 と も い え る も の に 【RICHTER1992(orig.1979)】 が あ っ た が,こ れ も近 年 に 関 し て は,ソ 連 の 民 族 政 策 の 基 本 路 線 に 従 い,多 数 派 民 族 へ の 同 化 を 民 族 接 触 の 自然 の 成 り行 き と み な す な ど理 論 上 の 限 界 は も っ て い た[RICHTERl992:203】 。 や っ と近 年 の ペ ッ ツ ェ リ 領 土 に 関 す る 二 国 間 の 交 渉 に お い て,セ ト ゥ人 の 抱 え る 問 題 が,主 に セ ト ゥ人 自 身 の 活 発 な 運 動 や 意 思 表 明 に よ っ て,行 政 や マ ス コ ミの 関 心 を よ び は じ め,新 聞 の 紙 面 に 登 場 す る こ と も多 く な っ て き た ぼ か りで あ る 。 た だ こ う した 状 況 の 変 化 な か で,研 究 の 対 象 と し て セ ト ゥ 人 の 政 治 ・社 会 的 状 況 や 意 識 に も 目 を 向 け ら れ つ つ あ る lHAGul995;V飢Ke'α1.(eds.)1996]事 は つ け 加 え る こ と が で き る 。
1.タ ル ト講 和 条 約 とペ ッ ツ ェ リ領
問 題 の エ ス トニ ア 南 東 部 の 一 角 ペ ッ ツ ェ リ8)領(現 在 ロ シ ア ・プ ス コ フ 州 ペ チ ョ ル イ郡)は エ ス トニ ア 北 東 部 の ナ ル ヴ ァ川 東 岸 領(現 在 ロ シ ア ・ペ テ ル プ ル グ 州)と と も に,現 在 エ ス トニ ア が ロ シ ア に 対 し領 有 を 主 張 して い る地 域 で あ る 。 い ず れ も現 在 ロ シ ア が 実 効 支 配 し て い る が,第 二 次 大 戦 以 前 エ ス トニ ア が 独 立 共 和 国 で あ っ た 約20
\ ア の セ ト ゥ研 究 者MarePiho,HenoSarv,セ ト ゥ運 動 家AarneHornよ び セ ト ゥ会 議 常 任 委 員PaulHagu,IlmariVananurm,ペ ッ ツ ェ リ連 合 代 表ReetTobre(1997没),ペ ヅ ツ ェ リエ
ス トニ ア 学 校 長VilmaTikasか ら も 関 係 す る 情 報 を 得 た 。
8)以 下 文 中 で 登 場 す る ペ ッ ツ ェ リの 地 名 は エ ス ト ニ ア 語,あ る い は そ の セ ト ゥ語 に よ る バ リ ア ン トで しめ す 。 そ の ほ と ん ど に は ロ シ ア 名 が 存 在 す る が,特 に 必 要 が あ る 場 合 以 外 用 い な い 。
庄 司 エ ス トニ ア のペ ッツ ェ リ領 土 問 題
年 間,そ の 領 土 で あ っ た 地 域 で あ る 。
前 章 で 述 べ た よ うに,こ れ らが エ ス トニ ア 領 に 画 定 さ れ た の は,ロ シ ア革 命 後 独 立 を 果 た した エ ス トニ ア 共 和 国 と ソ ビエ ト ・ロ シ ア と の 間 で 締 結 され た タ ル ト講 和 条 約 (1920年2月)に お い て で あ っ た9}0こ れ に よ りエ ス トニ ア は 国 土 の 約5%の 領 土 を そ の 住 民 と と も に 獲 得 した 。 ペ ッ ツ ェ リす な わ ち セ ト ゥの 地 で あ る 約1777km2は,そ れ ま で ロ シ ア の プ ス コ フ 県 の 一 部 で あ っ た が,当 時 同 様 に ロ シ ア の 支 配 下 に あ っ た 本 来 の 「エ ス トニ ア の 地 」(行 政 上 北 半 分 は エ ス トニ ア 県=エ ス トラ ソ ト,南 半 分 は リ
ヴ ォ ニ ア 県=リ フ ラ ン ト北 部 に 分 割 さ れ て い た)に は 含 ま れ て お ら ず,こ の 条 約 で 初 め て エ ス トニ ア 領 と さ れ た の で あ る 。
ペ ッ ツ ェ リ領 編 入 の 背 景 に は ,エ ス トニ アが1918年2月 の 独 立 宣 言 直 後 侵 攻 した 赤 軍 に 対 し て の 「解 放 戦 争 」 に お い て 持 ち こ た え る 中 で,外 国 か ら の 干 渉 と 内 戦 で 疲 弊 す る ロ シ ア 側 に 何 よ り も停 戦 を 受 け 入 れ ざ る を 得 な い 事 情 が あ っ た 。 し か しそ れ に 加 え,停 戦 条 約 締 結 の 直 前 ま で,エ ス トニ ア 側 は 南 部 で は ほ ぼ ペ ッ ツ ェ リに 当 た る 部 分 に ま で 戦 線 を 進 め 維 持 し て い た こ と 【RAuNl987:110],さ ら に こ の 地 域 に は エ ス ト ニ ア系 の 住 民 セ ト ゥ人 が 居 住 して お り,当 時 の ヨ ー ロ ッパ を 席 巻 し て い た 民 族 自決 の 思 想 か らみ れ ぽ エ ス トニ ア の 領 土 要 求 は そ れ な り の 根 拠 が あ っ た の か も しれ な い 。 解 放 戦 争 さ な か 戦 線 が 好 転 の 兆 しを み せ た1919年4月,エ ス ト ニ ア は 憲 法 制 定 議 会 を 召 集 し,6月 初 め て の 暫 定 憲 法 を 制 定 し た が,す で に そ こ で は,エ ス トニ ア の 領 土 に は, 他 の 領 土 に 加 え ペ ッ ツ ェ リ市,イ ル ボ ス カ,パ ソ コ ヴ ィ ッ ツ ァ,ロ ボ トカ を ふ くむ ペ
ッ ツ ェ リ県 が 属 す る と 記 さ れ て い る 【MATTISEN1993:88Jio>o
と こ ろ で セ ト ゥ人 と は ど の よ う な 人hで あ っ た の だ ろ うか 。 彼 ら の 意 識 に つ い て は 後 で ふ れ る こ と に し て,簡 単 に 客 観 的 事 実 の み を あ げ て お く。 セ ト ゥ人 の 話 す セ ト ゥ 語 は エ ス トニ ア 南 部 の ヴ ォル 語 と と も に 南 エ ス トニ ア 方 言 を 形 成 し て い る 。 そ の い く つ か の 顕 著 な 言 語 的 特 徴 に よ り,む し ろ 独 立 し た 「言 語 」 と み な そ う とす る 人hが,
ヴ ォ ル 語,セ トゥ語 運 動 家 に 多 い 。 しか し,こ の ケ ー ス の よ うに あ る言 語 と方 言 的 連 9)1919年12月5日 か ら1920年2月2日 ま で の 講 和 交 渉 に お け る 双 方 の 駆 け 引 きは[MAT‑
TISENl993:33‑62】 に詳 し く述 べ られ て い るが,決 して 順調 に進 ん だ わ け では な い。 双 方 と も2‑3度 国境 案 を提 示 して い るが,い ず れ も最 初 の案 で は,画 定 線 に 比 べ 相手 領 土 側 に食 い 込 む もの で あ った 。 最 終 的 に エ ス トニ ア側 に有 利 な結 果 に な った とは い え,決 して ソ連 が 敗 者 と して交 渉 に 望 ん だ わ け で は な く,ソ 連 の国 内事 情 な ど複 雑 な 要 因 が 関わ って いた こ と は エ ス トニ ア側 に も周知 の こ とであ った 【MATTIsEN1993:60‑61】 。
10)こ れ よ り約 一 年 前,1918年2月 の エ ス トニ アの 独 立 宣 言 に お い て は,そ の初 め の部 分 で エ ス トニア の領 域 が 郡 名 を 列 挙 し規 定 され る 中 で,ペ ッツ ェ リあ るい は セ トゥは あげ られ て い な い 。 た だ し,ラ トビア,ロ シア と国境 を接 す る地 域 に お い て,共 和 国 の 境界 の最 終 的 な決 定 は 現 在 の 戦 争 が 終 結 した 際 に,住 民 投 票 に よ っ て お こな わ れ る,と して い る 【MATTISEN
1993:137‑138]0
続 体 を 形 成 し て い る 場 合,そ れ が 「言 語 」 で あ る か 「方 言 」 で あ る か は 純 粋 な 言 語 学 的 条 件 以 外 の 事 情 に 左 右 され る こ とが 多 い 。 した が っ て,そ の よ うな 論 争 は,今 セ ト
ゥ人 が 独 立 し た 民 族 か 否 か の 決 定 的 要 因 に は な ら な い11)0実 際 に,セ ト ゥ語 を 自 立 言 語 と み な し,そ れ を 根 拠 に セ ト ゥ人 を 民 族 と よ ぶ こ とは,ペ ッ ツ ェ リが 不 可 分 の 領 土 で あ る と い う エ ス トニ ア の 主 張 に と っ て,そ れ を 否 定 す る 口 実 を ロ シ ア 側 に あ たxる
と して,危 険 視 す るM.Hintの よ う な 言 語 学 者 も い る 【HINT1994】 。
一 方 彼 ら は ペッ ツ ェ リ とい うか な り限 定 さ れ た 地 域 を 伝 統 的 居 住 地 域 と して み な し て お り,地 域 的 な 輪 郭 は 明 確 で あ る 。 上 に も 述 べ た よ うに,ペ ッ ツ ェ リは,タ ル ト条 約 に よ り初 め て エ ス トニ ア の 一 部 と し て 併 合 さ れ,そ の 住 民 も 他 の エ ス トニ ア人 と 同 じ統 治 下 に お か れ る こ とに な っ た 。 こ の べ ッ ツ ェ リ地 域 に は 遅 く と も9,10世 紀 に は ス ラ ブ 人 が 流 入 し始 め 土 着 の エ ス トニ ア 人 た ち の 祖 先 と接 触 し始 め て い る 。 そ し て11 世 紀 以 降 次 第 に ノ ブ ゴ ロ ドの 勢 力 が 増 す に つ れ て,他 の エ ス トニ ア 人 か ら切 り離 され て 正 教 圏 に 組 み 込 まれ て い っ た よ うで あ る[VaLKl996:13]。 そ の 後,こ の 地 は 他 の エ ス トニ ア 人 の 大 部 分 が ドイ ツ,ポ ー ラ ン ド,ス ウ ェ ー デ ンの 支 配 を 受 け る な か,プ ス コ フ領 の 一 部 と し て ロ シ ア の 影 響 下 に お か れ て き た 。 セ ト ゥ人 の 居 住 地 域 と して の ペ ッ ツ ェ リ の,特 に 西 に 対 す る 明 確 な 境 界 が ,政 治 ・宗 教 的 境 界 に よ って13世 紀 以 降 確 立 さ れ,こ れ が タ ル ト条 約 ま で の ほ ぼ700年 間,実 際 に 文 化 的 境 界 と し て も機 能 し て い た こ とは 墳 墓 や 埋 葬 形 態 の 研 究 に よ っ て も 明 ら か に され て い る[1.,AULl995】 。
こ の よ う に 宗 教 的,政 治 的 に ロ シ ア に 統 合 さ れ た こ と に よ り,特 に 生 活 慣 習,衣 服, 儀 礼 等 に は ロ シ ア文 化 の 影 響 が 残 り他 の エ ス トニ ア 地 域 か ら大 き く際 立 つ こ と と な っ た 。 ま た 一 方 で は,エ ス ト ニ ア 文 化 の 周 縁 地 域 で あ っ た た め,他 で は 失 わ れ た 伝 統, 特 に 民 間 信 仰,儀 礼,口 頭 伝 承 が 長 く保 た れ て き た 。 こ の よ う な セ ト ゥ文 化 の 特 殊 性 に 関 す る 研 究 は 多 様 な エ ス ト ニ ア 文 化 の 一 部 と して,ま た そ の 古 形 を 伝 え る も の と し て,多 く の 蓄 積 が あ る 。 た だ し,セ ト ゥ人 が こ の 間 他 の エ ス トニ ア 人 か ら分 断 さ れ て い た わ け で は な い 。 セ ト ゥ人 の な か に は 大 都 市 プ ス コ フ を 背 景 に,農 作 物,魚 等 の 交 易 で は エ ス トニ ア と の 間 で 商 人 と して 成 功 す る も の も 多 か っ た 。 国 家 を 志 向 し始 め た エ ス トニ ア は こ の よ う な セ ト ゥ人 を そ の 言 語 を 根 拠 と し て エ ス トニ ア 国 民 の 一 部 と み な し}彼 ら の 居 住 す る 地 域 ペ ッ ツ ェ リを も エ ス トニ ア の 領 土 に 属 す る べ き も の と い う 11)多 くの 場 合集 団 の意 識 的 な 自立 志 向が,他 とは 区別 され る 「言 語 」 の存 在 を維 持 して い る 場 合 が 多 い 。 た だ し,ひ とたび 「言 語 」認 識 が生 じる とそ の存 続 自体 が 目的 化 され るの が 一 般 で あ る。 セ トゥ語,ヴ ォル語 の場 合,一 部 の主 張 に もか か わ らず,標 準 エ ス トニ ア語 間 で の 意 思 の 疎 通 は,全 く不 可 能 では な い 。彼 らが よ り近 い と信 じる フ ィ ソ ラ ン ド語 よ り,エ ス トこ ア語 話 老 に は は るか に理 解 しや す い。 しか し運 動 家 の間 では 現 在 これ らの文 語 と して の 確 立 や 日常語 と して の 復 権 が 関心 の対 象 とな って い る。