一
228
の一研究﹂また﹁メクレンブルクにおける資本家的ユンカー経営の発生について﹂という副題がつけられているよう
に︑東ドイツにおける資本主義の発展︑いわゆるレーニンのプロシャ型の道と再版農奴制といわれるグーッヘルシャ
︵の⑨︺フトとの関係が論ぜられている︒この二つの研究によれば︑グーッヘルシャフトはたしかに一四︑五世紀における封
建社会の危機に対する領主がわの対応であり︑なるほど封建反動ではあっても︑その成立と発展の過程において︑と
くに農民追放によって農民経営を破滅させ︑農民をその保有する土地から切離していく︒この過程はマルクスのいう
︵a4︶本源的蓄積の基礎過程にほかならず︑東ドイツでは領主自身が土地を集積し︑追放されて土地を失った農民をグーッ
経営に結びつけ︑その労働力によって西ヨーロッパ向け穀物等の商品生産を行う︒こうした農民はなお依然として農
奴ではあったが︑この農奴がプロレタリアートになるためには︑もう一度無財産にされる必要はなく︑農奴制の廃止
だけで十分であった︒プロシャ型の発展は賦役領主によるグーッ経営の発生と確立によって生じ︑グーッ経営は漸次
的に変化して資本家的ユンカー経営に移行するとしている︒
こうした見解は東独においても︑現在︑一般的な見解であるとはいえず︑むしろ従来の実証的研究の基礎の上に立
った見解に対する理論的な批判︑或は新しい問題提起としての意味を持つものといえよう︒たとえば︑クチンスキー
は︑このグーッヘルシャフトの成立︑発展を﹁相対的な再封建化里皇雪①困呉呂含屋︒副目哩の過程であるとし︑封建制
による資本主義の抑圧園冒号丙骨営頤巨頤と考えている︒したがって﹁グーッ経営のために生産手段がますます提供さ
れねばならないかぎり︑この点ではグーッ経営は日を経るにつれてますます分益経営目堅意凰舎になった﹂とされ
る︒これに対してニヒトヴァィスは農民経営の破滅と農民からの土地の切離し︑すなわち農民追放によって︑この分
益経営という規定はもはや東エルベの農民大衆にとって関係がないと批判するし︑またルックも︑もし生産関係の衰
退︑没落について語るならば︑同時に締しい生産関係をその基本的特徴において取扱わねばならない︒したがってク
チンスキーの相対的再封建化という概念は封建制が︑すでに資本主義の方向に変革しはじめたということを示すには
229
不十分であると批判しているのである︒こ空一つの研究はこうした意味において︑たしかに新しい問題提起である
︵F⑨︶う︒しかし︑その論争的な性格からか︑十分に実証的であるとはいえず︑むしろマルクスやレーニンの引用の多い︑あ
まりにも理論的な問題追求の仕方をしている︒しかし私とてもこれを実証的に検討し得るほどに史料や文献を持ち合
せていないし︑見ることすらなし得ないので︑本稿では以上三つの研究を素材にして︑とくにドイツ資本主義の発展
にとつて決定的な出発点と考えられる一六世紀後半を中心に農民追放を︑封建反動の過程と関連させて︑ともかくも
︵心○︶検討しようと思うのである︒しかも本稿はわずかに私自身の覚え書にすぎないことを予めおことわりしておこう︒
倒犀邑言胃凋︑漂四屍砦言一.H.m誤い
⑤星曼箸農の之.篭.目.唇員.の.侶・・喬﹈﹄肩の園蚕︒暑昌詮︑髻鳴日①旨①雪冨g富言鴨曇︒言①ぐ︒昌量厚星舜与国員︒園菖竪の呂自
雰蝿①房号墨﹄.皆忌.ご邑壺.﹈急.目色崖昼宣旨星厨呂塁屋号露の量︒言三mg喜異.題墨望ご認目.國島星ごま歴史学
誌への寄稿はニヒトヴァィスに対する批判を含んでいる︒こうした問題提起は我国においても︑たとえば北条功氏の一連の労作
にも見られる︒とくに可いわゆるプロシャ型の歴史的構造L︵山田盛太郎編可変革期における地代範晴L所収︶
⑥主として一八世紀から一九世紀への移行過程を取上げた藤瀬浩司﹁プロシャ農業改革の経済的基礎L︵歴研二三号︑一九五
七年九月︶のなかでニヒトヴァイスとルックに対する批判が現われている︒
仙蜀号屋号富農①蝿︑雰皿o茸︒宮①号四雰巨①冒冒日⑩﹈厘己号獄琴号目宮言尉言唐旦①言①︒庭①旨言晶.岳誤.含冥.旨臘①獄・︶
②喬﹈・國侭︒塵三目.己冨旬厚胃員侭員且雪①2号尉伊号烏g9塁旨冨o・逗目冒晶.R①詩︒言琴冷.寄畳品$・巨・宮①︑淫.澆毘忍.誘酋雪I壷e戒能通孝﹁法律社会学の諸問題L二七○頁参照︒函①旨冨豊富目夢臣①唇菖①言眉号尉⑦景冨胃の9塁︲
属目昌月号閏言言冒冨g匡①邑言侭︵墓島.9国・I目.君冨噸①冨需盟伽o罠︒言①.雰琴島e岡田与好﹁グーッヘルシャフトの成立﹂︵高橋
幸八郎編可近代資本主義の成立L所収︶
③嵜冨日扇伽喜o宴鼠$ゞ胃⑲雰巨①昌一網①昌冒言①︒産g言晶国営①︹茸①扇目言属国日露︑o屋︒言①号尉野巨①目の9塁目且号局圏室①民①
胃画意侭①置︑︒富津甘言①︒庭①冒言晶豆の目冒画①瞬巨昌号いぢ.曽貢言い且①異・毛蟹.︵シご丙.星呂冒①雷・︶嘩園①号①風閂﹄ロ呉.園日
舞①旨●日曾言昌伊の言①号哩﹈・毎ぐ.弓昏目①p︑闇習局園具巽①言●侭号尉属名冒房爵呂の日言冒富国毫冨ゆ︒富︷舜冒嵩①民﹈①吾胃頤.毛訳.
︵疹壱〆Fロ︒丙︶
−− 一 口
230
︵で4︶﹄マーゲルは︑グーッヘルシャフト成立の原因をクナップ以来の伝統的な見解をほぼ継承しながら︑一方では法制的
な側面から一六世紀末から一七世紀にかけて裁判権を中心とする公法的権力と結びついた私的なグルントヘルがいわ
ゆる閉鎖的な地域支配を確立したことに求め︑他方ではその経済的側面から一五︑一六世紀における農村の荒廃と貨
幣価値の下落︑とくに西ョIロッ・ハとの穀物商業と結びついた穀物価格の高騰による農業活況と一六世紀における価
格革命の進行という︑経済的要因を挙げて︑領主自身の直接経営︑グーッ経営が確立したとする︒農民追放はこのグ
︵ワ筥︶−シ経営を確立︑拡大するための重要な手段とされる︒
マーゲルはエンゲルの研究によって一五五四年の租税台帳冒昌冨号H品質関にはクライン叩Ⅱテシンでは﹁クリス
トファ・デシンは古い台帳に載っている農民から四フーフェを奪い︑彼の領主保有地雰葛言ぐ①昌日望曽具困旨①吾︒e
に囲込んだ﹂とあり︑また﹁サムニート村においては一四四一年の台帳によれば一九フーフェと四カーテンがあった
が︑一五四○年には一○フーフェと一三カーテンである︒このことからこの農民村落の保有者であるフォン︒ヴェル
トッィエンは︑この間の時代において九フーフェの農民保有地を奪い︑フーフナーをケートナーに格下げしたことが
︵句○︶明らかである﹂としている︒そして一六世紀後半において農民追放はメクレンブルクではすでにより一般的になって︑アームトオルドヌソク︵4︶一五八三年の管理官令は不必要な︑また無思慮な農民保有地の追放を禁止しようとしていると述べる︒一五六○
アッカーペルケ年代のはじめランデスヘルはポエール島のヴェステルゴルヴィッの全村を追放し︑これを一つの直営農場にしてカル
︵FD︶テンホーフと名づけているし︑またリューゲン島のリュッヶヴィッでは一五七二年に︑ガーゲルンでは一五七五年
︵︽︑︶に︑ローゼンガルテンでは一五七八年に︑等々︑多数のランデスヘルの農民を追放している︒一六○一年にはランデ
レント・マイスターヌヘルの収税官ヨアヒム・シエーレによって同じくリューゲン島にあるメンヒグートのグローテハーゲン村が追 一二ハ世紀後半における農民追放
231
放され︑シェーレはこの村の一二の完全農民をミッテルハ″Iゲンおよびクラインハーゲンに移し︑農民の保有地をラ
︵j︶ンデスヘルの農場に集め︑これにフィリップスハーゲンの名を与えている︒
たしかにこうした農民追放は農民をその保有地から切離すが︑しかし多くの例は追放された農民をより悪い条件の
土地に結びつけるためのものであり︑しかも賦役を強化している︒たとえば︑先述のカルテンホーフではそれまで賦
アームト役を給付していなかった農民が︑一五九八年の管理官の記述によれば︑ニフーフェを保有する農民は二連畜による賦
役を毎日︑また一フーフェの農民は一連畜で毎日︑もしくは二日毎に二連畜の賦役を給付せねばならなくなった︒ガー
ゲルンの農民追放はランデスヘルの農場で必要な賦役を充すために七三の農民と二七のコザーテンが必要であったた
めとされる︒フックスによればランデスヘルの収入を増大させるために農場においてその周辺に住む農民の賦役を利
用して合理的な農業を行おうとしたのである︒メンヒグートでも農民追放の結果賦役が高められている︒一五四八年
のステッチンの領邦議会では追放された農民保有地および農村に対する課税をめぐってシュテンデの間に争が起って
︵R﹀︶いる︒デミンのクラィスにある一騎士領クムメロウは︑本来一村落として︑しかも自由な農民によって住まわれていた
が︑一四五○年頃フォン・マルッァンはこの村に二一一三フーフェの自己経営を持ち︑農民保有地は四○フーフェ
であった︒一六世紀に入っても直営地の拡大はなお荒廃のままにおかれた農民保有地を併せる程度であったが︑しか
し一︐五七三年になると農民との係争をシュバイヤーの帝国裁判所にまで持込んで︑高い犠牲を払って農民追放を行っ
ている︒一六○○年頃には多くの農民はシュトラールズンドに逃亡し︑自由農民は消え︑残った農民は賦役農民に転
︵q︾︶.
落し︑クムメロウは農民の村からグーッ経営に転化したと述べている︒ニヒトヴァィスもこうした農民追放の事実に立脚してその意味を﹁グーッヘルは自己経営を拡大するために農民か
ら土地を奪い︑そして領主のグーッ領に農民を追放して配置した︒グーッヘルは農民から家と農地を奪い︑建物を取
壊すか或は日傭労働者のための住居に向け︑応々グーッヘルはかっての農民保有地をグーッ経営のための経済目的に
恥
称聯#
F1
233
も利用する︒彼らは農民からさらにホーフヴェールを︑すなわち自営しながら︑賦役義務を負った農民にとって必要
︵︑︶な生ける道具をも死せる道具をも奪いそしてこれを彼らの自己経営の拡大のために用いる﹂と強調しているが︑しか
し直接にその実証を行っているわけではない︒
ルックはこの農民追放を量の面から取扱おうとして二つの表を引用している︒この表は︑ルックの脚註によれば︑
︵皿︶第一表についてはプロポーチュの︑また第二表についてはコツホの個別研究にもとづいている︒しかもここに選ばれ︐︵哩︶たマルヒンとハーゲナウの両クライスは当時のメクレンブルクにおける農業構造にとつて典型的であったとされる︒
第一表については一五九一年の騎士領に関する数字が欠けている︒御料地の数字がこの年では全地域の欄に移されて
いるにすぎない︒マルヒンでは御料地において一五七○年の一五八五の農民保有地が一五九一年には七三二︑ニハ五
六年には一九五と︑それぞれ一五七○年の四六%︑一二%に減少している︒これはたしかにかなりの農民追放の事実
を示しているといえよう︒しかし︑騎士領では一五七○年の八八の農民保有地が逆に四一五にに増大している︒第二
表のハーゲナウでは一五五三年と一六○三年とでは数字が殆んどひらいていない︒それでも御料地で七つの農民保有
地が減少し︑コートザッセンに格下げされ︑騎士領でも農民およびコートザッセンを併せて七七八のうち五六の保有
地が奪われている︒一六五一年までを考えると御料地では全保有地のうち三○三二%が︑騎士領では四○%が︑減少
している︒一六世紀においては農民追放の個々の例はマーゲルが引用したように現われるが︑それでも量の上ではな
お萠芽的な意味しか持ち得なかったであろう︒一般的には一七世紀に入ってからである︒ルックは︑農民追放によっ
て農民保有地が大きな農地評匡侭︒に集められはじめたが︑なお封建領主は生産物地代︑貨幣地代の獲得による剰余
生産物の確保をもって満足し︑それらの地代は漸次増大する労働地代によって駆逐されたのであると立入って推論し
︵蝿︶ている︒一五九○年にルックによればメクレンブルクでは四六三のグーッ経営が存在し︑しかも四六○家族の手中に
︵皿︶あって一四一の貴族の家系によって分割されていたとされる︒
− J 一 一 一 一
234
しかしこうした農民保有地の減少からは領主による農民からの土地収奪だけが現われるとはかぎらない︒第二表に
現われている%フーフェ以上の農民保有地と殖フーフェ以下のコートザッセンの保有地との対比からも明らかにされ
︵垢︶る農民層の分解は︑我国においては︑いわゆる下からの資本主義発展の指標としてもとらえられる︒しかしこの農民
層の分解は︑領主による土地の集積とともに︑農民自身による農民保有地の集積︑拡大を示し︑しかも両者を未分離
のままに示しているのである︒
①たとえばの︑国.雰圖弓.豆・国自の目ぎぎ旨属号尉厚名目侭包胃唐昌胃冨胃旨号昌墜胃g祠3房②gの﹄国号.届雪.︑君︑
三三昌捧風.の昌呂胃尉︒富津.︵函目量目閏言呂堅角野§誘言雷①目の︒富津gと蚤匙.題.二.なお我国においては早くから︑ことに
プロイセンを中心に多くの人々によって戦前までの研究成果が紹介され︑利用されている︒たとえば林健太郎可東ドイツ農業制
度の発展と一九世紀におけるその変化L︵﹁近代ドイツの政治と社会L所収︶︑そのほか宇尾野久司独逸農政史序論L︑戒能通
②富農①H・謡.sl﹈詮.
鋤冨撹閂.いぢ.︵詞固昌盟﹈︑己①具のs①冒昌吾菖の号①厘呈房禦︾冒号﹃己︒写①尋言胃尻目言吾旨房o冨浄岳詮︾謡.$19︶カーテンIはケートナーの保有単位を示す︒なお括弧内に私自身の覚え書のためにマーゲル等々が引用している文献を附与する︒以下同じ︒
例言品閂ゞ鵠.ご9.︵雪.蚕号①写冨①︒産①冒言値︑︒言夛§﹈自号置旨計画音律屋画.岳誤.切易・︶
軸w言色鴨吋ゞいち﹄︵の.F興冒弓再興己蔚固昌雪畠o塵日嗣邑閏弓営●①ユざぽ①目ぐ胃彦墜冒尉の①胸具邑①尉冒︑堅弔o①﹈ぐ○日﹈い言底忌日昼①鼻ず固
く届畠︑旨︾曽言ケぐ①門.由.目g産.の$号.侭.$.毛誤.い$索.︶
ハ切言鴨尉﹀いの岸︵︒.﹈・蜀巨︒富・己胃己具Q損画昌頤包閏国興巨閏昌里閣昌﹄①の巨昌﹄堅關崖混尾弄︒日日①旨号崗の巨厨彦①国砿o毒呉蔚旨︑昌画o彦胃︒ぼく餌房︒号①PI
C5房届閣戸︑z①戸lぐ︒go目巨昌①目巨豆罰侭自屋器.謡.誤l誤︶
か冨侭①H︑︑臼.︵詞隆昌①鼎︑言go信具.己鱒の璽屋①旨閏ご●弄呉昌冒局画具罰侭①目.毛誤.謡.誤l誤︶
i⑧冨臘閂.即雪.︵崖.⑦︑評言室自国.諄昌号①旨①尉容日日①房呂I巨昌罰侭厨房︒言昌嚴冨冒l邑壁●言︑弓色.謡司Sl弓e
⑨旨侭閂.m﹈易.︵言宍の9.9日目閏︒看員昌啓目go届き匙.男畠雷巨言ぎ酸&言晶①国人の昌届昌圏①星①昌巨侭V旨伊
ご目I冒目目①目.野琴墨い輿・︾雪皇鼻の①︒喝.︹蘆.罰︒のざ民ゞ﹈琴.画毛雪.謡.鶴I喝︶
孝︑前掲論文等参照︒、
235
戦後においてこの農民追放を正面から取上げたのはニヒトヴァイスである︒彼は﹁この農民追放が東エルベのドイ
ツ︑グーッヘルシャフトの支配的な地域において資本の本源的蓄積の最も重要な方法であり︑またこの農民追放によっ
て︑東ドイツの農業における資本主義の発展が辿った宿命的なプロシャ型の道のための歴史的諸前提が︑一九世紀
︵勺上︶の農民解放のはるか以前に創出された﹂としている︒なるほどニヒトヴァイスが農民追放を取上げた中心的な時点は
一七世紀以降の︑とくに一八世紀におけるグーッヘルシャフトの解体期にあったのであるが︑しかしそのよりどころ
︵ワ幻︶がマルクスの資本論とこれに対するエンゲルスの脚註にあったことはもちろんである︒しかもここでマルクスは一九
世紀のイギリスにおける所領の清掃Q3冒頤旦厚菌§を直接には問題にしている︒たしかに農民からの土地収奪と
いう意味がエンゲルスによって農民追放に与えられているが︑これだけではマルクスも言うように﹁直接にはただ大
:︵翰凹︶︵44︶土地所有者を創出するにすぎない﹂し︑追放された人々も﹁大量に乞食や盗賊や浮浪民に転化したのであって﹂︑か ⑫圃旨〆切日⑬痔gFm・紹卿FgFm念⑮第二表によ・ 仰室o言重3m届.①博9Fの:臼.臣.︑巴跨冒昌ふ︵雪︒庸盟侭田g冒蔚号︑ぐ①獄昌︒言属眉目①◎医①旨言橘胃言旨国昌①目冒日ぬぐ︒旨溢S辱尉ごg︑旨
R国①風︒富①︽︽夢①吋伊画自身島嚴呂呉屯︑圃臥厨︒言欝鷺門崖閥覺勺・言拝眉巨包閉鈎自身島嚴号騨津﹄温血国竪浅〆︐園①津画◎罫︒︻︒g︑己耐愚匡①目I
冒涜の侭①国旨冨号匡属侭号切目①︒庭①目言晶言意昌雰g冒号房旨旨己自目旨冒日属且罰算①届︒富津ぐ︒目溢認1毛巴八号侭①§房胸自
国①尉凰①﹈号切穴刷①厨①四国農①昌○葛V冒震国①昼︒冨①夢胃隈自身ミ貢の︒冨電.︑国包凋凋.胃.函①津四
例印崗觜﹄○斤.の.︑﹄阜肯巨旨学﹈︑1.
第二表によれば一
二農民追放と本源的蓄積 五五三年において農民保有地五七%に対し︑コートザッセンは四三%を占めている︒
一 一 。 一 一 −
I
236
周知のようにマルクスによれば︑貨幣・商品が︑そして生産手段や生活手段が資本に転化するためには一定の事情
が前提とされている︒すなわち一方には自分の所有する価値額を他人の労働力の購入によって増殖せねばならない貨
幣や生産手段および生活手段の所有者と︑他方には自分の労働力の販売者︑労働することによって労働力を販売する
自由な労働者という二つの非常にちがった種類の商品所有者が対応し︑接触しているという事情である︒言い換えれ
ば︑単なる生産物の商品市場ではなく︑労働力という商品の市場︑いわば労働市場を媒介としてこの二種類の商品所
有者が結びつけられねばならないのである︒とくにこの自由な労働者は︑いうまでもなく︑奴隷や農奴のように彼自身
直接に生産手段に属するのでもないような︑また自営農民の場合のように生産手段が彼らに属してもいないような二
重の意味において︑生産手段から自由であり︑切離され︑妨げられない労働者である︒労働力の販売に際してあらゆる
障碍または制限から自由な︑そして土地および生産手段一般から自由な労働者︑自分の労働力の販売による以外には
生活し得ないフォーゲル・フライな労働者の存在を前提とするのである︒こうした商品市場の分極作用とともに資本
制生産の基本的条件が与えられる︒こうした事情を前提として︑はじめて労働者を彼の労働条件の所有から分離する過
程は本源的蓄積の基礎過程となり︑そのなかでもとくに暴力的な農民からの土地収奪が基礎過程となるのである︒こ
︵︽b︶うした前提を無視して分離過程︑しかも暴力的な分離過程だけを取上げ︑農民追放を問題としてはならない︒イギリス
︵毎J︶において血の立法は追放された人々を共同体の敵壷目三$⑦呂邑舅剛篇として処断しているしや一連の労働者条令に
よって労働者は最高賃銀を抑えられたばかりでなく︑﹁農村の労働者は一年契約で︑都市の労働者は公開市場で雇われね ならずしも資本Ⅱ賃労働関係を生み出すとはかぎらない︒大土地所有者と追放された人々との結びつき方如何によっては農奴制の再編ともなるであろう︒たしかにイギリスにおいても︑農民からの土地収奪は追放された農民を暴力に
︵F⑨︶よって奴隷化しているが︑彼らは血の立法によってはじめて真のプロレタリアートに訓練されるのであり︑この訓練よって奴隷化してい﹀
の仕方が問題である︒
‐ … U 当 ' ' ' 1 1 ' ¥ ' 確 串 I ' 蝉 ' ー '1…
237
︵︒︒︶・ばならない﹂として労働者は商品市場に︑労働市場に現われることを強制されているのである︒追放された人々を共
同体から排除し︑しかも労働市場に結びつける仕方がプロレタリアートへの訓練の仕方であり︑これを国家的暴力が
立法を通して推進するとぎはじめて本源的蓄積になり︑このかぎりにおいて暴力が本源的蓄積の槙粁となるのである︒
なるほど生産者が生産手段に属することからの自由︑いわゆる解放の面はマルクスも﹁この面しかわがブルジョア
︵q︾︶歴史家にとっては実在しない﹂と指摘するが︑それにもかかわらず︑解放なしに本源的蓄積を理解することは出来な
い︒マルクスはこうした意味での本源的蓄積を共同体の解体に︑そして共同体の内部において次第に成長する私的な
︵︑︶所有︑私的な商品生産の発展に結びつけて考えていたといえる︒この点が我国ではとくに大塚︑高橋両氏等々にょっ
︵皿︶て強調されている︒比較的生産力の低い段階にあっては︑封建制のもとにあっても︑直接生産者の再生産は狭い個人
的な生産の枠のなかでは不可能であり︑多かれ少かれ生産手段の共同所有或は共同利用を必要とし︑これを通して生
産者は共同体に組織される︒共同体はこうした意味において生産の体系として考えられる︒個々の農民の商品生産者
への発展はこの共同体によって制約され︑この制約の上に領主による封建的土地所有も存在し得るのであろう︒しか
#しこの社会における生産力の担い手としての農民は小規模な農民経営を基礎に私的所有を発展させ︑次第に商品生産
者に成長し︑共同体の内部において社会的分業をおし進め商品市場をつくり出す︒共同体の構成員であった農民はこ
うなるとなお一方では再生産の基盤をこの共同体におきながらも︑他方では新らしく発生し展開して来た商品市場に
結びつく商品生産に求めるようになり︑この市場における商品交換を通して両極分解をとげる︒共同体内部に発生し
た市場はこの農民層の分解を通して一層発展し︑個々の共同体の枠を越えて共同体を解体させ︑大塚氏のいわゆる局
地的市場圏を形成する︒この農民層の両極分解がマルクスのいう商品市場の分極作用にほかならず︑資本制生産の基
本的条件がここに準備される︒しかもこの共同体の解体庭共同体に︑そしてその制約のもとにある農民経営の上に
立つ封建的土地所有をも下から堀り崩し︑農民は私的所有と市場によってに再生産が可能となり︑共同体の解体にょ
←
一 1 1 1 … ‑̲ ‐
一
238
って共同体に属することから解放されるとともに︑封建的隷属からも事実上解放される︒こうした両極分解は暴力的
な農民からの土地収奪とちがって︑純経済的な農民と生産手段との分離過程ともいえるであろう︒
ニヒトヴァィスは︑イギリスとのちがいに触れて︑東ドイツでは﹁追放され︑所有から切離された農民は︑イギリ
スとはちがってフォーゲルフラィなプロレタリアートとしてグーッ領から駆逐されなかった︒彼らは反対に農奴にと
どまり︑そしてわずかな園地や或は牧草地をともなった小さな小屋のために︑現物或はほんの少額な貨幣での悲惨な
︵⑫︶賃銀をもらって領主のグーッ経営のなかで労働した﹂と述べ︑ここでは農民の生産手段からの分離の面だけが強調さ
れ︑解放の面は取上げられない︒彼によれば一六世紀における穀物輸出と農業生産物の価格騰貴が領主の関心を農
民に向けさせ︑その囲込みによって領主直営地の拡大がはじめられた︒当時なお一般的であった世雲小作厚ご鱒︒宮︑
︵週︶世雲賃貸借厚冨の窟︒宮では農民の保有権が強く︑農民追放にとって買戻し雷要目言晶が問題であった︒しかし
一五六二年および一五七二年の両度の警察令によって︑領主の許可なしに︑まずフーフェの︑すなわち農民保有単位
︵皿︶の分割が禁止され︑次いでこれを抵当に入れ︑譲渡することも制限された︒同じ一五七二年の領邦議会には領主側か
ら︑本来の領主直営地で賃貸借に出している土地を領主自身が直接農業経営を行おうとするとき︑即時かつ無条件で
回収し得るように要求がなされている︒この要求は世雲保有権を持つ農民に対しては認められなかったが︑定期小作
︵妬︶墨冒言の農民に対しては合法とされた︒こうした領主の要求を代表する見解として法律家ョハン・フリードリヒ・
フザーヌスの手稿をニヒトヴァィスは引用するのである︒これによれば﹁当時︑メクレンブルクには農民が世雲賃貸
借から追い払われないような世雲賃貸借は決して存在しなかった︒グーッヘルは何時の時代にも彼の農民を追放し農
民の耕地を領主領に囲込む自由を持っていた︒奴隷制は常に存在し︑奴隷制なしには一般にどんな国家も存在しなか
った︒現代の奴隷制は本質的に農民身分にのみ結びつく︒歴史的にこのことはザクセンによって屈伏させられたスラ
ヴ人のメクレンブルク住民字︒菖詳gが勝者によって農耕奴隷に変らされたことの結果である︒人身への暴力と結び
、
239
つけられた屈従のどんな関係も奴隷制と呼ばれて差支えないならば︑奴隷についてのローマ法の規定︑奴隷からの解
︵妬︶放︑逃亡奴隷の追求はためらうことなしに農民に向けられ得ることになる﹂・こうした見解は当時駁論し得ない権威を
持ち︑具体的には一六一二年二月二三日の書翰となり︑これによって農民は自身の保有権が定期小作でないことを証明
するためには︑長い間の記録文書の提出を必要としたのに対し︑領主は三十年間封土序言儲瞥舜であったという事実
だけで十分であった︒絶えることのない動乱から記録を救い出し得た農民の数はきわめて少く︑したがって事実上殆
︵Ⅳ︶んどの農民は定期小作人に転落させられ︑領主の無制約な追放権が確立したのである︒さらにニヒトヴァイスは三十
年戦争末期に手稿を現わしたダヴィド・メヴィウスの手稿をも引用する︒これによれば農民は一方では法行為能力を
持ち︑財産権を持つ自由人であると認めながら︑地方では農民は賦役を給付するために土地の一部であり︑したがっ
て適法の許可なしに領主の支配を離れてはならず︑また土地なしでは保有の譲渡も不法であるとされ︑農民は自由人
︵焔︶と認められても︑全く事実上の奴隷と何ら変らないこととされた︒ここからニハ五四年のゲジンデ令によっていつさ
︵四︶いの農民はその妻子とともに隷従制と農奴制を生れながらにして伴う農奴と規定されるに至ったというのである︒ニ
ヒトヴァィスは農民追放の性格をこのように領主による無制約な農民追放の確立過程から見ようとするが︑ここでは
農民の再版農奴化︑むしろ奴隷化の過程が明らかにされ︑農民追放の結果農民はなるほど生産手段を失っても︑依然
として農奴として︑また奴隷として生産手段に属することからは解放されないことになる︒
しかし︑このいわば奴隷化の過程はニヒトヴァィスにとっては別の面から本源的蓄積に関係するのである︒彼は農
民追放の原因をとくに西ョIロッパとの穀物商業に強く求め︑これを西ョIロッパにおける本源的蓄積の展開への対
応と考え︑東ドイツにおけるグーッ経営を一八世紀における北アメリカ南部の黒人奴隷制プーフンープーションと対比さ
せ︑資本主義の発展にとって不可欠の条件と考えるのである︒東エルベにおける奴隷化は恐らく本源的蓄積期の植民
地における奴隷化の過程とし︑いわばその主要な暴力的契機であった植民地的収奪とするのであろう︒この穀物商業
−−△−−画一一 〜 寺 一 一 一 一
240
に対する穀物供給地としての東ドイツの歴史は古く︑ハンザ都市がその繁栄の頂点にあった頃︑たとえば一三九二年
には西ヨーロッパ諸国の船三○○隻がダンチヒに向い︑ドイツ騎士団を介してポーランド産穀物を得ている︒しか
し︑一五世紀を通してのドイツ騎士団とポーランドとの抗争はポーランド産穀物の供給を杜絶させ︑それ以来メクレ
︵釦︶ンブルクはプランデンブルクなどとともに穀物の主要な供給地になったとニヒトヴァィー︿はいうのである︒しかもシ
ュトラールズンドの関税簿によればここを通る船の往来は一六世紀初頭よりもその末葉には五七倍に増大し︑その
船の六○%はオランダの旗のもとにあった︒リュベックに代ったアムステルダムは一六一七年にはこの穀物商業のた
︵幻︶めに自分たちの取引所をつくっている︒このオランダこそ西ョ−ロッパにおいては当時本源的蓄積が最も早く展開し
たところである︒このようなオランダの支配する穀物商業に対してメクレンブルクの貴族たちは︑それまで国内におけ
る穀物の買占とオランダ商人に対する販売の独占を認められていた沿岸諸都市と争い︑直接これに参加している︒す
︵理︶でに一五世紀末マグヌス公︵一四七七一五○三︶自身穀物を海路輸出し︑また貴族も一五七二年の領邦議会では穀物
輸出の自由を要求している︒貴族は自ら非合法な快速帆船貿易屋巷嘗呉曾の︒罠雰冒に参加し︑またたとえば騎士ト
ルートマンは︑一五九○年商品化しようとしたホップをロストック市に奪われたとき︑︑他の貴族やランデスヘルの代
︵配︶官皆景雪︒哩目と共同でフェーデをもって争い︑ロストック市の諸村落を奪ってさえいる︒ニヒトヴァィスはヒンッェ
のブランデンブルクについての見解を援用し︑ヒンッェによれば一四八八年の領邦議会において︑農民がその穀物
を販売するためには都市にのみ持ち込まねばならないという都市の強制が廃止されている︒これをもって農民に販売
の自由が認められたわけではなく︑貴族の穀物商業への参加が示され︑︲一六世紀に完成したグーッ経営の兆候と見て
こうした論証によってニヒトヴァイスは先に述べたイギリスとドイツのちがいに次のように附け加える︒﹁イギリ
スの農業は国民経済の他の部門︑工業︑商業︑海運における資本主義の発展と密接な相互関係において発展した︒農 ︵型︶いるのである︒
寺
241
業自身において資本主義の諸関係はたえず一層確実な地歩を占める︒多くの農業労働者を搾取する資本家的小作人は
都市におけるマニュファクチュァ企業家に対応する︒さらに新しいマニュファクチュアが部分的に農村に移動するの
は︑ここではその発展が都市のツンフト制限によって妨げられないからである︒東ドイツにおいては︑これに反して
資本主義の諸関係が形成されていた西ヨーロッパ諸地方の穀物需要が︑価格革命と結びついて多くの労働力を要求す
る隷属的な賦役労働に基礎をおく農業の大生産をおし進めていた︒この発展は都市における資本主義的マニュファク
チュアの発展に対応して平行に進むのではなく︑それを妨げ︑またツンフト制限から自由な農村にマニュファクチュ
ァを移すことに対しては農奴制が妨げたのである︒そして東ドイツにおける都市ブルジョアジーの弱さが︑一方で都市
における自由な労働力の成長をかえって妨げたとともに︑他方でグーッヘルが︑農村において農民を再版農奴制にし
︵弱︶ばりつけることを容易にさせた﹂という︒﹁西ヨーロッ・ハにおいて発展した資本主義に対する東ドイツ貴族の順応は
農民搾取の巨大な高まりを︑その完全な権利の剥奪を︑その騎士領への緊縛を︑グーッヘルシャフトの地域において
︵妬︶再版農奴制となった特殊な形態を伴ったのである﹂と述べる︒このようなニヒトヴァイスの考え方はこれだけでは封
建反動の意味をグーッヘルシャフトの形成に認めることと本質的には変らない︒しかし︑ここにおいて一八世紀にお
けるアメリカの黒人奴隷制を引合に出すとき︑この再版農奴制への過程は本源的蓄積の暴力的契機としての植民地的
収奪と結びつく︒﹁その生産がなお奴隷労働︑賦役労働等々の低い形態において行われているような国々では︑しか
し︑その生産物を外国に販売することが重要な関心に発展している資本主義的生産方法によって支配されている世界
市場に引入れられるや否や︑奴隷制や農奴制の野蛮な残虐に超過労働の文明化された残虐が接穂される﹂とマルクスを
︵︶引用し︑東ドイツにおけるグーッ経営ももはや単なる封建的賦役経済の復活ではなく︑丁度アメリカ南部の棉花がイギ
リス資本主義の条件であったように︑東ドイツの穀物も西ヨーロッパにおける資本主義的工業の発展にとって条件で
︵咽︶あったとする・穀物を大量に輸出するために生産したグーッヘルにとってはもはや自己消費が問題ではなく︑貨幣そ
' 一 一一 一 ‑一 一 一一− 一 一− 一 一 一 ‑ ‐ 一 一 一 − − − ‑一 一 一ー − 一 一 一 一−
242
なるほどニヒトヴァイスがいうようにグーッ経営はとくにオランダを中心とする西ヨーロッパにおける資本主義の
展開に︑穀物商業を通して対応するものであり︑そしてこれに植民地的収奪が伴ったとしても︑それは西ヨーロッパ
にとってそうであるとしても︑こうした対応が東エルベ自体における本源的蓄積の歴史的前提を創出するとはかぎら
ない︒穀物商業の歴史は古く︑この性格は資本主義以前における商業︑いわゆる遠隔地商業或は共同体間の商業とし
て︑むしろ東エルベにとっては資本主義の成立︑発展に大塚氏のように︑阻止的に作用するともいえる︒穀物商業へ
︵証︶の対応はかってのドイツ騎士団のように領主の穀物の仲介商業への参加だけでとどまることもあろう︒
ルックはニヒトヴァイスの穀物商業を重視する見解に対しては批判的であり︑いわゆる一四︑五世紀の封建的危機
︵犯︶の時代における農民の商品生産者への向上を認める︒最近のソヴェトにおける封建社会の経済的基本法則をめぐる論
︵銅︶争を足掛りにして封建社会における生産力と生産関係に目を向け︑その経済的基礎として封建的農民の小規模農民経
営を取上げる・一四︑五世紀のドイツにおいてもイギリス︑フランスと同じように農民層は商品生産者へ向上し︑一
六世紀初頭における初期ブルジョア革命を認める︒ここに封建的生産方法の一般的発展傾向を認めるが︑しかしソ連
のメイマン︑スカースキンが﹁封建制の主傾向として小生産の発展を見︑また封建的隷農の農民経営による賦役経営
︵弘︶体制の駆逐と見る﹂見解に対しては﹁封建的土地所有から生じた領主制および隷従関係が封建的隷農の生産活動に反
︵調︶作用することを十分見ていない﹂としてこの反作用の過少評価をルックは強調する︒なるほど西ョ−ロッパにおける .︵調︶して貨幣こそが問題であった︒このためにグーッヘルは自身の直営地を農民保有地の犠牲において拡大し︑農民の一部を追放し︑拡大されたグーッ経営を残っている農民の︑また新らしい農奴的な日傭労働者の労働給付を強化することによって維持したのである︒ここから一六世紀を通じての︑賦役の一般的強化が明らかにされるとし︑農奴制が賦
︵鋤︶役をもたらしたのではなく︑賦役が農奴制をつくり出すのであると考える︒ここにプロシャ型の道の歴史的前提を見
ている︒
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247
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㈱雲︒宮三①雷.切望.Q①言冒昌厚苛身ざぽ困巨閻目臣⑩ゞ厚胃冨の号ご目亘言︑胃名目の﹄冒管︒g旨くg①国の各鈎日宮島①冒画①の胃三三︑
岩国①愚言画昌員.忌宕.冨伽.︑喝鹿︶なおフザーヌスはロストックの教授であり彼の父ハィンリヒ・フザーヌスは宰相であっ
た︒宴︒宮署①關.︑ヨシ日目.煙
伽罰①ぐ①月邑①旨ぐ︒目鵠.雰胃巨胃孟巴.雲︒言語の.︑$.︵専吾①局.画.画.C︑邑竪︑崖・︶なおニヒトヴァィスが引用している書翰の
十六章をルックも︑マーゲルも引用している︒F9F︑ぶふ冨侭胃ゞ切当.
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国輿切誤寵︶い伊ロ呉切念.なおこうしたいわば奴隷化の過程は従来の問題からすればローマ法の継受の問題として取上げ ︑.﹃︶
︵の.ご品具壹豆①国脚愚冒言津①旨冒顕旨冨雷匡目言侭.岳誤.︑届︶姉FgFm宝
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248
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鯛夙砦言︸・国.詔.のちl誤口
鋤室︒宮急の宮︾︑.紹頭.レーーラ﹁ロシアにおける資本主義の発展﹂大月書店版全集第三巻︑﹁一九世紀末のロシアにおける農業
問題L全集第三一巻○レーーラの賦役経済の基本的諸特徴については全集第三巻一八○頁以下︑なおルックもこの規定を再版農
奴制に対比させている︒F屋号.︑虐崖.
側室︒宮君●①雷︾切誤.︵題.国琴旨巨︑駒.四.p.m.金司罷︶
鋤 鯛 剛 鯛 鯛 剛 綱 鰯 倒 剛 鋤 鯛 伽 鯛 倒 幽
鰯雲o冨冒雷・の︑鱈.︵︻︻︒g旨億寓目.︑圃員の①︑︒富︒巨蓉①号尉目①︒匡曾言晶冒言旨屋ざ嘗鍾g・︾国画冒器呂①の①留匡o冨①匡貰胃.蒜.
壗誤.︑ごP屋.m溢鱒弱望呂旨豊昌園目自国l︾ぐ閂葛匙冨邑・鴨と露爵号呉蔚1回旨包串苛嗅①冒鴨官唇涛号尉目①︒匡の弓自噴の︒言回国①冒涜①
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たとえば大塚久雄可封建制から資本制への移行L土地制度史三︒なおこうした共同体間の商業は︑とくに進んだ地方︑共同体とおくれたそれとの商業という点から見る問題が重要であろう︒
z甘言君g閉管︑画﹃
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肉閏凰冨︸・国 Fpo丙雪い﹄①
木原正雄編司封建社会の基本法則し参照︒
﹁.︵言.二言①旨﹄目・の︑ロ︑富農旨︾園昌か丙目.●日一mg①唇の国曽侭①皿①薗号崗嚴目合一①旨の①の@房g呉一鴎月日塁○国.冒壷︒皇①7
⑦①︑①房呂島2房の①旨の︒言宣旨冨固援宮①旨品.罰異国.ご認・︶山岡︑木原編︑前掲書一三三頁以下︒
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尻名言﹈︑胃.︑m・の心Clの︑︒
249
穀物商業と結びついた封建的土地所有による封建反動は︑たしかに農民経営を破滅させ︑賦役農に︑或は農奴的
日傭労働者に転落させたのであるが︑しかし問題はその過程にある︒大塚氏や高橋氏が言うように︑共同体それ自体
は農民にとって︑生活を維持するための生産の体系であろうし︑また領主にとっては剰余労働としての封建地代を再
生産するための体系であろう︒そのかぎりにおいて領主の封建的収奪は︑共同体を通して直接農民の生存を脅かし︑
たとえ農民の賦役によって領主自身自己経営を営むにしても︑領主ば農民に対して共同体を媒介としての全くの寄生
⑲ ㈹ 御 仙 ㈱ ⑬ ⑫ ) ⑪
星呂冒①關.︑.駅.この点は一八世紀に入って一層はっきり現われる︒星︒宮君農︾の.﹈喝寵
z﹄o宮君.①爵︾・の.︒.︵暑頤一.園.国の詞屍旨餌でも︑己﹄①門働旨竪興号①芦舜胃冒︼介昌①︒宮の︒彦禺詩口唇回国3琴①罫.届@﹈の.α画一の︑の昌冒ずの侭︺ご﹄の
国四目因冒ご竪尉①旨昌頤巨昌邑島①諺信壷雰冒旨頤包$頭目爾彦Q胃言ぽょ冒画藍呂①旨壽肖謹言房県涜営団号目g︾冨鮮言①昌巨目色浄匡︽酉①旨西国号.勗濃.国旦
胃の.雪.︽望.評尉冒頤﹀国吾Hg言目冒包鈩覗罵肖号①三岳の呂旨明言評匡8君侭i因︒童⑦旨閣員顕①︑︒匡呂監呂①目の目目色鵠①︑周画冒包三風︒農具鐸ぎぎ冒
苛言︾.田口.〆汽〆ご目.因甸唱目自国頤号色目色三毛易.の.画︑釦の崔屋巨昌︑己①尉国昌壷目の皿包閏罰①県山石舜︾o冒号⑪&目︺ぬ号①旨閃き宮の画具号眉
号具の︒言昌国画屋⑳冒里画目色.﹈呂昏.閉.z閏吾昌鈎蓉丙◎自白員①目目色の意禺璽弄.自国●侭①︑瞳国﹄.毛屋.︑.割忠寵︶
望︒宮君①財.m・雪.なお林氏は一八世紀前半以期のグーッヘルを一応︑商業資本家と規定している︒前掲論文︒
たとえどオーストア・スラヴ釧汚についてではあるが︑拙稿﹁オーストリア絶対王政の農業改革L︵歴研一四四号︶︒
たとえば林︑前掲論文︒
一たとえば高橋幸八郎﹁市民革命の構造L︑大塚久雄う欧州経済史L等参照︒なお藤瀬氏︑前掲論文︵歴研一二一号︶はこうし
た立場をはっきりと示している︒ たとえば林︑
zざ宮署四$︑の
︒ zざぽゴミ①瀞少︑四心zぎぎ署凰閉.の.の︑三封建反動の過程 m胃
ヂ r − ﹁I
250
者として現われる︒共同体が抵抗の組織として現われるにしても︑また支配の体制として現われるにしても領主と農
民との間の封建地代をめぐる階級対立はつねにこの共同体を媒介とし︑大塚氏においてはとくに︑領主は共同体の構
成員のなかから原則的に排除される︒したがって共同体の解体を問題とするときにも︑構成員である農民相互の問題
として取上げられ︑領主の共同体に対する関係は︑つねに農民に対する封建的収奪者として考えられ︑共同体の解体
につれて︑その内部に成立する市場に対しても︑その発展を阻止する封建反動として理解される︒
しかし︑なるほど共同体に︑また共同体によって制約されている農民に対しては領主は︑その封建的収奪者ではあっ
ても︑解体につれて成立した市場に対しては︑領主は地代として取得した貨幣︾生産物の私的な所有者として現わ
れる︒領主はこの市場において生産物を商品化する販売者として︑或は商品化した生産物の購入者として現われ︑一
方では市場を通して共同体内部の社会的分業を促進するとともに︑他方ではことに地代として蓄積した貨幣或は︑生
産物をいわばフォンドとして商業活動を行い︑さらには投機等々を通して市場を支配するに至るであろう︒領主は︑
この市場において商品生産者としての農民︑とくに商人としての性格をより強く持つ冨農の経済的な競争者でもあっ
た︒領主はこの市場を支配することによってその自由な発展を停滞させることにはなっても︑単なる封建的収奪者で
はなく︑市場の存在を前提とする経済的な市場の支配者︑独占者でもあろう︒メクレンブルクにおいても一四世紀から
︵毛L︶一五世紀にかけて地代形態は生産物地代はあっても一般に貨幣地代に転化したとされる︒一六世紀に入っても︑たと
えば︑一五三一年頃トーマス・カンッオウの年代紀によれば︑リューゲン島の農民は殆んど全く賦役を行わず︑貨幣
.︵ク﹈︶・を納め︑自由を享受し︑なかには貴族よりも冨裕であり︑貴族から娘を貰うものさえあった︒一五四三四四年のエ
︵回り︶◆ルデナ管理区の計算書によれば本来の賃租は貨幣賃貸借牙鹿l野︒宮であったとされる︒こうした農民に対する貨幣
地代は周知のように封建的危機の段階において一般的に低水準に固定化する傾向を持っている︒これは農民経営の発
展に有利な条件を与えるとともに︑領主財産にとっては危機として現われる︒この共同体内部の市場における領主雀
251
農民との階級対立は︑こうした傾向を持った貨幣地代をめぐって激化するといえよう・オーストリアにおける封建反動
︵〃詮︶を分析したソ連のサモフィーナ女史は︑封建反動の出発点をこの貨幣地代の固定化の傾向を領主が打破するところに
︵FD︶求めている︒先にも述べたようにルックが農民追放の事実を示すためにかかげた第二表によれば︑ハーゲナゥのクラ
イスでは一五五三年において鶏フーフェ以上の農民保有地は全保有地の五七%︑弦フーフェ以下のコートザッセンは
四三%を占めている︒この比率はマーゲルも認めているが︑他の地域に比べてコートザッセンの占める比率は一番高
い︒一五六○年のシュヴェリン管理区では農民が七六%に対してコートザッセンはわずか唾一四%にすぎない︒ブコ
フ管理区の村々では平均七人の農民に対して二人のコートザッセンで後者は三○三五%となり︑この比率は一七世
︵︽b︶紀初頭のシユタールガルド管理区でも︑またダルグン管理区でも同じである︒しかし︑この比率は一五七五年のガーゲ
ルンにおいてランデスヘルが賦役による大農場経営のために必要とした両者の比率︑七三対二七よりも梢々後者が多
い程度である︒この分解の比率は大塚氏や高橋氏のいう農民相互間の両極分解をも︑きわめて停滞的であるが︑示す
︵J︶︒・とともに︑領主のグーッ経営のために必要な農民構成にも近いのである︒しかし︑こうした分解は農民保有地の保有
移転を前提としよう︒マーゲルによれば︑領主に農民が地代を支払えなくなると︑領主は上級所有者として地代取得
権の侵害として農民から優先的にその保有地を回収することが出来る︒この権利については農民保有権の強弱はそれ
ほどの差異を持たないと思われるが︑農民はこれを防ぐために︑その保有を自由意志で息子︑親族さらには共同体の
成員である隣人客︒客胃に対して︑しかも地代を支払う能力ある者に移転し︑相続させるのである︒こうした仕方で
の保有移転が三十年戦争以前において全移転総数の三五%を占めている︒さらにラーッエブルクの例によれば︑一五
四○年からニハ一九年までにおいて全移転総数の三○・四%が結婚にょ喝移転であった︒もし︑この例がメクレンブ
ルク全体において妥当するとするならば︑いわゆる土地の売買はおよそ全保有移転数の三○%ほどしか占めないこと
になろう︒それにもかかわらず︑シュタールガルド管理区では一四九六年からニハニ四年まで一四八の農民保有地が
−−
252
移転しているが︑それは全農民保有の八二・四%に当り︑しかも一四九六年に保有していた農家がニハー西年にも保
︵︽⑥︶有している土地は全くなくなったとされる︒領主による地代取得のための圧力さえも︑かえって農民の保有移転を増
大させ︑その結果は一方に土地を喪失した農民をつくり出すとともに他方には冨裕な農民が保有地をますます集めた
ことを推測出来よう︒領主の圧迫はこうした分解を通して農民が商品生産者へ転化することを必しも阻止することに
はならない︒サモフィーナはオーストリアにおける封建反動の重要な手段とてフラしイゲルトの増徴をあげているが︑
このフライゲルトは主として領主の交替に際して課せられる貨幣地代であり︑本質的には領主の交替によるばかりで
︵q︾︶.なく︑農民保有者の交替にも課せられる保有移転税にほかならない・たしかにルックは︑単に地代形態の問題でなく︑
︵︑︶地代の高さが問題であるとしている︒たとえばブコフにおいてはニハ世紀初頭までは比較的少く︑平均ニハグルデン
︵︑︶或は︑収獲の二・一五%と計算され︑その巾は収獲の五・一一八︒五%とされている︒ダルグン修道院でも平均一
︵咽︶八・一%︑八・四三○%といわれる︒しかし︑こうした基本的地代︑生産物或は貨幣地代は決して一本化されて︑その
れたのではなく︑たとえばレートヴィシュの農民が領主たるドーベラン修道院とランデスヘルに対して一二種に亘る
︵過︶増徴という形で強化さ貢租を納めていたといわれるように︑むしろ新らしい租税︑賦役をも含む地代の新設という形で
強化されたのである︒その中心の一つが︑メクレンブルクにおいても保有移転に対する課税であった︒マーゲルによれ
.︵皿︶ば︑土地の売買価格は隣人によってきめられたとされるが︑ルックによれば地代の高さによってきまり︑およそ一○%
に資本化されるのが一六世紀以前において一般的であった︒しかし︑一六世紀に入ると貨幣地代の資本化に賦役が評
価されたばかりでなく︑当時一般の利子率が六%だったに対して土地の売買に際しては︑わずか一・五二%に計算さ
︵巧︶︵妬︶
れている︒しかもこうした高率の売買価格に対する課税は相続などの場合も同率であった︒このような形で増加され
た保有移転税は保有移転による農民層の分解︑したがって共同体の解体と市場の存在を前提しながら︑しかも増大し
た地代部分の蓄積によって領主の経済的な市場支配を一層強化することになろう︒これによって領主は一般化した貨
253
幣地代を生産物地代に逆転させ︑また農村における穀物を買占め︑穀物商業にも参加することが出来たといえよう︒
マーゲルは一六世紀における農民追放の前提条件の一つとして︑新らしい租税体系としてのコントゥリブチオン制
を導入した一五五五年における税制改革をあげている︒すなわち従来貴族領主は本来の自分の直領地に対してランデ
スヘルに対する免税特権を持っていた︒ランデスヘルが租税を課し得るのは農民保有地にかぎられていた︒農民追放
によって領主が取得した農民保有地にも︑ランデスヘルによる租税は課せられ︑したがって農民保有地の取得には領
主によるこの租税負担が伴っていたのである︒しかし︑この税制改革の結果︑コントゥリブチオンと呼ばれる租税は
農民保有地ばかりでなく︑領主の直営地にも課せられたので︑農民追放が領主によって容易に行われるようになった
とされる︒もっともこのようにして領主直営地にも課税されるようになったが︑しかしこのコントゥリブチオンを含
めていっさいのランデスヘルの租税体系は領邦議会における貴族領主の租税同意権を通して貴族領主の手に握られて
︵画〆︶いるのである︒領主の完全な支配下にあるコントゥリブチオンは保有移転税を中心に新らしい租税或は封建地代の新
設による地代強化の確立を意味するといえようし︑また共同体の解体に伴って生じた市場の︑領主による支配を基礎
にした租税体系の確立であった︒こうした市場の支配を通しての封建反動という過程については︑ニヒトヴァィスも
ルックも論理的に飛ばし︑領主の商人としての性格について殆んど触れず︑ただ領主による商品生産だけを問題にす
るにすぎない︒一六世紀に至るまで農村における生産物の買占権の独占を認められていた沿岸諸都市に対する領主の
︑︑たたかいは︑実は農村における買占商人としての領主の要求であった︒こうした要求は領邦議会の議事のなかに現わ
れるので︑貴族領主だけの要求としてのみ現われるが︑その背後には穀物生産者であり︑しかもその販売者でもあっ
た多数の農民の支持を考えねばならないであろう︒ヒンッエがプランデンブルクにおいて認めた穀物販売の自由の要
求は︑なるほど領主によるグーッ経営の前兆ではあっても︑農民自身の要求でもあったといえよう︒ただ農民は領邦
議会において自身の要求として打出すことは出来なかつたのである︒貴族領主の都市に対するたたかいは︑東ドイツ