公立学校教員と全体の奉仕者 : 国旗国歌訴訟にお ける全体の奉仕者の機能と新たな解釈の可能性
著者 安原 陽平
雑誌名 聖学院大学総合研究所紀要
号 No.55
ページ 441‑472
発行年 2013‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1477/00001419/
Title
公立学校教員と全体の奉仕者 : 国旗国歌訴訟における全体の奉仕者の機 能と新たな解釈の可能性Author(s)
安原, 陽平Citation
聖学院大学総合研究所紀要, No.55, 2013.3 : 441-472URL
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公立学校教員と全体の奉仕者
︱︱国旗国歌訴訟における全体の奉仕者の機能と新たな解釈の可能性︱︱
安 原 陽 平
第一章 問題の所在
東京を中心とした一連の国旗国歌訴訟は︑現在でも継続中の事件はあるものの︑二〇一二年初頭にひとつの段階を終えた
る懲戒処分と裁量権︑国歌斉唱義務の不存在確認に関して︑最高裁は判断を下した ︒二〇一一年初夏から二〇一二年初頭にかけて︑憲法一九条の思想・良心の自由と職務命令︑職務命令違反に対す 1
憲法一九条の思想・良心の自由と職務命令については︑二〇〇七年のピアノ伴奏拒否事件最高裁判決 ︒ 2
要性・合理性を認める判断が出されていた で職務命令の必 3
であるなら職務命令はその自由を制約するのかということが判然としないままであった た︒つまり︑内心に反する外部的行為の強制の拒否は︑思想良心の自由の保護範囲に含まれるのかどうか︑含まれるの ︒しかし︑この判決は︑憲法一九条に関する解釈の余地を残すものであっ 4
二〇一一年五月三〇日以降の一連の最高裁各小法廷の多数意見 ︒ 5
の存在とそれを踏まえた判断枠組を認め︑上の論点に一応の決着をつけたといえる ではこの点につき︑新たな判断を行い︑﹁間接的制約﹂ 6
︒しかし︑職務命令に︑間接的制約 7
を許容する必要性・合理性があるかどうかについては︑ピアノ伴奏拒否事件最高裁判決をほぼ踏襲して︑その必要性・合理性を認めている︒その後︑職務命令の憲法適合性・適法性を認めながらも︑違反に対して懲戒処分を科すことが裁量権の範囲内にあるのかどうかが最高裁で問われた︒この点につき最高裁は︑﹁戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては︑本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要﹂で︑﹁学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情が認められる場合であることを要する﹂という判断枠組みを提示している
分を超える減給以上の処分については裁量権の逸脱を認めてい ︒この判断枠組みにおいて戒告処分は適法であると判断されたが︑戒告処 8
る 9
いては︑訴えを却下した原審の判決を是認している のの︑職務命令に基づく上記義務の不存在の確認と職務命令に従わないことを理由とする懲戒処分の差し止め確認につ また国歌斉唱義務の不存在確認について︑最高裁は本件確認の訴えが公法上の当事者訴訟として適法であるとしたも ︒ 10
じてこなかった可能性がある 教師はいかなる存在であるか︑そして教師は対教育行政などとの関係でどのような地位にあるのかについて十分には論 う︒ただ︑これまでの学説・判例は︑教師の憲法上の権利の保障範囲や教師に対する処分の適否を主に議論しており︑ これらの判断は︑これまでの憲法学︑行政法学︑教育法学による議論の蓄積によって得られた到達点といえるだろ ︒ 11
えで︑教師は﹁住民全体の奉仕者として法令等及び上司の職務上の命令に従って職務を遂行すべきこととされる地方公 状と伝統についての正しい理解と国際協調の精神の涵養﹂︑学習指導要領に定められた国旗国歌条項などを確認したう たとえば︑起立斉唱行為を命じる職務命令の必要性・合理性判断に関して最高裁は︑学校教育法における﹁国家の現 ないため︑教師の権利︵権限︶や義務を考えるうえでは避けて通れない論点と思われる︒ ︒しかし︑この点が最高裁の推論などにおいて︑決定的な要素となっている場合が少なく 12
務員の地位の性質及びその職務の公共性︵憲法一五条二項︑地方公務員法三〇条︑三二条︶に鑑み︑公立高等学校の教諭である上告人は︑法令等及び職務上の命令に従わなければならない立場
見解と教師の見解を調整するという補完の可能性などを検討する︒ うという方向性を成立させている枠組みの構造を批判的に分析し︑この構造の必然性を検証する︒そして法令・上司の そこで本稿では︑全体の奉仕者概念に関して検討を行う︒これまでの全体の奉仕者理解である法令・上司に教師は従 の妥当性を再検討する必要がある︒ 解や態度の採り方がある対象である場合︑一つの対象の捉え方を命令を通して教師に体現させかつそれを徹底すること いのであろうか︒さらに︑その対象がコンセンサスの得られる知識︵例えば一+一=二など︶ではなく︑さまざまな理 導要領を前にした時︑その一つの解釈である都教委の通達やそれを踏まえた校長の職務命令に必ず服さなければならな たしかに教師も地方公務員である以上︑法令や上司の命令に従わなければならない場面もあるだろう︒ただ︑学習指 概念である︒ る︒そしてこの理解を導き出しているのが︑憲法一五条二項︑あるいは地方公務員法三〇条の﹁全体の奉仕者﹂という 最高裁は︑教師は﹁法令等及び職務上の命令に従わなければならない立場﹂にあるという教師の地位理解をしてい ﹂にあると述べる︒ 13
第二章 自由アプローチ
第一節 自由アプローチの前提
本章では︑自由アプローチについて整理検討を行う︒自由アプローチとは︑憲法上保障される自由と職務命令や通達などを対置し︑問題となっている行為を当該自由によって保障することを目指すアプローチである︒このアプローチを対象とすることで︑一連の国旗国歌訴訟における通達や職務命令は誰のどの自由に対する侵害であるのかということを︑各論者がいかに把握しているのかが明らかとなる︒そして︑同時に各アプローチで残された課題も明らかになるものと思われる︒各論者の自由アプローチの構造を検討するうえで出発点となるのが︑各論者および最高裁は︑教師の憲法上の権利を考えるうえで︑児童・生徒の権利や自由を教師の自由保障のための推論の構造に組み込んでいるかどうかという点である︒ここでは推論に入れているものを児童・生徒一体型推論と呼び︑そうでないものを児童・生徒分離型推論と呼ぶこととする︒
︵
での国歌斉唱の挙行は︑その﹃強制﹄の直接のターゲットを︑生徒ではなく教師に据えている︒この点を︑憲法学は 児童・生徒分離型推論として︑佐々木弘道の見解を挙げることができる︒佐々木の見解では︑たとえば︑﹁学校儀式 1︶児童・生徒分離型推論
もっと強く意識すべきである︒一方で︑﹃教師が国旗・国歌の指導に反対するのは︑多くの場合︑自分一人の良心の自由がかかわるからではない︒子どもたちの基本的人権が侵されるからである﹄と言われる︒だが本稿の考えからすれば︑教師はまず︑足元の﹃自分一人の良心の自由﹄を守ることにこそ︑意を用いるべきである︒その点を疎かにして︑﹃子どもの人権を保護する教師の義務﹄といった︑些か英雄的響きを持つ旗印に拠るのは︑どこか転倒していると感じられる 徒に対して︑儀式などの肯定的雰囲気を利用して︑一定の解答を刷り込むことが許されるのか 判断している︒この点では︑この枠組みは有効な枠組みであることは間違いない︒しかし︑この訴訟では︑﹁未熟な生 となっている︒また二〇〇七年以降の最高裁︵後述︶も職務命令対思想・良心の自由という枠組みに﹁純化﹂した形で 訟は︑対教師への職務命令が問題となっており︑その点では教師の良心の自由をいかにして保障するかが中心的な課題 い︒教師個人の良心の自由の保障が第一の問題で︑児童・生徒の良心の問題は後方に退いている︒たしかに︑一連の訴 この見解では︑教師の思想・良心の自由主張において︑児童・生徒の権利・自由を踏まえることは前提とされていな ﹂とある︒ 14
問題であると多くの論者が把握している ﹂ということが本質的な 15
構成は︑仮に教師を救済できたとしても児童・生徒の良心の自由の問題は別途残るし ︒このことから児童・生徒を教師の自由主張において推論に組み込まない理論 16
ないか︒ 的かという点に疑いが残る︒ゆえに教師の思想・良心の自由を保障する推論の中に積極的に組み込む必要があるのでは ての問題であることを棚上げするのは︑ほとんど常に児童・生徒との関係が想起される教育現場においてどこまで現実 ︑また教育問題あるいは教師とし 17
︵
児童・生徒一体型推論には大きく分けて二つの見解がある︒代表的な論者として︑西原博史と市川須美子の見解を挙 2︶児童・生徒一体型推論
げることができる︒両見解は︑児童・生徒の権利・自由を教師の自由保障の推論の中に組み入れるという点では共通するが︑教師と児童・生徒の関係が対立する場面もあることを意識するのかどうか︑またその関係の中でどのように権利主張を行っていくのか︑そしてどのように子ども把握しているかなどの差異がある︒この点を中心に両見解を検討したい︒まず西原の見解を検討する︒西原の見解における教師の自由と児童・生徒の権利・自由の関係を表すものとして︑﹁教師は子どもの思想・良心の自由にとって最大の敵であり得るし︑子どもの思想・良心の自由を守る唯一の味方でもあり得る︒従って︑教師の教育の自由は︑子どもの思想・良心の自由にとって最大の対立物でもあり得るし︑実効的な補助手段でもあり得る
より︑第一義的には子どもの良心の自由に関わる﹂という理解を確認することができる の問題へと昇華していく﹂︒そして︑﹁国旗・国歌強制の問題は︑思いどおりのふるまいをする教師の権利の対象という という枠組から︑次第に︑子どもの権利に対する侵害状況を踏まえて︑教師として権利侵害に手を貸すことを拒む権利 あり︑憲法一九条の意義が争点となる︒ただ︑思想・良心の自由に関する論点は︑教師が自らの権利を単純に主張する たとえば︑﹁君が代﹂不起立処分取消などの裁判を念頭に﹁この裁判の特色は︑﹃君が代﹄強制を憲法に直接問う点に れる︒ 想定されていない︒そのため︑子どもの権利や自由と緊張関係に立つことを踏まえたうえでの教師の権利主張が模索さ ﹂という考えがある︒ここではストレートに子どもの権利や自由を守るあるいは実現する教師は 18
どもの例 そしてこの見解では︑たとえば︑教師のほとんどが国歌斉唱時に起立しない中で自身の良心に従い国歌を斉唱した子 とした教師のあり方が示されており︑児童・生徒一体型推論をみてとることができるだろう︒ ︒ここには︑児童・生徒を中心 19
は︑個別具体的である を用いることからも推察できるように︑自律した子どもであることが前提とされている︒そしてこの子ども像 20
︒この子ども像を前提として︑児童・生徒の権利の保障を目的とした教師の良心の自由保障とい 21