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北宋時代における宦官世族

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清泉女子大学人文科学研究所紀要 第38号 2017年3月

北宋時代における宦官世族

   ︱ 開封李氏の例を中心に ︱

藤  本    猛

要旨  宦官とは︑去勢された男性のことを指す︒ユーラシア大陸に広範に見られるこの風習は︑中国において

は紀元前の古代から存在し︑彼らは特に禁中にて皇帝の身辺に奉仕し︑一種の奴隷でもあり︑また官僚でもある存在であった︒そして最高権力者たる皇帝との距離の近さから︑しばしば政治に介入し︑専横な振る舞いが

見られ︑その特異な身体的特徴もあって︑非常に負のイメージの強い存在である︒

  そんな宦官に関する北宋時代の史料を見ていると︑宦官の﹁子﹂や﹁妻﹂という表現をよく目にする︒言うまでも無く宦官には生殖機能がなく︑子ができるはずがない︒このことにつき改めて諸史料を調査し︑検討を

加えたところ︑北宋初期に命令が出され︑

30歳以上の宦官には養子一人を取ることが認められていることが判

明した︒これによって基本的に北宋時代の宦官には︑養子によって家が継がれ︑その養子の多くがまた宦官となって次代の皇帝に仕える︑というシステムになっており︑結果としていくつかの宦官の家柄が成立していたこと

が推測される︒また彼らのなかには複数の養子を兄弟として育てたり︑皇帝の声がかりなどで妻を娶り︑宮中

とは別の場所に邸宅を構えるものも存在し︑宦官でありながら一般官僚と変わらぬ家族生活を営むこともできていたことがわかった︒

  北宋時代の後宮が︑基本的には限られた宦官一族によって支えられていたことが分かったが︑その実態につ

いては史料が限られているために全面的に解明することは不可能である︒しかし零細な史料をつなぎ合わせる

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と︑歴代皇帝の後宮に仕えたいくつかの宦官一族の存在が見つかった︒その一つが李神福にはじまる一族であった︒六代十二人の存在が確認できるこの一族は︑初代から第六代までの歴代皇帝に仕え︑特に李神福は太宗・

真宗皇帝に

50年以上も仕え︑穏和な性格で知られた︒その曽孫である李舜挙は軍事面で神宗皇帝に仕えて戦死

したが︑その散り際の潔さ︑忠誠心の厚さによって︑司馬光・蘇軾ら当時の士大夫から賞賛された人物だった︒

  以上判明した北宋時代における宦官の実態は︑これまで抱かれてきた宦官の負のイメージとはいささか異な

るものであったといえるだろう︒

キーワード北宋︑宦官︑養子

  はじめに

 

  宦官︵内侍︶とは︑人工的に去勢された男性のことを指す︒中国では古代から存在しており︑その多くは宮廷の

禁中︑いわゆる後宮において君主ならびに妃嬪らの側に使える存在であった︒この意味において彼らは君主一家に

奉仕する奴隷でもあり︑官僚の一種ともなっていた

1

  そのような後宮での職務に彼らが最適だと考えられてきた理由は︑もちろん生殖機能を失っていたことにあった

ことは言うまでも無いが︑宋代の宦官らについて実際に史料を見てみると不思議な表現に気がつく︒﹃宋史﹄巻

四六六・宦者列伝に載る竇神宝の伝には︑彼の死後︑﹁その子・守志を取り立てて入内供奉官とする︒﹂と記される

し︑同巻の李神福の伝では︑﹁子は懐斌・懐贇︒﹂とある︒つまり宦官であるはずの彼らに子が存在しているのであ

る︒生殖機能が無いはずの彼らに︑なぜ子が存在しているのであろうか︒さらに注目すべきなのは  先に挙げた例

にある宦官の子ら自身も宦官であったということ︒実際︑神宗朝の李舜挙という宦官は︑﹁代々宦官の一族であり︑

曽祖父の神福は︑太宗にお仕えしてずっと信謹であった︒﹂と表現され︑宋代には代々宦官として歴代皇帝に仕え

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北宋時代における宦官世族―開封李氏の例を中心に―

る一族︑いわば﹁宦官世族﹂ともいえる家柄があった︑ということである︒

  宋代の正史である﹃宋史﹄巻四六六〜四六九の四巻は︑宋代に活躍した宦官らの列伝︑宦者列伝であり︑うち前

三巻が北宋時代のそれであるが︑そこに記された四十四人のうち︑父が宦官だと明記するのは十八人︑子の存在が

明記されているのが十七人である︒また親子関係を言わないものの︑本貫地︵先祖代々の出身地︶を都の開封とす

る者は二十二人となり︑半数に上っている︒おそらく彼らは父祖が宮廷に仕えていた宦官であり︑﹃宋史﹄に載る

ような上級宦官のうち︑半数ほどが宦官世族出身であったことが推測される︒

  ではこの﹁宦官世族﹂とはどのように形成され︑維持されていたのであろうか︒まず宋代における宦官の養子縁

組にまつわる関連規定を確認した上で︑実際の史料から類推される宦官世族の実態を見ていくこととしよう︒

  一︑宋代宦官の家族形成に関わる規定

 

  北宋が成立し︑まだ全土を統一していなかった乾徳四年︵九六六︶︑太祖皇帝は次のような詔を出している︒

人臣の家は勝手に宦者を養子にしてはいけない︒内侍は年三十以上になってはじめて一子を養子とすることを

許し︑士庶の者で男児を去勢した者は不赦︵恩赦の対象とならない罪︶とする︒︵﹃宋史﹄巻二・太祖本紀・乾

徳四年六月丙午条︶

これにより民間での宦官の存在が禁止され︑宮中に奉仕する三十歳以上の宦官は︑一人の子を養子にすることが認

められた︒このような養子規定が求められた背景は何であったのだろうか︒開宝四年︵九七一︶に出された詔には︑

詔す︒﹁さきの詔で︑内侍は官品に関わらず︑各人に一子を養子とし︑後継ぎとすることを許した︒すると最

近は訴えて財産を争うことが多いと聞く︒そこで宣徽院に︑現在いる内侍に次のことを明示させよ︒今日より

以前すでに養子がいる者は︑人数に関わらず︑姓名・年齢を明らかにして宣徽院に報告させ︑院では籍を置い

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て管理させる︒今後もし三十歳未満ですでに養父が無く︑異姓の養子を養いたいと願う者は︑その実家が姓名・

年齢を明確にして︑陳状を出して宣徽院を経て上奏し︑天子の許しを得て︑証書を給与されるのを待ってから

養子とせよ︒もし内々に勝手に養子を取る者については︑他人がそれを告発することを許し︑死刑とする︒告

発者には銭百千を賞金として与えるが︑それは犯人の家財から支出する︒もし詔の前にすでに異姓の養子が多

くある者は︑人数に関わらず︑将来の資産を分けて︑子どもらに均しく分けることを特別に許す︒もし籍に名

が無ければ︑この限りではない

︒ ﹂ ︵ ﹃

会 要

﹄職官三六︱二・開宝四年七月条︶

とあり︑そもそも宦官らが養子を取るのは自らの財産の継承者を得たいからであった︒先の詔で︑複数人の養子を

認めているにも関わらず資産︵将来の遺産︶争いが頻発したのは︑彼らに対する分割相続が認められるかどうかが

明示されなかったからであろう︒そこでまず︑すべての宦官の養子は姓名・年齢を宣徽院に申告させ︑院では帳簿

によって彼らを把握・管轄することにした︒そのうえで宣徽院の籍にきちんと届け出が出されている養子について

は︑複数の者︵義理の兄弟︶がいる場合︑均分相続を特別に認めるという原則を言ったのだった︒

  また︑すでに養父の亡くなった宦官は︑三十歳未満でも︑養子の実家から宣徽院に陳状を出し︑皇帝の許可を得

れば︑養子にしてよいことにした︒おそらくこれは相続人が不在であることの不安を思いやったものであろう︒

  このとき宮中に奉仕する宦官は五十人に満たなかったというから

︑太祖の意図としては︑この五十人弱の宦官2

各人に基本的には一人の養子を認めることによって︑現在の人数を維持しつつ︑逆にいえば唐末のように増えてい

かないような措置をとったのだろう

3︒このような宦官による養子縁組は唐代からある慣習であったが︑唐代のそ

れが官品五品以上の宦官に限られていたのが︑宋代に入ると﹁官品に関わらず﹂ということになり︑基本的にすべ

ての宦官に養子縁組が認められている︒つまり宋代の宦官はみな自分の財産を跡継ぎに残せることとなった︒

  これらのことから北宋時代の宦官は︑代々宦官をつとめる一族が複数存在したことが想定できる︒ではそのよう

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北宋時代における宦官世族―開封李氏の例を中心に―

な宦官の養子となる子供は︑どのような契機で宦官の養子となるのであろうか︒

  二︑宦官の養父子関係

 

  宦官による養子縁組の具体的な様子が窺える史料は︑非常に零細で断片的なものが二つしか残されていない︒

  第三代真宗の咸平五年︵一〇〇二︶︑都から離れた現在の浙江省に広域警備官として派遣された宦官・徐志通が︑

おそらく現地の人である李勧の息子四人を養子としたものの︑十二日後に罪を恐れて実家に還す︑という事件が発

生した︒また彼は手下の兵卒に︑鄭氏という婦人の男児を掠奪︵誘拐︶させようとしたが︑鄭氏は男児を抱いたま

ま海に飛び込み亡くなった︒この二つの事件が発覚して︑徐志通は杖罪となり︑宮中の掃除係に左遷された

︒こ4

の事件では︑徐志通はどう考えても穏便で正式な手順を踏まず︑強引に養子関係を結ぼうとしたものと考えられる︒

史料の限界から︑なぜ徐志通が李勧や鄭氏の子を求めたのかは判然としない︒想像を逞しくすれば︑現地の富裕な

家の資産を狙ったのだろうか︒ともあれこの事件は︑もちろん徐志通という一個人によっておこされたものだが︑

一般的に当時地方に派遣された宦官らが︑かなり強引な手法を使って養子を得ようとする風潮があったとも捉える

ことができる︒というのはこのとき︑真宗が改めて次のような詔を発しているからである︒

内侍︵宦官︶に一人の養子を認めることは︑編勅︵歴代の詔勅を編纂した法令集︶にきっちり記載されている︒

しかし年月が経ってしまい︑この明文があることを知らず︑重刑に処されることとなり︑まことに哀れむこと

が増えている︒ここに再び告示を行うので︑遵守することを願う︒今日以前すでに複数の養子がある者は︑も

とのままであることを許す︒これからは宣徽院に籍を置いて姓名を管理することをはっきりと告示し︑ひとえ

に乾徳四年・開宝四年の詔命に従って施行せよ︒︵﹃宋会要﹄職官三六︱三・咸平五年五月条︶

宦官の養子は一人に限るという太祖朝の原則が︑ここで再確認されたかたちである︒裏を返せば︑当時やはりこの

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規定は守られておらず︑なし崩しの状態にあったことが想像される︒その中で特に徐志通の起こした痛ましい事件

が発覚したため︑改めて詔が出されたということであろう︒

  二つ目は︑宦官の養子になった経緯が明言されている唯一の例で︑周懐政の場合である︒

父の紹忠は黄門として太宗に仕え︑河東への遠征に従軍し︑多くの戦死者の中から懐政を見つけ︑養子とした︒︵﹃宋史﹄巻四六六・周懐政伝︶

宦官として太宗に仕えていた周紹忠が︑親征に従軍した折り︑戦場で見つけた幼子を引き取り︑養子としたという

のである︒おそらくは戦争孤児を引き取った︑人道的な措置のように思える︒このとき周懐政がすでに去勢されて

いたかどうか明らかではないが︑彼はのちに宮中に仕えることとなり︑宦官として出世している︒

  一方︑その周懐政には懐信という名の弟がいたことも分かっており

︑やはり宦官として活動している︒彼らが5

血を分けた実の兄弟でともに周紹忠に養われたのか︑別々の養子で義理の兄弟だったのかはよく分からない︒ただ

彼ら父子・兄弟関係を窺わせるエピソードが一つ残っている︒周懐政はのちに宦官として大出世を遂げたが︑政争

の挙げ句︑宮中クーデタを企んだとして処刑されることになる︒そのとき父と弟は︑

懐政がまだ失敗していないとき︑紹忠はつねに懐政を罵って言った︒﹁斫頭︵?︶の小僧が︑とうとう儂にま

で累を及ぼすか﹂と︒また懐信はかつて懐政に言った︒﹁兄上の天書の事は必ず失敗します︒早いうちに帝を

訪ねて自白し︑軽微な罪ですませていただきましょう︒﹂周懐政が反乱を企むに及んで︑懐信はまた号泣し︑

伏し拝んで計画を止めたが︑みな聞き入れられなかった︒︵﹃長編﹄巻九六・天禧四年七月甲戌条︶

とあって︑兄弟はともかく︑父子関係はしっくりきていないようである︒かつて戦場で孤児を拾い育てた︑という

人道的エピソードとはそぐわない父・周紹忠のセリフである︒その一方︑一度連坐したのち復権した弟・懐信は︑

死んだ兄のクーデタ計画を誣告したとされる人物について︑彼を処罰して兄の魂を慰めてもらいたいと奏上し︑認

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北宋時代における宦官世族―開封李氏の例を中心に―

められている

︒ここから見ても︑やはり兄弟関係の方は良好であったと考えられる︒6

  そもそも太祖朝で言われ︑真宗朝で再確認されたように︑宦官の養子は一人のみであったはずで︑すでに複数い

た場合のみ特例として認めていた︒上に見た周懐政・懐信兄弟などがその特例にあたるであろうが︑ほかにも史料

中では︑宦官の兄弟が多く確認できる︒竇神興・神宝兄弟︵﹃宋史﹄巻四六六・竇神宝伝︶︑李神福・神祐兄弟︵﹃宋

史﹄巻四六六

・李神福伝︶

︑王守忠

・守規兄弟

︵﹃宋史﹄巻四六七

・王守規伝︶

︑李懐斌

︑懐贇兄弟

︵﹃

宋史﹄巻

四六六・李神福伝︶︑李舜聡・舜欽・舜挙兄弟︵﹃長編﹄巻三三〇・元豊五年十月乙丑条︶などがそれである︒

  また︑これらの養子宦官の中には︑養父の思惑とは違い︑素直にその後継者とはなってくれない者もいたようで︑

例えば宋初の王継恩のように︑はじめ張氏の養子となって張徳鈞と名乗っていたが︑実家の名に復することを求め︑

許されて王継恩と改名する者もいた

7

  だが一般的には︑これら宦官の養子らのほとんどは︑当然のごとく宮中に出仕している︒その大きな要因の一つ

は︑彼らは養父の官品によって有利に出仕できる特権があった︒つまり恩蔭の制があったのだが︑これを明示する

史料は多い︒例えば石全彬は祖父・知顒の恩蔭で︵﹃宋史﹄巻四六六・石全彬伝︶︑宋用臣は﹁父の蔭﹂で︵﹃宋史﹄

巻四六七・宋用臣伝︶︑任守忠は﹁蔭によって﹂出仕している︵﹃宋史﹄巻四六八・任守忠伝︶

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  一方朝廷の側も︑宦官の一族が継承され︑存続していくことを望んでいた節がある︒

天子の御批﹁入内内侍省後苑散内品の王仲千について︑その祖の継恩が先帝による蜀の反乱平定に際して功績

あったことは﹃国史﹄に書かれている︒いまその家業は衰え︑ただ仲千一人のみが仕官しているが︑これは何

かの罪業によるものではなく︑ただ継恩の子が早く亡くなってしまったことから︑懐珪が︵仲千を︶養子にし

て次男とし︑それで先に示したような役職に任命したのである︒特別に入内内侍省内侍黄門とすることを許可

する︒﹂︵﹃長編﹄巻三〇九・元豊三年十月癸未条︶

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これは太宗朝で活躍した宦官・王継恩の家系が衰亡することを惜しんだ第六代神宗が︑王氏の後継者を登用して︑

その家系の維持を図ったというものである︒同じ趣旨から︑まだ養子が登用されていない宦官が亡くなった場合︑

特に養子を登用することが頻繁に行われている︒鄧守恩が死去した際に︑子が官に任ぜられ︵﹃宋史﹄巻四六六・

鄧守恩伝︶︑蘇利渉は﹁神宗皇帝は利渉が︵先代の︶英宗皇帝の藩邸に仕えていたことから︑特にその子・孫六人

に官位を与えた﹂︵﹃長編﹄巻三三〇・元豊五年十月丙辰条︶という︒

  これは宦官が亡くなったときのみに限られるものではない︒ある宦官が特異な功績をあげたとき︑その褒美の一

環として養子に官位を与える︑あるいはすでに官位を持っている場合には昇進させるということがあった︒宋用臣

は﹁将来出仕する子一人について一官を昇進させることを許﹂され︵﹃長編﹄巻三三六・元豊六年閏六月戊寅条︶︑

張茂則は﹁孫あるいは甥の官位を持つ者一名に一官を進めることを許﹂されている︵﹃長編﹄巻四五六・元祐六年

三月乙亥条︶︒前者など︑まだ任官していない養子が将来出仕することを当然のこととして︑その官位をあらかじ

め進めておく手はずとなっている︒

  このように宦官の養父子関係においては︑一般の官僚と同じような恩蔭制度が適用され︑さらに朝廷が︑宦官の

家系存続に意を払っていたことが判明する︒

  三︑宦官の妻︑邸宅︱宦官世族の形成

 

  宦官による疑似家族関係の形成は︑父子関係にとどまらない︒宦官には妻も存在していた︒

︵天聖︶九年︵一〇三一︶十月十四日︑詔があって︑故・安遠軍節度観察留後・左驍衛上将軍の劉承規の妻︑

宜春郡太夫人彭氏に淮陽郡を追贈して封ずる︒すぐにまた申国太夫人に移して封ずる︒いずれも特別な恩典で

ある︒︵﹃宋会要﹄儀制一○︱二四・天聖九年十月十四日条︶

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北宋時代における宦官世族―開封李氏の例を中心に―

劉承規は真宗までの三代に仕えた大宦官で︑彼が亡くなって二十年目のこの年︑彼の妻・彭氏の肩書きが昇進して

いるのである

︒彼女のように具体的な履歴が判明するものは少ないが︑各種恩典関係の史料を拾い上げていくと︑9

宦官の妻が何人か存在している︒神宗朝の宦官・蘇利渉が亡くなった際には︑妻が崇徳郡夫人に封ぜられているし︑

先に登場した周懐政・懐信兄弟にも﹁母﹂が存在し︑追贈の恩典を得ていることがわかっている

10︒神宗朝の武人

宦官として有名な李憲にも︑王氏という妻がおり︑彼女は婢とのあいだで閨房をめぐる訴訟問題を起こしている

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このような問題まで発生すると︑まるで一般の男性官僚と同じように感ぜられる︒

  太宗朝の宦官・閻承翰は︑同じく宮中の厩舎・馬政を管掌していた武官・趙守倫との間でしっくりいかず︑

もともと姻戚同士であったのだが︑お互いそりが合わず︑かくしてそれぞれ訴えを起こし︑それらの案件はと

もに御史台で裁かれることになった︒︵﹃宋史﹄巻四六六・閻承翰伝︶

と記されており︑利害関係の深い両者の間が婚姻関係でつながっていたがわかる︒ここでは具体的な関係が明示さ

れていないが︑おそらく趙守倫の姉妹が閻承翰の妻になっていた可能性が高い︒

  仁宗朝︑枢密副使の陳旭には︑宦官の史志聡・王世寧らとの癒着の噂があり︑そのことを含めて知諫院の唐介ら

から弾劾文が提出された︒仁宗が弾劾文を陳旭に見せて弁明を求めたところ︑陳旭は次のように言ったという︒

史志聡については私は顔も知りませんし︑王世寧の弟は︑私の妻の兄弟の一人娘を娶っていますが︑長い間行

き来はありません︒もし彼が私のことを推薦したというのでしたら︑陛下が必ずその言葉を覚えておいでのは

ずです︒︵﹃長編﹄巻一九三・嘉祐六年四月庚辰条︶

陳旭と王世寧は遠い縁続きであって︑その事実が唐介らが問題としたことの一つであった︒この問題は数年後に再

燃し︑そのときの呂誨の弾劾文から新たな事実が判明する︒

世寧の妻李氏はもともと宮中にいて︑先帝︵仁宗︶がお命じになって世寧に嫁がせ︑また尚書内省の要職を領

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させられました︒︵﹃長編﹄巻二〇五・治平二年五月癸亥条︶

とあるように︑王世寧の妻は李氏といい︑彼女はもと宮中にいた女官で︑皇帝直々のお声掛かりによって︑同じく

宮中で活動する宦官・王世寧に嫁いだ︒そして彼女はそのまま尚書内省を取り仕切ったというのである︒先の記録

と合わせ考えれば︑この李氏の父親の姉妹︑つまり伯母︵叔母︶が︑陳旭に嫁いでいたということになる︒

  ここから分かることは︑宦官の妻となる経緯の中に︑皇帝による斡旋があったということ︑そして女官が宦官に

嫁ぐという構図があったことである︒何しろ他の史料が見つからないため推測の域を出ないのだが︑ともに同じ職

場で働いている者同士でもあり︑このようなケースはしばしば見られたのではないだろうか︒また宦官に嫁ぐとい

うことの特殊性も︑皇帝による仲介という事実があった方が理解しやすい︒

  このように北宋時代の宦官には︑子︵養子︶があり︑妻があった︒そうなるともはや立派に一家を成立させるに

充分であったといえるだろう︒事実彼らの中には︑自ら独立して邸宅を構えるものもいた︒もちろん彼らは宮中に

奉仕しているわけであるから︑当然宮中の一角に住み込んでいたと考えられる︒例えば太宗朝の宦官・竇神興につ

いていえば︑郭恕先なる人物が太宗に召されたとき︑﹁内侍省の竇神興の家﹂に泊まらせている

12︒しかし上級の

宦官ともなれば︑そうではないものもいた︒神宗朝の宦官・宋用臣は︑庭園付きの私邸を営んでおり︑そこで不正

を行っていたことが弾劾されている

13︒また︑

范純夫は諫官であったが︑その邸の東隣には宦官・陳衍の園亭があった︒陳衍はこの庭園に行くたびに︑大き

な声を出さないように気をつけていた︒その理由について︑引き連れている連中に次のように言った︒﹁范諫

議がお上の前で一言︵自分を非難することを︶申し上げたならば︑我々はどこで死ぬことになるか知れたもん

じゃない﹂と︒︵羅大経﹃鶴林玉露﹄巻七︶

という陳衍のエピソードからは︑宦官の邸宅が文官官僚と隣接して存在しており︑その庭園での騒ぎ声が︑隣に聞 14

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北宋時代における宦官世族―開封李氏の例を中心に―

こえるほど接していたということがわかる︒

  また宦官の中には︑自分で邸宅を持ったのではなく︑皇帝より﹁賜第﹂を賜る者もいた︒神宗朝の宦官・程昉は︑

治水に功があったことから︑その二人の子に官が授けられた上︑邸宅が与えられている

15

  以上見てきたように︑北宋時代の宦官には︑一定の高位に昇った場合︑妻を娶り︑邸を構え︑養子を取って育て

るということが可能であった︒そして王朝初期において数十人の宦官の存在だけが認められ︑市井での宦官の存在

が禁止されたということを踏まえれば︑次代の宦官らの多くは先代の宦官らの養子として存在していたということ

になる︒これらの措置の結果︑北宋時代においては基本的に︑特定の宦官一族が︑代々皇帝に仕えるという構図が

出来上がったものと思われる︒本稿で言う﹁宦官世族﹂の成立である︒史料に明示されることは少ないが︑北宋時

代の宦官らの多くは︑いくつかの宦官世族出身者であったことが推測される︒

翰林学士兼修国史の范祖禹が言った︒﹁近く陛下は宦官十人をお側にお召しになったとのことですが︑李憲の

子がその中にいたと聞きました︒また数人の宦官をお召しになったときには︑王中正の子がその中に含まれて

いると聞きました︒﹂︵﹃資治通鑑長編紀事本末﹄巻一〇一﹁逐元祐党上﹂元祐八年十一月戊戌条︶

との記述は︑皇帝が新たに側近くに宦官を召し出そうとすれば︑その中には必ず先代で︑良くも悪くも活躍した宦

官の子が含まれる︑という様子がよく窺えるであろう︒

  四︑開封の李一族︱宦官世族の具体例

 

  では宦官世族にはどのような一族がいたのか︒その実態について見てみたいと思うのだが︑いかんせん史料の制

限があり︑さまざまな世族についての全面的な復元は難しい︒そこでわずかに残った史料をつきあわせ︑数世代に

わたっての復元が可能な︑李神福をはじめとする開封の李一族について見てみよう︒六世代十二人の存在が確認で

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きるこの一族は︑初代から第六代までの歴代皇帝に仕えた宦官世族である︒

  まずその家系の第一世代にあたるのが︑李継美である︒彼は後唐に仕えた宦官で︑おそらくそこから五代の歴代

王朝に仕えて︑後周・顕徳年間︵九五四〜九五九︶の初年というから︑後周の世宗の治世初期に︑御廚都監として

皇帝の食事を主る地位にあったという︒そして北宋王朝が成立すると︑太祖趙匡胤に仕え︑特に紫服の着用が許さ

れ︑のちには右領軍衛将軍に任ぜられたというから

16︑前代以来の宦官として重用されたということであろう︒

  その子︵養子︶で第二世代にあたるのが︑李神福・神祐の兄弟である︒まず李神福は

17︑幼い頃から晋王︵太祖

の弟︑のちの太宗︶に仕えて︑王の意思をよく理解し︑まじめに務めたという︒そして太宗即位後には北漢攻撃で

太宗の親征に従軍し︑伝令として活躍した︒その後も宦官として昇進してゆき︑淳化四年︵九九三︶には官は諸司

副使のレベルに到達している︒翌年には宦官全体を束ねる入内黃門都知となり︑諸司使の宮苑使を加えられた︒

  太宗は書を好んだが︑李神福はその御筆作品を多く賜るほど︑常に側に侍っており︑太宗が最期の病床にあった

とき︑朝夕左右にあって薬の世話をしたのも彼であったという︒その太宗が崩じ︑真宗が即位すると入内内侍都知

のまま遙郡団練使という高級武階に昇り︑太宗の永熙陵への埋葬儀式を取り仕切った︒このとき太宗の似顔絵が描

かれたが︑その絵の中でも李神福が付き従っていたとされる︒

  このように李神福は︑二代目太宗に即位前から一貫して奉仕し︑そこで見出されて忠誠を尽くし︑宦官のトップ

に昇った人物であった︒御陵建設が一段落すると︑願い出て都知の地位を辞している︒代わって特に功績ある宦官

のみに与えられる昭宣使を加えられ︑宮城の側に賜第を与えられている︒これらの措置は︑おそらく引退を希望し

た李神福を真宗が引き留めたものであろう︒その後も宮城工事の責任者や︑閲兵時の責任者︑歴代皇帝陵への使者

などをつとめ︑またやはり特別な肩書きである宣政使を与えられた︒

  大中祥符元年︵一〇〇八︶︑天書にともなう様々な行事に参加し︑泰山封禅では車駕ルートの策定に関わったこ

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北宋時代における宦官世族―開封李氏の例を中心に―

とから︑儀式後には宣慶使が授けられ︑昭州防御使を領している︒この宣慶使というものは︑すでに宣政使となっ

ている李神福のため︑特別に設置されて任命されたものだった︒つまりこの時点において︑彼は宦官の最高峰となっ

たのである︒二年後︑李神福は六十四歳で亡くなり︑観察使の位が追贈された︒

  このように李神福は真宗朝にも引き続いて色々な役割を果たし︑当時の宦官最高位に昇った人物であった︒その

性格は恭謙温和で争いを避け︑宮中に仕えること半世紀︑﹁長者﹂と称されたという︒だが一方では人に頼まれる

と断れない性格だったため︑その管掌下にある三班は︑規律が緩み︑これを非難する人もいたらしい︒いずれにせ

よ実直で人当たりの柔らかい人物像が窺える︒

  つづいてその弟の李神祐であるが

18︑父・李継美の恩蔭により宦官として太祖に出仕した︒太祖朝に行われた対

北漢戦の際には︑玉璽を守って従軍したり︑近衛兵の一部を率いたりし︑南漢・南唐の平定戦にも参加するなど︑

軍事方面で活躍している︒太宗朝に入っても︑降伏した呉越の府蔵の監査役となったり︑北漢平定戦ではその国主・

劉継元を引きずり出す役割を果たしている︒対契丹戦にも従軍し︑その後も援軍の指揮や防備の駐屯で活躍した︒

  真宗朝で入内内侍省都知となり︑宦官官庁のトップとして︑同朝で行われた泰山封禅に参加している︒このとき

宣政使であった李神福と︑兄弟で同じ仕事を行うこともあった︒封禅の儀式が終了した翌年︑儀式に携わった宦官

の論功行賞の役割を与えられたが︑その処置に不満を抱いた范守遜らが真宗に直訴したことから︑責任を問われ︑

副官らとともに降格処分となった︒最後は御厨︵皇帝の食事︶を管轄すること七年︑六十六歳で亡くなっている︒

  李神祐の履歴を見ると︑兄の神福が即位以前の太宗への出仕から始まったのに対し︑時の皇帝・太祖のもとから

出仕が始まるという違いが見られ︑そのためか神祐は兄とは違って︑主に軍事畑で出世している︒のちに神祐も宦

官らのトップである都知となっているが︑うまく配下の宦官をまとめきれなかったところは︑人望あった兄との違

いと言えようか︒しかし神祐も性格は﹁謹愿﹂︵慎み深く誠実︶と表現されている︒

(14)

  この第二世代につづく第三世代は︑李神福の子である懐斌と懐贇︑神祐の子である懐䒍と懐儼であった︒この世 代はいずれも先代とは違い

︑正史に名を残すほどの人物はいなかった

︒まず懐斌は

︑真宗朝の大中祥符四年

︵一〇一一︶十二月︑汾陰を祀る儀式の随行員の中に名が見え︑懐贇は景徳二年︵一〇〇五︶に皇帝の使者となっ

ているほか︑死後に防御使を贈られていることが分かるのみで︑両者とも詳しい事績は分からない

19

  彼ら二人の従兄弟にあたる懐斌・懐儼兄弟だが︑懐儼が真宗崩御の際︑大斂の儀式で使用する道具の製造責任者 の一人であったことしか分かっていないが

20︑懐斌の方はかなり特色のある人物である

21︒太宗の時に道士となる

ことを望んだが︑のちに宦官に復帰して宮中に仕え︑その後︑主に辺境地域の駐屯軍に身を置き︑常に大きな鉄鞭

を得物に賊と戦い︑しばしば流れ矢で負傷していたという︒実際︑咸平五〜六年︵一〇〇二〜三︶には京東路の盗

賊鎮圧に従事し︑皇帝直々の作戦に加わっていた︒翌年︑澶淵の盟を結ぶ際の皇帝親征軍で︑やはり一つの部隊を

任されている︒大中祥符三年︵一〇一〇︶には南方方面で戦っており︑まさに北から南まで辺境の軍事で活躍して

いた︒豪快さを持つ︑かなり異色な宦官といえようか︒父と同じく軍事方面で活躍した宦官であった︒

  つづく第四世代は李永和一人しか名が分かっていない︒大中祥符六年︵一〇一三︶に三班奉職に任ぜられた︑と いうことのみである

22︒おそらく祖父・神祐が亡くなったことに伴う恩蔭であろう︒彼については他の史料に見え

ておらず︑神祐の子である懐䒍・懐儼とこの永和との関係も分かっていない︒

  しかし現存史料で名が確認できなくとも︑李氏の家系が存続していたことは確かである︒それは第五世代の李舜 挙が李神福の曽孫にあたる人物で

23︑第六代皇帝神宗の下で大いに活躍しているからである︒そして彼の家には︑

曽祖父・李神福に下賜された第二代太宗直筆の書が十数点も受け継がれており︑それを宮廷に献上しているのであ

る︒これにより彼の家が伝世の御書を持つ宦官世族だとはっきりとわかり︑また献上にともなって︑李神福をはじ

めとする一族の墳寺として褒勤禅院が与えられている

24

(15)

北宋時代における宦官世族―開封李氏の例を中心に― て皇帝に直接報告を行う官職であった でたく︑秦鳳路の走馬承受となった︒走馬承受とは皇帝から直に地方に派遣され︑軍を監察し︑定期的に都に戻っ   李舜挙は字を公輔といい︑若くして黄門となった︒第四代仁宗朝では金属器の製造監督を担当して仁宗の覚えめ

25︒ちょうど舜挙が派遣されている最中に仁宗が崩じ︑第五代の英宗が即位

した︒舜挙が都に戻ってはじめて英宗へ直接報告を行おうとすると︑ちょうど英宗の体調が優れなかったため︑取

り次ぎ役の内謁者が宮門のところで制止した︒すると李舜挙は︑﹁天子が新たに即位なされたのに︑君命を受けて

地方から戻った使者に︑一度も会わずに帰すというならば︑同じく地方に出ている者をどうして慰撫できましょう

か︒﹂と抗った︒内謁者がことを取り次ぐと︑英宗はただちに召し出し︑彼の意見に満足した様子だったという︒

  またその際︑走馬承受が監察対象である帥臣︵安撫使等︶に保任されている問題点を指摘したところ︑すぐに是

正する処置がなされている︒ここからは彼が職務に忠実であり︑かつ剛直な気性を有していたことが分かる︒また

この英宗は外藩から入って仁宗の養子となり︑第五代皇帝となった人物であり︑宦官世族出身である李舜挙からす

れば︑皇帝とはかくあるべき︑という姿を示す必要性を感じていたのかもしれない︒

  体が弱く︑在位わずか四年で崩じた英宗の後を継いだのが︑第六代神宗である︒李舜挙はその下で昇進をつづけ︑

幹当内東門︑幹当御薬院などを歴任した︒特に御薬院では︑単に皇帝の薬石を掌るだけでなく︑神宗皇帝の側近と

して︑皇帝の命令を大臣・士大夫らに伝達する業務に従事している

26

  熙寧九年︵一〇七六︶に李朝ヴェトナムとの間で戦端が開かれると︑李舜挙は作戦の立案に参画した

27︒のち陝

西における対西夏の前線でも制置涇原軍馬となっており

28︑この頃から重大事があると皇帝から派遣され︑現地で

軍務などに携わるようになる︒元豊四年︵一〇八一︶に河東・陝西五路の兵を動員した全面的な対西夏戦が行われ

たが︑補給の問題から最終的に不調に終わった︒翌年︑宦官の李憲は再攻撃を提案し︑補給を維持するために人夫

を暴力的な方法で集めることがあったため︑李舜挙はその実情について上奏し︑昨年の失敗で過酷な経験をしたた

(16)

め︑現地では人夫たちが躊躇していることを知らせた︒これにより強制的な人夫徴収は中止された

29

  このとき李舜挙が宰執を訪ねると︑当時宰相であった王珪は彼を出迎え︑﹁辺境のことは押班︵李舜挙︶と李留

後︵李憲︶に任せておけば︑朝廷として西方の憂いは何もありませんな︒﹂と言った︒これを受けた舜挙は︑﹁国の

四方に多くの砦があることは︑士大夫の恥でしょう︒宰相どのは国事を担当されておられるのに︑辺境の事を宦官

二人に託すとは︑それでよろしいのですか︒宦官などはただ宮中で清掃の仕事をしていればよいものでしょうに︑

どうしてそれを将帥の任に当ててよいものでしょうか︒﹂と言い放ったという︒宦官にして時の宰相にこのような

ことを言えるのが︑李舜挙という人物であった︒時に士大夫よりも国家のあるべき姿・威信を考え︑宦官の立場を

わきまえていたといえる︒その背景に︑彼が代々朝廷に仕えてきた宦官世族出身者であったことを想起しても︑あ

ながち間違いとはいえないであろう︒

  結局︑西夏に対しては︑大規模な再侵攻ではなく︑砦を築いて防備を固めていく漸進策が採られた︒元豊五年

︵一〇八二︶五月︑李舜挙は現地の官僚と今後の戦略を練るよう︑給事中の徐禧らとともに現地に派遣された

30

現地で将軍らと戦略を合議したのちの九月︑砦の一つとして前線に新築された永楽城が完成すると︑徐禧・李舜挙

らは永楽城に入城した︒ところが︑その地の奪還を狙う西夏軍三十万によって砦は包囲されてしまう︒城内には兵

が一万二干ほどしかおらず︑新築のために兵糧などの備えがなく︑また西夏軍によって水の手をほぼ絶たれたため︑

城内には飢え死にする者が続出した︒周辺からの救援も及ばず︑十日以上の籠城の末︑西夏軍の総攻撃を受けて城

は陥落した︒死を悟った李舜挙は︑衣の襟を引き裂き︑そこに上奏の文字をしたためる︒﹁臣︑死しても恨むとこ

ろ無し︒願わくば朝廷︑この賊を軽んずることなかれ︒﹂

31永楽城に籠もっていた兵は全員討ち死にであった

32

  多少美化された可能性もあるが︑事実関係だけに着目してこの最期の場面を見たとしても︑李舜挙の朝廷に対す

る忠誠心は濃厚に感じ取られる︒これに対して神宗は︑李舜挙に節度使の位を贈り︑﹁忠敏﹂と諡している︒史書

(17)

北宋時代における宦官世族―開封李氏の例を中心に―

によれば︑舜挙は落ち着いた性格で︑他人と話していても宮中の出来事について言及したことがなかった︒よく書

物を読み︑能文家であった︒御薬院で仕えること十四年︑神宗が﹁李舜舉公忠奉上︐恭勤檢身︐始終惟一︐以安以

榮︒﹂という十九字を自ら書して彼に賜ったこともあった

33

  このように第五世代にあたる李舜挙は︑長く神宗に仕え︑またその厚い信頼を受けて活躍した人物であった︒当

時国家の威信をかけて行われた対西夏戦の中で戦死するという残念な結末に終わったが︑彼は李神福以来の宦官世

族第五世代として恥じぬ存在であったといえよう︒

  李舜挙が戦死したのち︑朝廷は彼に追贈を行

うとともに︑その一族に対しても恩典を施して

いる︒まず彼には子︵名前は不明︶が一人おり︑

すでに借職であったのが供備庫副使にまで十資

昇進している︒また兄・李舜聡が左蔵庫使から

皇城使・遙郡団練使に︑同じく兄の李舜欽と姪

の瑜が一資昇進となった︒また李舜挙の妻・任

氏は特に夫人に封ぜられていて︑やはり彼も妻

帯していたことが判明する

34︒このうち他の記

録に登場するのは︑舜挙の兄・李舜聡のみであ

︑ 李舜挙戦死の数ヶ月後の同年

・元豊五年

︵一〇八二︶に提挙府界盗賊巡検公事となった

が︑兵の私用で除名停職の処罰を受け︑翌年に 李継美 第一世代第二世代第三世代第四世代第五世代第六世代 ︻開封李氏系図︼

神福

神祐懐儼

○永和 懐䒍 懐贇○○舜挙任氏○瑜 ○ 舜欽 舜聡懐斌

(18)

恩赦により停職を解除されたことが判明する

35

  以上︑李継美を第一世代とする開封の李一族は︑実質的には第二世代の李神福・神祐兄弟から第五世代の李舜挙︑

さらに第六世代に至るまで︑初代太祖から第六代神宗の六人の皇帝に代々仕えてきたことが判明する︒もちろん彼

らは宦官であるため︑実際の血縁関係はなかったが︑疑似血縁関係でもって宦官一族として活動を続け︑朝廷への

忠誠を示し︑正史に残る活躍をした人物を複数輩出したのである︒そのような一族を宦官世族の代表的な一族とみ

ても問題はないであろう︒

  おわりに

 

  以上見てきたように︑北宋時代の宦官は︑妻を娶り︑養子を育てて一家を形成することが認められていた︒結果

として当時の宦官らは︑残存史料でははっきりと明言されぬものの︑数十家の宦官世族出身者が多くを占めていた

と考えられる︒その代表的な世族の一つが︑前節でみた開封の李一族である︒

  では宋代の宦官に︑そのような血のつながらぬ家系を維持することが︑なぜ求められたのであろうか︒思うにこ

れには当事者たる宦官本人の希望とともに︑王朝側からの希望もあったと考えられる︒

  まず宦官本人の願望としては︑当然ながら自己の財産の維持・継承があったであろうし︑おそらく宮中以外では

宦官という特殊な人間に対する有形無形の差別的な扱いを受けたと思われる彼らにとって︑家族・家庭の形成が精

神的な安定をもたらしたことは想像に難くない︒

  このような生前の理由のみではない︒死後の問題もある︒伝統中国においては祖先祭祀は非常に重要なことであ

り︑死後に子孫から祭祀を受けることが求められた︒一般に子孫を持ち得ない宦官にとっては︑死後に望むことの

できない祭祀が︑疑似血縁関係の形成によって可能となるのである︒

(19)

北宋時代における宦官世族―開封李氏の例を中心に―   事実︑真宗朝の張承素は︑養父の張崇貴のため︑神道碑︵墓道の前に立てる記念碑︶の建立許可を願い出ている︒

つまり子︵養子︶の宦官が︑父︵養父︶の宦官に孝を尽くし︑その事績が顕彰されていたのである︒これに対して

真宗は﹁宦官の神道碑建立は︑おそらく前例が無いであろう︒李神福と竇神興がかつて建てた碑と同じようなもの

ならば良かろう︒﹂と言っている

36︒前節で見た李神福も︑彼が彼の父のために建てたのか︑あるいは彼のために

彼の子が建てたのかは分からないが︑すでに宦官が一族のために碑を建てることが行われていたことがわかる

37

  一方︑王朝側にすればどうであろうか︒宦官が家族関係を形成することが徒党的な団結を組むおそれがある一方

で︑宦官が精神的に安定することは︑前代の唐代後半にあったような︑一般人よりも過剰な権力欲・金銭欲といっ

たものが緩和される効果があるのではないだろうか︒つまり一代限りということによって刹那的な欲望を求める心

が抑えられるという効果である︒

  また︑前節でみた李舜挙のように︑宦官世族出身者は王朝への帰属意識︑忠誠心が高くなることがあり︑それは

場合によっては士大夫よりも大きな場合があった︒これにはもちろん個人的な性格によるところが大きいであろう

が︑一族の薫陶を受けた結果という可能性もあるのではないだろうか︒皇帝からしても︑どこの馬の骨とも分から

ぬ者を身辺に置くよりも︑代々宮中に仕えた一族出身の宦官の方が︑その信頼度が高かったものと考えられる︒

  宋代は他の時代と違い︑宦官跋扈の弊害が少なかったといわれる︒そこには︑宦官世族が形成されていたことも

寄与していたのではないだろうか︒

  注

 

1︶ 中国の宦官についての古典的名著といえば

︑三田村泰助

﹃宦官︱側近政治の構造﹄

︵中公新書

︑二〇一二年

︒初出は

一九六三年︶がまずは挙げられるが︑宋代の宦官を専門に論じた論考は管見の限り見当たらない︒中国史全般にわたる宦官

(20)

制度については︑余華青﹃中国宦官制度史﹄︵上海人民出版社︑二〇〇六年︶があり︑その第六章第一節が宋代に当てられ︑概要を知ることができる︒本稿は従来注目されてこなかった宋代宦官による世族形成に着目して︑その実態や影響を解明し

ようとしたものである︒

2︶﹃宋史﹄巻四六六・宦者列伝︒

3︶﹃新唐書﹄巻一八三・韓伝によれば︑唐の昭宗朝︵八八八〜九〇四︶には八千人もの宦官が存在していた︒

4︶﹃宋会要﹄職官三六︱三・咸平五年五月条︑李燾﹃続資治通鑑長編﹄︵以下﹃長編﹄と略称︶巻五二・咸平五年五月甲辰条︑

﹃宋史﹄巻四六六・王仁睿伝︒︵

5︶﹃長編﹄巻八七・大中祥符九年八月丙子条︒

6︶﹃長編﹄巻一一五・景祐元年八月辛酉条︒

7︶﹃宋史﹄巻四六六・王継恩伝︒

8︶そのほか張若水﹁以惟吉奏補小黄門﹂︵﹃宋史﹄巻四六七︶︑王中正﹁因父任補入内黄門﹂︵﹃宋史﹄巻四六七︶︑李継和﹁以

父任為内侍黄門﹂︵﹃宋史﹄巻四六八︶︑高居簡﹁以父任為入内黄門﹂︵﹃宋史﹄巻四六八︶︒

翌年の明道元年十一月に︑彼女が亡くなったことにともない︑劉一族が昇進している︵﹃長編﹄巻一一一・明道元年十一月庚 9︶この追贈は未亡人であった彭氏が亡くなったことによるものかもしれない︒彼女の没年を明示する史料は存在しないが︑

寅条︶︒

10︶﹃長編﹄巻三三〇・元豊五年十月丙辰条︑﹃宋会要﹄儀制一○︱一五・景祐元年十月十一日条︒

11︶﹃長編﹄巻二九九・元豊二年八月壬寅条︑同書巻三〇五・元豊三年六月壬子条︒

12︶﹃宋稗類鈔﹄巻一五︒

13︶﹃長編﹄巻三五九・元豊八年八月丁亥条︒

14︶このエピソードをすべて事実だと信じるわけにはいかない︒というのもここでは元祐時代の范純夫と徽宗朝の王黼を対比

させ︑前者を称揚し︑後者を貶めようとする意識が濃密に感じられ︑まさに北宋末の新法党と旧法党の党争に絡んだ史料で

ある︒ここではあくまでも宦官の邸宅が︑一般官僚と隣接して存在していたという事実のみを提示しておく︒︵

15︶﹃宋会要﹄方域四︱二三・熙寧九年九月十三日条︑﹃長編﹄巻二八七・熙寧九年九月丙寅条︒

16︶﹃宋史﹄巻四六六・宦者列伝・李神福伝︒

(21)

北宋時代における宦官世族―開封李氏の例を中心に―

17︶以下︑李神福の事績については﹃宋史﹄巻四六六・李神福伝︑﹃長編﹄巻七〇・大中祥符元年十二月甲辰条による︒

18︶以下︑李神祐の事績については︑﹃宋史﹄巻四六六・李神祐伝︑﹃宋会要﹄職官四︱三九・大中祥符元年十月十九日条︑﹃宋

会要﹄職官三六︱五・大中祥符二年四月条による︒

懐贇可贈防御使制﹂︒ 19︶﹃宋会要﹄職官四︱四一・大中祥符四年十二月二十九日条︑﹃宋史﹄巻四六二・方技伝・賀蘭棲真︑胡宿﹃文恭集﹄巻二一﹁李

20︶﹃宋会要﹄礼二九︱二〇・乾興元年二月二十四日条︒

平六年六月己未条︑﹃宋会要﹄蕃夷一︱三二・景徳元年十二月九日条︑﹃宋会要﹄兵一○︱三・大中祥符三年正月条︒ 21︶以下︑李懐については︑﹃宋史﹄巻四六六・李神祐伝︑﹃宋会要﹄兵一一︱一・咸平五年九月四日条︑﹃長編﹄巻五四・咸

22︶﹃宋史﹄巻四六六・宦者列伝・李神祐伝︒

23︶以下︑李舜挙の事績について︑特にことわりない限り﹃宋史﹄巻四六七・李舜挙伝による︒

24︶﹃長編﹄巻二八六・熙寧十年十二月戊子条︒宋代における墳寺については︑竺沙雅章﹁宋代墳寺考﹂︵﹃中国仏教社会史研究︵増

訂版︶﹄朋友書店︑二〇〇二年︒初出は一九七九年︶参照︒

25︶ 走馬承受については

︑佐伯富

﹁宋代走馬承受の研究︱君主独裁権研究の一齣﹂

﹃中国史研究﹄第一

︵東洋史研究会

一九六九年︒初出は一九四四年︶︒および拙稿﹁直睿思殿と承受官︱北宋末の宦官官職﹂︵﹃東洋史研究﹄七四︱二︑二〇一五年︶

を参照︒

六三所引﹃安陽集﹄﹁魏公家伝﹂﹁辞樞密副使第五箚子﹂など︶︒また韓琦が亡くなったときの弔問の使者も李舜挙であった︵﹃長 26︶特に韓琦は︑神宗からの宣や詔勅を李舜挙から伝えられている︵﹃長編﹄巻二一〇・熙寧三年四月戊子条︑﹃紀事本末﹄巻

編﹄巻二六五・熙寧八年六月戊午条︶︒

27︶﹃長編﹄巻二八三・熙寧十年六月己卯条︑同書巻二八四・熙寧十年八月辛巳条︒

28︶﹃宋会要﹄職官四一︱七七・元豊五年二月四日条︑﹃長編﹄巻三二三・元豊五年二月丙辰条︒

29︶﹃長編﹄巻三二七・元豊五年六月条︒この条によると︑もと文彦博が西夏への再侵攻作戦について諫言を行っていたが容れ

られていなかったが︑李舜挙が上奏したことにより︑皇帝ははじめて陝西地方の実情について信用したという︒彼が神宗に信頼されていたことの証左であろう︒

30︶以下︑しばらくの記述は︑﹃宋会要﹄兵八︱二八・元豊五年五月二十六日条︑﹃長編﹄巻三二六・元豊五年五月条︑﹃長編﹄

(22)

巻三二九・元豊五年九月丙戌︑戊戌条︑﹃宋史﹄巻一六・神宗本紀・元豊五年九月丁亥条︑﹃宋会要﹄兵八︱二八〜二九・元豊五年九月二十日条︒

31︶この最期の状況と上奏文は︑同時代の士大夫らにとっても大変衝撃的な出来事であったらしく︑司馬光︵﹃䘔水記聞﹄巻

一四︶・蘇軾︵﹃東坡志林﹄巻四︶・張舜民︵﹃画録﹄不分巻︶・邵伯温︵﹃邵氏聞見録﹄巻一〇︶などで取り上げられ︑いずれも賛嘆の評が添えられている︒

32︶﹃長編﹄巻三二九・元豊五年九月丙戌︑戊戌条︒

八年八月壬辰条︒ 33︶おそらくこれは熙寧八年︵一〇七五︶のこと︒﹃宋会要﹄職官一九︱一四・熙寧八年八月三日条︑﹃長編﹄巻二六七・熙寧

34︶﹃長編﹄巻三三〇・元豊五年十月乙丑条︒

35︶﹃長編﹄巻三三一・元豊五年十一月庚辰条︒

36︶﹃長編﹄巻七六・大中祥符四年六月条︒

37︶同じように神宗朝の宦官・李継和が亡くなったとき︑子の従善が父のために加贈を願い出ている︵﹃長編﹄巻二三三・熙寧

五年五月己亥条︶︒

︹付記︺ 本稿は科学研究費補助金・研究活動スタート支援﹁中国宋代における宦官の政治的活動﹂による研究成果

の一部である︒

(23)

北宋時代における宦官世族―開封李氏の例を中心に―

The Eunuch Families in Nor ther n Song Era, with Special Reference to the Li Family in Kaifeng

FUJIMOTO Takeshi

Abstract  A eunuch is defined as a castrated official in Chinese courts. Seen widely in the Eurasian continent, this custom had a particularly long history in China, from the ancient era before Christ. Eunuchs were either slaves or officials who served the then emperor in the inner palace. Closely connected with the emperors, they lorded it over others and intervened in national politics. The peculiar physical mark given to them emphasized their negative character to a great extent.

  In Northern Song primary sources, we can often find a number of expressions, such as child and wife of eunuchs. Nevertheless to say, eunuchs were deprived of any reproductive functions, and of having their own child. In my investigation into this point, particularly through examining various primary sources, I found out that an imperial order issued in the earlier Northern Song period permitted eunuchs, who were thirty years of age or over, to adopt at least one child. In doing so, I also discov- ered a patrimonial system in which Northern Song eunuchs largely made their adopt- ed sons to inherit their families, and most of the sons became eunuchs to serve the next emperor. As a result, several eunuch families came into existence. While some eunuchs adopted several children, bringing up them as brothers, others were mar- ried to a woman introduced by the emperor, thereby setting up a residence outside the court. My research shows that they enjoyed a family life similar to that of ordi- nary bureaucrats.

  In the Northern Song Era, as this paper shows, the inner palace was largely main- tained by a limited number of the eunuch families. However, it is impossible to eluci- date the overall picture, because of the limited availability of historical documents.

Still, with some relatively minor and fragmented documents, we should pay attentions to several eunuch families that served the inner palace of the Northern Song Emper- ors. One was a family that Li Shenfu originated. This family gave six family heads and twelve members, who ser ved the Northern Song’s emperors from the first to sixth emperors. In particular, Li Shenfu, known as mild-tempered in character, at- tended the Emperor Taizong and Emperor Zhenzong for fifty years in all. His grand- son Li Shunju worked as a serviceman for the Emperor Shenzong and later died in

(24)

battle. The scholar-officials, such as Sima Guang and Su Shi, praised him for loyalty and grace in the last moment.

  In conclusion, this paper argues that the realities of Northern Song Era eunuchs, as shown above, differ to a certain degree from the existing conception of Chinese eunuchs.

Keywords: Northern Song Era, Eunuch, Adopted Son

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