茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)五八号 (二〇〇九)一︱一二 一 全体性としての一人称
黒田喜夫の作品の独自性は、ことばの運動性にある。
詩における喩は、原則として一行を単位として成立し、それが全体
へと収斂され、詩作品としての喩の構造を完成させる。この時、行は
全体という最終的な喩のために奉仕する部分としての役割を担い、「語
り手」は常に「全体」的な視野を俯瞰できる位置を保ちながら、行に
おける喩を統括する。換言すれば、「語り手」がことばを発すること
は、自己=作品を完成させるために、観念を冒険的に創出する行為で
あり、観念を完成させることで、自己をことばにおいて完結させる行
為といえる。「語り手」は、「完結」を予測しながら、全体と部分を往
還する。この行為は基本的に静的であり、空間的行為である。全体と
いう完結した空間構造に「語り手」は奉仕するといってもよい。この
ことは、基本的には散文と変わりはない。
ぼくはいう
ぼくが粘土のかたまりを小鳥だと思ったとき
小鳥が飛んでいった
目をあげると拡がっている空気に泳ぎとけていった けれど前を見ると そこにあった
空気の底に粘土のかたまりが
ぼくは好きだあの小鳥を
それよりもぼくは好きだ空気の底の粘土のかたまりを
けれど本当は小鳥と粘土のかたまりを
ひき裂かれながら見ているひとつの目だけをぼくは好きだ
(「子供の歌Ⅱ」〈ぼくはいう〉)
「ぼくはいう」を縁取りとして、「粘土」と「小鳥」が引き合う緊張
関係が、「ぼくは好きだ」という発語へと「語り手」を誘導する。「語
り手」が、不在のことばに「ぼくはいう」という縁取りを投げ与えた
とき、ある全体性が予測されており、全体性をすでに「語り手」は俯
瞰している。全体性の頂点は、もちろん「小鳥と粘土のかたまりを/
ひき裂かれながら見ているひとつの目だけをぼくは好きだ」である。
二行目から八行目までは、この頂点を出現させるための過程であり、
それはこの「頂点」のために引き出された喩としての表現である。逆
に言えば、この全体性そのものが、行の部分性を意義あるものとして
いる。「ひき裂かれながら見ているひとつの目」は全体性を担うもの
であり、当然、これはその他の行の奉仕によって支えられている。 黒田喜夫︱〈喩〉の成立(3)︱橋 浦 洋 志
茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)五八号 (二〇〇九)二
「ぼく」によってこの構造を確認することができる。一行目の「ぼく」
は、以下の「ぼく」からは超越的な位置にある。即ち、以下の「ぼく」
を語ることが出来る位置にある。二行目の「ぼくが粘土のかたまりを
小鳥だと思った」「ぼく」は、「目をあげ」「前を見る」「ぼく」によっ
て相対化され、やがて、七行目の「ぼくは好きだあの小鳥を」によっ
て、一連の「ぼく」は受け取られる。しかし、この「ぼく」は八行目
の「それよりもぼくは好きだ」によって、再び相対化され、さらにそ
れは「けれど本当は」「ひき裂かれながら見ているひとつの目だけを
ぼくは好きだ」によって相対化される。そして、この最終行の「ぼく」
は、おそらく、冒頭部の「ぼく」の位置に最も近い。
このような「ぼく」の運動性を抱えながらも、冒頭部「ぼくはいう」
に示されているように、全体性としての「ぼく」へと収斂される、静
的な空間構造を成しているのが、この作品である。
「ぼく」の相対性を、そのまま露出し、そのことによって全体性を
獲得しているのが、〈ぼくはいう〉の後半である。
ぼくはいう
ひと息ごとに死んだ小鳥が吐きだされる
死んだ小鳥の目につめたい沼がある
沼に凍った魚が死んでいる
魚の腹にいっぽんのさびた針が刺さっていると
けれどぼくはもうそのあとはいわない
ひと息ごとに死んだ小鳥が吐きだされる
さびた針が刺さっているのはぼくの舌だったと あとは黙っていて
そのあとにひと言だけぼくはいう
本当は死んだ小鳥などいなかった
沼に凍った魚など見えなかった
けれどさびた針のありかは
いつかぼくの本当の死苦を見る目がいうだろう と
「ぼくはいう」は、ここでは、全体性を持たずに第一連の縁取りに
留まっており、「ぼくはいう」は第一連最終行の「と」と呼応している。
第二連は、第一連の「ぼく」を相対化して、「けれどぼくはもうその
あとはいわない」と始められる。この「いわない」は第二連最終行の「と」
と呼応して、第三連の「あとは黙っていて」に引き継がれる。第三連
の「ひと言だけぼくはいう」は、同じように最終行の「と」と呼応し
ている。 このように「ぼく」は連を縁取りながら、連の進行がこれを相対化
していて、このことは、「ぼくはいう」「ぼくはもうそのあとはいわな
い」「そのあとにひと言だけぼくはいう」という「ぼく」の行為とし
て語られる。
しかし、この「ぼく」の一連の「いう」行為が、他ならぬ全体性を
完結させている。そのことは「本当は」「本当の」という、ことばに
示されており、換言すれば、第一連「ぼくはいう」、第二連「けれど
ぼくは」、第三連「本当は」という、単純な構造を取ってるのであり、
「語り手」は「ぼく」の全体性を巧みに完成させているといえる。
黒田喜夫︱〈喩〉の成立(3)︱三 二 一人称の解体へ
おお不思議なもの
それが見たい
理由もなく捕らえられた誰か
死をまつ男
かれが窓から見た 窓の外を
ぼくはこういいたいのだ
リンチをまっている黒人 樹の下にまっている誰か
かれがそこに立っていたと 何処かの樹の下に
ぼくはかれに会いたい
斬られた自分の首を両手にもっている中国人
いつか黙って死んだ誰か
しつような
ものすごいかれの沈黙に
ぼくは期待する
黒人はすばらしい黒人霊歌をうたうだろう
中国人はすばらしい幽霊になるだろう
おおだがぼくは期待する それより
ぼくの期待が裏切られることを
かれが決してうたわないことを
ぼくは不思議なものを見る
そのとき 理由もなく捕らえられた誰か 死をまつ男
彼が窓から見た ただの
ものすごく凡然たる窓の外を
(「断章」第一節)
「断章」は五節から成っている。第二連は「ぼくはこういいたいのだ」
と始まるが、第一連の冒頭の五行が、この「ぼく」を誘起する。第一
連の冒頭部は、「不思議なもの」を「見たい」という「語り手」の欲
求の直叙であり、その内容は「かれが窓から見た」「窓の外」である。
「見たい」は「を」と呼応して、「語り手」の意志は、いったん完結さ
れるが、それはさらに、第二連で展開される。
「ぼくはこういいたいのだ」は、「かれがそこに立っていたと 何処
かの樹の下に」と呼応し、また、「ぼくはかれに会いたい」も同様に、
「ものすごいかれの沈黙に」と呼応して、「ぼく」が完結させられてい
る。即ち、「いいたい」、「会いたい」は、「と」と「に」によって内容
を充填されて、「ぼく」が思想化される。
第三連、冒頭部「ぼくは期待する」は、第二行、第三行の「うたう
だろう」「幽霊になるだろう」と呼応し、さらに「おおだがぼくは期
待する」に受け取られ、それは第五行、第六行の「裏切られることを」
「うたわないことを」によって完結する。即ち、「期待する」「ぼく」は、
「だろう」と「を」によって、思想化され、全体性を獲得する。
第四連は、第一連に戻る。「ぼくは不思議なものを見る」の「不思
議なもの」に内容を与えられながら、「を」と呼応することで、「ぼく」
が完結する。第一連では隠れていた「ぼく」が、ここで語られること
で、第一連も「ぼく」によって回収される。即ち、ここまでの全四連
が、「ぼく」によって回収され、全体性を完結させる。
茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)五八号 (二〇〇九)四
「ぼく」が「見たい」ものは、「死を待つ男」の「ものすごい沈黙」
である。しかし、「ぼく」は「不思議なもの」を見てしまう。そこに
あるのは「ものすごい沈黙」ではなく、「ものすごく凡然たる窓の外」
に他ならない。「死」に臨んで見つめるものは、「凡然たる」極みにあ
る風景である。「死」は、見つめることに意味を与えはしない。むしろ、
それは「見る」ことの無為、世界の無表情という、世界の原形質に直
面する。 「ぼく」は「黒人霊歌」や「すばらしい幽霊」を「期待する」のだが、「ぼ
く」は、そこに「死」は存在しないという。そうではなく、「死」は「う
た」の向こうに、それには無関心に、ただ「凡然」と存在するだけで
ある。この「ものすごく凡然」たるものにこそ、「ぼく」は立ち向かっ
ていかなければならない。「死」が映し出すこの「不思議」を、「ぼく」
は如何にして意味あらしめるのか。
そして不思議だ
黙っていると手も握らない女
うしろで電車の扉がしまると
女との間に砂利のように空気がつまる
だが 小さな鉛の粒は
網の目となって
空気と人間の肉のなかをとぶ
石の間に転がった死体は
石と同じ冷たさ
女の躰にさしこまれたのは
細長い肉のかたまり
それにつながって 言葉を知らず一人の男がいる
(「断章」第二節)
「そして不思議だ」は、いうまでもなく前節の「凡然」たる世界を
受けるが、「不思議」の内容は、以下の第二節の全行を指している。
それは「手も握らない女」の「石と同じ冷たさ」の「躰」に「さしこ
まれた」「細い肉のかたまり」、これが「女」と「男」との「つながり」
を保証する唯一のものであり、そのようにして「男」は「女」同様に、
「黙って」「言葉を知らず」にそこに在る。「不思議」とは、このよう
な即物的な「つながり」によって、一つの生が産み落とされるという
ことだ。それはあたかも、交接する「死」「冷たさ」によって映し出
される、「窓の外」の「ものすごく凡然たる」生の姿である。
この連には「ぼく」は示されていない。「ぼく」は「語り手」によっ
て隠されて、やがて「一人の男」が、「ぼく」を引き受ける、或いは、
「ぼく」は「一人の男」に憑依する。
そうして、次節で「私」は「醜い児」を生む。即ち、「ぼく」は「男」
を通過して、「女」の「私」へと、「語り手」が移動することで、
「ぼく」は「私」によって産み落とされた「醜い児」としての出
自をたどる。
私は醜い児を生みました
不具の児
はらわたそっくりの児
父親が誰か
どうして知りましょう
黒田喜夫︱〈喩〉の成立(3)︱五 私は眠っていることも知らない
床も枕もなしに
きみは四本の手足で
牢獄をつくる
私はみごもる
牢獄の子供を
自然よりすばらしく醜くさと
美しさをもつ
だが私は欲しくない
私に反抗しない肉体を
悪寒と吐気のなかで
私は叫ぶ
誰も決して父親じゃない
だが私は牢獄の児を生みました
きみらすべてが父親だ
(「断章」第三節)
「私」とは誰か。それは「牢獄の児」を「みごもる」もの、「きみら
すべて」を「父親」とする、「土地」(第五節)である。ここに、黒田
喜夫の独自の感性が重ねられ始める。第二節までは、この「私」にた
どり着くための周到な準備であり、「ぼく」は「私」の誕生によって、
その完結性を解体され、新たな喩の世界に投げ出されている。「ぼく」
は「牢獄の児」であり、「自然よりすばらしく醜さと/美しさをもつ」
存在として、改めて、ここから生き始めるのである。
「私」という「土地」に「牢獄の児」を生ましめた「父親」、即ち歴 史という権力によって辺境を「歴史」から抹殺しながら、「児」を妊
らせる暴力、この暴力の中で「みごもる」「私」は、このような「私
に反抗しない肉体」、反抗しない「牢獄の児」を欲しない。「牢獄の児」
は、「自然」に遍在して暴力を行使する、権力としての「父親」への「反
抗」を求められている。もちろん「父親」と情交した「私」への反抗
を通して。「反抗」という行為としての「ぼく」を、「私」は生んだの
だといってもいい。
そしていちまいの
着物と短いひもの帯
それが邪魔なのだ
胃のひだに不正をかんじるときは
こどもよ
畑のうえで
芋とおなじく裸の児
土色の皮膚に
骨を浮きたたせ
這って
這ってくる児
這ってくる児
這ってくる児
(「断章」第四節)
「こどもよ」と呼びかけるのは、前節の「私」であるが、「語り手」は「こ
ども」即ち「醜い児」に同化している。「胃のひだに不正をかんじるとき」
茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)五八号 (二〇〇九)六
とは、「私」が強いられた飢餓である。「不正」には「語り手」の観念
が託されており、それは「父親」が持ち込んだ、身体化された歴史の
記憶である。
「這ってくる児」は、「語り手」がたどり着いた確かな形象であり、
喩的な求心力を持つ、詩的先導性を帯びている。「這ってくる児」は「語
り手」が獲得した新たな視座であり、ここにあって、「ぼく」は「這っ
てくる児」という行為するものに、憑依しつつ、行為として解体され
ている。「ぼく」の全体性は消えて、「這う」という「行為」が詩行を、
そのつどの新たな光景を手繰り寄せることになる。
道だ
ながいながい
無人の紅花畑のなかの
夏の桑樹の沈黙のなかの
七月の焼畑の灰 ベト病 枯死
十月の谷地 倒れている晩生稲のなかの
ながいながい
誰もいない荒蕪地の
鍬の痕の
時の爪跡に似た土塊の列の
乾きくずれる土地の片
夢の片のなかの
道だ 見えるのは
道の始めと終りと
見えない過程のまんなかを
這っているおれだ おれ 這う
這う
(「断章」第五節)
「這っているおれ」は、詩的行為としての「語り手」である。「語り
手」は行為として存在する。
この「第五節」に至って、「おれ」は詩的主体を獲得し、それは、
改めていえば、「ぼく」という全体性を「這う」という行為によって
解体、奪取することを通して成就されている。「おれ 這う」は、そ
の瞬間の目覚めに近い感覚を持って、発語されている。
「無人の紅花畑」「夏の桑樹の沈黙」は、黒田喜夫が帰って行く故
郷であり、それは、貧しさと飢餓という「不正」によって占領され
た、「誰もいない荒蕪地」である。「土地の片」のような「夢の片」
は、常に帰郷を強いる。それは「見えない過程のまんなかを」「這う」
ことによって、己の在処へとたどり着こうとする意志を要求する。
そのようなものとして、黒田喜夫の「帰郷」が、ここに提示されて
いる。
わが戦争のイメージは何よりこんな風にある。死んだ夏の日の
下で渋に燃えくすぶる桑木の群。流れる病蚕の匂いと無人のよう
に深閑とした聚落と聚落。それは何処でもない私たちの国の、私
たちの土地のおくに見えていたもので、さきの年譜のような時の
区切りを生きた者が、初めて意識ともない意識を覚えたときに見
た、破滅的な農村恐慌と兇作の底に沈んでいる十五年戦争の入口
の日本の村のイメージなのである (1)。
黒田喜夫︱〈喩〉の成立(3)︱七 「這う」は、思想的出自という未見の領野へと進入する、黒田喜夫
の詩的行為としての言葉なのである。
三 抒情と行為
詩を書くことの意味は、己という不確定な存在を完結させようとす
る意志の発動にある。この時、完結への意志は、当然作品の完結性と
して反映される。完結性とは、自己の美的調和か、あるいはイデオロ
ギーとの和解か、いずれかである。この時、完結性は、書き手を詩の
言葉から疎外することで、完結する。何故なら、自己は依然として完
結してはいないからである。ここに調和への反抗的意志が芽生えるこ
とになる。言葉・表現自体への懐疑を露わにした、ダダイズム、ある
いはシュールレアリズムは、向かう方向性は違っても、いずれも、「自
己」の不確定性に忠実であろうとした。それは、言葉そのものとの格
闘を演じはしたが、言葉の秩序の中に再び吸収されていくという、危
うさを常に感じさせるものであった。完結性が常にこれら両者の背景
として存在し、これらを映し出していたからである。
自己の不確定性を、完結性を鏡とした不確定性としてではなく、動
態としての自己、運動としての自己存在として、積極的に捉えること
も可能である。このとき、やはり問題となるのが、言葉という規律で
ある。言葉は動態を秩序化することで意味を確保する。そのとき、秩
序は、多かれ少なかれイデオロギーを抱えて秩序化される。あるいは、
言葉は観念を獲得することで、動態としての自己を固着化する。
如何にして、動態としての自己を確保し、動態としての詩的行為を
持続させるか。詩を書く者が、如何に己の「自由」を、動態として実
現するか。このような問いかけは、特に戦後の詩的出発を考えるとき には重要である。 橋上の人よ
まるで通りがかりの人のように
あなたは灰色の街のなかに帰ってきた。
新しい追憶の血が、
あなたの眼となり、あなたの表情となる「現在」に。
橋上の人よ
さりげなく煙草をくわえて
あなたは破壊された風景のなかに帰ってきた。
新しい希望の血が、
あなたの足を停め、あなたに待つことを命ずる「現在」に。
橋上の人よ
(「橋上の人」Ⅲ部分)
戦後詩の出発を示す、鮎川信夫の作品である。「橋上の人 (2)」は「現在」
に帰ってきた。それは「出発の時よりも貧しくなって」の帰郷である。
従って、「新しい追憶の血」だけが、「現在」に「表情」をもたらすこ
とになる。「現在」という、不可抗な時の流れによって運ばれてきた
時そのものの虚ろさは、しかし、「死」の観念と「希望」の観念の奇
妙な調和で満たされている。このことは、「あなたは愛を持たなかっ
た、/あなたは真理を持たなかった、/あなたは持たざる一切のもの
を求めて、/持てる一切のものを失った。」(Ⅵ)という断言を成立さ
せ、「橋上の人よ」という呼びかけを正面から受け止めて、「現在」を
明確に規定している。
「現在」に立つ書き手は、「孤独な橋上の人」として自問自答し、観
茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)五八号 (二〇〇九)八
念そのものの孤独にさえ立ち会っている。この作品の貴重さは、自問
することが、そのまま観念の孤独を深めていることにある。しかし、
この「孤独」は自足する「孤独」である。「橋上の人よ、/あなたの
内にも、/あなたの外にも夜が来た。」「あなたの内にも、/あなたの
外にも灯がともる。」(Ⅷ)という「現在」を、「死と生の予感におの
のく魂のように、そのひとつひとつが瞬いて、そのひとつひとつが消
えかかる、橋上の人よ。」(Ⅷ)というとき、それは「橋上の人」その
人の孤独を逸脱し、「死と生の予感」という一般化された喩として、「現
在」との親和的関係をつくっているといえる。「橋上の人」の佇む「現
在」は、「橋上の人」との間に決定的な断絶を孕んではいない。
黒田喜夫はこう述べている。
『荒地』における中間層の抒情的世界。彼らはすでに敗戦前に
表現をもっていた。彼 らが敗戦を出発とみないことはいうまで
もない。私には敗戦前に表現はあり得なかった。 ここに巨大な
位差がある。彼らは中間層の抒情を普遍化していることがある。
意味的に 一般的に現実否定だが、詩の本質的な構造においては
現実と調和している (3)。
(「断片(ノート)Ⅰ」)
「敗戦を出発とみない」とは、たとえば、「繋船ホテルの朝の歌」に
おいて、「ところがおれたちは/何処へも行きはしなかった」「おれた
ちはおれたちの神を/おれたちのベッドのなかで絞め殺してしまった
のだろうか」と語る、鮎川信夫の位置が考えられる。基本的に、「敗戦」
の受諾であり、「抒情的」な和解が成立している。
「敗戦」を「出発」として捉えることは、「敗戦」を「歴史」の断絶 として、新たに未来化する契機を所有することを意味する。孤独を抒情化せずに、孤独を「歴史」へと開いてゆこうとする意志、あるいは、「歴
史」を孤独の内に所有しようとする意志が、黒田喜夫を詩なるものへ
と駆り立てるのである。
四 「這う」という戦い
「現在」の自己の有り様を静的に、抒情において受諾するのではな
く、「現在」を未来化する意志を、行為として発現させようとするとき、
抒情という全体性は後方に押しやられる。これに代わって、動態とし
ての自己、即ち「這う」という言葉によって獲得された意志が、行為
としての詩を成立させることになる。
腰を土につけた人影が湧きあがる
草の城の暗がりで木の鍬をけずり
草の戸を開け
猿に似た後姿で白光のしたに這いでていった
(「時と移動」部分)
ここでは、「這う」とは「飢餓の脚」の行為であり、「いつでも土地
は他人のもの」という「支配」される者の姿勢であることが確認で
きる。
「おれは夜を待って叢に這う」(「狂児かえる」)のは、「吹雪のとき
に去り/雪解けも知らない彷徨からかえる」、「家」への帰還の姿であ
る。「おれ」は「叢に這い」狂った「お袋」をうかがう。そして、「叢
に這うおれ」を「敗れ欺かれた戦士といわず疲れた戦士」と呼ぶ。こ
黒田喜夫︱〈喩〉の成立(3)︱九 の「戦士」がやるべきことは、狂った「お袋」の「夢」を「消してゆく」ことであるが、このことは、「お袋」が強いられ続けた「彷徨」を、
逆の意味で自ら引き受けることなのである。
「原点破壊」は「おれ」を視像化し、「近親憎悪」を通して「おれた
ちの多産系」即ち「飢餓と貪婪」を「おれ」の内部に確認する作品で
ある。「農奴誕生か/いまはこの肉の鎖の断種こそ希う」という、行
き場のない情念は、「生む」ことが孕んでいる自己否定と自己肯定の
相克として提示されている。
おれはすばやく四つん這いになり
べとつく胎皮をなめ取ると
破れた袋から蛍烏賊に似た軟体がうようよ這い出した
(「原点破壊」部分)
台所まで這いだしたのが野菜屑にたかる(同前)
おれも横になり乳房のあたりに這ってゆく(同前)
おれはすばやく四つん這いになり
口で捕えては噛みつぶし始めた(同前)
「這う」ことは、「おれたちの多産系」への同化であり、同時に、拒
絶である。「おれはすばやく四つん這いになり」という言葉が、「胎皮
をなめ取る」ことと、「仔ども」を「噛みつぶす」こととの両方にまたがっ
ていることは、「這う」行為が葛藤を孕み、葛藤そのものとして「おれ」
があることをよく示している。ここでの「おれ」は全体性ではなく、「四 つん這いになる」演者として、それは「みんなあなたの種よ」という、
「農奴」の宿命を指示する発話によって、戯画化され、対象化された「お
れ」である。
横たわった盲の牛がいる 横たわった牛の腹のうえを数百の蟻が
這っている
縛られた肢から 痙攣する腹の皮膚のうえを数百の蟻が這っている
(「叫びと行為」部分)
〈叫びのまえ〉と名付けられたこの詩行において、「横たわった盲の
牛」は、「叫び」を内包する様の可視化である。それは「ぼくの喉の
内側に 膜に閉じこめられ 躰をよじりながら」「眠っている」「ぼく」
を育て、やがて、おそらく「叫び」としての「ぼく」を目覚めさせる、
その瞬間を待望している。「這う」のは「ぼく」ではないが、「数百の
蟻」が「牛の腹のうえ」を「這う」ことが、「牛」の「叫び」を準備
するとすれば、これまで述べてきた、「おれ」が「這う」行為は、「飢
餓」の「土地」あるいは「土」の「叫び」を準備し、準備された「叫び」
を、さらに発語へと導きつつ、常に発語に先行する行為としてあった
といえる。
このことは「朝の光」に象徴的に語られている。
目醒めても起きず
這って井戸にゆく
這って顔をあげるうしろから
老いた婦が足をもち