秋 田大学教育文化学部教育実践研究紀要 第
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号2 0 03
年歴史的地域素材の教材化 とその特色 十
一 「古里かるた わた したちの八橋 ・寺内」を事例として一
外池 智 事 秋田大学教育文化学部
「古里か るた わた したちの八橋 ・寺内」 は,
1 9 7 9 ‑ 1 9 8 0
(昭和5 4 ‑ 5 5 )
年 の野尻滋校長 期( 1 9 7 8 ‑ 1 9 8 2 )
に秋田市立八橋小学校で作成 された 「郷土か るた」 で あ る. 野尻氏 はそ の後,同 じ秋田市の他地域 を題材 に5
つのか るたを作成 している.県単位ではな く市町村 単位の同一地区で,計6
つの 「郷土か るた」が作成 された例 は他 に類をみない.本研究で は,主 に歴史的視点を中心 とした地域素材の教材化 について, この 「八橋 ・寺 内か るた」を具体的事例 としてその作成過程を明 らかにす るとともに,同 じ秋田市 の 「郷土 か るた」
である 「土崎郷土か るた」,全国的に著名な 「上毛か るた」 との比較 によ りその題材 にお ける特色を明 らかに した.「八橋 ・寺内か るた」 は, いわば学校が生み出 した文化である.
こうした教材 は, その作成者のみな らず,作成 の舞台 となった学校 において継承 ・発展 さ れ ることによって,地域文化 としての意義を有す る.それは, これまで個別 に開発 ・「消 費」 される教材を,他の教員,当該学校 として共有化す ることであ り, ひいては地域の文 化 として継承す ることである.
キーワー ド:「古里か るた わた したちの八橋 ・寺内」,「郷土か るた」,地域素材,教材化
1.本研究の目的
本研究の目的は,主 に歴史的地域素材の教材化 に ついて,「古里 か るた わた したちの八橋 ・寺 内」
を具体的事例 としてその作成過程を明 らかにす ると ともに,同 じ秋 田市の 「郷土 か るた
1 」
で あ る 「土 崎郷土か るた」,全国的に著名な 「上毛 か るた」 と の比較 によりその題材 における特色を明 らかにす ることである.
昨年度 より平成
1 0
年度版学習指導要領が小 ・中学 校で全面実施 されている.小学校では,従来3・4 年生を中心 に展開 されて きた地域学習を再編 し, さ らに 「調べた ことを表現す る」 ことを重視 している.また,中学校では地理的分野で身近 な地域,都道府 県,国の 3つの規模 に応 じた学習が, また歴史的分
2 0 0 3
年1
月2 1
日受理IDe v e l opme ntofTe ac hi ngMat e r i al sasCul t ural He r i t age
‑A Cas eofaTr adi t i onalJapane s eSt yl eCar d GameDe v e l ope di nYabas e / Te r auc hiAr e a
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第
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年野では 「身近な地域の歴史を調べ る学習」が,身近 な地域を フィール ドとした 「学 び方を学ぶ学習」 と
して重視 されている.身近 な地域を フィール ドとし た学習 は,戦前の郷土教育か ら盛んに提唱 され,戟 後 は地域学習 として様 々な実践が展開されてきたが, 平成
1 0
年度版学習指導要領 において は, 「学 び方 を 学ぶ学習」の展開の場 として身近 な地域 は重視 され ているのである. さて本研究では, こうした身近な 地域 をフィール ドとした学習の うち,特 に歴史的地 域素材の教材化 とその特色 について, 「古里 か るた わた したちの八橋 ・寺内」 (以下 「八橋 ・寺 内か るた」 と略す)を具体的事例 に明 らかに したい.「八橋 ・寺内か るた」 は,
1 9 7 9 ‑ 8 0
(昭和5 4 ‑ 5 5 )
年 に,秋田市立八橋小学校で作成 された.後述す るように,作成の中心 にな ったのは当時同校 の学校長 であ った野尻滋2氏であるが,野尻氏 はその後, 同 じ秋田市の他地域を題材 に
5
つのかるたを作成 して いる3. 県単位 で はな く市 町村単位 の同一地 区で, 合計6つの 「郷土か るた」が作成 された例 は他 に類 をみない.本研究では, こうした秋田市内の各地区1 7
を題材 とした 「郷土かるた」の うち,最初に作成 さ れた 「八橋 ・寺内かるた」を取 り上げる. また,か るたは,遊びを取 り入れた学習方法 として, さらに 伝統玩具を活用 した学習方法 として授業実践に取 り 入れ られてきた. しか し,本研究ではかるた自体の 教育的効果より,む しろかるたの題材 として地域素 材の何を選択 したのか,それをどのように教材化 し たのか,そ してそれにはどのような特色があるのか に注 目したい.かるたは読札 ・取札で構成されるが, その数が限定 されているので,当然その題材 となる 地域素材 も限定 される.かるたの題材 として選択 さ れた地域素材 は,そうした厳選 された結果 としての 地域素材 といえる.結果 としてどのような地域素材 が選択 されたのか,そこにはどのような特色がある のか,そ してそれはどのような過程で作成 されたの かに注 目し分析を試みたい.
2 .
「八橋 ・寺内かるた」作成の経緯 (1)作成の契機まず,「八橋 ・寺内かるた」 の作成 の契機 につ い て取 り上げる.「八橋 ・寺内かるた」 は,
1 9 8 0
(昭 和5 5 )
年1
月,野尻滋校長期( 1 9 7 8 ‑ 1 9 8 2
) に秋 田 市立八橋小学校 により刊行 された.同校 は1 9 7 3
(昭 和4 8 )
年4
月2
日に開校 された学校で,学区は秋田 市八橋,寺内の一部,外旭川の一部であった.当時, 同地区は新興の住宅地であったため,同校 は年々児 童が増加 し,開校 してわずか5
年 の1 9 7 8
(昭和5 3 )
年当時で児童数約
1 , 6 0 0
人,3 8
学級 とい う 「マ ンモ ス校」であった.教室不足のため,特別教室 も普通 教室 として充当されていた. しか し,1 9 7 9
(昭和5 4 )
年の春に秋田市立泉小学校が新設され,八橋学区だっ た泉地区の一部の児童が泉小学校に移ることになり, 児童数約
1 , 2 0 0
人,学級数3 4
にな った. 教室 にゆ とりがで きた同校 は,図書室や郷土資料室などの特別 教室を特設することに した. また,当時 「ゆとりと 充実」を目指 した新学習指導要領
( 1 9 7 7
年度版)の 展開により,授業にも 「ゆとりの時間」が設 けられ るようになった. こうした学校 内施設上 のゆ とり,・ 授業時数上のゆとりといったいわば学校の‑‑ ド上とソフ ト上の二重のゆとりにより,同校 は郷土学習 への積極的取 り組みを目指 したのである.
さらに,八橋 ・寺内地区は,当時新興住宅地 とは いえ,天平年間より秋田出羽柵 としてその痕跡を残 す秋田城地や古四王神社,江戸中期に三河より秋田
1 8
を訪ね 「菅江真澄遊覧記」 と総称 される多数の著作 を残 した菅江真澄の基など豊富な史跡 に恵 まれた地 区であった.加えて,八橋地区はかつて八橋油田と
して昭和期に全国一の産油量をな し, 日本の産油量 の
8 0 %
余 りを産出 した場所であった.すなわち,八 橋小学校の所在である八橋 ・寺内地区は,秋田のみ な らず全国的にもその足跡を残す史跡に恵 まれ,磨 史的観点か ら郷土学習を展開する場所 として恵 まれ た地区であった. しか し,同地区は当時新興住宅地 であったため,そ うした学校近隣の豊富な史跡の存 在 は,児童のみな らず新興住民にも知 られずにいた.これについて,「八橋 ・寺内かるた」作成 の中心 と なった野尻氏 は以下のように述べている.
「八橋小学校で校長を していた時に,油田のや ぐらが,なぜ建て られてのか,わか らない子供 が多いのにびっくりしました.かつて,八橋が 全国有数の油田地帯であったことを知 らなか っ たのです.当時の八橋 は新興住宅地であり,住 民のほとんどが,ほかから移 り住んだ人たちだっ たのです.子供たちが, 自分たちの住んでいる 町について,知 らないのも当然です. そ こで, 郷土の歴史や文化,風俗を遊びなが ら勉強 して
もらうために, カル タ作 りを思 いっいたので す
4 . 」
1 9 7 8
(昭和5 3 )
年に校長 として八橋小学校 に赴任 した野尻氏 は,児童や保護者の方ゐためにと自身で 掲載 した八橋油田の写真を児童が見て, 「先生, こ れ何 ?は しご?」
と問われたことを現在 も鮮明に記 憶 しているという5.秋田市八橋地区で は, 八橋油 田の櫓が同地区の景観の象徴であった. しか し,そ こに生 きる児童 は, もはやその象徴的景観である櫓 の存在を知 らなかったのである. こうした状況 に対 し,野尻氏 は,身近な史跡 とそれを通 した郷土学習 への取 り組みの必要性を痛感 した.すなわち,児童 の家庭生活や学校生活を取 り囲む豊富な史跡を活か し,豊かな人間形成をね らいとした学習活動の構築 を目指 したのである.(2)「学年の広場」の活動
以上のような契機を踏 まえ,八橋小学校では野尻 校長を中心 に郷土学習に取 り組んでいった.具体的 には
,
「心豊かな児童を育てる教育 を目指す」 とし秋 田大学教育文化学部教育実践研究紀要
て
1 9 7 9
(昭和5 4 )
年か ら 「学年の広場」 を特設 し, これまで何気な く見過 ごして きた児童の身近 にある 史跡や神社 ・寺院など,学区内の史跡巡 りを行 う一 方,郷土資料室を設 けて郷土学習を進めたのである.当時秋田県下では 「ふ るさと学習」への取 り組みが 盛んに求め られるようになってお り,「学年の広場」
は,そ うした 「ふ るさと学習」への主体的取 り組み で もあった.
こうした 「学年の広場」の展開に当た り,八橋小 学校の教諭たちは 「学年の広場研究 グループ.」を組
織 し,学習内容の構成や教材研究 に取 り組んだ.実 際の学習活動 においては,全学年 を通 じて各教科, 道徳,特別活動 の各領域 において,関連内容 におけ
る全ての機会 に学校近隣の地域素材を活かす ととも に,年間三回,各学年 ごとに近隣史跡へのフィール ドワークを行 い,史跡 の歴史的学習や描画,作文な どを実施 した.すなわち,例えば昭和初期の郷土教 育の中で展開 された 「郷土科」のように,特設の時 間を年間の教育課程 に設 けて実施 す るので はな く, 学習のあ らゆる機会を通 じて地域素材を取 り扱 うと いった, いわゆる 「各科の郷土化」 の視点 による郷 土学習である
6 .
また,教室のゆとりにより特設 された郷土学習室 ら, この 「学年の広場」 による郷土学習に重要な役 割を果た した.野尻滋校長 と新山雄彦 (社会科)教 諭が中心 とな り, こうした 「学年 の広場」 の活動を 活か し, これ と連動 した郷土学習室の充実を目指 し たのである.郷土学習室の内容資料 の収集 に関 して は,児童の保護者や八橋池田の資料を有す る帝国石 油秋田鉱業所 にも呼びかけ,石油の歴史や写真資料 なども収集 された.石油櫓 の写真 も,学校近隣の写 真店 により複製 され掲示 された. また,地域 に伝え られる八橋人形 も,製作者の道川‑ナ氏や高松茂子 氏 により, ひな祭 りに合わせてさまざまな人形が寄 贈 された. さらに,秋 田佐竹 ライオ ンズクラブか ら
は,高 さ
2
メー トルの杉材 による石油櫓の手作 り模 型 も寄贈 された7
. また, 同校 で は こう した郷土学 習室の内容充実を目指 した収集活動ばか りではなく, 積極的に収集 された資料を活用 した学習 も展開 され た.例えば,図工 を主担当 とす る小松 (現在 中村) 恵子教諭 は,旧い絵図を題材 とした大判の古地図の 再現学習8,社会科では前述 した選定地域 へ の児童 とのフィール ドワーク,史跡の写真撮影,その由来 を調査す る学習などを展開 した. こうした八橋小学第
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年校の熱意 ある取 り組みは,やがて住民 に も伝 わ り, PTAか らは 「父母 にも郷土学 習 の場 を提供 して ほ
しい」 との申 し入れがあ って,野尻氏が中心 とな り 史跡巡 りも実施 された
9 .
(3)作成の経緯
そ して, こうした 「学年の広場」 の取 り組み と並 行 して, さらに 「遊 び」を取 り入れて楽 しく学習を 進 めようと 「八橋 ・寺内か るた」 の作成が企図 され たのである.地域の素材を 「か るた」 とい う形で教 材化 しよ うという発想は,当時明治図書が中心 となっ て進めていた 「郷土か るた」 による影響 が大 きい.
明治図書 は
1 9 7 9
(昭和5 4 )
年 の頃,学習教材部門に おいて11種 (宮城,秋田,岩手,会津,茨城,東京( 2 3
区),静岡(駿河),西三河,名古屋,尾張,石川)の郷土か るたを製作 した. しか し,実際 は同社の単 独製作ではな く,同社の企画により賛同 した各地方 の学校教育団体 に依頼 し作成 された10. 秋 田県 の場 合 は,県内の小 ・中学校の社会科 の教員で組織 され た秋田県社会科教育研究会が中心 とな り,
1 9 7 9
(昭 和5 4 )
年 に郷土か るた 「わた したちの秋田」 として 作成 された.八橋小学校 の校長である野尻氏 は,当 時同会の副会長を務めてお り, この企画に関わ って いた.地域素材を 「か るた」
という形で教材化す る という発想 は, この企画 による影響が大 きい. しか し,実際の作成 において,「わた したちの秋 田」 と「八橋 ・寺内か るた」 それぞれは, ほぼ同時期 に同 時並行 して作成 されてお り,「か るた」 とい う表現 手段 は影響 を受 けているに して も,実質的な作成 は 八橋小学校独 自に製作 された11.
さて,「八橋 ・寺内か るた」 の作成 は, こう した
「わた したちの秋 田」作成 に ヒン トを得 た野尻氏 が 提起 し,八橋小学校 の主体的取 り組みにより作成 さ れた.作成 は
1 9 7 9
(昭和5 4 )
年の夏休みか ら開始 さ れた.豊富 な地域素材の組織化 に当た り, まず教員 が積極的に地域を学ぶ必要があるとして,当時秋田 大学附属小学校教諭で秋田市内の史跡 に詳 しく, ま た 『秋田魁新報』 に 「八橋物語」 を長期連載1 2
した 飯塚喜一氏 に依頼 し,学校近隣のフィール ドワーク が実施 された. また,その際に井上隆明 (秋田経法 大学)『秋田の今昔』 (歴史図書社,1 9 7 7 )
が参考文 献 とされた13. こうした教員 による史跡探索を通 じ, か るたの題材 として5 1
カ所の近隣史跡が選定された.次にかるた自体の作成資料収集 として,さらなるフィー
1 9
ル ドワークが実施 された.各教員が選定 された史跡 を分担 し,史跡の由来 に関す る情報収集や,取 り札 の図案 となる写真撮影やモデル写生 が実施 された.
「八橋 ・寺内か るた」 は,読札 と取札, か るた地図 の三点 よりなるが,実際のか るた作成 に当た り,戟 札 に関 しては図工を主担当 としていた小松恵子教諭 と桜田佑宏教諭が担当 し,分担 して原画作成 と切 り 絵 による配色を した.一方読札 に関 しては,野尻校 長が中心 とな り作成 し,取札の裏 には題材の解説 も 掲載 された. こうしてはば半年余 りの歳月をかけて 作成 された 「八橋 ・寺内か るた」 は
,1 9 8 0
(昭和5 5 )
年1月に完成 した.「八橋 ・寺内か るた」 は作成中か ら反響が大 きく, 保護者か らは 「一般 の住民でさえ郷土の歴史 に詳 し
くないので,ぜひ,一般 にも分 けて欲 しい
1 4 」
との 強い要望がなされていた.同校 のPTAで は, こうした要望 に対 し特別 に注文を受 けるなどの対応を し たが, これまで 「寺内で育 った兄弟や,子供 たちに 分 けてや りたい」 と,一家で
5
部 も注文す る保護者 や,「親類や友達 にわが郷土を理解 して もらうのに,もっともわか りやすい教材だ」 といって申 し込む人 もお り,完成 した
1 9 8 0
(昭和5 5 )
年1
月末 日時点で,6 0 0
部近 い注文が殺到 した.最終 的 に, 在校生 や学 校 関係者 の分 も含 めて初版 は千部程 作 成 され た.「子 どもたちにもっと自分 たちに住 んで い る地域 を 知 って もらいたい.そ して 自分たちの住んでいると ころはこんなにすぼ らしいところなんだ という気持 ちを持 って もらいたい
1 5 . 」
こうした願いが,「
八橋 ・ 寺内か るた」を完成 させたのである.( 4 )
かるたを契機 と した多様な学習活動の展開 さて,完成 されたか るたは当時同校での学校教育 でどのように活用されたのであろうか.まず 「八橋 ・ 寺内か るた」 は元来遊具であるので,当然遊 びのかるたとして使用 された.お正月の時期 には全校規模 のオーソ ドックスなか るた大会が実施 され,さらに, 文化祭では取札を大 きくして ビニールで コーティン
グした特製取札を雪が積 もる校庭 にば らまき, イベ ン ト的なか るた大会 も実施 された.また文化祭では, か るたで取 り上 げた題材が劇化 され発表 された.戟
り上 げ られた題材 は㊨ の 「面影橋」 (資料1参照) で,かつて刑場へ向か う囚人が最後 に自身の姿を移
した場所 としてその地名が残 る 「面影橋」を劇化 し 発表 した.劇 は保護者 にも公表 され,大変好評だ っ
2 0
たという. また同 じ文化祭では, その後 も継続的に 実施 されたフイ‑ル ドワークの中で収集 された石碑 の拓本 (例えば㊦の 「筆塚」,①の 「岨塚」「鶏卵塚」
など) も展示 された.
次 に各教科での活用について, まず関連単元 にお ける導入や授業の内容教材 として このかるたは活用 された.前述 したように,取札 には題材 となった史 跡が ビジュアルに描かれていると共 にその裏 には史 跡 に関す る解説が記 されている.図 と文書の両方を 活用 した 「各科の郷土化」の視点 による学習展開で ある.特 に社会科では,
3・4
年生 の地域学習で, やはり単元の導入やまとめにおいて, 「八橋 ・寺 内 かるた」 に取 り上 げ られている史跡を対象 に史跡巡 りを実施 し,かつてかるた作成時に教員 自身がな し たフィール ドワークを児童に追体験 させ る学習を展 開 している. また,㊤の 「八橋人形」 に関 して は, 前述の通 り製作者の道川‑ナ氏や高松茂子氏 により 人形 その ものが雛人形などとして郷土資料室 に寄贈されたが,体験学習 として児童 による人形作 りも実 施 された.
このように,八橋小学校では 「八橋 ・寺内かるた」 が契機 とな り,「遊 び」を活用 した学習,「大かるた」
によるイベ ン ト的学習,題材の劇化 によるロールプ レイ ング,拓本収集 による資料展示, 「各科 の郷土 化」,追体験的 フィール ドワーク, そ して人形作 り
による体験学習など,多様 な実践が展開 されたので ある.
3 .
「ふるさとかるた」における題材の分析 (1)「土崎郷土かるた」 と 「上毛かるた」 について次 に,「八橋 ・寺内か るた」の題材 につ いて, 同 じ秋 田市 を題材 と した 「土崎郷土 か るた
」
(以下「土崎か るた」 と略す,資料
2
参照),全国的に郷土 かるたとして有名 な 「上毛 か るた」 (資料3
参照) との比較 により,その特色を明 らかにしていきたい.「八橋 ・寺内か るた」や 「土崎か るた」 な どの学校 が作成主体 となった 「郷土かるた」 時,基本的にそ れを使用す る子 ども達への教育的配慮 により作成 さ れている.すなわち,教材 として如何 に地域題材を 組織化す るか という視点で製作 されている.実際の 史跡数や学術的な文化財の価値 といった視点が優先 されて題材が選定 されているのではな く,学校が作 るか るたとして取 り上 げるべ き題材 は何か,教材化 すべ き題材 は何か といった視点で選定 されていると
秋 田大学教育文化学部教育実践研究紀要
資料1 「古里かるた わた したちの八橋 ・寺内」読札一覧
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寺内や八帳地区の人々は
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LIL・tl<・・い;PI・<♪一・gT.断層の傘岩地零のあと汚し・・"・I‑.1=1■11‑<=tI.、‑J
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年21
資料2 「土崎郷土かるた」読札一覧
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最初の発電所▲●3''rJrlL◎エジソンの明るい光が土崎にへいJ}JItJt▲LT+.4明治三十四年に粋狂軒(今の土崎南中J1‑▲●tいt̲.†̲・tr・̲学校の地)に近江谷栄次氏が石炭に・.tるり'亡▲J‑2ttr川・̲川4'・(▲●莞屯所を連投し、秋田県で帥めて民某にt'▲■11‑J,Il・rH▲屯灯をつけLJ'当時は土崎の町の百軒ぐt・▲p{Jt[いらいに電灯かついたが.経に秋田市の大ll一JlJtr一Jf̲▲lZl工町.適町などに
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電気が送られLJ.海亀
で▲̲,‑すいl̲▲い▲>̲tT一⑳伝統の精神生きても港穐▲>‑・t,...I‑Il・1JI‑r韓功は'七百年の層史と恒良を受け継化.1・<!一ツー5‑.‑.‑い‑ぎ発展.tJ支・・Zて来LJ土崎の人々の心
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糞が.平成元年から平成十二年の完成を巾∫t't
目指している.高さ盲ノー‑ルのポ
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トこl▲▲けい
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タワーやビル'公 噺
.ホテルなどが計画<tl・r1̲され.新しい町づ‑り
l進め・S.れている.1̲̲‑.̲̲lr㊥町なみに滞土のかおりお・.Pが道1rttL.;‑111ヽ▲・̲I,‑一・■1‑‑.江戸時
代
刑か・f土崎の町は安東氏の城
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と呼ば
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町を中心に店
や閉息が並んで.人bt一I.‑1▲〇・・・一Er▲(・,I々が往き来し.特に
韓へ船が着くとr滞;.I.I八丁)は、にぎわっLI.秋 田大学教育文化学部教育実践研究紀要
2 2
資料
3
「上毛かるた」読札一覧白
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晴 ㊥い うことである. ここで は, そ うした地域素材 の教 材化 の視点か ら, いかなる題材が選定 されているの か,「八橋 ・寺 内か るた」 の特色 を 「土 崎 か るた」
「上毛か るた」 との比較か ら明 らかに していきたい.
なお 「土崎か るた」 を比較対照 として選定 したのは,
「八橋 ・寺内か るた」が野尻氏 を中心 とす る教員 の 作成 によるもので あ るの に対 して, 「土 崎 か るた」
は子 ども達 による手作 りか るたで あ るか らで あ る.
「土崎か るた」 は,野尻氏が作成 した 「郷土か るた」
の影響 を受 け,土崎小学校 の小野忠校長 の提言 によ り作成 された.「八橋 ・寺内か るた」 な ど野尻氏 に よるか るたは,題材 の選定や実際のか るた作成 は教 員 によ り作成 されたが,「土崎か るた」 は題材 の選 定か ら読札 の作成,取札 の図案 な ど全てが当時在校 していた児童 によ り作成 された.同 じ秋 田市で も八 橋 ・寺内地区 と土崎地区 とい った対象地域 の違 いに よる題材 の相違 は当然であるが,か るたの作成主体 が相違す るこの二つのか るたを比較す ることで, そ の特色 を明 らか に した い. また 「上毛 か るた」 は
1 9 4 7
(昭和2 2 )
年 に作成 されたわが国の代表的 「郷 土か るた」である.津野匡彦 を中心 とす る群馬県同 胞援護会 (現群馬文化協会) によ って,社会事業活第
2 5 号 2 00 3
年動 の一環 として製作 され,作成 当初か ら今 日まで総 計
1 1 0
万部 の発行部数 を誇 っている1 6 . 1 9 4 8(
昭和23 )
年 に始 め られ た 「上毛 か るた競技大会」 は,1 9 9 7
(平成9)
年 には5 0
回記念大会 を実施 し, 他県 で の 開催数 を圧倒 している.「上毛か るた」 は県単位 の 郷土か るたであ り,「八橋 ・寺内か るた」 や 「土 崎 か るた」 とは題材 の対象範囲の相違 はあるが,全国 を代表す る郷土か るたであ り, その対象題材 を類型 化す ることによ り比較 してみたい.(2)各かるたの題材の比較 による特色
それぞれ三つのか るたに関 して,総札数
4 4
枚 の題 材 による分類 は,資料4
の通 りである.各か るたの 題材 と して,最 も多か った上位3
項 目を挙 げれ ば,「八橋 ・寺内か るた」 は 「史跡」が
1 8
点で最 も多 く, 次が 「地名」で9
点,3
番 目は 「寺社」「神社」「人 名」でそれぞれ4点であ った. また 「土 崎か るた」もやは り 「史跡」が
2 0
点で最 も多 く, 次 は 「人名」で
1
1点,3
番 目は 「その他」で5
点,最後 に 「上毛 か るた」 は 「地名」が最 も多 く2 1
点, 次 が 「人名」で