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軍艦「大和」に関するノート

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(1)

はじめに

1.神戸鉄工所の船舶建造実績をめぐって 2.「大和」の発注経緯

3.「大和」の製造契約 おわりに

はじめに

 小稿が対象とする「大和」とは、有名な戦艦「大和」(二代)ではなく、初代の「大和」である。

同艦は1883(明治16)年2月23日に建造を開始し、1887(明治20)年11月6日に竣工している1。現 在からすると、「大和」という名称が格別の意味合いを持っていたかのように感じられるかもしれ ないが、この時期に地名を艦船名とするのは一般的であり、かつ「大和」という地名が特別視され た様子は窺いえない。にもかかわらず、ここで同艦を検討の対象とするのは建造をめぐって興味深 い論点が存在しており、筆者の予てからの研究テーマとも密接に関係しているからである。

 「大和」は日本海軍が初めて建造した鉄骨木皮艦「葛城」(1,480トン、横須賀造船所建造)の姉 妹艦であるが、海軍内ではなく初めて民間の神戸鉄工所2に発注された。鉄骨木皮とは船体の「主

軍艦「大和」に関するノート

池  田  憲  隆

【研究ノート】

      

1 海軍大臣官房[1934]の「艦船年表」(以下において記載する艦船の起工・竣工時期や排水量のデータ は基本的に本表による)を参照。同年表では初代「大和」の種別を「巡洋艦」としているが、これは 後年に至ってからの認定であり、建造当時には正式の種別規定はなかった。「戦艦」や「巡洋艦」など という艦種に関する規定が明確化されるのは、1898年3月21日付「軍艦及水雷艇類別等級標準」以降の ことである。海軍有終会[1974]には、「明治維新海軍建制の初め、艦船を類別する概ね外国語(Sloop ,Schooner,Gunvessel,Despatch-boat,Corvette,Frigate)等の儘之を称呼し、或は往々甲鉄艦・鉄甲船等の 字を用ひたるものありて、之に関し我国用語の一定せるものはない。明治十六年に至り巡洋艦(当時は 巡航艦とも謂へり)の成語出で、次で砲艦・報知艦(後ち通報艦と改む)・海防艦等の称呼現はれ、同 三十一年に及び艦艇類別の標準を制定せられた」(p.238)とある。なお、日本海軍は自らが所有・使用 する船舶を総称して「艦船」、その内の戦闘を目的とした船舶を「艦艇」、さらにそのなかの主要なもの を「軍艦」と呼んでいるようであり(pp.237-240)、筆者の用語法もそれに従っている。なお、以下で言 及する「大和」とは、すべて初代艦のことをさす。

2 (神戸)小野浜造船所、あるいは経営者の名を冠してキルビー商会造船所ともいわれる。

(2)

要部なる龍骨・肋材・梁・支水隔壁・縦通材等に鉄材を用ひ、之を堅牢にし、座礁擱岸の危険、若 くは海水による腐食等を防がんため、外板・甲板等に木材を用ひ、かくて此の二者の長所を採択混 用する」3という観点から採用された建造方式といわれるが、事実上は鉄船あるいは鋼船への過渡 的なものにすぎなかった4。とはいえ、「日本における西洋型船の建造は、まず木造帆船の建造技術 の習得過程としてなされた」5のであり、鉄あるいは鋼を船体の主要な構造材とするためには、新 たにその加工・建造技術の習得が必要とされたという点で、鉄骨木皮艦の登場は近代日本造船技術 史においてひとつの画期であったことはいうまでもない。

 では、この「大和」が当時の日本における唯一の軍艦建造所であった海軍省横須賀造船所ではな く、また西洋型船舶に関する建造実績をかなり有していた工部省の長崎造船所や神戸造船所でもな く、一民間造船所たる神戸鉄工所に発注されたのか。それを同所の建造能力や技術によって説明す る見解はいくつもある。

 近代日本造船業の生成過程における外国人経営者の役割に注目した鈴木淳は、E・C・キルビー

(Kirby)自身は造船技術をもっていなかったが、彼の経営する神戸鉄工所は10名の外国人技術者 を抱え、建造船は高い評価を得ていたため、「大和」を受注することができたとしている6。しかし ながら、同所が建造してきた船舶と軍艦「大和」とでは規模や仕様において大きく異なるため、そ れだけでは十分な説得力をもっていない。

 また、小野塚知二は「大和」を「機帆船国産化の到達点」といい、「イギリス人技師を擁する造 船所が木から鉄・鋼への転換の過程で先行し」、海軍横須賀造船所は遅れをとっていたと主張して いる7が、「大和」は横須賀で先に着工されていた「葛城」の設計図を基にした、いわば2番艦であっ たことを無視しており、いかなる意味で「到達点」なのかはまったく不明である。しかも、神戸鉄 工所の経営者キルビーは「大和」受注後、資金繰りに苦しんで1年も経たない1883年12月に自殺し ている。そのため、海軍が同所を接収して小野浜造船所を設立し、「大和」の建造を続けることとなっ た。つまり、初の民間造船所による軍艦建造は中途で挫折し、海軍の下でようやく完成することが できたのである。この後、海軍による国内民間造船所への軍艦発注は、1886年の「鳥海」(614トン、

石川島造船所)を唯一の例外として、日露戦時期まで途絶えてしまう。軍拡予算を追い風として外 国企業への発注が急増する一方で、海軍内の造船事業もまた質量ともに拡大していったためである。

 鈴木[1996]・小野塚[2003]の視点を継承しながら、 神戸鉄工所から海軍小野浜造船所への技       

3 造船協会[1911]p.296。

4 ジョージ・ネイシュによれば、「この方式は茶運搬用クリッパー船や、イギリス海軍のスループ型軍艦 や砲艦などの小型船の構造に用いられたものであ」り、「鉄の肋骨上に木の外板を張ると、船底を銅で つつむことができ、底を十分にきれいに保って船の帆走中の大きな妨げをふせぐことができるという利 点があった」(シンガー[1979]p.499)。

5 山本[1994]p.88。

6 鈴木[1996]pp.61-65。

7 小野塚[2003]p.23。

(3)

術者・労働者や機械設備の継承関係を重視した千田武志は、海軍による神戸鉄工所の買収について 外国人経営企業からの技術移転をねらったもの8とし、同所が「横須賀造船所などをさしおいて日 本の鉄骨木皮艦、鉄製艦、鋼製艦の建造において先導的役割」9を果したと述べている。だが、そ の「先導的役割」の内容は小野塚[2003]と同様に明確ではなく、横須賀によりも先行していたと いう点に関する実証はほとんどなされていない。また、神戸鉄工所から海軍小野浜造船所への移行 をそのまま単純に前者から後者への技術的移転とみる視点には疑問が残る。

 近代日本の産業技術形成について魅力的な見取図を提示した中岡哲郎も神戸鉄工所に注目し、「鉄 船への最初の技術跳躍と挫折」の主役を振り当てている10。中岡[2006]は海軍における外国から の技術導入過程について一定の検討をおこなっており、先行して「葛城」を建造した横須賀造船所 の役割についても無視していないが、「大和」建造以後の海軍造船事業にはあまり関心を示してい ない。そのためか、「大和」受注から建造にいたる過程に関する把握にはいささか疑問点がある。

すなわち、前述した諸研究と同様に外国人経営企業からの技術移転という観点に収斂させてしまっ ているきらいがある。

 このような研究史上の問題点について、以下では論点の所在をもう少し具体的に明らかにしなが ら、旧知の資料に若干の新資料を加えて検討してみたい。

1.神戸鉄工所の船舶建造実績をめぐって

 キルビーは1877(明治10)年に共同経営者として神戸鉄工所に参加した後、80年には「キルビー 商会単独の所有」として同所の経営権を把握し、10名の外国人技術者を抱えて、同所の建造船は高 い評価を得ていた、と鈴木[1996]は述べている11。その例証として、大阪商船会社設立時におけ る所有船舶評価額において神戸鉄工所製は工部省の長崎造船所や神戸造船所のそれをはるかに凌い でいたことと、1893(明治26)年に同社の老朽船が整理された際にも同所製はほとんどが現役に留 まったことをあげている12。これらの点に関する評価は、同所製船舶のデータが提示されておらず 検証できないので小稿では保留したい。

 ただし、「大和」受注にとくに関係するのは、神戸鉄工所が琵琶湖の大津-長浜間鉄道連絡船(「太 湖丸」516トン、「第二太湖丸」498トン)2隻を建造した実績13であろう。これらが日本において       

8 千田[2004]p.16。

9 千田[2004]p.29。千田[2014]は神戸鉄工所設立から「大和」建造期、さらには海軍小野浜造船所期 までを広くフォローした論考であるが、視角は前稿と変わっていない。

10 中岡[2006]pp.354-361。

11 鈴木[1996]pp.61-65。

12 官営造船所の前者が114円、後者が97円であったのに対して、神戸鉄工所は168円であったと鈴木は述 べているが、注記された資料である大阪商船株式会社[1934](pp.357-362)からそれらの点を確認す ることはできなかった。というのも、同社史にはこれらの船舶の建造所データが記載されていないか らである。

13 太湖汽船株式会社[1937]pp.11-12。

(4)

初めて建造された鉄製汽船といわれている14からである。ところが、この鉄船建造についてもほと んど詳細は分っていない。この2船について具体的に記述された資料は、中西洋が発掘した長崎造 船所技手佐立二郎の報告15だけであるように思われる。

 中西[1983]によると、佐立は渡辺造船局長から「神戸大阪地方諸工場巡覧」を命ぜられ、1883 年9月に約1ヶ月をかけて調査をおこない、10月に報告書を提出している。以下、当該2船に関す る記述を引用する16

「先頃神戸キルベー会社ノ製造ニ係ル鉄船」

〇船体  船長凡27間、巾凡25呎、水入(船尾ニテ)6呎

〇機械  「聯製ニテ二組・・・・・・即チ「ツヰンスクルー」ナリ・・・・・・一ハ英国ヨリ購ヒ(第 二太湖丸)一ハ該会社ノ製作ナリ 機械ノ大体ハ同一ナレトモ英国製ノ方軽便 ニシテ従テ船ノ水入モ六呎程浅シ」。汽筒径18吋オヨビ36吋、撞動ノ長サ24吋 〇汽鑵  「楕円形ニテ弐筒」

 以上から船体が鉄製であるだけでなく、船長が約49メートル、船幅は約7.6メートルあったこと がわかり、従来の琵琶湖水運小汽船に比すればかなりの大型であった17ことは間違いない。しかも、

機械が「聯製」と書かれているので、機関は2段膨張式と推定される。これらの点から、神戸鉄工 所が当時において相対的に高い技術をもっていたといってよいと思われるが、実際にこの2船をみ た佐立は「其粗製なるに愕きたり」18という感想を残している。就航後における当該2船の機能に 問題があったという記録は残っていないようなので、実用上差し支えないレベルであったというし かないが、国産最初の鉄船という点でその出来は必ずしも芳しくはなかったのかもしれない19。  2段膨張式機関とは、蒸気機関の圧力を高圧にすることが可能になり、シリンダーに残った蒸気 を再度利用できるようにした技術である。これが技術史的に画期的な意味を持つのは、1850年代ま でにスクリュー・プロぺラ、鉄製船体、表面凝縮器が標準的になりつつあったことを前提にして、

1860年代において帆船と競合する蒸気船の地位を決定的に向上させたと考えられるからである。つ まり、この機関を導入することによって石炭消費量は急激に低下し、運航コスト面においても蒸気       

14 造船協会[1911]p.765。

15 中西[1983]pp.623-630。ただし、この原史料を閲覧しえたのは著者本人だけのようである。

16 中西[1983]p.625。

17 大津市[1982](p.341、表25)には、太湖汽船会社の創立時(1882年)に他会社等から購入した15隻の 船舶がリストアップされているが、いずれも100トン未満である。

18 中西[1983]p.628。これは、世評の高さに比してという留保が必要かもしれない。

19 中岡[2006]は、「こうした佐立の証言は太湖丸の仕上がりが、同業者の目から見れば各所に欠点をは らんだものであったことを示すものですが、未経験の一段技術的に高い領域に挑戦するときにはそれ は当然のことです」(p.359)と述べている。

(5)

船は帆船に取って替わることができるようになった20のである。

 この2段膨張式機関が国産船舶に初めて採用されたのは、横須賀造船所が建造した軍艦「清輝」

(1876年竣工、木製897トン)であるといわれている21。「清輝」は先に起工した「迅鯨」とともに当 時の首長ウェルニー自らが設計した22ものであり、同所が初めて竣工させた軍艦であった。同艦は 外車ではなくスクリュー・プロペラを採用し、720実馬力2段膨張式機関を装備していたというこ とと、国産軍艦として初めて欧州への巡航を果たしたという点で、近代日本造船史の一時期を画す る存在であった23といえよう。

 しかし、先取例にありがちな欠点は同艦においても免れておらず、その先進的な機関は故障がち だったようである。竣工後、機関の修復を繰り返しており24、1879 ~ 82年度の1トン当り修理費 は年平均で15.9円とされ、艦齢の若い軍艦のなかでは最も高いものとなっている25。ただし、「清輝」

に続いて英国企業で建造され回航された「扶桑」(1878年竣工、鉄製鉄帯3,717トン)、「金剛」(1878 年竣工、鉄骨木皮2,248トン)、「比叡」(1878年竣工、鉄骨木皮2,248トン)の3艦は排水量が大きい ため、1トン当り修理費はそれほどでもないが、「金剛」以外の2艦修理費額自体は「清輝」より もかなり高額である。その点で、修理の内容をさらに追求する必要があるが、横須賀造船所の製造 技術が未熟であったことだけを唯一の原因とすることはできないようである。ともあれ、その後の 同所における建造軍艦がすべて2段膨張式機関となったということは、「清輝」建造の意義を示す       

20 これらの点については、ヘンドリック[1989]pp.167-177、ヘンドリック[2005]pp.20-22、および中岡[2006]

pp.329-332を参照。それに関連して、「造船史・海軍史」の時期区分について帆船から汽船へと2段階 で把握するのではなく、その間に機帆船時代があったことを重視する見解を小野塚[2003](pp.20-21)

が主張しているが、そこでは製造技術面と戦術や運用面における変化が混同されているように思われ る。純汽船へと移行しえた技術的ターニングポイントは先のヘンドリックの主張に説得力があり、構 造材の変化を基礎にしつつ機関製造技術の変革の結果が主因となって機帆船時代を終焉させたという べきであろう。ただし、商船と軍艦とでは機能面で大きな相違があり、後者の純汽船化は前者に遅れ て鋼製船体と3段膨張式機関の導入によって完成すると考えられる。

21 造船協会[1911]p.365。

22 横須賀海軍工廠[1973]p.227およびp.248。ところが、「その製図は予の計画に基づいて、上田寅吉が 引いたもので...<中略>...全く此の四隻は西洋人の手を借らず、日本人のみの手で出来上がった」(赤 松則良[1918]p.8)という証言があり、当時のフランス人と日本人技師の役割分担は必ずしも明らか ではない。赤松はウエルニー罷免後に横須賀造船所長となり、後に主船局長等を歴任した技術官であっ た。上田は、幕末期に沈没したロシア使節船ディアナ号の代船(ヘダ号)が伊豆の戸田村で建造され た際に船大工として参加し、その後幕府から赤松たちとともにオランダに派遣されて造船技術を研修 し、明治維新後は横須賀造船所の技術官となっている。ヘダ号建造に関する造船史・労働史的考察を おこなったものとして、山本[1994](第1章)があり、幕末時のオランダ造船研修に関する記録とし ては、赤松範一[1976]がある。

23 日本船舶機関史編集委員会[1975]は「主機械ヲ邦人職工ノ手ニ依リ製造セシコトハ異常ノ進歩」(p.328)

と評している。

24 日本船舶機関史編集委員会[1975]、pp.154-158。

25 室山[1984]pp.108-109、第20表。

(6)

ものであろう。

 普通船舶では、工部省兵庫工作局が1880年5月に製造した「浦安丸」の2段膨張式機関が嚆矢と され、同所では続いて「謙譲丸」の機関も同年6月に製造している26。「工部省沿革報告」に収録 された同所の「船舶製造表」27に前者はなく、記載のある後者は排水量が366トン、120公称馬力であっ た。前者は機関のみを受注し、後者は船舶全体を受注したものと思われる。「清輝」に比べると小 さい機関ではあるが、運航コストをシビアに考える必要がある普通船舶の分野において、同所が2 段膨張式機関製造で先行していたことは見逃せない事実であろう。

 それに対して、神戸鉄工所は「太湖丸」2隻建造以前に2段膨張式機関を製造した実績はないよ うである28。その意味で、この機関をいかにして製造したのかという点が重要であろう。先の引用 史料から、両船の機関は1台を英国から購入し、それを手本にしてもう1台を神戸鉄工所が製作し たと解釈できる。この点について、中岡[2006]は「輸入機関の方がずっと軽く、輸入品を載せた 第二太湖丸のほうが吃水が相当浅かったと佐立は観察して」おり、「吃水に影響を与えるほど重い というのは相当なもの」29という評価を下している。他方で、2段膨張式機関はすでに国内で製造       

26 造船協会[1911]p.675。

27 大蔵省[1889]pp.319-321。

28 中岡[2006]p.363(表七-4)。

表1横須賀造船所創立以来の建造艦船(1869-84年起工)

(出典)海軍大臣官房[1934]より、製造費については海軍大臣官房[1966]および室山[1984]

pp.108-109(第20表)、機関については日本船舶機関史編集委員会[1975]による。

(注)この間、英国製造、横須賀組立の水雷艇4隻がある。

(単位:ノット、トン、千円)

艦船名 船材 起工年月 進水年月 竣工年月 速力 排水量 機関 製造費

1トン当たり 製造費

蒼龍丸 木

1869/11 1872 /5 1872/8 ? 198

単式

? ?

第一利根丸 木

1870/12 1872/ 3 1873/12 ? 170

単式

? ?

第二利根丸 木

1871/ 5 1873/12 1874/12 ? 109

単式

? ?

函容丸 木

1871/ 9 1873/10 1875/21 ? 450

単式

? ?

迅鯨 木

1873/ 9 1876/ 9 1881/ 8 12 1,450

単式

716 0.49

清輝 木

1873/11 1875/ 3 1876/ 6 9 897

2段膨張

202 0.23

天城 木

1875/ 9 1877/ 3 1878/ 4 10 936

2段膨張

241 0.26

磐城 木

1877/ 2 1878/ 7 1880/ 7 10 656

2段膨張

267 0.41

海門 木

1877/ 9 1882/ 8 1884/ 3 12 1,358

2段膨張

619 0.46

天龍 木

1878/ 2 1883/ 8 1885/ 3 11 1,547

2段膨張

698 0.45

葛城 鉄骨木皮

1882/12 1885/ 3 1887/11 13 1,480

2段膨張

918 0.62

武蔵 鉄骨木皮

1884/10 1886/ 3 1888/ 2 13 1,480

2段膨張

796 0.54

(7)

されているので、「製造技術は大きな飛躍ではなかった」30とも述べており、この2つの評価には 矛盾する面がある。

 そこで、同所の技術者や設備のあり方について検討しよう。鉄船建造に際して「キルビーは、内 務省駅逓寮・農商務省で五年にわたって海員司験官・汽船検査官をしていたJ.エラートンを技師と したほか、新たに五名の外国人を雇い入れた」31と鈴木は述べている。エラートンについては後に 大阪鉄工所の鋼船建造を指導したこと32を指摘し、鉄製・鋼製船体の建造技術者であったことを示 唆しているが、その役割は不明な点が多い。

 また、千田[2004]は『コマーシャルレポート』33に基づきながら同所の設備について「海岸に 面した埠頭に重量物を揚陸する二又クレーンをそなえているので、吃水一八フィートの船舶が接岸 して重量機械、ボイラー、その他の物資を揚陸し搭載することができる」という点や、太湖丸に関 する若干の記述を紹介したが、機関については公称90馬力という以外の新たな情報を提示していな い34

 以上の点から、神戸鉄工所の技術や設備に関する資料が極めて少ないことが分る。それゆえ、現 在において同所の鉄船建造および2段膨張式機関製造に関しては明らかではない点が多く、同所に 関する評価についてはもう少し慎重であるべきであろう。さらに「大和」受注との関連でいえば、

両船の進水が1883年9月であったことにも微妙な問題を含んでいる。というのは、鉄船を建造中で あったという点は確かに実績となるものであったが、大津-長浜間鉄道連絡船が本格的に運航を始 めたのは84年5月35であり、本当の意味で両船の真価が問われるのはこの時期以降になってからで ある。つまり、「大和」受注時においては建造途中であり、その時点では神戸鉄工所の鉄船建造に 関する評価は必ずしも定まっていたものではなかったのである。

      

29 中岡[2006]p.359。

30 中岡[2006]p.366。

31 鈴木[1996]p.63。

32 鈴木[1996]p.67。

33 これについては洲脇[1993]が「各開港場のイギリス領事からの商業報告」という紹介をしたが、千 田[2004] が 出 典 を 明 確 に し て い る。 正 確 に は、CommercialReportbyHerMajesty'sConsulsin Japanである。

34 千田[2004]pp.8-10。

35 太湖汽船株式会社[1937]p.12。これらの連絡船は1889年7月に大津-長浜鉄道が開通することによって、

わずか5年あまりで実働を終える。その後の両船について、同社史は「湖上より姿を消し大阪に搬出、

再び組立てられて同一船名の下に、後日日清戦争に際し陸軍省の御用船として活躍した」(p.14)と述 べるだけである。

(8)

2.「大和」の発注経緯

 神戸鉄工所による「大和」受注という論点についても、重要な史料発掘とともに先鞭を付けたの が鈴木であった36。鈴木[1996]は、キルビーによる川村純義海軍卿宛の2つの書簡(1882年2月 と83年9月)を紹介し、後者に2,000トンまでの鉄製艦が建造できるとあったことが受注を得るため に効果的であったとしている。だが、前述のように「太湖丸」の実績結果が未だ出ておらず、また2,000 トンクラスの軍艦を建造できる根拠(とくに技術と規模)をキルビーが十分に提示していたとはい えないので、その指摘は必ずしも説得力をもっていない。

 その後、新たな論点を付け加えたものに池田[2002]があり、海軍内で鉄艦建造の準備が進行し ていたことを指摘したうえで、海軍が神戸鉄工所に発注することになった理由を海軍側の史料に基 づいて①横須賀造船所の建造余力が乏しかったこと、②神戸鉄工所が鉄船の建造実績を持っていた こと、③職工の大半が日本人であり、材料も国内製が多いこと、④回航費がほとんどかからず、監 督も容易であること、と要約した37。その後、千田[2004]もほぼ同様の指摘おこなっている38。  千田[2004]のオリジナルな論点は、海軍側の理由付けはキルビーの書簡に依拠しているが、そ れはキルビーに対して「海軍卿に近い人物からの情報提供や指導があった」ためではないかと指摘 したところにある39。そうであるとすれば、海軍の筋書き通りに進行したという主張に帰結する。

だが、なぜ海軍側がそういう行動を取ったのかという点は追求されていない。また、上記③の材料 について池田[2002]は「疑問なしとはいえない」という留保をつけていたが、千田[2004]はキ ルビーおよび海軍の説明をそのまま肯定的に受取っている。しかしながら、船体の主要構造材が鉄 であるということは、この時点ではそれらの大半を輸入に頼らざるをえない40のであり、完成した 軍艦を丸ごと輸入するより外貨節約になるとはいえ、それがどの程度のメリットになるかについて は検討を要する点であろう。

 また、中岡[2006]はキルビーの最初の書簡と2回目の書簡を比較して、後者に対する海軍の対 応が正反対であったことを問題にしている。後者に対して海軍の反応が良かったのは、国内で建造 されることによって外貨の流出が防止されることと、鉄船の建造実績があるというキルビーの主張 を受けたうえで、「鉄骨木皮海防艦三隻の、第一艦葛城の設計が終り、建造の検討がはじまったあ たりで手紙がとどいた」という点から説明される41。これもキルビーの主張を鵜呑みにしている点 に疑問が残るものの、海軍側の姿勢変化を考慮したという点が注目される。

      

36 鈴木[1996]pp.63-65。海軍省『公文備考別輯新艦製造部葛城艦・大和艦』という史料はここで初め て紹介されたと思われるが、立ち入った検討はなされていない。

37 池田[2002]p.24。

38 千田[2004]pp.12-13。

39 ただし、後者については推測にすぎず、史料的な裏付けはなされていない。

40 受注契約(後述)によれば代金の支払が銀貨でなされることになっていることや、後に「大和」建造 が遅延した理由としてキルビーが鉄材輸入の遅れを挙げて釈明していることからも明らかである。

41 中岡[2006]pp.359-360。

(9)

 従来、「葛城」の建造経過を明らかにした研究は皆無であるように思われるが、確認できる史料 に基づいてそれを辿ってみると、81年9月に造船局が「新艦製造図」の作成に着手し42、82年5月 に完成させた43ことがわかる。それに基づいて横須賀造船所が「入費概算書」と「模型」を同年6 月~7月に作成し44、それを受けて海軍省は8月12日付けで同所に対して着工命令を出している45 が、実際に起工したのはその年の12月のことであった46。この経過からすると、中岡の推測とはや や違い、着工命令が出た後に2回目のキルビー書簡が届いている。ただし、実際の起工が遅れたこ とに同書簡の影響をみることができるかもしれない。

 以上のように、キルビー書簡が海軍側に対して一定の影響を与えたことは疑いえないところだが、

それだけでは海軍の艦船建造に関する態度がなぜ大きく変化したのかという点を説明できないし、

海軍がなぜ「大和」を外注したのかという真相は解明できないであろう47。1882(明治15)年度の 海軍省予算は約340万円であり、この内の艦船建造費はわずかに約29万円48でしかなかった。だが、

「大和」のモデルとなった「葛城」の建造費は約92万円49である。ほぼ3年分の艦船建造費を叩か なければ、「葛城」1艦の建造はできない。つまり、82年度以前には「葛城」1艦建造が精一杯で あり、それ以上の建艦計画は夢想のようなものにすぎなかったのである。それゆえ、キルビー最初 の書簡は「一般広告ニ類似ノモノ」として黙殺された。

 ところが、同年7月に朝鮮国で突如勃発した壬午事変をめぐって対清関係が急激に緊張していっ た。当初、外務卿井上馨をはじめとする政府首脳は事件の収拾について楽観的な見通しをもってい たが、8月9日に清国政府から朝鮮への派兵通告を受けて日本政府の緊張は一気に高まった50。下関 にて朝鮮政府に対する交渉の指揮をおこなっていた井上は、外務大輔吉田清成に対して「我海軍ニ 三四隻ノガンボートヲ加フルコトニツキ太政大臣右大臣山県松方ニ通知スベキ」と訓電した。その 理由は「今若シ非常ノ場合ニ至ラハ仮令我陸軍ハ可ナリト雖トモ海軍ハ充分ナラス」51というもの       

42 1881年9月14日付海軍卿川村純義宛主船局長赤松則良「新艦製造図調整方着手之義御届」(史料[1])。

43 1882年5月10日付海軍卿川村純義宛主船局長赤松則良「新艦製造図進呈ノ義上申」(史料[2])。

44 1882年7月11日付海軍卿川村純義宛造船所次長渡辺忻三「新艦製造入費概算并ニ模型進達之申出」(史 料[3])。

45 横須賀海軍工廠[1973]p.206。

46 横須賀海軍工廠[1973]p.249。

47 池田[2002]は以下で述べる諸点をほぼ踏まえていたが、ここでは行論の都合上、それらには触れない。

中岡も新著([2013]pp.124-126)ではそれらに言及している。

48 室山[1984]p.100(第16表)。ちなみに81年度は約12万円、80年度は約24万円である。

49 池田[2002]p.21(表1)。

50 高橋[1995]によれば、「清と朝鮮間には伝統的な宗属関係が存在していたが、日本はこれを認めず、

江華条約で朝鮮を独立国と規定したのである。しかし、こうした打撃にもかかわらず、清は対日自 重方針をとり積極的に対抗しようとはせず、朝鮮問題についても日本と直接争おうとはしなかった」

(p.35)。ところが、本「事件発生後ただちに兵船を送るという清の従来とは異なる機敏な対応は、日本 側にとって大きな驚きであった」(p.37)のである。

51 1882年8月10日付外務卿井上馨外務大輔吉田清成宛訓電(史料[4])。

(10)

であった。これに従って、8月10日閣議はこの「ガンボート」の緊急購入策(3 ~ 4隻、100万円程度)

を決定し、欧州留学中の伊藤博文と駐独公使青木周蔵にその旨を打電した52

 8月15日には山県が「陸海軍拡張に関する財政上申」53を建議し、清に対する軍備拡張方針の策 定が閣議で議論された模様である。これによると、山県は海軍については「我邦ト直接附近ナル列 国ト比較シテ之ヲ論セハ少クトモ軍艦四十八艘ヲ備」えることを強く主張し、陸軍については当面 の目標である常備兵4万人体制以上の拡張を求めていた。後者については徴兵令制定段階の軍備基 準に基づく要求であり、それほど大きな軍拡とはいえないが、前者については従来の例を見ないよ うな大軍拡であり、しかも清国を想定敵国としたものであった。

 井上の「ガンボート」購入案と山県上申はほぼ同時期に出されたため、同一線上に捉えられがち であるが、清国に対する戦争準備策という点でじつは両者に明らかな相違があった。前者は有事即 応的戦術であるが、後者は中長期的な戦略である。前者だけが実行されたならば、「大和」発注は ありえなかったはずである。

 ところが、8月の下旬になると早期開戦の可能性は薄れていき、8月26日には清軍が大院君を天 津に連行して旧政権を復活させ、清国政府に助言を受けた朝鮮政府は30日に日本側に全面的に譲歩 した済物捕条約を締結した。こうして、壬午事変はあっけなく終息し、有事即応的戦術の必要性は 薄れたが、海軍軍拡を中心とした対清中長期的戦略の必要性に関する政府内合意はその後も継続し ていった54。ここに来て、海軍はようやく通常の予算以外に多額の軍拡費を手に入れる可能性を感 じ、新たな建艦計画を構想することになるのである55。これが、キルビー書簡に対する海軍側の姿 勢を根本的に変化させた理由であった。

3.「大和」の製造契約

 海軍が軍拡費に基づく軍拡計画を構想しうるようになったとしても、それだけで神戸鉄工所への 発注が決定されたとはいえない。画期的な2段膨張式機関付鉄骨木皮軍艦の建造を神戸鉄工所に委 ねるだけの十分な根拠を海軍がもっていたとはいいがたいからである。そのため、海軍側の発注理 由を探るためには、受注契約を再度検討することがまず必要であろう。

 受注契約については、池田[2002]が①請負代価は銀貨39万9千円で6回に分割されて支払われ ること、②製造期限は84(明治17)年9月(製造期間20 ヵ月)であり、1 ヵ月遅延するごとに請負 代価の1%を減ずること、③製造中の軍艦および製造所(鉄工所)設備、さらには貯蔵物品を前金       

52 伊藤博文関係文書研究会[1979a]p.107.。この後、青木は伊藤に「些と狼狽様にも相見候得共、畢竟我 政府之真意は備不虞之外無之様被察申候」(伊藤博文関係文書研究会[1979b]p.55)と書き送っている。

53 大山[1966]pp.118-120。

54 室山[1984]pp.117-121、高橋[1995]pp.81-88。この時期について筆者は再度考察した論考を用意している。

55 室山・高橋の研究を踏まえつつも、池田[2001](pp.42-49)は海軍軍拡計画の変化をより具体的に検 討している。

(11)

の抵当とすること、という4点を紹介している56が、それらが「かなり厳しい条件」という一般的 評価を下しただけでさらなる考察をおこなっていない。千田[2004]も契約に触れているが、立ち 入った検討はおこなっていない57

 まず、代価が銀貨39万9千円を通貨に換算すると約60万円となる。この金額をいかに評価すべき かについては、「葛城」および「武蔵」(大和に次いで横須賀で起工された3番艦)の製造予算が判 明しない現状では保留せざるをえない。ただし、表1によれば「武蔵」の製造費は結果的に約80万 円であり、この金額には搭載兵器を含んでいるため、契約代価は妥当な契約額であったといえるか もしれない。だが、銀貨支払ということは外国企業に発注することと変わらなくなるので、キルビー および海軍側があげていたメリットをそのまま受取ることはできない。とはいえ、日本人職工等へ の賃金支払いや国内における資材調達は当然通貨でおこなわれ、それらは国内に還流するので、外 国企業に軍艦を発注したとは異なる結果となろう。

 他方で中岡[2006]は、この契約に神戸鉄工所の経営危機とキルビーの自殺を「予測したような 項目があるのは、この種の契約の当然の項目なのか、それとも海軍がキルビー商会の財務状態を熟 知した上で入れた項目なのかも謎です」58と述べているが、さらなる追求を断念している。そこで、

これに関係する契約条項を以下に引用59しておこう。

請負者ニハ此約定ヲ固守シ其工ヲ竣スル勿論ナレ共、何等無止事故アリ製造中万一此製造 請負ヲ断リ度望ムコトアル時ハ、毎期渡済ニ対スル金額エ一割ノ利子(即百円ニ付十円)

ヲ添ヘ返還シ、且日本海軍省ノ最必要ヲ欠キシ償トシテ外ニ銀貨三万九千九百円(請負代 価金額ノ一割)ヲ注文者ニ差出スヘキコト(第15条)

製造中ナル本艦及ヒ請負者ノ所有ナル製造所及ヒ貯品其他ノ諸品ハ注文者ヨリ請負者ヘ払 フタル前金ノ抵当物ト見做スヘシ、故ニ請負者於テハ此製造ノ約定ヲ果タサヽルノ間ハ、

注文者ノ認可ヲ経ルニ非レハ己ガ所有物ヲ以テ他ニ抵当ト為スヲ得ザルコトトス(第16条)

注文ノ軍艦製造中請負者ニ於テ万一非常意外ナル損害ヲ被リ、為メニ神戸ノ製造所モ維持       

56 池田[2002]p.24。

57 千田[2004](p.13)は、契約条件として排水量と速力を付け加えて紹介している。池田[2002]については、

「かなり厳しい条件を課していた」という文面だけを引用している。千田[2014](p.9-10)は契約につ いて条文を引用して従前より詳しく紹介しているが、ここでも「この契約内容については、神戸鉄工 所に対して『かなり厳しい条件を課していた』と述べられている」というだけで、その内容を検討し たとはいいがたい。

58 中岡[2006]p.361。後(pp.370-371)では条文が引用されているが、ほぼ同じ内容である。

59 1883年3月3日付海軍卿川村純義宛主船局長海軍少将赤松則良「軍艦一艘製造方ニ付『キルビー』ト 条約済之義御届」(史料[5])。

(12)

為シ難ク軍艦製造ノ成功ヲ了ル能ワズ、且毎期渡シ済金額ノ全員返還スル道ヲ得サルガ如 キコトアル時ハ、該金額ニ比較算当シテ着手半途ノ軍艦ヲ以テ之レニ換エ其儘注文者ヘ引 継クベシ、而ルモ猶幾分歟ノ不足アラバ製造所ノ諸器械器具ヲ以テ弁償スルコト(第17条)

 中岡のいう「この種の契約」というのは軍艦外注のことを指しているのか、それよりも広義で政 府が民間企業に対して発注する大型工事全般のことをいうのかが不明であるが、前者についてはこ れ以前に海軍が外部に発注した事例は前述の「扶桑」、「金剛」、「比叡」の3艦しかなく、一般化で きるものではない。そこで、後者についてすこし検討しておきたい。

 政府による民間への支払は原則的に後払いである60が、軍艦については前払いが認められていた ようである。後の時期であるが、大日本帝国憲法と同時期に制定された会計法第25条には「軍艦兵 器弾薬ヲ除ク外工事製造又ハ物件買入ノ為ニ前金払イヲ為スコトヲ得ス」61とある。つまり、軍艦 を発注する際には前払いが認められていたのであり、実際に当該契約では契約締結後に最初の支払 が始まり、以後軍艦受領完了まで6回の支払をおこなうこと(第12条)とされている。

 だが、こうした大型工事(製造)の場合、不首尾に終わる可能性も考慮する必要がある。そのた め、会計法制定後すぐに出された「会計規則」(勅令60号)第69条は「工事又ハ物品ノ競争ニ加ハ ラントシ若クハ其契約ヲ結ハントスル者ハ現金又ハ公債証書ヲ以テ保証金ヲ納ムヘシ」とし、第70 条では「契約ヲ結ハントスル者ハ其事項ノ代金ノ百分ノ十以上」(以上の下線-引用者)と規定し ている62

 「大和」発注の際に結ばれた契約は保証金の代わりとして軍艦および製造所(鉄工所)設備、さ らには貯蔵物品を抵当として設定したものと思われる。前払い額の全額に相当する抵当を設定する 点と、返金において利子と違約金が課せられている点等では、この契約が「かなり厳しい条件」で あったといえるであろうが、逆に受注側からすれば契約時に保証金を納める必要はないのであるか ら、資金繰りの面からみて好都合なものであったにちがいない。

 以上の点から、「大和」の契約条件は海軍側・神戸鉄工所の双方にとってそれなりに合理的で妥 当なものであったと考えられるが、海軍側が神戸鉄工所の艦船建造能力を額面どおりに受取ってい たかどうかは判断しがたい。もちろん、軍拡(艦船整備)計画の実施を急いでいた海軍は、この決 断が成功することを願っていたにちがいないが、目論見通りにいかなかった場合に最低限度以上の

“保険”をかけていたといえるであろう。

      

60 1884年7月5日「経費金支出条規」(太政官第61号達)第6~8条(大蔵省[1926]p.764)を参照。

61 大蔵省[1926]p.828。

62 大蔵省[1926]p.846。これらの成文化された規則は、小稿が対象とする事例よりも後に制定されたも のであるが、このような点について原始会計法(1881年4月28日太政官達第33号)以降、政府内で合 意されつつあったとみてよいであろう。

(13)

おわりに

 「大和」の発注をめぐるいくつかの問題について、研究史にやや立ち入りつつ、資料紹介も含め て考察してきた。その結果として、従来の研究が神戸鉄工所に下してきた評価について、再検討さ れるべき部分が多いことは明らかになったように考えられる。

 今後の課題として資料的制約は大きいものの、「大和」建造過程とその結果を具体的に分析する ことがまず必要である。その際、海軍に神戸鉄工所が接収される前後における区別(設備、技術、

人員、等)が必要であり、その結果として成立した小野浜造船所が神戸鉄工所の何を継承したのか、

あるいはしなかったのか、という点についての考察が重要になるであろう。

【参考文献(刊行)】

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池田憲隆「1883年海軍軍拡前後期の艦船整備と横須賀造船所」弘前大学人文学部『人文社会論叢』(社 会科学篇)第7号、2002年

伊藤博文関係文書研究会編『伊藤博文関係文書』7(塙書房、1979年a)

伊藤博文関係文書研究会編『伊藤博文関係文書』1(塙書房、1979年b)

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(14)

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【未公刊史料】

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[2]海軍省『公文類纂』明治15年続編巻3(防衛省防衛研究所、所蔵)

[3]海軍省『公文番号連及書』5巻(防衛省防衛研究所、所蔵)

[4]外務省『明治十五年朝鮮事件(抄)』(宮内庁宮内公文書館、所蔵)

[5]海軍省『公文備考 別輯新艦製造部 葛城艦 大和艦』(防衛省防衛研究所、所蔵)

参照

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