随想、関西・関東考 : とくに近世の農村の性格か ら見る
その他のタイトル A Historical Comparison of Kansai and Kanto (character of rural society)
著者 宮本 又次
雑誌名 關西大學經済論集
巻 13
号 4‑6
ページ 611‑643
発行年 1963‑12‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/15426
61 I
関西•関東の呼称は元来三関を基準としていったものである。
﹁大宝令﹂には軍防令や関市令があって︑関の通過や整備に関する記事があり︑
越前愛発︵あらち︶等是也﹂とする︒﹁令義解﹂も註して︑この三関をあてている︒当時三関所在の国々を三関国と
称した︒思うに大津京の頃に創置せられ︑以来近江国は帝都の防備上に必要な国であったから︑大津から大和へ遷
都されてからも︑非常に重要視せられ︑従って三関は奈良時代を通じて︑もっぱら軍事上・警固上に大なる意味を
もった︒その位置はいずれも近江国を囲続する山獄の外側にあり︑鈴鹿関はのちの東海道の関宿附近︑不破の関は
中山道の関ガ原︑愛発の関は海津から七里半越によって︑疋田に出るまでの塩津から来た街道との交叉点付近に存 rつ ︒
矢口教授が多年つとめられた関西大学にちなみ︑関西に関する考証を関東との対比において随想風に試みて見よ
随想、関西•関東考(宮本) 随
想
︑ 関 西
関 東 考
宮
﹁三関謂伊勢鈴鹿・美濃不破︑
本
ーとくに近世の農村の性格から見るー—
又
>
次
在していたと考えられる︒三関は当時令の制度によって︑城門を設け︑兵士を駐屯せしめ︑その規模は後世の関所
三関の目的は︑帝王御不予の際︑また崩御の際︑あるいは謀叛人発覚の時︑その外︑天下に事あらばこれを固む
といい︑主として東国から夷秋の侵入を防ぐためであったと伝える︒
つまり大化の改新のあと三関がおかれ︑この国より東を関東︑以西を関西といったらしい
C
大同元年三月︑桓武天皇崩御のため︑使をつかわして︑三関を固守させたことがあった︒その後︑弘仁元年九月
には遷都の説があり︑人心が動揺したので︑伊勢・近江・美濃の故関を鎮められた︒大体大同の末年頃から受発に
代って逢坂が三関の一っとなったようで︑平安時代には逢坂の関所の重要性がまして︑不破・鈴鹿は甚だしき必要
性を見ないまでになった︒蝦夷も次第に鎮定したし︑ただ必要に応じて︑固関使が出て︑儀式的にこれを実行して
いたにすぎなかったという︒延暦八年には天下も泰平となり︑万一のことあれば︑将宣に応じて可ならんというこ
乱して関所の性質も一変し︑鎌倉時代以後︑三関はときに復活することもあったが︑それはまった<往来の取締と
関銭を徴収するためのものとなってしまった︒そして江戸時代には︑三関はただ古跡として歌によまれる程度のも
のにすぎなくなり、不破の関も板庇が残っていたというが、貸屋札が張られたという伝説もあり、鈴鹿•愛発・逢
坂のあとは分明でなくなってしまった︒なお別に源為憲の口遊によれば勢多・鈴鹿・不破を三関としたこともあっ
たよ
うだ
︒
とで三関は廃せられてしまい︑ただ帝都の防備として︑一時逢坂の関のみになったが︑平安朝の末期には地方が紛 に比してきわめて壮大であったという︒ 縣西大學『繹済論集』第十三巻第四•五・六合併号二三四
613
関東•関西はこの三関を基準にしていったもので、関東は東海道の十五国、東山道の七国(近江を除く、また磐城以
北は陸奥・出羽の二国である︶︑北陸道の六国︵若狭をのぞく︶の二十八カ国をいったものである︒
貞永式目ー吾妻鏡によると︑しばしば鎌倉幕府のことを関東と書いているが︑これは京都・朝廷に対していう語
であって、関東幕府の略称であるにすぎず、関東•関西と対称的にいった言葉ではない。
﹁吾妻鏡﹂の建仁三年八月二十七日の条によると︑﹁以関西三十八カ国地頭職被奉譲舎弟千幡君十オ︑以関東二十
八カ国地頭井惣守護被充御長子一幡君六オ﹂とある︒これは源頼家が病気になって︑その弟の千幡と子の一幡とに
関東二十八カ国と関西三十八カ国を分割しようとした記事であって︑
もとにしていたと考えられる︒ところがのちに﹁安斉随筆﹂によると︵巻二十二︶五畿内と東山二道の国々を加えて
二十八州とし︑北陸・山陰・山陽・南海・西海五道の国を合して︑三十八州としている︒この安斉説によると︑別
に三関をもって区別の標準とはせず︑関なる概念にとらわれていない︒
わち壱岐と対馬は畿内七道の国数にいれない︶関西を三十八州︑関東を二十八州と勘定するのが普通になっていた︒
この関東•関西の振り分けは、相当に錯雑たるものをもっていたわけだ。
受発の関の西なる若狭と︑不破の関の西なる近江とは︑これを関西に入れ︑伊賀は伊勢と共に関東に入れねばな
奈良時代において︑大和から東国へいくためには︑まず山城に出て︑逢坂関を越えて近江に入り︑さらに東海道
へは伊勢の鈴鹿関を︑東山道へは美濃の不破関を︑北陸道へは越前の愛発関を越えていったものだ︑だから東方へ
随想、関西•関東考(宮本) らぬことになる︒ しかし三関をもとにして東西にわけ︑関東•関西の境界とする場合には、
二三五 当時の全国は六十六カ国で︵二島すな この場合にはなお三関(鈴鹿・不破•愛発)を
しかし︑関八州を関東というようになってもへまだ決して箱根以西を関西とはいわず︑関西というときはやはり
なお︑別に古くから東海道の足柄峠から以東を坂東というならわしがあったが︑これが江戸時代になってから︑
箱根関以東を指す関東と混同してしまい︑関東と坂東とはつまり関八州である武蔵国以下八カ国をふくむものにな
って
しま
った
︒
鈴鹿関あたりをもって区分し︑その以西をいったのである︒ 根以東の八州を関東八州ー関八州と称するに至った︒ を関東といった称呼をうけついだまでであろう︒ は二重の関を越えていったわけで、近江は畿内の外であるが、なお鈴鹿・不破•愛知の三関からいうと、関内、関西であった︑もちろんここにも若干の疑点がある︑若狭は愛発関より西方ではあるが︑もと越前の一部であって︑越前に類する点が多かった︒また伊賀は地勢上︑大和に入れた方がよいところもあって︑伊賀が伊勢に近似する
相模以下の東海道の六国と上野・下野とは坂東又は山東といった︒坂東とは足柄以東︑山東とは碓氷峠以東の義
である︒そしてまだこの頃には関東八州ー関八州の呼称はなかった︒足利時代になると関東管領が出来るが︑その
管領するところは関東二十八カ国のように広きにわたらず︑といって八州の地とも限らなかった︑これは鎌倉幕府
のちに︑江戸時代になると八州の地がとくに重要となり︑ここで箱根の関所が重んぜられる︒そしていつしか箱 か︑または大和に近いかは︑多少の問題があるのである︒ 隣西大學『華済論集』第十三巻第四•五・六合併号二三六
61 5
これに対し関西も元来は不破・鈴鹿の二関の西であるから︑伊勢・伊賀・近江をも含ませるべきであるが︑のち
には逢坂の関が指標となって︑その以西になってしまい︑普通に京坂地方といわれている淀川流域地方並びに大和
から出て︑河内を貫き︑同じく瀬戸内海に注ぐ大和川流域地方を中心にして︑南は山脈婉々として河川の大平洋に
注ぐ紀伊︑北は中国山脈が日本海に近づききたり︑丹波を分水嶺として川多く︑日本海に注ぐ山陰地方と︑これを
表裏して瀬戸内海に臨む播磨並びに僅かに海をへだてて︑呼応する淡路とを含ませたのであった︒
このように関西を限定してくると︑これは狭い意味での近畿すなわち畿内あるいは五畿内という地域と大体合致
畿内という言葉がある︒文選註によると﹁天午居二千里
[ I
二京畿︳﹂とあり︑畿とは限界をいったもので︑
ウ チ ッ ク ニ
山抄﹂には畿内を﹁宇治都久仁﹂︵うちつくに︶と訓じている︒宮処︵みやこ︶﹁みやどころ﹂である帝都があって︑
一国の文化の中心をなす土地の意味になっている︒
ば り よ こ が わ
そもそも大化二年に名墾の横河︵伊賀国名張郡︶︑南は紀伊の兄山︵にやま︶
櫛淵︵播磨国明石郡︶︑北は狭々波の合坂山︵おおさかやま︶
やましろき大和•河内・難波・山背の四国に対して四畿内といった(日本書紀)、 ︵近江国滋賀郡︶を限って畿内と定められ︑持統天皇のと
︵山城︶に遷されてからは︑従来の大和を第一とした順序をかえて︑承和三年十月に山城を首位とし︑大和・河内・和
泉・摂津と次第するようになったもので︑これが京都に近接する意味で畿内といわれ︑京畿と称せられるに至った︒
随想、関西•関東考(宮本)
四
したものになってしまう︒二三七 のち和泉をおいて五畿内といい︑帝都が山背
︵紀
伊国
伊都
郡︶
︑西
は赤
石︵
あか
し︶
の レし
﹁i
五
伊勢・志摩の三国は東海道に属したし︑ そしてこれに伊賀・伊勢・近江並びに紀伊・播磨を加えて︑広い意味で﹁近畿﹂と称するに至った︒畿内とそのまた﹁上方﹂これは上︵かみ︶とは皇居のおかれた都をたっとんでの呼称で
みや一﹄らくやう
あって︑帝都の地に向って来ることを﹁上る﹂といい︑京都を唐の都の洛陽になぞらえて上洛という言葉も用いら
れた︒したがって上方も京畿と同じく都︵みやこ・みやどころ︶のある地方の謂である︒
「地方凡例録」には「山城・大和•河内・和泉・摂津、外に近江・播磨・丹波、この三カ国を入れて上方と唱え、
五畿内三州という﹂とある︒近畿が久しく政治・文化の中心をなしていたから︑新興の江戸にくらべて言語・風俗
・気質に至るまでが︑古典的で︑優雅であり︑また女性的なものが感ぜられ︑
場合には︑このような関西に特有の気風や情緒をさして上方風といわれた︒ 二三八
現在いうところの近畿地方は伊勢・志摩を管する三重県︑近江を管する滋賀県︑山城並びに山陰道なる丹波・丹
後を管する京都府︑大和を管する奈良県︑ 周辺の意味である︒
•河内・和泉・摂津を管する大阪府、摂津並びに丹後の一部および播磨
・但馬・淡路を管する兵庫県を総称している︒今日の近畿地方はこの範囲と通常考えられているが︑往古は伊賀・
近江は東山道にはいった︒
︵か
みが
た︶
とい
う呼
称が
ある
が︑
闘西大學『舞済論集』第十三巻第四•五·六合併号
また紀伊はどちらかというと南海道的である
し︑播磨は中国的なものをもち︑山陽道にいれるべきかどうか︑境界的に疑問がのこるのである︒
近畿の西はどこで限るかということであるが︑摂津と播磨とには古くから須磨の関があって︑一応摂津と播磨と 一般に上方という言葉が用いられる
近の諸国をもすべたので︑中国探題という称を得た︒ る ︒ い
る︒
は分けられるであろう︒しかし播磨と備前の間にも早い昔から舟坂峠があった︒上方風は須磨の関を越えて播磨に
はいり︑漸く舟坂峠でくいとめられる︒播磨はやはり上方文化圏の中にいれてよいように思われる︒
また中国という言葉があるが︑これは一応は山陽・山陰両道と考えられるが︑中国という概念は近・中・遠の中
おんごくであって︑上方である畿内五国︑遠は九州であって︑西国であり︑それこそまた遠国ともいった地方にあたる︒
西国というのはもと﹃西の方の国﹄ということであって︑古くは吉備の国より西を西国といったらしいが︑のち
には西国といえば九州に限られるようになってしまった︒東国もはじめは漠然と東の国という位のものであった
が︑恐らくは駿河・遠江又は信濃辺から東であろう︒東国・西国は大体遠国として観念せられるのが常である︒遠
国は古く延喜式にも近国・中国・遠国として定められたもので︑これは上方︑畿内を中心として定められていた︒
上方を中心とすると安芸・長門・周防・九州・土佐と同じく︑相模・武蔵・上総・下総・上野・下野も遠国にな
る︒しかし江戸時代には東国もまた︱つのセンターと考えられたから︑武蔵以下の関八州を遠国とは必らずしも考
えなくなった︒西国は遠国として︑矢張考えられたわけで︑その中間の中国の呼称は永く残存し︑いまものこって
では中国とはどこをいうか︒丹波・丹後も勿論山陰であっても︑中国とはいえまい︒しかし播磨が一番問題にな
北条氏のとき筑前博多に九州探題をおき︑長門の長府に長門探題をおいた︒この長門探題は六波羅探題の下に附
南北朝になると足利直冬が中国探題となって下って︑備後の鞘にいた︑そしてその勢力は周防・長門・石見に及
随想、関西•関東考(宮本)二三九
六
的に見ても故なしとしない︒ のち大内義弘は周防・長門・石見を領して︑隠然として中国探題みたいになった︒義興・義隆に及んで安芸をも
領内に入れ︑東北の山陰道に向っては尼子氏と連年兵を交えた︑この大内氏については﹁中国治乱記﹂という本が
あるので︑大内氏が中国の中心であったことがわかる︒毛利氏が大内氏にかわり︑尼子氏を亡ぽして︑因・但・雲
•隠の四州を掌中におさめ、これらの地方にも中国の名称が及んだ。かくて中国なる地域は事実上、山陽道では備
前以西︑山陰道では因幡以西をいうことになる︒
今日の行政区劃にて山陰道の中にて丹波の大部分と丹後とは山城と共に京都府に属し︑但馬と丹後の一部とは山
陽道の播磨・畿内の摂津の一部︑南海道の淡路と共に兵庫県の管下である︑だからこれらの地域は矢張︑上方的︑
近畿的であって、山陰道では鳥取•島根の二県、山陽道では岡山・広島・山口の三県を合して中国というのは歴史
関西は歴史的にいうと畿内・近畿とは必らずしも一致していないが︑狭義においては大体同じ範域を指すと考え
てもよいようになっている︒江戸時代においても京都・大阪町奉行所の管轄範囲から見て大体︑関西又は近畿の区
劃が想定されるような気がする︒
もと山城・大和・近江・丹波・河内・和泉・摂津・播磨の八カ国の地方に関する訴訟すなわち地論・山論・水論
などは京都町奉行の管轄に属するところであったが︑享保七年の改革で右の八カ国の中︑摂津・河内・和泉・播磨 ん
でい
た︒
隔西大學『華演論集』第十三巻第四•五・六合併号
ニ四
0
619
じ か た
の四カ国の地方に関する訴訟は大阪町奉行の管轄に移された︒これはつまり代官一支配・一領主・一地頭支配の者
の間の訴訟はその代官・領主・地頭が裁判するのであるが︑ただ別の代官・領主・地頭の支配に属する者の間の訴
訟を大阪町奉行所で裁判したわけである。この京都・大阪両町奉行の管轄圏には伊勢・志摩・伊賀•紀伊・丹波・
丹後・但馬・淡路が含まれていない︒淡路は阿波に属し︑伊勢・伊賀と紀伊・志摩なども当時では近畿的な圏から
今日関西経済というときはいわゆる近畿よりももっと広く、福井県や•岡山県をもふくめて、あるいは瀬戸内一
だから関西と近畿とは元来シノニムではないが︑狭義では次第に同意語のようになり︑またちがった意味ではよ
り広く︑あるいは東日本に対する西日本という意味で使用されてもいる︒
元来本来的には東日本・西日本の意味で関東•関西を分けて観念していたわけである。すなわち関東には広義の
東日本の意味と︑狭義の関八州の意味とがあり︑関西にも広義の西日本の意味と狭義の畿内又は近畿の意味があっ
たの
であ
る︒
ニ四
江戸時代において彦根の井伊氏は近江を領して関西の旗頭と称し︑伊勢阿濃津の藤堂氏は伊賀・伊勢を領して関
東の旗頭と称した︒
また慶安二年に吉利支丹奉行井上筑後守が筑前において捕えたるバテレンの口供を幕府に呈したが︑その書の中
に羅馬の法皇はコンハニヤ派とサンフランシスコ派との両派に日本六十六カ国を二つに分けて︑大阪以東はサンフ
ランシスコ派教法を弘め︑以西はコンハニヤ派がこれを弘むべしと定めた由をのせている︒
随想、関西•関東考(宮本) 円までいれて広く考えているむきもある︒ はなれるものをもっていたかも知れない︒
•山陰の五国、南海・西海の諸国であった。
広義の東日本・西日本という意味で関東と関西とを比較して見よう︒
コンロン山系が西より走って︑その合するところに飛騨山脈・信濃高原を現出している︒ ニ四二
また徳川幕府が桝.秤の専売を許された時には桝は東三十三カ国を樽屋藤左衛門に︑西三十三カ国と二島とを福
井作左衛門に許されている︒また秤にては︑東三十三カ国を守随彦太郎に︑西三十三カ国と二島とを神谷善四郎に
この場合東三十三カ国というのは東海道十五国・東山道八国︵磐城以下の七国と陸奥・出羽の二国︶︑北陸道七国と
山陰道の丹波・丹後・但馬の三国即ち所謂三丹地方であって︑西の三十三カ国というのはその残りで︑畿内・山陽
日本の風土は狭長く︑その経度も緯度も十数度にわたり︑従って︑地形・地質・気候に差があるのである︒
西日本は海岸線の屈曲が多く︑従って港湾にとみ︑東日本は海岸線の屈曲が比較的少なく︑従って港湾にとぽし
西日本は湖沼が少ないが︑東日本はこれに比してその数が多く︑地質においても差があった
C
樺太山系が東から西日本では中国・四国を中心として︑東は畿内に︑西は九州にのびた形である︒その北の大部分は花巌岩で︑つい
で和泉砂岩層と称する中生層︑次で古生層︑次に中生層と帯状に東西に縦走している︑また九州では阿蘇・九重・由
布温泉諸山及び霧島山を中心とする附近の火山岩︑丹波・山城及び琵琶湖を包含する古生層が間に拡がっている
C
来り
︑
ヽ
c
︐ "
` 許されている︒
七
隔西大學﹃繹清論集﹄第十三巻第四・五・六合併号
八
・古生層と関東平野に見る如き︑第四紀古層を不規則に播布している︒
この反対であった
C
ニ四
この作付は西では裸麦のもの多く︑東 このように花湖岩の地方が広くわたっているので︑刀剣もこの方面に良品が鍛え上げられ︑良米を出し︑良酒が大体において東日本では尾張の大部分及び房州に見るが如き第三紀層が著しく広い面積にわたり︑これに火山岩
気象上から見ると︑西日本は降水の頻度は必らずしも大ならず︑しかも降水の量は著しく大であるが︑東日本は
稲はもと茫を有するものであるが︑食用として改良した結果︑芭のないものが栽培されている︒もちろん無茫の
ものの栽培はむつかしいが︑西日本では大抵無芭種を栽培しているのに反し︑東では有芭種が多い︒
また大麦には有秤大麦︵通常大麦︶と無秤大麦︵裸麦︶との二種があるが︑
では裸麦のものが甚だ少ない︒
水田の耕作に家畜の力を利用することがあるが︑西日本では畜耕に二人にて家畜を使用することは動物が耕作に
熟練しない間に限っており︑大体農夫一人にて畜耕をするのである︒ところが東国では殆んど二人で使役していた︒
家畜に牛馬の二種があるが︑
こ ︒
tこの牛馬からいっても︑東日本と西日本は対照的であった︒東日本では馬が多く︑
随想、関西•関東考(宮本) 産業上から見ると農耕は西日本で二毛作が多く︑ 醸し出されている︒
東日本では一毛作が多く︑のちになって次第に二毛作になっ
︑ ろ つ
︒
し の方が粗食にたえることが出来る︑ 西日本では牛が多い︒東日本では牛は角でつくといって嫌がるし︑西日本では馬はケルといって嫌う︒概していうと馬は牛にくらぺると耕作に不便であるのみならず︑消化器の構造よりいって︑馬は消化力が牛におとり︑また牛
そのため牛の方が経済的である︒そこで西日本では牛を用いることが多い︒ま
た牛馬は水田の耕作のみならず︑牽娩用にも使われるので︑水田地以外にも飼われている︒関東の武士は馬にのっ
て戦斗し︑京都の平安貴族は牛車にのって都大路をゆっくりある<︒源氏的な生活様式は馬にあるし︑平家的なも
のは牛によっているともいえる︒なお南船北馬というが︑西日本が船に依存して交通するのに対し︑東日本では馬
馬は火山灰の土質地をもって育成に好適している︒したがって東では富士・浅間・那須・吾妻・磐梯・巌手など
の火山を有しているために︑馬は東国を推賞されるに至ったのである︒官牧も馬は東国に多くおかれていた︒
西国には古来牛が多いが︑しかし大山・阿蘇・霧島などの火山の麓には火山灰土質地もあるので︑
原野では馬の育成が行なわれ︑従って九州の方面にはまた馬の使用が多いが︑これは例外ともいえよう︒とりわけ
南九州の日向駒・薩摩駒は良種として人口に膳灸されて来た︒島津藩ではその自然的要素と藩の奨励とで発達した
もので︑かっては領内の原野に所謂四十八牧をおいて馬匹の改良を行なったことがある︒また対島でも独特の小さ
な馬が使用されている︒しかし牛も九州ではなかなかに多い︒中国地方は牛では日本一のようにいわれているが︑
九州も牛ではなかなか良種を多く出しているのである︒東国は大体に馬が多く︑ことに東北は馬地帯であるが︑こ
の東北でも︑例えば盛岡は有名な馬の産国であるのに︑近世後期に近江商人がはいってから︑牛の使用がふえたと によることが多かったのである︒ 腸西大學『糎済論集』第十三巻第四•五・六合併号
それらの麓の ニ四四
623
って
﹂と
用い
る︒
もっとも供給の便不便によって牛馬の別は一律にいかないようだ︒
水田農業には水利が絶対に必要な条件であるが︑西目本は灌漑用の貯水池が多くて︑旱天用の備えには充分であ
るが︑東日本はその設備が比較的にないのである︒
また開墾は人口密度と深い関係があるものであるが︑西日本では原野その他の開墾がほとんど完了し︑すでに江
戸時代の初めにおいて︑海岸の埋立︑開拓があるが︑東日本ではなお沼沢地の開拓の行なわれていない地方が甚だ
西と東は地形地質からいうと美濃・飛蝉方面で︑大体伊勢湾と敦賀湾とを連らねる線をもって区分したいが︑言
語の方からいうと伊勢湾と飛騨山脈と敦賀湾との線をもって︑境とすることが出来る︒
良行四段活用動詞の連用形に助動詞﹁て﹂﹁たり﹂︑
い︑例えば︑西日本では﹁借って﹂︑
て﹁
買う
て﹂
﹁借
りて
﹂
﹁拾
うて
﹂
随想、関西•関東考(宮本) に﹁り﹂を用い︑
﹁凝
りて
﹂
また波行四段活用動詞の連用形に同じく︑助動詞﹁て﹂
﹁た
り﹂
︑
多か
った
︒
九
﹁凝
って
﹂︑
﹁降って﹂という如くであるが︑東では︑
﹁降
りて
﹂と
する
︒
ニ四 五
﹁弔うて﹂という風にするが︑東日本では促音便﹁つ﹂を用いて﹁買って﹂拾って﹂
また地名の称呼に﹁やと﹂﹁やつ﹂﹁や﹂という地名に俗字をあてているものも多いが︑・西にはない︒又渚に相
﹁ 弔
口語﹁た﹂を接する場合に音便﹁う﹂を用い 口語﹁た﹂を接する場合に︑
文語体の場合と同様 西日本では促音便﹁つ﹂を用
郡の内に﹁ゃち﹂
があ
る︒
嘉永•安政の頃から専らこれを用いたらしい。
﹁やと﹂﹁ゃち﹂﹁やつ﹂
﹁ や
﹂
︵古谷︶というのがある 一
は愛
知郡
の﹁
みつ
や﹂
︵四谷︶というのがある︒しかしこれは宝 大体言語上から云うときは伊勢までが西日本系であり︑尾張にいると直ちに東日本系となる︒東山道では近江では西日本系に属するが︑美濃・飛騨にいって東日本系になり︑北陸道では越中は西日本系であるが︑越後にいって東日本系となる︒
谷︵や︶の地名は尾張以東に多い︒もっとも伊勢の三重郡に﹁よっゃ﹂
暦年間の書物﹁三国地志﹂に所見なく︑正徳頃までは四軒家とあったという︒天保頃から四谷の文字があらわれ︑
東山道では近江において︑大字以上の地名としては現在東境に近く二所あるのみである︒
︵三つ谷︶と一は坂田郡の﹁しがや﹂︵志賀谷︶である
C
美濃では西美濃揖斐郡に﹁ふるや﹂が︑矢張少ない︒東にいくに従って多くなる︒飛騨にも大野郡に﹁ほとがや﹂︵鳩ケ谷︶古城郡に﹁しほや﹂︵塩谷︶
北陸道では能登にも︑加賀にも若干あるが︑越前には一っ位しかない︒若狭になると一カ所もない︒越中では大字
以上では︑東境に近く︑常願寺川の上流上新川郡内に﹁かめや﹂︵亀力谷︶というのがあるが︑西越後に入ると頸城
︵谷内︶かなや︵金谷︶やまや︵山谷︶しほや︵塩谷︶かみや︵神谷︶こやしま︵小谷島︶などがあ
って︑非常に多くなっている︒
確然とは﹁谷﹂の地名をもって分つことは出来ないが︑分界は加賀において︑
の地名が漸くへり︑越前において見えぬようになる︒ 当する地名に﹁すが﹂︵須賀︶というのがあるが︑西日本にはない︒
開西
大學
﹃網
清論
集﹄
第十
三巻
第四
・五
・六
合併
号
﹁一色﹂も大体東に多く見られる地名である︒
ニ四
六
625
しているものとして興味がある︒ かしいといっている︒ よいよ下国︵げこく︶にて︑よらずいやしかりき︒ 界をなしている︒
10
ニ四 七
﹁べら﹂というのがお 言葉の上では東海方面についていうと︑東から西に進むにつれて︑富士川・大井川・天竜川などが︱つの境をなして︑浜名湖付近で大きな分れ目になっている︒それから北方に向って︑北アルプスにいたる線が︑大体東西の分
江戸時代には遠州掛川あたりで言語風俗が一変するといわれたこともある︒
言語も東西で大いにちがっていた︒万葉集には東歌として東国の方言がよみこまれているが︑永らく坂東の訛り
は西国の人々から卑められており︑烏のだみ声とまで酷評されたものだ︒京都の人杉本宗順が江戸に下って︑関東
の風俗言語を批判して`これをさげすんでいる記事が﹁慶長見聞集﹂に見えている︒﹃関東は聞きしよりも︑見てい
ひ﹂などと片言ばかりいへるにより︑断りきこえがたし﹄とのべ︑とくに﹁べい﹂といい︑
これは古風ないいまわしがのこっているためであって︑なにもいやしいことではないが︑当時の関東の言葉を示
関東言葉の中でとりわけ江戸言葉であるが︑
徳川家が三河の出身なので︑家臣中にも三河のものが多かった︒そのため当然に三河言葉が勢力をしめた︒武家
で立身しようとしたものは三河言葉をにせていった︒そして一時は﹁三河なまりは天下一番﹂とまでうたわれたも
随想、関西•関東考(宮本) 人形︵しとがた︶頑固に言葉訛りて︑﹃なでう事なき﹄﹃よろこぼ
それは武家と庶民とで相違していた︒
みじかくいふが習はせの風儀とはなりけり﹂とのべている︒ よ
うに
なる
︒
上方筋のように髭喰そ 江戸が政治の中心としての実力を発揮するにつれて︑関東言葉の中で江戸言葉は別なものとしてそだってくる︒江戸の言葉も︑まだ宝永・正徳頃までは上方語と三河語といわゆる関東べいなるものの交錯したものが使われており︑そう褒められる言葉ではなかった︒慶長頃に三箇津という言葉が出来たが︑京・江戸・大阪と一列にいわれている︒ところが宝暦頃になると﹁日本第一の土地﹂といわれるようになる︒かっては東訛︵あずまなまり︶で坂東声といわれて︑けなされものが︑
成されてくる︑ この頃から東訛や坂東声でないところの関東八州に通用しない︑格別の言葉が形
そして﹁根無草﹂などを見ると﹁万︵よろず︶巌として男の詞は世界第一︑
らして︑はてなんのいな︑わしやそふでないわいの︑よさんせ︑くさんせの弱気な詞なく﹂と上方語を悪るくいう
風になってくる︒このようにして江戸でも言葉の吟味が行なわれるようになる︒洒落とか︑地口とか︑流行言葉と
かいうものが出て来て︑談義説法があらわれてくる︒江戸ッ子の気負った生活気分がそのアクセントの上におどる
すこし時代は下るが︑天保・弘化のころ︑西沢一鳳は上方から江戸に来遊して︑﹁皇都午睡﹂なる本をあらわす
c
その中で﹁江戸は日本国の人の寄せ場にて︑
とばといふことは︑はなはだ少なし︑ ことばもゐなか在郷のなまりを寄せてこしらへたるものゆゑ︑江戸こ
そのうち関東八州の男女多きがゆゑ︑それを皆とりあはせたることばにて︑
世俗にこれを江戸ことばとはいふなり︒古風を守りていねいにいふことばもあり︑だいたい京摂のことばをやめて
言葉だけでなく︑江戸は万事において上方を範にしたことはあらそえないが︑文化・文政時代になると江戸も文 の
だ︒
賜西大學『網済論集』第十三巻第四•五・六合併号ニ四八
6 ' . I .
7随想、関西•関東考(宮本) なり︑この分界は必らずしもあてはまらない︒ 地名も︑言語と大体同じような境界を劃してよかろう︒ ているであろう︒ おとろえていないのである︒
ニ四 九
化的に向上してだんだん上方に対立することが出来るようになった︒だが江戸の文化が上方文化を支配するまでに
はいたらない︑上方は矢張江戸に対立しており︑上方の新しい文化がたえず江戸にまで流れていった︑この関係は
明治以後になってもかわらず︑政治上は東京が首都になったが︑生活文化の方面ではいまでも上方の勢力は少しも
しかしながら大体伊勢湾附近・東近江・東越中方面をもって地名からいっても︑言語からいっても境界線をわか
ちうるであろう︒もちろんそれは限界点ではなくて︑限界的な地帯で︑ボカされていて︑かなりのひろがりをもっ
前にいったように畜耕についても大体美濃から東の系統にはいる
C
二毛作の境も越後にはいるとすくなくなるC
要するに地文的には伊勢湾・贈吹山・敦賀湾を通ずる線をもって東西に分つことが出来るであろう︒また人文的
には文化の種類によって大体越中の東加賀・飛騨境・近江の東部・伊勢湾を通ずる線をもって東日本の分界とする
ことが出来ると思う︒しかしこれは江戸時代から明治初年の状況についていっているので︑その後はもっと複雑に
文化圏という点から歴史的に考えると︑甲斐がまた︱つの境界になるのであろう︒甲斐国は東海道・東山道のい
ずれからも遠ざなり︑東海道駿河︑あるいは東山道信濃経由で京都との交渉がわずかにあったにすぎない︒甲斐は
なる
︒
山にとざされているために︑地勢的にもよくないので︑中央の文化はなかなかはいりこめなかったわけである︒距
離的には甲斐よりももっと遠い東山道上野の方に中央の文化が及んでいて︑都ぶりの古墳や遺跡・遺物が発掘され
たりする︒ところが甲斐では中央文化の影響は極く薄く︑古い由緒のある神社もないし︑京都の公卿たちの荘園も
ところが鎌倉時代になって鎌倉が発達すると︑甲斐は御坂峠や籠坂峠を通る鎌倉街道で鎌倉に近づく︒その上︑
信濃や北陸が鎌倉幕府と関係が深くなるので︑.その通路になって︑甲斐に鎌倉文化がひろがり︑鎌倉文化圏にはい
って
しま
う︒
鎌倉の禅宗もはやくから甲斐にはいりこみ︑日蓮宗も本山を甲斐の身延山に設けるに至る︒これは日蓮に私淑し
た土地の地頭波木井清長がすすめたものでもあるが︑ともかく鎌倉との交通関係が密になったためである︒
鎌倉文化は甲斐を通じて更に信濃にまでのびた︒しかしそれ以上は距離をへだてるにつれて︑次第に稀薄になっ
てし
まう
︒
関東と関西を結ぶ東山道にあっては、大体において諏訪あたりが関西•関東両文化圏の接触点になるであろう。
この辺までの禅宗は鎌倉禅宗であるが︑諏訪をこえて木曽にはいると︑その文化は関西的になってしまう︒禅宗か
らいうと京都禅宗になり︑いまもある仏像にも言語・習俗にも関西の影響が窺がえるのである︒
中世は分権的な封建社会であり︑習俗も風俗も地域差がはげしい︒尺度なども非常にちがう︑
も︑東山道では諏訪をさかいにして︑畿内風の三十六町一里制と関東風の六町一里制とがはっきり対立するように 少
ない
︒
賜西大學『網漬論集』第十三巻第四•五・六合併号
一里の単位にして
二五
0
629
だが西国は海上交通に利便で︑とりわけ瀬戸内海は波がしずかで︑良港が多かった︒畿内と九州のゆきかいには
舟を利用することが多くなり︑山陽道の交通量はだんだんとへっていった︒
これに反し東国ではのちになってもづっと水運の便がとぽしく︑地勢からいっても陸路にたよる外はなかった︒
東海道は道路として地の利にすぐれていたので︑関東・東北が開けはじめた平安の中期から︑だんだん交通量を
ましていった︒それでもなお奈良・京都が中心であって︑関東・東北は東夷のわだかまる地として卑められていた︒
ところが東夷が関東武士としてやがて幕府をたてると︑鎌倉を軸として東国の社会が展開する︒そこにも︱つの文
化の中心が出来︑鎌倉的文化と関西的文化とが対照的なものになる︒そしてその接続点は東山道では甲斐・諏訪で
あり︑東海道では遠江位ではなかったかと思われる︒戦国大名としての今川義元なども気分的には関西的であり︑上方文化にあこがれている。東海の戦国諸侯の家臣団には寄親•寄子の制があり、自営農民的な武士層であったが、
随想、関西•関東考(宮本) 高く︑東山道・東海道はこれにつぐ中路であった︒ 古代の交通路は奈良・京都を中心としていた︒それは地方の政庁や国衝と結ぶものであったが︑その中︑東の東山道・東海道・北陸道・西の山陰道・大宰府道︵山陽道︶などが重要であった︒
古代では瀬戸内海にそって当時国防上もっ'とも重要であった大宰府に通ずる山陽道が大路としてもっとも価値が にはのびなかったようだ︒
二五
鎌倉を中心とする東国文化も東海道についていうと︑矢張京都の古代文化からの抵抗がつよくて︑ある限度以上
ところが近世である江戸時代になると三河位までが東国的となり︑
う︒そして尾張はどちらかというと関西系であると考えられる︒ 二五二
彼等の中に熊野詣・伊勢詣がさかんであったことは矢張上方へ志向するものが強かったことを示す︒
名古屋は東海道の古くからの宿駅であり︑南は伊勢湾に面し︑また濃尾平野の中心をなしていて︑東から平野に
のびた丘陵の末端にあった︒木曽路も飛騨路も伊勢路も伊那谷へいく道もここにつらなっていた︒重要な地点にあ
ったから︑家康はここに義直を封じ︑御︱︱一家の一とした︒武士本位の町であったが︑そこに商人達もあらわれたが︑
やがて京都の大丸・近江の松前屋•江戸の越後屋が支店を出し、越後屋はまもなく手を引いたが、大丸•松前屋
の進出はいちじるしく︑近江商人の進出あいついで︑上方資本の支配下にいり︑京都・大阪の商圏にはいってしま
関東の村と畿内の村とはその形態が大いに異なっている︒関東では宅地の周囲には樹木があり︑畠があり︑村に
はどちらかというと青い感じである︒上方では純然たる農村でも人家が密集し︑樹木が少なく︑白壁や瓦屋根が露
一言でいうと白い感じである︒関東はいわゆる寛郷であって︑土著のときに︑充分に屋敷の地割をし
ている︒それをのちになって田畠に開いても︑概して屋敷が広く且つ互に離れている︒下総などの原野地方の村に
は家のめぐりに畠があり︑ 出
して
いて
︑
︳ つ ︒
これを竹藪でかこい︑桐や槻までその中に栽えて︑さながら一の森のような宅地がいく だから尾張までは上方系であるともいえるであろう︒ 開西大學『網清論集』第十三巻第四•五·六合併号
駿河はすでにして関東系統にはいってしま
63 I
方へふきおろされた四斜面の屋根になっている︒ だ山村になると土地の関係から屋敷は狭くなるようである︒ ら
もあ
る︒
これに反してよく開けた上方では建物の軒先から数歩ならずして︑およそ田になっていて大体において穀物の乾
燥場がない︒関西の水田は大抵排水が出来て︑穀物の調製までに田を使うところがある︒麦秋には田が水になって
いるから︑道路の上で裸麦の秤︵もちがら︶を簸︵ひ︶るために通行に難儀することなどがある︒人口が非常に充実
しているために︑土地もこれほど迄に利用せねばならぬのである︒
武蔵野のように風の強い平野地方ではこんもりした屋敷林でかこむ必要がある︒畑地方の農家は︑水田地方より
も屋敷が広い︒水田地方では水田を出来るだけ宅地につぶさないようにしているためであって︑殊に近畿の諸平野
では狭くて︑村落でも家がかたまっていて町の一部を切りとって移したような感じを与える︒これに対し関東方面
は畑作地であるから農家の屋敷が広々としてゆとりがある︑家の集まりも関西とくらべてずっとまばらである︒た
田舎の家の造りも関西と関東とはちがう︒日本の家は屋根に特色があるといわれる︒これに対し西洋の家は窓に
特色があるようだ︒
関東でも東京附近の武蔵野の農家のわらぶき屋根は︑寄棟︵よせむね︶︵四柱ともいう︶で︑屋根が上部の棟から四
﹁あずまや﹂ともいう︒関東地方の農家は大体において寄棟造り
であ
る︒
ところが中央本線の一駅武蔵境︵さかい︶のあたりから西の方へいくと︑次第に入母屋︵いりもや︶造りに
なる︒破風造りである︒そして山麓附近になるといつのまにかまったく入母屋となってしまう︒山麓に近いところ
ほど堂々たるカヤぶきの大屋根をいただくようになる︒どっしりした構えの家になる︒
随想、関西•関東考(宮本)
二 五 一 ︱
︱
, . ヽ
‑
‑‑‑̲̲̲̲̲̲̲ , ̲̲̲ ̲ー ‑‑ . ‑‑‑‑‑‑‑‑・ 一・ー・一
板ぶきの切妻屋根の上に石をのせたものなどもある︒ この二つの対照の外に︑西武蔵野の入母屋地帯をすぎて関東の山地の奥にはいると︑
であ
る︒
だから同じく武蔵野といっても東部の寄棟造りと西部の入母屋造りとが対照的になる
C
関東の入母屋造りは概して大であるが︑関東平野から東海地方及び関西地方になると寄棟造りが多くなり︑その
規模は一般に小さい︒とりわけ房総半島から西海地方の海岸地方のものは貧弱になる︒
奈良盆地を中心とした関西方面では農家に瓦ぶきが普及していた︒そして土塀をめぐらし︑白壁を用いた家が多
い︒関西の造りは小じんまりとして︑すっきりした感じになる
e
これは関東の代表としての武蔵野の農家と対照的前にもかいたが武蔵野の農家では家のまわりには塀のかわりに防風林をめぐらしている︒冬の強い北風︑あるい
は北西風を防ぐためである︒家の外のまわりの壁は︑粗末な土の壁であって︑吹きつける雨のあたる部分には板や
スギ皮などを張っている︒白壁は新しい土蔵などの外はほとんどない
C
関東の農家は関西にくらぺて骨組の木材が太く︑カヤぶき屋根の関係から︑勾配が急である
C
大体において関東の民家は風雨の強さをしのぐにふさわしく︑荒けずりの重々しさの中にひなびた趣を呈してい
るが︑関西の民家はすっきりして︑骨組に美しさを示している︒
これを見ても関西と関東の風土や文化の相違がうかがわれるというものだ︒
が多くなる︒真屋︵まや︶ともいって︑簡単な二斜面の屋根である︒切妻屋根は出雲大社や伊勢神宮など古い神社
の建て方でもっとも古い形の民家式である︒切妻屋根ではスギ皮ぶき︑草ぶき︑板ぶきなどいろいろで︑山地では
閥西大學﹃網済論集﹄第十三巻第四・五・六合併号
切妻造り︵きりつま︶の家 二五四
1
・ ̲ ̲ ̲ ̲ ̲ ̲ ̲ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑
f,33
しかしこの称呼の境目がどこであるか︑明白にはなしがたい︒
二五五 一例をいうと飛騨の領主金森家が出羽へ移封にな 江戸時代の郷村の制度で︑藩内では主要地に代官又は地頭をおいた
e
この代官や地頭には通例︑城下士を駐在させ︑大庄屋・惣庄屋又は割元などを支配させた︒また代官・地頭をおかず︑郡奉行が直ちに在郷の大庄屋や惣庄屋
や割元を直接管轄する場合もあった︒この大庄屋や惣庄屋の下に普通の庄屋名主が属していたのである︒名主は主
として東国で︑庄屋は西国で多く用いられたというが︑必らずしも一定していたわけではない︒藩によっては種々
の名称があったが︑次第に幕領にならって名主又は庄屋になっていった︒
なぜ関西では庄屋の称呼をとり︑関東では名主の呼び方をしたか︑これはつまり関西地方の農村はすでに中世の
頃から開拓しつくされ︑いわゆる本田部落又は旧村といわれるものが多く︑これらの在来の村落に庄官がおかれ︑
この庄官が戦国時代をへて︑徳川時代にいたり︑庄屋と代置せられたというのである︒ところが︑関東地方におい
て専ら名主と称えられるのは︑同地方は中世の頃まで未開拓地が多く︑新田開拓主を名主と呼び︑これに一村の政
治をまかす習慣があったから︑自から名主の称呼が江戸時代に至っても用いられるようになったのであろう
C
り︑それに代って関東郡代伊奈半左衛門が飛騨の郡代になったために︑庄屋というのを名主に改めさせたという︒
もともと飛騨は関西式の名称だったのが︑関東地用語の飛地になったのである︒
名主・庄屋は︑正襲である所もあり︑大百姓の間で一代勤め︑あるいは一年交代の年番名主もあり︑村民の選挙
によったところ︑藩で選定したところなど区々であった︒そして﹁地方凡例録﹂によると︑上方筋遠国の庄屋は家
随想︑関西・︑関東考︵宮本︶
一四
︳ 五
するための文書が多く見い出せる︒ がきまっていて数代連綿とつづき︑もし幼若のものがあれば︑組頭の内か︑親類の内から後見を立てて庄屋の名目は幼年でもその家のものがつぎ︑たとえ大高持︑豊饒な百姓でも︑が出来ぬ︒だから庄屋の威光が強く︑ その家筋のものでなければ名主役を勤めること
その下知をそむくことが少ない︒その反面には勢のあるにまかせて我儘のこ
とも多い︒そして百姓のためにならぬこともある︒ところが関東でも古くは名主の家が一定していたということだ
が︑百姓のためによくないことが少なくなかったので︑享保頃から一代つとめ︑又は年番名主とて一村の内から名
にな
ると
︑
一年宛順番につとめるようにした︒だが百姓仲間からとりたてるものだから︑役威
がうすく︑示しがいきとどかないため︑村中不取締のことが多い︒関東では名主が病死か又は退役して︑跡役をき
めるのにその村々の郷例にまかせて︑惣百姓が選挙して最高点のものに申付けることもあり︑あるいは惣百姓が連
関西ではなるほど世襲庄屋が多かった︒これは庄屋が関西に発達した庄園制の名残りであるが︑江戸時代の末期
このなごりがそのままうけつがれたかどうか判らない︒それよりも庄屋の格式・家柄・家格に重点をお
︑︑
︑︑
いてはいるが︑世襲庄屋は思ったほど多くはなく︑残存資料によると庄屋の選任にともなうごたごたや庄屋を排斥
関西の農村では江戸時代から宮座の分布が一般的であった︒これはその居住者以上には外来者を受けいれないと っては惣百姓が相談して跡役を願出ることもあるとのべている︒ 印で願出ることもある︒年番持の名主は順番に勤めるが︑ 主役に勤むべき家柄を選んで︑
腸西大學﹃網済論集﹄第十三巻第四・五・六合併号
一代つとめの名主が退役したときは︑その人柄年齢によ 二五六
63~
用いられていた︒ あるが︑和泉・河内でも新田村になると︑宮座の分布はすくないのが普通であった︒しかし概して外来者のみならず村の秩序をこばむものにも排撃を加えている︒村八分である︒また和泉地方には環濠村落が多く︑摂津にも大和
かいとにも垣内が多い︒濠をもって平和を守り︑通婚もなにもかも垣内の中でとり行なうことを念としていた︒のちに次
第に垣内はつぶされたが︑濠はなくとも︑長屋門をもち︑家の周囲の土塀をめぐらした家は河泉には多かった︒
村の大半がそうした家で占められていたりする︒ところがこれは新田村や山間に入ると乏しくなった︒環濠集落は
もと
より
︑
でなくとも、多くは集村で、小くとも四•五十戸、多いと数百戸の農家が集って都会のように集ってお
り︑道路はつきあたり︑うねり曲り︑かぎの手になっている迷路状の部落が多かった︒門は納屋の中の一部をぬけ
るようになっており﹁かど﹂という﹁ほしば﹂があった︒家の中では﹁かまど﹂が重要で︑
普通であった︒元来﹁いろり﹂は名子被官の制度と関係を持っていたようだ︑近畿はそうした点からいっても親方
とその関係を早くから脱していたと思われる︒高持百姓は門を長屋門にしていた︒大きな農家では︑土蔵をもって
いたが︑北河内郡の水郷では洪水にそなえて︑土蔵には五尺以上もある石をつみあげて︑城のようにしていた︒段
蔵で
ある
︒
﹁おくどさん﹂といい︑燃料は薬・綿木・豆木・籾がらその他
であった︒平坦地にある近畿農村の性格がこうしたところからもうかがえるであろう︒入会地の薪を入手出来かね
る近畿農村が︑﹁いろり﹂よりも﹁かまど﹂にたよったことは注目すべきであろう︒
大阪の周辺では稲作技術は比較的におくれていて︑湿田地帯では昭和の初めまで︑千歯扱という古風な稲扱機が
随想、関西•関東考(宮本) ﹁
かま
ど﹂
は・
﹁へ
っつ
いさ
ん﹂
とい
い︑
いう精神と結合の意識によるものであったろう︒
二五七 ﹁いろり﹂はないのが ︱つの神を中心に後来のものをこばむ空気が宮座を形成したので
村ではこうしたことがあまりなかったのである︒ の町の中に吸収されてしまった︒ また近世の大阪周辺では商業的農業が発達していた︒たとえば菜種とか︑綿とかが行なわれていたので︑生産されたものは多く商品として仲買人または市場を通じて取引せられた︒だから自給したあとのあまりのものを農民が自ら町に持って来て振り売することや立売ずることは少なかった︒また大阪は港市であって︑遠方と航運によって取引きをなし︑大量にはこびこまれる商品は船場・西船場・堀江などの問屋によって荷受けされ︑`集散していた︒こうした大阪の中央の問屋や町家に農村の人々とは丁稚・下男・下女として吸収せられ︑そうした奉公人は人馬喰
は ん ば
によって雇いいれられた︒また一時的な労働を提供するものには飯場があり︑人足寄場があって屯していた︒
だから大阪の周辺農村から大阪の市中にながれこんでくるものは︑大阪の周辺の道すじに定住するよりも︑大阪
だから大阪では蛸足的な町を持っていないのが特色であった︒
これに対し名古屋以東︑総じて関東では都市があって︑
食店などがならんでおり︑
ったもので︑同時にそれらの店も農村の出身者が経営している場合が多かった︒これに対し︑大阪とその周辺の農
周辺農村でつくったナクネやワラやカンショ・タバコ・雑穀・ワラ製品などを都市が吸収し︑あるいは機織をお
こな
わし
め︑
それが幾丁も幾丁もつづいているのが多かった︒これは都市の周囲の農村を相手におこ
それを大阪の問屋に運ぶ機能をはたしていた。そしてそれらの小都市たとえば八尾•平野・住道・枚
方・池田・伊丹・三田その他多くの小都市が中心になって︑
小都市を中心にして自給自足が行なわれているが︑
その
その中心にある小都市が商取引によって大阪と結ばっていたの
臓西大學﹃繹済論集﹄第十三巻第四・五・六合併号
その周囲に通ずる道の両側に雑貨・雑穀・鍛冶屋・小飲
その周辺には農村をもって︱つの経済園をなし︑ 二五八
637
一六
になっても︑なおもつづいているといえるであろう︒
二五九
︑︑
︑
である
C
そのため小都市と大阪との間の人のいききは商人が主なるものであって︑この現象は明治・大正より今日大阪周辺は綿作や菜種作で︑いわゆる商業的農業を早くから展開しており︑先進型といってよかった︒しかし稲
作技術はそんなに進んではいなかった︒そのわけは︵農地改革以前︶農地の持ち方がちがっていたからである︒大阪
周辺の大きな新田には低湿地が少なくなく︑そこには大きい地主が存在し︑小作人も一丁歩以上の広面積のものが
多く︑それらにおいては︑稲作よりも読菜やワタなどの栽培に力をそそぐ営農が多かったのである︒水利が悪る
く︑旱損の可能性の多い場所では綿を作った方が安全であったろう︒
綿作は北は摂津住吉郡の東北郡︑淀川川口新田や武庫郡の海岸地帯を中心にして行なわれ︑河内では︑新旧大和
川の沿岸を中心にして︑生駒山系の山腹・山麓になるとやや低く︑石川ぞいの地になり︑そこでは綿以外の自給的
作物の比重が畑において高くなっていた︒また京橋附近・旧大和川合流点附近をとおる線を東西にひいて︑その北
部は菜種地帯といえるであろう︒そして大阪三郷に接続する町続きの村々は疏菜栽培地帯であった︒
このような商業的農業をいとなむ場合︑輸送が重要となるが︑大体いまの片町線あるいは大軌線を境にして︑北
と南に分けると︑北では川の利用度が高く︑南では牛車の利用が行なわれたことがわかる︒その関係からであろ
う︑北では村と村をむすぶ道が一般的にいって細いのである︒三尺道といわれたものだ︒ところが南では六尺以上
の道が多くなる︒宝永元年に大和川の付替がなされ︑これは大洪水を防ぐ上ではよかったが︑それでは川を利用し
随想、関西•関東考.(宮本)