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雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

1900年代初頭の地域における高等女学校の成立と展 開 −四日市市立高等女学校を事例とし−

著者 梅村 佳代

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 50

号 1

ページ 159‑166

発行年 2001‑10‑15

その他のタイトル The Case Study of the Municipal Higher Female School in the Early Years of the 20th Century 

−the Case of Yokkaichi Higher Female School−

URL http://hdl.handle.net/10105/1385

(2)

Bull. Nara Univ. Educ. Vol. 50, No. 1 (Cult. & SocJ. 2001

1900年代初頭の地域における高等女学校の成立と展開

一四日市市立高等女学校を事例として‑

梅 村 佳 代

奈良教育大学学校教育講座(教育学) (平成13年4月23日受理) キーワード:高等女学校金,市立高等女学校,高等女学校教員

1. は じ め に

本稿は1900年代初頭.すなわち1901年から1905年にか けての地方における高等女学校の成立とその後の進展状 況を三重県の北部にあh 」市市立高等女学校を対象と して,その理念と実態を明らかにするものである.近年 の中等学校研究はいちじるしく進展をみせ.特に男子の 高等普通教育機関とされた中学校の剛度のみならず川.

生徒の就学.学習からの脱落問題も中途退学問題として 究明された‑∵'.他方,女子の中等学校である高等女学校 の研究は国家の「良妻賢母」を男女平等の権利論から批 判的な検討を加えたfljf究川, 「良妻賢母」規範イデオロ ギーの批判的検討川, 「高等女学校令」の思想史的分相:‑) 近代中等教育の性別による差別的な構造編制の論理附, 社会史的な方法論による「良妻賢母」イデオロギーと女 学校の批判的な検討T'など,女性史研究や女性論研究の 進展と相探って進展をみせてきた.しかし全体としては 国家の「良妻賢母」イデオロギーの批判及び政策分析や 全国的な地域分布傾向の把握(H'など思想史分析に偏して いる.また実態史では郁道府県教育史や自治体史などに より網羅的ではあるが概要に正まっており.詳細は充分 明らかではない

本稿は1899年 り明治32) 「高等女学校令」公布以後.

各県で県立高等女学校の設立が進められたことに触発さ れて,各地に設立があいついだ全国各地の市立・都立・

町立などの高等女学校の成立と定着の過程を事例検討を 適して明らかにするものである.具体的には『rrLlr]市市 史』編纂過程で発掘された四日市市役所所蔵の各年度

『高等女学校書類」をもとに市立高等女学校の成立まで の経過.学則や諸規則,各地より拍哨きれた教員,認可 された教科書.財政的な学校運営.生徒の就学実態など の検討によって地域の女子中等学校の実態を明らかにす るものである….それにより,地方の女子中等教育の需

要の具体的内容が国の推進政策に後押しされ,実現され てゆく過程が浮き彫りにできるであろう.史料はとくに

ことわらない限り,各年度の『高等女学校書二類』による.

2. 「高等女学校令」と四日市市の女学校設置 (1) 「高等女学校令」の公布と位置付け

日本の近代的な中等学校の法制度的成立は1872年(明 治5) 「学制」である.そこでは「中学」として法制度化 され, 「中学ハ小学ヲ経タル生徒二普通ノ学秤ヲ教ル所 ナリ」とされ, 1879年(明mi2) 「教育令」では「中学 校ハ高等ナル普通学科ヲ控クル所トス」とあるように高 等な普通教育機関としで性格づけられた.さらに1886年 (明治19)の近代学校制度の整備がなされた諸学校令の 公布により「中学校令」では「中学校ハ実業二就カント 欲シ叉ハ高等ノ学校二人ラント欲スルモノ二頂要ナル教 育ヲ為ス所トス」とされ,教養と進学の準備教育を内容

とする普通教育と実業の準備教育を併せて行うとされ た.さらに1891年(明治24)には中学校令改正により尋 常中学校は各府県 校を設置すべきものとされ,進学準 備教育と地方の指導者養成の性格が特徴づけられた.本 格的な中等教育制度の確立は1899牢(明治32)である.

この本格的な確立期の中等教育制度は男子と女子及び普 通教育と実業教育の三系統に鼎立した学校系統として整 備された. 1899年2IJ7Iの「中学校令改正」では「中学 校ハ男千二須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以テ目的ト ス」と中学校は男子の高等普通教育の学校とされた.他 方,女子については既に1891年(明治24)の改正「中学 校令」第14条において「高等女学校ハ女子二須要ナル高 等普通教育ヲ施ス所ニシテ尋常中学校ノ種類トス 高等 女学校ハ女子二項要ナn4玄芸専修科ヲ設クルコトヲ程」

と明記され,女子の高等普通教育を行う学校を高等女学

校とし,特に家事・裁縫を重視した技芸専修科を設置で

(3)

160 梅 村 佳 代

きるとされた.しかし高等小学校を卒業して後.さらに 高等の教育を受けたい女子が増加し.高等女学校への需 要が高まるなかで, 1895年(明治281 1月には文部省令

「高等女学校規程」が制定された.高等女学校の学科目 は修身,国語,外国語.歴史,地理,数学,理札 家事, 裁縫,習字.図画,音楽.体操とされ,随意科lltして 教育,漢文,手芸の ‑科目もしくは数秤目を加えること を得るとされた.また技芸専修科を置くときは修身,国 語,裁縫は欠くことはできないものの‑科目あるいは数 科目を欠いて技芸に属する科目を設置してよいとされ た.その後,高等女学校を「中学校令」規定から独 立さ せて,新たに1899年2月8廿勅令「高等女学校令」が公布 された.その第‑‑条では「高等女学校ハ女子二須要ナル 高等普通教育ヲ為スヲ以テ目的トス」とされ,女子にお いて高等小学校に連続する高等女学校として確定された l川.また同年同月の勅令29号「実業学校令」の成立によ り中等教育における農業・丁業・商業のための基礎的な 知識・技術教育は実業学校によって担われることとなっ m

(2)四日市裁縫学校の設置

四日市市立高等女学校の成立前史は別稿日当二おいて明 らかにした. 1899年2月「高等女学校令」の公布により, 囚R市市の井島市長は1899年2月29日,市議会に女子の ための技芸修得を目的とした裁縫学校設置を議案として 提出し,原案が可決された.校長には四R市高等小学校 訓導の村上政太郎が兼任で事務取扱に任命され. 6月1R に開校された.四日市市ではこの時期, ¥'l¥旧市港が世界

との貿易のため開港場の指定を受け.世界との交易に躍 進しようとしていたこともあり,政府による中等学校設 置奨励政策に機敏に対応した.まず市立商業学校が1996 午(明治29)に設立され.商業都市四日市を支える実業 人の養成に着手し,実用英語教育など重視された.続い て1899年には県立第二中学校がP.4日市市の富Lu地区に設 置されることとなり,地域の指導者養成も具体化した.

更なる課題は女学校の設立とされ,尋常小学校‑の就学 者は増加して高等小修了後も継続して女手の中等学校‑

の進学を要望する声も高まりつつあった.まず裁縫学校 が市内堅町の郡役所内に設立された.

3.四日市市立高等女学校の設立

(1)市立高等女学校の設立と規則

1901年(明治34)四日市市は4日1‑̲高等女学校を設置し た. 3月18日に設置認可がおり. 3日22日に生徒募集がな された.既に設立されていた裁縫学校は3月31I」に廃l上 された. 3月末には新規校舎も竣工し, 4月10日に開校, 4月13日から授業が開講され, 4月20日に創立記念式典が

行わるなと㍉慌ただしい口々が続いた.四日市市がIh一立高

表(1)全国高等女学校・教員・生徒趨勢 (秩)教員数(人)生徒数(人) 1893 (明冶26)

1894(明治27) 1895(明治28) 1896(明治29) 1897(明治30) 1898(明治31) 1899 (明治3二2) 1900(明治33) 1901 (明治34) 1902(明冶35) 1903(明治36) 1904(明治37) 1905(明治38) 1906(明治39) 1907 (明.治40)

28      331 14      166 15      186 19      237 26      310 34      406 37      450 658 70      958 8O 1,173 91    1.349 95    1.457 100    1,561 14    1.770 133     2,011

3,020 2,314 2,897 4,152 6,799 8,585 8,857 ll,984 17,540 21,523 25,719 28,533 31.918 35,876 40,273

文部省『学制百年史』資料編(1972牢刊1224‑225頁よ叫乍戊 等女学校を設立した理由は以下にあった.まず政府が

「高等女学校令」を公布して女子の教養としての普通教 育を奨励したこと.第二に幼稚園や小学校への就学が順 調に進展し,さらなる女子の学術の修養と知識を啓発す るには他府県の高等女学校で学ばせなければならず,父 母の不満が高まっていたこと,第三に高等小以上の男女 の教育法は異にして分立をすることは自然とされ,女児 に完全の発達を期待できるとしたこと,第四に裁縫学校 施設を増設するよりも高等女学校を新設した方が教育費 運用上得策とされた.こうして設立された川「l市市立高 等女学校は別表(1)によれば全国的にみて1901年に設立 された高等女学校数70校のうちの1校であるが,全国的 な急増期のなかでは早期の設立をみた.

次に設置趣旨について四日市市は人PI32,046人に対し て尋常科の就学生徒数1.605人,高等科588人に達し.内 女生徒が半数(およそ工000人余)を古め,市民の教育 思想の趨勢は義務教育に満足せず高等な普通教育を求め て名古屋・京都その他近府県の高等女学校に入学させて いた.また裁縫学校にも就学者が増え.機は熟している とみたmn市市長及び市議会はこうした親の希望と国家 の求める「賢母良妻」を養成することは世の進運とみて 田3サ

次に設置認可を受けた規則はどのような内容と特徴を もっていたか. 「西口市市立高等女学校規則」は以下の 内容であった.

「匹旧市市立高等女学校規則」

第‑十章

第一条 本校ハ明治三十二年勅令第三十一号高等女

(4)

学校令第一条二某キ女子こ須要ナル高等普   れtzliニi'.

適教育ヲ施スヲ以テEj的トス 第二条 本校二本科及技芸専修科ヲ置ク

第三条 修業年限ハ本科ヲ四ヶ年,技芸専修科ヲ三 ヶ年トス

川nM)

me

第七条 本科ノ学科ロバ修身,国語.地埋,歴史, 数学,理科.家事.裁縫,習字.図画,普 楽.体操トシ別二随意科トシテ外国語ヲ加

第八条 技芸専修科ノ学科目ハ修身,裁縫 N語, 数学,家事、習字,音楽,体操トス 第九条 生徒ノ志望こヨり家事裁縫ノ 淵日、シテ茶

儀生花ノ ‑科若クハ数科ヲ授ク

第+条 学科課程ハ明治三十二年文部省令高等女学 校学科及程度こ関スル規則第三条二基キ別 表ノ定ムル所ニヨル

(後略)

四日市市立高等女学校は「高等女学校令」に基づき

「女子二須要ナル岳等普通教育ヲ施ス」とされ.四ヶ年 の本科と三ヶ年の技芸専修科が設置された.少し経て同 一隼6月には‑ヶ年の補習科も設置された.さらに10年後 の1911年には規則を改正してIFqヶ年の本科.円ヶ年の実 科∴二ヶ年の裁縫専攻科に改正している.設置場所は市 内堅町.郡役所内の裁縫学校の場所であった.学科目は 当虹 本科は瞳身 蝣klilfi.地理, IJ,!!^、野上 理札 束 事,裁縫.習字,図画,音楽.体操とされ外国語は随意 科目として加えられた. 「高等女学校ノ学科及其程度二 間スル規則」によれば必修科目の外国語は随意科E]とさ 礼.随意科目の教育,漢文,手芸は置かれなかったが.

かわりに家事・裁縫の一部に茶儀・生花が加えられた.

しかし同年6月の改正により本科と補習科に英語が必修 秤目として設置され,習字科は国語科に併合された.技 芸専修科は修身,裁縫,国語,数学,家事,習字.音楽.

体操とされ.本科にあった地理.歴史,理科,図画など 知識系統の科目が軽減された.補習科は本科の科巨‖二教 育,手芸が加えられた.毎週の教授時数は毎年4O過30時 間とされた.学科課程は文部省令「高等女学校学科及程 度二間スル規則」に基づき,その程度は文部省令基準に 準拠した.入学資格は本科は年齢12故以上のもの.ある いは高等小二ヶ年課樺を了えた者又は同等以上の学力あ るものとされ.技芸専修科は尋常小の課程修了者又は相 当の学力あるものとされたので10歳入学が可能であっ た.修業及び卒業の認定は学業成績と操行によるとされ た.生徒心得も「教育二間スル勅語ノ御趣旨ヲ奉体シ貞 淑ノ女徳ヲ滴養」するなど「貞淑ノ女征」や身体の健康, 食事の節制,衣服装飾は質素で実用に適するなど定めら

4.四日市市立高等女学校の教員任用と学科課程 (1)教員の任用と教授体制

学校の新規設置の大きな問題は正規の教員免許資格を もつ教員を揃えることにあった. 「高等女学校令」では

「第 ‑│/q条 高等女学校ノ教員ハ文部大臣ノ授与シタル 教員免許状ヲ有スル者タルヘシ但シ文部大臣ノ是ムル所 二依り本文ノ免許状ヲ有セサル者ヲ以テ之二充ツルコト ヲ得」とされ,文部大臣の授与した教員免許状を有する 教員を充当することを原則としながらも.同年3月310 文部省令第22号により高等女学校第二学年以卜ならば高 等小学校正教員免許状を有するものでよい,またそれで も得られない場合は公立高等女学校の場合は期限を定め て雇教員を採用してよいとまでゆるめられた.

別表(2)は1902年(明治35) iff立高等女学校創設後2年 を経て教員がひとまず揃った状況を示している.専任教 員は12名である.正規の教員免許状資格を持った校長1 名,教員免許状資格を有する教諭2名及び助教諭4名であ り「高等女学校令」第14条に該当するJl:.規の有資格教員 またはそれに準ずるとみなされた教員は7名であった.

そして文部省令第22条の第一条に該当する小学校止教員 免許状による2名の教員と3名の雇教員である.学科では 正規の教員免許有資格者は修身(校長),埋科.家事 表(21四日市市立高等女学校校長・教員表(1902年現在)

専任

'.'/ f‑n

専任 専任 専任 m&

専任

秤 資 格 職 名

. 家 事

中等師範学科卒業 校 長 哲学館全科卒業

女子高等師範学校卒業 教 諭 Il術語・算術.

作法・体操 裁縫・手芸・

作法 国語・音楽 裁縫 国語.持n'j 地理・歴史 国語・体操 裁縫・手芸 裁縫.手芸 裁縫・手芸 in

女子高等師範学校卒業 高等女学校裁射撒員免許 女子高等師範学校国語 ]''}'蝣蝣文相辛某

文部ti二テ裁射=lJ教員免許 香川県私立高等女学校 卒業 女子高等師範学 校地理蝣Ifl*更科‑辛業

大阪府小学校教員免許 東京府管内小学校専科 正教員免許

三重女学校裁縫刺繍修 栄

間口市市立高等女学校 技芸専修科卒業

中学師範学杵卒業証書 受領

助教諭!

1

助教諭 助教諭

LI情誼i'i

軌鋸融心得

教員雇 教員雇 教員雇

西脇又作 高山だい 橋本ケサ

・I '.‑沼蕊い 大域久良 Il/Mて‑>

赤木ます

藤岡とら

山下ふん

小坂つね

池内かめ

荒井荘造

i;41│i│!11出所武 Ⅲ抽斗吊蝣蝣蝣 ‑I)起 一周互、m土用州佃描 第.課 よ輔成

(5)

162 梅 村 佳 代

(教諭上 同語・算術・作法・体操(教諭上 地埋・歴 史・同語(助教諭)であを主 裁縫・手芸.体操などが小 学校正教員資格者や雇教員により分担された.それに書 記1人, 「小使い」 1人であった.

まず設置準備にあたり構想されたのは校長1人で中等 学校の教員免許状を有するもの,教諭は2人でうち1人は 校長が兼務し.後の1人は中等学校教員免許状を有する もの,助教諭は文部省検定試験等に合格して中等学校教 員の免許状を有するもの5人と計画された.

まず校長西脇又作は新潟県出身で, 1901年3月19日付 け任用が決定されて4月に着任した.設V/"時の4月には家 事科教諭に長尾糸,裁縫科助教諭の夫吹はな,国語科助 教諭として大域久良(くら主 雇教員としてP4H市裁縫 学校から小坂つね,員弁郡笠間尋常小の裁縫教員の市岡 てつ,当初は理科助教諭心得として藤岡とら(登良仁 図画の嘱託教員として四日市尋常小の橋本喜内,書記樋 口九兵衛が着任して始まった.教諭長尾糸は病気転地療 養のため翌年5月には岡111県高女へ転出,助教諭矢吹は なは着任直後の6月に裁縫科教員の試験検定を受験した が翌年2月には家事都合により退職した.また嘱託教員 橋本喜内も翌年1月に本人都合により退職した.少し遅 れて10削二は近藤ハルが田口市幼稚園保母と兼任で任用 された.ハルは翌年の7月には慢性の胃カタルの病気の ため転地治療して堺市へ転MLた, 12月には教諭として 橋本けさが着任した.

国語科・体操科の助教諭心得藤岡とら(登良)は履蛭 書によると1862年(文久2)生まれ,和歌山県出身の39 歳の教員である. 1879年(明治12)に東京女子師範学校 に入学,三年後の師範学校第二級修学中,病気退学をし た.後大阪の私立大阪女学校の嘱託教員,岡山県尋常師 範学校嘱任教員,福井県の高等小訓導心得,滋賀県の私 立淡海女学校の嘱託教員,山口県の私立徳山女学校の嘱 任教員を歴任した.そして1893年(明治26) 31歳のとき 大阪府甲種検定により小学校教員免許状を取得,同年大 阪府大阪市立四六尋常小訓導を経て,国語・体操の助教 諭心得として四日市市に着任したのである.藤岡とらは 当初理科・音楽・体操の科目担当を期待されていたよう で着任直後の6月に,理科の夏期講習会参加申請を行っ

ている仙.

1901年11月に任用された橋本けさは福島県出身, 1877 午(明治10)生まれ. 24歳の着任であった.履歴書によ ると1883年(明治16)福島県の小学校に入学,さらに 1892年(明治25)福島県の高等小に入学.翌年93年に福 島県尋常師範学校へ入学.二年後の1896n三(明治29)に 同校を卒業して小学校教員免許状取得,同年19歳で福島 県内の高等小訓導に任命された.さらに翌年1897年には 再び女子師範学校に入学し,国年後の1901年 し明治34) に同校を卒業して教員免許状を取得した. 24歳である.

卒業と同時に4月から新潟県の高田高等女学校助教諭と して着任し, 5月には同校の教諭に任命され,同年12月 に三重県四日市市立高等女学校教諭に転任してきたので あっだ].‑>)

次いで1902年(明治35) 1月にはこの年3T]草葉の女子 高等師範学校生徒のうち理科から1名と地理歴史専修科 から1名を採用計画を立てていた.内務部を通じて女子 高等師範学校より早業予定人数と見込みf]俸街を至急知

らせてもらい, 3月付けで地理歴史専修科卒の赤木ます を助教諭として,同月群馬県立高等女学校教諭高LLJだい を四日市‑招晒し教諭として採用した.またこの間に菅 沼えいを助教諭として拍聯した.静岡県且rl身の菅沼えい は山形県立酒田高等女学校教員であったが中途休職して いたため助教諭と位置付けられ,四R市市も助教諭とし て5)白二採用となった.また図画担当の助教諭に当初予 定されていた新店荘造は嘱託の扉教員として任用され た.また雇教員として池田かめが3月に,裁縫科の助教 諭心得として4月に山下ぶんが採用された.また7月には 病気療養のため堺市‑転出した近藤ハルに代わって中沢 よしが幼稚園保母と兼任で採用された.また8月には東 京の青山学院出身の高島倍(ノブ)が英語教員として任 用されようとしたが実現しなかった.また1902年(明治 35) 9月づけで校長西脇又作が校長職を辞し,以後しば らくの間,市長の福井銑吉が校長事務取扱を兼任した.

そして1905年(明治38)にようやく水谷兵四郎が理杵と 兼任で校長に就任した.

助教諭心得に4月21日に任ぜられた山下ふんは静岡県

l¥¥身, 1878年(明治11)生まれ, 24歳でrTq臼市市に着任

した.履歴をみると静岡県内の小学校を経て高等科二年

甥を修了し, 1890年12歳で静岡県の私立裁縫伝習所で2

年間修業,その後4年間,金原きたの経営する裁縫所で

実地の裁縫を行う. 1899年(明治32)東京府本郷の漉過

裁縫女学校へ入学,和服裁縫普通速成科を卒業する.そ

の間の1899年10月から一年間東京府教育会付属小学校家

事秤教員伝習所へ入学して本科課程を卒業,続いて翌年

4月より同所高等科課程に入学. 1年後卒業した. 1902年

1月には無試験検定の上,東京府管内小学校教員免許状

(専科正教員免許状)を取得,同年8月には師範学校女子

那.高等女学校裁縫科教員予備検定試験に合格し. 2ケ

月後の10酎二は向春検定試験に合格した.その後東京府

の小学校専科教員として勤務し,四日市市立高等女学校

助教諭心得に ぜられて着任したが, 1903年(明治36)

3月家事都合により退職した(Ibl このように地方の公立

高等女学校において有資格教員及び雇教員が全回的規模

でどのような範囲から集められたかをみた.

(6)

衣(3> l市市立高等女学校使用教科書(J90頭つ

書  名

女子回文読本

ナショナルリーダ

女子日本地理教科

ummi^mほ闇

家事教科書 新編 日本画帖(巻 鳥丸帖 上卜 女子R本小史 女子東洋小史 女子理科 新訂生

著講 者 発行者

一除 く)

関根正一 白二

荒泰治 寺 尾捨 次郎

能勢頼位 復閑菊野

目黒 甚PlL 河 出静一郎 吉 囲T ‑助 二樹ll一半 金港堂

目黒甚七

】佐方鎮 子 河 出静一郎 1内海文 も

I 関西 図書

E岡田起 作 関西図書

…新保磐次

, 金港堂

新保磐次 金港萱 岩川友太郎

藤堂忠次郎

吉 I‑T ‑七 女了守酎l一 新訂物理学 1

女子珂拝ト 新訂頻物及化学 女子理科 新訂生理衛生 物理学初歩

女ナ毛筆両帖 家事教本

飯¥j注廷造 原田長松 原田長松 藤堂忠次郎 岩出友太郎 藤堂忠次郎 後藤壮大・篠田 刊英・滝沢兼太郎 荒木十畝 塚本はる

吉川半七 吉川半七 普及i.r 金港堂 金港堂 四日市rh?笠所蔵F.明治三十五年一月起高等女学校幼稚 園書類綴第一課』より

5.市立高等女学校の使用教科書・入学生徒と経営

(1)使用教科書について

1902年(明治35)に使用していた教科書は別表(3)の 適を)である.「女+国語読本」「ナショナルリーダー」

「女子口本地理教科書」「女子理科教科書」「家事教科書」

「新編日本画帖」「烏丸帖」「女子日本小史」「女子東洋小 史」「女子理科新訂生物」「女子理科物理学」「女子理 科堆物及化学」「女子理科生理衛生」「物理学初歩」

「女子毛筆画帖」「家事教本」0)16種類が挙げられている.

すべで文部省検定済みの教科書であるが.教科目別にみ ればl"I,!/*.航vi.

II・地理.習字は1仲凱家事.歴史,図

画は2種類,埋秤は「女子理科」と各分野ごとの理科教 科書が5種軌特に物理は2種類ある.出版社でみれば金 港堂吉事酎ま5種類,Ll黒甚七・河出静I一項r,と関西図書が2 種軌吉川半七は女子理科関係で4種軌普及告と吉岡 平助・三樹一一平が1種類の採択状況であった.

1904年4月になると「女子修身敦杵苦」(井上哲次郎著 金港堂発刊)「女子英語読本」(瓜生きん千金港堂)が 新しく採択され.「女子用算術教科書」(小林口外1名 光風館)「女学校用算術教科書」(溝口鹿次郎東洋社)

「女子幾何教科書」(長w¥l一興外1名田沼書二店)など

算術関係が拝択されている.地理関係も「最近女子地理 教科書」川l上寓次郎 大]本国書)でR本・外国・地 文に分かれ. 「女子教科用地図」 (同前) 「女子教科外国 新地詰」 (野Lj保興 R黒甚七) 「世界新地図」 (同前) など多彩になる. 「女子理科」系統は弘文餌の教科書に 変わり.歴史はR本・東洋と同じ新保磐次・金港堂出版 社による「女子西洋小史」がふえた.生理学は「近世生 理学教科書」 (丘浅次郎 開成館)に変更された.

(2)女学校の生徒の生活について

設置時の1901年(明治34) 4月の入学生徒数は間口市 裁縫学校の生徒をそのまま四Hilj高等女学校生徒として 再編したので総数は188名.内本科生は89名,専科生は 99名であった.さらにlJ壷尺をみると生徒数は本科2年38 YT.本科1年51名,専科3年28名,専科2年は38名,専秤l 年は33名であった.生徒定数は本科が150名であり(各 学年50名ごと).専科の定数は90名(各学年30名)であ ったから,本科では3年はまだ開学直後で生徒は在籍し ていないので ‑」科2年は定数の12名減,本科1年は定数 を満たした51名の在籍をみた.専科は各学年定数30名の ところ,ほぼ定数を満たした.当初の予測どおりの就学 mam

翌年の1902年(明治35年7月)の生徒数は199名であり 増加した.学級数は各学年1学級が編成され全部で6学級

となった.本科3年にも29名が進学した.

1903年(明治36)には規則改lH二より本科四年制とな り,補習杵が設置され,専科は技芸専修科と改称された.

生徒総数206名,うち本科生徒数は163名となり特に第二 学年が64名で2学級編成となった.補習科への入学者は ない.技芸専修科には43名在籍した.

1904年(明治37)には本科生172名.補習科は0名,技 芸専修科は45名で217名となった.全体として補習科は 設置きれたが人気は薄く,本科生への就学及び進級が増 加しているとみてよい.高等女学校への女子の進学要求 は教養に比重を置いた普通教育にあった.

1905年(明治38) 8月には生徒総数244A,内訳は本科 181人,技芸専修科48人,補習科にようやく15人の在籍 者をみた.

また卒業後の進路をみると, 1902年度は卒業生22名.

うち最も多いのは家事従事19名(86%)小学校雇教員2

名(9% 市立高女教員1名(5%)であった.女学校卒

業後,女生徒の大多数は家庭に留まったが,わずかなが

ら教員職に従事したものもいた.また卒業生について卒

業資格の照会や裁縫杵の成績照会もあり雇教員への就職

機会も訪れている.また規則により成績と品行優秀者に

特待生制度があり授業料免除がなされたが.毎年3‑4人

ほど特待生として優遇された.また寄宿舎生徒の病気疾

患調査(1904年)によれば脚気.感H, 刊のうち数時

間ほど発熱する問歓熱などの疾患があるなど食事や生活

(7)

164 梅 村 佳 代

の変化に伴った疾患もあったようだ.

生徒の学費(1905年)をみると通学生・下宿生・寄宿 舎生で多少異なるが,通学の本科生では1ケ月3.284円, 技芸専修科生は1ケ月2.785円であ恒F間では本科生は40 円程度,技芸専修科生は34円程度必要であった.それに 下宿生は1ケ月の下宿料が4.7円で年間57円ほど,寄宿舎 牛は寄宿舎費1ケ月4.6円で年間55円程度は更に必要であ った.下宿生や寄宿生は年間にして100円程度は最低必 要な経費であった.

(3)経費について

1901年度の四RT嗣子立高等女学校の歳入川予算規模は 総額3.771.936円を計上した.そのうち70%の2,626円は 教員給料とされ,教科書や設備備品の需要費は835.736 円(22%)であった.歳入は直接国税付加金と県税付加 金による市税2,663.196円(71%),生徒の入学金や授業 料などの雑収入が1,108.74円(29%)であった. 1902年 度は大幅に規模が拡大して総額6,893.93円となり1.8倍増 となった.それに臨時費として校舎新築費3,000円が特 別についた. 1903年酎二は6」L52.15円, 1904年度は6,083 円, 1905年度は5,945円程度の通常経費で道営された.

歳出の70%を占める教員給料は校長給,教員給,書記 給などであるが,市立高女では校長の西脇某作は年俸 700円で契約されている.また教員給として教諭・助教 諭・助教諭心得・雇教員による区別と個々の契約時の条 件により様々であり昇格や昇給もあるので変化もある.

教諭高山だいは月俸45円.橋本けさは35円,長尾糸は30 円,菅沼えいは当初27円からすぐに30円に昇給.助教諭 大域久良は25円,市岡てつ・赤木ますは両者ともに20円, 書記の樋l」九兵衛は10円のち11円となった.

(4)その他

日露戦後の教育に関して, 1905年10JJ4R付け有松其 義三重県知事より各県立学校及び公私立学校へ内訓第8 号が発された.そして「今後,我国二於テ最急務トスル 所ハ国力ノ増進こアリ故二此際益々実業教育ヲ発達セシ メ,以テ生産的方面二活動スヘキ人物ヲ養成スルハ最モ 切要ノコトナリトス,又,之ト同時二普通教育二於デモ 成ルヘク実用適切ノ方法ヲ講シ克ク我国今後ノ状勢二顧 ミ旧時二倍増スルカヲ以テ奮励其職ヲ尽シ以テ国家ノ要 望二応センコトヲ留意スヘシ」 tlT)とあり国力増進のため に実業教育を振興すると共に,普通教育では実用適切の 方法を以前にも増して奮励し同家の要望に応えるよう留 意することが達された.

そして1905年(明治38) 2月7口に三重県訓令乙第25号 により既に「天皇陛下,皇后陛下御真影各御豆影ツツ拝 戴セシム拝受方申出ベシ」との達しがなされ,市立高等 女学校では同年10月25日に「御真影拝戴式」を挙行する ことをI‑トロノ出ている.そして前日の24日より水谷兵四郎 校長が三重県庁へ出掛けていっている.女学校での「拝

戴式」の実態は不明である.

6.おわりに

1901年(明治34)から1905年(明治38)にかけて三重 県四日市市立高等女学校の成立から展開の実態について 四日市市役所所蔵の各年度「高等女学校書類」をもとに 再現してきた.まず四日市市は1899年(明治32)勅令

「高等女学校令」公布に即応して,商業都市から貿易港 をもつ国際的な交易都市として生まれ変わるために商業 学校の設‑荏,県立第二中学校の設立に続いて市立の裁縫 学校を設立し.続いて1901年より市立高等女学校の設置 を申請して許可され,全国的にも早い時期に実現した.

設立後は規則に則り運営が進められたが,教員の任用 についてみれば高等女子師範卒業資格をもつ教諭の任用 をはじめ高等女学校教員に関する文部省令第22号により 小学校の正教員免許状を持つものを充当して順調に教員 の着任も進み教授がはじめられている.

また校舎の新築を行い.教科書も女学校用の検定済み 教科書を採用して授業が進められた.設置時の多忙さ故 なのか教員の惟病や疾患による転地療養なども少なくな かった.

また入学生徒は関学後,順調に就学し,設置後5年間 は毎年200人余の在籍者があり,市民の女子中等教育へ の要望に合致していた.また匹旧市市も女学校設立後は 経営に力を入れ,経常費に6,000円規模の予算措置をと FL 運用等なども軌道に乗せた.全体として間口市市立 女学校は成立後は予測以上に順調に進展を示したといえ

る.

これは「高等女学校令」にみられる同家が女子中等教

育の推進を図ったこと,産業貿易港をもつ新生四日市市

が地域住民による女子‑の知識教育を拡張して女子を就

学させたいという要望を取り上げ早期に実現へと動いた

ことが大きい.教育内容からみれば男子の教養教育とは

差異を持っている.普通教育と実用としての家事・裁縫

教育は女子の実情に即して「完全ノ発達」を期待できる

とした.巾等学校の男女別系統編成は自然なこととして

受容きれたのである.

(8)

(1津田俊彦『近代H本中学校制度の確xL一法制・教育機能・支 持基盤の確立‑ I! 1992年1月25円刊(東京大学H用立会) (2)斎藤利彦 摘蓬争と管理の学校史‑明治後期中学校教育の展

聞‑」 1995年1HIOL廿り(東京大学m版会)

(3)橋本紀!‑ 『男女具学制の史的研究』 1992'「i)J6HPJ 大月書 店)

(4)両日静子『良妻賢母という規範』 1991年10月15U二Ij 働草書

>'jさ

く5)梅村佳代「高等女学校令成立の思想的基盤一女千教育論獅斤 を中心として‑」印尭学園短期大学紀要』第8号1975年3月 同論文は総合女性史研究会編『日本女性史論集8‑教育と思 想‑』 1998年5月(吉川弘文館)に転載された.

(61耳L恵美子・伊藤めぐふ「戦前EJ本における別学の諸相と女 子の標準的進学経路ILX=二関する研究ノート」名古屋大学教育 学部技術教育学研究室編:技術教育学研究E 第  1991年3 fl.その他に伊藤めぐみ「高等女学校学科H教育科の検定 教科書に関する研究‑良妻賢母主義とのかかわr)で‑」アElr 等教育史研究』第7号1999年4月がある.また五年間高等女 学校が四年制より進学熱の高まt,)のなかで伸びていくことに ついて佐々木享「東京女子高等師範学校の入学者選抜制度 の歴史」 『愛知大学短期大学部 研究論集』第21弓1998年 12Hもある.さらに旧制中学校に採田封した女教諭の事例を 検討した井上二恵美子「旧制中学校における女教諭採用の事 例一栗山津補の域合一」 『中等教育史研究il第6号1998年1 月などもある.

(7沖内敏夫「R本資本上義と女学校」 『中内敏夫著作集II 匿 名の教育史』 1998年1月(藤原書店)

(8)米田俊彦「1930‑‑10年代における高等女学校の地域的矧凋

・.'In柚日 中"tiftif吏川発会晶.中く3W山m一 第二号 (9)三重県総合教育センタ‑編・三重県教育委員会発行「三重

県教育史』第 ‑巻「四Fl】fti立高女の閉校」   ‑900頁

‑封!蝣'蝣

(10)三重県開口市出呈所所嵐 四日市市史編纂室管埋coi岳等女 学校に関する史料は1901年(明治二日)から1916*1二(太止61 (JC正4年史料欠く)まで揃っている.本稿でとuあげた史 半吊ま三重県fidi同月笠所所蔵j̀明治三「四年二月 高等女 学校岩瀬 第 亮果J pmf「つ一五年II‑月起 高等女学校幼稚 園書類綴 第I一一一課。Ⅲ明治つ・六年 ‑目起 高等女学校幼柾 園書類綴 学赦[ 『明治三「L年市立高等女学校書類」 『明 清三T‑八年I一一一月ヨリ 高等女学校書二段 主任』 (各‑・冊)で ある.

(川文部省『学制百年史』資料編14良 29g, 31頁. 128頁‑

139頁, 143頁参照1973ff‑10月1Ll刊

(12)悔付佳代「明治期における市立高等女学校の成立‑四日市 市を事例とLて‑」篠田弘監修.耳L知則・加藤謂二・高 木靖文編『歴史のなかの教師・子ども』 2000年3日(福村出 版)

(13) [RUiIjl臣LEr 第「工事史料福近代IE 336‑340頁1995 年(平成81日]刊.また】'Mil市市立高等女学校の設置直後J)辛 情についても前掲の梅村佳代「明治期における市立高等女

・/蝣校(..‑')成立I'4 ll/ll]寸Lj坤はLてi ‑J‑ふ恒Irいる.

(14)I"JU市市役所蔵 F明冶二十甘隼三日 高等女学校書載 第

・課』 1901年4H.藤岡とら(登良)の履歴書より (15)同 1901年10H29日私 橋本けさの履歴書より

(16)四臣同市mi‑蔵『明治二十六年.月起 高等女学校幼稚同 書地織 学務』 1903年2月.山下ふんの履歴書より

(17)四日市市役所所蔵『明治三f‑八年一月ヨlJ 高等女学校書 綴上任l 史料のなかの1905年(明治38) 10日4「冊1ナ青松英

& :.:蝣Rll,mlLlは) fll.日付臣fI'Ml iIjiI/J∴もて01 ' :.重用吊"

第八F]‑」よわ

(9)

166 梅 村 佳 代

The Case Study of the Municipal Higher Female School m the Early Years of the 20th Century

‑the Case of Yokkaichi Higher Female School‑

Kayo UMEMURA

(Dep'artmen t of School Pedagog}′'.Nam University of

Educa tion.Narn, 630‑8528Japan) (Received Apiう1 23, 2001)

This study had established the actural circumstances of higher female school after the 1899 law.

The aLithor analized about the rules.teachers,texトbooks,students and school expellses of Yokkこuchi high‑

er female school from 1901‑1905.

The following points were revealed,

(1) The higher female education organized general education of a high standard, of the housework and of the needlework earning.

(2) Some of the teachers were qualified for the certification of licence as instructor that the higher female school had been neededand many of them were qualified for the general licencビas elementary school teachers.

(3) Many female students entered their schools.and studied for four or three years.and after

graduation.they were learning housekeeping in their houses.

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