社学研論集 Vol. 23 2014年3月
はじめに
1.DredScott 判決と反奴隷制論の緊張関係 1.1 事実と当事者
1.2 論点1:黒人は合衆国市民か 1.3 論点2:自由州に居住した奴隷は
自由人となるか?
1.4 論点3:自由なテリトリーに居住した 奴隷は自由人となるか?
1.5 論点4:合衆国憲法と奴隷制 2.DredScott 判決の受容と否定 2.1 連邦議会外における応答 2.2 連邦議会内における応答 むすびにかえて
はじめに
南北戦争直に先立つアンテ・ベラム期には,
奴隷制の存廃を巡る議論が活発に交わされて いた。たとえば,
William Lloyd Garrison
はT
L
という新聞を発行し,その紙上で自らの反奴隷制論を展開していた(1)。
Garrison
の 反奴隷制論は,奴隷制が存続していることの原 因を合衆国憲法に見いだし,合衆国憲法に依 拠しないものであった。それに対してLysander Spooner
は,1845年にT U
S
を出版し,合衆国憲法の下でも奴隷制は禁じられているとする反奴隷制論を展開
していた(2)。特に深刻化した政治的争点の1つ は,新たに獲得されたテリトリーにおける奴隷 制問題であった。この問題に関して連邦議会で は,1820年のミズーリ協定や「1850年の妥協」
といった自由州と奴隷州との間で妥協が積み重 ねられていた。これら妥協は,その地に奴隷州 を1つ認めるならば自由州も1つ認める,とい うように連邦上院議会における自由州と奴隷州 の均衡を意識したものであった。1848年には新 たなテリトリーに奴隷制を拡大させるべきでは ないことを党是とする自由土地党が結成され,
同年の選挙においてその中心人物である
Salon P. Chase
は連邦上院議員に当選した。Chase
は,合衆国憲法の下で奴隷制は禁じられているが,
既存の州内の奴隷制を廃止するものではないと主 張した。つまり,州政府が存在しないテリトリー における奴隷制は禁じられるというのである(3)。
ところが,1854年に制定されたカンザス・ネ ブラスカ法では,1820年のミズーリ協定が「連 邦議会は州及びテリトリーの奴隷制度に干渉し てはならないという原理に反する」ため無効で あると規定された(4)。さらに同法は,民主党の
Stephen Douglas
連邦上院議員が主唱した,奴隷制を採用するか否かについてはテリトリーの
*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程4年(指導教員 西原博史)
論 文
Dred Scott判決とアンテ・ベラム期における 反奴隷制論の緊張関係
小 池 洋 平
*住民たち自身で決定できるとする,いわゆる住 民主権原理を採用するものであった。そのため 同法は,上院における勢力均衡を考慮しない点 で,従来の妥協とは質的に異なるものであった。
このカンザス・ネブラスカ法の制定は共和党 が結成される一要素となった。共和党の1856年 綱領では,連邦議会にはテリトリーに関して主 権を有しているという主張が記され,奴隷制が 自由なテリトリーへ拡大することを阻止すべき だと述べられている[
Johnson/Porter
1973:
27]。たとえば,共和党所属の連邦上院議員
Charles Sumner
は,1856年にThe Crime against Kansas
と 題された演説においてテリトリーにおける奴隷 制を禁じるべきであると主張していた(5)。政治 的に争われていたこの論点に対して,1857年の 合衆国最高裁が口を挟むことになる。それがア メリカ憲法史において最悪の判決の一つに数え られるDred Scott v. Sandford事件合衆国最高裁判 決(6)(以下では単にDred Scott
判決と記す)で ある。このDred Scott
判決は,上記の論点につ いて,テリトリーに対する連邦議会の権限を限 定的に捉え,さらにミズーリ協定が修正第5条 のデュー・プロセス条項に反して財産を剥奪す るものであるため違憲であるとした(7)。そのため,
Dred Scott
判決は特に共和党に属する反奴隷制論者たちから批判の的となった。
Dred Scott
判決は,1861年に南北戦争が勃発する唯一の直接的なきっかけではないとして も,1つの要因となった(8)。
Dred Scott
判決に よってテリトリーへの奴隷制拡大問題が再び浮 上し,その翌年の中間選挙ではこの合衆国最高 裁判決を支持するのか否かが大きな争点となっ ていた。特にイリノイ州では連邦上院議員の議 席を巡り,民主党のDouglas
と共和党のAbra-
ham Lincoln
が論戦を交わしていた。Lincoln
は,中間選挙では破れるものの,この論戦により共 和党内で注目を集める存在となった。これによ
り
Lincoln
は1860年大統領選挙で勝利し,この勝利がサウスカロライナ州を筆頭として南部奴 隷州の連邦離脱を引き起こし,南北戦争勃発 の緊張感が高まったからである[
Fehrenbacher
1978:
485;
根本 2012:
75]。このような
Dred Scott
判決について,現代か ら見れば,「合衆国憲法を素直に読み,南北戦 争前までの慣行を共和党の反『奴隷主権力』イ デオロギーにとらわれずに覚めた目で観察する 限り,少なくとも主観的には彼らは誠実に憲法 の文言に従って奴隷所有権を擁護していたと判 断してよい」と言えるのかもしれない[安武 2011:
93]。しかし,反奴隷制論者たちは合衆 国憲法の文言をどのように解釈すれば「誠実」であるかを巡り対立していたことも事実であ る。そうであるならば,
Dred Scott
判決による 合衆国憲法解釈と,Lincoln
に限らずGarrison
,Spooner
,Chase
といった反奴隷制論者たちの憲 法解釈を整理し,そこにある緊張関係を分析す る必要がある。ここでいう緊張関係とは具体的には次の事柄 である。まず
Dred Scott
判決の法廷意見は,黒 人が白人よりも劣った存在であり,黒人が合衆 国市民とはなり得ないと判断した。この判断は 独立宣言の「自明の真理」──すなわち「すべ て人は,等しく造られ」という理念──に依拠 していた反奴隷制論者と対立的である。そして次に
Dred Scott
判決法廷意見は,奴隷が自由州及びミズーリ協定で奴隷制が禁じられたテリト リーに居住した実績があっても自由身分を獲得 するわけではないと判断した。これは,奴隷州
から自由州へ逃亡してきた奴隷たちを自由州が どのように処遇すべきかという論点と結びつ く。逃亡奴隷問題については,特に奴隷州に隣 接する
Cincinnati
で活動していたChase
は活発 な議論を展開し,自由州へ足を踏み入れた奴隷 には自由身分が推定されると主張していた。つ まり,Dred Scott
判決の法廷意見とChase
の主 張は対立的である。そして最後に,Dred Scott
判決がミズーリ協定を修正第5条のデュー・プ ロセス違反とした点が問題となる。これは合 衆国憲法の下で──少なくとも連邦政府の直轄 地において──奴隷制が禁じられているとするSpooner
やChase
といった反奴隷制論者の主張と真っ向から対立するものである。そこで本稿 ではこれら論点において,
Dred Scott
判決が反 奴隷制論者たちの主張をどの程度否定するもの であったのかを検討する。1.DredScott 判決と反奴隷制論の緊 張関係
1.1 事実と当事者
Dred Scott
判決に係わる事実の概要は次のと お り で あ る(9)。 原 告
Dred Scott
は, 合 衆 国 軍の軍医であるJohn Emerson
に所有される奴 隷であった。1834年から1836年春頃にかけてEmerson
は,イリノイ州Rock Island
にある軍隊 駐屯地(military post
)へScott
を伴い赴任した。さらにその後
Emerson
は,Scott
を伴い,Upper
Louisiana
とよばれるテリトリー内にあるFort
Snelling
に1838年まで赴任した。このFort Snel- ling
は,1820年のミズーリ協定で奴隷制が禁じ られたテリトリー内に位置していた。つまりScott
は,Emerson
に連れられ自由州及び奴隷制 が禁じられたテリトリーに計約4年間滞在していた。
1843年に
Emerson
が死亡すると,Scott
はEm- erson
夫 人Irene
に 相 続 さ れ た。Scott
はIrene
に 自身の自由の買い取りを願い出るも,拒否され る。そのため,1846年4月6日にScott
は,イ リノイ州及びFort Snelling
の居住実績を根拠と して,自身の自由人としての地位を確認するた め,ミズーリ州巡回裁判所(セントルイス巡回 裁判所)に提訴する。ミズーリ州巡回裁判所は,Scott
の居住実績を考慮し,彼が自由人であることを宣言した。しかし1852年,ミズーリ州最 高裁は巡回裁判所の判決を覆した(10)。
ミズーリ州最高裁判決が出されたのち
Irene
は,反奴隷制論者であり1855年から59年まで連 邦下院議員を務めるCalvin C. Chaffee
と再婚す るが,その際に彼女の兄弟でありニューヨーク 市民のJohn F. A. Sanford
へScott
の所有権を譲 渡した(11)。このことによって,Scott
には連邦 裁判所へ提訴できる可能性が開けた。なぜなら ば,合衆国憲法第3条2節1項が連邦裁判所の 管轄権が及ぶ争訟の1つとして「異なる州の市 民(citizens of different States
)間の事件」を規 定しているからである。そしてScott
は,自身 がミズーリ州市民であるとして,彼と彼の家族が
Sanford
から不法に監禁されたことを理由に9
,
000ドルの損害賠償を求める訴えを連邦地裁 に起こした。これに対してSanford
は,Scott
が 州市民でなく原告適格を有しないとして,訴却 下抗弁(plea in abatement
)を行った。連邦地裁判決は
Sanford
の勝訴に終わった。そのため,Scott
は合衆国最高裁へ上告した(12)。Dred Scott
判決では9人の裁判官がそれぞれ意見を執筆している。法廷意見を執筆したのは 合衆国最高裁長官である
Roger B. Taney
裁判官である。そして,6人の裁判官が同意/補足 意見を執筆している(13)。これに対して,2人 の裁判官が反対意見を執筆している。
John Mc- Lean
裁判官とBenjamin Robbins Curtis
裁判官で ある。1.2 論点1:黒人は合衆国市民か?
まず
Dred Scott
判決でTaney
法廷意見が問題 とするのは,Scott
が先に述べた合衆国憲法3 条2節1項のいう「州の市民」であるか否かで ある。もしScott
がミズーリ州市民でないなら ば,連邦裁判所はこの事件を扱う管轄権を有し ないことになる。また,たとえScott
が州法上 のミズーリ州市民であったとしても,それが合 衆国憲法のいう「州の市民」に直結するか否か も問題となった。さらにはそれとは区別された 独立の争点として,そもそもScott
が合衆国市 民であるか否かも問われた。Scott
が合衆国市 民であるならば,「州の市民」であるか否かに 関わらず,連邦裁判所に訴訟を提起する合衆国 憲法上の権利が認められるからである。Taney
法廷意見は,Scott
が合衆国憲法第3条2節1項の「異なる州の市民」にはあたらず,
Scott
は連邦裁判所へ提訴する権利・特権を有しないと結論付ける(14)。そのロジックの説明 に膨大なページ数が割かれているが,大筋は 次のようなものである(15)。合衆国憲法におけ る「合 衆 国 人 民(
people of the United States
)」と「市民」は同じ意味の言葉である。そして
Taney
によると,それらは「主権を有する人民(
sovereign people
)」を意味し,すべて市民はこ の「人民」の1人なのである(16)。Scott
のような 黒人が市民に含めるべきか否かという問題は政 治部門に属する問題であるため,裁判所としては合衆国憲法が制定された当時の意図や意味に 即して解釈を行うことが責務である。こう述べ て
Taney
は植民期まで遡る歴史的検討を行う(17)。まず
Taney
は,合衆国憲法制定時に各邦で実際に市民として扱われていた者は合衆国という 新しい政治共同体の市民となる,という原則を 示す(18)。そのため,各邦で黒人たちが市民と して扱われていたか否かが問題となる。
Taney
は,植民期において黒人たちが劣った人種であ ると見なされており,彼らの自身の利益のため に正当かつ合法的(justly and lawfully
)に奴隷 にされた存在として認識されていたと述べる(19)。 このような認識をTaney
は,植民期になされた 幾つかの植民地法(colonial law
)を引き合いに 出して根拠づける(20)。さらにTaney
は,当時採 択された独立宣言及び合衆国憲法も同様の認識 に基づいて書かれていると理解し,「自明の真 理」には黒人たちが想定されていないし,合衆 国人民に黒人が含まれると考えることはできな い,と結論付けた(21)。しかし,
Taney
法廷意見が描き出したこのような歴史内容は,
Spooner
が明らかにしてきた 歴史内容と大きく異なる。Spooner
は,U-
S
において,植民期に イギリス本国で出されたSomerset
判決やヘイビ アス・コーパスといったコモン・ロー上の原理 を引き合いに出しながら,アメリカで奴隷制が 合法的に存在してきたわけではないと論じる[小池 2012
a:
146-
147]。とはいえ,歴史内容に ついて反奴隷制論者たちは一枚岩ではなかった。
Chase
は,奴隷制が植民地に導入される際に抵抗があったとしながらも,植民地の抵抗は イギリス政府に振り切られて奴隷貿易を認める 植民地法が制定されたと述べ,奴隷制を支持す
る植民地法の存在を認める(22)。そしてこのよ うな状況を踏まえると,実は
Taney
が描き出し た歴史内容は反奴隷制論者たちにとっては以前 からの論争の一枝に過ぎなかった。一方で
Taney
が独立宣言には黒人が想定されていないとした部分は,反奴隷制論者たちとの 間で深刻な対立を生じさせている。
Garrison
の 反奴隷制論は独立宣言の「自明の真理」に強く 依拠するものであったし,Spooner
,Chase
,そして
Sumner
たちも,「自明の真理」が奴隷制と矛盾することを指摘していたからである(23)。 彼らは,「自明の真理」を引き合いに出すこと によって,奴隷制が自然権と相容れないことを 主張していた。そのため,
Taney
法廷意見は,独立宣言の背後に潜む自然権思想と奴隷制との 関係性を巡る争いとなり得た。しかし
Taney
法 廷意見は,奴隷制自体が自然権を侵害するか否 かということまで立ち入るものではなかった。そのため,独立宣言から黒人を排除する部分 は,根本的には上で述べた歴史内容の選択問題 に帰ってきてしまう問題であった。
同様に,
Taney
法廷意見のうち黒人が合衆国憲法のいう合衆国市民でないとする部分も依拠 する歴史の内容によって変化する。たとえば
Chase
は,憲法起草者たちが合衆国憲法で奴隷制が保護されていると安易に考えられないよう に慎重に憲法を作り上げたと主張していた[小 池 2012
b:
232-
233]。 し か しGarrison
は, 合 衆 国憲法が奴隷制との妥協の産物であり,結果と して合衆国憲法では黒人が「我ら人民」から排 除されていると指摘した上で,反奴隷制論を展 開していた[小池 2011:
138-
139]。これを踏ま えると,Taney
の法廷意見とGarrison
の反奴隷 制論との間には,合衆国憲法のいう「人民」に黒人が含まれていないという解釈レベルにおい て対立が存在していない(24)。
しかし,合衆国憲法には「市民」という言葉 が用いられている条項や関連する規定があり,
黒人が合衆国市民であるか否かは,これら条項 をどのように解釈するか次第であった。実際に
Taney
は,合衆国憲法第1条8節4項が連邦議会に与えている帰化に関する規則制定権限に着 目する。つまり
Taney
は,この権限の下で帰化 した人は合衆国市民として扱われるとするので ある。しかしTaney
は,帰化という用語が意味 するのは外国人を合衆国市民にすることである と述べ,そもそも合衆国内で生まれた黒人はこ の連邦議会権限の対象ではないとした(25)。ところが,反対意見を執筆した
McLean
は,合 衆国憲法及び連邦法の下で生まれた者は,帰化 という要件なしに合衆国市民となると述べる(26)。また
Curtis
は,合衆国大統領の資格要件を定める合衆国憲法第2条1節5項で「生まれな がらの合衆国市民(
a natural-born citizen
)」と いう文言が使われていることに着目し,合衆 国憲法のもとで州の土地に生まれたすべての「自由人」が合衆国市民であるとする(27)。「生 まれながらの合衆国市民」という文言に着目 するアプローチは,
Dred Scott
判決の約10年前に
Spooner
の主張にも確認することができる[
Spooner
1845:
117-
118]。しかし,Curtis
が「自 由人」という言葉を用いていることから明らか なように,彼は幾つかの州で「自由黒人(free
negro
)」とされた者だけが合衆国市民となる可能性を示唆しているに過ぎない(28)。それに対
して
Spooner
は,合衆国領土で出生したあらゆる人間が区別されることなく合衆国市民となる と主張している[
Spooner
1845:
119]。それゆえ
Curtis
よりも射程の広い議論をSpooner
は展 開していた。ただし,
Spooner
の主張は反奴隷制論者たちの間で共有されたものではなかった。
Chase
は,合衆国憲法修正第5条のデュー・プロセス条項 の下で奴隷制が禁じられると主張する一方で,
合衆国憲法上連邦議会には州内の奴隷制に介入 する権限を有していないことを認める[小池 2012
b:
236-
237]。すなわちChase
は州権を尊重 する立場をとっていた。またGarrison
も合衆国 憲法が親奴隷制的である理由として,連邦議会 に州内の奴隷制を廃止する権限が無いことを 指摘していた[小池 2012b:
231]。これに対して
Spooner
は,州権を否定し,連邦議会が州内の奴隷制を廃止することができると主張してい た[小 池 2012
b:
230-
231]。 む し ろCurtis
反 対 意見は,州の決定を重視する点で,実質的にはChase
の主張と同一線上にある。1.3 論点2:自由州に居住した奴隷は自由 人となるか?
Taney
法廷意見は,先にみたように,Scott
が 合衆国憲法のいう「市民」ではなく,連邦裁判 所には本件に関する管轄権が無いと判断する ものであった。そのため,本来であればここ で判決としては終わってもよいはずであった[畑 1992
:
31;
甲斐 2013:
140]。しかしTaney
は,Scott
が自由州であるイリノイ州に居住したことによって彼が自由身分を獲得したのか否かの 判断に足を踏み入れる。
もっともこの論点に関しては,州を移動した 奴隷に関する
Strader v. Graham事件合衆国最高
裁判決(29)という先例が存在しており,そのな かで自由州に訪れた奴隷の身分を決定するのはその奴隷が居住する州であるとする原則が示さ れていた[田中 1968
:
450-
451]。この先例に従 うならば,Scott
の身分はイリノイ州法ではな く,もとのミズーリ州法によって決定される。さらに,連邦裁判所に訴訟が持ち込まれる以 前,ミズーリ州最高裁は
Scott
が自由ではなく 被告の財産であるとする判決を下していた。そ のため,ミズーリ州最高裁の判断を尊重する形 でTaney
は,Scott
が依然として奴隷であると結 論付けることができた(30)。しかし,自由州に立ち入った奴隷の身分問題
──すなわち逃亡奴隷問題──に深くコミット していた
Chase
は,Matilda
事件で,1772年にイ ギリス王座裁判所で下された奴隷主から奴隷を 釈放したSomerset v. Stewart
判決を引き合いに出 して,逃亡奴隷Matilda
は自由州であるオハイ オ州に移動してきた時から自由が推定される,と主張していた(31)。
Chase
はこのSomerset
判決 の州バージョンを打ち立てようとしていたと言 える。すなわち,自由州であるオハイオ州では 奴隷制を認める実定法が存在しないため,奴 隷州から逃亡してきた奴隷は自由身分となる,というものである[
Maltz
2007:
59]。つまり,Taney
法廷意見はSomerset
判決で示された原則 を否定するものであった。1.4 論点3:自由なテリトリーに居住した 奴隷は自由人となるか?
自由州に居住した奴隷問題に比べ,テリト リーに居住した奴隷の場合の方が複雑な問題が 生じる。なぜならば,テリトリーに関する連邦 議会権限の範囲という問題と,州政府及び州法 が存在しない状況下で事案を処理しなければな らないという難しさが混在するからである。
合衆国憲法第4条3節2項は,合衆国に属す るテリトリーその他の財産を処分し,これに関 し必要な一切の準則および規則を制定する権限
(以下ではテリトリー規則制定権限と記す)を 連邦議会に付与している。そこで
Taney
は,ミ ズーリ協定がこの連邦議会権限の範囲内である か否かを検討し,テリトリー規則制定権限は合 衆国憲法制定時に合衆国に属していた,もしく は,属すると主張されていたテリトリー,およ びイギリスとの条約で定められたテリトリーに 対してのみ及ぶものとして意図されていた,と 判断する(32)。つまり,合衆国憲法制定後に外 国政府から購入されたテリトリーに対してはテ リトリー規則制定権限が及ばないとした。また テリトリー規則制定権限は,憲法上の文言が「規則と規制」となっていることから,通常の 一般的な立法権を議会に与えるものでもない,
と
Taney
は解釈する(33)。では,ミズーリ協定が対象とするルイジアナ 購入地のように,合衆国憲法制定後に新たに 獲得されたテリトリーについて連邦政府はどの ような権限を有しているのか。この点について
Taney
は,新しい州を連邦に加入させる権限(以下では連邦加入権限と記す)を連邦議会に付与 する合衆国憲法第4条2節1項に着目する(34)。
Taney
は,「合衆国のテリトリーを拡大する権限」を連邦加入権限でもって基礎付けるのである。
しかし,テリトリーを州として加入させるか否 かはあくまでも連邦議会であるため,裁判所は テリトリーに住む諸個人の身体的自由及び財産 権という憲法上確保された権利を認めなければ ならない,と
Taney
は述べる(35)。そしてTaney
は,連邦加入権限は合衆国憲法の他の条項──たとえば自由及び財産をデュー・プロセスなし
に剥奪してはならないとする修正第5条──に よって限界付けられているとし,奴隷は財産で あるがゆえに,ミズーリ協定は連邦議会の権限 を越えた立法であり無効であるとした(36)。
Taney
がミズーリ協定を違憲無効とした部分は,
Chase
の反奴隷制論と深刻な対立を孕んでいる。なぜならば,
Chase
は新たに獲得された テリトリーに奴隷制が拡大するのを阻止しよ うとしていたからである[小池 2012b:
235]。もっとも,
Taney
法廷意見はChase
個人の反奴 隷制論だけでなく,共和党の目的とも対立する ものであった。Dred Scott
判決が下される前年 の1856年共和党綱領は,連邦議会がテリトリー に関する主権を有しており,それによりテリト リー内の奴隷制を禁じることができると決議す るものであった[Johnson/Porter
1973:
27]。たしかに
Taney
法廷意見は,共和党の綱領を否定するものであり,合衆国最高裁の政治的中 立性に対する信頼を失わせたといえるであろ う。しかし,
McLean
とCurtis
による反対意見 を合わせ鏡として用いると,実はこの論点が単 なる政治的な争いだけではなく,合衆国憲法と 奴隷制の関係性を巡る深刻な論点における対立 が根底に潜んでいることが明らかとなる。反対 意見を執筆したMcLean
は,連邦議会がテリト リー規則制定権限に基づいてテリトリー内の奴 隷制を制限する立法を,合衆国憲法の目的と一 致もしくは合衆国憲法が禁じていることと衝 突しない範囲で行うことができると述べる(37)。そして
McLean
は,白人であっても黒人であっても彼らを奴隷にする連邦議会権限は合衆国憲 法上存在しないと明確に述べる(38)。また
Curtis
は,
McLean
と同じように,合衆国憲法が禁じていない範囲においてテリトリー規則制定権限
の下で奴隷制を制限する立法を行うことができ ると述べる(39)。
Taney
がテリトリー規則制定権 限の射程を制憲期におけるテリトリーに限定し ていたのに対して,McLean
とCurtis
はその射程を
Dred Scott
判決当時のテリトリーに及ぶとする点で,法廷意見と反対意見は対立してい る。しかし,
Taney
の場合は準州加入権限が,そして
McLean
とCurtis
の場合はテリトリー規 則制定権限がそれぞれ合衆国憲法によって制約 されるという点で両者は一致しているのであ る。つまり,根本的には合衆国憲法が奴隷制を 認めているか否かという論点に対する認識の違 いが彼らの対立を生じさせている。1.5 論点4:合衆国憲法と奴隷制
かくしてテリトリーにおける奴隷制に介入す る連邦権限の有無の問題は,根本的には合衆国 憲法が奴隷制を認めているか否かという問題に たどり着く。ただし「認めている」と一口に いっても,2つの意味を区別する必要がある。
1つは,合衆国憲法は奴隷制を州の問題として いる,すなわち連邦法上は何も語っていないと いう意味での,消極的な容認である。そしても う1つは,合衆国憲法が奴隷主の奴隷所有権を 保護しているという意味での積極的な承認であ る。補足意見を執筆した
Campbell
は,ミズー リ協定の合憲性について連邦議会権限の観点か ら違憲であると述べているが,デュー・プロセ ス条項の観点から違憲であるとは述べていない[
Fehrenbacher
1981:
219]。一方,先に述べたように
Taney
はミズーリ協定をデュー・プロセス条項に反し違憲無効であるとしていた。つまり
Taney
は,奴隷という財産を有罪宣告無しに没収することはできないし,正当な補償なしに収
用することもできないとする積極的な承認論を 展開していた。
Taney
のこのような解釈が成り立つ前提として,奴隷が財産であるという命題が必要である。
実際,
Taney
は奴隷財産が他の財産と同じ財産として取り扱われるべきことを肯定する(40)。ま
た
Dred Scott
判決において同意意見を執筆したDaniel
裁判官は,Scott
が市民ではないとする文脈において,
Scott
を奴隷主の利益・便益・意思に従属すべき財産であると捉えていた(41)。 その一方,反対意見を執筆した
McLean
は,奴 隷は単なる家畜(cattle
)ではないと明確に述 べる(42)。またCurtis
は,奴隷制が州法上の制度 であると述べつつも,修正第5条のデュー・プ ロセス条項とミズーリ協定の関係性についても 踏み込んで検討している(43)。ここでCurtis
は,デュー・プロセス条項がマグナ・カルタに由来 するものであり,植民期においてはこのマグ ナ・カルタが効力を持ち,州憲法にも同様の規 定が置かれていたことをまず指摘する。その上
で
Curtis
は,オハイオ川以北の領土における奴隷制を禁じる1787年の北西部条令(
Northwest
Ordinance
)がデュー・プロセスに違反するといった主張を確認できないこと,さらに1808年 以降に奴隷貿易を禁じる権限を連邦議会へ実質 的に付与する合衆国憲法の奴隷貿易条項につい て制憲議会でデュー・プロセス違反であるとす る主張が無かったことを引き合いに出す。加 えて,そもそもミズーリ協定は,奴隷を没収
(
forfeit
)するものではなく,当該地域における奴隷制を禁じるものである(44)。そうであるな らば,なぜミズーリ協定がデュー・プロセス条 項違反なのであろうか,と
Curtis
は問いかける のである(45)。反奴隷制論者のなかでも
Chase
は,修正第5 条のデュー・プロセス条項が連邦議会の立法を 制約すると考えていた[Chase/Cleveland
1867:
86]。この点ではTaney
法廷意見と大きな違い はない。しかし,奴隷=財産という命題に関して,
Taney
と反奴隷制論者たちは鋭く対立する。たとえば,
Garrison
は人間を財産として所 有することが自然法の下で許されないことを 主張していた[小池 2011:
136]。またSpooner
は,自然法の下で各個人は自らの身体を支配す る自然権を有しており,人間を財産として所有 することはこのような自然権を侵害するもので あると捉えていた[小池 2012a:
148]。そして 合衆国憲法を自然権に有利になるように解釈し なければならないとするSpooner
にとって,人 間所有は合衆国憲法上も承認できるものではな かった。さらにChase
とSumner
も共に合衆国 憲法上,人間が財産であるとする理解を否定し ていた[小池 2012b:
234,
238;
小池 2013b:
112,
114]。このことは,黒人=合衆国市民という命 題に関して反奴隷制論者たちの間でも見解が分 かれていたこととは事情が大きく異なる。2.DredScott 判決の受容と否定 2.1 連邦議会外における応答
Garrison
は,1858年3月12日のthe Liberator
紙 においてDred Scott and Disunion
と題された記 事を書いている(46)。そのなかでGarrison
は,独 立宣言における「自明の真理」を繰り返し述 べ,その実践的執行を求める[Harris/Tichenor
2010:
76]。Garrison
から見れば,Dred Scott
判決 は「憲法的悪事(constitutional evil
)」を明確化 するものであった[Balkin/Levinson
2007:
78]。そして
Garrison
は,奴隷制と道徳的堕落との連邦ではなく,自由と良心の備わった分離を我ら にあたえよ,と述べて北部連邦離脱論を主張す る[
Harris/Tichenor
2010:
76](47)。またSpooner
は1857年9月10日にGerrit Smith
へ宛てた手紙 の中で,1856年12月6日に連邦上院議会におい て連邦議会には奴隷制を廃止する権限があると する自身の主張が取り上げられたことに言及しつつ,
Dred Scott
判決が明らかに間違っており,奇妙な前提に立っていると述べている(48)。
Dred Scott
判決は奴隷主が奴隷を自由州に持ち込むことをも許容するものであったため,い くつかの自由州の議会では同判決を非難する決 議が出されている。たとえば,ペンシルバニア 州議会では,1857年3月23日に
Dred Scott
判決 が「奴隷制に好意的な政治家たちが喜ぶツール であり」,「真理と正しさをおぞましく歪曲する」ものであると非難し,この判決が自由人を拘束 する権限がない,とする決議を行っている(49)。
当時
Chase
が知事を務めていたオハイオ州の州議会も同様に
Dred Scott
判決を非難する決議を 可決している(50)。Dred Scott
判決に対する批判のなかでも最も有名なものは,
Lincoln
による批判である。Lincoln
は,1857年6月26日にSpringfield
でDred
Scott
判決を批判する演説を行う[CWAL vol.
2:
398-
410]。この演説でLincoln
はまず,Taney
法 廷意見が描き出した歴史の内容が事実と異な ると批判し,Curtis
反対意見の方が正しいと述 べる[CWAL vol.
2:
401]。そして,Taney
が独 立宣言の起草者たちが「自明の真理」から黒 人を排除していたとすることに対しても,起 草者たちがあらゆる人間を「自明の真理」に 含めているとLincoln
は批判する[CWAL vol.
2:
403]。しかしLincoln
の独立宣言解釈は曖昧である。というのも,起草者たちは人があらゆる 点(肌の色,知能,道徳的発達,社会的能力な ど)で平等であると述べているわけではない,
と
Lincoln
は解釈するからである[CWAL vol.
2:
405]。またこの演説でLincoln
は白人と黒人の 混血を避けるため,人種を分離することを提案 する。そしてこの人種分離を効果的に行うため に,黒人たちを外国へ植民させる政策が必要で あると主張している(51)。2.2 連邦議会内における応答
Dred Scott
判決が下される直前の3月4日,1856年大統領選挙で当選した民主党の
James Buchanan
は 就 任 演 説 で, こ れ か ら 下 さ れ るDred Scott
判決に従う旨を述べていた(52)。Bu-
chanan
とTaney
の間で実際にどのようなやり取りが事前にあったのかは不明であるが,少なく とも
Buchanan
はDred Scott
判決の結果を知っ ていた[Finkelman
2006:
28-
29]。そのため,第 35回連邦議会ではBuchanan
とTaney
の「なれ合 い」を批判する声があがった。たとえば,共和 党所属のWilliam Seward
連邦上院議員(ニュー ヨーク州選出)は,この「なれ合い」を西部 テリトリーに奴隷制を拡大させるための陰謀(
conspiracy
)であると批判している(53)。ただし,Seward
による批判はそれだけに留まるものではない。彼は
Dred Scott
判決のうち,ミズーリ 協定を違憲とした部分はあくまでも傍論であ り,連邦議会は「無視」すべきであると主張し ている。またScott
を所有していたIrene
の再婚 相手であるCalvin C. Chaffee
も,ミズーリ協定 に関する部分を傍論であり,判決とは違って法 的な拘束力は無いと論じる(54)。多くの共和党 員たちがこのような立場をとり,テリトリーにおける奴隷制を禁じる連邦議会権限を信じてい た[
Finkelman
2006:
38]。また共和党所属の
John P. Hale
連邦上院議員(オハイオ州選出)は,自由州では奴隷を財産 とは見なしてこなかったことを根拠に,これま で合衆国において奴隷が他の財産と同様の財 産と見なされてきたとする
Taney
法廷意見が不 適切であり間違いであると批判する(55)。このHale
の批判は,あくまでも奴隷制が地方的な 制度に過ぎないという主張と表裏一体の関係に ある(56)。奴隷制があくまでも地方的な制度に過 ぎないという主張は,Chase
が以前から主張し ていたものであり,特に目新しいものではない。逆に民主党員の多くは,テリトリーにおける 奴隷制を規制する連邦議会権限が無いとする
Dred Scott
判決を共和党の主張を退けるものとして歓迎した。たとえば,民主党所属の
Judah Philip Benjamin
連邦上院議員(ルイジアナ州選出)は,
Dred Scott
判決を支持することを議会で明確に述べる。そのなかで,そもそも奴隷制 が州法によって創設されたものだとする想定,
奴隷制を認める州の外側で奴隷が財産ではなく なるという想定,そして人間所有が合衆国憲法 によって認められていないとする想定それ自体 が間違っているのだと主張する(57)。また彼の
演説は
Somerset
判決にも触れるが,イギリス以外にも,フランス,スペイン,ポルトガルが植 民期アメリカに植民地を有していたことを踏
まえ,
Somerset
判決だけを重視するのは適切ではないと主張する(58)。ただし,民主党員の中 でも住民主権論を支持する論者たちは,
Dred
Scott
判決をそのまま歓迎することはできなかった。というのも
Taney
法廷意見を素直に読 めば,住民たちが奴隷制を認めない決定をすること自体不可能になるからである[山本 1984
:
141]。そのため,Dred Scott
判決は後に民主党 の分裂を促す素材を提供するものでもあった[山口 1985
:
503]。むすびにかえて
黒人を合衆国市民から排除するために
Taney
法廷意見が描き出したアメリカ合衆国の歴史 は,Spooner
,Chase
,Sumner
ら 合 衆 国 憲 法 が 奴隷制を認めていないとする立場が依拠する歴 史観と内容的な対立があった。さらに奴隷=財 産という命題についても,同様に対立が確認で きる。これと合わせて,修正第5条が奴隷主の 奴隷財産所有を保護するのか否かという論点で も対立するが,少なくとも合衆国憲法が奴隷制 に積極的承認を与えるものではないという点につき,
Dred Scott
判決が共和党の憲法的確信に揺らぎを生じさせるものではなかった。
Buchanan
大 統 領 は,1860年12月 3 日 に お こ なった最後の教書において,釈明的な憲法修 正(explanatory amendment
)を行うことを議会 に提案している。この提案は,(1)既に存在す る,もしくはこれから存在するであろう州にお ける奴隷所有権を明確に認めること,(2)すべ ての公有地で奴隷所有権を保護する合衆国政府 の義務をみとめること,(3)奴隷所有権を認め るために,ある州から他州へ逃亡した奴隷が奴 隷主のもとへ返還されることを認めることを 憲法修正によって明らかにするように求める ものであった(59)。そしてLincoln
の当選により 州内の奴隷制が危機に瀕するとして,20日には サウスカロライナ州に続き6州が連邦を離脱 し,翌年2月4日にはアメリカ連合国が創設さ れる。このように連邦が分裂する危機的状況下で,連邦議会では離脱州と妥協し,戦争を回避 する方法が模索される。そのなかで1861年3月 には
Corwin Amendment
と呼ばれる憲法修正が 連邦議会で成立する(60)。これは奴隷州に介入 する連邦議会権限を否定するものであり,北部 が奴隷制に寛容であることを示すものであった[
Kyvig
1996:
157]。今日からみて,修正第13条 がこのCorwin Amendment
を否定するものであ ることは明らかである。南北戦争によって反奴 隷制論者たちの憲法理論がどのように変化した のかについては,今後の課題としたい。〔投稿受理日2013. 12. 21 /掲載決定日2014. 1. 23〕
注
⑴ Garrisonの反奴隷制論及びその根拠につき[小
池 2011: 134以下]参照。
⑵ Spoonerの反奴隷制論につき[小池 2012a: 144以 下]参照。
⑶ Chaseの反奴隷制論につき[小池 2012b: 231以
下; 2013a: 152以下]参照。
⑷ 10. Stat. 277, 第14条参照。
⑸ Cong. Globe, 34the Cong. 1st Sess., Appendix, 531 。 Sumnerの反奴隷制論につき[小池 2013b: 108以下]
参照。
⑹ 60 U.S. (19 Howard)393. Dred Scott判決について
は“infamous”といったネガティブな形容詞が付
される場合がほとんどである。Dred Scott判決が どのように呼ばれてきたかについて[Graber 2006: 15-17]参照。
⑺ なお,Dred Scott判決に関する評釈として[長内 1996; 54-55; 早川 1978: 128-129; 根本 2012: 74-75]
がある。また憲法・英米法研究者によるDred Scott 判決研究として[畑 1992: 23-41; 甲斐 2013: 119-153; 田中 1968: 459-470; 田中 1987: 89-116]。特に,黒 人の市民権に着目する研究として[高佐 2003: 117- 126]。歴史研究者によるものとして[安武 2011: 93- 96; 山本 1963: 291-298,藤原 1970: 501以下]など。
⑻ 田中英夫は,Dred Scott事件が南北戦争勃発の原 因として捉えることに抑制的ではあるものの,当 該判決によって南北戦争の勃発が早まったことを
否定はしない[田中 1968: 467]。
⑼ Dred Scott判決に関する研究書として最も有名
なものは,Don E. Fehrenbacherが1978年に出版し たThe Dred Scott case, its significance in American law and politicsである。本書はDred Scott判決を包括 的かつ詳細に分析するものであり,この判決に関 する最も重要な文献とされている[Allen 2006: 3]。
以下,Dred Scott判決の事実の概要については主に
[Fehrenbacher 1978: 239-]を参照した。また本書の 縮減版として[Fehrenbacher 1981]がある。
⑽ Scott v. Emerson, 15 Mo. 576(1852)[, Fehrenbacher 1978: 239-265]。
⑾ [Finkelman 2006: 25]。合衆国最高裁の判決文原
文ではSandfordと表記されているが,これはSan-
fordの間違いであることは広く指摘されている。
そのため本文ではSanfordと表記した。
⑿ [Fehrenbacher 1978: 267-283]。
⒀ 同意/補足意見を執筆した6人の裁判官はJames Wayne, John Catron, Peter Vivian Daniel, Samuel Nel- son, Robert Cooper Grier, John Archibald Campbellで ある。
⒁ 60 U.S. 423
⒂ Fehrenbacherによると,黒人の市民権について
書かれたページ数は24ページであり,Taney法廷意 見の中で最もページ数(約44%)が割かれている。
そして次にページ数が割かれているのがテリト リーに関する部分である[Fehrenbacher 1978: 337, 340]。
⒃ 60 U.S. 404.
⒄ 60 U.S. 405.
⒅ 60 U.S. 406-407.
⒆ 60 U.S. 407-408.
⒇ 60 U.S. 408-409. Taneyは,この一例として,黒人 と白人の婚姻を禁じる1705年のマサチューセッツ 植民地法をあげている。
� 60 U.S. 409-412.
� Cong. Globe, 31st Cong., 1st Sess., Appendix, 469.
� Garrisonが「自明の真理」を足がかりに反奴隷制
論を展開していたことについて[小池 2011: 135- 138]参照。Spoonerが独立宣言を奴隷制と矛盾す るものとしていたことについて[小池 2012a: 146]
参照。また,ChaseとSumnerも同様の考え方をし ていたことにつき[小池 2012b: 234; 小池 2013b:
111-112]参照。
� もちろんGarrisonは平等という観点から奴隷制そ れ自体を批判していた。あくまでも合衆国憲法解 釈の結論がTaneyと同じであるということである。
� 60 U.S. 417-418.
� 60 U.S. 531.
� 60 U.S. 576.
� Finkelmanは,そもそもScottが居住していたミ
ズーリ州では自由黒人が市民とされていなかっ
たため,Curtisの反対意見を採用したところで,
Scottは依然としてミズーリ州市民となることは
できなかった,と分析している[Finkelman 2008: 1250]。
� 51 U.S. (10 Howard)82.
� 60 U.S. 452-453.ちなみに,当初法廷意見を執筆 するはずであったNelsonは,主にStrader判決に
依拠してDred Scott事件を処理しようとしていた
[Finkelman 1981: 277]。
98 ER 499, 510.[小池 2012b: 233]
� 60 U.S. 432. 60 U.S. 440. 60 U.S. 446. 60 U.S. 446-447. 60 U.S. 450-452. 60 U.S. 542. 60 U.S. 542. 60 U.S. 614. 60 U.S. 439. 60 U.S. 476. 60 U.S. 550.
以上Curtisの補足意見につき60 U.S. 624-626. ミズーリ協定が奴隷を没収するものではない,
とするCurtisの指摘は大きな問題を孕んでいる。
というのも。南北戦争が勃発すると連邦議会では 第1次財産没収法及び第2次財産没収法を制定す るが,これらは合衆国に敵対する奴隷主から奴隷 を「没収」もしくは「解放」することを規定して いるからである。これら南北戦争勃発後に制定さ れた連邦法に関する検討は今後の課題とする。
60 U.S. 626-627.
本稿では[Harris/Tichenor 2010: 75-76]に所収 のものを利用した。
山本幹雄はDred Scott判決が下された時に,Gar-
risonの「連邦解体論」が集約点を迎えたとする[山
本 1989: 125-128]。
小池洋平[2011]「アンテ・ベラム期における憲法 への挑戦─ウィリアム・ロイド・ギャリソンの反 奴隷制思想における憲法理解─」,『社学研論集』
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(東京大学出版会)。
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[Fehrenbacher 1978: 434-435]。
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[CWAL vol.2: 409]。Lincolnに 対 す る 評 価 は 一 大論点であるが,本稿では主に彼以外の反奴隷制
論者とDred Scott判決の緊張関係を検討すること
を狙いとしているため,今後の課題としたい。な
お,Lincolnが北部多数派,特に白人多数派世論の
動向を読み取る能力が高く,奴隷制反対と黒人嫌 悪(「黒人反対」)の両方を探り当てたとする分析 がなされている[清水 2001: 282-291]。
この就任演説でBuchananは,カンザス準州で 起きている奴隷制を巡る争いに関する法的正当性 について最高裁が近々判断を下すという見通しを 明らかにし,それに喜んで従うつもりだと述べて い る。Cong. Globe, 35th Cong., 4th Sess., Appendix, p.371.
Cong. Globe, 35th Cong., 1st Sess., p.941. Cong. Globe, 35th Cong., 1st Sess., p.852-855. Cong. Globe, 35th Cong., 1st Sess., p.341. Cong. Globe, 35th Cong., 1st Sess., p.342. Cong. Globe, 35th Cong., 1st Sess., p.1066. Cong. Globe, 35th Cong., 1st Sess., p.1067. Cong. Globe, 36th Cong., 2nd Sess., Appendix, pp.1-
7, p.4.
この名称は連邦議会に報告したThomas Corwin 連邦下院議員(オハイオ州選出)に由来する。
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