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165 Chiikishi Kenkyu 尼崎今昔物語についてたなかあつし尼崎郷土史研究会会員( ) 田中敦目次一 はじめに二 作者について三 本書について1 概観2 尼崎城下町について3 中谷雲漢につながる人物4 尼崎の名士懐古談(その1医師)5 尼崎の名士懐古談(その2政界関係者)6 その他多彩

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尼崎今昔物語について

たなかあつし 尼崎郷土史研究会会員

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   目    次 一、 は じ め に 二、作者について 三、本書について   1、概観   2、尼崎城下町について   3、中谷雲漢につながる人物   4、尼崎の名士懐古談(その1   医師)   5、尼崎の名士懐古談(その2   政界関係者)   6、その他多彩な人物   7、社会問題   8、尼崎の自然、風俗 四、本書の位置付け 五、 む す び    一、はじめに   『 尼 崎 今 昔 物 語 』 ( 以 下「 本 書 」 と い う。 ) は、 畠 は た だ 田 繁 は ん た ろ う 太郎 氏 (以下 「畠田」 という。 ) が昭和一二年 (一九三七) に 発 刊 し た 書 物 で あ る。 か つ て 大 覚 寺 長 老 岡 本 静 じ ょ う し ん 心 氏 ( 以 下「 岡 本 氏 」 と い う。 ) は、 「 郷 土 史 雑 感 ( 1 ) 」 の 中 で、 本 書 を「 嘗 て、 尼 崎 今 昔 物 語 が 公 刊 せ ら れ た が、 書 名 の 如 く 史 書 的 価 値 に 乏 し い も の で あ っ た。 」 と 評 さ れ て い た。これは、日頃温厚な同氏からは考えられない指摘と して、非常に印象に残った。   そ の 後 、 尼 崎 市 が 平 成 一 九 年 ( 二 〇 〇 七 ) に 刊 行 し た

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『 図 説 尼 崎 の 歴 史 』 下 巻 ( 以 下 「 図 説 」 と い う 。) 五 四 頁 に 、本書の口絵写真が紹介された 。これは 、当時尼崎随 一の料亭と謳われた市庭町の立花楼における医師等の遊 興の写真 「立花楼酔遊の図   尼崎の名楼立花楼で悪友連 メートルをあげつゝあるところ」であり 、「立花と金久」 ( 九 一 )( 本 書 の 引 用 は 、 頁 で 特 定 す る 他 、 題 名 と 本 書 の 番 号 に よ る 。) で 取 り 上 げ ら れ て い る 。 ま た 、 尼 崎 藩 の 藩 学 者 で 、 明 治 二 年 ( 一 八 六 九 ) に 開 校 さ れ た 藩 黌 正 業 館 の 督 学として 、その運営を担った 中 なかたに 谷 雲 うんかん 漢 (以下 「雲漢」とい う 。) の 詩 文 を 集 め た 「 雲 漢 集 」 の 史 料 紹 介 執 筆 (2) の た め の調査の過程で 、本書が随所で雲漢に言及しているばか り か 、『 尼 崎 市 史 』 や 本 誌 等 、 多 く の 著 作 ・ 論 考 が 本 書 を引用していることが判明した 。さらに 、地域研究史料 館では 、現在本書のデータベース化が行なわれている 。 こ の よ う に 、本 書 は 、近 年 注 目 を 集 め て い る と い え よ う 。   こうした契機から、今回、本書及び作者の畠田につい て取り上げることとし た ( 3 ) 。     二、作者について   畠田は、明治二年に尼崎藩士である父吉寧の子として 阪 神 尼 崎 駅 の 南 西 の 広 小 路 (「 西 屋 敷 」 と も 呼 ば れ た。 現 在 の尼崎市東桜木町) に誕生した。 「畠田助作と小森啓さん」 ( 八 二 ) に よ れ ば、 叔 父 の 畠 田 助 作 は、 勤 皇 の 志 士 と し て尼崎藩を脱藩し、明治維新時には、官軍側に立って活 躍したという。   畠 田 は、 雲 漢 の 高 弟 内 田 頼 よ り し げ 重 ( 以 下「 内 田 」 と い う。 ) の開設した私塾の 酔 すいほうしゃ 飽舎 及び呉新一の開設した英語塾で 学 ん だ (「 酔 飽 舎 と 呉 英 語 塾 」( 一 二 七 ) ) の ち 神 戸 師 範 学 校 を 卒 業 し、 教 員 生 活 に 入 っ た。 武 庫 郡 西 新 田 小 学 校 の 教 員 補 助 職 を 振 り 出 し に、 明 治 二 五、 六 年 ( 一 八 九 二、 三 ) ころには伊丹町立稲野小学校 (「荒川宗太郎翁と山下きく女 市岡高等女学校長 当時の畠田 (『尼崎市現勢史』より)

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史 」( 七 五 )) 、 そ の 後 尼 崎 尋 常 高 等 小 学 校 な ど 川 辺 郡 下 で 教職にあった。ところが、畠田は、尼崎尋常高等小学校 在 籍 当 時 の 明 治 二 九 年 ( 一 八 九 六 ) に 中 馬 譲 吉 及 び 小 嶋 金二郎らが地区代表とし て (4) 、中山校長につき職務怠慢が あ っ た と し て 更 迭 要 求 を し た 際 に、 「 僕 達 は 訓 導 と し て その監督の任にある校長の辞職を勧告するなどゝいふ挙 に左袒は出来ぬ。然しながら、予もまた町民としての一 員であるから、僕達が諸君と同様の立場にあったなら諸 君 と 同 様 の 行 為 に 出 る 事 で あ ら う。 」 と 述 べ ( 七 五 頁 ) た ことから、学校を混乱させた責任を問われ、太田首席及 び山口訓導とともに懲戒免職とされた (いわゆる琴城校事 件 ( 5 ) ) 。「 天 満 屋 の 竹 さ ん と 和 田 属 」 ( 四 一 ) は、 そ の 顛 末 を 記す。   このように、畠田は、正義感や負けん気が強く、目上 の者にも直言を 憚 はばか らなかったことがうかがえる。本書に も そ う し た 片 鱗 を う か が わ せ る 記 述 が あ る。 「 ナ ニ ク ソ と 伊 達 尊 親 」 ( 四 五 ) で は、 尼 崎 市 議 会 議 長 と な っ た 林 安 治 郎 と 自 宅 で 酒 盛 り を し て は、 酔 余 同 人 が「 ナ ニ ク ソ 」、 畠 田 が「 決 ケ ー ッ シ テ 」 と そ れ ぞ れ 声 を 張 り 上 げ た 話、 「 木 下 東 作 博 士 と 坂 口 昂 博 士 」 ( 一 一 二 ) で は、 テ ニ ス の 京 阪 対 抗 戦 で ヤ ジ の「 関 西 一 」 を 自 称 す る 京 都 方 の 教 員 を や じ り 倒 し、 試 合 後 の 懇 親 会 の 席 上、 同 人 か ら「日本一」の称号を与えられた話、 「 柘 ざ く ろ 榴 とセンダン」 (一七七) では、尼崎は「娘一人と柘榴が三本あったら暮 して行ける処だ」という記事を掲載した新聞社に反論書 を提出し、猛抗議をした話を記している。こうした畠田 の言動は、当時折に触れ、耳目を集めたことであろう。 大 正 五 年 ( 一 九 一 六 ) の 尼 崎 市 制 を 記 念 し、 同 年 九 月 に 富田重義及び前川佐雄の編集で刊行された類書『尼崎市 現 勢 史 』 ( 以 下「 現 勢 史 」 と い う。 ) は、 畠 田 に つ き、 「 教 育家としては余りに才気に勝つとの評ある」と記してい る (同二六二頁) 。   畠田は、右免職後、当時大阪市立高津小学校に勤務し ていた知人今井喜三太の推挙により、大阪市立日本橋分 教 場 教 員 に 採 用 さ れ た。 「 浦 人 と キ ー ち ゃ ん 」 ( 一 二 六 ) は、この間の事情を記す。今井には恩義があるのに、前 祝 で 開 い た 宴 会 で 酔 っ て 些 細 な こ と か ら 喧 け ん か 嘩 を し、 翌 日、朝から飲み直して仲直りをした話の中に、同人に対

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する感謝の念が現われている。こうして、畠田は、教員 をする傍ら、関西大学の前身である関西法律学校を卒業 し、 そ の 後 中 之 島 女 学 校、 梅 田 高 等 女 学 校 等、 大 阪 市 内 の 女 学 校 を 歴 任 し、 最 後 は 大 阪 市 岡 高 等 女 学 校 ( 江 戸 堀 高 等 女 学 校 を 改 称 ) の 初 代 校 長 に 就 任 し た。 な お、 畠 田 は、晩年は、青年の智徳涵養和協団結及び風儀矯正を目 的とする尼崎青年会の評議員をしていたことが、現勢史 に 記 さ れ て い る ( 6 ) 。 ま た、 「 正 枝 さ ん と 篤 ち ゃ ん 」 ( 九 四 ) に よ れ ば、 畠 田 の 家 族 は、 妻 と 二 男 三 女 で あ っ た こ と が う か が え る。 次 男 敏 夫 は、 昭 和 三 九 年 ( 一 九 六 四 ) に 陽 ようやまはくいち 山泊市 が復刊出版した復刻版のあとがきに、刊行協力 者として紹介されている。   前述した以外に、畠田の尼崎等での教員生活時代に縁 のあった人物をあげれば、補助職時代の同僚として、後 記橋詰良一及び後に士官学校を出て軍務に就き、大佐ま で昇進して帰郷した森川清五郎を描いた「良やんと清五 さ ん 」 ( 三 八 ) 、 雲 漢 の 高 弟 で、 畠 田 の 勤 務 校 西 新 田 小 学 校の校長をしていた藤田勇三郎を記した「藤田先生と熊 は ん 」 ( 五 一 ) 、 前 記 琴 城 校 問 題 で は 共 に 免 職 と な っ た 山 口五郎及びその子で、後に鉄道局で活躍した山口幾を記 し た「 山 口 幾 さ ん と 西 田 保 さ ん 」 ( 九 八 ) 、 当 時 川 辺 郡 の 属として同問題に関わった和田九十郎を記した前記「天 満屋の竹さんと和田属」及びその子で、寺町で琴浦窯を 始 め た 和 田 桐 山 を 記 し た「 桐 山 師 と 貫 さ ん 」 ( 八 〇 ) が ある。また、畠田の教え子は、後に各界で活躍し、人脈 を 形 成 し て い た が ( 7 ) 、 右「 天 満 屋 の 竹 さ ん と 和 田 属 」 及 び「 琴 陽 会 と 旧 雨 会 」 ( 一 五 四 ) で 詳 し く 紹 介 さ れ て い る。そして、畠田が琴城小学校で教 鞭 べん を執って四〇年近 く 経 っ た 昭 和 一 一 年 ( 一 九 三 六 ) 二 月 二 日、 築 地 会 館 で 元の教え子が集まった楽荘会の模様を記した前記「天満 屋 の 竹 さ ん と 和 田 属 」 及 び「 七 草 会 と 楽 荘 会 」 ( 一 七 〇 ) は、畠田と教え子との交流を描いている。   畠田は、文章をよくし、本書でも自らを「浦人」等と 呼んでいる。阪本勝も、本書の序で「朝陽洗心録」 、「滬 上瞥見」及び「東京より伊豆へ」を畠田の著作として紹 介 し、 「 運 筆 軽 妙、 戯 句 縦 横 の 才 気 を も っ て 知 ら れ て ゐ る」と評している (同四頁) 。畠田は、一方で、テニス及 び卓球にも優れ、草創期の関西女子庭球振興会長、卓球

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研究会長等、指導的な地位にあった。本書にも、前記テ ニ ス 対 抗 戦 の ヤ ジ の 話 の 他、 昭 和 八 年 ( 一 九 三 三 ) に パ リで開催された布井良助選手のデビスカップ杯等での熱 戦 を 記 し た「 笠 井 将 軍 と 布 井 選 手 」 ( 八 四 ) 、 関 西 学 院 に 在籍した秋元選手を記した 「汪企張と秋元選手」 (九七) 、 当時は 良 な が こ 子 女王と呼ばれていた香淳皇后を始めとする皇 族方の前で行なわれた、市岡高等女学校らの女学生によ る 東 西 対 抗 戦 を 描 い た「 菊 園 選 手 と 恩 田 記 者 」 ( 一 二 〇 ) 等、テニスに関する記述に事欠かない。   本書の発表・刊行には、尼崎藩医の家系であった阪本 家の出身で、市議会議員、県議会議員、尼崎市長、兵庫 県知事等を歴任した阪本勝が大きく関与している。すな わ ち、 当 時 兵 庫 県 議 会 議 員 で あ っ た 阪 本 勝 は、 「 多 年、 この故郷のなつかしかるべき昔のさまを、忘れはてられ ぬまに、しかるべき故老の筆にうつして、永く世にとゞ め て お か う と 考 へ て ゐ た。 」 と こ ろ、 眼 科 医 で あ っ た 父 阪本準平と竹馬の友であり、当時七〇歳前であった畠田 が持ち込んだ原稿に「私は あつ 0 0 と驚いた。多年求めてゐ たものがこれなのだ。こゝにあるのだ。私は真に驚ろき か つ 狂 喜 し 」 ( 序 文 二 頁 ) 、 本 書 が 刊 行 さ れ る に 至 っ た。 本 書 に は、 「 準 平 さ ん と 直 や ん 」 ( 三 九 ) 、「 阪 本 勝 さ ん と 浦 田 老 人 」 ( 八 七 ) 及 び「 琴 陽 会 と 旧 雨 会 」 ( 一 五 四 ) を 始め、阪本準平・勝親子に関する記述が多数あり、その 交遊関係をうかがわれる。     三、本書について   1、概観   本 書 は、 序 文 に「 四 百 字 詰 千 枚 に 及 ぶ 大 著 」 と あ る ( 三 頁 ) よ う に、 「 俺 おいら は 廣 小 路 が 好 き だ 」 ( 一 ) 以 下 の 一九五項目を一一の巻に区分し、総頁数五七〇頁に及ん でおり、テーマも登場人物も多彩である。本稿では、そ のすべてを取り上げることはできないので、いくつかの テーマに絞って紹介することとする。   本書は、源義経、楠正成、荒木村重、豊臣秀吉、近松 門左衛門、残念さん等尼崎にゆかりのある歴史上の人物 も登場するが、明治から昭和初期にかけての尼崎の人物 や風俗等が中心に描かれている。また、本書は、 「結語」 ( 一 九 五 ) に あ る よ う に、 「 古 来 の 歴 史 を 顧 み つ ゝ 将 来 の

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進 路 を 達 観 」 ( 五 七 〇 頁 ) し よ う と い う 姿 勢 が 貫 か れ て い る。これに引き続き、結びとされた「さまぐのことにあ ひ に し 老 い 人 の む か し が た り ぞ 身 に は し み け る 」 及 び 「 進 み ゆ く 世 に 生 ま れ た る う な ゐ に も 昔 の こ と を を し へ お か な む 」 と い う 明 治 天 皇 の 御 製 二 首 こ そ が、 ま さ に、 畠田の思いであろう。   本書の項目は、そのほとんどが、 「何と何」のように、 二 つ の 項 目、 人 物 を 対 比 し て 論 述 す る 形 式 を 取 っ て い る。この両者は、一見すると関連がないようにもみえる が、 内 容 を 子 細 に 検 討 し て い く と、 類 似 性 が あ っ た り、 相関連していることがわかる。こうして、本書は、尼崎 に 縁 の あ る 人 物 に つ い て、 そ の 家 系、 人 と な り、 親 子・ 兄弟関係、姻戚関係、事業等の栄枯盛衰等を、現在では 到底描けないような結婚歴や女性関係等をも含め、リア ルに描いている。   2、尼崎城下町について   尼 崎 は、 明 治 六 年 ( 一 八 七 三 ) に 尼 崎 城 が 廃 城 と な っ たが、畠田の青年時代ころまでは、なお城下町の 俤 おもかげ を残 し て い た。 当 時 は、 屋 敷 町、 町、 漁 師 町 の 地 区 ご と に、 図 本興寺裏 (『尼崎今昔物語』より)

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住民の言葉使いが明確に異なっていた。三小学校が統合 さ れ、 明 治 一 〇 年 ( 一 八 七 七 ) 一 二 月 に 発 足 し た 脩 成 小 学 校 の 児 童 の 言 葉 の 違 い を 記 し た「 学 校 と 其 頃 の 言 語 」 ( 二 七 ) は、 こ の 点 を よ く 言 い 表 し て い る。 こ う し た 中 で、 畠 田 は、 自 宅 周 辺 の 住 民 を 紹 介 す る。 図 は、 「 廣 小 路 の 姿 」 ( 二 ) に 紹 介 さ れ た、 寺 町 及 び 広 小 路 の 家 並 み を 描 い た 図 面 で あ る。 こ れ は、 本 書 刊 行 時 の 五、 六 〇 年 前 ( 四 頁 ) の も の と さ れ る か ら、 畠 田 が 子 ど も 時 代 で あ っ た 明 治 初 年 の 状 況 を 記 し た も の と 考 え ら れ る。 自 宅 近 隣 の 住 民 は、 「 器 用 な 啓 蔵 さ ん 」 ( 三 ) か ら「 廣 徳 寺 の 史 蹟 」 ( 六 ) 、「 西 廣 小 路 」 ( 一 〇 ) 、「 盆 踊 り 」 ( 一 一 ) を 始 め、 本 書 に 多 く 取 り 上 げ ら れ て い る。 と り わ け、 雲 漢 の 高 弟 の 中 で も 双 璧 と 謳 うた わ れ た 内 田 及 び 豊 島 成 音 ( 以 下 「豊島」 という。 ) は 「内田先生と豊島先生」 (五〇) で、 同 じ く 雲 漢 の 高 弟 で あ っ た 藤 田 勇 三 郎 の 父 で、 怒 る と 「 二 間 穂 ほ な が 長 の 鎗 」 を 持 ち 出 し て 駆 け つ け た と い う 藤 田 東 馬 は 前 記「 藤 田 先 生 と 熊 は ん 」、 小 森 純 一 の 父 小 森 衛 は 「 小 森 衛 と 廉 平 さ ん 」 ( 五 二 ) で、 個 性 が 生 き 生 き と 描 か れている。   尼崎は、明治の近代化の中で、尼崎城が廃城され、ま た大阪・神戸間に開通した国有鉄道も尼崎の旧城下を通 ら ず に、 北 東 に 位 置 す る 神 崎 ( 現 在 の J R 尼 崎 駅 ) に 停 車 場が設置される 等 ( 8 ) 、一時は時代から取り残された。特に 士族は、家禄奉還 等 ( 9 ) の明治政府の一連の政策によって没 落して尼崎を離れたため、士族が多く居住していた地域 の中には、一挙に空洞化した所もあった。本書は、その 状況を「三浦の 長平さんと山口 作 五 郎 」 ( 七 四 ) で、 「 士 族 の 多 くは、家禄奉還 によって得た現 金と、不慣な事 業に入れ上げて 失敗したものが 非常に多く明治 の 末 ( マ マ ) 季 に な る と、在住士族の 写真1 本興寺裏(年未詳) 尼崎市立地域研究史料館所蔵絵はがき

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数 が 馬 鹿 に 少 な く な っ た。 殊 に 鷹 匠 町 や 一 番 丁、 二 番 丁、役人町などは全滅で、聚落の形で残ったのは漸く広 小 路 と 日 雇 辻 位 の 者、 他 は 何 百 軒 の 中 で 只 十 数 軒 ば ら 〳〵 に 田 た ん ぼ 圃 の 中 に 立 っ て ゐ た。 」 と 具 体 的 に 記 載 し て い る ( 二 〇 七 頁 ) 。 写 真 1 は、 寺 町 の 裏 手 を 撮 影 し た 写 真 で あ る。 前 記「 琴 陽 会 と 旧 雨 会 」 に は、 「 庭 越 し の 本 興 寺 裏は、難波まで一面の野良で菜種が今を盛りと咲き匂う て 居 た。 」 と の 記 載 が あ る ( 四 六 九 頁 ) が、 写 真 1 は、 ま さに、当時の状況を想像させる。他方、本書は、時流に 乗った人物も描いている。尼崎伊三郎は、尼崎南部の大 高 洲 新 田 の 農 民 で、 明 治 維 新 時 に 尼 崎 姓 を 名 乗 り、 青 物、 生 魚 の 行 商 か ら 身 を 興 し て 内 海 の 海 運 業 を 創 業 し、 これによって得た資金で、経済的に破 綻 たん した中在家の豪 商 梶 源 左 衛 門 の 元 所 有 地 を 取 得 し て 大 地 主 と な る 一 方、 右 海 運 業 を 大 阪、 西 日 本 一 円、 さ ら に は 朝 鮮 ま で 拡 げ、 尼 崎 汽 船 に 発 展 さ せ た。 「 尼 崎 伊 三 郎 氏 と 田 中 太 助 氏 」 ( 七 三 ) は、 右 尼 崎 を、 職 工 か ら 身 を 興 し、 田 中 車 両 を 創 業 し た 田 中 太 助 と と も に 記 し て い る。 な お、 本 書 は、 「 梶 源 と 鉛 」 ( 四 〇 ) で、 右 梶 を「 梶 源 は 品 行 方 正、 悪 声 を聞かない。 拮 きっきょ 据 経営事業にいそしんで然かも没落の悲 運を見た。 」 (七一頁) と評している。   この他、本書は、尼崎の出身ではないが、その後尼崎 の 子 女 と の 姻 戚 や 尼 崎 で 成 長、 勉 学、 勤 務 し た こ と に よ り、 尼 崎 に 縁 の 生 じ た 人 物 も 数 多 く 描 い て い る。 前 記「笠井将軍と布井選手」の両名が代表的である。中将 に 栄 進 し た 笠 井 平 十 郎 は、 尼 崎 で 育 ち、 尼 崎 高 等 小 学 校 で 学 ん だ た め、 畠 田 は、 「 僕 は 尼 崎 市 民 と 共 に、 将 軍 を 尼 崎 人 と 見 な し て ゐ る。 尼 崎 人 と し て 親 し ん で ゐ る 」 ( 二 五 三 頁 ) と 記 し、 前 記 布 井 選 手 も、 西 道 頓 堀 の 富 豪 の 出 身 な が ら、 母 が 梶 久 右 衛 門 の 娘 で あ る こ と ( 二 五 三 頁 ) から取り上げられた。また、熊本出身で新島襄の設立し た同志社で学んだ、いわゆる熊本バンドの一員で、大阪 で牧師をしたのち市立実業補習学校長に至り、前記小森 衛の弟として「小森衛と廉平さん」で登場する小島廉平 の娘「おこうさん」と婚姻した亀山昇及びその弟で、尼 崎の著名な政治家であった吉弘直誠の娘「お直さん」と 婚姻し、大阪で仲買人として活躍した亀山左乙の兄弟も ま た、 「 吉 弘 左 乙 さ ん と 亀 山 先 生 」 一 〇 四 ) に 記 さ れ て

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いる。   3、中谷雲漢につながる人物   尼 崎 藩 の 藩 黌 正 業 館 は、 明 治 維 新 時 の 七 代 藩 主 桜 井 忠 た だ お き 興 ( 以 下「 忠 興 」 と い う。 ) の 先 代 で、 「 御 隠 居 」 と 呼 ば れ、 信 望 の あ っ た 六 代 藩 主 松 平 忠 た だ な が 栄 ( 以 下「 忠 栄 」 と い う。 ) の 信 任 が 篤 か っ た 儒 者 で あ る 雲 漢 )(1 ( が、 最 高 責 任 者 である督学として運営し、高弟の内田及び豊島の両名が 寮長をした。正業館の閉鎖後は、両名がそれぞれ私塾を 開いたが、内田が開いた酔抱舎には畠田も含め、主に士 族の子弟が集まった。前記「酔飽舎と呉英語塾」は、当 時の回想である。他方、豊島の塾には、主に町民の子弟 が集まった。なお、尼崎では、明治維新後も旧士族と町 民との融和が図られず、後年町議会が開設されると、東 町 派 ( 主 に 士 族 ) と 西 町 派 ( 主 に 町 民 ) と の 地 域 的、 政 治 的な対立を生み、町政混乱の一因にもなった。前記「三 浦 の 長 平 さ ん と 山 口 作 五 郎 」 に も、 「 と も す れ ば、 士 族 派と商工派との二つの対立を形成して、始終暗闘を継続 し な け れ ば な ら ぬ 情 勢 を 馴 致 す る に 至 っ た 」 ( 二 〇 八 頁 ) との記載がある。   畠田は師である内田を通じ、その師の雲漢を尊敬する 念が強かったと思われる。本書には、雲漢にまつわる逸 話が、雲漢集所載の文章とともに多く紹介されてい る )(( ( 。 「 御 隠 居 様 ( 忠 栄 ) と 龍 寿 軒 ( 雲 漢 ) 」 ( 四 九 ) で は、 雲 漢 が 尼 崎 藩 に 招 聘 さ れ た 経 緯 及 び そ の 後 の 経 歴 に つ い て、 生 前 に 大 阪 市 内 の 齢 延 寺 に 建 立 し た 墓 碑 ( 寿 蔵 碑 ) で あ る「雲漢狂人寿蔵碑」並びに前記藤田勇三郎による雲漢 の 思 い 出 話 を 通 じ て、 雲 漢 が 忠 栄 を い か に 篤 く 尊 崇 し て い た か を 記 す。 ま た「 伊 達 一 と お 菊 虫 」 ( 一 三 五 ) で は、寺町の全昌寺の墓地などで多く見られ、その形状か ら「お菊虫」と呼ばれたアゲハチョウの蛹とともに「阿 菊 虫 」 を、 「 福 や ん と 徳 さ ん 」 ( 六 二 ) で は、 尼 崎 藩 家 老 の 高 木 家 に あ っ た 牛 の 絵 に ち な ん だ「 画 牛 記 」 を、 「 平 野 本 マ マ 次 と雲漢集」 (一九一) では、湊川神社の楠公墓所の 土地を寄進した平野本治の子の平野延国と雲漢とのやり と り を 記 し た「 題 平 野 本 治 翁 像 」 を 取 り 上 げ る。 な お、 右高木家は、自宅を琴陽雑誌の編集を行なう場所として 提供した。その状況及び畠田も関与していた琴陽会及び 琴陽雑誌については、 「高木の屋敷と琴陽雑誌」 (一二八)

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が 紹 介 す る。 ま た、 「 雲 漢 集 」 の 発 行 人 で あ る 川 西 重 助 は、 「 祥 や ん と 重 た ん 」 ( 四 六 ) に 取 り 上 げ ら れ、 後 述 す るように、町議ともなった川西重太郎の父である。   4、尼崎の名士懐古談 (その1   医師)   本書は、現勢史と同じく、旧士族、商家、酔抱舎関係 者、政治家、医師等の名士を多く取り上げている。もっ とも、本書は、当該人物の、若いころのエピソードや畠 田との交流等も交えているため、人物像に深みと親しみ を与えている。   ま ず 医 師 に つ い て 取 り 上 げ る。 前 記 立 花 楼 に お け る 遊 興 の 写 真 ( 本 書 刊 行 の「 三 十 七 八 年 昔 」 と あ る か ら 明 治 三三、 四年(一九〇〇、 一)頃の撮影であろうか。 ) には、右か ら 中 馬 譲 吉、 阪 本 準 平、 石 田 彪、 米 沢 幸 造、 中 馬 興 丸、 鈴木勝易及び堀内達男の各医師が、仲居らと歌舞音曲に 興ずる姿が写っているが、本書は、鈴木を除くこれら医 師 を 取 り 上 げ て い る。 な お、 鈴 木 は、 現 勢 史 で は、 「 尼 崎市有数の医師にして患家の信用頗る厚し」と紹介され て お り ( 一 九 三 頁 ) 、 明 治 二 三 年 ( 一 八 九 〇 ) に 大 庄 村 で コレラが流行した際に、道意新田に設置された検疫支部 に 出 張 勤 務 し、 診 察 に 当 た っ た こ と が、 「 コ レ ラ 病 ニ 付 ひかへ」と題する史 料 )(1 ( に記載されている。   中馬譲吉は、前記図にも書かれているように、当時か ら 現 在 の 中 馬 病 院 の 位 置 に 居 住 し て お り、 「 米 澤 先 生 と 中 馬 博 士 」 ( 八 三 ) に も 取 り 上 げ ら れ て い る。 前 記 琴 城 校問題で活動したほか、右コレラの史料にも出務医師と し て 登 場 し た。 阪 本 準 平 は、 前 述 し た よ う に 畠 田 よ り 一 歳 年 長 の 竹 馬 の 友 で あ る。 石 田 彪 は、 「 鬼 灸 と り ゃ う し ゃ」 ( 一 二 九 ) 、 旧 藩 士 の 家 系 で あ っ た 米 沢 幸 造 は、 右 「米澤先生と中馬博士」で取り上げられている。米澤は、 第 一 〇 師 団 )(1 ( 衛 生 予 備 員 二 等 軍 医 と し て 日 露 戦 争 に 従 軍 し、遼陽、奉天の会戦を経験しているが、その間戦地か ら家族に書き送った手紙が、子孫により数十通保管され ている。内科及び小児科を開業していた同人は、人格者 として、患者らから尊敬を集めていた。前記「米澤先生 と中馬博士」及び孫の米澤敏男氏の手 記 )(1 ( にも、これを物 語る逸話が紹介されている。また、中馬興丸及び堀内達 男も、阪本準平とともに尼崎藩医の家系である。中在家 町の西性寺の天崎家の出身であった中馬興丸は、中馬譲

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吉の養子となり、中馬家を継ぎ、医業のほか、政治、文 学等種々の活動をした。畠田の教え子であった実弟天崎 孝 圓 は、 後 に 中 馬 病 院 の 事 務 長 と な っ た。 堀 内 は、 「 堀 内の達さんと福井仲吉」 (六三) に取り上げられてい る )(1 ( 。   本 書 は、 こ の 他 多 く の 医 師 を 紹 介 す る。 沼 敬 齋 ( 陸 仙 ) も 多 く の 逸 話 が あ る。 同 人 は、 「 如 是 庵 と 釋 奠 会 」 (一五〇) では中在家金毘羅社の東で開業し、高貴な家に 嫁した美しい娘を持っており、俳句を 嗜 たしな み、長遠寺境内 にある「はつ時雨猿も小蓑をほしげなり」の芭蕉の句碑 建 立 の 発 起 人 の 一 人 で あ る と さ れ る。 こ の 発 起 人 の 中 に は、 中 馬 如 風、 沼 陸 仙 及 び 平 瀬 常 山 ( 平 瀬 熊 蔵 ) ら の 名 が 見 ら れ る。 同 句 碑 は、 氏 田 良 一「 尼 崎 の 歌 碑 と 句 碑 」 (『 み ち し る べ 』 一 五 号 一 五 頁 ) も 取 り 上 げ る。 「 茶 筌 髷 とチョン髷」 (一八一) によれば、沼は、明治維新後も古 風に茶筌髷を結っていたとされる。右コレラ流行の際に は、 沼 医 師 が 最 初 に 診 察 に 当 た っ た と の 記 録 が あ る が、 これも同人のことと考えられる。この他、本書は、前記 「 堀 内 の 達 さ ん と 福 井 仲 吉 」 で 福 井 仲 吉 を、 前 記「 準 平 さんと直やん」で、士族の家に生まれ、阪本準平ととも に神戸医学校を卒業し、尼崎の東町で全科医院を開業し ながら早世した笹間直やんを、 「南川博士と立節っあん」 ( 九 二 ) で、 婦 人 科 医 南 川 及 び 小 児 科 医 田 中 立 節 を 取 り 上げている。さらに、外国人の医師も取り上げられてい る。前記「汪企張と秋元選手」で取り上げられた中国の 医 師 汪 企 張 は、 上 海 で 開 業 し て お り、 畠 田 と も 親 交 が あったが、その母親は、資産家六島誠三の娘であった。   5、尼崎の名士懐古談 (その2   政界関係者)   本 書 は 、 政 界 で 活 躍 す る 人 物 も 描 い て い る 。 こ れ ら の人物の活躍ぶりを 、まもなく百年前となる大正五年四 月一日の尼崎市の市制発足時を例にとって見る 。右市制 発 足 は 、 兵 庫 県 下 で は 神 戸 市 及 び 姫 路 市 に 次 ぐ 三 番 目 で あ り 、 新 聞 で も 大 き く 取 り 上 げ ら れ た 。『 地 域 史 研 究 』 四 四 号 は 、「 尼 崎 市 制 施 行 関 係 新 聞 記 事 」 で 、 当 時 の 新 聞 記 事 を 数 多 く 紹 介 す る ( 同 号 掲 載 の 記 事 は 、 本 項 で は 頁 だ け で 引 用 。) が 、本 書 に 登 場 す る 人 物 も 多 く 登 場 し て い る 。   す な わ ち、 同 年 三 月 三 一 日 の 尼 崎 町 の 解 散 式 に は、 「 大 鳥 公 使 と 桜 井 市 長 」 ( 五 七 ) に 登 場 し、 初 代 の 尼 崎 市 長 と な っ た 桜 井 忠 た だ か た 剛 が 市 長 代 理 と し て ( 四 八 頁 ) 、 西 南

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戦 争 に 従 軍 し た 後 尼 崎 紡 績 に も 関 わ り、 「 髯 ひげ の 村 松 と 寺 島 の 助 さ ん 」 ( 三 五 ) 及 び「 村 松 の 兄 弟 と 金 澤 の 兄 弟 」 ( 一 〇 一 ) に 取 り 上 げ ら れ た 村 松 秀 致 の 弟 で、 「 か ら た ち と鷦鷯」 (一六五) に登場する猪俣佶三郎が収入役として ( 同 頁 ) 、「 津 久 井 父 子 法 律 事 務 所 と 上 村 親 子 」 ( 五 四 ) に 取り上げられ、市会議員となり、後に尼崎市長にもなっ た 上 村 盛 治 が 県 会 議 員 と し て ( 六 一 頁 ) 、 元 町 長 で、 前 記「小森衛さんと廉平さん」及び「吉弘左乙さんと亀山 先 生 」 で 取 り 上 げ ら れ た 小 森 純 一 ( 五 二 頁 ) が 郡 会 議 員 と し て、 右「 吉 弘 左 乙 さ ん と 亀 山 先 生 」 に 登 場 し た 吉 弘 直 誠 が 仮 議 長 と し て ( 四 六 頁 ) 、 前 記「 ナ ニ ク ソ と 伊 達 尊 親 」 で 取 り 上 げ ら れ た 林 安 次 郎 ( 同 頁 ) が 出 席 し、 右「津久井父子法律事務所と上村親子」で法律家として 手 腕 を 高 く 評 価 さ れ、 当 時 は 日 銀 株 式 局 長 で あ り、 市 制 施 行 の 認 可 の た め に 中 央 で 斡 旋・ 尽 力 し た 津 久 井 茂 )(1 ( が来賓として東京から来ていた (四八頁) 。また、四月九 日の祝賀会では、右桜井、小森純一のほか、前記川西重 助 の 子 で 前 記「 祥 や ん と 重 た ん 」 に 登 場 す る 川 西 重 太 郎 (四七頁) が町会議員として参加し、 右津久井茂 (五三 頁 ) 及 び 尼 崎 藩 江 戸 詰 め 士 族 で、 「 荒 井 龍 智 に 田 澤 熊 江 」 ( 一 二 二 ) で 取 り 上 げ ら れ、 明 治 二 二 年 ( 一 八 八 九 ) 四 月 の町制施行以降三〇年にわたって西宮町長の職にあった 田沢熊江が祝電を出し、畠田の補助員時代の同僚で、そ の後大阪毎日新聞に就職し、要職を歴任する一方、社会 活動にも関心を示し、前記「良やんと清五さん」で取り 上 げ ら れ た 橋 詰 良 一 ( せ み 郎 ) が、 同 社 の 事 業 部 長 と し て (五四頁) あいさつを行なっている。   ま た、 大 阪 朝 日 新 聞 は、 市 制 施 行 に 当 た り、 神 戸 版 に、各界の意見を集めた「尼崎将来の希望と課題」とい う連載を行なった。この中には、後に尼崎市長となる上 村盛治が県会議員として、財政的困難をあげつつ今後の 発 展 を 期 待 す る「 借 金 し て 晴 衣 」 ( 六 一 頁 ) 、 初 代 市 長 と なる桜井忠剛が市長代理として、上水道事業を設備して 転 入 者 を 呼 び 込 む こ と を 期 待 す る「 一 日 も 早 く 水 道 を 」 ( 六 三 頁 ) 、 中 馬 興 丸 が 医 学 士 と し て、 尼 崎 に お け る 独 善 的な風潮及び旧市民と新市民とのいがみ合いの打破を望 む「排外思想を滅せ」 (六四頁) がそれぞれ掲載されてい る。これらの記事は、まさに当時の尼崎市における課題

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が取り上げられており、興味深い。   6、その他多彩な人物   前述したように、本書には、当時の偉人や立志伝の人 物にとどまらず、様々な分野における尼崎出身の多彩な 人物が描かれている。大阪相撲で大関として活躍し、本 興 寺 に 墓 碑 が あ る 琴 の 浦 と そ の タ ニ マ チ で あ っ た 桝 せ ん の 女 将 を 記 し た「 大 関 琴 の 浦 と『 ま す せ ん 』 の お ば さ ん 」 ( 四 四 ) 、 刀 剣 鑑 定 に 秀 で た 杉 原 祥 造 を 記 し た 前 記 「祥やんと重たん」 、趣味で小鳥取 り )(1 ( をよくした人物を描 い た「 さ ん ち さ ん と 釣 作 さ ん 」 ( 五 六 ) 、 久 保 松 照 映 の 子 で関西囲碁界を支え、木谷實他多くの後進を育成した久 保 松 勝 喜 代 を 記 し た「 久 保 松 六 段 と 萩 原 八 段 」 ( 五 三 ) 、 漫才師として一世を風 靡 び した横山エンタツの本名が石田 正巳で、尼崎に居住したことがあること、父は、尼崎避 医 院 ( 後 の 市 立 伝 染 病 院 ) 長 を 務 め る 等、 医 師 と し て 名 高 かった石田四五 六 )(1 ( であること等を記した「関山五段と横 山エンタツ」 (五八) などは、その典型といえよう。   ま た、 本 書 は、 多 く の 女 性 を 取 り 上 げ て い る。 し か も、姻戚関係に止まらず、女性自身の活躍振りを記した 記 事 も 多 い。 女 性 教 員 に つ い て は、 前 記「 荒 川 宗 太 郎 翁 と 山 下 き く 女 史 」、 畠 田 の 教 え 子 に つ い て は 前 記「 正 枝 さ ん と 篤 ち ゃ ん 」 及 び「 菊 園 選 手 と 恩 田 記 者 」、 そ の 他 尼 崎 出 身 の 女 性 に つ い て は、 「 お 静 さ ん と お 梅 さ ん 」 ( 五 九 ) 、「 秋 岡 夫 人 と お 越 つ あ ん 」 ( 一 二 五 ) 、「 小 森 け い さんと岡田朔さん」 (一四三) 等が取り上げる。この中に は、 豪 商 加 島 屋 に 嫁 ぎ、 と き に は 護 身 用 の ピ ス ト ル を 携 帯 し て 炭 鉱 現 場 で 指 揮 を す る な ど 活 躍 し て、 事 業 を 再 建 し た と い う 逸 話 を 有 す る 一 方 で、 大 同 生 命 保 険 や 日 本 女 子 大 の 設 立 に も 関 与 し、 翻 訳 家 と し て 名 高 い 村 岡 花 子 と も 交 流 の あ っ た 広 岡 浅 子 も い る (「 今 井 船 と 加 島 屋 」( 一 三 四 )) 。 広 岡 は、 平 成 二 七 年 ( 二 〇 一 五 ) 秋 か ら 放送されたNHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」の ヒロインのモデルである。これだけ女性を取り上げたこ と は、 類 書 で あ る 現 勢 史 及 び『 尼 崎 郷 土 誌 』 ( 中 村 義 也 編 輯・ 大 日 本 郷 土 誌 編 纂 局 発 行 ) と 比 較 し て も、 当 時 と し て は画期的なことであったと思われる。これは、畠田が長 らく女学校に奉職して女子教育に携わり、女性の社会進 出を期待していたことにも起因するのであろう。

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  7、社会問題   他 方 本 書 は 、 当 時 尼 崎 で 発 生 し て い た 社 会 問 題 に も 触 れ て い る 。 尼 崎 は 、 急 速 な 人 口 増 を 伴 い な が ら 、 工 業 都 市 と し て 発 展 し て い っ た 。 写 真 2 は 、 こ う し た 「 工 都 」 尼 崎 の 景 観 を 撮 影 し た も の で あ る 。 し か し な が ら 、 こうした急速な工業化は 、その一方で 、市制発足前から 既に公害 、風紀の乱れなど種々の社会問題を発生させて い た 。 畠 田 は 、 東 洋 の マ ン チ ェ ス タ ー )(1 ( と 呼 ば れ 、 工 業 都 市 と し て 勃 興 す る 大 阪 市 や 尼 崎 市 を 「 お 月 様 と 煙 突 」 ( 一 八 五 ) 及 び 前 記 「 結 語 」 で 賛 美 す る 。 こ れ に 対 し て は 、 公害という負の面に目を向けず 、工業発展のみを手放し で 賛 美 す る 一 面 的 な 記 載 で あ る と の 評 価 も あ り 得 よ う 。   しかしながら、右記載は、前述したように、士族の家 に生まれ、明治初年の尼崎の衰退や、士族や旧商人が没 落、四散するのを目の当たりにした畠田が、長年にわた る沈滞の後、再び活況を取り戻した尼崎を素直に賛美し たものといえよう。前記「結語」は、右再興の原因につ い て、 「 祖 先 以 来 余 念 も な く、 黙 々 と し て こ の 土 地 に の みかぢりついて、この土地の為めに図り、土地の為に力 めた凡人凡骨共の積みなした功績といふものも没すのこ とは出来ぬ」 (五六九頁) と結んでいる。   畠田は、一方では、公害や社会問題についても言及す る。 大 正 四 年 ( 一 九 一 五 ) に 東 難 波 の 庄 下 川 右 岸 で 開 業 し た 大 阪 板 紙 ( の ち の 西 成 製 紙 尼 崎 工 場 ) の 廃 液 に よ る 庄 下 川 汚 染 )11 ( を 取 り 上 げ た「 板 紙 会 社 と 難 波 」 ( 一 六 一 ) 、 尼 崎への遊郭誘致問 題 )1( ( を取り上げた 「尼崎と遊廓」 (一五一) 等は、都市化に 伴って新たに発 生した社会問題 で あ る。 ま た、 尼崎市は、戦前 は、阪神間で最 もダンスホール が集中していた が、 「 阪 神 国 道 と ダ ン ス ホ ー ル 」 ( 一 五 二 ) は、 そ の 理 由 写真2 城内より工場地帯を望む(年未詳) 尼崎市立地域研究史料館所蔵絵はがき

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を、阪神国道の開通及び当時大阪市がダンスホールの開 設を許可しなかったことにあるとしている。これは、人 口が集中し、大阪市域からさらにその周辺部に急激に膨 張を続けていた大阪都市圏のスプロール化をいち早く指 摘した記 述 )11 ( としても、注目される。   8、尼崎の自然、風俗   本書は、近代化に伴い急速に失われつつあった尼崎の 自然、風俗も記している。 「武庫川の花火と沖の潮干狩」 (一四八) 及び「一六とゴカイ」 (一六三) は、今では考え られない尼崎の海岸地帯の自然を記す。また、当時尼崎 の海岸地帯に自生していた磯野菊と品川萩に関する「磯 野菊と品川萩」 (一六六) は、後年『尼崎みをつくし』を 発 表 し た 平 清 次 が『 上 方 』 五 九 号 の 尼 崎 特 集 五 七 頁 で、 平 僑 児 の ペ ン ネ ー ム で 書 い た「 尼 崎 に 変 っ た 植 物 が 二 つ」と対比すると興味深い。   当 時 の 子 ど も の 遊 び も、 多 く 紹 介 さ れ て い る。 「 と り もち」や、予め捕まえておいた雌のトンボを囮に使って 雄 の ト ン ボ を 捕 る「 蜻 や ん ま 蜒 つ り 」 ( 一 二 ) 、 地 面 に 打 ち 込 ん だ 棒 を 倒 し て 取 り 合 う「 ネ ン ガ ラ 」 ( 一 四 ) 、 不 用 の ゴ ボ ウ の 葉 の 部 分 で 引 っ 張 り 合 い を す る「 ゲ ン ジ 」 ( 一 五 ) 、 喉 を 締 め 付 け あ う 格 闘 技「 マ イ ラ シ ア イ 」 ( 一 六 ) 、 堀 割 等 で 泳 ぐ「 水 浴 び 」 ( 一 七 ) 、 田 の 水 落 と し の 際 に フ ナ、 タ ナ ゴ 等 の 小 魚 を 取 る「 雑 魚 と り 」 ( 一 八 ) 、 ハ ゼ、 ウ ナ ギ、 テ ナ ガ エ ビ 等 様 々 な 釣 り の 方 法 を 記 し た「 魚 釣 り 」 ( 一 九 ) 、 バ イ で 作 っ た コ マ を 地 面 で 廻 し て 取 り 合 う「 螺 バイ ろ く 」 ( 二 〇 ) 、 コ マ 遊 び と 手 裏 剣 に 見 立 て た 五 寸 釘 を 所 構わず投げ付ける遊びを記した 「独楽に手裏剣」 (二一) 、 道 の 真 ん 中 に 穴 を 掘 り、 そ の 上 を 薄 い 杉 の 板 や 砂 な ど で 覆 い 隠 し て 通 行 人 を 落 と す「 お と し あ な 」 ( 二 二 ) 、 お 十 夜 の 夜 の ヨ ー ネ ン コ 遊 び を 記 し た「 十 夜 ヨ ー ネ ン コ 」 ( 二 三 ) 、 鰻 取 り を 記 し た「 白 い お 婆 さ ん 」 ( 二 六 ) 、 雀 を 取る吹矢及び雀を囮にする 百 ず 舌鳥 釣りを記した「吹矢と 百 舌 鳥 釣 り 」 ( 一 五 六 ) 、 五 節 句 の 行 事 と 大 江 山 の 鬼 退 治 を素材とする飛双六を記した 「お節句と飛双六」 (一七二) 等、枚挙にいとまがない。これらの遊びの中にも城下町 の名残を感じ取ることができる。   本 書 に は、 尼 崎 名 物 の 菓 子 や 産 物 に 関 す る 記 載 も あ る。 菓 子 は、 も と ラ ン プ 屋 が 始 め た こ と に ち な ん で 命

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名 さ れ た「 ラ ン プ あ め 」 が「 ラ ン プ 飴 と 丹 波 屋 義 信 」 (一三六) に、大物町吉原菓子店の「らんきん」が「ラン キ ン と 尼 薯 いも 」 ( 一 三 七 ) で 触 れ ら れ て い る。 ま た、 産 物 は、 右「 ラ ン キ ン と 尼 薯 」 で 尼 薯 を、 「 穴 子 の 肝 に あ け み 」 ( 一 三 八 ) で 穴 子 と ア ケ ミ 貝 を、 「 鱧 の 皮 に 天 麩 ぷ ら 羅 」 ( 一 四 〇 ) で 鱧 と 蒲 か ま ぼ こ 鉾 の 材 を 油 で 揚 げ た 天 麩 羅 を、 「 蝦 雑 魚と鳥貝」 (一四一) で地引網に捕れる小エビ、カシラブ ト、ニイラギ等の雑魚類及び尼崎の特産として知られた 鳥貝をそれぞれ紹介している。   また、本書には、広小路に近い寺町の各寺院の当時の 状況が、歴史上の出来事とともに多く描かれている。広 徳 寺 は 前 記「 廣 徳 寺 の 史 蹟 」、 同 寺 と 同 様、 秀 吉 の 逸 話 を有しながら明治になって衰微して廃寺となり、その後 京都で再興された 栖 せ い げ ん じ 賢寺 及び尼崎最古の歴史を有しなが ら、 明 治 以 降 二 度 の 火 災 を 経 て、 こ れ ま た 当 時 衰 微 し て い た 大 覚 寺 は、 前 記「 廣 徳 寺 の 史 蹟 」 及 び「 栖 賢 寺 」 ( 八 )11 ( ) に 記 述 が あ る。 ま た 畠 田 家 の 菩 提 寺 で あ っ た 本 興 寺 は、 同 寺 を 建 立 し た 日 にちりゅう 隆 を 取 り 上 げ た「 契 沖 亜 闍 梨 と 日 隆 さ ん 」 ( 九 九 ) 、 境 内 の 井 戸 金 龍 水 及 び 国 宝 ( 当 時 ) に指定された日蓮ゆかりの名刀珠数丸の数奇な運命を記 し た「 本 興 寺 の 井 戸 と 珠 数 丸 」 ( 一 三 三 ) 、 甘 露 寺 は、 石 段を描いた前記「廣徳寺の史蹟」及びとんぼ捕りの際に 見かけた正門や墓地の風景を描いた「蜻蜒つり」が取り 上げている。さらに善通寺は、一遍上人との関係を記し た「一遍上人と旅順閉塞船」 (一〇九) 及び境内の銀杏の 大 木 を 記 し た「 小 栗 と 善 通 寺 の 銀 杏 」 ( 一 四 七 ) 、 善 通 寺 と同じく時宗寺院で現在はない海岸寺は、右「一遍上人 と旅順閉塞船」及び南朝の忠臣秦武文に言及した「佐々 成 政 と 秦 武 文 」 ( 一 〇 五 ) 、 法 園 寺 は、 境 内 に 墓 が あ る 佐 々 成 政 を 取 り 上 げ た 右「 佐 々 成 政 と 秦 武 文 」、 如 来 院 は、日露戦争時に旅順港を閉塞した閉塞船の中から発見 され、同寺に納められた人骨について記した右「一遍上 人と旅順閉塞船」に登場する。これらは、史料的にも価 値がある。     四、本書の位置付け   これら多彩な記載を有する本書をどうみるべきであろ うか。また、今後後世の我々が本書をどのように活用し

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ていけばよいのであろうか。ここでは、四つの視点を取 り上げる。   第一には、本書を史料として活用することである。明 治が終焉してから百年以上が経過し、類書も少ないとい う実情に照らせば、本書は、当時の尼崎の人物や風俗を 知る上で、貴重な史料であるといえよう。一例として藩 主忠興に関する記事がある。これは、忠興が晩年西宮市 岡 田 山 の 別 荘 に 隠 居 し た 際 に、 畠 田 が 父 母 と 共 に 訪 問 し、謁見を受けた際の状況を記した逸話であるが、明治 生まれの畠田と忠興をなお「殿様」と仰ぐ父母ら世代と の 対 応 の 違 い は、 時 代 の 移 り 変 わ り を 実 感 さ せ る )11 ( 。 ま た、琴城校事件は、まさに事件の当事者の「証言」であ る。阪本勝は、本書を「序」で「摂州尼崎城下の横顔を 物 語 る 最 初 で 最 後 の 野 史 と な る で あ ら う。 」 と 評 し て い る ( 同 五 頁 ) 。『 図 説 』 も、 本 書 を「 近 代 初 頭 の 旧 尼 崎 城 下はどのような町であり、どういった人々が支え、暮ら していたのか。その様子を具体的に知ることのできるま たとない貴重な記録」であると評価する (五四頁) 。これ ら は、 本 書 の こ う し た 側 面 を 大 き く 評 価 し た も の で あ る。   第二には、歴史の発掘の端緒となり得る史料であるこ とである。本書でその経歴が補足できた人物もある。尼 崎 町 の 町 会 議 員 で あ っ た 坂 本 文 一 郎 は、 『 図 説 』 に お い て、 そ の 職 業 が 不 明 と さ れ て い る ( 六 九 頁 ) 。 と こ ろ が、 「 磯 田 樸 夫 と 阪 本 の 文 さ ん 」 ( 一 二 一 ) で は、 同 人 が、 雲 漢 の 師 に 当 た る 藤 澤 東 の 子 藤 澤 南 な ん が く 岳 の 主 宰 す る 泊 は く え ん 園 書 院で勉学した後、旭硝子の創設期から尽力し、同社で功 績を上げて引退した後、趣味の生花を生かして銀座で生 花商を開業し、これまた成功を収めたと記している。   金沢政安は、これまでは警察官僚としての経歴が強調 されてき た )11 ( 。すなわち、金沢は、明治初年当時警察官僚 として将来を嘱望されながら、明治六年五月に神戸の内 外人雑居地で英国人と警察官との間で発生した乱闘事件 につき、 邏 ら 卒総長兼警保係長の責任を問われて刑事裁判 を受け、その後も英国公使パークスから人事干渉等を受 け た た め、 兵 庫 県 を 去 っ て 堺 県 に 転 じ、 後 に 司 法 官 と なったとされている。本書は、前記「髯の村松と寺島の 助 さ ん 」 で「 金 澤 は 司 法 に 用 ゐ ら れ 」 ( 五 五 頁 ) た と し、

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ま た 前 記「 村 松 の 兄 弟 と 金 澤 の 兄 弟 」 は、 金 沢 の 司 法 官 と し て の 経 歴 を 記 し、 「 仕 合 に 地 方 裁 判 所 長 を 歴 任 し て、 旅 順 の 高 等 法 院 の 長 た る に 及 ん だ。 」 と 結 ん で い る ( 三 〇 六 頁 ) 。 こ の よ う に、 本 書 は、 貴 重 な 視 点 を 提 供 し ている。   第三には、街並みの復元である。前述したように、本 書は、明治初年の広小路の町並みを図によって復元して い る が、 こ う し た 試 み は、 当 時 に は 例 が な く 貴 重 で あ る。最近では、西本町及び中在家町で行なわれてい る )11 ( 。 な お、 前 記 沼 敬 齋 ( 陸 仙 ) に つ い て は、 梶 家 所 蔵 の 中 在 家 絵 図 帳 ( 慶 応 か ら 明 治 に か け て の 文 書 ) に 自 宅 が 記 さ れ ていたことが紹介されてい る )11 ( 。   第四には 、他の資料との相互補完である 。人物像や経 歴等本書が言及する事項の中には 、当時の読者層であれ ば当然知っていたはずの事項であったためか 、やや断片 的な記載もある 。これを他の資料で補完すれば 、一層記 述に深みが生まれて来よう 。ここでは 、現勢史と 「高田 日記」を対照資料として取り上げる 。現勢史は 、前述し た よ う に 市 制 施 行 当 時 の 尼 崎 を 活 写 す る 。 ま た 、「 高 田 日記」は 、大物 ・長洲に田畑を所有する傍ら 、尼崎町東 町 ( 現 東 本 町 ) で 酒 、 食 用 油 、 石 油 等 の 卸 小 売 業 を 営 む 商家に生まれた高田伊之助氏 (明治二六年 (一八九三)生) の 明 治 三 九 年 ( 一 九 〇 六 ) か ら 大 正 二 年 ( 一 九 一 三 )( 途 中 欠 落 あ り ) に か け て の 日 記 で あ る )11 ( 。 こ れ ら を 本 書 と 対 照 す る と 、 当 時 の 尼 崎 に つ い て 更 に 多 く の こ と が 判 明 す る 。一例として医師を取り上げよう 。まず 、現勢史につ いては 、前記写真に掲載されていた医師のうち 、存命で あった石田 、堀内 、米澤 、中馬興丸及び鈴木の業績を取 り上げてお り )11 ( 、本書と対照することで 、多面的に把握す ることが可能となっている 。また 、前記 「お静さんとお 梅さん」には 、前記笹間医師の妹のお梅さんが 、たまた ま畠田の次男敏夫が 猩 しょうこうねつ 紅熱 で入院していた尼崎避病院で 婦 長 を し て い た こ と が 記 さ れ て い る ( 一 六 三 頁 ) が 、 高 田日記にも 、高田が徴兵検査の予診のため大正二年三月 五 日 に 尼 崎 病 院 を 訪 れ た と こ ろ 、「 笹 間 の 妹 」 が 看 護 師 をしていたとの記載があ る )11 ( 。この他 、現勢史に添付され た 尼 崎 市 の 図 面 は 、 本 書 を 理 解 す る に も 参 考 に な る し 、 何 よ り も 畠 田 を 写 真 入 り で 紹 介 し た の は 、現 勢 史 で あ る 。

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    五、むすび   以上のとおり本書は、史料を厳密に検討して尼崎の歴 史を客観的に記述するという研究姿勢を貫かれた岡本氏 から見れば、懐古談やゴシップを含んだ当代人物評を書 き流したものに映ったかも知れない。しかしながら、本 書は、尼崎市制百周年をまもなく迎えようとしている現 代では、近代における尼崎の人物や風俗を知る上で貴重 な資料である。本書にあげられた種々の事情をさらに掘 り下げていくことが求められよう。   本稿は、種々の視点から本書を概観した。今後、さら に本書を研究し、関連する資料との照合等を行なうこと により、尼崎近代史がさらに生き生きとしたものとなる ことが期待される。 〔注〕 ( 1) 「 郷 土 史 雑 感 」『 市 尼 史 学 』 二 号( 昭 和 三 一 年 )。 こ の 文 章 は、 『 み ち し る べ 』 一 二 号 の「 編 集 後 記 」( 四 二 頁 ) 及 び 西 本 珠 夫「 岡 本 静 心 先 生 の 思 い 出 」( 同 二 九 号 一 一 頁 ) にも掲載されている。 ( 2) 拙 稿「 史 料 紹 介『 雲 漢 集 』」 (『 地 域 史 研 究 』 一 一 三 号 八二頁以下) 。 (3) 本論考は、 拙稿 「尼崎今昔物語について」 (『みちしるべ』 四二号一頁)を参考にしている。 ( 4) 『 尼 崎 市 史 』 三 巻 三 六 七 頁 は、 こ の 二 名 が 学 校 を 訪 れ た とするが、 本書は、 この二名に「吉弘左乙さんと亀山先生」 で記された吉弘直誠を加えた三名が学校を訪れたとする。 (5) 尼崎尋常高等小学校は、 何度も名称を変更しているので、 本稿では便宜上、 「琴城小学校」と表記する。 ( 6) 現 勢 史 二 四 八 頁。 当 時 の 同 会 は、 小 島 種 吉 が 会 長 で、 市 長 の 桜 井 忠 剛、 亀 山 昇( 校 長 ) 等 が 評 議 員 と し て 在 籍 していた。 ( 7) 現 勢 史 二 六 二 頁 も「 現 在 市 の 青 年 実 業 家 な ど 氏 の 訓 陶 を享けたる者尠なからずといふ」と結んでいる。 ( 8) 本 書 は、 尼 崎 市 街 で は な く、 神 崎 に 駅 が 設 置 さ れ た 理 由については、 「尼崎と神崎駅」 (一九三)で記している。 ( 9) 「 小 人 閑 居 」( 一 三 ) は、 家 禄 奉 還 に よ っ て 現 金 給 付 を 受 け た も の の、 仕 事 が な い 士 族 の 子 弟 が、 地 面 に 掘 っ た 穴 に 目 が け て 銭 を 入 れ て 取 り 合 う「 穴 い ち 」 等 の 遊 技 に ふ け り、 藩 か ら 注 意 を 受 け た と い う 逸 話 を 取 り 上 げ、 士 族の退嬰振りを活写する。 ( 10) 雲 漢 と 忠 栄 と の 親 交 に つ い て は、 前 記「 史 料 紹 介『 雲

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漢集』 」八八頁以下でも言及されている。 ( 11)「 雲 漢 狂 人 寿 蔵 碑 」 は 右 史 料 紹 介 一 三 四 頁、 「 阿 菊 虫 」 は 同 九 五 頁、 「 画 牛 記 」 は 同 一 一 一 頁、 「 題 平 野 本 治 翁 像 」 は同一二三頁にそれぞれ掲載されている。 ( 12)橋本治左衛門氏文書 (史料館所蔵) 。これは、 野間雄朔 「明 治 期 尼 崎 地 方 の コ レ ラ 流 行 」『 地 域 史 研 究 』 二 七 号 三 二 頁 で 取 り 上 げ ら れ て い る。 福 井 及 び 中 馬 譲 吉 も 現 地 に 赴 い ている。 ( 13) 第 一 〇 師 団 は、 司 令 部 を 姫 路 に 置 き、 隷 下 の 歩 兵 第 三 九 連 隊 は、 尼 崎 出 身 者 が 多 く 従 軍 し た。 日 露 戦 争 で は、 当 初、 第 一 軍 と 第 二 軍 を つ な ぐ 独 立 師 団 と し て 遼 東 半 島 の 大 孤 山 に 上 陸 し た が、 そ の 後 第 四 軍 に 編 入 さ れ、 奉 天 会 戦 に も 参 加 し た。 従 軍 兵 士 か ら 見 た 日 露 戦 争 に つ い て は、 拙稿 「日露戦争従軍者書簡等について」 (『地域史研究』 一〇七号五七頁以下)を参照されたい。 ( 14) 米 澤 敏 男「 温 容、 追 憶 の 我 が 祖 父 」( 『 地 域 史 研 究 』 八二号五四頁) 。 ( 15) 堀 内 家、 特 に 雲 漢 の 弟 子 で 正 業 館 で も 活 躍 し た 堀 内 伯 竹 に つ い て は、 西 本 珠 夫「 正 業 館 及 び 中 谷 雲 漢・ 堀 内 伯 竹について」 (『みちしるべ』三二号一九頁)が詳しい。 ( 16) 小 野 寺 逸 也「 産 業 革 命 期 に お け る 尼 崎 士 族 青 年 の 郷 土 観 と 士 族 意 識 」( 『 地 域 史 研 究 』 五 号 五 六 頁 ) に 津 久 井 の 経 歴 が 紹 介 さ れ て い る。 な お、 津 久 井 は、 現 勢 史 の 序 文 も執筆している。 ( 17) 尼 崎 藩 士 族 大 木 田 松 江 は、 明 治 以 降 尼 崎 で 最 初 に ク リ ス チ ャ ン と な っ た と さ れ る が、 明 治 一 〇 年 当 時 の 職 業 は、 「 小 鳥 猟 」 で あ っ た。 ま た、 尼 崎 城 郭 内 の 居 住 者 だ け で も 小 鳥 猟 を 業 と す る 者 が 三 名 い た と さ れ る( 以 上 に つ き、 小 野 寺 逸 也「 あ る 無 名 士 族・ 大 木 田 松 江 」『 地 域 史 研 究 』 四三号二七頁) 。 ( 18) 石 田 四 五 六 の 事 績 は、 現 勢 史 一 七 八 頁 に も 挙 げ ら れ て い る。 横 山 エ ン タ ツ 自 身、 自 叙 伝( 自 己 の 名 を「 正 見 」 と記している)では、 尼崎については、 父の仕事で転居し、 伊 丹 中 学 に 通 っ て い た こ と や 友 人 と と も に 尼 崎 沖 か ら 伝 馬 船 を 漕 ぎ だ し て 西 宮 沖 ま で「 冒 険 」 し た こ と を 記 し て い る( 『 わ が 心 の 自 叙 伝 』( 三 )( の じ ぎ く 文 庫・ 昭 和 四 四 年)一九頁以下。 ( 19)「 東 洋 の マ ン チ ェ ス タ ー」 と い う 語 は、 当 時 人 口 に 膾 か い し ゃ 炙 し て い た よ う で あ る。 前 記「 尼 崎 の 将 来 」 で も、 松 尾 小 三 郎 が「 大 阪 湾 の 給 炭 基 地 」 で、 築 港 を 整 備 し、 尼 崎 を 大 阪 の 給 炭 基 地 と す べ き 旨 を 説 く 中 で「 尼 崎 市 は 大 阪 市 を 真 に 大 な る 東 洋 の マ ン チ ェ ス タ ー た ら し む る 重 大 な る 責 任 と 愉 快 と 誇 り と を 有 っ て ゐ る の で あ る 」 と 論 評 し て いる( 『地域史研究』四四号六三頁) 。

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( 20)この河川汚染は、 一七〇町に及ぶ稲田の枯死やボイラー 用 の 水 を 庄 下 川 か ら 採 取 す る 阪 神 電 鉄 尼 崎 発 電 所 の 発 電 設 備 の 損 傷 等 の 深 刻 な 被 害 を も た ら し た( 『 尼 崎 市 史 』 三 巻五二〇頁) 。 ( 21) 遊 郭 誘 致 問 題 に つ い て は、 『 尼 崎 市 史 』 三 巻 三 一 九 頁 以 下、図説四七頁以下が詳述する。 ( 22) 前 記「 阪 神 国 道 と ダ ン ス ホ ー ル 」 は、 「 沿 道 の 家 数 は 日 毎 に 殖 え て、 阪 神 間 は 全 く 家 続 き の 盛 況 を 現 ず る に 至 っ た 」( 四 六 二 頁 ) と 記 し て い る。 な お、 昭 和 七 年 当 時 の 尼 崎 の ダ ン ス ホ ー ル 及 び ダ ン サ ー の 生 活 の 実 態 調 査 と し て は、 東 郷 実「 ダ ン サ ー の 生 活 実 情 調 査 ― 戦 前 の 尼 崎 に お ける」 (『地域史研究』一五号六四頁)がある。 ( 23) 栖 賢 寺 の 衰 微 振 り は、 阿 江 佐 知 子「 乞 食 寺 と 呼 ば れ て い た 栖 賢 寺 」( 『 地 域 史 研 究 』 一 一 号 四 八 頁 ) も 言 及 す る。 ま た、 前 記 平 清 次 は、 「 岡 本 静 心 と 尼 崎 郷 土 史 」( 『 地 域 史 研 究 』 七 〇 号 二 七 頁 ) で、 「 わ た し が 住 職 に な っ た 昭 和 三 年 ご ろ の 大 覚 寺 は、 市 内 で も 一、 二 の 貧 乏 寺 で し た 」 と の 岡本氏の発言を紹介している(同二八頁) 。 ( 24) 桜 井 忠 興 の 晩 年 は、 拙 稿「 史 料 紹 介『 桜 井 忠 興 事 績 関 係 史 料 』」 (『 地 域 史 研 究 』 一 一 四 号 一 二 七 頁 以 下 ) が、 本 書「 忠 興 公 と 忠 胤 公 」( 七 九 ) の 引 用 と と も に 取 り 上 げ て いる。 ( 25) 草 山 巌「 明 治 六 年 の 英 国 公 使 に よ る 警 察 人 事 干 渉 と そ の 周 辺 事 情 」『 地 域 史 研 究 』 三 四 号 一 頁 以 下。 同「 明 治 初 年 の 郷 土 出 身 警 察 官 僚 」 同 二 六 号 五 四 頁 も 同 様 の 観 点 か ら記述されている。 前者は、 金沢の司法官の経歴について、 「 明 治 十 一 年 末 現 在、 三 十 五 歳 の 彼 は 大 阪 地 方 裁 判 所 在 勤 の 判 事 補 を し て い る が、 そ の 後 に つ い て は 現 在 の と こ ろ 不明である」 (一九頁)とのみ記す。 ( 26) 西 本 町 に つ き『 み ち し る べ 』 九 号 付 録 の 図 面、 中 在 家 町 に つ き 中 在 家 町 絵 図 復 元 グ ル ー プ「 中 在 家 町 町 並 み 絵 図 の 復 元 」( 『 地 域 史 研 究 』 九 二 号 四 二 頁 ) が 公 刊 さ れ て いる。 ( 27)右「中在家町町並み絵図の復元」四八頁。 ( 28)「 明 治 末 尼 崎 町 商 家 の 青 年 の 日 記 」( 一 ) な い し( 六 ) (『地域史研究』 五六ないし五八、 六〇ないし六二号) 。なお、 図 説 五 三 頁 で は、 右 日 記 が 本 書 と 同 じ 個 所 に 取 り 上 げ ら れている。 ( 29)石田が一九〇頁、 米沢が一八九頁、 中馬興丸が一八四頁、 鈴木が一九三頁、堀内が一九〇頁である。 ( 30)『地域史研究』六一号三四頁。

参照

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