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2006年8月22日 和光大学A棟第二会議室 民族を超えて仲よくなったボスニアクとセルビア人の少女たち photo by OTSUKA Atsuko コミュニティ ガーデンで ともに働き 収穫を喜ぶ人びと photo by OTSUKA Atsuko 125

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124──和光大学総合文化研究所年報『東西南北』2007 2006年8月22日、和光大学総合文化研究所の主催により、「緑を通じた平和構築:ボス ニアのコミュニティ・ガーデンから学ぶコミュニティ再生」と題した講演会が開催された。 ボスニア・ヘルツェゴビナでは、1992年から3年半にわたった戦争により、25万人以上の 人びとが死亡し、生き残った多くの人も難民になり、また深く心の傷を受けた。 講演者の一人、ダボリン・ブルダノビッチ氏は、民族和解をめざして2000年に設立され た〈コミュニティ・ガーデニング・アソシエーション・オブ・ボスニア・アンド・ヘルツェ ゴビナ(CGA)〉のディレクターである。戦後11年目を迎えたボスニア・へルツェゴビナ では、多民族が混じりあって暮らす戦前のようなコミュニティが消滅してしまったが、CG Aは、緑の力を媒介にして、人と人の絆を取り戻すコミュニティ・ガーデンという活動を行 ない、成果を上げてきた。最初はサラエボのひとつの庭だけだったのが、現在は15に増えて いる。 日本でも、特に都市においては、人のつながりが希薄になった結果、自分と異なる価値観 やライフスタイルを持つ他者への不寛容さが増している状況で、コミュニティの崩壊は大き な社会問題となっている。ブルダノビッチ氏は、東京都西東京市の特定非営利活動法人(N PO)〈 birth 〉の招請により、CGAの農業技術者であるヴァーニャ・ミヨビッチ氏ととも に初来日し、8月20日から29日までの日程で、和光大学はじめ都内各地で講演会・視察・ 市民交流などを行なった。 もう一人の講演者、大塚敦子氏は、1986年以来フォトジャーナリストとして活動し、ア ジア・中東を経て現在はおもにアメリカとヨーロッパで取材している。ボスニアに長期滞在 し、2006年に、CGAのコミュニティ・ガーデンを舞台にした『平和の種をまく──ボス ニアの少女エミナ』という写真絵本を出版している。 両氏の講演からは、ボスニアでも日本でも人びとが平和にともに生きられるコミュニティ をつくるには何が必要なのか、そのために緑はどんな役割を果たすことができるのかなど、 平和構築やまちづくりに関心を持つ学生・院生と、緑や環境の保全に関心を持つ学生・院生 の両者が、いっしょになって考えていくためのさまざまなヒントが得られるであろうと考え、 本企画を実施した。 以下は、シンポジウムにおける大塚氏とブルダノビッチ氏の講演をふまえて、その要旨を まとめていただいた文章である。 シンポジウム・コーディネーター:伊藤武彦(所員/人間関係学部教授)

緑を通じた平和構築

コミュニティ・ガーデンで民族融和に取り組む

ボスニア・ヘルツェゴビナの試み

講演会 和光大学総合文化研究所主催

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コミュニティ・ガーデンで、ともに働き、収穫を喜ぶ人びと photo by OTSUKA Atsuko

民族を超えて仲よくなったボスニアクとセルビア人の少女たち photo by OTSUKA Atsuko

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──はじめに

〈コミュニティ・ガーデニング・アソシエーション・オブ・ボスニア・アン ド・ヘルツェゴビナ(Community Gardening Association of Bosnia and Herzegovina = 以下 CGAと呼ぶ)〉を取材することになったきっかけは、2003年、アメリカのシカゴ で行なわれたコミュニティ・ガーデンの国際会議に出席し、ダボリン・ブルダノ ビッチ氏の講演を聞いたことだった。それまで私がボスニアという国について持 っていた知識・イメージは限られており、悲惨な民族紛争に引き裂かれた遠い東 欧の国、という程度のものだった。それだけに、崩壊した多民族共生のコミュニ ティを再生するために、コミュニティ・ガーデンをつくって民族交流を進めてい るというダボリンの話には非常に感銘を受けた。そこで2004年、2005年と取材に 出かけ、CGAの活動をつぶさに見ることになったのである。 ──ボスニア・ヘルツェゴビナとはどんな国か かつて旧ユーゴスラビア連邦を構成した6つの共和国のひとつだった。イタリ アなどに近いバルカン半島にあり、九州と四国を合わせたくらいの面積で、人口 は400万∼450万人ほど。人口比率は、ボスニアク(戦前・戦中はモスレム人と呼ば れていた)44%、セルビア人31%、クロアチア人17%、その他の少数民族8%で、 どの民族も単一では過半数を占めない。ちなみに、ダボリンはクロアチア人で、 今回日本に同行したヴァーニャ・ミヨビッチ氏はセルビア人である。2人とも首 都サラエボ出身だが、戦争中はそれぞれの居住区に住み、敵味方に分かれていた。 ダボリンは胸を、ヴァーニャは足を撃たれて負傷したが、その2人がいまではC GAのスタッフとして、ともに平和のために働いている。 126──和光大学総合文化研究所年報『東西南北』2007 講演会:緑を通じた平和構築

日本人ジャーナリストが見た

ボスニア・ヘルツェゴビナのいま

大塚敦子

フォトジャーナリスト

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──ボスニアでの戦争について 冷戦終結後、旧ユーゴ連邦の求心力が弱まるなかで、スロベニアとクロアチア が独立を宣言、連邦から離脱する。ボスニアも独立するかどうかで各民族が対立、 モスレム人、セルビア人、クロアチア人の3民族のあいだで領土分割戦争が起こ った。1992年から1995年まで3年半にわたった戦争で、25万人以上が命を落とし、 人口の半分にあたる200万人以上が家を失って難民になった。1995年11月のデイ トン合意により戦争は終結したが、この戦争がなぜ起こったのか、責任は誰にあ るのか、各民族の主張が違うため、いまも結論は出ていない。ハーグでの国際戦 犯法廷も続いており、戦争の真実が明らかになるまでにはまだ時間がかかるだろ う。 ──現在のボスニア・ヘルツェゴビナ 伝統の赤い屋根が美しい町サラエボは、戦争中はセルビア軍に包囲され、兵糧 攻めにあった。戦後11年目とあって、遠目からは戦争の傷跡は目立たないが、実 際に町を歩いてみると、砲撃を受けて瓦礫となった建物があちこちにまだ残って いるのを目にする。銃弾の痕が生々しく残るアパートなどにも人が住み、生活の 営みを続けている。 ボスニア全土には300万ともいわれる地雷が、いまも除去が追いつかないまま 残されている。人びとの生活圏、農地などは優先的に除去作業が行なわれている が、山間地などは、地雷注意の看板を立てるだけでせいいっぱいである。2010年 に国際社会の援助による地雷除去作業が終了することになっているが、それまで に除去が終わる見通しはまったくなく、人びとはこれからも地雷とともに生きて いかなければならないのが現実だ。 また、目に見える戦争の傷跡が消滅したあとでも、人の心に残った傷はなかな か消えないだろう。コミュニティ・ガーデンに来ていた子どもたちと粘土細工を したとき、ある16歳の少年が作ったのは、なんと地雷を踏んで血に染まっている 人の靴だった。戦争が終わったとき、この少年は6歳。彼の心に残ったものは何 だったのか、あらためて戦争の残す傷の深さを考えさせられる。 戦後のボスニア・ヘルツェゴビナは、一つの国境の中に「ボスニアク(モスレ ム人)とクロアチア人の連合国」と「スルプスカ共和国」(セルビア人の国)とい う二つの政体を抱える複雑な国家形態を取ることになった。行き来は自由であり、 検問所があるわけでもないが、人びとの心の中には見えない境界線が引かれてい る。戦前のような多民族共生のコミュニティが崩壊し、いまでは民族ごとの住み 分けが進んでいるため、普通に暮らしていたのでは同じ民族にしか出会わない。 お互いの顔が見えない状況では、異なる民族のあいだに信頼を構築することはむ

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ずかしく、紛争の火種がいまもくすぶり続けているのが現状である。 ──コミュニティ・ガーデンの意味 このような状況のなかでつくられたコミュニティ・ガーデンでは、どの民族に 属するかにかかわりなく、人びとが安心して交流することができる。特に、戦 中・戦後に生まれ、かつて多民族が共存していた時代を知らない子どもたちにと っては、異なる民族の子と出会い、友情を育むことのできる貴重な出会いの場と なっている。 戦後のボスニアでは、さまざまな形での平和構築の試みが行なわれてきたが、 このコミュニティ・ガーデンによる試みが成功している理由は、人びとの日々の 生活に根ざしたものであるからだろう。たとえ何泊かのワークショップに参加し たとしても、自分の生活の中に基盤がないものは、なかなか根付きにくい。自分 たちの手で食べものを生産し、それを分かち合う、という人間の基本的な営みの 中で行なわれるものだからこそ、有効な平和構築として成果を上げているのだと 思う。 ──いま、なぜ、日本で、ボスニアのコミュニティ・ガーデンの話をするのか 多くの日本人にとって、ボスニア・ヘルツェゴビナは、地理的にも心理的にも 遠い国だ。民族紛争など自分たちには関わりのないことだと思っている人がほと んどだろう。その日本で、なぜ、いま、ボスニアの戦争とその後の平和構築の試 みについて知ることが重要なのだろうか? 私自身も、ボスニアの戦争はあまりに複雑で、日本人にはわかりにくい、とい う印象を持っていた。だが、実際に現地に滞在し、人びとと同じ目線で暮らしな がら学んだのは、どの国にも共通する普遍的な事実だった。それは、戦争という ものは、誰かが仕掛け、敵意を煽らなければ始まらない、ということである。ボ スニアでも、何年もかけて政治家やメディアがナショナリズムを煽り、徐々に他 の民族への敵対心を育てていった。そして、「やらなければ、やられる」と人び とが思い込むように誘導していったのである。普通の人たちは、誰もほんとうに 戦争になるとは思っていなかったのが、「気がついたら、戦争が始まっていた」 という。誰かが引き金を引き、火をつけて回った結果、戦争が拡大していったの だった。 いまの日本でも、都会では人と人との関係が希薄になり、自分の住んでいるコ ミュニティのことさえ知らない人が増えている。それぞれが自分の殻に閉じこも るようになった結果、自分とライフスタイルや価値観の違う他者に対して不寛容 になっているのが現状ではないか。相手の顔が見えないと、恐れや不信が増幅し 128──和光大学総合文化研究所年報『東西南北』2007

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やすい。相手との共通点ではなく、違いばかりが気になり始めると、自分と異な る他者への攻撃・排除につながっていく。そんないまの日本の状況を見ていると、 とてもボスニアの戦争を他人事とは思えないのである。 ──所属集団ではなく、個人として交流すること ボスニアのコミュニティ・ガーデンのような試みは、異なる民族の人びとが、 所属する集団の一員としてではなく、個人として出会い、交流する場を創りだし ているという点で非常に重要だ。平和は、人と人のつながりのなかから生まれる ものだからだ。個人が名前を失い、集団としてひとくくりにされるようになると、 戦争の危険は増大するだろう。 サラエボのコミュニティ・ガーデンには、スレブレニツァの虐殺で夫を殺され たボスニアク(モスレム人)の女性がいた。彼女の話で強く印象に残ったのは、 夫を殺した相手を「彼ら」と複数で呼ばず、必ず「彼」と単数で呼んでいたこと である。彼女はもちろん、夫を殺した下手人が誰かは知らない。だが、彼女は、 「彼」という一人の架空の人間に怒りをぶつけることによって、セルビア人全体 を憎むことを避けていたのではないかと私には思える。 ある集団への恐怖や不信を煽る動きに対して、一人一人の個人がいかにそれに 抵抗し、相手を人として見つめ続けられるかどうかは、戦争を防ぐ一つの大切な 鍵ではないだろうか。 ──おわりに コミュニティ・ガーデンは、お互いの顔の見える関係をつくることのできる大 切な場である。その基本的なコンセプトとは、人と人を結びつけ、地域に根ざし、 皆で分かちあうことだ。日本にも市民農園は各地にあるが、参加者それぞれがバ ラバラに野菜づくりをしているところが多く、まだ「コミュニティ・ガーデン」 と呼べるまでには至っていない。もう一歩進めて、異なる人と人をも結びつける 場として発展させていきたいものである。コミュニティ・ガーデンは、自分の身 近なところから世界の平和へとつなげていく、大きな可能性を秘めたツールであ るからだ。 《参考文献》 大塚敦子『平和の種をまく──ボスニアの少女エミナ』岩崎書店、2006年 [おおつか あつこ]

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──経済学からコミュニティ・ガーデンへ ボスニアは、世界で農業生産の成長が最も遅い5か国の一つで、ヨーロッパで は最低の農業成長率です。戦争終結から11年経ついまも、ボスニアにはまだ農業 省さえありません。一つの国境の内側に二つの政体を抱えていて、何も決まらな いからです。「デイトン合意」は戦争は終わらせましたが、その後の国の将来に ついては何ひとつ示しませんでした。現在のボスニアは、国というより、領土で しかないのです。 私はサラエボで生まれ育ち、大学では経済学を勉強しました。だから、農業に ついてはまったくと言っていいほど知りませんでした。戦争前は「野菜はマーケ ットで買うもの」と思っていました。しかし、サラエボが3年半包囲されている 間は、水も食料も電気もなかったため、飢えに苦しむことになりました。そこで、 窓辺に置いてあった花の鉢を移動して、代わりにトマトとピーマンを育てること にしました。そんな戦時中の経験から、コミュニティ・ガーデンへの関心が芽生 えたのです。このプロジェクトに参加している人には、難民・国内避難民(自分 が元いた町に戻れない人)・帰還者(戦争中他の町に避難していたが戻ってきた人)・ 身体障害者・精神障害者・退職者・失業者・若者・子ども・ロマの人びと(ジプ シーとも呼ばれます)がいます。戦前の人口は約400万人でしたが、この紛争の目 的が「民族浄化」だったため、約250万人が元いた場所に帰れない状況になって います。また、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状のある人が人口の80% もいる、といわれています。 ──コミュニティ・ガーデン・プロジェクトの目標と活動 まず最初に、コミュニティ・ガーデン・プロジェクトの信念を言いますと、 「過去のことは水に流し、いかなる偏見も持たない」ことです。この信念を基に プロジェクトで行なっているいくつかの具体的な活動を紹介しましょう。 130──和光大学総合文化研究所年報『東西南北』2007 講演会:緑を通じた平和構築

平和構築をめざす

コミュニティ・ガーデンの取り組み

ダボリン・ブルタノビッチ

CGAディレクター まとめ:大塚敦子

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①物質的支援:プロジェクトでは、1家族の成員1人当たりに50m2の土地を割り 当てて、さまざまな野菜の種を支給しています。農機具を貸したり、農業に関す る教育も行ないます。多くの人は、冬を越す食糧を備蓄するために、トマトやジャ ガイモを栽培します。その収穫物はガーデンの参加者たち自身のものになります。 ②異なる民族同士の再交流をすすめる私たちは、戦争中に大きな対立があった 地域にコミュニティ・ガーデンをつくる計画を立てました。最初につくったのは、 サラエボの郊外の激戦地だったところでした。 土地を見つけると、地元のそれぞれの民族のNGOにコンタクトを取って、一 つのガーデンに3民族が入るよう、参加者の構成を決定します。参加者は、最初 のうちは自分の所属民族を主張していますが、2∼3週間もすると、民族にかか わりなく、自分は「ガーデナーです」と言うようになっていきます。また、挨拶 さえしなかった人どうしでも、一緒にコーヒーを飲む間柄になっていきます。 ③教育農業教育を行なうことによって、よりよい農作業のやり方や新しい食物 を知る機会を提供します。たとえば、以前は、野菜といえばトマト・キャベツ・ ジャガイモぐらいしか馴染みがなかった人びとが、いまではブロッコリーなども 育てるようになりました。これまでは単に知らなかっただけで、CGAの教育に よって、新しいものを受けいれることができるようになったのです。 ④特別な支援を必要とする人びとのためのワークセラピーこれは、プロジェクト で、いまもっとも重要視していることです。ボスニアは失業率が高く、退職に近 い年齢の人や、障害のある人の就職は困難な状況です。このワークセラピーは、 そんな人びとに、自分にも何かできることがある、と誇りを感じられる貴重な機 会を与えています。 ──ガーデン・プロジェクトの歩み〈1999年∼2006年〉 2000年にサラエボに最初のガーデンを設立したとき、16家族・75人が参加しま した。ガーデンは現在15カ所に増え、330家族・2000人が参加しています。また、 最初は5000m2だったガーデンの面積は、現在は合計で76000m2になっています。 これらのガーデンのなかから、特徴的なものをいくつか紹介します。 ①最初のガーデン──ストゥープ・ガーデン(サラエボ)ここは、支援・教育セ ンター(ガーデン・オフィス)がある私たちのメイン・ガーデンです。オフィス・ 倉庫・温室(400m2・堆肥場・苗床・灌漑設備・道具・農機具などがあり、他の ガーデンの人たちもここに来て教育を受けます。 このガーデンには、戦争中は敵どうしだった元兵士たちも参加していますが、 いまではとても仲良くしています。彼らにとっては、ここが心を開いて話せる最 初の場所だったのでしょう。また、ここでの農業教育は、かしこまってプレゼン テーションなどをするのではなく、みんなでコーヒーを飲み、庭で語り合いなが

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らする形です。子どもたちも、鉢で野菜づくりを学んでいます。 ②クラ・ガーデン(東サラエボ)ここはスルプスカ共和国の側にあるガーデン で、刑務所の隣に位置しているため、受刑者の人たちとも一緒に作業をします。 最初は、重犯罪の人と共同作業することに驚く人もいます。ここは、ボスニア初 のオーガニック・ガーデンです。 ③トゥズラ・ガーデン:このガーデンは、町の真ん中にあり、障害を持つシング ルマザーのための農園として始まりました。最初は障害のある女性だけが参加し ていましたが、いまは健常者も一緒に働いています。 ④ミシェヴィチ・ガーデン:ここは、「スレブレニツァの虐殺」で家族を失った女 性のためのガーデンで、私たちのプロジェクトのなかで多民族構成になっていな い、唯一のガーデンです。スレブレニツァの虐殺は、第二次世界大戦でのナチス の大虐殺以来、ヨーロッパで最悪の虐殺です。たった3日間で、8000人以上の男 が殺され、10歳の少年でも、銃が持てると判断されたら殺されました。また、多 くの女性がレイプされ、一カ月も森の中での逃亡生活を強いられたあげく、難民 として全土に散り散りになってしまいました。そんな女性たちにとって、このガ ーデンは悪夢を忘れられるたった一つの場所となっていて、食物の確保のためと いう以上の大きな意味があります。彼女たちは、1日7∼8時間もの間畑に出て、 ひたすら農作業をするのです。 ⑤ドボイ──“ナダ”ガーデン:ここは、精神障害者のためのセラピー・ガーデ ンです。ここのグループホームを最初に訪れたとき、入所者の人たちとまったく コミュニケーションが成り立ちませんでした。ある男性は、何も話さないし、い っさい誰ともコミュニケーションを取らず、まるで植物のような状態でした。そ の彼が、ガーデンで働くようになってから、めざましい変化をとげました。3年 後に彼は「野菜を育てるには水が必要だ」と考え、自発的に粗大ゴミを探してき て、手製の灌漑システムを作ったのです。彼らの治療を担当するセラピストによ ると、ガーデンで作業するうちに、投薬量が大幅に減ったそうです。 ──おわりに コミュニティ・ガーデンのプロジェクトを始めてから7年が経ち、いまでは 2000人以上が参加するまでになりました。ところが、このプロジェクトへの支援 はすべて外国からのものなのです。ボスニア国内では、どの政党・政治家・省庁 も興味を持ってくれません。ある市長は、単一民族の国を作るために戦争をした のに、多民族のコミュニティ・ガーデンなどとんでもない、と言います。非常に 残念なことですが、これがボスニア・へルツェゴビナの現状をよく示しているの でしょう。私たちは、世界中の人びとからの支援がこれからも続くことを信じ、 願っています。 [Davorin BRDANOVIC] 132──和光大学総合文化研究所年報『東西南北』2007

参照

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