日
本
の
中等
デ
ザ イ
ン
教
育
の
始
ま り
Design
Education
ofSecondary
School
in
Meiji
Era
半田 伊 史
大 泉 学 園 高 等 学 校
HANDA
Yoshifumi
Ohoizumi
・
Gakuen Highschoo[
1.
は じ め に 現 在で は デザ イン教 育 機 関とい うと、
大学そ れ も 芸 術 系で のそれを思い 浮かべ る人 が多い か も知れ な い 。 しか し 日 本の デ ザイン教 育の歴 史をひ も とくな ら ば、
第二次 世界大 戦後の学制改 革 まで は、
量 的に は中等教 育、
しか も工業系と し ての教育が中核をな してい たこ とを 知る こ と がで きよう。 現 在で は理 解 し難い 側 面 も あ る が、
そ れは デザ イン教 育が国の殖 産 興 業 政策の一
環としての 役 割を担っ てい た か ら で ある。
も ちろ ん 工業が未 発 達な当時の 日本にあっ て は、
デ ザ イン は 工芸と未 分 化の 状態にあ り、
ま た絵 画とデザイン も明確に分離され てい たわけで はない 。 しか し工芸が 輸 出の 重要品目であっ た当 時にあっ て は、
デザ イン教育の振 興もまた国にとっ て見 逃 すこ と が で きない 問題でも あ一
っ た。
特に地 域の 地 場 産 業 と密 接なつ な がりを持つ 中等教 育の中での デザ イン 教 育が果た し た役 割につ い ては 再評価 を 試 み る 価 値 が あるもの と思われる。
デザ イン史に関 する記 述 が 比較 的増 えて きた現在 にあっ ても、
こう した中等デ ザ イン教育つ い て触れ た もの は ま だ 少 ない ように 思われる。 この機 会に、
その 発 足 当 時の 状 況 と、
社 会 的 な 背 景 を探っ て み た い D2.
明治政 府の近 代 化と教 育 政 策明治 維 新によっ て徳 川幕 府の 封 建 的 政治組織 を廃 止 し
、
近代的 な国家組織を構築 し ようと、
時の 政府 は さ まざま な 政策をとっ た。
明治政府の 基 本政策に「
殖産興 業 」が あ る が、
政府発 足当初の 日 本 には、
近 代 産 業の発 展に直 接つ な が る 産業 構 造や 欧米の よ う な産 業技 術は育 成され てい な かっ た。 し か も、 幕 末 に お ける開 国 騒動の中で、
日本が経 済 的に も後 進 国 である こ と を十 分に認 識さ せ ら れ た。 そこ で明治政 府は、
先 進国である欧 米の 文 化を輸 入して、
近 代 的 政 治 組 織と産 業・
経 済 組織を整 備し ようと したの で あ る。
しか し、
当時の わ が 国は政 治 的 には治外 法 権の制 限を受け、
経 済的にも関税の 自 主 権 を持 た な かっ た ため、
欧 米 先 進 国と対 等の 地位に立つ こ とがで き な か っ た。
そこ で、
対等な 地位を得るため に国内の 産 業と経 済の充実を は かろうと、
殖産 興 業 政 策 を 実 施 した。 具 体 的政策と して は、 まず江 戸 時代か らの 商 業 資 本を 産 業 資 本に転 化 させるため、
明 治5
年国 立 銀行 条 例を 公布 して資本の蓄 積のた めの媒 介組 織を整備 し、
資 本主義 経 済のも と 近 代 型 産 業 を 発 足 させ た。 さ らに明 治政府は 産 業の 保護 政策を と り、
またみ ず か ら も 企業経営者と して 官営工場 を創 設 し、
資 本主 義 発 達の 素地 を周 め ようとし た、
こうした官 営工場 の 中に は、
東 京・
大阪砲 兵工廠、
横 須 賀造 船 所、
長 崎 製 鉄 所の ように幕 府か ら継 承し た もの や、
石 川島 造船所、
兵 庫 造 船 所、
堺 紡績 所な どの ように旧 諸 藩 か ら継 承し た ものが あっ た。 そ して、
新 規事業 と し て は富 岡製 糸 場、
千 住 製 絨 場のよ うに洋 式 工 場 と し て創 設した もの もあっ た。 この ように経 済 的には資 本主義 体 制、 産業的には 近代工場生 産へ の転 換とい う方 向性 を 示 し たの で あ るが、
教育 面におい て も藩 学や寺 子屋 制 度 か ら近 代 的な学 校 制 度へ の改 変が行わ れ、
明 治5
年の学 制 発 布、
明 治 12 年の 教育 令、 明 治 19 年の学 校 令が 順 次施 行さ れ てい っ た。
明 治 5 年に発 布さ れ た学 制は、
小学・
中学・
大 学 の 三基 本 段 階に よ る教 育 制 度をめ ざ した もの で、
デ ザ イン・
工芸を扱 う工業学 校や農 業・
商 業 学 校は「中 学 」の一
種とみ な さ れ た が、
詳細 な規定は なにも設 け ら れてい な かっ た。
翌明治6
年に出 され た学 制二 編 追 加に は、
「諸 芸 学校・
鉱 山学校・
工業 学 校・
農 業 学 校・
商 業学校・
獣医学 校」 等を 専 門 学校の一
種とみ な し教 員 養 成 等を その 目的と した が
、
当時こ の規 定に合致する学校は、
開成学 校の組 織 を改 組 し て設 け られ た 工業 学 校 各学 科、
諸 芸 学校 各 学科お よび鉱 山 学 校学科 く らい の もの で、
非 常 に少な かっ た。
産 業 教 育系学校 は、
学 制 発布当 時におい ては学 校制度 の外におい て行わ れてい たの で あ る。 工業 教 育では、
明 治 4 年 頃から 工部 省の各 局・
各 寮に修 技 黌や伝習所を設 けて、
現 場技術者養 成の 速 成 的 教 育を行っ た。 たと え ば製 鉄 寮で は黌 舎、
勧 業 寮内におい て は女子伝習 所 を 設 置 し た。 ま た、
明 治7
年に は 開 成 学 校 内 に 製 作学教 場 を 設 けて、
精練 学 及び 工作 学を教 授 し た。
3.
万 国 博 覧会と海 外 技 術 の 導 入1970
年の 大 阪 万 博 が、
戦 後 産 業 および 経 済 発 展の 節 目として開 催 さ れ、多
くの 人 が 時 代の 流 れ を直接 的に感 じ取 り、
とりわけデザインが社 会 的に認 知 さ れ た出来事で あっ たこ と は記 憶に新しい。
博 覧 会の 時 代とも言わ れ る 19世 紀 におい て、
博 覧 会の 開催 は、
現在 考える以上 に 当時の 社会や 産業・
経 済に とっ て大 きな意味を持っ てい た。 日本の デザ インお よ びデザ イン教 育近代 化の初 期 過 程で大 き な 意義を持つ のは、
明 治6
年 (1873 年)に 開 催 さ れ た ウィー
ン万 国博 覧会であろう。
明治 政府 主導
で 最 初に 参加 したこ の 博 覧会の 出 品 企 画に は、
佐野常民 副 総 裁の もとで政府の顧 問として ド イッ人 ワ グネルが参 画した。 西 欧の 模 倣 と しか 評 価 さ れ な か っ た機 械 製 品よ り も、
日本独 自の 工 芸 品 を 中 心 に 出 品 する とい う彼の ね らい は功 を奏し、
日本の 工芸 品は西 欧諸国に お い て 高い評価を得た。
こ れ を契 機 とし て、
工芸 品輸出の 引 き合いが 増 加 し、
その 後の 海 外 貿 易の 重要 政策の一
つ と して上 げ ら れ る ように なっ た。 佐 野 常 民 が 博 覧 会事務局に加わっ た とき、
彼は正 院に、
博覧 会参
同の 目 的 を 明 ら かにし た 上 言 書 を 提 出 してい た。 佐 野 が参加の 目 的 と してあ げ た 五つ の 項目の中には、 日本に博 物 館を作っ たり博 覧 会を開 い たりするため の基 礎づ く り、
優 秀な物 産の出品に より日本の栄 誉を海 外にあ げる こと もある が、
そ れ ら 以 上 に重要と目さ れ たの は出 品物が輪 出 増 加の 糸 口 と なる こと、
他国の機 械 技術 を学ん で 日本の学 芸 の進 歩や物 産の 増 殖に道を開 くこ と だっ た。 この た め 「工業 各科ノ学生 及諸織工七 十 名 程ヲ募 撰シ、
之 ヲ率イ此会二 赴キ、
現 地二 就 テ各
専 門ノ業術ヲ実見 伝習セ シメ1
とい うこ と を提案 してい た。
佐 野の真 意は学生 を技 術 伝 習に参 加させるこ とで あっ たが、
この案は 正院に おい て否 決され て しまう。 佐野は何とか技術伝習 を実 施し たい と考
え、
博 覧 会 終了後に博 覧 会 参加 者の 中か ら 人 選 して技術伝習の 方 針 を定め、
政府にこれの 許 可 を 求め た。 し か し、
彼 に示 さ れ た 回 答 は即時帰国の訓令であっ た。
これは、
技 術伝習の費用の都合 がつ かなか っ た た めで あっ た。
とこ ろが 博覧会参加 者の 中 か らは、
自費で 滞在し技 術 伝 習 を 受 け よ う と す る 者 が 出て き た た め 佐 野は こ れを 許 可 し、
ワグ ネル に技 術 伝 習の 斡 旋 指導
を依頼 した。 こ の よ う な状 況 を見て、
政 府 も 自費で技 術 伝 習を受けて い る者に 若 干の 者を加 えて、
官費に よ る 技術伝習に切 り替 え、
1873 年より6
カ月の 滞在 延長 を認め たの である。 工業方 面の技術伝習に参加し た の は15 名で、
その 中に は後に デ ザ イ ン教育に貢 献 す る納富 介次 郎や平 山 英三 がい た。 伝 習生 た ち は帰 国 後、
国 内の産業 育成や技 術伝習 に貢 献し た。 デザ イン・
工芸 関係では、
イタリー
で 製糸術 を学ん だ 圓中文 助 は、
東 京山 下 門 博 物 館で製 糸撚糸 及び生糸 検査法の 技 術伝習に 従事したの ち、
四ッ 谷 内藤 新宿 勧業寮 試 験 場構内で応用の技術伝習 に 従事し、
わが 国の 製糸業、
特に撚 糸 業の振興に大 きな 足 跡 を 残 し た。
機織法の伝 習 生で あっ た伊 達 弥 助 (五代)は
、
繻 珍緞 子 を 発 明 し、
西陣機 業の復興 と機 械 化に貢 献し た。
染色法の伝 習 生 中 村喜一
郎は、
西 陣の 染 殿にお け る 技 術 指導、
八 王 子織染 学 校 校 長 と し て 染 色技術 教 育に足跡を残し た。
製 陶 法の伝 習 生であっ た 納 富 介 次郎と河 原 忠次郎 は
、
東京 山 下 門 内博物 館で製 陶 術の技 術 伝 習 に 従事 し、
後に江戸川 製 陶 所を設立 し、
製 陶 教 育を行っ た。 江戸 川製陶 所は、
官の指 導に よっ て は じ め ら れた博 物 館 技 術 伝習が 中止さ れ た こと を遺 憾とし て、
民 間 事業とし て技術 伝 習を続 行し ようとい うもの であった。 納 富 介次 郎は
、
次に 中等工 業 学 校の 設 立 を手 掛 け、
金 沢 区工業学 校、
富山県工 芸学 校、 香 川県工芸 学 校の 創設に関わ りデザ イン・
工 芸 教 育の確立に貢 献し た。
4.
納 富介 次 郎と三 工芸 学 校の創 設 (1
) 金沢 区工業 学 校石 川県は政
府
の政策の も と、 明 治9
年金沢 区 方 勧 業場 を 県営に移し、
同13
年石 川県 勧 業博 物 館を県立 に す る な ど して特産 産業の保護 育 成につ とめ てい た。 納 富は、1882
年 (明 治 15 >石 川県か ら招か れ て、
陶 器、 銅 器、 漆 器の改 善を依嘱 され た。 介次 郎が 来 県 した 頃、
輪 出 産 品 とし て 工芸品が高 く評 価 され る よ うにな り、
わ が国の伝 統 文 化の 見 直し が行われた。
この風潮に助 け られて石 川県で は、
伝 統工芸復興の 萌しが現れ は じめ てい た。 たと え ば、
輪 島漆 器は沈 金・
蒔 絵な どの技 法を発展させ、
山 中漆器は県外さ らに は海 外 市 場にも視野 に 入 れ た製 品 開 発を始めて い た。
当 時の石 川県の同業 者は、
お 互 い に敵 視して 僅 か な 利 益 を多 数で争い 、 さら に製 品も粗 製濫 造と い う 状 況にあっ た。
納富は、
千坂県令に 同業 者団結 の利 益を進 言し、
さ らに その 具 体 的 な 方 法 (組合組 織 )を 県内を 巡 回 して説い てま わっ た。
これ は、
日 本に おける組 合 制の さきが けであ り、
後に農 商 務省 が発 表 し た組 合準則 など は、
これ を 基 礎 と して制定 さ れ た と言わ れ てい る。 1886 年 (明 治 19 年 )、
再び 石 川県の 巡 回指 導 を 依 嘱さ れ た。 こ の時は、
農 商 務 省の絵画 共 進 会の 審査 委 員長とし て、
岩 村 知 事や各郡 区 長 を前 に して、
金 沢の諸工 芸に対する改 善の方針を演説 し、
くわ えて 中 国へ の工芸 品の輪 出 貿 易を提 案した 。 しかしこの 提 案は却下 さ れ た。1887
年 (明 治 20 年 )、
嘱託 任 期が終わっ て石 川県 を去ろ うと したとき、
県当局 は 強 く彼を 引 き留め、
廃 案となっ た中 国へ の貿易の代 償として何か 望みを 入れ たい と申し出た。
納 富は、多年
胸の 内に秘め て い た工 業学 校 創 設の 案を提 言し た。 県 当局は、
この 計画 を 金 沢区会に諮っ た結 果、
小 画 学 校を設 立 する こ と となっ た が 、 納 富はそれに満 足せ ず、
金沢 区議 会には た らきか けて拡 張論を唱えた。 そし て、
設立 さ れ たの が 金 沢区工業学 校であっ た。 当時の フェ ノ ロサ、
岡倉天心ら の伝 統 美術復興の 動 きが あるな かで、
1885 年 (明治 18 年)に は石 川県 勧 業 博 物 館 内に設 けら れ た蓮 池 会と 同好 者の 集 ま り である絵 画考 究 会は、
絵画の革 新 よっ て伝 統工芸を 改 良しよ うとす る 目 的 か ら、
私 立 画学 校を設立 し よ うと計 画 し た が、
資金 を得る こと がで き な かっ た。 こ の 計 画が行 きづ まっ てい る時に、
絵 画 を盛んに し て 石 川県の特 産工芸品の改 良に着 手し ようとい う立 場か ら、
こ れ を助けたの が県 殖 産課に勤 めてい た宮 崎 豊 次である。 宮崎豊 次は1885
年(
明 治 18 年)12 月 に蓮 池 会と絵画考究会に 奨 め、
両 会 会 員の名で金沢 区 長 (現在の 金 沢 市 長に あた る)に対し、 絵 画 復 興 に関する意見書を提 出 して画 学 校 建 設 を 建 議 し てい る。宮 崎 豊 次の努力と両 会 員の熱 心 な 運動で
、
金 沢区 会に画 学校設 立の 意見 が 唱えら れ る よ うになっ た。 こ れ と同じ頃に、
納 富 介 次郎が工業学 校の 創立 を申 し出たの である。 石 川 県は財 政 も苦 し くかつ 工業 教 育に対 する理解 も乏しか っ たの で、
工 業 学 校の 設 立 に は難色を示し てい た。 し か し、
実践 家と して 中 央 政界との 接 点 を持つ 納 富を引き留め る た め に、
や む な く金 沢 区 会にす す めて画 学 校を創立さ せ る こと と し た。 しか し、
画学校 とい う方 向性は、 納 富の意図する もの で はなかっ た、
納富は全力をふ るっ て区 会議 員 の 説 得につ とめ、
新たに創設 する学校 は、
金 沢区を 中心とする石 川 県 産 業 発 展の中 核 と な る もの でなく て はな ら ない と 主 張 し た。
さ らに、
学理研 究を と お し て こ れ を応用 する技 術者を 教 育 す る工業 学 校でな ければ な ら ない こ とを 強 く説い た。
結局、
納富の努 力が 功を奏し、
金沢 区 は 明 治20
年 度 予 算に総額 2,
484 円を計 上 し、
これ を もっ て金 沢区工業 学 校 (現 石 川 県 立 工 業高等
学 校 〉の創 設が決 定し た。 金沢 区工業 学 校は、 1887 年 (明 治 20 )7月、
納富 介 次郎 初 代 校 長の も と、
石 川県 勧 業 博 物 館を 仮校 舎 と して開 校し た。 在 籍生徒は 137 名 (男子80、
女子57
)、
研 究生69 名 (男子32、
女子37
)であっ た。 開 校 式は日 をあらた め て同年10
月26
日 に、
第 四高 等中 学 (旧第四高 等学 校)の 施 設視 察の た め に来県してい た
、
文 部大 臣森 有 礼を 迎 え 成 巽 閣で行わ れ た。
中 等 学校の 開 校式に文 部大臣が 出 席する ことは異 例の こ とで、
納富の幕 末以来の経歴 と 知 己、
中等工業 学 校の創始 とい うとこ ろ に敬 意を表しての 出席と推 測 され る。 開校式 では、
生徒 代 表と して島田 佳 矣 (よ しな り、
後に東 京 高等工業助教 授、
東京 美 術学校 教 授)が祝 辞を読んだ。
金沢 区工業 学 校 規 則によ る と
、
各 種の 工芸に関 す る 学 理の応用法と芸 術を教 授す るこ とを目的とし、 計画 当 初、
学科は専門画 学 部・
美術 工 芸 部・
普通工 芸 部の三部と し、
各部にい くつ かの 小学科 を定め、
入学生徒と授 業上 の都 合を考 慮 して小 学科の 中か ら 適 切 な もの を 設 置する こと が定め ら れてい た。 定め ら れ た 小 学 科 には次の よ うな もの が あっ て、
農 業、
商 業を 除い た、
石 川 県の 産 業全般が考慮 され てい た。専門 画 学 部
本 邦歴史科
・
支 那 歴史科・
古 体 風 俗科・
近体風俗 科・
肖像 科・
写 真 動物 科・
写 真 植 物 科・
写 真 山水 科・
写 意人物 科・
写意 動 物 科・
写 意 山 水 科・
写意 植 物 科・
紋 章 科美 術工芸部
描金科
・
陶 画 科・
金 属 彫刻 科・
木 石 牙 彫刻 科・
蝋粘土 模 型 科・
繍 物 (し ゆうぶつ )科・
染画 科普通工芸 部
色 染 科
・
裁 縫科・
機 織 科・
きゅ う漆 科・
鋳銅 科・
紙 質 製 品 科・
海産 製 造 科・
陶磁 製造 科修業 年限は
一
律とせず、
学 業の 難 易に よっ て半 年 以 上5
年 まで とし、
入学 資 格は 別に規 定 を 設 けず、
年 齢だ け が 定め ら れ てい る。 部 学が25
歳、
分学が30 歳 以 下 と なっ て い て、
幅 広い年 齢の就 学を認め てい る。 お そ ら く技 術 者の 再 教育とい う考えに基づ くもの で あろ う。
この こ とは付 則に示さ れ てい る研究生制度 に もうか がえる。 また、
選抜 試験 を 行い、
授 業 科は 徴 収 す る定め であっ た。実際に実 施さ れ た学 科 組織は 次の と お りであっ た。
専 門 画学部
本 邦 歴 史科
・
写 真動物 科・
写 真 植 物 科・
写真 山水 科・
写意 人物 科美 術工 芸部
陶 画科
・
木石牙 彫刻 科・
蝋粘土模 型 科・
繍 物 (しゅ うぶつ )科・
染 画 科普通工芸部
色 染 科
・
裁 縫 科・
きゅ う漆 科・
鋳 銅 科・
海産製造科・
陶 磁 製 造科以 上の うち
、
計 画 時に普 通工芸 部にあっ た機 織科 は設 けら れな かっ た が、
石 川 県の 産 業の実 情か ら考 えて志 望者や教 師がい な かっ たと は想 像で き ない , も と もと納富は、
生糸・
織 物など は資力さえ あれば 誰で も従 事で きるとの考え を 持っ て いた。 ま た、
明 治 2〔〕年頃に は、
既に工場 制 手工業が 創 始 され運用 さ れてい たの で、
あえて予算の超 過等を して まで学 科 を設置 する必 要な し と、
判断し た の では ない か と考
え ら れる。 また別な観 点と して、
納富はすで に図 案 と製 作 を 分離 する方 向で専門 教 育を考えてい たこ と が あ げ られ る。 こ れ は、
伝習 生 時 代に、
ヨー
ロ ッパ の 工場 組 織を見て 合 理 的な分 業体 制 を 早 くか ら考え てい たこ とに 原因がある の では ない かと思わ れ る。特色 あ る 教 授内容の中で も
、
特に 女 子 部を設け て 女 子の 工 芸 教育に門 戸 を開い たこ とが特 筆される.
納 富は、
すで に江戸 川製陶所時 代 に彩画の技 術を 女 子に教 えてい る が、
工業 学 校で女 子の 技 芸 的 才 能を 認めて指導
したとい うこと は、
女 子 実業教育の ヒに おい て は先覚的 な取 り組みで あっ た。 ま た、
彩画 だ けで な く、
刺繍 部、
西洋 裁 縫 部 (洋服)も併 置した。金沢区工 業学 校は 開 校 した もの の運 営 基盤 が 脆 弱 で
、
明治 20 年 度の 予算は僅か 2,
500 円た ら ずで、
教 員の俸 給を差し引 けば900 円 し か残 らな かっ た。 そ こ で、
納 富 校 長 らは、
校 舎にあてた 勧 業 博 物館 (日 本で最 初の 公 設の博 物 館 )に展示 して ある多 数の陳 列品や所 蔵 品 を利用するな ど して経営につ とめ た。 学 校規 則の付則に示さ れた製品 試 験や図案 考案に対 する手数料、
あるい は注 文 引き受け な ど は、
業 界と 手 を握っ て その改 善を助 成 す る 目 的 をもっ てい た。
納 富は運営 難を察して
、
早い 時 期の 県立 昇格を実 現す るこ とを考え、
森 有 礼文部大 臣を開校式に招 く にあたり、
工業 学 校のす ぐ れた計 画に対して適 切 な 予算
措置 と市立 (金沢 区 )か ら 県立へ の昇 格を図る よ う、
文部大 臣より列 席の 県関 係者に提 案 するこ と を陳 情した。陳情は功を奏して、
大 臣の 意 見によ り、
県は直ちに明 治21 年 (1888)に1,
500
円を地方 税よ り補助 し、
明 治22 年 (1889 )には 県 立 中等 学校に昇 格さ せ、
校名 を 石 川 県工 業学 校と改称し た。 納富の 機 転と見識に よ り 開 校 僅か 2 年で県立 移 管 を 果 た し た のだが、 当 時の石 川 県の世論は学 校を 全 面 的に支 持 してい たわ けで はなかっ た。 県 当 局の態 度も、
創立の 由 来から
考
えら れる ように、
きわ めて冷 淡 な も の であっ た。
事実、
県移管につ い ては既に県 議 会に 反 対 論 が あっ た が、 その後は経 費の か か る 割 合に効 果が少ない とい う理由で廃止 論 や 経費 削 減を唱える 議 員が少なくなく、
予算
議 会で 公然と論 議され る よ っになっ た。 この ような状況の な か、
納 富は第 3回 勧 業 博 覧 会に優秀な 製 品 を 出 品 する ことに よっ て、
世 論 に 訴 え ようと指 導に努め た。
しか し明 治23
年、
納 富 は 脳膜 炎で倒れ、
校 務の遂行に 支 障 を き たす状 況と なっ た。 県は明治 24 年に 内 山 行貫を校 長とし、
納富を教 務長、
教 諭、
さ らに は教 論 嘱 託へ と格下 げ した。 納 富 介 次 郎は、
退 職 し帰 京 するこ と となっ た。(
2
)富 山 県工芸学 校と香川県工 芸学 校の 創設納 富は 1894 年 (明 治
27
)10
月、
以前より政 策の 上 で肝 胆相照ら し てい た富 山 県 知事 徳 久恒 範から中等 工業学 校の創 設を託され、
富 山 県で 再 び 校長とし て 工芸 学 校の創設に関わ る こ となっ た,,
現 在の富 山 県 立高 岡工芸 高 等 学 校である。教 育 組 織は
、
本 科、
速 成 科、
選 科に分け、 本 科は 修 業年限4
力年とし木 材 彫 刻、
金 属 彫刻、
鋳 銅、
きゅ う漆の4
科 を お き、
凍 成 科 と選 科は修業 年限3
力年 とし た。 そ して、
同 年 ll 月に は高岡市の 桜 馬 場にあ る高 岡 商 品陳 列 所を仮 校 舎に授 業を 開始し た。 教 育 方 針は、
「常識の発 達 と実 力の 養成」とい うもの で、
シ カゴ万 国博 覧 会や その 後の海外での 失敗と経 験を 生 か し て、
日本 固 有の独 創 的 な 工芸 美 術を輪 出し て 日本の文化 を海外に 広 め な け れ ばい け ない とい う主 旨のも とに、
科 学 技 術を応 用 し た独 特な工芸 を創 作 する こと を 目的と した。
富 山 県に おける 工 芸学 校 以 外の納富の活 動に は
、
物 産を改 善して輪出 品としても通用 するもの にする とい う計画があっ た。 図 案 を与えて模 様の錬 磨 を図 ると と もに、
彫 刻や素 材、
塗 料、
色彩な どにつ い て 科 学 的 な検 討 を加 えようとす る もの であっ た。1896 年
(
明 治29 年
)に徳 久恒 範は、
富 山県知 事か ら香川 県 知事
へ と着任 し た が 、彼は石 川 県工業 学 校、
富 山県工芸 学 校の 創 設にも関わ っ た 人 物で、
納 富と 旧 知の 間 柄であった。 実 業補 修 校 規定制定 (明 治 26 年)
、
実 業 教 育 国 庫 補 助 法 制 定 (明治27 年)
を機に、
全国 的に工業 学 校設置の動 きが 活 発 化 するな かで、
香川県に おい て も工芸学 校 設 立に向けて の動 きが起 こ っ てい た。 そ して、
1898 年 (明 治31
年 )2月に 工 芸 学 校 設立が認 可 され、
高 松 市八番町の仮 校 舎に お ける開校が 決 定 し た。
同 3 月 15日付 納 富 介次 郎は、
徳 久 知 事か らの 誘い を再び受 けて、
香J
[[県 工 芸 学校の 初 代 校 長に就任 し た。納 富 は
、
日清 戦 争後の新しい 時代の情 勢の な かで、
これ までの もの とは違っ た機 構の も とに学則 を設定 し た。 残 念な が ら香川県工 芸学 校 (現 香川県 立 高松 工芸 高 等学 校)
は二度の火災に会い、
学 校の歴 史 を 記 す 資料が消 失してい るため、
詳 しい教育内 容 を 知 る こ と は困 難で あるが、
数 少ない資科の な か か ら特 徴 的な もの を あ げると、
まず、
手工芸の各
科に機 械 力 を 応 用 して新 時 代に沿 うよう、
「納富 式」とい われ る教 授 施 設 を具 体 化し たことが あげ ら れる。 教 育 内 容は、
創立当 時の 学 則を抜 粋すると 次の通 りで ある。
第
一
条本 校 は実 業につ かんと欲 する者に 工芸 上必 修 な る 知 識 と技 術を授 くるを 以て 日的とす る
。
第二条
教 科 を分か ちて本 科及速修 科とす 本 科は織工長た るべ き者を養成 し速修 科は 白立の織 工 を養成する (以下 略)
第三条
実 科の科 目は木工部 金 工部の 二 部に分 ち 更に木工部を木 材彫刻科
、
漆 器 科、
用 器木工科と し 金工部 を 金属彫 刻 科、
鋳 造 科、
用 器 金工科とす1900
年 (明 治 33 )に は学 則を改正 し、
木工、
金工、
漆 工の3
部に分け、
木工部を彫 刻、
用 器 木工の2
科に、
金 工部を 金属彫 刻、
用器金ユ の 2 科に、
漆 工部を描 金、
用器 漆工の 2 科と した。こ こ で
、
納 富が 木工、
金工、
漆工の それぞれ に、
特 に 「用 器」とい う言葉を使っ た学 科があるが、
この 用語の 説 明と して明 治 31 年 2月20 日付 『香 川新報 』 に は、
「而 して茲に用 器 木工と 云うは本邦現 時の工業 界は器 械の力を借らず専ら手先 を以て為す と諸種の 事 業 発達 し労 銀 騰 貴 する時は自然器 械の 力 を借らざ る可か らざる に至る は勿論の事
な れ ば器 械を使 用し’
諸 種の製作 を為すこと を教 授 するを名付 けて用 器木 工 と 云うな り」と あ り、 機 械生産の方法を 学 習の な か に取 り 入れ るこ とを示 唆してい る。当 時
、
美術 工 芸 は ま だ ま だ特 権階 級の 占有 物で あり