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多田道太郎における非・反アカデミズムの視座

根 津 朝 彦

多田道太郎は,1970 年代に『しぐさの日本文化』,『遊びと日本人』,『風俗学』を発 表する。これまでの多田評価は,この 70 年代以降の発想を重視する軽妙なエッセーを 展開した多田像に引っ張られる傾向があった。 そこで本稿では,重点的に検討されることのなかった 1950 年代の多田の仕事のもつ 意味に注目し,50 年代に多田が対峙したアカデミズムへの緊張関係を捉え直すことで, 多田に有する「非・反アカデミズムの視座」の特徴と変容を明らかにする。 多田にとって「非・反アカデミズムの視座」を培ったのは京都大学人文科学研究所 と『思想の科学』であり,桑原武夫と鶴見俊輔との出会いであった。この交わりの過 程で,多田が目指したものは,研究者と実作者を橋渡しするような学問であった。 その際,多田が重んじた学問観は,演繹や帰納とは異なるアブダクション(仮説形 成・発想)である。しかし,1960 年の安保闘争期以降,このアブダクションの重視を 加速化させ,アカデミズムへの志向はかげりを見せ,発想を研究の形でまとめるので はなく,レトリックを用いたエッセーで表現することで,50 年代に多田が有していた 現実社会との関係性を切り開くような学問の模索を断ちきってしまった。 多田の「非・反アカデミズムの視座」を分析する本稿は,学問・研究の意義・役割を 再審する視界を開き,同時にアカデミズムの在り方を強く問うた「戦後京都学派」の 共時性を明らかにすることにつながるものである。

は じ め に

社会学者の井上俊は,多田道太郎(1924 ∼ 2007 年)には「反アカデミズムの気分」, もっと強くいえば「反アカデミズムの「意地」のようなもの」が感じられたという(5 巻 月報〔井上俊〕)1)。これは多田の思想の本質を示唆する指摘である。同時にこのアカデ ミズムへの姿勢は多田が体系的な学問・思想を構築していないことにも要因がある。 実際,例えば熊倉功夫は多田の『しぐさの日本文化』を書評した折に参照した他の書評 で「問題のとりあげ方が,主観的,ランダム,没価値的」との指摘があることを紹介し ている2)。また,多田の『遊びと日本人』を書評する竹内実は「これは,結論のない文章

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のじつにみごとな展開である」と記した3)。熊倉と竹内の書評の中身は多田の著作に好意 的なのだが,これらは多田の位置づけを困難にする要素を言い得ている4)。つまりその評 価に存する両義性が多田の急所であり,筆者はその特徴を多田の「非・反アカデミズム の視座」にあると定め,彼がいかなる過程でそうした姿勢を培ってきたのかを分析する。 筆者も,井上がいうように多田にはアカデミズムへの対抗意識があったと考える。しか し,多田の仕事を子細に検討すれば,多田は最初から反アカデミズムの旗幟を鮮明にして いたわけではなく,むしろ 1950 年代にはアカデミズムへの傾斜があったことに注目すべ きである。先に引いた井上・熊倉・竹内の言辞は,いずれも代表的な著作を生みだした 1970 年代以降の多田の仕事に基づいて評価がなされていると思われ,1950 年代の若かり し頃の多田がアカデミズムとの緊張関係で模索しようとした意味を十分に考慮している とは言い難い。そこで本研究では,まず 1 節で主に 50 年代前半の多田の思想形成の歩み を位置づけ,2 節では 50 年代に発表された多田の著作を検討した上で,彼の「非・反ア カデミズムの視座」の実態と特徴を明らかにする。 これまで多田道太郎に関する本格的な先行研究は筆者が行ったものしか存在しない5) しかし筆者の研究では,多田の学生時代までの思想形成を分析するだけにとどまり,彼の 思想自体の研究にまで及ばなかった。「戦後京都学派」6)といえるような桑原武夫を中心 とする京都大学人文科学研究所(以下,京大人文研と略記)の知識人たちの研究も僅少 である7)。特に多田は戦後初期から在籍した京大人文研の所員の中で最も長期間,研究所 にいたメンバーであり(後掲の表 1 を参照),それゆえに「戦後京都学派」の実相を研究 する上で重要な人物の一人である。そして多田を始めとするかれらのユニークさは,「民 間学」8)的な姿勢をもつ研究者が大学という制度内に居場所を射とめたことにも求められ る。 本稿でアカデミズムという言葉を用いるのは,井上俊が多田を評した先の言及に端を 発するものであるが,一般的に大学・学界を基盤とした学問・研究の営為とほぼ同義に使 用する。具体的には,学術研究論文で展開されるところの明確な問いと目的の設定,先 行研究の批判的検討,先行研究に貢献する論証・実証という一連のスタイルを重視する 気風総体を指すものとする9)。ゆえにアカデミズムに対して「非・反」と形容する場合に は,学問の形式・型を含めた従来の学問・研究への距離感の意識が問題となる10)。「非・ 反」それぞれを明確に区分することはできまいが,非アカデミズムはアカデミズムの作法 から自由であろうとし,反アカデミズムは既存のアカデミズムへの対抗が強く意識され, いずれもアカデミズムの枠組みを揺さぶり崩そうとする問題意識を本稿では「非・反ア

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カデミズムの視座」と呼称することにする。

1 戦後の歩み

多田が研究者の足取りの地歩を固める上で,決定的な影響を与えたのは京大人文研と いう場である。そこで桑原武夫と鶴見俊輔に出会ったことにより,桑原が主導する共同 研究に加わり,鶴見が中心となった『思想の科学』に携わることとなった。事実,多田 は自己を教育したのはアカデミズム,フランス文学,思想の科学研究会の 3 つであると いっている(3 巻 438)。本節では多田が京大人文研に関わり,講談社版の『思想の科学』 が終刊する 1950 年代前半までの多田の歩みを中心とし,彼の戦後の軌跡を追う。 1.1 京大人文研での出会い 1948 年 11 月に桑原武夫と鶴見俊輔が京大人文研に赴任した。桑原は西洋部の教授に着 任し,桑原の意向によって鶴見が採用された(鶴見は翌 49 年 4 月に助教授となる)11)。48 年秋頃に,当時京大の学部生であった多田は桑原に面会している。多田は学生時代に桑原 の翻訳したアランの『散文論』を愛読したことで,桑原のイメージを形成していた。多田 が桑原に面会した折に議論が始まる。桑原が内藤湖南や西田幾多郎を例に挙げ学者の優越 を説くのに対して,文学青年であった多田は夏目漱石や野間宏を挙げて文学者の方が優れ ていると反論し,人物試問に敗れたような感覚を抱いて初めての訪問を終えた12) 多田は,49 年 3 月に京大文学部仏文科を卒業して13),49 年 4 月に京大の大学院に進学 する14)。学部時代にフランス文学を学んだ生島遼一から,多田に三高への就職口の話も あったようだが,頓挫して三高(49 年に新制京都大学に組み入れられ,50 年に廃止)に は生田耕作の方が就職した15)。他方,京大人文研では桑原を中心に 49 年 4 月からルソー 研究の共同研究が開始されることになり,大学院生の参加が企図され16),研究生の選抜 が行われた。その英語の選抜試験に立ち会ったのが鶴見俊輔であった。多田と鶴見の出 会いはこの時に始まる。 鶴見は英語の試験では受験生にルソーの文献の任意の頁を開き,訳させることにした。 これに対して流暢な訳で応答したのが多田であった。アメリカでの生活が長かった鶴見 は,当時は日本語にこなれておらず,多田の訳の出来ばえがよかったので声をかけたとこ ろ,「ええ,アメリカの文学なんか読んでますから」という返答であった17)。試験後,鶴 見は一人優秀な受験生がいたと上司の桑原に報告したところ,桑原はそれは多田のこと

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だろうと指摘した。その頃には,多田は桑原のフランス文学の講義を聴講していたよう だ18)。こうして多田は大学院生のまま,京大人文研の共同研究に参加する研究生に採用 されることになった。 多田が京大人文研に研究生で入所した 1949 年は,彼にとってフランス文学者として業 績を発表し始める年にもなる。『世界文学』49 年 3 月号と同年 4 月号にサルトル『唯物論 と革命』の前半を翻訳,同誌同年 7 月号にエドモン・アブー『伯父と甥』の翻訳を発表 し,同年 10 月には友人の黒田憲治と『死の都ブリュージュ』(思索社)を共訳した。『世 界文学』の方は三高時代の恩師である伊吹武彦が仕事をまわし,『死の都ブリュージュ』 は生島遼一の口添えによる19) 49 年 12 月には働きが認められ助手となり,50 年はルソー研究に没頭する年であったと 思われる20)。50 年 5 月に刊行された桑原武夫のベストセラーとなる『文学入門』(岩波新 書)では,多田は索引の手伝いをし,同年の夏と思われるが,その報奨として桑原がよ く行く温泉地の発哺に同行した21)。この『文学入門』を多田は大衆文学・大衆文化研究 の糸口というように22),この 50 年代初期は桑原武夫と鶴見俊輔を中心とするネットワー クにおいて大衆文学・大衆文化研究が志向されていた。 それは 51 年 6 月に結実する『ルソー研究』を始めとする京大人文研の共同研究班を軸 とする多層な知的相互作用によるところが大きい(表 1 を参照)。その端緒として大衆文 化研究グループと大衆文化研究会が挙げられる。両者はメンバーの大半が重なっている が,大衆文化研究グループは桑原によれば 49 年に桑原,梅棹忠夫,鶴見俊輔,樋口謹一,多 田道太郎,藤岡喜愛のメンバーで結成された。 50 年の可能性もありえるが,このグループは 吉川英治『宮本武蔵』の共同研究を行い,『思 想』51 年 8 月号に成果が発表されたのを皮切 りにして,『『宮本武蔵』と日本人』の刊行に つながっていく23)。一方,後者の大衆文化研 究会はより小規模な私的集いで,50 年の秋に 桑原研究室で桑原,鶴見,多田,樋口の 4 人 で同様な関心のもとに討議を行ったものと思 われる24) 表 1 桑原武夫関係の京大人文研所員リスト 河野健二 1947.5 ∼ 1960.2,1968.4 ∼ 1980.4 桑原武夫 1948.11 ∼ 1968.3 鶴見俊輔 1948.11 ∼ 1953.12 今西錦司 1949.6 ∼ 1965.3 樋口謹一 1949.10 ∼ 1955.6,1961.4 ∼ 1988.3 多田道太郎 1949.12 ∼ 1988.3 牧康夫 1951.10 ∼ 1966.12 藤岡喜愛 1951.11 ∼ 1972.3 加藤秀俊 1953.9 ∼ 1968.1 松尾尊兊 1953.10 ∼ 1970.12 山田稔 1954.1 ∼ 1964.12 井上清 1954.1 ∼ 1977.4 飯沼二郎 1954.2 ∼ 1981.4 上山春平 1954.4 ∼ 1984.3 飛鳥井雅道 1958.4 ∼ 1998.3 梅棹忠夫 1965.8 ∼ 1973.4 出典:『人文科学研究所五十年』(京都大学人文科学 研究所,1979 年),『人文科学研究所のフロンティア  京都大学人文科学研究所要覧』(京都大学人文科学研 究所,2004 年)より作成。

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他にも共同研究班の親密な関係をよく表わすものとしては,50 年に始まった忘年会で の予想遊びがある25)。政治・時事的な情勢を予想し,1 年後にその結果を歓談しながら確 認しあう遊びで,多田が助手に採用されてから 1 年後には彼が自由な学際的雰囲気を十分 に享受していたことが理解される。51 年には,多田,鶴見,樋口の 3 人によって日本映 画を見る会が生まれ,翌 52 年にはルソー研究のメンバーも参加し,松尾尊兊がいうよう に,『思想の科学』の関係者が多数を占める会となった26)。51 年から 54 年にかけては鶴 見,上山春平,大淵和夫,多田,樋口,牧康夫,森忠三,吉川俊夫などのうち 3 ∼ 4 人が 集まって記号の会という読書会が続けられた27)。さらにこれはもう少し時期的に後の話 であろうが,多田は山田稔,加藤秀俊と 3 人で助手の大部屋を共有していたことがあり, かれらは談笑に耽ることが多く,相互に問題意識や発想を交わしたことは疑いえない28) こうした様々な会による耳学問によって多田の関心は,もはやフランス文学研究のみに とどまることはなく,大衆文化の関心へと広がっていく。その導き手となるのが鶴見俊 輔であった。 1.2 『思想の科学』への関与とそれ以後 実際に,多田はサルトルを翻訳したようにフランス文学一筋でいけば違った道もあり えたかもしれないが,大衆文化を重視する方向に変化したのは鶴見俊輔との出会いが「転 換の機縁」だったと述べている29)。その際,注目すべきなのは,鶴見と多田のアカデミ ズムへの姿勢である。前述した桑原研究室で大衆文化研究会を行っていた時,鶴見は「学 問に対してまだ絶望していなかった。自分の能力についても過信し,いまだかつてなかっ たものが書けると思った。漫才を使った記号論を博士論文にしようと思った」と回想し ている30)。その鶴見とつきあう中で,多田も学問的な上昇志向を抱いており,「鶴見さん に会った思想の科学研究会ではだいたいせり上げだったと思います。ずーっと頑張って せり上げていく。いちばん高い人に何とか合わせようと」していたと振り返っている(3 巻 439)31) このような中で,第 2 次『思想の科学』である建民社版の『芽』32)(1953 年 1 月号∼ 1954 年 5 月号)と,講談社版の第 3 次『思想の科学』(1954 年 5 月号∼ 1955 年 4 月号)の 編集に多田も携わっていく。大衆文化への取り組みでは,すでに思想の科学研究会〔編〕 『夢とおもかげ』(中央公論社,1950 年)があり,1954 年には鶴見俊輔が『大衆芸術』(河 出新書)を刊行する系譜の中に,この『思想の科学』の潮流が存在した。 『芽』は,京大の鶴見の研究室で,彼と多田がプランを考え,東京の関根弘と分業で編

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集に取り組んだ33)。そして『芽』53 年 3 月号に多田が苦心して書いたのが「やくざ小説 論―国定忠治の生き方―」である。この頃,京都では庶民列伝の会があり,鶴見,多田, 富士正晴,梅棹忠夫,永井道雄,西村和義らが集っていた34),その会合の成果と推測さ れるが,多田は『中央公論』53 年 9 月号(刊行は 8 月)に「部落出身者 砂原宗四郎の 生活と思想 庶民列伝第二回」を発表している。この文章に対する富士正晴の賛辞と思 われるが,多田が富士に書いたお礼の葉書には「分析的伝記とやらいう怪しげなものを ほめていたゞき恐縮です。ぼくのかいたもの,今までおもしろいといってくれたひと一 人もなく,富士さんが最初のひとです」と記されている35) 財政難で『芽』が休刊して,『思想の科学』は講談社版に移る。第 3 次『思想の科学』 54 年 5 月号の創刊号に多田が提案して,掲載されたのがマンガ哲学史の付録である(2 巻 月報〔鶴見俊輔〕)。これは当時は不評であったようだが,意欲的な取り組みであった。こ の 54 年 5 月号から同年 10 月号までは多田が中心となって編集したものである36)。講談 社版が休刊する 55 年 4 月号の編集後記に多田は読者よりも編集委員の方が得をしたので はないかと述べている。 しかし,この途上,鶴見俊輔は 53 年 12 月に京大人文研を辞職し,54 年 12 月37)に東 京工業大学の助教授に転じて京都を離れてしまう。次いで講談社版の『思想の科学』が終 了することで,鶴見との交際は続くとはいえ,毎日京大人文研で鶴見と会えるような環 境が断たれる。これは同時に,58 年に始動する日本小説を読む会などの伏線にもなる。 この頃は,多田の私生活にも大きな変化が訪れた。1956 年に多田(旧姓見神)知恵子 と結婚し,翌 57 年には一人娘である多田謠子が生まれる38)。57 年 10 月には京大人文研 の講師に昇進した。京大人文研の助手は本来内部昇進は認められず,他に就職先を見つけ なければならないことになっていたが39),多田はその内規を破るケースでもあった。い ずれにせよ講師に昇任したことで身分的に多田が安定を得たことも事実である。 遅くとも 59 年には京都を離れ,当時の新興団地である香里団地に引っ越し,やがて同 じ団地に住む大淵和夫らと香里ヶ丘文化会議を結成する(2 巻 139,6 巻 355)40)。こうし た生活環境の変化や 60 年安保闘争を境にして多田に思想的にも大きな転機があったもの と思われるが,それは後述する。62 年に初の単著『複製芸術論』を出版し,65 年 8 月に は助教授に就任した。多田は 67 年頃に「不安神経症」にかかっている41)。67 年には初め て多田は海外に出かけ,フランスを初訪問し,ブルターニュ地方の調査を行う。帰国後 の同年 10 月に宇治に転居した42) 初の単著から 9 年を経て,1971 年に次の単著『管理社会の影』を出版する。単著に関

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してこの 70 年代は,72 年『しぐさの日本文化』,74 年『遊びと日本人』,78 年『物くさ 太郎の空想力』『風俗学』など多田が最も多産で代表作を残した時期である。76 年 6 月に は教授に昇進し,同年 9 月には桑原や鶴見と現代風俗研究会を立ち上げた。京大人文研 は 1988 年 3 月に停年退職し,以降,明治学院大学,武庫川女子大学,神戸山手女子短期 大学・神戸山手大学に勤め,2007 年 12 月 2 日の 83 歳となる誕生日に多田はその生涯の 幕を閉じた(墓地は大阪市中央区の禅林寺)。

2 非・反アカデミズムの視座

本節では,多田道太郎の 1950 年代の著作を通して彼の「非・反アカデミズムの視座」 の形成過程を分析し,そこに見出される特徴を明らかにする。 2.1 視座の形成 多田に「反アカデミズムの意地」があるとの井上俊の評を手がかりとしつつ,多田が 研究者として歩み始める 1950 年代は反アカデミズムの立場を強く打ち出していたわけで ないことを前述した。事実,多田は敗戦後から 1960 年頃までには自身に「深い分裂」が あったことを認めている。それは多田が文学と学問との間に横たわる溝に対峙していた 時期であった。多田がこの亀裂に葛藤していたのは,桑原との初対面の叙述で言及したよ うに多田が「文芸派,文学青年」であったからである。多田自らいうように一方では感 性的なものを重視する文学青年の側面があり,他方では桑原,鶴見,『思想の科学』に認 められるプラグマティックで科学的な新学問を重んじる面が同居していた43)。30 歳台には 「グランド・セオリーを作ろうという野心」ないし 「気分」 があったと書いているのは44) 何より若き研究者として出発した多田のアカデミズムへの強い思いを示している45) その多田のアカデミズムに対する初発の考え方がうかがわれるものに 51 年に発表した 「実証的批評のために」がある。これは小林秀雄の「芸術的批評」に存する「神話的思考」 の政治性を批判したもので,批評は精密科学にはなりえなくても,「経験主義的で統一科 学の理論に基づこうとする」意味で「実証的批評」の必要性を掲げた論考である。多田 はアメリカのニュークリティシズムに依拠しながら,「芸術が,人間の他のすべての価値 ある行動,そして文化の中で,適切な位置を占めるよう助言する,これは科学の謙虚な つとめである」と書くように,アカデミズムへの志向の強さを明示している46) ただし多田が述べる「実証的批評」とは「その意味論的分析により,「美」の古典的概

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念を破壊し,かくてアヴァン・ギャルド芸術の強力な後援者たりうる」ものをイメージし ていることも見落とせない47)。ここには何のための科学であるのか,多田の学問観の重 心が表出しているからだ。50 年代の多田の学問観には,70 年代以降のしぐさ・遊び・風 俗論にはない現実社会への緊張感が存在していたのである。54 年の「芸術論」では,実 践への関与が少ない学者と,主観的実感に頼り理論を軽視する実作者の橋渡しを芸術論 の課題に掲げている(1 巻 107)。多田の学問観は,野間宏のような優れた実作者に助言 となるような美学・芸術理論を提起することが日本の学者の務めであると 55 年に述べて いることからも明らかである48) そこには政治と芸術の問題の探求を含んでいた。56 年の「フランス革命下のコミュニ ケイション」ではフランス革命期に芝居小屋が果たした民衆サロンのような「芸術と政 治とが一つにとけあうルツボ」と,執筆当時の日本のサークル運動とに類似性を見出し, 「メーデー事件や京大天皇事件の演劇化は,フランス革命劇の二〇世紀日本版だし,三色 リボンをつけて足をふみならし,踊り歌う男女サン・キュロットの姿,それはわたした ちの「歌とおどり」の集会を連想させる」と記している49)。京大人文研の共同研究で初 めて多田が執筆した「ルソー・プロパガンディスト」から,「祭典の意義」に至るまで人 間のコミュニケーションに精神の解放を求める姿勢が 50 年代の多田には一貫していたの である50)。例えば 58 年の『放送朝日』に書いた「漫才の思想」でも以下のように述べて いる(3 巻 176)。  漫才師は,舞台上で恥のかずかずを重ねる。そのことによって,恥の文化の呪縛 を破ってくれるのである。とりわけ,身分的な体面,タテマエにとらわれぬ自由な 人間関係,またそうした人間同士のコミュニケイションの手本を示してくれる。 それと同時に,多田には,せり上がりの欲望と,せり下がりとの相克が芽生えていた。 鶴見俊輔から『思想の科学』に何か書くようにと依頼を受け,学問的な上昇志向と下降志 向の板挟みの中で苦闘して 53 年に生み出したのが前述した「やくざ小説論」である。や くざ小説に庶民の理想像を探ると同時に,国定忠治の基底にあるニヒリズムの人生観を 庶民の抱えもつ暗流に接続して論じたものである。上記した 58 年の「漫才の思想」も多 田はせり上がりとせり下がりとのせめぎ合いによるものであると述べている(3 巻 439)。 多田が『群像』に書いた 56 年の「マンガの思想性」も同じ系譜にあるものといえる。 かくなる対象への鋭敏な着眼は多田がすでに 52 年 12 月『毎日新聞』に発表した「パ

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チンコ未だ衰えず」に認められる。そこで多田は自ら好んだパチンコに対して「むしろ 日本の社会的緊張が社会的ヒステリー(ファシズム)に転化するのを」防ぐ防御機構の 意義を読み込んでいるからである(5 巻 275。4 巻 33 も参照)。53 年に京大人文研に採用 された加藤秀俊も,仕事帰りによく多田や樋口とパチンコに同行し,次のように回顧し ている51)  このパチンコで,わたしは京都文化というものに開眼したような気がする。それ までわたしの生活していた東京では,およそパチンコなどというものは「庶民」の する,おろかな娯楽であり,知識人というものは,そんなものに手をふれるべきで ない,そんなムダな時間があるなら,本でも読むべきである,といったスノビズム が支配的であった。 学問的な上昇志向だけを求めぬ多田の意志は,先に触れた「実証的批評のために」の執 筆過程において発露している。多田は「大まじめ」で書いたこの文章の後半で「パッとふ ざけ」て一気に論旨を変えて原稿を提出した。しかし,この部分だけ編集者にカットされ た無念を,後年に回想している(4 巻 383)。58 年に発表した「複製芸術について」も最 後の 4 章から「急にわからなくなる」と当時評されたようで,多田は自らの主張を飛躍・ 変転させる部分にこそ学問と芸術の融解を見出している(2 巻 388)。 その際に多田が学問方法で重視したのは,アブダクション(仮説形成・発想・思いつ き)である。これはアメリカのプラグマティストであるパースが,学問にはアブダクショ ン,ディダクション(演繹),インダクション(帰納)の 3 つの段階が求められると主張 したことに由来する。多田はこのパースの説を 1950 年代,上山春平によって教えられて 強い影響を受けた52)。思いつきの段階だけでも豊かにしなければと多田は若い頃に思い つめ,後年「「思いつき学派」のはしくれ」に数えられるようになったと回顧している。 これも後の回想であるが,多田がアブダクションを重んじたのは,発想で学問の形が変 わりうると考えたからである(3 巻 308,5 巻 181 ∼ 182,365,371)。 ただし,この上山からの影響を位置づけるには,多田が早くから象徴主義の詩に接し てきたことを考えなければならない53)。多田は 51 年に刊行された『人間科学の事典』で 「文芸」と「詩」を担当しており,「詩」の項目で多田は詩とは「「暗示」の過程において, 狭い意味での言語とは違つた特殊の記号体系が明らかにされる」ものとし,「「イメージ の飛躍」に天才的なひらめきをみせる幾人かの詩人がいる」と書くように,学問の道を

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歩む当初から多田にはアブダクションと結びつく「暗示」や「イメージの飛躍」を強く 自覚していたことがわかる54) とりわけ「非・反アカデミズムの視座」の萌芽を探るには多田の「象徴主義」の項目 が示唆的である。そこでフランスの象徴主義はボードレールの『悪の花』に始まると述 べた上で,象徴主義とは「散文にたいする詩の反抗」であると多田が指摘しているから である55)。ここで多田が文学と科学の間で揺さぶられた葛藤を思い返せば,文学・文芸> 科学・学問,その中でも詩・散文詩>散文という構図が浮かび上がる。それぞれ前者に ある多田の軸足が,「非・反アカデミズムの視座」の源泉になったのではないかと考えら れる。 そして本稿で用いている「非・反アカデミズムの視座」という語句に見られる「非・ 反」の表現は,後でも触れるが,少なくとも 50 年代に多田自身によって使われている。 具体的には,54 年の「芸術論」において「非古典主義としたのは,古典主義を全面的に 否定しているというのではなく,その影響はうけながらも,これに盲従せず,あるいは批 判的である,という意味」で「非」が使われ(1 巻 61),55 年の「娯楽の形式」では「戦 後のパチンコは,マージャンと比較にならないほど非(あるいは反)家族主義的である」 という文章の中で「非・反」が用いられている(5 巻 276)56)。特に前者は,古典主義を アカデミズムに置き換えれば,多田の「非・反アカデミズムの視座」そのものの説明と して通用するものなのである。 無論,以上に見られる多田の 1950 年代におけるアカデミズムとの緊張関係は,多田の 文学青年的気質のみによって説明されるべきではない。それは京大人文研の桑原武夫の 共同研究班が抱いた学問観の文脈があるからである。一言でいえば,清水徹が認めるよう にかれらにあったアメリカ社会学への意識である57)。大浦康介は,桑原には早い時期か ら文学をコミュニケーションの一種と把握する社会学的アプローチを行い,ドイツ観念 論美学による美学的アプローチに対置していると述べている58)。その桑原たちの方向性 は,鶴見俊輔・多田道太郎・樋口謹一の共著論文「ルソーのコミュニケイション論」に も代表され,内川芳美が同論文をコミュニケーション史の必要性と対象領域をいち早く 提示したものと評したことからも明らかである59)(表 2 も参照)。

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表 2 桑原武夫の共同研究著作と多田道太郎の分担 共同研究著作名 (編者は全て桑原武夫) 参加者 多田道太郎の分担著作 1 『ルソー研究』 (岩波書店,1951 年 6 月,第 2 版は 1968 年 12 月) 12 名 多田・樋口謹一・鶴見俊輔「ルソー・プロパガンディ スト」,鶴見・多田・樋口「ルソーのコミュニケイショ ン論」,樋口・鶴見・多田「人間ルソー」,「ルソー全 著作要約」一部執筆 2 『フランス百科全書の研究』 (岩波書店,1954 年 6 月) 25 名 桑原武夫・鶴見・多田「芸術論」 3 『フランス革命の研究』(岩波書店,1959 年 12 月)18 名 多田・山田稔「フランス革命下のコミュニケイショ ン」,多田・山田「祭典の意義」 4 『ブルジョワ革命の比較研究』 (筑摩書房,1964 年 12 月) 28 名 多田の執筆なし 5 『中江兆民の研究』(岩波書店,1966 年 2 月) 8 名 多田不参加 6 『文学理論の研究』(岩波書店,1967 年 12 月) 19 名 作田啓一・多田「羞恥と芸術」 7 『ルソー論集』(岩波書店,1970 年 8 月) 13 名 多田「『孤独な散歩者の夢想』について」 注:『桑原武夫集 7』(岩波書店,1980 年)383 頁も参照。 実際に,多田も 20 代から 40 代は「社会学の周辺」をうろついたと述べており60),1950 年代半ば頃に京大人文研の共同研究に参加した山田稔もコミュニケーション論を取り入 れたという61)。その成果は,「フランス革命下のコミュニケイション」や「祭典の意義」 に散見され,多田が 58 年に発表した「複製芸術について」では「芸術の歴史を,主とし てメディアの歴史として」扱うことが書かれ,「コミュニケイション史」とメディア論へ の明確な意識を認めることができる(2 巻 5 ∼ 6)。こうした背景の中で培われてきた多 田の仕事は,社会学者からも一定の評価を受けていることが確認される。例えば,佐藤 健二は,多田の『複製芸術論』を「現代文化研究の基礎にかかわる先駆的な著作」であ ると位置づけ62),さらに松島浄は,多田が 1971 年に共訳したカイヨワ『遊びと人間』の 与えた影響の大きさを指摘し,遊びを始め研究対象の拡大という側面で 1970 年代以降の 若い社会学者に目を開かせた功績を指摘している63) 2.2 学問観の特徴   次いで多田の学問観の特徴を掘り下げるために,まず多田のマクルーハンに対する評 価を引くことにする64)。それが多田自らの学問観の輪郭を語っているように読みとれる からだ。  マクルーハンはカナダの大宅壮一である。論理の人ではなく,発想の人である。思 いつき,といってもいい。独創のひらめきのない学者たちは「思いつき」といっただ けで,その説の下らなさを証明したつもりになっているが,思いつきのない説ほど,

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ひとをうんざりさせるものはない。  マクルーハンも大宅壮一も,体系的な学者ではない。マクルーハンの説を理論とい うのはおかしい。……マクルーハンの説はひとつの方向である。正確にいえば,研 究方向である。彼の説には体系はない。正確にいえば,体系性にとぼしい。  ……彼らがもっとも養分を汲んでいるのは文学である。……こうしたことが彼ら の発想の自由さを保証している。 ここから文学を梃子とした発想の自由を通して研究の新たな方向性を開拓する一方,体 系性に欠く多田の姿勢を重ね合わせることができよう。 以下,多田の主要な学問観の特徴を 5 つに整理していく。第 1 に,発想の重視と詩の 原点。第 2 に,60 年安保期の転機。第 3 に,民俗学を方法の一助とした。第 4 に,社会 学への対抗心とレトリック。第 5 に,体系性の欠如と継承の困難さである。 多田が発想を力点としたことは先述の通りであるが,彼が,学問知識には「「真の」解 答」はなく問題を問う問いかけに意味があるというのは(3 巻 25),発想を重んじる姿勢 を何よりも物語っている。「アナロジーは知識に生命をあたえる」という多田の表現はそ れを応用した言い換えといえ(3 巻 252),「観念の俳諧師」を自称した所以である(2 巻 220)。この多田の資質を育んだのは,青年時代から彼が中原中也やボードレールらの詩 に傾倒してきたからである。「多義性は詩や和歌の発想の源泉」と多田が述べるごとく(6 巻 173,230),詩への接触が多義性を読み解く力を形成したに違いない。山田稔も多田に 対して「独自の発想のひらめき,語感のするどさ,表現のたくみさ,これらは彼の資質 が詩人であることを早くから示していた」と指摘している65) ただ,多田の学問観にとって大きな転機と目せるのは,61 年に発表した「文学者流の考 え方」という広津和郎論であった。多田は,広津の姿勢に仮託して「拙いところがいいん だ」という主張を込める。加藤典洋もこの文章が,「下らない」ものに価値を見出す『遊 びと日本人』といった多田の作品の初期形態であると述べている(6 巻 381)。この「文 学者流の考え方」で注目されるのは多田が広津を評した次の文章である(6 巻 281)。 芸術に安住するにはあまりに敏感な耳をもっていた。その耳は,芸術的表現に不都合 な現実をも,とらえてしまうのである。かれは美のかたちをもとめるまえに,雑音 に耳をかし,雑音にとらわれ,そして「芸術」をいつも途中で投げてしまった,不 幸でまた幸福な芸術家であったように思われる。

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加藤典洋も上に引いた一部に触れて,多田自身のことを物語っているようだと指摘して いるが(6 巻 380),ここで引用した多田の文章に表出する芸術という言葉を「アカデミ ズム」と読み替えれば,多田のアカデミズムへの志向が弛緩した自己表明と読めなくも ない。後年,多田は 60 年安保の頃から「自分は科学と学問にむかないという思いがつよ くなってきた」というのは66)(6 巻 380 も参照),このことに符合するのである。 そして多田は「下らない」ものにこそ深い意味があるという「信念」を有していた(5 巻 131)67)。この信念という言葉は,井上俊が多田の反アカデミズムを評した意地という 表現と結びつく。いつ戸坂潤に接したのか不明だが,多田は,風俗は社会の皮膚であると いう戸坂の言葉にインパクトを受けたことから(3 巻 403,5 巻 14)68)「下らない」もの を重視する着想を得たと思われる。すでに敗戦直後,多田は小野田仁二郎の『触手』を読 み,最も浅薄なものに重要な意味が込められているという思想に強く規定されたことを 回顧している(6 巻 315)。これらの問題意識を束ねる方法論として多田が摂取したのが民 俗学であった。身近なもの・小さなもの・卑しいとされる対象に深い意味を与えてきたの が柳田国男や折口信夫に代表される民俗学であると,多田自らが述べているからである (3 巻 432,4 巻 100)69)。ここから農村を主とする不変・恒常的な文化を研究する民俗学 に対して,変化を旨とする都市文化を研究する風俗学を多田は標榜するようになる(5 巻 14,48)。 また加藤典洋は『しぐさの日本文化』を「反社会学的な社会学」(3 巻 444)ともいい, 多田は 76 年に発表した「『八犬伝』と『三銃士』」70)を「非・社会学的な社会学」ないし 「非・比較文化論的な比較文化論」と表現する(1 巻 395)71)。多田が学問の体裁をとるた めに社会学を意識したのは間違いあるまいが,「社会学の本で雷に打たれたような感激を したものは,一冊もない」という言及にも注目しないわけにはいかない72)。そこに社会 学を始めとするアカデミズムへの多田の違和感があったと考えられるからである。その 具体例としてフランスの社会学者ジョルジュ・フリードマンへの多田の批判意識が挙げ られる。多田は,なぜパリや京都などの観光地には共通してチャチな土産物が多いのか 質問したところ,フリードマンは全く興味を示さなかった。土産物の美醜と「大衆のア ニマ」に問題関心をもつ多田は「こういう「社会」学者はだめだな」と感じたという(5 巻 40)73) ここに多田にとって縁遠いアカデミズムの姿が示されているといえる。それは多田が アブダクションを通じて既存の「自然科学の枠をまねた社会科学,歴史学,文学研究」と は異なる学問を目指す姿勢を有していたからでもあり(5 巻 371),彼が「思いつきのない

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説ほど,ひとをうんざりさせるものはない」と書いたのは既述の通りである。井上俊は, 多田の風俗学に関して,それは学というより芸に近く,学問と芸術との境界をつき崩す多 田の学的イメージがあるのかもしれないと述べる部分に(5 巻月報〔井上俊〕),多田の学問 観の要諦があった。多田は,敗戦直後に花田清輝のレトリックに深い影響を受けていた74) 後年,都留重人が多田に「結局あれはレトリックにすぎないからねえ」(「あれ」が何を 指すかは不明)と語った際に多田は大きな驚きを受ける。多田はレトリックこそが肝要 であると考えており,文「学」以上に文芸を重んじていたからである75) こうした多田の仕事に対して,文化人類学者の米山俊直は『しぐさの日本文化』に関 し,科学論文の手続きが省かれたエッセーの方法に注目した上で,「日本における「しぐ さ」の人類学的研究にとって,先駆的業績」ではないかと評した。続けて米山は,『遊び と日本人』をも生んだ多田の学風や学説は,多田が頻繁に言及する柳田国男や,多田の 師である桑原武夫より,『「いき」の構造』を書いた九鬼周造に近いのではないかと述べ る76)。また熊倉功夫も『しぐさの日本文化』について緻密な採集や比較をとる柳田国男 よりも,「思いがけない結びつけかた,豊かな想像が生まれるべき余白を残した発想」面 で折口信夫の方法に近いと言及している77) しかし,多田の仕事は,豊かな発想・着眼を残したものの,50 年代にはあったアカデ ミズムへの緊張関係を手放したことで,学問の型への執着を放棄し,先行研究として継承 しづらくしたことは否めない。多田がフランス文学研究者として歩み続けなかったのは, フランスの地を初めて踏んだのが 1967 年と比較的遅く,それも短期の調査であり,若い 頃に長期の留学経験がなかったことも一つの要因として考えられよう(6 巻 213)78)。さ らに山田稔が,多田に関心の移ろいやすさがあったと指摘し,桑原が「多田は,美しい 花から花へ飛びまわる蝶みたいなやつやな」と評したというのは79),地道な探究心の欠 如ゆえに多田に体系性の確立を妨げたことを説明するものである80) ここで押さえておかなければならないのは 1962 年に出版された多田の初めての単著 『複製芸術論』自体,学術研究書としての性格が薄かったことである。そこには 16 本の文 章が含まれており,一部新聞記事を含んでいるが,16 本のうち注が付されているものは 3 本しかない。京大人文研発行の『人文学報』2 本と,岩波書店の『思想』1 本である。そ の注が付された文献の 1 本である「複製芸術について」も後に多田自身「エッセイとも 論文ともつかぬもの」と述べており81)『複製芸術論』に収められた共著論文以外のもの に関しても多田は「その他の評論感想」と表現している82) それ以降も多田は単著では 1 冊の学術研究書すら書くことはなかった。無論,多田には

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優れた語学力や広範囲な知識を備えていたことは疑いえないし,現在の研究者養成の制 度と一概に比べるわけにはいかないものの,大学院に進学した年に助手に採用され,ア カデミックな修練は京大人文研の共同研究に関わることで実地訓練を果たすよりなかっ た。 そこで多田が学んだのは単なる輸入学問ではない,オリジナルな視点を打ち出す学問 の探求である。梅棹忠夫は日本の「体系的思想家の説く思想は,大たいにおいて全部が 西洋できときている」ことに警鐘を鳴らし,西洋の思想を排斥はしないものの「体系的 輸入はこまる。輸入に際しては,土民の立場からの,徹底的な日本化が必要である」と 説く83)。鶴見俊輔も「明治以来つづけて来た哲学学習の方法についての不信仰」に基づ き「海外からの輸血療法だけにたよってひよわい生存をたもつ日本哲学を,それがもとも と生れた場所,もとの問題状況にもどして,その生活の脈絡の中で活動させて見ること」 を主張した84) 事実,多田は京大人文研で「今西人類学」と「梅棹人類学」に影響を受けたといい, 「ヨーロッパのことばかり言っていて,すぐそばのフィールドを知らないで何だ,という。 本だけではいけない,ヨーロッパだけではいけない。日本だけでもいけない。そういう 訓練は受けましたね」と述懐している(1 巻 392)。 加藤秀俊は京大人文研に着任して間もなく,E・フロム『自由からの逃走』に依拠した 研究報告を行った際に,今西錦司から「おまえには,まず他人の学説にもとづく結論が あり,その結論を飾り立てているだけである。ゆるぎなき具体的事実の把握から結論と おぼしきものを模索してゆくのが学問である」というコメントを受けた85)。梅棹忠夫も 京大人文研に赴任してから主催した研究会では「討論は毎回猛烈をきわめた。自分の目 で見たこと,自分の頭でかんがえたこと以外はまったく問題にされず,ひとの説をかり て受け売りなどすれば,一座の冷笑をかった」とあり86),今後はその位相の中で多田の 学問観を位置づけていかねばなるまい87)

お わ り に

多田道太郎の「非・反アカデミズムの視座」を形成するにあたって,決定的な役割を 果たしたのは,京大人文研と『思想の科学』という場であった。多田にとって,そこで のキーパーソンは桑原武夫と鶴見俊輔であり,ルソー研究を皮切りとした共同研究班は, 大衆文化研究の関心のもとに『思想の科学』と共振していく。

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その知的交錯において,多田は文学と学問の間を揺れ動き,1950 年代にはアカデミズ ムへの緊張関係が見られた。ルソー・フランス革命からパチンコ・大衆小説・マンガ・漫 才に及ぶ研究対象を媒介するものは,芸術論とコミュニケーション論であった。しかし, 多田自身の生活上の安定と,政治の季節の終焉により,アブダクションに重心が傾くこ とで,着想に優れた問題提起を展開する反面,学問への強い志向は薄れ,研究者と実作 者を橋渡しする可能性のあった現実社会と切り結ぶような 50 年代の仕事の方向性を手放 してしまったといえる。つまり多田の「非・反アカデミズムの視座」も,50 年代までは アカデミズムの対象にならないようなテーマを学問的に研究する姿勢が色濃くあったの に対して,60 年代以降はアカデミズムの対象にならないテーマへの模索は維持しながら も,それをアカデミズムによらないエッセーというレトリックで探究する変容が見られ たのである。 「非・反アカデミズムの視座」とは,詰まるところ,学問・研究の意義・役割を再審す ることである。それはアカデミズムと現実社会,アカデミズムとジャーナリズムとの関 係を問い直す作業である。そこに多田を位置づける本研究の試みは,2 節で若干先述した ように同時に「戦後京都学派」の知識人たちの「非・反アカデミズムの視座」の探求と いう共時性を照射することにつながる。桑原武夫は内藤湖南の「中国学」の影響を受け, フランス文学研究ではなくフランス学を志した。それは多田の著作集第 1 巻に『ラ・フ ランス』と題されたことにも継承されている(1 巻 390 ∼ 391)。桑原の盟友であった今 西錦司が学問の枠を越えるような「自然学」を提唱し,今西に教えを受けた梅棹忠夫が 若かりし頃に「アマチュア思想家宣言」(『思想の科学』1954 年 5 月号)を書き88)『思想 の科学』を主導した鶴見俊輔の数多くの著作も,アカデミズムの在り方を問うたかれら の共時性抜きには考えられないからである89) 今後の課題としては多田の自由主義の検討が挙げられる。彼の発想を強く規定する象 徴主義の基礎に「徹底個人主義」があると多田が述べるように90),多田の思想の片翼を 担っていたのは自由主義と,そこに派生する彼の文化論と民衆像であると考えるからだ。 遊びとは自由の概念の親類と多田がいう通り,『遊びと日本人』の意義を考えるためにも 不可欠な作業となる。 アカデミズムが人間の叡智を切り開く営為の一端を担うことを否定する者は少ないは ずである。筆者もその考えを共有している。しかし,アカデミズムには閉鎖性とそこでは 扱いにくい領域が存在することもまた事実であろう。その弊を免れるために本稿で扱っ た「非・反アカデミズムの視座」を捉え返す意義がある。その視座を往還することで,絶

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えずアカデミズムは鍛えられ自省の機能を保持できると考えるからだ。 1 )『多田道太郎著作集』全 6 巻(筑摩書房,1994 年)からの引用・言及は,(1 巻頁数)のよ うに表記する。各巻に多田と加藤典洋の解説対談がある。多田の文献の引用で一部旧字体 を新字体に改めた。 2 )『人文』第 6 号(京都大学人文科学研究所,1973 年)12 頁。 3 )『人文』第 13 号(1975 年)18 頁。 4 )西村大志も「多田の作品を論理的に要約し,肯定し,学問として称揚することは容易」で はなく読者を選ぶものとなっている点を指摘している(西村大志「しぐさの深層 多田道 太郎『しぐさの日本文化』」井上俊・伊藤公雄〔編〕『ポピュラー文化 社会学ベーシック ス 第 7 巻』世界思想社,2009 年,213 頁)。 5 )根津朝彦「多田道太郎の思想形成―戦後思想の萌芽」(『社会科学』第 42 巻第 1 号,同 志社大学人文科学研究所,2012 年)。なお同じく 2012 年には,桑原武夫〔監〕黒田憲治・ 多田道太郎〔編〕『西洋文学事典』(ちくま学芸文庫,2012 年,初出 1954 年),多田道太郎 『転々私小説論』(講談社文芸文庫,2012 年),岩城万里子「続 多田道太郎著作目録」(『武 庫川女子大学生活美学研究所紀要』第 22 号,2012 年)が刊行された。 6 )川勝平太「戦後の京都学派―今西学派をめぐって」(『日本社会科学の思想』岩波書店, 1993 年)272 頁。 7 )『人文科学研究所五十年』(京都大学人文科学研究所,1979 年),斎藤清明『京大人文研』(創 隆社,1986 年),杉本秀太郎〔編〕『桑原武夫―その文学と未来構想』(淡交社,1996 年) などを参照。ただし,2012 年に慶應義塾大学出版会のウェブ連載で菊地暁「人文研探検― 新京都学派の履歴書(プロフィール)―」が開始(『Ten plus one』で連載休止したものの 再開)され,その成果が注目される。 8 )詳しくは鹿野政直『近代日本の民間学』(岩波新書,1983 年)を参照。 9 )中山茂『帝国大学の誕生 国際比較の中での東大』(中公新書,1978 年)130 頁では「アカ デミズムという言葉は実は和製英語である。フランスの美術の流派のうち,アカデミー派, つまり芸術院に拠る一派のスタイルをアカデミズムとよぶことはあるが,日本語のアカデ ミズムの語感からすれば,ジャーナリズムや世俗いっさいのことを卑しく見て,奥の院に とじこもる象牙の塔精神のことだと定義してよかろう。その際,その拠るべき象牙の塔は アカデミー(学士院)かそれとも帝国大学のような大学かが問題となる」と書かれている。 中山茂『歴史としての学問』(中公叢書,1974 年)243 頁も参照。 この点に関しては戸坂潤は 1931 年に書いた「アカデミーとジャーナリズム」で,アカデ ミーは基礎的・原理的なものを提示し,ジャーナリズムは当面的・実際的なもの(「時代へ の関心」)を付与するものとして双方を位置づけている(『戸坂潤全集 第三巻』勁草書房, 1966 年,150 頁)。続けて戸坂は 1936 年に発表した「ジャーナリズム三題」でアカデミー の語彙と異なり「アカデミズムという言葉が第一に外国語として変であり」,「アカデミズ

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ムという造語は一つの社会現象として理解するに欠ける処がある証拠なのだ」といい(『戸 坂潤全集 第五巻』勁草書房,1967 年,127 頁),1937 年に執筆した「私の見た大学」で は「アカデミー(大学の如き)とジャーナリズム(報道現象)との対語でなくてはカテゴ リー論の虫がおさまらない」と述べている(『戸坂潤全集 別巻』勁草書房,1979 年,258 頁)。 10)藤田省三は「反アカデミズム」のスローガンが述べられる割には,アカデミズムに含まれ る「機構0 0としての大学,大学人0とくに東大人,更にその行動様式0 0 0 0・気質0 0に及ぶところの一 定領域の実体に関する呼名であったり,研究と表現の方法・スタイルに関する機能的用法 であったり,この両面が入り混っていたり」(傍点は原文)する多義性を区別して論じられ ることが少ない点に苦言を呈している(藤田省三「現在「反アカデミズム」の構造」『思想 の科学』1959 年 6 月号 2 頁)。 11)鶴見の経歴は,『鶴見俊輔著作集第五巻』(筑摩書房,1976 年)所収の「略年譜」による。 12)桑原武夫『日本の眼外国の眼 桑原武夫対話集』(中央公論社,1972 年)150,159 ∼ 160 頁。 13)それ以前の多田の学歴は,京都市立第二待鳳尋常小学校卒業,京都府立京都第二中学校を 第 4 学年で修了,第三高等学校文科丙類卒業,東京帝国大学文学部仏文科に入学するも敗 戦後に中退し,改めて京大に入学した。 14)多田道太郎『変身放火論』(講談社,1988 年)177 頁によれば,1949 年 4 月から多田は大 谷大学予科の非常勤講師でフランス語を教えたようである。 15)多田道太郎(聞き手扉野良人)「サルトル翻訳前後 世界文學社のこと」(『sumus』第 4 号, 2000 年)34 ∼ 35 頁。 16)桑原武夫〔編〕『ルソー研究』(岩波書店,1951 年)。 17)鶴見俊輔・多田道太郎「カードシステム事始 廃墟の共同研究」(『季刊本とコンピュータ』 7 号,1999 年)200 頁。 18)『朝日新聞』2007 年 12 月 6 日付。 19)多田,前掲「サルトル翻訳前後」。 20)木股知史・岩城万里子「多田道太郎著作目録」(『武庫川女子大学生活美学研究所紀要』第 4 号,1994 年)でも 1950 年の著作は確認できない。ルソーの共同研究会で 50 年に多田は 単独の報告を 3 度行っている(桑原編,前掲『ルソー研究』)。 21)多田道太郎「桑原武夫先生逸事」(『桑原武夫集 10』月報,岩波書店,1981 年)。 22)多田道太郎「解題」(『桑原武夫全集 第一巻』朝日新聞社,1968 年)。 23)桑原武夫『『宮本武蔵』と日本人』(講談社現代新書,1964 年)4 頁。 24)『鶴見俊輔集 6』(筑摩書房,1991 年)479,482 頁,鶴見俊輔『期待と回想』下(晶文社, 1997 年)57 頁。 25)『桑原武夫集 3』(岩波書店,1980 年)471,629 頁。 26)松尾尊兊『昨日の風景 師と友と』(岩波書店,2004 年)81 ∼ 83 頁,『桑原武夫集 4』(岩 波書店,1980 年)572 頁。ただ,鶴見は,前掲「略年譜」によると 1951 年 5 月から約 1 年,

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鬱病で休職している。 27)『鶴見俊輔集 3』(筑摩書房,1992 年)386 頁。思想の科学研究会〔編〕『思想の科学 会報  第 1 巻』(柏書房,1982 年)39 頁によれば記号の会の第 1 回会合は 1950 年 10 月 24 日とあ る。 28)加藤秀俊『わが師わが友 ある同時代史』(中央公論社,1982 年)53 頁。また多田,山田, 加藤,樋口謹一,黒田憲治の 5 人は,推理小説(ディテクティブ)とドキュメンタリーの 2 つの文芸様式に関心をもち,1958 年頃から D・D の会という集まりをもった(樋口謹一・ 多田道太郎・加藤秀俊・山田稔『身辺の思想』講談社,1963 年,3 頁)。D・D の会の共同 討議は『週刊読書人』1960 年 5 月 23 日号にも見られる。 29)多田道太郎『あまのじゃく日本風俗学』(PHP 文庫,1988 年)191 頁。 30)鶴見,前掲『期待と回想』下 57 頁。 31)続けて多田は自身が翻訳した『唯物論と革命』は「その後も『サルトル全集』に載り続け てるし,間違いは一つもないんです。二十四歳のときの翻訳ですけど,僕はせり上げとし てはかなりのとこ行ってたんだよ」と述べている(3 巻 440 頁)。 32)鶴見や多田らに建民社社長の高橋甫を紹介したのは加藤子明である(多田道太郎「『芽』の 時代のこと 追悼 高橋甫」『思想の科学』1982 年 2 月号 118 頁)。多田は加藤と『中央公 論』1954 年 8 月号で近江絹糸のルポルタージュも発表している。 33)鶴見俊輔〔編〕『源流から未来へ 『思想の科学』五十年』(思想の科学社,2005 年)77, 273 頁,記念シンポジウムを記録する会〔編〕『読む人・書く人・編集する人 『思想の科 学』50 年と,それから』(思想の科学社,2010 年)87 頁。なお『源流から未来へ』166 頁 には,この『芽』の時代から関西では鶴見,多田,奈良本辰也,上山春平,樋口謹一で転 向研究会があり,『芽』に反映されている。 34)鶴見,前掲『期待と回想』下 167 頁。 35)多田道太郎 1953 年 8 月 28 日消印葉書(富士正晴記念館所蔵 E06 − 39722)。多田道太郎の 書簡閲覧に際しては富士正晴記念館の方に便宜をはかっていただき,書簡の引用に関して は冨士重人氏と,成年後見人である堀和幸法律事務所に許可をいただいた。記して謝意を 表したい。 36)前掲『思想の科学 会報 第 1 巻』77 ∼ 80 頁。 37)12 月は鶴見,前掲「略年譜」によるが,同上『思想の科学 会報 第 1 巻』にはそれ以前に 東京工業大学の「鶴見研究室」という表記が見られる。 38)多田謠子ほか『私の敵が見えてきた』(編集工房ノア,1987 年)352,359 頁。多田謠子は, 松田道雄『私は赤ちゃん』(岩波新書,1960 年)のモデルになった一人である(朝日新聞 社〔編〕『ベストセラー物語 中』朝日選書,1978 年,159 頁)。 39)松尾,前掲『昨日の風景』152 頁によれば講座増を背景に助手の内部昇進が認められるよ うになったという。 40)香里団地に関しては多田道太郎にも言及がある原武史『団地の空間政治学』(NHK ブック ス,2012 年)や和田悠「一九六〇年代の保育所づくり運動のなかのジェンダー」(『歴史評

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論』722 号,2010 年 6 月)も参照。 41)多田道太郎「ビョーキとケンコーのあいだ」(『思想の科学』1986 年 11 月号)15 頁。 42)京大人文研の中では多田を先駆けとし,飛鳥井雅道,樋口謹一,島田虔次も宇治市御蔵山 住宅地に住み,「宇治グループ」と『朝日新聞』1984 年 2 月 6 日付夕刊に表現されている。 43)多田,前掲『変身放火論』172 ∼ 173 頁。 44)多田道太郎『身辺の日本文化』(講談社学術文庫,1988 年)3 頁。多田は 31 歳の時点で 「片々たる短評で満足しないで,大きな理論的仕事を志そう。短距離専門にはなりたくない」 と語っている(同「私的感想」『キネマ旬報』1956 年 4 月下旬号 41 頁)。 45)ただ時期は不明だが,多田は桑原から「多田君,きみは秀才ばっかり,あるいは天才に近い ような人ばっかりと付き合ってしんどいやろうなあ」といわれた(3 巻 439)。一方,多田 の紹介で梅原猛は 1955 年頃に桑原に初めて会い,梅原は桑原から鶴見俊輔と梅棹忠夫の二 人は天才だが,「お前は幾ら頑張ってもこの天才には及ばない。やっぱりお前は頑張っても 秀才の一番いいとこにしか行けない。その秀才の最たる者は上山春平である。だから,お 前は春平と親しくなれ」といわれたという(杉本編,前掲『桑原武夫』115 頁)。 46)多田道太郎「実証的批評のために」(『文芸』1951 年 12 月号)17,21 ∼ 23 頁。 47)同上,24 頁。 48)ルフェーヴル(多田道太郎訳)『美学入門』(理論社,1955 年)213 頁。 49)多田道太郎『複製芸術論』(勁草書房,1962 年)107 頁(原文は,多田道太郎・山田稔「フ ランス革命下のコミュニケイション―その文学史的意義―」『人文学報』第 6 号,1956 年,京都大学人文科学研究所,78 頁)。この京大天皇事件を含む後の引用部分は,桑原武 夫〔編〕『フランス革命の研究』(岩波書店,1959 年)396 頁では削除されており,それを 底本としたのかは不明であるが,(1 巻 122)でも省かれている。 京大天皇事件に関して多田は 1988 年の時点で「天皇の京大訪問という行事があり,弥次馬 の一人として本部前の広場にでかけていった。くるまがちょうど正門にさしかかったとき, 突然といったようにインターナショナルの合唱が湧きおこった。学生たちの堵列のなかか ら,地底の声のように,その唸り声は聞こえた。私は危うく涙せんばかりに感動した。空 はどんより曇り,小雨がぱらぱらと頭上に振りかかった。あまりに深く心を揺り動かされ た私は,思わず,心とは裏腹に「ご苦労なこっちゃな,この雨が降るのに」とシニカルな ことばを呟いた。インターを歌う学生の一人が私の小声を聞きとがめ,きっと後ろの私を 睨んだ。警察の廻し者とでも思ったのであろう。あの純粋だった学生は,今,どこでどう しているのだろう」と回想している(「多田道太郎先生主要著作目録略年譜」退官記念の集 い事務局,1988 年,1 頁,同資料は岩城万里子氏に複写していただいた。記して謝意を表 したい)。 一方,多田の師にあたる桑原武夫は京大天皇事件直後という状況ではあるものの,「良心の 結集はあくまで幅ひろいものでなければならず,一昨日京大の学生の若干がなしたように, 天皇の自動車のまわりで「平和の歌」を合唱するというような,子供つぽい,世間に一時 のセンセーションを与えるというような安易な方法によつて,それはなされるものではも

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はやないであろう」と否定的に述べている(「『原爆の子』を読んで 人間性の試金石」『世 界』1952 年 1 月号 86 頁)。 50)1960 年に発表された「大衆文化運動」でも政治と芸術の問題に関して多田は「運動内部で 政治派と芸術派とが対立し,運動が分裂の危機におちいるということはありうる。労組政 治派と政党政治派との対立といった無意味な対立ではないと思う。そのような危機がくれ ば,いっしょに坐りこもうという最低綱領のコミュニオン主義に立返ることがのぞましい。 何どもコミュニオン主義にもどることで,政治派は根っこからの紐帯を体得するであろう し,芸術派は「良い芸術」というその良さについて懐疑におそわれるであろう。芸術愛好 といっても,完成された形式への愛着の場合もあり,主体のラジカルな変容に執着する前 衛派的愛着の場合もある。何が良い芸術かと,いっしょに坐りこんで模索することが可能 だろう」と書いている(多田,同上『複製芸術論』214 頁)。 51)加藤,前掲『わが師わが友』48 頁。加藤秀俊の京大人文研時代に関しては富永茂樹「調査 報告 加藤秀俊 @zinbun.kyoto-u.ac.jp」(『アリーナ』第 12 号,中部大学,2011 年)も参 照。 52)上山春平はパースの論文集を借りたいと思い,1950 年の晩秋に初めて鶴見を訪問している (『鶴見俊輔著作集第二巻』月報,筑摩書房,1975 年)。 53)佐々木幹郎・竹田青嗣・清水徹・多田道太郎ほか(司会加藤典洋)「多田道太郎の仕事― 著作集の刊行を記念して」(『明治学院論叢 国際学研究』第 14 号,1995 年)47 頁で,清 水徹が,影響とは「影響を受ける側に,ある種の素地がなかったら絶対に起こらない」の で「重要なのはむしろ多田さんにどういう素地があったのか」それを考える必要があると いう部分に関連する。多田の学生時代の詩への接触は,根津,前掲「多田道太郎の思想形 成」を参照。 54)思想の科学研究会〔編〕『人間科学の事典』(河出書房,1951 年)379 頁。 55)同上,380,384 頁。 56)1960 年に書かれた「大衆文化運動」では「非合理的であり(反合理的ではなく)」や「非 政治的要素とはけっして反政治的要素ではない」という表現が見出され(多田,前掲『複 製芸術論』183,200 頁),1977 年に多田が発表した「ブルターニュ農民の生活と意識」で も「反ではなく,非技術志向」という用例が見られる(1 巻 262)。 57)佐々木ほか,前掲「多田道太郎の仕事」51 頁。 58)大浦康介「書評 『文学理論の研究』を読む」(『人文学報』第 101 号,2011 年)130 頁。 59)内川芳美「マス・コミュニケーション史論覚え書き」(『新聞研究』1960 年 4 月号)44 頁。 60)多田道太郎「私の学びの出発」(『文藝春秋』1981 年 2 月号)291 頁。 61)山田稔『日本の小説を読む』(編集グループ SURE,2011 年)25 頁。 62)佐藤健二「多田道太郎」(石川弘義ほか〔編〕『大衆文化事典』弘文堂,1991 年)479 頁。 63)佐々木ほか,前掲「多田道太郎の仕事」56 頁。 64)多田道太郎「時評 マクルーハンの理解」(『展望』1968 年 3 月号)54 頁。引用文の「……」 は引用者による中略を意味する。

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65)山田稔『マビヨン通りの店』(編集工房ノア,2010 年)196 頁。 66)多田道太郎「本から離れられない」(『新潮』2000 年 8 月号)189 頁。 67)別の箇所でも「表層にこそ深層が宿る,というのがぼくの信念」とある(2 巻 366 頁)。 68)『戸坂潤全集 第四巻』(勁草書房,1966 年)271 頁。 69)『多田道太郎著作集Ⅵ』巻末の「人名索引」によれば,柳田国男は 41 回と最も言及数が多 く,折口信夫も 20 回言及している。言及数の多い 20 名は次の通りである(複数頁に言及が 渡る場合は頁数に関係なく 2 回と計上した)。柳田国男 41 回,ルソー 34 回,ロジェ・カイ ヨワ 32 回,鶴見俊輔,ボードレール 24 回,ディドロ 22 回,折口信夫 20 回,ヴァルター・ ベンヤミン 18 回,桑原武夫 17 回,加藤典洋 14 回,ヴォルテール,ジンメル 13 回,中井 正一,夏目漱石,山田稔 12 回,伊藤整,谷崎潤一郎 11 回,太宰治,ドリュ・ラ・ロシェ ル,花田清輝 10 回である。 解説対談を務めた加藤典洋を除き,フランス文学・フランス関係(ルソー,ボードレール, ディドロ,ヴォルテール,ドリュ・ラ・ロシェル),文学・文芸(夏目漱石,伊藤整,谷 崎潤一郎,太宰治,花田清輝),社会学・哲学・美学(カイヨワ,ジンメル,ヴァルター・ ベンヤミン,中井正一),民俗学(柳田国男,折口信夫)に関する人名が多いのは,多田 にとってフランス文学を中心とする文学・文芸を初心とし,京大人文研での師友との交流 (桑原武夫,鶴見俊輔,山田稔)と,社会学や民俗学との関係からアカデミズムへの視座を 形成したことを例証するものである。そのことは多田が「文学そのものから,社会学的発 想や民俗学的発想,さらにあつかましく言うなら,社会学や民俗学にわずかでも衝撃を与 えうるもろもろの考えが出てくる,―かも知れない」と述べる部分にも看取できる(鶴 見俊輔・橋本峰雄・多田道太郎「『文学理論の研究』批判に答えて」『文学』1969 年 1 月号 92 頁)。 70)この当時,多田は,人が気づかない意味・関係を創出するジンメルの仕事に刺激を受け,次 ぐ 77 年には直接ジンメルに言及しながら「乗合馬車の思想」を書き,78 年には『風俗学』 に結実する。 71)同じ箇所で多田は「「非」が,ある時「反」になったりもしますが」と書いていることから (1 巻 395),筆者はそれを「非・反アカデミズム」と括り,本論でキーワードにしている。 72)『読売新聞』1971 年 11 月 3 日付。 73)江藤文夫ほか『想像と創造―複製文化論』(研究社,1973 年)85 頁。『人文』第 5 号(1972 年)32 頁も参照。 74)根津,前掲「多田道太郎の思想形成」。 75)多田道太郎「転々私小説論― 西善蔵の妄想」(『群像』2000 年 6 月号)271 頁。同「諧 謔の宇野浩二―転々私小説論(二)」(『群像』2000 年 11 月号)175 頁でも「文学」とい うと「学である以上は分析しなければならない。これは文芸とは全然関係ない」と述べて いる。また「いや,そんなこと知ってますよ,あなたが面白くない,そこが面白いんです よ」という多田の言い方に加藤典洋が言及するのも(2 巻 387),多田の逆説を好むレトリッ クとの親和性に関わっている。

表 2 桑原武夫の共同研究著作と多田道太郎の分担 共同研究著作名 (編者は全て桑原武夫) 参加者 多田道太郎の分担著作 1 『ルソー研究』 (岩波書店,1951 年 6 月,第 2 版は 1968 年 12 月) 12 名 多田・樋口謹一・鶴見俊輔「ルソー・プロパガンディスト」,鶴見・多田・樋口「ルソーのコミュニケイショ ン論」,樋口・鶴見・多田「人間ルソー」,「ルソー全 著作要約」一部執筆 2 『フランス百科全書の研究』 (岩波書店,1954 年 6 月) 25 名 桑原武夫・鶴見・多田「芸術論」 3 『

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増田・前掲注 1)9 頁以下、28

 活動回数は毎年増加傾向にあるが,今年度も同じ大学 の他の学科からの依頼が増え,同じ大学に 2 回, 3 回と 通うことが多くなっている (表 1 ・図 1

KK67-0012 改02 資料番号. 柏崎刈羽原子力発電所6号及び7号炉審査資料

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