79 [ 論考 ]
A study on the influence of Japanese philosophy
at the beginning of Coaching
一般社団法人日本支援対話学会 代表理事 株式会社コーチングバンク 代表取締役 原口佳典
Yoshinori Haraguchi , founder of CoachingBANK.Inc, この論考では、いわゆる現代的なコーチングが形になった時代に、「日本的なもの」がそのバックボーン にどのような「思想的影響」を与えたのかを分析する。日本の武道を通した「禅」の思想がエサレン研究所 を介してコーチングの誕生に影響を与えているとの仮説を得たが、直接的に「思想的影響」があったことを 証明することは難しいという結論となった。しかし、まったく影響されていない、ということを証明するの も難しいため、確かにコーチングが存在している世の中を生きている我々にとっては、可能性として過去の どのような「思想的影響」を受けているのかを考えることは、現在と未来のコーチングの発展にとって、決 して無駄ではないだろう。 キーワード:コーチングの誕生、禅、日本の思想
This essey analyzes what "ideological influence" of "the philosophy of Japan" gave to the birth of
coaching. Through Japanese martial arts we got the hypothesis that Zen's way of thinking is influencing the birth of coaching through the Esalen Institute, but with the conclusion that It is difficult to prove that there was a direct "ideological influence" is there. But also, "it is difficult to prove that" there was no influence”, too.I can believe that this conclusion make use for the development of current and future coaching.
Keyword: birth of coaching, Zen, philosophy of Japan はじめに この論考では、いわゆる現代的なコーチングが形になった時代に、「日本的なもの」がそのバックボーン にどのような「思想的影響」を与えたのかを分析する。具体的には、1962 年に誕生したエサレン研究所で コーチングの元となる成功哲学セミナーであるエアハルトのest が生まれた 1971 年あたりの時代に、どの ような「コーチングの哲学」が生まれたのかを検証する。 しかし、前提として、そもそも「思想的影響」をどのように証明するのか、ということは、非常に難し い問題である。 影響を受けたことを証明するエビデンスが存在しない場合、「思想的影響」を後からひも解くのは難し い。例えば、ある文章で始めて使われた言葉と「同じ言葉」が、後の他の人の手による文章に載ったとしよ う。これは思想的影響があると言えるのだろうか。例えば、仮に、本人が亡くなっている場合に、知人の証
コーチングの始まりにおける日本的なものの思想的影響についての考察
80 言が残っている、生前近しい人に語っていた、といった、生前の本人に思想的影響を受けた自覚があり、そ の記録が残されていれば、「思想的影響」が証明されるかのように思われる。しかし、記述として残ってい ても、伝達者の誤りである可能性もあるし、あるいは、本当は影響が無かったにも関わらず、後知恵バイア スがかかって本人納得の上で、錯誤したエビデンスが残ってしまう可能性もある。 ブラック、ピカソらがアフリカ美術の影響を受けて創作したと言われるキュビズムのように、美術の世 界では、「見て理解できる」という点から影響を語ることはできるだろう。浮世絵の影響を受けたゴッホや ドビュッシーという話も、例えば北斎の絵がドビュッシーの部屋に飾られていた、などの補足されたストー リーで説得力を持たされる。 しかし、例えば、言葉でもビジュアルでも芸術でもなく、目に見えない思想や考え方のようなもの、例 えば、ある種のフレームワーク、構造のようなものについてはどうだろうか。もし、何かの文章に思考のフ レームワークが採用されていたとして、その元のフレームワーク自体があまりに普及してしまったものであ った場合、二次引用、三次引用とそのフレームワークを記載した文章が増殖してしまうため、何から影響を 受けたのかを特定することが難しくなる。さらに時が進み、その考え方が世間の「当たり前」になってしま うと「思想的影響」は意識すらされなくなる可能性がある。 このように、何かが何かの思想的影響を受けた、ということは、なかなか証明が難しいものであるが、ひ とつだけ明確な法則がある。それは、時系列の存在である。少なくとも、時代的に後のものが先のものに影 響を与えることはない。今回、この論で述べることも仮説に過ぎないが、この点だけは混同がないように気 をつけたい。 この論では、以上の「思想的影響」の証明の難しさから、あくまでも、時系列で考えた際に、この思想の こういう影響を受けたのではないか、という仮説構築を目的とする。そしてその過程において、何度か、行 き止まりにたどり着いては戻る、というプロセスをたどることになる。これはすなわち、「思想的影響」の 証明が難しいことを意図せずに実証していることになる。 1.コーチングの誕生と「東洋思想」 コーチングの誕生については、様々な説があるが、具体的にプログラム化されたことになるきっかけは、 ワーナー・エアハルドによる成功哲学セミナー est(Erhard Seminars Training)である。後に初のパー ソナルコーチングのコース、「デザイン・ユア・ライフ」を1988 年から始めるトマス・レナードも、後に CTI を立ち上げるローラ・ウィットワースやヘンリー・キムジーハウスも、この est に参加している。この 頃のエサレン研究所には人間性心理学のマズロー、ゲシュタルト心理学のパールズ、人間中心カウンセリン グのロジャーズ、家族療法のサティア、行動分析学のスキナーなど多くの心理療法家が訪れ、セミナーやワ ークショップを開催していた。そのほか、瞑想、ヨガ、芸術、音楽、ボディワークなど、様々なセミナーも 開催されており、このどれがコーチングの根本思想か、というのは言い切れないが、少なくとも、何かが形 作られるためには充分な素材がそろっていたと思われる。 この後、少し時間を空けて見てみると、トマス・レナードのCoachU 及び前述の CTI が 1992 年に生ま れた頃、1986 年には Hudson Institute が、1987 年には New Ventures West が、1993 年には Newfield が、1996 年には、Coach for Life が、1997 年には、Academy for Coach Training が、誕生している。こ れらの団体は国際コーチ連盟(ICF)設立後、コア・コンピテンシーの開発に携わったコーチ団体であるか ら、この時代には、明確に共通的概念として、コーチングというものがイメージできていたことがわかる。
81 エサレンで扱われていたさまざまな心理療法の素材から、成功哲学セミナーを経て、いわゆるコーチング に行き着くわけであるが、どうもここには中核となる考え方が欠けているように思える。すなわち、成功哲 学や心理療法のノウハウを教えてもらって使う、というスタンスから、クライアントをコーチが支援すると いうスタンスへの変化を起こし、それが共通認識になった理由がわからないのである。 よりシンプルに考えた時、新しいパーソナルサービスを立ち上げる際に「コーチ」並びに「コーチング」 という普通名詞が採用されているという点、また、それが共通認識になっている点を考えると、ここでテニ スコーチであったガルウェイの影響があったのではないか、という仮説が生まれる。特に影響を与えたと思 われるのがガルウェイの著書『インナーゲーム』(1974)である。この本はいわゆるコーチングについて書 かれた本ではなく、テニスを上達させるために、自分の中の「セルフ1」「セルフ 2」を区別し、意識す る、という本であった。この本がエサレン研究所ではよく読まれたという。W.T.アンダーソン『エスリン とアメリカの覚醒』(1983 年、邦訳 1998 年)によれば、エアハルトが est を立ち上げたちょうど同じこ ろ、エサレン研究所(引用元書籍内では「エスリン研究所」)にはスポーツ・センターが誕生した。 スポーツが問題に対する一つの答えであり、ほんとうに自己の成長を望むならば何か体育的なことをしなけ ればならない、といった言葉がこのサブ・カルチャーのなかに浸透していった(p.254) 同書籍では、ガルウェイの一連の著書のほか、マイク・スピノ『ジョギングを越えて─ランニングの精 神空間』という書籍がよく読まれたものとして紹介されている。 興味深いのは、W.T.アンダーソンは「このすべての著作はオイゲン・ヘリゲルの『弓術における禅』と いう古典の影響を受けている」(p.254)と断言していることである。(下記の「その本」というのがオイゲ ン・ヘリゲルの『弓術における禅』のことである。) その本は身体活動のなかに静寂な瞑想的な精神が現れてくること、また自我がその活動の妨げになることを 明快に示している。ヨーガとゲシュタルト療法の強い響きを見ることができる。(中略)こうしたことは、 エスリンが先駆的に実践してきた心理療法から当然に帰結する方向であった──ゲシュタルトにおけるから だの気づき、エンカウンターにおける身体的側面、新・ライヒ派の療法、マッサージ技法など──。 (pp.254-255) そして、W.T.アンダーソンは、この頃、スポーツの意味の転換を考え付いたのが、エサレンの設立者の 一人、マイケル・マーフィーであると記述している。 商業化された中流アメリカ人の男っぽさの要塞であるスポーツそのものを、精神性と自己発見の道具にする といった考えは、マーフィーのほかには考えつく人もなかった。スポーツ・センターは彼独自のスポーツ観 の産物であった。(p.254) エサレン研究所については、その実態が紹介されているものが少ないため、この文献を裏付けすることは できないが、少なくともスポーツ・センターという施設があり、そこで様々なスポーツが「精神性と自己発 見の道具」として取り扱われ始めたこと、そこにガルウェイの『インナーゲーム』による「ヨガ・テニス」
82 やオイゲン・ヘリゲルの『弓術における禅』との、思想的な関連性があったことがわかる。ガルウェイは、 自身の思想へのオイゲン・ヘリゲルの『弓術における禅』の影響を否定していると言われているが、彼の著 書では、彼がハーバード大学で心理学を学び、その後、東洋思想を研究して、「人間には“自然”にものごと をうまくやれる能力が備わっている」ことを発見した、と書かれている(p.4『インナーテニス』1976、邦 訳1978 年)。では、彼が「研究」したという「東洋思想」とは何なのか? そこからどのような「思想的 影響」を受けたのか? ということが判れば、この文章の課題である「日本的なものの思想的影響」がわか りそうである。しかし、ガルウェイが明確に語っていない以上、それを知ることはできない。 2.オイゲン・ヘリゲルの『弓術における禅』の影響 ここでガルウェイの「東洋思想」を離れ、もうひとつ出てきたオイゲン・ヘリゲルの『弓術における禅』 について、内容を調べていくこととする。オイゲン・ヘリゲルの『弓術における禅』の出版年は1948 年で 古く、その影響を受けたエサレンの設立者の一人、マイケル・マーフィーが1970 年代初頭にスポーツ・セ ンターを立ち上げた後、エサレンに出入りしていたガルウェイが著書『インナーゲーム』(1974)が刊行 し、それがエサレンでよく読まれた、という流れが、時系列的に自然であると思われるからだ。「時代的に 後のものが先のものに影響を与えることはない」という原理に照らせば、ガルウェイがオイゲン・ヘリゲル に影響を与えることは絶対に無いが、ガルウェイが間接的に『弓術における禅』の影響を受けている可能性 は否定できないからだ。 オイゲン・ヘリゲルの『弓術における禅』あるいは『日本の弓術』あるいは『弓と禅』は、オランダ系ド イツ人の著者が5 年間の日本滞在中に、阿波研造氏より弓術を学んだ体験を記録したものである。1938 年 にまず講演録として『日本の弓術』を刊行した後、1948 年に加筆して『弓と禅』を刊行している。その中 で、日本の弓術がアーチェリーのように「矢を的に当てる方法」を教えるものではなく、精神的な鍛練の結 果として弓から放たれた矢が的に当たるのだということを体得させるものであったことに驚き、その驚きを オイゲン・ヘリゲルが自身の知識にある禅の思想と結びつけて解説したものである。確かに、うまく射る技 術を身に着ければ的に当たる、という発想ではなく、精神鍛練すれば自然と矢が的に当たる、という思想 は、ガルウェイの前述した「人間には“自然”にものごとをうまくやれる能力が備わっている」に近しいと感 じられる。もし、この日本の弓術の習得手法がオイゲン・ヘリゲルの著作を経てエサレンの思想に影響を与 え、その影響下でガルウェイが『インナーゲーム』を著して「コーチ」「コーチング」というスタイルを示 し、その結果として、現代のコーチングの成立に至ったとすれば、「日本的なもの」が間接的に現代のコー チングに影響を与えていると言えそうである。 ただ、ここで問題なのは、ここで語られている「禅」の正体である。 我々、通常の日本人の感覚では、「禅」というのは「禅宗」あるいは「曹洞宗」「臨済宗」という仏教の一 派である。では、この阿波研造氏というのはどこかで禅宗を極め、その自らの弓術指導に取り入れていたの だろうか? 山田(2005 年)が阿波研造氏について、下記のようにまとめている。少し長文になるが、阿 波氏と「禅」とのかかわりについて見ていくために、引用しよう。 阿波は明治十三年(一八八〇)、宮城県河北町で麹屋を学んでいた佐藤家の長男として生まれた。学校教 育は小学校だけだったが、一七歳のころに漢学の私塾を開いた。そこで何を教えていたかは、よくわからな い。一九歳のときに、石巻でおなじ麹屋業を営んでいた阿波家の入婿になって阿波家を継いだ。
83 二〇歳のときに、石巻で雪荷派弓術を教えていた旧藩士・木村辰五郎に入門して弓術をはじめた。阿波は 弓術の上達が相当早かったらしく、わずか二年ほどで木村から雪荷派の免許皆伝を受けた。そして二二歳の ときに、自宅近くに自分の道場を開いた。(pp.96-97) さて、ここで出てくる「雪荷派」であるが、いかなる弓術だったのだろうか。松尾牧則『弓道 その歴史 と技法』(2013)によると、雪荷派は吉田重勝(六左衛門)を祖とする一派で、本系は藤堂藩に伝わり、仙 台、会津、広島などに伝わったそうであるから、阿波が習得したのもこの流派であろう。この雪荷派は元は 吉田流の流れであり、直系は出雲派(吉田流出雲派)、別系は雪荷派になったという。では吉田流とは何か といえば、日置吉田流のことであり、日置弾正の射術を吉田上野介重賢、重政の父子が受けたとされる流派 である。 山田(2005)によると、日本の弓術は技術面から礼射と武射に分けられ、武射は歩射、騎射、堂射、に 分けられるという。以下、図に示す。 図1 技術面から見た日本の弓術(山田(2005)pp.93-95 より著者作成) 阿波の弓術について、山田は下記のように記述している。 阿波は、堂射系の日置流雪荷派・木村辰五郎と、やはり堂射を専門にしていた尾州竹林派・本多利実(一八 三六~一九一七)から弓術を学んだ。(中略)竹林派の流祖が僧侶で、その教えに仏教の影響が残っている ことも、阿波の思想に影響を与えたと思う。(p.95) さて、ここで「竹林派の流祖が僧侶」とある。こちらも検証しておこう。再び松尾牧則『弓道 その歴史 と技法』(2013)によると、日置弥左衛門を流祖とし、また、近江の人、石堂竹林坊如成が日置家の祈願僧と して、石田出雲重政に弓術の教えを受けて流派を起こしたという説や他説もあるという。石堂竹林坊如成は 真言宗の僧で紀州高野山に居り、後、吉野に移ったというが、諸説もあるという。ちなみに、真言宗は禅宗 ではない1。山田(2005)は、 阿波の生涯を克明に調査した櫻井も、「研造は、禅僧についた事実は認められない」、「研造は弓禅一味もい い、またとくに大乗仏教哲理の表現も射道に用いたが、無条件に禅を評価していたのではなかった」と書い ている。(p.101) ここで登場する櫻井というのは、阿波の弟子であり、阿波の生涯を追った著作も残している櫻井保之助の ことである。阿波は特別に「禅」に造詣が深かった訳ではなく、仏教の用語のひとつである禅の言葉使って ┌ 礼射 ─(儀礼的、呪術的) … 小笠原流 日本の弓術 ─┤ └ 武射 ┬ 歩射(戦場での歩兵の射術) … 日置流印西派 ├ 騎射(馬上から弓を射る技術) … 小笠原流・武田流 └ 堂射(通矢競技に特化した技術) … 日置流竹林派、日置流雪荷派
84 いた、という可能性がある。 再び、阿波のライフヒストリーに話を戻そう。再び山田(2005)より引用する。 明治四十二年(一九〇九)、二九歳のときに仙台に出て新しい弓術道場を開き、当時の東大弓術部師範だ った本多利実の門を叩いた。ほぼおなじ頃に、阿波は二高弓術部の師範に就任した。(中略)ところが大正 のはじめ頃になって、自分の弓術に疑問を持ち始めた。(中略)「人間学を修める修行」としての「射道」 を、阿波は説きはじめた。そのせいで、弓術界からは変人扱いされ、伝統弓術が根強いところに出向くと、 後ろから石を投げられたこともあったらしい。(中略)阿波が「弓術から射術へ」を説いた背景には、嘉納 治五郎(一八六〇~一九三八)の講道館柔道の成功があったとみられる。櫻井によると、阿波は遺稿ノート のなかで、「其処で一番近く例を挙ぐれば、今の嘉納治五郎氏の講道館柔道が、わが日本は勿論諸外国迄に も賞揚せられるのも、是れ道として一流一流に拘泥せず、各派の長所を探りたるところに発する」と書いて いる。つまり、嘉納による柔術から柔道への転換に触発されて、「弓術から射道へ」の着想を得たようだ。 (pp.97-98) ちなみに講道館が設立されたのは明治十五年であり、山田(2005)によると、オイゲン・ヘリゲルが阿 波に入門したのは大正十五年(一九二六)から正味三年間だったという(p.123)から、ちょうどこの「人 間学を修める修行としての射道を説きはじめた」時期になる。その後、阿波は昭和二年(一九二七)、四七 歳のときに「大射道教」という宗教のようなものを立ち上げ、翌年、病に倒れ、昭和十四年(一九三九)、 五九歳で病没したという。 最後に宗教めいた団体を設立した阿波であったが、山田(2005)は、「意外なことに、阿波自身が禅寺に 通ったり、しかるべき老師についたりしたことは、生涯にただの一度もなかったようだ」(p.101)と書い ている。 それでは、オイゲン・ヘリゲルが阿波から受け取った「禅」の思想とは、いったい、どのようなもの で、いったい、どこから生じたものなのだろうか? その答えは、オイゲン・ヘリゲルが言う「禅」なるものが、どういうものなのかを調べることによって理 解できるだろう。『日本の弓術』を読めば、このような記述に出会うことになり、通常の日本人であれば、 その記述の内容に驚くこととなる。引用しよう。 日本人は、自分でそれを説明できるかどうかは別として、禅の雰囲気、禅の精神の中で生活している。 それゆえ日本人にとっては、禅と関連することはすべて、内面から、禅の本源から、明瞭に理解される。 (中略)考えていることを言い表わし、伝えようとする時、日本人には簡単な暗示だけで申し分なく事が足 りるように思われる。それは、日本人は禅のもっとも深い本質の中に成長していて、身に着いたものを頼り にして考えるからである。(pp.17-18) つまり、日本人は無意識的に「禅」を体得している、というのである。そして、この説の根拠として、 『日本の弓術』の本文中でオイゲン・ヘリゲルが紹介しているのが、鈴木大拙の『禅語集』である。また、 『弓と禅』では、同じく鈴木大拙の『禅と日本文化』に翻訳されている沢庵の論文“不動智神小妙録”を引 用して、剣道と禅についての持論を展開している。
85 つまり、オイゲン・ヘリゲルは鈴木大拙の書物に出会って禅を知り、日本においてその禅を知りたいがた めに弓術を習おうとし、阿波の弓術の中にそれを見出した、ということである。逆の言い方をすれば、オイ ゲン・ヘリゲルは鈴木大拙の「禅」という色眼鏡を掛けて阿波の弓術を見ていたわけであるから、阿波の弓 術が実際には禅の流れを組むものではなかったとしても、オイゲン・ヘリゲルにはそう見えた、ということ である。さらに山田(2005)は、ドイツ語と日本語の通訳を介しながらの会話の中で、誤解も生まれやす かったのではないか、と指摘している。つまり、阿波の弓術が「禅」だったのではなく、オイゲン・ヘリゲ ルの「解釈」が「禅」であったのではないか、ということである。 話がここに至れば、とりあえず、阿波研造の弓術については、これ以上、詳細に見ても、コーチングに対 する「思想的影響」は見られないだろうと思われる。今度は、オイゲン・ヘリゲルが傾倒した鈴木大拙の語 っている「禅」を見ていくこととしたい。 3.鈴木大拙の語る「禅」とは何か?
鈴木大拙『禅と日本文化』の第一章は「禅の予備知識 Preliminary of the Understanding of Zen」とな っており、以降の章で美術や武士道、剣道、儒教、茶道と禅を結び付けて解説している。特徴的なことは、 この本は「禅」について書かれているのではあるが、その例として「師匠と弟子」という組み合わせの例が 多く出てくることである。例えば鈴木は冒頭に、禅の方法論として、夜盗術の過激な伝授法のエピソードを 紹介している。鈴木によれば、知識には三種あるという。第一は読んだり聞いたりすることによって得るも の、第二は科学的と言われているもの、第三は直覚的な理解の方法によって得られるもので、「禅が呼びさ まさんとするところは、この第三の形態の知識」であるという。 禅の鍛練法の特徴について書かれているところを、少し長めであるが、引用する。 ここに禅の鍛練法の一風変ったところがあるのだ。それは真理がどんなものであろうと、身をもって体 験することであり、知的作用や体系的な学説に訴えぬということである。後者は技術の末にかかずらって、 その結果皮相的になり、中心事実に到達せぬことになる。理論化ということは野球をやるときや、工場を建 てるときや、各種工業製品を製造するときなどには、結構なことであるかも知れぬが、人間の魂の直接の表 現である芸術品を創ったり、そういう技術に熟達したりする場合、また正しく生きる術をえんとする場合に は、そういう訳にはゆかぬ。事実、純正の意味の創作に関連した事柄は、いかなる事でもみな、真に『伝え 難き』もの、すなわち論議を主体とする悟性の限界を超えたものである。それゆえ、禅のモットーは『言葉 に頼るな』(不立文字)というのである。 この点において、禅は科学、また科学的の名によって行われる一切の事物とは反対である。禅は体験的で あり、科学は非体験的である。非体験的なるものは抽象的であり、個人的経験に対してはあまり関心を持た ぬ。体験的なるものはまったく個人に属し、その人の経験を背景としなくては意義を持たぬ。科学は系統化 を意味し、禅はまさにその反対である。言葉は科学と哲学には要るが、禅の場合には妨げとなる。なぜであ るか。言葉は代表するものであって実体そのものではない。実体こそ、禅において最も高く評価されるもの なのである。(pp.21-22) 鈴木がここで書いていることは、実際には「禅とは何か」について書いている訳ではない。むしろ、「禅 において、真理を得るということをどのように考えているか」ということを書いている。そもそも鈴木の言
86 う「禅」の考え方からすれば、「禅とはつまりこういうことである」という結論めいた書き方はできないだ ろう。「身をもって体験することであり、知的作用や体系的な学説に訴えぬ」のであるから、言葉で伝える ことはできない。阿波の「人間学を修める修行」としての「射道」の中に、オイゲン・ヘリゲルが見出した ものは、ここで鈴木の言っている「身をもって体験すること」によって体得できた「真理」なのではないだ ろうか。剣道、茶道など、日本人は自然とこういう禅の考え方で指導を行っている。鈴木の禅についての解 説を読むと、ヘリゲルが弓道の習得を通して禅を学びたいと考えた気持ちも理解できる。 コーチングに与えた影響についてはどうだろう。西垣は初期のトマス・レナードのプログラムについて、 「かなり世俗的な成功法則の書物であり、エアハルドの成功哲学の影響が随所に感じられる。」(p.15)と書 いている。また、エアハルドのest は、ナポレオン・ヒルやマクスウェル・マルツの成功哲学の影響を受け ているという。(p.14)こうした「成功哲学」のプログラムが実際のところ、全ての人の成功を約束したか と言えば、そのようなことはなかったであろう。実際、est は「強引な手法の一部が社会問題化した」 (p.14)という。再び、W.T.アンダーソン『エスリンとアメリカの覚醒』から引用しよう。 エストはエアハルト中心にして作られており、その知恵をどのくらい理解したかということは、その人 がどのくらいエアハルトのような行動をすることができるかによって測られるのであった。彼がその雇用者 の何人かをトレーナーの地位に昇進させたとき(初めは自分一人でやっていた巨大なエスト・セッションの リーダーになるという意味だが)、今や彼らは彼とそっくりになったのだと知らされた。マーフィーはそれ は個人的成長ということのとんでもない曲解なのだと考えた。自分自身の感情や考え方を発見するのではな く、自分たちのリーダーの猿まねをするだけなのだ。エアハルトは、それは間違ったことではないと言っ た。自分は模倣される値打ちのある人間なのだと。(p.269) ここに出てくる2 人の人物のうち、エアハルトよりはマーフィーの方が、人の成長について、「コーチン グ的」な感覚を持っていることに異論はないだろう。このマーフィーこそが、先に述べた、「コーチング」 的なスポーツ・センターの設立者である。est が持っている成功哲学の要素と、スポーツ・センターによる スポーツの「精神性と自己発見の道具」としての活用という要素が混ざり合い、コーチングという名称でコ ーチがクライアントの成長を支援するというビジネスが生まれたのではないかと推察される。そしてその思 想的背景にあったのが、『弓と禅』の阿波研造とオイゲン・ヘリゲルであり、鈴木大拙の『禅と日本文化』 で描かれている、師匠と弟子のモデルであったのであろう。 しかし、ここでひとつ疑問がある。『弓と禅』の阿波研造は「人間学を修める修行」としての「射道」を 説き始めた時期に、ヘリゲルとの出会いがあった。しかし彼には「禅」の修行はなかった。しかし、ヘリゲ ルはそこに鈴木大拙の「禅」を見出した。それでは、そもそも、鈴木大拙の言う「禅」とは、いったい、ど ういうものだったのだろうか? その答えを知るために、鈴木大拙の『禅と日本文化』が書かれた背景を探っていくこととする。 ステファン・P・グレイス「鈴木大拙の研究」(2014)は、鈴木大拙のライフヒストリーを追いながら、 彼の思想を研究した論文であるが、これによると、『禅と日本文化』はもともと、ある意図を持って書かれ た書物である可能性が示唆されている。鈴木大拙の『禅と日本文化』が最初に発表されたのは、1938 年の 『Zen Buddhism and Its Influence on Japanese Culture』であるが、その元になったのは、1936 年 6 月 から1937 年 1 月にかけて、鈴木大拙は欧米を歴訪し、各地で禅と日本文化に関する講義や講演を多数行っ
87 たものであるという。そして、その歴訪の背景には牧野伸顕、吉田茂などの政治家の意図があったという。
軍国主義が膨張し、軍部の暴走が目立つようになってきたこの時期、牧野とその女婿吉田茂は、国際関 係、とくに英米との外交関係によって日本の地位と権益の保全を果たそうとしていた。アメリカ側では Charles Richard Crane チャールズ・リチャード・クレーン(1858-1939)という人物が、長年、牧野の相 手として重要な役割を果たしていた。Crane は、アメリカで巨万の富を築いた実業家であり、その潤沢な 資金を背景に世界の各地で数多くの事業を展開していた。またアメリカ政府とも密接な関係にあり、国際社 会において大きな影響力を発揮した。大拙のこの年の欧米訪問は、実にCrane の資金援助と彼らの人脈の なかで遂行されたのであった。(p.113) ちなみに大拙は1936 年 3 月 16 日の世界宗教会議にも参加しているが、これも、Crane の援助によるも のであったという。 大拙が『禅』と結びつけつつ魅力的な──いわば美しい物語としての──『日本』像を発信したのは、 西洋列強諸国に対して対等の地位と価値を認めさせようとしたものであり、遠くは新渡戸稲造の『武士道』 や岡倉天心の『茶の本』以来の日本論、あるいはシカゴ宗教会議における宗演らの任務を継承するものであ ったと言えるが、近くは牧野らの外交戦略──文化的プロパガンダ──の一環をなすものでもあった。 (p.119) その後の流れも抑えておこう。 1930 年代が英文による欧米への発信の時代、1940 年代が日本語による禅思想の深化の時代だったとすれ ば、1950 年代は再び英文による外向きの発信の時代であったと言うことができる。1949 年(昭和 24)か ら1958 年(昭和 32)まで──なんと 79 歳の年から 88 歳の年まで──の約九年間は、短期の帰国を除い て、ほとんどの期間をアメリカでの議論と著述のうちに過ごした。この間、かの『Zen Buddhism and Its Influence on Japanese Culture』を大幅に増補して 1955 年(昭和 30)『Zen and Japanese Culture』を出 版して米国に熱狂的なZen ブームを巻き起こし、1957 年(昭和 32)にはメキシコの学会に赴いて、その 成果を1960 年(昭和 35)、Erich Fromn らとの共著『Zen Buddhism and Psychoanalysis』(『禅と精神 分析』)として刊行している。(p.145)
時系列で整理すると、『弓と禅』の刊行は1948 年であるから、ヘリゲルが読んだのは増補改訂前のもの であったであろう。しかしエサレン研究所は1970 年代であるので、もし、関係者が触れていたとすれば、 この増補版であっただろう。スティーブ・ジョブズが若いころに禅に魅了されたというのは有名な話だが、 そのきっかけとなったとされる書籍、『zen mind beginner's mind』は 1970 年に出版されている。この本 の著者の鈴木俊隆は1959 年に渡米し、サンフランシスコ禅センターを設立している。もちろん、「禅」を 学ぶためには「師」は必要だが、おそらくアメリカでも、この頃以降には、「禅」というものが師弟関係の モデルではなく、思想としての理解が深まっていく段階であったのではないかと思われる。そもそもest に も禅の要素が入っていた、という指摘もあるように2、この頃にはすでに「禅」はメジャーなものになって
88 おり、しかもそれが宗教的なものであることは理解されていたと考えた方が自然だろう。 結論としては、鈴木大拙の「禅」は直接的には、「コーチング」の誕生には影響を与えていない。あくま でもオイゲン・ヘリゲルの理解した鈴木大拙の「禅」が、影響を与えていると考えられる。 ではもう一度、焦点をオイゲン・ヘリゲルに戻し、彼が理解、あるいは誤解していた鈴木大拙の「禅」は どのようなものであったのか、見ていくこととする。 4.オイゲン・ヘリゲルからガルウェイの「インナー・ゲーム」へ これまで見てきたように、そもそも鈴木大拙の『禅と日本文化』における「禅」は日本と日本文化に対す る興味・関心を掻き立てるために理由づけとして使われたプロパガンダの元であった。結果としてはアメリ カに「禅」ブームを引き起こし、普及に貢献したことは間違いないが、少なくとも、オイゲン・ヘリゲルが 理解した「禅」は、この書籍によるものであった。一方、オイゲン・ヘリゲルは自ら弓術を学ぶ経験の中か ら、師匠のあるべき姿として、この「禅」を理解した。 ヘリゲルは、沢庵の紹介をする中で、下記のように記述している。 (前略)人は、沢庵がその本質を記述している剣の達人の境地は、外ならぬ戦闘の中で、何千回となく実証 されて来たことを忘れてはならないのである。 師の仕事は、最後の目標に通じる道そのものではないが、この道の選び方を、弟子の特性に応じて見つけ 出してやり、その責任をとることである。(p.122) 弟子に対して、このような注意の転換ではつまるところ何の得るところもないことを確信させるには、 非常に微妙な魂の指導法が必要である。彼は自分の敵手からと全く同じ程度に、決定的に自己自身からも目 をそらし、こうして徹底的な意味で無心になることを学ばねばならない。(中略)しかしひとたびこの練磨 がその目標に達するならば、その到達された無心状態においては、意図を持つことの──無心と努力して求 めるという──最後の残りかすも消え失せているのである。(p.124) ここで前提となっているのは、敵に勝とうとか、うまくやろう、という意図を持ってしまうと、結果とし て自然ではない行動をとってしまうのでうまくいかず、戦闘の中では命も落としてしまう、ということであ る。そして、それを避けて自然体のままで攻撃防御ができるようになるためには、師は弟子に対して「その 特性に応じて見つけ出し」た「魂の指導」を行う必要があると説いている。 ここには、ガルウェイのインナー・ゲームと類似した考え方を見て取ることができる。こちらも少し長く なるが、ガルウェイの語るインナー・ゲームについて、比較のために引用する。 あらゆるスポーツは、2 つの要素から成り立っている。外側のアウター・ゲームと、内側のインナー・ゲ ームだ。 アウター・ゲームは、相手と戦い、障害を乗り越え、栄冠を勝ち取るゲームだ。このゲームをマスターす るための本は、これまでにも星の数ほど提供されている。ラケットやバット、ゴルフのクラブもどうやって スイングするか、腕の形はどうするか、胴体はどうひねるのか、どうすれば理想のフォームが達成できるの かといった技術レッスンだ。
89 しかし我々の多くが、こうしたレッスンは、覚えやすいが役には立たない、頭には入るが肉体には伝わら ないことに、不承不承、気づかざるを得なかったと思う。 それは、こうしたレッスンが、もう一つの重要な要素である、インナー・ゲームを軽視してきたためでは ないだろうか。上達も、満足も、インナー・ゲームの能力を無視しては成り立たない。それが、この本のテ ーマだ。 インナー・ゲームは、プレーヤーの内側のスポーツだ。集中力の突然の途切れや、緊張、自信喪失、自己 基盤といった、内なる障害を克服するゲームのことだ。(pp.26-27) スキルやテクニックを教えることよりも、内面のコントロールを教えることを重要視する、という点で、 同じことを言っているように感じられる。もちろん、だからと言って、ガルウェイがヘリゲルから思想的影 響を受けたという証拠にはならない。 ただし、例えば、est の成功哲学がアウター・ゲーム寄りのトレーニング方法だったと考えた場合に、イ ンナー・ゲームの成長を促すものとして、コーチングの原型となるアイデアが生まれたと考えることも、あ ながち的外れではないように思う。 5.結論 冒頭に、この論考は、いわゆる現代的なコーチングが形になった時代に、「日本的なもの」がそのバック ボーンにどのような「思想的影響」を与えたのかを分析するものであるとした。これまで見てきたように、 エサレン研究所という場所で、成功哲学と自己啓発としてのスポーツが出会ったところに、「コーチング」 というものの萌芽が見られたと仮説を立てた上で、オイゲン・ヘリゲルを介して紹介された鈴木大拙が語る ところの沢庵の「不動智神妙録」の教えによる、非常に日本的な師弟関係のモデルが、アメリカでは新しい 師の在り方関わり方と弟子の精神的成長というヒントになり、それがガルウェイの「インナー・ゲーム」と 同一視され、スポーツ用語を当てはめられて「コーチ」「コーチング」という言葉が採用されるに至ったの ではないか、との仮説を得た。 「不動智神妙録」はもともと、沢庵が禅と剣道との関係について、徳川家光に認められ、徳川将軍家の兵 法指南役となった柳生宗矩に送られた書簡である。 沢庵から影響を受けたと言われる柳生宗矩の思想は、その代表的著作である『兵法家伝書』にて詳しく 述べられている。彼は、剣術の理想として沢庵の教示による「剣禅一致(剣禅一如)」等の概念を取り込 み、「修身」の手段としての剣術も提唱したことで、それまで戦場での一技法に過ぎなかった武術としての 剣術を、人間としての高みを目指す武道に昇華させた。また、「本来忌むべき存在である武力も、一人の悪 人を殺すために用いることで、万人を救い『活かす』ための手段となる」という「活人剣」を提唱し、戦乱 の時代が終わりを迎えた際、「太平の世における剣術」の存在意義を再定義した。この思想は幕府の方針と も合致しており、剣術のみならず、柔術や槍術など、江戸時代の武道各派に影響を与え、その理念は現代の 剣道にも受け継がれた。 徳川家光といえば、徳川三代目将軍であり、参勤交代など様々な施策により、その後の江戸幕府の日本 全国での支配体制を固めた将軍である。当然のように、戦時のための武術は謀反反乱の種になりかねないた め、「太平の世における剣術」を「修身」の手段として使う、という武士達の意識改革は治安維持のために も必須だったであろう。そんなとき、「活人剣」や「人間としての高みを目指す武道」という発想は彼の思
90 惑に合致していたことであろう。 再び松尾牧則『弓道 その歴史と技法』によると、武術の流派は江戸時代において驚くほど多数発生分 派しているという。 各武術の流派数は、弓術では約五〇、槍術・馬術は約一五〇、砲術・柔術は約二〇〇、剣術は約五〇〇 ~七〇〇ともいわれている。(中略)では、江戸時代に多数の流派が成立したのはなぜであろうか。(中略) 江戸時代という時代背景が多数の流派の発生に関係していると考えられる。 江戸時代以前は戦乱の時代である。江戸時代は泰平の世といわれる。泰平の世に移ったことは大きな要因 である。すなわち、戦いの場が少なくなり、技の研究が可能な時間的な余裕が生じた。また、江戸時代の幕 藩体制の確立時には人員整理が行われ、多くの武士が職を失い、浪人となった。浪人は藩に召し抱えられる ために自己アピールする必要があった。その手段として新流派を名乗って、名声を得て藩に召し抱えられる ようアピールを行った者もいただろう。また新流派を名乗って藩における地位を確実なものにしたかった者 もあっただろう。さらに、江戸時代初期には、幕府や大名によって武芸が奨励された。武術の修練に精神修 養の意義も見出され、修練の目的も多様化していった。これらも分流分派の促進材料となる。各藩に採用さ れた武術流派も、時代の変化に伴い、実践に備えるための技の伝承から、武士の教養としての武術という色 合いが濃くなって伝承されていくことになる。(pp.135-136) 沢庵の教示による「剣禅一致(剣禅一如)」を取り込んだ柳生宗矩の思想を活用した徳川幕府が、実践に 備えるための「戦闘用の武術」を武士の「教養としての武術」に塗り替えていった様子がよくわかる。こう した流れの延長線上に阿部研造の射道もあると思われる。先に、阿波研造の射道には「直接的には」禅の影 響がないと述べた。しかし、徳川幕府の方針によって、武術の意味づけの変更がなされた際、禅僧沢庵の思 想的影響を受けた各武道の指導者達が、その精神修養の説明のために禅の思想に基づいた言葉を採用するこ とによって「間接的に」影響を受けたということは大いにあり得るだろう。結果として、鈴木大拙の「禅」 に精通したオイゲン・ヘリゲルが、「禅僧沢庵の思想的影響を受けた各武道の指導者達」の影響を受けてい る阿波研造の「弓術」に、鈴木大拙が語る「禅」のエッセンスを見いだした可能性は大いにあるだろう。 1970 年代以降、アメリカではスポーツが大衆化したのと同様、日本では江戸時代に武術が大衆化したと 思われる。江戸時代の学校といえば寺子屋であるが、裕福な農家や商人の子供たちは寺子屋で読み書きそろ ばんを習い、各種道場で武術を学んでいた。武術による「修練」のバックボーンになっているのが剣禅一致 (剣禅一如)」つまりは「禅」の思想であったように、アメリカでも「禅」の影響を受けた「コーチング」 がそのバックボーンに必要だったのではないだろうか。しかし、それは日本でのように「戦乱の世から太平 の世への適応」という社会的な目的ではなく、アメリカでは「健康や幸福、成功を目指すため」という個人 的な目的であったため、そこから発展して、コーチングというビジネスが生まれたのだと推察される。 冒頭でも述べたが、実際に「思想的影響」が、特に「直接的に」あったのか、無かったのかを証明するこ とは非常に難しい。ここで積み上げてきた仮説も、影響が無かった、という何かしらのエビデンスがもし発 見されれば、簡単に否定されてしまうことだろう。 しかし、「直接的に」ではなかったとしても、ある事実があった故に、結果として、「間接的に」こうい う結果になった、ということは言えるのではないだろうか。また、まったく影響されていない、ということ を証明するのも難しいだろう。オイゲン・ヘリゲルが阿部研造に出会わなければ、沢庵の「不動智神妙録」
91 の教えがエサレン研究所に伝わることは無かったかもしれない。エアハルトの考えとマーフィーの考えが対 立しなければ、コーチングは生まれなかったかもしれない。歴史に「かもしれない」は言ってはならないこ とかもしれないが、我々は確かにコーチングが存在している世の中を生きている。それが過去のどのような 思想を刺激として、あるいは反面教師として生まれてきたのかを推察することは、歴史の針を過去に引き戻 すことを避け、更なる進化と成長を遂げて欲しいと願う、現在と未来のコーチングにとって、決して無駄な ことではないだろう。 注釈 1 高崎直道『仏教入門』東京大学出版会(1983)によると、平安時代に、最澄と空海が唐に渡り、新しい 仏教を輸入しようとした。先に帰国した最澄は、まず天台宗を広めた。特徴として、最澄の思想には旧 仏教に対して反駁するものが多いという。その後、遅れて空海が真言宗を持ち帰り、最澄とは違う方法 を説いて大衆信仰として広まった。最澄は、その後、禅・念仏・密教を取り込んで大乗仏教の統合を目 指したといい、これが鎌倉時代に日本的な「禅」を含む新仏教諸宗を生み出す母胎となったという。つ まり、「禅」は鎌倉時代に禅宗(南宋禅)として日本に伝えられる前に、最澄によってその一部の思想が 伝えられていた(北宋禅)。一方、「不立文字」などは南宋禅を教団化した慧能によるものであり、鎌倉 時代に日本にもたらされた思想である。いずれにせよ、阿波の学んだ弓は真言宗の僧侶によるものであ り、天台宗によるものではないので、そこに「禅」の要素が色濃く入っていた、ということは考えにく く、あくまでもそれ以前の仏教の要素、真言宗のエッセンスが多かったのではないかと思われる。 2 原口佳典「「コーチング」の歴史を再構成する」(『支援対話研究 第1号』所収)ビズナレッジ(2013) の中で、「塩谷によれば、エスト(EST)は元々、禅の考え方を取り入れたセミナーの一種であった」と書 かれている。この塩谷とは、参考文献にある塩谷智美『マインド・レイプ 自己啓発セミナーの危険な素 顔』三一書房、1997 年の書籍の著者ことであるが、この書籍には、この「禅」について、これ以上の記載 がないので、どういう点で「禅の考え方を取り入れた」のかは現時点ではわからない。また、出典は不明 だが、橘玲公式BLOG に下記の記載があった。 ウェルナー・エアハルトは高校を卒業すると、大学には行かず、車や通信教育の教材を訪問販売する セ ールスマンとして生計を立てた。彼はデール・カーネギーの成功哲学の熱烈な信奉者で、セールスマンと して頂点を極めた後にセールスマン・トレーナーに転進した。 もともと心理学に興味のあったエアハルトは、マズローの人間性心理学とヒューマン・ポテンシャル 運動に魅了され、サンフランシスコに居を移してエスリンに通いつめるようになった。エアハルトはそ こでフリッツ・パールズのゲシュタルト療法を受け、ウィリアム・シュッツのオープン・エンカウンタ ーを体験し、アラン・ワッツから禅を教えられ、それ以外にもオカルトから東洋思想、サイエントロジ ーまでありとあらゆる「至高体験」を試みた後、満を持して「エアハルト・セミナーズ・トレーニン グ」(略称“エスト”)を設立した。 エアハルトのアイデアは、エスリンの高尚で秘教的な雰囲気を一掃し、ヒューマン・ポテンシャル運動 の成果を誰でも手軽に体験できるようにすることだった。ワークショップはホテルの大会議室で行なわ れ、トレーナーやその助手はスーツ姿で、雰囲気はセールスマン・セミナーそっくりだった。
92 エアハルトは参加者に、人間性の変革ではなく実社会での効用を説いた。 1. ひとは無限の可能性をもっている。 2. 能力は、教育や学習、訓練によって開発できる。 3. 自己啓発した主体によって、人生は成功と幸福に向けて進化する。 これによると、つまり、エアハルトの知っている「禅」は、アラン・ワッツの「禅」であったことが わかる。アラン・ワッツが1957 年、19 歳で初版が書かれたという The Way of Zen では、禅の歴史的 背景から実践法、文化的影響までが書かれており、参考文献には、鈴木大拙のエッセイも見られる。た だし、オイゲン・ヘイゲルが感じ取ったような、また、ガルウェイが表現したような、「教えない」教育 法について、「セールスマン・セミナーそっくり」と評されているest には、影響が入っていないと考え られるため、est 以外の何かから影響が別にあった、と考えられる。 参考文献 鎌田茂雄『禅とはなにか』講談社学術文庫(1979) オイゲン・ヘリゲル(稲富栄次郎・上田 武 訳)『弓と禅』福村出版(1981) オイゲン・ヘリゲル(柴田治三郎 訳)『日本の弓術』岩波書店(1982) 高崎直道『仏教入門』東京大学出版会(1983) 柳田聖山『禅と日本文化』講談社学術文庫(1985) Alan Watts. The Way of Zen VintageBooks(1989)
多屋頼俊、横超慧日、舟橋一哉編著『[新版]仏教学辞典』法蔵館(1995) W.T.アンダーソン(伊東 博 訳)『エスリンとアメリカの覚醒』誠信書房(1998) ティモシー・ガルウェイ(後藤新弥 訳)『新インナーゲーム』日刊スポーツ新聞社(2000) 山田奨治『禅という名の日本丸』弘文堂(2005) 鈴木大拙(北川桃雄 訳)『対訳 禅と日本文化』講談社(2005) 沢庵(池田 諭 訳)『不動智神妙録』たちばな出版(2011) 柳生宗矩(渡辺 誠 編訳)『[新訳] 兵法家伝書 強いリーダーの条件とは何か』PHP 研究所(2012) 原口佳典「「コーチング」の歴史を再構成する」(『支援対話研究 第1号』所収)ビズナレッジ(2013) 松尾牧則『弓道 その歴史と技法』日本武道館(2013) ステファン・P・グレイス『鈴木大拙の研究─現代「日本」仏教の自己認識とその「西洋」に対する表現 ─』(2014) 西垣悦代・堀正・原口佳典『コーチング心理学概論』ナカニシヤ出版(2015) 参考URL 柳生宗矩(Wikipedia)(平成 30 年 6 月 10 日アクセス) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E5%AE%97%E7%9F%A9 橘玲公式BLOG 自己啓発の歴史(7) 社会革命から自分革命へ https://www.tachibana-akira.com/2013/02/5571 (平成30 年 6 月 10 日アクセス)