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20世紀前半の日本における薙刀教育の女性化

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20 世紀前半の日本における薙刀教育の女性化

ベレック クロエ

BELLEC Chloé

はじめに 1 「列女伝」に描かれた歴史上の女性 2 女子武道として薙刀教育の始まり 3 薙刀教本における薙刀教育の女性化――19 世紀末から 1935 年まで 3.1 女子教育向けの薙刀教本の登場 3.2 薙刀教本などに登場した歴史上の女性 4 女性化した薙刀教育――1936 年から 1945 年まで 4.1 女子に適した薙刀 4.2 薙刀教本などに登場した歴史上の女性 4.3 女子のみの武道としての薙刀 おわりに 要旨:薙刀なぎなたとは、本来長い柄の先に反り返った長い刃をつけた武器である。20 世紀半ばまで は学校教育制度外における武術流派の道場で、男性のみならず女性にも薙刀の稽古が続行さ れたが、1910 年に師範学校の女子生徒を対象に課外活動として認められた薙刀は、やがて高 等女学校・女子実業学校へと広がった。それは、第二次世界大戦の終結後、GHQ の指令によ り学校での武道教育が廃止されるまで続いた。 20 世紀前半に女子教育の領域で普及した薙刀は、ジェンダーに関する新たな問題を提起し ている。薙刀は、相手を攻撃し、戦うための武器である。「武器」・「攻撃」・「戦う」という言 葉で表現されることは、社会的には「男性らしい」と見なされているものである。にもかか わらず、薙刀は女子教育においていかなる理由で採用されたのだろうか。そして、学校教育 では、社会や文化における男や女に対する期待と規範が教えられ、体育の教育も「女らしい」 「男らしい」という期待に沿いながら行われている。そこで本論文では、20 世紀前半の日本 の薙刀教育において、「女性らしさ」に対する社会の期待の変化がどのように示されていたか を明らかにする。 当時の女子生徒向けの薙刀教本では、女性らしい健康な身体に備わった女性の優美さと、 薙刀との関連性がよく指摘され、薙刀教育は女子の「女性らしさ」を育成しなければならな いとされた。そして、薙刀教本では、薙刀と関係がある女性の例をよく取り上げることで、 女子教育と薙刀の歴史的関係を強調し、女子向け教育として薙刀を正当化するとともに、薙

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刀を女性らしいものにした。 20 世紀前半において学校教育に導入された武道の中では、薙刀だけが女子のみを対象とす るものであった。薙刀を女子教育に採用することによって、女子の武道は男子の武道と差異 化された。薙刀は女子武道を代表するものとされ、それによって男子との相違が強調された のである。このように、薙刀を女子のみの武道として設定することによって、薙刀は女性化 されたのであった。 キーワード:女子教育、薙刀、体育史

はじめに

長い柄の先に反り返った長い刃をもつ薙刀 なぎなた は、中世においては僧兵と武士によってよく用いられた 武器の一つであったが、江戸時代になると男にも女子にも稽古をさせるようになり、とりわけ武家の 女子を対象とした教育道具となった。薙刀は、武術流派においては剣術や槍術の中の異種武器として 考えられていた。薙刀には他の武器で使う技が組み込まれ、薙刀の稽古は木製の道具を使用した打突 だ と つ (打つことと突くこと)や、太刀対薙刀の組技の「形」を中心に行われた。 19 世紀末から 20 世紀半ばにかけて、女子体育の発展とともに、薙刀教育も普及していった。1886 年には師範学校令の公布によって「尋常師範学校ノ学科及其程度」が定められ、男子教育では「普通体 操」と「兵式体操」、女子体育では「普通体操」が課された(掛水 2018 年、21 頁)。そして、1895 年 の「高等女学校規程」によって「体育」は、高等女学校の必修科目として設定された。その規定の中に は、体育の内容として「普通体操」と「遊戯」1が示された(大家 1995 年、5 頁)。1913 年に公布さ れた「学校体操教授要目」では、「体操科ノ教材ヲ体操、教練及遊戯トス」と、「兵式体操」が「教練」 と改められ、女子にも課されることになった(同上)。 同時に薙刀は、女子教育における女子体育の中の武道として発展するようになった。薙刀と弓道の 教育は、1910 年に師範学校の女子生徒の課外活動として認められてから、次第に学校教育の中に普及 していった2。その後、1914 年に開催された全国高等女学校及び実科高等女学校長会議において、文部 省から「高等女学校及実科高等女学校ノ生徒ニ適当ナル遊戯ノ種類如何」という諮問があり、それに対 する答申で、「高等女学校及実科高等女学校ノ生徒ニ比較的適当ナリト認ムル遊戯ノ種類」として薙刀 と「弓術」(弓道の古名称)が挙がっている。1936 年には、薙刀と弓道は女子師範学校や高等女学校、 女子実業学校の正課になった3。そして、1941 年に成立した国民学校において、薙刀は「武道」の正課 として認められた4。最終的に1943 年に、女子師範学校5、高等女学校6、女子実業学校7において薙刀 は正課必修になった。 20 世紀半ばまでは学校教育制度外における武術流派の道場で、男性のみならず女性にも薙刀の稽古 が続行されたが、1910 年に師範学校の女子生徒を対象に課外活動として認められた薙刀は、やがて高 等女学校・女子実業学校へと広がった。それは、第二次世界大戦の終結後、GHQ の指令により学校で の武道教育が廃止されるまで続いた。 20 世紀前半に女子教育の領域で普及した薙刀は、ジェンダーに関する新たな問題を提起している。 薙刀は、相手を攻撃し、戦うための武器である。「武器」・「攻撃」・「戦う」という言葉で表現されるこ

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とは、社会的には「男性らしい」と見なされているものである。にもかかわらず、薙刀は女子教育にお いていかなる理由で採用されたのだろうか。この問題は、女性史にとって重要な課題として、ジェンダ ー概念を利用して分析することが必要である。 当時、学校での薙刀教育の対象が女子のみになったことにより、女子教育に相応しい形とするため に、薙刀教育も変容を余儀なくされた。学校教育では、社会や文化における男や女に対する期待と規範 が教えられ、体育の教育も「女らしい」「男らしい」という期待に沿いながら行われた。明治維新から 第二次世界大戦までの間に学校教育の変遷とともに、女子に限定された薙刀教育に対する期待も変化 していったのである。そこで本論文では、20 世紀前半の日本の薙刀教育において、「女性らしさ」に対 する社会の期待の変化がどのように示されていたかを明らかにする。 まず、19 世紀末から 20 世紀半ばまでの女子体育の発展をみるにあたっては、先行研究として岸野 雄三・竹之下休蔵『近代日本学校体育史』(1983 年)と大家千枝子「明治期における高等女学校の体 育の実際に関する史的考察 : 近代日本の女子体育史研究の一環として」が挙げられる。だが、同時期 における女子教育と薙刀教育に関する研究は若干しかない。その中では、江刺正吾編『体操・薙刀から スポーツへ:戦前の女子高等教育機関における身体教育』(2003 年)と中村民雄の「近代薙刀小史」 (2004 年)が、学校における薙刀の発展と教育の精神について述べている。明治期から現代にかけて 学校で行われた女子の薙刀教育についての先行研究として、福田啓子の『近・現代薙刀(なぎなた)史 ―先駆者による女子教育への功績を基軸として―』(2009 年)もある。そこで福田は薙刀の稽古を行 った学校や指導者の数について詳しく述べている。これらの研究は、薙刀教育の歴史を明らかにした ものとして重要だが、薙刀と女性の関係を当然のものと見なしており、女子教育における薙刀の役割 については深く論じていない。 そのため本論文では、まず明治維新から第二次世界大戦の終結までの間に、「女性らしさ」に対する 社会の期待がどのようにして薙刀教育の中に登場し、薙刀教育がいかにして女子に限られるようにな ったかを検討する。そのために、「列女伝」と薙刀教本に掲載された歴史上の女性を比較し、薙刀教育 においてどのような歴史上の女性が重視されていたかを明らかにしていきたい。「列女伝」とは、儒教 的な道徳を身につけるために、貞節な生活と出来事で知られた女性の史伝(歴史上の事実に基づいた 伝記)が集められている教訓書の一種である。これらの史伝の中には、薙刀を持っている歴史上の女性 がしばしば掲載されている。ちなみに、「列女伝」は主に明治前半に、薙刀教本は明治後半から昭和戦 前期にかけて刊行されており、両者の刊行時期はずれていたが、薙刀教本と「列女伝」に登場する女性 は重複している。さらに、薙刀教本に掲載された女性は、「列女伝」のように道徳的に模範とすべき女 性の例として言及されている。そのため、「列女伝」と薙刀教本の中に登場する女性の描写を明らかに することで、女子教育の変遷を分析することができると思われる。

1 「列女伝」に描かれた歴史上の女性

学 校 教 育 の 中 で 女 子 に 薙 刀 が 教 え ら れ る よ う に な っ て い く に 先 だ っ て 、「 列 女 伝 」 と 呼 ば れ る カ テ ゴ リ ー の 本 が 刊 行 さ れ た 。本 来「列女伝」とは、中国の女性の史伝を集めた歴史書で あるが(劉向、中 島 訳 注 2001 年 、14 頁 )、江戸時代に日本に伝わり、女性の修養のための「列 女伝」が刊行された。日本の「列女伝」は女性像を、賢明、貞淑、節義などの類型に分け、それに属す る賢母、烈婦(列女に同じ。節操をかたく守る女)の話を集めた女性の理想像を著した教訓書の一種で

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ある。江戸時代における武家の女子は、「列女伝」などの教訓書を通じて儒教的な道徳を身につけるこ とが奨励された(川 野 辺 編 1977 年 、 206 頁 ) 。 明治時代になっても、「列女伝」はいくつも出版された。明治時代における「列女伝」のタイトルは、 『日本名婦伝』(隅田編 1883 年)や『大日本古今名婦鏡』(村井編 1884 年)のように様々である が、いずれも女性の史伝である。1875 年に出版された『本朝列女伝』は、学校で修身教科書として利 用されるなど8「列女伝」は小学校や女学校で修身教育の教材として使用された。 『明治期婦人伝記文献集成』(日 本 図 書 セ ン タ ー 1994 年)は、55 巻のマイクロフィルムとして 明治時代の女性の伝記に関する本をまとめている。この『明治期婦人伝記文献集成』の中に収録されて いる228 点(265 冊)の中で、「列女伝」は 51 点を占めている。「列女伝」の対象は、古代から明治に かけての女性であり、日本のみならず欧米の女性もしばしば含まれている。明治時代に出版された「列 女伝」の大半は、1875 年から 1890 年にかけて出版された。というのは、教科書の検定制度が 1886 年 に始められ、古い型の教科書が排除されるようになり(豊泉清浩 2015 年、30 頁)、1904 年には国定 修身教科書が採用され、頒布されることになった(滋賀大学附属図書館編 2006 年、19 頁)。その結 果、1890 年代から「列女伝」はあまり刊行されなくなった。つまり、「列女伝」が教育のための教材と して使われたのは、明治前半までといえるだろう。 日本の「列女伝」の図像には、武器を用いている女性が登場するが、次ページの表1 を見ると、「列 女伝」の中では刀と短刀が圧倒的に多く描かれており、刀と短刀をもっている女性の姿だけの「列女 伝」もあることが分かる。このことから、薙刀は主に女性に用いられていても、女性がもっぱら薙刀の みを利用していたわけではないことがわかる。 1875 年から 1911 年までの時期に「列女伝」は 36 点刊行されているが、そのうち 24 点に薙刀を描 いている絵が掲載されている。源平合戦(1180 年-1185 年)で戦った女性として『平家物語』(13 世紀前 半)の中に登場する巴御前9は、「列女伝」にしばしば(12 回)登場するが、たいていは薙刀のかわり に太刀(8 回)を用いている姿で描かれている。例えば、下の図 1 のように、1887 年の「列女伝」に 描かれた巴御前は薙刀は持っていない。 「列女伝」において薙刀を握る巴御前の 姿が登場するのは、1887 年から 1911 年に かけて3 回のみだが、なぜ太刀のかわりに 薙刀が描かれたのか。武士身分の女子むけ の教育として薙刀の稽古が普及し始めたの は江戸時代からであり、平安時代に薙刀を 使用した女性の存在は確認できない(前畠 2006 年、182 頁)。巴御前の生きた平安時 代は江戸時代からは大分離れているが、薙 刀を持つ巴御前は江戸時代の武家女性と同 化され、いつしか薙刀と一緒に巴御前が描写 されるようになったのである。つまり、女性 が薙刀を手にして戦ったという歴史的な根拠 がないにもかかわらず、巴御前の古き名高きイメージによって、薙刀は女子の歴史的武術として正当 化されたといえよう。 図 1:馬に乗る巴御前と武士 (出典:長谷川孝次郎編(1887)『絵本古今名婦伝』 出版社不明、4 丁裏-5 丁表) (URL:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/883495)

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表1:武器をもった女性を掲載している「列女伝」

表1 からもわかるように、「列女伝」の絵の中で薙刀を持つ女性は 20 人であり、延べ 54 回登場し ている。再版を含めて、「列女伝」の中で一番多く掲載されている薙刀をもった女性は、武田勝頼の妻 出版年 「列女伝」 薙刀とともに登場する女性の名 前 他の武器の存 在 挿絵の中で女 子とともに登場 する薙刀の数 1875年 疋田尚昌編『本朝列女伝』上・下 刀3 1875年 堀重修(岶陰)編『新撰列女伝』巻1-2 奥村助石衛門の妻、宮城野 刀2短刀1 2 1879年 白川琴水(幸)編『本朝彤史列女伝』初編、乾 刀1 1879年 松平直温編『小学勧善本朝列女伝』 和泉三郎忠衛妻、武田勝頼の妻(薙刀2 本) 刀1短刀2 3 1881年 岡田霞舩(良策)編『孝貞節烈近世名婦伝』初編 上・下 武田勝頼の妻(薙刀2本)、田丸松子 刀6短刀2 3 1881年 松村春輔著『貞操節義明治烈婦伝』第1巻 刀2 1881年 弄月亭有人編『赤穂義士烈婦銘々伝』 木松三吉夫妻 刀3短刀1槍1 1 1881年 岡田霞舩(良策)編『近世名婦百人撰』上・下 田丸松子、小野田佐紀子 刀4短刀3槍1弓1 2 1882年 岡田霞舩(良策)編『孝貞節烈近世名婦伝』二編 上・下 刀2短刀1 1883年 高畠藍泉・柳亭種彦編『続明治烈婦伝』 刀3短刀2 1883年 隅田古雄編『日本名婦伝』 白縫姫、静御前、板額、明智光秀媛、阿 能の局 刀2短刀2弓1 5 1884年 村井静馬編『大日本古今名婦鏡』 更科、武田勝頼の妻 刀3短刀3槍1 2 1884年 高畠藍泉編『貞操節義明治名婦百首』上・下 伊集院綱子 刀2短刀2鉄砲1 1 1884年 菅丘源鸞岳撰『女訓皇朝烈女伝』前・続・三編各上・下 真田信之の婦人、浜田何某の妻、宮城 刀2短刀2槍1弓1 3 1884年 町田滝司編『貞操名婦伝』 宮城野、田丸松子 刀3短刀1 2 1884年 町田滝司編『明治新刻名誉姫鏡』 小野田佐喜子 刀1短刀2 1 1884年 隅田春暁『皇国烈婦伝』 板額、白縫姫(薙刀2本)、宮城野、阿能 の局 刀1弓1鎖鎌1 5 1885年 隅田春暁『皇国烈婦伝』 板額、白縫姫(薙刀2本)、宮城野、阿能 の局 刀1弓1鎖鎌1 5 1885年 山高幾之丞『古今列女伝』 刀5短刀4 1886年 嵯峨野増太郎編『古今名婦伝』 更科、武田勝頼の妻 刀3短刀3槍1 2 1886年 前田徳太朗編『絵本皇国烈女鑑』 武田勝頼の妻 刀1 1 1887年 白水常次郎 (風月)編『東洋百花美人伝』 巴御前、伊賀局 2 1887年 長谷川孝次郎編『絵本古今名婦伝』 宮城野、阿能の局 刀1鎖鎌1 2 1887年 谷口老鶯編『東洋閨範烈女伝:一名女子宝鑑』 刀1短刀2 1887年 秋葉亭霜楓編『花井於梅粋月奇聞』上・下 刀2 1888年 鈴木万吉編『帝国烈婦伝』  板額、白縫姫(薙刀2本)、宮城野、阿能 の局 刀1鎖鎌1 5 1889年 佐藤清三郎『絵本名婦伝』 更科、武田勝頼の妻 刀1鎖鎌1 2 1890年 志水鳩峰編『日本名婦百人伝』 刀2弓3 1894年 山崎彦八編『日本賢女百人伝』 短刀1弓3 1898年 瀬川さわ子『名女伝』 仙石氏の女 刀1弓1 1 1900年 隅谷巳三郎『東西名婦の面影』 武田勝頼の妻 刀2 1 1902年 須藤愛司(靄山)『名士名家の夫人』 恩地夫人 1 1909年 斎藤鹿三郎編『隠れたる偉人模範女子』 短刀1 1910年 金港堂書籍株式会社編輯部編『少女鑑』 巴御前 刀1短刀1 1 1911年 渡辺白水著『少女美談』 刀1 1911年 山田可々子著『学校家庭孝女百話』花の巻 巴御前 1

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(7 回)と宮城野(6 回)である。彼女たちの図の例として、以下の図 2 と図 3 をあげることができ る。 宮城野とは、1723 年に仇討 ちを行った、奥州の幼い姉妹 である宮城野・信夫のことで ある10。また、武田勝頼の妻 は、正確な名前は不明である が、勝頼に嫁いだ翌年、実家 の北条家と武田家が断交した のにもかかわらず、悲劇の武 将勝頼に最後まで連れ添って 1582 年に 20 歳で死亡した。 このように、「列女伝」の中 に掲載されている女性は、平 安 時 代 か ら 明 治 時 代 ま で の 様々な時代の人物である。「列 女伝」の女性たちが薙刀を用 いる状況は時代によって異な るが、古代の源平合戦、戦国時代と安土桃山時代の籠城、幕末の戊辰戦争と西南戦争11などの戦闘にお いて薙刀を手にした武家女性がしばしば描かれている。 だが、「列女伝」の中で薙刀を持って登場した女性のことは、史料で実証することができない場合も ある。例えば、前述のように女性武士である巴御前と板額御前は、源平合戦(1180-1185 年)で薙刀を武 器として戦ったとしばしば言われている。しかしながら、源平合戦からおよそ100 年後に書かれた『平 家物語』などの史料からは、巴御前と板額御前が薙刀を利用したという記載がないため、その事実を確 認できない。 また、「列女伝」の中に薙刀をもつ女性の挿絵があるにもかかわらず、物語の中ではその女性が薙刀 を利用した叙述がない場合もある。例えば、図 3 の武田勝頼の妻についての記述では、薙刀にはひと 言もふれられておらず、武田勝頼の妻が貞節な女性であることを示す出来事についての記述が中心と なっている。ちなみに、武田勝頼の妻が、実際に薙刀を使って戦ったと語る史料はない。武家の女性と しての武田勝頼の妻を表象するために、「列女伝」の図では薙刀が描かれているといえよう。 また、「列女伝」の図では、薙刀を持つ女性の姿は、主に立ったままのポーズが掲載されている。「列 女伝」の中で薙刀をもった女性が登場するのは全部あわせると 54 回であるが、それらの図において、 戦っている女性の姿は9 回しかない12。立って薙刀を持っている女性の姿は17 回あり、「列女伝」の 図の中には、女性の戦っている行動の描写よりも、歴史上の女性の単なる肖像としての図が多く掲載 されていると言えよう。 しかも「列女伝」の中に薙刀と一緒に登場した女性は、敵軍または悪党に襲われて、自らの名誉(貞 節)か家族を護るために、薙刀で戦い、犠牲になった女傑の例としてしばしば描かれている。また、他 の武器を含めても、女性が武器を利用する機会は、一般的には家族の保護と自らの名誉の保持のため であった。これらの状況において、女性の戦いは非常時における見事な出来事として表現されている。 図 2:薙刀持つ宮城野と鎖鎌を持つ信夫 図 3:武田勝頼の室 (図 2 出典:堀重修(岶陰)編(1875)『新撰列女伝』巻 2、19 丁表) (URL 図 2:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778150) (図 3 出典:嵯峨野増太郎編(1886)『古今名婦伝』日月堂、21 丁表) (URL 図 3:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777883)

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つまり、明治期においては、女性が薙刀を使って戦う状況は、自衛あるいは名誉を守るための行動とし て認められていたといえよう。 「列女伝」の刊行が行われなくなるのは20 世紀初頭であるが、このころになると、男女の武術であ った薙刀が女子教育に次第に導入されていった。

2 女子武道として薙刀教育の始まり

江戸時代の藩において武芸の専門家であった「武芸師範」13は、藩士たちや藩主に武芸を指導した人 物である( 太 田 2003 年 、 6-7 頁 )。この「武芸師範」は特定の流派を名乗って道場を持ち、弟子 を指導している(同上)。明治時代の初期において武士身分が解体され、廃刀令が出されて、多くの武 術流派は断絶した。職を失った武士の一部は、「撃剣会興行」(剣術の試合を見世物にした興行。「撃剣」 は剣道の古名称)を開催し、「撃剣会興行」の試合で戦った女武芸者の中には学校薙刀の指導者となる 先駆者もいた(福田 前掲書、8-18 頁)。 日本の近代教育制度は、西欧文明の大幅な導入による開化政策から始められた。しかし、近代化が一 段落した1880 年代前半には、急激な西欧化を見直す動きも現れた。学校ではそれまで取り上げられて いた欧米の体操に代わって、日本的な武術を採用しようとする動きも出てきた(中村 前掲書、11 頁)。 1883 年に文部省は体操伝習所に対して剣術及び柔術の教育上の利害を諮問した(岸野・竹之下 前掲 書、17 頁)。その結果、剣術と柔術は「多少危険を伴い」と指摘され、武術の一対一の教授法は学校 の団体教育において不適であり、学校の正課として採用することは不適と見送られた(森田 1995 年 12 月、67 頁)。 そこで批判された点を克服するために、小沢卯之助14などの教育家によって、1890 年代末から 1920 年代にかけて多様な武術体操法が考案された。この武術体操法の中には、剣術と柔術の他に薙刀術も 含まれていた。それは「薙刀体操」というものであり、木製の薙刀を持ちながら、武術の動きを参考に して、一対多数の指導で体操を行うものである。「薙刀体操」の稽古においては、列になった個々人が、 連続した動きを演技することになる。しかし、1920 年代に「武道の方面から見て甚だ価値の少ないも の」(山本 1922 年、99 頁)と批判され、以後消失した。 「武道」という言葉は江戸時代以前から使われていたが15、それは武士の規範意識や生活態度を指し、 「武士道」の意味で用いられていた(魚住 2008 年、8 頁)。武術と武士道の思想と合わせた「武道」 の概念は、明治後半から現われ、次第に普及していった(井 上 2004 年、2-3 頁)。「柔術」と「剣術」 の代わりに「柔道」と「剣道」という名称が用いられるようになり、これは1900 年代から 1910 年代 において知られるようになった(魚住 前掲論文、22-23 頁)。同時に「柔術」と「剣術」において形 が統一されるとともに、集団教授法が開発され、武術の教育が近代化された(同上 18-22 頁)。結局、 形が統一された「柔術」と「剣術」が「柔道」と「剣道」になったのである。文部省の用語としては、 1926 年の中学校令施行規則改正16によって、「剣道・柔道」の名称が定着することになった。「剣道・ 武道」は、学校教育制度に導入されてから第二次世界大戦の終結まで、対象者は男子に限定されていた が、一般の武道場における剣道と柔道の稽古に参加した女性も存在していた17 20 世紀の初頭における薙刀教育は、対象がまだ女子に限定されていない。例えば、小沢卯之助は『薙 刀体操法・初段』の中で「薙刀体操は老若男女に通じて行ふ」(小沢 1903 年、3 頁)と述べている。 また、1908 年から姫路師範学校において薙刀教育が行われたが、学校の生徒は男子であった(園部

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1965 年、16 頁)。しかし、この師範学校の薙刀教育の目的は、将来に学校で女子に薙刀を指導する教 師の育成であった(福田 前掲書、16 頁)。結局、学校における薙刀の対象は女子になる傾向があった ことが指摘できる。 岸野雄三・竹之下休蔵の『近代日本学校体育史』によると、各学校で薙刀教育を実施するか否かは校 長の判断によって決められるため、女子体育において、校長は先覚的な役割を担っていたという(岸 野・竹之下 前掲書、60 頁)。わずかな学校において薙刀教育が行われていたが、例を挙げると、奈 良女子高等師範学校では、校長の判断によって 1909 年に薙刀教育が開始された(福田 前掲書、25 頁)。 日露戦争後に、19 世紀末に成立した良妻賢母思想の影響を受け、将来の妻や母となる女子に対して 健康な身体の養育が重視されるようになり、師範学校では女子に対する運動の課外活動が発展した(岸 野・竹之下 前掲書、80 頁)。1910 年 5 月 20 日に開催された全国師範学校長会議では、文部省から 「師範学校生徒ヲシテ課外ニ行ハシムヘキ適当ナル運動及作業ノ種類如何」という諮問があり、それ に対する答申で、「女生徒ニ行ハシムへキ適当ナル運動ノ種類」として薙刀、水泳、弓術、氷滑り(ス ケート)、庭球が挙がっている(文部省普通学務局編 1911 年、12-19 頁)。その後、薙刀は 1914 年 に開催された全国高等女学校及び実科高等女学校長会議で、高等女学校と実科高等女学校の女子生徒 の課外活動として認められた(高等女学校研究会 1989 年、242 頁)。薙刀は、女子生徒にのみ課外活 動として認められたことになる。女性の体育活動では生理と衛生の側面が重視され、当時「撃剣」と呼 ばれた剣道は、女性にとって危険だと思われた。1915 年に出版された『家庭の衛生』の中で、村井弦 斎は、薙刀の方が適当だと、以下のように説明している。 ところで婦人の運動法として撃剣の利害如何と考へますのに、成女期以後の婦人には過激に亘つ て害があらうと思ひます。[…]婦人には撃剣よりも寧ろ薙刀の方が適当して居りませう(村井 1915 年、297-298 頁)。 このように、学校は剣道に対して批判的だったことがわかる(岸野・竹之下 前掲書、79 頁)。つ まり、「形」を中心に稽古する薙刀の方が女子の体にとって安全と見られていた。 1911 年に中学校と師範学校においては、剣道と柔道が男子生徒に対する正課として採用されたが、 師範学校・高等女学校・実科高等女学校の女子生徒に対する薙刀は、まだ課外活動としての地位に留ま っていた(山本 前掲論文、99 頁)。その理由は、薙刀の指導者数が少なく、全国一律の薙刀教育の形 が決定されていなかったことにある。東京高等師範学校の助教授として、剣道教授案である『剣道要 義』(1917 年)を著した山本長治は、1922 年に「女子と薙刀」という記事の中で、学校における課外 活動として薙刀が徐々に普及していることをふまえながらも、男子の学校における武道の普及に比べ て「女子の学校にては之を課してゐるものが甚だ少ない、これは女子に科ママする武道として適当なる科 目及び指導者のなきと、未だ世に其の必要を感ずるもの少なきとによるのであらう」(同上)と述べて いる。しかし、山本は「古来の薙刀術の真髄を一般女子の体育に応用せんことを切望して止まない」 (同上)と述べ、4 頁にわたって、薙刀の起源と歴史、薙刀術の流派、刃・鍔といった薙刀の各部分の 名称と種類について詳しく説明しており、薙刀を女子教育における教材として発展させることに期待 を寄せていたことがわかる。

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3 薙刀教本における薙刀教育の女性化――19 世紀末から 1935 年まで

3.1 女子教育向けの薙刀教本の登場

薙刀が学校において次第に普及し始めた時に、薙刀の教本も登場した。最初の薙刀教本は1897 年に 刊行され、以降、1943 年までに 26 冊が出版されている。だが、1926 年から 1935 年には薙刀の教本 は出版されていない。その理由としては、学校における課外活動として薙刀の普及は続いていたもの の、薙刀教育が正課科目になった1936 年まで、課外活動である薙刀の教本は不要とされていたことが 考えられる。そのため、薙刀教本の分析は1897 年から 1935 年までと、1936 年から 1943 年までの二 つの時期に分けることができる。本章では1935 年までの薙刀教本 11 冊(表 2)を検討し、1936 年以 降のものは次章で検討する。 表 2: 1935 年 ま で の 薙 刀 教 本 男女向けの教本はイタリック体で記す。 19 世紀末期から 1935 年までに出版された薙刀教本 11 冊のうち、男女を対象とした薙刀体操の教本 が、7 冊を占めている。1909 年までに刊行された小沢の薙刀体操の 5 冊の教本は、全て男女を対象と するものであった。ただ、薙刀体操の対象が男女であったといっても、『薙刀体操法・初段』の中で小 沢は「一、薙刀体操は老若男女に通じて行ふべき者なれども修業者の年齢と体格とに応じ宜しく酙酌 する所あるべし」(小沢 前掲書、序文3 頁)と述べているように、薙刀体操が皆に対して同様に教え られるべきだと考えられていたわけではない。 小沢は教本全体の中で、「健康ノ保護増進」(小沢 1906 年、序文 2 頁)「快活剛毅ナル精神」(同上) といった表現を用い、武術体操における生理的な有益性と精神修養の利点を頻繁に述べている。1906 年の『改正薙刀体操法:後編』の中でも、小沢は、男女区別をせずに、以下のように、薙刀体操が大和 魄の涵養という点において優れており、それが一身の護衛から国家の攻防にまで関連していることを 述べている。

出版年

薙刀教本

1897

小沢卯之助『武術体操法』大日本図書

1903

小沢卯之助『薙刀体操法・初段』宝文館

1904

小沢卯之助『体育的薙刀舞』宝文館

1906

小沢卯之助『改正薙刀体操法:後編』学海指針社

1909

小沢卯之助『改正薙刀体操法:前編』学海指針社

1909

中島賢三『長刀体操法』中島賢三

1917

江夏金太郎『薙刀体操教範:前編』江夏金太郎

1918

小沢卯之助『体育流剣術薙刀術』大日本学校衛生協会

1918

中島賢三『木剣及長刀体操法』目黒書店

1918

石井将之『楊心流薙刀術』広島県立広島高等女学校

1925

新井(中山)つた『体育としての薙刀』東洋図書

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殊ニ大和魄テフ武士的訓練ノ点ニ於テ、之レ[薙刀体操法一名体育流薙刀術――引用者]ヲ世界ノ有 ラユル現行体操法ニ比シテ大イニ優ル有ルモ、毫モ劣ル無キ者ト断言シテ憚ル可キ者デ無イ。又 実用上カラ申セバ、一身ノ護衛カラ国家ノ攻防ニ関スル利益ガ有ル(同上 序文2-3 頁)。 この教本の中では、「帝国民元気」(同上)・「我ガ大和民族」(同上、序文3 頁)という表現も登場し ている。それまでの教本にはなかった日本国家という視点から武術教育の有益さが説明されるように なっていることがわかる。これは、1904-1905 年 の 日露戦争の勝利によって富国強兵主義思想18の拡 大の影響を受けた結果だと考えられる。 先述したように、1910 年に薙刀は師範学校の女子生徒を対象に課外活動として認められることにな り、1914 年には高等女学校などにも広がった。その一方、剣道と柔道は 1911 年に中学校と師範学校 において男子生徒を対象として正課になった。1910 年代の学校教育制度における男女の武道教育の内 容が異なったために、武道の教本の対象者も、それぞれ男女の区別がされるようになったのである。 1917 年の江夏金太郎の『薙刀体操教範:前編』と 1918 年の小沢の『体育流剣術薙刀術』の教本は、 男女に向けた薙刀体操法を述べた最後のものである。しかし、小沢の『体育流剣術薙刀術』では、薙刀 体操を行うのは男女であるとされているにもかかわらず、剣術体操は男子のみとされた。結局、小沢は 男子教育に薙刀体操を認めても、女子教育に剣術体操を認めてないことがわかる。その後は女子向け の薙刀教本だけが刊行されている。また、1909 年の中島賢三の『長刀体操法』と 1925 年の新井(中 山)つたの『体育としての薙刀』は女子向けの薙刀教本である。この二つの教本の中では、「女子の教 育には薙刀が必要」(新井(中山)、1925 年、序文 1 頁)、「男子の教育に剣道が必要」(同上)と述べら れており、剣道と薙刀をそれぞれ男子向きと女子向きの武道としてはっきり区別していた。このよう に男女の区別をすることで、薙刀は女性のみの武道となり、女性化した薙刀教育が進行することにな るのである。 薙刀教育の女性化というのは、「女らしさ」の育成における薙刀教育の有益性が主張されることを意 味しており、それは薙刀教本の分析を通じて指摘することができる。以前は、女子の体育は女らしさの 涵養に反すると考えられていたが、健康と美とを関連づける議論が登場することによって、女子体育 の振興が図られていった(春日・友添 2012 年、178 頁、183 頁)。そして、女子だけを対象とした薙 刀教本でも、女性らしさや女性の優美さと健康や体力とをともに育成する薙刀の有用性がよく指摘さ れている。1909 年の『長刀体操法』の中で中島は、薙刀の稽古の必要について「脂粉ニヨレル皮膚ノ 美ハ一時的ニシテ老イテ醜ヲ遺ス。運動ニヨリ発育セル身体ハ永久的ニシテ筋肉締リテ豊カニ皮膚艶 ヲ有シテ清シ」(中島 1909 年、4 頁)と述べ、身体と容姿の艶麗にとって、運動を含む長刀体操が有 益であることを説明している。長刀体操の一つの目的は「優美ニシテ何時マデモ若々シキ人トナル」 (同上、5 頁)ことであったが、それは運動によって発育した身体によって裏付けられたものでなけれ ばならなかった。1925 年の『体育としての薙刀』の中で新井(中山)つたも、以下のように女子教育 における優美さの必要性を強調している。 近時独立的精神の勃興した女子に於ても美はその生命であるが、その精神の快活剛毅がその肉体 の完全と相俟つて初めて、女子としての真の優美を保つものであることを忘れてはならない(新 井(中山)、前掲書、11 頁)。

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ここでも、「精神の快活剛毅」と「肉体の完全」とが結びつけられており、心身の健康こそが女性の 「真の優美を保つ」(同上、9 頁)19ものであるとされ、薙刀教育を通じて女子生徒の「真の優美を保 つ」ことがめざされていたといえるだろう。つまり、薙刀教育は、女子の「女性らしさ」を守らなけれ ばならないが、それは健康な身体に支えられたものであり、健康と結びついた「美」が、「女性らしさ」 を意味し、女性を象徴するものだったのである。武道とは、体力と精神を鍛えるものであるが、同時に 「女性らしさ」という特徴を保たなくてはならず、そのために薙刀教育の目的は、男子の体育と分離し てゆくこととなった。こうして、武道である薙刀は女子教育に相応しいものとされていった。

3.2 薙刀教本などに登場した歴史上の女性

1935 年までに刊行された 11 冊の薙刀教本に、多く取り上げられているのが男性である武蔵坊弁慶 である。彼は薙刀の種類形状に関する節の中で、薙刀の一種である長巻を利用した歴史上の人物とし て述べられている。また、先述した小沢卯之助の『体育的薙刀舞』には、薙刀体操の対象は男女である と述べられており、武蔵坊弁慶と巴御前の名前が掲載されている。1925 年の『体育としての薙刀』の 中で新井(中山)は、小沢卯之助の本と同じ内容で武蔵坊弁慶を掲載しているが、薙刀の流派の記述に おいても男性の名前が4 人登場している。この 4 人の中では、3 人が流派の流祖であり、残る一人は 豊臣秀頼が指導を受けた有名人の穴澤主 との 殿 もの 助 すけ 盛秀である。薙刀教本の中では、薙刀の歴史だけでなく 薙刀の種類形状と流派について述べたり、歴史上の人物を取り上げたりしており、日本の歴史におけ る薙刀の存在を明らかにすることで、日本の体育活動としての薙刀教育のアイデンティティを強調し ているのである。以下の表3 は、1925 年まで刊行されたすべての薙刀教本の中に引用されている人物 の一覧をまとめたものであるが、薙刀を持つ女性は巴御前しか挙げられていない。 表 3:薙刀教本に引用された人物 では、いったいなぜ学校の女子体育の教材として薙刀がふさわしいと考えられたのだろうか。その 代表的な答えは、日本の武道である薙刀は女子教育の歴史にすでに存在していたというものである。 例を挙げると、薙刀教本ではないが、1922 年の『女子体操遊戯:理論実際』は、薙刀が女子武道の代 表であるということを、歴史とのつながりから指摘している。 我国における武術としては、撃剣、柔道、薙刀を其代表的のものとする。従来女子の武術として、 行はれ来りたるものは、薙刀術なり。此歴史的関係に依りて、女子に課すべき武術体操は、薙刀 なり(可児・高野 1922 年、170 頁)。 薙刀を利用した女性の名前を挙げるということは、女子教育と薙刀の「歴史的関係」の証拠を挙げる

出 版 年

薙 刀 教 本

引 用 さ れ た 人 物

1903

小沢卯之助『薙刀体操法・初段』宝文館

弁慶

1904

小沢卯之助『体育的薙刀舞』宝文館

巴御前、弁慶

1918 小沢卯之助『体育流剣術薙刀術』大日本学校衛生協会

弁慶

1925

新井(中山)つた『体育としての薙刀』東洋図書

弁慶、穴澤主殿助盛秀、豊臣秀頼、信

田一円斎、正木俊光

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ことになる。さらに、女子教育における薙刀に関する史料は極めて少ないため、薙刀を利用していた有 名な人物を記述することで、薙刀が武士階級の女子向けのものであったことをアピールできたといえ る。下の表 4 で示したように、「女子と薙刀」という記事の中で山本は、多数の歴史上の人物を引用 している。薙刀の起源と歴史を説明する時に7 人の男性と 7 人の女性が取り上げられている。そして、 薙刀術流派の記述においては6 人の男性の名前も掲載されている。男性について言及する時には、『世 鏡抄』・『太平記』などのように歴史的な書物を積極的に利用して、薙刀を持つ武家の戦いについて記述 している。しかし女性については、「されば婦人にして此の道に達し、男子と共に戦場に花々しく働き し例も少なくないのである、巴御前静御前20更科等は世人のよく知る所である」(山本、前掲論文、101 頁)のように、史料を記さずに多数の女性武士の名前を挙げている。これらの女性は、薙刀を持って戦 ったと言及する史料が存在しないために、山本はただ「世人のよく知る」と述べるしかなかったのだろ う。 表 4:山本長治「女子と薙刀」において引用された人物 山本長治の「女子と薙刀」で引用された歴史上の女性と「列女伝」に登場する女性は共通する人物も いる。この雑誌に掲載された女性は7 人であり、先に表 1 で示した明治時代の「列女伝」に登場する 女性は20 人であるが、巴御前・静御前・真田信之の夫人・更科の 4 人が共通している。だが、「列女 伝」の中で、薙刀を持って一番多く掲載されているのは、武田勝頼の妻と宮城野であったが、彼女たち は女子教育と薙刀に関する雑誌の記事の中に一度も言及されていない。先述したように、武田勝頼の 妻の物語の中では、妻が戦闘で戦ったのかまたは薙刀を手にしていたのかは明らかではないにもかか わらず、「列女伝」では武家の女性を表象するために薙刀を持つ姿が描かれた。武田勝頼の妻と薙刀の 関わりははっきりしないため、山本の記事に掲載されていないのだろう。そして、実際に薙刀で戦った 宮城野は武家の女性ではなく、山本の記事に掲載された他の女性たちとは異なり、身分が高くなかっ た。さらに、宮城野の復讐のような仇討ちの物語は、明治初期(1868 年-1882 年)に出版された「列 女伝」の中で儒教道徳の視点から親孝行として認められたが、明治中期(1883 年-1897 年)以降の国 民道徳ではふさわしくないと考えられ、仇討ちは道徳の教本であった修身教科書から消えていった(広 井、2004 年、549 頁)。仇討ちは道徳的な行動として否定されていったため、山本にとっては宮城野の 仇討ちが女子教育と薙刀に関する記事の中で適切な例としてみなされてなかったと考えられる。 上述のように山本の記事に掲載された女性 7 人のうち、4 人が「列女伝」と共通している。「列女 伝」の中で取り上げられていない3 人は、「飯尾い い お豊前 ぶ せ ん 守 のかみ 能房 よしふさ の後室」「赤岡大助の長女たけ子」「神 保」である。飯尾豊前守能房の後室は戦国時代の女性であるが、夫の死亡した後に曳馬城の城主にな り、1565 年に城を守るために徳川家康の軍勢に対して侍女と共に戦い、討死したという伝説がある。 薙刀を用いて戦ったとされる飯尾豊前守能房の後室についての叙述は、当時の史料には現れていない。 そして、「女子と薙刀」では「赤岡大助の長女たけ子神保」も言及されている。「赤岡大助の長女竹子

出版年

筆者、記事のタイトル、雑誌、出版社

引用された女性

引用された男性

01/11/1922

山本長治「女子と薙刀」『体育と競技』体育学会、第1巻9

号、99-103頁

飯尾豊前守能房の後室、

真田伊豆守信之の夫人、

巴御前、静御前、更科、

赤岡大助の長女竹子・神

天照太神、和田五郎、和田新発意源

秀、長尾弾正、佐久間盛政、三宅備

後野守、穴澤主殿助盛秀(2回)、

豊臣秀頼、信田一円斎、正木俊光、

杉本備前守、永井十郎左衛門

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神保」とは、現代では「中野竹子」「神保雪子」として知られており、明治新政府軍に対して戦った会 津藩の女性である。赤岡大助は、竹子の養父であったが、竹子は戊辰戦争の前に赤岡家と離縁している 21 山本の記事に掲載された逸話の中で、薙刀で戦う女性たちは、「列女伝」の例のように、攻撃された 城を守るなど、常に自らの名誉と家族を護るために行動した女性であった。山本長治の「女子と薙刀」 に登場する女性たちは忠節を尽くして戦った女性である。つまり、女子教育と薙刀に関する雑誌の記 事においても女性は、自衛か名誉を守るために、自らを犠牲にして薙刀を持って戦う行為が道徳的行 動として認められていたことがわかる。

4 女性化した薙刀教育――1936 年から 1945 年まで

4.1 女子に適した薙刀

1930 年代後半から 1945 年にかけては、日中戦争と太平洋戦争の開戦や、諸政党の解党で、日本社 会における国家主義と軍国主義の傾向が強くなっていった(SOUYRI 2010: 521)。同時に女子教育に おける薙刀の普及は止まることなく、1936 年に、女子師範学校や高等女学校では薙刀が正課として認 められ、1941 年に成立した国民学校においても、薙刀は「武道」の正課として認められた(ベレック 2015 年、142 頁)。この過程で起きた薙刀教育の方針の変化は薙刀教本を通じて検討することが出来 る。以下の表5 に 1936 年以降に刊行された薙刀教本の 16 冊をまとめている22 表 5:1936 年以降に刊行された薙刀教本 薙刀は武道であるが、女子に適した活動とするために、薙刀の教育課程も女子に相応しいものにさ 出版年 薙刀教本 1936 新井(中山)つた『体育としての薙刀』宮武栄造 1936 園部ひでを・ 園部繁八『学校薙刀道』成美堂 1939 美田村邦彦『大日本薙刀道教範』秋文堂書店 1939 新井(中山)つた『体育としての薙刀』日本工芸社 1939 西垣きん・ 阿部豊子『女子武道天道流薙刀術解説』 更生書房 1940 馬場豊二『小学校薙刀道教授書』明治図書 1940 馬場豊二『小学薙刀読本』 田中宋栄堂 1941 新野久平『日本国民薙刀道教本』進能社 1941 園部繁八『国民学校薙刀精義』東洋図書 1941 著者不明『学校薙刀道の栞:付大日本武徳会新制定形』出版社不明 1941 著者不明『女子薙刀道習得の栞』出版社不明 1941 大日本武徳会『薙刀道基本動作』 修徳館研究部 1942 宮下常明『国民学校体錬科武道:薙刀指導便覧』立見屋書店 1942 杉野嘉男『薙刀教育の理論と実際』神田書房 1942 新井(中山)つた『体育としての薙刀』第一印刷所 1943 美田村邦彦『大日本薙刀道教範』再版、秋文堂書店

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れた。そのため、柔道や剣道という男子の武道と比較して、薙刀教育は試合ではなく、形の稽古を集中 的に行うことになった。薙刀の教本である『大日本薙刀道教範』の中では、「婦女子に最も適したるは 形(太刀合)にして、男子の試合稽古に勝るとも劣らざるなり」(美田村 1939 年、258 頁)と、女 子には形の方が適した活動であることが述べられている。「男子の試合稽古」とは防具をつけて、互い に全力を尽くして打ちかけて勝敗を決することである。それに対し、「婦女子に最も適したるは形(太 刀合)」とは、太刀対薙刀の組技を積極的に演技することである。形は自ら打ちを受けず、お互いに分 かっている動きであるため、安全で女子に相応しい活動として見られているのである。 新井(中山)つたの『体育としての薙刀』は1925 年、1936 年、1939 年、1942 年の 4 回にわたっ て刊行された(3.章の表 2 と 4.章の表 5 を参照)。この 4 冊を比べてみると、文章はほぼ同一である が、1939 年からは、それまであった「薙刀教授の実際」23の章が消えている。この章では防具をつけ ての試合稽古の指導が述べられていた。ここから、新井(中山)つたの薙刀教育は、1939 年からは形 の稽古を中心に行うものへと変化したことがわかる。また、これら 4 種の教本の序すべてには函館高 等女学校校長の奥村季吉の文章が掲載されていたが、そこで彼は次のように薙刀教育の長所を述べて いる。 凡そ剣道といひ柔道といひ、弓道薙刀等夫々それぞれの武道には、各の長所があり面目があることは勿論 であるが、就 中なかんづく女子に適当したものとして、それが過激な運動に失せず、而も婦徳に即応し精神 修養上価値大なるものとして、先づ薙刀と弓道とをあげることが出来ると思ふ(新井(中山) 1939 年、序文 1 頁)。 奥村は、「女子に適当したもの」、「婦徳に即応し」という表現を用いて、薙刀が女子に対して相応し いものであることを強調している。学校教育において薙刀は女子に相応しいものとされたが、それは 薙刀の運動面のみならず、精神の修養という側面も女子に適しているとされたのである。 確かに、薙刀教育においては、精神の修養を行うことも大事にされた。『学校薙刀道』では「薙刀道 教習」の目的を、薙刀術の修練、心身の鍛錬修養と徳性の涵養と定義している(園部ひでを・園部繁八 1936 年、4 頁)。20 世紀前半に刊行された薙刀の教本においても、女子教育における精神修養に関す る記述があり24、その特徴が現われていた。 まず、薙刀教育における精神の涵養においては「女らしさ」を守ることが大事であるとされた。先述 した『大日本薙刀道教範』は「薙刀術によりて[…]滅私奉公の念を厚くし、礼儀正しく高尚優雅なる日 本女性の女らしさ柔和従順の美徳の内にも、常に確固不抜の信念を養ひ得るものなり」(美田村 前掲 書、108 頁)と述べている。さらに、『学校薙刀道』の中では「世間には往々女子の武道は、肢体硬直 して品性粗野になり、女性の特色を失ふが如く唱ふるものもあるが、決して然らず、女子が薙刀道を修 むることにより、[…]、女性として完全なる美が得られるのである」(園部・園部 前掲書、16 頁)と 語られている。 そして、学校での薙刀稽古の対象者は女子生徒であり、そこでは女子が将来の妻や母となるための 教育が目指されているため、個人としての人間形成だけではなく、「婦徳の涵養」も強調された。女子 の薙刀に関するどんな教本も、「婦人と薙刀」(美田村 前掲書、546 頁)という項目を設け、女子の 家族に対しての責任に言及している。つまり、女子の薙刀は妻、あるいは母となる将来の役割と切り離 されていないのである。『大日本薙刀道教範』の中では「女子の薙刀道」が「女性は国家の母体にして、

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国家の存亡は、彼ら女性の隻肩にありと言ふも、過言にあらず、[…]日本人を養成するのは人の妻にし て、母なり」(同上、101-102 頁)と語られている。ここからは、将来の母となる女性の精神を涵養す ることは、国家の繁栄と直接に繋がると考えられていたことがわかる。 1930 年代後半からの戦争は女子教育にも影響を及ぼした。『学校薙刀道』では「薙刀道」の目的が 「武士的人格の養成」(園部・園部 前掲書、4 頁)と定義され、「女子の薙刀道」の章で女子教育に対 する薙刀教育の利点について以下のように述べている。 而もこの修養は親子兄弟子打揃つて僅かな場所で、最も家族的に又経済的に行はれ、正しい礼儀 の下に、心身の鍛錬と美しい徳性の涵養が出来るのであるから、文化の進んだ現代の女子が、此 の薙刀道を修行して強健なる身体と、確固たる武士道精神とを養うことは、国家の将来にとりて 誠に必要なことである(園部・園部 同上、16 頁)。 良妻賢母思想によって、女性は次世代に影響を及ぼす存在として認められていたが、女性が精神修 養を行うことによって家族にも「武士道精神」を伝えると考えられるようになった。 つまり、「武士の精神」と言っても、女子教育において大切にされたのは、個人の精神的涵養だけで はなく、将来の妻や母となることを通して、家族に武士的精神を養うことであった。実際、薙刀の教本 の中での道徳の涵養についての叙述では、次に述べるように、貞節な生活と出来事を行ったこととさ れて有名になった女性の名前が頻繁に用いられている。

4.2 薙刀教本などに登場した歴史上の女性

1936 年以降に出版された多くの薙刀教本には、日本の歴史において薙刀を握って戦った人物が頻繁 に登場している。これらの教本の中は、山本の記事のように、薙刀の起源と歴史、薙刀術の流派、薙刀 の種類について詳しく説明するにあたって薙刀を持った男性の名前をしばしば取り上げている。そし て当然のことながら、1936 年からの学校教育における薙刀の拡張とともに、教本の数とそこに取り上 げられる歴史上の男女の例は急増した。これらの教本の中には、歴史上の人物だけを記載するにとど まらず、高徳の例として人物について語る長い文章を記したものも登場した。下記の表 6 では、薙刀 教本に名前だけが挙げられている人物は省略して、道徳の模範として掲載された人物だけを示してい る。その中で、男性の伝記を掲載する教本は一冊だけであり、過半数が女性の伝記であることから、女 子教育に関連する薙刀教育は歴史上の女性を優先したということが言える。『小学校薙刀道教授書』の 中では、2 頁から 8 頁にわたって有名な日本女性 33 人の史伝が叙述されている。同じ本の中にある薙 刀教授における講話の課題においては、「日本女性古今実話」・「古来我国婦人の美徳」が掲載されてい る(馬場 1940 年、48 頁)。ここから、薙刀教育を通じて主に模範的な歴史上の女性を利用して間接 的な道徳教育も実施されたと指摘できる。 下記の表 6 を見れば、日本男女の史伝の中には、薙刀を用いたという記述は多くはないことがわか る。だが、『学校薙刀道』の中では、静御前などの話において一度も「薙刀」の言葉は登場しないが、 これらの女性の伝記を集めた「婦人と薙刀」という章の内容を説明するために、「日本の婦人に、武道 の修養が必要であり、薙刀が女性の表徴として、最も相応しい武道であることは第一編第四章に於て 述べた所であるが、是 ここ にその適例として、婦人にして薙刀を以て勇名を轟かしたものと、地方舞踊の

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長刀の紹介する」と述べられており、引用する女性たちは薙刀を用いていたという指摘をしている。ま た、先述した『小学校薙刀道教授書』の中では、「楠正行 まさつら の母」25のように完全に薙刀と関係ない女性 の史伝も掲載されている。この物語の中では、「この一事より推しましても、正行が忠臣孝子の亀鑑と して名を後世に垂れるに至りました事は、母の力による所の多くありました事が、想像するに餘りが あります」と教訓のところを強調している(馬場 前掲書、122 頁)。このことから、「列女伝」のよう に歴史上の女性の高徳の行動を強調して、貞節な女性の例を通じて道徳教育を伝達するという目標が 共通していると指摘できる。薙刀の教本においては、薙刀の利用の有無にかかわらず、道徳の修養とし て歴史上貞婦の例を挙げることで、薙刀教育と歴史上の女性を間接的に関連づけているといえよう。 表 6:薙刀教本に掲載された紀伝 薙刀とともに登場する人物の名前は太字で記す。 上記の表6、1936 年からの教本の中で書かれている人物が様々であることがわかるが、多く書かれ ているのは、巴御前と板額御前である。その他に、真田伊豆守信之(幸)の妻や神功皇后も多く登場し ている。神功皇后のように神話上の女性もいれば、巴御前のように史料や情報が少ない時代の女性も いる。神功皇后は、『日本書記』などによれば、神功元年から神功 69 年まで政事を執り行った。神功 皇后が存在した時代にまだ薙刀は作られていないが、にもかかわらず、「烈婦」の例としてわざわざ薙 刀の教本の中に述べられている(ただし、薙刀を使用した話は書いてない)。神功皇后は、「朝鮮征伐」 をした故事があるため、大日本帝国による朝鮮半島支配の正当性の象徴になった。歴史教科書にも頻 繁に掲載されており、例えば1940 年発行の歴史教科書である『尋常小学国史』おいては神功皇后の故 事が記載されている26。薙刀の教本に取り上げられた人物たちは、いずれも大日本帝国において肯定的 に見なされた人物である。それらの人物は一般的に身分の高い武士などであり、貞節な態度を示した として有名になった男女である。一方で、1868 年の会津戦争で薙刀を使って戦った中野竹子などは、 1936 年以降の薙刀教本の中に一回も記述されていないのである。彼女は明治新政府軍に対して戦った 会津藩の女性であったため、薙刀教育に利用することが適当だと思われなかったのだろう。つまり、教 本に記載される女性の選択は、日本の帝国制度を正当化する役割も含んでいたと考えられる。薙刀を 出 版 年 薙 刀 教 本 女 性 の 伝 記 男 性 の 伝 記 1936 園部ひでを・園部繁八『学校薙刀道』成美堂 巴御前、板 額 、静御前、真 田 信 之 の 夫 人 、富田信濃守信高の夫人 1939 美田村邦彦『大日本薙 刀道教範』秋文堂書店 飯 尾 豊 前 守 能 房 の 後 室 、 吉 岡 参 河 守 入 道 宗 歓 の 後 室 、 三 村 高 徳 の 夫 人 、 重 富 民 部 大 輔 兼 雄 の 夫 人 、 真 田 伊 豆 守 信 幸 の 夫 人 、津崎矩子、黒 澤時子、慈雲尊者の母、有村次左衛門の母、河 瀬 幸 子 、若江薫子 徳川斉昭、澤宣嘉、松平定信、 林子平、高山彦九郎、浦生君平 、梁川星巌、久坂玄瑞、佐久良 東雄、宇喜多一蕙、平 山 行 臓 1940 馬場豊二『小学校薙刀道教授書』明治図書 橘媛、神功皇后、上毛野形名の妻、架裟御前、巴 御前、板 額 、静御前、鷲尾三郎の妹、楠正行の 母、了然尼、真 田 伊 豆 守 信 之 の 夫 人 、富田信濃 守信高の夫人、淀君、木村重成の妻、春 日 局 、 松平定綱夫人、佐竹義隆夫人、藤太郎の母、池田 光政夫人、節婦阿辰、柏原武太夫の妻、福永某の 長女、柳澤淇園夫人、河瀬春女、渡邊崋山の母、 静寛院宮、奥村五百子、蓮月尼、紅蘭女史(梁川 星巌夫人)、乃木静子夫人、山内達雄の母、梅林 さき子 1940 馬場豊二『小学薙刀読本』田中宋栄堂 神功皇后、弟橘媛、巴御前、板 額 御 前 、上毛野形名の妻

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利用した有名な女性の例を挙げることで、薙刀は女子向け教育として正当化されると同時に、女性ら しい武道になるのである。

4.3 女子のみの武道としての薙刀

20 世紀前半において学校教育に導入された武道の中では、薙刀だけが女子のみを対象にした。以下 の表7 を見ると、男子教育には柔道、剣道27、弓道28と銃剣道29が必修の武道として制定され、女子教 育には薙刀と弓道が認められたことがわかる。 表 7: 学 校 に お け る 武 道 の 履 修 色の意味:淡い灰色:課外、灰色:正課、濃い灰色:正課必修 1936 年に、男女の中等学校における正課として認められた弓道は、教育における男女共通の唯一つ の武道となった。1937 年 3 月 1 日に文部省から出された「学校体操教授要目改正の要旨並改正の要点」 という文書においては、「弓道はその運動の点から云へば剣道及柔道には及ばないが、生徒の体質及身 体発達の程度に依つては剣道、柔道よりも寧ろ適切なる運動である場合尠 すく なくなく、且つ其の精神的 効果に於ても 詢 まこと に優れた点があるのである」(『近代日本教育制度史料』第6 巻、1956 年、259 頁) と、弓道教育の理由が述べられている。 さらに女子については、『女子弓道指針』の中で東京女子高等師範学校女子体育振興会が、過激でな い動作である弓道を「女子の体育運動として心身両方面より見て極めて適切なもの」(東京女子高等師 年 柔道  剣道 銃剣道 男子弓道 女子弓道 薙刀道 1898年 中等学校 課外 中等学校 課外 1910年 女子師範学校  課外 女子師範学校  課外 1911年 中等学校 正課 師範学校 正課 中等学校 正課 師範学校 正課 1914年 高等女学校   課外 実科高等女学校 課外 女子師範学校   課外 高等女学校   課外 実科高等女学校 課外 女子師範学校   課外 1931年 中等学校 正課必修 師範学校 正課必修 中等学校 正課必修 師範学校 正課必修 1936年 中等学校 正課 師範学校 正課 高等女学校    正課 女子実業学校  正課 女子師範学校  正課 高等女学校    正課 女子実業学校  正課 女子師範学校  正課 1941年 国民学校 正課 (5年以上) 1943年 国民学校 正課必修 (5年以上) 中等学校 正課必修 師範学校 正課必修 高等学校 正課必修 国民学校 正課必修 (5年以上) 中等学校 正課必修 師範学校 正課必修 高等学校 正課必修 中等学校 正課必修 (3年以上) 師範学校 正課必修 高等女学校    正課 女子実業学校  正課 女子師範学校  正課 国民学校 正課 (5年以上) 高等女学校  正課必修 女子実業学校 正課必修 女子師範学校 正課必修

(18)

範学校女子体育振興会 1938 年、13 頁)だと見なしていた。1943 年に、弓道以外の武道は正課必修 となったが、弓道は正課に留まっている。佐久間敬三は、「学校武道について」という記事の中で、「学 校に於て之[弓道]を実施する場合は設備等の関係からして学級を単位として一斉に多数の生徒を指 導することは中々困難な事情もある」30と、女子に対してなぜ薙刀のように弓道が必修にならなかった のかを述べている。薙刀は剣道や柔道と同じように道場で稽古ができるが、弓道の場合は、弓道場とい う特別な設備が必要になる。また、生徒は整列して矢を射るので、30 人ほどの学級であれば、同時に 矢を射ることが出来ない。すなわち、待っていなければならない生徒も多くなる。 学校教育における剣道はその対象を男子に限定した。日本の歴史の中で、刀で戦った女性の例もあ り、これらの女性は剣道の稽古を受けたことがあるはずであるにもかかわらず、学校教育においては 女子には剣道を教えないとされた。榊田八重子は父親から剣道を習い、熱心に剣道の稽古に励んだ(榊 田八重子 1992 年、18 頁)。1926 年に武徳会に所属する先生であり、海軍廠の剣道師範でもあった納 富五雄は、15 歳の榊田八重子の剣道の稽古を見て「女の子に剣道をやらせても何にもならないが、こ の子はなかなか筋がいい。それだけ剣道が好きだったら、薙刀(なぎなた)でもやらせたらどうや」(同 上)と、彼女に話し掛けた。薙刀は「男子の剣道にかわる武道」(日本武道館 2007 年、349 頁)と して考えられており、男女の武道が区別されただけでなく、女子は学校の剣道から排除された31 1943 年の中学校と高等女学校の体錬科において、男子と女子の運動はそれぞれの体力に合わせて、 武道の目的と内容が区別されていた。剣道や柔道は女子の身体にとって危険であると考えられ、運動 という側面よりも女子の精神と態度の涵養を大事にする薙刀教育は女子に対する適した活動であると しばしば述べられた(以上の点について、詳しくは【ベレック、前掲論文、146-149 頁】参照)。男子 の中学校と高等女学校にはともに体錬科が存在しているにもかかわらず、武道としての目的と内容は 異なっていた。

おわりに

本論文では、20 世紀前半において薙刀が女子のみを対象とした武道になった経緯と、それに伴って 進行した薙刀の女性化のありようを明らかにすることを試みた。20 世紀の初頭における薙刀教育の対 象は、まだ女子に限定されていない。しかし、1910 年に薙刀は、師範学校の女子生徒の課外活動とな った。女子生徒向けの薙刀教本では、女性らしい健康な身体に備わった女性の優美さと、薙刀との関連 性がよく指摘され、薙刀教育は女子の「女性らしさ」を育成しなければならないとされた。一部の学校 では女子の体育に薙刀が導入され、武道である薙刀は女子に相応しい活動へと変化させられていった。 そして、薙刀教本などの中では、明治時代に刊行された「列女伝」の中に登場したのと同じ歴史上の 女性が描かれた。日本の「列女伝」では武器を用いている女性の図像は多いが、薙刀ではなくて刀を利 用する武家の女性が主に描かれていた。しかし、薙刀を使うのは女性であり、薙刀を武家の女性の武器 として定義することで、歴史の中の武家の女性たちは主に薙刀を利用したと思い込むことができたの である。1935 年までの薙刀教本の中には、男女向けの薙刀教育を想定して、男性の例が多く述べられ ていた。だが、薙刀教育の対象が女子だけになると、薙刀教育に関する雑誌の記事は、薙刀と繋がる女 性の例も挙げるようになった。薙刀を利用した有名な女性の例を挙げることは、女子向け教育として 薙刀を正当化することであると同時に、薙刀が女子らしいものになることを意味していた。 1936 年に高等女学校などで薙刀は正課になり、女子教育に相応しいものとする試みが続いていった。

参照

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