音楽と言葉 : 美学的一考察
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(2) 音. 楽. と. 言. 拷. 141. 葉. F1. 音楽についての美学的考察は,古来,多くの哲学者・批評家・音楽家によってなされて きた。あるものは,歴史的な因果関係において,またあるものは,現象としての,静的な. 哲学的思索の対象として,またあるものほ,作家論的アプロ-チにおいて,というふうに, それらほ全く多種多様である。. それらを概観すると,そこに相対立する二つの観点があるように思われる。 即ち,. (1)鳴り響く実の実体を,音素材の構築的美しさに限定する自律的立場および. (2)精神性・人間性等の外的事象を,そこに組入れる立場である。 小論においてほ,一つの固定的な見解に偏せず,それらの両観点の検討考察の上に立っ. て,更に新しい視点を求めようとする。 いずれにせよ,鳴り響く音の実体と,その人間的意味の探求を,そのねらいとするもの である。 ●. ●. ●. ●. 音楽とことば性(言語・文学・思想等を綜合したもの)との関連についてほ,最近特に 取り上げられるケ-スが多くなってきている.かかる問題-のアプローチの仕方も,種々 あるであろうが,小論においてほ,古典派からロマン派にかけての,歴史的変貌の把握考 ●. ●. ●. 察とともに,更に音楽とことばとの,内的外的な関連性をみていきたい。 音楽における不変の本質と可変的生成とを,密接な連絡において,少しでも捉えること ができれば幸である。 Ⅰ ェドアルト・. -ソスリック(Eduard. ハンスリック美学批判 Hanslick). (1825-1904)ほ,ほじめ法律を学ん. で官吏となり,その後次卸こ音楽評論の筆をとるようになって,後年,ウィーソ大学の美 学の教授となった.音楽美学・音楽史の研究・著述に多くの業績を持つ,オーストl)アの 美学着である。彼ほ幼少よりヴァイオリン・ピアノ等の楽器に親しみ,一時ほ音楽家を志 した程の音楽の実際家でもあった。. 実について+ (Vom. 30才の頃,とりつかれたごとくに書きあげた「音楽. Musikalish-Soh6enen)が主要著書である。この書は,当時多大の反. 響を呼び,数多くの反論も起って,彼の存命中に,版数も10数版を数える程であった。 勿論,後世に多大の影響を与えている。特に,近年の反ロマンシズムの傾向と共に,その 美学論的よりどころとして,再認識されているむきもあるようである。 小論においては,主としてこの「音楽実について+に善かれた内容を中心として,彼の 諸説の考察と批判を行ない,且つ,その現代的意味を探っていくことにしたい。 (1)形式至上主義について ハソスリックは,先ず「音楽ほ感情を描写することができるか?+と問いをなげかけ, (明快にいい切る論調が,彼の特徴となっている。)そ そして自ら強く「否+といい切る。. 「音楽が特定の感情(彼ほ恋愛感情を例にあげているが)を描写し得ると思 「作曲家が描写し得る観念は具象的概念的な裏 うのは間違いであり,邪道である。+とし,. の理由として,.
(3) 142. 西. 沢. 男. 昭. 付けを持つものでほなく,純粋に音楽的観念である。+とする。そして更に,. 「それほ旋律 自身以外の何ものであってもならない。+つまり「旋律は,それ自体無尽蔵な可能性を有. する音楽美の根本形式として全体を支配する。+ものであり,. 「多くの変化・転回・増勢に. よって,新しい基礎を与える和声との結合+において成一り立ち, 「音楽生命の動脈である 律動が動き,更に複雑な音色の美しさが,これに色彩をそえる。+そしてまた,これらの ●. ●. ●. ●. ●. 材料によって音楽が表現するものほ何か,との問いに対して,. 「私ほ即座に音楽的観念で あると答える。しかも完全に現象化された音楽的観念は,既に独立した美,即ち自己目的 ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. であって,決して感情及び思想描写の手段または材料でほない。音楽の内容は音響的に運 動する形式である。+としている。 ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. 彼によると,音楽ほ,素材の美及び構成の美が全てであり,その他の爽雑物は音楽を毒 するものである。とする。そして更に彼ほ,演奏・聴衆という音楽が顕在する社会的条件 さえも,本質的には美と無関係であるとするのである。 このように音楽のみに芙の本源を求める点で,彼の立場は完全な音楽自律論であり,普. た形式こそ最上としている点からほ,形式主義ということができる。 また彼のいう形式とほ,実ほ音楽の内容そのものでもあるのである。彼は,彼のいう鳴 り響く音響の実に,一種の音楽の精神を見ようとしているようにさえ思われる。ここにほ 幼時より楽器に接して音楽を身体で感じてきたものの実感がただよっている。しかしなが ら,音楽における感情描写を否定し,尚且つ鳴り響く実在を,音楽的観念に限定した点は どうであろうか?感情の描写及び表現について,彼ほなおこういっている。. 「音楽ほ,. 物理的事件の動きを,急速・緩慢・強烈・柔弱・上昇・下降等の要素に従って模倣するこ ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. とができる。然しそもそもこれらの動きというものは,感情の一性質一要素であって感情 ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. そのものでほない。+彼ほここで更に,. 「たとえば恋愛感情の動きについて表現することは. できても,恋愛という感情の特定の性格について表現することほできない。+といってい る。これは多分,ワーグナーを意識して善かれたものであろう。 彼が,リストやワーグナー等の浪漫的傾向に,強い反摸を示していたこと,特にワーグ ナ-には敵意さえ抱いていたことが,論の調子を,非常に烈しいものにしているようであ る。しかしそれはそれとしても,音楽における表出の中に,感情及びある観念がにじみ出 てくる必然性までも否定するということになると,問題があるように思われる。ここで,. ベートーヴェンの交響曲第三番(英雄)の二楽章を例にとって,更にこの問題について考 えてみたい。. 先ず-ンス1)ック流の解釈でいくと,この曲ほ, であること,そして静かな重々しい主要主題と,. c. moll.. Adagioの複合三部形式の曲. Cdurに転調された明澄な展開部の主題. との対比による音響的実在が,この曲のすべてである。ということになろう。. これは,紛うことなく明快な,一つの解釈である。しかし,われわれは,この曲ほ,彼 ベートーヴェンが,欧州の混迷を救う偉大なる英雄としてのナポレオンに捧げる意図を有 した曲の一部であることを,知っている。そしてこの二楽章は,英雄の死(または多くの 兵卒の死)を象徴した葬送行進曲であることを,知っている。 (曲の冒頭に"Marcis. ●.
(4) 楽. 音 Funebre〃. 言. と. 143. 葉. と善かれている). そのような,悲壮感に貫ぬかれていて,それが曲自体の精神的指導力となっていること も,事実である。物としての,素材の計量的な均衡美と,その背後にあって,それを支え ている理念的観念的な真との,見事な融合こそは,この曲ならずとも,ベートーヴェンに 100. 享、. 1.. ♂、. Fl. ” cresc. 2.. Jecre.sc・. ・. 1ir. ilt C decresc.. Tilll. 秤. CTle与C.. dceresc.. vコ・i. 古eZnPTe PJZL. i-reちC.. V.,I.. deeresc.. CreSr.. i. DV:.. decT・eSC. Cre&. 1乙Z.. ,. decTeもC.. C.. 240. ≠. A.サー--ーー_へ勺. Ob.. ta'pp C). irlB♭.. I. I). 平≡≡=ごト. 蛋. 汽. i-.. Br).. ず=======ー■-・・・・・・ ̄P ∧__.._._事I/でヽ. 基好一--rl 蓋i. I.I. ・S--.lps.u. t'・S======-rP' ^LL′ト I)ー一一一. i一帝. J●I. vn・i ∧l. +r+<. 房きぎ′手. I). tい. y丞.. 秤. 7)_ ■ト. ” i. Va. 秤 ・書. Vc. I)B.. ニc.3f'13襟 I. Or.T_只. 語. 例1. TydecrYp. A.
(5) 144. 西. 沢. 昭. 男. おいてこそ成し得た偉業ではあるが--。そのような,具象的事象の結びつき,及びそれ にともなう観念性や感情を否定する,. -ソスリックの立場にほ,自ずから限界があるよう. に思われる。. この曲のcodaにおいて,主題が,遂に力を失うかのごとくに,きれぎれに断続する箇 所がある。そして,やがて曲は終息するのであるが,この部分を耳にした時,われわれの 想像力の中において,主題の持つイメ-ヂの形象化がすでに行なわれていて,その形が,. 次第に崩れていく様が,明確に浮んでくる。第1ヴァイオリンによる主題のリズムがとぎ れ,一瞬,音が消える。チェロとコントラバスが,ピチカートで,その間を重々しく刻む.. 木管とホルンが,最後の諦観を象徴するかのごとく,上声部をppの和音で包む。やがて Tuttiで,最後の激情が訪れるが,それも力なく弱まり,すべてが終る。それほもはや, ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. 音によって語られる言葉でさえあるのである。 ここで,音楽の創作について,. -ンスリックが如何なる考えを持っていたかを見てみよ 「音楽的観念は,先ず最初に作曲家の想像の中に発生し, ●. う。彼ほ次のように述べている。. (譜例1). ●. ●. ●. ●. 彼ほこれを更に発展させる。こうして益々結晶を増し,遂には何時の間にか全創造物の形 態が大体の形式を備えて彼の前に現われるのである。+ここで言う彼の想像力とほ何かと いうと,彼はそれを「感覚の結合されたもの+といい,感覚を明確に「感情+と区別して いる。それから彼ほ「作曲という仕事は構成作用であり, _徹底的に客観的である.+とい. っている。しからば作曲家の主観的傾向つまり個性ほどうなるのか,彼によると, 構成方法の中に特色づけることが出来る。+としている。即ち,ある楽曲というものがア. 「その. プリオリに存在していて,作曲家は感覚に基づいた想像力によって,それを顕現させる。 その構成上の特色にのみ作曲家の個性を覗かせることが出来る。ということになるらしい。 事実そのことについて彼ほ,. 「作曲家の特徴ほひとたび芸術作品に吸収されてからは,. 全く音楽上の特性として,興味を惹く。それは,作曲家自身の特徴としてではなく,楽曲 の特性として興味を惹くのである。+といっている。. 素材が一つの物として,構成され客観化されて構築美を獲得するという公式ほ,単にソスリックのみならずあらゆる芸術の分野に共通して言えるいわば常識であろう。また彼. の言う作曲家の個性の役割を,創作上極度に限定した立場は,今日ややもすると個性万能 主義に陥り,いわば主観の洪水状態を来している現象に対する警告としても通用する正論 でもあろう。 しかしながら芸術における主観と客観の図式ほどむずかしいものほない。作曲家の個性. と楽曲の特性とを,不連続なも、のにみようとする彼の立場にほ,疑問を感じないわけにほ いかない。作家の個人的日常生活と作品との不連続ほ往々あるにしても,その作家の内的 な感性・思想・感情と作品とほ,どこかで深いつながりを持っているものと考えたい。 (2)ハンスリック美学の功罪. ハンスリγクのこのような図式に適合すると思われる作曲家を敢えてあげるとすれば, まずモーツアルトであろう。事実彼ほモ-ツアルトの音楽を最高のものとしている。その 他に面白いことは,ヨ-ソシュトラウスの曲を非常に好んだようである。彼ほ後年,ワー.
(6) 音. 楽. と. 言. 145. 葉. ブナ一に対抗するブラームスの支持者となったが,ブラ-ムスの難解な冥想的な楽曲に関. してほ,殆んど沈黙を守り,何ら理解と興味を示さなかったと伝えられている。また自叙 伝によると,バッ-・-ソデル・ショパソ等にもほとんど理解と関心を示さず,べ-ト. ベンの後期の作品についてほ,遂に理解し得なかったようであるo 結局,この「音楽美について+でほ①当時の浪漫主義的風潮の過剰傾向に対する警告 としての貴重な反対意見であったこと, ②音楽の自律主義客観主義の立場を明快な筆で ③彼が音楽の実際家であったことからその直接経験が論調ににじみ出て,. 論断したこと,. ぁる種の説得力を持ったこと等が,その歴史的評価としてあげられるように思われる。 しかしながら,今まで個々に触れてきたごとく,われわれは,この著書に書かれた-ソ スリックの所説に対して,必ずしも全面的に賛成するわ桝こはいかない。まず①芸術活 動というものが広い意味において外的現実の投影でもある点を無視したこと,つまり作曲 家の主観性を極端にせばめて形式至上主義という完全主義におちいった点は彼の限界とい. ゎねばならないだろう。これは,言わば合理主義を装った精神主義でさえあるのであるo 次に⑧上記の点と関連ほあるが,彼が用いるく想像力〉という概念の範時の狭さとが, 立場上の大きな弱点となっていることである。彼が創作論で用いている想像力とは,素材. のメカニカルな発展の原動力となる感覚の統合されたものに留まっているo今日では創作 家における想像力という概念の中には,知覚によるもののみでなく,無意識の領域からの 作用も考えねばならないし,また社会的存在としての言語・風土・思想・観念・信念の外 的事象から,個人の想像がまったく無関係でほあり得ないo素材構築の背後にあるこれら のものが作者に延いてほ作品にいかなる影響を有するかほ,作者個人個人によって実に多 様な図式となるであろう○ここで明瞭なことほ,このような図式を無視することほ不可能 であるということである。次に⑧彼が忌み嫌うく観念〉及びく感情〉の意味がやほり狭 く,実ほく物語り性〉とく感傷性〉のことを指しているのでほないかと思われる点である。 ●. ●. ●. ●. ●. ●. 音楽がことばや物語り(刺)の攻撃を受けて,旋律の明澄さが崩れて,感傷性の強いもの に惰していくという危険に常に晒されている,ということは事実であろうoここにハンス リックの現代的意味も実は存在するのであるが,しかし,観念及び感情が音素材の響きと 共存し,更に指導力となって,作品に人間的あるいは社会的につながりと厚みを与えてい るという場合も否定できないのである。. ともあれ-ソスリック程'鳴りひびく唐草模様としての音楽の天与の美しさと,旋律の ぉよぼすナチュラルな快感に酔った批評家は,またとないであろうo. 彼にとってほ,与えられた自然より,造られた音の方がはるかに美しかったのであるo 彼は言う,. 「自然が若しわれわれに与えたものがあるとしたら,それは楽器の材料として. のみである。+と。 以上-ソスリックの「音楽芙について+が今日まで音楽美論の古典として生きつづけ影. 響を与えて来た意味を,われわれほ今探ってきたわけであるが,瞬間に消えていく音の実 在を,言語で表わすもどかしさに堪えて,明快に論断をくだした歴史的意味は,決して少 なくない。事実この書を足がかりとして,賛否ともにいかに多くの立論がなされたかは想.
(7) 146. 西. 沢. 昭. 男. 像に余りあるものがある。 われわれほ,ここでこのような立論と対称的なもう一つの世界に,更に足を踏み入れて 行かねばならないoそうすることによって視野は更にひろがり,問題の核心に近づくこと になるのである。. Ⅱ. ベ-トーヴュンからワーグナ-へ. (1)カデンツとダイナミズム. パウルベッカ-ほ,その著「西洋音楽史+の中で「人熟ま18世紀以降,動的人間とな り,音楽ほ動的音楽となった--o+という意味のことをいっている。西洋音楽における 最大の曲り角ほ,何といっても,ウィ-ソ古典派以後ロマン派にかけての大きな変貌であ ろうoそのような,動的な時代に生をうけたベ-. -ヴュソは,最も動的な音楽を書いた のであるが,このべ-ーヴュソの音楽のダイナミズムの秘密を解く鍵として,ベッカー 紘,和声的器楽の有機的発展というものをその要因としてあげている。 この和声的器楽の有機的発展とは何か, 16世紀から17世紀にかけて,いわゆる古典的 機能和声の理論が確立されたのであるが,それ以来音楽ほ,常に一つの主音-の集約とい う力性を内包するようになり,そのため次執こ,動きと,表現の幅と,その多様性を獲得 していったのである。即ち和声に支えられた律動の動き・和声の拡がりと旋律の指導力に よる振幅・更に転調による多様等であるoそしてそのことがまた,ソナタ形式という近代 的な形式を生む大きな要因となった。べ-. -ヴュソに至って,更にこの懐向は拡張され,. この音素材の持つ新しい可能性の上に,彼ほ更に人間性と,新しく芽ばえた個人意識と, ・心理的ダイナミズムを,付朋口えたのであるoここにおいて,音楽の中に,新しいある観. 念が生れた。前額で考察した,. -ンスリックの場合も,く音楽的観念〉であるが,われわ. ーれほここでその両者の相違を明瞭にしておく必要があるo -ソスリックのいう観念とほ, 音楽の実体そのものであって,理念的なものや感情的なものの挿入を意味していない。べ ∼ーヴュソの場合ほ,さきに述べたごとく,全人的な,綜合的言語としてのもので,し かも,器楽的和声の必然性に密着した観念であった。 素材の必然性がもたらす美と,人間性に基づく,思想や信念によって生ずる真との,こ のような驚くべき均衡こそ,ベ-ーヴュンの音楽の真髄であろう。 ppからffに至る, 爆発するようなダイナミズム,激情的なパッセージ,観念の担い手としての旋律が,曲と 主題として,さまざまに展開されていく妙味,そしてこれらの動きの間に,豊かに生れて ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. くる詩情,こういうものは・べ--ヴェソの内的な必然性と和声のカデンツとの結合に ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. おいて,ほじめて可能となったのである。ドイツの音楽であると同時に,世界の音楽でも. あり得るこのような普遍性の獲得によって,音楽は全く新しい時代を迎えた。 ところでワーグナーが,べ-トゲエソの音楽に非常に強い感銘を受けたのほ, 才の頃のようであるoそれほ「-グモソト序曲+であったとも「交響曲第七番+であった とも,あるいはまた「フィデリオ序曲+であったとも,いろいろいわれているが,おそら くすべてに感動したのであろう.ワ-グナーのべ-ーヴェンへの傾倒は,全く想像以上. 14,. 5.
(8) 音. 楽. 147. 葉. 言. と. であり,ゲーテが,べ-ト-ヴュンの音楽の中に,自己主菜の極限によるある種の危険を 予感したのとほ逆に,ワーグナーは,まさにその中に,新時代の黍明を聴き分けたといえ. るだろう。そこに彼ほあたかも白からの生涯をかけるに足る音楽の原型を見出したかのご とくである。しかしながら,ソナタ形式の頂点に立つべ一トゲェソと,あらゆる音楽を 「ドラマとしての音の行為+であるとしたロマン派の巨匠ワーグナーとの間には,当然一 っの断層があるように思われる。それを結びつける糸ほ何か,その前にわれわれほ,ワー. グナ-の音楽の立場を知らなくてほならない。そこで,われわれはワーグナ-の名著「べ -ト-ヴェソ+をその手がかりとして,その内容の検討・考察を行なっていきたいQ (2)ワーグナーの「音の行為+とは何か. 56才の時のもので,たまたまその年,. この著ほ,ワーグナ-. 「べ-トーヴェソ生誕百. 「第九交響曲+の指 年祭+が行なわれたのを記念して善かれたものである○彼はその際, (委員会のメソ/ミ-に, -ソスリックがいるという 揮の依頼を受けたが,それを辞退し,. 理由等により)その代りにこの音楽哲学論文「べ-トゲェソ+を書きあげた。 この論文は,哲学的基盤をショーペソ-ウニルにおいたワ-グナ一昔楽の本質を,明確. にしようとした,いわば自己正当化の含みを多分にもつもので,それとともに,ベートー ヴェンのダイナミックな音楽に魅せられたワーグナーの心情も,よく表わされている。 その内容は,第一部「音楽の本質+第二部「ベートーヴェンの世界+第三部「永遠の音 楽精神+の三部から成っている。先ず第一部において,彼はショ-ペン-ウニル哲学の援 用によって,自己の音楽の理論的根拠を明確にしようと試みている。ショーベンハウエル 紘,彼の主著「意志と表象としての世界+で,人間が生きて行く根源ほ,決して知ではな い,理でほない,反省ではない,むしろ盲目的な意志であるoといっている。彼は更に, 音楽の本質について,世界的理念・現象界の本質を,概念的応用によらず,人間の心の内 奥の部分の直接作用によって表現されたものが音楽であり,音楽そのものの中に一つの理 念を認めざるを得ない,といった立場をとっている○ワーグナーは,この美学論を全く自 家薬寵中のものとして,自己の音楽的立場を敷街していっている。即ち彼ほ,外界を直接 認識する「光の世界+と,内向的な意識を持つ幽暗な「響きの世界+との微妙なつながり によって,音楽が事物の本質と一体となり得るとし,そこに映し出された「夢像+こそ, 音楽家によって表現されるものである,としているoこの辺りは,やや強引と思える論法 -の情熱が感じられて,迫力ある部分でも であるが,彼の,いわゆる「音による形象化+ ある。しかしショーペソ-ウニルは,音楽が言葉や戯曲の筋の下におかれるということに ほ,全く反対の立場を取っているのが注目されるo意志とく表象としての世界〉のく音楽 「音楽があまり言葉に与みし,出来ごとに従ってかたどろうとすれ の形而上学〉で彼は, ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ば,自分のものでない言語を語ろうとして骨折っているのであるoロッシ-ニほどこの誤 りを離れた人ほ他にない。だから彼の音楽は,全く純粋明白に音楽特有の言語を話し,少 しも言葉を必要とせず,ただ楽器のみでやって十分効果を与えるo+と言っているo 皮肉な感じがするが,それにしても,前節における-ソスリックがヨハンシュトラウスを,. ・またここでショーペソ-ウニルがロッシーニの音楽に共感を懐くということは,示唆に富. やや.
(9) 148. 西. 沢. 男. 昭. んだ面白いことに思える。音楽に,概念的な作用を求めないという一点において,二者は 共通した立場に立っているともいえる.かくしてワーグナーほ,ショーペン-ウニルのや. や独善的と思える援用から,自己の音楽の可能性を引きだした後,第一部の最後において, 形式主義者(ブラームス・. -ソス1)ックー派を意識している)への攻撃の欠を向けている&. 即ちまず「音実の形式をもって外的現象に持続する+という考え方は,. 「もっぱら造形芸. 術への判断に由来する見解が,音楽-と転用された+ために起った誤解であるとし,. 「結. 局それらの誤った考えの人々は音楽から,造形芸術作品の場合と類似した作用をもとめた。 換言すれば,美しい形式-の賛意の刺戟を音楽から要求した。+としている。そしてこの ことによって「音楽ほいかに卑屈にされたかほ容易に考えられるであろう。+と言い,普 楽の形式美と造形芸術の均斉美との表面的な類似から,音楽の本質を見失ってはいけない・ ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. と言っている。彼ほ音楽の本来の作用は,あらゆるものの内的本質の告知であるとし,そ のような形式に,内的本質の告知によって光を与え,新しい生命をもたらしたのが,偉大 なべ-ト-ヴェソの作品であると述べて,第二部へ導入している。 第二部「ベートーヴェンの世界+においてほ,ワーグナ-のべ-ト-ヴェソに対する私. 淑の気持ちが随所に表われている。ソナタ形式を真に躍動的なものとし,内的啓示にまで 至らしめたベートーヴェン,不抜の精神に徹した英雄ベートーヴェン,新教精神の持ち主 であり,性善観を持つ,まれなる聖者べ-ト-ヴェソ等々である。 面白いことに,彼ほ,ベ-ト-ヴェソの作品,嬰-短詞の弦楽四垂曲を取りあUfl,その 1. nuARTETT. N9 14. L・va'lB(;7e,%01V8eF7,)Op・131. Nヲ1Adagio・man.ontroppoemoftoespr3isi_vo ∧⊥4_. Violi】10 Ⅰ /h_■■. t'^⊥4.+占-kf-”. 1. Tー. rずv. Violi】10 ⅠⅠ. J】T7■▲竹 ”. 1. Li血. 1. ▲「 ̄. t-. 第一g]神意. Viola Violoneello. 事†. .ll lJtJLJtl)JJr・t. 5. ,T#^MAh#ぉr-a_F?^ぬ宗指=≡==¥;さゝ蒜=毎---(\ー I). CTeSC.. ^iL&,. t'EJ紳. v'ヨ-. I. d血・`p. '頭討弼dL・乱P. IJ. CTeSC,. Li血. LIII-一-Pp■l. 】1こjL/. ヨ'&.. I. l. りviiii 一id. イコf=-\ 】L. 炉-. ■■ー. a)'nLP. CT(''T-C.. .⊥士至. m二二. ヽ10P二三⊇芸gp. 1ーI. 盲軍門. 「ー■■tl 、ヽJ. _帆. 151〉. 語. 例. 2.
(10) 音. 楽. 言. と. 149. 葉. N92ALlegromoltov'-vaceunpocorit・ -一Tr---「′宇. .-_-. Ir. I)IJ・ 山神. ●If. Ill■■■lllll■l■■. ■■●I▼. I. ■●If. ItI+. I. I. _=主≡≡ゴ ■・J.. I■It. ■■●I+. t'止7b'. r■`'&. J・I.''■■ls'l'l'■ 秤. sS:. ∧intempo*T._7i___ t)L・蒜富も_ ハil. La'阜フ. ). CreSC._ (/'T. 声■声+. Ll. -_i_. I-. _I_. ■山一声L書. E+唐戸. )t're.qC._. ∫ーゝ. /一:=■■ヽ. /「=ー. fT_∫-ゝ. I. Cr'eSC._. ▲■. 10. 譜. 例. 3. 標題的解説をほどこしている。. 導入部アダヂオの愁いにみちた部分を,. 「これを私は一日のうちの朝の目覚めと名づけ. たい。その一目ほ長いのに,ただ一つの願いさえもみたしてくれない。ただ一つさえも。+. と解説し, (譜例2)次のアレグロ6/8ほ,. 「憧れは,自己みずからも相手とする憂うつな. やさしいたわむれへと変わっていく。+即ち奥ふかい夢像が,およそ愛らしい追想のうち に目ぎめるのである。と書いている。. (語例3). ここにはワーグナーの音楽の形象化に対する特異な才能の一端を,うかがうことが出来. るoベートーヴェンのクワルチットの中に深い人間性の表象を観照するということほあり 得る。即ち音の構成美と一体となったある観念の表象としてとらえる鑑賞の仕方が,一般 である。ところがワーグナ-ほ,既にその中に"言葉”および"像”の置きかえを行なっ ているのである。ワーグナーが感動したのほ,人間べ-ト-ヴェソよりむしろベートーヴ ェンの音楽の中にひそむ形象化-の可能性でほなかったろうか。ベートーヴェンにおける. 和声的・器楽としてのダイナミズムほ,ワーグナ-にとってもほや"言葉''そのもの"劇” そのものであったと考えられる。 また,ワーグナ-ほ,ベートーヴェンの-短調交響曲(第五)について,. 「拝情的な激情は,. より明確な意味における理想的な戯曲的地盤のなかまでも,すでにほとんど踏みこんでお り--,+といい,. 「これはベートーヴェンの,最も独自な音楽領域に発芽したまったく理. 想的な本能によってのみ導かれたものである。+として,この曲に対する讃歎の情を述べて いる。ワーグナーが,交響曲第六番(田園)の標題楽的意味よりも,交響曲第五番の方によ り興味を持ち,そこに音による「ドラマ+を予感したことほ,興味あることである。このこ.
(11) 150. 西. 沢. 昭. 男. とは,ワーグナーの音楽にみられる音のドラマにおいてほ,事物そのものの描写より,む しろその事物の内部に潜在する本能的な意志の象徴としての意味がつよいことと符合する。 (3)育とドラマの聞 ここでわれわれは,ワ-グナーの「ベートーヴェン+から離れて,外からワーグナ-の. 音楽の本質をながめてみることにする。まず前述のような音楽観に基づいて作曲された彼 の音楽の素材上の特徴を,項目別にあげると ③. 和声的特徴(半音階的和声と連続転調の多用,明快と晦渋の両面性). ②. 対位法的手法の多用. ③. 示導動機の使用(音楽と劇を総合する目的において) 無限旋律(全曲が一つのく音の海〉として絶え間なく続く). ④. ③と④ほ互に関連を持っていて,. ④の無限旋律を可能とするにほ,. ①の絶えざる. 転調F+よって「音に語らせる。+必要があった.カデ./ツほ,本質的に静-動-静という 一つぁく行為〉に似た動きを持っている。ワーグナ-ほ,自らの音楽を「劇という音の行 為+七・あるとしているが,そのく行為〉の基本的な単位ほ,やほりカデンツにあった。無. 限旋鐘がもたらす絶え間ないく音の海〉も,技法上からほ結局カデンツの偽終止的延長の 結果ということになる。. 「トリスタソとイゾルデ+において,このような和声の半音階的. 転調は,その極限に達して,和声崩壊の大きな一因となったのである。劇的感情の表出と いう目的の媒体となった和声的音楽の宿命というベきであろうか。. 次に②の対位法的特徴であるが,和声的発展の指導力は,ベ-トーヴェンでほ主とし て,旋律性に負っていたが,彼の場合は,その上更に,内声及びバスを対位法的に処理す ることによって,内からのく劇的表出〉を可能ならしめている。彼の和声の明澄さと晦渋 さの問を縫いつける糸としての役目を,この対位法は果しているように思う。 最後に⑨の示導動機についてであるが,筆者ほ美学的な意味において,この示導動磯 には,いささか疑問を感ぜざるを得ない。例えば「ニ-ベルングの指環+四部作の第一曲 のくジークフリート〉第一幕には,. 卜.EFc.寄り章ヵィ惚. ヱ・財宝の動線. およそ30もの示導動機(ライ、ト. 撃≡覇雫葦 モチーフ)が用いられている。即 ヰ,昔柁り ̄勤儀一. 31雀政治e,初版. 6・. 車 itl i?如. 冶の動機〉く苦役の動機〉く剣の動 機〉 くジークフリートの動機〉等 々である。. 才翼. たプリントを渡される。鳴り響く. i;-タフリートりー如才乾. ′ ̄ ̄ヽ. Jト'イ・. ◆・. 音につれて耳は示導動機を追う。 つまり. 譜. (語例4). この楽劇の鑑賞において,鑑賞 者ほ,まず示導動機が書き込まれ. J∼+. 7.. ちく思案の動機〉く財宝の動機〉く鍛. 例. 4. く音の行為〉を耳で把握し. ようとする。眼ほ舞台を見る。こ.
(12) 音. 楽. と. 葉. 言. 151. こに総合された楽劇という一体感が生まれ,かくして総合芸術が成立するという図式であ る。ところが,それにはまず,この示導動機に精通して,耳が常に30以上もの動機の意 味を知覚し得ることが条件となろう。しかし,それによってたとえ劇の叙事性(あるいは 拝惰性)が把握できたとしても,それほ既に聴体験としての音楽の世界を超えているよう ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. に思われる。音楽経験の純粋性が,劇に犯され過ぎてほいないかと恐れるのである。この・. 曲を,仮りに何ら潜入感なくレコードで鑑賞した場合,最初のく思案の動機〉に,例えば く寝しずまる森〉か何かを,またく鍛冶の動機〉にく兵士の行進〉などを仮りに想像した としても,その不当をとがめることが出来るだろうか?つまり,音の暗示力による形象化 の可能性には,自ずから限界があるように筆者にほ思われる。ワーグナ-の音楽の,いわ ゆるく音の海〉に漂よって,耳と心の足場が次第に失われていくなかで,動機を概念に置 きかえる作業を常に強いられてほ,聴き手ほとてもやりきれない気がする。 しかしながら,かつては,主題ほある観念,ある感情の莫たる表象に過ぎなかったが, ワーグナーによってこのように形象化されたことの歴史的影響は,非常に大きいものがあ ったのである。. この音楽史上の革命児,ワーグナーについては,彼の実生活上の種々の矛盾も含めて, その評価が極端に分れるのもその特徴である。例えば,ニーチェなどに見られるように,. 善悪・愛憎の両面を宿すのである。それはむしろ,ワーグナー自身の中に,その両面性オこ 潜んでいるのかも知れないoその一人ほ,べ-トーヴェソの音楽に傾倒し,自らも魅力あ. る響きで楽劇というく音の海〉を次々と創って,人々に感動と陶酔を与えた音楽家ワーグ ナ-であり,他の一人ほ,あまりにもその世紀に捉われ過ぎた演技的野心家としてのワー グナーであるといえよう。 Ⅲ (1). 也. 日. ロ. 莱. 「語りことば+と「書ことば+. ワーグナーは,その著「オペラとドラマ+の中で,現在の「語りことば+ は,太初の起源的な「音ことば+. (Wortspracbe). (Tonsprache)から派生したものであって,この「語り. ことば+ほ,原始旋律である「音ことば+を受胎させることによって,ほじめて完全な戯 曲を作り得るとしている。即ち音楽的戯曲(楽劇)誕生の理論である。これはまことに奇 妙な母子相姦ともいうべき結合であるが,太初においてわれわれの先祖が最初に用いた言. 葉ほ,音としての要素の強いものであったであろうことほ,容易に想像出来る。言葉が意 味を持つにつれて,. "音”と"語り''ほ次第に分化していったのである。. 人間ほ,言語を有する唯一の動物であるといわれ,また言語ほ,人間社会における最も 偉大な発明であるともいわれている。われわれの"思考”ほ,明白に言語に依存している。 それほ主として,. "内言語”と呼ぶことの出来る意識作用によってであるらしい。この"内. 言語”による思考を通じて音楽と言語ほ,内として結ばれているように想像される。音楽 が"鳴り響く言語”であるならば,そのような基盤の上にそして更に無意識における本能 的な言語との関連において可能となり得るように思われる。このように人間の本来的な叫.
(13) 152. 西. 沢. 昭. 男. び声に近いく音ことば〉と,思考に係わりある分化した言語とを,われわれは持っているo そして共に音楽という情念作用と深いつながりを持っていると想像される。端的にいうな らば,前者は歌,つまり声楽となり,後者ほ器楽とつながっているといえるだろうo このようにわれわれの意識の多くは,言語の支配下にあるということができるが,意識 の一部及び無意識においては,むしろわれわれは,本能と強くむすびついて,言語構造に ょる支配に対している。ここに自由の問題の根源がある。われわれは,言語を武器としな がらも,その概念性による蛭桔から自由でありたいと麟う。本能に目覚め,日常性から解 放されたいと思う。このような精神の自由の問題とも,音楽は深いつながりを持つのであ る。このような場合,音楽はむしろ言語の日常性からの人間の解放を志す。 く語りことば〉ほ,人間に論理性を与えて思考作用を促し,く音ことば〉ほ,人間の本来. 的な姿を志向する。この吉葉の両面性の結合は,ワーグナーならずとも,音楽が常に願っ ていることである。 (2)絶対音楽と標題音楽. このように音楽が素朴な歌から始まって,器楽というジャンルを獲得したことは,いわ ば言語によって促されたわれわれの精神文化の勝利ともいえる。 最初音は,人間においては,声として把握されたが,音そのものは,元来自然現象であ り,物理的力性を具えたひとつの物であった。器楽が生まれる基盤もやはり声楽と同様自 然の中にあった。古来から人ほ,音が自然の中にあることを知っていたo竹の筒を吹いて 音を出したり,角笛によって羊を呼びよせたりした。音に倍音という特性があること,そ してある音とその音の二倍の振動数を持つ音との間隔をオクターブとして,その間をいく っかの音でうめていくということを,ギリシャ音階以来,われわれが共に知っていたとい うことは,驚くべきことである。けだし自然がわれわれに与えた大きな富のひとつともい うべきものだろうか。. このようにして音楽文化は極めて抽象性の強い物としての音の組みたて,つまり純粋器 楽万能時代をやがて招来するに至ったのであるが,そのために倍音という現象から演揮さ れた和声理論が非常に大きな力となったことについてほ,小論の第二節において,われわ れが充分に触れてきた事柄である。. 物性としての音が,美となるた捌こは,当然,形式美とか構成美とかが求められるo音 楽が,建築や造形芸術にたとえられる立場がここに存する。. -ソスリック美学は,このよ. うな立場であり,またワーグナ-ほ,このような立場に音楽を限定することを忌避した。 18世紀において完成されたソナタ形式は,純粋器楽,即ち絶対音楽の立場を確固たる ものにしたのであるが,ソナタ形式のすぐれた点ほ,物性としての音の実に,人間的枠づ けを与えた点にある。抽象的音楽の楽しみの中に,言語性が加えられたのである。それほ, べ-ト-ヴェソにおいて最高のものとなった。構成的な音の実に人間的な貢が加わること によって,音楽が全人的観照にまで高められたことほ,すでにわれわれが見てきたことで ある。. 歴史の動きにつれて,われわれの思想や美観ほ,変転していく。古典派というも,ロマ.
(14) 音. 楽. と. 言. 153. 葉. ソ派というも,実に対する感覚的変化の,いわば集団的言語のようなものであろうo ここで,絶対音楽に対するものとして,標題音楽(広い意味における)について,少し 考えてみたい。 音楽が持つ表象力についてほ,否定的・肯定的とさまざまな論があるが,少なくとも, ぁの種の表象力の存在を認めないわ桝こはいかないだろうo 語る+とは,多くの人が体験的に語っているoところが,. 「言語で語るごとく,音楽が. 「何. 「何かを語る+のであるが,. を語るか+の保証を音楽に求めるわ桝こはいかないようである。自然界の音の模写によっ て,音楽の暗示力をある事象に限定することはできるが,そのような方法の乱用は,音楽 にとって自殺行為に等しい。 音楽の自律性とあまり矛盾なく表象し得るものといえば,まず感情をあげることができ る。うれしい,悲しい,酷い,明るい等,これらの感情の動きに対して,音楽ほ少なから ず表象力を持ち得る。逝に音楽の要素の側で,表象力の著しいものほ何かといえば,まず メロデーがあげられよう。. 「感情をメロデ-に託す。+という一般的な図式がここに出来上. る。音楽における要素と表象力との関係を,仮に次のごとく想定してみようo a)メロデー---指向性・言語性(拝惰性・観念性) ズ b)リ ム---感応性・叙事性 c). -ーモニ----動性・綜合性・劇性 これらは,大まかな-試見に過ぎないが,ある種の示唆にはなるかも知れない。しかし. ゎれわれの聴体験は,常に総合的なものであるので,これらの三つの要素は一体となって より複雑なく音の言語〉となる。. 標題音楽の祖といわれているリストほ,この 標題音楽の可能性について,次のようにいって いる。. 「作曲家が,その音詩を聴衆の側の偶然. "Le5. Liszt,・. P†占Iude,s”. 凄>乳与. 列. 首一書?Li. の推量にゆだねたり,聴衆がその秘密の意味を 知らずに過してしまったりすることを,プログ ラムは避けることができる。+と,つまり「何. 穿 -音叫. か+を明示することによって,創る側と聴く側 に橋をかけようというわけである。しかし,若 し安易な仕方でその橋がかけられた場合,やは. 例譜5. り音楽の自律性をそこなうことになりかねないoリストは,有名な交響詩「レ・プレリュ ード+において,散漫になりがちな,標題を持つ音のブロックに統一をもたせるた軌一 (譜例5) 種ないし二種の基礎音列から,それぞれの主題を導きだしているo これほ単にリストのみならず,成功した標題楽においてほ,作曲家によって種々試めら れている方法である。このように標題があるなしに拘らず,作曲家は,素材としての音の 構築的な均衡美と統一感に,心を用いないわ桝こはいかないoそうしなければ,く音〉と いう客観的なく言語〉が成立し得ないのであるo作曲家の想念が,ある標題の下におかれ た場合にしても,ペソを取って書かれる音ほ,常に抽象性を持った道具としての音に変わ.
(15) 154. 西. 沢. 昭. 男. りなく,形式さえも,標題と同じように,その作曲家のいわば表現の手段に過ぎないと言 っても,言い過ぎでほないであろう。 以上みてきたごとく,音菜ほ,内に言語性を秘めた一つの情念作用と音のダイナミズム への構成という意識的精神作用とによって可能であると考えられる。音楽が語られる性質 を有するのも,そのような意味においてであろう。またわれわれが所有する結果としての 音楽も当然その二面性を持っている。. 絶対音楽と標題音楽も,その意味においては,本質的な差違がないと見るのが妥当では あるまいかo絶対音楽の場合は意識性・精神性が情念を覆い隠し,標題音楽の場合ほ,逮 に情念が一つの事象の形を取って前面に浮かび出てくるoこのく実の感覚〉とく人間的真〉 との微妙なかかわり合いに,われわれは音芸術の生きた姿を見ることが出来るのである。. 結. び. 第一節において,われわれほ-ソスリック美学の考察を行ない,第二節でほ,全く逆の 立場にあるワーグナーの思想と音楽を見てきたo更に音楽史における歴史的所与としての, 古典派からロマン派への関係を,. 「べ-トゲェンからワーグナー+. -という視点で捉え,. 和声的器楽の発展の中で音楽がどのように変貌していったかを検討してきたのである。 上田敏氏は,ワーグナー論の中の一節で,次のように言っている。. 「人心の中にある諸. 般思想間にほ自然の恒久関係や連絡があるだろうかo何となくそうだろうとは虫が知らせ るoそう考える方がどうも自然に見える・・-o+このように,芸術及び思想の奥に共通な 連絡を見出そうと努めたのほ,単に氏ばかりでほあるまいo異なる現象の底に,普遍の く言語〉を見出し得たらと誰もが思うであろう。小論においても,. -ンスリックとワーグ. ナーの相違を浮き彫りにすると同時に,その振幅の中から不変の本質を見出そうとした。 また,べ-トヴェンとワ-グナ-とを結ぶ糸として,器楽和声に内在する動性を取り上 坑このような物性としてのく音>と,情念の背後に潜むく言葉〉との密接な関連におい て,音楽が真に生きた姿となる立場をみたのである。 ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. われわれの中にほともすると,絶対音楽にのみより高い芸術的価値を見ようとする,一 種のペダソチッ・クとも言える立場がある。これほ,音の道しるべとしての標題にのみ頼ら ざるを得ない幼ない鑑賞者よりほ,まだ良いとしても,鑑賞としてはやや狭まいように思 われる。事実,現代音楽において傑作とされているものにほ,ある種の標題を持っている. ものが多いが,このことほある示唆を与えているように思う。 物性としての音素材を支配するものは,結局ほ人間の精神であり,情熱であるとするな らば,音楽ほ,標題に依ろうと依るまいと,いっどのような形態においても,常に純粋で あると言うことができるであろう。.
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