Title
沖縄県統計書−沖縄県史資料編一〇巻−
Author(s)
石川, 政秀
Citation
沖大経済論叢 = OKIDAI KEIZAI RONSO, 2(1): 113-118
Issue Date
1976-03-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/6643
 ̄●●■■■■■■●■■■■l■■■ロ■0■■■■■●● ̄■■■■■■■■●■ ̄●●|■■■■■■●■■■■■■●●I■■■■■●■■■■■■■■●■■■■==●■■■■■■●●■■■■■B●■■■■■■●■■■■■■■■■ ̄■●-,●I■■■■■第二編産業 第一編政治 沖縄県統計書は明治十六年から昭和十五年までの国勢調査、県庁統計を集録したもので、一九六七年六月、琉球政府 文教局から編集再刊された。いま沖縄県統計書を要約すると、次の項目からなっている。 、人口と職業 、土地
沖縄県統計書
、人□ 沖縄県史資料編 、生産総額 、議会 、農業 酉財政 ○巻 田畜産 二林業 右水産 頁工業 へ土功(道 石川政秀 113一路、橋、堤
一第三編教育
一一、学事概況
一校
亡、一第四編その
一一、新聞雑誌
一(付録)
|本書の内容
一行過程および
-これらの統計
一語の著者、葵一田道之「琉球
|これは置県
一住の担税能力
一によれば、旧
一まで集録され
一県統計書によれば大正一一年以来、男子労働力はふえないで、とくに減少した年もある。たとえば大正十一一一年を前年と
一比較すると、男子が一一一千百七十一一一人、女子が一一千百十七人も減少している。これは男子労働力が主として県外へ移民、
》出稼ぎ労働者として転出し、女子労働力は紡績女工となって流出したことを示す。大正十一一一年、宮古、八重山を除いて
まで集録されている。本書の内容は、沖縄県の特徴と浮きぼりにする海外渡航、移民送金額、製糖、耕地段別が詳細に記録され、国策の移
過程および県政の展開がその時の流れとともに収録されている。たとえば義務教育就学率の変遷、兵役、議会など。
れらの統計のうち、人口統計だけを読んでも、本県人口の推移を的確に把握することができる。置県前の人口は独物の著者、察温によると一一十万人といわれているが、明治十一一年の藩庁報告書には十六万五千九百三十人とあるが、(松
道之「琉球処分報告」)しかし明治十六年の県統計書では一一一十六万三千四百六十八人となっている。
これは置県後、他府県から入りこんだ商人、官吏にもよるが、以前の報告書が税を負担する者、すなわち地方農村在
の担税能力者に限られ、首里、那覇は無税地区で、この状態は明治三十六年の土地整理まで続いていた。とくに本書
よれば、旧慣制度の実態を示す統計が国税、間切島税、国庫支出、土地所有の形態、間切島負債、間切島村吏の人数 防 、、ン 他図書館 一一、公学費 一一一、公立小学校資産 閂小学校教育 二小学校及学級 汽中学校及諸学 一一、警察 一一一、刑務 酉裁判 二衛生 右遊廊 亘社寺 和商業 己、金融 一一、各種組合 、 船 舶 114一沖縄本島三部は現住人口が急激に減少し、女子労働力は十五才から三十九才が多く、国頭郡では十五才乃至十九才の女
●■U■■■■■■●1■■■■■■●■■■■■■■●■■■■■■■■ ̄■■ ̄●● 家一明治三十六年の土地整理の結果、農業生産力が飛躍的に増大し、その影響で大正一一年までは人口増加が激しかった。
|土地寝理後、農民にも土地私有権が認められ、大規模な耕地整理が実施されて地力も増進し、生産性は向上したけれど
一も、切治一一一十八年以後の帝国主義的発展期になると不況が深化し、沖縄の農村では金詰りがおこり、食えなくなった農
一民は海外移民、出稼ざ労働者となって県外へ流失した。
|これら流失人口は那覇を除いて首里、中頭、国頭都が多く、宮古は水産業、八重山は西表炭坑のために、職業上の理
一由から逆にふえている。県の人口統計からすると、明治四十一年から昭和十五年までの本県では、人口規模がだいたい
一五十刀人から六十万人を超えない程度で上下している。
一昭和四年当時の農家総戸数は八四、’’一一一五戸でそのうち専業農家は六一一一、五七一一一戸で、兼業農家は一一一、六六一一戸で
一全休の一一十六パーセントにあたる。この兼業農家というのは都市周辺および漁村の自給用生産農家であるので本格的
一な農家というのは前者の六万一一一千戸で、全体の七十四パーセントにあたる。しかもこの兼業農家というのはほとんど糖
一業に依存し、釧業ももたない上に、自己資本も持たない零細農が主体である。昭和一一年の耕地面積によって区別した農
一家戸数からみると、(パーセントで表す)
|子がもっとも多かった。
0 以上のように専業農家は平均すると、【'1
一戸当り七反六畝で、本土の一・○八町の三分の一一にしかならない経営規模でし
115 iiil] 縄 全国 五五・五五 四九・六一 五段未満 一一 六 ● 一 一 一 六 二四・四九 一町未満 一四・○七 一八・○四 三町未満 四五・九一 ● 五町未満 ○・八六 二二。八三 十町未満 ○・二四 九・九○ 五十町未満 ○・○一 ○・八一 五十町以上■■ロ■■■●I■■----■■■■■■■ ̄■■■■■■■●●■■■■■■I●、■■■■■■●■|■■■■■●C■■■■■■●■■■■■■■■■■■■■■■●■■■■■■■■I■■■■■■●一℃■■■■■■●■■■■■■●●■■■■■001■■■■■●□■■■■■■■■■ き付万七大にのたと}とか逃大いあ 目し余円円幅第二年こ・なIまら県亡きわるしなければ、二十銭の追徴金を取るぞ」と警告し、それでも駄目なので銅羅を鳴らして催促したそうだが、|向に効 余りの滞納額に悲鳴をあげた首里市役所では赤、白、黄と三色の旗を用意し、紅旗をかかげると「今日中に税金を納 円余りに達し、件数も四千百六十四名になった。 円(百九名)にすぎなかったものが、だんだん年を遂ってふえつづけ、大正十三年にはその四百倍にちかい一一百十六 幅に沖縄県の台所を狂わせ、小中学校教員の俸給遅払いと相ついだ。国税の滞納額も大正七年にわずか六千四百九十 第一次大戦以後、不況は銀行関係から農村の隅々まで浸透し、世にいう「蘇鉄地獄」の時代となったが、砂糖相場は
一一百四十五万円にも達して、貿易収支の赤字を埋めている。(沖縄県史資料篇一○巻、一一九一、二九一一頁)
年(大正十年)には外国送金が九十一一万七千九百円余り、翌年には百四十一一万三千円余りとなり、昭和十五年には実 これら貿易収支の赤字はどうして補填されたのか、興味ある数字は大正十年以降の県統計が示している。すなわちこ なった。その後十年、十一年 はねあがり、移民のほうも七生 ら八年までの第一次世界大戦 県外との移出入統計をみると 亡するかのどちらかであった。 きな社会問題となった。八重・ われても仕方がない。人□の一 る。生産力も本土の二分の三 目がなかったそうである。市の予算は七万円ぐらいだが、滞納額は二万円余りもあったというから、旗ぐらいではど 入統計をみると、明治十七・十八年をのぞいて大正七年までは毎年移出超過になっていたが、大正五年 第一次世界大戦の砂糖景気が消費欲をあふり、移出は大正七年の一千四百万円が翌年には一一千三百万円 移民のほうも七年の一千三百万円が八年には一一千四百万円も突破し、従って六十五万円余りの移入超過 後十年、十一年には再び移出超過に転じたものの、大正十二年以後、沖縄県は慢性的な移入超過となっ の一強にしかならない。これでは沖縄県は零細農の集中的社会、貧農の典型的社会であると □の重圧は農村の隅々まで感ぜられ、毎年ふえる六千人の人口増加をどこに排出するかが、 八重山、西表島の開拓は察温時代から試みられたが、風土病マラリヤのためほとんど廃村か、 、 ̄山重強 116□'--■●1=-■0B■■、●■■■■■●■■■■■■●■■■■■■●■■■■■■●●■■■■■■●■■■■■■●●■■■■■■●■■■■■■□B■I■■■■●●■■■■■●■■■■■■■■■■■■■□■-■■U■■■■■●0 5, 】O[
〆昭和一
昭和三体 K旺称Ⅲ n百 HgラF1。 沖縄県生産額遂年比較表 丘】2m 4, 】O【羊iii{造
和六 3, 】O【 昭和九年度生産総額 2 ⅡⅡ 1 】U[ うにもならなかったのだろ う。それではというので差 押え処分に出て、競売に付 しても、これまた差押えた 品物を買い取る人がいない。 当時の沖縄県の経済は黒 糖を中心に産業も、金融も、 政治も動いていたから、い きおい黒糖相場の下落が沖 縄県の産業をジリ貧に追い やり、生産・規模も縮少せ ざるを得なかった。まず昭 和大不況を示すグラフとし て、上の表を見ていただき たい。(前掲書四七五頁) 沖縄県の生産額は大正十 四年から漸次減少の一途を たどり、昭和六年には三千 一百七十七万円まで落ちこ 117、ロ●0■■、●Ⅱ.■■'~10■□■■・可■■0,■00●●●□■'、●■■■〒.■■■■■■■■■■■■OD-●●■■■■■■●Iんだ。大正十四年の五千四百八十万円を一○○とすると、実に三十パーセントの減少となった。 こうして昭和の初めどろから中央の新聞、沖縄の知識人たちも孤島苦の緩和、生産の拡大、過剰人ロの処分案、教育 の振興を呼ぶようになり、昭和六年には井野次郎知事の「沖縄県産業振興十五ヶ年計画」となった。満州事変以後の軍 需景気に支えられつつ、昭和九年には昭和四年の生産水準まで恢復した。この統計書からみても明治十二年の廃藩置県 以来、本土政府、県当局は沖縄県民の皇民化教育には相当の努力を払ってきたが、いちめん、財政経済政策にはほとん ど特別の施策をなさず、いわゆる片手落ちであったことは争うべからざる統計的事実である。 最後に社会統計によると、明治一一十六年に一千五百八十一一一人もいた那覇の辻、渡地、仲島の娼妓が明治三十八年の統 計では七百二十七人に激減しているけれども、これは鑑孔を受けている者をさし、娼妓同様に営業していた無鑑孔者が その三倍はいたといわれるから、恐らく一一十六年の調査は実数であろう。昭和十五年の県才入予算項目には、「芸妓税」 が五千三百十一一円も計上されているけれども、それは鑑札所有者のみが納めた税金ということになり、税金を恐れて陽 の目を見ない奴隷たちがその数倍はいたのであろう。いずれにしても明治絶対主義政府の権力をもってしても、これら 借金に泣く女奴隷たちを昭和二十年まで解放できなかった事実からみても、明治政府の反動性、その権力の限界が示さ れているではないか。(前掲書四四五頁) 118