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沖縄戦における住民「スパイ」視について-既刊行物をもとに-: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

沖縄戦における住民「スパイ」視について−既刊行物を

もとに−

Author(s)

地主園, 亮

Citation

史料編集室紀要(25): 103-126

Issue Date

2000-03-16

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/8022

Rights

沖縄県教育委員会

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史料 編 集 室 紀 要 第

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)

沖縄 戟 における住民 「スパ イ

視 について

一 既 刊 行 物 を も と に

-地主園 亮★

は じめ に 沖縄戟 に関す る証言集 ・研究書が多数発刊 され、沖縄戦の実相 とい うものが解 明 されて きた。 さまざまな沖縄戦の諸相のなかで も、その代表例 としてあげ られ る ものに住民 「ス (1) パ イ」視 に よる虐殺がある。本稿 においては、現在 までに行 われて きた沖縄戦 における住 民の 「スパ イ」視 に よる虐殺 に関す る研 究 を整理す る とともに、現在 までに発刊 された証 言集の中か ら住民 の 「スパ イ」視 に関す る記述 を整理 して、改めて住民の 「スパ イ」視 と は如何 なる ものであったか とい うことを考察 してい きたい。 1. 沖 縄 戟 にお け る住 民 と日本 軍 との 関係 最初 に沖縄 戦全体 を通 じての住民 と日本軍 の関係 をみてい く。 まず、 日本軍が沖縄戦 を 行 う最終 的 な目標 は何 であったのだろ うか。それは 日本軍の沖縄作戦が

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日の 『帝国陸海軍作戦計 画大綱』 を基本 として作成 され たことか ら見 えて くる

『大綱』の要 点 は 日本本土 を中心 とした国防安城の確保 と敵戦力の撃破 の二点 にあった。特 に敵戦力の (2) 撃破 につい ては 「敵 ノ上 陸 ヲ見 ル場合 二於 テモ極力敵 ノ出血消耗 ヲ図 り」 とあ る。 この 「出血」 を強いる作戦の必要性 として 「敵米 国ノ人的資源 ノ現況特二人命愛惜 ノ特色 ヨリ 敵 ノ最モ痛棒 ヲ感 スル所 テ御座 イマ シテ既 二敵ハ欧亜両方面こ於 ケル相次 ク莫大 ナル人的 損耗 ニ ヨリ少 ナカラサル動揺 ヲ招来 シソツアル実情 テ御座 イマスノテ我 卜致 シマ シテハ此 敵 ノ弱点二乗 シ各種 ノ手段 ヲ併用 シ献 二甚大 ナル損耗 ヲ強要 シマシテ之 力綜合累積こ ヨリ

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) 敵 ノ戦意 ヲ挫折 セシムル コ トカ必要 卜存 シマス」 とい う説明が なされた。 しか し

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年 4月 2日に総理大 臣か ら沖縄作戦の戦況の見通 しについて質問 を受 けた とき、第-部局長 (4) は 「結局敵 二占領 セ ラレ本土来蒐ハ必至」 と答 えている。米軍が上陸 し、 日米両軍の戦闘 が本格化す る以前 か ら、沖縄 は米軍 に占領 され ることを予想 し、 日本軍 は沖縄作戦 におい て 『大綱』 に記 されてい る安城 を確保す ることは実質的には不可能 と考 えていた ことがわ か る。 したが って沖縄戦 においては敵の出血 を強い ることが重要視 されてい くのである。 なぜ勝 ち 目のな くなった戦いにおいて、必要以上 の出血 を強いる方針 をとったのだろ う

*

じぬ しぞの あ きら (史料編集室) -1

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03-史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) か。それは 日本 の終戦構想 に大 き く左右 されてい くことになる。1945年6月8日段 階で、 木戸幸 一 は 「御前会議 々案参考 として添付 の我国々力 の研究 を見 るに、あ らゆる面 より見 (ママ) (5) て、本年下半期以後 に於ては戦争遂行 の能力 を事実上殆 ど喪失」す る とい う判断 を してい

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) る。 この ような状 況で終戦の構想 については 「国体の護持 てふ至上の 目的」 としている。 つ ま り、 日本 の降伏 の条件 として最重要視 されたのが 「国体護持」であった。事実、 日本 の終戦 は、木戸 の考 えた ように 「国体護持」 を最優先 に進め られてい く。 その ような中沖縄作戦 において も 「国体護持」が重要視 されてい くこととなる。第八飛 行 師団 は第十軍 に対 して 「万一戦局打 開ニイタラス トスルモ玉砕二至 ル間少 ナクモ数 ヶ月 我 力各種戦力発揮 ノ機会 ヲ作為スル ヲ得 テ敵 二大出血 ヲ強要 シ国体護持 二寄与スル所極 メ (7) テ大 ナルへ シ」 と 『大綱』の敵戦力の撃破 を行い 「国体護持」 を成立 させ るための交渉 を 行 い易 くす るため に、米軍 に対す る積極攻勢 を要望 している。 この ような要望 によ り、第 三十二軍 の司令部 内で も積極攻勢 と戦略持久 の両方 の意見 で戦略の違 いが 出て くる もの の、「国体護持」 とい う基本 的な部分 での相違 はでて こなか った。その後、積極攻勢作戦 の失敗 に よ り、沖縄戦 においては戦略持久作戦 を行 うことになる。つ ま り、持久戦 を行 い なが ら敵軍 に出血 を強要 しつつ、「国体護持」 を成 り立 たせ る機会 をうかが っていたので あ る。 したが って、沖縄戦 においては首里の司令部が陥落 した後 も、摩文仁へ撤退す ることに なる。摩文仁 陥落寸前 において も牛 島司令官 は自決前 に 「各部隊は現地陣地附近 を占領 し 最後 の一兵 に至 るまで敵 に出血 を強要すべ し 苛 も敵 の虜囚 とな り恥 を受 くる勿れ 最後 (8) の忠節 を全 うすべ し」 とい う訓示 を残す。つ ま り、軍隊は崩壊 して も米軍 をで きるだけ沖 縄 に引 きつけてお く必要がある。そのために 日本軍の側 に立 たされた ものは投 降 を許 され ず、 自分 の命 と引 き換 えに米軍 に少 しで も出血 を強い ることが求め られたのである。 これ は軍隊が崩壊 した後 も、今 まで続 けて きた地下へ潜 りこち らの姿 をで きるだけ隠 しなが ら 米軍-攻撃 をす る とい う戦法が、部隊 とい う集団 レベ ルではな く個人 レベ ルにまで要求 さ れ るようになった といえる。 沖縄戦 は安城確保 のための戦争 ではな く、敵 に出血 を与 え 「国体護持」 を成立 させ るた めのチ ャンス を窺 うための時間稼 ぎであった といえる。その ことが沖縄戦 における最大 の 目的であ った とい って も過言ではない。 この ように沖縄戦の 目的が 「国体護持」 とい うこ とに集約 されたため、住民の保護 は後 回 しにされてい くのである。 軍 に よって保護 され なか った沖縄 人 を日本軍 は どの ようにみていたのか。戦いのために 多 くの部 隊が沖縄 に移動 して くるこ とになるが、それ以前、 日本軍は沖縄 人 を次 の ように 評価 していた。沖縄警備隊区司令部 は 「本県 二於 ケル軍事思想 ノ幼稚 ナル ト国家思想 ノ薄 (【り 弱 ナル トハ遂こ徴 兵 ヲ忌避 シ動モス レハ兵役 ノ大義務 ヲ免 レン トスルモ ノ多 シ」である と 評 している。 また、沖縄連隊区司令部 は 「

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皇室国体二関スル観念、徹底 シカラズ (中略) ) 軍事思想 二乏 シク、軍人 卜為 ルヲ好 マ

」 と評 し、「優 ノ最大 ナルハ事大事思想 ナ リ。 (中 略)事大事思想ハ 日本 ノ強大 卜共二総 テヲ大和化 セルモ之 卜同時二一時的ニセ ヨ現実二乗 -10

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4-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) ル強圧 二村 シ厳 トシテ必ズ操持ス ト誰 力保証 シ得 ン。七百年来両属事大 ノ歴史ハ内部迄一 、=1 朝ニシテ活晒 シ得 ベキモ ノニアラザルベ シ」 ともいっている。つ ま り、軍事思想 ・国体 に 関す る思想が希薄である とし、琉球が長年 日中両属関係 にあ ったことをその原 因 として、. 今 は 日本 の力が強大であるか ら従 っているがいつ別の強大 な力 を持つ国に寝返 るか もしれ ない との評価 を下 している。 また沖縄県 は 日本 で有数の移民県であ り移民帰 りの住民が多数存在 していた。 したが っ て、戦時体験 の証言集 などの中に米兵 との会話 を英語で行 った とい う事例がみ られるよう に、外 国語 を話す ことがで きる住民がいた。当時の 日本 は英語教育が廃止 となっていたた め、一般住民で英語の話せ る人は特異 な存在 であ った。そのため、先 にあげたように 「い つ裏切 るかわか らない沖縄人」 とい う意識 と、米軍 との意思疎通がで きる住民が多数いる とい う事実 か ら、 日本軍 は住民がいつで もスパ イ活動 を行 うことがで きる と考 えていて も おか しくない。 この ような状況 の下、先の評価が覆 されない まま第三十二軍が創設 され ることとなる。 沖縄戦の指揮 をとることとなる牛 島満司令官 は、着任時 に訓示 を述べ るが、 その中におい ILL\ て 「防諜 に厳 に注意すべ し」 と発言、スパ イ取 り締 ま りを重要視 していた。 この ようにス パ イ取 り締 ま りを重要視 していた理 由 としては、上記の沖縄 人観 に加 え第三十二軍 を編成 した部 隊の大部分 が 国外 で侵略戦争 を行 って きた部 隊であ った こ とがあげ られるであろ う。つ ま り侵略軍 にとっては 「敵 の領土 では、住民 はすべ て潜在 的なスパ イ と見 なされな (13

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(14) ければな らなかった

「その戦訓が、その まま沖縄 で も適用 された。」つ ま り、第三十二 軍 は沖縄住民 を国外 の住民 と同様 に潜在 的なスパ イ とみな していた とい うことがいえるで あろ う。 また、近代以後 の沖縄 はさまざまな歴史的要因か ら、軍事 的には全 くの空 自地帯 といっ て もよい状況が続 いていた。 しか し、米軍の反攻が始 まった

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年沖縄 に南方への中継地 点 としての航空基地の建設準備がは じまった。それ以後、米軍の上陸直前 まで第三十二軍 管轄下 において飛行場建設、陣地構築が突貫工事 で行 われてい く。 しか し、 この建設工事 は軍の人員 だけで は到底行 うことがで きない大事業であった。 したが って、一般住民が生 活 を犠牲 に して徴用労務者、青年学校生徒 、女子学徒挺 身隊などさまざまな名 目で借 りだ され作業 を行 うこととなる。基地建設の一例 として伊江 島飛行場の事例 を見 てみる と一次 (15) 徴用労務者 にか ぎって も合計

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人が徴用 されている。 この数は

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日の一次徴用 の人 数であ り、労務者 として借 りだされたのは伊江 島飛行場建設一次徴用者のみではな く沖縄 の至 る ところで徴用が行 われた。 この ような事 か ら沖縄住民 は戦争遂行のために 「足腰 の 立つ者 は根 こそ ぎ動員」 された と言 われ るゆえんであろ う。

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日、鹿児 島、沖縄両県知事 は 「奄美大島 。徳之島 弓中綿 島 ・宮古島 ・石垣 (1()) 島の

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つの島か ら老人、幼児、婦女子 をただちに引 き揚 げ させ ろ」 とい う電報 を受領 し、 それか ら急いで疎 開の準備 を行 うこととなる。 しか し、疎 開の許可がお りたのは動員す る ことので きない幼老婦女子 に限 られ陣地構築 な どの労務 につ くことがで きない人び とに限 _10

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5-史料 編 集室 紀 要 第25号 (2000) られた。 この ことか らも、住民の保護 について軍が十分 に配慮 を していた とはいえない。 したが って、沖縄 に取 り残 された人び とは米軍の上陸直前 まで労務 に従事す ることが求め られ、米軍上陸時 には 日本軍の陣地の様子 などを詳細 に知 ることになるのである。 第三十二軍は先 に もあげた ように、侵略軍 としての本質 を持 ったまま沖縄へ移動 して き た。侵略軍 は、侵 略 を目的 とす る もので防衛 を目的 とす る ものではない。従 って、第三十 二軍 は防衛 (住民 の保護) とい う意識が欠落 していた と考 え られるであろ う。 また、 日本政府 中枢 の意識の中には、沖縄 は 「国体」の範囲には入 っていなか った。そ れ を顕著 に示す もの として、天皇が寺崎 を介 してシーボル トへ 「アメリカが沖縄 を含 む琉 (17) 球の他 の島々を軍事 占領 しつづ けることを希望 してい る。」 とい う意向 を伝 えた ことがあ げ られ る。 この発 言 によ り沖縄 は戦後米軍 の統治下 に置かれ ることになるのであるが、当 時天皇 は沖縄 を他 の植民地 と同様 に切 り離す こともやむな しと考 えていたことがわかる。 この ような考 えを政府の中枢が持 っていた ことか ら、沖縄 は 「国体護持」のために護 る必 要のない 「捨て石」 となったのである。 沖縄住民 は軍の陣地 を熟知 し、 日本人 としての意識が欠落 している部分が多分 にある。 (18) したが って、沖縄住民 は米軍の捕虜 になった場合 は 「知 っていることをすべ て話すのでは ないか。米軍 とつ なが りを持 ってい るのではないか。」 とい う意識が軍隊内 に蔓延す るの には何 の支障 もなか った。その ような中で戦闘が不利 にな り追いつめ られてい く。そ うす る と前 にあげた牛 島の着任 時の訓示の効力が発揮 されてい く。 この ような状況下で 「沖縄 (19) 語 ヲ以 テ談話 シァルモ ノハ 間諜 卜見倣 シ虞分ス」 な どの革命が出 された。 この ことは、沖 縄人に対 して不信 感 を抱 いていた軍隊に対 して、沖縄語 を話す、軍の命令 に従順 に従 わな い沖縄住民が出て きた場合、 この ような住民 をスパ イ として処分 ■しろ とい う命令が下 った のであ る。 しか し、戦場 の中に放 り出された住民が、軍の命令通 りに行動 で きるはずが な い 。 この ような住民 と軍隊の関係性 か ら、 日本軍の戦況が不利 になればなるほ ど後 にあげる 例 の ように壕確保 、食料確保 に協力 しなか った、あるいは米軍 に投 降 したこと等 を理由に 「スパ イ」 として虐殺す る事件が起 こって くることになる。

2.

住 民 の 「スパ イ」 視 に関す る事 例 次 に具体的にどの ような住民 「スパ イ」視の事例があるか をみてい きたい。住民の 「ス パ イ」視 に関す る記述 は、その 目撃者や実際 にスパ イ容疑 をかけ られた本人 による証言 な どをもとに して、記載 もしくはまとめ られた ものが数多 くある。同一事例 であって も複数 の証言者への聞 き取 りや既刊 された刊行物 を基 に し記載 された形で、複数の刊行物 に記載 されている事例が多数ある。 したが って今 回作成 した表 は住民 「スパ イ」視事例の要点 を まとめて整理 した。 また、要点のみ を記載 したため、 どの文献 を参考 に したか をあ きらか にす るために参考 に した文献 も事例 ごとに記載 した。 _1

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06-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 住民 「スパ イ」視事例 の概要 1 伊江 島住民 が渡嘉敷 島 の捕虜 収容所へ 連行 された 後 、米軍 に伊 江 島の若 い女性5名 と男性 1名が選 ば れ降伏勧 告状 を赤松 隊へ もっていか され ることにな る。その男女6名 は赤松 隊 に よ り殺 害 されて もどっ て こなか った。 ① 沖縄 タイムス社 (1950)『鉄 の暴風』朝 日新 聞社p. 88-89② 加藤恭亮(1967)『沖縄- そ の受杜 の歴史』 ダ イヤモ ン ド社 p.177-179 ③ 儀 部景俊 (1972) m中緒 戦- 県民 の証言』 日本青年 出版 p.1∠ト15 (彰沖縄県教育委員会 (1974)『沖縄 県 史10沖縄戦記 録2』沖縄県教育委員会 p.773⑤ 伊江村教育委員 会 (1999)『証言 ・資料集成 伊江 島の戦 中 ・戦後体 験 記録- イーハ ッチ ヤー魂 で苦難 を越 えて- 』伊江 村教育委員会 p.149 p.189 p.20ト202 2 渡嘉敷 島の住 人で、15、6歳 の少 年2人が米軍 に捕 らえ られた後 、赤松 隊- 降伏勧 告 のため に赤松 隊陣 地へ送 られ た。 赤松 隊 に送 られ た少年達 は、 自決 の 場 所か ら逃 げ出 した とい う理 由 と、米軍 に投 降 し米 軍 と意 を通 じた とい う理 由で処刑 された。 3 小嶺武別 と金城幸 二郎 は、 「集 団 自決」 の数時間あ と、負傷 の まま米軍 に助 け出 され捕虜 とな った。そ の後、米兵 は2人に女 の世話 を しろ と強要す るので 山へ逃 げ出 した。そ こで駐在巡査 に会い、捕虜 にな ったこ とを許す かわ りに、座 間味-行 ってスパ イを しろと言 われるが断 った。 (丑沖縄 タイムス社 (1950)『鉄 の暴風 』朝 日新聞社 p.89 ① 儀部景俊 (1972)『沖縄 戦一 県民の証言』 日本青年 出版 p.13-14 ② 沖縄県教 育委員会 (1974)m中綿 県史10 沖縄 戦記 録2』沖縄県教 育委員会 p.773, p.778 4 豊見城村 出身 の渡嘉 敷 国民 学校 訓導大城徳安 は、 妊娠 した妻 が心 配で、 時 々妻 の もとに帰 ってい た。 そ の こ とに よ り、脱 走 の罪 を着 せ られ て斬 首 され た。 (丑沖縄 タイムス社 (1950)『鉄 の暴風 』朝 日新聞社 p.90②儀部景俊 (1972)軒沖縄戦一 県民 の証言』 日 本青年 出版 p.14③ 沖縄県教育委員 会 (1974)『沖 縄 県 史10 沖縄 戦記 録2』 沖縄 県 教 育委 員 会 p. 775,p.781-782 5 首里城 を脱 出 した沖縄 新報社 の一行 とは ぐれた高 嶺社長 は 「野 戦垂砲 隊 の壕」 にた ど り着 く前、血迷 った 日本兵 に 「スパ イ」 とに らまれ、危 う く背後 か ら小銃の狙撃 を受 ける ところであ った。 ① 沖縄 タイムス社 (1950)『鉄 の暴風 』朝 日新聞社 p.104-108 6 第三十二軍 司令部壕 の情報係 の益永大尉 はいつ も 口汚 く沖縄 人 を罵 って い た。 「警 察官 も、新 聞記 者 も、否、沖縄 人はみなが みな、スパ イだ・-。」 と口癖 の ように暴言 していた。 ① 沖縄 タイムス社 (1950)『鉄 の暴風 』朝 日新聞社 p.109 7 知念村 におい て3月 中旬 、村民 の与那城伊清 は部 隊 との、 あ る公 の席 上 で 、 日本 軍 の高射砲 の命 中率 が悪いの は

一体 どう した訳 か と質 問 した ため 「スパ イの疑いあ り。」 として殺 害 された。 (∋沖縄 タイムス社 (1950)『鉄 の暴風 』朝 日新聞社 p.116-117② 石原 昌家 (1978)『虐殺 の島1- 皇 軍 と 臣 民 の 末 路 』 晩 聾 社 p.66-68 ③ 大 田 昌 秀 (1996)L

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l沖縄 戦争 と平和 』朝 日文 庫 p.123-124 ー107

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-史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 8 知念村 におい て3月中旬、前城常昂は部隊に納め た薪代 を請求 したため rスパ イの疑いあ りO」 として 殺害 された。 (丑沖縄 タイムス社 (1950)『鉄の暴風』朝 日新聞社 p.116-117 ②石原 昌家 (1978)『虐殺 の島一 皇軍 と 臣民 の末路』晩聾社 p.66-68③大田昌秀 (1996) m中縄 戦争 と平和』朝 日文庫 p.123-124 9 知念村 において3月 中旬、村 会議員大域重政 は部 隊の兵 隊が無断で村 民 の家畜 を運 び去 るのを抗議 し たため 「スパ イの疑いあ り。」 として殺害 された。 ①沖縄 タイムス社 (1950)『鉄 の暴風』朝 日新聞社 p.116-117 10 伊芸徳一 は具志頭 の壕 にいた とき、壕 内は本部か らの伝 令 と称 す る奇 妙 な噂 で騒 いでい た。 内容 は 「サイパ ンの沖縄 人捕虜が、 ひそかに潜水艦で運 ば れ、 この島 に上陸 してい る。 これ らは何 れ も米軍の スパ イで、

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」 とい うことであった。 (∋沖縄 タイムス社 (1950)『鉄の暴風』朝 日新聞社 p.182 ll 国頭支隊の中島隊が羽地 に向か う途 中、古我知の 山中で しき りに地図 を案 じてい る と、名護 出身の将 校が先導 して道 をビーマ タにとったoす る と、 ビー マ タには米軍がいたため後方へ逆戻 りしなければな らなか った。その こ とを隊列の後 ろか ら誘導 したの はスパ イの仕業 と話 を していた。 ①沖縄 タイムス社 (1950)『鉄 の暴風』朝 日新聞社 p.304-306 l二 本部半 島 において米 軍 は、山中の住民 に 「早 く山 を降 りて、生産 に従事せ よ。」 と命 じた。米軍は、各 部落の区長達 を玉城 区の民家 に集め村の生産 と復 旧 の計画 を建 て させ た。 その後警 防団長 を していた謝 花喜睦、村 の通訳 を していた平 良幸吉、玉城区出身 の与那嶺静行夫妻 と弟 の静正 な どが殺害 された。殺 害 を行 った 日本軍の リス トには区長会譲 に参加 した 人々の名があった。 13 比嘉幸便 は、北 中城 の和仁屋 か ら南部へ家族 で逃 げたが、家族 ともば らば らにな っていた。そこで区 長の家族 と一緒 に壕 の 中に入 っていた。その後、捕 虜 とな り泡瀬の収容所 でハ ワイ帰 りで米兵 と話がで きたため、米兵 と話 を して食料 な どをもらって くる のを周 りか ら 「スパ イ」 といわれた。 14 野嵩 の住民が捕虜 になったその中に宜野湾の村長 もいた。その後米兵 に食料 集め をさせ られていた。 その様子 を嘉数の 日本 軍 は見 ていて村長がスパ イを してい ると疑 っていた。 15, 新垣 ヒデ は和宇摩集 落の上 に壕 を掘 って隠れてい たが 、 日本 兵 か らこ こか ら出 て いか ない と 「スパ イ」 と して捕 まえる といわれて壕 か らでていった。 ①沖縄 タイムス社 (1950)『鉄の暴風』朝 日新聞社 p.32ト322②那覇市役所企 画部市史編集室 (1972) 『市民 の戦時体験記 (第二集)』那覇市役所企画部市 史編集室 p.40③沖縄県教育委員会 (1974)日中縄 県史 10 沖縄戦記録2』沖縄県教育委員会 p.511 -513,p.542 (D琉球政府 (1971)『沖縄県史9 沖縄戦記録1』 琉球政府 p.254-255 ①琉球政府 (1971)『沖縄県史9 沖縄戦記録1』 琉球政府 p.259-260 (丑琉球政府 (1971)『沖縄県史9 沖縄戦記録1』 琉球政府 p.358-359 "108 _

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史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 16 安 里 牛 位 が 国場 に行 った ら、西 か ら来 た もの は 「スパ イ」 だか ら殺 せ とい う命令が 出てい る と、兵 隊 に脅 され たので、 い ままで軍の作 業 を して きた こ となどを話 を した ら壕へ入 ることが許 された。 (∋琉球政府 (197

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)

『沖縄県史9 沖縄戦記録1』 琉球政府 p,401-402 17 伊波 ウ トは西原方面 か ら真栄平へ歩 いてい る時、 友軍 の兵隊 に引 っ掴 まえ られて 「スパ イ」 と疑 われ た。 しか し、米 軍 の攻 撃 に よ り真栄平へ 引 き返 す し か ない とい う事情 を話 した ら道 を数 えて もらえた。 (∋琉球政府 (197

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)

『沖縄県史9 沖縄戦記録1』 琉球政府 p.493 18 銘苅 (屋 号 ?) の前 の道 に、髪 を長 く生や した狂 人がいた。黒で筆太 に、「スパ イの疑い」 と紙 に書 い て、石で被 うてあった。 19 与那嶺 なべ は念仏壕 か ら出て通信 隊の所 にい った ら 「スパ イ」 であ るか ら殺 す といわれた。牛 島司令 官 や工 兵 隊 の隊長 な どを知 ってい る ことを話 した ら 疑いが ほれた。 (∋琉球政府 (197

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)

『沖縄県史9 沖縄戦記録1』 琉球政府 p.499 (∋琉球政府 (197

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)

『沖縄 県史9 沖縄戦記録1』 琉球政府 p.525-526 20 城 間 ウ ト一家 は避難 の途 中、避難民 の最後尾 を歩 い てい た ら、友軍 の兵 隊が、大刀 を抜 いて rお前 た ちはスパ イなのか、今 まで ここを うろつ いて歩 い て い るが、 ぐず ぐず してい る とゆ る さんぞ」 と大 変 な 剣幕 だ ったので、謝 り許 して もらった。 (∋琉球政府 (197

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『沖縄県史9 沖縄戦記録1』 琉球政府 p.561 21 喜屋 武久 英 たちは、 日本軍 か ら壕 か ら出 る ように い われ、そ の夜壕探 しを していた。墓が あ るこ とを 思 い出 し行 ってみた ら軍 の炊事場 になっていた。炊 事場 の見張 り番 に捕 ま り、「お前 はスパ イだな」 とい われ たので 、理 由 を話 した ら夜 明 けに許 され、 自分 の壕 に帰 った。 ごご 喜屋 武久 英 は、摩文仁 に師範 学校生 の生徒 が来 て い る と聞 き、従兄 弟 の子供 も来 てい るのではないか と思 い会 い に行 こうと した。 「あなたは何 を してい る のか」 と開 かれ理 由 を話 した。 師範 の生徒 はい ない とい うことにな り、「スパ イ」 と疑 われた。家族 も一 緒 に避 難 してい る こ とを話 し、それが本 当だ ったの で解放 された。 23 喜屋 武久 英 は、水汲 み行 った とき松 の木 に縛 られ て い る 人 を見 た。 そ の 人 は 「スパ イ」 で あ る と し て、捕 らえ られてい る とい う話であった。 (D琉球政府 (197

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)

LF沖縄 県史9 沖縄戦記録1』 琉球政府 p.650 (D琉球政府 (1971)m中縄県史9 沖縄戦記録

1』

琉球 政府 p.652 (∋琉球政府 (197

1

)

『沖縄県史9 沖縄戦記録

1』

琉球政府 p.653 ー1

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09-史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 24 嘉手納宗 徳 は、県 の人口課の仕事 で、各部隊 の所 ① 琉球政府 (197

1

)

『沖縄 県史9 沖縄戦記録1』 在 地 を確 認 しに憲兵 隊へ行 った ら軍の機密 を知 りた 琉球政府 p.742 が る とい うことで 「スパ イ」 と疑われた。 25 嘉 手納宗徳 とその妻 が米 の配給 を貰 い にい って帰 ①琉球政府 (1971)『沖縄 県史9 沖縄戦記録1』 って きた ら、兵 隊6人が 「スパ イ」 の容疑で捕 まえ 琉球政府 p.744-745 に きて い た とい うこ とであ る。 その後 「スパ イ」 と して連 行 され るが、県教学課 に問い合 わせ た結 果、 疑 いが晴 れ釈放 された。 26 衛 兵所 の伍 長が嘉手納宗徳 に、「スパ イ」 として疑 (D琉球政府 (197

1

)

『沖縄県史9 沖縄戦記録1』 われた首里 高女 の学 生 をスパ イではない と証 明 して 琉球政府 p.747 欲 しい とい って きたので、「スパ イ」で ない と証 明 し て疑い をは らした。 27 伊 良披 ヨシ子 は、ギ ーザパ ンダの壕 で兵隊 と住民 (丑琉球政府 (197

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『沖縄 県史9 沖縄戦記録1』 が混在 してい る中、1人の兵隊が 「沖縄 人がスパ イ 琉球政府 p.792 を働 い たため こんな無 残 な負 け方 を したんだ」 と、 気 が狂 った ように騒いでお り、「沖縄 人はみんな撃 ち 殺 してや る」 と騒いでいたの を目撃 した。 28 大 湾 朝次 郎 は、 「スパ イ」嫌疑 が激 し くな った の は、米 軍 のスパ イ活動 が激 しくなってか らで は ない か と思 うと話 す。警察 で知 らない人、初 めて見 る人 な どは 「スパ イ」 と疑 え とい うような内容 の指 示が でていた。 (丑琉球政府 (1971)『沖縄 県史9 沖縄戦記録

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琉球政府 p.863 29 国書 真孝 は、 自分 の家か ら蝋燭 とマ ッチ を持 って 自然壕 へ移動 中、兵 隊 につか ま り 「スパ イ」 と疑 わ れ た。 知 り合 い の長谷 准尉 がい たため に疑 いが晴 れ 助 か った。 ① 琉球政府 (197

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『沖縄 県史9 沖縄戦記録1』 琉 球 政府 p.881② 糸満市 史編 集委 員会 (1998) 『糸満市 史資料編7 戟時資料 下巻 戦災記 録 体験談』糸満市役所 p.531-532 30 仲 間忠一 は、米軍が 山 を焼 くとい うこ とで捕虜 に な った。他 の住 民 に も捕虜 になるこ とをすすめ にい った ら、兵 隊 に 「これ はスパ イだ」 と銃殺 されそ う になる。 そ こ- 親戚 が か ばい に出て、 その間 に逃 げ 出 し助 か った。 31 阿波 連 の 人々 は山で の避 難生活 をやめて郷里 で生 活 を してい た。 日本 軍 に無 断で移動 し、捕虜 にな っ た とい う理 由で全員 に死刑勧告 を された。 防衛 隊 を 含 め た 日本軍が処刑 に来 たが、防衛 隊員 の息子 がい て殺 す わけ もいかず帰 ってい った。 (∋琉球政府 (197

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1_F沖縄 県史9 沖縄戦記録1』 琉球政府 p.901 (∋儀部景俊 (1972)『沖縄戦一 県民 の証言』 日本青年 出版 p.15-16 -110

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-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 32 阿波連 の新垣 重吉 、高 波蔵和雄 、与那嶺徳、大城 ①儀部景俊 (1972)『沖縄戦一 県民 の証言』 日本青年 牛 の4人は、米軍 の使 い と して投 降 び らを赤松 隊 に 出版 p.16 持 っていか された。 新垣 、古披蔵 の2人は途 中で引 き返 して きたが、残 りの2人 は、司令 部 に行 って斬 殺 された。 33 米軍上陸前 、北谷村砂 辺 の有志青年 と農林学校 生 徒 の一部 で義勇隊 を編 成 した。球部 隊の将校 が 、義 勇 隊の解散 を命 じ、英 語が で きるか と開いた。喜屋 武真幸 がで きる と答 え る と、将校 は 「お前 たち沖縄 人 は、 ここか ら米軍が 上陸 して くる と、す ぐスパ イ になる-」 とい った。 34 上原 京子 が焼 夷弾 の攻撃 に よ り家族 とは ぐれ た と き縦穴 の防空壕 ら しい もの に近づ くと、 中で背広 を 着 た 中年 の男 性 がへ ん て こな文 字 の本 を読 ん で い た。近 くへ寄 って 「お じさんは陸軍 ですか、海 軍で す か」 とたず ねてみて何 の返事 もなか ったので スパ イ と思 った。 35 3月 ごろ伊 良部 の 白鳥や、佐 良浜 の西 の辺 りで よ く信 号 弾 が あが り、 そ の 翌 日必 ず 空 襲 が あ る と し て、 日本 軍 は住 民 の 中 に スパ イが い る とい ってい た。 ① 儀部景俊 (1972)『沖縄戦一 県民の証言』 日本青年 出版 p.91 (∋那覇市役所企画部市史編集室 (1972)『市民の戦時 体験記 (第二集)』那 覇市役所企 画部 市史編集室 p, 61-62② 那覇市役所企 画部市 史編集室 (1974)柑β 覇市史 資料編 第2巻 中の6』那覇市役所企 画部市 史編集室 p.97 ① 沖縄県教育委員会 (1974)『沖縄 県史10沖縄戦記 録2』沖縄県教育委員会 p.375-376 36 本部 のハ こ クの浜 か ら12歳の少年が缶詰 の箱 を担 ① 沖縄 県教育委員会 (1974)『沖縄県史10沖縄戦記 い で来 た ことが あ ったO それ を見 て驚 い た大 人 たち 録2』沖縄県教育委員会 p.467 は、 その少 年 に疑惑 の 目を向け、 きっ と 「スパ イ」 であ るに違いない と決め付 ける人々 もいた。 37 本部 国民学校 の校 長 であ った照屋忠 英 は、兄 の忠 ① 沖縄 県教育委員会 (1974)『沖縄県 史10沖縄戦記 助 や忠次郎 の名 を呼 び なが ら山の 中を さまよい続 け 録2』 沖 縄 県 致 育 委 員 会 p.492 ⑦ 佐 木 隆 三 てい た。忠英 は、耳が 遠 く飛行機 の音 さえ聞 こえな (1976)『証言記録 沖縄住民虐殺- 日兵逆殻 と米軍 い ほ どであ った。米軍 の攻撃 の中平気 で歩い ていた 犯罪』新 人物往来社 p.95-97③ 山川泰邦 (1969) の で 、 日本 兵 に よ りカ シ ンナ ー山 にお い て 「スパ 『秘録沖縄戦記』読売新聞社 p.286-269 イ」容疑で斬殺 された。 38 玉城清威 らは、米軍基 地か ら盗 んで きた缶詰 を、 お前 は 「スパ イ」 だろ う、敵 に通 じてい るだろ うと いわれ奪 われた。 なか には、「スパ イ」扱 い されて処 刑 された とい う話 もある。 ① 沖縄県教育委員会 (1974)『沖縄県 史10沖縄戦記 録2』沖縄県教育委員会 p.566

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史 料 編 集 室 紀 要 第 25号 (2000) 39 5月大宜味村渡野喜 屋 において、 中南部か ら避難 (∋沖縄県教育委員会 (1974)『沖縄県史10 沖縄戦記 して きた住民90名が 米軍 に保護 されていた。 日本兵 録 2』沖縄県教育委員会 p.572-575 ②安仁屋政昭 約10名の手 によ り住民 の リーダー格 の男達が 山へ連 (199

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日中縄戟学習のため に』乎和文化社 p.38-行 され斬殺 された。残 りの住民 も浜辺-連p.38-行 されて 41 手相弾 を投 げつけ られた。 日本兵 は避難場所 に置い てあった食料 などを全部持 ち去 っていた。 40 伊是名で奄美か ら買 ってこられていた3名の少年 達 が スパ イ行 為 をす る恐 れが あ る と して殺 害 され た。 ① 沖縄県教育委員会 (1974)『沖縄県史10 沖縄戦記 録 2』 沖 縄 県 教 育 委 員 会 p.608 ② 石 原 昌 家 (1978)『虐殺の島一皇軍 と臣民の末路』晩翠社 p. 137-140 41 書名政昭は6月25日、伊平屋 で 日本軍が負 けたこ とを知 る。それ を伊是名 で話す とアメリカのスパ イ で ある と噂が立 った。 内花の父親が病気 だ とい う手 紙でおび き寄せ られ殺 害 される。 (∋沖縄県教育委員会 (1974)『沖縄県史10 沖縄戦記 録 2』沖縄 県教育委員会 p.608-609 ② 石原昌家 (1978)『虐殺の島一皇軍 と臣民の末路』晩啓社 p. 120_136 42 座 間味村で捕虜 第一号 となった後藤松雄 とその妻 ①沖縄県教育委員会 (1974)『沖縄県史10 沖縄戦記 が、住民へ米軍の食料 を分 け与 えたことによ り、 目 録 2』沖縄県教育委員会 p.710-711 ②座 間味村史 本革の本部へ呼び出 され殺害 されていた。 編集委員会 (1989)『座間味村史下巻』座 間味村役場 p.105-106 p.148-149 43 座 間味村 の仲地和 子 の叔父夫婦 は叔母 の足が悪か (∋沖縄県教育委員会 (1974)『沖縄県史10 沖縄戦記 ったため山にのほれず、捕虜 とな り2、3ケ月米兵の 録 2』沖縄県教育委員会 p.721 ②座間味村史編集 世話 になっていたの を 日本兵 に見つか り、「スパ イ」 委員会 (1989)『座 間味村史 下巻』座間味村役場 とい うことで殺害 された。 p.132 44 終戦直後、久米島 において、谷川一家 は夫が朝鮮 ① 沖縄県教育委員会 (1974)『沖縄県史10 沖縄戦記 入で あ る とい う理 由 で 「スパ イ」 と して殺 害 され 録 2』沖縄 県教育委員会 p.813-814 ② 大 島幸夫 た。 (1975)m中縄の 日本軍』新泉社 p.140-142 ③佐木 隆三 (1976)『証言記録 沖縄住民虐殺一 日兵逆殺 と 米軍犯罪』新人物往来社 p.115-116 45 喜屋原 カナは避難先 で負傷兵 に 「おい、 きさまら 沖縄人はアメ リカの スパ イだ。 お前達のため に 日本 軍 は負けたのだ」 といわれた。 (∋沖縄県教育委員会 (1974)『沖縄県史10 沖縄戦記 録 2』沖縄県教育委員会 p.885 46 平良亀之助 は大宜味 の喜如嘉 に避難中、何度 か食 料 を献納 させ られてい た。食料 がつ きそ うにな り、 出すことを渋 ると国賊 といわれた。 (丑那覇市役所企画部市史編集室 (1974)柑β覇市史 資料編第2巻 中の6』那覇市役所企画部史市編集室 p.129-130 47 塩屋 の右手 にある イシフ ドゥ とい う部落の住民仝 (∋創価学会青年部沖縄県反戦出版 委員会 (1974)『戟 員 に 「スパ イ」 の嫌疑 がかけ られ、 日本兵の手 によ 争 を知 らない世代 へ1 打 ち砕 かれ しうるま島』第 って焼 き討 ちがかけ られた。嫌疑 の理由は、竹細工 三文明社 p.73-74 な どで、非常 に裕福 に暮 らしていたためであ った。 112

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-史料 編 集室 紀 要 第25号 (2000) 48 久米 島 において米軍 に抜致 された比嘉亀、宮城栄 ① 大島幸夫 (1975)『沖縄 の 日本軍』新 泉社 p.99一 明 の2人が釈放 された後、比嘉、宮城の家族 と小橋 103 川共晃区長、糸数盛保北原警防団長の合計9名が宮 城宅で、 日本軍 に刺 された後、焼 き討 ち され殺害 さ れた。 49 郵便局 に勤務 してい た安里正二郎 は、米軍 に連行 ① 大島幸夫 (1975)『沖縄 の 日本軍』新泉社 p.1071 された後 、鹿 山隊 にあ てた降伏勧告 を託 され山 にの 108 ぼ った。鹿 山隊長 は、安里 を利敵行為 として殺 害 し た。 50 沖縄本 島で捕虜 とな り、久米 島に米軍への投 降 を ① 大島幸夫 (1975)『沖縄 の 日本軍』新泉社 p.128 -呼 びかけ に きた仲村渠 一家3人が、 日本軍の手 によ 136(丑佐木隆三 (1976)『証言記録 沖縄住民虐殺 り殺害 された。 - 臼兵逆穀 と米軍犯罪』新人物往来社 p.109-114 i -ll 小湾 の大域 政英 は小 湾か ら天久台へ選種壕 を求め てい った ら、 「スパ イ」祝 されて殺害 されそ うにな る。住民が身元 を保証 して も信 じなか ったが、天久 台 の高射砲 陣地の桜庭 兵長が身元 を引 き受 けたため 助 か った。 その後 同様 に捕 まっていた青年が殺害 さ れた。 52 伊知万里子 、手登板 ヨシ子 は、小湾の田中部隊で 女子救護班 として働 い ていたが、部隊の壊滅 によ り 兵隊 を首里 の野戦病 院 に護送 した。その とき観音堂 あた りの陣地 に潜 り込 んだ とき 「スパ イ」 として疑 われたが、部隊 にいた永 岡大尉 と城 間少尉が身元 を 保証 したため に助か った。 (D浦添市史編集委員会偏 (1984)『浦添市史 第五巻 資料編4 戦争体験記録』浦添市教育委員会 p.193 -197②法政大学沖縄文化研究所小湾字詰調査委員会 (1995)『小湾字詰一 沖縄戦 ・米 占領下で失われた集 落の復元』浦添市小湾字詰編集委員会 p.419-420 (∋浦添市史編集委員会 (1984)『浦添市史 第五巻資 料編4 戦争体験記録』浦添市教育委員会 p.196 -199 53 棚原直正 は防衛 隊 と して小禄村 の具志 にいた とき (丑浦添市史編集委員会 (1984)『浦添市史 第五巻資 家族 との面会 のため に識名 まで行 き、その帰 りに津 料編4 戦争体験記録』浦添市教育委員会p.199 嘉 山の後 ろで 「スパ イ」容疑 をかけ られたが、 自分 の班 の名前 な どを書 い た手帳 を持 っていたため に放 された。 54 戦闘 に参加 していた屋 良芳子 は小湾 を脱出後東風 ①浦添市史編集委員会 (1984)『浦添市史 第五巻資 平 でスパ イ として他 の2名 とともに捕 らえ られ尋問 料編4 戦争体験 記録』浦添市教育委員会 p.200 -される0 3名 の話が一致す るために釈放 された。兵 201 士達 はその後 「日本軍 はスパ イのために相 当や られ ているか ら、取 り調べ のため にや ったことなのでわ るかった」 といわれた。 55 伊波千代 は棚原か らの避難 の途 中、真栄平 の畑道 ①西原町史編纂委員会 (1987)『西原町史 第三巻資 を歩いている と 「お前はスパ イだ。」 と殺 されそ うに 料編二 西原の戦争体験記録』西原町役場 p.194 なった。経緯 を話 を した ら殺 されずにすんだ。 -11

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3-史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 56 伊波 ウ トは真栄平 か ら西原へ逃げ ようとして家族 とは ぐれた。その後西原へ は米軍の攻撃 で逃げ られ なか ったため に真栄平へ戻 ろうとした ところを 日本 軍 にスパ イ として疑 われた。経緯 を話す ことに よ り 釈放 された。 57 呉屋 定功 は其栄平 集落で 「スパ イ」容疑で捕 まえ られ激 しく尋問 されたのち許 され釈放 された。 58 ①西原町史編纂委員会 (1988)『西原町史 第三巻資 料編二 西原の戟争体験記録』西原 町役場 p.209 -210 ①西原町史編纂委員会 (1988)『西原町史 第三巻資 料編二 西原の戦争体験記録』西原 町役場 p.376 ち き んた 大城純勝 は首里攻 防戦の時期、津記武多の前 を役 場へ向か ってい る途 中、 2時間不審尋問 をうけた。 そ の時 兵 隊 は 「学校 数貞 とか官公吏 は、皆 スパ イ だ。具 志 頭村 長外61人スパ イ容疑 で検挙 されたの だ。お前 もスパ イだ」 といわれた。 59 玉井正徳 は与座 か ら避難 し、高嶺村 の大里 で軍 の 壕 に入 れ て もらうよ うに頼 む と、「沖縄 人 はみん な 「スパ イ」 だ か ら、 ここに入 れ るわけ にはい か な い」 といわれた。地元 の有志 の保証 によ り壕 に入 る ことがで きた。 60 神谷 すみ子 は、父 と一緒 に首里か ら、津嘉 山の知 人 に会 い に行 く途中、高射砲陣地へ迷い込み 「スパ イ」容疑 をかけ られ た。経緯 を話 して も信 じて もら えなか ったが、知 人が呼 ばれ身元 を保証 した ことに よ り疑いがほれた。 (∋西原町史編纂委員会 (1988)『西原町史 第三巻資 料編二 西原の戦争体験記録』西原 町役場 p.449 -450 ①西原町史編纂委員会 (1988)『西原町史 第三巻資 料編二 西原の戦争体験記録』西原町役場 p.607 ①那覇市役所企画部市史編集室 (1978)『忘れ られぬ 体験 市民の戦時体験記 (第-集)』那覇市役所企画 部市史編集室 p.51-52 61 羽地 の避難民 の班長 が 「スパ イ」であ ると して、 日本兵 に家 を焼 き打 ちをされた。 ①那覇市役所企画部市史編集室 (1978)『忘れ られぬ 体験 市民の戦時体験記 (第二集)』那覇市役所企画 部市史編集室 p.44 62 羽地 の与那で捕虜 となってい た避難民 は、 日本兵 が 出没 す る とい うことで、当原 に移 された。一週 間 後 日本兵の手 により、高嶺一家が惨殺 された. ①那覇市役所企画部市史編集室 (1978)『忘れ られぬ 体験 市民の戦時体験記 (第二集)』那覇市役所企 画 部市史編集室 p.44 63 米軍 に任命 された漢郡の村長である池宮秀厚 の前 任者 は、 日本軍 の敗残兵か ら 「スパ イ」 として殺害 された。 ①那覇市役所企画部市史編集室 (1978)『忘れられぬ 体験 市民の戦時体験記 (第二集)』那覇市役所企画 部市史編集室 p.116②沖縄県婦人連合会 (1986) 『母 たちの戦争体験 平和 こそ最高 の道産』沖縄 県 婦人連合会 p.2551256 64 具志 頭村 の新城 で、南部へ避難す る途 中であ った 桑江 とい う名の民 間人が怪 しまれ、「スパ イ」 として 日本刀で殺 された。 (∋琉球新報社 (1995)『証言 沖縄戦- 戦禍 を掘 る』 琉球新報社 p.98 _11

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4-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 65 沖縄 地方気象台 に務めていた喜瀬 は、少 し走 って ①琉球新報社 (1995)柑正言 沖縄統一戦禍 を掘 る』 は隠れ、 また走 り出す陸軍将校 の ようす を高笑い し 琉球新報社 p.283 て見ていた ら 「スパ イ」 だ と疑 われ殺 されかけた。 66 特設警備第二二三 中隊の救護班員 となった翁長安 (丑石原昌家 (1984)『証言 一沖縄戦 戟場の光景』 子 は、数時 間壕 をあけて戻 って くる と石部隊の兵士 青木書店 p.8ト82 に言 語 障 害 者 ら しい 人が 「スパ イ」 と疑 われ てい た。 これ をかば うと 「お まえ もスパ イだろ」 と疑 わ れ たが 、所 属 の隊長 の名前 を言 った ら疑 いが ほれ た。 67 首里 の司令部 が米軍 に占領 された後、翁長安子 は (∋石原昌家 (1984)『証言 ・沖縄戦 戦場の光景』 識名か ら一 日橋へ かかる途中 日本兵 の斥候 に 「スパ 青木書店 p.95-96 イ」 と して疑 われたが所属隊の状況 な どの説明 を し た ら疑いがほれた。 68 島田県知事が軍 に協力す るためにつ くった 「後方 指導挺 身隊」の佐敷班 は具志頭城の壕 で ようや く中 へ入 れて もらった時、「サイパ ン辺 りの沖縄 人捕虜が 敵 のスパ イとな って、各部落 に地方人 となって ま ざ れて入 り込んでいる。-」 とい う話 を聞いた。 69 玉城村 の糸数壕 において食料 を探 しに きた住民が 見張 り番 を してい た役所職員 によ り 「スパ イ」 と し て射殺 された。 (丑石原昌家 (1984)『証言 ・沖縄戦 戦場の光景』 青木書店 p.195-196 (丑石原昌家 (1978)『虐殺 の島-皇軍 と臣民の末路』 晩馨社 p.17 p.32-34 70 セイ7 7-ウタキの敗残兵が岬近 くの壕 で ラ ンプ を ともしていた住民 を、 中城湾の米軍 と連絡 を とっ ていると決めつけ惨殺 した。 (丑石原昌家 (1978)『虐殺 の島-皇軍 と臣民の末路』 晩翠社 p.69 71 伊平屋 に本島か ら疎 開 して きた東一家 は村 の住民 に 「スパ イ」だ といわれ虐待 された。 ①石原昌家 (1978)『虐殺 の島一皇軍 と臣民の末路』 晩啓社 p.116-117 72 安里 ヌ クシーの壕で佐敷出身の男性が、ハ ワイ帰 りとい うことで 「スパ イ」祝 されていた。 (∋佐敷 町史編集委 員会 (1999)『佐敷 町史 4 戦 争』佐敷町役場 p.219 73 知念半 島 におい て字屋比久 のス クナム イの壕 に隠 (∋佐敷町史編集委 員全 く1999)『佐敷 町史 4 戟 れていた許 田百子 は、 6月 に米軍が 「デテ コイ、デ 争』佐敷町役場 p.240 テ コイ」 とい うの をスパ イだ と思い壕 か らでていか なかった。 74 ヤ ンパ ルに避難 していた玉寄豊子 は、米軍か ら逃 (丑佐敷 町史編集委貞会 (1999)『佐敷 町史 4 戦 げる途 中、宇土部 隊の兵舎 らしきものをみつけたの 争』佐敷町役場 p.245 で軍属 に してほ しい と頼 んだ。「沖縄 の女 はスパ イ だ、

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」 といわれたが食い下が る と兵器部 に配属 さ れた。 -11

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5-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 75 10・10空襲 の後、字佐敷 において地図 をもって兵 ① 佐敷町史編集委員会 (1999)『佐敷町史 4 戦 隊は どこにい るのか な どと聞 く人がいた。それ を区 争』佐敷町役場 p.279 長 に話 した ら、その人は軍 に連行 され殺 された。 76 南風 原か ら糸満の伊 数 の 自然壕 に逃 げていた桃原 (丑南風原町史戦災調査部会 (1994)『南風原町沖縄戦 キ クは、壕 が米 軍 の攻撃 を受 けた と き、 日本 兵 に 戦災調査 9 照屋が語 る沖縄戦』南風原町史編集 「お まえ達、親兄弟 はみんなスパ イだろう。」 といわ 委員会 p.52 れた。 77 豊見 山 ヨネは、百名海岸 で 日本兵が住民 を 「スパ イ」 として壕 か ら引 きず り出 して撲殺 す る光景 を見 た。撲殺 の原 因は食料 をわけて もらえなか った こと にあるようである。 ①佐木隆三 (1976)『証言記録 沖縄住民虐殺一 日兵 逆殻 と米軍犯罪』新人物往来社 p.45-46 78 宮城 トヨは真和志村 か ら避維途 中、壕 の外 に用 を 足 しに行 った人が戻 って きた ら砲弾 の着弾場所が近 くなったの を、兵隊がその人が スパ イ行為 を したか らだ と怒 っていたのを目撃 した。 (D佐木隆三 (1976)『証言記録 沖縄住民虐殺一 日兵 逆殻 と米軍犯罪』新人物往来社 p.46-47 79 米軍上陸前、首里城 の広場で首里 人が南方帰 りと い うことで 「スパ イ」祝 されて殺害 された。 ①佐木隆三 (1976)『証言記録 沖縄住民虐殺一 日兵 逆殻 と米軍犯罪』新人物往来社 p.60 80 少 し気が狂 った人が 「日本負 けた」 といって町 を 歩いていた。それを 日本兵が 「スパ イ」 として首 を はねた。 ①佐木隆三 (1976)『証言記録 沖縄住民虐殺一 日兵 逆穀 と米軍犯罪』新人物往来社 p.60 81 大 山朝常 は食料供 出 を割 り当ての通 りに出 してい たが、 日本兵が割 り当て とは別 に勝手 に とってい く ので、規則 を守 るようにい った ら 「スパ イ」 と して 扱 われた。 (∋佐木隆三 (1976)『証言記録 沖縄住民虐殺一 日兵 逆穀 と米軍犯罪』新人物往来社 p.90 82 本部 の伊豆味 に避難 していた太 田守徳 は、深夜 日 本兵 に呼 び出 されて惨殺 された。太 田は 日本軍-食 料 な どを納 めていたため陣地の様子 な どに詳 しいの で殺 された と噂 された。 ① 山川泰邦 (1969)『秘録沖縄戦記』読売新 聞社 p.289-290 83 6月始め頃大宜味村喜如嘉で 日本軍が 「スパ イ」 容疑 の リス トをつ くってお り、その リス トの中 にい た知名巡査が 「スパ イ」 として殺害 された。 ①佐木隆三 (1976)『証言記録 沖縄住民虐殺一 目兵 逆殻 と米軍犯罪』新人物往来社 p.97 84 大宜味村 白浜で、避難 していた人たちが地元住民 との トラブル に よ り南- 下 った。 そ れ を 日本兵 が 「スパ イ」 として殺 害 した。地元住民 の密告 に よる 殺害 とい う説 もある。 ①佐木隆三 (1976)『証言記録 沖縄住民虐殺一 日兵 逆穀 と米軍犯罪』新人物往来社 p.97-98 -11

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6-史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 85 徳里和順 は北谷か ら南部へ避牡す る途 中、避難す (丑北谷町企画課町史編集室 (1995)『戦時体験記録 る壕 を探 して手 ごろな壕 を覗いた ら日本兵 に 「スパ 北谷町』北谷町役場 p.149-150 イ」 としてつか まった。 兵隊 を家族 の所へ連 れてい き疑いをはらした。 86 部隊の本部壕 に直撃弾 が落ちたの を瀬底絹子 は、 (丑中山良彦 (1980)『人間でな くなる E]』集英社 日本兵が 「これ も沖縄 人の しわざだ。そ うで なけれ p.169-170 ば、なぜ そ こに弾が とんで くるのか」 とい っていた のを聞いた。 87 4月初め繁多川の警察本部へ以前か ら住み着 いて い た浮浪者 を 「スパ イ」 の疑いがあ ると日本兵が連 行 して きた。 ① 山川泰邦 (1969)『秘録沖縄戦記』読売新聞社 p.291-292 88 安謝部落の区長の天久仁徳 は、家へ食料 を取 りに 行 くとき歩哨 に 「スパ イ」 として連行 されたが、那 覇署の警備小 隊員であ った山城清菊が知 り合 いであ ったために疑いがほれた。 ① 山川泰邦 (1969)『秘録沖縄戦記』読売新聞社 p.292-293 89 伊江 島で捕虜 となった住民数名が 日本軍のい るチ ネヤ壕へ衣類 な どを取 りに行 った ら 「スパ イ」 とし て殺害 された。 ①伊江村教育委員会 (1999)『証言 ・資料集成伊江島 の戦中 ・戦後体験記録- イーハ ッチ ヤー魂で苦難 を 越 えて-』伊江村教育委員会 p.201-202 90 古波津酒昇 は、 6月 に八重瀬周辺 の壕 にとどまっ ている と、 日本 兵 に住民 が とどまってい るはずがな いか ら 「スパ イ」 だ と疑 われた。敵 と戦 うため に日 本刀や手相弾 を もってい る とい うと強引 に進入 して こなか った。次 の 日食 料 を恵 んで くれ と頼 み に き た。 ①東風平町史編集委員会 (1999)『東風平町史 戦争 体験記』東風平町 p.293-294 91 石原光寿、森 田勤吉 らは夜 間のパ トロールの時、 八重瀬岳の麓 にスパ イが進入 してい るとの噂が ある ので何 か尋 ねて返事が なければ別 して もよい と指示 をうけた。 (∋東風平町史編集委員会 (1999)『東風平町史 戟争 体験記』東風平町 p.469-470 92 山人端嘉 四郎 は他 の住民 と離れた ところに避難小 屋 を造 ったこ とにより 「スパ イ」 と疑われた。敵の 飛行機 をみて 「バ ンザ ー イ」 と言 ったため に 「スパ イ」 といわれた人 もいた。 (∋糸満市史編集委員会 (1998)『糸満市史資料編7 戦時資料 下巻 戦災記録 ・体験談』糸満市役所 p.174-178 93 阿波根の島清 は前兼久 と行 き来 して食料 を とって きてい ることを 「スパ イ」 だか らで きることである といわれた。「スパ イ」 じゃない ことを証明す るため に一緒 に行 こ うとい った ら日本兵 はひ きあげていっ た。 (丑糸満市史編集委員会 (1998)『糸満市史資料編7 戦時資料 下巻 戦災記録 .体験談』糸満市役所 p.364-365

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-117-史料 編 集 室紀 要 第25号 (2000) 94 伊礼ハ ルはマ-ヤーガマでオーバ ーを来 ていた ら 何 か を隠す ため にオーバ ー を着 てい るん だろ うと 「スパ イ」 として疑 われた。それ を知 り合いの兵隊 がかばったために疑いがほれた。 (丑糸満市史編集委員会 (1998)『糸満市史資料編 7 戦時資料 下巻 戦災記録 ・体験談』糸満市役所 p.592-593 95 玉城 光栄 は北部へ行 けなかったので伊原 のアプチ ラガマ に入 ろ うとした ところを 日本兵 に 「スパ イ」 として疑 われた。 しか し、壕の中にいる人たちを知 っていたので疑いがほれた。 96 喜如嘉 において戦時対策委員 を していたA が 「ス パイ」 として殺害 された。 (か糸満市史編集委員会 (1998)『糸満市史資料編 7 戦時資料 下巻 戦災記録 ・体験談』糸満市役所 p.863 (∋福 地肱昭 (1975)『村 と戦争 (喜如嘉の昭和史)』 村 と戦争刊行会 p.190-191 97 宜名真 、辺戸 の住民が終戦後 、田井収容所か ら帰 る途 中喜 如 嘉 にお い て 「スパ イ」 と して殺 害 され た。 98 喜如嘉 において平 良真次が 「スパ イ」容疑で 日本 軍 に呼 び出 されたが、その ことを他 の住民が察知 し 弁護を Lに行 ったため助かった。 ①福 地砿昭 (1975)『村 と戦争 (喜如嘉の昭和史)』 村 と戦争刊行会 p.191 (∋福 地砿昭 (1975)『村 と戦争 (喜如嘉 の昭和史)』 村 と戦争刊行会 p.191-192 99 平良景利 は塩 を炊 くため に山 を下 りた ことを 「ス パ イ」 として殺 害 されそ うになるが、読谷 出身の兵 により助 けられる。 (∋福 地肱昭 (1975)『村 と戦争 (喜如嘉の昭和史)』 村 と戦争刊行会 p.192 ※ 同一事例 と思 われる ものがあるが、内容が異なっているものは別の事例 として扱 った。参考文献 には番号 を つけた。地名 に関 しては特定出来 ない ものに関 しては参考文献 に記載 されているままに した。 はっきりと 「スパ イ」 と明記 されていない事例であって も、「スパ イ」視 と関連すると思われる事例 は記載 した。

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.住 民 の 「スパ イ」視 の類 型 化 上記の表 を見 ると住民の 「スパ イ」視 においては、各々の事例が発生す る直接 的な要因 にい くつかの特徴がある。 この特徴 ごとに以下にい くつかに類型化 して述べてみたい。

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)将兵 による行為の正当化 まず 日本軍将兵が 自らの行為 を正当化するために住民 を 「スパイ」祝 し、殺害 している 例がある。そのひ とつ として、知念村 において

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月中旬、前城常四郎 は、部隊に納めた薪 代 を請求 したため 「スパイの疑いあ り」 として殺害 された。 また、同 じ知念村で与那城伊 清は、兵隊が茶や豚 を盗んだことに対 して抗議 したため 「スパ イ」 として殺害 された。 こ の二人は村 では知識人層であ り 「また、二人には暗い過去があ り、他人に うらみ を買 って

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0) いる」 とい う共通点があった とい うことである。 また、与那城の場合は、ハ ワイ帰 りであ るとい うことを誰告 した ものがい るのではないか ともいわれている。 しか し、「スパ イ

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史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) として捕 ま り殺害 された直接 の きっかけは、前城 は薪代 の請求、与那城 は盗み に対す る抗 議 とい う日本軍の不正 を質 したこ とにある。すなわち、 この2人の 「スパ イ」視の きっか けは、軍が 「薪代 を払 わなかった」、「茶や豚 を盗 んだ」 とい う不正 を指摘 されたことをご まかす ために、逆 に2人 を 「スパ イ」 として扱 い、捕 らえて殺害 した と考 え られる。平時 においては許 され ない ことであるが、戦時 中 とい うことで軍 と住民 との間の上下関係 によ り、軍 に協力 しなか ったため殺害 されたのであろう。 また住 民の食糧 を強奪す るため に 「スパ イ」容疑 をかけ食料 を奪 う例 な どは多数存在す る。例 えば 「日本兵 は毎 日の ように住民の避難小屋 に食料徴発 にや って きま した。あ と一 週 間 した ら連合艦 隊がや って くるか ら隠 してある食料 を軍 に供出 しなさい と、デマ をとば すのは まだま しな方 で、刃物 をつ きつけた り、手相弾 をふ りか ざ した りして まず しい食料 (21) を奪 ってい くのが いま した。」 とい う、 日本兵 か ら食料 を奪 われた とい う証言 も多 い。 こ の ように食料があるな しに関わ らず、食料 を差 し出す ことを拒 む住民 に対 し、米軍 とつ な が ってい るなどと言いがか りをつ け、時には 「スパ イ」 として殺害 し食料 を奪 ってい くと い うや り方が一般 的であった. この ような 「スパ イ」視 の事例 は住民の保護 とい う意識 の

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2) 欠落 に加 え、牛島司令官の 『現地 自活二徹 スベ シ』の訓示が強 く影響 してい るか らであろ う。 この訓示 を拡大解釈す ることに よ り、住民の食料 の軍 に よる略奪行為 に大義名分が与 え られ た ことになる。 この ようなや り方が数多 く行 われたのは、 日本軍の組織が崩壊 し少数単位 で米軍か ら逃 亡 を していた時期 に多発 している。軍が崩壊 し日本兵 は、食料 を補給す る方法が無 くなっ たため、 もっとも安全 に食料 を確保 で きる住民か ら食料 を徴発 していた。 この とき日本兵 には、徴発対象 となる住民が何 とか生 きてい くための最低限の食料 しか持 っていない と し て も関係 はなか った。 まず、 自分達 の食料 を確保す る ことのみ しか頭 になか った ようであ る。 したが って、供 出す るだけの食料 を持 っているか確認 もしないで 「スパ イ」 として扱 い、それで も食料 を渡 さなか った ときには殺害 し、その後食料 を奪 ってい くとい うや り方 が多 く行 われた。住民 も 「スパ イ」 と して扱 われることは、今 まで苦労 して軍 に協力 して きた ことが一瞬の うちに無 に帰 し、非国民 として扱 われることになるために、 自分 たちの 食料が ほ とん ど無 くなっていて も食料 を供 出す る場合があった。兵隊は この ことを知 って いたのか知 らなか ったのかは定かで はないが、食料強奪 の時 には 「現地 自活 二徹 スベ シ」 の訓示 を後 ろ盾 とし、住民 に対 し 「スパ イ」 とい う汚名 をきせ て食料 を奪お うとしたよう である。つ ま り、食料 を住民か ら容易 に奪 うために 「スパ イ」 とい う汚名 を きせ、それで も渡 さない場合 は殺害 して食料 を奪 ってい く。 しか し、すでに住民 を 「スパ イ」 として扱 ってい るために、 自分の略奪行為 を正当化 していたのではないだろうか。 この ように戦時体制下であろうとも住民 に対す る非人道的行為 を正当化す るために住民 を 「スパ イ」 として扱 った と思 われ る事例が多数存在す る。 しか し、 日本軍側 に住民 は保護す る もの とい う意識があれば殺害 とい う所 まではいた ら なか ったはずである。住民 は保護す る もの とい う意識ではな く、軍へ協力す る もの とい う _11

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9-史料 編 集 室紀 要 第25号 (2000) 意識 が あ り、軍 の不正行為 を指摘 された こ とによ り 「スパ イ」 として殺害 したのであろ う 。

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)戦場 における不審人物 沖縄戟では先述 したように一般住民が戦場 に放 り込 まれた状態であ った。その ような中 で 「国場 にいった ら、西か ら来 た ものはスパ イだか ら殺せ とい う命令 があ った とい うこと (23) で、兵隊が私 をお どした」 とい う証言がある。 この証言 を した安里牛位 は伊祖 か ら内聞に い き、内間で攻撃が激 しくなったため に泊 を経由 して国場 に向かった ようである。時期 と して は、内聞の攻撃が激 しくなってか ら移動 しているので、内聞を出たのは

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月10日前後 と推定 で きる。その後の米軍 は首里 を囲む ように して進軍す る。 したが って当時国場 にい た 日本軍 は、那覇方面、つ ま り西側 を警戒 してお り、「西か ら来 た ものはスパ イ」 である とい う命令 を出 した と思 われ る。 この 日本兵 は軍命 によ り安里 を 「スパ イ」 として扱 っ た。 そのため疑いが晴れた後 は壕 の中へ入 ることを許 された。 この事例 は安里が何者であ るかが不 明であ り、その ような中で 「西か ら来た ものはスパ イだか ら殺せ」 とい う命令が 出ていたために疑 い をかけ られたのである。 (24) スパ イの判 断基準 と成 りうる文書 に 『対諜報網強化 に関す る件』が ある

『対諜報網強 化 に関す る件』 には 「時刻ハ主 トシテ前夜半 二多 ク避難民 ヲ装 ヒタルモ ノハ 中頭 ヨリ避難 シァル ヲ告 ゲテ洞窟 ノ所在及部隊位置 ヲ聞 ク」 とい う基準が示 されている。 これは沖縄戦 当時、中頭の住民の一般 的な避難の様子 と酷似 している。具志頭村 の第八十九連隊 におい て避 難民 の 「スパ イ」視 に よる殺害がお こっている

「泡瀬か ら南部-避難 して きた桑江 とい う男性が、首里の司令部が落 ちたのち具志頭へ移動 している第八十九連 隊によ りスパ (25) イ と して捕 らえ られ殺害 された。」 とい う事例 である。 この場合 は結局 「スパ イ」 として 殺 害 されたが、捕 らえ られた ときには この基準が あ る程度影響 を与 えてい たのではない か。 この類型 は、命令 としてスパ イの判 断基準が示 された りしてい るが、「スパ イ」 として 捕 らえるか どうかは歩哨 などに立 ち、直接住民 と接す ることになる兵個人の判断に委 ね ら れ る。そのため各兵の沖縄人 に対す る認識 に大 き く影響 される部分 も多分 にあるため、 日 本兵 の沖縄 人観 とい うものがはっき りとみ えて くるのである。 (3)捕虜 となることにより 「スパイ」 となる 戦場 において住民、兵隊 ともに時期 、場所 などは さまざまであるが、その多 くが捕虜 と して戦後 をむかえた。 しか し、捕虜 となった時期 の違いによ り先 に捕虜 となった ものに対 して 「スパ イ」嫌疑 をむけることが多 々あった。例 えば宜野湾村 の住民が捕虜 になった様 子 について 「米軍 の迅速 な進撃 に、住民 自体 も意表 を衝 かれた状態で捕虜 になった と思い ます。そのために当時の宜野湾村長 について、捕虜 にな りスパ イを した とい う噂が ながれ (2r)) たの です。それは 日本軍の中か ら起 こってい ま した。」 とい う話があ る。 しか し、実際の _12

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0-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) ところは 「壕 の入 口で鮮 やかな 日本語で、皆出て来い と呼 びかけ られた。それ ッ、い くさ に勝 ったんだ、 と勇 んで外へ飛 びだ した ら、なん とこれは青 い眼のアメ リカの兵の雲集 し (ママ) て居 る所であった。 (中略)早 くも捕虜 になった。それか ら

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数名ずつの幾組か ゞ選 び出 されて、 トラックに乗せ られた。 日本軍の壕 か ら米やカ ン詰、粉味噌、大豆 などを運 んで (27) 食料 と して村民 に供給す る とい うのだ。」 とい うように、米軍 に指示 され食料集め を行 っ ていたのであ りスパ イ行為 を していたのではない。 しか し、先 に述べ た ように、沖縄 人 に 対 し猫疑心 をもっていた当時の 日本軍 に とっては、地理 に詳 しい地元住民が米軍 を案内 し スパ イ行為 を行 っていた と思 って も不思議ではない。 米軍 は捕虜 となった住民 を使 い 日本軍 に対 して降伏勧告 を行 った。 この とき降伏勧告 を 行 った住民が 日本軍 の手 によって 「スパ イ」 として殺害 された例がい くつかある。 この場 合、 日本軍の立場か らす る と降伏勧告 に きた住民 を米軍の もとへ返す ことは、 日本軍側 の 状況が米軍 に漏れ る とい うことにな りかねないため 「スパ イ」 として扱 い殺害 したのであ ろ う。 しか し、当の住民 は米軍の指示 によ り降伏勧告 を行 ったのであ り、スパ イ行為 を行 う意思 はなかったはずである。時 には降伏勧告 を行 うことに危険 を感 じていたが、米軍の 命令 によ り仕方 な く行 った り、今 まで米軍 に対 して抱 いていたイメージ と違い、捕虜 にな ることにより殺害 されるな どとい う考 えが間違いであ った とい うことを知 らせ るため に米 軍の指示 を受 け、住民や 日本軍 を政お うと思い降伏勧告 に行 った例 もあったであろ う。 し か し、 この ような住民の考 えは 日本軍 には通用せず、その多 くを 「スパ イ」 として扱 うこ とになった。 捕虜 となったこと自体 を 「スパ イ」 と見 な し、住民 を殺害 した例 もある。 5月北部 の戦 闘はある程度落 ち着 いた。大宜味村の渡野喜屋 において、中南部か ら避薙 して きていた住 民約

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名が米軍の捕虜 となっていた。そ こへ 日本兵約

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数名がや って来て住民の リー ダー 格の男達 を山へ連行 し惨殺 した。残 りの住民 も日本兵 に砂浜へ連行 され手相弾 を投げ込 ま れ、その多 くが殺害 された。沖縄戦当時 この ような事例 はい くつかお こっている。住民 は 日本軍 の陣地の配置 な どの状況 をある程度把握 している。 したが って、捕虜 となることに よ り、住民が情報 を米軍 に漏 らす恐れがあると考 えたのであろ う。 住民 の殺害が終 わ ったあ と住民が保護 されていた場所 に残 されていた食料 などは残 さず 日本兵 の手 により持 ち去 られていた とい う。 この ことはさきの食料の強奪行為の正当化 と も関連す るが、米軍 と接触 した住民 を 「スパ イ」 として扱 うことによ り、食料強奪 を行 う ことを正当化するための口実 とした。 この行為 は、多 くの住民が捕虜 とな り日本軍が追い つめ られ食料の不足 に陥 った状況 において、捕虜 となった ものは 「スパ イ」 であるとい う 論理 を利用 して食料 を確保す るために利用 した ともいえる。 南風原 において部隊本部壕 に直撃弾が落 ちたことがあ った。 この とき日本兵が 「これ も ・J、 沖縄 人の しわざだ。そ うでなければ、 なぜ そ こに弾が とんで くるのか」 とい った。 この こ とは沖縄人が壕の位置 を米軍-教 えてい ると思い込 んだ発言である。 この ような事例 か ら もわかる通 り、明確 な根拠が な くて も砲弾が壕 を直撃す るとい うような兵隊 にとって信 じ

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1-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) られない ようなこ とがお こると、今 まで表面 には出 さな くて も日本軍は住民 を潜在的なス パ イとしてみていた といえる。つ ま り、 この ような意識が事件が起 こるこ とによ り表面化 した事例 と言 える。

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)住民同士の対立 知念村 の与那城伊清が 「スパ イ」祝 された原因の ひ とつ を 「当時、住民 同士 に複雑 な感 情的対立があ ったので、彼 がハ ワイ移民帰 りである とい う事実 をとらえた、彼 を轟告 した (2【= 者がいて、スパ イ扱 い されたのではないか とみ られてい る。」 ともいわれている。実際本 島に諏告 した ものがいたかはわか らないが、当時住民の間において も立場 の違いによ りさ まざまな対立があ った ことは確 かであろ う。 ときにはその ことが きっかけで知念村 の与那 城 の ような事例が所 々でお こっていたか もしれない。 この ような事例 は先 にあげた軍の住 民 に対す る 「スパ イ」視 とい う行為 を住民側が利用 した とも考 え られる。 玉城村 に糸数 アブテ ラガマ とい うガマがある。 この ガマは軍の陣地、陸軍病院の分室 な どさまざまな用途 に利用 されていたが、首里の司令部が摩文仁 に後退 した後 は、少数の 日 本軍 と住民が同居 していた。 ガマの中での 日本軍 と住民 の位置関係 は、ガマの中央部 に日 本軍が陣取 り、出入 り口付近 に住民が居 るとい う形であった。 また、軍は住民 にも役割 を 与 えていた ようで、役場職員であった

T ・S

はガマ入 り口に歩哨 に立 ち外 か らの侵 入者 を 警戒 していた。つ ま り、ガマの中の住民 に対 して役割 を担 わせ ることによ り、少数の 日本 軍 と住民 とが一つの社会 を形成 していた といえる。 この ガマか ら住民が外- 出る時 に、T

Sは 日本軍 の児 島伍長 に 「心配 はさせ ないか ら君 はここに残 らんか」 といわれた ようで ある。 この ことは龍城 していたガマの中において一つの社会が形成 されていたが、その成 員 である住民が外 の世界へ 出てい き既存 の秩序が崩壊す る中、で きる限 り現状 を維持 しよ うと思い出た発言 であろ う。 このため歩哨 とい う役割 を担 わ された住民が食料 を探 してガ マ に入 って きたの を住民が 「スパ イ」扱 い し殺害す る とい う事件が起 こった。 このガマで 日本軍 に 「スパ イ」 として扱 われ2名の住民が監禁 された。監禁 された住民 の比嘉助郎 は長男 の盛助 を探 しに、知念周一は妻子 と孫が アブテ ラガマにこもっていると い うことで壕 か ら脱 出 させ るために、 2人で 「日本軍が勝 ったか らでてこい」 といいなが ら中にはい ってい った。 しか し、壕 に入 った

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人は、「実 は、 日本軍が勝 った とい うのは 嘘で、 とっ くに沖縄 の 日本軍 は敗北 している。そ してみんな米軍の捕虜 となって住民は収 容所 に保護 されて、食料 も支給 されてお り、殺 され ることもな く平和 に暮 らしてい る。 自 分 たちは仲村 渠集落 に収容 されてい るが、囲い もな く自由に出入 りで きる し、みんな もこ

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D) こか ら出 よう」 と話 した。一方当時米軍の捕虜 となっていた住民 は食料 を探 しに収容所か ら出て 日本軍の残 していた食料 を もとめてあち らこち らの壕 をまわっていた。アブテ ラガ マで も食料 を もとめて ガマの中へ入 って きた住民が射殺 され る とい うこ ともお こってい た。 アブチラガマ にいた A さんは、「われわれ としては、敵が囲いのない ところに収容 し て野放 しにす るはずが ない。そんなばかなことがある ものか、 これ らは敵 のスパ イになっ -1

参照

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