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狂気と夢-そのテキスト性: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

狂気と夢−そのテキスト性

Author(s)

鶴見, 精二

Citation

沖縄大学紀要 = OKINAWA DAIGAKU KIYO(5): 41-67

Issue Date

1986-03-31

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/5722

(2)

沖縄大学紀要第5号(1986年)

狂気と夢一そのテキスト性

鶴見精 確かに、フーコーが言うように、狂気を語るに際して、理性を回避して狂気 について語ることは不可能な企てであると言えろ。とすれば、狂気について語 (1) りうろとすれば、それは一体どのような位相においてなの'だろうか。あるい は、狂気を主題とした文学における種々の形態を持った狂気性を論じるに及ん で、それらをどのような位置から語ることができるのか。あくまでも、理性の 側からのみしか語れないのだろうかbしかし、狂気性を扱った文学テキストを 読解していくにつれ、事は単純に理性/狂気という二項対立の図式の下で展開 していくのではないことが分かる。むしろ、テキストを読むととそれ自体が、夢 の幻影作用にも似た一種独特な狂気的時間と空間を織り上げているからである。 ネルヴァルによれば、あらゆる読みが一種の狂気であると言う。様々な文学テ (2) キストを読みほどきながら、この断言の持つ意味を明示することが、この小論の 眼目になるだろうが、そこから浮かび上がってくるのは、シニフイアンという記号 がもたらす幻想と幻滅、それによるグロテスクなめまいの感覚であり、テキス トそのものに内在する過剰と欠落といった分節化されずに、すなわち統一化さ れずに連動するテキストの夢的空間であろう。 もし、そのようなテキストを実体化することが可能だとして、それを比噛 的に実体化するならば、テキストは狂気に陥った精神病者であり、またグロテ スクなフリークとでも言えるかもしれない。実際、ボーをはじめ、狂気を問題 にした多くのテキストが、そのアナロジーに引きずられるかのどと<、フリー クの問題を正常と異常との境域が暖昧になっていく感覚で描き出したとしても、 そこに通底するある共通性を視野に入れれば、何の不思議もないのである。 -41-

(3)

沖縄大学紀要第5号(1986年) しかし、フリークとは一体そもそも何者なのか。またいかなる問題を孕んで いるのか。 H肉体の崎型 フリークス。様々な肉体の崎型者たち。例えば別個な肉体が靭帯で繋がれ、

一個の肉体と化したシャム双生児。オレンジほどの大きさしかない頭を持った

いわゆるピンヘッド、常軌を逸した巨人男、超肥満の巨大女、その対極として の懐人、また腰から下を欠落した半身人間。あるいは、鰐の皮膚をした鰐少年、 男と女がアンドロギュヌス的に分離統合された男女、手足が萎縮した芋虫人間、 鶏の肌を持つ鶏女といった動物人間の群れ。また、鶴償男。何かが過剰であり、 また何かが欠落しているこれらの肉体の異形なるもの。

この肉体の異形者たちが繰り広げる祝宴を描いたのは、何もトッド・プラウニ

ングの「フリークス」がはじめではない。サーカスという一種特殊な空間でこ れらのフリークスは馴染みの存在であったし、またそれこそ「自然の悪戯」と称さ れてきたほどその存在の歴史は古い。しかし、それはあくまでも常に周縁の領

域に閉じ込められてきた存在である。なぜなら、フリークスを恐れるが故に、ま

た自分がその存在形態においてフリークスになる可能性があったかもしれない と畏怖するが故に。忌むべき、おぞましい化け物、グロテスクなモンスターとして。 カースン・マッカラーズの「結婚式の参列者」で、フランキーという少女は、

サーカスの見せ物として出されているフリークスたちを見て、突如ある不安に

襲われろ。普通の少女に較べて身長が高い少女が、そのまま成長すると化け物

みたいに背が高いフリークになるのではないかと。しかも、フリークスたちの

視線が彼女の視線と妙に噛み合ってしまう。6,ノド)自分が崎型になったらとい

う恐'怖と不安。その不安は、言うまでもなく、見せ物として存在する他なく、

一切の人間性を剥ぎ取られた上に、疎外者として社会の辺境に位置せざるをえ ないことへの倶れである。 -42-

(4)

沖縄大学紀要第5号(1986年) あるいは、ナポコフの短編集『ナボコフの12の掌編』の ̄篇、「あるシャ ム双生児の人生情景」。ここでは、一個の肉体の二つの別箇な意識と行動がシ (4) ヤム双生児の側から描かれているが、彼らの根本的な不安は、彼らの生が見せ 物として閉じ込められ、また抑圧された状態にあることである。基本的にはこ こでも崎型が崎型として好奇の視線に晒され、それを通じてしか存在形態があ りえない状態は何ら変わっていない。 あるいは、ボーの短編「ちんば蛙」。ちんば蛙、すなわち蛙のような奇妙な (5) 歩行僻によってそう棹名されたある倭人のフリークス的反逆の物語○ボーの設 定によれば、この倭人は、野蛮な未開の地域から強制的に連れて来られたもの であるということ、また更に国王に贈り物として送られてきたということにな っている。逆に言えば、こうした崎型は、非文明的な世界にしかありえない周 縁的な存在であるということ、また人々の驚異の対象、見せ物として人前に晒 されるべき存在であり、その人格の一切を剥奪されているが故に、贈り物、 すなわち物として扱われているというとと焼宮廷を舞台としたこの物語にお けるちんば蛙の存在は、廟け笑われる対象としての存在であるq人間の形をと りながらも「人間」とは言えない不具者が、常人の廟けりの対象となる。そこ には、まず正常な人間が、正常であるという絶対的な基準がある。しかし、言 うまでもなく問題なのはその絶対的な基準である。 ただ、こうした崎型は、現在は限られた場所でしか「見る」ことができない であろうし、またそれは生物学上の異常として医学的に「解決」されるべきも のなのであろうが、重要なのは、崎型を崎型として見る時の意識は時代的に何 ら変化していないということであろう。崎型を前にした時のためらいや不安、 表現しがたい感覚、厭悪感、おぞましいものからの逃避感。バランスを喪失し た肉体、統一性を欠き、無秩序と化した肉体、部分を部分として規定すること が不可能なその異様な姿は、分節化された肉体を保持した「正常」な人間をな す術もない感覚に突き入れろ。つまり、事の本質は、辺境とか周縁とか人格性 -43-

(5)

沖縄大学紀要第5号(1986年)

の剥奪とか抑圧された存在といったフリークを特徴づける形式的な側面にある

わけではない。なぜなら、フリークを文学の題材にしたとしても、それだけで

は、あくまでも捉えがたい他者性、また抑圧された存在のその抑圧されたもの

が何であるかということを通じて、通常の論理や意識の単一的流れに揺さぶり

をかけるに過ぎないからである。問題はそれからである。なぜならそこには分

節されない過剰と統一性の欠落というシニフィアンの狂気に連なる問題が含ま

れているからであり、かつまたそこから見えてくるのは、テキストそのものが 持つ怪物的な崎型性に他ならないからである。 ロ精神の崎形 フリークが肉体上の崎型とすれば、さしずめ精神上の崎型は、狂人や精神分 裂病者になるであろう。肉体の異常性が、肉体の過剰や欠落を未分節のまま示

すことに特質があるとすれば、精神の崎型は、その言語構造が通常の言語構造

とは全く異質な構造を備えていることにあるといえる。通常、構文構成上結び つけているものを切り離したり、また切り離しているものを結びつけたり、あ るいはメタファーを文字通りに実体化してみたりする。しかも、それが精神病者 の特異な経験や思考論理に基づいているために、通常の言語秩序とは全く異な るものとして統一化されずに未分節のまま表出してくるということである。コ ンテキストにおいて意味を弁別していく普通の論理的作用が機能せず、言葉が 逆にコンテキストを包摂し、一義化せずに暖昧化していくプロセスをとる。例 えば、レインの有名な例、誰でもなし、すなわち名付けられないものとしての位 置を示す狂気の例を挙げれば、“Shewasnoone.‘rinthousands.'}nanin divideyouall・Ilnanoun,(ie・anun:anoun:noollesinglepersoIl).” と多義化されていく例がある。もちろん、こうした例は、ルイス・キャロルの (6) 作品を例にとれば枚挙に違がない。例えば、例の“nobody"を実体化する論議。 -44-

(6)

沖縄大学紀要第5号(1986年) “Iseenobodyontheroad,”saidAlice.

“IonlywishJhadsucheyes,”theKiI唱remarkedmafrctfultonC.“To

beabletoseeNobody1Andatthatdistancetoo1Why,it、sasmuchas

Icandotoseerealpeople,bythislight1” (7) こうした言語上の分断、亀裂、破壊が通常の思考や感覚の論理的構造を超えて いるが故に脅威を及ぼす狂気は、理解不能性へと追いやられることになる。 「人は私を気が狂っていると呼んできたが、しかし狂気が最も崇高な知性 であるかどうか、また光輝なるものの多くが、更には深遠なるもののすべてが思 考の病いから生じてはいないかどうかをめぐる問題は依然として決着を見てい

ない」(肯)提起したポーは、正常とも狂気とも何ともその境域が暖昧な意識を多く

描いてきた。ただ、精神分析を酷烈に椰楡していたナボコフさえが、精神分折

用語を用いた《、SignsandSymbols,,で、ある関係妄想患者の生態を描いて

いることには注意を惹かれる。関係妄想とは、あらゆる事象が自分に関係があ ると忘想してしまう-種の精神病であるが、してみるとこうした狂気をめぐる 問題は文学にとって極めて根の深い問題であることがわかる。 断片化した切れ切れの錯綜した言語から成る非理性的言語は、構造化された

構造からはみ出ることにより、カオス的な一面を提示する。それが、具体的に

形をとって表出してくる場は、非合理的な恐怖や怪奇的な欲望が産み出す幻

想、夢想といった無意識に最も近接した部分で浮上してくる場であろう。現代

において狂気が-種の審美的な色彩を帯びてきた背景には、自らを危地に立た せることによって存在の存在性の究極的なあり方を追及しようとしたロマン主

義の残津とも呼べるものがあるが、この問題はさしあたり捨象することにして、

ともあれ、狂気が文学的に表現された古典的例として、まず念頭に浮かぶのが、

「ジェーン・エアーjである圦先す;果たしてこのテキストが、フェミニズム批評

-45-

(7)

沖縄大学紀要第5号(1986年) が評価するほど価値があるテキストかどうかそれ自体が問題である。 曰鏡の向う側 この『ジェーン・エアー』なるd説を通じて描かれているのは、狂気の全く否 定的な状態であると言える。ある女が他人の目に触れないように屋根裏の ̄室 に監禁されている。無気味な狂気じみた眼光を放ち、lIWlき声を発し、髪を振り 乱し、人をナイフで切りつけ、また夜になると人の目老掻い潜っては野獣の 如く寝床から這い出し、自らの妻の座を奪う女たるジェーンのウェディング・ ドレスをズタズタに切り裂く。果ては屋敷に放火し、屋上に駆け昇り、狂乱の 炎に包まれつつ、真逆様に地上に自らの肉体を叩きつけろ。これが、この小説 で描かれているBerthaという女の狂気の様態である。ここには、狂気として 古典的に烙印された種々の特徴力様々な形で表わされている。精神の異常、 理性を喪失したが故の狂乱化、自分の力では制御できない興奮、他人の眼を出 し抜いては自分の欲望を実現せんとする欲望の氾濫、語る言葉が無いための陰り や叫び声といった狂気が示す負の側面である。 この間のフェミニズム批評の基軸は、性と権力の関係を暴き出し、男の主人 公、男からの視点や観点に立脚したテーマ、男が女に抱く幻想、またその理想 化された幻想に女が乗つかっていかざるをえない女の自己の内部での男と女へ の二重分裂といったファロセントリックな男性原理中心の観念体系を根底から 解体することにある。また、その解体を目ざして文学全体の読み換えを提示し ているところにある。単に男のコードでしかないものが、特権的なコードとして規範 化し、自明かつ透明な人間的なコードとして神秘化されている構図を快り出すこ とにその主眼を置いているフェミニズム批評は、女と読むこととの間の問題、 女として書くことのプロプレマティック性を考慮しながら、テキストの新しい 読みを示していろ。 しかし、『ジェーン・エアー」のフェミニズム的読解が、「女が結婚に依存 -46-

(8)

沖縄大学紀要第5号(1986年) せざるをえない立場やその経済的な側面、ジェーンの教養や活動力の捌け口が 求めても限定されている状況、愛し、愛され、また奉仕し、必要とされたいと エアー

願うエアーの欲求」(b)すなわち自由な空気(air)を求める彼女の苦悩を描し、て

いるものとしてこの小説を捉えるのみに終わるならば、その読解はあくまでも 一面的だと言わざるをえない。精神分析的批評からすればファリック・シンボル が散見されるこの小説において、ジェーンが自らの理性を確保できたとすれば、 それは、自らのalteregoとして彼女壱が感じていることからも窺えるように、 言うまでもなく、力>の狂気の女を自らの狂気として排除したことによる。その

意味で、この狂気の女は二重に疎外されていろ。それは、歓乙男の世界から

追放されていると同時に、ジェーンが住む「女」の世界からもその外に追いや られているからである。 映像化あるいはイメージ化された女を見て女はしばしば自己の分裂を感じ ざるをえないと言う。それを前にした女は、自分は-つのイメージ化された対 象であり、その人格を奪われている筈なのだが、しかしそれを肯定的に観なけ ればいけない「主体」である。要するに、自己がスペクタクルとスペクテーター の双方に自己分裂しているわけである。女は、自らのファロセントリックな視 座を通じてしか自己を見ざるをえないが故に、自己の中で常に男と女という二 重の分裂構造を内包している。この小説でも、ジェーンが頻繁に自分の姿を 鏡に写し出す場面が描かれていろ。その意味では彼女も自己分裂した存在であ るわけだが、ジェーンはそれを自覚できぬまま、むしろ自分の「女」としての 側から狂気めいた「女」らしくない部分を他者として追放したに過ぎない。 ただ、ジェーンは、本質的にはファロセントリックな視座から見た「女」と して自己を位置づけているように思われるが、ブロンテによって男と女を兼ね 合わせた中間的な存在、「統合的」存在として考えられていることは確か妊 男/女、理性/感性、真剣さ/ふざけ、反省/自発性といった伝統的二項対立 が統合された人間としてジェーンは設定されている。問題はただそれが、本来 -47-

(9)

沖縄大学紀要第5号(1986年) の意味で統合化されているわけではなく、単に並列化されているに過ぎないこ とである。これに対し、Berthaの場・合は、第二項のみが対立項の補完を

欠落させたまま突出した形で存在しているが故に、女にとっても忌まわしき、

おぞましき存在として位置づけられている。しかも、その表現の困難性のため にディスクールの中からはじき出され、結局意味の外に追いやられている。

さらに、正気/狂気、現実/幻想、意識/無意識といった対立様式が人間の

中では多かれ少なかれ何らかの形で現実原則の下に包摂されているが、Bertha の場合にはこの時も-項のみによって存在しているわけであり、いわば負の記 号を背負ったまま生きており、未分化のカオスそのものといった感じである。 まさに、通常の共同幻想をもってしては汲み尽すことが不可能な狂気、妄想が 噴出したまま、一種の精神的崎型、恐怖の対象として周縁化されていく。しか も、彼女は人種的にも異質な存在として切り捨てられている。

まったく彼女こそがファロセントリックな物語や社会的に、また言語的にヒ

エラルキー化されたカテゴリーの埒外に放逐され、またその支配を免れていろ

という意味では差異としての女そのものと言える。しかし、こうしたカテゴリー

化の同一性、体系性、秩序性をかく乱するがために、彼女は屋根裏の暗闇の中

に閉じ込めて置かれるべき存在となる。ただ、Berthaの狂気を通じて、理想

化された「女」のイメージを破壊し、突破するには、鏡の表面に写し出された

反映像を見つめるのではなく、その鏡の向うの世界に入り込み、自己を他者と

して捉え返す視座を確立する他にないのだが、しかしその領域はキャロルが『鏡

の国のアリスjで提示したように現実の下では狂気と幻想と夢想が入り乱れる

危険な領域であることは言うまでもない。しかし、なぜ幻想であり、夢想でな

ければならないのか。おそらくそれは、正常、現実、意識なるものに較べ、狂

気、幻想、無意識の万が篭かに豊饒な領野を開示しているからであり、むしろ

前者はその一部分に過ぎず、正常なるものも所詮「異常なろもの」の下に包摂

されるべきものであるからだ。 -48-

(10)

沖縄大学紀要第5号(1986年)

四テキストと狂気 フェミニズムの立場から様々な女性作家の作品を論じた7カMfUzdJyM“j打 妨e血沈で繰り返し王張されていることは、これまでの女性像が天使的な純潔性、 洗練された優美性、従順性、優しさ、謙虚さという具合に女の人間としての自我 を一方的に剥奪されたまま固定化されていることである。しかも、それが、家 父長的支配体制の下で、理想的イメージとして確固たる位置を占めてきた状況 の中で、女性作家はブルームの「影響の不安」以前に、そもそも「作家たることの不 安」そのものを克服せざるをえなかったということである。19世紀には、ジョージ・ エリオットをはじめ、優れた女性作家が男のペンネームを用いてきたのは事実で ある。そうであれば、なおさら書くことにおいて女が一種の精神的崎型として 自己に不安を感じた時、そうした不安の意識が肉体的な崎型の怪物を創出した としても何ら不思議ではない。メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を はじめとして。この意味においては、肉体的な崎型、精神的な崎型といった異 常性が、自分の作家としての内面的な苦悩の歪められた反映として把え返すこ ともできるかもしれない。 しかし、多くの作家が肉体の特異な過剰や欠落といったグロテスクなもの、 異様なるものに意かれ、また同じく精神的崎型としての狂気といったものに拘 泥せざるをえなかったとすれば、それは単にフェミニズムの立場からのみ考慮 されるべき問題ではないだろう。また、固定し硬直した思考方法からの脱却を 促したものとしてのみ捉えられるわけでもないし、更にはその文学的題材と してフリークや狂気を取りあげて済む問題でもない。むしろ、テキストそのも のを狂気やグロテスクなるものの表出として捉えない限りは、通常の論理思考 の裏をかく巧妙な狂気が織り成すテキスト性そのものが見えてこないであろ う。しかも、もし「狂気が元来日常性とは没交渉の、常識的世界の彼岸に偶発 する不可解な現象ではなくて、まさに日常性そのものの内部から、それも日常 -49-

(11)

沖縄大学紀要第5号(1986年)

性が日常性として成立してくる可能性の条件の核心の部分に生起する、人間的

な伽まりにも人間的な事態なのだもjとすれ'Mおさらのことである‘

テキストはたわtj3れにj妾近する読者の好い加減な読みや検討に対してその正体

を露にすることは絶対にない。なぜなら、テキストはその正体を読者に知られなけ

れば安全を保つことができるからである。また、そうであれば、テキストの構造を

見透かされ、結果的にテキストを損傷させるような批評を受けるとともなく済

む。しかも、好意的批評家によってテキストの創造力が窒息させられたり、呑

み込まれてしまったりすることもないし、批判的な批評家の憎しみによる破壊

を蒙ろこともない。テキストはその真の姿が知られずにいれば、テキストの

<表層>が読む者によってしたい放題にされようが、熱烈な賛同を受けようが、 また暴力的な解釈を受けようが、何をされても、ともあれテキストの<テキス ト性>だけは犯すことができないのである。 ⑪ これは、RDレインの精神分裂病患者とその治療者との関係を説いた文章を テキストとそれを読む者との間の関係に置き換えて言い換えたものだが、テキ ストが狂気といわれる部分と、抑圧により意味が表層に表示されないといった 点でいかに共通性を持っているかの一端を窺い知ることができる。ところで、 テキストの狂気性とは一体どのような形で現出するのだろうか。

キャロルの``SylvieandBruⅡloConcluded',に奇妙なやりとりを猫(`、た場

面がある。「言葉の数に限度がある以上、確かに書かれる種類の本にも限度が

ある」といったキャロル独特の論理階層を混乱させる論議がまずはじめにある。 -50-

(12)

沖縄大学紀要第5号(1986年) 菌Thedaymustcome-iftheworldlastslongenough-,'saidArthur, 脚wheneverypossibletunewillhavebeencomp⑨sed-everypossible punperpetrated-"(LadyMUri,elwrungherhands,likeatragedy-queen) 耐aIld,worsethaIlthat,everypossible600ノウwritten1ForthenUmber of2Dmdsisfinite.” ⑫ ただ奇妙なのは、この後に突然Murielが、lunatics(狂人)のことを取りあ げ、彼らだったら当然正気の本を繰り返し書くことはできないのだから、常に 新しい本を書くだろうと言うくだりである。 LadyMurielgavemeanapprovingsmile・両But/""α/jcSwouldalways writenewbooks,surely?”shewenton・nTheycoMノ胸writethesane

booksoveragain1,,⑬

しかし、何故突然この「狂人」という言葉が出てくるのだろう。しかも、狂人 が書く本とは一体どのようなものだろう。ここで、言えることは、おそらくキ ャロルの中で自分の書いてるノンセンス文学が狂気の側から描かれているとい う手法が無意識裡に表出したものとして捉える他にあるまい。キャロルの文学 においては覚醒/夢、正気/狂気の相互交通が頻繁に行なわれているからだ。ま た、狂人が増大するにつれて、狂人が狂人なりの正当な社会の運営方法を編

み出し、正常な人間を逆に隔離するようになるが、結局は自滅してまた正常

な人間が事態を平常な状態に戻すことになると指摘する次の文もそうしたキャ ロルの傾向を表わしていろ。しかし、もちろんこの文それ自体がノンセンスで あることは自明である。 -51-

(13)

沖縄大学紀要第5号(1986年) “Sotheysay,repliedArthur.“And,whenI1iuetypercent・ofusare” llmatics,',(heseemedtobeinawildlynonsensicalmood)“theasy‐ lumswillbeputtotheirproperuse.”. “AI1dthatis-?”thepompousmangravelyeIlquire.. ‘‘TOS/Mrer/"esQ"e1”saidArthur.“恥shallbarourselvesiI,.The lunaticswillhaveitalltheirowI,way,0〃Sjde、They,lldoitalittle queerly,Ilodoubt.Railway-collisioI1swillbealwayshappemlRg:steamers alwaysblowingup:mostofthetowIlswillbeburntdown:mostofthe shipssunk-” ‘`AndmostofthemeIlノゥノノノed1”murmuredthepompousman,whowas evidentlyhopelesslybewildered. ‘`Certainly,”ArthurasseIlted.``Tillatlasttherewillbe〃〃erlu‐ naticsthaIlsaneme【,、TheⅡ,〃ecomeout:ノカeygoiI1:andthiIlgsreturI, totheirnormalcoIldition1” 04 ただノンセンス文学をノンセンス文学として確立するためには、作者は当然セ ンスの側に立っていなければいけない。この箇所においても“we”と“they” の対比に見られるように、Arthur自身は“we,,の“normal″な側に立ってい る。したがって、ノンセンス文学は狂気を扱いつつも、その狂気の側に立つこ とはありえない。そもそも言語ゲームの規則を知らずして、言語ゲームを行な うことは不可能である。 ただ、このキャロルの一文を読んですぐ想起されるのが、これと奇妙にも符 号したボーの短編“TheSystemofDoctorTarrandProfessorFether〃 であろう。精神病院で狂人たちが正常人たちを隔離してしまい、自らは独自の治 -52-

(14)

沖縄大学紀要第5号(1986年) 療体系である「鎮静療法」によって運営し、正常人たちを狂人と看倣して「ター ルと羽」による治療体系を施しているが、終には正常人たちにその企らみを破ら れるというのが大まかなこの短編のあら筋である。興味深いのは、この病院の 病院長自身が狂気に落ち入ったことばかりではなく、この病院を訪問した語り 手、「狂気の形而上学」(themetaphysicsOf””α)に長年親しんできた語り 手そのものが、結末においてやはり狂気に陥っていくことである。病院長、す なわち狂人が勧めたタール博士とフェザー教授の著名な本を探してヨーロッパ 中の図書館を訪ね歩くというおちは、この語り手が狂人であることを指してい る。もちろん、語り手自身はそのことは自覚していないのだが。ということは、 これは、この物語そのものが、狂った語り手の物語に他ならないことを示して いるということだ。この時、一見コミック風に描かれたこの物語が、突如、狂 気の架空の物語として見えてくるというメタな手法が、ここではボーによって 駆使されている。 Ihaveonlytoaddthat,althoI唱hlhavesearchedeverylibraryinEu- ropefortheworksofDoctorTα〃andProfessorルノハe7,1have,'upto thepresentday,utterlyfailedinmyendeavorstoprocureacopy. この物語に見られる様にボーの物語には「狂人」を語り手にしたものが多い。 「黒猫」もその-つであるが、果たしてこの語り手が狂人であるという手法は、 この短編では、テキスト性においてどのような意味を持っているのだろうか。 物語を読む時にどのようなコードが組み合わされて物語が形成されているか を主眼とする批評方法は、物語の構造分析と言えるのであろうが、しかし、こ れをもってしてはテキストのmanifestな構造、すなわち表面的な構造分析のみ -53-

(15)

沖縄大学紀要第5号(1986年)

に留まる欠陥がある。例えば、ChristineBrook-Roseは、ボーの「黒猫」と

いうテキストをこれがいかにコード化されているかという視点から分折してい る。プルック・ローズは、ボーが読者に種々の謎を提示しつつ、ある謎のコー ドを明確化すると同時に、また別のある謎はその解明をぼかしたままにしてい

る構造を明らかにしていろ。例えばJ語り手を絞首台に導くことになる黒猫がプ

ルートの亡霊なのか、それとも全く違う猫なのかという謎があり、またそれが

語り手の狂気がもたらした幻想なのか、それとも本当の亡霊として現われた超

自然的現象なのかという物語の謎がある。つまり、語り手が狂人に他ならず、

事件はすべて合理的に自然に説明できるものであるというコードと、語り手は

別に狂人ではなく、事件そのものがすべて超自然的に発生したものであるとい

うコードが明示化されたまま、絡み合って進展しているのであるが、究極的に

はどちらのコードともつかない幕切れとなって、読者はグロテスクかつ未分節

のままの暖昧さの中に突き入れられろ。テキストは、マニフェストな構造をし

ているのだが、さながらナボコフがしばしば自分のテキストの比礒とするjUggler のmlagiicを見るように、見えているのだが、一向に見えてこないという特質をも っている。一体、これは何を意味しているのだろう。この物語は過剰なInanifest な、明示化された構造をとりながら、同時にその構造を支えているものを欠落 させているわけだが、この欠落した部分をRoseはellipsis(非論理的飛躍) という修辞的用法をもって説明している。しかし、これは、単に修辞的技法の ⑯ 問題というよりは、テキストが内包した内在的問題、すなわち抑圧あるいはテ キストの崎型性の誘因となるシニフィエの欠落の問題として捉え返されるべき だろう。その時はじめて、テキストがなぜ狂気の語り手を語り手とせざるをえ ないかが解明できるであろう。

⑤抑圧/狂気、夢、テキスト

現在問題になっているのは、テキストが何を意味しているかという古典的批 一54-

(16)

沖縄大学紀要第5号(1986年) 評方法でもなければ、テキストが何を示しているかという構造の表層的方法で もない。それは、テキストが言わんとしないこと、manifestな表層には浮上 してこない構造、換言すればテキストの抑圧、なかんずく言語に内在する抑圧 そのものである。 「黒猫」における事件は、犯人たる語り手の妄想であり、また犯人であると

いうことさえもが語り手の妄想なのか、あるいは、物語が創り出した超自然的

現象なのかという謎はテキストでは解明されていない。解明されるべくもない。

なぜなら、そうした語られていない部分を生起させる抑圧こそが語りを創出せ

しめているからである。「テキストがテキストであるためには、抑圧はすでに

その場所にいろ」67)抑圧されたものは、語りの表現のレベルから下に押しやら

れているために、表層のテキストとして表記されることはないが、テキストに 内在するものとして把握できる。

抑圧されたものが代替機能を通じてテキストの表層に浮かび上ったものが、

テキストのmanifestな秩序と言える。もし「表面のテキストを仔細に眺めれ

ば、何か別のもの、単なる表記にすぎないテキストの内部に厳然と存在する空

洞が見える」のである。これをコンラッド流に表現すれば、吻語の意味は核のよ

q8V うに中にあるのではなく、その外にある」(“themea,ningofanepisodewasnot

msidelike…nelbutou伽de.)ということになる。0ケかし、こうしたこ

とが可能になるのは、隠嚥がsignification(意味作用)を支配しているから である。「意識と無意識の交換様式である隠噛の操作は、意味作用を設定する と同時に、テキストの中に言語の位置を創り出す」、言い換えれば「隠l6iiはデ ィスクールの体系を創り出し、それによってテキストを支配する」という機能 を持っている。とすれば、隠噛がもたらす意味作用がどのようなものかを認識

してMもの鰹、意識と無意識の交換の際に必然的に伴う抑圧、すなわちラカ

ン的barを感じざるをえず、その抑圧を解読不能なろものとして、また翻訳不 可能なものとして捉える限りにおいて、語り手は、メタファーのシニフィアン -55-

(17)

沖縄大学紀要第5号(1986年) に同化する、すなわち自分が何を意味し、意味されているのかについて昏迷の 極に達することによって、狂気の語り手となる以外にない。しかも、その抑圧 は、ボーの物語においては、しばしば壁などとして現われるが、その抑圧の象 徴たる障壁を破壊するのは、いつも狂人である。 また、その狂気に近く、また抑圧されたものに最も近い形で現出するのが、 夢であろう。しかも、夢はテキストと酷似している。キャロルをはじめ多くの 作家が夢の作用に惹かれたとすれば、それは夢が他ならぬテキストの持つ性質 と多々共通性を備えているからに他ならぬ。夢の世界は、テキストのblackink がもたらす虚構の世界の如く、あくまでも想像上のvisuaIな世界に過ぎない。 しかも、テキストの世界と同じく音があるようでいて音のない世界鰹その世 界ではものの現前性が常に現前性のない「もの」へと変転する。しかも、物 語はあるが、物語の意味は全く了解することが不能であり、しかも-つのも のが様々な意味を持ちえる暖昧な領域であり、平気で矛盾が可能となる世界な のだ。夢が織りなす世界は、テキストの紡ぎ出す世界とこうした点で極めて類似 性を持っている。その意味では我々は夢を通じていつもテキストを書いている ことになる。テキストそのものが夢であり、また夢そのものがテキストといえる。 そしていつもそこに存在しているのは、抑圧である。夢も物語もmanifest な構造をとりながら、常に抑圧された、すなわちmanifestにならない部分を 持っている。しかも、その夢が夢でなく現実のものとして、また、記号がもた らす幻想を実体化して捉えるならば、それを人は狂気と呼ぶ。例えば、ボーの 「黒猫」の黒猫の叫びにせよ、「告げ口心臓」の死んだ心臓の鼓動といい、その 音は、夢の中の沈黙、テキストの記号の沈黙を現実のものとせんとする狂気で なくして何であろうか。確かにボーの作品には、音に対する異様な感覚がある。

それは裏返せば記号の沈黙に対する恐怖のオブセッションとも言える。言語記

号が、実際は物理的音ではなく、いわゆる「聴覚映像」(imageacoustique)

に過ぎない以上、テキストははじめから沈黙している。おそらくボーの音への

CD -56-

(18)

沖縄大学紀要第5号(1986年) オピセッションは、そうした記号の記号性の沈黙を前にした時の恐怖に他なる まい。沈黙と死に抗う狂気的世界として。ともあれ、抑圧された結果としての 表現である狂気、夢、テキストは、どれも「…である」と断定することが不可 能な地平に立つことによってその共通性を保持している。 ㈹VOices,Voices- 「声、声」とはコンラッドの『闇の奥』の言葉である。しかし、なぜ「声」 なのか。またなぜクルツ(Kurt5)は、「声」としてのみ実体化され、しかも 最後にはその遺産として手紙、すなわちletters(文字)のみを残すことにな るのであろうか。この小説も、狂気に近い悪夢の中、闇の奥で展開されるわけ だが、もしこのテキストがその狂気性をもつとすれば、それはどのような言語 的位相において現われてくるのだろうか。 言語の知覚が本質的に関係するのは、眼ではなく、耳であるといわれる。と 言っても、記号における音は、物理的音というわけではなく、音一像、すなわ ちソシユールの「聴覚映像」という記号がもたらす心的刻印であり、それは、 記号の「音」が我々の感覚に与える印象に他ならない。 『闇の卿の中に奇妙に矛盾した-節がある。「私が彼(Kurt5)を見たと いっても、それは、太陽の光が全く射さない崖の底に横たわっている男を覗き 込むみたいなものだった」、とマーロウはクルツの闇について語る。しかし、 ⑫ ここには奇妙な論理が働いている。それは自家撞着といっても差し支えない。

なぜなら、全く光の射さない暗闇においてものをそれとして認めることは不可

能だからだ。コンラッドはなぜこうした論理的矛盾を犯してまで、この一文

をそう入したのだろう。それはクルツを闇として設定したという安易な類推か

ら選びとられた隠嚥であるためだろうか。そうではあるまい。このテキストの 中核を占める「声(voice)」をめぐる問題、あるいはマーロウという語り手の不 可思議な存在をめぐるテキストにおける語りの問題、さらには少年マーロウが -57-

(19)

沖縄大学紀要第5号(1986年)

夢見た「空白の空間」(blankspace)が、全くの闇(aplaceofdarkness)

であったということの意味をめぐる問題等々、様々な問題を孕んだとの小説、

しかも、闇の奥への遡行が同時に言語の起源への遡行でもあるようなこのテキ

ストにおいては、事はそれほど単純化できるものではない。こうした問題には、

コンラッドの明確な言語認識が反映されている以上、闇の中に横たわる男の可

視性というこの矛盾は、コンラッドの言語あるいは記号に対する認識を踏まえ

れば、そもそも言語そのものの矛盾が表出したものとして捉えることができる。

その時に我々人間は大いなる幻想の下にクルツの狂気を免れていることが分か

るであろう。

言語を通じて私たちは、指示されたもの(referent)を可視化することが

できるが、その可視化されたものはあくまでも夢のように実体を欠いたphantom

なものに過ぎない。しかし、通常はそのphantomを実体化している我々はその

意味では大いなる幻想と錯覚に陥っているわけである。つまり、言語は、見え

ないものを見えるようにするのだが、それによって見えるようになったものは、

あくまでも見えないものに過ぎないという極めて矛盾した機能をもっている。

実際には闇の中で見えない男が可視化されたものとして見えてくるということ

は、こうした言語の幻想機能、そこにある本質的矛盾を表現したものに他なら

ない。確かに、言語を通じて感じるのは、本来闇の部分に照らし出された光量

のようなおぼろげな現象を記述するコンラッド的風景なのである。つまり、そ

こで問題になっているのは、言語にとってその端初に存在しているのは、マラ

ルメ的白といったものではなく、すでにそれ自身が闇に包まれており、言語は

灰かにその闇を照らし出す幻想的な作用し力持たないということだ。空白の空

間はすでに闇である。

Theyarnsofseamenhaveadirectsimplicity,thewholemeanlngof

whichlieswithintheshellofacrackednut、ButMarlowwasnOttypical

-58-

(20)

沖縄大学紀要第5号(1986年)

(ifhispropensitytospinyarnsbeexcepted),andtohimthemeaning

ofanepisodewasnotinsidelikeakernelbutoutside,envelopingthe talewhichbroughtitoutonlyasaglowbringsoutahaze,inthellike‐ nessofoneofthesemistyhalosthatsometimesaremadevisibleby thespectralilluminationofmoonshine. ⑬ クルツがそうした言語を包摂する闇の部分を見つめることによって言語が規 定する人間存在の錯覚や幻想が隠蔽している恐怖と、巧みなレトリシャンが言 葉を喪失していく狂気を表わした人間であるとすれば、彼のIntendedlとよばれ

る許嫁は、クルヅの闇に対する光、言語が人間の知覚にもたらす光に対応するも

のといえる。「闇の中で眩いばかりに輝く大いなる救済的な幻想もjという形で、

許嫁をマーロウが表現する時、それは明らかにこのIntendedが、言語がもた らす光めいた幻想の中にいることを指している。彼女のIntendedという呼称 は、ただ単に文字通りの許嫁という意味ではなく、含みとして意因されたもの、 すなわち言語のルールによって、またそれを駆使する人間によって意図され、 指示されたものという意味を備えている筈である。 確かに、ある詩人が“wordsdryandriderless”として言葉に翻弄される のも狂気だが、また「自分が言葉を使う時は、それはただ自分が選んだ意味を 意味しているだけであり、それ以上でも以下でもない」として言語ルールを無 視して「言葉の支配者」になり、最後には破砕されてしまうキャロルのHumpty Dumptyも言語的狂気の-形態であろうが、このIntendedの場合にはそのど

ちらの狂気からも免れている。その意味では、彼女は「通常」の人間に(H1なら

ず、言語が創出する「文明」の光の中に存在している。しかも文字を残した「彼

(Kurt5)の言葉は少くとも死ななかった」という彼女の表現は、彼女の幻影に

他ならぬ言葉に対する「彼女の内にある信仰」があってはじめて可能なのであ る。ただ、こうした幻想を扱うことは、それ自体この幻想の虚構性を暴き出す -59-

(21)

沖縄大学紀要第5号(1986年)

ことに他ならず、しかも、その幻想をもたらすのが記号である以上、私たちは、

あくまでも記号的存在に過ぎず、それによって存在が虚構性に満ちていること

を明示するのである。

ところでクルツの闇と「その金髪の輝きの中に残っているすべての光をとり

こもうとしているように思われた」Intendedの光が交錯する中で、ではマー

ロウはどのような位置を占めるのか。

wYes,Iknow,''1saidwithsomethinglikedespairiIlmyheart,but

bowingmyheadbeforethefaiththatwasinher,beforethatgreat

andsavingillusionthatshonewithaI1unearthlyglowiIlthedarkness,

inthetriumphantdarknessfromwhichlcouldnothavedefended

her--fromwhichlcouldnotevendefendmyself②

ここで示されているのは、マーロウの語り手としてのあり方である。自分が言 語の闇の中にすっぽりと包まれていることを認識し、胸裡に絶望感を抱きつつ も、許婚の言語に対する大いなる救済的な幻想の前に拝鑓するこの姿勢には、 一方のクルツの闇と他方の許婚の光に分裂しつつ、統合されているという矛盾した あり様を示すマーロウの語り手性が表出されている。また、それは、前に引用した 闇の奥に横たわる男を崖の上から覗き込む、つまり闇を見つめながら、光の方 に存在しているマーロウの存在形態にも通底しているものである。しかも、こ の物語全体が光と闇の交錯から成立しているという意味では、マーロウそのも のが、言葉となっており、記号的存在そのものに他ならない。マーロウもクル ツと同じくvoiceとして描かれている。 こうした語り手のあり方を可能ならしめているのは、言語がもつ「聴覚映像」 的性質に他ならない。あたかも、現前すべき筈もないものが、現前するかのよ うな幻想をもたらすものは声(voice)である。またこの声が創出する幻想}こよっ -60-

(22)

沖縄大学紀要第5号(1986年) て、見えないものが可視化されるが、しかし可視化されたものは実は見えないと いう矛盾を規定しているのである。したがって、全くの闇の中に存在する、その 意味では可視化することが不可能な存在たるクルツを見えるようにするのは、ク ルツのvoiceを通じてでしかない。あるいは、クルツの語る言葉でしかない。「彼 は私にとっては単なる言葉でしかなかった」(、,Hewasjustawordfbrme\) ㈹ と語るマーロウにとって、クルッは、見るべき実体を欠落させたphantom的 な、またはShadowめいたおぼろげな存在であり、それを創り出す言葉そのも のとなる。こうした言葉が発する「音」の声をもってしか存在を現前化させる ことができないとすれば、すべてのテキストは声より成立していると言っても いいだろう。まさしく「声、声」こそがテキストの構成原理の-つを形成して いるのである。この物語においても、クルツの物語る声があり、またそれを物 語るマーロウの声がある。またその声を語る語り手の声がある。この『闇の奥j で際立った特質となっているのは、マーロウ自身がほとんど声として描かれて いることだ。これほど声だけ、あるいは登場人物の語りの声だけで描かれた作

品は、Com…Bu…の特徴的な小説形式を除いては極めて稀な例だ葡・

次の引用は、まさしくそうした声、「人間の唇」という実体を欠落させたテ キスト的「声」からなる空間を描いている。 Ithadbecomesopitchdarkthatwelistenerscouldhardlyseeoneano‐ ther・Foralongtimealreadyhe,sittingapart,hadbeennomoretous thanavoice・Therewasnotawordfromanybody・Theothersmighthave

beenasleep,butlwasawake、Ilistened,Ilistenedonthewatchforthe

sente、Ce,fortheword,thatwouldgivemethecluetothefaintun-easinessinspiredbythisnarrativethatseemedtoshapeitselfwith‐

outhumanlipsintheheavynight-airoftheriver. ⑬ -61-

(23)

沖縄大学紀要第5号(1986年)

そしてこの物語の語り手は、マーロウのvoiceを聞くことによって声を書き、

物語を紡ぎ出しているわけだが、この物語を読む者も黒インクが作り出す沈黙

と闇の空間でⅨかに現われ出てくる光量とした情景をvoiceをもってしか想起

せざるをえない。しかも、このvoiceが創り出す物語が消失した後には、また

voiceを喪失した闇の中に入っていくしかあるまい。それは、あたかもクルツ

がlettersを残したように、この物語iMettersから成っているかのどと<だ。

この物語のエンディングにおいて、物語が闇の奥へと連らなる形で終わってい

るのは、lettersが尽きたあと、すなわち語りが終わったあとの沈黙と闇以外

の何物でもないだろう。

言語の言語性を覗きこめば覗き込むほど、そこに見えてくるのは、幻想を剥

ぎとった際の言語のもつ剥出の虚しい姿であり、それを認識することは、言語

という普遍的支柱をなくした狂気に陥ることに他ならない。しかも、コンラッ

ドの奇妙なしかし卓抜な比嚥的表現、「海の深奥から浮かび上る泡、測りし

れない謎に漂う波紋」(“likethefoamonthedepthsofthesea,likea

rippI……㎡at…b'…9m宮という表現が示すように、海の深奥と

表面の泡との対比、深遠なる謎とその表層の波紋、そのどちらにおいても深層

と表層との間には絶対的な隔差がある。その隔差が示しているのは、テキスト

のmanifestな構造がもつ抑圧と、それによって隠蔽されている部分があると

いうテキスト認識論である。また、その抑圧が開示されるのが夢の領域である

以上、との物語においても、頻々と悪夢が語られることになる。マーロウが体

験したのが、“theterrificsuggestivenessofwor。s,heardindreams, ofphrasesspokeninnightmare”であるとすれば、この物語全体も、夢の 領域で開示される物語、また夢の物語そのものととっても構わないだろう。 キャロルが、“SylvieaIldBruno”のエピグラフの詩の冒頭に「それでは すべて人生は夢に過ぎないのか」(IsallourLife,then,butadream,,)と 表記したように、この「闇の奥』も、「私たちは夢を見ているように生きてい -62-

(24)

沖縄大学紀要第5号(1986年)

ろ-独りで」(“welive,aSwedream-alone,,)と語る。確かに、言語を読 BO ひことは、夢を見ることに他ならず、テキストが夢そのものであり、言語が夢 でないとすれば、むしろその方が異常な狂気なのかも知れぬ。つまり、テキス トを読むことはより正当な狂気に参入することに他ならないと言えるのではな いだろうか。記号が織りなす虚構的存在として。あるいは、記号表現の過剰と 同化することによって。あらゆる読みが一種の狂気であるというのは、おそら くそうした意味なのだ。 その時、我々が日常「狂気」として捉える絶対的基準は、その基準から崩れ 落ち、異常とみなされる正当な狂気が正常を偽装する異常な狂気を解体してい く場が創り出されるのである。 そもそもの間違いがメタファーであった。このメタファーという言語的統一 によって人間は分裂した存在としての現実態が統一性という幻想の下に置かれ ることになった。「AはBである」と言う時、実は私たちはすでに分裂してい るのだが、それは幻想によって隠蔽されている。なぜなら、AとBが全き同一 性を保つことは不可能であるからだ。つまり、このAとBという異質な要素を 一つに結びつけるのがメタファーであり、その際「AはBである」というメタ ファーを自明のものとして認識できるならば、それはあくまでもメタファーが もたらす幻想にとらえられているからである。狂気の場合、「AはBである」と いう等式は作用しない。AとBは統合されることなく、それ自体として分裂し たまま存在する。例えば、ボーがwTheSystemofDoctorTarral1dPmfessor Rther蝉の中で、通常は、“Holdyourtongues,everyoneofyou1。という 意味は、通常「黙れ!」という比噛的表現なのだが、精神病患者の一人の女性 は、舌を出して両手で舌を押さえる仕種をしてしまう。つまり、ここではA= “Holdyourtorgue・卿が、B=“Bequiet.“であるという等式が存在せず、 -63-

(25)

沖縄大学紀要第5号(1986年) 言葉はそれ自体として存在しているということである。その意味では、メタフ ァーを理解できていないことになる。それは、メタファーの幻想の上に立つ日

常性から見れば狂気だが、実はそれは、メタファー以前の分裂した存在形態と

しての原初的様態を示しているに他ならないのだ。そこでは、シェフィアンが シニフィエに送り返されることなく自立的に運動しつづける。

しかもシニフィアンという記号表現1は、他の記号表現や記号内容との隣接、

類似による類推によって増殖して、過剰な言語世界を産み出していく。それは、

不断に揺れ動き、絶え間なくずれていく。それは、意味へと読む者を誘惑し、

焦燥に駆りつつ、意味の網の目をすり抜けていく。それはテキストの明示構造

が示す意味体系から常に逸脱することによって、永遠にテキストの再構造化を

余儀なくさせる。しかも、そのシニフィアンの過剰の中で、すっぽり欠落して

いるのは、メタファーが統一性の幻想を与えるシニフィエである。その意味で

は、シニフィアンの過剰とシニフィエの欠落を特質とするテキストが、肉体の

過剰や分節化された統一性の欠落とでもいうべき肉体の崎形や常に抑圧を基点

としたシニフィアンの連動に同化する深遠なる狂気をテキスト中にテキストの メタファーとして織り込んだとしても何の不思議もないのである。 -64-

(26)

沖縄大学紀要第5号(1986年) 注

(1)ShoshanaFelman,〃ガオノフ29α〃〃CZd"CSS(Ithaca,NewYork:Cornell

Univ・Press,1985),p,62. (2)Ibid.,p、64.

(3)CarsonMcCuIlers,T"e仙励e70/伽ノアα2肋Zg(PenguinBooks,1982),

P2Z

(4)VladimirNabokov,“scenesfromtheLifeofaDoubleMonsterグ

ノVZ760々o加Doze〃(PenguinBooks,1984).

(5)E、A、Poe,“Hop‐Frog,画T"CCC”/ereTd化saMPoe"s〃&Zgaγ

A〃@打POC.(NowYork:VintageBooks,1975).

(6)R、DLaing,Z1lleD伽。〃Sc〃(PenguinBooks,1981),p、204.

(7)LewisCarrol,“ThroughtheLooking-Glass,”Tルe〃"gzuj〃CO”/eje

比〃Scαγr0ノ(PenguinBooks,1984),p、205. (8)“EIeonora,図p、649.

(9)SandraM・GilbertandSusanGubar,TノbelfhZd胸加α〃j〃/"e血耐C

(NewHaven:YaleUniv・Press,1984).p、360.

(10木村敏.「自己・あいだ・時間』(弘文堂、昭和59年),202頁。

01)TheDM血dSeJ【(P、163-64.以下にその原文を示す。

Theschizophrenicisnotgoingtorevealhimselffbrcasualinspec-

tionandexaminationtoanyphilanderingPasser-by・Iftheselfisnot knownitissafe・Itissafefrompenetratmgrema「ks;itissafefrom beingsmotheredorengulfedbylove,asmuchasfromdestruction fromhatred・Iftheschizophrenicisincognito,hisbodycanbehandIed andmaniPulate。,petted,caressed,beatcn,giveninjectionsorwhat haveyou,but‘he,,anonIooker,isinviolable. ⑫“SylvjeandBrun・Concluded,輿p、537. -65-

(27)

⑬Ibid. ⑭Ibid.

⑮“TheSystemofDoctorTarrandProfessorFetherグp、321.

(l0ChrrstineBrooke-Rose,1R"e/川CO/肋eU"γeα/(Cambridge:Cam‐

bridgeUniv・Press,1981),p、121.

⑰RobertConDavis,“Lacan,Poe,andNarrativeRepression,鰹LaCα〃

α"djVbZヅァα〃0",ed・RobertConDavis(Baltimore:theJohnsHopkins

Univ、Press,1983),P、999. (、リIbid.,p、992.

⑲JosephConrad,比α〃〃、”ん"BSS(NewYork:WWNorton,1971),

P、5. 00)“Lacan,Poe,andNarrative,卿pp、901-902.

(2,“TheIinguisticsignunitesnotathingandanamebutaconcept

andasound‐image〔伽ageaCO2USjM4e〕・TheIatterisnotthemateriaI sound,apurelyphysicalthing,butthepsychologicalimprmtofthe sound,theimpressionthatitmakesonourSense・型というソシュールの 言葉を参照せよ。 G2)Hea〃q/D”伽GSS,p、70. 御Ibid.,P5・ 例Ibid.,p、77. 燭Ibid・ G6IIbid.,p、27.

mテキストにおけるvoiceの問題は、その他もろもろのテキストに現われている力へ

例えば、フォースターの『インドへの道」におけるマラバー洞窟におけるおそるべき

“echo卿もこのvoiceの問題に関わっている。そこでは、記号の「音」が、monoto-nousになることによって、記号から指示対象へまた指示対象から記号へという日 -66-

(28)

常の言語通行が遮断され、そもそも言語の差異性そのものが喪失していく危機が扱わ れているのだが、このvoiceに関する問題は、また別な箇所で他の作家のテキストを 含めて検討すべき課題であろう。 ⑬Hea7/〃、”〃BSS,p、28. 38 42 勺O pp 9j d. 。Ⅱ。Ⅱ bb II ③⑪ -67-

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