族的資本主義の英雄時代 -- パプアニューギニアに
おけるビジネス文化進化史 (特集 世界の中小企業)
著者
塩田 光喜
権利
Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所 / Institute of Developing
Economies, Japan External Trade Organization
(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp
雑誌名
アジ研ワールド・トレンド
巻
207
ページ
16-19
発行年
2012-12
出版者
日本貿易振興機構アジア経済研究所
URL
http://hdl.handle.net/2344/00003809
太平洋のタイガー・エコノミー と呼ばれるパプアニューギニア ︵PNG︶は 、二〇〇二年の総選 挙後に成立した、建国の父マイケ ル・ソマレ氏を首班とする国民同 盟政権二期の一〇年間 、年平均 八%の成長を続けてきた。そして 来年、操業が開始される巨大ガス 田、ハイデス・ガス・フィールズ ︵エクソン ・モービル︶は 、三年 後にPNGのGDPを倍増させる と予測されている︵日本にも東京 電力と大阪ガスに供給される︶ 。 こうした驚異の経済成長は、む ろん石油とガスの上に黄金︵ゴー ルド︶が浮いているといわれるほ どに恵まれた資源に負うのだが 、 それではPNG人は何の寄与もし ていないのかといえば、そんなこ とはない。PNG人のビジネスへ の熱狂とそのキャパシティーなし には、二一世紀に迎えたこのタイ ガー ・エコノミーは成立し得な かったのだ。 人口七〇〇万 のP N G は 、 豪 ・ NZを 除 く 太 平 洋 島 嶼 諸 国 民 一 〇 〇〇万 中 七 割 の人口を 保 有 し 、 人 口四 〇〇 万の ニ ュ ー ジ ー ラ ンド を 凌駕 し 、 富士 山型 の そ の 美 し い 人 口曲 線は 、 二 〇三 〇年 に は 一 〇 〇 〇万 に達しよう と い う 勢 い である。 そし て 、 二 〇 三 〇 年 に はG D P に おいて もニ ュ ー ジ ー ラ ン ド を 抜 い てオー ス トラ リアに次 ぐ 太 平 洋 第 二 の 経済大国と な る で あ ろ う 。 我々は、その経済発展の担い手 となるPNGビジネスマンの生態 に肉迫してゆこう。
●貨幣経済の誕生
パプアニューギニアの文明史 は、一八八四年ドイツとイギリス が海岸線だけが描かれた白地図の 上に境界線を引いた時に始まる 。 北半はドイツ領とされ、ノイ・ギ ネア ︵ニューギニア︶ と命名され、 南半はイギリス領とされ、パプア と名づけられた。合わせてパプア ニューギニアである。 その時、PNG全土は石器時代 の部族社会である。 金 属 器もな い 、 文 字もな い 、 国 家もな い 、 世 界宗教もな い 、 も ち ろ ん 貨幣経済もな か っ た 。 あ っ た のは 、ブ ロ ニ ラフ ・ マ リ ノ フスキ ー の 民族誌 の 古 典 ﹃ 西太平洋 の ア ル ゴー 船 隊 ﹄ に 描 か れ た ク ラ 交 易 に み ら れ る よ う な﹁ 贈与交換﹂ で あ る 。 そうした石器時代のPNGに最 初に入っていった白人達は植民地 官吏、人の魂を求める宣教師、黄 金を求める山師、コプラ︵ココヤ シの実を乾燥させたもの、マーガ リンや石けんやダイナマイトの原 料︶栽培のプランター︵入植者︶ 、 そして人類学者であった。 PNG文明史を語り出したらき りがない。我々は目盛りを一九三 〇年代に合わせ 、標高一二〇〇 メートルを超えるニューギニア高 地に赴こう。 第一次大戦は終わり、PNGは オーストラリア統治下に入りゴー ルド・ラッシュが始まっている。 それまで無人の地だと思われて いたニューギニア高地にゴール ド・プロスペクターのマイケルと ダンのレイ兄弟と植民地統治官の ジム・テーラーが東西三〇〇キロ を踏破し、PNG全人口の四割を 占めるニューギニア高地民を﹁発 見﹂する。 例によって、統治官と山師と宣 教師が入ってくる。 白人達はニューギニア高地民の 宝にして贈与財であった真 珠 母 貝 の大きな貝片を大量に飛行機で運 びこみ、ブタやサツマイモなどの 食料や人々を働かせる対価として 与えた。 だが、一九四二年、大日本帝国 軍 が オ ー ス ト ラ リ ア 領 パ プ ア ニューギニアに侵攻、オーストラ リアのニューギニア支配は中断す る。日本軍はニューギニア中央高 地にまで兵を進めることはできな かったが、白人統治は一九四六年族的資本主
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まで断ち切られた。 戦後のニューギニア高地統治の 衝 に当たったのが、一九三三年レ イ兄弟とともにニューギニア高地 を東西に横断したジム・テーラー こと、ジェームズ ・ リンゼイ ・ テ ー ラーであった。 ジム ・ テ ーラ ー は 、 そ れ ま で の 真珠母貝 の 貝 貨を使う の は やめ 、 オー ス ト ラ リ ア 紙 幣 ︵ 当 時 はポ ン ド︶ を通用さ せ 、 ニ ュ ーギ ニ ア 高 地 に 貨幣経済を持ち こ も うと す る 。 だが、 ニ ュ ー ギ ニ ア 高 地 民 には ポ ンド 紙 幣 とタ バ コ を 巻 く 新 聞 紙 の 違いが わ か ら ない 。 食 物 や 労 働 の 対価 と し て 与 え ら れ た 紙幣 は い た ずら に 退 蔵 さ れ る ば か り で あ っ た 。 こうして退蔵されたポンド紙幣 にハケ口を与えたのは、レイ兄弟 の次兄ジムであった。ジム・レイ はテーラーが統治本部を置いたゴ ロカ・ステーションに、一九四八 年、ニューギニア高地で初めての トレード・ストアー︵万 屋︶を開 いた。ジム・レイはニューギニア 高地民の熱望する真珠母貝の貝貨 や鉄斧、鉄製の山刀を並べ、ポン ド紙幣と交換に﹁売った﹂ 。 テーラーがニューギニア高地民 に与えた二八八〇ポンドはわずか 六日でそっくりそのままジム・レ イの手によって回収された。 だが 、ニューギニア高地民に 、 ポンド紙幣には ﹁値打ちがある﹂ と思うようにさせるにはそれから 更に一〇年を要した。 ここでも、先頭を切ったのはジ ム・レイである。ジム・レイは高 地民から土地を ﹁買い﹂ 、そこに コーヒーの木を植えていった。一 九四八年一二月のことである。 一九五二年七月、ジム・レイは コーヒー豆の最初の収穫を行っ た。ジム ・ レイは幸運に恵まれた。 当時のコーヒー豆の売値は一キロ 一 ・ 六ポンド、 コーヒー価格のピー クに当たっていた。その記録は長 く抜かれることなく、一九六八年 になっても、その半値に達するの がやっとである。 ジム・レイの成功はPNG在住 の白人達の間にコーヒー入植熱の 火を点けた。ニューギニア高地統 治の衝にあったジム・テーラーま でが、職を投げうちコーヒー栽培 を始めたほどである。ジム・テー ラーの副官であったイアン・ダウ ンズはこう記している 。﹁ 雰囲気 は戦前、金が発見された当時のよ うに熱狂的なものだ 。違うのは 、 今回はゴールド・ラッシュではな く土地ラッシュだという事だ﹂ 。 こう した 白 人 達 の 熱 狂 は ニ ュ ー ギニ ア 高 地 民 に 好 奇 と 懐 疑 の 念 を 抱か せずに は お か なか っ た 。﹁ 連 中 は、 なん で俺 達 の 土地を 手 に入 れ、 奇妙な木を植え て い く の か ? ﹂ と 。 ゴロ カ 近 傍 の 高 地 民 達 は 、 ジ ム ・ レイに倣 っ て 統 治 府の指 導 のも と、 コ ー ヒー を 植 え 始 めた。 そ し て 、 一〇 年 後 の 一 九 六 二 年 に は ニ ュ ー ギニ ア 高 地 に は 二 〇 〇 万 本 の コ ー ヒーの 木 が 植 え ら れて いた 。 一九五二年には八〇〇〇USド ルであったPNGのコーヒー輸出 額は、一九五五年には二〇倍近い 一五万USドルに、一九六〇年に はそれを更に九倍した一四三万四 〇〇〇USドルに増え、その間の 平均成長率は年平均八〇%にも及 んだ。一九七〇年にはついに二〇 一八万二〇〇〇US ドルに達し 、 そのうち高地民のコーヒー生産は 全産出額の七八%に達していたか ら 、ニューギニア高地にはコー ヒーだけで一六〇〇万USドルも の貨幣が流れこみ、流通を始めた わけである。 ジム・テーラーがポンド紙幣を ニューギニア高地に導入してから 二二年後、その流通量はコーヒー だけで数千倍に達したのである 。 それは人類史上、空前絶後の経済 成長であった。
●
アイエ・ウィンディ︱族的
資本主義の一英雄
こうして、一九七五年の独立ま でに人口一五〇万のニューギニア 高地の隅々に至るまで、貨幣経済 は浸透した 。それにともなって 、 ﹁ビジネス﹂という単語が、 ニュー ギニア高地の全民族の言語に加 わった。 ビジネスに対するニューギニア 高地民の熱狂と情熱はすさまじい ものであった。そして、ニューギ ニア高地民は天性のビジネスマン であることを証明しつつあった。 それがどのようなものであるか を、私は一人の典型的な人物を通 して描いてゆこう。 彼の名はアイエ ・ ウィンディ 。 私のインボング族フィールドワー クのホスト・ファミリーの一員で ある。 アイエは一九六七年に生まれ た。インボング族は一九五三年に 白人により平定 ︵ pacify ︶されて いるから、文明到来後に生まれた 文明第二世代である。 氏族はアペンダイ氏族、生まれ たのはアンブプル村だが、父ウィ族的資本主義の英雄時代
―パプアニューギニアにおける ビジネス文化進化史―バイブル ・ 、 独 立 の 年 、 ウィ ン デ ィ の に放 火され、 怒 っ たウ ィ 妻の 父 で 、 こ の 一 帯 最 高 導 者 ナ ウ リ ガ イ ・ ト ゥ エ を 与 え ら れ 、 ア ン ブ プ ル 村に 一 家 を あ げて 引 き 揚 げ る。 アイ エ も ア ン ブ プ ル に 戻 り カ ウ ペナ 小 学 校 を 卒 業 、 同 い 年 の 異 母 兄弟 エ ン バ が 公立 イ ア リブ中学 に 進ん だ た め 、 バ イ ブ ル ・ ミ ッ シ ョ ン 経営 の パ バ ラ ブ ル 中学 に 進 学す る 。 一九八五年、私はアイエの姉ク クの夫サイモン ・ アペに招じられ、 アンブプル村でフィールドワーク を始め、老ウィンディの敷地に家 を建てる。 その年、学年第二位の成績で卒 業したアイエは実家に帰り、私と の﹁兄弟関係﹂が始まる。 しばらく、家でブラブラしてい たアイエだが、ミス・レニタの口 利きでニュージーランドの製材会 社ビーチウッド・カンパニーに就 職。爪に火を点もすようにコツコ ツと貯金に励んだ。 一九八七年四月、私のフィール ドワーク終了直後、総選挙のキャ ンペーンが始まり、サイモン・ア ペは旧知のビジネスマン、アンソ ニー ・ テモの選挙参謀 ︵キャンペー ン・ミニスター︶となり、現職の グライミー ・ワレナに挑戦した 。 サイモンは見事テモを当選させる と、大臣に就任したテモの秘書官 となる。 アイエは貯めた金でPNG随一 の産業都市ラエのラエ・テクニカ ル ・インスティテュートに入学 、 会計学を修め 、トップで卒業し 、 ダンロップに入社する。 サイモンはテモのコネクション で、 帰化白人ビジネスマン、 ロバー ト・サックリングに紹介され、銀 行から融資を受け、オーストラリ アから古着を輸入し、売りに出す という古着ビジネスを始める。 サイモンの古着ビジネスは大当 たりし、サイモンは財務を任せる ため、アイエをダンロップから引 き抜いた。 一九九〇年に開業したサイモン の古着屋は、一九九一年にはモレ スビーに二店、一九九二年には更 にラエとラバウルに二店と急速に 拡大した。 そして、一九九二年。再び、選 挙である。サイモンは今度もテモ の選挙参謀を努め、テモを圧勝さ せるが、クリガイ氏族の若い娘と ねんごろになり、二〇頭のブタと 一万キナでめとってしまった。激 怒したのはアイエの姉のククで あった。第二夫人は父もめとって いるから許すが、自分の時の婚 資 は三頭のブタと三〇〇キナであ る。この差別待遇は自分を辱める ものである。許せないククは、ア イエにサイモンの口座から二万五 〇〇〇キナを引き出させ、アイエ はポネモンゴ時代の竹馬の友ジョ ゼフ ・ プ ルノの口座に振り込んだ。 今度はサイモンが激怒する番 だ。 ピストルを空に向けて放つと、 ククやアイエらウィンディ兄弟を 店から追放した。 アイエらは首都ポートモレス ビーを路上生活して過ごすが、イ ンボング族文明第一世代のエレ ペ ・コロウィ ︵離婚したウィワ ・ コロウィはPNG総督となる︶の 援助もあって立ち直る。 アイエ、エンバ、サニのウィン ディ三兄弟は、ジョゼフ・プルノ からの二万五〇〇〇キナを元手に ビジネスを始める。万屋を建て商 品を調達すると、再びエレペ・コ ロウィがダットサンを譲ってくれ た。 こうして商品調達をしながら、 ビン缶収集も行い、店をもう一軒 建てるとタイヤ・サービスと弁当 屋︵タッカー・ボックス︶を始め た。毎日の食事は乾パン、鳥の股 肉付きライスを食べるのは四週に 一度である。仕事を始めるのは朝 五∼六時、終えるのは夜の一〇∼ 一一時であった。 そのうち、アイエはポートモレ スビーの中下層の市民が朝食をと ジョセフ 親友 アイエ クク = サイモン プルノ ウィンディ アペ △ ○ = △ (出所)筆者作成。
らずに仕事に出かけていくことに 気づいた。朝食をとるのは、自動 車でスーパーマーケットに二斤入 りのパンを買いに行き、自宅の大 型冷蔵庫で保存できる上流層の み。赤道直下のモレスビーではパ ンが傷 むのは早い。 アイエの竹馬の友にして父方祖 母の氏族ヌンブヌンブのジョセ フ・プルノは、兄トロンベナが始 めたスコーン︵小型の丸いパン︶ ・ ビジネスのマネージャーとして 、 ニューギニア高地で成功を収めて いた。 ﹁あれや ! ﹂ アイエのアイデア は、中下層民が毎日生活物資を買 いに行く万屋︵トレード ・ ストア︶ や公設市場に安価なスコーンを配 達して回るというものだった。 アイエはこれまで築いてきた全 ビジネスを売却し、銀行から一〇 万キナを借り出し、巨大な倉庫を 買い取り、ジョゼフにスコーン製 造のノウハウを教わり、必要な機 械と配達に必要な車を買い入れる と、全力をスコーン・ビジネスに 傾注した。 スコーン一個は三〇トヤ︵当時 のレートで三〇円︶ 。モレスビー の中下層民はアイエの供給するス コーンに飛びついた。 三台 の バ ン は フ ル 操 業 で モ レ ス ビー 中の万 屋 や 市 場 を 回 っ たが 、 それ でも足らず 、 更 に 二 台 の バ ン を買 い 足 した 。 一 台 当 た り の売上 げは約 五 〇〇キナ 、 一 日 の 総 売 上 げは 二 五 〇〇キナ ︵三 〇万円 ︶ に 達した 。 そ れ でも まだ需 要 に追 い 付けな い と み た ア イ エ は 、 エ ン バ に も パ ン 工 場 を造ら せ 、 双方合わ せ て の売 上げは 一 日四〇〇〇キ ナ ︵五 〇万円︶ に達した。 ポ ート モ レ スビー 市 民 一 五 万 の う ち 、 一 万 人 以上 が ウ ィ ン デ ィ 兄弟 の 生 産す る ス コ ー ン を 食 べ て いた こと になる。 アイエはこうしてシュムペー ターのいわゆる﹁新結合﹂を遂行 し、中下層民の潜在的欲望に形を 与え、すなわち潜在的需要に新商 品を供給し、新市場を開拓したの だった。そして、それによる創業 者利潤は莫大なものとなった。更 にいうならば 、アイエは彼のス コーン・ビジネスを通じてポート モレスビー中下層民のライフスタ イルをも変えていったのである。