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ハロルドJ.ラスキの政治理論における権威と自由について

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ハロルドJ.ラスキの政治理論における

    権威と自由について

庄  野     隆  (文理学部・法学研究室)

011 Authority

a“d Liberty

in Harold

J. Laski's

         Political Theory

Takashi Syono 1。 2. 3. 4. 5. 序……… 国家権力と権威 国家権力と自由………… 自由と民主主義………… 結 語……… 目 次 1314 16 19 21  1.序  ラスキの政治理論は,周知の如く,国家の法的・制度的側面を主題としてではなく,個人,結社, 国家の相互関係を,権力(power)と区別された権威の観点から追求するとともに,社会における 現実の個人に焦点を求める個人主義にあらわれているのである。1)しかし,かれの個人主義的な態 度は,個人が社会的に規定される側面や人間的衝動(impulses)の側面としてとらえ,こ・れらの諸 衝動の調和的満足に人間行為の究極的目標を求めたところに特色があり,。かれは,人間が,とくに 衝動の充足を求めて行動するときに生ずる機能,およびその機能における目的の共通性を媒介とし て結ばれる相互関係に着目して,そこからかれの政治理論を構成したのである。2)それとともに, 19世紀末以来顕著になりはじめた資本独占化の傾向によって強大化してきた執行権力に直面すると とも’に,莫大な労働者階級の政治参加の拡大要求の激化という大衆社会的状況に刺激されて,積極 国家の出現を促進したのである。かれは集団の噴出という一般的傾向を土台として,個人の自由に 対する国家の干渉を問うことであった。たしかに,レセ・フェール(laissez-faire)。的な自由主義か ら,立法を通じての国家権力の強化と国家機能の増大は,国家の法的全能の観念を生みだしたので ある。そこでかれは,それが現実に妥当しない純粋に形式的左概念に過ぎ在いことを批判している のである。詳言すれば,かれは第一次世界大戦後ヨーロッパの大衆社会的状況は。政治過程におけ る議会の地位は没落の過程を辿り,それとは逆に,権力の中心が行政府に移行し官僚機構の確立と なり,既成の政治権力ないし政治秩序に対して批判を加えているのである。しかし,政治制度や機 構の形態だけ改革しても権威が回復できるものでは座いのである。かれは,国家がいかに強力であ り・,荘厳であろうとも,現実には社会における多くの結社または集団の一つに過ぎず,経験的には 国家権力にはつねに諸種の限界または制約が存在し,これらの制約は,国家が達成しようとする目 的に対して人人が下す判断に依存することを強調したのである。換言すれば,国家は国民に対して 国家であるが故に服従を要求しうる資格はないのであって,国家に服従するか,否かは; その政策 ま,たは方針を,市民が自己の経験と良心に照して市民自身の判断によって決定するものであると考

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えられたからである。3)  要するにかれは現実の政治に対する真剣な肉迫のしかた,その自由に対する信念,その他一切の 専制に対する抵抗精神をもって,当時のヨーロッパ,とくにイギリス政治の機構と迎用の実態につ いての鋭い観察,批判的分析と提言は,とりわけ前期ラスキの政治理論に顕著であり,この理論は わが国の現在の政治体制の検討に極めて有益な手がかりを与えるものと信ずる次第である。4) (註) 1)現代政治学I 秋永肇著 富士書店1963年p. 129 2)ノヽロルド・ラスキ研究 政治学研究叢書(1)横越英一他著頚草書房1968年p. 89 3)現代政治学1 秋永肇著 富士書店1963年p. 130-131 4)ノヽロルド・ラスキ研究 政治学研究搬書(1)横越英一他著 頚草書房1968年p. 8-9参照  2. 国家権力と権威  ラスキの国家論は,前述の如く国家の法的・制度的側面を主題としてではなく,個人,結社,国 家の相互関係を,権力と区別された権威の観点から追求していることである。問題は,第一次世界 大戦を通じて明瞭な形をとってきた個人の自由に対する国家の干渉の意味を問うことであった。1) この点に関してイギリスのオックスフォードを中心とした理想主義国家論者の一人であるポサッケ

ット(Bernard Bosanquet, 1848-1928)は,ルソー(Jean Jacques Rousseau, 1712-1778)の一般意 思(volont6g6n6ral)2)に該当するものとして,人間の現実意思(actual will)から区別された真意思 (real will)の概念を設定し,心理学的方法によって,それか結局国家の意思に外なら痙いことを論 証しようとしたのである。すなわち,かれは,人間の心のをかの無数の統覚的観念群が心として統 一されるように,無数の社会集団は国家として統一されるのである。そして,心と社会とは,実際 は異なった観点からみた同一構造物である。3)したがって拡大した個我の心が国家,逆に縮少した 国家が個我の心であり,個我の現実意思が不完全性をもつのに対して,国家は完全に外部に展開し た個我の心として,その真意,巴の体現者に外ならないと主張するのである。うまり,国家は自由へ の強制者として,それ自身自由の担い手となるのである。4)たしかに,このことは当時の自由主義 から,国家権力の強化と国家機能の増大をきたし,国家の法的全能の観念を生みだしたし,また権 力の強化と機能の増大は,その背景に労働者階級を主とする社会の一般大衆の政治意識の向上に基 く諸要求を受容することによって,資本家階級との調整を行なう役割を国家か引受けなければなら 左いという事実を包含していたから,国家は全体社会の利益を代表するが故に,全市民が国家に奉 仕すべきであるという理論的志向性を生みだしたのである。5)しかし,ラスキは,この二つの観念 に対して,国家の法的全能は現実には妥当しない純粋に形式的な概念に過ぎないことを批判してい るのである。すなわち,人間とは,共働して一の全人格(a total personality)として働くところのも ろもろの衝動の東(bundle of impulses)であり,これらの諸衝動は非常に複雑であり,社会の諸制 度はこれらの諸衝動の全休に対応するものである。法律は,このような人間の衝動欲望をみたすた めの規則に外ならないのである。 しかも,国家への奉仕も現実には単一のもの゛ではなく,多元的 (種々の社会集団)なものである。6)もとより人間は諸衝動の束であるだけでなく,理性によってそ の衝動を調和させ満足に活動させることによって本来的な人間と左るのである。本来的意味の国家 は/このことをできるだけ大規模に実現させることをその機能とする機構(organisation)であっ た。7)そのために国家が現実に左にをしなければなら在いかは,国家かおかれている歴史がきめる ことである。 しかし,国家はそれ自体としては抽象的な存在であって,一定の人人に担われてはじ めて現実のものとなりうるのである。この人人が政府である。つまり国家の実体は政府であり。国 家の意思とは結局は政府によってつくられた意思で‘ある。8)したかって,国家の意思は,一般的に は,最大の意思であるかも知れないが,全休としての社会の意思では憲く,意思決定の合法的権力

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ハロルドJ・ラスキの政治理論における権威と自由について(庄野) 15 を委託された少数の人人の到連した決定に外なら右いのである。9)また,国家権力は,実質的には政 府,すなわち少数者の権力である。国家は他の集団と同じように一つの機能社会であるが,同時に これらの集団とは異左った属性をもっているのである。それは機能面において,国家は各成員の共 通の欲望の充足を,その目的とし,またそのために他の結社を統制し左ければならないので,他の 諸結社に対して優位性をもつことがみとめられるのである。これはまさしく,国家の公的機能体と しての一側面を正しく呈示七たものである。国家奮さきに実質的には政府とみなした,のであるが, これはまさに国家機能の公的性格からむしろ政府と区分し左ければなら左いのである。1o)それは少 数者集団としての政府はそれ自体知的集団であり,特定のイデオロギーや知識をもつものである。 加ふるに,ラスキは権力は腐敗するという信念をもっておヽり,あらゆる政府は腐敗する自然的傾向 をもち,いかなる権力者も`このよう忿習性をもつものと考えられているのである。11)したがって, かれによれば,このよう左意味の小数者に,このような性格をもった権力を許容することを意味す るのである。これは内的主権の問題である。すなわち,国家の機能を規定することは,政府の権力 を規定することでは痙くして,政府が保証すべき目的を規定しているに過ぎないのである。125した がって,権力は,つねに機能目的によって限定されるものとして把握され左ければなら座いめであ る。しかるに,国家権力によって結合される支配者と被支配者との間には広大な深淵があって,そ れは権力とそのさまざま痙機構とが生んだ方策で満されているということである。13)すなわち,各 個人がこの両者の関係によってつくられる環境に参加する問題である。それは国民各個人の政治的 行動はみずからの経験に基いた判断によって行われるわけであるが,あらゆる判断は,究極におヽい て選択であるから,各個人が行う選択が政治的参加である。14)かくして政治における最も重要左問 題は,ラスキにとって,市民の決定への参加を通じて政府の権力への支持を獲得することであり, 政府の権力は,それが社会生活の目的のた。めに行使される度合に応じて政府の権利である。15)すな わち,政治的参加の本来の意味はそれによって権威が形成されるのである。さもないかぎり権威は, 市民自身の存在という土壌の右かに深く根を張ることはでき憲いのである。16)政府の権力は国民の 忠誠を確保しうるかぎりにおヽいて権威を形成するのである。すなわち,政府の意思は日常的行政に 屈訳されるに応じて国家の意思と痙るのである。17)権威は権力と異なり,決定を自発的に承認する

者にその行使が限定されるところに特徴があり,マッキーバアー(Robert morison Maclver

1882-  )が権威は権力と異なり,権利的性格をその特徴とするというのも,権威は正当性の問題を含 むことを意味するのである。  ラスキは権威を政治学の焦点とすることによって,古典的政治学と決別しようとするのである。 伝統的政治学では,統一的な権威はまさに統一一・なるか故に最高でなければならないのである。すな わち,まず社会の統一の必要を仮定し,その統一の機関としての国家の優位を主張する,のである。 しかしラスキは,その反対に,国家は単に服従させる権力をもつ主権的組織ではなく,すなわち, 統一はあるものでは友くして,つくられねばならないものであると主張するのである。かれの,いわ ゆる統一化は,各市民が決定のうちに,その結果に基いて実験さるべく許容された利益を見出すよ うに諸利益を結合する過程を通じて結成されるのである。18)社会の構造はさまざまの程度をもつ諸 統一の点在であり,その関係は連立的(federal)とみ座しているのである。ラスキが社会は性質に おいて基本的に連立的である, 19)といっているのはこの意味である。  国家を含む多くの集団がそれぞれ異なった機能をもち,この機能の分化を前提とする協働によっ て構造は成り立っているのである。 したがって,社会は,かれにとっては,国家を頂点に頂いている ピラミッドとしてではなくして,協働する利益の体系として理解されるのである。2o)そして,社会の 連立を土台とする構造は権力の側面ではなくして,権威の側面からのみ考えられるからである021) (註) 1)現代政治学I 秋永肇著 富士書店 1963年p. 130

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2)ノレソーの国家は成員各個人の自由意思による相互契約(社会契約)によって成立するのである。それは   既成の社会に単に権力機構を与えることではなく,これら個人がその自然人としての独立を放棄して全   く新たなー・体としての人民を形成することを意味するのである。しかし国家はもはやこの人民以外のな   にものでもなく,国家への服従はかれ自身に服従することであっで,この契約は一個の公共我(1e moi   commun)の形成に外ならないのである。一般意思とはこの公的人格の意思であり,主権はその執行で   あって,当然国家の全成員,すなわち,一体としての人民によって行使され,法はこの一般意思の表現   とされているのである。 3) 4) 5) 6) 7) 8. 9. 10. 11. 12. 13. 1 1 1 1 j j 4   5 6 7   8 9 1   1   1   1   1   1 2 0 ) 2 1 )

Enest Barker, Reflectionson Government, 1942, p. 115 政治学体系 横越英一著 頭草書房 1967年p. 94 現代政治学I 秋永肇著 富士書店 1963年P. 130 Harold J. Laski,Grammer of Politics,1925, p. 22 p. 23 Harold J. Laski,ibid・, p. 25 Harold J. Laski,ibid・,p. 26 Harold J. Laski,ibid・,p. 28 p. 35 Harold J. Laski,ibid・, p. 70 Harold J. Laski,ibid・, p. 71 Harold J. Laskいbid・,p. 70 Harold J. Laski,ibid・,p. 241 Harold J. Laski,ibid・, p. 251 Harolod J. Laski,ibid・,p. 36 Harold J. Laski,ibid・, p. 252 Harold J. Laski,ibid・, p. 36 現代政治学1 秋永肇著 富士轡店 1963年p. 138-p. 139参照 Harold J. Laski,Gramraer of Politics,1925 p. 270

Horold J. Laski,ibid・,p. 286 現代政治学I 秋永肇著 富士書店 1963年p. 139  3.国家権力と自由  ラスキの政治理論の本質が,前述の如く,国家主権の一元性と優越性を基礎づけようとする従来 の主権論に対する経験主義的個人主義の立場からの批判であり,その批判の究極的目標が集団的自 由の擁護を通じての個人の自由の確保であった。ラスキが自由と規定するものは,個人の欲望追求 の過程において外部的拘束の存在しないことであり,一切の社会的強制,わけても国家における権 力的支配と自由とは相互否定的な関係をもつものとして考えられていたのである。1)  それは,つぎのことからも明らかであろう。ラスキ私わたくしが莫に欲するところを表現ナる ことが,わたくしが最も真実に自分自身であることか自由の本質である。2)しかも精神生活にとっ て一つの重要左ことがもしあるとナれば,それは強制の存在し座いことである。3)強制は,自由と は全く対立的な意味の外部からの拘束を意味するのである。それは個人が自分から進んで参加する ことを欲しない経験に,かれを強制的に従わせることである,4)と。ところで,抽象的な観念の世 界ではなくして,人間の複雑化した社会関係が,個人の自由の求められる現実の場である限り,自 由の問題について重要なのは,社会構造,左かんづく政治的な権力関係のなかで方法論的に実現す るための理論であり,このような理論を形成しうる限りにおヽいてのみ,自由主義のイデオロギー的 機能が存在することはいうまでも座いことである。5)このことについて,かれはつぎの如く述べて いるのである。自由とは人人が最善の自己となる機会をもつような雰囲気を熱心に維持することで あると思う。 したがって自由は権利の産物である。自由な積極的痙ものであり,それは単に拘束が ないということだけを意味するものではないのである。統制は明らかに人間か共同生活を営むこと

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ハロルドJ.ラスキ 17 の結果である。在ぜならば,われわれは共通の規則をもた攻いでは,共同生活を営むことができ憲 いからである。大切痙ことはつくられた規則が,わくたしの追随しうる,そして大体におヽいて受け いれることのできる経験を現わナもので痙ければならないのである。6)この歴史的な経験が,われ われのための正しい生活をすすめるところの便利な規則を発達させてくれたのであり,その規則へ の服従を強制することは,人人を不自由なものにすることにはならないし,こうした禁止が,それ を発する法的機能をもった権威者によってなされたということだけで,正当であると論ずるのでは 左いのである。7)自由にとって本質的なことは,発せられる禁止が,その影響をうける人々の意思 のうえに立てられるべきであるということである。 したがって自由とは単に規則に服することだけ ではないのである。わたくしは厄介な拘束をがまんしなければならないのである。拘束が悪いと感 ぜられるのは,それか精神的に豊かな生活を妨げる場合である。われわれの自由を破壊するものは われわれの個人的創意を制限するよう左禁止の体系である。市民の精神は能動的在ものでなければ ならないのである。自由の本質は,訓育された良心に基礎を置いた名も座き人人との意思を,鼓舞 激励することである,と。8)  以上は,かれの自由の拘束の欠如という消極的痙立場から,国家座いし法が個人自由の保障のた めに果す積極的機能の肯定を示しているのである。このように,かれの自由主義は,異質的な二種 の自由概念を基底として構成されているのである。一は,自由は国家における権力的支配の否定に おヽいて実現されるものと考えられておヽり,自由は権力的支配の制限である。他は,国家は市民に自 由を与えるであろう,9)というかれの理論の如く,権力的支配はむしろ自由の条件をなしておヽり, また自由は,権力に対して建設的なものとして理解されるのである。このようにかれの自由主義の 複合性は,国家を,共通目的追求のための目的社会として理解し,権力的支配の本質を,自己の生 活目的を達成するための自己規制として認識されているのである。1o)  さて,かれの自由の複合性はその国家観とどのような関係にあるのが,換言すれば,国家権力に 対して否定的な自由概念と,それと積極的痙相互関係をもち,国家権力によって保障され,またそ れに対して構成的な性格をもつ自由概念とが,かれの自由主義の構造の左かで左ぜに,併存しえた のであろうか。11)  ラスキによれば,国家とは,その柵成員に共通する目的の充足のためにかれらの自発的結合によ って構成される一つの合目的左部分社会であり,しかもその機能は,共通目的のための各部分的特 殊社会の調整に限定されるものであった。12)またかれにとって自由の本質は人格を構成する諸衝動 の調和的満足に存し. 13)自由は,このような人格実現の諸条件が実質的に保障されてやることであ った。14)そうであるとすれば,自由の実現のために国家か積極的機能を担うものであることは明ら かであろう。国家による強制は,個人がその衝動の調和的充足をうるために,特殊的欲求に対し て自ら課する拘束を意味するものであり,逆に国家権力による支配は,自由の条件となるのであ る。15)しかしうえの領域以外の領域における自由は,個人の国家による権力的支配から全面的解放 を意味しているのである。この領域における自由の条件はまさに拘束の欠如である。もしも政府に よって行われる国家政策の決定と政府によって代行される国家の機能が,国家目的の範囲を逸脱し てこの領域に立ち入ろうとするならば,自由は,その権力的支配を拒否し否定することにならなけ ればならないのである。 しかし,現実に国家を機能させる政府は,その構成員の価値観についての 拘束性の故に,国家機能を歪曲する可能性を内包するものと考えられているのである。16)政府にあ るこのような国家機能の歪曲を避け,政府と自由との対立の可能性を解消するために,個人は自分 の要求を政府に伝達し,政府の構成的な性格に対応しているので。ある。17)  要するにかれは積極国家における国家権力と個人自由とを架橋する理論を構成することによって, 被支配大衆の政治的イデオロギーとしての自由主義の形成を意図していたことを示すものであった。 そして,かれの架橋の理論は,国家権力は個人の自由に対して積極的座役割を担うものとしてその 正当性を根拠づけ,また個人は,国家権力に対する主体的自由を保障するものであった。しかしこ

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の理論は,一の仮説を前提として成立しているものであった。ナなわち,国家権力と自由との間に 積極的な相互関係が存在しえたのは,国家がその構成員に共通する欲求の充足を目的としてつくら れた一の集団(association)であり,その意味におヽいて市民の意思の組織体であった。 しからば,か れにおヽいては,自由実現の可能性は,このような限られた目的と機能とをもつ合目的左集団として の国家の成立に,全面的に依存しているといわ友ければならないであろう。ところで,かれが多元 的国家論として提示した国家の目的と機能についての理論は,現代国家における権力的支配の実態 分析としての正しさを主張しうる理論であったであろうか。18)  このことについては,ラスキが民主主義の危機において述べている示唆にとんだ見解からも推測 することができるであろう。すなわち,現代の社会生活のどの側面をみても権力の組織原則に大衆 が不信の念を抱いている現象が起っていない領域は殆んど左いのである。大衆の確信と自信が失わ れていくにつれて,法律を尊重する気持も必然的に薄らいでいくのである。なぜならば,法律が支 配力を維持できる場合は,法律の支配に服している人人が確信と自信に満ちている場合に限られて いるからである。もしこれらの確信と自信が欠如する場合には,法律が国民に忠節を要求する根拠 は必ず大衆の挑戦を受けることになるであろう。19)大衆はとくに社会を根本から変革する法則を求 めて政府に挑戦しておヽり,政府は現在このような大衆の動きと対決しているのである。 しかるに一 部の大衆を権力から締めだす政府は,これらの大衆の自由と利益を無視して,人類の優れた慣行を 揉廟する方法に訴えて政府の意思をかれらに押しつける場合がある。大衆が政府の決定に我慢でき なくなって,政府の政策と闘争する決意を固めている場合には,政府と闘争することが間違いであ ることは少しも思っていないのである。説得による政治が拘束による政治よりも逞かに創造的であ ることは勿論である。大衆か権力に服従するかどうかは,権力が大衆に対してゆとりのある態度を みせるかどうかによってきまると考えることができるのである。また,権力が大衆を強制して多数 の市民の良心を犯す恐れのない目的を実現する場合には,大衆はいつも権力を許容するのであり, それは法律の基礎か市民の自由な意思に支えられていることを認識する必要かあるからである。2o) 法律が市民の間に通用するのは,市民の意思が法律にその力を賦与するからであるか,この場合に は,法律の方から進んで市民の意思に合致しようとする動きをみせるのであって,ただ市民の意思 が法律の源泉であるという理由だけからそう痙るわけのものではないのである。もしある人人がわ れわれも共鳴できるような目的を実現するために法律に反抗したとすれば,われわれの日頃の習慣 としては,かれらの行為の合法性を不問に付して,つぎのいずれかの態度をとることであろう。す なわち,われれれとしては,かれらの行為が当然左行為であると考えてそれを正当視するか,ある いは,かれらの反抗が失敗した場合には,かれらの目的が立派なものであるから処罰ナるにも微罪 処分にすべきであると主張するであろう。  要するに,市民の関心の的になっている政府は,現実に諸政策を実施している政府のことである。 それだからもしもこのよう痙政府が,市民の深刻な不満を買うようなことをすれば,不満を感じて いる市民たちは,できればこのような政府を阻止して,今後とも存続し左いように努力するのはあ たりまえのことである, 21)と。 (註)  1)ノヽロルド・ラスキ研究 政治学研究叢書(1)横越英一外著 順草書房 1968年p. 81  2)3)4) Harold J. Laski,Grommer of Politics,1925, p. 33

 5)ノヽロノレド・ラスキ研究 政治学研究叢書(1)横越英一外著 順草書房 1968年p. 83  6) Harold J. Laski,Grammer of Politics,1925, p. 142

 7) Harold J. Laskいbid・,p. 142  8) Harold J. Laski,ibid・,p. 143-144  9) Harold J. Laskいbid・,p. 142

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き り j j j j 1   2   3 4   5 6 1   I   1 1   1   1 1 7 . 1 8 ) 1 9 ) 2 0 ) 2 1 ) ハロルドJ.ラスキ 治理論における権威と自由について(庄野) 同  上 p. 89-92参照 同  上 P. 92

Harold J. Laski,Grammer of Politics,1925, p. 102 Harold J. Laskいbid・,p. 144

ノヽロノレド・ラスキ研究 政治学研究叢書(1)横越英一外 著順草書房 1968年P. 93 Harold J. Laski,Grammer of Politics,1925, p. 144

ノヽロルド・ラスキ研究 政治学研究叢書(1)横越英一外著 順草書房 1968年p. 90-94参照 同  上 p. 98

Harold J. Laski, Democracy in Crisis,1931, p. 147-148 Harold J. Laski,ibid・,p. 156-159 Harold J. Laski,ibid・,P. 160-161 19  4.自由と民主主義  ラスキは自分のおかれていた時代が19世紀の民主主義の歴史的成果を前提として,かれの政治理 論を展開したのである。  歴史的にみれば,国家はいつも少数のものへの多数の大衆の服従という異常座現象を示している のである。1)したがって,かれは国家とはなんであり,人間と国家とはいかなる関係にあるかを考 えたのである。  かれは人間を多元的にとらえることによってこのことを解明しようと試みたのである。人間とは いろいろな衝動の束が一緒に行動して全人格を形成しているものである。2)これらの諸衝動は非常 に複雑であり,社会の諸制度はこれらの衝動の全休に対応するものである。もとよりラスキの政治 理論におヽいては,人間は単に諸衝動の生物であるのみでなく理性的存在であるべきことが不可欠で あり,人間は自己の行為を反省することができ,不調和に気づき,目的と方法とを関連させること ができるのである。すなわち,人間は単に諸衝動の束であるだけでなく,理性によってそれらの諸 衝動を調和させ満足に活動させることによって本来的な人間となるのである。 しかも理性の価値は, 衝動の目前の調和ばかりでなく将来の調和も可能にするのである。3)また本来的意味での国家は,・ このことを大衆にできるだけ大規模に実現させることをその機能とする機構(organisation)であっ た。4)そのために国家が現実になにをしなければならないかは,国家が遭遇する歴史がきめること であろう。5)しかし,国家はそれ自体としては前述の如く抽象的座存在であって,一定の人人に担 われてはじめて現実のものと座りうるのである。この人人が政府である。国家意思とは,市民全体 が政府意思の命令を受けいれたときの,政府意思を意味するのである。6)しかし,現実の政府の意 思がそのまま本来的意味における国家の意思に友るわけでは座いのである。ここに民主主義という ことが問題になるのである。民主主義は権力の主体が少くとも理論上は市民大衆であるということ は自明のことである。 しかしここに問題は,権力の目的おヽよびその目的を達成するための方法であ る。7)かれは方法を重視したのである。現実の市民大衆が権力の主体としての存在にふさわしい目 的実現の方法をもっているかを問題にしたのである。民主政治はたしかに政治組織の最終形態であ る。 しかしながら,かれは民主政治は検討すべき問題であって,賞賛すべき問題では座いというこ とに座るのである。8)かれは民主主義が制度化していることを前提としているのである。  近代社会では人間は政府の権威のもとに生活するのであって,政府の命令に従う義務は人間の本 性にもとづく諸事実から出てくるのである。座ぜならば人間は遺伝的本能から仲間とともに生活せ ざるをえない共同体をつくる動物であるからである。9)すなわち,かれにとって人間は本来社会的 動物である。共同生活の平和的維持の必要性は,必然的に個人の任意性を制限し,規則・制度を生 み出していくのである。社会におヽける規則は個人の安定を保障する意味で,自由の制限ではなくむ しろその第一の保障であり, 10)この規則の担い手が政府である。 しかし,現実の人間にとっては,

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社会の規則・制度は既に存在しているものであり,大多数の人々はめったに検討したこともない意 思にしたがって,自分達の意思をきめるのである。すなわち,かれらは惰性から政府の命令に服従 するのである。社会生活の特徴は,少数者の意思への多数者の思慮左き服従である。11)それは人間 生活が国家の諸制度という背景のをかに,最もしっかりとはめこまれているから,現実の人間を問 題にすることはそれとともに国家を問題とすることである。12)'囮家(政府)の行動は市民にとって 等しく重大なことである。本来的な国家が,個人の最善の自己を実現させるために存在するものと して,正当性をもつとしても,それは現実の国家の正当性を保障するものではないのである。国家 の目的は政府の行動に媒介されて実現される可能性をもつものであるから,前述の如くそれを歪曲 されたり,拒否されたりすることもありうるのである。これは,社会の優勢な物質力が,国家本来 の機能の行使を拒否していることを意味しているのである。13)このように国家意思とは,市民全体 が政府意思を意思の命令として受け入れたときの,政府の意思を意味するのである。14)政府意思は 市民の判断を媒介として国家意思となるのであり,市民はその判断の根源を,外界とかれ自身との 接蝕のなかに,つまり,かれを社会の他のものから区別する唯一独自のものである経験のをかに見 出すのである。15)  うえの如く,ラスキにとっては,人間はみな国家を必要とする存在である。国家の実態は政府で あるから,政府は民主的でなければならないのであるが,現実は必ずしもそうは左っていないので ある。かれの人間論は国家観を媒介として,展開されておヽり,それは,人間は衝動の束であり,社 会の制度はこれらの諸衝動の全体に対応した存在であった。16)そして国家はこれらの諸衝動を調和 的に満足させることを目的とするものであり,国家は人間性のあらゆる側面を反映していくもので あって,民主主義はその方法であった。  ラスキの国家論は19世紀末の大不況ののちのイギリス・サンディカリズム(Syndicalism)の運勁 を中心とした大衆運動をその背景としていたのである。大衆運動か政府に挑戦していることは,か れにとっては,その政府か大衆の支持を受けることに失敗していることを意味していたのである。 つまり,政府の意思が大衆の意思を反映してい在いことを意味していたのである。かれにとっては 国家の形態が大衆の意思を完全には反映することができ左いよう座構造になっているのではないか ということを問題にするのである。大衆運動の提起した問題を,かれは国家の形態論として受けと めているのである。17)また,市民のもつ衝動,すなわち市民としての人間的欲求に政治的民主主義 が応じえ左く左ったところに,民主主義の限界を見出していたのである。そして個人の自由の保障 を,より積極的な基礎のうえに再構成しようとしたのである。18)要するにかれは大衆運動,とくに 20世紀初期のイギリス労働組合迎動のなかに,民主主義の新しい方向が示されていることを見い出 したのであ゛る。 (註)

 1) Harold J. Laski, Grammer of Politics, 1925, p. 21  2. Harold J. Laski, ibid・, p. 22

 3) Harold J. Laskいbid・,p. 25 4 ) j j j j き り j j 5   6 7   8 9 0 1 2

Harold J. Laski, ibid・, p. 25 Harold J. Laski, ibid., p. 26 Harold J. Laski, ibid・,p. 29 前出 Harold J, Laski, ibid・,p. 16 Harold J. Laski, ibid・,p. 17 Harold J. Laski, ibid。 p. 17 Harold J. Laski, ibid・,p. 18 Harold J. Laski, ibid・,p. 19 Harold J・Laski, ibid。p. 21

(9)

j l j 3   4   5 1   1 1 16) 17) 18) ハロルドJ.ラスキ

Harold J. Laski, ibid。 Harold J. Laski, ibid・, Harold J. Laski, ibid., Harold J. Laski, ibid., Harold J. Laski, ibid・, Harold J. Laski, ibid.,

p ・ p ・ p ・ p ・ p ・ p ・ 57 29 31 22-23 38 142 治理論における権威と自 前出 について(庄野) 21  5.結   語  ラスキは政治学大綱の冒頭に新しい時代の新しい世界には新しい政治哲学が必要であると述べて いるのである。1)権威はつねに国家の最高の強制権力である。2)この権威が主権であって,それは国 家の運用を託された政府によって国家の名におヽいて行使されるのである。3)それは前述の如く,ま さに国家機能の公的性格からむしろ政府と区別しなければならないのである。4)国家の機能を規定 することは,政府の権力を規定することではなくして,政府が保証すべき目的を規定しているに過 ぎないのである。5)しかるに国家権力によって結合される支配者と被支配者との間には広大な深淵 があって,それは権力とそのさまざま左機構とか生んだ方策で満されているのである。6)政府の権 力は,それが社会生活の目的のために行使される度合に応じて政府の権利と左るのである。7)すな わち,国家の機能を定義することは,政府の権力を定義することではなくして,政府が確保しよう とする目的を定義することである。政府は国家の代行者に過ぎないから,かれらめ意思は普遍的で あるという保障はないのである。しかし,政府の意思は日常的行政に研訳されて国家の意思と塵る のである。8)  つぎに意思を代表する点についての市民と国家との関係はどうであろうか。それは,市民の生活 が衝動の充分左満足を獲得することを社会の諸制度が認めるとき,市民は創造的左意味におヽいて自 由である。 しかし,それを単に一人の人間の意思とみるならば,市民の意思はそれと競い合う何百 万という意思の左かに見失われてしまうであろうことは明らかである。集団はそれを構成する人人 の共通目的を達成するために存在するのである。そこで諸集団のもつ諸機能,諸目的の調整が必要 と右るのである。これが国家の役割であることは既述の如くである。  そこで市民が国家のなかでどのような地位にあるかを検討することにしよう。市民は権利によっ て武装して国家に向うのである。9)権利とはいかなる人も一般にそれ在くしては,最善の自己とは なりえないような社会生活の諸条件である。1o)国家は人が最善の自己となることができるようにす るために存在するものであるから,権利に対する態度によって国家の正当性は判断されるのである。 いかなる国家においても最善の自己を実現せんとする各市民の要求は,同等の価値をもつものとみ られ左ければなら左いのである。このような集団も国家と同様に現実的な権利をもっているもので ある。国家の権利は他の集団の権利より優れているわけでは痙いのである。国家はただ社会におけ る調整的要素である。ラスキの国家論は,国家の主権的意思への服従は個人自由の実現という等式 を定立することによって,国家の主権的性格の根拠を既述の如く説明しているのである011)  しかるに国家の行為は究極において,社会の真意思の行使であるというラスキの主張は,われわ れの遭遇する日常的経験に矛盾するのである。国家の意思は統一された意思では座くして,相互に 孤立的な分離された意思が目的の同一性に導かれてなすところの,種々なる程度におヽける結合であ り,12)個人意思相互の間には,それが機能するに当っての目的の同一性はありえても,意思そのも のの同一性はありえ痙いのである。13)現実的な分析においては,国家の意思とは,市民全体が政府 の意思の命令を受け入れたときの,政府の意思を意味するようである。14)政府は権力への永遠の権 利を有するものではなくして,それに服することによって課せられる拘束に服することによって, その正当性への信頼を市民からかち得る限りにおいてのみであり,権力はつねに服従者の経験的評 価に服しているのが,その実態である。 したがって,近代国家におヽける権力は権利の保障を条件と

(10)

する市民の信託として理解すべきものである。15)それか椛威と呼ばれるものである。  さて,資本家階級の椛力的支配に対抗する国民大衆の政治的イデオロギーとしての機能を担って 新に形成されていく自由主義か,従来の自由主義との間の思想構造の転換を生じたことは必然的な ことであったと考えられるのである。それは国家機能の拡大の要請を前提しながら,こめ要請に対 応して個人生活に対する干渉の領域を拡大して,その強度を強めつつある国家権力を,個人の自由 との関係におヽいてどのように理解し,どのように規制するかという問題が,自由主義の新しい課題 とならなければならなかったからである。  ラスキの自由論は,自由主義か資本家階級の政治的支配のためのイデオロギーから,そのような 支配から脱するための被支配大衆の政治的イデオロギーヘと転化していく過程において提起された のである。既述したかれの自由主義の基本的性格としての自由概念の複合性は,このような情況に 制約されつつ,かれがその自由論を構成したのであるが,かれの自由論の複合的構造は,要するに, 一方においては国家機能の拡大を肯定し,他方に£ヽいては国家権力に対する個人の主体性の完全な 留保をし,積極国家における国家権力と自由との問題を解決しようと意図していたものである。す なわち,かれは国家機能の極少化に個人の自由の最大限の表現をみようとしていたと考えられるの である。16)  さらに被支配大衆の政治的イデオロギーとして形成されたかれの自由主義は,被支配大衆の要請 への直接的左対応現象ではなくして,近代国家の変質過程への対応現象であった。それは資本主義 の発展にともな`う社会過程の変動によって結果された被支配大衆の参政権の拡大などは,資本家的 同質性を基底とする政治社会に異質的左利益と思想を導入し,その結果近代国家は,資本家階級 の目的社会から,対立ナる諸目的を内包する地域社会へとその性格を変じてしまったがためあで る。17)  消極国家から積極国家への推移は,近代国家の変質をきたし,自由の問題を中心としてその根本 的解決に真剣に取り組んでいるにもかかわらず,巨大な国家機能と市民大衆の距離はますます拡大 し,遂には大衆の政治的無関心と政治意識の低下を招来しているのである。かれはこの状況を政治 学大綱においてつぎのようにみているのである。  どん痙政治理論にも冒頭から多くの諸仮定かあることは承認すべきである。現代の社会を一寸で もみれば,国家意識を欠ぐ男女の数がいかに多いかがわかるのである。かれらは狭い個人的利害の 領域に頑固にとじこもっているのである。かれは社会傾向の一般的流れを把握しようと少しも努力 し痙いばかりか,その流れがかれらの占める特定の地位をどんなふうに通過していくかということ すら知ろうとはし;ないのである。かれらは政治上の争いを自分には関係のない芝居のつもりで眺め ているのである。かれらはその俳優にもその場面にも毛頭興味を示さ左いの七ある。かれらはただ 自分たちの個人的事柄が公的妨害で拘束されずにすむことだけを願っているのである. 18)と。  そこで,かれは近代国家における政治的自発性を鼓舞激励する19)とともに,国家権力と個人の自 由とを架橋する理論を構成することによって被支配大衆の政治的イデオロギーとしての自由主義の 形成を意図したのである。この自由は個人的自由であるよりも,集団がもっている共通の目的を達 成するための自由でなければなら左いのである。  また,かれは国家権力の過度の集中を排除するためにその権限を集団に格下げし,分割するとと もに,相対主義的,経験主義的な人間観を基底として人間の諸衝動の調和を通じて集団の機能化を はかり,国家機構のをかに集団を参加させて,集団相互間の調整を国家に果さしているのである。  要するにかれの政治理論には多少の欠陥はあったとしても,積極国家における大衆民主主義の病 理克服のためにの方策として集団に着目し,集団の使命と機能に重点をふヽいた理論は非常に画期的 座ことであり,現代政治学の発展に貢献するところが甚大であったと信ずる次第である。

(11)

(註) 1) 2) 3) 4) 5) 6) 7) 8) 9) j   j I j j j 3   j j j O 1   2 3   4   5 6 7   8 9 1 1   1   1   1   1 1   1   1 1 ハロルドJ.ラスキの政治理論における権威と自由について(庄野)

Harold J. Laski, Grammer of Politics, 1925, p. 15 Harold J. Laski, ibid・,p. 7

Harold J. Laski, ibid・, p. 3 Harold J. Laski, ibid・, p. 70 前出 Harold J. Laski, ibid・, p. 70 前出 Harold J. Laski, ibid・, p. 241 前出

Harold J, Laski, ibid・, p. 36 Harold J. Laski, ibid・, p. 36 前出 Harold J. Laski, ibid・, p, 131 Harold J. Laski, ibid・, p. 91

ノヽロルド・ラスキ研究 政治学研究叢書(1)横越英一外著 順草書房 1968年p. 100 Harold J. Laski, Grammer of Politics, 1925, p. 34

H arold J. Laski, ibid・, p. 34 Harold J. Laskいbid・, p. 29

ノヽロノレ・ド・ラスキ研究 政治学研究叢書(1)横越英一外著 順草書房 1968年p. 101 同  上 p. 124-125参照

同  上 p. 125-126 参照

Harold J. Laski, Grammer of Politics, 1925, p. 42 Harold J. Laski, ibid・,p. 144 前出

      (昭和46年9月8日 受理)

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参照

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