<投稿論文> ソーシャルワークの価値の体現に資す
るマインドフルネス : “Bare Attention”からの
脱却と社会正義の発露に向けて
著者
池埜 聡
雑誌名
人間福祉学研究
巻
12
号
1
ページ
103-127
発行年
2019-12-31
URL
http://hdl.handle.net/10236/00029566
1.序章 欧米社会における「マインドフルネス」への関 心は,未だ衰えることはない.医療,心理臨床, 司法,教育,ビジネスなど多領域でマインドフル ネスは取り入れられ,今もその効果は学術誌や各 種メディアによって即座にアップデートされる. 医療系データベース PubMed で“title/abstract” 内の“mindfulness”を検索すると,1998 年単年 で 5 本の論文数であったのが毎年右肩上がりで増 加し,20 年後の 2018 年単年では 1,158 本に達した. ストレス低減,うつ再発予防,不安の制御,依 存症の緩和,がん患者などの疼痛抑制,集中力増 進,睡眠改善,免疫力向上,そして老化防止など マインドフルネスによる介入効果を検証するラン ダム化比較試験,脳スキャン,そしてメタ分析研 究は増加の一途をたどる.国内でも 2010 年以降, マインドフルネスは急速に注目を集め,医療,心 理,教育分野を中心に多くの学会が主要テーマと してマインドフルネスを取り上げた.各種メディ アも「革新的なストレス対処法」としてマインド フルネスを紹介する状況が続く. 投稿論文 要約 本研究の目的は,世俗化されたマインドフルネスの現状を正視し,マインドフルネスがソーシャル ワークの価値の体現に資する方法論として発展するための方向性を明らかにすることにある.この目 的は,2 つの検討過程を通じて達成された. 第 1 検討は,ソーシャルワークの価値をめぐる近年の議論を整理し,「ケアの倫理」に依拠しながら, 社会的に排除された人々と共に在り,存在そのものを尊重する価値の重要性を提示した.そして,こ の価値の具現化のために「共に在る価値の内在化」「内省の体現化」そして「共に在る心性の涵養」と い う 3 つ の 基 本 前 提 を 抽 出 し た. 第 2 検 討 は, 現 代 社 会 に 普 及 す る「 あ る が ま ま の 注 意“ ”」タイプのマインドフルネスへの批判を整理し,マインドフルネスの由来となるテーラワー ダ(上座部)仏教のパーリ経典研究に示された の意味体系に回帰しながら,3 つの基本前提を内在 した方法としてマインドフルネスを改訂していく方向性を探索した. 今後の課題として,具体的なマインドフルネス・プログラムの設計,リスクに対する検討,そして 指導者養成の必要性について言及している. Key words:ソーシャルワーク,価値,自己決定,マインドフルネス,瞑想 人間福祉学研究,12(1):103―127,2019
ソーシャルワークの価値の体現に資する
マインドフルネス
―“
”からの脱却と社会正義の発露に向けて―
池埜 聡
関西学院大学人間福祉学部教授マインドフルネスは国家政策へも影響を及ぼ す.イギリスでは,2015 年 10 月,全党派の国会 議員グループ 115 名が実際にマインドフルネスの プログラムを経験し,80 ページに及ぶ「マイン ドフルネスにもとづくイギリス国家構築のための 調書“ ”」を議会に提
出 し た(The Mindful Initiative, 2019). こ の 調 書では,保健,教育,労働,そして司法を担う省 庁と連携しながらマインドフルネスの導入を加速 化することが提案され,具体的な施策に反映され ようとしている.
アメリカ国立衛生インタビュー調査(National Health Interview Survey: NHIS)によると,ア メリカでは 2012 年の段階で,約 930 万人(総人 口の約 4.1 %)が過去 1 年間にマインドフルネス を含む何らかの瞑想をすでに生活に取り入れてい る(Cramer et al., 2016).現在,全米約 6,000 の 小中学校でマインドフルネスが正式な科目として 導入され(Mindful School, 2019),「企業マイン ドフルネス(corporate mindfulness)」と称され る各種プログラムが,グーグルやアップルなどシ リコンバレーの巨大企業を中心に開発,発信がな されている(Gelles, 2015). 一方,ソーシャルワークに目を転じると,マイ ンドフルネスの導入や応用の議論が進んでいると はいえない.EBSCO などに含まれる心理,社会 科学系の各主要データベースは,マインドフルネ スを扱ったソーシャルワーク関連の論文が 2014 年に単年で初めて 30 本を超えた後,増加傾向に はないことを示す.これら限られた研究は,ソー シャルワーカーの養成教育やストレス管理,ある いは個人・家族を対象にしたミクロ・プラクティ スの文脈における介入レパートリーの一つとして マ イ ン ド フ ル ネ ス を 取 り 上 げ る に と ど ま る (Northcut, 2017). Debaene(2009)は,「マインドフルネスはソー シャルワークに無関係のもの」と言い切る.彼は, ソーシャルワーカーのセルフ・ケアには有効性を 認めるものの,マインドフルネスはあらゆる問題 を個人に収斂させ,ソーシャルワークが対象とす る個人を取り巻く状況や社会の構造的な問題には 何も言及しないと批判する.そして,マインドフ ルネスは「ポストモダニズムがもたらす主観主義 (subjectivist)の容認を理論的根拠に据え,結果 的に社会問題を不可視化するもの」(p. 298)と 切り捨てた. 政策立案にまで影響を及ぼすマインドフルネス は,ソーシャルワークの価値の体現に資する方法 論にはなり得ないのであろうか.Debaene が主 張するように,マインドフルネスとはまるで錠剤 のごとく個人のストレス低減や情動調整を可能に する処方箋にすぎないのであろうか.本研究の端 緒はこれらの疑問に由来する. 現代社会に広がるマインドフルネスは,インド からスリランカ,そして東南アジア諸国に根づい たテーラワーダ(上座部)仏教の文脈において, 19 世紀後半から変遷を繰り返してきた仏教瞑想 法を主にアメリカで世俗化していく中で生み出さ れた(Fronsdal, 1998; 田中,2002; Wilson, 2014). その源流をたどると,マインドフルネスは個人の 苦悩からの解放のみならず,人との慈しみに満ち た交流とコミュニティの形成に寄与する豊饒な営 みであることがわかる(Braun, 2013; Hanh, 2016). 決して個人に向けられた「幸せの処方箋」ではな かった. 日本社会は,急速な少子高齢化と一人世帯の急 増,グローバル化に伴う格差と相対的貧困層の拡 大,地方の過疎化と限界集落の孤立,そして遺伝 医療や出生前診断など生命倫理のあり方に直面し, ソーシャルワークはその価値体系の再考が迫られ ている(岩田,2008;藤井,2018;上野,2011; 埋橋・矢野,2015).2014 年,「国際ソーシャルワー カー連盟(International Federation of Social Workers: IFSW)」によって提起されたソーシャル ワークの「グローバル定義」は,欧米主導のソー シャルワークからの脱却,さらに「地域固有の知」 「多様性の尊重」そして「社会正義」の具現化の 方法を問いかける(北島,2016;三島,2017).
本稿では,数千に及ぶ分厚い実証研究に支えら れた現代のマインドフルネスをその源流に立ち 返って固有の機能を逆照射し,ソーシャルワーク の価値の再考をめぐる議論を踏まえながら両者の 融合可能性を探索する.そこには Debaene が主 張するような個人に収斂された偏狭なものではな く,人と人が支え合う美徳を心身から感受し,つ ながりを深化させていくマインドフルネスの姿を 見渡すことができる.欧米で開花したマインドフ ルネスを単に逆輸入するだけではなく,初期仏教 に由来する地域・民族固有の「智慧」としてとら え直し,ソーシャルワークの価値の涵養と体現に 寄与する方法として再構成していく.この試み は,多様で複雑化する国内の社会問題に呼応する 新たなソーシャルワークの構築に向けた意義ある ものになると判断した. 2.目的と方法 上記の問題意識にもとづき,本稿の目的は,欧 米で世俗化されたマインドフルネスの現状を正視 し,マインドフルネスがソーシャルワークの価値 の体現に資する方法論として進化するために必要 な概念的枠組み及び方法の再構築に向けた方向性 を明らかにすることにある. マインドフルネスは,指導する側のマインドフ ルネスの経験から発せられるとらわれのない平静 さや慈しみの感性が体現され,受ける側の心身と の共鳴が起きる中で深まっていく.そのため,マ インドフルネスのソーシャルワークへの融合は, まずソーシャルワーカー自身のマインドフルネス の耕しを前提とする.本稿は,全体を通じて「ソー シャルワーカーがマインドフルネスを深く経験す る」という文脈にもとづき,マインドフルネスが ソーシャルワークの価値の具現化に寄与する可能 性を探索していく. この目的を達成するために,本稿では 2 段階の 検討手順を設定する(図 1 参照). 第 1 に,ソーシャルワークの価値をめぐる近年 の議論を整理し,ソーシャルワークが依拠する新 たな価値のあり方を提示する.それは,「多様性 の尊重」や「社会正義」といった旗印に覆い隠さ れた「自立」の重圧にさらされる「声なき声」を 包摂していく意義,そして「自己決定」の価値の 問い直しにかかわる議論を含む.近年注目されて いる「ケアの倫理」(Gilligan, 1982)に根ざした価 値の再構築を目指す動きにも触れ,ソーシャルワー クの価値の再考にかかわる論点を明らかにしてい く. 第 2 に,2010 年頃から高まった個人のセラピー 道具としてのみ語られるマインドフルネスの偏狭 性に対する批判を整理し,テーラワーダ仏教の パーリ経典研究で示されたマインドフルネスの原 語である「サティ“ ” 」の意味に沿って,マイ ンドフルネス本来の役割や機能を把握する.そし て,第 1 の検討で浮かび上がったソーシャルワー クの価値に資する方法論としてマインドフルネス を改訂し,発展させていく意義とその方向性を明 らかにしていく. 第 2 検討で対象となるマインドフルネスとは, 国内外で広く採用されている定義「意図的に,あ るがままの状態で今この瞬間に注意を向けること “ ”」 (Kabat-Zinn, 1990)にもとづく.この定義は,瞑 想 法 を 中 心 と し た「 あ る が ま ま の 注 意“ ”」と総称される注意制御とそれに伴う 認知の変容によって多次元の効果をもたらす方法 論を指す.代表的な方法として,膨大な効果検証 が行われている「マインドフルネスストレス低減 法(Mindfulness-Based Stress Reduction: MBSR)」と MBSR をうつ再発予防に応用して 構 築 さ れ た「 マ イ ン ド フ ル ネ ス 認 知 療 法 ( M i n d f u l n e s s - B a s e d C o g n i t i v e T h e r a p y : MBCT)」が想定される. なお,本研究における への回帰は,無批 判に仏教瞑想を擁護するためではなく,また,そ の宗教的価値に言及する意図もない点を明記して
おきたい.極端な世俗化の末に認知制御法に行き 着いた現代のマインドフルネスを,その源泉であ る の意味体系に立ち戻って再検討すること で,認知レベルに集約されないソーシャルワーク の価値に通じる新たなマインドフルネスの姿を探 求できると考えた.そして,本研究は MBSR や MBCT など社会に普及する多様なマインドフル ネスを否定する意図もない旨ここに強調しておく. 研究方法として,批判的文献レビュー法(Levy & Ellis, 2006)の手続きに従い,書籍,学術論 文,主要新聞記事, ’ などの 仏 教 研 究 の ウ ェ ブ サ イ ト, などの主要雑誌記事,関係機関発 行のニュースレター及びウェブサイトなどの各文 献について,その論理的信頼性及び妥当性,引用 方法や数値などの正確さ,そして本研究との関連 性にもとづく精査を通じて論点整理を行い,それ ぞれの内容の比較検討を行った.これらの情報は, さらに筆者の 7 年に及ぶ日米でのマインドフルネ ス・プラクティス,サイレント・リトリート,そ して指導者養成課程の経験と犯罪被害や自然災害 などトラウマ被害を受けた人々のソーシャルワー ク実践への省察と相互往復しながら,建設的に文 献に描かれた内容の真意を掘り下げて理解するよ うに努めた. 3.第 1 検討:近年のソーシャルワークの価 値をめぐる論考 第 1 の検討である「ソーシャルワークの価値を めぐる近年の論点整理と新たな価値の動向の提 示」を行うにあたり,ここでいう「価値」とは, 「社会正義」や「多様性の尊重」といった原理を 導くような判断基準となる概念体系として位置づ
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者」には,サービスを消費する主体性が内含され る.そして,「利用者」の主体性にもとづく「自立」 を支えることに価値を見出す言説は,ソーシャル ワーク現場,そして社会福祉士や精神保健福祉士 の養成課程にも色濃く反映されている.「クライ アントの自己決定の尊重」をその一つに加える Biestek の援助関係 7 原則は,普遍的な方法論的 価値としてソーシャルワーク教育に取り上げられ ている(Biestek, 1957). グローバル化の波は市場の効率化と規制緩和を 促し,自助努力や相互扶助を標榜する一方で, 個々の自立の促進と能力主義の台頭を余儀なくさ せる.個人の尊厳が「自立」と抱き合わせて語ら れる社会情勢は,同時に「自立」から程遠い弱き 立場に置かれた人々を包摂していく価値を揺るが す.このような状況下で,ソーシャルワークの価値 の再考をめぐる議論が活発化してきたことがわかる. 3.2.価値の再考をめぐる議論 批判的文献レビューにもとづき,「個人の尊厳」 が「自立」との親和性をもって語られる状況を鑑 み,ソーシャルワークの価値を見直そうとする論 考は,①自己決定,②多様性,そして③援助関係 という 3 つの言説から明らかにすることができる. 最初の言説は,「自己決定の原則」にかかわる ものである.衣笠(2015,2018)は,「自己決定」 を尊重する価値そのものが特定の人々の排除を招 く恐れがあるとし,「自己決定」を凌駕する新た な価値の構築がソーシャルワークに必要である点 を精緻な論理展開をもとに提言した.衣笠氏は, 近代市民社会における個人の位置づけはカント哲 学と啓蒙思想に影響を受けていると見なし,自立 し,理性的判断によって自己決定が可能な個人に 高い価値を見出す社会が構築されていると述べ る.そして,ソーシャルワークにおける「自己決 定の原則」が特定の人々の排除につながる危険性 を次のように指摘する: 「主体として個人となるためには自己決定能 力を開発発露させ,もって個人の尊厳を具象 化させるという既存のソーシャルワークの価 値と原理の論理構造は,まさにそれが能力を もたざる弱い個人を自己決定できる強い個人 が淘汰してゆく機能を持つが故に,逆説的に 強い個人になれない持たざる人々を,管理 し,排除する機能すなわち社会的管理の装置 としての役割を果たすのではないか,という ことである」(衣笠,2018:13). 無論,ソーシャルワークの実践現場では,自己 決定の意志を示すことのできないクライアント, 例えば幼い子ども,認知症高齢者,あるいは重度 障害者の場合,個々の生活背景や性格特性,そし てこれまでの人生の歩みを総合的にとらえ,近親 者の判断も加味しながらその人の思いを可能な限 り汲み取る努力を積み重ねていく.しかし,衣笠 (2015)は,ソーシャルワーカーの細心の配慮を 尊重しつつも,「機能的」な対応方法で自己決定 の原則を当たり前のごとく現場で貫くだけではな く,新たな価値,原理によって自己決定の意志の 了解が難しい問題への「構造的」な解決を目指す 必要性を説く.そして,「共同性の価値」,すなわ ち共同性において弱者と呼ばれる人々の存在その ものに普遍性を見出し,互いに承認していく中で 多様な意味が社会に編み込まれていくことにソー シャルワークの価値を見出そうとする. 第 2 は,「多様性の尊重」の言説に潜む「自立」 の 助 長 と 排 除 の 構 造 を 危 惧 す る 論 考 で あ る. IFSW による「グローバル定義」でも,「多様性 の尊重」はソーシャルワークの中核原理に位置づ けられた(北島,2016).しかし,多様性の言説 には,問題を個別化し,その背景に潜む構造的な 問題を不可視化する危険性が内在される.三島 (2015)は,「多様性がキーワードになるとき,社 会変革を求める批判的な姿勢ではなく,全ての人 のニーズはそれぞれ違っているということを強調 してその社会の枠組のなかで解決の糸口を探す姿 勢がとられる」(p. 7)と述べる.そして,「多様
性の尊重」には個々のニーズや状況の違いを容認 する言説が含まれると同時に,個々の「自立」を 前提に問題解決の責任をその個人に負わせてしま う潜在性が横たわると指摘する. ソーシャルワークの隣接領域における議論とし て,桜井(2018)は障害児教育の視点から教育主 体の多様化論がもたらす障害児の排除構造を論じ ている.桜井氏は,不登校児童を対象にしたフ リースクールなどを公教育に組み込む教育の多様 化論や自由化論が,市場原理を教育現場に導入さ せる結果を招いたと指摘する.教育の市場化は, 財界や産業界の要請を含意に教育の多様化を推し 進め,しいては競争主義や能力主義の助長につな がっていく.桜井氏は,この傾向は 1980 年代か ら続くもので,多様な教育の場という社会的包摂 に通じるとされた施策が,結局は教育の合理化を もたらし,別学体制などで障害児を排除する構造 を生む結果を招いたことを憂慮する. このように「多様性」の概念には,「包摂」と 同時に「排除」を生むリスクが含まれることが懸 念される.「多様性」が問題を「個人あるいはグルー プの差」に集約してしまい,非政治化されること で社会に根ざす差別や排除の構造を見逃すリスク を生み出すことが憂慮されるのである(宮崎, 2018). 第 3 は,Margolin(1997) の 論 考 に 代 表 さ れ る「援助関係」をめぐる言説,すなわちソーシャ ルワーカーの存在そのものがクライアントを無力 化し,「自立」の議論そのものを無効化する問題 にかかわる論考である.一つは,「障害学」から 発信されるソーシャルワーカーと障害者間の「専 門家―サービス受給者」と「健常者―障害者」と いう二重関係にかかわる問題提起である(三島, 2007;横須賀・松岡,2011).ソーシャルワーカー が健常者の場合,彼らから発せられる「対等」や 「平等」といった言説そのものに,「パワー」や「支 配」の力動,そして哀れみや情けの心情が内在さ れてしまう.この非対称性の現実をいかに受け入 れ,クライアントの「尊厳」や「人権」の尊重と いう原理を支えるのか,ソーシャルワークの価値 の再構成が模索されている. 援 助 関 係 に 内 在 す る 矛 盾 に 関 連 し て, 児 島 (2015)は,現象学的アプローチから倫理構造を 読み解いた Levinas の言説を用いて人間関係にお ける「他者性」に言及した.そして,ソーシャル ワーカー(私)とクライアント(他者)の援助関 係において,ソーシャルワーカーがクライアント を知ろうとする行為には必然的に「暴力性」が伴 うと言い切る.児島氏によれば,援助関係におい て,ソーシャルワーカーは常に専門知によってク ライアントを表象化してしまい,結果的にソー シャルワーカー側にクライアントを「回収」して しまう行為が含まれるという.そして,この「暴 力性」に立ち向かうためには,科学性による読み 解きに頼るのではなく,また早急に答えを出すの でもなく,そのわからなさの前で立ちつくし,両 者の関係を表現していくことにソーシャルワーク の豊饒さが見出せると指摘する. 3.3. 新たな価値の模索:「ケアの倫理」をめぐっ て ここまで,グローバリゼーションの加速と市場 偏重に由来する「自立」可能な個人に「尊厳」を 付与する社会の風潮,「自己決定」に代わる価値 の模索,「多様性の尊重」の背後で「自立」投資 型の支援にソーシャルワークが加担することへの 危惧,そして弱き立場に置かれた人々との間で生 じる援助関係の矛盾やジレンマなど,ソーシャル ワークの価値の再考にかかわる要因について述べ てきた. これらソーシャルワークの価値をめぐる議論 は,「ケアの倫理“ ”」をその価値 体 系 に 融 合 さ せ る 試 み を 生 み 出 し た( 金 子, 2018;児島,2010,2011,2012;田川,2015).「ケ アの倫理」は,1980 年代,発達心理学の立場か ら C. Gilligan によって提唱された正義をめぐる 言説に由来する.Gilligan(1982)は,社会的経 験から道徳的な原理を即座に導き出すことのでき
る「男性の特性」のみに準じて道徳発達理論が形 成されていることに疑問を呈した.そして,道徳 的な原理を導く過程で共感や相互扶助に思いを寄 せる「女性の特性」に注目し,「ケアの倫理」の 概念的枠組みを示した. 「ケアの倫理」は,自律した個人を前提にして 普遍性や配分の公平性を追求する「正義の倫理」 と対比される(安井,2014;岡野,2014).「ケア の倫理」は,依存関係は個人が生きていくために 不可欠なものという前提に立つ.個々のアイデン ティティは他者の応答を通じて形成され,依存を 通じた相互関係に倫理の源を求める.「ケアの倫 理」は,関係の網の中で依存しながら生を営むと いう人間観を想定する.そして,一人ひとりが 個々のニーズに寄り添い,思いやり,共感し,そ して認め合うという応答責任を負っており,ケア 関係を倫理的枠組みの中核に据えるのである. 重要な点は,「ケアの倫理」は個別化された思 いやりの技法に貶められるものではなく,社会全 体に貫かれる道徳であり,倫理として位置づけら れることにある.岡野(2014)は,相互の協働と いうケアの枠組みからの孤絶が,しいては暴力的 な関係を生んでしまうと述べる.そして,「ケア の倫理」を認めない,あるいは選択肢の一つであ れば認めてもいいと考えている人が結局は権力を 握り,「ケアの倫理」を認める人たちを搾取する ことになるという.岡野氏は,「ケアの倫理」の 提唱を通じて,一人ひとりが歩んできた「来歴」 を想起しながら依存し合うことを認め,傷つきや すい一人ひとりが安心できるためにどのような責 任分担が可能なのかを政治的に考えるべきである と主張する(p. 24). 公的領域での支援機能も担うソーシャルワーク の場合,公平性にもとづく資源の配分や平等なア クセスの担保といった「正義の倫理」の遂行から 免れることはない.一方で「ケアの倫理」は,ソー シャルワークに内在される権力やパワーをめぐる 価値のジレンマに向き合い,社会が描く「自立の 美徳」から遠ざけられる人々の包摂に取り組むた めの光源となり得る.児島(2012)は,ソーシャ ルワークの価値を論考するにあたって,「正義の 倫理」と「ケアの倫理」は矛盾するものではなく, 「架橋」できるものと考える.児島氏は,資源の 公正な分配のために人々の依存を介した協働関係 を尊重し,人々の声やニーズを十分に汲み取って いく,という側面を重視する.そして,ソーシャ ルワークは「道徳的な対話」によって両倫理をつ なぎ,実践に反映していくことができると述べる. 田川(2015)は,「正義の倫理」に依拠した批判 理論にもとづくクリティカル・ソーシャルワーク, すなわち構造的な不平等を顕在化させ不平等を社 会に訴えていくだけでは,かえって対象者を犠牲 者の範疇に追いやる危険性があるという見解を示 す.田川氏は,「ケアの倫理」に言及しながら他者 とのかかわり,対話から生まれ出る意味を紡ぎな がら個人主義的価値と社会の構造的理解から生じ る価値の併存をソーシャルワークに求めている. 以上,第 1 の検討にもとづくと,ソーシャルワー クの価値の再考にかかわる議論の中心は,「自立」 の促進によって問題解決を図ろうとする社会情勢 の中で,援助関係に内在するソーシャルワーカー の支配構造を凌駕し,声を上げることすら難しい 孤絶された人々と「共に在る」ことの意味,そし てその「存在そのもの」に内在する尊さを感受し, 互いに共感し,承認し合う価値への照射であるこ とがわかる.そして,この価値が社会に浸透し,「共 に在る」という意味で満たされることに寄与する ことがソーシャルワークの課題となっていく. 思いやりや共感は,これまでソーシャルワーク 実践の基盤となる価値であった.しかし,「ケア の倫理」は互いに依存し合い,共感し,思いやる ことを社会全体に通底する倫理的枠組みに昇華さ せる.「ケアの倫理」は,人々が互いにありのま まの存在を受け入れることを通じて社会を豊潤な 意味で満たしていく価値をソーシャルワークに指 し示す.この価値は,弱き立場に置かれた人々と の「自己決定」や「ニーズ」などの概念を超えた
「つながり」の体現を支え,「正義の倫理」が発現 されていく土台となり得る. 本稿の目的に翻るならば,マインドフルネスは 「ケアの倫理」を基盤に「共に在ること」の意味 と「存在そのものへの尊重」という価値を内在し, 支配やパワー構造を超えた「つながり」への感受 性の深化に寄与することができるのか,マインド フルネスは,個人に限定された「幸せのレシピ」 にとどまらず,「声なき声」に寄り添い,「共に在 る」ことの美徳で社会が満たされることを志向す るソーシャルワークの具現化に貢献し得るのか, という問いへの応答が必要となる. 具体的には,ソーシャルワークの価値に資する 方法論としてマインドフルネスが発展していくた めに,以下の 3 つの基本前提を提起できるだろ う.それらは,1) 「“共に在る”価値の内在化」 : マインドフルネスが「自立」や「多様性」の言説 に内在する排除の論理に陥ることなく,弱き立場 に追いやられた人々と「共に在り」「存在そのも のを尊重する」価値がソーシャルワーカーに内在 されるように導くこと,2) 「内省の体現化」 :ク ライアントとの援助関係に潜在する不可視化され たパワーや支配関係を受け入れ,ソーシャルワー カーが自身のかかわりを省察し,心身を通じた内 省の体現を果たしていく道筋が組み入れられるこ と,そして 3) 「“共に在る”心性の涵養」 :マイ ンドフルネスがソーシャルワーカーにとって「共 に在り」「存在そのものを尊ぶ」心性の涵養につ ながり,「ケアの倫理」の実践に寄与する方法に なり得ると実感できること,として表される. 4.第 2 検討:ソーシャルワークの価値の具 現化に寄与するマインドフルネスの姿 第 2 の検討では,マインドフルネスは前項で抽 出された 3 つの基本前提を踏まえたソーシャル ワークの価値に資する方法論になり得るのか,そ の可能性を明らかにしていく.この課題を達成す るため,最初に現代社会に受け入れられているマ インドフルネスの定義と概要を示す.次に,2010 年頃からアメリカを中心に顕在化してきたマイン ドフルネスへの批判を整理する.最後に,マイン ドフルネスの原語である の意味体系を中心 に,テーラワーダ仏教由来のパーリ経典研究にも とづいた論考を読み解き,マインドフルネスの本 来の姿を概観する. 藤田(2014)は,「サティをマインドフルネス として成形しなおす際の精度」を問題視し,「サ ティのもつ本質的な価値やパワーを損なわないよ うに成形が適切にできているか」でマインドフル ネスの社会的価値が左右されると警鐘を鳴らす (p. 19). に回帰しながら,極端な世俗化が招 いたマインドフルネスへの批判を克服し,前項の 3 つの基本前提を兼ね備えた方法としてマインド フルネスを発展させていく道筋を浮き彫りにして いく. 4.1.マインドフルネスの定義と概要 医療や心理臨床領域に限らず,企業や教育現場 でもマインドフルネスを「意図的に,あるがまま の状態で今この瞬間に注意を向けること」と定義 する.「ありのままの注意“ ”」と 総称されるこの定義は,当初 MBSR の実証研究 を 促 す た め の 操 作 的 定 義 と し て 示 さ れ, 後 に MBCT にも反映された(Kabat-Zinn, 1990; Segal et al., 2012).MBSR 及び MBCT の膨大な効果検 証研究が科学偏重主義の欧米社会に受け入れられ るに従い,この操作的定義がそのままマインドフ ルネスを表す定義として一般化されていったと考 えられる. MBSR の創始者 J. Kabat-Zinn は 1979 年,生命 科学のエンジニアとして活躍する傍ら,禅やヴィ パッサナー瞑想,そしてヨーガの実体験を深める 中で瞑想法を慢性疼痛治療に応用することを思い ついた(Kabat-Zinn, 2011).彼は,当時のアメリ カの医療現場において宗教的なニュアンス,それ も仏教色が醸し出されれば,たちまち方法そのも のが偏見の目にさらされることを危惧した.その
ため,あらゆる仏教的な儀礼や解釈を排し,個人 の苦悩からの解放,さらに自己探求,自己実現と いった主にアメリカ白人層の個人主義的な価値に 順応するようなプログラム開発を試みた(Wilson, 2014;藤井,2017).それは,初期仏教における 瞑想法を「注意制御による認知転換」という心理 療法のパラダイムに再文脈することであった.こ のような世俗化,再文脈化を経ながら効果測定を 可能にするために「意図的に,あるがままの状態 で今この瞬間に注意を向けること」というマイン ドフルネスの操作的定義が生み出された. MBSR は 8 週間のパッケージ化されたグルー プ・プログラム(数名から 20 名程度)で,週 1 回 2 時間半程度の講習と丸 1 日かけたリトリート から構成される(Lehrhaupt & Meibert, 2017). 毎日 40 分程度の課題の遂行が求められ,その成 果が毎回講習の場で共有される.各種瞑想法(呼 吸瞑想,食べる瞑想,歩行瞑想,ボディスキャン) のプラクティスと日常生活におけるストレス対処 に向けた心理教育が主な内容となる. すべての瞑想法は,今,この瞬間の呼吸,身体 感覚,あるいは五感から感受できるものに意図的 に注意を向け,自動的に発生する思考や感情への とらわれから心理的なスペースを作ることを目指 す.瞑想法を体得することで,思い煩っている状 態に埋没してしまわない心のあり方,すなわち「脱 中心化」に伴う何事にもとらわれない心身の状態 を耕していく.そして,とらわれている自分を客 観的に見つめるもう一人の自分,「メタ認知」を 強化することによってストレスに巻き込まれない 心の状態を維持していく(池埜,2017;Segal et al., 2012).この「脱中心化」や「メタ認知の強化」 を 効 果 機 序 と す る「 あ る が ま ま の 注 意“ ”」タイプ(以下,「“ ”タ イプ」と記す)の認知制御法が,多領域で応用さ れる中で「マインドフルネス」と総称されるよう になった. 4.2.マインドフルネスへの批判 高揚するマインドフルネス・ブームの中,方法 論 の 安 易 さ や 社 会 的 な 負 の 影 響 を 訴 え る 声 が 2010 年頃から顕在化し始めた.欧米社会に浸透 しつつあるマインドフルネスへの批判は,“ ”タイプのマインドフルネスに潜んでい た「言わず語らず」の側面を顕在化させるべく, 仏教研究者やマイノリティの人々の声が中心とな る.批判は 2 つの側面から読み解くことができる. それらは:1)社会的側面への不可視化,及び 2) 倫理的配慮の欠如,として表すことができる. 4.2.1.社会的側面の不可視化 最初のマインドフルネスへの批判は,マインド フルネスがあくまでも個人を対象にした自己啓 発,情動調整,そしてストレス低減といった目的 で医療化あるいは心理化され,個人を取り巻く組 織や社会構造の問題を不可視化してしまうダイナ ミズムを生み出している点に注がれる(Joiner, 2017; Wilson, 2014).マインドフルネスが個人の 健康増進あるいは心の安寧をもたらす道具として 市場経済に組み込まれていけばいくほど,マイン ドフルネスは資本主義,新自由主義の担い手とな る.その結果,社会に根ざす構造的な格差,偏 見,差別,そして搾取といった社会的側面へのま な ざ し を 失 っ て し ま う こ と へ の 批 判 で あ る (Forbes, 2016; Walsh, 2016). 近年のマインドフルネスの商品化は目覚ましい (Gelles, 2015; 大 谷,2016).Kim(2018) に よ る「瞑想産業」に関する報告書は,アメリカにお ける 2017 年のマインドフルネス関連の収益が国 全体で 12 億ドル(約 1,320 億円),2022 年には約 20 億 8,000 万ドル(約 2,288 億円)を超える試算 を示す.同報告書は,1,000 を超えるマインドフ ル ネ ス 瞑 想 を 補 助 す る ア プ リ を 開 発 し た Headspace が 3,670 万ドル(約 4 億 370 万円)の 資金調達に成功した事実も公表している. 「マクマインドフルネス“ ”」と は,「マクドナルド化するマインドフルネス」を
意味する.これは,マインドフルネスが手軽に入 手できる簡易な健康増進のための道具として商品 化され,他のブランド商品と同じように売り買い さ れ る 様 相 を 揶 揄 す る 造 語 で あ る(Fisher, 2010).R. Purser と D. Loy は,現代社会に流布 するマインドフルネスは個人の苦悩を癒やすテク ニックにとどまり,苦悩の源泉を省みず,結果と して人々の苦悩を生み出す根を強化しているにす ぎない,と批判する(Purser & Loy, 2013). マインドフルネスに潜在する社会的側面の不可 視化は,「白人化」によっても助長されている.「個 人の解放による幸福への追求」という思考はマ ジョリティである白人系の信念体系あるいは価値 観と合致し,多くの白人層がマインドフルネスに 魅 せ ら れ て い っ た ( 大 谷 , 2 0 1 8 ; P i a c e n z a , 2014).先に挙げた NHIS によると,過去 1 年間 にマインドフルネスを代替医療や健康増進のため に用いている人種背景のうち,白人系が 82.7 % を占める(Morone et al., 2017).全人口に占める 白人系の割合(2017 年時点で白人系 60.7 %:US Census Bureau, 2019)と比較しても人種的マイ ノリティのマインドフルネス利用者全体に対する 割合は低い.マインドフルネスを生活に取り入れ ている層は白人系,中産階級以上の富裕層,大学 卒,そして女性というアメリカでの特徴が NHIS の 結 果 か ら 浮 か び 上 が る(Cramer et al., 2016, Morone et al., 2017).
Sherrell & Simmer-Brown(2017)は,白人系 を中心としたマインドフルネスの広がりは,社会 に「 構 造 的 ス ピ リ チ ュ ア ル・ バ イ パ ッ シ ン グ (Structural Spiritual Bypassing)」を生み出して いるという.「スピリチュアル・バイバッシング」 とは「スピリチュアルな考えやプラクティスを用 いて未解決の情緒的問題,トラウマ,そして未処 理の発達上の課題などに直面することを避ける傾 向」と定義される(Welwood, 2002).彼らは, 個人化,商品化,そして白人化することによって 「あるがままの注意“ ”」を促すマ インドフルネスの流布は,白人系の暗黙の特権や 偏在するパワーの存在,さらに格差,偏見,ある いは差別といった未解決の構造的な問題に対して 白人系自身が見て見ぬふりをする社会的なダイナ ミズムを強化していると主張している. 4.2.2.倫理的配慮の欠如 第 2 の批判は,マインドフルネスの倫理的側面 の欠如に向けられる.医療的な文脈では,人々は 「効果があった・なかった」あるいは「今この瞬 間に気づいた・気づけなかった」など,あくまで も個人の視点からマインドフルネスの効能を評価 す る.Leonard(2016) は,“ ” タ イプとして臨床応用されるマインドフルネスを 「価値中立的介入法 “ ” 」 (p. 33)と呼ぶ.中立化されたマインドフルネス は,結果的に倫理やモラルにもとづく振る舞いに は直接結びつかず,用い方によっては倫理を逸脱 する結果を招く恐れが指摘されている. この中立性が倫理的な問題を生む例として挙げ られるのが,アメリカ軍に導入されているマイン ドフルネス・マインド・フィットネス・トレーニ ング(Mindfulness-Based Mind Fitness Training: MMFT)である(Stanley et al., 2011).MMFT は, マインドフルネスにもとづく介入方法を用いて兵 士が戦地で経験するトラウマやバーンアウトなど のインパクトを緩和することを目的としている (Jha et al., 2017). 約 400 万 ド ル( 約 4 億 4,000 万 円 ) の 公 的 研 究 費 に も と づ い て 開 発 さ れ た MMFT には,兵士の心身を守るという意義が強 調される一方,マインドフルネスが戦争に利用さ れることへの倫理的,道義的な懸念が常に横たわ る(Walsh, 2016). 「企業マインドフルネス」も倫理的な見地から 慎重な配慮が求められるようになった(Hyland, 2015; Purser, 2018).企業にマインドフルネスを 導入するメリットとして,集中力,リーダーシッ プ,情緒的安定,ストレス対処力,課題遂行能力, そして仕事や人生への満足度などの側面における 改善が期待されている(Gelles, 2015).一例とし
て,アメリカの大手保険会社アテナ(Aetna)は, 社員全体(約 5 万名)の 1/4,約 12,500 名がマイ ンドフルネスのプログラムを受講した結果,一人 あたり 1 週間で約 62 分に相当する仕事の効率性 が増し,年間に換算すると一人あたり約 3,000 ド ル(約 33 万円)に相当する生産性の向上を果た したとする試算結果を導き出した(Kim, 2018). しかし,企業マインドフルネスの視野にあるのは 就労者個人の改善であり,問題の原因を個人に帰 結させようとするダイナミズムが見え隠れする. そこには,ストレスを生み出す企業の構造的な問 題,さらには企業を取り巻く社会システムの要因 などを不可視化してしまい,就労における個人の 自己責任論を強化してしまうことへの倫理的な問 題提起がなされている. 以上,MBSR に代表される現代に普及する“ ”タイプのマインドフルネスは,初期仏 教あるいはテーラワーダ仏教に由来する瞑想法か ら仏教色を排し,医療化あるいは個人化され,白 人層の価値体系に合致するように世俗化されて いったことがわかる.方法は中立的価値に彩ら れ,倫理的な配慮に欠く方法論として懸念が示さ れる. 第 1 の検討で抽出されたソーシャルワークの価 値の体現に資する基本前提,すなわち「“共に在る” 価値の内在化」「内省の体現化」そして「“共に在 る”心性の涵養」の視点に立脚すると,国内外に 流布する“ ”タイプのマインドフ ルネスはこれら 3 つの射程から程遠いと言わざる を得ない.中立性を前提とする方法論に「“共に 在る”価値の内在化」を求めることはできず,と らわれない心の状態を生み出す「脱中心化」は「内 省の体現化」と親和性を見出しにくくする.個人 化,商品化されるマインドフルネスには人々との つながりが見えづらく,社会的排除に直面する 人々との「“共に在る”心性の涵養」への道筋を 不可視化してしまいかねない. 4.3. への回帰にもとづくマインドフルネス の再構成に向けた指針 上述の批判を踏まえ,マインドフルネスを「“共 に在る”価値の内在化」「内省の体現化」そして「“共 に在る”心性の涵養」に資する方法に進化させる ために,“ ”タイプから一旦離れ, 世俗化される前のマインドフルネスに立ち戻って その概念体系をとらえ直してみたい.源流への回 帰から,マインドフルネスとソーシャルワークの 新たな邂逅の可能性を見出せると考えた. マインドフルネスは,東南アジア諸国において 開花したテーラワーダ(上座部)仏教の根本指針 と な る パ ー リ 経 典 に 数 多 く 登 場 す る「 サ テ ィ “ ”」の英訳であることは,国内外のマインド フルネス研究者及び実践者の間で共有されてい る.この英訳は,1900 年代初頭,イギリスの仏 教 研 究 者 で パ ー リ 語 辞 書 の 編 纂 に も 携 わ っ た Thomas Williams Rhys Davids(1843 ― 1922) が パーリ経典の翻訳に従事する中で定着させたとさ れる(Wilson, 2014).特に,パーリ経典経蔵中 部第 10 経に収められている「念処経“ ”」の文脈における の英訳が,現在のマ イ ン ド フ ル ネ ス の 起 源 と 考 え ら れ る( 大 谷, 2014). 念処経は,「四念処」,すなわち 身体(身念処), 感覚(受念処),心(心念処),そして法(法念処) の 4 段階を設定し,それぞれを丹念に観察してい く瞑想法を表したもので,いわば仏教瞑想法のマ ニ ュ ア ル 的 な 意 義 を も つ( ス マ ナ サ ー ラ, 2016).現代の“ ”タイプのマイン ドフルネスは,念処経で示された瞑想法における の意味を世俗化あるいは矮小化していく過程 で生まれた方法といえる. マインドフルネスの源泉とされる は,あり のままに分け隔てなく身体感覚,感情,考え,過 去の記憶などを感受していく心性を表す.Bodhi (2011)は, に含まれるこの特性を「澄みわた る気づき(lucid awareness)」(p. 25)と表現する. しかし,パーリ経典の文脈に照らし合わせると,
は「あるがまま」「気づき」といった意味を超 えた深遠で重層的な概念であると Bodhi は主張す る.以下, に回帰しながら,ソーシャルワー クの価値を具現化する 3 つの見地に立脚して,マ インドフルネスの再構成のあり方を検討していく. 4.3.1.「“共に在る”価値の内在化」と パ ー リ 語 の ( サ ン ス ク リ ッ ト 語 で は smrti)は名詞であり,第一義的な訳としては「記 憶(memory)」があてがわれる. の動詞形は sarati となり,「憶えている(remember)」と訳 される(Gethin, 2011). 仏教経典に立ち返って の意味を読み解く と, とは一元的にとらえられる概念ではな く,一定の「幅」を念頭において理解する必要が ある.忠実な経典の読み解きから初期仏教におけ る瞑想の本質的意義を発信する Analayo(2003, 2018)は,「今,ここ,この時に,心を向けていく」 という気づきの要素と「思い出し,心にとどめて おく(recollection)」という過去を呼び起こす能 力を想定し,これら 2 つの支点をつなぐ射程から をとらえる必要性を強調する. の「思い出す」という側面は,単に過去を 思い出すという意味ではなく,過去の記憶が現在 にうまく作用するようなバランスの取れた精神活 動を表す.すなわち,sati とは「『今』に目覚め ることで,あらゆる言動が心に刻まれ,後に容易 に思い出しやすくなる」作用を意味する.換言す ると,今,この瞬間に受けた情報と過去から思い 出す情報との間に有機的なつながりをもたらす心 のあり方を と呼ぶのである(Analayo, 2003). 例えば呼吸瞑想の場合,呼吸に伴う息の出入り や身体の動きに意識を集中し,注意が呼吸から離 れたら,離れたことに気づき,また優しく呼吸に 意識を戻していくようにする.この繰り返しは, 今,この瞬間の呼吸に「あるがままの注意」を向 けると同時に,呼吸への注意を「忘れないで憶え ている」こと,そして注意が呼吸から離れたとき, 注意を呼吸に戻すことを「思い出す」ことが求め られる.この「あるがままの注意」「憶えている」, そして「思い出す」という一連の心的作用を有機 的にバランスよく行うことが の本質といえ る.先に示した“ ”タイプのマイ ンドフルネスでは,「憶えている」「思い出す」と いう心のあり方は重要視されず,「今,この瞬間」 に認知をシフトさせることのみが強調されている. さらにマインドフルネスの源泉である に は,呼吸に注意を向けることを思い出す,憶えて いるというプラクティカルなレベルから,過去を 捨て去るのではなく,また執着するのでもなく, 今,この瞬間の気づきを深めていく「動機」や「目 的」を思い出しながら心にとどめ,日々を過ごし ていくという生き方そのものへの示唆が含まれて いる(Analayo, 2003;藤田,2014). この の意味に立ち返ると,自分はなぜマ インドフルネスに取り組むのか,その背景にある ソーシャルワーカーとしてこの仕事を選んだ初心 ともいえる「動機」,先述のソーシャルワークの 価値に照らし合わせるならば「声なき声」の存在 を尊び,「共に在る」豊穣さを社会に伝えようと する「使命感」を心にとどめて,繰り返し思い出 すような倫理に根ざした心のあり方の涵養がマイ ンドフルネスの本来の役割であることがわかる. それは,単に頭で理解し,認知レベルで思い出す ような態度とは根本的に異なる.ソーシャルワー カーとしての使命感を思い出し,忘れないように しようとする「意志」を,今この瞬間の身体感覚, 感情,思考の移り変わりへの「明晰な気づき」に 編み込むように繰り返し想起していくようなプラ クティスが想定される. 具体的には,次の 3 つの段階からプラクティス を構成していくことが考えられる.第 1 段階とし て,今,この瞬間に澄みわたる気づきを向ける瞑 想の中で,なぜこの仕事に取り組むのか,その価 値や倫理を想起しながら身体感覚の変化や緊張を 受けとめ,違和感を覚える身体感覚とその移り変 わりをあるがままに追跡していく.第 2 段階とし て,身体の違和感から発せられる感情,思い,あ
るいは記憶を瞑想において丁寧に観察しながら, 価値観におけるジレンマや葛藤への気づきを指導 者や参加者と共有していく.場合によっては,記 述やイメージの描写などを用いて外在化し,安心 の輪のなかで分かち合う工夫を施していく.そし て第 3 段階として,価値と身体感覚が一致してい くようにソーシャルワーカーを導くような信頼にも とづく語りの場や後述する自他を慈しむ瞑想法の 取り入れなどを行っていく. この文脈でとらえるならば,マインドフルネスは 個人にとどまらず,人との関係の中で深化してい くものと考えられる.関係性の中で価値を心身で 感受する新たなマインドフルネスのあり方は,仕 事に取り組む意図の体現化を生み,具体的な行動 が迷いなく内発的に生まれていく土壌になると考 えられる. 4.3.2.「内省の体現化」と の 働 き の 中 に,「 防 御 機 能(protective function)」と「内省機能(prospective function)」 がパーリ経典に詳述されていることを指摘する研 究 者 は 少 な く な い(Analayo, 2003; Kuan, 2007; Stanley, 2015).「防御機能」とは,不健全な考え や衝動への執着,そして倫理に反する行動をスク リーニングし,遠ざける役割を意味する. は,経典では「六根」と呼ばれる感覚器官(眼, 耳,鼻,舌,身体,意)をドアに見立て,そのド アから入ってくるものに注意を向けながら,その 中身を見極め,不健全な誘惑,衝動,渇愛,妄想 などに十分に気づいて自動的に反応することを防 ぐ「門番」のような働きを備えると考えられてい る(Analayo, 2003; Bodhi, 2011;藤田,2014). 「内省機能」は,「防御機能」では防ぎきれなかっ た過去の未解決の葛藤やトラウマの想起に対する 過剰な回避や執着を避け,過去の経験を探索しな がら今の自分の状態への気づきを深めていく作用 を表す(Kuan, 2007). は,過去の痛みに由 来する心身のゆらぎに気づき,抗わずに正しく認 識し,対処に向けた智慧を涵養するような瞑想の 基本的態度を表す. これらの役割からも, は中立的なものでは なく,倫理的な心性に根ざしていることがわか る.実際,倫理に根ざした日常生活での修行シス テムである「八正道」―正見,正思惟,正語,正 業,正命,正精進,正念,正定のうち,7 番目の 「 正 念 」( パ ー リ 語 で“ ”, 英 語 で は “ ”)の機能のみを抜き出し,倫 理性を薄めて成立したものが現代のマインドフル ネスといわれる(大谷,2018). ただし, はあらかじめ定められた倫理的・ 規範的な項目を守る,といった頭で理解させるよ うな心のあり方を意味しない. は,心が自動 操縦のような状態にならず,倫理に反することや 過去のトラウマに執着してしまう心の状態への気 づきを表す.そして,その状態から離れ,心理的 なスペースを築き,身体感覚の移り変わりを感受 しながら冷静に対処する姿勢を生み出していく心 のあり方に通じていく(井上・大谷,2018). ソーシャルワーカーは,自分の仕事の価値,力 量,あるいは適性にまつわる疑念やジレンマに揺 さぶられながら,日々対応を余儀なくされてい る.さらに,援助関係に影響を及ぼすと考えられ るクライアントを支配しようとする衝動,専門家 としての権威への固執,まわりの評価への執着, あるいは差別的心情が無意識のうちに表出されて しまうこともあるだろう. に立ち返ると,ソーシャルワーカーにとっ て最も安全と思われる感覚(呼吸,音,あるいは 特定の部位の皮膚感覚など)を安全基地としなが ら,衝動や固執,あるいは侵襲性のある苦悩や葛 藤を優しく迎え入れ,それらを無理やり手放すこ となく,無理のない範囲でそのときの身体感覚や 感情の起伏,変容,そして無常さに緩やかな気づ きを向けていくようなマインドフルネスのあり方 を考えていく必要がある.この体現化された内省 の営みは,ネガティブな思考や感情に気づいては 手放すことで「とらわれない心」を構築しようと する“ ”タイプのマインドフルネ
スでは強調されない. は,生起する不健全な 思考やトラウマを自動的に手放すのではなく,一 定の心理的な距離を取りながら,心身の反応への 気づきを耕し,結果的に自己への深い洞察と翻弄 されない心の状態を涵養させていくマインドフル ネスの姿を指し示す. の「防御」及び「内省」の機能は,思考レ ベルで行われる「自己覚知」とは異なる. が もつ両機能によって,「身体智」ともいわれる身 体にとどまる感情記憶を安全な状態で想起し,無 意識の偏見,衝動そして葛藤への気づきから対処 していくための智慧を生み出す.過去の記憶は, 五感から大脳辺縁系(特に海馬)を通じて大脳に とどまるだけではなく,全身に張り巡らされた神 経網にも潜在記憶として蓄積されていく(Porges, 2011).特に自責の念や恥辱感を伴うようなトラ ウマ経験は,過去の記憶として処理されず,生々 しい感覚のまま身体に記憶されてしまうリスクが 高い(Levine, 2010). 身体にとどまる感情記憶の対処にかかわる智慧 の創出には,ここでも一人ではなく,指導者や仲 間の存在が不可欠となる.信頼が熟成されるよう にグループが導かれるような実践スタイル,仏教 経典を参照するならば「サンガ( )」の形成 が必要となるだろう. の両機能よる内省を通じ て得られた心身の統合されたソーシャルワーカー の姿は,クライアントとの信頼関係の深まりと他職 種との協働の中で反響しながら,共に在ること, 存在そのものの大切さへの体現につながっていく と考えられる. 4.3.3.「“共に在る”心性の涵養」と 4.3.3.1.「融合感」を醸成する 「念処経“ ”」における念処 (satipatthana)とは, と upatthana が合わさっ て生まれたものと解釈されている(井上・大谷, 2018).upatthana とは,「付き添うこと」あるい は「そばにとどまること」という意味がある.パー リ経典に精通する井上ウィマラ氏は,upatthana は,upa(近くに)tthana(立つ)という 2 つの 動詞に由来するとし,その意味を「世話」「ケア」 という意味に収斂できるという(井上・大谷, 2018).井上氏はパーリ経典の注釈書をもとに, 「 と upatthana の結びつけ方で,マインドフ ルネスこそが世話すること,ケアすることである」 (p. 62)という解釈が成り立つと述べている.換 言すると, は upatthana に込められた「そば にとどまる」「ケアする」という含意と合わさる ことで,「ケアの倫理」に通じる倫理的な態度, 寛容さ,そして慈しみの心性を生み出すものとし て理解される.この点においても, は中立的 価値ではなく,倫理に根ざした心のあり方である ことがわかる. また念処経には,四念処それぞれの段階におい て,自分,他人,そして自他の関係の 3 つの視点 を踏まえて観察していくように指示されている (スマナサーラ,2016).例えば身体を観察する瞑 想(身念処)の場合,自分の呼吸,他人の呼吸, そして自他の呼吸をあるがままに見つめ,無常の 有様を感受していく.井上氏は,これら 3 つの視 点を「主観的観察,客観的観察,間主観的観察」 と表現する(井上・大谷,2018:338).他者,そ して人間関係への気づきをも包含する 本来 の意味に立ち返れば,マインドフルネスは個人の 内的な気づきや解放に限定されるものではないこ とがわかる. 実 際,「 関 係 性 に お け る マ イ ン ド フ ル ネ ス (Relational Mindfulness: RM)」は,対人関係に おける自他の言語的,非言語的側面に意図的な気 づきを向け,注意が他に逸れても,逸れたことに 気づき,また相手のメッセージあるいは自分の身 体感覚などコミュニケーションの構成要素に注意 を戻していく瞑想法として開発されている(池 埜・内田,2019;Tull, 2018).初期仏教の文脈で も 語 ら れ て い る RM の 要 素 は MBSR や MBCT では取り入れられず,現時点では実証研究の対象 になり得ていない.マインドフルネスを個人の内 的な気づきに矮小化したのは欧米における世俗化
によるものであり, が包含する豊潤な関係性 を深める機能をマインドフルネスの方法論に統合 させていく意義は高い. 一方,RM に限定せずとも, バランスの取れた 瞑想を継続することで,あらゆる物事が移り変 わっていくことへの気づき,そしてまわりの支え によって自分が存在していることへの洞察が生ま れ る こ と が 報 告 さ れ て い る(Farb et al., 2007; Kornfield, 2008; Smalley & Winston, 2010).例え ば呼吸瞑想では,呼吸に注意を向けていても心は すぐに過去の記憶,空想,そして予期せぬ感情で 満たされてしまうことに気づく.呼吸瞑想を続け る中で,すべての呼吸が同じではなく,あらゆる 事象は変化し続けること,そして自分が自分をコ ントロールしている,あるいはコントロールでき るという信念体系が緩み,自己の不完全さへの気 づきが耕される.歩く瞑想は,歩くという行為に 伴う身体感覚に意識を向けることで,意志とは関 係なく身体が常に変化しながら自律的に感覚を統 合し,歩くという行為を紡ぎ出している現実への 気づきをもたらす.歩行への客観的な観察は,や がて「私が歩いている」という意識から,ただ「歩 いている」という感性を生み出していく. 「私が」という主語への固執や自己の所有感が 緩やかにほどけることで,まわりとの関係性に対 する意識も変容していく.呼吸瞑想では,まわり の空気,温度,音などを肌感覚で感じ取り,自分 とまわりとの連続性を実感するようになる.歩く 瞑想では,「地面あるいは床を踏みしめている」 という意識から「地面や床と共に在る」,あるい は「支えられている」という感覚が生じてくる. このように, に根ざした瞑想法は,自分とま わりの連続性を体感とともに感受し,対象を良い 悪い,好き・嫌いといった二元論でジャッジせず ありのままを受容できるように人々を導く.そし て,つながり(inter-connectedness),支え合い (interdependence), あ る い は 共 に 在 る(inter-being)などの身体感覚を伴うスピリチュアルな 感 性 の 涵 養 を 促 す(Hanh, 1987, 2016).“ ”タイプのマインドフルネスでは,この 感性は十分に言及されず,されたとしても個人の 孤立からの解放や幸福感という文脈で語られる. そのため,他者との関係性の深化や社会的価値の 視点からこの融合感がとらえられることは少ない (Nilsson & Kazemi, 2016).
この体現化されたまわりとの融合感や共生感 は,藤井(2018)のいう「ここにいる人の苦しみは, 私がもつ苦しみだったかもしれない」「私のもつ 価値観が作り出したこの社会が,この人を苦しめ ているのではないか」(p. 52)といった社会福祉 の心性を深める可能性を秘める.また には, 藤井氏が述べる「私達はどの人にも同じようにい のちが与えられ,それを受け取って生きている― このような根源的な視点に立つなら,人間がここ に在ることに何の違いも見当たらない」(p. 51) という社会福祉の「共に在る」人間観を心身から 感受し,内在化していく支えとなり得る可能性を 見出すことができる. さらに がもたらす「共に在る」心性は,児 島(2015)が論考する E. Levinas の他者性を表す メタファーとしての「顔」の感受,すなわち言葉 以前の他者の呼びかけを聞き取り,他者の苦難を まざまざと感じ取る感性に通じるものともいえる. 最終的に, は「私」が「他者」を表象化して 回収するという「暴力性」,あるいはソーシャルワー カーとクライアント間の援助関係に侵襲する支配 やパワー構造を超えた「私たち」という情性, Levinas の言う「慈愛」に通じていくと推察される. 4.3.3.2.「慈しみ」を発露させる ここでいう「慈愛」は,パーリ経典では「慈 (metta)」に相応する概念と近い.「慈」はまわ りの人々を大切にしたいと願う心性としてパーリ 経典の「慈経“ ”」に描かれる.Kuan (2007)は, は繰り返し自分,他者,そして 自他の今を観察し,自分がつながりの中で支えら れながら生きていることの体感から「慈しみ」と いう智慧を創出し,概念化していく機能をもつと