旧薩摩藩における加世田麓・垂水麓・清水麓・国分麓・
敷根麓の武家住宅に関する研究
著者
土田 充義, 揚村 固
雑誌名
鹿児島大学工学部研究報告
巻
35
ページ
101-125
別言語のタイトル
A Study on Buke House of SatsumaHan Fumotos
-Kaseda Fumoto, Tarumizu Fumoto, Kiyomizu
Fumoto, Kokubu Fumoto and Shikine Fumoto.
旧薩摩藩における加世田麓・垂水麓・清水麓・国分麓・
敷根麓の武家住宅に関する研究
著者
土田 充義, 揚村 固
雑誌名
鹿児島大学工学部研究報告
巻
35
ページ
101-125
別言語のタイトル
A Study on Buke House of SatsumaHan Fumotos
-Kaseda Fumoto, Tarumizu Fumoto, Kiyomizu
Fumoto, Kokubu Fumoto and Shikine Fumoto.
旧薩摩藩における加世田麓・垂水麓・清水麓・国分麓・敷根麓の武家住宅に関する研究
土 田 充 義 ・ 揚 村 固
(受理平成5年5月31日)AStudyonBukeHouseofSatsuma‐HanFumotos‐KasedaFumoto,TarumizuFumoto,
KiyomizuFumoto,KokubuFumotoandShikineFumoto.
MitsuyoshiTSUCHIDAandKatamuAGEMURA FromthelaterMiddleAgestotheearlyEdoera‐thelaterpartofsixteencentury,wascon‐ structedthecastlewhitchthegreatestoneinSatsuma-Han・Itscityplanningwasregularona largescale・ InotherareaswerelotsofBuke's(Samurai's)settlementalloverSatsuma-Han・Thesettlement wascalledFumotowhitchconsistsofBuke,shouses,thepublicofficeandopenspaceinitsfi・ont・ Fumoto,splanningwascharacterizedbyagreatvarietyofthemainrouteandStreets、Therewere Buke,shousebuiltalongthemainrouteandsomestreets,andthesedrawingroomslocatedinthe nearestfrontofthemainrouteandsomestreets・ ThegreatFumoto'snumberwasll3areasintheEdoera・SeventeenBuke,shouseswereex‐ aminedinfiveFumotos‐KasedaFumoto,TarumizuFumoto,ShimizuFumoto,KokubuFumoto, ShikineFumoto・ Ontheresult,thedrawingroomwasopenedintwosidesinwhichtherewereverandasand thecenterbeamofroofwassupportedinthelengthof4924meters(2.5ke、). ThesearethoughttheprinciplefbrmofBuke'shouses・ThefOrmwasconsistedoftwotypes・OnetypeofBuke,shousewasconsideredthattheridgebeamwasmadearightanglewiththe
streetandanothertypemaintainedtheridgebeaminparauelwiththestreet. 1 . は じ め に 旧薩摩藩の武家住宅に関する一連の調査を昭和63年 以来行なってきた。それらの成果はその都度報告書にまとめたり,縦’日本建築学会で発表したりした。#'A2
武家住宅は街路に面し門を構え,その門は1棟(出水 麓の冠木門)を除くとすべてが腕木門であった。腕木 門 と い っ て も 控 柱 を 付 け る 場 合 と 付 け な い 場 合 が あ り,また屋根を2段にする場合としない場合があって, 変化に富んでいるが,一般には屋根を二段にして,控 柱付の門であった。控柱を付けることで,軒を深くで きたし,屋根を二段にすることで棟を高くすることができた。注3門を入ると目隠し(知覧麓では扉風岩と
称す)が立ち,内部が見えない。目隠しを付けない武 家住宅は国境を守る出水麓,高岡麓,志布志麓に多かつ た。また生活をする人々に直接つながる井戸や便所が, 主屋の前方にあることや庭・座敷が街路側にあること から,街路との関係で武家住宅を解明したいと試みたこともあった。注4このことは重要な視点であるが,
今回は武家住宅の基本形式はいったいどういうもので あるのかに焦点を当てて記した。武家住宅において何 が重要なのかを明らかにしておきたいためでもある。 2.武家住宅の基本形式 現在まで実測調査した武家住宅を基にその基本形式 を考えてみたい。そのまえに武家住宅の特徴をあげる と,その第1は座敷・縁側・庭が一体となっているこ とである。一体となるということは必ず,3者が現存 し,それらが密接に結びついていることを意味する。 第2は主屋の入口が1箇所又は2箇所設けられている102 鹿 児 島 大 学 工 学 部 研 究 報 告 第 3 5 号 ( 1 9 9 3 ) ことである。しかし玄関として飾り立てることではな く,縁側より一段低く踏み段を設ける程度であった。 それは外部と内部の仕切が障子程度で,有機的結合を 示していることを意味している。第3は寝室が鎖閉的 で,狭いことである。以上のことは『おもて』で,そ れに付随して『なかえ』がある。この『なかえ』が『お もて』とどのように接続していたかを究めることが次 に重要になるが,ほとんどの住宅は『なかえ』が改造 されているため,これらからその接続の様子を捉える ことはなかなか難しい。 3つの特徴を基に基本形式を考えてみたい。その第 1の特徴から座敷の二方に縁が廻っている方が古い形 式,つまり基本形式と考えうる。その理由は庭と結び つく面積を広く保持している方がより重要であると考 えられるからである。つまり外部との接続する部分を 広くすることで一体化を深めていると解釈できること による。次に入口についてであるが,それは目だたな く素朴で,玄関の間は必ず設け,それが広い。これら が古い形式といえる。その理由は玄関が入口に接し, そこでは座敷へ入る準備をし,また主人と対面できる 場であって,現在の玄関とは異なり,重要な役割を果 していたといえるからである。第3の特徴で狭い寝室 がどこに設けられたか,またその狭い部屋が実際に寝 室として使われたかどうか。現在は衣類等の物を収納 する部屋としている。その部屋は「ざしき」の背後に 設けられている。「さじき」との行き来ができない方 が古い形式で,入口が「ざしき」に接しておらず,入 口は背後の部屋に設けられている。以上のことを簡単 にまとめると以下の通り図式化できる。 特 徴 基 本 形 式 第1「ざしき」+縁側十庭(開放的)→「ざしき」の 縁側が二方向に設けられる。 第2「げんかん」+踏み壇十外部(開放的)→「げん かん」が広い 第3「なんど」(閉鎖的)→「ざしき」に接しながら 入口がない。 3.加世田麓の武家住宅の基本形式 加世田麓の武家住宅の7棟(表−1)を平成4年7 月29日から31日まで3日間で実測調査を行ない,その 結果指宿家住宅と松山家住宅が最も古い形式をとどめ ていることが分かった。その古い形式とはどういうこ とかといえば次の通りに要約できる。 ①「ざしき」は10畳で広く,庭と二方向で接し,そ こに外縁がある。 ②「つぎのま」はなく,「ざしき」は「げんかん」 に接し,その「げんかん」は「つぎのま」の役割を果 している。 ③寝室にあたる「こざ」は6畳で比較的狭く,「ざ しき」から往来ができなく,閉鎖的である。 ④身舎の梁間は2間半程で納めている。 何故古い形式の「ざしき」は二方向に外縁を設ける か。それは外気と接する部分を大にするためであるが, 必ずしも南側に向けられてはいない。街路と主屋の棟 を直角に合せ,街路と主屋の間に庭を設けることを設 計理念としていたため,南側を重要視して主屋を配置 することができない。つまり街路とそれに接した敷地 によって配置が決まるので選択の余地が少ないことに 起因して,「ざしき」を南側に設けることができなかっ た。 次に「げんかん」についてであるが,入口に接して いることから通過する場,つまり,「ざしき」へ入る場, にざ」へ入る場としての役割を意味する。他の麓の 武家住宅から類推しうるが,大正末から昭和にかけて 表 一 l 加 世 田 麓 の 武 家 住 宅 一 覧 P ・ 側 185(、 くhO土 ■■ 鮒太郎ll800f ロ■1卜 過 催 l ツ T 百 コ ご 亘 硝 l788z 明7台20年鴎 の 9 1 寺 徴 r l 武 出 1 7 8 8 8 ■■ ・・r,後再 ロ。181F
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だんだん「げんかん」が狭くなって,通過する場だけ に使われていることになる。つまり機能が分化するこ とにもとづいている。古い形式の「げんかん」は広く, そこには3つの役割があった。 (イ)通過する場 (ロ)神棚や仏壇を安置する場 (ハ)「つぎのま」としての場 そのうち(ハリ「つぎのま」としての場が最も大切であっ ただろう。指宿家住宅では「ざしき」を「一のおもて」 と称し,「げんかん」を「二のおもて」と称していた ことからも推定しうる。それが少し時代が下がると「つ ぎのま」が設けられ,「げんかん」は6畳間程に狭く なる。それは(イ)通過する場への移行を示している。 「こざ」についてであるが,古い形式の武家住宅は 身舎の梁間が狭く,松山家住宅は2間半であった。指 宿家住宅は復元で身舎の梁間を3間半にしたが,その 3間半のうち更に半間か1間は下屋になって,背面は 軒高が低かったかもしれない。ところが,宮原家住宅 や大島家住宅は「つぎのま」が付加したために身舎の 梁間は約3間半になる。3間半になると「こざ」は「ざ しき」に接し,「ざしき」から「こざ」へ行ける。ま た「げんかん」からも入ることができるので閉鎖的な 「こざ」から開放的な「こざ」へ変化することが分かる。 以上のことを略図で変遷過程をたどれば次の通りに なる(図−1)。 4.明治20年頃 1 . ′ 江 戸 (18世紀末) 間 5 2 丁︲1111土;
ざしき (10) ▲ な か え (15)、
霧
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2 . 江 戸 (1800年) r一一一一一一ー 間 7111︲Mllll上 間 T︲INlll上 どま 全 二 二 − . 一 丁 − − = = = = ▲ 土田・揚村:旧薩摩藩における加世田麓・垂水麓・清水麓・国分麓・敷根麓の武家住宅に関する研究103 ざしき (10) げ ん か ん (15) 3 . 江 戸 (末期) 009 間 5 7111旧lllj 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 。 ま つ ぎ の ま (7.5)f
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図 − 1 加 世 田 麓 の 武 家 住 宅 の 変 遷 過 程 ( 模 式 図 ) ざしき (8) つぎのま (6) ▲ ▲ − ▲ illlIlIIIllj 一 一 一 一 一 一 llllllllllll﹄104 鹿 児 島 大 学 工 学 部 研 究 報 告 第 3 5 号 ( 1 9 9 3 ) 4.垂水麓の武家住宅の基本形式 垂水麓の武家住宅6棟(表−2)を平成4年8月4. 5日の2日間で行ない,その結果高野家住宅や川上家 住宅に基本形式的な部分を認めることができる。その 基本形式で重要なことを次のようにまとめることがで きる。 ①「ざしき」は一方と半分が庭に接し,外縁が廻っ ている。 ②「つぎのま」がなく,「げんかん」と「ざしき」 が間口を同じにして接し,トコと「げんかん」が 対面している。そのために「げんかん」は「つぎ のま」としての役割を果し,つづき間として使う ことができる。 ③「ざしき」の背後の部屋(「こざ」や「なんど」 に相当する)は閉鎖的で,「ざしき」から入れなかっ た。 ④身舎の梁間は2間半か3間半程であった。 これらの特徴のうちで,トコと入口が対面し,トコ の横縁側寄りに障子を入れて開放的にしていることが 最も重要と思われる。その開放的な特徴は「ざしき」 と「げんかん」を緊密につないで一体化し,「げんかん」 の縁側を加えることで強化されている。年代が下ると 「ざしき」と「げんかん」の間に「つぎのま」が設け られる。また,トコの横にあった障子の位置にトコが 移り,そのトコの位置に小ドコが入り,縁側の一方が 塞がれる。更に「つぎのま」が設けられ,それに折れ て「げんかん」が接する間取りも出現する。 以上のことを略図で変遷過程をたどれば次の通りに なる(図−2)。この変遷過程は垂水麓の遺構から順 に列べながら考察した結果で,武家住宅を一般化した 変遷過程ではない。 5.国分麓・敷根麓・清水麓の武家住宅の基 本 形 式 敷根村と清水村は昭和29年に,国分村に合併され, 30年に国分市が誕生した。各村の中心をなす麓に武家 住宅があった。それらの麓に遣る武家住宅は以外に少 なく,国分麓2棟,敷根麓1棟,清水麓1棟(表−3) であった。それらを平成4年8月8日から10日までの 3 日 間 で 実 測 調 査 を 行 な い , そ の 結 果 を 発 表 し
た。i1i2その発表で敷根麓の武家住宅が古い形式をと
表 一 2 加 世 田 麓 の 武 家 住 宅 一 覧 ゴーf・’明和年間(1764 堀11台30土 -H不田2302 到 掻 | 昭 和 初 野 -H不田ZZ4L ごH不m2Z8卜 明 治 中 野 二口qユH1 の 特 徴 | 出 不 田 2 2 8 表 − 3 国 分 麓 ・ 敷 根 麓 ・ 清 水 麓 の 武 家 住 宅 一 覧 ヨH王イードコ舌亘脂 〃 羽YFfZO型 ■■ニロロ 二P奥1丁目8−29 今 中 期 丑 国 要 ’ 1 8 世 リ 鋤 根 ロげ ん か ん (6) ▲ どめていることを指摘し,その後の変遷過程を清水麓 や国分麓の武家住宅から推察しえた。その変遷過程を 略平面図でたどりながら説明していきたい(図−3)。 ①の段階は前田家住宅で江戸後期の復元図を簡略化 している。②の段階は清水麓の木佐木家住宅である。. ③の段階は国分麓の牧元家住宅であり,④の段階は国 分麓の楠元家住宅である。④の段階は垂水麓の武家住 宅でも見られる。 ①前田家住宅は入口が主玄関と玄関の二つがあり, 「ざしき」奥の「なんど」は狭く,閉鎖的であり,身 舎の梁間は2間半で,背面を下屋にしている。 ②木佐木家住宅になると基本形式は前田家住宅と同 じであるが,身舎の梁間が半間広くなって3間梁間と 考えられる。 ③牧元家住宅は身舎の梁間は4間になり,トコが移 動して,「なんど」「ざしき」とが襖で仕切られる。梁 間4間になると「なんど」は広くなり,開放的になる。 ④楠元家住宅は牧元家住宅が発展した形式で,「つ ぎのま」が「ざしき」と「げんかんのま」の間に設け られ,六間取りになっている。身舎の梁間は4間であ る。
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1 . 江 戸 (18世紀末) 明治期に改造あり召
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3.明治30年代ドー竺亜L−吋
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2 . 江 戸 (末期) 4 . 明 治 (中期)#│聯
ざ| ( 1 ざしき (10) こぐ ざ⑳ 一一一ー−−−1 1 I なかえI 鳶 の ざ 土田・揚村:旧薩摩藩における加世田麓・垂水麓・清水麓・国分麓・敷根麓の武家住宅に関する研究105卓
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l ▲ 0 1 | ト ー 1 図−2垂水麓の武家住宅の変遷過程(模式図)106
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2 . 江 戸 (末期) 鹿 児 島 大 学 工 学 部 研 究 報 告 第 3 5 号 ( 1 9 9 3 )ド ー 計
1 . 江 戸 (18世紀) 4 . 明 治 (中期)吟
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3 . 明 治 (中期) □可
ざしき (8) なんど(3) け ん か ん (8) し 更に垂水麓の③の段階に進むと「なんど」は柱間2 問とも「ざしき」と襖で仕切られ,開放的になる。こ の開放‘性が進展することによって此度は「ざしき」が 一面しか庭と接しないことになり,以前の開放‘性が退 化したことを示している。にもかかわらず③の段階は 知覧麓・出水麓でも見られるし,整った形式として評 価されるであろう。 6.各麓の武家住宅の遺構 各麓の武家住宅の間取りは種々の形をしている。そ の種々の間取りを捉えるために,基本形式がどのよう な間取りかに注目し,その後にどう変化するかを考え ながら考察を述べた。今度はその変遷過程で,各武家 住宅の遺構を位置ずけながら間取りについて述べてい くことにする。その時の視点は3つある。その3点は 次の通りである。 ①「ざしき」に付加したトコ・小ドコ・縁側に注目 すること。 ②「げんかん」と「ざしき」の結合の仕方を考える こと。 ③閉鎖的で狭い「こざ」(なんど)が広く,開放的 になる。このことと身舎の梁間が広くなることの 関連を追求すること。 これら3点に焦点をあてて,各麓の武家住宅を述べて いくことにする。 なかえE 」 − 可
図−3国分麓・敷根麓・清水麓の武家住宅の 変遷過程(模式図) U O O l O I I I O O I L'Ⅱ
し 01l11IIIIIlIIIlj なかえ 一 一 一 llllllllllOllOI﹄ ▲ ︲I︲︲︲︲︲︲︲︲● <□
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こざ (6) といのま F r 宗 ざしき (8) つぎのま (8) げんかん (8) 8昼土田.揚村:旧薩摩藩における加IH佃麓.垂水麓.清水麓・国分麓・敷根麓の武家住宅に関する研究107 写 真 − 1 宮 原 家 住 宅 外 観 イ . 加 世 田 麓 の 武 家 住 宅 7 棟 ●1.宮原家住宅(図−4.5,写真−1∼4) 宮原家住宅は片浦から船で運ばれて,再建され,道 路拡張工事で再び移動されたという。片浦では野間権 現の大宮司の住宅であったと伝える。門が街路に面し て建ち,奥に倉がある。倉の中央に間仕切を入れて汁 器・長持を入れる所と米倉とに分けている。更に米倉 から前方へ倉を突き+Hし,そこをみそ倉にしていた。 以前は広々とした庭があったが,道路拡張で縮小さ れた。当住宅は大きく立派であり,他からの移築であ るにしても大島家住宅(図−6.7,写真−5∼8) と類似して,加世田麓の武家住宅としてもおかしくな い。宮原家住宅の建立年代が分からないが,江戸時代 に建てられたことは確かだろう。大鳥家住宅は1850年 (嘉永3)に建てられたと伝えられている。宮原家住 宅もこの頃に建てられたのかもしれない。 一 ’
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a,”’2",|z,71’2"f’ユ垢91飴5 1 回 匪 回 I 一 一 一 一 一 一 一 一 一 面一 一 一 一 一 一 一 = − − − 1 図 - − 5 宮 原 家 住 宅 復 元 平 面 図 写 真 − 4 宮 原 家 住 宅 小 屋 組一声=一議
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写 真 − 7 大 島 家 住 宅 ト コ と 小 ド コ lO8 一 サ ー ー ー ー ー ー − − − − − − ●2.大島家住宅(図−6.7,写真−5∼8) 大島家住宅は先に述べた通り,1850年(嘉永3)建 立と伝えられ,「さじき」は8畳で,トコ・小ドコが 一方に並び,縁側は一方にしかないが,「つぎのま」 と一体にすれば二方に縁側が付いていることになる。 「げんかん」は「つぎのま」の機能がなくなるために, 狭くなり,通過の場としての役割を果している。「こざ」 は4,冊半に復元できる。それに開放的になっている。 雌 ん ど 写 真 − 5 大 島 家 住 宅 外 観 ●3.指宿家住宅(Ⅸ1−8.9,写真−9∼12) 指宿家住宅は建立年代を推定しうる貴重な武家住宅 で,江戸期(1800年)に建てられた。「ざしき」は10 畳で「おくこざ」側にトコ・小ドコがあり,縁側が二 方向にある。「げんかん」(二のおもて)は「ざしき」 (一のおもて)に柱間2間で接し,神棚とタナがある。 身舎の梁間は現在3間半あるが,当初は2間半か3間 写 真 − 6 大 鳥 家 の 氏 神 皆﹂ 岡 − 7 大 島 家 住 宅 復 元 平 面 図 閏御期 ① − ー 画 一 I z 嘘 1 , ‘ § ’ 4 咽 | ↑ フ ァ ヨ 『0
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図 − 6 大 島 家 住 宅 現 状 平 面 図 司 一 一 T = ー ■ 鹿 児 島 大 学 工 学 部 研 究 報 告 第 3 5 号 ( 1 9 9 3 ) 写 真 − 8 大 鳥 家 住 宅 小 陰 組 ー ▲ L 宮 ■ 画 ■ 画 邑 q鍵
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rー一と一一T一一』−−F1 一 戸 = 百 催 で あ っ た だ ろ う 。 指 宿 家 は 鑓 の 脂 南 を 努 め て い た 家 柄である。昭和30年頃玄関を改造して荘厳にした。
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土田・揚村:lll薩摩群における加世田髄・飛水麓・清水麓・国分麓・敷根麓の武家住宅に関する研究109 門屋墓宇 十時寛政十二度申歳初秋雌Ⅱ祥R記・・・: 指宿長右衛門貞恕代造立之 11両| T 画 且 図 − 9 指 宿 家 住 宅 復 元 平 血 間 T L 画 dwcll;‘‘ル,!,,‘,川Ⅲ,雁i, 写 真 − 1 1 指 宿 家 住 宅 ト コ と 小 ド コe
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│、 ●4.市来家住宅(図−10.11,写真−13∼17) 市来家住宅は以前加世H1幼稚│堂Iの前にあった住宅 で,それを当地に移したと伝える。規模大でなかな 4 Ll
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か見事で,江戸時代末期にはすでに建てられていた と考えうる。「ざしき」は10畳で広く,横長で2間半 に小ドコ・トコ・タナが並ぶ。縁側が一方に付き, 濡縁(外縁)であった。それを昭和52年頃内縁に改 造した。「つぎのま」は7畳半で,上り口が付いてい た。「げんかん」は特に広く15畳で,そこには神が祭 られており,背後には6畳の「こざ」があったと考 えられる。その「こざ」は「ざしき」側にも出入|| があり,開放的な造りである。「つぎのま」が設けら れているということから,年代が下るとは必ずしも いえない。それは格式の相違によって,付けられる 場合と付けられない場があるためで,時期と格式と の両面から辿求しなければならないことを示してい る。 諺 舜 誇 I−l F a 詩 ⑦│
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△ 図−13面i苛家住宅復元平面図 写 真 − 1 8 面 商 家 の 庭 写 真 − 1 7 市 来 家 住 宅 の 床 組 ー ‐ ー ー ●5.面商家住宅(図−12.13,写真−18∼21) 1m高家住宅は明治20年頃建てられたと考えられる。 明治中期になると大分発展し,各部屋に長押を廻し, 縁側にタナを付けたりもする。「ざしき」の二方に縁 側を付け,「つぎのま」(なかのま)が「げんかん」と 「さじき」の間に入る。「こざ」が開放的で広くなる。 身舎の梁間は4間となり,整った六間取りの住宅であ る。帯
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上m・揚村:旧薩摩藩における加世1M麓・飛水麓・清水麓・同分麓・敷根麓の武家住宅に関する研究115 図 − 2 1 宮 迫 家 住 宅 復 元 平 面 図 = ●3.池田家住宅(図−22.23,写真-36∼37) 池田家住宅は昭和に入って建てられたか又はその頃 大改造を受けたと思われる。トコと入11が対面してい ることは当麓の武家住宅の特徴であり,それを昭和ま で,継承されていることを示す間取りである。 一一│
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図 − 2 3 池 田 家 住 宅 復 元 平 面 図 な か え 一 一 一 一 一 」 ・ q ●4.川上家住宅(図−24.25,写真-38∼40) 川上家住宅は家老を務めた家柄で現当主は15代│とIと のことである。「ざしき」は10畳で,それに「なんど」 側に小ドコを設け,もう一方にはトコと障子を入れる など古い形式をとどめている。「なんど」が閉鎖的で あることにも注Ⅲしなければならない。以上の形態上 の特徴から江)i末期には建てられていたであろう。間 取りは複雑になり「げんかん」がどうなっていたか捉j’一一
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鹿 児 島 大 学 ] : 学 部 研 究 報 告 第 3 5 号 ( 1 9 9 3 ) 118 写 真 − 4 6 三 浦 家 住 宅 台 所 廻 す こ と な ど か ら 年 代 を 推 定 で き る 。 最 も 特 徴 的 な こ とは「げんかん」が「ざしき」・「つぎのま」と直角 に折れていることである。閉鎖的な「なんど」は:、11初 なく,後に増築された。明治後期になるとより格式を 重んじたためか,接客空間がおもての大半を占めてい る。一見逆行しているようであるが,面白い現象とし て捉えることができる。身舎の梁間は4間になり,そ の三方に庇が付き,更になかえが付いていた。 一 一 塁 一 一 一 一 一 ゴ ー - 3 .
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写 真 − 4 3 伊 集 院 家 住 宅 の ト コ と 小 ド コ ●6.三浦家住宅(図−28.29,写真-44∼48) 三浦家住宅は現在空家で,なかえを切り縮めている。 建てられた時期は明治後期であろう。整った形式で8 2W:4間からなり,内縁を二方に廻し,各部陸に長押を 図 − 2 9 三 浦 家 住 宅 復 元 平 面 図自
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f宅引 写 真 − 5 6 水 佐 木 家 住 宅 の 小 屋 組 合 掌 写真−52木佐木家住宅トコと小ドコ ②2.牧元家住宅(図−32.33,写真-57∼60) 国分麓の成立は群主島津義久が家督を譲った後, 1604年(慶長9年)12jlに居館を建てた時といわれて いる。その後居館の西隣りに地頭仮屋を建てて,街路 が整えられた。その阿分麓は武家住宅が以外に少なく 当住宅と次の楠元家住宅だけを訓恋した。両住宅はよ く似ている。両者を比較しながら建立時期を推定した。 当住宅の天井は高く小確に障子を入れ,「こざ」にま で 長 押 を 入 れ て る こ と な ど か ら , 明 治 に 入 っ て か ら だ 写真−53木佐水家住宅つぎのま(おもて) − 1 」 E 密 画 〆 = 1=bコーに]
一恩 、 図 − 3 2 牧 元 家 住 宅 現 状 平 面 図①
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図 − 3 3 牧 元 家 住 宅 復 元 平 面 図 ll院 土田・揚付:旧薩摩滞における川│世│Ⅱ龍・韮水施・iIf水麓・国分麓・敷根麓の武家住宅に│災Iする研究121 閃 − 3 4 楠 元 家 住 宅 現 状 平 面 図崖雲蕊
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●3.楠元家住宅(似1−34.35,写真-61∼65) 楠 元 家 住 宅 は 牧 元 家 住 宅 よ り も 少 し 早 く 建 て ら れ た か と思われる。それにしてもやはりlリ」治「I:1期であろう。 当主は110年前頃に建てられたといわれ,それは,明 治15年頃にあたる。差鴨居を入れて牲を抜く手法は明 治になると多くなる。当家は「げんかん」と「ざしき」 (一のおもて)との川に「つぎのま」(このおもて) が入り,六間取りになっている。入’1は2箇所と推定 できる。身舎の梁間は41Ajで大規模な住宅である。卜 甑震監綴霧蕊零講
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# 写 真 − 5 7 牧 元 家 住 宅 の 石 垣 一 、 Lノ│寮 = 一 室122 鹿 児 島 大 学 工 学 部 研 究 報 告 第 3 5 号 ( 1 9 9 3 ) h 一 = = ロ ー ー ー ロ ー ー 画 司
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ト ー ー T 一 吋 --のおもて 4 リ レ ー -ルん流説清 II--l-r了 こ の お も て − − イ l ト ー -L = = ム ー ー ヨ ヒ ー ー 今 一 一 回 と = = ▲ー ① 図−35楠元家住宅復元平面図 写 真 − 6 1 楠 元 家 腕 木 門 写 真 − 6 2 楠 元 家 の 生 Ⅲ 、 石 垣 と 倉 .と小ドコが鍵型に折れる理IiIの一つに「こざ」との 行き来ができる襖を設けたい懲卿があったと考えられ る。それは年代がドるにしたがって武士の浪室(「な んど」と称したり,「こざ」と称す)が開放的になる ことと一致する。 写 真 − 6 3 楠 元 家 住 宅 外 観 写 真 − 6 4 楠 元 家 住 宅 ト コ と 小 ド コ 写真−65楠元家住宅一のおもてから二のおもて を見る ●4・前川家住宅(図−36.37,写真-66∼71) 前田家住宅は敷根麓の武家住宅で,古い形式をとど めており,なかなか蛍重である。調査結果18世紀末に は す で に 建 て ら れ て い た と 推 定 し え た 。 敷 地 内 に 土 蔵・門・社・石垣が保存されており,当時の様子をと どめている。「ざしき」(一のおもて)にはトコと小ド コを並べ,二方が縁側となり,その縁側は現在でも浦星 上川・揚村:旧薩摩蒲における加世田龍・飛水麓・清水龍・国分麓・敷根麓の武家住宅に関する研究123 E,,ⅡⅡ1,11111tⅡ q ▲ てになかえがどのように付いていたか分かり雌い点が あり,今後の課題としなければならないが,なかえの 後方にどま(土間)があり,半士半農の区分が明確に なされている。このことは農家の造りと異なる。
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写 真 − 6 9 前 田 家 住 宅 ト コ と 小 ド コ 浴 室 戸 写 真 − 6 6 前 川 家 の 石 皿 と 倉i」
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写 真 − 6 7 前 田 家 住 宅 外 観隅
124 鹿 児 島 大 学 工 学 部 研 究 報 告 第 3 5 号 ( 1 9 9 3 ) 写 真 − 7 0 前 田 家 住 宅 の 梁 と 小 膝 組 写 真 − 7 1 前 田 家 住 宅 の 縁 7 . 結 び 各麓の武家住宅の雑本形式を追求し,加世田麓では 松山家住宅,垂水麓では高野家住宅,国分麓・敷根麓・ 清水龍では前田家住宅が古い形式をとどめ,それが基 本形式といえるだろう。では3グループのうちどの形 式 が 股 も 古 い か を 比 較 し な が ら 検 討 す る こ と も 大 切 で あろう。 その比岐の前に一つだけ大切なことがある。それは 街路に対し,主雌の棟が平行に配置されるか,直角に 配 置 さ れ る か で こ つ の グ ル ー プ に 分 け う る こ と で あ る。力lllltm麓は直角に配置され,その他の麓は平行に 棟が配慨される。それ故加世IⅡ麓の松山家住宅は一つ の基本形式であり,その他の雌の高野家住宅と前田家 住 宅 と で は い ず れ の 方 が 古 い 形 式 を し て い る か 調 べ て お か な け れ ば な ら な い で あ ろ う 。 国 分 麓 ・ 敷 根 麓 ・ 清 水麓の武家住宅の変遷過程(模式図)(図−3参照) のうちトコと障子が並ぶ時期が前田家住宅の次に出現 している。したがって,街路と武家住宅の棟が平行に 並ぶ雌も古い形式が前田家住宅ということになる。そ こで柳が街路に対し直角に配される松lll家住宅と平行 に配される前田家住宅が最も古い形式を示す武家住宅 といえる。両者の共通点を述べることで結びとしたい。 その共通点のうち「ざしき」の二方に縁側を設けるこ とが最も大切に思われる。この縁側の位世を決めれば, 必然的にトコ・小ドコの位ftが決まる。したがって, 武家住宅を設計するには街路・庭・縁側の関係が大切 であると指摘できる。 謝 辞 武家住宅の実測調査では臆敷内だけでなく,部陸の 隅々まで,また臆敷裏まで見せていただくことになる。 さぞかしご迷惑をおかけしたであろう。二度と訓迩を してもらいたくないと思われたかもしれない。当主の ご理解とご協力がなかったら訓査はできなかった。誠 に有州く感謝申し上げるしだいである。また各教育委 員会の方々からは私達の訓在を理解していただきご協 力を得た。感謝I│'し上げるしだいである。各地の文化 財群談委員の先生には案内していただき,私達の知識 不足を補っていただいたりした。また幹い日中実測訓 査を共にした院生・学生の協力に対し感謝したい。更 にまだ多くの方々のご協力をえた。その感謝の意を表 すしだいである。平面図36枚は学生駒走好文君が作図 した。 注1:「出水麓伝統的建造物群保存対策洲査報告稗」 出 水 市 教 育 委 員 会 平 成 元 年 3 ハ 「清色城と入来麓武家雌敷群訓査報告書」観光 資源保護財I』平成2年5月 「知覧麓伝建地区見直し調査報告書」知覧川.教 育 委 員 会 平 成 3 年 7 月 「志布志麓の構成とその進構訓査報告書」志布 志 町 教 育 委 員 会 平 成 4 年 3 月 注2:土田・小山田・揚村;出水麓の武家住宅の遺椛 (薩摩藩施計画とその進構に関する研究−2) 日 本 建 築 学 会 九 州 支 部 研 究 報 告 第 3 1 号 pp,317-320平成元年(1989)3月 槙枝・土川・小山IH・揚村;出水雌の武家住宅 の屋根構造(薩摩蒲の麓計画とその遺構に関す
土田・揚村:旧薩摩藩における加世田麓・垂水麓・清水麓・国分麓・敷根麓の武家住宅に関する研究125 る研究−3)日本建築学会九州支部研究報告第 31号pp、321-3241989年3月 土田・揚村・守安;入来麓の武家住宅の遺構 (薩摩藩の麓計画とその遺構に関する研究-12) 日 本 建 築 学 会 九 州 支 部 研 究 報 告 第 3 2 号 pp、417-4201991年3月 木村・土田・小山田・揚村;志布志麓の武家住 宅の遺構(薩摩藩の麓計画とその遺構に関する 研究-14)日本建築学会九州支部研究報告第32 号pp、425-4281991年3月 迫田・土田・揚村;知覧麓・入来麓・志布志麓 の武家住宅の遺構(薩摩藩の麓計画とその遺構 に関する研究-15)日本建築学会九州支部研究 報告第32号pp、429-4321991年3月 土田・揚村;薩摩藩武家住宅の座敷飾りについ て(薩摩藩の麓計画とその遺構に関する研究 -17)日本建築学会大会(東北)学術講演梗概集 pp、1031-10321991年9月 土田・揚村;知覧麓の武家住宅の遺構(薩摩藩 の麓計画とその遺構に関する研究-19)日本建 築学会九州支部研究報告第33号pp、413-416 1992年3月 土田・小山田・揚村・木村・岩元;大口麓の武 家住宅の遺構(薩摩藩の麓計画とその遺構に関 する研究-24)日本建築学会九州支部研究報告 第33号pp、433-4361992年3月 土田・小山田・揚村・木村・岩元;蒲生麓の武 家住宅の遺構(薩摩藩の麓計画とその遺構に関 する研究-25)日本建築学会九州支部研究報告 第33号pp、437-4401992年3月 土田・小山田・揚村・木村・岩元;高岡麓の武 家住宅の遺構(薩摩藩の麓計画とその遺構に関 する研究-26)日本建築学会九州支部研究報告 第33号pp、441-4441992年3月 謝少明・土田・揚村;知覧麓の佐多家住宅の復 元 ( 薩 摩 藩 の 麓 計 画 と そ の 遺 構 に 関 す る 研 究 -28)日本建築学会大会(北陸)学術講演梗概集 pplO37-lO381992年8月 土田・揚村・松村;国分麓・敷根麓・清水麓の 武家住宅の遺構(薩摩藩の麓計画とその遺構に 関する研究-33)日本建築学会中国・九州支部 研究報告第9号pp、441-4441993年3月 注3:土田・小山田・揚村;旧薩摩藩麓の腕木門につ い て 鹿 児 島 大 学 工 学 部 研 究 報 告 第 3 4 号 ppl25-l411992年9月 注4:土田・小山田・揚村;街道からみた薩摩藩麓の 屋 敷 構 え と 武 家 住 宅 に 関 す る 研 究 鹿 児 島 大 学 工学部研究報告第33号pp、189-2071991年9 月