• 検索結果がありません。

フランス軍人の見た幕末日本(12)デュ・パン「日本」を読む : 付デュ・パン『日本』試訳

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "フランス軍人の見た幕末日本(12)デュ・パン「日本」を読む : 付デュ・パン『日本』試訳"

Copied!
18
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

はじめに

 本稿で試訳を添えて紹介するデュ・パン『日本』の記述は,大きく三つの部分に分かれる。  一つ目は前稿で紹介した「愛宕山 Tagoyama,またはベルヴュ Bellevue という高台」1) と題され た項目の中で,思わせぶりに予告されていた事件に関するものである。なぜか唐突に「水戸の公 子」から始まる一連の項目は,政治的な記述である。中心となるのは攘夷派の浪士たちが時の大 老井伊直弼を江戸の街中で襲撃した,いわゆる「桜田門外の変」に関する記述である。この参謀 大佐は,「桜田門外の変」と水戸藩,そして,名こそ特定してはいないものの,水戸の藩主徳川 斉昭との関係を何処からか聞かされたのであろうと推測される。日本を窺う高級将校としての デュ・パンにとっては,国内における対立関係ないし内乱に発展しそうな流血事件は,軍人とし ての本来的な関心の対象であったと思われる。

一フランス軍人の見た幕末日本⑿

デュ・パン『日本』を読む

付 デュ・パン『日本』試訳

平 山 弓 月

〈Résumé〉

Du Pin, Colonel d’Etat-Major de la France, rencontre, vers 1861, la difficulté à compren-dre correctement ce qui se passe au Japon. C’est parce qu’il est prersque impossible de prendre des informations non-maquillées à cause que le gouvernement japonais jète une voile contre les étrangers sur les faits politiques du Japon. En plus, il y a peu d’étrangers qui sachent parler et comprendre complètement le japonais, et, autour d’eux, il n’y a pas de Japonais qui puisse transmettre à des étrangers des nouvelles japonaises en langues étrangè-res. Les étrangers apprennent par la remeur publique, par example, l’assassinat de Gotaïro Iï Naosuke.

Mais une telle remeur comporte souvent des fausses nouvelles, et des étrangers conçoi-vent les images déformées du Japon.

En même temps, il rapporte justement ce qu’il voit directement sans aucun intermédiaire. Il admire naturellement les artisanats des Japonais en comparant avec ceux des Chinois. Le jugement esthétique est, semble-t-il, typiquement français. Avant des Impressionistes, qui sont influencés du Japonisme, Monsieur le Colonel trouve des produits des Japonais originals, nobles et introuvable en Chine et ne ménage pas les éloges.

Mots clés : le Prince de Mito, l’Assassinat du Gotaïro, Légations étrangères, Arts japonais, Arts chinois

(2)

 二つ目は,江戸における外国外交使節団が置かれている状況と外交公館の説明である。  三つ目は,デュ・パン大佐が江戸で目にした「玩物」に関する記述であり,その中でも日本の 技術と中国の技術を比較検討している。大佐は骨董品や美術品に関心が大いにあるのであろうか, 記述は細かく,またフランス人的な「美的感覚」がうかがえ,かなり面白い項目群となっている。

18.「桜田門外の変」についてデュ・パンが限られた情報から知り得たこと

⑴ 水戸の公子 ⑵ 大老の暗殺 一八六〇年三月一三日 ⑶ 水戸の大公の事件に関しての日本政府の説明 ⑷ 一般に広く流布する説明 ⑸ 外国人に敵意を持つ諸侯  ⑴⑵⑷⑸の項目名に,手書き原稿と刊行本とで異動はないが,⑶の項目名は,原稿では「日本 政府が水戸の公子の事件に関し陳べる仕方」となっている。叙述自体に異動はない。ここでは刊 行本での項目名を採る。  本文については,⑴⑵⑶⑸にはほとんど移動はみられないが,⑷後段の政治力学的考究は,手 書き原稿では刊行本に比べより簡略に述べられている。  異文化圏の,限られた階層に独特の「政治文化」「政治状況」を理解することの難しさを,こ れら五項目に分けられた記述は露呈することとなる。言語的障碍がほとんどなくなった現在でも, 「自文化」に引きつけて「異文化」を理解しがちであるのに,デュ・パン来日時の言語状況では 致し方のないことなのかも知れない。

⑴ 水戸の公子  「水戸の公子」le prince de Mito とは誰のことであろうか。「いまから約六〇 年前」にこの公子は生まれたとデュ・パンは述べる。彼が来日したのは,1861 年のことであり, 1862年には出版を目指して原稿を書き上げていた2)。したがってこの公子は 1860 年前後に誕生 した人物ということとなる。水戸藩で該当するのは,寛政十二年三月十一日(1860 年 4 月 4 日) に生まれた,のちの第九代藩主徳川斉昭である3)。また彼の生まれた「家系」を,デュ・パンは 「大君(タイクン)への候補者を出す特権を持つ三つの家系の一つ」と説明し,この項の最後で 「三つの家系」が尾張 Owari,水戸,紀州 Kiousiou であるとまで言う4)。このような日本の細か い情報をデュ・パンは那辺から収集していたのであろうか。  ここに一つの示唆に富んだ記述がある。1859 年と 1864 年に来日し,1864 年に著書を出版した ルドルフ・リンダウの手になる日本旅行記5)に記されたもので,「水戸公と井伊掃部頭との間に かかわる情報の大部分は,全くその親切に感謝しているものであるが,日本におけるフランス公 使デュシェーヌ・ドゥ・ベルクール氏から教えていただいたものである」と,注記で情報源を明 かしている6)。リンダウの著書を,発行年から見て,デュ・パンが原稿を書いている時点では参

(3)

考にすることは叶わないから,おそらくはデュ・パンもこのフランス公使より情報を得ていたの であろう。想像しがたいが,このような情報を伝え得るほどに,フランス語をあるいは外国語に 堪能な日本人が,または日本語に通暁した外国人が,このフランス人役人の周囲にいたというこ とであろうか。  水戸公徳川斉昭の幼少期から青年期に至る「物語」は,あたかも権力者の小説の一節を読むよ うで面白いが,デュ・パン氏のたくましい想像力の賜物とでもいうべきものであり,にわかに 「史実」とは信じがたい。「青年期と分別盛りの幾ばくかを,西洋人の作法を調べるのに費やした。 西洋の言葉の知識に通暁した公子は,西洋の体制の重要性をすでに理解しており,文明の進歩に 関しての最新の情報を仕入れていた」件は,外国語に通暁していたかどうかは別として,水戸公 が,蘭学者の幡崎鼎などを登用し,それからの知識によって海防策をすすめたり,長崎の兵学者 高島秋帆の「洋式銃陣」を学ばせたりした。西洋の兵術・武器,および医術の導入には積極的で あったが,キリシタンや交易は排斥した7) との史実と符合する。しかし「ヨーロッパ人たちと同 盟し彼らの支援を利用して,日本の寡頭政治体制に代わって,彼を頂点とする実質的で強力な皇 帝たちによる王朝を建てるという公子の計画は,何らかの方法で,もし必要ならたとえ戦争をし てでも,彼らヨーロッパ人を日本にやってこさせるところにあった,といわれている」というの には首を傾げざるを得ない。彼は,知識は導入しても,本質的には攘夷思想(反西洋主義)の持 ち主であり,「ヨーロッパ人たちとの同盟」というのは目的が何であれありえないことであろう。  藩内の改革に取り組んでいた斉昭は,弘化元年(1844 年)には,その激しい「廃仏,寺院破 却」ととがめられ,退隠を命じられ謹慎処分を受けた。家督は長子慶篤が十三歳にして受け継い だ。  嘉永六年(1853 年)にペリーが来航したのち,幕府は斉昭に海防問題の「幕府参与」に登用 した。これは彼が隠居中も海防や攘夷についての意見書をしばしば提出していたからであろう。 安政二年(1855 年)には加えて「政務参与」にも幕府は任じた。しかし,アメリカをはじめと する諸外国といくつもの条約が締結されると,開国派の老中堀田正睦と対立し,幕府参与の任を 二つとも辞任した。  水戸公が幕府と決定的な対立関係となるのは,日米修好通商条約の調印をめぐり,勅許の必要 性を斉昭が強く言い,反対論の先頭に立ったからである。また同時期,一三代将軍家定の継嗣問 題が重なった。斉昭は一橋家に入っていた七男慶喜を推す諸大名と連携したからでもある。この 継嗣問題は,後を継いだ大老井伊直弼により,紀州の慶福(家茂)とされてしまう。「大君の席 が空席になると,彼はそれを目指した。しかしながら公子の望みとは裏腹に,今の大君が指名さ れることとなったのである。この大君は紀州家から選ばれたのであった」との記述は,肝心の将 軍継嗣を斉昭自身としている過ちはあるものの,かなり史実を正確に伝えている。幕末期に,日 本の内実を,正確に知るということは,ことほど左様に難しい事であった。「すでに前の大君も 紀州家の出であった。(中略)引き続いての二人の大君を同一の家系から選び出すというのは, 世襲という外見を避けるがゆえに,国法に反するものであった」とのデュ・パンの理解は,完全

(4)

な間違いで,いかに外国人にとっては幕末日本の内実を把握するのが困難であったかを物語って いる8) ⑵ 大老の暗殺 一八六〇年三月一三日  大老井伊直弼の暗殺事件,一般に「桜田門外の変」 は,デュ・パンの記す日付ではなく,萬延元年三月三日9) で,西暦では一八六〇年三月二四日で あった。フランス人参謀大佐の過誤の理由は分からない。  『維新史料綱要』の当該記事を引く。  暁天大イニ雱ル。浪士關鐵之介・同稻田重藏・同山口辰之介・同鯉淵要人・同廣岡子之次 郎・同黑澤忠三郎・同佐野竹之介・同齋藤監物・同蓮田市五郎・同森五六郎・同森山繁之 介・同大關和七郎・同海後磋磯之介・同杉山彌一郎・同岡部三十郎・同廣木松之介・同増子 金八・同有村次左衛門兼清○元鹿児島藩士愛宕山江戸芝ニ會ス。辰刻,鐵之介等,櫻田門外ニ於テ大 老井伊直弼登營ノ騶列ヲ襲ヒ,終ニ其首級ヲ擧グ。直弼ノ從衛士加田九郎太・河西忠左衛 門・澤村軍六・永田太郎兵衛等之ニ死シ,其他傷ヲ被ル。マタ重藏贈正五位ハ鬪死シ,辰之介 同上・要人同上ハ八代州河岸ニ,次左衛門同上・子之次郎同上ハ辰ノ口ニ至リテ各自刃ス。忠三 郎・市五郎・監物・竹之介ハ老中脇坂安宅中務大輔○龍野藩主役邸ニ,和七郎・五六郎・彌一郎・ 繁之介ハ熊本藩邸ニ各自首ス。鐵之介・三十郎・松之介・磋磯之介・金八ハ遁レテ所在ニ潜 伏ス。10)  デュ・パンはこの事件の首謀者が「水戸の公子」つまり徳川斉昭であるとし,その理由を「全 生涯をかけた望みが奪い取られるのを目の当たりにして激怒した水戸の公子は,大君の公的後見 人である御大老を,自らに敵対する行動をとったと疑い遺恨の矛先を向けた」と説明している。  徳川斉昭と井伊直弼との敵対関係は,前項でみた将軍継嗣問題を巡ってのものだけではなかっ た。問題は英米仏などとの条約締結に端を発する,徳川幕府の基本政策である「鎖国」体制の維 持か放棄かの問題であり,さらには条約調印に関しての勅許要請が両者の対立の中核であった11) しかし,外国人であるフランス軍人には,複雑に幾層も重なる対立の原因を知りうるべくも無く, 外国人の眼にも分かりやすい権力の趨勢にのみこの事件の原因を見たのであろう。  先に引いたリンダウも,デュ・パンよりは事態を詳しく理解していたようではあるが12),にも かかわらずやはり,事件の首謀者としては水戸藩の前藩主を想定して,「水戸公は腹心の者を若 干名集めて,首尾良く大老の手から祖国を救うことが出来たら,お前達の行為はまさに救国に値 するのだと言い含めたのである。この説得は容易に理解された。水戸公の腹心達は,家来の中で 何人かの不満分子を選び出し,彼等に主人の思いを伝えた。かなり多くの狂信者達が,その中で は特に薩摩の殿様の元家来が目立つ存在だったが,最初の陰謀団として結託した」13) と,想像し ている。  デュ・パン大佐はこの項の後段で「襲撃したものたちのうち五名だけが生き残り,逃れるべく

(5)

愛宕山(ベルヴュ)へと赴いた」と書き,そこへ大君の手のものが一〇〇名,武器も持たずに生 捕りに送り込まれてやって来,戦いの末五人をとらえたが,追っ手のほうは一二名しか生き残っ てはいなかった,と 劇 的 に描き出す。しかし,愛宕山に襲撃者が集まったのは,襲撃前夜で あることは史実として確認されているので,参謀大佐が想像するような情景は繰り広げられな かった。「日本人が,下された命令を理解し実行する仕方について,この事件はある一つの概念 を与え得るものである」とのデュ・パンの指摘は,後世の日本の武人‐軍人の「絶対服従」的な 生き方を見抜いているかのようで,さすが高級参謀の慧眼というべきであろう。 ⑶ 水戸の大公の事件に関しての日本政府の説明  ここでデュ・パンが語る内容は,あくまで も「桜田門外の変」の首謀者を徳川斉昭と誤ったためか,誤解に満ちたものである。  徳川斉昭は,安政六年八月に幕府より,「国許永蟄居」の処分を受け,水戸帰り,大老暗殺事 件の後,水戸城で心筋梗塞とみられる病気で没した。決して,デュ・パンやリンダウの言うよ う14) な死に方をしたわけではなかった。さらに,斉昭の子慶篤が幕命で家督を継いだのは,弘 化元年(1844 年)のことであった。そして,大名の家督相続については,帝(天皇)は関与し ていない。 ⑷ 一般に広く流布する説明  巷にあふれる噂話ほど,疑わしさに溢れたものはない。まして それが権力者ないし支配層に係わるものであれば,洋の東西を問わず,一層庶民は喜んで話を膨 らませて楽しむ。日本の場合で言えば,有名な「義経伝説」が,巷間縷々語り継がれる。「義経 は死んではいない」とか「国外に脱出し,モンゴルに至り成吉思汗として勇躍した」等々という のは,この類であろう。世界中の人々が,王室・皇室・大統領・独裁者の動向を,鵜の目鷹の目 で眺め伝言ゲームのごとく噂話に花を咲かせるのは,こう言った庶民の嗜好がそうさせるからで あろう。  デュ・パンがこの項で,水戸の大公は「殺されることなく,自領で暮らしていて,彼こそが最 近の暗殺の企て,とりわけヒュースケン氏の暗殺の首謀者である」との,街中に流布する噂話を 伝えているが,これは無責任な流言飛語のたぐいである。しかし誰がこんな噂話を伝えるデュ・ パンを責められようか。それもこれも,この時代「江戸政府は,あらゆる手立てを使って,政府 を動かしている機構を,我々の目から遠ざけようとしている」15) からなのである。因みにヒュー スケンの暗殺は,徳川斉昭の死後の事件である16)。ましてや斉昭が外国列強との戦争を機に,外 国と組み権力の奪取を企てていた,というのは本当に世間の噂話であろうか。「水戸の大公」の 項でも,デュ・パンはこういった説を書き留めているが。  後段にある,支配者と被支配者とに関する,政治力学的なデュ・パンの見解には見るべきもの があるのではないだろうか。 ⑸ 外国人に敵意を持つ諸侯  この項では,外国人暗殺事件,さらには外交館で働く日本人暗

(6)

殺事件に絡んで,フランス軍大佐は,その事件の陰に「薩摩の公子」「加賀の公子」が潜んでい るように理解している。これも,当たらずとも遠からずで,正確な情報を基にしたものではない だろう。この件に関しては,彼はすでに一度「外国人に対する貴族階級の反感」17) の項目で考え を述べている。暗殺事件についても,大佐はすでに一度触れている18)。繰り返し論考を加えてい るのは,やはりそれだけ彼が,日本における外国人暗殺事件を重要視しているからであろう。

19.江戸における外交団施設に関してデュ・パンが説明していること

⑴ 江戸における外国公使館 ⑵ イギリス公使館 ⑶ オランダ公使館 ⑷ フランス公使館 ⑸ 江戸湾の照明  ⑴∼⑵の項目は,刊行本で別けられたもので,手書きの手稿では一切の項目別けはない。ただ し,項目名としては「江戸における外国公使館(イギリス)」とあり,⑶∼⑸には段落別けはな く,欄外に「オランダの」「フランスの」「江戸湾の照明」とある。当初デュ・パンは,一つ一つ 別項目にする予定はなかったものと推察される。しかしここでは刊行本の項目訳に従う。  叙述の異動もほとんどない。それゆえであろうか,それぞれは短く,内容も取り立てて述べる ほどのものはないと云えよう。 ⑴ 江戸における外国公使館  外国公館の選定は,幕府側で手配されたようであり,この経緯 はオールコックも,自ら公使館の場所を探し求め,最終的には幕府によって決定された経緯を述 べている19) ⑵ イギリス公使館  「芝三田二本榎高輪辺絵図(1861 年)」20) によれば,イギリス公使館は, デュ・パンが記しているように,横濱から江戸に向かう海沿いの街道の,「高輪中丁」から江戸 に向かって左に少し入った高台にある東禅寺におかれた。  「すぐ近くには大名たちの墓地があり,その墓石はほとんど統一的な形に切り出されていて, 古代ギリシアの建築を思い起こさせる。墓地全体は絵のように美しい」との参謀大佐の印象は, 彼がただただ武辺の人ではないと思わせ,興味深い。 ⑶ オランダ公使館  オランダ公使館の位置にも触れず,そっけない一文しかデュ・パンは残 していない。あまり興味をひかなかったのかもしれない。リンダウは,オランダの公館として, 「オランダ総領事は江戸に滞在中は長応寺と呼ばれている小さなお寺に住んでいる。ここはかな り貧相な界隈でイギリスの公使館とフランスの公使館との間に位置している」21) と,正確に記し

(7)

ている。先に触れた「切絵図」でも泉岳寺の並びに長應寺の位置が確認される。 ⑷ フランス公使館  フランス公使館は,さらに江戸に寄った斉海寺におかれていた。デュ・ パンもここを宿舎にしたようである。建物には満足はしなかったものの,そこからの眺め22) は満足したようである。「風景」に価値を見いだすとは,いかにもフランス人的ではないか。 ⑸ 江戸湾の照明  異文化が人を魅了しうる奇妙な現象が世にはしばしばみられる。日本人観 光客が,外国の風物に接したときに,異常に興奮し絶叫したりするさまは,現在でもなおテレ ヴィの旅番組で映し出され,視聴者を唖然とさせることも稀ではない。  江戸湾の夜の光景を前にしたデュ・パンの讃嘆22) がそれの類ではないと誰が断ぜずにいられ よう。  もちろん,水面に移る小舟の明かりの美しさは論者も知るところである。といって,シャンゼ リゼのガス灯23) による照明の夜景が,それよりも素晴らしいと軍配を上げるつもりはない。 「シャンゼリゼ大通,コンコルド広場そしてチュイルリー宮までをその光でのみこむ,いく千も のガス燈によって作り出される照明」も,それはそれで美しいと論者は感じるが。

20.江戸で出合った日本の工芸品についてデュ・パンが目を瞠らせること

⑴ 江戸での時の過ごし方,さまざまな玩物類 ⑵ 青銅器 ⑶ 日本の技術,中国の技術 ⑷ 象牙彫刻  幕末にやってきた外国人はどのような日常生活を送っていたのであろうか。リンダウは,オラ ンダ総領事のこととして,「彼は国家の囚人のように生活している。というのも彼の家全体が, 昼の間は彼から目を離さず,夜は夜で寝室の扉まで監視している日本の兵隊に侵入されてい る」24) と述べている。  日本の庶民のたくましさが,品物を彼ら外国人の周りに持ち込んでくる。言葉の障害を乗り越 え,日本商人は何とかして,品物を売りつけようとする。武士階級の,外国人に対する敵意に対 し,一般庶民階級の接し方にはかなりの差異があったようである。オールコックもそのような商 人とのやり取りを記述している25) ⑴ 江戸での時の過ごし方,さまざまな玩物類  フランス領事館に滞在しているデュ・パンの 日常も,リンダウが記しているのと同じようなものであったと想像される。そんな無為の日常に 気を遣いさまざまな気晴らしを,フランス総領事のドゥ・ベルクールは手配したようである。  フランス軍人が,押し寄せてくる商人たちの持ち来る品物に,たちまちにして幻惑される。

(8)

「無限の価値を持つ品物がそこら中に広げられるのを目の当たりにする」大佐は,それがまた日 本独特の品であり,江戸の町でしか見つけられないものであるという。工芸品に対する鑑識眼を 大佐は有していたのであろうか,それとも単なるエクゾティスムのなせる技であったのか。 ⑵ 青銅器  「古代神話時代の青銅器」とは,商人が持ち込む青銅器が如何なるものかは分か らなく,いささか眉唾ものであるが,少なくとも職人技が発揮された品物であったように窺える。 デュ・パンはその技術に賞賛を惜しまない。職人仕事の歴史があるヨーロッパ文化における,職 人の伝統は,機械優先の現在でもなお尊重され求められている事実を見れば,19 世紀の人であ るデュ・パンにとっては,遠い異文化の地で,同様の職人,職人仕事を見出したて共感したこと であろう。 ⑶ 日本の技術,中国の技術  デュ・パンは日本にやって来る直前まで,中国に滞在していた。 彼のことだから,日本での彼の好奇心の働きを見れば,中国でも好奇心をもって,その国,その 人々,その文物を鑑みていたであろうことは容易に想像される。したがって,彼の関心が両国の 対比,比較に向かうのも自然なことである。  日本と中国の決定的な違いを,日本の工芸品にある「高貴な単純さ,線の無駄のなさ,丹念な 仕事といった特徴」が,中国の「出来栄えという観点から見て作品の構想は不十分であり」,両 者の差異は際立っていると見極める。この差異のよって来たる所を,中国人を「すでに涸れてし まった文明の産物」と見做し,「もはや旧套墨守の人々でしかない」と言い切る。それに対し日 本人を「高貴で誇り高く,若さが持つ全精気を保ちながら,世界中の他の人々が持つ高さまで到 達したいと思っている」人々であると評価する。さらにはきわめて辛辣に,「中国人は愚かしく も過去の思い出の中で眠っている。日本人は将来しか思い描かない」とまで,日本人およびその 工芸品を称賛する。さらに進んで,「ヨーロッパ全体がいまだ未開の底に沈んでいた頃,こちら では技術がそのすばらしさの最高潮にすでに到達していたのであった」と記すフランス人の,審 美眼をどう理解すればよいのであろうか26)。しかしいわゆるジャポニスムが,フランスの画家か ら一般の美術愛好家に一大ブームを引き起こし,印象派の画家たちに多大な影響を与えるのは, デュ・パン来日より後のことであるから,デュ・パンの審美眼には敬意を払うべきであろう。 ⑷ 象牙彫刻  ここでいう象牙彫刻は,まちがいなく「根付」であろう。この用途をデュ・パ ンは,「釦のように煙管や煙草入れを帯に留めるために使われる」と正確に理解している。ポ ケットがある衣服を着用する人々には,恐らくは無用のものであり,そういった人々には,「工 芸品」としての価値しかなかったであろう。それゆえに「根付」は珍奇な蒐集物としての価値が 生まれたのである。「外国人たちがそれらを大量に買いこみ,上海や香港の愛好家に転売して, 彼らは巨大な利益を上げている。投機がこの部分に向けられていた」といったところにまでなっ てしまったのである。おそらくは,「根付」の最良のコレクションは,外国人の手になるもので

(9)

あう。  ここでも,デュ・パンの目は,日本と中国の対比・比較に及ぶ。日本人の手になる彫刻に表現 される人物像は,「人間が持つ歪みをじっくりとまた知的に研究した結果である戯画(カリカ チュア)は,しばしば多種多様な形となりそこに再現されてい」ながら「中国の絵に現れるよう な怪異さ(グロテスク)にまでそれらが落ちることは決してない」との結論は,前項における結 果と同様で,このフランス人はよほど日本の工芸品に魅了されていたのであろう。

1) 拙稿「一フランス軍人の見た幕末日本⑾ ― デュ・パン『日本』を読む ― 付 デュ・パン 『日本』試訳」(COSMICA,XXXVII,京都外国語大学,平成 20 年)をご参照賜りたい。 2) 拙稿「一フランス軍人の見た幕末日本⑴ ― デュ・パン『日本』を読む ― 付 デュ・パン 『日本』試訳」(COSMICA,XXII,京都外国語大学,平成 5 年)の 60∼62 頁をご参照賜りたい。 3) 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第 10 巻,吉川弘文館,昭和六十年。「とくがわなりあ き 徳川斉昭」の項参照。 4) 「三家」あるいは「御三家」。「近世の大名,親藩のうち。徳川家康の三子,九男義直を祖とす る尾張徳川氏,十男頼宜のあとである紀伊徳川氏,十一男順房の家水戸徳川氏をさ」し「大名 の上首にあり,それにふさわしい幕府の処遇を受けた」。「尾紀二家の極位極官たる従二位大納 言,水戸家の同じく従三位中納言は大名の中でもっとも高い。また将軍家と同様徳川を名乗り, その継嗣に立ちえた。さらに将軍継嗣の選定や老中の選任,ある時期『武家諸法度』の制定な ど,幕府の公私にわたる重要案件の審議・決定に参画した」とされた(前掲『国史大辞典』第 6巻,「さんけ 三家」の項)。しかし,水戸家の家格は,尾張。紀州に比して一段低く,将軍 継嗣を出す家系という考えには疑問が残る。徳川幕府最後の将軍,徳川慶喜はもとをただせば 水戸家の出ではあるが,三卿(御三卿)の一つ一橋家に入嗣したものである。  因みに「三卿」(「御三卿」)とは,「江戸時代中期に創立された,徳川将軍家の一門である, 田安・一橋・清水の三徳川家を」いい「その身分は,尾張・紀伊・水戸の徳川「御三家」のご とき大名とは相違し,将軍家の厄介,すなわち「家族」の一員であって,分家独立して一家を 形成したものではなかった」が故に「江戸中期三家の血統もようやく疎遠となり,将軍継嗣候 補の資格に不備を生じたので,その欠陥を補い,さらに加えて三家の制御を図る意図から」創 設されたものであるとされている。「将軍家相続に際して,その「家族」の中から嗣子を選定 することにより,継嗣争いを防止することができる」ということである。格式は高く「家督相 続後に参議・中納言を経て従二位大納言まで上った。姓は徳川氏を称し参議任官以後は田安・ 一橋・清水の号を名乗」り「将軍の最近親としての処遇をうけ」た。「(前掲『国史大辞典』第 6巻,「さんきょう 三卿」の項)。余談になるが,田安家の徳川定信の将軍継嗣となるのを恐 れた田沼意次の策で,定信は陸奥白河藩に養子として入ることとなり,松平定信となることで 将軍継嗣の途を閉ざされたのは有名である。 5) ルドルフ・リンダウ著 森本英夫訳,『スイス領事のみた幕末日本』(原題 Un voyage autoour du Japon)新人物往来社,1986。 6) 前掲訳書 115 頁【原注 2】。この記述は,「四年前から江戸と横浜に住んでいるこのフランスの 役人は,封建制度と日本現代史に関するあらゆる資料を集めることに,疲れを知らぬ努力をさ れてきている。彼はこの点に関して,とても興味のある情報をお持ちなので,いつかそれが公 表されると,日本の政治情勢に関して,なみなみならぬ光を与えることになろう」と続く。ベ

(10)

ルクールの記述は,アラン・コルナイユ『幕末のフランス外交官 初代駐日公使ベルクール』 (矢田部厚彦編訳,ミネルヴァ書房,2008)でいくつも紹介されているのにもかかわらず,徳 川斉昭,「桜田門外の変」に関する記述は採用されてはいない。  また同書の 103 頁【原注 3】では,「教皇布教者メルメ・ド・カション神父」の名を,【原注 4】で「江戸のイギリス公使館員であり,日本の現状をもっとも実りある形で勉強してきた人 物の一人である A・ガゥアー氏から,この話の詳細について入手している」とさらに今一人の 情報元としての人物の名前を挙げている。 7) 註 3 )参照。 8) デュ・パンに先立つ 1869 年 6 月に英国駐日総領事兼外交代表として江戸にやってきた,ラザ フォード・オールコックが帰国後の 1863 年に出版した『大君の都』(原題 The Capital of the

Tycoon : a narative of a three years residence in Japan)で,「将 軍,または「大 将 軍」は,条 約では 大 君 となっているが,これが長である。ケンプファーは,それを 大 王 ・ 副 摂 政 ・ 統 領 ・ 皇 帝 などと無差別に名づけている。じつは,そもそも行政長官の権 力を簒奪した家康様ないし権現様の後継者が,過去二世紀のあいだ代々その権力を相伝し,時 の天皇からさまざまの称号を受けているのである」と将軍職が「世襲」であることを理解して いる。オールコック著 山口光朔訳 『大君の都』(全 3 巻),岩波文庫,岩波書店,1962, 1997。上記引用は下巻第三四章(115 頁)参照。  将軍継嗣に関しては,オールコックも「水戸侯は,このいっさいの衝突と混乱に乗じて,あ わよくば自分が大 君となるか,または自分の息子を大 君に選出させることによって,利益を えようという考えをいだいていたらしい」と,水戸家が「御三家」の一つであり将軍位が空席 になった場合には,継嗣としての正統な権利を有していたと,さらには「水戸の分家にとって は,選挙が行なわれたさいにはいつも御三家の他の二つ,すなわち紀州侯または尾張侯から後 継者が出てのけ者にされてきたことが,従来からのなげきの種だった」,と水戸侯の感情的内 実を綴っている。しかしこの文章の後に続く,「ときの大 君を毒殺して,そのあとをつごうと 企てたのであった」というのは,ヨーロッパ的な権力者をめぐる歴史的事実からの類推のなせ る技である。この件は,(上)第一〇章(327 頁)を参照。  この問題に関して最後に日本人の著した資料を読む。「故老から聞くところで」と断った上 で,田辺太一は『幕末外交談』(東洋文庫 69,平凡社,1966,1988,I,II 巻)に「一橋卿へ の期待」の見出しのもとに記している。いわく,「それは,将軍継嗣の問題であった。それと いうのは,一橋卿〔慶喜,斉昭の第七子〕を西丸に擁して将軍の世嗣とし,これを欲する諸親 藩や強藩の希望をみたさせ,また御親子の間柄を利用して,老公をいただいて攘夷の暴論をた くましうする輩の口を鉗し,さらに朝紳をして奥主(後ろだて)と頼むべき人を失わせたら, たとえ一時は違勅とそしられても,他日は必ず氷解するであろうとの秘策があったからであろ う。しかも,このことは阿部正弘の遺策であり,また慎徳公〔故家慶〕も心に欠けていたこと だという」(I,91 頁)。恐らくは,田辺の述べているところが事実であろう。 9) 『維新史料綱要 巻三』(東京大學史料編纂所蔵版,財團法人東京大學出版會發行,昭和十六年, 昭和五十六年覆刻,は「萬延元年三月大三日」(275 頁)とし,他は「安政七年三月三日」と するものが多い(例えば,宮地正人『幕末維新変革史 上』岩波書店,2012,224 頁)。これ は安政七年三月十八日に,「安政」から「萬延」へと改元されたからである(「改元定。安政七 年ヲ改メテ萬延元年ト爲ス。」『維新史料綱要 巻三』,279 ページ)。 10) 前掲『維新史料綱領 巻三』,275∼258 頁。 11) 宮地正人はこの事態を分析し次のように説明する。  ハリスとの交渉が,日蘭追加条約的枠組みを大きく逸脱し,これまでの国内合意を根底的

(11)

に覆すものになってきた段階で,岩瀬や川路などの堀田正睦のブレーンは条約勅許案を主張 しだした。(後略)  彼らのこのような決断の前提には,日米交渉に対し尾張藩主徳川慶勝,仙台藩主伊達慶邦, 鳥取藩主池田慶徳,徳島藩主蜂須賀斉裕らが,条約締結に際しては条約の勅許が必要になる と主張していたことがあった。また徳川斉昭と水戸藩主徳川慶篤父子は,ハリスの要求に対 する幕府の措置が,もしも征夷大将軍の任に相反するものあらば,幕府は調停並びに諸侯に むけ責を負わざるを得なくなると強く警告していた。「朝廷を尊び四夷を平定する」征夷大 将軍の名目がその内実を求められたのである。(宮地前掲書 184 頁)  大老井伊直弼による無勅許条約調印という苦渋の決断は,大名との間の溝を一挙に拡大す ることにもなった。六月二一日,御三卿の 一 橋 慶喜と田安義頼が登城して大老に面会,慶 喜は勅許なしの調印および老中奉書での非礼な報告を難じた。(宮地前掲書 205 206 頁)  六月二四日,福井藩主松平慶永は大老邸に赴き,違勅調印を批判し,将軍が違勅をあえて するにおいては,諸大名もまた台命を奉じないだろうと指摘し,併せて継嗣問題に関しても 激論した。  この六月二四日,慶喜は登城して違勅調印を詰問,同日尾張藩主徳川慶勝と水戸藩前藩主 徳川斉昭とその子で同藩主の徳川慶篤が不時登城し,違勅調印を非難するとともに,継嗣問 題も提起し,将軍の面前で決定戦と主張,さらに慶永を大老とすべしとも発言する。(宮地 前掲書 206 頁)  (前略)六月二五日,[幕府としては]将軍継嗣を紀州藩主徳川慶福(家茂)とする旨を 発表,七月五日には,「三家を処分することは実に大事,また将軍病中故,然るべからず」 との老中久世広周の反対を押し切って,反対派の処分を決定した。即ち徳川慶勝には隠居・ 急度 慎 (謹慎),徳川斉昭には急度慎,近親者との書通禁止,徳川慶篤と一橋慶喜には当 分登城禁止,松平慶永には隠居・急度慎の処分が下された。  しかもこの処分の翌六日,第一三代将軍徳川家定が病没したのである。(同処) 12) 一九世紀中葉からの,ヨーロッパ列強の中国における戦争の結果を引き合いに出して,その影 響をリンダウは綴る。内容はいくつかの誤解が混じるものではあるが,「公式の情報の伝えら れていない当時の外国人社会で噂として流れていた,あるいは彼等の一部の人たちに理解され ていた日本の性情を知る上で無視されるべきでもなかろう」(森本英夫〔訳注 1〕,リンダウ  前掲訳書 103 頁)という観点から,「日本の進歩派と反動派」の状況を十分に伝えている。リ ンダウ前掲訳書 93 頁 115 頁を参照されたい。 13) リンダウ 前掲訳書 109 頁。 14) リンダウ 前掲訳書 111 頁。「数カ月後,水戸公は井伊掃部頭の家来によって暗殺されたのだ。 犯人は職人として水戸公の屋敷に忍び込み,ある日水戸公が庭を一人で散歩していた時,斧の 一撃で打倒したのだ。彼は直ちに割腹した。」アレクサンドル・デュマの小説でも読むような, わくわくする活劇を思わせる 叙 述 であるが,あくまでもフィクションとしての面白さである。 15) 拙稿「一フランス軍人の見た幕末日本⑷ ― デュ・パン『日本』を読む ― 付 デュ・パン 『日本』試訳」(COSMICA,XXVII,京都外国語大学,平成 10 年)25 頁及び 38 39 頁をご参照 賜りたい。 16) ヒュースケン暗殺事件に就いてのデュ・パンの叙述は,前註で引いた拙稿 17-22 頁及び 37-38 頁をご参照賜りたい。

(12)

17) 拙稿「一フランス軍人の見た幕末日本⑹ ― デュ・パン『日本』を読む ― 付 デュ・パン 『日本』試訳」(COSMICA,XXIX,京都外国語大学,平成 12 年)5 6 頁及び 15 頁をご参照賜 りたい。 18) 拙稿「一フランス軍人の見た幕末日本⑻ ― デュ・パン『日本』を読む ― 付 デュ・パン 『日本』試訳」(COSMICA,XXXI,京都外国語大学,平成 14 年)25 26 頁及び 34 頁をご参照 賜りたい。 19) オールコック 前掲訳書,(上)166 頁。また,『幕末の中日外交官・領事館』(雄松堂出版, 1988)を著した川崎晴朗は「幕府は七月四日(安政六年六月五日)付け書簡で,オールコック に対し,宿所を東禅寺に決定した旨を正式に通告した」(『外交資料集成』,第四巻,五〇〇 五 〇一ページ)と,注記している。(149 頁) 20) 『嘉永・慶応江戸切絵図』,古地図ライブラリー1,人文社,1995,2003,58 頁参照。また,監 修・解説の師橋辰夫は,次のように記す。  東海道と二本榎の間は寺だらけ。そのほとんどが,明暦の大火の後,八丁堀から移転を命 じられた寺。中でも東禅寺は,安政六年(1859)から明治六年(1873)まで英国公使館とな り,文久二・三年(1862・1863)には,急進攘夷派・水戸浪士に襲撃され,イラストレイ テッド・ロンドン・ニュースにも掲載され,世界的に有名な寺である。 21) リンダウ前掲訳書,179 頁。しかし川崎晴朗は,オランダ公使館が正式に長応寺と定められた のは,文久三年のことであるとしている。(川崎 前掲書 105 頁) 22) リンダウも「そこから江戸湾の素晴らしい眺めが楽しめる」(リンダウ 前掲訳書 179 頁) としている。 23) パリにおける「ガス灯」の出現は,19 世紀初頭であり,1833 年にはパリの街路灯の照明が, 灯油による街頭からガス灯に切り替えられた。さらに 1941 年からは電気照明の実験が始まり, 1878年のパリ万国博覧会では,電気照明が本格的に導入された。 24) リンダウ 前掲訳書 179 頁 25) オールコック 前掲訳書 (中)35 頁等。 26) オールコックも同様の印象を持ったようで,次の文章をのこしている。  わたしは,漆器や磁器や青銅製品の見本 ― それらの多くはひじょうに優良かつ珍貴なも のである ― を集めて,ヨーロッパの最上の細工品と綿密な比較テストにどこまで耐えうる かをしらべるために,大博覧会〔一八六二年(文久二年)にロンドンで開催された万国産業 博をさす〕へおくった。その結果は,けっして日本人の名誉を傷つけることにはならなかっ た,と思う。(オールコック 前掲訳書 (中)42 ページ)

(13)

デュ・パン『日本』試訳⑾

水戸の公子

 いまから約六〇年前,大君(タイクン)への候補者を出す特権を持つ三つの家系の一つである 水戸の家系に,ある一人の公子が誕生した。この公子は,その性格の独創性ゆえに,幼少期から 注目された。陰鬱で,思慮深く,感情を表に出さないこの公子は,同年代の子どもたちの騒々し い遊びに加わらず,同世代のものたちとの交わりを避け,多くの奇行の中に身をおいていた。こ れらの奇行は,フランスでならば彼を独創的と思わせるものであったであろうが,フランス以外 のどこにおいてでも,それは彼を気狂いあるいは大馬鹿と思わせるものであった。日本において は,後者の範疇に彼は分類された。かくしてこの公子は公衆の注目から逃れることが出来たので ある。公衆というものは,玉座を運命付けられた人物たちに関してはその幼少期から,彼らの行 為行動の詮索を常としているものであったので,この公子を後々聡明な人々を統率することが出 来ないものとみなし,忘却のかなたに押しやってしまった。このようにしてありとあらゆる厄介 な監視の目から解き放たれて,日本の若きブルータスは,孤独の中に閉じこもり,気兼ねするこ となく勉学に浸ることが出来たのである。揺るぎなく辛抱強い性格を生まれながらに授かった公 子は,教養知識に対する飽くことを知らぬ渇望と,御しがたい野心とを同じく持って生まれつい たので,早くから次のことを理解していた。つまり,権力に汲々とした特権階級が玉座を取り囲 んでいる国家にあっては,大名たちが彼の高い知性と,ひそかに抱いている権力の座に到達する という望みを見抜くならば,情け容赦なく彼は大君職から排除されるであろう,ということを。 大君職に辿りつく道筋で出会うであろう全てのものを犠牲とした後,しっかりとこの権力を手中 に収め,それを専制体制になしうると感じていたのである。この目的に到達するには,公子は, 戦うつもりである人々よりも現実的に上位にいなければならなかった。青年期と分別盛りの幾ば くかを,西洋人の作法を調べるのに費やした。西洋の言葉の知識に通暁した公子は,西洋の体制 の重要性をすでに理解しており,文明の進歩に関しての最新の情報を仕入れていた。公子の学問 に必要不可欠の書籍と他のもろもろは,腹心の従者たち幾人かの手で,公子のもとにもたらされ た。ヨーロッパ人たちと同盟し彼らの支援を利用し,日本の寡頭政治体制に代わって,彼を頂点 とする実質的で強力な皇帝たちによる王朝を建てるという公子の計画は,何らかの方法で,もし 必要ならたとえ戦争をしてでも,彼らヨーロッパ人を日本にやって来させるところにあった,と 言われている。自らの教養知識が満足のゆくものであると公子が判断したとき,彼は隠遁所を出 て,大名たちの集まりの中に姿を現した。そしてそこでは,自らの知性及び人間形成の優越性を 見せ付けることを控え,公子は並みの能力を示した。大君の席が空席になると,彼はそれを目指 した。しかしながら公子の望みとは裏腹に,今の大君が指名されることとなったのである。この 大君は紀州の家系から選ばれたのである。すでに前の大君も紀州家の出であった。ところで,す でにそのことについては申し述べたように,大君の選び出しは尾張,水戸,紀州の三つの家系の

(14)

人々に対し一様に向けられるはずであったのだが,引き続いての二人の大君を同一の家系から選 び出すというのは,世襲という外見を避けるがゆえに,国法に反するものであった。

大老の暗殺,一八六〇年三月一三日

 全生涯をかけた望みが奪い取られるのを目の当たりにして激怒したミトの公子は,大君の公的 後見人である御大老を,自らに敵対する行動をとったと疑い遺恨の矛先を向けた。一八六〇年三 月一三日,この高級官僚は,多くの衛士に護られていまや大君の宮殿に入ろうとしたとき,武装 したミト家の一集団によって暗殺された。恐ろしい闘いが,御大老の駕籠の周りで繰り広げられ た。それを護っていた衛士たちすべてが虐殺されてしまった。御大老は,刀の襲撃によって駕籠 の中で文字通り切り刻まれてしまった。駕籠もまたばらばらにされた。ある大名も衛士に護られ て宮殿に向かおうとしていた。彼は,いかなる方法をもってでも介入しようともせず,この戦闘 を傍観した。襲撃したものたちのうち五名だけが生き残り,逃れるべく愛宕山(ベルヴュ)へと 赴いた。そこで彼ら五人は,銅造りの巨大な像のもとで,祈りながら一夜を明かした。大君に よって一〇〇名のものたちが,武器を手にせず,送り込まれた。彼らへの命令は生きたまま五名 のものたちを連れて戻れというものであった。それは,拷問によって,五名のものたちから真実 の自白を引き出すためであった。最初に二人の殺人者が,不意を襲われ捕縛された。残る三人は 戦う姿勢を見せたので,一〇〇人のものたちは三人を押し囲み,ようやく三人を捕らえたが,そ のときには,一〇〇人の追っ手が一二人になっていた。日本人が,下された命令を理解し実行す る仕方について,この事件はあるひとつの概念を与える得るものである。

水戸の公子の事件に関しての日本政府の説明

 水戸の公子は,この事件のあと自領に閉じこもったが,追跡され包囲されて,いくつもある館 のひとつで殺害された。御老中によって外国外交団に公式に伝えられた説明は,このようなもの であった。この公子の息子である若き水戸の公子が,先公を継いで大名の地位に就いた。彼はま た,帝により先公同様の名誉上の顕職につけられた。権力の増加を与えはしなかったが,帝は, 威信ある家柄として帝と大君の間に彼を位置させた。

一般に広く流布する説明

 人々の間には,これとまったく異なる説明が流布している。老いたる水戸の公子は強力な集団 を抱えており,殺されることなく,自領で暮らしていて,彼こそが最近の暗殺の企て,とりわけ ヒュースケン氏の暗殺の首謀者である,というものである。水戸公はこのようにして外国列強と の戦争を誘発し,列強が日本に軍隊を送り込んでくることを望んでいたのである。そのときは外 国と同盟を結び,自らの敵に勝利しようとしたというのである。水戸公がしようとした最初の行 動は,三つの島における,外国人たちの完全な通行自由の布告であったという。庶民の目から見 れば,水戸公は,たった一人の権力体制を小領主の集団によるそれに置き換えたいと望む自由派

(15)

の領袖ということである。物事を高所から見れば,全能の皇帝による統治のほうが,大名集団の 統治よりより多くの自由を自らにもたらすであろうと,日本の人々はある種の理性から考えてい る。というのも,大名たちは皇帝よりも下の階層のものたちにより近く,人々には彼らの権威の ほうがより直接的により重々しく感ぜられるからである。

外国人に敵意を持つ諸侯

 暗殺はわれわれに敵意を抱く大名たちの煽動で引き起こされるものであると,日本の政府は外 国外交筋にしばしばほのめかしてきている。旧守派を代表する主要なものは,薩摩の大公と加賀 の大公でとのことである。彼らはきわめて強大で,彼らが擁護する犯罪者や牢人を捕まえ罰する には,大君の権威では不十分である。  これらがさまざまな解釈であり,それらの中で真実を判断するのはかなり困難である。という のも,日本の政府が身の回りにめぐらしている幕が故である。

江戸における外国公使館

 すべての公使館は市外地南部の,政府によって外交担当者が自由に使えるようにされている寺 院もしくは公共の建物におかれていた。

イギリス公使館

 横濱からやってくると,先ずイギリス公使館に出会う。公使館は東禅寺に付随する建物の一部 分を占めている。東禅寺は小さな谷の奥に位置し,この谷は数一〇〇歩下ると湾岸に到達する。 広大な庭園には見事で珍しい種類の樹々があり,非常に満足すべきいくつもの部屋をこの庭園が 取り囲んでいる。縦横ともに広い部屋は,そこを通って公使館に行くのであるが,この住宅に豪 華な印象を与えている。すぐ近くには大名たちの墓地があり,その墓石はほとんど統一的な形に 切り出されていて,古代ギリシアの建築を思い起こさせる。墓地全体は絵のように美しい。

オランダ公使館

 もう少し進んだ,小さな丘の斜面中腹にオランダ公使館がある。

フランス公使館

 武家地のほうにもう少し進んでゆくと,フランス公使館に着く。公使館は,際立った高台の上 にある済海寺の中にある。建物はすべて狭く,あまり満足の行くものではない。しかし,遠く湾 内や保塁そして江戸の街を見渡せる露台は住居部分のわずかな欠陥を十分に埋め合わせている。

江戸湾の照明

 特に宵闇には,幻想的な光の輝きを楽しむことが出来る。かなりの高台から眺望できる街路は,

(16)

数限りない街灯の光で筋がつけられて見える。遠くでは,漁り人たちの何千という小船の角灯に よって湾が照らし出される。なにものもこの光景の桁外れの美しさのおおよそを言い表すことは 出来ない。夜にパリに到着したとき,エトワル広場の凱旋門によって,パリの光景は当然のこと として外国人の不意をつく。しかしながら,フランス公使館の露台の高みから見られる光景,湾 内の水藻に反射して数限りなく広がり行く無数の光に比べれば,シャンゼリゼ大通,コンコルド 広場そしてチュイルリー宮までをその光でのみこむ,いく千ものガス燈によって作り出される照 明など何ほどのものでもない。

江戸での時の過ごし方,さまざまな玩物類

 ドゥ・ベルクール氏がすばらしくかつ愛情こもるもてなしをして下さる,フランス公使館での われわれの時間の過ごし方には,われわれに退屈ということを考えさせることはない。  朝から多くの商人たちによって,われわれが泊まっているところは取り囲まれる。彼らは日本 の工芸が作り出した極めて目を瞠らせるありとあらゆる品物を運びこんでくる。彼らは露台まで 入ることを許されていて,われわれは間もなく眩惑された目が,無限の価値を持つ品物がそこら 中に広げられるのを目の当たりにする。それらの品物は日本でしか見られないものであり,また 日本でも江戸でしか見られないものである。

青銅器

 商人たちが持ち来たったものの中には,古代神話時代の青銅器がある。その中のいくつかは紀 元前五,六〇〇年に臘型鋳造法で作られそのあと彫刻を入れられたものである。驚くべき巧妙さ でなされた作品の構想は,申し分のない趣味のよさを備えている。技術の低迷期にはしばしばそ ういうことがあるものだが,困難を乗り越えようなどとは努められなかった。しかし,難しさを 目の前にしたとき,それが職人たちを怖気づかせることなどまったくなかった。彼らは持てる才 能の十全に発揮して困難を乗り越えてきたのである。

日本の技術,中国の技術

 日本が作り出した美事でまた旧い品物の中のいずれにもすぐに目に付く,高貴な単純さ,線の 無駄のなさ,丹念な仕事といった特徴は,一目見ただけで,中国で見られる同種のものとは際 立った違いが分かる。中国では,彼らが作るものを気まぐれに複雑にしていた。工芸品は装飾過 剰であり,その装飾のまん真ん中に人間や動物の姿がひしめき合っている。線は交錯し,互いに 切断し合い,この上なく気ままで気まぐれな曲折点であらゆる方向から衝突しあっている。さら にまた,出来栄えという観点から見て作品の構想は不十分であり,すべての品物はほとんど互い に似通っている。反対に日本人の作るものには,類似性を持った二つの芸術的構想には決して出 会わない。ここでは自然に関しての深いる研究を感じる。それぞれが独創性を持っている本物の 芸術家などと言うものは,そんなにはいないものなのである。一方中国では,同じ形のものを何

(17)

度でもまねて複製するので,ただの労働者の手しか見られない。しかし複製品はいたるところで 見受けられ,ことがここまで来るとすぐにうんざりとさせられてしまう。  さらに,この問題に最終的にけりをつけよう。各個人の性格同様,一国民の性格は彼らが作り 出した作品の中に存するのである。すでに涸れてしまった文明の産物である中国人というものは, しばしば不合理で,生まれつきの盲人が持つ執拗さで進歩というものを拒絶する,もはや旧套墨 守の人々でしかない。彼らは啓蒙が何者であるのかを疑ってみることさえ出来ないのである。日 本人というものは,それとは反対に,高貴で誇り高く,若さが持つ全精気を保ちながら,世界中 の他の人々が持つ高さまで到達したいと思っている。中国人は愚かしくも過去の思い出の中で 眠っている。日本人は将来しか思い描かない。日本の旧い青銅器のほとんどすべてに,古代ギリ シアの単純で優雅な装飾が見られる。しかしながら,日本はギリシアの様式を真似たのではない, とかなりの確信を持って言い切ることが出来る。起こったことはまさにその逆であるとさえ言え る。というのも,中国帝国とその文明を受け継いだ日本帝国はすでに開花していたのであった。 ヨーロッパ全体がいまだ未開の底に沈んでいた頃,こちらでは技術がそのすばらしさの最高潮に すでに到達していたのであった。

象牙彫刻

 青銅器についでやってくるのが象牙彫刻である。時代を感じさせる唯一のものである,老朽化 を示す真似ることの出来ない色合いと,またそれに彫りこまれた日付とを考慮に入れれば,それ らは何百何千年前からのものであった。これらの象牙彫刻は,四糎から一〇糎一二糎までの群像 になっている。人物像はきわめて物静かで,彼らの顔つきの表現は独創的な仕方で丁寧に考究さ れ全般的にうまく出来ている。人間が持つ歪みをじっくりとまた知的に研究した結果である戯画 (カリカチュア)は,しばしば多種多様な形となりそこに再現されている。しかし,中国の絵に 現れるような怪異さ(グロテスク)にまでそれらが落ちることは決してない。地域的な習慣で, 釦のように煙管や煙草入れを帯に留めるために使われる,これらの群像は,もっぱら現地の人々 のために作られてきた。外国人たちがそれらを大量に買いこみ,上海や香港の愛好家に転売して, 彼らは巨大な利益を上げている。投機がこの部分に向けられていた。旧い技術が産業となった。 釦用のこの群像は膨大な数量で生産される。それに彩色という手段で,旧さといった特徴を何と か与えようとする。しかし愛好家の卓抜した鑑識眼は決して騙されることはない。古い象牙の色 合いをたとえ真似てみても,これはこれで難しいことではあるが,仕事の完璧さといった点で旧 い群像はやはり見分けられてしまうのである。

(18)

参照

関連したドキュメント

日本語で書かれた解説がほとんどないので , 専門用 語の訳出を独自に試みた ( たとえば variety を「多様クラス」と訳したり , subdirect

限られた空間の中に日本人の自然観を凝縮したこの庭では、池を回遊する園路の随所で自然 の造形美に出会

幕末維新期に北区を訪れ、さまざまな記録を残した欧米人は、管見でも 20 人以上を数える。いっ

であり、 今日 までの日 本の 民族精神 の形 成におい て大

手動のレバーを押して津波がどのようにして起きるかを観察 することができます。シミュレーターの前には、 「地図で見る日本

注1) 本は再版にあたって新たに写本を参照してはいないが、

ISSJは、戦後、駐留軍兵士と日本人女性の間に生まれた混血の子ども達の救済のために、国際養子

当日 ・準備したものを元に、当日4名で対応 気付いたこと