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煩悩障所知障と人法二無我

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﹁隙わり﹂というのはいうまでもなく、﹁悟りの障わ り﹂﹁聖道の加行の善根を陣磯する﹂ということで、原 始経典並びにその諭書において﹁業障﹂﹁煩悩障﹂﹁異熟 膵﹂というトリオの形で︲しばしば見出される。例えば 小部経典では、 ② ﹁業障を有し、畑悩障を有し→異熟障を有する有情は 不信、無楽欲、悪慧にして善法正性決定に入ること能 わず、是の有情を不能となす﹂ とあって、佛道修行の陣わりが業障、煩悩障、異熟障の ③ 三種の障わりによって説かれている。このことは分別論 4 や人施設論の場合も同様である。ここでは煩悩障所知障 という云い方はなされていないから、従ってそこには ﹁所知障﹂という語は見出されない。﹁所知障﹂という語

煩悩障所知障と人法二無我

はじめに

が用いられるようになったのは、おそらく大児盤沙而が 最初であろう。しかしそこでいう﹁所知障﹂は大乗でい う﹁所知障﹂と全く同一とはいえない。ただ不染汚無知 を﹁所知障﹂にあてる起源がそこにあることや、また﹁畑 悩障の断﹂にくらべ﹁所知障の断﹂には積極的な面が見 出されることが大乗でいう所知障とのつながりを物語っ ⑤ ているようである。すなわち、﹁煩悩陣の断﹂が悪不善 法を断ずるという、人間として当然行なう、へき、いわば 消極的立場に対し、﹁所知障の断﹂は善法を生ぜしめ、 安住せしめるという、凡人にはできない積極的な面が説 かれているからである。これは大乗で﹁所知障の断﹂が 菩薩の修す、へき、利他行として積極的な面を強調するの に等しい。 大乗になると﹁陣わり﹂といえば﹁畑悩障﹂﹁所知障﹂ といわれるほど、この二障が中心となって説かれている。

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6 そして﹁煩悩障を断ずること﹂によって人無我を証得し ﹁所知障を断ずること﹂によって法無我を証得するとい われている。しかしこのように形式化したのは、爺伽論 を通して、世親の唯識三十頌に至ってであると思う。ま た初めは﹁習気﹂といえば蚊悩障の習気にかぎられてお り、その習気が不染汚無知であり、すなわち所知障であ ったのに、何故に所知障についても、その習気︵所知障 の習気︶が説かれるようになったのであろうか。一つに は私が本論で論証する如く、畑悩障、所知障と人執、法 執とが関連づけられたことによると思うが、その根抵に は﹁陣わり﹂というものは、雌劫よりこのかたの悪習の 積み重ねであって、いくら断じても断じきれない何もの かが残る、その人間の悲しさ、吸界を﹁習気﹂という形 で表現したのではなかろうか。 かくして私は娘悩陣所知障が人無我法無我と関迎をも つようになったのはいつ頃からなのか、またどのように して関連づけられていったのか→という肌味ある問題を 思想史的に、また資料的に、検討して見ようと思う。 仙大毘婆沙諭巻百十五では、﹁三種あり、煩悩陣と業障と 異熟障となり﹂と説き、その後で、何が故に障と名づくる や。答う。是くの如き三種は能く聖道と及び聖道の加行の 、、、、、、、 善根とを礪ゅるをもって、是の故に陣と名づくるなり﹂と 畑悩障所知障という語はすでに大毘婆沙諭に川ている が、いつ頃から人法二無我と関連をもつようになったか は明らかでない。しかし、この試みが唯識派によってな されたことはまず間違いなかろう。大毘婆沙諭巻百四十 一には煩悩陣所知障が次の如く説かれている。 ﹁此の四種には皆断の義有り。謂く、前の二は畑悩障 2 を断じ、後の二は所知障を断ず、善法を修する時、無 知を断ずる故に﹂ この四種の断については直前に説明があり、それによ ると、㈲已生の悪不善法と目未生の悪不善法とを断ずる ことと、白未生の善法を生ぜしめ︲口已生の善法を安住 せしめることであるとされている。この四種の断のうち 前の二というのはいうまでもなく、已生の悪不善法と未 生の悪不善法とを断ずることである。これらは修行者が 圭 払 吻 々 ︵ ︾ O 脚南伝大蔵経第四十巻二○七頁参照。 ㈹南伝大蔵経第四十七巻五四頁参雌。 仙南伝大蔵経第四十七巻三七七頁参照。 ⑤大毘婆沙論巻百四十一参照。 仙唯識三十頌安慧釈︵山口、野沢博士﹁世親唯識の原典解 明﹂一五○頁参照︶ 53

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当然行なうべき行為であるから、煩悩隙の断はいわば消 極的立場ともいえる。これに対して後の二である、未生 の善法を生ぜしめ、已生の善法を安住せしめることは、 修行者にとって、はなはだ為し難い行であり、ともすれ ば畑悩障の断のみで十分だという誤解に堕いりやすい。 それ故、この所知障の断はよほど勇気のいる、積極的な 修行といえるのではなかろうか。この相違が大乗でいう 煩悩陣と所知障との相違にまでつながり、煩悩陣の断の みで満足するものを声聞#独覚といってけなし、それに 満足することなく、利他行である、所知障の断にまで進 むものを大乗の菩薩というのである。従ってそこには雌 悩障の断の場合よりも積極的な面が加わるように思われ ヴハンO ところで、この大毘婆沙論の記述には、なるほど娘悩 障所知障という語が説かれているが、小乗の肺であるか ら当然そこには人無我法無我という語は見当らない。従 ってここでは畑悩陣所知膵はまだ人法二無我と面接関迎 をもっていないようである。 ところが面白いことに大正蔵経では、今の文の﹁無知﹂ が﹁法知﹂となっている。これは明らかに所知障が法無 我と関連をもつ︸﹂とを知っていての記述にちがいない。 もし初めから﹁法知﹂とあったとしたならば、すでに婆 沙諭において所知障は法無我と関連をもっていたことに 3 なるのであるが、しかし内容的にも、また思恕史の上か らも、それは無理であろう。おそらく﹁無知﹂となって いたのが、いつの時代にか﹁法知﹂と誤喉されたか、故意 に変えられたかにちがいない。またこの婆沙諭によれば ⑲○ 有るが是の説を為すといって、悪不善法を解釈し、﹁悪 ○○ とは色無色界と及び欲界の少分との染法をいい、不善と ℃、

○○○○

は欲界の多分の染法をいう﹂とあるから、悪不善法は染 ○ ○ 法ということになり︲従って善法は不染汚法ということ ⑤ になる。かくしてこの盤沙而の記述は岨悩障が染汚無知 であり、所知障が不染汚無知であることを語るものとし て一般に認められている。 ところで染汚無知、不染汚無知については、婆沙論巻 ⑥ 九十九に﹁満の無知に略して二種あり、一には染汚、阿 羅漢には巳に無し、二には不染汚、阿羅漢も猟お有り﹂ とあるから、染汚無知は阿羅漢も断ずるが、不染汚無知 は佛のみが断ずるということになる。 私はこの染汚と不染汚との相違が娘悩障所知障を、人 無我法無我と関連づけたのではないかと思う。いいかえ れば、煩悩陣所知障は染汚︲不染汚を媒介として、人法

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二無我と結びついたということである。なぜなら、染汚 を断ずるものも、人無我を悟るものも、ともに阿羅漢、 声聞、独覚であるのに対し、不染汚を断ずる、法無我を 悟るものはともに佛、菩薩であるからである。 さて唯識思想の所依の経典である解深密経でも、煩悩 障所知障と人法二無我との関係はまだ明確でない。とい ④﹁此四種皆有二断義聿謂前二断二煩悩陣や後二断二所知障一 修二善法一時断二*法知一故﹂︵大正二七、七二四中︶ *但し宮本には﹁法知﹂は﹁無知﹂となっている。 ②宮本によって﹁無知﹂と訂正した。 ③人法二無我、特に法無我ということは大乗教徒がいい出 したことで、婆沙諭の如き有部系の論がこれを主張したと は到底考えられない。 側大正二七、七二四下。 ⑥望月大辞典第三巻所知障の項参照。 ⑥大正二七、五二中。 ○○○

煩悩陣l染汚l阿羅漢は断ずる

○○○ 1人無我のみを悟る︵小乗︶ ○○○

所知障l不染汚l佛のみ断ずる

○○○ l法無我をも悟る︵大乗︶ ’一

うのは漢訳︵玄跿訳︶では次の如く説かれているからで 圭抽︸づ︵包○ ﹁若し廻向菩提の声聞種姓の補特伽羅は、我亦異門を 以て説いて菩薩と為す。何を以ての故に、彼既に畑悩 障を解脱し巳って、若し諸佛等の覚悟を蒙むる時は、 ℃、℃ 所知障に於て其の心亦当に解脱を得可ければなり﹂ ︵大止一六、六九五中︶ ここに﹁声聞種姓の補特伽羅﹂とあるので、一般に声 珊は人︵補特伽羅︶無我のみを、菩薩は法無我をも悟る といわれるところから、煩悩障l︲声聞1人無我の関 迎を考えて、すでに解深密経において煩悩隙と人無我と の関連ありとする誤解に堕いりやすいのであるが、ちな ② みにここのチゞヘット訳と流支訳︵深密解脱経︶とを参照 すると、﹁声聞種姓の補特伽羅﹂に相当する個所は、﹁声 聞﹂又は﹁声聞人﹂となっていて︲ここの補特伽羅は人 、、 無我と直接関連していないことが知られる。従って解深 密経においても、まだ順悩障と人無我との密接な関迎は 顕われていないようである。 ところが弥勒の爺伽諭になると、所知障と法無我との 関係が明瞭に現われる。 ③ ﹁︹所知障とは︺所知について智の障擬たる陣であると 55

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いわれる。此は如何なるものか、諾の菩薩と諸佛、世 、b、 尊との法無我に悟入する為である﹂ ここでは明らかに所知障の断と法無我との関係が説か れている。しかしサンスクリット原典による限り、煩悩 障と人無我との関係はまだ明瞭になっていないように思 われる。 しかし唯識三十頌︵釈︶になると、明らかに畑悩障所知 障が人法二無我との関連の上で語られている。 4 ﹁復た、人法二無我の義を教うるは、頬悩と所知との 障を断ずるためである。謂く、負等の諸煩悩は我見よ 、、も り起る。そして人無我の義を覚することは有身見の対 治となるものてある故に、その︵有身見︶を断ずるこ とに努めるものは一切の諸煩悩を断ずるからである。 、、、 法無我の義を知れば、また所知障の対治となる故に、 所知障は︵法無我の義を知るとき︶断ぜられるからで ある。﹂ ここでは人無我が負等の触悩即ち畑悩障を断ずること であり、法無我が所知障を断ずることであるから、従っ て三十頌︵釈︶では人無我法無我は煩悩障所知障との関連 の上で語られていることは明らかである。更にそのすぐ 後では、 ここで煩悩陣は比較的理解しやすいのであるが、所知 障の内容が一切知者性を得ることの味とか、不染汚無知 てあるとかいうのみでは、はなはだ理解しがたい。元来 1 ② 煩悩障は﹁煩悩即障﹂であるが、所知障は﹁所知に対す る障﹂であるから、そこで﹁所知﹂の内容が問題となっ てくる。従来所知障の内容ははっきりせず、あいまいで あったが$中辺分別論や大乗荘厳経論の註釈などによっ て次第に明らかになってきた。中辺分別論釈疏では所知 ⑤ ﹁炊悩と所知との陣を断ずることは、また解脱と一切 知者性とを証得するためである﹂ ともいわれ、また所知障が不染汚無知であることも説か れている。 の﹁菩提に廻向する声聞は、我が異門によって菩薩なりと 説く、何となれば彼は煩悩陣より解脱し、諸の如来によっ て励まされる時は、所知障より心が解脱する故に﹂︵影印 版二九巻一○’五’三︶。 ②﹁発菩提心声聞人者。而我説彼名為菩薩云直︵大正一 六、六七一下︶。 ③宇井博士﹁梵漢対照菩薩地索引﹂三五頁参照。a尻や認︶ 側山口、野沢博士﹁世親唯識の原典解明﹂一五○頁参照。 ⑤同書一五一頁参雌。 三

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障について、 ⑧ ﹁無知には、所知に於て智のみの起ることに対する障 義あるが故に所知障という﹂ といって、 4 ﹁五明処に勤行せずしては聖上者すら一切智性たら ず﹂ という偶を引いている。それ故所知障は智を陣うるもの であり、その障を減し、智を得るために五明処を行ずべ きことが説かれている。そこで五明処とは一体何である ⑤ うかということになるが、大乗荘厳経論巻十八では知法 知法業、知相、知無尽を説き、その知し法について、 ⑥ ﹁その中、法︵閏算国︶を知るとは五明処を知ることで ある。即ち内明、因明、声明、医明、巧明なり﹂︵二十 五偶註m嗣口畠巴 といっている。従って五明処とは内明等の五明であるこ とが知られるが、これらは大乗菩薩の知るゞへき法である。 7 荘厳経論では巻十九でも四種の仮建立の第一法仮建立と して五明処を上げている。要するに五明処は大乗菩薩の 知る、へき法、修す、へきものであり、それに対する障が所 知障に他ならない。 しかし﹁五明処を勤行する というのは、単に知識とところで、噸悩障、所知障には﹁習気﹂が説かれるが駒 して五明処を知るというのではない。五明処に通達し、 、℃、、 五明処を勤行するのである。すなわち、五明処を勤行し て一切衆生を救う、人次を助けるという意が含まれてい るにちがいない。でなければ大乗菩薩としての利他行と はいえないからである。 ①山口博士﹁中辺分別論釈疏﹂一○一頁参照。 日騨白彦暑割ロ3尋.号ロ掛旦男到や急. 典 .○ロ︲冒○己い︲温︲副早鮠四号︲鷺、畑悩即障︵持業釈︶。 ②山口博士﹁中辺分別論釈疏﹂一○二頁参照。 員冒砂・岸冒剣叫.ロ汁凹子.﹄ずご倒叩騨冨丙倒も?①m t 濡醜︲身四︲盲︲砂四号︲葛、所知に対する陣︵依主釈︶。 ③山口博士﹁中辺分別論釈疏﹂一○三頁参照。 側同書一○三頁参脳、 山口博士﹁動佛と静佛﹂七八頁参脈。 ⑤梵分品第二十五偶、第二十六偶︵梵本一三六頁参雌︶。 ⑥冨曾幽勘、q餌司胃劉目圃副騨昌身剖昌習習ブ、騨唾目、 幹Qぽご叫白︺芦P詳司︺邑昌到彦①・詐匡く弓旦閨劉のゆけ︹一四弓﹄今︾勤巳戸芹印酎.く芦毎剤倒 豐己四〆曽,冒尉g目昌1s凸・沙、︵原且卦や]患﹄.国︶ 卜 切﹁その中、五明処の建立は法建立なりと知るゞへし、 聞耳四︵経︶池の①百︵祗夜︶の種類の差別によって﹂命困 ▲、皿ノ も.岸cへ︶ 四

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﹁習気﹂は本来所知障に相当していたと考えられる。そ の起源は婆沙諭巻九に、 の ﹁不染汚は声聞独覚能く断尽すると雌も猶お現行す。 、、℃、 唯、如来有りてのみ畢寛不起なり。畑悩習気供に永断 するが故に。此に由って独り正等覚者と称せられる﹂ も、 とあって、如来が﹁畑悩習気倶に永断する﹂といわれて いるところに由来するものと思われる。なぜなら不染汚 、℃も 無知︵所知障︶を断ずる佛、如来は$煩悩陣所知障を共 に断じなければならないからである。 かくして唯識三十頌に対する調伏天の註釈によれば、 2 コ切の所知に於ける智の活動を阻止する不染汚無知 、、、、℃、、℃、、℃、、 ︵所謂︶所取能取に対する執著の習気なるものが、蓮に 所知障︵の自体︶であると説かれたのである﹂ とあって、所知障I不染汚無知1所取能取に対する執著 の習気の関係にあることが知られる。不染汚無知が所知 ③ 障であることは、先に婆沙論の項で述今へた如く、一般に 認められているし、不染汚無知が習気の異名であること 4 も倶舎論の註釈などによって明らかであるので、ここの 調伏天の註釈にも見られる川く、習気は所知障に相当す ることが知られる。 しかるに究竜一乗宝性論︵釈︶では、所知障の他に習気 なるものを説いている。 芦ひ も、、 ﹁不清浄な、は幼童凡夫の煩悩障によってであり、不 、℃℃ 離垢な、は声聞独筧の所知障によってであり、有汚点

⑥、、

は菩薩の右の二の何れとも異なるもの、即ち習気によ ってである﹂︵宇井博士訳︶ もっとも梵本には習気に相当する語鼠閨鼠はないが 漢訳に﹁有点者以諸菩薩摩訶薩等依彼二種習気障故﹂︵大 7 正三一、八三二中︶とあるばかりでなく、チ、ヘット訳にも習 気を意味する﹁残余﹂という語が用いられているのであ るから、﹁習気﹂であることは疑えない。それ故ここで は煩悩障所知障の他に習気が考えられていることにな酉 もっともこの場合、煩悩障所知障と全く無関係な習気と いうものは考えられないから、煩悩陣所知障を断じた後 になお残る習気という意味であろう。現にここのチ、ヘッ ト訳は、

⑧、、

﹁諸菩薩の︵有点︶とは、その二つのいずれかの残余 によって過失を有するものである﹂ とあるからである。ここで奇異に感ぜられることは、 ﹁声聞独覚の所知障﹂という言葉である。そしてここで 、、 は習気が菩薩の陣となっている。元来、所知障は菩薩の 障であり、中辺分別論釈疏にも

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9 ﹁︵声聞等にも不染汚無知︶有るべし。而も彼︵不染汚 無知︶は彼等︵二乗︶の障にあらず。彼︵無知︶あり ながら︵彼等は︶声聞と独覚との菩提を得るが故なり﹂ とあるように、声聞や独覚は煩悩陣を断じたが、所知障 が未断のままで残っていて、その所知障のあることに無 関心だから二乗である、といわれる。このように所知障 は一般には、菩薩の断ずゞへき障であると認められている のに、宝性諭にあっては﹁声聞独覚の所知膵﹂といい、 菩薩の陣としては別に﹁習気﹂が考えられている。もっ とも畑悩障所知障を断じた後にも稗気があると説くのは 宝性諭だけではなく、荘厳経論菩提品安慧釈にも見ゅる 所である。 ⑩ ﹁わずかの順悩と所知との障の断を説く。無始以来の 輪廻を断じえない煩悩陣も断じ、所知陣も断ずるとい う義である。:⋮・娘悩障と所知障との習気もまた残り なく断ずる﹂ ︸﹂こは断円満の内容として煩悩陣と所知障とそれの習 気とが断ぜらる今へきものであると説く個所であるが、と もかくも宝性論のみならず他の諭書にも、所知障を断じ た後に習気の障を断ずゞへきであると説いていることは注 ⑪ 意すべきであろう。しかし前述の如く、所知障本来の意 味は智慧を障うるものであり、その障を除くことは菩薩 の究極の目的であったにちがいない。すなわち、所知障 も℃ を断ずることは習気︵所取能取に対する執著の習気︶を 除くことであったのである。しかるに宝性諭等にあって 、、、b は、所知障I習気ではなく、煩悩障と所知障とその習気 として説かれている。 側大正二七、四二中。 ⑧山口、野沢博士﹁仙税唯俄の原典解明﹂一五三頁参照。 側本論第一章、註伺に祁当する本文参照。 の舟橘水哉著﹁倶舎論の教義及び其歴史﹂一七頁参照 ⑤乎井仰士﹁猟性諭俳究﹂四九六頁参雌。 側宇井博士は凹昌少冨日騨を鴎旦鼻胃騨と理解し︵宝性諭 研究四九六頁注︶、三諏回切目を含鼻旨昇︵異なる︶の意に解 したから、﹁いずれとも異なる﹂という訳になったのであ るが、騨二冨冨昌騨には診眉﹃OpOa目四コ涜陸一皇の意があ り国曾鮠冨には冒閉の”a&﹄彦騨国品つ一己Hgの意があ 、ロ〃。 、、、、、、 るから、﹁諸菩薩の有点とは、それら二つのいずれかの有 する︹習気︺によってである﹂となり、チ。ヘット訳にほぼ 一致する。 例﹁宝性諭研究﹂四九六頁脚註③に﹁チベット訳にも罫畠麗.鱒 とあるから﹂とあるが、実際には冒叩の冒鴇つ釧留参二己と いう語は用いられていない。ここのチゞヘット訳は次の通り である。 一︶望騨。○ゴ巨諄︶、のご昂︵一己騨一︾H二四口]、一肉言]己]︵一①距或一函四mP己 昇竺]Hg冒冨專是︸︸ミ勿準ご○ロ︵一皇胃四加冨言︵影印版、 59

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さて所知障l習気とする考えと、畑悩障と所知障とそ ℃も、 の習気とする考えとの、この相違はどうして生じたので あろうか。一つには、初めは習気といえば畑悩障の習気 に限られていたのに、後世になると所知障にもその習気 が考えられるようになったからにちがいないが、その根 抵には煩悩陣所知障が人執法執、いわゆる人法二無我と 関連をもったところに原因があるようである。すなわち 成唯識諭などでは煩悩陣所知障を我執法執の意に解して いるか、我執法執は能取所取の執著であるから、当然習 気というものが考えられうる。そういうところから岨悩 障所知障にも習気を考え、所知障を減した後にもその習 気を減す、へきことが説かれるようになったにちがいない。 例えば成唯識論巻九には、 1 ,も、℃、℃ ﹁煩悩障とは謂く遍計所執の実我を執する薩迦耶見を 而も上首とせる百二十八の根本煩悩と⋮⋮所知障とは 弘1216︶。 ⑥同右参照。 ⑨山口博士﹁中辺分別論釈疏﹂一○二頁参照。 ⑩影印版一○八巻・二四八’三’六参照。 ⑪本論第三章参照。 五 ■、℃、v、 謂く遍計所執の実法と執する薩迦耶見を而も上首とせ る見と疑と無明と愛と志と慢等なり﹂ とあるように、煩悩障所知障は我執法執の意に理解せら ② れている。従って煩悩障とは﹁実の人、実の衆生がある﹂ として我を執することであり、所知障とは﹁ものには実 体がある﹂として法を執することになるのである。而し てここには当然それらの習気が考えられるようになる。 このことは直前に、 ③、心心、 ﹁二取習気名二彼随眠毛随司逐有情眼︾|伏蔵識一或随増 、、、、、 ゞ過故名二随眠一即是所知煩悩障種﹂ とあることによっても知られよう。ここで二取とあるの は所取能取であり、ここでは所知煩悩障のことに他なら ない。 先に人執法執には当然習気が考えられるといったのは 実は成唯識諭のみならず、唯倣三十噸安慧釈にも次のよ うな記述があるからである。 〃4 ,, ﹁我等と分別することの習気が蛸長するために、また 色等と分別することの習気が増長するために、阿頼耶 識より我等とじて顕現し、また色等として顕現する分 別が生起するのである﹂ ここでは勿論成唯識論にあるように、我執法執を煩悩

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障所知障に当ててはいないが、しかしともかくも我執法 執の習気ということは説かれている。この﹁我等﹂﹁色 等﹂というのはいうまでもなく、唯識三十頌第一偶に語 られている﹁我﹂﹁法﹂のことであるから、それを分別 することは我執法執に他ならない。なぜなら唯紬三十頌 ⑤ では我と法とに執着することは、遍計所執性であるとせ られているからである。従って我執法執には当然﹁習気﹂ が考えられるところから、その我執法執に対応する煩悩 陣所知障にも﹁その習気﹂が考えられるようになったの ではないかと思う。それ故本来の意からいえば、その習 気が減せられることによって所知障の残りなき減がある から、その習気は所知障に含まれるといえよう。換言す れば、一応伽悩障と所知障とその洲気と分けてはいるが 習気はもとより煩悩障所知障と無関係ではないから、所 知障を残りなく減するということは、その習気をも減す ることでなければならぬ。このことは調伏天の註釈に、 ⑥ ﹁一切の所知に於ける智の活動を阻止する不染汚無智、 、、、、、、、、℃、、℃、 ︵所謂︶所取能取に対する執著の習気なるものが、薮に 所知障︵の自体︶であると説かれたのである﹂ とあり、所知障を﹁所取能取に対する執著の習気﹂とし ていることによっても知られよう。従って本来の所知障 は習気をも含むものであるが、煩悩障所知障とその習気 と分けた場合の、その所知障は習気を含まない﹁法執﹂ の意にすぎないと考えられる。 さて、いまいう阿頼耶識よりの色等と我等との顕現は 中辺分別論でいえば外境・有情と我・了別との四極の顕 7 現に相当し、中辺分別論ではこれらが明らかに所収相と 能収州として税かれているから、唯識三十噸の﹁我﹂と ﹁法﹂との顕現は能取と所収との顕現であると考えられ る。しかるに前述の如く、我執法執は畑悩陣所知障であ った。こう考えてくると所知障といった場合、所取能取 もb に対する執辨の習気を意味する場合と、成唯識諭などの ように法執︵所取︶のみを意味する場合とが考えられる。 もっともこの二つは結局一つのことであるのかも知れな いが、図示すれば次の如くなるであろう。

恥榊禰止叶︾織難︵所知障︶

し岬州越・小岫Ⅲ帷”M吋腓︲lトー﹃ ○○○ この図から明らかな如く、所知障には法執だけを意味 する場合と、それら人執法執を断じた後にもなお残る習 気を意味する場合とが考えられる。しかしここでいう習 気は触悩障所知障と無関係な門気ではないから、従って 61

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後者の場合は前者をも含むと考えられる。そこで所知障 の本来的意味はそれを減することによって菩提を得ると いう究極的なものでなければならないから、法執という だけでは不完全で、真の所知障は習気を含む所知障にあ るといわねばならない。ともかくも所知障といえば不染 汚無知であり、習気であったのに、その所知陣について も更にその習気を考えるということは曠劫よりこのかた の悪習の職み屯ねを断滅することは中次容易なことでは ないということをこの習気が物語っているようである。 しかしその根抵には先にも述ゞへたように煩悩障所知障が 人執法執と結びつき、人執法執には当然習気が考えられ るところから、煩悩陣所知障、特に所知障にもその習気 を考えるに至ったのではないかと思う。 かくして頗悩障所知障と人法二無我とは元来別次に成 立し、ある時期に︵おそらく唯識派によって︶結びつけ られたにちがいない。そう考えれば所知障の内容が複雑 となり、所知障I習気であったのに、その所知障につい ても更にその習気が考えられるに至ったことにも納得が いノくように思う。 (2)(1) 大正三一、四八下参照。 ﹁佛教学辞典﹂四一七頁下参照。 一︿ 後世、不染汚無知が習気の異名であるということは倶 舎論の註釈などによって一般に協められるようになった が、しかるに不染汚無知は所知障であるから、このこと は習気を所知障とすることに他ならない。所知障を所取 能取に対する執著の習気とする記述は、月称の立場を説 明する中観派の菩提道次第広論にも見られる。 ② ﹁所知障とは、無始時来、有、性なりと執箸している 物について、執著の薫染によって心相続の上に習気が 、、 堅くおかれ、その習気の力により、無凹性なるにもか かわらず、向性有なる如く現われる二の顕現の迷乱が それである﹂ とあるから︲巾観派︵月称系︶においても所知陣は習気 であると認められていたのである。かくの如く頬悩障は 我であるとか、我所であるとかと執箸する所に生ずる貧 等の煩悩であり、それを減することによって人無我の義 7)(6)(5)(4)(3) 大正三一、四八下参照。 ﹁世親叩識の原典解明﹂一六一頁参照。 同書、一五四頁参照。 本論第二章註②参照。 山口博士﹁中辺分別論釈疏﹂二五頁参雌。

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を覚するのであるが、所知障はそれら畑悩を減した後に もなお残る、所取能取に対する執著の習気と考えられる から、それは不染汚無知に他ならない。従ってこの習気 を減することによって、はじめて所知障の減すなわち真 の法無我の義に悟入するのである。 さて大乗義章巻五には、五任地の惑の内、前四を岨悩 障に、無明住地のみを所知障に当てている記述がある。

③、、、、、、、、、、、、、、、、

﹁四住畑悩。為蚊悩障。無明住地。以為智陣。以勝重 経対地持論。験之知美。勝鬘経中説。二乗人但断四住。 不断無明。地持論中説。二乗人奴悩障浄。非智障浄。 姐悩浄者。猶勝鬘中所断四住。非智障浄。猶彼不断無 明住地﹂ 4 この大乗義章によればすでに勝震経にもこのような解 釈があることが知られ、無明任地を所知障とすることは 一般的であるように思われる。ところで宝性諭には無明 任地の﹁住﹂に相当するチベットは一︺品︲o冒唄︵習気︶ となっている。 計P含罵一℃H津庁︶﹃芦昌P]色一向い色、口鱒ロ]忌喧一s豈圃︲尾口吻へ↑lG背﹄.画ミゞご、︵⑫戸? 己.いい﹄.﹄﹃︶ 二⑦一へ一︺︲一声︶訂、⑦二顕昌一ニニッゴ餌ロコーQロー﹃ご黄↑こ函、︵言一一へ守亀ゞ畦 ・言婆ご﹃睦言、︵謀晉笥さl唾lc ⑤ 宇井博士も指摘されている如く、無明住地に相当する サンスリヅトは煙く己嵐︲ぐ鬮騨︲9口目目の他に画く己箇︲く白︲ 協口ゆき宮口日]︾蜜ぐ己嵐︲く尉営︺画き言旨昌などが用いられる ﹁住﹂に相当する語がく尉昌国であれば勿論﹁習気﹂で あるが、ぐ爵四︵亘ぐ院住する︶とあっても結局は宝性論 では習気のことであり、それらは所知障に相当するよう である。というのは、宝性論には無明住地に対する次の ような記述があるからである。 6 ﹁そこで一切の随煩悩の依止となっている無明住地 ︵妙ぐ己剴︲ぐ儲鱒︲ず冒目︶が未だ断ぜられないから、阿羅 も、、、、、℃、、、 漢や独覚や自在に達した菩薩は一切煩悩の垢の悪臭な 、、、 る習気を除くことを究極とする浄波羅蛮に達していな い﹂ ここでは無明住地において姐悩の習気を除くことが究 極の目的として示されているが、要するに真の菩薩とな るためには無明住地の習気は除かれねばならない。こう いうところからも無明住地︵習気︶が所知障となるとい えるように思う。そしてそれは先程の大乗義章の無明住 地︵習気︶を所知障とする記述と一致するものに他なら ない。 以上の如く所知障は唯識派にあって法執だけを意味す 63

(13)

る場合と、習気を意味する場合とがあった。これを唯識 三十頌の上でいえば、我︵能取︶と法︵所取︶との無が 人無我法無我であるが、法無我は所知障の減であるから この場合、法執だけに限る所知障は習気を含まないもの 7 で、狭い意味の所知障ということになる。しかし調伏天 の解釈などのいうように、所知障は所取能取に対する執 著の習気でもあるから、先の法執とこの料気との両者を 減したところに真の所知障の減があると考えられる。し かし法無我ということも法執の減だけに狼るのは非常に 不完全で、真の法無我はいまいう習気をも含む所知陣の 減にあると考えられるから、人執法執の習気まで減した ところにあるといわねばならない。なぜなら人執法執す なわち能取所取の分別があるのは、実はまだ煩悩陣であ って、その習気をも減することによって所知障の減があ るからである。いいかえれば法無我すなわち所知障の減 は法執の減だけに限定されず、その習気をも減するとこ ろにあるといわねばならない。 こういった所知障に対する解釈の差異が中観派の月称 と渭弁との解釈にも相違となってあらわれているようで ⑧ ある。すなわち月称系では、先にも述。へる如く、所知障 9 は習気として考えられていた。しかるに清弁では所知障 が法執と考えられていたようである。なぜなら月称は余 の中観諭師︵清弁等︶について次の如く述べているから である。 ⑩ ﹁余の中観諸師が、所知障︵言の菌︲畠﹃“国冨︶となす所 の諸法諦実なりとの執著をば、︹所知障ではなく︺無明 なりとするのであり、且つそれはまた、有染汚の無明 なり、と云うのである﹂ この文によって清弁は所知障を諸法諦実なりとする執 著すなわち法執と解するに対して、月祢はそういう法執 というものは有染汚無明であり、これを減するのみでは 十分ではないとしている。要するに清弁にとっては法執 が直ちに所知障であり、それを減することをもって究極 の菩提に至るとするのに対してゞ月称はそういう法執の 減というのは単に有染汚無明にすぎず、習気まで減する をもって真の所知障の減とするのであろう。 (1) 渭弁

畑悩障1人執

所知障11法執 第四章註倒参照。

︵不染汚無知︶|所知障l習気

︵不染汚無知︶ 月称 ・・・:・頬悩障 ⋮⋮・・・:有染汚無明

(14)

②長尾博士﹁西蔵佛教研究﹂三五一頁参照。 ③大乗義章巻五、大正四四、五六一下参照。 智障とは所知障のことであるから、前四地︵見一処住地 欲愛住地、色愛住地、有愛住地︶は煩悩陣であり、第五無 明住地のみが所知障ということになる。もっともこれは第 一の解釈であって、第二説では﹁五住性結を煩悩障とし、 邪中無知を智障﹂としている。第三説になると、﹁五住性 結及事無知を煩悩障となし、分別縁智を智障﹂としている。 側勝震経、一乗章第五参照︵大正、十二、二二○上︶ もっとも勝篦経においては、無明住地の力は大であり、 阿羅漢畔支佛は四住地の煩悩は断ずるが、無明住地は断じ えない、と説かれているのみで、智障︵所知障︶という祁 は見当らない。 ⑤宇井博士﹁宝性論研究﹂五三○頁参照。 ⑥国qP切目ぐ。冨匡の蟹︲33昌岬沙ご色︲9割身目ミミ旨昌︲ ↑のへ&︾曹華・罵貴臼己尻抄]司宮︶四汁旬到二︲色]︲ず砂]︺庁里︾己H四斤昌里椀騨ごロ色色ゴ倒昇﹃四︲ 陛庁“もH叫も庁叫の○ゆず○昌彦騎四汁斤気酬﹄]mP司くゆ吋帝”四]己四﹄pQ四巨引ぬゆロー︲ 彦葛︲乱輌冒罰己昌声胃箇宅秒昌騨ご菌︲習亘国己卸曾昌団昌一副︹旨侭凹︲ ︵″っ団四コ丘、︵印園.や]、ど の﹁世糾唯祇の原典解明﹂一五三頁参照。 ⑧本論第六章註②に相当する本文参照。 ⑥光川豊芸氏﹁人法二無我に対する消弁と月称の見解﹂一 三四頁参照。︵佛教文化研究所紀要第一集︶ ⑩長尾博士﹁四蔵佛教研究﹂二○八頁、三五一頁参照。 ま

とめ

以上考察した如く、煩悩障所知障という語はすでに大 毘婆沙論に出ているが、それを人法二無我と関連づけた のは唯識派であると考えられる。また所知障は元来、不 染汚無知であり、習気、すなわち畑悩障の習気という意 味で使われていたのであるが、後世になると、煩悩障と 、、Ⅵ砠 所知障とその習気というように、煩悩障のみならず所知 障についてもその習気を説くようになる。そこには陣わ りというものは、断じても断じ切れないものであるとい うことを﹁習気﹂という形でよく表現しているように思 われるが、しかし所知障についてもその習気が説かれる ようになったについては、煩悩障所知障と人執法執との 関連を見逃してはならない。 次に畑悩障所知障が人法二無我と関連づけられるよう になったについては、染汚無知、不染汚無知との関連が あったように思われる。なぜなら、染汚無知、不染汚無 知は婆沙諭などにおいて、阿羅漢と佛とを区別する目安 となっており、一方→人無我法無我も大乗教徒から見る かぎり、声聞︵阿羅漢︶と菩薩︵佛︶とを区別する有力 な基準となっているからである。 かくして煩悩障所知障を断ずることは人法二無我を証 得することであり、それが大乗の菩薩道でもある。畑悩 6S

(15)

障 の 断 は ' 諸 煩 悩 を 断 ず る と い う 人 間 と し て 当 然 行 な う べき、 ど ち ら か と い え ば 、 消 極 的 な 立 場 で あ る が 、 大乗 の 菩 薩 は そ れ だ け に 満 足 せ ず ' 更 に 利 他 行 で あ る 、 所 知 障 の 断 へ と 進 む 。 い い か え れ ば 、 煩 悩 障 の 断 は 悟 り を 得 る た め に 当 然 行 な う べ き 行 で あ り 、 こ れ は 無 分 別 智 に よ っ て 断 ぜ ら れ る 。 し か し 所 知 障 の 断 は 、 自 ら が 悟 っ た と い う 、 い わ ゆ る 独 覚 の 立 場 に 満 足 せ ず 、 更 に 利 他 行 で あ る 大 乗 菩 薩 道 へ と 進 む こ と に よ っ て 初 め て 断 ぜ ら れ る も の で あ り ' か く し て こ の 所 知 障 は 後 得 清 浄 世 間 智 に よ っ て 断 ぜ ら れ る の で あ る 。 そ し て そ の 習 気 と い う の は 、 無 分 別 智 と 後 得 清 浄 世 間 智 の い ず れ か が 欠 け て い る 不 完 全 な 場 合 で 、 も と よ り 大 乗 菩 薩 行 は 烦 悩 障 所 知 障 の み な ら ず ' 二 障 の 習 気 を も 完 全 に 滅 す る こ と を 目 的 と し て い る

参照

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