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諷刺作家の誕生(3)初期ジョナサン・スウィフトの思想

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諷刺作家の誕生(三)

初期ジョナサン・スウィフトの思想

はじめに 一   若き野心家   1   スウィフトの野心   2   ララカーの牧師    ⑴   ララカー    ⑵   聖務と生活    ⑶   聖パトリック大聖堂参事会員          (以上第六七巻一号) 二   最初の政治パンフレット   1   政治の動向    ⑴   党派抗争    ⑵   ジャントの弾劾     ⅰ   スペイン分割条約        (以上第六八巻一号)     ⅱ   弾劾裁判   2   『アテナイとローマにおける不和抗争』 (1)    ⑴   混合政体と勢力均衡    ⑵   アテナイにおける貴族と平民の抗争       (以上本号) 『岡山大学法学会雑誌』第69巻第3号(2020年2月) 213 一

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最初の政治パンフレット

1   政治の動 向 (( (   ⑵   ジャントの弾劾 ⅱ   弾劾裁判   トーリが多数を握った新しい議会は、スペイン継承戦争が勃発したのと同じ一七〇一年二月六日に開会された。 議 長 に 選 出 さ れ た の は、か ね て よ り 反 コ ー ト 派 議 員 を 結 集 し、反 政 府 キ ャ ン ペ ー ン を リ ー ド し て い た ロ バ ー ト・ ハーリーであった。ハーリーの議長就任は、カントリ勢力の庶民院掌握を如実に示すものであり、議会が開会され ると、 その直後から前政権を主導していたジャントへの攻撃が開始された。 その口火を切ったのは貴族院であった。 まず、 ウィリアム三世が二月一一日の国王演説 ( Kingʼs Speech ) で、 スペインのカルロス二世の死 (一七〇〇年一 一月一日)と王位継承に触れ、国際情勢に大きな変化が生じたため現今の状態を慎重に検討し、イングランドの利 益と安全、およびヨーロッパの平和に最大限資するような決議を行ってもらいたい旨述べ た (( ( 。その翌々日、貴族院 は奉答文 ( Adress ) で、 国王の要望に応えるためにはライスワイク条約 (一六九七年) 以降のすべての条約に関す る文書が必要であり、それらを議会に提出するようウィリアム三世に要請し た (( ( 。その要請を受けて、三月一二日か ら一四日にかけて関係文書が提出され た (( ( 。ただしそこには、一六九八年一〇月に締結された第一次分割条約に関す るものは含まれていなかった。   分割条約(一七〇〇年三月)をめぐる貴族院の議論は、一七〇一年三月一五日から始まった。すなわち、特別委 員会( select committee )の委員長に選任されたトーリ右派のノッティンガム伯が、条約内容と手続きに関する問 二

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題 点 を 七 項 目 に わ た っ て 報 告 し た。具 体 的 に は、重 要 な 利 害 当 事 者 で あ る 神 聖 ロ ー マ 皇 帝 が 協 定 に 参 加 し て い な かった点、全権大使に対して書面による指示がなされず、仮に口頭での指示があったとしても、枢密院で検討され たとはとうてい思えない点、枢密院での審議なしに批准された点、会期中であったにもかかわらず、議会に何の報 告もなく交渉が進められ、署名と国璽押捺がなされた点等々であ る (( ( 。それらは一五日と一七日に項目ごとに討議さ れ、ノッティンガム伯やノーマンビー侯(のちのバッキンガム=ノーマンビー公爵)から厳しく批判され た (6 ( 。とり わけその矛先が向けられたのは、フランスとの交渉にあたって中心的役割を果たし、条約に署名したウィリアム三 世の寵臣ポートランド伯であった。   ト ー リ か ら の 批 判 に 対 し て 、 も ち ろ ん ウ ィ ッ グ は 手 を こ ま ね い て い た わ け で は な い 。 ポ ー ト ラ ン ド は 、 ウ ィ リ ア ム 三世とその側近が秘密裏に条約を結んだという非難に対して、調印の少し前に国王の指示に従って主要な大臣たち と協議したと反論してい る (( ( 。また三月一八日には、ウィッグ貴族のウォートン男爵が、条約を破棄したのはルイ一 四世であり、今後は確実な保証がないかぎりルイとの交渉は行わず、彼の言葉も信用してはならない、という文言 をウィリアムへの奉答文に追加するよう提案してい る (( ( 。したがって、必ずしもすべてがトーリの筋書どおりに運ん だわけではなかった。にもかかわらず、分割条約を非難する奉答文がトーリ主導で作成されたのであっ た (( ( 。   分割条約は、トーリが多数を占める庶民院においてより厳しく追及された。まず三月二一日、フランスとの条約 が議会に通知することなく締結され、イングランドはもとより、ヨーロッパの平和と秩序に大きな脅威がもたらさ れ た と い う 趣 旨 の 決 議 が な さ れ て い る ((1 ( 。そ し て 二 四 日 に は、か ね て よ り ウ ィ ッ グ に 批 判 的 な サ ー・エ ド ワ ー ド・ シーモアが、二一日の決議と同趣旨の奉答文のドラフトを議会に提出して承認されてい る ((( ( 。前政権の指導者たちを 攻 撃 す る 最 初 の 山 場 は 四 月 一 日 に 訪 れ た。す な わ ち こ の 日、庶 民 院 で ポ ー ト ラ ン ド の 弾 劾 訴 追 案 が 可 決 さ れ た。 「ポ ー ト ラ ン ド 伯 は、わ が 王 国 の 通 商 に 破 壊 的 で、ヨ ー ロ ッ パ の 平 和 に 脅 威 的 な 分 割 条 約 の 交 渉 と 締 結 に 責 任 を 有 諷刺作家の誕生(三) 215 三

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し、

重罪と軽罪

high crime and misdemeanor

) を犯した廉で弾劾されるべきであ る ((1 ( 」 というのがその事由であっ た。決議内容は直ちに貴族院に伝えられ、弾劾状起草委員会が庶民院に設置された。そこには、トーリの代表的な パンフレッティアで、 『不和抗争』 でスウィフトに批判されることになる経済学者のチャールズ・ダヴェナントも含 まれてい た ((1 ( 。   こうして、弾劾裁判の舞台は着々と整えられていった。ところで、トーリにとってポートランドは一種の隠れ馬 で、彼らが狙いを定めた馬の向こうの真のターゲットは、ウィッグのリーダーであるサマーズ、ハリファックス、 オーフォードであり、なかんずく、ジャントの中心人物として国政を主導していたサマーズであった。もしポート ランドが有罪ならば、サマーズはいっそう罪が重いということになる。ポートランドはイングランド貴族に叙され たものの、ウィリアム三世がオランダから連れてきた外国人であり、イングランドの法や政治的慣行に必ずしも精 通していなかった。だがサマーズは、大法官という最高官職の立場で合意文書に国璽を押印した張本人である。そ の過ちは重大で、決して政治的責任を免れることはできない、というのがハーリーたちの考えであっ た ((1 ( 。そして言 うまでもなくそこには、 ジャントを重用してきたウィリアム三世に対する批判があるとともに、 権勢を振るったジャ ントを弾劾することによって彼らを政治的に葬り去り、ウィッグの勢力を一気に削いで、トーリの安定政権を確立 していくという強い政治的思惑があった。かくして、サマーズを裁く決議案が提出されることになる。審議は夜の 九時まで行われた。 採決の結果は、 ハーリーたちトーリ陣営のもくろみに反して一八九対一八二での否決であっ た ((1 ( 。   サマーズの弾劾動議は退けられたものの、ポートランドの訴追を決めた庶民院は、四月二日に条約交渉時のポー トランド関連の資料、とりわけ北部担当国務大臣であったジェイムズ・ヴァーノンと交わした文書の提出を要請し た ((1 ( 。ポートランドは、三月一五日に分割条約への自らの関与について貴族院で弁明した際、ヴァーノンに宛てた書 簡に言及していたが、そのとき二つの分割条約を取り違えるというミスを犯していた。つまり、彼が議会で言及し 四

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た書簡は一七〇〇年の条約時のものではなく、実は一六九八年に締結された別の条約、すなわち、第一次分割条約 の際に送付されたものであったのである。これによってポートランドの説明に矛盾が生じ、はからずも、それまで まったく知られていなかった秘密条約の存在が露呈することになった。かくして庶民院は、事の真相を究明すべく ポートランド文書の提出を要請したのであ る ((1 ( 。   四月一二日、ポートランドとヴァーノンの間で交わされた全二七通の書簡のリストが庶民院に提出され た ((1 ( 。そし て最大の山場となる一四日に、それら書簡が院内書記によって読み上げられた。これによって、国家の命運を左右 する英・仏・蘭三カ国の交渉が、ごく少数の者だけで極秘のうちに進められていた経緯がはじめて公になった。事 の次第を知った議員たちはたちまち色めき立つ。トーリ陣営のサー・バーソロミュー・シャワーは、第一次分割条 約の条項を第二次のそれよりもいっそう悪しきものと断じ、協定内容に十分な検討を加えないまま白紙の委任状に 国璽を押印したサマーズの責任を追及した。そして改めて、重罪と軽罪を犯した廉で弾劾すべきであるとの動議を 提出し た ((1 ( 。この動議に対してトーリとウィッグ双方から賛否の意見が出された が (11 ( 、この日最も注目を集めたのは、 攻撃の的となっている当のサマーズの自己弁護の演説であった。通常、上院議員が下院に赴くことはなかっ た (1( ( 。だ が訴追の瀬戸際に立たされていることを知ったサマーズは、 弁明の機会を与えてもらいたい旨、 庶民院に要求した。 これに対して反対意見もあったが、夜になって許可が下りる。サマーズは自らの関与をめぐって条約締結の経緯を 明らかにする旨ウィリアム三世に伝え、その承諾を得たうえで、夜の八時から三〇分間の弁明演説を行っ た (11 ( 。   まずサマーズは、一六九八年八月二五日付のウィリアム三世から受け取った書簡、およびそれに対する八月二八 日(新暦九月八日)付の返信を読み上げた。両書簡については先に見たとおりであるが、前者の国王書簡は、ポー トランドのヴァーノン宛書簡(八月二四日付)に記された協定案に異存がなければ、全権委任状に国璽を押印して 氏名欄を空白にしたまま送付するよう指示したものであり、後者のサマーズ書簡は、フランスとの協議の必要性は 諷刺作家の誕生(三) 217 五

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認めつつも、フランスを安易に信用することの危険性、ならびに協定内容の国益上の問題性について強い懸念を伝 えたものであった。これを見るかぎり、サマーズの関与はさほど大きくなく、むしろフランスとの協定には消極的 で、国王大権としての条約締結権を有するウィリアム三世の指示に従って行動していたにすぎないと言ってよいで あろう。彼の弁明を聞いた議員の多くも、同様の印象を受けたようである。コベットの議事録『イングランド議会 史』 (

The Parliamentary History of England

)は、 「サマーズ卿の弁明は実に詳細かつ明瞭だったので、……もし採 決が直ちに行われていれば、すべての問題は速やかに終わって訴追されることもなかったと思われ た (11 ( 」と記してい る。し か し ハ ー リ ー 議 長 の 巧 妙 な 議 事 進 行 に よ っ て、サ マ ー ズ は 結 局 訴 追 さ れ る こ と に な る。 「サ マ ー ズ の 敵 た ち は、彼の演説の印象がほとんど消え去ってしまうまで審議を引き延ばした。会議は真夜中過ぎまで続き、ついにこ の決議案は一九八対一八八で通過し た (11 ( 」。 採決後、 庶民院は法律家でジャント批判の急先鋒の一人であるサイモン・ ハーコートを貴族院に派遣している。そして「庶民院とイングランドの全庶民の名において、ジョン・サマーズ卿 を重罪と軽罪を犯した廉で弾劾す る (11 ( 」と伝えさせたのであった。   この日の訴追は、サマーズだけにとどまらなかった。トーリ陣営は、すぐさま次のターゲットであるオーフォー ド伯とハリファックス男爵に矛先を向ける。そして両者とも審議なしに採決に付され、サマーズと同様の罪で弾劾 に処すべきことが決議された。採決の結果は、オーフォードは一九三対一四八、ハリファックスは一八六対一三六 であっ た (11 ( 。   こうして、ウィッグ四貴族の弾劾訴追が決まった。これ以降、舞台は本来ならば貴族院に移ってそこで審理され ることになる。しかし、事は円滑に進まなかった。周知のように、 「弾劾」 ( impeachment )とは政府の高官や官吏 の非行に対し、下院が検察、上院が裁判官の役割を担ってこれを罷免または処罰する特別の裁判手続きのことをい う。 その起源は、 エドワード三世の腐敗政治を糾弾した一三七六年のいわゆる 「善良議会」 ( Good Parliament ) で、 六

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庶民院が宮内卿のウィリアム・ラティマーたちを貴族院に告発した一四世紀のイングランドにあるとされ る (11 ( 。それ 以降、弾劾は国王の大臣たちの責任を問い、間接的に国王の専横を抑制するために、抗議や建白よりも効果的な方 法として一七世紀を中心にしばしば行われてきた。 たとえば、 サー・ジャイルズ・モンペッソン (一六二一年) 、 フ ランシス・ベーコン (同年) 、 ミドルセックス伯 (一六二四年) 、 バッキンガム公 (一六二六年) 、 ストラフォード伯 (一六四〇年) 、ダンビー伯(一六七八年) 、ヘンリー・サシェヴァレル(一七〇九年) 、オックスフォード伯(一七 一五年)などに対する裁判がよく知られている。しかし大臣責任制や連帯責任制、また権力に迎合しない公正な裁 判制度の確立等によってしだいに弾劾の必要性はなくなり、在職中に公金費消の廉で告発された一八〇六年のメル ヴィル子爵を最後として、もはや弾劾は行われなくなったのであ る (11 ( 。   ところで、サマーズたちの訴追を決めた庶民院ではあるが、実はその翌日の四月一五日にトーリは異例の行動に 出た。当該の四貴族を「枢密院と王の御前から永久に追放する」ようウィリアム三世に要請する動議を可決したの であ る (11 ( 。 その理由は、 有罪を構成するに足るだけの確たる証拠が乏しく、 それゆえ 『同時代史』 (

History of His Own

Times, (((( -(( )を著したギルバート・バーネットも言うように、この弾劾裁判は失敗に終わるであろうことが予 想されたからであり、またこのとき貴族院はウィッグが多数を占め、トーリの思惑どおりに進めるのはきわめて困 難と思われたからであ る (11 ( 。そのためトーリは、裁判の前に国王に処罰してもらうという奇策に出たのであった。し かしこうした前例のないやり方は、議会の慣行と司法のルールに反するがゆえに貴族たちを憤慨させた。彼らは直 ちに、貴族院で審理されて判決が下されるまでは、サマーズたちにいかなる非難も処罰も行わないよう国王に上奏 する決議案を採択してい る (1( ( 。この上奏に対し、ウィリアム三世は何の回答もしていない。だが貴族院の意向を汲ん だのであろう、 王はくだんの四名を枢密院から追放することはなかった。 そして庶民院に対しては、 「われわれの間 の相互の信頼関係を最も増進させると思われる者以外、誰も官職に就かせるつもりはな い (11 ( 」と述べただけの事実上 諷刺作家の誕生(三) 219 七

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の拒否回答を寄せたのであった。   前述したように、弾劾においては下院が検察、上院が裁判官の役割を担う。その場合、上院が審理するためには 下院で犯罪事実を記載した弾劾状( articles of impeachment )が作成されて、上院に提出されなければならない。 だが庶民院でその作業に着手する動きはなかった。そこで貴族院は、早急に提出するよう再三再四要求する。その 結果、庶民院はまず初めにオーフォード伯に対する弾劾状を作成し、五月九日にようやく貴族院に送付し た (11 ( 。そし てその後も繰り返し催促されて、五月一九日にサマーズ、六月一四日にハリファックスに対する訴状を提出したの であっ た (11 ( 。   弾劾裁判の手続きにおいて、被訴追者は上院で弾劾条項ごとに答弁し、その内容が下院に通知されると、下院は 被訴追者の答弁に回答して各訴因が真実であることを証言することができ る (11 ( 。この手続きに従って、サマーズたち も答弁書 ( answer ) を庶民院へ送っ た (11 ( 。 また庶民院の方も、 被訴追者の答弁に対する弁駁 ( replication ) を行っ た (11 ( 。 かくして、弾劾裁判がようやく開廷される段取りとなる。しかしながら、これ以降も物事はスムーズに進まなかっ た。審理の期日や進め方をめぐって、上下両院間で意見の対立が生じたからである。そのためウィッグ四貴族に対 する弾劾裁判は、議会閉会とともに中途半端なかたちで終わることになる。われわれは、それに至る過程をもはや 詳しく辿る必要はないであろう。ここでは、六月一七日にウェストミンスター・ホールで開かれたサマーズの弾劾 裁判で、貴族院の進め方に納得のいかない庶民院が所属議員を送ることを拒否し、そのため訴追者不在のまま五六 対三一で無罪判決が下されたこ と (11 ( 、二三日にはオーフォードが全会一致で無罪になったこ と (11 ( 、さらに議会閉会日で ある二四日には、ポートランドに対する弾劾状が庶民院から提出されなかったため、訴えそのものが退けられたこ と、そしてハリファックスの場合は審理もされずに却下されたこ と (11 ( を述べておくにとどめておきたい。 八

(9)

  こうして、政界を揺るがせたウィッグ・ジャントに対する弾劾も、結局のところうやむやのうちに終わることに なった。ジャントの失脚を狙ったトーリ陣営の敗北である。しかしこの弾劾は、もともと被疑事実が有罪を立証で きるほど明確なものではなかった。 さらに上院はウィッグが多数を占め、 しかも外交は国王大権に属する事項であっ た (1( ( 。そのため、たとえ下院で訴追されても、上院では無罪になるであろうことが最初から十分予想されていた。準 備不足であったにもかかわらず、政治的思惑を優先させたトーリの勇み足であり、性急さと強引さの目立つ弾劾申 し立てであった。   かつてある先行研究は、一六二一年から一八〇五年の間になされた五四件の弾劾裁判は、ある党派が弾劾という 手段を用いて公職に就いている敵対者を圧砕しようとした「政治的弾劾」 ( political impeachment )であり、その代 表的な事例の一つがこのジャントの弾劾であったと述べてい た (11 ( 。実際、サマーズたちに対する弾劾はその動機にお いてきわめて政治的であった。 そのことは、 四人の貴族以外にも分割条約に深く関わった者がいたにもかかわらず、 党派的理由から訴追されなかった点からも理解することができよう。すなわち、第一次分割条約締結時のイングラ ンド側の署名者には、 ポートランド伯のほかに駐ハーグ大使のサー・ジョゼフ・ウィリアムソンがいた。 だが、 ウィ リアムソンがトーリから責任を追及されることはなかった。それは、ウィリアムソンの体調不良と彼自身がトーリ であるという理由からであっ た (11 ( 。   第二次分割条約の場合も事情は同じである。 このときの署名者も、 ポートランド伯と駐仏大使のジャージ伯であっ た。しかし、トーリ主導の庶民院はジャージ伯を弾劾訴追しなかった。ウィリアムソンと同じくジャージもトーリ であったからである。 ジャージは一七〇〇年から侍従卿 ( Lord Chamberlain ) として宮廷でウィリアム三世に仕え ており、王に関する情報をハーリーたちに伝えるなどしてトーリ陣営に貢献していた。すでに見たように、ポート ランドとヴァーノンの間で交わされた全二七通の書簡のリストが庶民院に提出され、それによって秘密にされてい 諷刺作家の誕生(三) 221 九

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た第一次分割条約の存在が明らかになったが、それらの書簡を調査する必要があることをトーリに示唆していたの は、実はジャージであったのであ る (11 ( 。政治的弾劾といわれる理由の一つが、まさしくこうした点にあったと言えよ う。国王によって選任された大臣たちの責任を問い、あわせて国王の専横を抑制するための特別の裁判手続きとし て発達してきた弾劾制度は、激化する党派抗争の中で、一方の陣営が他方の陣営を攻撃するための手段ないし政争 の具として利用されていたのである。   さて、曖昧ですっきりしないかたちながらも、ジャントに対する弾劾問題は一区切りついた。大山鳴動して一鼠 出ず、実にあっけない終わり方であった。これによって、ウィッグはひとまず難局を乗り切ることができた。そし て議会閉会とともに、党派抗争も収まるかのように見えた。だが、党派間の対立の根は深かった。弾劾が終わって 三カ月後の一七〇一年九月、 ウィリアム三世の政治顧問をしていたサンダーランド伯は、 「トーリはサマーズ卿が失 脚しなければ満足しないでしょうし、ウィッグは〔トーリの〕大臣たちを辞任させなければ納得しないでしょ う (11 ( 」 とウィリアム三世に書き送っている。事実、両党はこれ以降もさまざまな局面で対立し、いっそう激しい抗争を繰 り広げていくことになる。しかもその争いは、議会内にとどまるものではなかった。議会の外でも、多くの著述家 たちが議会内の党派抗争に呼応しながら、ある者は雇われ文士として、ある者は自発的にそれぞれの党派を擁護す るパンフレットを書いた。そしてちょうどその頃、すなわち、ジャントへの追及が山場を迎えていた一七〇一年四 月に渡英して、 ウィッグ貴族の弾劾事件とその推移を目の当たりにしていたのがスウィフトであった。 直ちに彼は、 公正性や公平性よりも党派の政治的思惑を優先させたこの事例を基に政治の原理を問うパンフレットを著した。そ れが、 彼の最初の政治パンフレットである 『アテナイとローマにおける貴族・平民間の不和抗争』 にほかならない。 一〇

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2 『アテナイとローマにおける不和抗争』 (1)   『アテナイとローマにおける貴族・平民間の不和抗争』 (以下『不和抗争」と略記)は、一七〇一年一〇月にロン ドンの書籍出版業組合事務所 ( Stationersʼ Hall ) 近くの書肆ジョン・ナット ( John Nutt ) によって刊行され た (11 ( 。 匿 名での出版であった。三四歳のスウィフトがアイルランド控訴院判事を解任されたバークリー伯に同行してイング ランドへ渡ったのは一七〇一年四月、レスターにいる母親を訪ねたあと、五月から九月までロンドンに滞在した。 『不和抗争』を著したのはその間のことである。正式な書名は『アテナイとローマにおける貴族・平民間の不和抗 争、 ならびにそれらが両国にもたらした結果についての論考』 (

A Discourse of the Contests and Dissentions between

the Nobles and the Commons in Athens and Rome, with the Consequences they had upon both those States )であ る。 『フライング・ポスト』 (

The Flying Post

)紙に掲載された出版広告によれば、値段は一シリングであっ た (11 ( 。   このパンフレットは全五章から成り、初版の頁数は五九頁、デイヴィス編『散文著作集』では四〇頁あまりの小 冊 子 で あ る 。第 二 章 と 第 三 章 は 、そ れ ぞ れ「 ア テ ナ イ に お け る 少 数 派 と 多 数 派 間 の 不 和 に つ い て 」(

“Of the Dissentions

in Athens, between the Few and the Many ”) 、「ローマにおける貴族と平民間の不和、ならびにそれらがこの国に もたらした結果について」 (“ Of the Dissentions between the Patricians and Plebeians in Rome, with the

Consequences they had upon that State

”) というタイトルが付いている。 だが他の章は無題である。 スウィフトの 意図は、古代アテナイとローマにおける貴族・平民間の争いを論じながら、現下のイングランドが激しい党派抗争 の結果、権力均衡が崩れて専制状態に陥っていることを明らかにすることにあった。ただし、第一章から第四章ま での論調は慎重で、イングランドへの直接的な言及はなく、第五章に至ってはじめて現今の政治問題が議論の俎上 に載せられるという体裁をとっている。したがって、一見すると古代の政治を対象とした歴史書のように思われる が、全編を通じてスウィフトの狙いは明らかであり、ギリシア・ローマ時代の抗争史を淡々と叙述しながら、実は 諷刺作家の誕生(三) 223 一一

(12)

当時のイングランドの政治問題が巧妙に論じられているのである。本節では、まずこのパンフレットの内容を見て いこ う (11 ( 。   ⑴   混合政体と勢力均衡   『不和抗争』 は、 「すべての統治体にはその執行機関が全体のどの部分に置かれようとも、 絶対的で無制限の権力 が初めから本来的にその全体の中に備わっている」 という文章で始まっている。 そしてそれに続けてスウィフトは、 これは人間の身体にも言えることであるとして、統治体と人体との類似性に言及しながら次のように言う。 「これは人間の身体にも当てはまる。というのは、物体の動きがたとえどこから始まろうとも、つまり頭から、 心臓から、あるいは全身の動物的精気から始まろうとも、身体はそのすべての部分の同意によって行動するもの だからである。基本的には国民全体に認められるこの無制限の力は、あらゆる時代の最良の立法者たちが、それ ぞれの統治機構や制度の中で、国民を国外の暴力はもちろん、国内の略奪や抑圧から守ろうとする人びとの手に 委ねようと努めてきたものであ る (11 ( 。」 言うまでもなく、これは国家権力の絶対性に関するホッブズ的な考え方である。スウィフトもこの前提から出発 する。しかしホッブズとは異なって、この権力が絶対的で無制限であるがゆえに、それを単一機関に集中させるこ との危険性と権力分散の必要性を強調する。 そして伝統的な考え方に立脚しながら次のように言う。 「彼ら立法者の ほとんどは、この力を一人の人間ないし一つの集会に委ねるのはあまりにも大きな信託であるという点で、意見が 一致しているようである。それゆえ彼らは、この権利をなお統治体全体にあるとしながらも、行政機関つまり執行 部門は一人 ( the One ) ないし少数者 ( the Few )、 もしくは多数者 ( the Many ) の手に委ねた。 人間のすべての独 立した組織体は、本来この三つの権力に分割され る (11 ( 」。 一二

(13)

この文章が、国家権力を特定の個人ないし団体に集中させることを防ぎ、これを異なる複数の政治主体に配分し

て、権力の適切な行使を図ろうとするいわゆる「混合政体論」

theory of mixed government

)に繋がる内容を含ん でいることは改めて言うまでもないであろ う (1( ( 。スウィフトは、アリストテレスやポリュビオス以来の伝統的な考え 方に従って、複数の政体の特徴を併せ持った統治形態を理想とする混合政体論者であった。それは生涯にわたって 一貫して見られる彼の政治思想の基調であり、それを最初に表明したのがこの『不和抗争』にほかならなかった。 彼は権力を前述した人体の三つの部分、すなわち、頭、心臓、全身の動物的精気に対応させて「ある一人の卓越し た精神の持ち主による権力」 、「名家に生まれて大きな財産や権威を相続した人びとの権力」 、「民衆あるいは多数の 人びとの権力」の三つに分類す る (11 ( 。スウィフトによれば、それら三つの権力は君主政、貴族政、民主政などと呼ぶ ことができるが、混合政体そのものは「決してゴート人の発明品ではなく、自然の理に適い……ほとんどの国で採 用されてきたものであ る (11 ( 」。   混合政体の由来に関するこの言は、フランク・エリスも指摘するように、チャールズ・ダヴェナントの説を論駁 したものと考えられる が (11 ( 、それはともかくとして、スウィフトは三つの政治主体が政治過程に関与する政治システ ムとしての混合政体を理想の統治形態として称揚する。そしてそれら三つの権力がそれぞれ釣り合った状態、つま り権力の均衡を維持することこそが政治の永遠の原則であるとして次のように言う。 「広く学校で知られている三つの統治形態は、行政を司るのが王と呼ばれた一人ないし(スパルタのように)二 人なのか、 貴族と呼ばれた元老院 ( senate ) なのか、 それとも平民 ( commons ) と呼ばれてよい民衆の集団もし くは代表なのかによって異なるにすぎない。これら三つの統治形態は、ギリシアにおいてはしばしば、ローマに おいてもときどき執行権 ( executive power ) を行使した。 しかし立法者たちは、 究極的な力は常に三要素間の均 衡にあると考えてきた。今後もすべての自由な国民の間では、諸国家相互においてはもちろん、あらゆる国の内 諷刺作家の誕生(三) 225 一三

(14)

部においても、権力の均衡( balance of power )を注意深く維持することこそが政治の永遠の原則であろ う (11 ( 。」   こうしてスウィフトは、君主政、貴族政、民主政の各単純政体が互いに抑制し、それぞれが釣り合って、権力の バランスが保たれた状態こそを最も安定した政体であるとした。もっともその場合、権力は必ずしも三つの要素に 均等に分割される必要はないと言う。 「というのもその中の最も弱い部分であっても、 自らの巧みな手腕や実際行動 ( address and conduct )によって、つまり、二つの勢力のいずれかから力を削いだり、自らの力を加えたりするこ とによって均衡を保つことができるからであ る (11 ( 」。 要するに権力の均衡は、 時には一方の側から他方へ重みを移した り、時には自分が進んで一番弱い側に加わることによって実現可能なのである。しかもその際とりわけ重要な役割 を果たすとされるのが、権力間の均衡・安定を図るバランサーとしての「第三者」 ( third hand )であった。 「一国 内 の 均 衡 は、第 三 者 が そ の 他 の 権 力 を こ の 上 な く 厳 正 に 分 配 す る こ と に よ っ て 維 持 さ れ る」 。こ こ で 言 わ れ て い る 「第三者」とは、明らかに君主のことである。スウィフトは、混合政体における君主の存在とその働きを重要視し た。 そして天秤 ( scale ) の比喩を用いながら、 国王に三者間の均衡を維持する担い手ないし監督者としての役割を 与えるのであ る (11 ( 。   君主の役割に関する同様の考えは、一七一二年から一三年の間に書かれた『女王最後の四年史』 ( The History of

the Four Last Years of the Queen

) においても見ることができる。 そこでは、 「貴族と民衆という二つの大きな権力 の均衡を維持するのが君主である。天秤の一方の皿の重みを別な皿へ移動させたり、時には自分の重みを削いでそ れを一番軽い皿に盛ったりして、両者に釣り合いをとらせるのがまさしく王たる者の本質であ る (11 ( 」と述べられてい る。そしてこの『不和抗争』では、均衡をもたらした君主的要素の具体例として、スパルタの二人の王、ローマの 執 政 官 、キ ュ ロ ス 王 の 治 世 よ り 前 の メ デ ィ ア の 諸 王 、ゴ ー ト 族 に お け る い く つ か の 制 限 国 家 の 各 権 力 を 挙 げ る の で あ る 。   いずれにせよ、スウィフトにとって政治的安定と平和を確保するためにはあくまでも力の均衡こそが重要であっ 一四

(15)

た。逆にその均衡が壊れたときに秩序が崩壊し、やがて専制といわれる状態が生起する。 「均衡を支える人間の怠慢、愚行、無力のために、もしくは強大な勢力が一つの陣営に属したために均衡が破壊 されるならば、 権力は残る二つの陣営の間で平等に分割されたまま長く残ることはありえず、 (均衡が新たに成立 す る ま で は)権 力 は 完 全 に 一 方 の 陣 営 に 傾 い て し ま う で あ ろ う。古 代 ギ リ シ ア の 最 も 権 威 あ る 著 作 家 が、専 制 ( tyranny )という言葉で理解したのはまさしくこの現象であった。専制とは、 (多くの皮相な人間が甚だしく誤 解するように) 単独の個人が無制限な絶対権力を掌握することではなく、 何らかの手段によって均衡が破壊され、 権力がまったく一つの陣営のものになることを意味するのであ る (11 ( 。」   この引用文にある「多くの皮相な人間」とは、具体的にどのような人たちを指しているのかは明らかでない。だ がこの時代、トーリは「専制」という言葉を、共和主義者であるジェイムズ・ハリントンが「均衡に逆らった一人 の支配が専制であ る (11 ( 」 と定義した意味でよく用いていた。 また 「ネオ・ハリントニアン」 ( neo-Harringtonian ) で、 カントリ派トーリの代表的イデオローグである前出のチャールズ・ダヴェナントも、 『不和抗争』 が出版される半年 ほど前に、 「君主は……全体を支配できるまでは決して満足しないもの だ (1( ( 」 と述べて、 専制は少数者や多数者によっ てではなく、 単独の支配者によってなされるということを示唆していた。 だがスウィフトの考えでは、 「一国家にお ける専制と簒奪 (

tyranny and usurpation

) は決して人数に限定されるものではな い (11 ( 」。 つまり専制とは、 単独者で あろうと少数者であろうと、あるいは多数者であろうと、人数にはまったく関係なく生起するものなのである。こ のことを明らかにするために、スウィフトは過去における専制の事例を取り上げる。そして混合政体における均衡 の条件と、均衡が崩れたときに専制が登場する必然性について次のように言う。 「混合政体における均衡を維持するためには、それぞれの団体に託される権力の範囲を確定し、それを広く周知 しなければならない。 その条件が欠如すると、 一国内で大権と自由 (

prerogative and liberty

) をめぐる争い、 つ 諷刺作家の誕生(三) 227 一五

(16)

まり少数者による多数者の権利の侵害か、 多数者による少数者の特権 ( privileges ) の侵害かをめぐる抗争が発生 する。この抗争は必ず専制に、すなわち、当初は少数者もしくは多数者のいずれかの、しかし最後は間違いなく 一人の人間の専制に帰着してきたし、今後もそうであろう。一国内の三部門のどれかが現状以上の権力を求めて 争うならば (どれか一つは必ずそのような動きをする) 、 もしそのとき他の二つがそれに対して適当な対応を示さ ないかぎり、新しく問題が起こるたびごとに、それら三部門は必ずや自分たちに都合の良いように判断し、自分 たちの固有の権利をことあるごとに主張するであろう。また休眠状態にある潜在的な権限を掘り起こし、機会が あれば政略的に活用し、非常の際には正式に発動させる目的でこれらの特権を温存しようとするであろう。彼ら は過大な要求を提出し、わずかに譲歩しながら多くのものを手に入れる。かくして、ついに均衡が崩れて専制が 登場する。それが三部門のどこから始まるかは大した問題ではな い (11 ( 。」   スウィフトによれば、人間の欲望は際限がなく、とどまるところを知らない。しかもその欲望は途方もなく大き い。人間は、個人であれ国家レベルであれ、世の中にあるものすべてを占有しようとし、それが果たされなければ 完全な幸福は実現できないと考えている。人間のこの歯止めなき欲望のゆえに、君主国も共和国も古の時代からこ ぞって世界帝国たらんとしてきた。権力追求のこの野望は、国内においても同様である。君主、貴族、平民は常に 自分たちの絶対権力を求め、優越した地位の獲得に努めてきた。そしてそれを獲得しようとする過程の中で、互い に抗争を繰り返してきた。それら三種の競争者が絶対権力を目指した事例を数多く挙げることができる、とスウィ フトは言う。その中でも彼がとくに注視するのは貴族と平民の抗争、とりわけ平民が荒々しく攻撃的で、貴族に対 して激しい抵抗を繰り広げたケースであった。そこでスウィフトは、ギリシアとローマにおける貴族と平民の抗争 の実例を示しながら、それらがいかなる結果をもたらしたかを論じていく。 一六

(17)

  ⑵   アテナイにおける貴族と平民の抗争   『不和抗争』第二章の主題は、古代アテナイにおける貴族と平民の抗争であり、その抗争史を通してイングラン ドの政治の現状がアナロジカルに語られている。スウィフトによれば、アテナイ人は尚武の気風が強く争いごとを 好んだが、アッティカ地方の土地はギリシア全土の中でも最も痩せていたため、住民は一度も侵略者に放逐される ことはなかった。不毛の地は征服に値しないと考えられていたからである。それゆえ、彼らの「荒々しい気性」は ロ ー マ に 支 配 さ れ る ま で 消 え る こ と は な か っ た。ス ウ ィ フ ト は、プ ル タ ル コ ス の『英 雄 伝( 『対 比 列 伝』 )』 ( Vitae Parallelae ) に依拠しながら、 アッティカ地方に散在する未開の村落を一つにまとめてアテナイを建設したのはギリ シア神話に登場するテセウスであったと言う。また、テセウスの建設したアテナイは民主的国家( popular state ) で あ っ た が、厳 密 に は 王 の 任 務 を 法 の 守 護 と 戦 時 に お け る 軍 隊 の 指 揮 に 限 定 し た 一 種 の 混 合 君 主 政( mixed monarchy )であったとも言 う (11 ( 。   ソロンの時代になると、人びとは富者と貧者の二派に分かれて激しい抗争を繰り返すようになった。それを見た ソロンは、 提供された君主の地位を辞退して政治改革を断行した。 その内容は、 「権力均衡を確立するために、 四〇 〇人の元老院議員を選んで公職や官職を財産に応じて割り振り、 平民 ( the multitude ) にはこれの選出とある種の 国政の審査権を付与す る (11 ( 」というものであった。この新しい国制の下、偉大な指導者が何人も輩出されたとスウィ フトは言う。だが彼らは、ソロンの死後大きく勢力を伸ばした平民によって、収賄、恣意的手続き、公金横領や不 正使用、海上での不始末などの理由で弾劾されるようになった。スウィフトによれば、この弾劾こそがギリシア滅 亡の原因であった。彼はその経緯を明らかにするために、アテナイの繁栄期に民会によって弾劾された六名の将軍 (貴族)を取り上げ る (11 ( 。それは、 「この種の抗争に関わっている国家が(少なくとも、そういう国家が今日の世界に 存在するとして) 、 昔の抗争のやり方と結末を観察することにより、 その原因は現在も同一のものではないか、 また 諷刺作家の誕生(三) 229 一七

(18)

同 一 で あ る こ と が わ か れ ば 、そ れ ら は 当 然 に 同 じ 結 果 を 危 惧 す べ き で は な い か と 考 え て も 差 し 支 え な い (11 ( 」か ら で あ っ た 。   さて、まず最初に取り上げられるのは貴族出身の将軍ミルティアデスである。彼は、マラトンの戦いでペルシア 軍に劇的勝利を収めたアテナイ救国の英雄である。その戦いの翌年、ミルティアデスはパロス島を攻略するために 出撃したが、遠征は失敗に終わった。遠くの大火をペルシア船団と誤認し、手持ちの兵力が不足と見て引き返した のである。アテナイに帰還したミルティアデスは、平民たちに裏切りの廉で弾劾され、三万クラウンという莫大な 罰金刑に処せられた。負傷した傷が悪化して獄中で死亡した、とスウィフトは記してい る (11 ( 。   ミルティアデスに関する記述はわずか一〇行足らずであるが、このミルティアデスの弾劾を通してスウィフトが 言 わ ん と し て い る の は、実 は 海 軍 卿 オ ー フ ォ ー ド 伯 エ ド ワ ー ド・ラ ッ セ ル に 対 す る そ れ で あ る。す な わ ち、オ ー フォードは一六九二年のラ・オーグの海戦でフランス艦隊を破り、ルイ一四世のイングランド侵攻を阻止した立役 者である。しかしトーリ優位の庶民院は、オーフォードはこの海戦で味方を無用な危険にさらしたばかりか、フラ ンスの艦船を拿捕ないし壊滅させる機会が何度もあったにもかかわらず、命令に背いて敵艦を帰港させてしまった と、 このときの行動を訴追事由の一つに挙げてい た (11 ( 。 ここでは、 ミルティアデスの弾劾事由を語りながら、 暗にオー フォードのそれが語られているのである。   次に取り上げられるのは、政治家・軍人のアリステイデスである。アリステイデスは「戦争で祖国に多大な貢献 を し た ば か り か、自 国 の 統 治 の 形 態 や 法 律 に 精 通 し た 正 義 廉 直 の 人 物 で あ り、あ る 意 味 で は ア テ ナ イ の 宰 相 ( Chancellor ) であっ た (11 ( 」。 しかし彼は、 「恣意的権力を手にしたがっているという取るに足りぬ誤った告発によって 陶片追放( Ostracism )に処せられた」 。アリステイデスの卓越さに対する妬みが追放の原因であった。   こ の ア リ ス テ イ デ ス に な ぞ ら え ら れ て い る の は、サ マ ー ズ 男 爵 で あ る。サ マ ー ズ は、一 六 八 九 年 の「権 利 宣 言」 起草委員会で中心的な役割を果たし、 一六九七年から一七〇〇年にかけては、 最高官職である大法官のポストにあっ 一八

(19)

てジャント政府をリードしていた。 「サマーズ卿は彼の党の命であり、 魂であり、 精神で す (1( ( 」 と、 サンダーランド伯 もウィリアム三世に述べている。そのため、ウィッグとりわけコート・ウィッグの打倒を掲げるトーリにとって、 サマーズは最大の攻撃目標であった。しかし先に見たように、裁判は思惑どおりに進まず、そのためトーリは裁判 の前に国王に処罰してもらうという奇策に出ていた。一七〇一年四月一五日、サマーズたちウィッグ貴族を「枢密 院と王の御前から永久に追放す る (11 ( 」 ようウィリアム三世に要請する動議を可決したのがそれである。 『不和抗争』 に は、 「アリステイデスは彼ら 〔平民〕 の前から、 また彼らの会議から永久に追放されるべきであ る (11 ( 」 と、 民会で票決 された旨イタリック体で強調されたくだりがある。ジャントに対する庶民院の動議と重ね合わされていることは言 うまでもないであろう。   スウィフトからすれば、アリステイデスの追放は明らかに不当なものであった。だがスウィフトは、民衆の過ち を認めながらも彼らを称賛することを忘れない。 というのもスウィフトは、 アテナイの会議体は近代のそれとは違っ て自分たちの無謬性を過信せず、むしろ自らの過ちを認めて、アリステイデスを復帰させるだけの分別を有してい た、と考えるからである。 「そして彼〔アリステイデス〕のそれ以降の働きのおかげで、彼らの祖国は存続できた。 ……彼らは誤りとわかれば行動を改めることが、時には遅すぎることがあっても、少なくとも前非を悔いることが 民会の威厳を損なうとは決して考えなかったのであ る (11 ( 」。   民会による二人の将軍の弾劾に論及したスウィフトは、 次いで残る四名の人物を取り上げる。 そしてそこでもジャ ントの弾劾を投影させ、それと重ね合わせた叙述スタイルがとられている。略述すれば、アテナイを強大な海軍国 に成長させ、 サラミスの海戦でペルシア艦隊を撃破した立役者であるにもかかわらず、 「その気性と態度がいささか 高慢であ る (11 ( 」として陶片追放されたテミストクレスはオーフォード伯を暗示している。また、類いまれな見識と指 導力でアテナイの黄金時代を築いたペリクレスは、 「公金を私的に費消した」 との理由で弾劾され、 重い罰金刑を科 諷刺作家の誕生(三) 231 一九

(20)

せられたが、デロス同盟の資金をアテナイへ移管するなどして祖国に繁栄をもたらしたその功績は、国家財政の管 理を担い、一六九四年にイングランド銀行の設立に尽力した財務府長官のハリファックス男爵チャールズ・モンタ ギューと類比的である。涜神罪で訴追され、最後は非業の死を遂げた将軍アルキビアデスはフォード伯をなぞって いる。また「その武功とともに、世界の最も偉大な君主〔アレクサンドロス三世〕と名誉ある和平を結ぶのに成功 して祖国を救っ た (11 ( 」英雄であるにもかかわらず、民会で告発されて処刑された老将軍のフォキオンは、第一次・第 二 次 分 割 条 約 に 署 名 し た ウ ィ リ ア ム 三 世 の 寵 臣 ポ ー ト ラ ン ド 伯 ウ ィ リ ア ム ・ ベ ン テ ィ ン ク を 投 影 し て い る の で あ る (11 ( 。   こうしてスウィフトは、 アテナイの将軍たちが弾劾され、 追放や死刑に処された顛末を主としてプルタルコの 『英 雄伝』に依拠しながら書き進めていた。その内容が史実かどうかはさしあたり問題ではない。彼は学生のときから 大の歴史好きであった。詩と並んで歴史の本を多読していたが、とくにムーア・パークでウィリアム・テンプルの 秘書をしていたとき、テンプル所蔵の歴史書を読み耽って多くの知識を習得していた。スウィフトがイングランド 史の執筆を試みていたことや、王室修史官( Historiographer Royal )のポストを希求していたことは、彼がいかに 歴史に強い関心を持っていたかを物語るものである。 この点の詳細はのちに譲るとして、 ともかくもスウィフトは、 ギリシア史やローマ史の知識をフル稼働させながら『不和抗争』を著していたのであった。   アテナイにおける貴族と平民の抗争史を論じたこの第二章でスウィフトの言わんとしたことは、ソロンの死後、 勢力を格段に伸長させた平民が権利意識を肥大化させ、本来ならば感謝してしかるべき将軍(貴族)たちを、弾劾 という手段で攻撃し、その結果、力の均衡状態が崩れて多数者の専制がもたらされた、ということである。別言す れば、アテナイ人の荒々しく反乱好みの性格は、自由を支えるものではあったが、同時に偉大な指導者たちの特権 を侵害するものでもあった。 雄弁家に煽動された彼らは、 妬みや気まぐれから将軍に刃を向けるようになった。 「こ の時代、 尚武の気風が強いアテナイでは、 将軍たちは軍隊内での権力と信用によって、 またしばしば互いに支え合っ 二〇

(21)

て、行 政 官 や 他 の 文 吏 た ち と と も に 平 民 の 権 力 に 対 す る 一 種 の 平 衡 錘 に な っ て い た (11 ( 」。そ れ ゆ え そ う し た 将 軍 た ち が、感情に駆られた平民に裁きの庭に引き出され、罷免・罰金・追放・死刑等に処せられたということは、取りも 直さず、均衡していた国制が崩れ、アテナイが内部から崩壊していったということを意味する。 「かくして、全ギリシアの中で最強だった国家は、ソロンが設立した制度から大きく退化したあと、あの軽率で 嫉妬深く気まぐれな平民の気質によって完全に破壊された。彼らは、将軍が戦争に勝利しようが不幸な結果をも たらそうが、彼に対して満足することは決してなかった。民会は、最大の感謝を捧げるべき人びとをこのように 処遇し、返礼したのである。/ところで、これらの実例の持つ意味をいっそうゆゆしくするものは、かくも自信 に満ちて自らの生得的権利 ( inherent right ) と主張され、 生粋のアテナイ人の疑う余地なき特権と強調された平 民の権力なるものが、実はソロンが彼らに残した統治形態に対する想像しうる最もひどい侵犯であり、そこから の最も甚だしい退化であったという事実である。要するに、彼らの統治は Dominatio plebis 、つまり平民の専制 へと変質したのであり、彼らはこの立法家が実に巧みに組成し、保持してきた均衡を徐々に破壊し覆滅させたの であ る (11 ( 。」   弾劾によって権力の均衡が崩れ、平民の専制が登場したことがアテナイ滅亡の原因であった、とスウィフトは言 う。もっとも、アレクサンドロス三世に仕えていたマケドニアの将軍アンティパトロが、アテナイ占領後、投票と 行政官就任資格を一定の財産を有する上層市民に限定した結果、アテナイにソロンの国制が復活したとも言う。だ がそれは一時的で、 「アンティパトロによるこの再興は、とくに見るべき結果も永続性も生まなかっ た (11 ( 」。   アテナイは、やがてローマに支配されるようになる。それまでの間、すなわちアンティパトロの占領からローマ の支配までの間、 アテナイでは政治・軍事・学問のどの分野においても有名人はただの一人も現れなかった。 「暗く て面白味のない時代」の到来である。スウィフトによれば、平民の専制が破壊したのは、単に偉大な政治だけでは 諷刺作家の誕生(三) 233 二一

(22)

ない。それは偉大な文化をも滅ぼしてしまった。人間的なものの卓越性は、ひとえに力の均衡の上に成り立つ。そ れゆえに最も肝要なのは、権力の均衡である。アテナイの繁栄と衰退の歴史から、そのことを学ぶべきである。ス ウィフトは読者を誘導して、その意識をアテナイから現今のイングランドへと転じさせようとする。そしてウィッ グ貴族の弾劾に血眼になっている庶民院が、実はアテナイの民会と同様、否、それ以上に愚かしい行動をとってい ることに気づかせようとする。 『不和抗争』の第一章には次の二つの文章がある。それはまさにこの謂いであった。 「キリスト教世界の勢力均衡の維持に非常な熱意と知性と時間を傾注しながら、同時に国内でその均衡を破壊す るのに懸命になっている者は、決して彼らが感動するような偉大な愛国者でも、真の国益を考えている者でもな い。それはあたかも、左手で築き上げたものを右手でせっせと壊している人間であるかのようであ る (1( ( 。」 「ある会議体が開始した企ては、たとえいかなるものであれ、状況を変えるかもしれない大事件が起こっても、 それには関係なく最後まで遂行されるべきだと結論づけること、一度起こした訴追を取り下げるのは、議会の尊 厳を貶めるものだと考えること、訴えの根拠が通知される前に結論を決めてしまうこと、そのような行為は単に 自分たちの絶対権力のみならず、不可謬性を僭称していることにほかならない。にもかかわらず民衆議会は、権 力と特権のしかるべき境界を定めようとしなかったために、このようにわけのわからない〔裁判〕手続きに耽っ てきたのであ る (11 ( 。」   さて、 こうしてスウィフトは、 アテナイにおける貴族と平民の抗争およびそれがいかなる結果をもたらしたかを、 民会による将軍の弾劾を例に挙げながら論じた。彼が次に分析するのはローマ時代の抗争である。われわれもその 議論を追っていこう。 二二

(23)

(1)

 

前稿で「政治の動向とスウィフト」と標記したが、論の展開上「政治の動向」に変更する。この点ご了解願いたい。

(2)

 

Journals of the House of Lords, XVI, p.

(((

(以下

Lords Journals

と略記)

; The Parliamentary History of England, from the

Earliest Period to the Year 1803,

(6 vols. ( London: T. C. Hansard, (( 06-(0), V, cols. (((( -(( 以 下 Parl. Hist. と 略 記 ); Nicolas Tindal, The Continuation of Mr. Rapinʼs History of England; from the Revolution to the Present Times, (th edn., ( vols. ( London, (((( -6 ( ) , III, pp. (( -(( . (3)  

Lords Journals, XVI, pp.

(( 6-(( . (4)   Ibid., pp. 6 (( -(( . 正確に言えば、 二月二六日に条約の写しが貴族院に提出されている ( Ibid., p. 60 ( ) しかし詳細なものでは なく、議論は持ち越しとなっていた。 (5)   Ibid., p. 6 (( . (6)   Ibid., pp. 6(( -(( ; The History and Proceedings of the House of Lords from the Restoration in 1660 to the Present Time, ( vols. ( London, (((( -(( ), II, pp. (( -(( ; The Manuscripts of the House of Lords, new ser., (( vols. ( London: HMSO, (( 00-(( ), IV, pp. ((( -(( . (7)   Gilbert Burnet, Bishop Burnetʼs History of His Own Time, with Notes by the Earls of Dartmouth and Hardwicke, Speaker Onslow, and Dean Swift, 6 vols. ( Oxford, (((( ), IV, pp. (6 (-(0; Tindal, Continuation of Rapinʼs History of England, III, pp. ((( -((

; Henry Horwitz, Parliament, Policy and Politics in the Reign o

f William III

Manchester: Manchester University

Press, (((( ), p. ((( . (8)   Lords Journals, XVI, p. 6( 6; Burnet, History of His Own Time, IV, pp. (( 0-(( ; Tindal, Continuation of Rapinʼs History of England, III, p. ((( . (9)   Lords Journals, XVI, pp. 6(( -(( ; Tindal, Continuation of Rapinʼs History of England, III, pp. ((( -(( ; Parl. Hist., V, cols. (((( -(( . ( (0)  

Journals of the House of Commons, XIII, p.

((( . ( (()   Ibid., p. ((( . ちなみにこの日、品性を欠いた物言いでしばしばトラブルを起こしていたトーリのジョン・ハウが、分割条約 を「三 人 の 泥 棒 に よ る 邪 悪 な 取 り 決 め」と 呼 び、 「王 の 下 賜 金 は 道 化 と 売 春 婦 た ち に ば ら 撒 か れ た」と、ウ ィ リ ア ム 三 世 を 侮 辱するかのような発言をして物議を醸している。

Alexander Cunningham, The History of Great Britain: From the Re

volution

in 1688 to the Accession of George the First,

( vols. ( London, (((( ), I, p. (0

(; The Parliamentary Diary of Sir Richard Cocks,

1698-1702, ed. David Hayton ( Oxford: Clarendon Press, ((( 6 ) , pp. (0-(( ; Eveline Cruikshanks, Stuart Handley, and D. W. 諷刺作家の誕生(三) 235 二三

(24)

Hayton ( eds. ), The History of Parliament: The House of Commons, 1690-1715, ( vols. ( Cambridge: Cambridge University Press, (00 ( ) , IV, p. ((( . ( (()  

Commons Journals, XIII, p.

(6

(; Parl. Hist., V, col.

((((

.

(()

 

Commons Journals, XIII, p.

(6

(; Tindal, Continuation of Rapinʼs History of England, III, p.

(((

.

(()

 

Parliamentary Diary of Cocks, p.

(( . ( (()   Narcissus Luttrell, A Brief Historical Relation of State Affairs from September 1678 to April 1714, 6 vols. ( Oxford, (((( ), V, p. (( ; Frank H. Ellis, “Background,

” in A Discourse of the Contests and Dissentions between the Nob

les and the Commons in

A th en s a nd R om e, w ith th e Co ns eq ue nc es th ey h ad u po n bo th th ose S tat es, e d. Fr an k H . E llis ( O xfor d: C lar en do n Pr es s, ( (6 ( ) , p. (( (以下

Contests and Dissentions

と略記)

.

(6)

 

Commons Journals, XIII, p.

(66. ( (()   Burnet, History of His Own Time, IV, pp. ((( -(( ; Tindal, Continuation of Rapinʼs History of England, III, pp. (( 6-(( ;

Horwitz, Parliament, Policy and Politics, p.

(((

.

(()

 

Commons Journals, XIII, p.

(((

.

(()

 

Parliamentary Diary of Cocks, p.

(0; Cruikshanks, Handley, and Hayton

( eds. ), House of Commons, V, p. ((( . ( (0)  

Parliamentary Diary of Cocks, pp.

(0-(( . ( (()   松 園 伸『イ ギ リ ス 議 会 政 治 の 形 成

「最 初 の 政 党 時 代」を 中 心 に』 (早 稲 田 大 学 出 版 部、一 九 九 四 年)八 二 頁。同 書 の 第 一部は、この時代の貴族院の活動や機能、上下両院の関係等を論じており、たいへん有益である。 ( (()   Commons Journals, XIII, p. ((( ; Burnet, History of His Own Time, IV, p. ((( ; Ellis, “Background, ” in Contests and Dissentions, p. ((

; Horwitz, Parliament, Policy and Politics, p.

((( . ( (()   Parl. Hist., V, col. ((( 6. 同様の記述は、他の資料にも見ることができる。 Burnet, History of His Own Time, IV, p. ((( ; Parliamentary Diary of Cocks, p. (( ; William Coxe, Memoirs of the Life and Administration of Sir Robert Walpole, Earl of

Orford. With Original Correspondence and Authentic Papers,

( vols. ( London, (((( ), I, pp. (( -(( . ( (()  

Parl. Hist., V, col.

(((

6.

(()

 

Commons Journals, XIII, p.

((( . ( (6)   Ibid., pp. ((( -( 0. ( (()   弾 劾 自 体 は は る か 昔 か ら あ り、古 代 ギ リ シ ア の「エ イ サ ン ゲ リ ア」 ( eisangelia )に そ の 萌 芽 を 見 る こ と が で き る。だ が そ れ 二四

(25)

は現行制度と直接的に結びつくものではない。 古代ギリシアのエイサンゲリアについては、 橋場弦 『アテナイ公職者弾劾制度 の研究』 (東京大学出版会、一九九三年)が詳細な議論を展開している。 ( (()   イングランドにおける弾劾の歴史については、 佐藤立夫 『弾劾制度の比較研究 (上)

英米独仏日の理論的諸問題と歴史 社 会 的 条 件』 (原 書 房、一 九 九 六 年)一 六 七―三 一 三 頁 を 参 照。な お、一 六 二 一 年 の モ ン ペ ッ ソ ン か ら 最 後 の メ ル ヴ ィ ル ま で の一八五年間に、五四件の弾劾事件があったといわれている。 Hannis Taylor, “The American Law of Impeachment, ” North American Review, (( 0 ( (( 0( ), p. (0 (. ( (()   採決の結果は、一六二対一〇七であった。

Commons Journals, XIII, p.

(((

.

(0)

 

Burnet, History of His Own Time, IV, p.

(((

.

(()

 

Lords Journals, XVI, pp. 6

(( -(( . ( (()  

Commons Journals, XIII, p.

(06; Parl. Hist., V, col.

(((( . ( (()   Commons Journals, XIII, pp. (( 0-(( , ((( ; Parl. Hist., V, cols. (((( -6 (; Lords Journals, XVI, pp. 6(( -(( ; Burnet, History of

His Own Time, IV, p.

(((

; Luttrell, Brief Historical Relation of State Affairs, V, pp.

(( -(( . ( (()   Commons Journals, XIII, pp. ((( , 60 (-606, 6(( ; Parl. Hist., V, cols. (( 66-(( , (((( -(( 0( ; Lords Journals, XVI, pp. 6(( -(( ; Burnet, History of His Own Time, IV, p. ((( ; Luttrell, Brief Historical Relation of State Affairs, V, pp. (( -(( , 6 (. なお、オー フォード、サマーズ、ハリファックスに対する弾劾状の訴因は、それぞれ一〇項目、一四項目、六項目から成っていた。 ( (()   佐藤『弾劾制度の比較研究(上) 』三一〇頁。 ( (6)   被訴追者たちの答弁書が送付されたのは、 オーフォードは五月一四日、 サマーズは二四日、 ハリファックスは六月一六日で あった。それぞれの答弁書の内容については、 Lords Journals, XVI, pp. 6(( -(( , (00-(0 (, (( 0-(( ; Commons Journals, XIII, pp. ((( -( 6, ((( -((

; Parl. Hist., V, cols.

(( 6( -66, (((( -(( , (( 0( -( 0( . ( (()  

Parl. Hist., V, cols.

(((( -(( . ( (()   Lords Journals, XVI, pp. ((( -( 6; Parl. Hist., V, cols. (((( -(( ; Burnet, History of His Own Time, IV, pp. (0 (-(0 (; Luttrell, Brief Historical Relation of State Affairs, V, pp. 6( -6 (; The Several Proceedings and Resolutions of the House of Peers, in

Relation to the Lords Impeached or Charged

( London, (( 0( ), pp. (( -(

0; Parliamentary Diary of Cocks, pp.

((( -(( . ( (()   Lords Journals, XVI, p. (6 (; Parl. Hist., V, cols. ((( 0-(( ; Several Proceedings and Resolutions of the House of Peers, pp. (( -( 00. ( (0)  

Lords Journals, XVI, pp.

(6

(-6

(; Parl. Hist., V, col.

((((

; Several Proceedings and Resolutions of the House of Peers, p.

(00.

諷刺作家の誕生(三)

237

(26)

( (()   ちなみに、 著述家で翻訳家のニコラス・ティンダルは、 外交問題は国王の専権事項であることを 「わが国の憲法によって、 あらゆる対外交渉は完全に国王に委ねられ、 君主には会議体に通知したり、 考えを聞いたりする法的義務はなく、 いわんや彼 ら の 助 言 に 従 う 義 務 な ど な い の は 明 ら か だ 」 と 述 べ て い た 。 T in da l, Co nti nua tio n of R ap in ʼs H isto ry o f E ng lan d, III , p p. (0 6-(0 (. ( (()   Taylor,

“The American Law of Impeachment,

” p. (0 (. ( (()  

Cruikshanks, Handley, and Hayton

( eds. ), House of Commons, V, p. ((( . ( (()  

Contests and Dissentions, pp.

(0, 6 (. ( (()   The Earl of Sunderland to William III ( (( Sept. (( 0( ), Miscellaneous State Papers: From 1501 to 1726, ed. Philip Yorke Hardwicke, ( vols. ( London, (((( ), II, p. (( 6. ( (6)   H. Teerink, A Bibliography of the Writings of Jonathan Swift, ed. Arthur H. Scouten, (nd edn. ( Philadelphia: University of Pennsylvania Press, (( 6( ), p. ((( . 出版日は、一〇月二四日であったようである。 David Womersley, “ʻNow Deaf ((( 0ʼ Entrapment, Foreboding, and Exorcism in Late Swit, ” in Politics and Literature in the Age of Swift: English and Irish

Perspectives, ed. Claude Rawson

Cambridge: Cambridge University Press,

(0 (0 ), p. ((( . ( (()   Flying Post ( (( -(( Oct. (( 0(), Issue (00 (. ( (()   『不 和 抗 争』の テ ク ス ト は、詳 細 な 解 題 を 付 し た 既 出 の フ ラ ン ク・エ リ ス 版 が 現 時 点 で は 最 も 優 れ て い る。本 稿 で『不 和 抗 争』から引用する場合、主としてこのエリス版を用いるが、デイヴィス編『散文著作集』 ( The Prose Writings of Jonathan

Swift, ed. Herbert Davis et al.,

(6 vols.

Oxford: Basil Blackwell,

(((( -(( ]

以下 PW と略記)の頁数も併記する。 ( (()   Contests and Dissentions, p. (( ; PW, I, pp. ((( -( 6 (中野好之・海保真夫訳『スウィフト政治・宗教論集』法政大学出版局、 一九八九年、二頁。

以下『論集』と略記) . ( (0)  

Contests and Dissentions, p.

(( ; PW, I, p. (( 6 (『論集』二頁) . ( (()   混 合 政 体 論 に つ い て は、犬 塚 元「混 合 政 体」 (古 賀 敬 太 編『政 治 概 念 の 歴 史 的 展 開』第 六 巻、晃 洋 書 房、二 〇 一 三 年)九 七 ―一一七頁が概念史的に手際よく整理している。 ( (()  

Contests and Dissentions, pp.

(( -(( ; PW, I, p. (( 6 (『論集』二―三頁) . ( (()   ス ウ ィ フ ト は、こ の 引 用 文 に 続 け て ポ リ ュ ビ オ ス や リ ュ ク ル ゴ ス を 引 き 合 い に 出 し な が ら 次 の よ う に 言 う。 「カ エ サ ル と タ キトゥスによって記述されたこの種の混合形態をとるガリアとゲルマンにおけるいくつかの共和国は言うまでもなく、 ポリュ ビオスによれば、最善の政体とは regno, optimatium, populi imperio の三つの形態から成る政体のことである。それらは王、 貴族、 庶民と訳すのがふさわしい。 リュクルゴスが創設した初期のスパルタの政体はこれであった。 それぞれの形態が腐敗堕 二六

参照

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