黙示契約としての社会契約--ルソ-「社会契約論」
再考
著者
浅野 清
著者別名
Asano Kiyoshi
雑誌名
経済論集
巻
17
号
1
ページ
p1-18
発行年
1991-10
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00005448/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止黙示契約としての社会契約
ー ル ソ ー 「 社 会 契 約 論 」 再 考
-浅 野
清
目 次 1.はじめに一一ルソー「市民社会論」の方法一一 2, r定稿.!1篇6章における「社会契約」のメカニズム (1) r自然状態」から「社会状態」への移行 (2) 所有権の成立 3, r全面的譲渡」と「部分的譲渡」 (1) r全面的譲渡」と「全面的獲得」 (2)r交換」契約としてのシェー7 先行学説との対照一一 (3)r明示的行為」と「黙示的行為」 (4)r原契約」としての「社会契約」 4,実在的意思行為としての「社会契約」一一結ひ、にかえてl
は じ め に
本稿の主たる分析対象は『社会契約論~ i定 稿 」 のl篇6章である。 『ネ士会契約論』は近代市民社会形成のロゴスを i商品生産者=交換者J1)と し て の 諸 個 人 相 互 1) r社会契約論』三 rエミ ル』の著者が依拠している近代市民社会の「原論理」は r商品生産者三交換者 producteurs et echangistes de marchandisesJが取り結ぶ物象的諸関係である。拙稿「社会契約の概念についてJ(名古 屋大学経済学部「経済科学』第23巻2号.1976年)を参照。 周知のように w資本論』はこれを首章の「価値形態論」において展開している。そして r商品生産者二交換者」なるカ テゴリ は,フランス語版r資本論』において,変更された箇所に登場する。「しかし,商品価値の形態では,すべ士の労働 が同等な人間労働として, したがって同等と認められるものとして表現きれているということを,アリストテレスは価値形 態そのものから読みとることができなかったのであって.それは,ギリシアの社会が奴隷労働を基礎とし, したがって人間 やその労働力の不等性を自然的基礎としていたからである。価値表現の秘密,すなわち人間労働一般であるがゆえの,また そのかぎりでの,すべての労働の同等生および同等な妥当性は,人間の同等性の概念がすでに民衆の先入見としての強固さ をもつようになうたときに,はじめてその謎を解かれることができるのである。しかし,そのようなことは,商品形態が労 働生産物の 般的な形態であり,したがってまた蔵品所有者[高品生産者・交換者producteurs et吾chanlristes de mar 生担坐些L
としての人間の相互の関係が支配的な社会的関係であるような社会において,はじめて可能なのである。lKLIMa民 DASKAPITAL. E出 erBand. MARX'ENGE凶 WERKE.Band 23. S.74.(引用はME全集版より,下縁部が フランス語版で変更)
の,無自覚的な意思行為連関として原措定したうえで,この原ロゴスを「国家」としての市民社会 構成員の,自覚的な意思行為連関として,再措定したものである。 市民社会論のル、ノ一的接近方法について,経済学との接点を意識しながら一言すれば,以下の通 りになるであろう。ルソーの同時代人であるスミス2) さらには両者の100年後に,近代市民社会の 「原論理」を「価値形態論と交換過程論」の重層的論理でもって整除したマルクスの方法によれば, 物象的依存関係における「人間」の取扱い方は,経済的諸関係の人格化としてのそれで'あり,この 限りで,人聞の意思的行為は経済的諸関係に命J!約され,その「人格化」なのであり I意思関係の内 容は,経済的関係そのものによって与えられている」めので、ある。それゆえ,スミスにおいて真探ら れマルクスによって仕上げられた近代市民社会形成論において,まず人聞が取り結ぶ諸関係を規定 し制約する「客観的」諸関係として,商品・貨幣の物象的諸関係の独自的叙述が可能となる。叙 述が可能になるための実在的根拠として、物象的依存関係が明瞭に姿をあらわして,個々の人間の 「意思」や「力」では統御・変革不可能なまでに成熟してきたことをあげることができょう。 ルソーの場合,このような意味での「経済学ー的方法に向かうことはできなかった。彼が見てい た「高品生産者二交換者」が取り結ぶ諸関係,商品・貨幣の物象的関係は雫主として農村共同体の 解体のなかから姿を現わしつつあった原初的形態でしかなし当然のことながら,近代的資本・賃 労働関係を内包した商品・貨幣の物象的関係ではなかった。その意味で¥ルソーが依拠していた市 民社会の実在的根拠は,スミスに比肩すれば,未成熟なままにとどまっていた, と評することがで きる。他方で¥その市民社会の実在的基礎の未成熟さと裏瞳に,ルソーの思惟様式において,社会 問題に目をむけはじめて w政治制度論』を構想するにいたったそもそもの初めから,古典古代の「キ ヴィタス」の伝統が脈打っており,人聞の「人為」や人聞の「力」による,社会統御の可能性につ いて,大いなる期待を保持し続けていた事は疑い得ない。 ルソーの問題提起がどれほど深くかっ広い射程をもっていたとしても,彼の市民社会論C:l:,市民 相互の意思行為連関として叙述しなければならない, という根本的制約性があった。この制約性に 関説して,再度,吋士会契約論』における市民社会論の方法論的独自性を揚言するならば,ルソーの 場合,社会的連聞は諸個人の物象的依存関係として描かれることなく,人々の意思的関係がその内 に沈み込んでいる経済的関係のなかから,ルソーは「意思的関係」のみを摘出し,それを市民社会 構成員の「無自覚的」な意思行為連関(=r黙示的契約J)として原措定した。定稿『社会契約論』の 1篇6章は,かかる意味での「無自覚的」な意思行為連関である。他方,同じ定稿『社会契約論』 の政府論3篇10章から18章に登場する社会契約ぺま I市民の自覚的な」意思行為連関である。 2 )アダム・スミスの『諸国民の富』における「トランス・ナショナル・シヴイル・ソサイアテイ」の論理をi切らかにした, 野沢敏治 r社会形成と諸国民の富一一スミス経済学研究一一』岩波書居.1991年を参照e
3) r資本論』の「交換過程論」よりヲl用。 KarlMarx. DAS KAPITAL. O}り cit..SS. 99-100
4) w社会契約論J3篇10-18章が考察している「対象」は,政府によって主権が纂奪され,社会契約が破棄されんとする地
-以下,その論証にあてよう。
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11定稿.JJ1
篇6
章 に お け る 「 社 会 契 約 」 の メ カ ニ ズ ム (1) r自然状態」から「社会状態」への移行 『定稿~ 1篇6章「社会契約について」において,ルソーはまず I自然状態 lモ
tatde natureに おける自己保存を妨げている多くの障害が,その抵抗によって,各人が自然状態における生存の維 持のためにふるう諸力を圧倒する時点に人聞が到達したと想定5)Jしている。自然状態への遡及,同 じ事だが,自然状態の想定,これはいかにして可能か。まず,文中にある「自然状態」から検討し よう。 それは「人間不平等起源論』の概念でいえば,その「第一部」で叙述きれているような「純粋の 自然状態6)Jを表示しているのであろうか。この問題は「各人が自然状態における生存の維持のため にふるう諸力Iesforces7)Jが何から構成されているかを,同じことだが,社会契約において,各人 が全面的に譲渡するものが何であるかを検討すれば,おのずから明らかになるであろう。「純粋の自 然状態」における人聞の「力」は,彼自身の「身体personne8)Jに限定されていた。然るに『社会契 約論』で設定される「自然状態」における人聞の「力」には,彼自身の「身体」のほかに「財産biens9)J が付加されている。「共同体が形成されるとき,各構成員は現在あるがままの自己,すなわち彼自身 とあらゆる力を共同体に譲渡する。このとき,構成員の占有する財産も彼の力の一部である10)0Jし たがって「生存様式を変えなければ滅亡することになる11)J時点とは I戦争状態lモ
tatde guerre'2) J としての自然状態であるlヘルソーは『人間不平等起源論』においては,この戦争状態から実定法の 点である。ルソ が政治的実践としての「人為I'artj (RousseauJ.-J..Du Contrat 5ocial. III-ll.以下C.5..III-11と略 記L.績と章のみ記すご O.C..tomeIII.p.424.)を要請するのはニの地点である。だが,その考察に向かう前に,国家の基 礎たる社会契約に,ひとまず立ち戻らね(工ならなL、。ルソー自身が r人為」の要請にあたって r政治体の生命の原理j(ibid. . p.424.)たる立法権にふれ,国家の恨幹に立ち戻っているからである。「国家の基礎は.すべての政府において同一でhあり, それは私の著作において,他のいかなる人のものよリも良〈据えられているj(Mont.α'[fnι.VI. O.C.. tome III. p.81l.)と,ルソーは「山からの手紙』のなかで『相会契約論』をきして,このように表現している。では r政治体の生命の原理」 (C .5. . III -11. O. C . . tome III. p. 424 . )であり.いかなる国家も.それが国家としてあるかぎリ前提にしている「社会契 約」とはどのようなものか。『定稿J 1篇 6章が明らかにしているのは.かかる課題である。 5) C.5..ト6.O. C.. tome IlI. p.360 6) FragmentsPolitiques. O.C.. tomeIII. p.475 7) C.5.. [-6.O.C.. tome III. p.360. 8) ibid.. p.360. 9)ibid.. p.360 10)C.5.. [-9.O.C.. tome 1II.p.360. 11)C.5.・[-6.O.C.. tome III. p.360 12)Inegalite., O. C .. tome III. p. 176 13)社会契約においてj惣定きれている
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然状態」が『人間不平等起源論』における「戦争状態」に等しいことの論証はアル チュセールに負っている。 Cf..Althusser.L.. " Sur le " Contrat social"" inCahiers戸ourI'Analyse, No.8, Paris. 1967.また rJ1..ソ 全集』の編f'iドラテも同様の指摘を全集版のj主で行っている。 O.C.. tome III. p.1443 et note 1.市Ij定と,政府の設立を論じているが,定稿においても,政治体の基礎を明らかにするために,叙述 様式において,戦争状態としての自然状態に論理的に14)遡及するのである。 この遡及は,同じことだが,自然状態の想定は,決して恋意的なものではなく, 1篇6章に先行 する諸章によって,それが可能になる。先行する四つの章において,ルソーが家父長権説,征服説, 服従契約説などの反駁を試みたことの意義は,彼の意図が事実として存在する政治的支配の弁証で はなし「合法的にして確実な統治の規則15)jを見いださんがためであり i権利を事実によって確立 する16)jグロチウスの方法を批判して,ルソーが方法論的に捨象しようとする「事実17)jとは,かか る政治イデオロギーによって正当化されている政治的支配という現実そのもの,その統治機構であ る。現に存在する政治的支配を正当化する「誤った観念18)jの反駁と否定によって,現存する統治機 構の理論的捨象が可能となり, 自然状態への還基が可能となるのである。ルソーはこの自然状態か ら「社会状態l
モ
tatcivilへの移行19)j を,論理的移行として叙述する。(
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)
所有権の成立 次に,社会契約によって成立する社会状態について明らかにしよう。 社会契約における全面的譲渡において「特徴的なことは,個々人から財産biensを受け取る場合 に,共同体は彼らからそれをはぎ取るのではなく,むしろかえって,彼らにその合法的占有la legitime possessionを保証し,ユジルパシオンusurpationを真の権利に,享有jouissanceを所有pro -prieteに変えるだけだということである。制」社会契約によって各人の財産の実質的平等が現出する のでもなしまた,人類救済の完成形態としての「ルソー的国家」なるものが成立するのではない。 社会契約によって、ただ,財産の不平等や地位の不平等などの「社会的不平等21)jを前提にしたうえ 14)政治体の基礎を明らかにするために,白然状態に遡及するルソ の方法の真意を理解することは重要である。これは叙述 における便法であって,社会契約はD.ヒュ ムによって批判の対象とされる康史的実在行為としての「原始契約」ではない ことが, まず第一点。これについては, Redpath, Th.,"R吾flexionssur la nature du co口ceptde Contrat social chez Hobbes, Locke, Rousseau et Hume" inETUDE5., pp.55-64.の指摘は正しい。第二に,後論て明らかになるが,社会 契約によって成立する「社会状態」とは.それ自体として定成した状態ではなし社会形成=同家形成の基礎的論理がー状 態として叙述きれているにすぎない,ということが注意されねばならな,'0 15) C .5., Pr邑face,O. C ,.tome III, p. 351. 16) C.5., [-2, O.C., tome III, p.353 17) r社会契約論aよりも,さらに還し深く社会体の始源を探求した「人間不平等起源論』においては.次のように叙述さ れている。「人間の建造物は,一見するところ,崩れやすい砂上の上に築かれているかのように思われる。それらを注意深〈 点検して初めて.また建物を包んでいる壊と砂を払いのけて初めて.人は建物の立っている磐石の礎を認め,そしてその基 底を尊敬べきことを学ぶのである。J(lnegalite., O. C . , tome III, p. 127.)人司は偏見に邪魔されて事態の意味とその真の 姿が見えないのだ。ルソーは日常意識において自明のものとみなされ.不断に再生産されている事物の探求を自己の方法と して確立していること,次の一文が日月らかにする。「私はわれわれの偏見lesprejugesによってよリも,その本性lanatureに よって事物leschosesを検討する。J(ibid., O.C.,tomeIII, p.603.)また rジ ュ ネ ヴ草稿』の周知のー匂も同ーの命題で ある。「私は権利と理性を探求し,事実については議論しない。J(Ms. Geneve.,[-5, O. C., tome III, p.297.) 18) Ms. Geneve., [-5, O.C., tomeIII, p.297. 19) C.5.,[-8, O.C., tome III, p.364 20) C .5..[-9, O.C., tome III, p.367 21)ルソ は二種類の不平等を考えている。一つは「自然的または身体的naturelleou PhisiqueJ不平等(ln々
alite.,O.C.,で〉社会的不平等に代わる「社会的平等匂alitemorale et legitimeJ叫が成立するのであり,社会 的不平等の結果として成立した富者による貧者の「ユジルパシオンusurpation23 )Jは,真の権利へと 高められるのである。つまり,戦争状態において存在していたものの意味が変わるだけである。戦 争状態において欠如していたものは,各人の「占有」の普遍的承認形態であり,そこにおいて「自 己の勤労industrietこよって富んだ人でさえ,彼らの所有をより良い権原titres24 )Jによって基礎づけ ることはできなかったので、ある。 この意味で二社会契約によって,まず所有の権利が確立するのであり i所有権が市民の権利のう ちで最も神聖なものであり25)J i所有こそは市民社会の真の基礎vraisfondement de la societe civil tome IIl,p .131.)であり,これは「自然によって定められるものであって,年齢や健康や体力の差と,精神あるいは魂の質 の差から成り立つでいる。J(ibid., p.131.)もう一つは「社会的あるいは政治的不平等l'inegalit吾morale,ou politiqueJ (ibid., p.131.)であり,それは九、くらかの人々が他人の犠牲のうえにauprejudice des autres享受しているさまざまな特 権.たとえば他の人々よリも富裕であるとか.尊敬きれているとか,勢力があるとか.さらには彼らを自分に服従させると いうような特権から成っている。J(ibid., p .131.)社会契約によって成立する「社会的合法的平等J(C.5., 1-9.O.C., tome IIl,p. 367 . )とは.各人の
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然的不平等と社会的あるいは政治的不平等を前提にしたうえで,それらの存在にもかかわ らず成立する人間の形式的・姻象的な同等性であって.富とか,名誉とか政治的地位に関する絶対的同等性を表示していな い。完全な水平化としての平等主義は.ルソーとは無縁である。 r人間不平等起源論JI;l:,各人のく自然的不平等に相却する 社会的不平等〉こそが真の平等主義であり,自然法にかなうものであることを,その「結論」として掲げるのである。「その 説明の帰結として.不平等は自然状態においてはほとんど無であるから,不平等は.われわれの能力の発達と人問精神の進 歩によって.その力をもつようにな,), また増大してきたのであり,そして最後に,所有権と法律との制定によって,安定 し正当なものとなる.ということになる。また,ただ実定法だけによって容認きれている人為的不平等は,それが自然的不 平等と同じ釣合を保って一致しないときは.いつでもt'1然法に反する,とし汁結論も出てくる。J(Inegalite., O. C . , tome IIl, p.193. r人間不平等起源論Jr第二部」の末尾.計波文息 130-131頁) なお,このルソ の平等主義が7ルクスとレ ニンによって継承されたとみなす見解は.ベスとヴオルべによって主張き れている。 (Bess,Guy,"De Rousseau au Communisme" inEurope,1961.Vol1pe, Del1a, G.,"Du Discours sur l' in吾galit吾孟L'立tatet la R吾volution" in Europe, 1961.) 22) C.5., 1-9, O.C., tomeIII, p.367. 23)ibid., p .367.社会契約によって r真の権利」となる富者の「ユジルバンオンusurpationJが「略奪Jや「横奪」すなわ ち,他者の所有権に対する非合法的な侵害を意味するものではなし 7ルクスの用語法でいう「搾取」に相当すること,本 文の論述から明瞭であると思われる。しかし.現在,一般に流布している三種類の訳書とも「略奪J(井上幸治訳,中央公論 社, 248頁), r横奪J(京大人文研訳,岩波文庫, 40頁), r横領J(作田啓一訳 rJ~ ソ 全集』第5巻, 129頁)の訳語をあて ているが,正当ではないし,社会契約によって成立するものが何であって何でなL、かの理解を困難にさせるものである。「ュ ジルバシオン」とは他人の所有権の侵害としての「盗み」ではなし社会契約によって制定されている所有権法によって「合 法的な盗み」として確立されるものである。両者は F社会契約論』のI篇9章において r盗み」としての同等性に着目して 同じ用語があてられているが,厳密には区別されるべきであろう。ルソ においては「搾取l'exploitatioむの概念が未成立 であるが,事実上きぐりあてられている, と忠、われる。自然的不平等から説きおこし,支配・隷従関係の成立を富の不平等 の結果として展開する r人間不平等起源、論aでは r社会契約論』とl司様に r社会と法律」の形成によって「巧妙なユジル ノ マJオンuneadroite usurpationJは了取1)消すことのできない権利J(Inegalite., O. C., tome III, p.178.)になると,は っきリ述べられている。他方,社会的不平等を前提にして.社会契約における形式的同等性の成立を把握する定稿『社会契 約論』では, 1篇の結論部分に一つの注が追加される。そこでルソーは再度 rユジルバンオン」について語っている。「悪 い政府のもとでは,この平等は外見的で幻想的なものでしかなし」それは貧乏人を貧困のなかに.金持ちをユジルバシオン のなかに維持することにしか役立たない。J(C .5.,1-9, O.C., tome III, p.369.)ここでルソーは,社会的不平等が広範 に展開し,富者による貧者のユジルJマンオンが存在する諸社会においては.社会契約によって成立している人間同等生め観 念は形骸化すること,さらには,人問周等性の原理が,逆に,富者のユジルノぐシオンの反復,再生・維持の原理になること を.批判的に指摘しているのである。 この意味て1 ここに付加されたんソーの注Il:,; r不平等論』と rェ:
-)し』において掘1)下げられた社会認識の凝集表現てー あろう。と同時に,すべてを政治に還走し rすべては根本的には政治につながるということ,また.どのような試みをした ところで.いかなる国民も,その政府の性質の作リなせるもの以外ではありえなしり (Les Conルssions.,O. C ,.tome 1, p.404.)とみなすルソーの恩¥'1註様式においては,富者のユジルペシオンの進展にみられる「事物の力J(C.5., II-ll, O.C., tome III, p.392.)に対するベシ Eズムと r事物の力」に抗する熱烈なる「作為」への待望が培養されるのである。 24) Inegalite,. O.C., tome III, p.176. 25) Economie Politique, O. C ,.tome III, p. 263.邦訳.岩波文庫, 42-43頁。であり,市民の聞の約束の真の保証人である26)J。この『政治経済論』の文言と,次に掲げる『エミ ール』及び r ジュネーヴP草稿~= Ii社会契約論』の叙述とは,一個同ーの命題に他ならない。 「ネ士会秩序l'ordresocia!は,神聖な権利であり,それは他のあらゆる権利の基礎となる。 27)J 「所有権の上にこそ主権が基礎をおいているとすれば,所有権は主権がもっとも尊重しなければ ならぬ権利だc所有権は,個別的・個人的権利であるかぎり,主権にとって神聖不可侵の権利だ。 28)J そして,この引用文のなかに既に含意されていることだが,社会契約によって成立する社会状態 とは,国家である前にまずもって社会体である c 社会体と政治体の連関についてIí社会契約論~ i定 稿J2篇l章の冒頭で,ルソーは次のように語る。「前に確立した諸原則から生じる,根源的弘最 も重要な結果は,一般意思のみが共通の利益biencommunという国家設立の目的に従って,国家の 諸力を管理しうることだ。なぜならば,個々人の利害の対立が諸社会の確立を必要としたとすれば, その確立を可能にしたのも,この同じ個々人の利益の一致だからだ。社会的連関を形成するのは, これらのきまざまな利益のなかにある共通物communである。全ての利益が一致する何らかの点が なかったならば,いかなる社会も存在することはできなし、そこで社会が統治きれねばならぬのは, この共通利益I'interetcommunに基づいてである。 29)J 社会体を成立させている,対立し合う利益のなかの「共通の利益」こそ,政治体の存立根拠であ ると同時に,その目的である。『政治経済論~ Iíエミール~ Ii社会契約論』の三テキストが共通に語り 出すのは,市民社会における「所有権の確立」であり雫諸個人の所有権者としての「同等性匂aliteJ (= i人間平等J)の観念である。 政治体の「一般意思」についても,ルゾーの説明は明瞭で・ある。一般意思は.意志としての意志, もしくは倫理的意志として,通常,理解されがちであるが i一般意思」を自立化させることIi社 会契約論』を狭く政治理論,道徳理論として読むこととは, ともに『社会契約論」の誤読に通じる。 「政治体」の一殻意思は,まずもって i社会体」の「共通の利益」の所産であり,「共通の利益」 を志向する「社会体」の法則の人格化表現である30)。ルソーは社会における不平等の展開を見据えな がら,社会を成立せしめている根源的法則を一般意思概念に結実きせ,分裂体としての社会体を, 政治体における統一体へと次元転換させている。一般意思は人々の倫理的営為によって形成される ものではなく,共通利益の担い手たる諸個人によって表明きれるものである。「意思を一般的なもの にするのは,投票者を結合する共通の利益であって,投票者の数ではない。J31) 26)ibid., p. 263 27)C.S., 1-1, O. C., tome III, p.352 28)Emile., O.C ,.tome IV, p.841.邦訳.岩波文庫(下)234頁。 29) C .S., 11-1, O.C., tome III, p.368 30) r社会体」の「法 ~rJIoiJ= r政治体」の「法律loiJをj想起せよ。この意味でfレソ もまた,ケネーと同様の「客体的自然、法J に少しく傾斜していた,といえないであろうか。拙稿rヶネーにおける「自然の支配physiocratieJJ,東洋大学経済研究所r経 済研究年報』第10号, 1985年を参照。 31) C.S.. 11-4, O.C.,tome III, P.374
それゆえ,ルソーは「政治体J =I社会体」の根源的法則の摘出に向かう。すべての利益が一致す る何らかの点がなかったならば,いかなる「社会体」も存在することはできない。これは「社会体」 が統一体として存続するための不可避な要請であり,根源的法~!Jである。『社会契約論』はこの「要 請」に対して, どのように応えるのか,また,その特質は何か。ここでは社会体の根源的法則をル ソーがどう把握していたかについて『社会契約論』の叙述だけでは不十分で、あるので二『エミール』 の周知の一節を‘しかしながら今まで問題にきれることの少なかった一節を,援用し若干の論評 を加えておこう。 「いかなる社会も交換なくして存在しえないし,いかなる交換も共通の尺度なくして,いかなる 共通の尺度も同等性egalitεなくして存在しえない。だからあらゆる社会には,根源的法則として, 或いは人聞における.或いは事物における何らかの同等性匂aliteがある。人聞のあいだの合意によ る同等性匂aIiteは、自然的平等匂alitεとはまったく異なったもので実定的権利を,つまり政府と法 律を必要とするo ・(中国各)・・・事物のあいだの合意による同等性εgaliteは,貨幣を発明させ た。なぜならば貨幣とはさまざまな種類の事物の価値に対する比較の言葉にすぎないからである。 そして,この意味において,貨幣は社会の真の紳である。したL.どんな物でも貨幣になりうる。 昔は家畜がそうであった。貝殻は今でもいくつかの民族における貨幣である。スパルタでは鉄が貨 幣だったJ 皮はスウェーデンにおし、てそうであった。金と銀は我々のあいだでの貨幣である。 金属は容易に持ち運びができるので,一般にすべての交換を媒介するものとして選ばれた。そし てそれらの金属は貨幣にかえられ,交換のたびに大ききや重きを測る労を省くことになった。つま り貨幣の刻印は,そうし汁婁JI印のついた貨幣は,これこれの重きを持つということを示しているに すぎなし、そして執政者だけが貨幣を鋳造する権利をもっ。その保証が一国民のあいだ‘で権威をも つことを要求する権利は君主だけにあるからだ。 この発明の効用は,こんな風に説明すれば¥どんな愚かな者にもわからせることができる。異な った性質のもの,たとえは、織物と小麦を直接に比較することは困難である。だが,共通の尺度を, すなわち貨幣を見つけてしまえば,製造業者と耕作者は,かれらが交換したいと思っている事物の 価値乞この共通の尺度に関連させることが容易にできる。ある量の横物がある量の金に等しし ある量の小麦もまた同じ額の金に等しいとするならば,商人はかれの横物と引換にその小麦を受け 取れば,公正な交換をしたことになる。このように,貨幣によって異なった種類の財は通約可能と なり,互いに比較することができる。」叩 ここに引用した文章は rェミール』第三部の「社会的分業」を考察しているなかに出てくるもの である。事物の交換の媒介者,事物の価値の「しるしが,事物をなおざりにする」という,この社 32) tmile., O.C., tomeIV, pp.461-462.11~ 訳.す.;'?止文庫(上) 335-336頁
会秩序の「濫用について述べるまえに,その効用について十分に述べる必要があるJ33)として,あら ゆる社会の根源的法則を語りだしている文章である。このうち前半部分の注解を試みてみよう。事 物(=商品)と事物との交換において,交換当事者は同時に契約当事者でもある。なぜならば,それ 自体として比較不可能な二つの異なった事物が,同じ質を持ったものとして認め合う行為だからで ある。交換当事者によって事物の合意による同等性,合意による価値としての「同等性匂aIitも が 成立する。実在的な意思行為としての交換の反復は,共同の黙示的な意思行為によって,諸事物の 「同等性匂aIiteJの化身としての貨幣を産出する。と同時に,この交換という行為のなかには,人 聞のあいだの合意による「同等性egaliteJが形成されている。事物の価値としての「同等性egaliteJ が,人間としての「同等性匂aliteJの観念を成立させる。事物の所持者として相互に認め合う行為 だからである。所有権がこの二者において個別的に承認される。だが,この承認行為は契約当事者 間における事柄であり、社会全体からみれば「単純な,個別的な, または偶然的な」承認行為でし かなし契約の両当事者以外から承認を受けているわけではない。個別的な交換における明示的な 意思行為,相互承認行為の反復という社会的実践過程を経て,共同の黙示的行為として,人間同等 性の観念が実定的権利に凝固し,政府と法律を不可避に産出するのである。 以上 wエミール』からの援用によって I政治体」が依拠する「共通の利益」の実体を明らかに してきたο 「共通の利益」とは,各人の占有の、所有の権利としての確立であること,既に検討した通りであ る。では。いかなるメカニスムによって,所有の権手JIが確立するかを,次に検討しよう34)。
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i全 面 的 譲 渡 」 と 「 部 分 的 譲 渡 」 (1)r全面的譲渡」と「全面的獲得」 まず,ルソーがあげている社会契約の条項を引証しよう。 ( 6バラ)I社会契約の条項li,ただ一つの条項に還元される。あらゆる権利とともに,各構成員の 共同体全体に対する全面的譲渡l'alienationtotale de chaque associe avec tous ses droits a toute la communaute35 ) J。 ( 9ノサ)Iもし社会契約から,社会契約の本質でないものを取り除くならば,社会契約は次の条項 33) ibid., p.462 34) rジ ュ ネ ー ウs草 稿aでは,一般意思への服従カ九、きなり出さil, 解 決 形 態 が 提 示 さ れ た だ け で . こ の 移 行 の メ カ ニ ス ム が 仕上げられていなかったがゆえに,結合行為が一般意思への全面的服従, もしくは国家への吸収としての理解が生まれるの も当然と考えられる。だが r定 結JIこおいてはI篇6章 の3-8ペ ラ グ ラ フ が 新 し く 執 筆 き れ , 社 会 契 約 の メ カ ニ ス ム が 説 日月される。 35) C .5., 1-6, o.C., tome 111. p.360.に還元きれるのがわかるであろう。我々の各々は,身体とすべての力を共同に,一般意思の最高の 管理directionのもとに置く。そして我々は各構成員を全体の分割できない部分として,一体として 受け取る。 36)J ルソーの社会契約のメカニスムを理解する鍵は「全面的譲渡」にある。「全面的譲渡」それは実在 的な意思行為ではなく r黙示的なtacite37) J共同の意思行為である。 「共同体への全面的譲渡」は同じ章の
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パラでルソ一自身次のように言い換えている。「各人はす べての人々に対して自己を譲渡しあう38)Jc ルソーは全面的譲渡が実在的行為ではなし各人の実在的な相互譲渡行為によって措定された黙 示的行為であることを示すために雫次のように事態の意味を開示する。 「社会契約によって,諸個人の側で,実際に何ものかの放棄があったというのは誤りである。彼 らの状態は,この契約の結果,以前の状態より現実的にいっそう好ましいものとなり,また彼らは, 譲渡したのではなく、有利な交換echangeavantageuxをしたにすぎない39)0 J諸個人は「いわばpour ainsi dire自分達の与えたものをすべて入手したのである州。」全てを放棄して,その同じ物をすべて 獲得する。この「全面的譲渡」において,それが実在的な譲渡行為として考えるかぎり,これほど 無意味なものはなし、。何か意味があるのだろうか。実在的行為として読むかぎり r全面的譲渡」は 意味をなさないであろう。諸個人は何ものも譲渡したわけではない。それにもかかわらず,すべて を譲渡して,全てを獲得する, とルソーは説明しているのである。全面的譲渡と全面的獲得。この 実在的行為ではない契約に意味があるとすれは¥それは存在するものの,様態の変更のなかにみと められる。全面的譲渡と全面的獲得。ルソーの社会契約の秘密はここにある。 (2) r交換」契約としてのシェーマ 先 行 学 説 と の 対 照 一 一 ここで,少しく悟性的に社会契約のメカニスムを整理してみよう引にそのための分析の出発点は, ルソーが『社会契約論』においてそうしたのと同様に,先行する「服従契約説」の批判的改組であ る。 服従契約説の枠組みは,ク、、ロチウス以来,それほど変化していない r契約J,r合意」という法形 式をとるかぎり,この契約の,「契約当事者」は常に二つである。第ーの「契約当事者」は「人民」 である。そして,第二の「契約当事者」は「君主」もしくは「政府」である。この二つの「契約当 事者」のあいだで r交換」行為がなされる。 36) ibid" p.360. 37)Emile., O. C ,.tome IV, p. 839 . 邦訳.岩波文庫(下)232頁。 38) C.S., 1-6, O.C., tome 1II, p.361. 39) C.S., IH, O.C., tomelII, p.375 40) ibid., 1-9, p.367. 41)アルチュセ ルの分析を参照。 Cf., Althusser, L.,"Sur Ie" Contrat sociaI"".op.cit.この「交換」は,次のように要約されるだろう。「人民」は「君主」に服従を約束する。他方 r君 主」は「人民」にその福祉を保証する。事実,ルソーは『社会契約論』の
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篇1
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章において,服従 契約説を指して次のように説明した。「多くの人たちが,政府の設立という行為は,人民と,人民が みずから推挙する首長たちとのあいだの契約であると,主張してきた。すなわち,この契約は,契 約両当事者のあいだには,一方は命令する義務を負い,他方は服従する義務を負うのに必要な諸条 件を定めるものだというわけである。 42)J 古典的な「服従契約説」において,ホップスを唯一の例外として r人民J(契約当事者1)は自己 の「権利J. r自由J. r財産」の一部分だけを, 自己の「安全」と引換に譲渡する。これは「人民」 によるく部分的譲渡〉であって,く部分的譲渡〉こそが,人民の個人的「自由」の砦であるとみな されてきた。 アルチュセールのシェーマによれは,服従契約説における交換契約は次のように表現される。 [契約当事者1] (人民) ‘一一 権利・自由・財産の 部分的譲渡 くシェーマA>
[契約当事者2] (君主) 安全と福祉 大睦自然法学の用語を使用しながら,ルソーはそれを乗り越えようとする。その際,彼の探求す るものは r自由と服従の一致叫」という視点である。「共同の力をあげて,各構成員の身体と財産を 防御し,保護する結合形態を発見すること。この結合形態によって,各構成員は全体に結合するが, しかし自分自身にしか服従することなし結合前と同様に自由である。州Jrこの社会契約のあらゆ る条項は,よく理解されるならば,ただ一つの条項に帰着する。すなわち,各構成員は,自己をそ のあらゆる権利とともに,共同体に全面的に譲渡するということである。それは何故かというと, まず第一に各人はいっきいを譲渡するので,万人にとって条件は平等となるからであり,条件が万 人に平等で、あるならば,だれも他人の条件の負担を重くすることに関心をいだかないからであ る。叫」ここから,我々は次のくシェーマB
>
を得る。 42) C .5.. III-16.O.C.. tome III. p.432. 43) Economie Politique.O. C .• tome III. p. 248. 44) C.5.. j-6.O.C.. tome III. p.360. 45)ibid..p.360.[契約当事者1] (人民) ‘一一 力・権利・自由の 全面的譲渡 (3) r明示的行為」と「黙示的行為」 くシェーマ
B:>
[契約当事者2] (共同体) ? ? 一一歩 ルソーの社会契約は,服従契約と同様にIiエミール』の表現を用いれば,-二つの契約当事者 les deux parties contractantes46 ) Jのあいだの「交換」行為である。我々は契約の条項から,「契約当 事 者1Jが譲渡するものが何であるかを知っている。それは「各構成員の身体と財産47)Jである。服 従契約における部分的譲渡ではなし「契約当事者2
Jへの「全面的な譲渡」であるミ それでは,-契約当事者2Jは何を譲渡するのか,-契約当事者 2Jは,邸従契約説の場合(くシェ ー'7A
)P)は「君主」であったが,ルソーの社会契約のくシェーマB:>
において『それは「共同 体」であり,各構成員から成る「結合の形態」であるc しかし,これでは事態は不明瞭であるc な ぜならば,一般的に,いかなる契約においても,契約の両当事者は,契約に先だって,かつ契約の 外に存在している。それは契約の絶対的な条件のはずである。ルソーの社4
き契約は,この意味で交 換契約の条件を充たしていない。「契約当事者2
Jは契約行為に先だって存在していないどころか, むしろ契約の産物である。 「この社会契約の公式から,次のことがわかる。結合行為は,公共 publicと個々人との相互的約 束を含むこと,また各個人は,いわば自分自身pourainsi dire, avec lui-memeと契約しているの である州。」 「社会契約は特殊で、'それに固有な性賀をもち,人民が自分自身とのみ契約するのである・・49)0 J 各構成員は「自分自身aveclui・memeと」契約する。換言すれば,ルソーの「社会契約」において は二つの「契約当事者」は同ーの人格である。すなわち,孤立の形態にある個人が、共同体の一員 の形態における個人と契約する。換言すれば,「全面的譲渡」によって, 自然状態にある人聞が新た な共同体に入るのである。以上が,ルソーの「社会契約」の第ーの特殊性である。 次に,残された第二の問題に入ろう。「契約当事者2Jは「契約当事者 1Jに何を与えるのか。「こ の[全面的]譲渡において特撒的なことは,共同体は個人の財産を受取りながら,それを個人から46) Emile., V, O.C., tome IV, p.840. 47)C.S., 1-6, O.C., tomeIII, p.36G.
48)C.S., 1,7, O.C.,tomeIII, p.362.
収奪するわけではなしむしろ,個人の土地の合法的占有を保証し,・・・・土地の占有者たちは, いわばpourainsi dire自分達の与えたものをすべて入手したのである。 50)j要するに,悪名高き「全 面的譲渡」によって,各個人は実在的には何も譲渡していないのである。両契約当事者のあいだの 交換行為は,実在的な交換行為を意味してはいない。その行為は,明示的でい実在的な行為に論理的 に先行する,非実在的な行為である。ルソーの社会契約は「黙示的契約contrattacite51) j であり, それは政治制度を創設するための「明示的」な交換行為の前提条件なのである。両契約当事者の聞 の「明示的な」交換行為としてii,次の引用文が示すようにルソーは,はっきりと「全面的譲渡」 ではなし「部分的譲渡」を採用している。「各人が社会契約によって,自己の能力,財産, 自由の うちから譲渡するすべてのものは,共同体が使用するのに必要とするものの一部にすぎない点を認 めよう52)j。さらにまた i社会契約において,個人が何かを実際に放棄したというのは誤りである。 個人の立場はこの合意の結果,その前よりも,事実,好ましいものとなり,何ものかを放棄したど ころか,不確実,不安定な生活様式をすてて,これと違う, もっと優れた確実な生活様式をとるよ うになり.自然のままの独立に対して自由を得,他人が凌駕することもある自分の力に対して,社 会的結合によって侵しがたいものになる権利を得、こうして有利な交換を行うだけのことであ る。 53)j 従ってIr社会契約論』の文脈において,二種類の「交換」行為を,はっきりと区別しなければな らない5ペ一方は非実在的行為であり,他方は実在的行為である。前者は全面的譲渡で黙示的契約行 為であり,後者は部分的譲渡で明示的な契約行為である。この論理的位相を異にするこつの「交換」 行為を区別したうえで;, Ir社会契約論J1篇6章に登場する社会契約が,政治体と諸個人との明示的 てず部分的な契約に論理的に先行する「黙示的」な契約行為であることに注意されねばならない。 1 篇6章で,ルソーはこの「黙示的j 生格についてはっきりと表現している。 「この社会契約の諸条項は,結合行為の性質からして,いささかでも修正されれば、無効で無力 のものとなるように規定されている。したがってこの条項は、おそらく成文をもって公表されたこ とがなかったとしても,何処でも同一で、あり,何処でも暗黙のうちに受け入れられ,承認されてい 生~en sorte que, bien qu'elles n'aient peut-etre jamais ete fortement enoncees, elles sont partout les memes, partout tacitement admises et reconnues.55 )j 50)C.5.. 1-9.O.C.. tome III. p.367 51) C .5.. 1-6.O.C.. tome III. p.360. 52) C .5. .11-4.O.C.. tome III. p.373. 53) ibid.. p.375. 54) 定稿における l篇6章の「全面的譲j度」論と. 2篇4章における「部分的譲渡」論との関連を把握することなしそのい ずれかわ単独に取り出して r個人主義者」ルソー像をt郎、たリ.あるいは「集団主義者J(ヴォーン).r全体主義者J(タル モン)ルソー像を渇くことは, ともに誤リであろう。この異次元の二つの譲波の連関と区別を明瞭に把握したのは.なんと いってもアルチュセ ルをもって鳴矢とする。 55)C.5.. 1-6.O.C.. tome III. p.360. rエミ ル』において~社会契約論』を「要約」した箇所て二ルソ は「定稿」 l篇6章における「社会契約」を「黙示契約」と表現している。 (Emile.O.C.. tome IV. p.839)
ルソーがl篇6章で展開した社会契約は,あらゆる政治体の存立根拠を開示したものであり,そ の要諦は所有権の普遍的承認形態の創出に求められる。「全面的譲渡」と「全面的獲得Joiこのとき 占有者lespossesseursは公共財産の保管者とみなされ,彼らの権利は国家の全構成員から尊重され る」のである。全面的譲渡によって「共通の上位者」が形成=措定きれる。「共通の上位者」として の「共同体J(契約当事者 2)と,諸個人との連関において,今度は,譲渡したものが,すべて意味転 換されて産出される。つまり、各人の占有するものには,所有権が付与され,自然的かつ社会的に 不平等な諸個人は、精神的・合法的に平等な諸個人として普遍的に承認される。この事態こそ,ル ソーが「有利な交換」として語りだしている契約の内実である。 繰り返しになるが,ルソーの「社 会契約」は,日常的な意味での「契約」ではない。「契約」を可能にするための契約である。国家と の契約ではない56)。国家との契約を可能ならしめるための契約である。「共通の上位者」としての「一 般意思」は,既に前節(2)項で検討したように,それが「社会体」の「共通の利益」の法的表現であ るかぎり,ルソーの社会契約の外に,契約に先だって存在すると同時に,契約の外に契約に先だっ て存在しないのであり i全面的譲渡」二「全面的獲得」のメカニスムに従って産出されるものであ る。各人の「無自覚的」な意思行為としての相互譲渡行為によって,全面的譲渡が成立するや否や, この「瞬間間」において,事態は簡潔に i我々の各々は,身体と全ての能力を共同のものとして, 一般意思の最高の指揮のもとに置く (58)Jと表現きれるのである(59)0 i社会契約は,市民の間の平等を 確立し,そこで市民はすべて同じ条件で約束しあい,すべて同ーの権利を享受するはずで、ある。附」 (4) r原契約」としての「社会契約」 この結合行為は,瞬間的にal'instant各契約者に代わって精神的・集合的団体を産出する。ここに 56) したがって,国家に対する実在的な譲波行為としては.部分的譲渡があるのみである。全面的譲渡によって国家の基礎が 設定きtしその国家に対して,租税もしくは「公共の奉仕J(C. 5., III -15, O. C .• tome III.p.428.)や「賦役J(ibid.. p.430.)の形態での「部分的譲波」がなきれる。ただし r主権者だけが.この必要度を判定する点も認めなければならなし、」 (C .5..11-4, O.C.. tome III. p.373.)とルソーが述べていることに注意されねばならなし'0(r賦役Jがもっとも望ましい ことについては r政治経済論』を対象にした木崎喜代治氏の論稿「ルソーにおける経済と国家」専修経済論集,第9号を参 照) 57)C.5.. 1-6.O.C.. tome III, p.361. 58)ibid..p.361 59) rジュネーヴ草稿』の当該箇所は「定稿」の9バラにおける「定式化」と,若干の語句の修正を除けば.同ーの文章であ る。双方とも,ここで初めて「一般意思」概念が登場するので.社会契約の定式それ自体が,簡潔に「一般意思への服従」 とみなされ, 1固の全体への「服従」もしくは「吸収」という歪んだルソー像を作り上げる元となったものと判断される。す なわち,前項のιェー?でいえば,ここて に先だつて存在するかの印象を与えている。しかしながら.前節 (2)項で検討した「社会体」の「共通の利益」と「政治 体の一般意思」との対応関係を念頭において,当該箇所を理解すれば,問題そのものが霧散するであろう。「一般意思」が契 約当事者の外にあり,社会契約が「共通の第三者」としての一般意思と,諸個別意思との問に交わきれる「合意」であるな らば,これは,集合的もしくは共同の「人格」と個別的人格とのあいだの「誓約sermentJ行為となる。 rジュネーヴ草稿aでルソ は「誓約sermentJについて2箇所で言及しているが(Ms.白neve..O.C.. tome III. p.292. p.318.), r誓約」は「服従契約説」的枠組みにおいてのみ,有効であり.過去の合意でなく,常に現在の合意を問うルソー の問題視座からすれば,過去の合意にかかわる「誓約Jiム原理的に退けられる。 60) C .5.. 11-4.O.C.. tome III. p.374
「政治体corpspolitique61 ) Jが成立する。ここにおいて一個同ーの二重の連闘が,すなわち「主権者 の一員として諸個人に対して,国家の一員として主権者に対して臼)J契約するという,二重の連関が 成立する。社会契約によって,「各契約の個人に代わって,一つの精神的・集合的団体を成立せしめ る。この団体は,集会における投票者と同数の構成員から成る。日)J ,-この結合行為から,その統一 性,その共同のく自我〉雫その生命とその意思を受け取るのである。このようにして,あらゆる人 格の結合によって形成される公的人格は,かつてはくシテCite:>,今はく共和国R吾publique:>或い はく政治体Corpspolitique:>という名称をとり,その構成員によって,政治体が受動的に法に従う ときはく国家Etat:>,能動的に法をつくるときはく主権者Souverain:>と喚ばれ,それを他の同じ公 的人格と比べるときは,国際法のうえで砕く主権国家Puissance:>と呼ばれる。構成員についてみる と,集合的にはく人民Peuple:>という名称をとり,主権に参加するものとしては個別的にく市民 Citoyens:>,国法に従う者としてはく臣民Sujets:>と呼ばれる64)Jo ,-主権者はこれを構成する諸個人 からのみ成っている」ので、あって,-主権者とはその本性上、精神的人格でしかなし抽象的で、集合 的な実存しかもっておらず,人々がこの言葉に結び付ける観念は,単一の観念ではありえないo65) J ルソーにおける「服従契約説」から「社会契約説」への転換守これは主権者の概念における転換で あり,社会契約における主権者としての市民
L
臣民としての市民の「一体的構造66)Jを成立させる ことによってD'"政治経済論』において,ルソーみずからが政治学上の大問題として提起したもの, すなわち,-服従と自由の一致の構造」聞を定礎し終えるのである。 61) C.S.. 1-6. O.C.. tome III. p.361. 62)C.S.. 1-7. O.C.. tome III. p.362. 63)C.S.. 1-6. O.C.. tome III. p.361. 64) ibid.. pp.361-362. 65) Ms.白neve..1-4.O.C.. tome III. pp.294-295 66)主権者としての人民じ臣民としての人民との一体性の構造に. !l-ソ 思想の妓心を見いだしているのはスタロペンスキ ーである。彼は演劇における俳優と観客との,見られるものと見るものとの固定化した関係ではなし r新エロイーズ』にお ける共同の収穫の祭における,見るものと見られるものとの一体的燐造を検出する。 JeanStarobinski.Jean.JacquesROl品 -seau. La trans世arenceet l'obs勿cle.Paris. 2nd.吾d..1971. 67) r人々を自由としながら. しかも人々を服従きせ,また国家の必要のためにすべての成員を強制し また,これに相談す ることなくしで,彼らの財産や労力や生命すらを使用し t~1).彼ら自身の同意によって彼らの意思を束縛L
.
後らの拒絶に もかかわらず彼らの同意を言いたて,そして彼らが白ら欲しなかったことをなすときに,彼らfl身を処罰せしめるように強 制する方法を,し、かなる不可思議な技によって人は見いだすことができたのであろうか。人々が服従しながら.しかも誰も 命令する者がなし奉仕しながら.しかも主人がなしまた.表向きは服従していながら.他人の自由を害しうるというこ と以外には,何ものも自分の自由のうちから失わないために,それだけ一層.自由である, というようなことが.-f本し、か にして可能であろうか。これらの不可思議は,法のなす技である。人々は正義と自由を法にのみ負っている。全員の意思の この有益な機構こそが,人間のあいだの自然的平等を権利として再建する。J(Economie Politique. O. C .• tome III. p.248邦訳.19-20頁) また,人間への依存・隷属を事物への依存に転換させるとL叶構想、についてルソーは rエEール』で次のように語る。「事 物への依存lad吾pendancedes chosesは何らの道徳性ももたないのであって.自由を妨げることなし悪を生み出すことは ない。人間への依存lad吾pendancedes hommesは,無秩序なものとして,あらゆる悪を生みだし.これによって主人と奴 隷とは,互いに相手を堕落きせる。社会におけるこういう悪を救済する何らかの方法があるとすれば,それは人間の代わり に法を置き,一般意思に現実的な力をあたえ,それをあらゆる特殊意思の行為の上に置くことだ。諸国民の法律が白然の法 則と同じように,どんな人間のカでも屈服させることができない不屈な力をもつことができるなら,その場合には.人間へ の依存は再ひ戸事物への依存に代わる事になる。J(Emile. O.C.. tome IV. p.311邦訳,岩波文庫(上)114-115頁) ここに掲げた二つの引用文に示されたルソーの根本的モチ フについて,若干の解説を地そう。だ が 、 こ こ に 成 立 す る 国 家 は , 現 実 的 国 家 で は な い 。 社 会 契 約 は あ く ま で ¥ 国 家 の 基 礎 を 据 え た だ け で あ る 。 国 家 の 現 実 的 形 成 は 政 府 の 設 立 と 同 義 で あ り , 政 府 の 現 存 に よ っ て 政 治 体 は 「 運 動 す る68)Jこ と に な る の で あ る 。 日 々 不 断 の , 国 家 の 現 実 的 形 成 と し て は , 従 っ て ま た , 明 示 的 な 共 同 の 意 思 行 為 と し て は , 新 た な 政 府 の 設 立 と , 日 々 不 断 の , 人 民 に よ る 既 存 の 政 府 に 対 す る 黙 示 的 承 認 行 為 が あ る の み で あ る が , こ れ が そ の 基 底 に , 人 民 が 人 民 と な る 行 為 と し て は , 社 会 契 約 を 黙 示 的 に 成 立 さ せ て い る こ と 、 ル ソ ー がI篇5章 を 定 稿 に お い て 新 た に 追 加 し て I根 源 的 な 合 意 に 遡 ら ね ば な ら な い69)J と 表 現 し て い る こ と か ら も , 明 か で あ ろ う 。 「 人 民 は 玉 に 自 己 を 与 え る こ と が で き る, と グ ロ チ ウ ス は 言 う 。 し た が っ て ク " ロ チ ウ ス に よ れ ば , 人 民 は 王 に 自 己 を 与 え る 前 に 人 民 で あ る 。 こ の 贈 与 行 為 そ の も の が , 市 民 的 行 為 で あ り , そ れ は 公 衆 の 議 決 を 前 提 と し て い る 。 だ か ら 、 人 民 が , そ れ に よ っ て 王 を 選 ぶ 行 為 を 検 討 す る 前 に , 人 民 が 人 民 と な る 行 為 を 検 討 す る の が 順 当 で あ ろ う 。 な ぜ な ら ば , こ の 行 為 は 必 然 的 に , 他 の 行 為 に 先 行 す る も の で あ り , 社 会 の 真 の 基 礎 で あ るから。 70)J 根 源 的 な 合 意 と は , 黙 示 的 な 合 意 で あ る 。 王 へ の 服 従 に よ っ て , 不 断 に 前 提 き れ 再 措 定 き れ て い る フ ィ ク シ ョ ン で あ り , 根 源 的 な 合 意 へ の 遡 及 が .D.ヒ ュ ー ム が 理 解 し た よ う な 歴 史 的 起 源 へ の 遡 及 で は な し 現 存 の 政 治 体 の 根 底 に 宿 る ロ コeス へ の 還 基 で 、 あ る こ と を , ル ソ ー は , 多 数 決 の 法 に お け る 最 初 の 合 意 の 在 り よ う と し て 説 明 し て い る の だ 。 社 会 状 態 に あ る か ぎ り , 人 は そ の 日 常 的 行 為 に お い て , 社 会 状 態 を 支 え る 第 ー の 法 を , 不 断 に 形 成 し て い る の で あ り 、 自 然 状 態 か ら 社 会 状 態 へ の 移 行 を , 日 々 , 不 断 に 行 為 実 証 的 に 行 っ て い る の で あ る71)。 「 も し 社 会 状 態 が , 自 然 状 態 以 下 に お ち る こ と が な い な ら ば , 幸 福 な 瞬 間 を た え ず 祝 福 し な け れ ば な ら な し ゾ 九 の は , こ の 反 復 性 の ゆ え で 第一に r事物への依存」と「法への依存J '::が等置きれていることについて,本干高の論旨に沿って解説を加えるならは, 次のようになるであろう。ルソーは眼前の社会体を分裂体として,社会的不平等の展開の結果生じる人問の人問による依存・ 隷従状態としで把握し.表象していることは明かである。分裂体としての社会体の根底に宿る「恨源的法 ~IJJ を,政治体に おける共同の意思へと次尼転換させて,干l会体の分裂性を揚棄する試み,これがルソーのモチーフである。統一性をまず, だんなる抽象として,黙示的契約としての1京契約として惜定
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,政治的実践の諸結果として.原契約が実在的意思行為とし ての社会契約へと自己生成すること,この可能性の探求がr社会契約論』の課題である。 第三に,一般意思は共同の意思であり 1直下1身の意思でもあるから.一般意思への服従は「隷属」を意味せず,逆に「自 由」になるということ rたんなる欲望の衝動は人間を奴隷状態におとすものであ1),自分の制定した法への服従が自由」 (C.S.,ト7,O. C ,.tome III, p. 364 . )を意味するのである。 第三に,特殊意思は一般意思のm
,、子であると同時にー殺意思の対立物である。この矛盾のゆえに.社会契約は「自由に なることの強制JJ(ibid., 1-7. p.364.)としての「道徳的自由libert吾moraleJ(ibid.. 1-8, p.365.)を不可避に内包してい る。道徳的自由は設をも支配せず.ただ,一般意思にのみ服従するということ,特殊意思を 殺意思に一致させることであ i人『政治経済論』では「徳vertUJ(Economie Politique, O.C., tome III. p.258.邦訳, 25頁)と表現されていたものと同 義であり.また r 人間不平等起ìl~論」の n 然的感情たる「ピチエ」の反省形態としての道徳律一一「できるだけ他人の不幸 を少なくして, i立の幸福をはかれ J(!negalite., O.C., tomeIII. p.155.)一一一に等L"o 68)Ms. Genve.. 1-5, O. C.. tome III. p.359.政府の設立論を備えていない rジュネーヴ草稿』は,その冒頭章において. 政治体を運動させることはしない, と課題の限定をしている。 69)C.S.,ト5,O.C.. tome III. p.359. 70) ibid., 1-5. p.359. 71) r黙示的契約J としての社会契約のを再惜定について.たとえば.卑近な例で恐縮だが,子供の出産にあたっての.市役 所の戸籍係への「届け出Jカヘそれに該当する。人は,自然人として生まれてくるはずだ。自然人として.この世に世を受 けても.この「届出」を親が忘れると r日本国民」として生まれてきた事にはならないのである。 72) C.S..1-8. O.C.. tome III.p.364.ある。かかるものとしてルソーは黙示的契約としての社会契約を「原契約contratprimitif73) Jと表 現し定稿において,次のように叙述するのである。 「この社会契約の条項は,結合行為の性質からいって,いさきかも修正されたら無効で¥無力な ものとなるように規定きれている。従って,この条項はおそらし条文をもって公表されたことは, かつてなかったかもしれないが,社会契約が破棄され,各人が自己の最初の権利に立ち帰1),自然 的自由を放棄して獲得した合意による自由を喪失して,自然的自由を取り戻すまでは,社会契約の 条項は,どこにおいても同一で角あり,どこにおいても黙示的に認められ,受け入れられている。 74)J あらゆる政府は,政治体を成すかぎり,社会契約を基礎にしている。ただし,その社会契約は,現 実性としてではなく,あくまで「潜勢態として在るのだ75)J 0
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実 在 的 意 思 行 為 と し て の 「 社 会 契 約 」 一 一 結 び に か え て 一 一 法の形成者,主権者としての「市民」と,法に服従するものとしての「臣民」としての「市民」 の,この一体的構造は,法の管理者にして執行者たる「政府」という媒介的存在によって,不断に 機能麻療きせられ,一体性は,それ自体として現れてこない。それどころか, 日常的事態において は,公権力の管理者によって初めて政治体が運営きれ,維持されるものと思念されており,市民は 一方的に,臣従する「臣民」として,政府は主権者として固定化されがちである。政府が世襲常Ijと なり,永年に亙る支配によって,その絶対的・自然的性格が政府に付与されればされるほど,市民 73) ibid..IV-2. p.440. rlllからの手紙』における r社会契約論sの「要約J部分も,同様に「原契約ContratprimitifJと 表現している。 Montagne..O.C.. tome III. p.809. 74) C .5..1-6. O.C.. tome III. p.360. r人司を寄せ集める方法は山ほどあるが,彼らを結合させる方法は一つしかない。 私がこの著作て"政治社会の形成のための方法を一つしか与えないのは,このためである。現実にこの政治社会という名前で 実存する多くの集合体が存在するけれとも,同ーの方法によって形成きれたものは多分二つとなし私が確立した方法によ って形成されたものは一つもない。J(Ms. Ge拍ゾe.I-5.O.C.. tome III. p.297.)この rジュネーヴ草稿J 1篇5章の冒頭 句と「定稿J 1篇6章の r定稿」において新たに追加挿入された第5パラグラフとの異同について,ヴォーンは r定稿」 は社会契約を「歴史的事実としてあらわすことと,権手JIc71観念、としてあらわすニととの問に,不安定にも動揺J(Vaughan. P. W. I.p.438.)があり r歴史的事実」の方に傾斜していると述べ.権利の鋭念として純粋に展開している rジュネーヴ 草稿』の方が「定稿j よ1)も優れていると断定している。これを受けてルソー全集の編者ドュラテは.定稿の当該箇所に注 をつけ rジュネ ヴ草稿J 1篇5章からのうi用を行ったあとで.両者を比較して次のように評している。「ノレソーにとって 歴史的起源に関説することなく合法的な国家の基礎を探求することが絶えず問題となっていたのではあるが,草稿から「定 稿」へと.ルソーは明らかに社会契約の理念的で規範的な性格を薄めた。JW.C.. tome III. p.1444 note5.) 「定稿J 1篇6章における黙示契約への言及について, もう一人アルパ/クえを挙げなければならない。アルパノクスは 黙示契約を「権利の観念」として理解し,どこにおいても受け入れられ認められているとし汁普遍的性格に着目している。 彼は「定稿」の当該箇所に次の注をつけている。「換言すれば,この条項は,哲学者たちが言うように,普遍的で必然的であ る。それは理性がすべての人のうちに在るのと同様にに,理性によって措定されている。J(Halbwachs. Du Contrat 5ocial. Paris. 1943. not吾epar Halbwachs. p.90.) 75) ルソー全集の編者ドュラテによれば r山からの手紙』の下書き原稿の裏に,次のような記載がある。「政治社会はその構 成員のあいだの,いずれにせよ黙示的かあるいは形式的な契約に基礎を置いている。その契約は常にi管勢町jに存在して"る。」 (Monfagne.. O.C.. tome III. p.1661 note (a)ー)は奴隷の境遇に甘んじ,収税吏におびえねばならない76)わだが,王が王であるのは自然的事実ではな し市民が王に対して臣民として振る舞うからである77)。 社会契約を基礎に据えて,ルソーは事態の意味転換,価値転換を図る。『社会契約論』の最終章「市 民宗教」は,この観点から読まれねばならない。人民が尊敬し,心服しなけれがならないのは,政 府の首長に対してではなし「人民が人民となる」行為としての社会契約に対してである。日常の姿 態において,人民の政府に対する服従が一般的であったとしても,執政者を選ぶ、という行為は,個 別的な行為であるから,主権の行使の結果でも,合意にもとづくものでもない。「自己の自由の放棄 は人聞の資格,人類の権利ならび、に義務をさえ放棄することである。何人にせよ,全てを放棄する 人にとっては,いかなる補償もありえない。こうした放棄は,人聞の自然とあい入れるものではな い。自己の意思からあらゆる自由を取り去る事は,行為からあらゆる道徳性を取り去る事である。 要するに,一方において絶対的権威乞他方において無制限の服従を取り決めるのは,空虚な矛盾 した合意である。 78)Jこのような服従契約が結ばれたとしても,それは過去の合意によって効力をも っているのではない。それは現在の「全般的沈黙79)Jによって黙示的合意をとりつけているにすぎな い。「たとえ人民が世襲の政府を設けている場合にも,それが一家族による王政であっても,あるい は市民の一階級による貴族政であっても
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人民が行っていることは決して約束ではない。それは人 民が別の統治形態を採ろうという気を起こすまて¥統治機関に許している暫定的な形態にすぎない のである。 81)J 「意思は未来を拘束しえな1, ,82) Jし,過去の合意は現在,効力をもたない。常に,現在における同 76)絶 対 王 政Fの「市民の除、像をルソ がどう見ていたか,二つの文章をあげよう。「我々は.物理学者,幾何学者,化学者, 天 文 学 者 , 詩 人 音 楽 家 . 画 家 を も っ てl心、ますカ¥ もはや市民をもってはL、ませんa あるいは.いまなお市民が残ってい るとしても.見捨てられた fll 閣に散らば~,ていて.貧乏で蔑まれて死んで行きます。これが,我々の子供たちに E ルクを与 えてくれる人々が陥っている状態であり.彼らが我守から受け取っている感情なのです。J(W学問・芸術論JO. C., tome III, p.26.) もう一つは r告白』から。ルソ が191設のとき,南仏の旅行中疲れはてて飢えと渇きに死にそうになって一軒の農家へ入 ったときの出来事である。「ょうやく百姓は身震いしながら「役人Jとか勺酉倉ネズミ」といった恐ろしい言葉を言い出し た。彼は補助税aidesを恐れて酒を隠し,人頭税を怒れてノマンを際しているのだということ,餓死しかかっていないと疑われ たら最後.もう身の破滅だということを.わたしに説明した。彼がこのことについて言ったことはみな.今まで考えてもみ なかったことで.私にはいつまでも消えない印象を与えた。不幸な人民の受ける苦しみと,そのた五市JI者に対して,以後わた しの心のなかで発展したあの消しがたい憎悪の芽生えは,ここにある。この男は楽に暮らせる身分なのに.自分が額に汗し て得たノマンを食うこともせず,周リと同じように貧民を装って,わずかに破滅を逃れている。私は同情と憤リを抱いてこの 家を出た。そして自然が豊かに恵みを与えているのに,それが野蛮な収税更の食い物になるだけだという,この美しい地方 の運命を痛ましく思った。J(Les Confessions, O. C ,.tome 1, p .164.) 77) iたとえば.この人が王であるのは.ただ.他の人々が彼にたいして臣下としてふるまうからでしかない。ところが.彼らは,反対に i庄が王だから自分たちは臣下なのだと思うのである。J(Karl Marx. DA5 KAPITAL, 0戸 cit.,S.72.) 78) C.5., 1-4, O.C., tomeIII, p.356. 79)ibid., lI-l, p.369. 80) i市民の一階級による貴族政」の一旬に,ンュネ ヴに対する現状批判が含意されていると解釈し iプチ・コンセイユJ に対して注意を喚起し,のち, ヨーロノノマ中でただ一国 r社会契約論』を焚書処分にしたのは.ジュネーヴの検事総長のト ロンンヤンて‘あった。 81) C. 5., III -18, O. C " tome III, pp. 434 435. 82) C .5.. 11-1, O.C.. tome III, pp.368-369