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エスニック・シンボルの創成 : 西南中国の少数民族トン族の事例から [Creation of an Ethnic Symbol : Case of the Dong Nationality in Southwest China ]

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東南 アジア研究 35巻 4号 1998年 3月

エ スニ ック ・シ ンボルの創成

一西南 中国 の少数民 族 トン族 の事例 か

ら-兼 垂 努 *

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KANESHIGETsutomu*

ThePeople'sRepublicofChinaisoneofthefew countrieswithanofficialdefinitionofethnic groups.MostoftheofficialnationalitieswerecreatedandbeguntobeintroducetoChinesesocie -tyinthe1950S.Now somenationalitiesaregivenethnicsymbolsbyoutsiders,forexample,drum towersandwindandrainbridgesassymbolsofDongnationality.

Thispapertriestoexplainhow theethnicsymbolsofDongnationalitywerebornandhave prevailedinChinesesociety,mainlybyanalystsOfarticlesinChinesenewspapers,periodicals andbooksonDongnationality,andexaminationoftheprocessandinfluenceoftheexhibitionof DongethnicarchitectureandcustomsheldinBeijingin1985.From theseanalysesthreepoints becomeclear.

(1)TherearemutualinteractionsbetweenthecenterandtheperipheralelitesofGuizhouPr o-vince.Appealsbytheperipheralelitestothecenterforpurposeofimprovingtheirsti gma-tizedregionalidentityareespeciallyImportant.

(2)Therealsoarecompetitionsforsymbolwhichbasedonregionalethnicidentityamonglocal Dongelites.ThelocalDongelitesofGuizhouProvincewanttoclaim superiorityoverother Dong by emphasizlng thatthedrum towersarethe localethnicsymboloftheDong of GuizhouProvince.

(3)ontheotherhand,accordingtoChineseethnologicaltheory,itisthoughtthatallmembersof thesamenationalityshouldhave/havehadacommoncultureandlanguage.Itisapplicable tothecaseofDongnationality.

は じめに

中華人民共和 国で は1953年以 降,各地方 で不統 一 にカテゴライズ されていた雑 多 な非漢民族

が,ス ター リンの四つの民族定義 に もとづ くとされ る民族識別工作 に よ り,現在 の55の 「少数

民族」 に分類 され,1)多民族 国家 中国の国民 として公式 に位 置付 け られた。 国家 は中国社 会 に

* 京都大学大学院人間 ・環境学研究科 ;GraduateSchoolofHumanandEnvironmentalStudies,Kyoto University,Konoecho,Yoshida,Sakyo・ku,Kyoto606-8315,Japan

1)1953年 に まず37の少数民族が確定 し,1954年か ら65年 にかけて17の民族が確定 し,1979年 にジノー 族が認定 されて現在55の少数民族が確定 している [那 1994:143]。

(2)

兼垂 :エ スニ ック ・シ ンボ ルの創 成 四 川 省 。 J '管 二

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図2 トン語 方言 分布 図 .Lil.所 :「偶 語 方 言 示 意図」 [梁 敏 1980:81](声文 成 絵 ) 注 :分布 図 は1980年 の時点 (民族識 別補 充調査 の前 ) の もので あ る。 当時 は会 同県 や玉 昇 県 (現 在 の 王 昇 トン族 自治 県 )な どは トン族屠 住 地域 とみ な されて い なか った。,なお国 中で の行政 扶域 名 は1997年現 在の名称 を用 いた。 -133- 739

(3)

東 南 アジ ア研 究 35巻4号 むか って 「少数民族 」の存在 を周 知 させ る必要があ った。 そのため,「少数民族

に関す る展 覧会 を開いた り,マスメデ ィアをつか った紹介 を行 った。 現在 , い くつかの 「少数民族 」 に対 して特定 の文化要素が特 に強 く結 び付 け られて連想 され てい る。た とえば,白 (ペ -)族 の 「本主信仰」[横 山

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], トン族 の 「鼓楼 」 ・「風 雨橋 」 な どがあげ られ る。 これ らの文化要素 は民族 の象徴 す なわちエスニ ック ・シ ンボル と して定着 している。 これ らは中国社 会か ら,各 「少数民族」 に対 してそそがれ る まな ざ しのなか に存在 す る 「外側 か らのエスニ ック ・シ ンボル」であ る。 「外側 か らのエ スニ ック ・シ ンボル」の付与 は, 中国社 会 にお いて,新 しく創 られた 「少数 民族」 の文化要素 の うちのあ る ものが特 に注 目され,評価 されてゆ くとい うメカニズム と密接 な関係 があ る。 そ して これ ら 「外側 か らのエスニ ック ・シ ンボル」 はいつか フ ィー ドバ ックさ れて 「少数民族」 自身の 自己認識 あ るいは,民族 自身が集団内部 で持 つ 「内側 のエ スニ ック ・ シ ンボル

に も影響 を与 えてゆ くと予測 され る [e.g.関本

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]。 こう した意味 か ら,新 中国 にお ける 「少数民族 」研 究 において,彼 らに付与 され る 「外側 か らのエ スニ ック ・シ ンボル」 (以 下,エ スニ ック ・シ ンボル と略記 す る) につ いての理解 を深 めてお くこ とは重要 な課題 の 一つであ る と考 え られ る。 新 しく創 られた 「少数民族」が解放後 の中国社会 において どの ように姿 をあ らわ し,認知 ・ イメージされ るよ うになってい ったか, とい う問題 は まだほ とん ど明 らか に されていない。 し たが って,今後研 究 をすすめ るための最 も基礎 的作業 の一環 と して,本稿 で は トン族 を事例 と して と りあげ,そのエスニ ック ・シ ンボル創成 の過程 を,主 に新 聞,雑誌 や単行 本 に よる報道 ・ 紹介 をあ とづ ける こ とに よ りあ きらか に して ゆ きた い。 そ してその作 業 をとお して浮 か び上 が って くる3つの主要 な問題点 を指摘 し,考察 を加 えてみたい。

トン族のエスニ ック ・シンボル

トン族 は タイ系民族 に属 す る。 タイ系民族 は東南 アジア大陸部 において主要 なグループの一 つであ り, タイ を中心 に ラオス,ベ トナム, ミャンマ ー, また中国そ してイ ン ドの ア ッサ ムに も分布 してい る。 中国領 内 にはチ ュ ワ ン族 , ブイ族, タイ族 (以上 チ ュ ワ ン ・タイ語支 ), ト ン族 , ムー ラオ族 , ス イ族 ,マ オナ ン族 (以上 トン ・ス イ語支 ), リー族 (リー語支 )な ど人 民族 [≪中国少数民族≫編写組

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],約

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万人

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年統計 ) もの タイ系民族 が分布 している。 トン族 は タイ系民族 の中で最 も東北部 に位置す る。 トン族 は,政治的 には東南 アジ アの範噂 か らはずれ る ものの,民族 の系統 か らみれ ば,東南 アジア大陸部 の民族 に属 す る とい っ て も差 し支 えない [大林

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]。 トン族 は

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年 のセ ンサスで人 口約

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万人で 中国の貴州省 (約

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万 ),湖南省 (約

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万 ),

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兼垂 :エ スニ ック ・シ ンボルの創 成 広西壮族 自治 区 (約29万 ),湖北省 (約5万 ) に分布 す る。生業 は稲作 農耕 中心 で あ る。 自称 は カム(Gaeml)あ るい はチ ャム(Jaeml)とい う

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)

トン語 は南 と北 の二つ の方言 区 に分 れ る。 南 部方 言 区 と北 部方言 区で は トン族 の文化 の差異 が大 きい とされてい る。 かつ て 中国社会 にお い て トン族 は苗 (ミヤオ)族 と混 同 されて きた [郵 1994:161]。新 中国成立直後 の時 点で は トン 族 の 人口が最 も多い貴 州省 において さえ も トン(族 )とい う民族 名 は一般 には知 られてい なか っ た。3)トン族 は きわめて限定 され た ローカルな文脈 において,トン家 あ るい は トン人 と呼 ばれ, 他 の民族集 団 と区別 されて いたので あ る。 公式 な少数民族 であ る個 (トン)族 が誕 生 したの は 1953年 の こ とであ った [那 1994:143]。トン族 の生活習俗 ,文化 に関す る雑誌 ,新 聞,単行 本 に よる紹 介 は1956年 を境 に飛躍 的 に増 え る。 建築,音楽, トン劇 ,民族文学 な どの諸文化要 素 の うち, の ちに 「風雨橋 」 と 「鼓楼 」が突 出 して注 目されて くる。 「風 雨橋 」 とは屋根付 きの橋 を指 す。 その内部 には,腰掛 けが設置 して あ り,休 息 や雨宿 り や納涼がで き,社交 の場 と もなる。 さらに橋 の 中には, 関聖帝,岳公 な どの道教 系 の神 が まつ られてい る場 合が 多い。屋根 に よ り風雨 を避 ける こ とがで きるので漢語 で 「風雨橋 」 と呼 ばれ る よ うに な った ようで あ る。 「鼓楼 」 とは トン族 の集 落 にあ る集 会所 で, 多 くの場 合塔状 の形 態 を持 つ。以前 は太鼓 が備 えつ け られて い た こ とか ら漢語 で 「鼓楼 」 と呼 ばれてい る

『三江 県志』(1945年 出版 )に よる とその太 鼓 は主 と して,有事 の際 ,村 人 を集 めて会議 を開 くため に鳴 らされ た [妾 1975(1945):140]。しか し現在 三江 県の鼓楼 には太 鼓 はほ とん どみ られ な く な ってい る。 トン族 の鼓 桂 は, かつ て 中国 の都市 にあ った時 を知 らせ るため の鼓 楼 とは異 な る。4)筆者 が調 査 を した広西壮族 自治 区三江 トン族 自治 県北部 の トン族 は トン語 で 「風雨橋 」 の こ とをjiuc

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「鼓楼 」 の こ とをloucと呼 んで い る。 老 人の 中 に は 「風 雨橋 」 とい う漢語 の名 称 を知 らない 人 もい る

「風 雨橋 」 とい う呼 称 は も と もと トン語 の なか に は なか った ので あ る。5)筆者 の調査 地 の トン族 は鼓様 や風雨橋 を公共施設 と して捉 えてい る。 それ らは交 通 や休 息 や集会 とい った利便 のため に作 られ る場 合 もあ る し,風水 のため に作 られ る場 合 もあ る [兼 重 1997:52-53]。 また鼓樺 はそれが存在 す る集落 に住 む人び との総体 (公 ) を代 表す る と考 え られてい る場 合 もあ る。 現在, 中国の トン族研究者 の間で は 「トン族文化風習 の各種 の事 象の中で,最 も トン族 の特 色 を代表す るの は トン族 の鼓稜 と風雨橋 であ る」[王 1989:1] とか 「鼓棲 ,風雨橋 は トン族特 2)トン語のローマ字表記における末尾の一文字は声調を表わす声調符号である0 3)貴州省において,一般の人は,貴州の少数民族については苗 (ミヤオ),葬 (イ),回 (フイ)しか 知 らなかったという [瞭 1951:837]。 4)中国には昔鐘楼 と鼓稜 という時を知 らせる建築物があ り鐘鼓楼 と総称された。鐘鼓楼には宮廷内の ものと都市の中心のもの二種類があったo鐘楼には鐘が,鼓楼には太鼓が設けられた。元代以降, 鐘鼓樺は都市の一種の公共建築 となった [中国大百科全書出版社編輯部 1988:587]。 5)「風雨橋」 という言葉自体歴史の浅い新造語 と考えられる。本稿では 「風雨橋」や 「鼓楼」という 語の誕生や普及に関する議論については立ち入らないことにする。 - 13 5 - 741

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東南 ア ジア研 究 35巻 4号 有の建築芸術 に属す る と世 の中が公認 している」 [張柏如 1994:70]な どといわれ る。 鼓楼 と 風雨橋 は トン族の象徴 (エスニ ック ・シンボル) と して高め られて評価 されている。 日本の研 究者 の間で も鼓楼 や風 雨橋 か ら トン族 が連想 され る よ うにな ってい る [米 山 1980:232;周 1990:106]。硯在 中国各地 に民族文化村,公 園 な どが建設 され, トン族 のセ クシ ョンには鼓楼 や風雨橋 がたて られ,一般 の人の 目に触 れる機会が増 えた。鼓楼 ・風雨橋 - トン族 とい う連想 は民族研究者以外 に もます ます広 く受 け入れ られ るようになって きているようである。 ところで,周達生 は, トン族 の鼓楼 と風雨橋 を短絡的に トン族特有の物質文化 とみなす こと を強 く批判す る。 特 に風雨橋 については実例 を挙 げて,それが中国に広 く分布す ることを指摘 している [周 1990:106]。周が挙 げている事例 のほかに も, 中国各地の旅行記や地方志 な どを 探す と比較的容易 に屋根付 き橋 の存在 を確認す ることがで きる。 現在 トン族 のエスニ ック ・シ ンボル となっている 「風雨橋 」 は トン族 に固有 な物質文化ではないのである。一方,鼓楼 につ いて周 は トン族 に近接す る ミヤオ族が鼓樺 を持つ例 を挙 げるのみである。中国 における トン族 以外の民族 における鼓楼 の分布 に関 して は資料がす くな く,今 の段階で は他 の民族 に どの くら いあるかわか ってお らず,今後の調査が待 たれ る。 Ⅱ

新中国における トン族の鼓楼 ・風雨橋の紹介

新 中国が成立 したばか りの ころは中央政府 は非漢民族 に関す る十分 な情報 をもっていなか っ た。1950年 か ら中央訪問団 を派遣 して言語や風俗習慣 の調査 を行 った り,国慶節 に少数民族代 表 を北京 に呼 んだ際 に聞 き取 りを行 った りして,不足 していた各非漢民族 の情報 を収集 した。 「少数民族」が生 まれて もしば ら くの間 は, 中国社会 において, い くつかの民族名 は耳 なれな い ものであ り, まして各民族 の実態 に関す る具体 的な情報がほ とん どつかめない状態 であった ようだ。 中央 に,ある程度情報が収集 されると,1956年 ごろか ら各民族 の紹介が新 聞や雑誌や 単行本 な どの出版マスメデ ィアを通 して,地方 レベルだけではな く全国 レベルで行 われるよう にな り,6)中国社会 に少数民族像 が結 ばれてゆ く。 もちろんそれ らは中国社会の草 の根 まで普 及 していたわけではなか った。建国当初 の中国の新聞は大衆-の情報伝達 メデ ィアとい うより, 政権 中枢 と大衆の中間に位置す る層,具体 的には各級の行政幹部 むけの メデ ィアであった [田 畑 1989:189]。本稿で とりあげ る建築や文化財,民族方面の雑誌 や単行本の読者 もその分野の 専 門家 にほぼ限定 されていた と考 えるのが妥 当であろ う。 6)まとまった形で連載されたものとしては 「我国的少数民族簡介」(『光明 日報』1956年-1957年),「本 省各民族簡介」(『広西 日報』1957年),「兄弟民族介紹 (兄弟民族風土志)」(『民族団結』1957年-1963 年)などがある。単行本では1958年 『我国少数民族簡介』(民族出版社),同年 『中国少数民族的宗 教和風俗』(民族出版社,上巻のみ出版)などがある。

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兼重 :エスニ ック ・シンボルの創成 解 放 以 降,特 に1950年 代 か ら60年 代 まで の時期 の主要 なマ スメデ ィア と して は新 聞 や雑誌 や 単 行本 の ほか に,映画 , 刺 ,小説 , ラジ オや学 校 の教 科 書 な ど様 々な ものが考 え られ る。本稿 で は, その うち主 に新 聞 や雑誌 や単行 本 の記述 に限定 して, それ らを整 理 す る こ とに よ り, ト ン族 のエ スニ ック ・シ ンボ ル創 成 に関す る言説 をた どって ゆ くこ とにす る。7' 新 中国成立 (1949年 )後 か ら文化 大 革 命 開始 (1966年 ニトにい た る まで の 間 の トン族 の鼓様 と 風 雨橋 に関す る報 道 につ いて調べ てみ る と,貴州 省, 湖南 省 の地 方 メデ ィアに よる もの は見当 た らなか った。 その反面 , 広西壮 族 自治 区で は 『広西 日報

とい う地方新 聞 に よる, 三江 トン 族 自治 県 の トン族 に関す る報 道 が 多 い こ とが わか った。8}新 聞 ,雑誌 ,単 行 本 の1962年 まで の 鼓様 と風 雨橋 に関す る報 道 を広 西 の地 方性 の メデ ィア と全国規模 の もの にわ け,それぞ れ表 1, 表2にあ げ た (便宜 上1963年 以 降 の もの は別記 す る )。 広西 の地方 メデ ィアで の トン族 の鼓 楼 ・風雨橋 の紹 介 は次 の よ うな傾 向が あ る (表 1参照 )L, 鼓 楼 ・風 雨橋 は, 民 族 の特 色 の あ る民 族 建 築(b、C), 民 族 遺 産 (a)な ど, 当 時 か ら トン族 とい う民 族 の特 徴 を示 す 民族 建 築 と捉 え られ て い た。 また大 躍 進 の時 期 の もの を除 い て,9-建築 の 技 術 や芸術 の 水準 が高 い とい う肯定 的 な評 価 が与 え られ て い る(b,g)。 そ して広 西 で は風 雨橋 の紹 介 はほ とん ど程 陽橋 に取 材が偏 って い る。 a,f.gで は程 陽橋 が写 真 や 図 入 りで 紹 介 され て い るci。)程 陽橋 は, 広 西 壮 族 自治 区 の 三 江 トン族 自治 県 の 林 渓 川 に 架 か る大 型 の風 雨橋 で あ る。鼓 稜 は これ と対 照 的 で ,繰 り返 しと りあげ られ た特 定 の鼓 楼 はな

い。

次 に全 国 的 な メデ ィアで の トン族 の鼓 楼 ・風雨 橋 の紹 介 をみ る (表 2参 照 )。 広西 北 族 自治 区 と湖南 省 の トン族 が主 に紹 介 され, 貴 州 省 の トン族 の情 報 が殆 ど取 り上 げ られて い ない。 言 茂 仁 に よる湖 南 省 通 道 トン族 自治 県 の トン族 の紹 介11'(k.I,n,o)と建 築 学 や文 化 財 関係 の雑 誌 や単 行本 に よる紹 介(p.q、r,S

,

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)

が 大 きな比重 を占め て い る。 7)映画,刺,小説,ラジオや学校の教科書などの分析は,分析対象 となる資料の収集がたい-ん困難 なので将来の課題 としたい。 8)まず少数民族関係の専門索引である 『中国少数民族史論文資料索引』と F中国少数民族論著索引

を参照 した。次に主要全国紙掲載の記事 を拾 うために F光明 日報索引』『人民 日報索引』にあた り, 別に 『新華月報索引』にもあたったこさらに万全を期すために 『全国報刊資料索引』(1955年創 刊) にあたった。この索引は 『新湖南 日報』や F新緊 日報

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『広西 日報』など省 ・自治区級に限 られる が地方新聞 ・雑誌 もカバーされているr,残念なが ら記事 タイ トルをみる限 りでは1950か ら60年代に かけて,貴州省 と湖南省の地方の新聞 ・雑誌で トン族に関すると思われる記事 自体が大変少な く, 関 しては『広西少数民族文献 日録』がでているので,これを利用 して落ち穂拾いをす ることがで きた。 また文化財 と建築学方面の文献にもで きるか ぎり目くぼ りしたr索引その ものが完聖でないこと, そ して個人の力の限界により, まだ少なからず遺漏があると思われるが,主要なものは拾 えている と思 う。. 9)ただ大躍進の時などには,d,ど,i,にみえるように,風水 という 「迷信」に関係するとして,マ イ ナスの評価が与えられたこ 10)但 し, aとfは程腸橋 と思われる写真 を使っているが,程陽橋 とはとくに断わっていない -137- 743

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東 南 ア ジ ア研 究 35巻 4号 表1 広 西 の地 方 メデ ィアで の トン族 の鼓 楼 ・風 雨橋 の紹 介 年 代 紙名,日付 a 1956年 『広 西 青年 報』(5月19日) b 1956年 『広 西 日報』(10月4日) C 1957年 『広 西 日報』 (3月9日) d 1958年 『広 西 日報』 (5月8日) e 1958年 『広 西 日報』 (7月26日) f 1961年 『広 西 日報』 (6月17日) g 1962年 『広 西 日報』(8月5日) h 1962年 『広 西 日報』(12月4日) 1 1962年 『広 西 日報』(12月5日) 題 名 著 者 「個 族 人民 的風 雨橋 」 「秋 到個 家 」 「本 省各 民 族 簡 介 個族 」 「為 千 斤 県 奮 戦 的 人僧 」 「人 変 了, 庄 稼 也 変 了」 「個 泰 素 描 」 「程 陽橋 的 建 築風 格 」 「個 族 老 人話 鼓楼 」 「探 橋 」 唐兆民 張 谷 (本紙 記者 ) 本 報 資 料 室 記者 王靖 国 本報記者 唐振真 鶴 栢 区交 通 庁 設 計 院工 程 師 楊錐棟 劉保元 ,黄承輝, 債易 天, 肖玉富 鄭光松 表 2 全 国 的 な メデ ィアで の トン族 の鼓楼 ・風 雨橋 の紹 介 年 代 誌 ・書 ・紙名,号数 ・日付,出版社名 題 名 J 1954年 『文物参考資料』12期(12月) k 1956年 『旅行家』5期(5月) 1 1956年 『光明 日報』(10月12日) m 1956年 『光明 日報』(11月2日) n 1957年 『大公報』(8月21・26日) 0 1957年 『個 族人民的家郷

(少年児童 出版社 ) p 1957年 『中国建築』(文物 出版社 ) q 1957年 『中国古代橋梁』(文物 出版社 ) r 1958年 『文物参考資料』3期(3月) S 1958年 『文物参考資料』8期(8月) t 1958年 『我国少数民族簡介

(民族出版社 ) u 1959年 『民族団結』4期(4月) v 1959年 『中国石橋』(人民交通出版社 ) W 1961年 『民族画報』6期(6月) 「応注意保護少数民族文物」 「個 族人民的家郷」 「胴 族人民的建築芸術」 「我国的少数民族簡介九個族」 「胴 郷行」 「中国建築概説」 「桐 族人民的風雨橋和鐘鼓楼」 「個 族」 「兄弟民族介紹 個 族」 「胴 族」 編 ・著者名 井鴻釣 中央民族学院 トン語実習組 言茂仁,楊権 言茂仁 無署名 言茂仁,王巽南 言茂仁 中国科学院土木建築研究所 清華大学建築系合編 唐憲澄 陳明達 講毅然 依群 (編著) 天 英 羅 英 楊 権 総 じて風雨橋 ・鼓楼 は民族 の特徴 を持 った建築芸術 ,文化財 と肯定的 に とらえ られ, トン族 を紹介す る時 に よ く言及 されている。jとtを除 いて風雨橋 や鼓楼 の写真 が掲 載 されてお り, 読者が トン族 の鼓楼 や風 雨橋 を具体 的 にイメージす る助 けになっている。 言 は専 ら湖南省通道 トン族 自治県 の坪坦廻龍橋 を紹介す る。 坪坦付近 の鼓楼 も紹介す るが, 集 中的 に特定の鼓楼 を取 り上 げて紹介 は しなか った。一方,建築学関係 の メデ ィアで は,程 陽 橋 だ けが と りあげ られ写真 入 りで頻繁 に紹 介 され る(p,q,r,S,Ⅴ)。 しか し鼓楼 は紹 介 され な か った。程 陽橋 が 『中国建築』 (p)と 『中国古代橋 梁』(q)に掲 載 された ことは,程 陽橋 が解 ll)北 京 中央 民 族 学 院 の学 生 で トン語 実 習組 の メ ンバ ーだ っ た言 茂 仁 が1956年 頃, 湖 南 省 通 道 トン族 自 治 県坪 坦 村 に トン語 実 習 に行 った時 の見 聞 を紹 介 して い る。

1

(8)

兼重 :エ スニック ・シ ンボ ルの創 成 放初期 か ら,建 築学 関係者 の間で全 国 レベ ルで たいへ ん高 い評価 を受 けていた こ とを示す。 そ して文化財 関係者 か ら も トン族 の民 族文 化財 と して の評価 を与 え られて い た(j)。 しか し建 築 学 関係者 に は程 陽橋 が トン族 の もの だ とはあ ま り認 識 され て い なか った よ うだ。qで広西 三 江個 族 的程 陽橋 と され た以 外 は, Vの よ うに トン族 の橋 と特 記 され なか った り, 甚 だ し くは 憧族 (チ ュ ワ ン族 ,現在 は壮 族 と表記 されてい る)の もの と誤認 された (pと r)。建築学者, 陳明達 の事 実誤認 (r)に対 して,広西 の講毅然 か らす ぐに訂正 意 見がで た(S)。講毅然 は毛南 (マ オナ ン)族 出身で,広西壮 族 自治 区の博物 館 関係 の役職 につ いていた と思 われ る少数民族エ リー トで あ る。彼 は,程陽橋 は トン族 の もので あ るこ とを指摘 した。 しか も,風雨橋 は広西 の トン 族 だ けで はな く,湖南 ,貴州省一帯 の トン族 に広 く分布 し, トン族 は他 に も涼亭 や鐘鼓倭 な ど の民族建 築 も持 つ こ とを紹 介 した。涼享 は道端 な どに建 て られ る通行者 のための雨宿 りや休 息 の ための東屋 で あ る。 風雨橋 は坪坦廻龍橋 と程 陽橋 が集 中的 に紹 介 されたが,鼓様 は特定 の ものが集 中 して注 目さ れ る こ とはなか った。程 陽橋 は当時建築学 の方 で は注 目されたの にかかわ らず,民族学 関係 者 か らは, 全 国的 レベ ルで はあ ま り注 目されて い なか った。 た とえばm,t,u,W で は トン族 の建 築 を紹 介 して い るの にか か わ らず程 陽橋 とい う固有名 詞 ほだ され て い な

い。

特 に uと W は三 江 トン族 自治 県の トン族 を中心 に紹 介 し,程 陽橋 と思 われ る風雨橋 の写真が掲 載 されて い るが, それが程 陽橋 だ と明記 されてい ない。 1950年代 か ら,国家 プロジェ ク トと して各民族 の歴 史 を書 くための準備 が行 われ始 め, トン 族 に関 して は 『個 族 簡 史簡志 合編 (第三次討 論稿 )』 (1960年 ) とその改訂 版 にあた る 『個族 簡 史簡志 合編 (初稿 )』(1963年 ) とい う中間報告 的 な非公 開の資料 (中国科学 院民族研 究所 ・貴 州少数民族社 会歴 史調査組編 )が編纂 され た。両者 とも, 固有名詞 を挙 げて紹 介 された風雨橋 は二つ だ けで,湖南 通道坪坦廻龍橋 ,三江 トン族 自治 県程陽橋 の順 に紹 介 された。 その際,前 者 に比重 がか け られ,程陽橋 は扱 い に差 をつ け られ軽 く触 れ られ るに とどまった。 これ は程 陽 橋 に対 す る,民族学 関係者 の当時 の評価 を端 的 に表 わ して い る ように思 われ る。

程陽橋の知名度の上昇 1960年代 に入 る と程 陽橋 の知 名度 を飛躍 的 に高 め る三つ の画期 的 な出来事 が お こる。 一つ は 1962年 5月15日に発行 された 「中国古 代建 築 一 橋

4種 の うちの 1種 に程陽橋 が選 ばれ た こ とで あ る。 程 陽橋 は中国の古 い有 名 な橋12)と肩 を並べ る別格 な扱 い を され た。 切手 には広西 12)河北省趨県安酒橋,江蘇省蘇州宝帯橋,四川省港県珠浦橋の三つ。なお中国でいう 「古代」 とは活 末以前をさす。中華民国初期に建造された歴史のきわめて浅い程陽橋が,活末以前のものと誤認 さ れているということになる。 - 139- 745

(9)

東南 ア ジア研 究 35巻4号 三江 程陽橋 とのみ書 かれ トン族 の ものだ とは示 されて い ない。程 陽橋 が選 ばれた直接 の原 因 に つ いて は,手持 ちの資料 の範 囲 内で は不 明で あ るが

,

『中国古代橋 梁 』 と 『中国建 築

に写真 入 りで紹 介 された こ とと無 関係 で ない と思 われ る。 第二 に,翌1963年 2月26日には広 西壮族 自 治 区の重点文物保 護単位 に指 定 された。 第三 に,文化 大革命 前年 の1965年 10月20日に著名 な文 化 人で あ る郭 沫若 が 『程陽橋 』 と題す る詩 を詠 んだ。直接行 って見 たわ けで はない程 陽橋 を, 彼 が賞賛 してい る こ とよ り, 当時程 陽橋 が あ る程度著名 にな って いた こ とが窺 われ る。 ただ し 詩 で はそれが トン族 の ものだ と言明 されてい ない。 それ以後,以上 の3点 は,新 聞 や書籍 が程 陽橋 を紹 介 す る際 ,繰 り返 し引用 され る。13)中央 か らの高 い評価 (お墨付 き) を得 た こ とに よる,程陽橋 のステ イ タスの上昇 をこれ らの記事 か ら読 み取 る こ とが で きる。 程 陽橋 が全 国的 に有名 になったの は1950年代 に建築学 の分野 で,何 らかの理 由で た また ま, 屋根付 き橋 とい う建 築形態 を持 つ橋 の うち程陽橋 が注 目されたのが きっか け とな った と推 測 さ れ る。 中国各地 には,程 陽橋 と匹敵す る規模 と壮 麗 さを有 す る屋 根付 きの橋 は少 なか らず存荏 す るのであ る。 当時程 陽橋 が トン族 とい う少数民 族 の ものであ る とい うこ とはあ ま り知 られて い なか った よ うで あ る。1963年以 降 にな って,民族学 関係 の著 名雑誌 で あ る 『民族 団結 』や 『民 族 画報

で も程陽橋 が トン族 の建築文化 の代 表 と して写真 入 りで紹 介 され,程 陽橋 は トン族 と 強 く結 び付 け られ る よ うにな ってゆ く。14) 文化 大革命 終 了後 (1976年以 降 ) も程 陽橋 に対 す る追風 は続 く。1982年 2月23日に全 国重点 文物保護単位 (国の重要文化財 ) に指定 され る。 この こ とは程陽橋 か

家 に よ り,正式 に 「お 墨付 き」 を得 た こ とを意 味す る。 ここで程 陽橋 は トン族 の風雨橋 ・鼓楼 の中で他 を庄倒 して最 も全 国的 に有名 でステ イ タスの高 い もの となった。 そ して三江 トン族 自治県 のみ な らず トン族 全体 を代表 す る文化要 素 とい う扱 い を うける よ うになってゆ く。 その こ とは1985年 に公 開出版 され た 『個 族 簡 史』15)で程 陽橋 が巻頭 写真 の最 前 列 を飾 った こ と, しか も2ペ ー ジ を さか れ た こ とに象徴 的 に現 われてい る。 しか し 『桐族簡 史

で は,程 陽橋 は トン族文化 の象徴 とい う 言葉 で形容 され るには至 らなか った。

Ⅳ 「

鼓楼文化」論の創成

これ まで見 て きた ように1962年以降,程 陽橋 とい う風 雨橋 が突 出 して有名 にな り, トン族文 13)例 えば1963年4月6日付 け 『光 明 日報 』掲 載 の 「個 奉叙情」(包玉堂 )や1978年8月29日付 け 『広 西 日報

「今 日程陽橋 」 (本報通訊 員 朱歳 )な どG 14)『民族画報 』の1963年4月号掲載 の 「個族建築 」と 『民族団結』1964年1月号掲載 の 「個 族的建築」 (言茂仁 )。 15)これ は 『個 族簡 史簡志 合編 (第三次討論稿)』(1960年 ) とその改訂版 にあた る 『個族簡 史簡志 合編 (初稿 )』(1963年)などの準備段階をへて,国家プロジェク トの成果の一環 として正式に公開出版 された ものであ る。

(10)

兼重 :エスニ ック ・シンボルの創成 化 を代表す る とい うイメージが強力 にな ってい った。 に もかか わ らず, トン族文化 は現在 「鼓 楼 文化 」 とい う言 葉 で表現 ・代表 されて い る

「風雨橋 文化」 とな って い ないの は一体何故 な のであ ろ うか。 「鼓 楼文 化 」 とい う概 念が提 示 され た背景 に は,貴州 省が1985年 に北 京 で開催 した 「貴 州個 族建築 及風情展 覧」 (以下 「展覧会」 と略記 )の成功 があ る。「展覧会

が開かれ る までの過程 を庄 ・呉 [1985:85-93],呉正光 [1991'.264-270上 貴州省文物管 理委員会弁公室 [1985] を用 いて追 ってみ る。 文化大革命終 7後,共産党 の十一 回三 中全会以降,文化財保護 政策 も復活 した。貴川省で も 省内の文 化財調 査 を し,都柳江流域 で トン族 の鼓楼 が 「発見」 された。1982年 2月に, い くつ かの トン族 の鼓倭 を省 クラスの文化財 に指定 し,保護 の対象 と した。続 けて都柳江流域 の トン 族鼓楼 と花橋 (風雨橋 )の悉皆調査 を行 い分布 図 を作 成 したC 1984年 10月下旬 か ら11月初旬 にか けて北京 で 開かれ る全国民族文物工作 会議 に貴 州 省代表 と して出席 す る呉正光 に,貴 州省委宣伝部 の責任者が, トン族 の鼓倭 と花橋 (風雨橋 )の写真 を 北京 で披 露 し,各方面 に働 きか け北京 で展覧会 開催 の約 束 を と りつ ける ように要請 した。lュ月 5日呉正光 は北京 の民族文化宮 におけ る 「展覧会」 開催 の契約 を結 ぶの に成功す る。 同年12月 8日か ら翌85年 1月 8日まで, まず地元 の貴州省博物館 で 「個 案鼓楼 図片展覧」 を開催 した。 その際,北京 の文化部 文物 局 か らの文 化財保護研究 専 門家 や, 多 くの報道 関係者 を呼 び, あわ せ て鼓様 と花橋 (風雨橋 )実地調 査 も行 った。 それ に先立 って貴 州省委員 会宣伝部 が記者座談 会 を行 った。 2月 (旧正 月 )には,北京か ら宣伝部,文化部 ,文物 局,民族 関係役所,研究所, 出版社 な どの関係者 を招 いて トン族 の鼓横 や花橋 を見学 させ た。北京 での「展覧会」開催の前 に, 貴州 省の省都貴 陽で建 築,民族 ,文化財部 門の専 門家 を集めて学 術討 論会 を開 き, その成果 を まとめた 『個 案鼓楼研 究

,

『貴州文物古跡伝説選 』 を出版 した。 5月 3日,北京 の民族文化官 で 中外記者招待 会 を開 き内外の報道 関係者 に6月開催の 「展覧会」 を宣伝 した。 6月1日か ら 一 カ月,北京民族文化宮 展覧庁で 「展覧会」 を開催 し, 会場 で 『個 案鼓楼研究

,

『貴州伺案鼓 楼 風 雨橋 』な どの書 籍 を販売 した。「展覧会」は貴州 省向 けの ロー カル メデ ィアだ けで はな く, 全国向 けの新 聞や テ レビで もと りあげ られ, 全部 で50回以上報道 され た。 北京 で 「展 覧会」 を無事 に開いた こ と以上 に,準備 の段 階で何 度 も北京 の役 人や報道 陣 を招 待 した り,宣 伝活動 を して, 中央 の権威 あ る専 門家か ら鼓倭 や花橋 に対 す るプ ラスの評価 を引 き出す こ とに成功 し, それ らを地方,全国の メデ ィアに報道 させ てい るこ とに注 目せ ね ばな ら ないし)例 え ば85年 2月26日付 け 『貴 陽晩報 』 (貴州 省 の地 方新 聞 )の記事16)で は北 京 か ら来 た民族文物考察 団が トン族 の鼓楼 と花橋 は我 国 (中国 )の民族 建築 の珍貴 な宝 に とどま らず 世 16)「民 族文物 考察 団在我 省個 族地 区考察后認 為花橋鼓棲是我 国民族建 築的塊宝 」 - 14 1- 747

(11)

東南 アジア研 究 35巻4号 界で も稀 にみ る芸術 の創 造 で あ る と評価 した こ とが報 道 され た。貴 州 省 の マ ス コ ミを うま く 使 った精力 的 な宣伝 は大成功 を収 めた と評価 で きる。 ここで重要 なの は, ただ単 に貴州省 の トン族建築 の知 名度 とステ イ タスが飛躍 的 に上昇 し, 中国社 会 に トン族 -鼓楼 ・花橋 (風雨橋 ) とい う連想 が広 が った こ とだけで はな く,鼓楼 を ト ン族文化 の代 表 や象徴 とみ な し

,

「鼓楼 文化 」とい う概念 が提 唱 され る契機 を得 た こ とであ る。 1985年 1月20日付 け 『光 明 日報

の記事 で は,北京 か ら考 察 に来 た専 門家が鼓楼 を トン族文化 の代 表 と認定 した こ と17)を報 じた。 これ を うけ る形 で貴 州省文化 出版 庁 の呉 正光 は 『個 案鼓 楼研 究 』 の 冒頭 で 「鼓楼 文化 」 を宣言 した18)[呉 正 光 1985:1]。呉正 光 は貴州省 の少 数民 族 文化宣伝 の キーパ ー ソ ンであ り, 中国国内の数 多 くの新 聞,雑誌 や単行 本 に貴 州省 の少数民族 を宣伝 ・紹介す る文章 を発表 して いる。 彼 が トン族 で はな くミヤオ族 出身で あ る こ とに留意 す る必要 が あ る。 貴州省 は明 らか に花橋 (風 雨橋 ) よ りも鼓楼 を重視 しア ピール しようと してい る。 それ には 以下 の よ うな理 由が あ る と筆者 は推測す る。 貴 州省 の泰平県 ,従江県 は広 西壮 族 自治 区の三江 トン族 自治県 ほ どには長 くて大型 の風 雨橋 に恵 まれてい ない。逆 に三江 トン族 自治県 は鼓楼 の 数 で は貴 州省 の泰平 県,従江 県 に ひけ を とらない ものの (表3参照 ),両 県 ほ どには,高 くて 美 しい鼓楼 に恵 まれてい ないので あ る。 1985年 の北京 での 「展 覧会」 の成功 を契機 に, 中国 にお け る トン族研 究 の流 れが かわ る。 そ れ まで研 究 の対 象 とされてい なか った鼓楼 が研 究 の対 象 にな り,鼓楼 に関す る論文が数 多 く発 表 され る よ うにな る。1988年 9月 には全 国個 族鼓楼 文化研 討会 が 開催 され る。 学術 界 にお ける 「鼓楼 文化 」推 奨 の 中心 人物 と して王勝 先 (故 人 )が挙 げ られ る。 彼 は貴 州省従江 県 出身の ト 表3 鼓楼 ・風雨橋の分布 鼓楼(数) 風雨橋(敬) 県内最長風雨橋 ・長さ 備考 出所 1 5 8 3 2 5 2 1 1 50余 地坪風雨橋 56m

*

30余 朝利風雨橋 40m 1987年統計

**

108 程陽橋 77m

***

*

[貴州省泰平県志編纂委員会 1989:144]

*

*

[貴州省従江県志編纂委員会 1991:42-43]

***

[三江個族自治県志編纂委員会 1992:704] 17)彼等は,鼓楼 を トン族の村の社会組織の一種の代名詞,トン族の村の団結 と輿盛の象徴 とみなした。 また,鼓樺の周 りで行われる一連の活動 を,トン族の悠久の歴史の縮図であるとみなしている(「有 閑尊家考察緊東南后認為鼓楼是洞族文化的代表」)。 18)呉正光は

,

「鼓楼文化」 と命名する根拠 として1,鼓楼は歴史文化の遺存であ り,ある程度, トン 族の歴史の発展過程を反映する,2,鼓樺は建築文化の精華であ り,トン族建築芸術の結晶である, 3,鼓楼は民族文化の象徴であ り,多方面からトン族の習慣や トン族居住地域の風土人情 を展示す る,の3点を挙げている [呉正光 1985:1]。

(12)

兼 重 :エ スニ ック ・シ ンボ ルの創 成 ン族 で あ る。王 は, トン族文化 を鼓楼文化 と総括 す る理 由 につ いて次 の ように述べ る

。「

『鼓楼

が ただ単 に建 築芸術 の 『傑作 』 とい うこ とだ けか らで はな く, さらに重 要 なの は トン族 の 日常 生 活風俗 ,ハ レの 日の集会,社会歴 史,宗教 信仰 お よび,民 間文学,芸術 な ど トン族 文化 を構 成す る諸 側面 はみ な鼓楼 と不 可 分で あ る。 だか ら鼓楼 は トン族 の象徴 と トン族 の村 の指標 で あ るこ とよ り トン族文化 の代表 となる」 [王 1987:42-46] 。 風雨橋 につ いて彼 は次 の よ うな見解 を述 べ て い る。 「トン族 文化風 習 の 各種 の事 象 の 中で, 最 も トン族 の特 色 を代 表 す るの は トン 族 の鼓楼 と風 雨橋 で あ る。 学術 界で は常 に トン族文化 は鼓楼文化 とい われ るO広西 三江 トン族 自治県文芸連 合会主催 の刊 行物 の名称 は 『風雨橋

雑誌 で あ り, その こ とは風雨橋 もまた トン 族文化風習 の代表 で あ る こ とを説 明す る」 [王 1989:1] (下線 は引用者 に よる)。彼 の後者 の説 明 は鼓校 をなん とか風 雨橋 よ り上位 に置 こ うとす る強弁 で あ る よ うに思 え る。貴州 省 か らみ る と,広西壮族 自治 区 は トン族 地 区の周辺 部 にあた る。 周辺 の広西 の風雨橋 が トン族 文化 を代表 す るの に対 す るあ る種 の不快 感が彼 に こ うい う発言 をさせ た よ うに思 われ る。王 の唱 える鼓楼 文化論 とは,貴 州省 の トン族 と広西壮 族 自治 区の トン族 を差異化 し,前者 の後者 に対 す る優 位 性 を主張す る意 図 を含 む ものであ る と筆者 は解釈 してい る。 三江 トン族 自治 県の 『風 雨橋 』 に対 し,貴州 省泰平 県で は 『鼓楼

とい う刊行物 を発行 して い る。 トン族居-住地域 内で この よ うな省 レベ ルあ るい は県 レベ ルでの シ ンボ ルの 「す みわ け」 が行 われてい る。 これ は, さ きほ ど述 べ た貴州 省 と広 西壮 族 自治 区の鼓楼 と風雨橋 の分布 の偏 差 をその ま ま反映 して い る と考 え られ る。

中国社 会 に お け る少 数 民族 エ リー ト 先 にみ た ように,貴 州 省 にお け る一連 の動 きには呉 正 光 (ミヤオ族 )や王勝先 (トン族 )な どの少数民族 エ リー トの貢献が大 きか った。 また広 西 の講毅然 (マ オナ ン族 )の投書 も中央 お よび中国社会へ の トン族 の紹 介 に貢献 してい る。 以下, 中国の少数民族 エ リー ト-幹部 につ い て若干 の説 明 をす る。 地方 の少数民族幹 部 の うちわ けは,(1)新 中国成立以 前 に革命 に参加 し訓練 を うけた老幹 部, (2)新 中国成 立 後,各分野 の仕事 に積極 的 に参加 した積 極分子 の なかか ら抜擢 された幹部 ,(3) 訓練 を うけた知識 人 (それ には解 放前 に教 育 を受 けた人 と解放 後 に教 育 を受 けた人の両方 が 含 まれ る)と,(4)人民 と密接 な関係 を もつ愛 国主義 的 な立場 の民族宗教 の リー ダー,で あ る [《当 代 中国≫叢書編 集部 1993:311-312]O解放 直 後 に民族 区域 自治 を行 うの に際 して少数民族 の政 治幹 部が必 要 に なったので,1950年11月 に中央 人民政府政務 院 は 「培 養少数民族 幹部試行方案 」 を発布 し,少数民 族幹部 育成 を うちだ した。 その ため に北京 に中央民族学 院の他 ,各地 に民 族 幹部 育成 の ための高等教 育機 関 を開設 した。1956年以 降 は行 政幹部以外 に,軍事幹部 や文化教 ー 143- 749

(13)

東南 ア ジア研 究

3

5

巻4号 育幹部,科学者,芸術家,エ ンジニ アな どの多方面 の幹部 の養成 の必要 が毛沢東 に よ り提 言 さ れた [同上書

:

2

9

8

]。 こ う した養成政策の結果,全 国少数民族幹部 は新 中国威立直前 には

4.

8

万 人だ った ものが

,1

9

6

6

年 には

8

0

万人 に

1

9

8

8

年 には

1

8

4

万人 になってい る [同上書 :

31

1

]

少数民族地域 におかれた少数民族幹部 は中央 と少数民族 の民衆 を仲介す る働 きを していた。 実際, 中央 に働 きかけがで きるの は省 (自治 区)クラスのエ リー トであ るだろ う。 Ⅵ

少数民族 とその居住地 に対 する偏見

で は, なぜ貴州省が そ こまで熱心 に 「展覧会」 を開いて ア ピールす る必要が あ ったのだろ う か ? ひ とつ は トン族 の建築文化 を観光資源 と して ア ピールす ることに よって貴州省 の観光化 を促進 し,経 済効果 を狙 うこ とであ る。 しか し, それだけで はない。 中国 において従来,非漢民族 は蔑視 の対 象であ り,彼 らの民族名 を漢字表記す る場合獣鳥虫 偏 な どを当て られてい た。一般 に非 漢民族 の居住 地域 は 「療病 之地」19)とされ,居住 地 に対 して もマ イナスの イメージが付与 されていた。解放前 か ら解放初期 にか けて中国共産党 は非漢 民族 -少数民族へ の蔑視 をで きるだけあ らため

,

「少数民族 」全体 の イメージの プ ラス- の転 換 を政策的 にはか った。例 えば周恩 来総理 は

1

9

5

1

年 に少数民族 を侮蔑す る呼称 や地名や石碑 , 額 や対聯 の使用 を禁止 す る指示20)を発布 してい る。 また新 聞,雑誌 で もイメージの転換 をは か る報道が行 われた。共産党 は民族平等 をうた ったが,実際 は,マル クス主義 的歴史観 の採用 に よ り, あ らゆ る少数民族社会 は原始共 同体制,奴隷制,封建領主制,封建地主 (初期資本 ) 制 の 4つの基本的発展段 階 に分類 され,少数民族 は漢民族 の進化段 階 に達 していない弟分 と位 置付 け られた [秋

1

9

5

5:

2

8

;唐

1

9

5

3:

3

]。 これ は民族平等 の建 て前 と自己矛盾 し,少数民族の 漢民 族 に対 す る劣位 は解 消 され なか った

[

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] 。 現荏 で も,漢民族 の人 々の少 数民族 に対 す る偏 見 や差別 は完全 に払拭 され たわ けで はない libid.:

2

5

1

2

7

]。一方,少数民族 の人 々の側 で は 自今 たちは 「遅 れてお り,文 明化 されてお らず,汚 く, 愚鈍であ るな どとい う ステ ィグマ化 された アイデ ンテ ィテ ィ」 [ibid.:6]を もってい る。 筆者 は中国で知 り合 った漢 民族 の人か ら少数民族 は遅 れてい る とか不衛生 であ る とい う話 を何 度か耳 に した。 また三江 ト ン族 自治県 の トン族 の村 での調査 中,村 人 は筆者 に対 して,我 々 トン族 は貧乏で食べ物 も良 く な く,教 育 レベ ル も低 く無知であ るな ど自虐 的 な ことを何度 も述べ た。 少数民族が住 む地域 ・土地 その もの に村 して もネガテ ィブなイメージで捉 え られて きた。 そ

1

9)

橿 痛 とは中国南 方 で流行 す る悪性 のマ ラ リア な どの伝 染病 を さす 。商務 印書館 『辞 源 』(修 訂 本 )

1

9

8

6

年版 に よる。 20)「中央 人民 政府 政務 院 関於処 理帯 有 政視戎侮 辱少数民族性 質 的称 謂 ,地名,碑 褐匿聯 的指 示 」 [人民 出版社

1

9

5

3:

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-

1

2

]

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兼重 :エ スニ ッ ク ・シ ンボ ル の創 成 の 中 にあ って貴 州省 に対 す る偏 見 は特 に強 か った。貴 州 省 は歴 史的 に漢民族 か ら 「蛮煙橿 雨 」 の地21)とされて きた [郵 1942(1973):364]。貴 州省 を形容 す る 「天 に三 日の晴 れ な し,地 に 三里 の平 な し, 人 に三分 の銀 な し」 とい う有名 な諺 が示 す ように,貴 州省 は不毛 の地 とみ な さ れて きた。 そ して 「文化 」 も欠乏 して い る とされて きた [張 克 1987:251,253]。 中国社 会 にお いて貴 州省 は,漢民族 の住 め ない条件 の悪 い土地 だか らこそ少数民族 が住 み,少数民族 が住 む 場 所 だか らこそ 「文化 」が ない と捉 え られ,特 に蔑視 されて きた よ うだ。貴州省が北京 で貴 州 個 族建築 及風情 展 覧 を開 こ うと した意 図 は上記 の よ うなステ ィグマ を払拭 し名誉 を得 る こ とが 主で あ った ようであ る。 それ は1984年 12月10日に貴州 省文物管理 委 員会 と貴州省文化 出版庁 が 貴 州 省 人民 政府 あて に提 出 した報告 書22)に如 実 にあ らわれて い る。 その 中 には 「貴州 省 は長 い間人 々か ら軽 蔑 されて いた。貴 州 人 も軽蔑 されて いた。 多 くの人 は歴 史文化 遺産 はない と思 い こんで いた。ず っ と人 々か ら軽視 されて いた トン族 の村 の鼓楼 ,花橋 な どの少数民族建築物 は大変高 い建築芸術価値 と民族文化財 の価値 を持 ってい る。われわれ は このた び展 覧会 を行 い, 貴州 を宣伝 し,振 興 させ る。 この展 覧会 を首都 で 開 けば,必 ず 多 くの旅行者 と民族 関係 の仕事 をす る人 々 を貴州 省 に引 き付 けるだ ろ う」 とあ る。 この前 年 (1984年 ),貴 州 省 は, 北京 で 「貴 州潜洞 奇観撮 影 展 覧」 とい う鍾 乳 洞 の写 真展 を 開いてい る。 これ は単 に鍾乳 洞 とい う観光資源 を紹 介す るため だ けで はな く,貴 州省 の 自然 が 決 して不 毛 で な く,美 しい もの であ るこ とをア ピー ルす るこ とを 目指 す ものであ った [同上書 : 251] 。 貴 州省 の戦略 はその後 も続 く。1988年 1月 には貴 州 省従江 県 にあ る増 沖鼓楼 が 第 3次 全 国重 要文物保 護単位 に指定 された。増 沖鼓 楼 は中国社 会 にお いてあ ま り有名 にな らない うちに, 国 の重要文化財 に指定 され た。 その背景 には北京 で の 「展 覧会」 の 開催 を契機 に関係 を深 めた北 京 の文 化 財 関係 の要 人 の後押 しが あ った23)[呉正光 1991:270]。貴 州 省 は, い まや広西壮 族 自治 区の トン族 の程 陽橋 に対抗 で きる存在 を得 て い る。 その後1997年 6月 2日に 「トン族建 築」 とい う 4種一組 の切手 (鼓楼 ・風雨橋 それぞれ2種 ずつ )が発行 され た。 鼓楼 の一枚 には増 沖鼓楼 が描 かれ たの に対 して,風雨橋 2種 の 中に程 陽 橋 は入 ってい なか った。鼓棲 ,風雨橋 ともに貴 州省 の ものだ けが描 かれ たので あ る。 北京 の郵 電部 は,1994年 に一部 の切手 の題材 と図案 を,省 や区や市 か ら推 薦 された もの の中か ら採 用 す る こ とに した。その際,貴州省 郵電管理 局が推 薦 した,貴 州省 に関係す る 5つ の題材 の 中か ら, 21)「蛮煙橿雨」は 「晶毒」 と 「橿気」の二つの恐るべ き要素からなる [廓 1973(1942):367]。中国南 部の非漢民族は姦毒を放ち人を害 し,その住む場所で発生する橿気を受ければ病気になると信 じら れていた。 22)「貴州省文化出版庁関於挙弁 《貴州個族建築及風情展覧≫和保護少数民族村案的報告」[貴州省文物 管理委員会弁公室 1985] 23)この後押 しの詳 しい理由は [呉正光 1991]に記載されていないため,現在のところ不明である。 -.14 5 - 751

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東南 アジア研究 35巻4号 「トン族建築」が採用 されたのであ る [黄 1997:104]。中国で は数年来大変 な切手 ブームなので, 切手 に描 かれた トン族 の鼓楼 ・風雨橋 は中国社会 で広 く知 られるこ とになるであろ う。 貴州省 で は,貴州省 の トン族 の鼓楼 や風雨橋 を題材 に した『貴州省個族建築』とい う絵葉書 セ ッ ト(1996 年7月貴州省郵電管理局発行 )やテ レフ ォンカー ド (1992,94年貴 陽市電信局発行 )が発 売 さ れてい る。 今後, 中国社会 において鼓楼 ・風雨橋 -貴州省 の トン族 とい うイメージが強 くなっ て くるように思 われる。

中国の少数民族文化財政策

それで はなぜヰ 央 の文化財 関係者 と展示会場 を提供 した民族文化宮 関係者 は貴州省 の 「貴州 省個族建築及風情展覧」 の開催 を後押 ししたのであ ろ うか ? その主 な理 由は貴州省文物管理 委員会弁公室 [1985]の記述 か ら次 の2点 に まとめ られ る。 (1) トン族 の民族文化財 を利用 して貴州省 に対 す る従 来 の偏 見 を改 め,国外 の観 光客 を貴州 省 に招致で きる。 また将来海外 で展覧会 を行 うこ とに よ り共産党 と国家が非常 に重視 してい る 外貨獲得が期待 で きる。 (2) 民族文化財 の展覧 を通 して,少数民族 を宣伝 す る こ とに よ り,人 び とに辺彊 の少数民族 に対 す る理解 を生 じさせ差別 や偏 見 を解消 させ, また少数民族 や貴州省 の人 び とに 自尊心 や誇 りを持 たせ るこ とがで きる。結果 と して中国 にお ける民族文化 の交流,民族 の平等,民族 の団 結 を実現 で きる。 (1)の ような民族文化財 の商品化 とい う考 え方 は改革 開放政策実施以 降 にでて きた ものであ る。(2)の ような考 え方 は,新 中国成立以 降の国家 の民族文化財 政策 の流 れ を汲 む (文化 大革 命時 を除いて ) ように思 われ る [e.g.井 1954;中央民族学 院研 究部文物室 1955:119;呉沢霧 1957:63] 。 1984年10月末か ら11月初 にか けて,北京 で開催 された中国で初 めての全 国少数民族文物 (文 化財 )会議 (前述 )は国家民族事務委員会 と文化部が主催 した ものであ った [陳 ・朗:1984]。 この会議 に貴州省代表 と して出席 した呉正光が,85年 の 「貴州省個 族建築及風情展 覧」の開催 を中央 に働 きか けたのであ る。 そ して会議 を主催 した民族事務委員会主席 の楊静仁主席 の少数 民族文化財 に対 す る考 え方 は上記 の(2)と,軌 を一 にす る ものであ る [楊静仁 1984]。 Ⅷ

エスニ ック ・シンボル と均質的民族観

これ まで トン族 のエ スニ ック ・シ ンボルが創成 されてゆ く過程 を見て きた。で は, トン族 の エ スニ ック ・シ ンボルはその後 どの ようなかたちで定着 してい くのだろ うか。

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兼重 :エスニック ・シンボルの創成 鼓楼 や風雨橋 が 中国社 会 において著 名 にな り, トン族 のエ スニ ック ・シ ンボル とみ な され る よ うにな る と,風雨橋 ・鼓楼 を トン族独 自の物 質文化 と捉 え, それ に よ り トン族 を他 の民族 か ら差異化 しよ うとす る言説 が 数 多 くで て くる。 例 えば四川 省 の酉 水 の土 家 (トウチ ャ)族 の も つ屋根付 き橋 を,土家族 が トン族 か ら学 んで来 た もので あ り, しか も トン族 の風 雨橋 に比べ て 遜 色 が あ る [李

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とす る言説 が あ る

これ は程陽橋 を念頭 にお い た発 言 で あ る よ う に思 われ る。 また, トン族居住 地域 で ない湖南 省の江永県 に, トン族 の鼓楼 や涼亭 に類似 す る 建 築物 が存在 す る こ とよ り, 当地 の人の祖 先が トン族 と共通 の祖 先 を持 っていた と推 定 す る研 究者 もい る [張柏如

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]。涼享 は トン族居住 地域 に数 多 く分布 す るが, 中国各地 に きわ めて広 く分布 す る物 質文化 で あ る。近年 中国の トン族研 究 者 の間で は鼓様 と風 雨橋 と涼享 を「ト ン族建 築三宝」の名 の もとに一括 して, トン族 に特 有 な物 質文化 と してみ な して ア ピール しよ うとす る動 きが あ る [楊 ・都

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,これ らの言説 の背景 には,広 い中国 の よその地域 の事情 を知 らず に, 限 られ た知 見か らのみ もの ご とを判 断す る 「井 の 中の蛙」 的 な誤解 [周

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とい う側面 もあ るだ ろ う

しか しそ れだ けで はない 。現在 トン族 の北部方言 区 には南部方言 区 に多 く見 られ る鼓楼 と風 雨橋 が み られ ないが,過去 において トン族 居住 地域 全域 に風雨橋 ・鼓樺 が存在 して いた とみ な されて い る。 この理 由 につ いて秦 は,北部 の トン族 の民 族特 色 が漢化 に よ り薄 くな ったか らだ と説 明す る。 彼 は 『玉犀 県志

の 「南 明楼 即鼓楼 明永楽年 間建 」 とい う記述 や 『洗州庁志 』の 中 にあ る 「邑治 旧有鼓楼創 自弘治年 間」 の記述 に依拠 して,過去北部 方言 区の トン族 に南部方 言 区 と同様 , トン族 の鼓様 が あ った断定 してい る。 しか も彼 は南部方 言 区 にあ る風 雨橋 も北部 トン族地域 に昔 はあ った こ と, また涼享 が北部 に現在 も多 く存在 してい る こ とか ら,南北 が昔 は同 じ文化 を持 っていた と主張す る [秦

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秦 の説 には,積極 的 な根拠 は まった くな く説得 力 に欠 け る。 まず,風雨橋 や涼享 は トン族独 自の物 質文化 で ない。 さ らに,彼 が歴 史文献 か ら引用 してい る鼓 倭 の事例 は,明 らか に中国 の城 内 にかつ て広 く存在 した鼓 様 であ り, トン族 の集 落 にあ る鼓楼 とは別 もので あ る。 それ に もかかわ らず

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年代 に民族 成分 の回復 と改正 の ため に民族識 別 の補充調 査が行 われ た時 に も,貴 州省 の鋼 仁市 と湖南 省会 同県 にお い て,前述 の泰 と類似 す る論法が採 用 され,鼓棲 ,風雨橋 や涼享 が,民 族識 別調査 の被調 査者 を トン族 で あ る と判定す る際 のい くつ か の根拠 の うちの一つ と して使 われた。、 この ような現 象 はなぜ 生 じたのであ ろ うか。 それ には中国 にお け る民族理論 の背 景が あ る。 なぜ な ら民 族識 別 の基準 となった ス ター リンの民族 の四つ の定義 は(1)共通 の言語,(2)共通 の 地域

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共通 の経 済生 活 ,

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共通 の文化 に もとづ く共 通 の心 理 [費

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で あ る。 それ は同一民族 で あ る と確 定 された民族集 団 の内部 の共通性 (均 質性 ) を強調 す る もの であ り, 中国の民族学者 の間 にお け る きわめて一般 的 な考 え方 となってい る。今 まで紹 介 した 中国 にお ける トン族 の鼓 様 や風雨橋 に関す る言説 は,全体 的 に以上 の傾 向 を帯 びてい る よ うに - 147- 753

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東南 アジア研 究 35巻4号 思 われ る。 い っほ う近年 ス ター リンの民族 の四つ の定義 の運用 が必ず しもすべ ての民族 に対 して厳格 に 科学 的 に行 われた ので はない とい う批 判 が アメ リカの人類学 者 た ち に よって提 出 されてい る

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]。 この批 判 は, 中国の公定55少数 民族 の枠組 み 自体 の (中国側 の主張す る)「科 学性 」 を懐疑 す る。 それが正 しい とす れば, 中 国 にお け る同一民族 内部 の均 質性 の強調 は,二つ の レベ ルにおいて民族 の実態 とか け離 れた民 族 の虚像 をつ くりあげて しまう危険性 をは らんでい る とい うこ とになる。 トン族 に関 して も今 後十分吟味す るこ とが必要 であ ろ う。

おわりに

以上行 って きた作業 か ら浮 か び上が って きた問題点 の うち,主 な もの三つ に関 して まとめて みたい。 1.中央 と周辺 の間の垂 直的 な相互関係 従来, 中国 において中央 (漢民族 ) と周辺 (少数民族 )の間には, 中央 (国家 )の圧倒 的優 位 に よる非対 称 的 な力 関係 の ヒエ ラルキー構 造

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が指摘 されて い る。 また 民族 に付与 されてい るイメージやエ スニ ック ・シ ンボル は,各民族 の文化要素 の中か ら, 中国 の文化 的多元性 の シ ンボル と して好 ま しく,政治 的 に無害 な要素 を,上 (国家 )が選択 して構 成 された ものであ る とい う見方 が な されて きた [長谷川

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]。本稿 で紹介 した トン族 の事例 で は,貴州省 のエ リー トによる,下 か らの 中央 に対 す る上 む きの強 い ア ピールが な され, それに対 して上 か らのサ ポー トも行 われた。 中央 と地方エ リー トの相互交 渉 の なかで トン族 のエスニ ック ・シ ンボルが創 成 された こ とに注 目す る必要 があ る。 新 中国成立以 降 も,少数民族 に対 してのみ な らず,彼等 が居住 す る地域 に対 して も,漢民族 や 中央 か ら付与 されて きた偏見 があ る。 またそれ に起 因す るステ ィグマ化 された民族 アイデ ン テ ィテ ィと地域 アイデ ンテ ィテ ィが あ る。 そ こで地方 は中央 に働 きかけ, そ こか ら肯定 的 な評 価 (お墨付 き) を得 るこ とを必要 と した。国家 か らの鼓楼 や風雨橋 -文化財 とい う評価 ,その 証 と しての国家 の重要文化財- の指定 は,貴州省 に とって, ステ ィグマ化 されたアイデ ンテ ィ テ ィを払拭す る契機 となった。 中央 は少数民族文化 に 「お墨付 き」 を与 えるこ とに よ り,多民 族 国家 にお ける各民族 の団結 をはかろ うとす る。 現在 は,少数民族文化 を利用 した観光 に よる 経済効果 とい う側面 か らも, 中央 と周辺 の両者 の相互関係 は ます ます緊密 になって きてい るよ うに思 われ る。

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兼重 :エスニ ック ・シンボルの創成 2.各 「地域」 を単位 と した水平 的 な相互 関係 貴州省が 中央 に トン族文化 を宣伝 ,ア ピール しよ うと したの は,必 ず しも トン民族 自身の 「民 族 ア イデ ンテ ィテ ィ」 に動 機づ け られた もので はなか った。 む しろ,行政 区画 であ る貴州省 と い う 「地域 」 (行 政 区画 に もとづ く 「地域 」 とそれ に限定 しない地域 を鈎括 弧 の有無 で 区別す る こ とにす る) をア ピールす るため に トン族 文化 を利 用 したので あ った。 それ は

『地域 』 ア イデ ンテ ィテ ィ」 に基づ くものであ るので, トン族エ リー トに よって行 われ なけれ ばな らない 必 然性 はなか ったので あ る。 ひ とた び貴州 省の トン族 の鼓楼 に対す る評価 が高 まる と,貴州 省 の トン族知識 人 はその流 れ に追随 し,広西壮 族 自治 区の トン族 に対 す る貴州省の トン族 の優 位性 を主張 しようとす る。 ト ン族 エ リー トたちの間 には,我 われは国家が公認 した トン族 とい う民族 に帰 属す る とい う 「民 族 ア イデ ンテ ィテ ィ」が存在 す る。しか し同時 にそれぞれの 「地域 」に帰属 す る とい う

『地域 』 ア イデ ンテ ィテ ィ」 ももって い る。 その両者 が交叉 した ところに,我 われ は貴州省の トン族 で あ る とい う帰属 意識,広西壮 族 自治 区の トン族 であ る とい う帰属意識, あ るい は≡江 トン族 自 治 県 の トン族 で あ る とい う帰 属意識 と して の

『地域

的民族 ア イデ ンテ ィテ ィ」が生 ず る と 考 え られ る。 人類 (民族 )学者 は,民族集 団やその支系 を単位 に民族 ア イデ ンテ ィテ ィやエ スニ シテ ィを 強調 し,民族 と民族 の 間の関係 - 「民族 間関係 」 に注 目 しが ちであ る。本稿 で示 した トン族 の 事例 は,中国の少数民族 の人類 (民族 )学研 究 に

,

「地域 」の 間の関係 と しての

『地域 』間関係 」, そ して

『地域 』間関係 」 と 「民 族 間関係 」の両者 が交 叉 した ところに生 じる 「民族 内 『地域 』 間関係 」 (同一民族 集 団の各行 政 区画 間 にお け る民族 内部 の関係 ) とい った視 点 か ら民 族 を捉 えて ゆ く方 向性 の有効性 を示唆す る。 従来, 中央 (漢民族 ) と周辺 (少数民 族 ) を二極 的 に対 置 させ ,両者 の垂 直 的な関係 を過 度 に強調す るこ とに よ り,周辺 や少数民族 は十把 一緒 に扱 われ, それぞれの内部 にあ る 「地域 」 間の相 互 関係が見過 ご されが ちで あ った よ うに思 われ る。 中央 と周辺 の垂 直 的 な相互 関係 とい う縦 糸 と,周辺 内部 の各 「地域

を単位 と した水平 的 な相互 関係 とい う横 糸 の両者 を織 りあ わ せ る視点が必要 で あ る と考 え る。 3.均質化 と差異化 民 族 識 別 の結果

,

「少 数民 族」の境 界 は不 変 の もの と して固定化 され, かつ集 団 内部 で の均 質性 が強調 され る。付与 された シ ンボ ルは, 同一民族 と して囲 い込 まれた集団であ る各少数民 族 を特徴 づ け,他 の民 族 と区別す るエ スニ ック ・マ ー カーの代表格 とされ る。 鼓楼 や風雨橋 と い う,トン族文 化 にお け る地域 的 な文化要 素 を トン族 全 体の文化要 素 にふ えんす るこ とに よ り, 地域 差 (内部 の差異 )を消 し,単 一 の均 質的 トン族像 を形 成 しようとす る操作 が行 われた。一方, - 149- 755

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束南 アジア研究 35巻4号 風 雨 橋 を トン族 の エ ス ニ ッ ク ・シ ンボ ル とす る評 価 が 定 着 す る と, そ れ は ます ます トン族 「独 自」 の物 質 文 化 とみ な され , 涼 享 まで と りこ まれ る。 民 族 識 別 の 適 用 の科 学 性 が 懐 疑 され て い る現 在 , 各 民 族 の エ ス ニ ッ ク ・シ ンボ ル が 各 民 族 に 囲 い こ まれ て い る人 び との 実 態 を正 し く代 表 して い る とい う保 証 は ます ます 危 うい もの に な っ て い る。 そ れ に もか か わ らず , 確 立 した エ ス ニ ッ ク ・シ ンボ ル は実 際 の と こ ろ民 族 に対 す る ま な ざ しに大 きな影 響 を与 え て い る。 現 在 , トン族 内 部 の均 質 性 を強 調 しよ う とす るベ ク トル と, トン族 文 化 の 「地 域 」 差 を強 調 しよ う とす るベ ク トル とい う異 質 な二 つ の 力 が 共 存 して い る の で あ る。 以 上 の 諸 問 題 は 中 国 の諸 民 族 に お い て 決 して トン族 だ け に あ て は ま る特 殊 な 問 題 で な い と思 わ れ る。 そ れ ば か りか , い くつ か の 問 題 点 は政 治 体 制 や 民 族 政 策 の 違 い を超 え て , 東 南 ア ジ ア 大 陸 部 の 各 国 に お い て , 程 度 の 差 こそ あ れ 共 通 して い る の で は な い か と予 測 され る。 今 後 東 南 ア ジ ア大 陸 部 の 各 国 の 政 府 に よ る 「民 族 」 の 認 定 と紹 介 , そ して 各 国社 会 に お け る 「民 族 」 -の 評 価 や ま な ざ し-の創 成 -の 過 程 を詳 し くあ とづ け て 比 較 検 討 す る こ とが 必 要 で あ ろ う。 謝 辞 本研究 をまとめる過程 における筆者 の口頭発表 において, また草稿 に 目を通 していただ き,有益 なコメ ン トを していただいた方 々,及 び筆者が トン族 と出会 うきっか けを与 えて下 さった宮下繁氏, トン族 の切 辛,絵葉書,テ レフ ォンカー ドの実物 とそれに関す る情報 を提供 して下 さった宮 内慎太郎氏,そのほか筆 者 を助 けて頂 いたすべ ての方 々に深 く感謝 いた します。 また拙稿で紹介 した広西壮族 自治区三江 トン族 自治県の トン族 の鼓楼 と風雨橋 に関す る知見 は,筆者 の 中国留学 中 (94年6月か ら96年6月 まで )の調査 で得 られた ものであ る。筆者の留学受 け入れ先 の広西壮 族 自治区社会科学 院, な らびに 2年の留学期 間の うちの前半の 1年 間,研 究助成金 を提供 していただいた トヨタ財団 と庭野平和財 団に,記 して感謝の意 を表 わ したい。 最後 に,拙稿 を筆者 の中国留学 中に急逝 された恩 師 ・故青木伸好教授 の霊前 にささげ,生前 に賜 わった 学恩 にたい し感謝の念 を表 わす と同時 に御冥福 をお祈 りしたい。 引用 ・参考文献 (秦,脚注,一部本文で示 した新 聞 ・雑誌記事 につ いては,紙幅の関係上 ここで は省略す る。 また参考 に した中国の資料 の うち公 開出版 されていない ものは故意 に出典 を明示 していない場合があ る。御 了承願 いたい。) 日本語文献 長谷川清.1991

.「

『伝統 』の改革 - タイ族 の文化変化 をめ ぐって

『聖徳学 園岐阜教育大学紀要』第21 集 :75-99. 兼重 努.1997.「中国の少数民族 トン族 における風水思想 の受容

『人環 フ ォーラム』第3号 :52-53. 大林太良.1984.「東南 アジアの民族文化

『民族の世界史6 東南 アジアの民族 と歴史』大林太 良 (梶 ), 2-18ペ ージ所収.東京 :山川出版社. 関本照夫.1994.「序 論」『国民文化 が生 まれ る時』関本照夫 ;船曳建夫 (編 ),6-32ペ ージ所収.東京 : リブロポー ト. 周 連生.1990.「物質文化 の交流 と情報 の伝達者

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参照

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