東 南 ア ジア研 究 17巻3号 1979年12月
南 ス マ ト ラ, コ ム リ ン
川
流 域 お よ び
ムシ川下流部 にお け る集落形成 史
坪
内
良博 *
FormationoftheSettlementsalon皇theKomerin皇and
theLowerMus呈RiversinSouthSumatra
YoshihiroT sUBOUCHI* Ⅰ 民 族 の移動 と分 布 の概 親 コム リン川 (AirX・omering)は, 南 スマ ト ラ州 西 部 山 岳 地 帯 の ラナ ウ湖 (Danau Ra-nau)に源 を有 し, パ レ ンバ ン近辺 で ム シ川 (AirMusi)に合 流 す る。 コム リン川 の源 か ら ム シ川 河 口に至 る土地 には多 くの集 落 が存在 す るが, こ こで は これ らの集 落 の生 成 と発展 に関す る記述 を試 み る。 時代 の新 旧を無 視す れ ば, この川 筋 に登 場 す る主 な民族 は,コム リン人 (OrangX-ome -ring),マ レー系 の諸 族 , ジ ャワ島か らの移 民 , お よび ブギ ス人 (OrangBugis)で あ る。 コム リン人 は現在 ラ ンボ ン州 に居住 す るア ブ ン人 (Abung)と同 系統 の 言語 を用 い, ア ブ ン人 と同 じ場所 を発 祥 の地 と考 えて い る。それ は ラナ ウ湖 か ら30-40キ ロメー トル離 れ た ラ ン ボ ン州 内の地 域 リワ (Liwa)周 辺 に存 在 した
と考 え られ るス カ ラブ ラ ック(SekalaBerak) で あ る。 [Moehammad Moeslimin n.d.;
Funke 1958& 1961,1972]コム リン川 に
沿 って下 流 -移 動 したが, 中流 部 の カユ ア グ
*京都大学 東南アジア研究 センター;TheCenter
forSoutheastAsian Studies,KyotoUniversity
480
ン (KayuAgung)あた りに居住 す る グル ー
プが 最 も下流 部 -達 した もの とみ る ことが で
きる.lMonografieMargaKajuAgung1969]
マ レ一系諸 族 につ いて は, その発 祥 の地 はい ず れ の場 合 に も明 らか で な く,現 住 地 へ移 動 す る直 前 の祖 先 の居住地 が伝 え られ るのみで あ る。 コム リン川 流域 にお いて は主 と して下 流 域 に居住 し, コム リンJHに並行 す る ム シ川 の支 流 オガ ンJll(AirOgan)お よび ム シ川 の 全 流 域 に沿 って も分布 して い る。 ジ ャワ島か らの移 民 には ス ンダ系 の者 お よび ジ ャワ系 の 者 を含 む。 比 較 的古 い時期 にスマ トラへ来 た 者 もあ るが, 多 くは
2
0
年 以 内 に ジ ャワ島か ら 来 住 した。 政府 の外 島移 民 計画 にの って大 規 模 開墾 地 へ入 り込 んだ者 と, 自力 で入 植 した 者 (transmigrasispontan)とが あ る。1)コム リ ン人 お よび マ レー人 が主 と して川 沿 い に生 活 1)調査地域における大 きな開墾地 としては,バ ト ラジャ ・マルタプラ,プ リタン, ウパ ンなどが ある。これ らの地域に来た外島移民はジャワ人 を主体とするが,若干のスンダ人,バ リ鳥人 も 含 まれ る。坪 内 :南 スマ トラ, コム リン川 流 域 お よび ム シ川 下 流 部 に お け る集落形 成 史 圏 を確 立 して い るの に対 して, ジ ャ ワ島か らの移 住 者 は従 来 これ らの者 が居 住 しなか った 山岳部 あ るいは川 か ら離 れた土地 を利 用 して い る こと が多 く,先住 の諸民族 と共 住す る場 合 には彼 らの使 用人 や小 作 者 とな る ことが 多 い。 ブギ ス人 の移 民 は ム シ 川下 流 部 に多 くみ られ,1965年 ごろ か ら漸 次 到着 して定住 に入 った もの で あ る。 彼 ら は ス ラ ウ ェ シ 島 の ボ ネ (Bone)や ワジ ョ(W ajo)な どの 出身 で あ るが, 現 住 地 に 来 るまで は リア ウ (Riau)な ど に居住 して い た 。 コム リンお よび マ レー系 の諸族 は それ ぞれ地 域 的 な小 単 位 を形成 して い る。 この 小 単 位 は ドゥス ン ( du-sun)とよば れ,それ 自体 で一 つ の集 落 を形成 す る こと もあれ ば, カ ンポ ン (kampong),ク ラ ン(talang),ウ ンブ ラ ン (umbulan)な ど と よばれ る よ り小 さい地 域集 団 の結合 体 で あ る場 合 もあ る。 い くつ か の ドゥス ン が集 ま って マル ガ (marga)を形 成 して い る。 マル ガの領 域 は よ く規 定 されて お り, 領 域 内の土地 に関 して は マル ガの長 パ ッシラ (pasirah)の 権 限 が大 きい。 しか しなが ら, 同一 -の マル ガ に古 い居住 史 を もつ異 族 が 含 まれ る こと もあ り, また現 在 の マ ル ガの領 域 内 に昔 は複 数 の マル ガが存 在 した と伝 え られ る例 もあ る。 集 落 は戸 数 の多少 にか かわ らず集村 形 態 を とる ことが 多 い。集 落 の成立 に関 して はそれ ぞ れ 口碑 が伝 え られて お り,一 つ の集 落 が 草 分 け と して の共 通 の祖 先 を もつ 場合 が多 いじ 外 出者 を含 めて集 落 出身者 が 一般 に よ く認 知 され て お り, 集落 出身者 に関 して 系譜 が伝 え られ て い る場合 もあ る。人 口の膨 張 あ るい は 図1 調 査 地 域 略 図 他 の理 由 に よ る新地 域 - の進 出は分村 (pec a-han)の形成 に よ って行 われ , 分 出時期 が 新 しい場合 には その時期 お よび親 村 の名が記 憶 され て い る。 この よ うな開拓 お よび居 住 のパ ター ンは 山岳地 帯 か らデル タの低湿 地 苗 に至 るまで共 通 して認 め られ る。 この地 域 にお け る主 要 な生 業 は元来 焼 畑 に よ る陸稲 の栽培 で あ ったが , あ る時点 か ら低 湿 地 にお け る減水期 稲作 あ るい は潮 汐 濯鶴 の
東 南 ア ジア研 究 17巻3号 技 術 が普 及 して い った もの とみ られ るO 他 方 , 山地 あ るい は水 は けの良 い土 地 で は, カ ポ ッ ク, コー ヒー, ゴム, オ レ ンジ, 丁 字 な どが 陸稲 栽 培 後 の焼 畑 を利 用 して栽 培 され る よ う に な った 。 い わ ゆ る権 衡施 設 を もつ水 田 は こ の地 域 全 体 で は未 発 達 で, 政 府 の外 島移 民 計 画 地 城 を 中心 に比 較 的 最 近 導 入 され た。 土 地 所 有 は現 在 で は個 別 的 で子 孫 へ の相続 が 一 般 的 に な って い るが , マル ガの共 有 地 と して の 森 林 が存 在 す る こ とが 多 く, これ らは人 口増 加 に と もな う需 要 に応 じてパ ッシ ラの許 可 を 得 て 開墾 され 私 有 地 とな る。 首長 権 は元 来 か な り強 か った と考 え られ , ご く近 い過 去 まで パ ッシ ラの地 位 は父 か ら子 へ の 世 襲 に よ る ものが 多 か った。[Lipinsky andKaton.d.]歴 史 的 に み て これ らの 全 地 域 あ るい はか な りの部 分 を統 括 支 配 す る大 首 長 は存 在 せ ず , パ レ ンバ ンな い しジ ャワの王 侯 国 は, 村 落 国家 の首 長 と もい え るパ ッシ テ の祖 先 達 の地 位 を形 式 的 に安堵 して きた に過 ぎ な い。 イ ス ラー ムの伝 来 は ジ ャワ, セ レベ ス, あ るい は西 スマ トラか らの来 訪 者 との 関 連 か ら説 か れ る こ とが 多 く, これ らの貴 公 子 が 首長 の娘 と結 婚 して 子孫 を設 けた とい う口 碑 を 系譜 内 に と どめ るケ ー ス もい くつ か あ る. 歴 史 上 の ス リビ ジ ャヤ帝 国 はパ レ ンバ ンに都 を築 いた と も伝 え られ るが , 各 村 落 国家 に関 して は この時 代 に さか の ぼ る古 い伝 承 は見 当 た らない。 コム リン人 と共 通 の起源 を もつ ア ブ ン人 に関 して,Funkeは彼 らが 首狩 りを行 な った と述 べ て い るが [Funke1958&1961, 1972], コム リン人 の 間 で はそれ を 確 認 す る ことが で きな い。 ア ブ ン人 と コム リン人 との 間 に土 地 の争 奪 を め ぐって 戦 争 が行 わ れ た こ とが伝 え られ て い る。 マ レー諸 族 の問 で も古 い時 代 に お いて は村 落 に属 す る ことが生 産 お よび生 命 の維 持 の た め に きわ めて 重要 で あ っ た と考 え られ る。 この考 え方 は現 在 で も残 っ て お り, 自分 の村 を離 れて他 村 域 へ旅 をす る ことは危 険 と考 え る者 が 多 く, 強 盗 の可 能 性 や 食物 に毒 を盛 られ る ことが 真 剣 に議 論 され た りす る。 この よ うな状 況 に お け る開拓 は, 元 来 人 口が少 なか った土地 が 部 族社 会 的状 況 の下 で 開発 され て い った様 相 を示 す もの と理 解 す る ことが で きるで あ ろ う。 低平 地 の 開発 が 国家 な い し植 民 地 政府 の保 護 の下 に大 量 の 出所 も知 れ ぬ人 間 の移 動 を含 ん で行 わ れ た東 南 ア ジア の大 陸部 デ ル タ, と くに メナ ム ・チ ャオ プ ラヤデ ル タを典 型 とす る もの とは基 本 的 に異 な る タイプ の 開発 過 程 が こ こで は存 在 した。 村 落 レベル の 開発 で は制 徹 不 可 能 な低 平 地 にお いて ,一 方 で は 国家 保 護下 にお け る 大 開発 を起 因 と して ル ー ズ な社 会 構造 が極 端 に まで 顕 在 化 す るの に対 して , こ こで は部 族 社 会 的 状 況 を含 ん だ ま まで空 間利 用域 が 拡 大 す るので あ る。 Ⅲ ラナ ウ (Ranau) ス マ トラ西 部 を 縦 貫 す る 脊 梁 山脈 (Bukit Barisan)は南 スマ トラ州 を通 過 す る.南 ス マ トラ州 の南 西端 に この 山脈上 に位 置す るス ミ ノ ン山(GunungSeminung,標 高1881メ ー ト ル )が あ り, そ のふ もとに ラナ ウ湖 (水 面 の海 抜 標高540メー トル )が 広 が って い る。湖 の北 岸 か ら東 岸 にか けて ラ ンボ ン系 の言 語 を話 す 集 落 が展 開 し, 西 北 方 向 の谷 沿 い に は ス ム ン 482 ド (Semendo)とよばれ る マ レ一系民 族 の集 落 が 歌人 す る。 さ らに 山岳 部 に は オガ ン系 や ジ ャワ系 の比 較 的 新 しい開拓村 が 立地 して い る。 ラ ンボ ン系 の民 族 は そ の起 源 を湖 の南 西 端 か ら約
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0
キ ロメー トル離 れ た ラ ンボ ン州 の ブ ラ ラ ウ (Belalau)平 地 に有 す る。 彼 らの祖 先 は そ こか らコム リン (Komering), ス マ ンカ坪 内 :南 ス マ トラ, コム リン川 流 域 お よび ム シ川 下 流 部 に お け る集落 形 成 史
(Semangka),ス カ ンプ ン (Sekampung),ス プテ ィ (Seputih),トラ ンバ ワ ン(Tul
angBa-wang)な どの河 川 お よ び そ の支 流 に沿 って 広 が り,全 ラ ンボ ン地 方 お よ び南 スマ トラ州の 一 部 に及 ん だ と考 え られ て い る。 彼 らは この 起 源 の地 を ス カ ラブ ラ ック と呼 ぶ 。 この地 に は仏 教 時 代 の遺 跡 と思 わ れ る小 石 造 建築 の跡 や大 石 が各 地 に残 存 して い る。 西 ス マ トラの パ ガル ユ ン(Pagaruyung)か ら来 た ウ ンプ ・ ブル ング (UmpuBelunguh), ウ ンプ ・プル ノ ン (UmpuPernong),ウ ンプ ・ブル ジ ャラ
ンデ ィ ワイ (UmpuBerjalan diW ay)お よ び ウ ンプ ・ニ ュル パ (UmpuNyerupa)の4
人 の王 子 が ス カ ラブ ラ ックを征 服 し, イス ラ ー ム教 を伝 播 した と伝 え られ る.4人 の王 子 の直 系 の子孫 は1960年 の時点 で ラ ンボ ン州 の コ タ ブ ミ (Kotabumi),タ ン ジ ョ ン カ ラ ン
(Tanjung Karang), ス ンブル ジ ャヤ ( Sum-berjaya),ス カ ウ (Sukau)に居 住 して いた と い う。[MoehammadMoeslimin n・(ユ・] ス カ ラブ ラ ックの住 民 の分散 は-I-哲 にお こ った ので は な く, 長 年 月 の間 に段 階 的 に行 わ れ た と考 え られ て い る。 移 動 の契 機 に は次 の よ うな こ とが 考 え られ る。(i)ス カ ラブ ラ ック が イ ス ラー ム教 徒 の手 に お ちて, 仏 教 徒 トゥ ミ人 (Tumi)が 同地 か ら追 わ れ た 。(ii)親 族 間 の争 い が お こ り, 一方 の側 が新 天 地 を求 めて 移 動 した っ(iiuバ ンテ ン王 国 と クナ リ(Kenali) との間 に密 接 な交 渉 が生 じた と き, 領 域 拡大 と旅 行 の便 の た め幾 組 か の家 族 を道 路 沿 い に 住 まわせ て お い たO(iv),慣習 法 (adat,)に よ る と 権 利 や権 力 は長 子 に集 中 し,年 下 の子 はイ酎 1 身分 しか 与 え られ なか った ので , 新 天 地 を開 いて 自分 達 のつ くった アダ ッ トの 中 で地 位 や 身 分 を 手 に入 れ よ うと した。[Moehammad Moesliminn.d.] ラナ ウ地 域 に ラ ンボ ン系 民 族 の祖 先 が 居 住 す るよ うにな った の は, イ ス ラー ムが 伝 わ る 前 の こ と と思 わ れ る。 この こ とは古 い集 落 の 一 つ で あ る ジ ェパ ラ (Jepara)の近 辺 に 寺 院 (candi)とよばれ る 小 石 造 建 築 物 跡 が 存 在 す る ことか らも推 測 され る。現 在 ラナ ウ湖 の ま わ りの25の ドゥス ンは マル ガ ・ラナ ウ(Marga Ranau)に属 して お り,世 帯 数5,685, 総 人 口33,924人 を数 え る。 この うち20の ドゥス ン は ラ ンボ ン系 の住 民 を主 体 と して お り,世 帯 数 3,150,人 口19,079人 を有 す る。 元来 マル ガ ・ラナ ウは, ワル ク ック (W arkuk),プ マ タ ン リブ (PematangRibu),バ ンデ ィ ンア グ
ン (BandingAgung)の三 つ の マル ガ に分 か れ て い た。 それ ぞれ の最 も古 い ドゥス ンは ス カ ジ ャヤ(Sukajaya),ジ ェパ ラ, バ ンデ ィ ン ア グ ンで あ る。 い くつ か の ドゥス ンにつ いて は そ の分 出 した もとの ドゥス ンが 分 か って い る。集 落 は元 来 ,湖 に接 近 して 立 地 して いた と思 わ れ るが , 道 路 の整 備 につ れ て ,高 い標 高 の道 路 側 の位 置- 移 って い く傾 向が み られ る。た とえ ば,グ ドン(Gedong)の 集 落 は1930 年 ご ろ に元 村 か ら3.5キ ロメー トル 離 れ て設 立 され た 分村 グ ドンパ ル (GedongBaru)と 1928年 ごろ に 設 立 され た 分 村 ス カ ブ ミ ( Su-kabumi)へ む か って移 動 が進 み,調 査 時点 に お い て は約10世 帯 だ けが 旧集 落 に とど ま って いた 。 同様 の状 況 は グ ドンの隣集 落 パ ダ ンラ トゥ (PadangRatu)に お いて もみ られ, こ の場 合は1958年 に設 立 され た3.5キ ロメー ト ル 離 れ た パ ダ ンラ トゥパ ル (PadangRatu Baru)にむ か って移 動 が進 行 中で あ るが ,グ ドンと異 な り部 落 長 (krio)は まだ もとの集 落 に居 住 して い る。 ジ ェパ ラは既 に述 べ た よ うに マル ガ ・ラナ ウで 最 も古 い集 落 の一 つ で あ る。 もとの集 落 は現 集 落 の北 西 1キ ロメ ー トル にあ った とい わ れ , ラ ンボ ンとの州 境 に近 い ス カ ジ ャヤか ら来 たパ ンゲ ラ ン ・シ ンガ ジ ュル (Pangeran SingaJuru)に征 服 され , シ ンガ ジ ュル 自身 が そ の地 に移 り住 ん だ といわ れ る。 タ ンジ ョ ンサ 1) (TanjungSari,現 在 の ジ ェパ ラ の南
東南 ア ジア研究 17巻3号 SerJMenontl \ ・1 . I .′ ノ 図2 ラナウ近辺の集落とその分村過程 酉 4キ ロメー トル ),タ ンジ ョンクマ ラ,(
Ta-njung Kemala,旧 名 Suka Rajo,ジ ェパ ラ
南 東 4キ ロメー トル), タ ンジ ョ ンステ ィア (Tanjung Setia,ジ ェパ ラ北 方 5キ ロメ ー ト ル) な どは ジ ェパ ラの分村 で あ る。 シ ンガ ジ ュル の子 孫 は ジ ェパ ラの首 長 と して の地 位 を 継 承 し続 け るが , そ の
1
5
代 まで の名前 が 伝 わ って い る。3代 め の ドパ テ ィ・ク ンバ ン ミボールⅡ (DepatiX・umbangMiborII)はパ レ ン
バ ン王 の戦 争 に加 わ って戦 死 して パ レ ンバ ン に葬 られ
,
1
0
代 め のパ ンゲ ラ ン・マ ンキ ウダ ング ラ (PangeranMangkiudaNgura)の時 代
にオ ラ ンダ の支 配 下 に入 り,
1
5
代 め の ム- マ ッ ドム ス リ ミン(MuhammadMuslimin)は現 在 オ ガ ンコム リンウル県 (Kabupaten OganKomeringUlu)の知 事 (Bupati)をつ とめて
バ トラ ジ ャ (BatuRaja)に居 住 す るが,ジ ェ パ ラの慣 習法 上 の首長 (kepalaadat)の地 位 を保 ち,
3
番 め の弟 が パ ッシ ラにな って い る。 484 現 在 の ジ ェパ ラは81
戸,6
0
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人 よ り成 るが,2
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年 前 に は72戸 ,5
0
年 前 に は43戸 か ら成 り立 っ て いた とい う。5
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年 前(
1
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6
年) に は大 火 が あ り約1
0
軒 だ け焼 け残 った が ,集 落 は 同 じ場 所 に再 建 され た 。 ドゥス ン ・ラ ンク ウニ ビス (Dusun R.an -taunipis)は マル ガ ・ラナ ウの 中 に俵 入 して い る ス ム ン ド族 の集 落 で あ る。 マル ガ ・ラナ ウ に隣接 して世 帯 数1
,
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5
,人 口9
,
0
4
5
の マル ガ・ムカ カ ウイ リル (MargaMekakaullir)が
あ る。 この マル ガ は9個 の ドゥス ンよ り成 り, 住 民 の大 部 分 は ス ム ン ドで あ る。 ス ム ン ドは さ らに北方 の パ ス マ (Pasemah)と共 通 の祖 先 を もつ といわ れ る母 系 的 な マ レ一系諸 族 の 一 つ で あ る。 各 ドゥス ン間 の距 離 は マル ガ ・ ラナ ウに お け る よ り も大 きい。 ス ム ン ドの集 落 もマル ガ ・ラナ ウにお け る と同 様 , 道路 の 近 くへ と移 動 しつ つ あ る。 た とえ ば マル ガ ・ ラナ ウ との境 界 に近 い ドゥス ン ・コタダ ラム
坪 内 :南 スマ トラ, コム リン川 流域 お よび ム シ川 下流 部 に お け る集落 形 成 史
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キ ロメ- トル は ど南 西 に入 った ドゥス ン・プ マ タ ンバ リン
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か らの移 動 に よ り成 立 した。 プ マ タ ンバ リンは この あた りの ス ム ン ドの問 で は最 も古 い集 落 で あ った といわれ,1
92
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年 ごろには3
0
軒 は どあ った が,現 在 で は す べ ての家 が移 動 して宅地 は コー ヒー園 とな り,水 田はそ の ま ま残 って い る。 さ らに北 西1
5
キ ロメー トル に位 置 して いた ドゥス ン ・プリンビ ン
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の場 合 には も とは8
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戸 ばか りあ ったが1
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年 の火災 を契機と して,北 西 の ドゥス ン ・コタバ ル
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と南 東 の ドゥス ン ・シナル マルガ
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に分 か れて新 集 落 を形 成 した。 ス ム ン ドは古 い居 住 の歴史 を も つ が,概 して移 動性 が高 い といえ る。 上 述 の古 い居住 史 を もつ 2民 族 の ほか に, 比 較 的新 しい時 期 に他 地 域 出身 の 開拓 者 の進 出が み られ る。 中で も重要 な の は平 野部 に近 いオ ガ ン川流 域 の 出身者 と ジ ャワ島か らの移 民 で あ る。ドゥス ン・ワイテ ィマ
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年 にオガ ン川 流 域 のバ トラジ ャ付近 か ら 来 た マ クル ップ(
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とその家族 に よ って 開か れ た。1
9
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年 にな って も小 集落(
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に過 ぎず ,住 民 は5
世 帯 を数 え るの みで あ ったが, その後 コー ヒー栽 培 が盛 ん に な るにつ れ て オガ ン川上 流 地 域 か ら人 口の著 しい流 入 が始 ま った. ちなみ に この付近 の コ ー ヒー樹 齢 は古 い もので5
0
年 程 度 とい う。5
0
年 前 には戸 数 は1
0
軒 とな り,小礼 拝 堂 が建 て られた。2
0
年前 には3
0
戸 ,現 在 は約6
0戸 が 中 心集 落 を形 成 して い るO他 方1
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4
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年 ごろか ら 付近 に分 村 が開 か れ る よ うにな った 。それ ら は タ ラ ン・トラ ップ(
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キ ロ メー トル),タ ラ ン ・トゥ トゥン(
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キ ロ メー トル), ク ラ ン ・サ フ ッ プ(
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キ ロメー トル)な どで, 現 在 それ ぞ れ5
0
,2
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戸 の居 住者 が あ る。 最 も遠 い コー ヒー園 は ワイテ ィマの集 落 か ら 16-2
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キ ロメー トル 離 れて ムア ラ ドゥア 郡(
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の領 域 に入 り込 ん で い る。 オガ ン出身者 の集落 と して は ほか に マル ガ ・ム カカ ウイ リル との境界近 くに,1
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3
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年 ご ろに ク ラ ン ・トラナ イ(
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が 開 か れて い る。 また マル ガ ・ラナ ウの南東 部 で は1
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年 ご ろ か ら ドゥス ン ・ダ ノ ンラヤ(
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年),ク ラ ン ・ブ ドンテ ィガ(
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年 ), ク ラ ン ・ワイ クエ(
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年 ) な どの開拓集 落 が ジ ャワ島か らの来住 者 を主 体 に開か れ るが, こ こで もオガ ン系 の開 拓 者 の混入 が み られ る。 ワイテ ィマの設 立 に少 し遅 れ て1
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年 に オ ラ ンダ人 の コー ヒー 園が 開 かれ, ジ ャワ島か ら労 働者 が導入 され て シバ トゥフ(
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に居 住 す る。 シバ トゥフの人 口は次第 に増加 し,独 立 当時 には1
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人,1
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年前 には3
,
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人 ,1
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年 には3,
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0
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人 程度 に達 した。 コー ヒー収 穫時 (4- 6月) には約 600人 の ジ ャ ワか らの季節 労 働者 の流入 が あ る。住民 は ジ ャワか らの移 住 者が 多 いた め, 出身地 へ の送 金 が しば しば な され, 中 には ジ ャワに土地 を 買 った者 もあ る。 既 に述 べ た よ うに山岳部 には シバ トゥフの はか に1
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2
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年 以 来 い くつ か の小 集 落 が ジ ャワ 人 や ス ンダ人 を 中心 と して 開 かれて い る。 人 口増加 につ れ て これ らの小 集落 は ドゥス ンと して の地 位 を与 え られつ つ あ る。 た とえば1
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3
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年 ごろに ス ンダ人 によ って 開拓 された マル ガ南東 山岳部 の ク ラ ン ・グ ヌ ンア ジ(
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年 に土 着 の ドゥス ン・ビ ラ(
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か ら独 立 して,人 口7
4
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人 , 世 帯数1
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年 現 在) の 新 ドゥス ンを形 成 した。 マル ガ ・ラナ ウ地 域 に昔 か ら水 田が あ った か ど うか は疑 問で あ る。 た とえ ば土 着 の ドゥ ス ン ・ス カ ラ ミ(
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mi
)
で は水 田東 南 ア ジア研 究 17巻3号 は60年前 に造 成 され た とい う。現 時点 で は マ ル ガ 内 に水 田 (sabah)は2,011ヘ クタール存 在 す る。水 田は原 住 の ラ ンボ ン系 お よび ス ム ン ド系 の住 民 の集 落 に は必 ず あ るが,主 と し て 山腹 部 に展 開す るオガ ンお よび ジ ャワか ら の移民 の集落 にはほ とん どな い。焼 畑 に よ る 陸 稲 耕 作 地 (°arat)は マル ガ ・ラナ ウで は 1,719ヘ クタール と記 録 され て い る。 焼 畑 は 通常 2年 間 陸稲 を栽 培 し, 同時 に植 え付 けた コー ヒーの生長 を待 つ ので あ って,現 時点 で は休 閑期 を設 けて2次 林 にな るの を待 つ とい う ことは な い 。水 田の うち4分 の1(502ヘ ク タール )は天 水 田 に近 い もので あ る。以 前 は ジ ャ ングル に放 し飼 い に して いた水牛 や牛 を集 めて水 田を足 で 踏 ませ て (ngaroh)整 地 を行 な った 。 コー ヒー園開発 のた め森林 が な くな った ので多 数 の水 牛 を放 牧 す る ことが で きず , この よ うな整地 方法 は10年 以 上 前 に姿 を消 し て,牛 に ロー ラー (pengiling)を ひかせ た り 人 力 を用 いた りす るよ うにな った。現在 採用 され て い る水 稲 品種 は,シ ャム米 (180日,収 量 1.5トン/ha),Pb5(130日, 収量 1.3トン/ ha),Pb8 (130日, 収 量 1.5トン/ha),Pb28 (130日,収 量
1
.
5
トン/ha)な ど で あ る。高 収 量 品種 が高 収量 を あ げ る ことな く採 用 され て い るの は, コー ヒー園で の労働 日数 を生 み 出す た めか も しれ な い。焼 畑 で は ス タ ンプ ン (Setambun,180日,収 量 1・5トン/ha)が採 用 されて い る。 コー ヒー国際価 格 の上 昇 につ れ て コー ヒー園 は急激 に拡大 されつつ あ る。 経 営面 積 は1世 帯 あた り1/2- クタールか ら10 - クタ ール程度 で あ って, 1ヘ クタール あた り800キ ログ ラム な い し1トンの収 穫 が あ り, 1キ ログ ラムあた り800-1,100ル ピアで売 る。 収 穫期 には ジ ャワか ら多数 の労 働者 の流入 が あ り,実 りの よい場 合 には収 穫1缶 につ いて 50ル ピアを現 金 で支 払 い, 実 りが悪 い場 合 に は 雇主 と 労 働 者 の 間 で 収 量 を2分 す る( pa-roan)。 コー ヒーの ほか に最近 で は丁 字 (ce n-gkeh)の栽 培が導 入 されつ つ あ る。 Ⅲ コム リンお よび ダヤ系 の諸 族 1. ブ ンガ マ ヤ ン(BungaMayang) ブ ンガ マ ヤ ンは マル タプ ラ(Martapura)の 南西 に コム リン川 に沿 って展 開す る六 つ の ド ゥス ンか ら形 成 され る人 口11,788人 (1978年1
月 現 在) の マル ガで あ る。最 も古 い集落 はドゥス ン・トラ ンバ ワ ン (DusunTulangI∋
a-wang)と ドゥ ス ン ・ヌ グ リ ラ トゥ(Dusun NegeriRatu)で, その成 立 に関 して 次 の よ うな 伝 説 が あ る。 西 ス マ トラ の パ ガル ユ ン (Pagaruyung)に住 んで いた 天 界 か ら降 った スル ワ ンワ ン (Selewangwang)とい う 王 女 の子 孫 が, リワ ・クル イ (Liwa-Kerui)地 方 を経 て ス カ ラブ ラ ック-移 住 した。彼 らは4 人 兄 弟 で, それ ぞれ の 名を イ ン ドラガ ジ ャ (IndraGajah),プル ジ ャ(Perja),スル ンバ シ 486 (Selembasi),ギ リギ リ (Gili-Gili)とい った。 長 兄 イ ン ドラガ ジ ャには スル マ ヤ ン(Sele ma-yang)とい う娘 が いて, ラ トゥサ リガデ ィ ン
(RatuSariGading)とい う名 の ブギ ス人 と結
婚 し10人 の息子 を もうけた。10人 の息子達 は コム リン川 沿 い に新天地 を求 め,メナ ン川 (ト ラ ンバ ワ ン上 流 約20キ ロメー トル, 現 在 の ド ゥス ン ・ダ マルパ ラDusun DamarParaの 下 ) に達 す る とそ こに小 屋 を建 て焼 畑 を耕 作 した。 その うち彼 らは現 在 の ブ ンガ マ ヤ ンに 肥 沃 な 土 地 を見 出 した。 そ こには ア ブ ン人2) が先 住 して いた ので戦 争 を しか け彼 らを放 逐 し,現 在 の ドゥス ン・サバ リオ(DusunSabah
Lioh)の川下 に クタ ビ ン トル(KutaBintor)と
2)言語起源は同系であるが,分離の時期が異なる
坪 内 :南 スマ トラ, コム リン川 下 流 域 お よび ム シ川 流 部に お け る集 落 形成 史 図3 マルガ ・ブ ンガマヤンの主要集落 い う集 落 をつ くった。10人 の兄 弟 の うちプ ヤ ン・プ ム カ ス ム ヌ ン(PuyangPemukaSeme -nung), プ ヤ ン ・パ モ ン ジ ャ ガ ン (Puyang Pamong Jagang), プ ヤ ン ・パ テ ィ ドマ ン
(PuyanPatiDemang),ウ ンパ ン ・サ ンラ ト
ゥ (Umpan Sang Ratu)お よ び ラ ジ ャマ ス
(RajaMas)は の ち に トラ ンバ ワ ンを, プ ヤ ン ・ トゥア ンジ ャテ ィ ク ラ マ ッ ト(Puyang TuanJatiKeramat),プ ヤ ン ・ミナ ック ドパ
テ ィ(PuyangMinakDepati),ウ ンプ ア ン ・
ガ ラ カ ン プ ミ(UmpuanNgaraka,n Bumi), キ ア イ ・ア ラムサ クテ ィ(KiAyiAlam Sakti)
お よび ウ ンプ ア ン・パテ ィス ンガ ユ ン(
Ump-uan PatiSengayun)は ヌグ リラ トゥを設 立
した 。 この ほ か に プ ル ジ ャの子 孫 プ ヤ ン ・バ テ ィ ン トバ (PuyangliatinToba)は へ ドゥヤ ン(Heduyang)とい う集 落 を つ くったが , そ の住 民 は の ち に トラ ンバ ワ ンとバ トラ ジ ャブ ンギ ン(Baturajaliungin)に移 って 廃 村 とな った 。 ジ ャ ワ島 の マ ク ラム王 国 の認 可 を得 た 者 が三 つ の ドゥス ンの首 長 とな る ことに な り, トラ ンバ ワ ンの ラ ジ ャマ スが この資 格 を勝 ち 取 った 。 そ の後 , 住 民 の3分 の2は新 天 地 を 求 めて 再 び 移 動 し, ラ ンボ ン州 バ タ ンハ リ (Batanghari) 川 の 支 流 ス ン カ イ川 (W ay Sungkai)に ドゥス ン をつ くって 住 み, そ こ に もブ ンガ マ ヤ ンとい う名 が 付 け られ た とい
う。
ラ ジ ャマ ス に始 ま る首 長 は,第 2代 パ ンゲ ラ ン ・ラ ジ ャブ ング ア サ ン (Pangeran Raja Penguasan),第 3代 パ ンゲ ラ ン ・チ ュチ ュ ヌガ ラ (PangeranCucuNegara),第 4代 パ ン
ゲ ラ ン ・プ ム カ チ ュニ (Pangeran Pemuka
東 南 ア ジア研 究 17巻3号
30代 に至 るまで は知 られて いない。第31代 は
パ ンゲ ラ ン ・ドパ テ ィ(PangeranDepati,称 号) とだ け記録 され,32代パ ンゲ ラ ン ・ムナ ンデ ィジ ャガ ッ ト(PangeranMenangDij
a-gat)以下 現 在 に至 るまで各人 の 名が記 録 され て い る。現 在 のパ ッシ ラは1969年 の選挙 に よ って その任 に就 いた者 で,第46代 に当た る と され る。前 代 (45代) のパ ッシラは44代 パ ッ シ ラの子 で あ り,41代 と42代 のパ ッシラは親 族 同士 で あ った。 また35代 の ドパ テ ィ ・ドマ
ン(DepatiDemang)の時代 に オ ラ ンダ の統
治 が始 ま った とい う。 トラ ンバ ワ ンは現 在 約50戸 か ら成 る集 落 で あ るが,20年前 には30戸,50年前 には20戸 で あ った といわれ る。100年前 には10-15戸 しか な か った と推 測 され て い る。 この地 域 には1973 年 ごろか らジ ャワ人 が入 り込 む よ うにな り, トラ ンバ ワ ンの場合 には彼 らは プ ドング ン ト ン (Bedeng Genteng)お よび ス リマ クムル (Srimakmur)の小 集落 をつ くって住 み,現 在 そ の数 は70世帯 に達 してい る。 これ らの ジ ャ ワ人 の小 集 落 は行 政 的 には ドゥス ン ・トラ ン バ ワ ンの下 に入 る。 トラ ンバ ワ ンで は20年 前 には水 田は耕作 さ れ ず,焼 畑 に よる陸稲耕作 を行 い毎年 新 しい 土地 を開 いて いた とい う。焼 畑 は現 在 も行 わ れ て い る。焼 畑 にお け る陸稲 の ほか に,常 畑 也 (kebun)を用 いて, コー ヒーお よびバ ナ ナの栽 培 が行 わ れて きた。水 田耕作 が行 われ る よ うにな った の は ジ ャワ人 の影響 に よ る。 ジ ャワ人 は くわ (cangkul)を用 いて 天 水 田
(sawabtadahhujan)を耕作 す るが, こ の 方
法 は近年 原住 の住 民 に も採 用 され るよ うにな った 。 外 来 者 の来住 は上述 の よ うに ドゥス ン近 辺 に もみ られ るが, 開拓地 と して よ り重 要 なの は既 存 の集落 か ら離 れた未 利 用地 で あ る。 ド ゥス ン ・ジ ャヤプ ラ(Dusun
J
ayapura)は ト ラ ンバ ワ ンか らの小 道 を20キ ロメー トル東 に 488 歩 い た位 置の コム リン川支 流部 に開か れ た新 集 落 で あ る。 この開拓 地域 の草分 けは, オガ ン川 中流部 の サ ウ ンナガ (Saungnaga)か ら 来 た オガ ン系 の住 民 で,1945年 に ク ラ ン ・リンダ ッ ト(TalangLingut)に 入 植 した とい う。 その後 ,他 の オガ ン系 の人 々に よ って ワ イサ ラ ック (W aySalak)が 開 か れ, の ちに これか ら ス ラジ ャ (Seraja),ガ ガル プキ ッ ト (GagarBukit),ス マ ンカ, カ ンパ ン( Kam-bang)な どの小 集落 が分 出す る。第3番 めの 集 落 は コム リン川 の チ ャ ンパ ンテ ィガ( Can-pangTiga)か らの 開拓 者 に よ って 開 か れ た ム ンチ ャル (Mencar)で あ る。 ジ ャワ系 の 自 主 移 民 (transmigrasispontan)の開拓村 はず っ と 遅 れ て10年前 に ク トゥワイ (Ketuwai) が 開か れ, 次 いで ア ス ラマ (Asrama)が で き, 2年前 に カ ンキ ラ ン(Kankilan),1年 前 に シ ドリジ ョ (Sidorijo)が 開か れた 。 この よ う な人 口の増 加 につ れ て15の小 集落 を含 む これ らの開拓村 は, リング ッ トを 中心集 落 と して 1977年 10月 に ドゥス ン ・ジ ャヤプ ラと して行 政上 の地 位 を与 え られた。1978年 1月現在 の 同 ドゥス ンの人 口は2,149人 で あ る。住 民 の 主 生 業 は コー ヒー栽 培 で あ って,小 集 落 が分 散 して い るた め住 居 と コー ヒー箆 との距 離 は 遠 くて も
1
キ ロメー トル程 度 とい う。米 の生 産 は少 な く,米 は こ こで は購 入 され て い る。 2. ル ンカ ヤ ップ (Lengkayap) コム リン川 上 流 部 には ラ ンボ ン系 の言語 の 方 言 を 話 す ダ ヤ(Daya)系 の集落 が分 布 し, ムア ラ ドゥアの町 が その 中心 とな って い る。 マル ガ ・ル ンカ ヤ ップは ム ア ラ ドゥアか らし ば ら くコム リン川 を下 った の ち支 谷 沿 い にオ ガ ン川 の集 水 域 にぬ けて そ の支 流 ル ンカ ヤ ッ プ川 (AirLengkayap)に沿 って展 開す る八 つ の集落 ドゥス ンよ り成 る。最 も古 い集 落 は ヌ グ リラ トゥ(NegeriRatu)で あ る。各集 落 は その傘下 に多 くの仮小 屋 集落 を有 し,最 も遠坪 内 :南 スマ トラ, コム リン川 流 域 お よび ム シ川 下 流 部 に お け る集落 形 成 史
い場 合 本 村 か ら15キ ロメー トル も離 れ て焼 畑 を 開 き,陸稲 ,ピー ナ ツ (kacangtanah)お よ び他 の豆 類 を 1- 3年 の問 栽 培 し, 同 時 に植 え た苗 木 の生 育 を待 って コー ヒー, ゴム 園 な どへ の転 換 を行 な って い る。 2, 3年 前 か ら 丁 字 が導 入 されて い る。他 方 , 最近 で は ジ ャ カル タ, パ レ ンバ ンな どへ の移 動 者 も多 く, マル ガ ・ル ンカ ヤ ップ 出身 の ジ ャカル タ居 住 者 は26人 を数 え る とい う。 マル ガ ・ル ンカ ヤ ップ の祖 は ム ア ラ ドゥア
の マル ガ ・ トゥル ンア マ ン (MargaTulung
Aman)に 居 住 し た ウ ンプ ・ス ・7ラクア ン
(Umpu Semala Kuang)で あ るO ウ ンプ ・ス マ ラ クア ンの5人 の子 の ひ と り り /プ ・ス ラ ワ ン(UmpuSerawang)にふ た りの子 が あ り, そ の ひ と りは ス ス ンゴ (Sesungoh)で ム ア ラ ドゥア の 近 くの マル ガ ・ブ ミア ダ ン (Mar -galiumiAgung)の祖 とな り,他 の ひ と りス サ ウ ック (Sesawuk)が ル ンカ ヤ ップ の 祖 と な った 。 す な わ ちスサ ウ ックか ら数 えて 6代 め の ラ トゥジ ュタ ン(Ratu
J
utan)が ル ンカ ヤ ップの実 際 の草 分 け とな った の で あ る。 ラ トゥジ ュタ ンか ら数 えて5代 め の ア リ(Ali;PangeranRinggoyudaTuba)は ジ ャワの バ
ンテ ンの政 府 か らマル ガ ・ル ンカ ヤ ップ の 首 長 と認 め られ た とい わ れ,その子 バ イ ク(Ba -iq;PangeranRinggoyudoMudo)は オ ラ ン ダ 植民 地 政 府 か らパ ッシ ラと して認 め られ た とい うOバ イ クに続 い て その子 タ ウ ィ(Tawi) が オ ラ ンダ統 治下 で1878年 にパ ッシ ラとな っ た 。 現 在 のパ ッシ ラは 首長 の 系 譜 の上 か らは 18代 め に当 た り, ル ンカ ヤ ップ に移 動 した ラ トゥジ ュタ ンか ら数 え て12代 め に 当た る。 パ ッシ ラの タ イ トル をつ ぐ者 と して は7代 め で あ る。 首 長 の地 位 は原 則 と して 長 男 に よ って 継 承 され るが ,現 在 のパ ッシ ラの場 合 , 父 の 兄 の夫 折 の た め父 が そ の職 に就 き, そ の長 男 で あ る現 在 の パ ッシラに継 承 され て い る。 3・ チ ュ ンパ カ (Cempaka) チ ュ ンパ カ はパ レ ンバ ンか ら道 路 で 118キ ロメー トル離 れて コム リン川 左 岸 に位 置す る 人 口4,612人 (1978年) の大 きな ドゥス ンで , マル ガ ・ス ム ンダ ワイス クⅡ (MargaSeme n-dawaiSuku II)に属 す る。 土 地 の イ ンフ ォ ー マ ン トに よ る と, 住 民 の起 源 は ス カ ラブ ラ ックに求 め られ る。 西 暦800年 ごろパ ンゲ ラ
ン ・プ カ ヤ (PangeranPukaya)に 統 治 され て いた チ ュ ンパ カは, ア ブ ン人 の攻 撃 を うけ, パ ンゲ ラ ン ・プ カ ヤを 含 む住 民 の多 数 が 殺 さ れ ,残 った 者 は約10キ ロメー トル離 れ た タ ラ ン トンガ (TalangTengah)- 逃 げた とい う。 そ の後 チ ュ ンパ カ はパ ンゲ ラ ン ・プ カ ヤの子
リガ リガ (Liga-Liga)に よ って再 興 され た。
1400年 ご ろに ア チ ェか ら来 た3)スル タ ン ・サ イ ド- ミム (SultanSaidHamim)が6キ ロ メー トル上 流部 の ドゥス ン ・チ ャ ンパ ンテ ィ ガ(CampangTiga)地 域 で イ ス ラー ムを 広 め, 1450年 ご ろに は ドマ ックか ら来 た サ イ ドダ ル ス(SaidDarus)が約 15キ ロメ ー トル 上 流 支 流 沿 いの ア ドゥマ ニ ス (Adumanis)に と ど ま りチ ュ ンパ カ に対 して も宗 教 的 な影 響 を与 え る。1500年 ご ろチ ュ ンパ カのパ ッシ ラ ・リア パ ンジ (PasirahRiaPanji)は ア ドゥマ ニ ス か ら来 た ル バ イ ・サ ン ピア ン (Le baiSam-pian)に イ ス ラー ムの 強 化 を依 頼 した 。リアパ ンジはル バ イ ・サ ン ピア ンの妹 と結 婚 す るが , 彼 らの問 に は子 が 生 まれず , の ち に第 2妻 を 迎 えて そ の子孫 が チ ュ ンパ カ に住 み続 け る こ とに な る。 チ ュ ンパ カの集 落 はず っと昔 は現 在 の集 落 の下 流 部 対 岸 の崖 上 に あ った が ,1500年 ごろ に現 集 落 の下 流 部 - と移 動 した 。 この集 落 に 悪 鬼 が 多 く現 われ た た め1882年 に現 在 の場 所 に移 った 。 他 説 には オ ラ ンダ植 民 地 政 府 が 住 民 を ま とめて 居住 させ るた め に移 動 させ た と 3)チ レボンか ら来たという説 もある。
東 南 ア ジ ア研 究 17巻3号 い う。 ドゥス ン ・チ ュ ンパ カは現 在12の小 区 分 カ ンポ ンよ り成 り立 って い るが,最 も古 い の が カ ンポ ン
6 (
Ka
mpo
ng6
,
旧 名Ka
m-po
ngTe
ngga
h)
で あ って,集 落 は時代 とと も に,上 流 ,下 流 お よび川 か ら離 れた方 向へ と 広が って い った。 ドゥス ン ・チ ュ ンパ カか ら 1890年 に は カ ンク ン(
Ka
ngkung
,上 流 左 岸 12キ ロメー トル),1900年 に ウ ラ ックパ ル(
Ul
akBa
r
u
,上 流 左 岸8キ ロメー トル),1905 年 に グ ヌ ンジ ャテ ィ(
Gunung
J
a
t
i
,上 流左 岸 6キ ロメー トル) な どが分村 と して独 立 した とい う。他 説 に よ る とチ ュ ンパ カの分村 は50 年 はど前 にで きた ス カ ブ ミ (下流左 岸7キ ロ メー トル)の みで あ って,ウラ ックパ ル は70年 前 ,グ ヌ ンジ ャテ ィは40年前 に ク リパ ン(
Ku-r
i
pa
n
,チ ュ ンパ カの上流 左 岸7
キ ロメー トル, 1700年 ごろ設 立) か ら分離 独 立 した とい う。 チ ュ ンパ カ にお け る稲 作 は昔 は焼 畑 にお け る陸稲 耕 作 の みで あ った。 パ ンゲ ラ ン ・サ レ(
Pa
nge
r
a
nSa
l
e
h)
の時代 (1800年 ごろ)に盛 土 を して その上 に ドゥク(
duku)
や ドゥ リア ン(
dur
i
a
n)
な どの果樹 を植 え,低 い土地 に水 稲 を植 え た といわれ る。1900年 ごろには この よ うな高 み に柿 が植 え られ たが ,採 算 が合 わ ず10余年 で放 棄 され た。 これ らの高 み はそ の 後 この地 域 の水 深 が大 き くな って湿地 にな っ て しま った。 上述 の盛 土 は低湿 地 の水 深 の浅 い部 分 の利 用方 法 の一 つ と考 え られ る。 他 説 に よ る と この マル ガ にお け る低 湿 地(
l
e
ba
k)
利 用 の水 稲 耕 作 開始 は1870年 代 といわれ, も う一 つ の説 で は チ ュ ンパ カに低 湿地 利 用 稲作 が入 った の は70年 前 で, その技 術 は下 流 の プ ガ ガ ン(
Pe
ga
ga
n)
を 見 習 った もの とい う。 1918年 には ス ン ガ イ ・パ ンゲ ラ ン(
Sunga
i
Pa
nge
r
a
n)
とよばれ る水路 が 開 か れて そ の両 側 の土 地 に水 稲 が 植 え られた。1950年 には ラ ンタ イ ・パ ンジ ャ ン(
Ra
nt
a
iPa
n
j
a
ng
)
とよ ばれ る水 路 が3キ ロメー トル にわ た って 開整 され,両 側 の森林 が伐 採 され て減水 期 稲 作 を 490 行 うべ く水 田がつ くられ たO さ らに1964年 に は ス ンガ イ・ピ リック(
Sunga
iPi
r
i
k
)
とい う 水 路 が 開撃 され て い る。水 路 の近 くには仮小 屋 が建 て られ,人 々は老 人 子 供 を本 村 に残 し て 1回 につ き1- 3カ月 ,合 計 して6カ月 程 度 そ こに滞在 し耕作 に従 事 す る。1935年 ごろ 約 7キ ロメー トル離 れた場 所 につ くられ た 出 作小 屋 集落 カ ンポ ン・ダ ナ ウ(
Ka
mpo
ngDa
-na
u)
にはチ ュ ンパ カ, ス カ ブ ミ, チ ャ ンパ ンテ ィガ な どの住 民 約 200世 帯 が仮 住 して お り,1975年 ごろ3- 4キ ロメー トル の場 所 に 開 か れ た ウ ンブ ラ ン ・ム ラ ク サ(
Umbl
a
n
Me
r
a
ks
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)
には約60世 帯 が住 んで い る。 若年 者 は本 村 に家 を もたず, 仮小 屋 に居 住 して資 金 を貯 え る ことが あ る。 水 田 は2′-3ヘ クタール もつ のが理 想 的 と され るが,最 低 限 1ヘ クタール あれ ば平年 作 で200カ レ ン(
ka
r
e
n
,1カ レンは約10キ ログ ラムJ の もみ米 を得 て ,半 分 を 自家 消 費 に他 の半 分 を売 却 用 にあて る ことが で きる。 慣 習 法 に よれ ば男子 の みが土 地 の相 続 を うけ,兄 弟 の問 で均 分 され るのが原 則 で あ るが , と き には長 男 だ けが土 地 を得 る。後 者 の場 合 ,吹 男以下 は マル ガか ら土 地 を与 え られ3年 に し て 田 になれ ば私有 化 す る ことが で き る。 チ ュ ンパ カで は20世 紀 に入 って か ら稲 作 の ほか に さま ざまな 作 物 が試 み られ て き た。 1910年 に は最初 の ゴム園が 開 か れ,1929年 , 1960年 に もゴム園がつ くられ た。1920年 ごろ には楕 榔 子 が試 み られ た。1957年 にはみか ん(
j
e
r
uk)
,1973年 には丁 字 の 栽 培 が導入 され た。 みかん栽 培 には現 在 で は しば しば ジ ャワ人 が 雇 われ果 樹 園 に建 て た仮小 屋 に住 んで作業 を 行 な って い る。 チ ュ ンパ カの人 口は既 に述 べ た よ うに1978 年 現在 で 4,612人 で あ る。 ドゥス ン内 の家屋 数 は約550で あ って,20年 前 には500戸 で あ っ た とい う。10年前 の ピー クを経 て家屋 数 は以 後 減少 にむ か って い る と もいわ れ る。50年 前坪 内 :南 ス マ トラ, コム リン川 流 域 お よび ム シ川 下 流 部 に お け る集 落 形 成 史
の家屋 数 は200戸,100年前 には30戸 に過 ぎな か った と伝 え られ る。近 年 で はパ レンバ ンや ジ ャカル タ へ の 一 時 的移住 (ngerant au=me-rantau)が 多 く,チ ュ ンパ カ出身者 の70%が他 地 に居住 し,30%が村 に とどま って い るとい われ る。 4. カ ン ク ン カ ンク ンは チ ュ ンパ カか らコム リン川 を約 12キ ロメー トル湖 行 した左 岸 に展 開す る同一 マル ガ に所属 す る集落 (ドゥス ン) で あ る。 ここで はチ ュ ンパ カにお いて得 られ た情 報 を 補充 す る意 味で この集 落 の成 立 につ いて記 録 す る。 チ ュ ンパ カに居 住 す る この マル ガのパ ッシラによれ ば, カ ンク ンは1890年 に独立 し た チ ュ ンパ カの分村 で あ る とい うが, カ ンク ンの住 民 に よれ ば6世代 前 に設立 され た とい う。 他 説 に よ ると, カ ンク ンは チ ュ ンパ カ の首長 パ ンゲ ラ ン ・プカ ヤの支配下 にあ った とい う。 住 民 の大 部 分 は ス カ ラブ ラ ック起 源 で あ り,4分 の1弱 は ブギ スの子孫 ,少数 が ア ラブの子 孫 で あ ると信 じ られ て い る。 彼 ら が どの血統 を ひ くか は手 指 の形, 身長 ,鼻 の 高 さな ど によ って識 別 で き ると考 え られて い る。 カ ンク ンは もとは 現在 の集落 か ら1.5キ ロ メー トル離れ た と ころに位 置 して いたが,火 事 で全焼 して,現集 落 の対岸側 の ス ンガ イ ・ カ ンク ン(SungaiKangkung)とよばれ る コ ム リン川 支流 沿 い に新集 落 をつ くった。1900 年 ごろに ス ンガ イ ・カ ンク ンが 閉塞 したた め 人 々は コム リン本 流沿 いの現集 落 に移 った。 1918年 ごろには カ ンク ンか ら0.5キ ロメー ト ル上 流 の右岸 に家 が建 ち始 め,1952年 には こ の集 落 は ドゥス ン・ス カ ヌダ リ(Dus unSuka-negeri)と して独 立 した 。現 在 の カ ンク ンの人 口は3,356人 ,スカ ヌグ リの人 口は1,797人 で あ る。 現 在 ドゥス ンノ・カ ンク ンの家 の数 は450 戸 で あ るが,20年 前 には約400戸 で あ ったO50 年 前 には200-250戸,100年 前 は100-150戸 で あ った といわ れ て い る。 カ ンク ンの農 業 は1800年 以前 は焼 畑 に よ る 陸稲耕 作 で あ って,雨期 に栽 培 を行 い耕作地 を移 動 した。1800-1916年 の間 には天水 田耕 作 が行 われ た とい う。1916年 ごろか らコム リ ン川 が 浅 くな り始 め多 くの分 流 をつ くるよ う にな った ので, 水 のつ く土 地 (ルバ ック-1ebak)が 広 くな った。 ルバ ック にお け る水 稲耕作 が始 め られ た の は この ころか らで あ る。 現 時点 で は集 落 に比較 的近 いルバ ック 約840 - クタールが利 用 されつ くした ので,今 後 は 約 7- クタール離 れ た湿地 林 に開 田す る必要 が あ る。 土地 不足 が現 われ始 めて い る とは い え,耕作 面積 の標 準 は水 田2- クタール,果 樹 園3- クタール,計 5- ク タール程 度 と考 え られ て い る。昔 の焼 畑 に よ る陸稲 の収量 は, 1- クタール あた り1トン, 天水 田の場合1 -1.5トンで あ ったが,ルバ ック耕作 で は収 量 が 増加 して2.15トンにな った といわ れ て い る。
5. マル ガ ・ブ ンク ラ(MargaBengkulah)
マル ガ・ブ ンク ラはパ レ ンバ ンか ら約100キ ロメー トル南方 に コム リン川 の分 流 アイル ・ ブ ンク ラ(AirBengkulah)に沿 って展 開す る
コム リン族 の集落 か ら成 り立 って い る。 この あた りか らコム リン川本 流沿 い には マ レ一系 諸 族 の居住 が始 ま り,同一郡 (kecamatan)に 属 す る 隣 接 の マル ガ ・プガガ ンウル ス ク Ⅰ
(MargaPegaganUluSukuⅠ)はプガガ ンと
よばれ るマ レ一系住民 が居 住 して い る。 村 人 に よれ ば マル ガ ・ブ ンク ラは270年 ほ ど 前 に スカ ラブ ラ ックを起源 とす る祖 先 に よ っ て開 か れ た とい う。 これ らの祖先 は ドゥマ ッ クか らの来住 着 の影 響 で既 に イス ラー ムに帰 依 して いた。彼 らは五 つ の筏 に分乗 して コム リン川 か らブ ンク ラ川 に入 り, そ こに ヌグ リ ラ トゥ (現在 のPulauGemantung), タ ンジ
東 南 ア ジア研 究 17巻3号
Baru),コタ ブデイ (KotaBudi,現在 の Kota
Bumi),タ ンジ ョンラガ (TanjungLaga)お
よび ウ ラ ックル パ ル (Ulak Lebar,現 在 の Ulaklialam)の五 つ の集 落 (umbul)をつ く った。 これ らの集落 はの ちに10個 の分村 を形 成 して現在 で は マル ガ 内 には
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の ドゥス ンが あ る。 古 い集落 の一 つ タ ンジ ョンマ スは もとは よ り下 流 部 に位 置 して いたが,火事 で焼 失 した た め や や 上 流 - 移 動 してテ ィウバ ラ ック (Tiu Balak- 大 きい村) とい う新 しい名 を 付 けた。 と ころが この集 落 には悪 鬼 が 出没 し た ので さ らに上 流 - と移 動 し, そ こを タ ンジ / \ ・-・・ ・・、
・ ・ ・-1
\ ノ -492 ヨンパル (TanjungBaru)と名付 けた。 これ らの小移 動 の時期 は明 らか で は な い。 タ ンジ ョンパ ル には361戸 の家 屋 が あ るが ,20年 前 には2
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-2
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戸 ,5
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年 前 には1
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戸,
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年 前 には30- 50戸 で あ った と住 民 は推定 す る。 最近 で は人 口増加 に と もな いパ レンバ ンへ 移 住 す る者 も若 干 あ るが,大部 分 は教 育 と資本 の不 足 のた め村 に とどま って い る。 この あた りで はルバ ックにお け る稲作 が古 くか ら行 わ れて きた とい う。 ルバ ックに水 路 をつ くると 高 み (pematang)が で き るので そ こで植 え付 けを行 な った。 この方法 は よ り下 流 部 で み られ るよ うな減水期 の低湿 地 その も 図4 マルガ ・ブンクラの集落 とその分村過程坪 内 :南 スマ トラ, コム リン川流 域お よび ム シ川下流 部に お ける集落形成 史 のを低 い まま に利 用 す る耕作方法 とは少 し異 な って い る可 能性 が あ る。 ルバ ックの はか に 畑地 が あ って,雨期 を利 用 して 陸稲 が育 て ら れ る。 しか し, 陸稲 は10年 ほ ど前 に始 め られ た に過 ぎず,雑 草が生 え るた め収 量 はルバ ッ クの3トン/haよ り も10%程 度低 い。手 を加 え ない湿地林 (hutanrawang)は, 2- 3キ ロメー トル の位 置 に少 々残 って い る。耕 作面 積 は 1世 帯 当た り1- 2ヘ クタール は確保 さ れて い るが,土地 が足 りな くな って きたので 将来 は畑地 を開 くことを考 えて い る。米 の ほ か にオ ラ ンダ 植 民 地 政 府 の 割 り当て によ り 1918年 に ゴムが 植 え られたが,樹 齢 が古 くな って今 で はか え りみ る者 もない。50年 前 には 多 くの者 が横榔 子 を植 えた が, これ らは次 第 に果樹 に取 って代 わ られた。 Ⅳ コム リンJllおよび オ ガ ン川下流域 の諸 族 1・ カユ ア ダ ン(KayuAgung) カユ ア ダ ンはパ レ ンバ ン下 流 の プ ラジ ュか らコム リン川 を約70キ ロメー トル さか のぼ っ た地点 の一 つ の マル ガで,道 路 沿 い にはパ レ ンバ ンか ら40キ ロメー トル の場 所 にあ る。住 民 の大 部分 は ア ブ ン系 で一 つ の ドゥス ンのみ コム リン系 の祖先 を もつ 。 ラ ンボ ン州 に展 開 した ア ブ ン人 と南 スマ トラ州 に発 展 した コム リン人 の二つ の ラ ンボ ン系民 族 が この地点 で 出会 うので あ る。 ア ブ ン系諸 集落 の祖先 は ラ ンボ ン州 の ブ ン ガ マ ヤ ン(BungaMayang)出 身 の ム コ ドゥ ムム タル ア ラム(Mekodum MutarAlam)で, 彼 は コム リン川 沿 い に居住 地 を求 め よ うと し た が,戦 い に 破 れ て マチ ャ ック川 (Sungai Macak)を経 て コム リン川 の支流 ル ンプ イ ン 川 (SungaiLumpuing)流域 に達 しそ こに村 を 開 い た。 そ の 曽 孫 ステ ィア ラジ ャデ ィヤ (SetiaRajaDiyah)の時代 に これ まで の集 落 コタパ ンダ ン (RotaPandan)の ほか に ブル マ ワ(BuluhMawa)と い う 集落 が 開 かれ, その繁 栄 につ れ て ステ ィア ラジ ャデ ィヤ 自身 もそ こへ居 を移 した。彼 の娘 - ンダ ックブ ウ ェ ック姫 (PuteriHandakBuwek- 白髪 姫 ) は, ラ トゥア ジ (RatuAji)か ら来 た ス ク ミ ル ン (SukuMilung)神 の化 身 と伝 え られ る
ジ ャラ ンア ンカ タ ン (JarangAngkatan)と
結 婚 し, ジ ャラ ンア ンカ タ ンが次代 の首長 と な った。他 方 , ステ ィア ラジ ャデ ィヤの弟 ス テ ィア タ ンデ ィ ン(SetiaTanding)は プ マ タ ンビダ ラ(PematangBidara)に集 落 を開 き, その子 ステ ィア ク ジ ャ ン (SetiaKujang)は コタブ シ(KotaBusi)とよばれ る集落 をつ く った。 その孫 ステ ィア ラ ンダ イ (Setia Lan-dai)の時代 に この地 方全 域 に大水 が あ った の で, ステ ィア ラ ンダ イは一族 を ひ きいて現在 の ドゥス ン・プダ マ ラ ン(DusunPedamaran)
の上 流部 に居 を移 して そ こを プ リギ (Perigi) と名付 けた。 兄 ステ ィア ラジ ャデ ィヤの家 系 で は同時代 の 首 長 は ブ ンク ック(Bungkuk) で あ ったが ,彼 の村 は ム ス ジ (Mesuji)のバ タ ン- リ に 移 って タ ンジ ョンブ ンギ ン ( Tan-jungBungin)と名付 け られ た. その子 プ -ヤブ ミムダ (PunyaBumiMuda)の時代 に 人 々は タ ンジ ョンブ ンギ ンか らプ リギ- と合 流 した 。ステ ィア ラ ンダ イの子 ジ ャナ (Jana) は さ らに新村 を開 いて コム リン本流 沿 い に現 在 の プ リギ (同 名) を設立 した。 その ころ コ ム リン川 の よ り下 流部 キ ジ ャ ン (Kijang)の バ トゥハ ンパ ル (BatuHampar)に居 住 して いた トゥア ン・プガ ドゥ (TuanPegaduh)の 一 族 が, 彼 の娘 ダ ヤ ンス カ ラ姫 (Puter
iDa-yang Sekara)とジ ャナの子 ス ラパテ ィ(
Su-rapati)との通 姫 を機 に プ リギ の近 くに移住 し,カユア グ ンの集落 をつ くった。 トゥア ン・
東南 ア ジア研 究 17巻3号 プ ガ ドゥの家 系 は 曽祖 父 ラジ ャ ・ジ ュ ング ッ ト(RajaJunggut)か らの 名前 が 伝 え られ て お り, ラジ ャ ・ジ ュ ング ッ トの時 代 には既 に バ トゥ- ンパ ル に居 住 して いた とい う。 彼 ら は ス カ ラブ ラ ック起 源 の コム リン族 の一 派 と 考 え られ る。 コム リン河 岸 に設 立 され た二 つ の ドゥス ンが 良 い場 所 を 占めて い るの を知 っ て , ブ ンク ックの息 子 プ ニ ャブ ミムダ は新 プ I)ギ の南 (上 流 部 )に コ タ ラ ジ ャ (RotaRaja) を 開 いた 。他 の息 子 プル ブ ジ ャヤ(Perbujaya) は カ ユ ア ダ ン の対 岸 に ス カダ ナ (Sukadana) を 開 いた。 コ タ ラジ ャ か ら は ジ ュア ジ ュア (JuaJua)が 分 岐 す る。 また , 前 述 の ジ ャナ の息 子 ス ラパ テ ィ の下 に, クダ トン (
Keda-ton),バ ク(Paku),ム ング ンジ ャヤ(Me
ngun-jaya),シダ クル サ (Sidakersa)の各 ドゥス ン が 創 立 され た。 上 述 の九 つ の ドゥス ンは それ ぞ れ の首長 を もち,彼 らは ドパ テ ィ(depati)とい う称 号 で よば れ た。 この よ うな状 態 にあ った これ らの 村 落 群 を さ して,人 々は モル ゲ ・シウ ェ(Mor -geSiwe)す な わ ち 「九 つ の マル ガ」 と よん だ 。 この ことは各 集 落 の独 立 性 が か な り高 く, 令 日の マル ガ に相 当す る統 一 的政 治 組 織 は な く, 現 在 よ り もず っと小 規 模 の ドゥス ンが その ま ま一 つ の マル ガ と考 え られ て いた ことを示 し て い る。パ レ ンバ ン大 侯 (SunanPalembang) は この地 域 の様 子 を知 って 支 配 下 に加 え, ス カダ ナ の 首 長 ラ ジ ャ ・イ クタ ンムダ (Raja lkutanMuda)を この村 落 群 全 休 の 首長 に任 じた 。 ラ ジ ャ ・イ ク タ ンムダ の後 継 者 は甥 の マ- ム ッ ド(Machmud)で, マ- ム ッ ドは そ の 子 ジ ュア ジ ュア の 住 人 ク マ ラ イ ング ラ (Kemalalnggra)に よ って継 承 され る。 クマ ライ ング ラは オ ラ ンダ植 民 地 政府 に よ って任 命 され た最 初 のパ ッシ ラとな り,
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年 か ら1
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年 まで そ の任 にあ った。1
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年 以 降現 在 に至 る までパ ッシ ラの地 位 は12人 の人 物 に よ って 占め られ た が ,在 職 期 間 の最 長 は4
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年 ,4
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最 短 は5カ月 で あ った。 カユ ア グ ン地 域 の九 つ の ドゥス ンは, そ の 後1
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世 紀 の オ ラ ンダ統 治 時代 に開 か れ た ドゥ ス ン ・チ ンタ ラ ジ ャ (DusunCintaRaja)を 加 え , さ らに マル ガ の行 政範 域 に マ レ一系住 民 よ り成 るチ ュ リカ (Celikah)お よび キ ジ ャ ンウル (KijangUlu)の二 つ の ドゥス ン を含 む よ うにな った。 調 査 時点 にお け るマル ガ の 総 人 口は2
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人 で あ る。 もとの居 住 地 域 で あ った ル ンプ イ ンは この うち6,
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人 の人 口 を擁 し, 七 つ の ドゥス ンが展 開 す る。 この地 域 には焼 畑 陸稲 耕 作 と漁 業 を生 業 と した プチ ュパ ック (Becupak)や セ イサ ラ ンガ ウ (Sei Sarangau)な ど各 々7- 8戸 か ら成 る小 集 落 もあ った が , これ らは3年 ほ ど前 に廃 村 とな り,住 民 は上 記 の7集 落 の一 つ トビ ンスル ク (TebingSuluk)へ 移 った 。ア ブ ン系 の住 民 の 祖 先 が居 住 した と伝 え られ るル ンプ イ ン川 上 流 域 に は, 約7年 前 か ら プ リ トゥ ン (Beli -tung)地 方 か らジ ャワ人 が移 り住 む よ うに な り, 四 つ の集 落 を形 成 し7,
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3
人 の人 口を有 して い る。 さ らに上 流 部 は 隣接 す る ム ス ジの 一 部 と と もに政 府 の外 島移 民 計 画 地 域 とな り, ユ ニ ッ トⅤか らユ ニ ッ トⅦ が この マル ガ 内 に 設 定 され て ,6
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人 の人 口を数 え る。 上 述 の集 落 発 展 史 は, 元 来 この地 方 で は集 落 の移 動 が よ く行 われ た ことを示 して い る。 移 動 時 代 の農 業 は焼 畑 に よ る陸稲 耕 作 で あ っ た と考 え られ るが, 現 在 カユ ア ダ ン地 域 の農 業 は圧 倒 的 にル バ ックを利 用 した 減 水 期 稲 耕 作 で あ る。 コム リン川 沿 い の プ リギ に集 落 が 開 か れ た の は1
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年 以 前 で あ る ことは間 違 い な いが , ス カダ ナの初 代 首 長 プル ブ ジ ャヤ と ラジ ャ ・イ クタ ンムダ との間 の世 代 数 が必 ず し も明確 で は な い ので よ り正 確 な時 期 の推 定 が 不 可 能 で あ る。 住 民 の話 で は この地 域 の ル バ ック耕作 の歴 史 は古 い とい わ れ るが , 後 述 の シ ラプ ラ ウパ ダ ン (Sirahpulaupadang)の 例 か ら推 測 す る と,移 住 直 後 に減 水 期 稲 作 を坪 内 :南 ス マ トラ, コム リン川 流 域 お よび ム シ川下 流 部 に お け る集落 形 成 史 始 めた と考 え る よ りは, あ る程 度 あ とに な っ て 開始 した と考 え る方 が妥 当性 が高 い。 いず れ に して も, ル ンプ イ ンの移 動 時代 に コム リ ン本 流 沿 い の定 住 時 代 が続 き, 後 者 は ほ どな くルバ ックの利 用 を と もな うよ うにな った の で あ る。
2.
シラプ ラ ウパ ダ ン シ ラプ ラ ウパ ダ ンはパ レ ンバ ン下 流 の合 流 点 プ ラジ ュか らコム リン川 を約50キ ロメー ト ル さか の ぼ った と ころ に位 置す る マル ガで , 16の ドゥス ン か ら成 り立 ち人 口は29,708人 (1978年7月 現 在) で あ る。 マル ガ と同 名 の シ ラプ ラ ウパ ダ ンと よば れ る ドゥス ンが 最 も 古 く成 立 した と伝 え られ ,1668年 に ジ ュマ -\ヽ 卜 ′ ′ 1_ _/ .1 - ・-・1 ・I i ・-/ \ iZI iiコJiコ 一一一一一一_一一 __ I - 一 一 一 S e rd Q n g m e n (ユn g S irQ h p u IQ U P Cld Q n gル ・ビ ン ・シノ ンガ ン(Jemaherbim Si non-gan)が マ レー人 地 域 か ら家 族 と と もに来 住 した のが そ の お こ りで あ る。16個 の ドゥス ン の成 立 )贋序 は ほぼ 明 らか で あ るが, 親 村 ・分 村 の関係 は分 か らな い。 5番 め に成 立 した と い われ る ス カ ラ ジ ャ (Sukaraja,旧 名 Ulak Kedondong)を除 けば,初 期 に成 立 した シ ラ プ ラ ウパ ダ ン, ラ ンタ イ (Rantai),トル サ ン ム ナ ン (Terusanmenang), スル ダ ンム ナ ン
(Serdangmenang),トラテ (Terate)な どの集 落 は分 流 パ ダ ン川 (AirPadang)の分 岐点 か らコム リン川本 流 に沿 って 上 流 部 へ 5キ ロ メ ー トル くらい の間 に分 布 し, 次 に成 立 した と い わ れ るマ ング ンジ ャヤ(Mangunjaya)と ウ ラ ック ジ ュル ム ン(Ulakjermun)とが さ らに B ungin T ing gl \ i::■ \ \ \ Ei Ei ,_Ei 0 R Q n tQi O R e n g q sp汁u O B e lq nli
MARGASIRAHPULAUPADANG
IEii. / Jii /' B 〔】fuq mp(コ「 T (コnjung(コLQi _- ---- - -./ ′一一一一一一一 ■i 図 5 マルガ ・シラプ ラウパダ ンの集落 ・ 1 _ _ . _ ._ . / ・ I I ・ / / - - .- -、 ■- ・\ 、
東南 ア ジア研究 17巻3号
上 流 部 の左 岸 を 占め, そ の次 に成 立 した ル ン ガ ス ピ トゥ (Rengaspitu)と ブ ラ ン テ ィ
(Belanti)とは右 岸 の ラ ンタ イ と トル サ ンム ナ ンとの間 に並 ぶ 。 ブ ンギ ンテ ィ ンギ ( Bun-ginTinggi),プ ニ ャ ンデ ィ ンガ ン(Penyandi
-ngan),ブル カ ッ ト(Berkat)な どの ドゥス ン は さ らにの ちの時 期 に分 流 に沿 って ス カ ラ ジ ャに至 るまで の地 域 に開 か れ た 。 最 も新 しい 時期 に コム リン川 とオ ガ ン川 を結 ぶ運 河 ス ン ガ イ ・ア ワル トル サ ン (SungaiAwalterusan) の 中 間 地 点 に, ア ワル トル サ ン (Awalter u-san),タ ンジ ョンア ライ (TaI小lngalai),バ ト
ゥア ンパ ル (Batuampar)の三 つ の ドゥス ン が形 成 され た 。 この うち最 も新 しいバ トゥア ンパ ル は1918年 に オガ ン川 下 流 の マ レ一系住 民 が入 植 した もの で あ る。古 い時 期 には マル ガ ・シ ラプ ラ ウパ ダ ンの領 域 は現 在 よ り も広 く,南 接 す るマル ガ ・トロコ(MargaTeloko)
が100年 は ど前 に分 離 ,前 述 の ス カ ラ ジ ャの西 に パ ダ ン川 沿 い に 展 開 す る ウ ラ ック クマ ン
(UlakKeman)な どの ドゥス ンは1918年 に分 離 して マル ガ ・クマ ン (MargaKeman)を形 成 , また タ ンジ ョ ンア ライの南 に 位 置す る キ ジ ャ ンウル (KijangUlu)は1922年 に分 離 し て マル ガ ・カ ユ ア グ ンに編 入 され た とい う。 マル ガ ・シ ラプ ラ ウパ ダ ンは ジ ュマ-ル を最 初 の首長 と して , 現 在 のパ ッシ ラは17代 め に 相 当す る。 この うち5代 め以 下 の首 長 の 名前 は記 録 され て い るが , 2代 め か ら 4代 め に至 る3人 の 名前 は記 憶 され て い な い。 歴 代 の パ ッシ ラはす べ て ドゥス ン ・シ ラプ ラ ウパ ダ ン また は隣 接 す る トラテ の 出身 で あ る。 マル ガ ・シ ラプ ラ ウパ ダ ンの人 口は, イ ン ドネ シア独 立 時 に は現 在 の 約 半 分 の14,000人 くらいで あ った とい われ , それ 以前 は さ らに 少 な か った もの と 考 え られ る。 少 人 口 時 代 の 農 業 は い わ ゆ る 焼 畑 農 業 あ るい は それ に 近 い もの で あ った ら しい。 当時 の稲 作 地 を サ ワタ ラ ン(sawah talang),サ ワ ト ゥ ガ ラ ン
(sawah tugalan),サ ワプ マ タ ン (sawah pe -496
matang)な ど とよぶ 。 サ ワ (sawah)は イ ン ドネ シアで は通 常 港 概 田の意 に用 い られ るの に対 して ,ク ラ ン(talang)は この地 域 で は焼 畑 , また は新 開地 の仮 小 屋 集 落 の意 , プ マ タ ン(pematang)は低 湿 地 内 の 小 高 くな った土 地 の 意, トゥガ ラ ン(tugalan)は穴 あ け棒 を 用 いて種 籾 を播 く意 に使 われ , いず れ も水 田 よ り も陸 田を連 想 させ る語 で あ る。 サ ワ とい う単語 は こ こで は借 用 語 と して そ の原 意 を変 じて稲 を植 え る場 所 の 意 に使 わ れ て い るに過 ぎ な い。 この時 代 の耕作 地 は集 落 か ら200メ ー トル以 内 に立 地 し,3年 間 の耕作 後3年 間 の休 耕 期 間 を お い た とい う。1920年 以 後 に な る と土 地 不 足 のた め,雨 期 に は深 所 で水 深2.5 メー トル に も達 す るルバ ックを, 減 水 状 況 に 応 じて 乾 期 に利 用 す る農 法 を採 用 す るよ うに な った。 最 初 にル バ ックを利 用 す るよ うに な った の は ドゥス ン ・シ テプ ラウパ ダ ンで1920 年 にル バ ック ・シ ラプ ラ ウパ ダ ンを 開 き, ド ゥス ン ・ トラテ が これ に次 いで ルバ ック ・ ト ラテ を 開 い た。 ス カ ラ ジ ャお よび ブ ラ ンテ ィ で は土 地 が十 分 あ った た め, 低 湿地 の利 用 を 始 めた の は それ ぞ れ1960年 ,1962年 に な って か らで あ る。ルバ ックと集 落 との距 離 は200メ ー トル か ら4キ ロメ ー トル で, 通常 出作小 屋 を設 けて 耕作 を行 う。現 在 マル ガ 内 には未 利 用 地 が 北 東 ,北 西 , お よび南 西 の隅 に残 って い るが , 北東 の もの は水 が 深 過 ぎ るた め,北 西 で は病 害 発 生 の た め,南 西 の もの は酸 性 土 壌 のた め耕地 と して不 適 で あ る とい わ れ る。 3. プ ガ ガ ンイ リル (Pegaganllir) オ ガ ン川 はパ レ ンバ ン市 に合 流点 を もつ ム シ川 の支 流 で , コム リン川 とほ ぼ並 行 して平 野 を流 れ ,両 川 間 の距 離 は最 短 部 で は5キ ロ メー トル く らい に な る。 パ レ ンバ ンか ら道 路 沿 い に30キ ロメー トル余 , オ ガ ン川 沿 い に45 キ ロメ ー トル くらい の地 点 に,プ ガ ガ ン( Pe-gagan)と よばれ る マ レー語 系 の人 々が プ ガ