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工場の出現と地域社会(1) : 産業革命期における富士紡績会社と静岡県小山地域(梶田公教授退官記念論文集)

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工場 の出現 と地域社会 (1)

―産業革命期 における富士紡績会社 と静岡県小 山地域―

は じめ に 本稿 の課題 は,機 械制大工場 とい う近代が生み出 した生産 を専 門 とす る巨大 な施設空間の出現が,従 来の伝統的地域社会 との間に どの ような反発 と結合の 相互関係 を生み出 していったのか,そ してそこに企業 =工 場 を組み込んだいか なる新 たな地域 システムが形成 されていったのか を,産 業革命期 に まで遡 って 具体的に検証す るこ とである。 本稿 の意図は,巨 大企業が企業城下町 といった地域社会 との多面的で密接 な 結合関係 を構築す る反面,環 境問題,消 費者問題,行 財政問題 といった様々な 分野で地元社会 との車し礫 に も悩んでいる今 日の状況 を,そ の歴史的根源に立 ち 返 って解明せん とす るところにある。 この ような課題に照 らして研究史 を振 り返 るとまず想起 され るのが,昭 和28 年か ら32年にかけて (1953∼1957)日 本人文学会が学際的な研究スタッフを組 織 して行 った,近 代産業 と地域社会 との多面的で総合的な調査研究の成果であ る。 そこでは,戦 前か ら戦後にかけての 日立製作所 。日立鉱 山 。東邦亜鉛精錬 所等 と周辺地域 (茨城県 日立市お よび群 馬県安 中町)と の関係,さ らに小野田 セ メン トエ場 。大 日本紡績工場 と周辺地域 (岡山県新見市および総社市)と の 関係が,土 地問題 ・労働力 ・財政 ・政治 ・教育 ・人 口 ・農業農村問題 ・公害問 1 )

題 といった諸領域にわたり実証的に分析 されている。

こうした近代産業 (特に鉱 ・工業)=企 業 と地域社会 との多面的な関係史 と

1)前 者につ いては 日本人文科学会 『近代鉱工業 と地域社会 の展開』東京大学出版会,1955 年。後者につ いては同 『近代産業 と地域社会』東京大学 出版会,1956年 。 夫 正 井 筒

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110 梶 田 公 教授退官記念論文集 (第305号) い う視 角 は,そ の後 の経 済 史 ・経 営 史研 究 の 中 で十分 継承 され て きた とは必 ず しも言い難いが,近 年斯分野において注 目すべ き研究が現れて きている。 春 日豊氏は,「工場」出現の歴史的意義 を,地 域空間 ・住居空間 ・労働 空間 が, 自然 との調和 を考慮す ることな く 「工場」生産に適合的に創出されたこと と把 え,工 場の出現によって もたらされた 日本社会 ・民衆生活の変容 を,地 域 社会の変容 (者B市化 と地域格差,環 境問題の発生),工 場秩序の整備,独 特の雇 用関係の創 出,農 村経済への影響,工 場労働者の生活,そ して社会問題の発生 2 ) 等 に わ た って,総 合 的 に解 明 してい る。 また岡 田知 弘氏 は四 田市市 の都 市形成過程 を,名 望 家 資本 に よる紡績業 を中 心 とした明治期 の企業効果,1920年 代 の名望 家資本寡頭体制1の崩壊,さ らに30 年代 以降の大規模 重化 学工業誘致へ の道 として跡づ け,資 本蓄積様 式の変化 と の関連 で港 湾開発や 市勢拡 大,イ ン クラス トラ クチュア整備 とい った都 市問題 3 ) を的確 に分析 してい る。 山下真登 氏 も, 日立製作所 が戦時期 に軍部や地方 自治 体 の権 力 をバ ックに茨城 県の農 村地帯 (現勝 田市)に 強 引に進 出す る過程 を資 本 に よ る土地 買収過程 と農 民の抵抗運動 に焦点 をあてて綿密 に分析 してお られ 4 ) る。 本稿 もこ うした労作 に学 びつつ,な お上 記諸研 究 では十分 な分析 の メスが加 え られ なか った産業革命期 におけ る企業 ・工場 と地域社会 の反発 と結合 の相互 関係 の形成過程 を,特 定 の一企業 と地域社会 との関係 に絞 って,地 域行財政や 政 治過程 ,環 境 問題や 災害 とい った事 象 を も考 慮 にいれて よ り具体 的,多 面的 に解 明せ ん とす る もの であ る。企業や工場 が地域社会 に進 出す る とき,土 地利 用 をは じめ水利 ・衛 生 ・消 防 ・教 育 ・犯 罪 。人 口集 中等々の側 面 で,周 辺社会 に大 きな影響 を与 え,時 に激 しい車L操を生 じさせ る。 その申し礫 は,多 くの見ず 知 らずの人間が特定 の空間 に集め られ,均 質 な 「絶対時 間」 の流れに縛 られ て ひたす らモ ノを生産 す る近代 的大工場 とい う存在 自体 が,全 く新規 で奇異 な も 2)碁 日豊 「工場 の出現」岩波講座 『日本通史』第17巻近代 2,1994年 。 3)岡 田知 弘 「四 日市におけ る資本蓄積 と都市形成」 『二重県史研究』第12号1996年3月 。 4)山 下真登 『資本 と地域社会』校倉書房,1995年 。

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工場の出現と地域社会 (1) 111 の と受け とめ られたような伝統的な社会や時代状況の中においては,い っそ う 大 きな ものであった。 企業や工場 はそ うした地域社会 との矛盾 ・車L蝶を解決す ることな しには,地 域 に安定的に存続 し恒常的な利益 をあげてい くことはで きなかったはずである。 その矛盾 ・車し操は往々に して大 きな地域対立等の政治問題へ と発展 し, またそ の解決のためには企業 とい う異質物 を組み込んだ新 たな地域 システムが構築 さ れ る必要があった。その構築の過程 は,決 して平坦 な道ではな く,時 に対立が 敵対へ と発展 し, またその中か ら妥協 と相互依存が生み出され,や がては相互 に無 くてはならない利益共有体へ と成長 してい く場合 もあった。そ うした過程 においては,本 稿 で検討す るように地域の政治や行財政,そ してそれ らを中心 的に担 う名望家層が深 く絡み,企 業 と地域社会 を結ぶ接着剤 として機能す る場 合が 多々見 られたのである。 こうした観″点か ら本稿 では,産 業革命期 におけ る,企 業 =工 場 と地域社会 と の多面的な相克 と結合の相互関係の形成史 を,明 治28年 (1895)静岡県駿東郡 の一寒村 (現小 山町)に 進出 した巨大 な紡績工場 三富士紡小 山工場 と地元社会 との間に検証せ ん とす るものである。 なお本稿が扱 うテーマについては,筆 者のほか松元宏氏 ・永原和子氏 ・佐々 木哲也氏等が参画 して現在進行 中の小 山町近現代史編纂事業の中で史料の探索 と整理が進め られ,史 料集 『小 山町史』第 4・ 5巻 近現代史料編 I・ II(1992 年 ・1995年)の 中にその成果が結実 している。特に富士紡の進出 と地元社会ヘ の諸影響 を示す史料は同上書第 4巻 所収,松 元宏氏執筆の 「四富士紡の進出」 の部分 に多 くが収めれている。そこでは,富 士紡の営業状況,労 働問題,土 地 ・水利 ・肥料 ・電力等 をめ ぐる地元住民 との関係 を示す史料が網羅 され,一 つ 一つに適切 な解説が付 されてお り,こ の史料集その ものが斯分野における貴重 な研究成果であるといえる。 さらに 『小 山町史』第 9巻 民俗編 (1993年)中 の香月節子著第 6章 第 3節 「町 場の形成」 では,富 士紡の進出によって,い かなる地域か ら人々が流入 して ど の ように町場が形成 され,そ こに暮 らす人々の生活がいかなるものであったの

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112 梶 田 公 教授退官記念論文集 (第305号) か が , 民 俗 学 的 あ るい は地 理 学 的 に 明 らか に され て い る。 本稿 では,そ うした成果に多 くを学びつつ,行 財政や政治, 自然環境 といっ た分野に まで視野 を広げて,富 士紡 と地域社会 との関係 をより多面的に探 り, その全体像 を描 いてみたい。 なお本稿 は,企 業進出が地域社会に与えた諸影響 に力″点を置 き,地 域問題が企業経営に与 えた影響 を含んだ富士紡績会社 の経営 分析 その ものについては次稿 に譲 ることとしたい。 I 富 士紡績会社 の進 出 と町場の形成 1 富 士紡績会社 の創 設 と土地 買収 日清戦後 に 日本 は本格 的 な産業革命 の時期 を迎 え るが,綿 糸紡績業 こそ民間 企業 の 中で当時最新鋭 の機械制大工場 を もって産業革命 を リー ドした花形産 業 であ った。 日本紡績業 は,明 治10年代 の政府 に よる 2千 錘紡績機械 の民間払下 げに よる 近代機械産業へ の胎動期,同 19年か らの大 阪商 人 を中心 とした一万錘紡機 に よ る企 業勃果 の開始,同 23年の国内産額 の輸 入産額 凌鷺 を経 て, 日清戦後 には機 械制 大工 場 が各地 に建 設 され る一大展 開期 を迎 えていた。 その産額 は農 家経済 と分 か ちが た く結 び付 いていた手紡生産 を徐 々 に駆逐 してい き,同 29年には綿 花輸 入 関税 が撒 廃 され て安価 な外 国綿花が大 量 に使 用 され るよ うにな り,翌 30 年 に は綿糸輸 出高が輸入高 を追 い越す までに発展 した。輸入綿花 に押 されて国 内の綿作 は衰退 し,秋 に な る と一面 に 白い綿畑が広 が る農 村風景 も日露戦後 に は急速 に消 え失せ てい った。 こ うした中で富士紡績 も日清戦後に華々 しく登場 した最新の紡績企業の一つ であった。富士紡績の創業 を導いたのは,当 時資源の乏 しいわが国において豊 富な水力の利用に よる工業立国を唱えて 『水力組』 なる同志的結合 を図ってい た一群の人々であった。 その主唱者は,大 蔵省主税局長や法御l局長官 を歴任 し, D 衆議院議員の経験 を有す る京都府丹後出身の神鞭知常 で,そ の主張に河瀬秀治 5)初 期議会期か ら日清戦後期 に至 る神鞭知常の政治活動並 びに政治理念 さらに経済活動 を 追跡 して,「対外硬」派,憲 政本党基盤の変容 を明 らかに した ものに飯塚一幸 「「対外硬」 /

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工場の出現と地域社会 (1) 113 ・村 田一郎 ・田代 四郎 ・一井保 といった東京の企業家達が賛同 し, また 日本銀 行 総裁や 東京府知事 を務 め 当時政財 界の一大名望 家 であ った富 田鉄之助や,さ らに森村組 を擁 して海外 貿易 に活曜 していた森村市左衛 門, 日本銀行理事 の職 に あった三野村利助,技 術 畑 では東京測量社社 主 の機 長得二等が参集 した。 水 力組 の面 々 は,明 治20年 (1887),横 浜 の生糸売込商茂 木惣兵衛や 原善三 郎,三 井 呉服店 の 山岡政 治,近 江商人 で 日本橋 に も支店 を有 す る木綿 問屋小林 吟右衛 門 (「丁 吟」)等 を誘 って,東 京府南葛飾郡大 島村 の小名木川畔 に,蒸 気 機 関 を動 力 とす る小名木川綿布会社 を設立 した。続 いて明治22年 には静 岡県富 士郡鷹 岡村 に五 百 馬力 の水 力 を動 力 とした富士製紙株式会社 を設立 して所期 の 成果 を挙 げ るこ とに成功 す る と,い よい よ水 力 を利用 した巨大企業経営 を可能 とす る大規模水 源地 の調査 に向か った。・ 彼 等が調査 の結果工場敷地 として選定 した土地 は,静 岡県駿 東郡 菅沼村 (明 治21年戸数 135戸 。人 口802人 ・耕 地 116町 ・山林 原野56町)な らびに六合 村 (同 259戸 。1624人 。225町 。1174町)で あ った。両村 は,北 西部 を広大 な富士 の裾 野 の共有 山林 に,東 部 を箱根外輪 山の 山並 に囲 まれ,そ の谷間 を富士 の伏 流水 を豊 富 にたたえた鮎沢川が還 流す る丘陵地 の農村 であ り,明 治45年 8月 1日 を もって合併 して小 山町 を形成 してい る。 明治22年 に東海道線 (現御殿場線)が 開通 し,六 合 村小 山部 落 に小 山駅 が誕生 し,豊 富 な水 と鉄 道 に よる輸送能 力 と

いう工場立地上の必要条件を満たした土地であったが,工 場敷地として選定さ

れるまでには次のような地元名望家の働きがあった。

ヽ 派,憲 政本党基盤の変容」,山 本四郎編 『近代 日本の政党 と官僚』東京創元社,1991年 所収 が ある。 6)以 上富士紡創業の事情につ いては 『富士紡績五十年史』 (1947年。以下 『五十年史』と略 記。本稿 では 『日本社史全集』常盤書院,1975年 の版 による。), 1∼ 11頁による。 7)小 名木川綿布会社 の創設の経緯,経 営の実態 と小林吟右衛 門 (丁吟)の 関わ りにつ いて は未永囲紀 「第 6章 小名木川綿布会社への投資」 (丁吟史研究会編 『変革期 の商人資本 一近 江商人丁吟の研究』吉川弘文館,1984年 )を 参照。 8)近 年経済史 ・経営史の分野において も,明 治20年代 の 「企業勃果」が地方的広が りを有 した理 由 として,企 業家が地域社会 において様々な社会活動 ・政治活動 を行 ってお り,そ うした 「名望家」的要素の機能に注 目している (例えば谷 口雅之 「関 口八兵衛 ・直太郎 ― ノ

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114 梶 田 公 教授退官記念論文集 (第305号) 六合 村落合部 落 には戸長や村会議員等の要職 を務 め旅館 (後村 田屋 として開 業 )も 営 んでいた岩 田蜂二郎 とい う名望 家が いた。蜂二郎翁 の子息は岳 南 自由 党員 として活躍 し明治32年か らは六合 村長 も務 め た岩 田万次郎 で,父 子 ともに 近代 的意識 に 目覚 め た開明的 な指導者 であ った。翁 は,か ねて よ り東海道線開 通 以後 も停 滞 して い た菅沼 ・六合 地域 が,な ん とか して発展 す る方法 が ない も のか と日夜苦慮 して いた。 そん な折,友 人 よ り富士郡大宮付近 では水 力 を利用 した製紙業 の開発 に よ り人 口増加 し,道 路 も改良 されて一大発展 を遂 げてい る 話 を聞 き及 んだ。 そ こで鮎 沢川の豊 富 な水 力 を産業発展 に利用 で きない ものか と思 い,宿 泊客 で,河 川利用 の こ とに詳 しい一井保 の こ とを思 い出 し,明 治24 年 1月 末 日,氏 を東京の居宅 に訪 ね たのであ った。 工場建 設の ための有 力水源地 を模 索 中であ った一井 は,こ の話 を聞 いて 3月 中旬 に土木 の専 門家 で あ る機 長得 三 を小 山に向か わせ た。磯 長 は 当地 が有 力 な 水 源地 で あ るこ とを見抜 き岩 田翁 に紡績工場建 設 のための協 力 を求め る と,岩 田翁 も感 激 して協 力 を誓 った とい う。 早速実 地踏査 と工場建 設 の ため の土地 買収 に取 りかか ったが,こ れが予想外 に難航 した。同年 11月 よ り 1年 かか りで土地測量 と水 量増減試験 が行 われ,2500 馬力の水 力が得 られ るこ とが判 明 したが,測 量者が 田畑 に入 り耕作 を妨害 した 等 の苦 情 が後 を絶 たず, これ を全部 引 き受 け たのが岩 田翁 であ った。 並行 して進め られ た土地 買収 に関 しては村 人の反対 は強烈 であ った。 当時紡 績 とか工場産業 とい った こ とに理解 を示 す者 はほ とん どな く,祖 先伝 来の 田畑 を手放 す こ とは絶対 にで きない と会合 を開 いて大 反対 の意思表示 を行 った。 当 時大部分 の地 主 ・農 民 に とって工場 の 出現 は 「む しろ一 つの憂苦 で,土 地 を買 収 され ては 自給 自足 の道 をたたれ,住 民の生活 に驚 異 を来す だ ろ うと解釈 され ヽ皆油醸造 と地方企業家 ・名望家 ―」竹 内常善 ・阿部武司 ・沢井実編 『近代 日本 におけ る企 業家の諸系譜』大阪大学 出版会 1996年所蔵)。 9)高 室梅雪著 『静 岡県現住者 人物一覧』 池鶴堂,1901年 ,95頁 。 10)岩 国家文書 「明治45年末祖父蜂二郎 ノロ述筆記」 (以下 「田述筆記」と略記)に よる。 こ れは,岩 田蜂二郎氏の話 を明治45年末に,孫 の英雄氏が 口述筆記 して記録 した ものである。 土地買収 の事情に関 しては,創 立当初か ら富士紡の技術者 として勤めた田中身喜氏による /

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工 場 の 出現 と地域社会 (1) 115 1 1 ) て いた」。彼 らに とって望 ま しい発展 の あ り方 とは,祖 父伝 来 の 田畑 を守 って平 稿 且 つ堅実 に生 活 を維持 してい くこ とであ り,岩 田翁 の抱 く工場誘致 に よるい わば近代 的 ・都 市的 な発展観 との間に大 きなギャ ップが あった。大地主 で当地 きっての名望 家 で県議や村長 を歴任 した室伏童平や湯 山寿介 も,経 費節減 =増 税 反対 の論調が い まだ色濃 く残 る風潮 の 中で,積 極 的 な企業誘致 には動 かず土 地買収 には反対 であ った。 こ うした中で土地買収 に奔 走す る岩 田翁 は,一 時は かつ ての徳望 名望 も失 い,果 ては詐欺 師 よばわ りの罵言の なか で孤立 して しま った。 岩 田翁 は,最 も影響 力の あ る室伏 ・湯 山両 氏の説得 さえ成功すれば,他 の小 地 主 もそれ に従 うと判 断 し,明 治24年12月 9日 ,両 氏 を自宅 に呼 び寄せ,「国家 ノ為 メ,… ……六合 村 ノ開発 ノ為 メ」 と決死 の覚悟 で説得 し,つ いに承 諾 を得 るこ とが で きた。 この時説得 が聞 き入れ られ なか った場合 には,翁 は両氏 を切 り捨 て 自ら も果 て る覚悟 で,隣 室 には庄 司直種 二尺八寸の刀が立 てかけ られ て いた とい う。当初反対 を唱えていた両氏 も,岩 田翁の決死の説得 を聞いて,工 場誘致が当地の発展に もたらす意義 をたちどころに理解 し,土 地買収に応 じた もの といえよう。 室伏 ・湯 山の両名は, もともと民権運動期 には演説結社 を組織 し,明 治20∼ 22年頃に も,経 費節減や条約改正問題等で幅広 い民党運動 を繰 り広げていた。 彼等の静岡県議会 での活動 を整理 した表 1に よれば,湯 山は,監 獄新築論に反 対 した り,勧 業費や県会議諸費,小 学校教員給与の減額修正 を主張す るなど, 経費削減の論調 を維持す る一方,明 治23年か ら25年にかけては尋常師範学校 の 女子部存置論 を主張 した り,伊 豆地方の天城 山 トンネルエ事の継続支出や県下 4大 河川国庫補助の請願 をなすなど,近 代的教育事業の推進や駿束 ・富士 ・伊 `ヽ 『 富士紡生 る ヽ頃』明文社,1933年 や,前 掲 『五十年史』に も登場す るが,岩 田蜂二郎の 日述筆記 とは若干 その内容 を異に している。本稿 では,土 地買収に直接関係 した岩田翁の 口述談に もとづ いて記述 した。 11)前 掲 田中身喜著 『富士紡生 る ヽ頃』212頁。 12)10)と 同 じ史料。 13)前 掲 日立製作所の土地買収過程 において も,地 元の名望家が土地 「不売団」の先頭に立 /

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116 梶 田 公 教授退官記念論文集 (第305号) 表 1 静 岡県議会 での湯 山寿介 ・室伏董平 の活動 (明治20年∼25年) 湯 山寿介 室伏 董 平 明治20年 11月通常 県会 ○県庁舎新築案 に賛成 (可決→ 否決→減額修正 にて可決) ○知事 の農業改良費増額案に対 し減額 (牛馬耕教 師減員 ・水産 改良費削除)→原案可決 ○勧 業委員招集 費修正 (同委 員 数 を13名とすべ し)(→否決) 12月臨時県会 ○県庁舎 を煉瓦造 りで新築説に 賛成 ○同左に反対 (原案否決,翌 日可 決) 2 1 年 1 月 通 常 県会 O静 岡監獄新築説反対 (→可決) ○同左 に賛成 ( →否決 ) 22年 11月通常県会 ○県会議諸費修正 (可決) ○県監獄費修正 (可決) ○営業税土地等級浜松町区分 に つ き修正 (否決) ○岡田良一郎提 出の道路土木補 助 に反対 (反対 説 多数 に て 岡 田説否決) ○富士 ・安倍 ・大井 ・天竜の 4 川,焼 津港堤防修繕工事施行 建議 (他2名 と共,確 定) ○警察費中巡査俸給費減額修正 説 (→否決) O警 察費中備俸給費常置委員会 説賛成 (可決) ○県会議諸費修正 (否決) ①地方衛生委員手 当半減説 (可 決) ○豊 田 ・山名 ・磐 田郡役所移転 案 に賛成 (確定) ①勧業 費 中種 苗交換 費削減 (否 決) ○水産改良費削減 (否決) ○御殿場 を娼妓公許の地 となす の建議に賛成 (否決) ○知事室装飾節約 (否決) 23年 3月 臨時県会 ○警察費減額 (否決) ○県監獄建築費修繕の原案 に反 対 (原案可決) O御 厨町 ・須走間道路他 の街道 改良費建議 に対 し反対,後 2 割減 にて施行主張 (→否決,原 案可決) 25年 11月通常県会 ○災害地戸数割免除建議 に反対 (修正可決) ○尋常師範学校女子部存置主張 (否決) O天 城 山隆道 4ヶ 年継続事業 を 強 く主張 (豆州地方県議 ・永井 嘉之郎,大 橋頼模 と共 に。可 決) O天 竜 ・富士 ・大井 ・安倍の 4 大 川 国庫支弁 請願建 議 (永井 等 と共。確定) ○教 員給 与最 低 額 引下 げ建 議 (永井等 と共。可決) 出所)『静 岡県議会 史』 第 1巻 ・第 2巻 よ り作成。

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工場の出現 と地域社会 (1) 117 豆地 方 の利益実現 の ため の活動 を積極 的 に展 開す るよ うになっていた。 改進 党 に属 して いた室伏 も明治20年か ら24年の県会 活動 では,県 庁合 の煉 瓦 造 り改築 反対 を始 め,警 察 費 ・県会議 費・勧業費 ・土木費補助 ・監獄修繕 費等 に こ とご と く削減 を唱 えて,湯 山以上 に経 費節減 に熱心 であったが,静 岡県改 進党 が 県 中西部 に基盤 を置 いて いた技 か,地 元 の駿 東郡や 県束部 の地域 利益獲 得 には湯 山ほ ど積極 的 では なか った。 しか しその室伏 も,明 治25年 9月 駿 東郡 北部 の熱心 な 自由党員土屋五束 の主唱す る岳 東有声会 に入会 しその副会 長 に就 任 したの を契機 に,地 元 自由党 系 の名望 家 との連携 を深め,26年 にはつ いに 自 由党 に入党 して い る。 この 頃 よ り室伏 は,駿 東郡 の 自由党系政 治結社 東海 同志 会 の推 進 して きた地価修 正 運動や,地 元御 殿場や 沼津地域 の商 人・名望家の繰 1 7 ) り広げ る中央線の起点 を御殿場 に誘致す る運動に積極的に取 り組んでいった。 湯 山 ・室伏両名望家が,富 士紡の進 出 とそのための土地買収 に直面 した明治 24年か ら26年とい う時期 は,ち ょうど彼 らが,増 税反対 =経 費削減論か ら地元 の地域利益獲得のための積極策に転 じていこうとしていた時期 に当た り,彼 ら の土地買収反対か ら賛成への転換は,こ うした地方の民党活動家の政治姿勢の ヽ って闘 ったが,そ の名望家が土地買収 に同意 したことを契機 に 「不売団」の結束は乱れ, 日製資本の攻勢の前に屈服 し,そ れ までの「名望家的支配秩 序」 は崩壊 していった とい う (山下真登前掲書158頁∼182頁)。小 山町 では,上 述の よ うに名望家層が富士紡工場 に協力 す る方向で村民の不満 を吸収 し,工 場進 出に よる地域発展の論理 の中に 自らの名望 を再生 産 していった。事実土地買収 に積極 的に協力 した岩 田蜂二郎の息子岩 田万次郎 は明治33年 2月 か ら同35年 8月 まで六合村長 を務 め,室 伏董平 も同26年 3月 か ら29年 2月 まで六合村 長の職 に在 った。湯 山寿介 も,大 正 1年 10月か ら同 5年 10月まで初代小 山町長 を務めてい る。工場へ の土地売渡 し承諾 を契機 に名望家の資質 を失 っていった勝 田市の場合 とは まさ に逆 であ る。 14)土 屋五東 は岳東有声会員募集 にあたっては第一 に室伏董平 を第二に湯山寿介 を訪ねてい る。 『土屋五東 日記』 (御殿場市教育委員会発行,1988年 )明 治25年 8月 26日・27日,146 頁。 また同 2名 が岳束有声会 の会長 ・副会長 を務 めたこ とは,「岳東有声会記録」 (土屋家 文書)よ り判明す る。 15)『 自由党党報』42号には, 自由党静 岡支部の常議員 として室伏董平の名が見える。 16)明 治26年10月29日付 けで室伏童平の書になる「田畑特別地価修正 ノ儀二付請願書」が貴 族院議長宛 に提 出 されてい る。 (『小 山町史』第 4巻 293頁∼295頁) 17)室 伏董平外255人帝国議会宛請願「第 1期 鉄道中央線比較線中御殿場線敷設 ノ儀 二付請願 書」 『小 LlJ町史』第 4巻 498頁。

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118 梶 田 公 教援退官記念論文集 (第305号) 転 回 を象徴 的 に示 す もの で あ った とい え よ う。 この後他 の地主や小作 人の土地買収 は よ うや く軌道 に乗 り,着 々手続 きが進 ん だが,水 利権 の譲渡 に関 しては,菅 沼村奈 良橋 。大久保,六 合 村藤 曲,ま た 隣接 す る北郷村 阿 多野の各部落か ら苦情 が続 出 した。岩 田翁 はその都 度 出張 し, 深夜 に まで及ぶ会 談 を通 じて円満解決 の妥協 ″点を見 いだ していった とい う。 明 治26年末 頃 までには土地並 びに水 利権 買収 の手続 きも一段 落 を告 げ,29年 頃 ま でには土地 買収総面積 は菅沼村 を中心 に六合 村 を含 め て 9町 3反 余 に上 った。 同29年には,菅 沼村茅沼の岩 田静 太郎所有地 にあった子の神社 が第 2工 場敷地 に編入 され るに及 び,八 幡神社 に合祀せ られ た。 この八幡神社 は山の上 にあ っ たが,そ の 山は工場建 設用 の埋立造成 のため に削 られ,神 社 も移築 を余儀 な く され たの であ った。 一 方東京では, 日清戦後の企業勃果 ブームの中で,一 大紡績会社 設立の呼び 声 に,新 たな有 力 出資者 。経営者が加 わ って きた。水 力組 の面 々 と,小 名木 川 綿布会社 設立時か らの大株 主,小 林 吟右衛 門や 原善二郎 ・茂 木惣兵衛 等の他 に, 有 力 な東 京 日本橋 の豪 商達 が登場 して きた。綿糸 問屋柿 沼商店 を大成 した柿 沼 谷蔵,輸 入綿糸商 とした活躍 した斉 藤非之助, 日本橋 の素封家 で鐘紡 の重役 を 勤 め た経歴 の あ る浜 口吉右衛 門等が発起 人に参 画 した。 そのほかの主要 人物 と しては,静 岡県周知郡 出身の名望 家 で貴族院議員 も務 め た足立孫六 の名 が見 え 2 0 ) る。 こうして当初水力組が計画 した資本金50万円の規模は, 日本橋組 との合同に よって一挙 に100万円 とな り,明治29年 1月 7日 をもって富士紡績株式会社 は正 式に認可 された。取締役 には富田鉄之助 ・村 田一郎 ・神鞭知常 ,原六郎 ・斉藤 非之助 ・柿沼谷蔵が就任 し,同 会長には富田が選出された。監杢役 には大野清 敬 ・浜 口吉右衛 門 ・足立孫六が就任 した。株式の申込は非常 な盛況 を呈 し,同 年 1月 29日の発起人会 では再 び計画 を変更 して,資 本金 を150万円に増加 し,紡 18)『 小 山町史』第 3巻 近世史料編 II寺社編295頁。 19)『 小 山町史』第 9巻 432頁。 20)「 富士紡績株式会社 明治29年第 1回 営業報告書」 よ り。

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工場の出現 と地域社会 (1) 119 機 3 万 錘 も 5 万 錘 に拡 張 した。この 1 5 0 万円 に対 す る株 式 申込 も 日な らず して満 株 に達 す る とい う人 気 を博 す るに 及 ん で, 重 役 陣 は さ らに積 極 策 を取 り, 同 年 二 月には当時 よ うや く効果 の機運 にあ った絹糸紡績 を も事 業 に取 り入れ,さ ら に50万円の増 資 を決定 したの であった。 資本金200万円 ・運転錘 数 5万 錘 とい う規模 は,当 時紡績業 界 では鐘 紡 に次 ぐ 第二位 の地位 を 占め,発 行 株数 4万 株 ,株 主数 は277名にのぼ った。上位 25名の 株 主 の 内21名が東 京府在住 で,ほ とん どが会社 の創 立 に関 わ り, また重役 に就 任 した人々 で あ った。その平均持 ち株数 は860株であ り,総 株数 の54%を 占め て い た。小 山地方 では室伏董平 の240株が最 高 で38位に位 置 し,以下 池谷愛二郎156 株,岩 田荘 吾 132株,湯 山岡J平60株,湯 山寿 介25株,尾 崎 賀 六 ・岩 田峰二 郎24 株 ,等 が顔 を見せ てい る。 また明治33年 7月 か らは室伏董 平 が富士 紡 の監査 役 に加 わ り,室 伏 死亡 の後 は,富 士紡和 田豊 治専務 の希望 で,明 治35年 6月 か ら当時衆議院議員 であ った 湯 山寿介 が 同職 に就任 して い る。 こ うして工場建 設時 に道過 した地 元 の大 きな 反対 を説得 し,賛 成 ・協 力 を取 り付 け るのに大 きな役割 をはた した ものは,企 業進 出が地域 の経 済発 展 につ なが る とい う近代 的進 歩 の意識 に 目覚 め た開明的 な名望 家 であ り,工 場 設置後 も彼 らは株数 は必ず しも多 くは ないが,株 主お よ び経営 陣の一角 に しっか りと加 わ ったの であ った。 この よ うに順 風満 帆の船 出 を見 た富士紡 であ ったが,工 場建 設 は,明 治30年 の風水 害 に よる被 害や度重 な る土工 同志 の争優 等 で遅延 し,本 格 的 に創業 が開 始 され たの は,31年 の下期 に入 ってか らであ った。 しか しなが ら,巨 大 だが ア ンバ ランスで比効率 な工場施 設,冗 員冗費の存在,恒 常 的 な女工不 足,拙 劣 な 21)『 五十年史』178頁以下。 22)19)と 同 じ史料。 23)湯 山寿介は監査役就任 には,持 ち株数の少 ないこと等 を理由に難色 を示 したが,和 田専 務や岩 田蜂二郎翁,さ らに湯 山寿介の姻戚 で地元の有 力者湯 山岡J平や後 に小 山工場 の人事 係 となる岩 田保 の説得 に よって,同 職就任 を受諾 した とい う。前掲 田中身喜著 『富士紡生 るる頃』212・213頁。 24)以 下創業期か ら日露戦後期 の富士紡の経営の略述 は前掲 『五 十年史』24頁∼143頁に よ る。

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120 梶 田 公 教授退官記念論文集 (第305号) 生産 技術,生 産 コス トの上昇 といった問題″点が噴 出 し,創 業期 の富士紡 の営業 は不振 に喘 ぎ,僅 か な利益 と無配 当の年 が続 いた。 明治32年 5月 以降の 日村正寛 (滋賀県勧農課長 ・農商課長歴任,明 治23年金 巾製織会社 創 設)の 改革 の失敗 の後,34年 1月 よ り和 田豊治 (元鐘紡本店支配 人)が 専務 として小 山工場 の実質的改革 に乗 り出 して以後,営 業成績 は よ うや く好転 した。 明治36年 6分 であ った株主配 当は37年 1割 ,同 38年 1割 5分 ∼ 2 割へ と上 昇 し,明 治36年小 山絹糸工場 (第 2工 場)2400錘 増錘,同 年 3月 六合 村 に も分工場 が あ った小名 木川綿布会社合併,同 8月 日本絹綿紡績会社合併, 37年小 山綿糸工場 (第 1工 場 )12800錘 増錘 と,そ の規模 も年々拡張 された。 明治38年 には 「拡 張10年計画」が樹 て られ, 日露戦後 は さらに空前の規模 で 拡 張 が行 われ た。40年 には小 山第 3工 場 が,42年 には同第 4工 場 が六合村 に建 設,操 業 を開始 し,41年 には横 浜保 土 ヶ谷工場 の新増設 も竣工 された。既存工 場 につ いて も,39年か ら43年 にかけて第 2工 場 において リング精紡機等約14000 錘 の増錘 が行 われ,40年 には第 1工 場 で も18000錘の増錘 を見 た。技術面 では絹 糸紡績 におけ る技術 革新 を基礎 に,経 ・緯糸 とも絹紡糸 よ りなる 『富士絹』 を 創 出 し,内 外へ供 給 した。 そ して これ ら工場 の動 力 を水 力か ら電力に転換 させ るために,明 治40年漆 田 発 電所 (六合 村),同 44年峯発 電所 (神奈川県川西村),大 正元年須川発電所 (菅 沼村)を 次 々 と完成 させ た。 こ うした設備投資 を支 えるため,銀 行 か らの融資 とともに増 資が行 われ,払 込 資本金 は,明 治36年237万円余,39年 上期320万円, 同下期 545万 円,40年 下期 714万円,45年 下期 1114万円へ と約 5倍 に著増 した。 この間の株 主配 当 も 6分 か ら 2割 5分 に まで達 し,富 士紡 は紡績業界におけ る 6大 紡 の 1員 として揺 る ぎない地位 を確 立 していったのであった。 2 町 場 の形成 巨大工場 の進 出は一寒村 をまたた くまに小都会 に変貌 させ た。 日清戦後菅沼 村 に建 設 され た第 1・ 第 2工 場, 日露戦後六合村 に建 設 された第 3・ 第 4工 場 に よって,工 場 勤務 の職工 の数 は,明 治31年 (1898)1035人 (内女工830人)か ら,同 35年 (1902)2584人 ,40年 (1907)6301人 (女工5116人),43年 (1910)

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工場の出現 と地域社会 (1) 121 8 9 2 3 人 ( 女工 7 2 6 1 人) へ と女 工 を中心 に急速 に増 大 した ( 表 2 ) 。 これ に と もな って,明 治 31年 菅 沼 村 当局 が 「隣 国近 村 ヨ リ寄 留 ノ上 小 売 ・仲 買 ・雑 商 ヲ営 ム 者五拾名 ヲ降 ラス」 と述べ たように,隣 国近村か らさまざまの商売 を営む者が 富士紡従業員が生み出す莫大 な需要 を目当てに流入 して きた。 表 3に よって,菅 沼 ・六合両村の戸数 ならびに人 口の変化 を見てみ よう。 ま ず明治29年以来第 1・ 第 2工 場が進出 し,工 場前の茅沼の道路沿いに社宅が建 設 された菅沼村の戸数 ・人 口は,明 治21年135戸・802人 (内女309人)で あった ものが,同 35年には259戸。4097人へ と増大 し, しか も人 口中82%を 女性が 占め るとい う構成に変化 している。 これは明 らかに女工の大量流入がその まま人 口 構成に反映 した もの といえよう。六合村 も同様に明治21年259戸・1624人 (内女 821人)か ら同34年639戸 ・3043人 (内女1455人)へ と約 2倍 もの激増ぶ りを示 している。 しか しなが ら菅沼村 と異なる点は,人 口の男女比にほ とん ど変化が み られないことである。 これは六合村の人 口増大が,女 工の大量流入によるも のではな く,む しろ六合村の小 山駅周辺に様々な商工業 ・雑業層が集 まり集住 していったこ とを示す もの と考 えられ よう。 次に第 1・ 2工 場の増設 と,第 3・ 4工 場並びに社宅が六合村に新設 された 日露戦後の状況 を見 ると,明 治37年か ら同43年の間に六合村では戸数 で 2倍 増, 人 口では 3倍 増 を経験 し, しか も女性比率が65%と い う高率 に達 している。い ぜ ん として商工 ・雑業者の流入が続 くとともに,工 場新設による女工の大量流 入が こ うした人 口構成 となって現れたのである。菅沼村で もこの間にやは り戸 数 で 2倍 ,人 口では1.6倍の増加 を見せ ている。だが人 口の男女構成比は明治34 年の82%と い う高率か ら72%に まで低下 している。 これは菅沼村方面に もこの 期 に商工 ・雑業層の流入者が広がっていったことを示す もの と考 えられ る。そ して両村合併 して小 山町 となった大正元年には,戸 数2257戸。人 口16185人 (内 女10462人)を 擁す る小都会に まで膨れ上がったのである。 だが これ らの人々 も,例 えば 「明治34年菅沼村足柄村組合村事務報告書」に は 「菅沼村二於 テハ………何 レモ頻繁ナル紡績二伴 フ失廃 多ク,其 出入ニハ殆 25)「 明治31年 菅沼村足柄村組合村事務報告書」 よ り。

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122 梶 田 公 教授退官記念論文集 (第305号) 表 2 富 士紡績小 山工場 の職工数 男 女 計 明31・ 下 1035 3 2 ・下 2207 35・ 下 37・ 下 4219 39・ 下 3935 4620 4 0 ・下 1317 5143 6460 4 1 ・下 1328 4820 6148 42・ 上 1342 4782 6124 1662 7261 1324 6585 出所)明 治31・下 ∼明治42・上 は各年次富士 紡小 山工場「営業報告書」。明治43年・ 44年は,『静岡県統計書』による。 『小 山町 史』第 5巻 1283頁掲載。 注)明 治42年上 期 に は さ らに養 成 工 が 1 0 4 6 人いる。 表 3 菅 沼 ・六 合 両 村 の戸数 ・人 口の変化 菅 沼 村 合 村 戸 数 人 口 ( 女 ) 戸 数 人 口 ( 女) 明 2 1 135戸 802人 (309人 ) 259戸 1624人 (821人 ) 847 (419) 1 7 3 1 ( 8 6 4 ) 4065 (3394) 639 3043 (1455) 3246 (2501) 3 1 3 9 ( 1 5 8 7 ) 5087 (4131) 3 7 3 1 ( 1 8 2 8 ) 378 5576 (3831) 1092 6 6 3 8 ( 4 4 5 1 ) 5196 (3650) 1569 1 0 1 1 8 ( 6 5 1 1 ) 出所)・ 明治21年の数値 は 『明治21年町村制上 申 ・布達 ・願届 ・綴込,菅 沼村外 9ヶ 村戸長役場』による。 。そのほかは,『小山町史第 5巻 』統計編1207頁∼1211頁による。 2 6 ) ン ト困却 ヲ極 メタ リ」 と記 されているように,紡 績業にかかわる商売の浮 き沈 み も激 しく,転 廃業 と頻繁 な出入 りを繰 り返 しなが ら,工 場や駅周辺に定着 し ていったのである。 金融機関 も,明 治30年8月 御厨銀行小 山支店が,ま た同41年 1月駿東実業銀 26)『 小 山町史第 4巻 』313頁。

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工場の出現と地域社会 (1) 123 行 (駿河銀行)ガヽ山支店がそれぞれ開業 した。富士紡関連の貨物 を扱 う小 山組 等の運送会社 も明治30年代 に,店 舗 を構 えていた。 さらに当時の代表的な娯楽 施設である芝居小屋 も,明 治34年六合座が落合商店街 に,同 36年には菅沼座が 菅沼村茅沼に出来て,年 中芝居が催 され,演 歌師や見せ物がや って きて休 日に は町に繰 り出す工女達や近在の人々で賑わった とい う。 ここで増大 した商工業者の内訳 を確認 しておこう。明治24年には営業税が課 税 され る商工業者は,六 合村42戸 ・菅沼村26戸 (後者は推定値)に す ぎなか っ たが,同 39年には,六 合村121戸・菅沼村65戸 とほぼ 3倍 に増大 している。小 山 町 となった大正 2年 には282戸の多 きを数 え,そ の内訳は表 4の ように,物 品販 売業が153,製 造業48,飲 食店25,理 髪業15,代 理業 6,宿 屋業 5,写 真業 5, 湯屋業 6,染 物業 4,請 負業 7,仲 買業 2,金 銭貸付業 3,物 品貸付業 3で あ る。営業税雑種税の等級では, 7等 中 1・ 2等 の上級大店舗が21%と かな りの 数 に上 り, 3・ 4・ 5等 の中間層 も71%を 占めていた。 これ ら流入 して きた商工業者の出身地域 を聞 き取 り等によって確認 した縛林 一美の調査によれば,御 殿場 (旧御厨町)や 近在の人々が一度東京やその他の 出所)「小 山町県税営業税雑種税等級賦課 大 正 2年 」 よ り集計。 注)刀ヽ山町の同上税賦課地は 4∼ 6等 地に分かれているが,上 表はそれ を集計 した もの。 27)同 上書,897頁 。 28)前 掲 『小 山町史第 9巻 民俗編』436頁∼437頁。 29)明 治24年 ・同39年の六合村 な らびに菅沼村の 「営業税 ・雑種税合算等級課額」に よる。 30)樽 林一美 「小 山町の商店街」 『ふ るさ とみ ぃつけた』御殿場青年会議所 JCデ ー統一行事 表 4 小 山町県税営業税雑種税納 入者の階層 (大正 2年 ) 口W 撃 未 ≡冗 物 販 代理業 億屋業写真業飲食店 湯屋業 理髪業染物業 製造業請負業 仲買業金 銭 貸付業 物 品 貸付業 計 1 等 1 1 7 1 1 1 1 1 1 1 1 5 1 1 1 7 1 1 計 5

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124 梶 田 公 教授退官記念論文集 (第305号) 大 店 で奉 公 した後 で小 山に出店 したケー スが一番 多 く,他 には伊勢商人や近江 商 人 さ らに富士紡創業 前 に水 力組 が製紙工場 を建 設 した富士 市か ら進 出 した者 も少 なか らず見 られ た とい う。御殿場 には近 江商人 で当地最大級の商人 ・地主 であ る 日野屋 (山中兵右衛 門商店)が 店 を構 え,そ の奉公人 も小 山に進 出 して い る。 また前述の よ うに,富 士紡 の設立者 には近江商人小林吟右衛 門や京都府 丹後 出身の神鞭知常 が居 り,経 営 陣 には一 時滋 賀県勧農課長 で金 巾製織会社 の 創 設者 であ る田村正寛 が加 わ った経験 が あ った。 そ うした当地並 びに富士紡会 社 が近 江 ・関西地域 と密接 な関係 を持 っていた こ とが それ らの地域か らの進 出 を支 え る基盤 となっていた と思 われ る。 ここで小 山町 の周辺 か らの人 口流入の実 態 を御厨町 (大正 3年 御殿場町 と改 称,現 御 殿場 市)を 例 に とって検 討 しよ う。御厨町 は当時東海道線 で一つ下 り の駅 に当た る,北 駿 地域 の商業 ・交通 の中心地 であった。表 5に よれば,明 治 19年か ら同29年 までは,御 厨町 か ら小 山地域へ流入す る ものは,男 ・女単独寄 留 と家族複数寄 留 を含め て年 1回 足 らずの少数 に とどまっていたが,工 場操業 を 目前 に控 えた30年 には 5ケ ー ス,操 業 が開始 され た31年には10ケー ス と一挙 に増大 し,そ の後 も 5か ら10前後 の流入 を毎年続け,30年 か ら42年 まで合計86 ケー スに及 ん でい る。 流入者 のほ とん どは商工業者 であ り,工 場職工 はわずか に 7(女 工 5・ 男工 1・ 家族 1)に 過 ぎなか った。彼 らの出身地 は御厨町 におけ る商業 の中心地 で あ った御 殿場地 区 (日野屋 の所在地)が 40と約半数 を占め,残 りは停車場所在 地 として新 たな町場 を形成 しつつ あ った新橋 地 区が 9,そ の他農村部が37とい う割合 であ った。寄留形態別 では,男 単独 20・女単独寄留19に対 し家族複数寄 留 が47と過 半数 を占め てお り, しか もこの傾 向は出身地 を問わずに見 られた。 次 に年齢別構 成 を表 6に よって見 る と,単 独寄留 の場合 は10オ以下の児童14 人 を除 くと男 では20代が最 も多 く, ま た二 ・三 男以下 の非戸主が 3分 の 2を 占 め て いた。女 では10代の 6名 中 5名 が女工 であ り,そ のほかは非戸主の20・30 代 が 多い とい え よ う。家族複数寄 留 の場合 にいて も20代 。30代の若 い世帯が 7 ヽ実行委員会,1967年。

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工場の出現と地域社会 (1) 125 割 を 占め て いた こ とが確 認 で きる。 小 山へ の流入地域 をみ る と,第 1・ 第 2工 場 が明治30年代建 設 され た菅沼村 よ りも,ほ ぼ一貫 して六合 村 (生土 ・藤 曲地 区)が 多か った こ とが わか る。

こうして,御 殿場のような近在の商業地区からの若い世帯の進出を基盤 とし

て,さ らに周辺農村部からの余剰人口をも吸引しながら,工 場や社宅の周辺あ

るいは駅への道路沿いに,茅 沼 (菅沼村),落 合 ・音淵 ・駅前通 (六合村)と い

う商店街が,山 間 と鮎沢川に挟 まれた狭い土地空間にひしめ くように形成され

出所)『出寄留簿』 (御殿場町役場文書)よ り集計。 注)・ 男 ・女 とは単独 で出 ・入寄留 した者,「家族」 とは複数の家族で出 ・入寄留 した者 を さす。 ・御厨町御殿場区は街道沿いの商業 中心地。新橋区は明治22年東海道線駅設置区。 ・「工場」 とは富士紡績小 山工場,た だ し明治31年の 「男 1」 は小名木 川綿布会社工 場。 1)富 士紡 自炊合へ寄留。 2)内 1家 族 は明治34年富士紡社宅へ転寄留。 表 5 御 厨町 よ り菅沼 ・六合 両村へ の入寄留者構 成 (明治19∼42年) 入 寄 留 地 出 寄 留 地 計 菅沼村 六合村 御 厨 町 工場 その他 寸域 工場 その他 本寸売尭 御殿場 区 新 橋 く 周辺農 寸部 男 女 家族 男 女 家族 男 女 家族 男 女 家族 男 女 家族 り119-23 1 1 1 24-28 1 2 1 1 1 1 1 女 3 1 男 1 1 1 1 1 女 1 女11) 1 1 1 1 1 1 ユ 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 5 2 米依1‐ ユ 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 6 1 1 1 ユ 計 4 1 5

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126 梶 田 公 教授退官記念論文集 (第305号) 表 6 入 寄留者 の形態別年齢構成 (明治19∼42年)

男 (単独) 女 (単独) 家族 (複数) 計 長 男 ・戸 主 その他 戸 王 その他 戸 王 その他 0∼ 10オ ∼20 1 1 ∼30 -40 1 -50 1 1 ∼60 1 1 1 ∼70 1 1 計 1 出所)前 表 と同 じ。 注)・ 94のうち判明す る92事例 について表出。 ・「家族」 (複数)に おいては,寄 留簿 に筆頭記載 されている者 (届出人)に つ いて表出 した。 て い ったの であ る。 次 に富士紡 の社 員 ・職工 の 出身地 を,六 合 村域 を通学 区域 とす る成美小学校 の修 学 児童 の親 を事例 として,明 治45。大正 1年 の時点 にお いて明 らか に した 香 月節 子 の研 究 に よって見 てみ よ う。それに よれば寄留者 1 2 3 名の内富士紡社 員 ・職工 が74名 と60%を 占め,残 りを商人 ・職工 ・農業 。日雇い等が 占めていた こ とが わか る。 富士紡関係者の出身地は,社 員10名では東京 3,静 岡 ・千葉 ・埼玉各 1と い うように,東 京 とその周辺が多いが,広 島 2,大 阪 ・宮城 ・大分各 1が 数 えら れ,関 西以西の遠隔地か らの者 も少なか らず含 まれていた。次に職工64名の分 布 は,静 岡県内 (小山町外)21名 ,東 京 ・神奈川19名,山 梨 9名 とい う,従 来 か ら当地域 と交流があ り東海道線開通後 もその結びつ きを密に していった比較 的近隣の地域か らの出身者が77%を 占めてお り,東 北地域 (宮城 ・山形 ・福 島 ・新潟)は 9名 ,そ のほかは千葉 3,富 山 3,大 阪 ・栃木 ・福井各 1名 にとど まっていたこ とになる。 だが,上 記のデー タがその まま富士紡職工特に女工の出身地の割合 を示 して いるとは考 えに くい。 なぜ なら小学校児童の親は通常戸主が記載 されてお り, 31)前 掲 『小 山町史第 9巻 民俗編』433頁 ∼435頁。

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工場の出現と地域社会 (1) 127 したが って その 多 くが男性 =父 親 であ る と考 え られ るので,こ こにはむ しろ男 工 の 出身地域 の割合 が色濃 く反映 してい る と捉 え るのが妥 当であ ろ う。 事 実,前 掲 『富士紡 生 るる頃』 に よれば,富 士紡工場創 設 当時 は,職 工不 足 の ため, 日銀総裁 も務 め た経歴 の会長 富 田鉄之助 が時の仙 台市長 に依頼 して, 女工 を中心 に男工や事務 員 まで も含 め約3000人を仙 台周辺地域 か ら募集 して き た とい う。 また小 山町 の個 人宅 に残 され た明治39年の 「山形県職工募集 出張, 応募 者貸金及旅 費明細帳」 には, 4回 にわた って合 計65名の女工名 と工場 に違 れ て くるまでの支度金 ・旅 費等が具体 的 に記入 されてい る。 こ うした こ とか ら実 際 に富士紡 の職工 の 中で 占め る東北 出身者 の割合 は,前 述 の小 学校 児童 の親 の 出身者か ら割 り出 され た数値 よ りは るか に多か った もの と思 われ る。年 は下 るが1930年におけ る富士紡工場 の出身地別 人員 の割合 では, 東 北地域 (新潟 を含 む)は 30%弱 に達 してい る。 しか し,圧 倒 的 多数 とい うわ け では な く,静 岡県 内だけ で44%を 数 え,神 奈 川県 と山梨 県 も合 計 で15%に 達 して い るこ とも事実 であ る。 以上 の事柄 を総合 して考 え る と,工 場発 足 当初 は東北 出身者が 多 くを占め て いたが,富 士紡工場 の発展 とともに静 岡 ・神奈川 ・山梨 といった近隣の諸県か ら も多 くの職工 が集 まって きた と思 われ る。 また男工 の出身地域 の割合 は,東 北 よ りも静 岡 ・神 奈 川 ・山梨 とい った近 隣諸 県の方が 多か ったのではないか と 推察 で きよ う。 こうして小 山地方は,東 北や近隣諸県か らも多 くの人を集め,工 業 ・商業 ・ 金融 ・運送 ・娯楽等の一 中心地 として発展 していったのである。 これに対 し,明 治初期 頃 までは小 山地方 と箱根 ・神奈川県方面 とをつな ぐ足 柄街道の枢要″点として栄 え,地 租改正の頃には 「往来璃湊 ノ為 メ仮市街 ノ形状 ヲ成 シ旧五小 区二五 ヵ村模範等級 ノー等 ヲ付 セラレ」ていた足柄村竹之下地方 は,「東海道線開通以来旅行交通等ハ其跡 ヲ絶へ,全 ク形成 ヲ異ニシ現今国税営 32)前 掲 『富士紡生 るる頃』15頁。 33)小 山町南藤曲,高 杉伊保利家文書,所 収。 34)前 掲 『小 山町 史第 5巻 』1215頁。

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128 梶 田 公 教授退官記念論文集 (第305号) 3 5 ) 業者ハ僅 カニーニアル ノ ミ,実 際村落 卜相成 り居候」 とい う状態に陥 り, 日露 戦後期 にはす っか り昔 日の面影 を失 っていた。 この ように東海道線の開通 と富士紡績工場の進出は,新 しい中心地の形成 と 旧中心地の地盤沈下 とい う大 きな地殻変動 を地域社会 に もたらしたのであった。 3 商 業 ・運搬業 をめ ぐる関係 町場 を形成 した商人達が工場 といかなる関係 を取 り結んでいったのか を具体 的にみてみ よう。前述の ように富士紡工場建設以来周辺地域か ら様々な商人達 が流入 しつつあったが,明 治30年代初頭には富士紡従業員に とってはいまだ 日 用 品を買 う店が近 くにな く,毎 朝10時頃に御殿場か らくる豆腐 と油揚げの行商 に頼 るほ どであった といい,膨 大 な職工達の食糧 は地元では賄いきれず,沼 津 や小 田原方面か ら搬入 していた とい う。 しか しなが ら上記のように, 日用品を 賄 う商店や飲食店が数 多 く立 ち並んで くると,そ れ ら商店や地元農村か らの購 入 も増 えていった。 明治36年 (1903)には,工 女が周辺店舗 で買い物 をす る際に,直 接問接 を問 わず 「売懸 (貸し売 り)ハ ー切致サザル コ ト」 を茅沼商人組合が47人の運署 を もって申 し合 わせ ている。大正 2年 (1913)12月には,富 士紡がチフス病流行 に対処す るため 「去月中よ り寄宿女工 1万 余人の外出を厳禁 し予防策に腐心中 なるが,女 工 を唯一の華客 とす る同町は,之 れが為非常 な打撃 を受け火の消 え た有様 にて特に各商店の寂亡 は名状すべか らず」 とい う状態に陥ったい う。同 年10月29日にはすでに,悪 疫予防のため読莱 を塩漬けの漬物に して搬入す るこ とを町農会がイ中介 となって実施 しているが,大 正 5年 に も,工 員への伝染病予 防対策 として,悪 疫伝染 ノ原因媒介の恐れある不都合 なる飲食物の販売 をなさ ぬ よう周辺地域 で申し合 わせ を行 っている。 こうしたことが らは,地 元商店街 35)「 明治39年宅地価修正二付掛酌御願,内 申書」足柄村竹 の下文書。 36)前 掲 田中身喜著 『富士紡生 るる頃』 6頁 。 37)『 小 山町史第 4巻 』618頁。 38)『 静 岡民友新聞』大正 2年 12月10日の記事 「小 山町民の激昂」 よ り。 39)『 小 山町史第 4巻 』863頁。 40)『 小 山町史第 4巻 』865頁。

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工場の出現 と地域社会 (1) 129 や 農 村 部 と富士 紡 工 場 との あ い だ に親 密 な関係 が 形 成 され て い った こ とを示 し て い る とい え よ う。 しか しなが ら,工 場 では工員 に対 し日用 品や被服 等 を安価 に提供 す るため, 大正 5年 12月に工場 内に購 買会 を設置 した。 同 8年 7月 には売上 は lヶ 月 2万 円 に も上 り,浴 場 経営 をす るまでに至 った。 しか しなが らこの こ とは周辺商店 街 に とって は大 きな痛 手 とな り,そ の後 たびたび町民大会 を開 いた り要望 書 を 提 出 して会社 側へ購 買会 の縮小 を訴 え る等,会 社側 との対立 も深 まってい った。 今 ひ とつ 地 元 商 人 と密 接 な関 係 が み られ た の は運 送 業 で あ る。 明 治33年 (1900)11月 ,富 士紡か ら停 車場 までの輸 出入貨物 の運搬 につ いて,会 社側 と 小 山部 落,同 部 落 内の 内国通運会社 請負人の三者 間に契約 が交 わ され た。 内容 は,富 士紡 が東海道線小 山駅 を使 って出荷 ・入荷 す る物 品の運搬 を,小 山部落 が一 手 に引 き受 け,小 山部 落 はそれ を田銭 6%で 内国通運会社 に下請 け させ る とい うものであ った。 この関係 は同36年 2月 に発展 的 に解 消 され,小 山部落 と内国通運会社小 山取 引店が 出資金500円ずつ を出 して運送会社小 山運送組 が組織 され た。小 山部 落 と 通 運 取 引店 は会社 に対 し同等 の権 利義務 を負 い,利 益分 配 も同一 とした。 しか しなが らその経営 には,富 士紡 か ら指名 され た総支 配人が責任者 として の地位 につ き,組 合 員会議 に も富士紡へ嘱託 した相談役 が加 わ るこ ととなった。 また富士紡 は,小 山部落 の出資金 の半額250円 を負担す るこ とを条件 に,他 方 で 富士紡 が工 業用水 取水 の ため に係 わ ってい る花戸用水 の修繕 費負担 を今 後免 除 す るこ と, ま た小 山部 落 は何 等苦情請願並 びに賦課金 等の 申 し出 を しない こ と, との確約 を得 てい る。 こ うして富士紡 と地元小 山部落 と通運取 引店 との三者 間 の妥協 が成立 し,富 士紡 は運搬業務 の実質的経営権 を確保 す る とともに,金 銭 供 与 に よって,用 水 をめ ぐる地元部落 との対 立 も収拾 していった。 41)『 小 山町史第 4巻 』582頁。 42)『 小 山町史第 4巻 』611∼613頁。 43)『 小 山町史第 4巻 」614∼616頁。

参照

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