熊谷鉄太郎の生涯と思想 : 戦前を中心とした覚書
著者
室田 保夫
雑誌名
関西学院史紀要
号
27
ページ
121-156
発行年
2021-03-15
URL
http://hdl.handle.net/10236/00029474
熊
谷
鉄
太
郎
の
生
涯
と
思
想
―
―
戦前を中心とした覚書
――
室田
保夫
はじめに ―研究史をめぐって こ こ で 取 り 上 げ る 熊 谷 鉄 太 郎 と い う 人 物 は い っ た い 何 者 な の か。 如 何 な る 人 生 を 送 っ た 人 物 な のであろうか。 先ず以下の文章を見ておくことにしよう。 これは熊谷五〇歳の著 『宗教の本質』 (基 督教出版社)の「序に代へて」冒頭の文章である。 八、 九 歳 の 頃 で あ っ た ― ふ と 気 が 附 い て み れ ば 海 上 遙 か に 孤 立 し て ゐ る 大 岩 の 上 に 一 人 取 り 残 さ れ て 居 る で は な い か! ……。 淋 し い と も 恐 ろ し い と も、 こ は い と も 名 状 し 難 い 情 緒 が 全 身 に 漲 り、 声 の 限 り 助 け を 求 め つ ゝ 右 に 左 に 走 せ ま は つ た が、 寄 せ て は 返 す 大 波 の 他 に 答 ふ る 者 と て は な か つ た。 泣 い て 泣 い て 泣 き 切 つ た 時 汗 び つ し よ り と か い て や さ し い 祖 じ っ ち ゃ 父 の 懐 に寝てゐる自分を再び発見したのであつた……。 熊 谷 は 続 け て、 「 神 な く 仏 な く 世 を 呪 ひ 生 を 厭 ひ つ ゝ、 北 海 沿 岸 に 一 人 彷 徨 ふ て 居 る う ち に、 ゆくりなくも札幌メソヂスト教会の祈祷会に導かれ、こゝに初めて天地の間に『愛の父君』の居まし給ふ事を知り、そのみ懐ろに抱かれてゐる自分を見出した時、幼少の頃見たあの恐ろしい夢 を 思 ひ 出 さ ず に は 居 ら れ な か つ た の で あ る 」、 そ し て「 あ の 夢 こ そ は 実 に 私 の 全 生 涯 の 縮 図 で あ るやうに思はれる」と記している。熊谷は日本の視覚障害者福祉やキリスト教史上では少しは名 の知れた人物である。しかし彼の畢生の事業「盲人伝道」は忘れ難い重要な業績である。さしあ たり熊谷についての先行研究をみておくことにしよう。 熊 谷 に つ い て 最 も 一 般 的 な 伝 記 は、 玉 田 敬 次 の 著 し た『 熊 谷 鉄 太 郎 : 見 果 て ぬ 夢 』( 視 覚 障 害 者支援総合センター、一九八五)である。そして近年、森田昭二『盲人福祉の歴史:近代日本の 先 覚 者 た ち の 思 想 と 源 流 』( 明 石 書 店、 二 〇 一 五 ) に よ っ て 日 本 の 盲 人 福 祉 の 先 駆 者 と し て 実 証 的に評価されている。 さらに視覚障害の人々に限定して出版された「盲人たちの自叙伝」という シリーズにも入っている。 また、 熊谷の簡単な紹介としては石松量蔵『盲人とキリスト教の歩み』 (日本盲人基督教伝道協議会、 一九五九) 、谷合侑 『チャレンジする盲人の歴史』 (一九八九、 こずえ) や『 道 ひ と す じ : 昭 和 を 生 き た 盲 人 た ち 』( あ ず さ 書 店、 一 九 九 三 ) 等 が あ り、 事 典 類 で も 取 り 上げられてきた。 と こ ろ で 熊 谷 に は 三 冊 の 自 伝 が あ る。 戦 前 に『 闇 を 破 っ て : 盲 人 牧 師 自 叙 伝 』( 一 九 三 一、 教 界 時 報 社 )、 戦 後 に 『 見 え ざ る 聖 手 : み 手 に 引 か れ て 七 十 年 』( 一 九 五 四 、 基 督 教 文 書 伝 道 会 ) と 『 薄 命 の 記 憶 : 盲 人 牧 師 の 半 生 』( 一 九 六 〇 、 平 凡 社 ) が あ る 。 頁 数 は 最 後 の 『 薄 命 の 記 憶 』 が 二 三 九 頁 。『 闇 を 破 っ て 』 一 五 二 頁、 『 見 え ざ る 聖 手 』 七 〇 頁 で あ る。 こ の 三 冊 は 熊 谷 の 生 涯 を語る時、重要な資料ともなる。一般的に自伝を出版する動機は様々である。熊谷の場合は、歳 を 重 ね て き た 己 が 人 生 へ の「 感 謝 」「 恩 寵 」 に あ り、 盲 人 伝 道 を 司 る 牧 師 と い う 職 業 上、 人 生 の
歩みを赤裸々に世間に紹介していく義務的意図があったのかもしれない。ともあれ、彼の九四年 にわたる生涯を、自伝を手がかりにしてみていくことにしよう。ただ、紙幅の関係もあり戦前ま でに限定しておく。もちろん自伝を引用する時、その性格上それを如何に客観的かつ実証的に検 証していくかの作業が伴っていることは言うまでもない。 一、 苦難の少年時代 (一)誕生と家庭の不幸、青森へ 熊谷の人生を振り返ってみると、 キリスト教への出会いと回心は、 彼の人生の「大転換」であっ た。しかし、それは「苦難の体験」という背景があったればこそである。自伝三冊の内容はそれ ぞれ少しずつ相違しているが、彼の青春時代を描く時、 『闇を破って』 (再版、一九三二)を主に 利用していく。その初版が上梓されたのは一九三一(昭和六)年で、比較的若い四七歳の時であ る。そこには「闇を破った」という自覚、意識の高揚があったかもしれない。ともあれ彼の誕生 の時空に降りたってみていこう。 熊 谷 鉄 太 郎 は 一 八 八 三( 明 治 一 六 ) 年 五 月 二 八 日( 旧 暦 と あ る )、 北 海 道 の 瀨 棚 郡 美 谷( 現 久 遠 郡 せ な た 町 瀨 棚 区 美 谷 ) と い う 漁 村 に 生 ま れ た。 生 家 は 祖 父 母 夫 婦 を 含 め 大 家 族 で あ っ た が、 父酉蔵の放蕩が彼の人生を狂わせていくことになる。父は四人兄弟の長男であったが、その行動 は 祖 父、 母、 兄 弟 へ と 波 及 し、 家 庭 は「 修 羅 場 」 と 化 し て い く。 「 昨 日 は 博 奕、 今 日 は 酒、 明 日 は女と狂ひまはる。滴々としたゝる命の汁の結晶かと思はれる少しばかりの祖父の財産には、日 に日にマイナスが加はるばかりである」 (『闇を破って』 一二頁、 以下 『闇』 と略す) と当時を記す。
かくして熊谷が三歳の春までには大黒柱は破滅に向かっていく。そして子供のために父の暴力に 堪えかねていた母は我慢の限界に達し家を出たため、幼い鉄太郎の面倒を見たのは祖父であった。 (二)失明、再び北海道へ 一八八六(明治一九)年、三歳になって、 「永遠に忘るゝ事の出来ない大事件」 (『闇』一五頁) が起こる。それは三歳秋の失明という降りかかった苦難である。その年の春に家族一同は祖父の 生まれ故郷に近い青森へ移住していた。この年は全国的にも悪疫が流行し、猖獗をきわめたコレ ラが下火になったと思えば次に天然痘が流行する。多くの家で疱瘡患者を抱え、熊谷の家庭も例 外ではなく、特に鉄太郎は重症となった。この時、不眠不休で看病にあたったのが祖父であった。 命 は 辛 う じ て 助 か っ た が、 そ の 影 響 で 失 明 す る。 彼 は「 『 春 は 来 れ ど も 花 咲 か ず 秋 は 来 れ ど も 月 澄 ま ぬ 』 闇 の 世 界 に、 閉 じ 込 め ら れ ね ば な ら ぬ 事 と な つ た 」( 『 闇 』 一 七 頁 )。 祖 父 は 願 掛 け ま で して孫の回復を願ったが、所詮無駄であった。失明のため物入りが嵩み、ますます一家は窮乏に 陥り、再度、北海道島牧郡西南端の鰊場ツブタラケ、その後カラウスへ移住し、最後は小田西に 落ち着く。 彼 は 当 時 を「 一 生 涯 中、 最 も 懐 し い 所 は 此 の 小 田 西 で、 次 は 何 と い つ て も ツ ブ タ ラ ケ で あ る。 小 田 西 へ 移 つ て か ら も 尚 五 六 年 は、 春 毎 に ツ ブ タ ラ ケ の 鰊 場 に 行 く こ と を 例 と し て ゐ た 」( 『 闇 』 二 九 頁 ) と 回 顧 す る。 そ こ で は「 ツ ブ タ ラ ケ の ボ ン ズ( 坊 主 )」 と 呼 ば れ、 村 の 子 供 た ち と 共 に 生 活 し て い た が、 「 十 一 歳 の 秋 も 淋 し く 暮 れ て、 裏 の 笹 藪 に た ば し る 霰 の 音 に 大 自 然 の オ ー ケ ス ト ラ が 聞 か れ る や う に な つ た 頃、 村 の 子 供 達 の 興 味 を 煮 え く り 返 へ さ せ る 新 世 界 が 創 造 さ れ た 」
(『闇』四六頁) 。そこで初めて「学校」が設立され、 「昨日まですべての行動を共にして来た村の 子供達は、 今日はみんな学校に行つてしまつた。それは め マ マ くら の私の入ることの許されない世界」 (同右) であったと述懐するように、 疎外と排除された辛い経験であった。この間、 祖母も亡くなり、 父も家を離れた。 (三)青森へー小田西に帰郷、そして寿都へ 熊谷は一三歳になって、将来の生計の道をたてるために再び青森にいく。幸い彼が「盲人中稀 に 見 る 大 人 物 」 と 評 す る 高 井 健 益 と い う 鍼 医 の 門 に 入 る こ と が 出 来 た。 当 時 の 教 育 方 法 は す べ て 暗 記 と い う 方 法 で あ っ た。 そ し て 三 年 程 の 間 に 解 剖、 生 理、 病 理 を 一 緒 に 納 め ら れ た 本 を す べ て 暗 唱 出 来 る く ら い 勉 強 し た。 こ う し て 青 森 で の 三 年 間 の 生 活 が 過 ぎ、 「 按 摩 」 の 仕 事 を 習 得 し、未来に向けて一歩の前進があった。ここでは師匠高井からの学恩、そして東京盲唖学校の存 在を知り、 点字を覚える一方、 他方、 「博打」や「浮かれ節」など、 色々な「悪いこと」を覚えた。 そして再び北海道小田西に戻ったのは一六歳の時である。 久 方 ぶ り に 帰 郷 し た 小 田 西 は、 田 舎 と は い え 変 化 し て い た。 熊 谷 の 夢 は 東 京 の 盲 学 校 の こ と で あり、思い切ってその「規則書」を取り寄せ、この規則を暗記するほど頭にたたき込んだ。ニシ ンで儲かれば札幌か函館に出してやろうという祖父の言葉に一途の望みはあったが、不漁で夢も 儚く消えた。最後の手段として、熊谷は十七歳の時、この小田西から抜け出すという思い切った 行動を取った。 熊谷が落ち着いた先は寿都であった。寿都は彼の住んでいた海岸地域からみれば大都会である。
人口は約四千、戸数約一千戸の港町、大きな親方衆も何軒かあり、寿都は島牧、寿都、歌棄、磯 谷の四郡を統轄する支庁もあり、郡役所、有名な郡立寿都病院もあった。そこで糊口を凌ぐ為に、 当地では 名 高 い 新 栄 町 の 遊 廓 が あ り 、 そ こ で 「 流 し 按 摩 」( 「 た た き ア ン マ 」) を す る こ と と なる。 この時期を彼は「最暗黒の一年間―地獄のどん底・危機一髪」 (『闇』七七頁)と評している。紅 灯下で暮らす女性と自分とは何某かの共感はあったが、熊谷自身は底辺社会からの脱出を願望し ていた。 この最暗黒 (闇) の境遇下で、 一縷の望みは札幌に盲学校が設立されたというニュースであった。 この希望を胸に秘めながら、寿都脱出を窺っていたが、漸く札幌までの旅費が工面出来、それを 実 行 に 移 す 時 が 訪 れ る。 「 歓 楽 の 街 を 後 に し て 夕 闇 に 閉 さ れ た ア ル プ ス の 山 に 登 り ゆ か ん と す る のは馬鹿の骨頂である。あらゆる危険と、凡ゆる不安と、凡ゆる困難とが彼を待つてゐるではな い か 」( 『 闇 』 九 〇 頁 )。 こ う し て 現 実 の 暗 黒 か ら 抜 け 出 せ た の は 一 九 〇 〇( 明 治 三 三 ) 年 二 月 の ことである。自らの意志で現実から脱出し未来に託する覚悟でもって札幌を目指す。それは熊谷 の青春への訣別、真の自立への旅立ちであった。 二、札幌時代―キリスト教へ (一)札幌美以教会で受洗 胸躍る心で札幌に着した熊谷は早速、 設立予定の北盲学校を訪れる。しかし、 一縷の望みをもっ てきた北盲学校は新築計画中のため、休校状態であった。 一応ここに席を置いたとはいえ、その 年の四月に再開でなく、それどころか明確な開始の時期が示されなかった。そこで学んでいた学
生も退学し、進路を変えているような状況であった。こうした失念の中で、盲学校長大澤銀之信 から教会にいくことを勧められる 。この思い切った教会への参加が彼の人生を大きく変えていく ことになる。 大澤に勧められ熊谷が訪問した教会は札幌美以教会であった。現在の日本キリスト教団札幌教 会 の ホ ー ム ペ ー ジ( 二 〇 二 一 年 一 月 閲 覧 ) に 依 れ ば、 「 ウ イ リ ア ム・ ク ラ ー ク の 感 化 を 受 け た 札 幌農学校第一期生の佐藤昌介ほか一四名が、函館在住のメソジスト監督教会宣教師M・Cハリス よ り 洗 礼 を 受 け た こ と が 本 教 会 の 始 ま り 」 と さ れ、 「 一 八 八 九 年( 明 治 二 二 年 ) 九 月 七 日 に 札 幌 美 以 教 会 を 組 織 し、 布 教 の 届 け を 出 し 」、 こ の 日 を 札 幌 教 会 設 立 の 日 と し て い る。 初 代 牧 師 は 松 浦 松 胤( 一 八 九 二 ~ 九 三 ) で、 次 に 関 沢 義 之 助( 一 八 九 四 ~ 九 七 )、 そ し て 熊 谷 が 訪 れ た 時 の 牧 師は三谷雅之助(一八九八~一九〇一)であった。 熊谷は初めて出席した模様を「二室の中央に札幌式の薪ストーブが暖かく燃えてゐる。之を囲 んで二十余人の男女が如何にも睦まじさうに話し合つてゐる。他人同志とは思はれぬ程の親しみ が 部 屋 一 杯 に 充 ち 溢 れ て ゐ る ―― 彼 等 は 実 に 兄 弟 姉 妹 な の だ!」 (『 闇 』 一 〇 〇 頁 ) と 述 懐 す る。 その中には佐藤昌介博士(札幌農学校長) 、高杉栄次郎教授、仁平豊次(弁護士) 、佐藤博士夫人、 三谷牧師夫人、そして石澤達夫、小金井解三らがいた。集う人々の雰囲気、皆の歌う讃美歌は彼 にとってこれまで経験したことのない別世界であった。 此処こそは、実に父のみもとであらねばならない。人間社会のどん底を流れてゐる一大底 流 に 押 流 さ れ て、 こ ゝ ま で 漂 泊 し て 来 た 私 に は、 ―― 潔 い も の、 美 し い も の に 曾 て ふ れ た こ と の な い 私 に は、 ―― 鳴 物 と い へ ば、 芸 者 の 三 味 線 か 法 界 屋 の 月 琴 し か 聞 い た こ と の な い 私
に は、 ― ― 殊 に 最 近 に 於 て 廓 の 毒 瓦 斯 で 正 に 窒 息 せ ん と し た 私 の 魂 に は、 潔 く 温 か い 此 の 集 ひ は、 実 に 浮 世 の 外 の 驚 異 す べ き 世 界 で あ つ た。 さ し も に 頑 固 な 私 の 魂 も、 此 の 大 き な コ ン トラストに打当つては砕かれざるを得なかつたのであつた( 『闇』一〇二~一〇三頁) 。 そして、彼からみれば当時、雲の上のようにみえる人たちが、見ず知らずの「虱だらけの一小 僧」を人間として接してくれることにも驚愕せざるを得なかった。キリスト教とはこういう物な のか。生涯、彼の人生にとって差別と逆境の中で身を置いていた自分を「かえってきた兄弟」の ように喜んでくれる、この雰囲気とはいったい何なのか。今迄、無神論者であった熊谷はこの場 所で暗黒の中から輝く別世界の居場所を見出したのである。 (二)ヨハネ伝九章、受洗 一人、下宿家にいる時も、教会仲間のあたたかい訪問もあり、そこで讃美歌や聖書なども教示 された。その一つ一つの聖句の意味深いことが難解であっても、意味を次第に理解し彼の心を捉 えていった。 「ヨハネ伝」は彼の愛読の一つとなり、とりわけ第九章は彼の心の琴線に触れた。 「ラビこの人の盲に生れしは誰の罪なるや。己によるか、又二親によるか」― ―略― ― 「 イ エ ス 答 へ け る は、 こ の 人 の 罪 に あ ら ず、 ま た そ の 二 親 の 罪 に も あ ら ず ……。 彼 に よ り て神の業のあらはれんためなり」 (『闇』一一八~一一九頁) 熊 谷 は こ の 聖 句 に 出 会 っ た 時、 「 私 は 手 を 拍 つ て『 「 さ う だ!』 と 叫 ん だ 」( 『 闇 』 一 一 九 頁 )。 まさに長く心に澱んでいた物がこの福音書記の記した一言によって溶解したのである。 私の失明といふ出来事は、無意味な偶然でもなく、所謂「神仏の罰」でもなく、無始のは
じ め か ら 積 ん で き た 業 の 報 い で も な く、 天 父 の 大 聖 心 に よ つ て 計 画 さ れ た 摂 理 で あ る。 こ ゝ に は、 感 謝 が あ る。 希 望 が あ る。 新 し い 努 力 の 源 泉 が あ る。 早 速、 飯 田 先 生 の 所 へ 飛 ん で 行 つ て 此 の 事 を 話 し た。 祈 祷 会 に 出 て 此 の 大 発 見 を 証 し た。 私 の 人 生 観 は こ ゝ に 全 く 一 変 し た。 (同右) こうした状況の中で、彼は正式にクリスチャンとして歩むことになる。熊谷は三谷牧師より洗礼 を受けた時を「父と子と聖霊の名によつて注がれた冷水の一滴一滴が、脳天から腹腸にまでしみ るかと思はれた時、身ぶるひするやうな責任の自覚が勃然として湧き起つてきた」 (『闇』一二六 頁)と表現し、それは一九〇〇(明治三三)年八月の第一日曜日であり、一生涯中、その日ほど 尊い日はなかったと回顧している。 ところで、肝心の北盲学校については失望の声しか聞かれない。盲学校は有名無実なものであ り、札幌に来た目的は完全に失われていた。しかし一方で、キリスト者として生きていくという 何事にも代えがたい物を得、加えて彼を理解してくれる先輩や友人を得たことは盲学校入学以上 に大きな収穫であった。 札幌に来てクリスチャンとして生きる喜びを体得した熊谷は、北盲学校への失望が日々増幅し、 逆 に 上 京 へ の 情 熱 へ と 変 わ っ て い く。 「 一 年 超 え て 明 治 三 十 四 年 の 秋 頃 か ら、 北 盲 学 校 に 絶 望 し た私の上京熱は、最早、抑へがたい猛火となつて燃え上がつてゐた」 (『闇』一二九頁)と。そこ で三谷牧師夫人に相談し、教会内の「石部金吉」こと石澤達夫に相談することを進言される。か く て 仁 平 弁 護 士、 石 澤 達 夫、 札 幌 キ リ ス ト 教 会 婦 人 同 盟 ら の 後 援 を 取 り 付 け て 上 京 が 決 定 し た。 時は一九〇一(明三四)年一二月頃であった。こうして翌〇二(明治三五)年一月二八日、遂に
東京の土を踏むことになった。この年、日英同盟が締結され、文明国英国は同盟国となった。 三、東京時代―東京盲唖学校 (一)東京盲唖学校に入学 か く て 熊 谷 は 一 九 〇 一 年 春、 憧 れ の 東 京 盲 唖 学 校 に 入 学 す る こ と と な る。 そ も そ も 熊 谷 が 入 学 した盲唖学校の淵源は一八七五(明治八年)五月、古川正雄・津田仙・中村正直ら六人によって 視覚障害者の為の教育機関を作る目的で「楽善会」が創設された時に遡及する。 翌年、楽善会訓 盲 院 の 設 立 が 認 可 さ れ、 七 九 年 に 築 地 に 校 舎 が 完 成 し、 授 業 が 開 始 さ れ る こ と と な る。 そ の 後、 文部省直轄の官立学校となり、八七年に東京盲唖学校と改称、日本の盲唖教育の代表的な学校と なった。九一年小石川区指ヶ谷町に移転され、〇九(明治四二)年には東京盲学校と東京聾唖学 校に分離され改称されている。幾多の変遷があり、熊谷はちょうど東京盲唖学校時代の入学であ る。校長は小西信八であり、コースは鍼按科であった。こうして「日本点字の祖父」と称された 小西校長のもとで、夢に抱いていた盲学校への入学が実現した。 熊谷は一九〇二年四月の学校開始とともに、尋常科(普通科)三年、技芸科二年というクラス と な っ た。 し か し 教 科 書 は き わ め て 不 充 分 で あ っ た。 と こ ろ で 当 時、 好 本 督 の 著 し た『 真 英 国 』 と『日英の盲人』は遅れている日本の盲界に大きなインパクトを与えた。 視覚障害者教育の先進 国たる英国と比較して、日本においてとりわけ点字の書物が圧倒的に少ないというハンディは最 たるものの一つであった。ただ幸いなことは小西校長が米国土産として設置されていた点字製造 機があり、これが活用されることになった。学校内に「鍼按学友会」という自主的な組織が結成
さ れ、 こ の 優 れ も の の 機 械 を 活 用 し て『 盲 人 世 界 』 と い う 月 刊 の 点 字 雑 誌 等 の 発 行 が 実 現 し た。 また後述する 『六星の光』 という雑誌も刊行したが、 これが日本盲界に果たした役割は多大であっ た。そして熊谷は盲唖学校時代に英語の勉強に力をいれている。一九〇三(明治三六)年の二学 期の始めに小西校長より五年生にあがることが告げられ、努力もあって学期ごとに進級していっ た。 (二)キリスト教会での学び 学校で国語と漢文を教授していたのは高津柏樹であり、高津の仏教についての見識は深く、汎 神論的仏教の立場にたって「一神論的基督教に対して、痛烈な批判を加へられた」 (『闇』一三八 頁)とあり、熊谷は唯物的自然科学の洗礼を受けており、キリスト教信仰においても精神的に苦 悩していた。かかる奥悩の中でトルストイの『我が懺悔』や黒岩周六(涙香)の『天人論』等も 点字で読んだ。時まさに藤村操が「岩頭の感」を残して華厳の滝で自死した時でもあり、哲学的、 思 想 的 な 悩 み を 経 験 し た。 し か し「 『 父 な る 神 』 の 居 ま さ ぬ 宇 宙 は、 私 の 生 き る に 堪 へ な い 砂 漠 でなくてはならない」 (『闇』一四四頁)という信念のもと、キリスト教信仰は続けていった。 それは上京以来、本郷にある中央会堂(本郷中央教会)に通う中でキリスト教理解を深化させ ていく。ここはメソジスト派であり、チャールズ・イビー宣教師によって一八九〇年に創設され た。牧師は九九(明治三二)年六月から高木壬太郎であった。 彼は一九〇〇年に駒込教会と兼任 となっており、まさにこの時に熊谷は中央会堂に出席し、日々、キリスト教に接した。本郷とい う立地から東京帝大、一高らの学生も多数出席していた。また、この会堂には木村清松、堺勝軍、
村田平三郎、山口三之助らキリスト教の「五目飯」とも形容されるような、多彩な人たちが参加 しており、彼等の教室や集会においても可能な限り出席した。そこはあたかも「得がたい大学の 教室」 (『薄明の記憶』一八三頁、以下『薄明』と略す)に匹敵する知識の宝庫であった。さらに 海老名弾正の本郷教会にも出席し、時には仏教講演会にも出掛けたと回顧しているように貪欲に 知識を吸収し、己の抱懐している難問への解答を探求していった。 (三)曾木銀次郎とC・J・L・ベーツとの出会い 一 九 〇 四 年 に な る と 高 木 牧 師 が 麻 布 教 会 に 転 会 に な り、 熊 谷 は 曾 木 牧 師 に つ い て 駒 込 教 会 に 転 会している。熊谷は曾木から、毎日英語の聖書の訳読を教えてもらうという幸運にも恵まれてい る。さらに中央会堂のC・J・L・ベーツのバイブルクラスにも出席している。曾木とベーツは 後に関西学院で再会することとなる。英語に熱心に取り組んでいた熊谷は中央英語夜学校に入学 し、また石川角次郎の創設した聖学院にも入り英語夜学校に通った。学院の優秀な先生から多く の事を学んだ。とりわけ角次郎の実弟、 英文学者石川林四郎によって、 米国の詩人ロングフェロー ( Longfellow ) の エ ク セ ル シ ア( Excelsior ) と い う 詩 に 出 会 う。 こ れ は 彼 の 魂 を 揺 さ ぶ る ほ ど 思 い出深いものとなっている。 「いや高く」 「さらに高く」といった意味のラテン語であった。まさ に彼は 「エクセルシア」 という言葉のとおり、 人生を駆け上がって行こうとしていた。熊谷は 「目 の見えるものが三年でやるならおれは五年でやろう。彼らが五年でかかるものならおれは十年か かってもやり通してみよう、いや一生かかっても、死んでしかるのち止むべし――という決心を 固めさせてくれた」 (『薄明』一九〇頁)と前向きな姿勢であった。
『 薄 明 』 に は「 キ リ ス ト 教 ヒ ュ ー マ ニ ズ ム 」 と い う 一 節 が あ る。 盲 唖 学 校 に は 校 友 会 と い う も のがあり、毎月一回例会で討論会や演説会をもつのである。しかしこれには女生徒と東京養育院 から通う学生がいたが彼等は参加出来なかった。熊谷はこうした不合理な差別待遇を看過するこ と が 出 来 な か っ た。 彼 が そ の 会 長 に 就 く 条 件 と し て こ の 解 決 に 向 け 尽 力 す る。 「 汝 ら 人 を か た よ り 見 る こ と な か れ 」「 も は や ユ ダ ヤ 人 も な く ギ リ シ ャ 人 も な く、 奴 隷 も 自 由 人 も な く、 男 も 女 も な い、 あ な た 方 は み な キ リ ス ト イ エ ス に あ り て 一 つ だ か ら で あ る 」( 一 九 三 頁 ) と い う 聖 書 の 教 えや平等観でもって、 学校側を説き伏せ、 養育院にも会費の件で折り合いも付き万事解決していっ た。 こ れ を 熊 谷 は「 盲 唖 学 校 始 ま っ て 以 来 の 大 革 命 」( 一 九 五 頁 ) と 評 し て い る。 ま た 日 露 戦 争 に対しては「非戦論」を唱えたりしたということである。多くは教会や説教等から学んだ人間観、 ヒューマニズムからの抵抗であったろうか。 (四)盲学校時代の思想―『六星の光』から 東京盲唖学校には一八九二年から既述した『盲人世界』という点字雑誌が、九四年からは『盲 生同窓会報告』が発行されていた。その二つの雑誌を合併し一九〇三年から『六星の光』 (『むつ ぼしのひかり』 )が発刊された。 一九〇九年の熊谷の「盲の手引き」 という論文を見てみよう。 ひとたび、ヘレン・ケラーの伝を読む者は、何人直ちにサリブアン嬢のあるに気づくべし。 ヘ レ ン が 今 日 あ る 所 以 の も の は、 主 と し て 嬢 の 力 な り と 言 う も、 あ え て 言 い 過 ぎ に は 非 ず。 も し、 そ れ サ リ ブ ア ン 嬢 が 長 く 失 明 の 生 涯 を 送 り、 パ ー キ ン ス 盲 育 院 に 盲 人 と し て 教 育 せ ら れ、 つ い に 盲 人 と し て 同 院 を 卒 業 し た る 者( 卒 業 後、 目 明 き と な れ り ) と 知 ら ば、 読 者
は 更 に 驚 く な る べ し。 し か も ヘ レ ン が 今 日 に 至 り え し 意 味 は、 さ ら 明 ら か に 読 者 の 脳 中 に 描かるならん。― ―略――(引用文中の注番号は省略した) と 述 べ、 終 り に、 「 盲 人 自 ら 盲 人 を 教 育 界 の 牛 耳 を 執 る に 至 る ま で は、 我 が 盲 人 教 育 の 完 全 な る 発達は、到底望むべからずと言わんと欲す。されば、心ある盲青年男女は大いに自ら修養し、他 日の盲人新世界を作るべき土台石ともなり。迷える輩(ともがら)の手引きともなるの覚悟なか るべからず。学べよや我が友」と盲人教育の大切さを強調している。 熊 谷 は こ の 雑 誌 に 他 に も 多 く の 論 文 を 掲 載 し て い る。 こ の 学 校 を 卒 業 し て か ら に な る が、 『 六 星の光』 一〇〇号 (一九一二年三月二八日) に 「六星の光第一〇〇号発刊を祝す」 という小論 (祝 辞)を執筆している。ここで熊谷は一〇〇号までの歴史に関わる主なトピックを簡単に紹介しな がら、次のような文章で結んでいる。 ああ六星、汝の光はかすかなりしかどよく我が盲界一部の闇を照らし得たことを感謝する。 お お し く も 幾 春 秋 の 雨 露 と 闘 い こ こ に ま た 希 望 の 春 を 迎 え、 ふ く い く た る 桜 花 の 元 に そ の 光 を 益 々 輝 か す べ き 時 は 来 た。 祝 う べ し、 祝 す べ し、 汝 の 名 を 多 く の あ ら た む べ き も の を 有 す る は 我 人 の と も に 認 む る と こ ろ あ ら た む る は す な わ ち 進 歩 で あ る。 常 に 進 歩 し て 止 む な か れ、 汝の前途は益々多忙。請う幸いに自愛せよ。 本誌第一〇〇号を記念するにあたり、おさえんと欲してあたわざる観想の一部を記して祝 辞に代ゆとしかいう(最後に記者ならびに読者諸君の万歳を祈らしめよ) 。 このようにして一九〇六(明治三九)年三月、熊谷は四年間の学業を終えて無事、東京盲唖学 校技芸科を卒業する。それは「さらに高く」新しい生き方を求めての船出であった。熊谷が卒業
後 に 就 い た の は 横 浜 の 基 督 教 訓 盲 院 や 東 京 の 同 愛 訓 盲 院 な ど で の 教 師、 埼 玉 県 の 豪 農 大 越 家 の マッサージ師として糊口を凌いだ。 横浜訓盲院はアメリカ人ミセスC ・ P ・ ドレーパーにより、 横浜市内に 「盲人福音会」 として設立、 一九〇〇年に神奈川県より私立学校として認可され、 「横浜基督教訓盲院」 と改称されている (『光 を求めて九十年』 、横浜訓盲院、参照) 。一九〇九年からはメソジスト教会牧師の大喜見源一郎が 経営する同愛訓盲院に移る事となる。同愛訓盲院は〇六年に創設されるが、当時は「浅草雷門の 後のごてごてした仲店通りに一軒の民家を借り受け、教会と学校の授業」 (『薄明』二〇〇頁)を しており、熊谷はここで普通科と鍼按科を一人で教えた。 ところでこの頃、彼の目的とした二つのことがあった。その一つは英語学習である。それは当 時、日本語の点字書は少なく、多くの事を勉強しようと思えば、英語を勉強し古今の名著を英語 の点字書で読まなければならなかった。もう一つは神学校に入りたいという望みである。卒業後 の数年間は言わば人生へのさらなる準備期間であったように映る。それは英語習得や神学研究へ の期待である。そしてこの二つの夢は明治末年、神戸に移転したことを契機に実現していくこと になる。 四、関西学院時代 (一)関西学院へ 一 九 一 二( 明 治 四 五 ) 年 二 月、 中 村 京 太 郎 の 勧 奨 も あ り、 東 京 を 去 り 神 戸 訓 盲 院 の 教 師 と し て 神戸に赴任し、左近允孝之進の創設した学校で働く。左近允は日清戦争従軍後に白内障によって
二六歳で失明し、 神戸に移り、一九〇九年、神戸訓盲院(今の兵庫県立盲学校)を創設した。一方、 同年夏、中村京太郎は好本督の援助によって英国に留学することとなった。熊谷にとってこれを 見 送 る と い う「 実 に 寂 し い『 鹿 島 立 ち 』」 (『 薄 明 』 二 〇 二 頁 ) で あ っ た。 そ し て「 次 の 留 学 は お れだぞ」と決心したという。 か く て 熊 谷 は 関 西 学 院 に 入 学 し、 こ こ 数 年 抱 懐 し て い た 神 学 を 学 ぶ こ と に な る。 関 西 学 院 は 一八八九(明治二二)年九月、W・R・ランバスによって神戸原田の森に創設されたメソジスト 系のミッションスクールである。したがって神学部は当初から学院の重要な部署であった。何よ りも心強いことは、東京時代にキリスト教や英語の教師でもあったC ・ J ・ L ・ ベーツ( Cornelius John Lighthall Bates 一 八 七 七 ~ 一 九 六 三、 以 下 ベ ー ツ と 略 す ) と 曾 木 銀 次 郎 と 関 西 学 院 で 再 会 したことである。 (二)ベーツと曾木銀次郎 ベ ー ツ は 一 九 〇 二 年、 東 洋 伝 道 へ の 献 身 を 決 意 し て 来 日 し、 当 初 は 主 と し て 東 京、 そ の 後 山 梨 の 教 会 に お け る 宣 教 活 動 に 従 事 し た。 既 述 し た よ う に 東 京 に お い て 熊 谷 は ベ ー ツ の ク ラ ス で 知 己 と な っ て い た。 そ し て 一 〇 年 九 月 に 家 族 と 共 に 関 西 学 院 に 到 着 す る。 二 年 後 の 一 二 年 四 月、 関 西 学 院 に 高 等 部 が 設 置 さ れ、 高 等 学 部 長 と な る。 そ し て こ の 年、 ベ ー ツ は「 Mastery for Service 」という学院の方針を発表した。後に彼が院長や学長に就き、関学のスクール ・ モットー ( School Motto )として提唱されていくこととなる。 一方、曾木は福岡中津の生まれである。 曾木は中津尋常中学校時代に山田小太郎の教導のもと
で 英 語 を 学 ん だ。 そ し て 大 阪 に 出 て 聖 公 会 牧 師 マ キ ム や モ リ ス か ら 指 導 を 受 け、 川 口 居 留 地 の 三 一 教 会 に 出 席 し て い る。 そ の 後 東 京 に 出 て 聖 公 会 ウ イ リ ア ム ズ 監 督 か ら も 影 響 を 受 け た。 牛 込教会の中山笑牧師から洗礼を受け、その後、関西学院で神学を学ぶことになる。卒業後は掛川、 新潟、築地、中央会堂、浜松らで牧師に就いた。そして一九一〇年関西学院の神学部助教授とし て就任した。専門は心理学や倫理学であった。 関西学院ではすでに、私がかつて東京で世話になつた曾木銀次郎先生とC・J・L・ベー ツ 先 生 と が 教 授 と し て こ こ に 来 て お ら れ た の と、 好 本 氏 か ら 吉 岡 院 長 に 当 て て 依 頼 状 が 来 ていたので、 入学は簡単に許可され、 翌大正二年の春私は関西学院神学部に学ぶこととなり、 成全寮に入寮し、晴眼学生と一緒に寮生活をすることになつたのです。 (『薄明』二〇二頁) こうして熊谷は三〇歳にして「長年の夢の実現」を果たした。神学部では聴講生となり、学費 は好本督によるものであった。高等教育機関の中で視覚障害者の入学は、戦前、特に明治期にお いて困難な状況であったが、一九一三(大正二)年に関西学院は熊谷の入学を許可した。 (三)学院での生活 熊 谷 は 当 然、 晴 眼 者 の 中 で 唯 一 の 全 盲 の 視 覚 障 害 者 で あ っ た。 「 然 し 先 生 方 も 学 生 達 も 皆、 親 切にして呉れるので、教室の仕事は楽にやつてのけられた。学生達と一緒に山登りもすれば旅行 にも行く、点字の本を沢山持つているという理由で、寄宿舎でも特に一人で一室占領することを 許 さ れ た 外、 凡 ゆ る 面 に 於 て 便 宜 と 協 力 を 惜 し み な く 与 え て く れ た 」( 『 見 へ ざ る 聖 手 』 四 六 頁 ) と学校当局と学生に感謝を捧げている。とりわけ在学中に特筆大書すべきことは、英国製の点字
辞書が与えられたことである。東京盲唖学校では「君一人のためにそんな事は出来ない」と拒否 されたが、関西学院ではこれを海外から取り寄せてくれた。時の神学部長はニユートンであった。 或る日、神学校のチャペルで、私が特に前に呼び出され、この膨大な点字辞書の授与式が 行 わ れ た。 ニ ユ ー ト ン 博 士 の お 話 が あ つ た 後、 私 が 感 謝 の 言 葉 を 述 べ る 順 番 に な つ た。 立 つ て 二 言 三 言 話 す と、 も う 胸 が 一 ぱ い に な つ て、 言 葉 が 続 け ら れ な く な り、 は ふ り 落 つ る 涙 を 止 め る す べ も な く、 そ の ま ま 立 ち 往 生 し て し ま つ た。 チ ヤ ペ ル は 万 堂 水 を 打 つ た よ う に 静 ま り 返 つ て い た。 や が て ベ ー ツ 先 生 が 立 た れ て、 私 の 東 京 に 於 け る 苦 心 な ど を 語 ら れ「 意 志 と 努 力 の 尊 さ 」 と い つ た よ う な 事 を 話 し て 居 ら れ る う ち に、 私 の 興 奮 も や や お さ ま り、 ど う や ら 感 謝 の 言 葉 を 述 べ る 事 が 出 来 た。 然 し 私 の 感 謝 は 言 葉 で は な く て、 こ れ 以 上 の も の な の で あつた。 (同右、四七頁) 彼にとって点字辞書は何にも代えがたい垂涎の的であったし、それが与えられた時は筆舌に代え がたい大きな喜びであったろう。 また熊谷は入学と同時に神戸東部教会でオックスフォード先生の聖書の話を通訳したが、それ は三年間続けられた。この経験は彼の英語力を一段と向上させる絶好の機会でもあった。先生か らは礼にと、新しいタイプライターが贈られた。そして英文で簡単な自叙伝を書いたが、これが カナダの雑誌に掲載され、単行本となって出版された。これによって学資も得られた。筆者はこ の著は未見であるが、発見出来れば彼には四冊目の自伝があることになる。 かくして一九一六(大正五)年三月、三年間学んだ関西学院の神学部を卒業し新しいキリスト 教 伝 道 の 職 に 就 き、 大 阪 に 任 命 さ れ る こ と に な る。 「 私 は い よ い よ、 人 生 の 荒 波 の 中 へ、 牧 師 と
いう盲人の 新 、 、 、 職業 実現という負荷をもって出発することになった」 (『薄明』二〇四頁)と吐露し ている。 五、キリスト教伝道者として―大阪へ (一)結婚と岩橋武夫との出会い 熊谷の伝道は大阪の市岡中学校附近で、この学校の前の民家を借り受け講義所を開くことから 始まった。大阪には東部、両国橋、福島の三つのメソジスト教会があったが、赴任したところは 信者もなく、いわゆる開拓伝道であった。ここで聖書研究会や日曜学校、日曜日朝の説教など精 力的に伝道活動を展開した。時には福島教会や神戸のランバス伝道女学校での外人教師の通訳等 も 受 け 持 ち、 「 新 職 業 」 と 自 認 す る 己 れ 自 身 を 励 ま し な が ら 昼 夜 奮 闘 し た。 ち な み に『 大 正 六 年 日 本 メ ソ ヂ ス ト 教 会 第 拾 回 西 部 年 会 記 録 』 に は「 市 岡 講 義 所 補 助( 熊 谷 鉄 太 郎 )」 ( 二 七 頁 ) と 記されている。 そして熊谷の生活において大きな変化が起きたのは、一九一七(大正六)年四月二日、福永み ねとの結婚である。 場所は福島教会で行われた。 相手のみねは関西学院の友人福永盾雄の妹であっ た。お互い何もない同士の結婚で、花嫁道具も行李一つと古い布団一組というものであったと回 顧している。関学時代の友人浜崎次郎の手紙に「市岡にも春が来た」 (『薄明』二一九頁)という 文言があり、貧しい生活ではあったが彼にとっては「人生の春」であった。 結婚の翌月、熊谷は大阪市立盲唖学校で講演を頼まれることとなる。この講演をとおして、そ こで学んでいた岩橋武夫との出会いがあった。 岩橋は熊谷に会うや「失明後初めて生き甲斐のあ
る人生を見出したような気がします」 (『薄明』二一一頁)と感想を述べた。そして近くの救世軍 小隊を借りて盲学生のための聖書研究会を開くことになる。岩橋もヨハネ伝九章の説明にも大き な 感 動 を も た ら し た。 岩 橋 も 将 来、 新 し い 職 業 を 目 指 し て い る こ と を 知 り、 関 西 学 院 の 英 文 科 を受けることを岩橋に推奨する。この案に彼の両親も喜んだ。かくして「関西学院の入試まで私 と 武 夫 君 の 必 死 の 英 語 学 習 が 始 ま り ま し た 」( 『 薄 明 』 二 一 二 頁 )。 岩 橋 は 雨 の 日 も 風 の 日 も 妹 の 手に引かれ市岡まで通う。トマス・グレイ、アルフレッド・テニソン、マコーレーなどを勉強し、 またタイプライターも教えた。そして熊谷は岩橋を関西学院に連れて行き、学院の先生や外人教 師、ベーツにも紹介した。こうして岩橋は関学に入学し、己の道を切り拓いていく。 (二)盲人文化運動ー東亜盲人文化協会 大 阪 赴 任 間 も な く 熊 谷 は「 東 亜 盲 人 文 化 協 会 」 と い う 視 覚 障 害 者 の 文 化 団 体 を 計 画 し た。 そ れ は大阪に中央盲人会館を創設し「盲人に関する調査研究活動を行ない、東亜の盲人文化の向上に 寄与するために、上海・南京・尼港・香港などで宣教師の経営する盲学校と連絡をとり、将来は 英国のピアソン氏の経営する英国盲人協会のようなものにまで発展させたいという構想」 (『薄明』 二〇八頁)であった。 この計画は一九二〇年より開始される。同年二月二八日の『大阪毎日新聞』には「盲人文化運 動開始 熊谷盲牧師の根性に成れる 東亜盲人文化協会」という見出しで次のように報じている。 日本基督教界に於ける盲人牧師として知られたる神戸関西学院出身の熊谷氏は自ら外国語 の 研 究 及 神 学 哲 学 の 研 究 に 関 す る 卅 余 年 間 の 経 験 に よ り 盲 人 の 向 上 に 就 き 予 て 極 度 の 同 情
を有し居れる人なるが盲人をして人類の文化を共有せしむる目的により今回中村平三郎、 吉 田 利 一 郎、 小 泉 鉄 管 商 会 主、 早 川 商 会 主 等 富 裕 な る 出 資 者 の 賛 同 を 得『 東 亜 盲 人 文 化 協 会 』 と い へ る を 組 織 し 概 要 左 部 の 如 き 事 業 を 実 行 す る 筈 に て 二 十 六 日 午 後 六 時 よ り 大 阪 両 国 橋 教 会 に 発 起 人 会 を 開 催 し、 上 記 賛 同 者 は 固 よ り 名 出 牧 師、 佐 島 大 阪 青 年 会 理 事、 宮 島 大 阪 盲 唖 学 校 長、 赤 沢 牧 師、 神 戸 の 賀 川 豊 彦 氏 等 十 余 名 出 席 熟 議 す る と こ ろ あ り、 更 に 実 行 委 員を挙げて各般準備に着手することとなれり。 そして具体的に 「内部的事業」 と「外部的事業」 とに分けて、 それぞれの事業を列挙している。 「内 部的事業」に挙げているのは、▲各種点字雑誌の発刊▲普通書籍の点字翻刻▲点字の普及▲点字 の改良▲欧米先進国の盲人教育法輸入▲盲人教育に関する図書館の設置▲従来職業の保全▲新職 業の研究▲職業の紹介▲盲人寄宿舎の設備▲盲人事情の調査▲盲青年に対する高等教育の補助で あ る。 一 方、 「 外 部 的 事 業 」 と し て は ▲ 盲 人 保 護 法 の 制 定 ▲ 点 字 の 公 認 運 動 ▲ 按 鍼 試 験 法 の 改 善 ▲社会の盲人保護方法の攻究▲失明防止の方法攻究といった事業である。こうした構想をもって 展開されていった。 (二)その展開 かくて愈々、東亜盲人文化協会の趣意書も発表された。 欧米盲人教育者の意見に従えば、盲人教育とは、失明によりて生じたる一切の障害物を取 り 除 く「 手 段 」 で あ り ま す。 失 明 に よ り て 生 じ た る 一 切 の 障 害 物 の 取 り 除 か れ た る 以 上、 盲 人 と い え ど も、 も は や「 定 め な き に 」 を 託 ち つ つ「 憂 き こ と を の み 」 と す る 憐 れ む べ き 喪 失
者 で あ り ま せ ん。 生 を 楽 し み、 人 道 を 愛 し、 人 類 の 文 化 に 貢 献 し つ つ、 こ れ を 共 有 す る 道 理 た る 一 個 の 人 格 で あ り ま す。 か く の 如 く な る は、 畢 竟、 教 育 機 関 や 読 書 機 関( 点 字 出 版 所 お よ び 図 書 館 ) の 設 備 な い し 職 業 的 に 盲 人 を 援 助 す る あ ら ゆ る 機 関 が 完 備 し て お る か ら で あ り ま す。 現 代 は、 組 織、 制 度 の 世 の 中 で あ り ま す。 こ れ が 完 全 と 不 完 全 と は、 社 会 が 栄 ゆ る か 滅 ぶ る か の 分 か れ る と こ ろ で あ り ま す。 ま し て、 五 感 中 も っ と も 大 切 な る 視 力 を 失 っ た 人、 目 明 き と 肩 を 並 べ て 競 争 場 裏 に 成 功 を お さ め よ う と す る の は、 必 ず や 完 全 な る 組 織、 制 度 の 援助がなくてはならぬことは、もっとも見易い道理であります。 しかしその後の展開については詳らかではない。これには米国南メソジスト教会監督のランバ スと早川商会主が後援者となったが、二人とも亡くなってしまう。構想した協会の宣伝や計画の ために費やしたお金は戦後不況と相まって借金のみが残ったが、市内法庵寺(真言宗)の住職和 田達源が借財を払ってくれ、この運動は失敗に終わったが、これが新しい文化運動の始まりでも あった。 その一例が「触覚による文化見学」というものである。これは現代文明の利器を集めて、視覚 障害の人に手で触れて理解していくという試みである。これには大阪の多くの視覚障害の人が参 加し、大きな成功となった。これに協力をしてくれた中に幸徳事件との関わりがある高尾亮雄も いたのも興味深い。そして次に大阪中央公会堂を会場にして「全国盲人大会」という企画も実行 し、さらにエロシェンコの講演会も開催した。 そして、盲人文化運動としては、橋本甚四郎の点 字出版事業とエスペラント運動の二つである。エスペラント運動、これには先述の高尾らのエス ペランティストが流入し、岩橋武夫らも加わっていくことになる。そしてエロシェンコを大阪に
招聘することとなり、彼は一〇日ほど大阪に滞在し、エスペラント研究を助けた。 盲 ヴ ァ イ オ リ ニ ス ト 杉 江 泰 一 郎 の こ と も 触 れ て お こ う。 杉 江 は 京 都 盲 唖 学 校 を 卒 業 し、 東 洋 音楽学校に入学し、卒業後は日本初の盲ヴァイオリニストとして生きていこうとした。練習を積 み実力的には優秀なヴァイオリニストとなったが、視覚障害というハンディ故にそれでもって身 を立てることができない事実に直面する。熊谷は大阪にいる杉江を探し当て自分の家に招き入れ、 「 こ の こ と は 一 人 杉 江 君 だ け の 問 題 で は な く、 日 本 盲 人 の 将 来 に か か わ る 重 大 な 問 題 」( 『 薄 明 』 二二二頁)と認識した。そして大阪市立盲唖学校の宮島茂次郎に依頼し、同校の音楽教師に採用 してもらうこととなった。 この宮島に対する必死の援護は熊谷にとって自己の 「生命を賭して闘っ ているこの大理想」 (同右) 、すなわち「盲人新職業論」の実現であった。 一九二二(大正一一)年四月、熊谷は大阪から山口県柳井に転任する。同年五月、大阪毎日新 聞社の事業として『点字毎日』が発刊されることとなった。その中心人物は中村京太郎であった。 一 方、 二 三 年 に は「 盲 学 校 及 聾 唖 学 校 令 」 が 公 布 さ れ、 盲 学 校、 聾 唖 学 校 と 分 か れ、 視 覚 障 害 児・者の学校教育へ転換される起点となった。時代は昭和に入り、二九年には世界大恐慌が勃発 し、世界状況はますます混沌とし、一方、日本は大陸に着々と侵攻していった。そういう状況下 で熊谷は二七年には山口県宇部教会に赴任し、翌年には按手礼を受け正式の牧師となり、三一年 に国際会議出席という思わぬチャンスが訪れることになる。
六、国際盲人奉仕者会議とドルー大学留学 (一)国際盲人奉仕者会議(ニューヨーク)への出席 熊谷にとって、海外に行くということは夢のような出来事である。以前、中村京太郎の英国へ の旅立ちを淋しく送り、また大正末期に後輩でもある岩橋武夫が英国スコットランドのエジンバ ラ大学に行ったこともあり、 「海外へ」という一つの夢が実現した。 一九三一 (昭和六) 年四月、 ニューヨークにおいて国際盲人奉仕者会議への日本代表のメンバー に選出されることとなった。参加メンバーの多くは、東京盲学校の秋葉馬治校長、名古屋盲学校 の橋村徳一校長、点字毎日の中村京太郎主筆らであり、それぞれ遠征費用のバックを有する人た ちであった。その点熊谷は自分で遠征費用を工面する必要があった。何とか友人、知人の援助を 求めて三千円ほど集められた。 そして熊谷だけシアトル経由となった。 しかしシアトル、 バンクー バー、ヴィクトリア等で講演を依頼され、予想外の二百七十ドルを入手し、ニューヨークに着す る。宿舎はニューヨークの「ホテル・ペンシルヴェニア」十六階の部屋であった。東京盲学校の 秋葉校長と同室であった。彼は回顧する。 思えば 「ツブタラケ」 の丸子屋で猫の子一匹を友として育った 「ツブタラケの座頭ボンズ」 が 今 こ の 世 界 の 都 ニ ュ ー ヨ ー ク で、 し か も こ の 大 ホ テ ル の 一 室 に 横 た わ り、 世 界 三 十 六 カ 国 か ら 集 ま っ て 来 る そ の 道 の 大 家 と 手 を た ず さ え て、 人 類 福 祉 の 一 環 た る 世 界 の 盲 人 の 問 題について、互いに討議し計画しようとしているのです。 (『薄明』二二六頁) 会議はこのホテルの十八階の大会室であった。三〇〇人程の出席者であり、 盲教育、 盲人の職業、 世界盲人の文化交流、 ・ 提携等が論題された。熊谷も日本代表として彼の自説 「新職業論」 を展開し、
点字本の交換について提案を行った。毎日朝九時から講演と討論、 歓迎会、 晩餐会、 円宅会議等々 ぎっしりとスケジュールが組まれ、毎晩一二時くらいが就寝時となった。また加えて一週間ほど、 アメリカ各地の盲学校、盲人施設見学があった。フーヴァー大統領にも面会し、見学のツアーが 終わると大会が再開され、三週間の会議が終了した。 (二)大会後の各地の訪問とドルー大学での学び 大会終了後も熊谷は小室牧師の案内でメトロポリタン・ミュージアムにロダンの彫刻を見学に いっている。ここで視覚障害者として直接障ることが出来る許可書を得て、触れることによって ロダンの芸術の力に強い感動を覚えた事を記している。日本で試みた「触覚芸術」の経験が蘇っ てきたことと思われる。また、小室と同伴で、二月の或る日、ヘレン・ケラー宅を訪れている。 その後、シカゴに行きミスター・ウィクリーを尋ね、シカゴの街を案内される。そしてテキサス、 メキシコを通ってロサンゼルスに落ち着く。ここで熊谷夫妻の仲人であった徳憲義に逢い、太平 洋沿岸を講演・説教旅行をしてまわり、滞在費と学費を得ている。つまり米国行きのもう一つに 大きな目的があった。それは九月からドルー大学の神学部に学ぶことで、その為にニュージャー ジー州のマディソン市へ行く。 ド ル ー 大 学( Drew University ) は 一 八 六 七 年 創 設 の メ ソ デ ィ ス ト 系 の 大 学 で あ り、 創 立 当 初 は ド ル ー 神 学 校( Drew Theological Seminary ) で あ る。 彼 が 訪 れ た 時 は リ ベ ラ ル ア ー ツ の 大 学 となっていた。日本人では本多庸一、吉岡誠明、そして河辺満甕もここで学んでいる。熊谷はこ の神学部で九月から二月まで個室の寄宿舎と奨学金を得て研究生活をした。その後、ニューヨー
クに出て盲学校とボストン近郊のパーキンス盲学校( Perkins School for the Blind )を訪れ、四 月からカリフォルニアとハワイで伝道を助けて一九三二年秋に帰国した。この一年半の間、憧れ の外国での国際会議と講演、訪問、そして留学とそれもほとんど一人旅であった。国際的な感覚 もすでに身に付けた人間へと成長していった証明でもあった。 熊 谷 が 米 国 に 行 っ て い た 時、 日 本 は 一 九 三 一( 昭 和 六 ) 年 九 月 に 満 州 事 変 が 勃 発 し、 そ の 後 の 軍部の侵攻は続いていく。そして翌年には溥儀を担いで、満州国を作り上げた。丁度、熊谷が帰 国 時 に 合 わ せ る よ う に 大 き な 政 治 的 事 件 が 続 い て い っ た が、 そ う し た 一 連 の 動 き を 彼 は 米 国 で 知っていたのだろうか。確かにこのような動きは『見えざる聖手』でも叙述されている。リット ン調査団が日本の侵略に対して調査をし、それは認められなくなり、遂に日本は国際連盟を脱退 していく。それはアジア・太平洋戦争へと続いていく戦争への道であった。 七、帰国後の牧師活動―『宗教の本質』をめぐって (一) 『宗教の本質』の上梓目的 帰国した熊谷は広島、神戸の御影で伝道活動をし、一九三四年三月に彼は『宗教の本質』とい う著書を基督教出版社から上梓する。最初の「序に代へて」ではこの著の意味や目的が書かれて おり、 「昭和九年紀元節の日」 、「広島県観音町 日本メソジスト広島西部教会牧師館」 となっている。 こ の 著 作 の 扉 に は「 本 書 を 信 仰 の 父 母 三 谷 雅 之 助 先 生 並 び に 同 令 婦 人 に 献 ぐ 」 と あ り、 一九三三年三月から九月迄の七ケ月間『福音と思想』誌に連載されものであって、それをまとめ て一冊の本にしたものである 。三年前に刊行した『闇を破って』での「東京へ出てから」という
一項は「科学、哲学(殊に)仏教等々々と種々様々の思想の渦巻に巻き込まれ、危く破船の浮目 を見んとした著者の悩みの記録」であり、本著はその悩みの中から生まれ来た結論の一部である と記す。渺たる一冊に過ぎないが「信仰と智識との調和を見出しかねて苦しんで居る求道の友に 献げ、いさゝかなりともその道案内となる事が出来れば」と上梓目的を披瀝している。 (二)その内容 その内容は次の四講から構成され、その骨子のみみておきたい。 第一講「宗教の定義」では宗教とは「求める人間と求められる神との間に行はれる交渉は、少 く と も 人 格 的 の 要 素 を 想 定 と し て 」( 七 頁 ) 成 り 立 っ て い る。 し た が っ て「 宗 教 と は 神 と 人 と の 人格的交渉である」 (九頁)と定義する。 第二講「宗教の起源(その一) 」では、その重要な要素として「主観的要素」と「客観的要素」 の 二 つ が あ る と す る。 こ の 講 で は 特 に「 主 観 的 要 素( 内 的 )」 に つ い て 説 明 す る。 つ ま り 主 観 的 要 素 と は「 人 間 性( Human Nature )」 そ の も の ゝ 一 部 で あ っ て、 決 し て こ れ を 引 き 離 す こ と の 出来ない有機的関係を持つてゐるところの精神現象」であり、換言すれば、宗教は「実に最も重 要な人間本能( Human Instincts )」 (一一頁)であるとする。 第 三 講「 宗 教 の 起 源( そ の 二 の 上 ) と( そ の 二 の 下 ) で は 二 つ 目 の「 客 観 的 要 素( 外 部 )」 に ついて「宗教の起源はこれを内面的に考察すれば、人間性そのものゝうちに、殊にこれを個有し た一種独特の本能中に求めらるべき、これを外面的に見れば、人間の持つて生れたこの特種の本 能 を 満 足 せ し む べ き、 『 特 種 の 対 象 物 』 と し て 宇 宙 の あ ら ゆ る 現 象 を 通 じ て こ れ に せ ま っ て 来 る
と こ ろ の、 『 或 る 物 』 の う ち に、 求 め ら る べ き も の で あ る と 云 ふ 結 論 は 何 と 云 つ て も 避 け 難 い と ころだと信じます」 (三九頁)と論じる。 第 四 講「 神 に 関 す る 考 へ 方 即 ち 神 の 観 念( 神 観 論 )」 で は、 神 に 対 す る 考 え 方「 神 観 」 に つ い て 講 じ て い る。 具 体 的 に は「 多 神 教 的 神 観 」「 汎 神 論 的 神 観 」「 唯 一 神 或 は 有 神 論( 一 神 教 )」 に ついて説明し、 「多神教的神観」 「汎神論的神観」の二つを駁し、 三つ目の「唯一神或は有神論(一 神教) 」の正当性を主張し、 「斯くの如く一神教的神観は、宗教的には勿論のこと、智的にも、道 徳的にも、審美的にも、我々の全要求を満足せしむ得る、最も完全な(今日存在する種々なる思 想大系のうちで)思想大系であります。従つてそこには、宗教と芸術と学問との間に、初めて円 滑な調和の保たるべき事を高潮して止める次第であります」 (七一~七二頁)と結んでいる。 このように、熊谷は東京盲唖学校時代からの迷いは消滅し、一神教のキリスト教を中心的な宗 教として理解し、彼の伝道者としての根本的な思想を公にした。それは当然、関西学院での学び や伝道において確信を得た結論の披瀝であったことは言うまでもなかろう。 八、総力戦体制下で (一)牧師職の隠退 一九三七(昭和一二)年七月七日、日中戦争が勃発し、四月に初来日していたヘレン・ケラー も急遽帰国することとなった。この戦争によって日本はますます軍部の力が強くなり、翌年には 国家総動員法が成立し、総力戦体制に入っていった。三九年には「宗教団体法」も通り、四〇年 には紀元二六〇〇年の祝賀があり、日独伊三国軍事同盟も締結された。翌年一二月八日に、日本
は 米 国 ハ ワ イ の 真 珠 湾 に 奇 襲 を か け、 米 英 に 宣 戦 布 告 し て ア ジ ア・ 太 平 洋 戦 争 が 勃 発 し て い く。 この間、戦争は次第に激しくなり、国家の弾圧もキリスト教界にも波及する。ホーリネスや灯台 社、救世軍なども弾圧を受けることとなる。 かかる情況の中で「私を非戦論者といって告発する 男がいたりして、特高に呼び出されるという事件が起こったのです。私は正面きった演説をした おぼえはありませんが、盲学校以来血肉化してしまった反戦思想は、どこかしら『説教』の中に 出るものとみえます。 」( 『薄明』 二三二頁) とある。こうして 「教会に対する思想的、 経済的負担」 を考慮し、 一九四〇年、 牧師職の隠退を決意する。五七歳のことである。そして暫く鍼按マッサー ジで生活し、世に隠れて暮らしていたが、思いがけず外国赴任の話が来る。それも戦争が厳化す る状況でのことであった。 (二)タイのバンコクへ 一九四三(昭和一八)年七月、外務省を通して日泰文化会館の属員として、タイ国バンコクに 赴任することが要請される。バンコクの盲学校の創立者、米国のコールフィルド女史が軟禁され、 後を日本人に経営して貰いたいという女史の願いがあってのことである。そして熊谷にこの仕事 に 就 く 要 請 が き た の で あ る。 な に ぶ ん 戦 禍 の 最 中 で あ り、 「 再 び 故 国 の 土 は 踏 め な い も の と 覚 悟 して」 (『薄明』二三三頁)二人の娘を連れて、家族四人でタイに赴任する。七月三日に神戸を出 て、途中、サイゴン、プノンペンを経てバンコクに着したのは八月七日であった。一ヶ月以上費 やしており、如何に行くだけでも大変なことであった。しかし異国での盲学校運営にはその国の 事 情 も あ り、 順 風 満 帆 に 都 合 良 く 運 ば な か っ た。 「 私 は 一 週 間 二 日 ず つ 盲 学 校 で 日 本 語 と 衛 生 学
を教えることになりましたが、だんだん空襲がはげしくなり、盲学校へも流れ弾が落ちて大分ひ ど く 破 損 し た の で、 学 校 は バ ン コ ッ ク 市 内 か ら 遠 い 田 舎 へ 疎 開 す る こ と に な り ま し た 」( 『 薄 明 』 二三四頁) 。これを機会に熊谷は盲学校講師を辞職する。 こうして一九四四年七月八日、志が成就できないまま、不本意な気持ちで帰途につくが、これ もまた大変な行程であった。それは軍用貨物列車でプノンペンまでいき、九月三日サイゴン出発 以来三ヶ月半危険きわまりない帰途であった。一二月一九日、神戸に無事着したときは裸同然で あり、 四五年三月大分県国東半島で無給伝道をしながら、 ようやく八月の終戦を迎えることとなっ た。熊谷は既に還暦を過ぎ六二歳の時であった。 おわりに―見果てぬ夢 以上、戦前を中心に簡単に熊谷鉄太郎という人物の生涯を見てきた。一人の人物や思想、折々 の機会での偶然的な出会いが、人生に大きな影響を与えることを実感した。ところで熊谷は生涯、 「 内 省 的 盲 人 心 理 学 」 と い う よ う な 著 作 を 書 き た い 希 望 を 持 っ て い た。 彼 に と っ て 盲 人 の 本 当 の 要求は「われわれの心の中(気持)を知ってもらいたいということであります」と述べるように、 人々の同じ人間として真の理解と寄り添い(共感)ではなかったか。 熊 谷 は 七 六 歳 の 時、 妻 み え 子 と、 一 九 五 九 年 一 二 月、 東 京 都 青 梅 市 に あ る「 信 愛 荘 」( 日 本 基 督教団隠退牧師老人ホーム)に入り余生を過ごした。みえ子は六二年三月脳血栓で倒れ、熊谷は 献身的に妻の介護にあたった。しかし七一年一二月一二日、妻は七四歳で天に召された。葬儀は 長年夫とともに住み馴れた信愛荘で級友・浜崎次郎牧師の司式で行われた。残された鉄太郎はそ
れから八年後、七九年七月一一日、みえ子のもとへ旅だった。九六歳の生涯であった。 最 後 の 著『 薄 明 の 記 録 』 の 終 わ り は「 見 果 て ぬ 夢 」 と い う 項 目 で 終 わ っ て い る。 「 私 の 夢 は 日 本盲界の夢なのです。私自身の終着駅はここ青梅市の一角でありましょう。しかし私の夢は私と ともに、ここに葬られるものではありません。必ずいずれの日にか、誰か有意の盲青年が、未完 成 の 私 の 夢 を 完 成 し て く れ る こ と と 信 じ ま す 」( 二 三 五 頁 ) と。 そ し て「 得 べ く ん ば ま た も め し いと生れ来て 見果てぬ夢の後を追いなん」という歌を記している。その夢を未来に託し、終の 棲家である青梅のホームで持ち続けていた。 「私の生涯の夢を一言でいえば、 『私もはばかりなが ら 人 間 よ 』 と 大 手 を 振 っ て 天 下 の 大 道 を 闊 歩 し た い と い う こ と で す 」( 二 三 七 頁 ) と し、 次 の よ うに語っていた。 大学の教室においても、盲学校の教壇においても、会社のデスクにおいても、工場のワー ク ル ー ム に お い て も、 基 本 的 人 権 を、 晴 眼 者 と 同 等 の レ ベ ル で 主 張 し、 ま た 尊 重 さ れ る べ き で あ る。 言 い か え れ ば 温 情 や 憐 憫 で な く 自 由 に 出 入 り す る こ と が で き る 世 界 を 造 り あ げ た い と い う こ と で あ り ま す。 『 み く に を 来 ら せ 給 え 』 と い う 私 の 祈 り に は、 こ う し た 世 界 が 意識的に、あるいは無意識的に心の中に彷彿しているのです(同右) 。 そしてこの著の最後に和歌三首が挙げられて終わっている。 我が夢は銀河の彼方億萬里 セラビム歌い ケ ラ 〔ル〕 ビム踊る 我は今久遠の道を歩みつつ ポ ( パ ウ ロ ) ーロ と論じ、仏陀と語る とことわに父のみむねに抱かれて みかおを仰ぐ夢 安らけき 熊谷の一生は「闇」の体験からキリスト教に救われた一生であった。そして福音を知ることに
よって、洗礼を受け、神学を学びキリストの伝道者として民衆、とりわけ障害ある人々への「よ き隣人」としての使いとなった。この世に生まれた人は同じ人間として幸福に生きる権利がある という当たり前のことが実現出来る日を夢見た生涯であった。 【注】 (1)森田はその著の五章「熊谷鉄太郎と盲人牧師への道」と六章「ジャーナリスト ・ 中村京太郎と牧師 ・ 熊 谷 鉄 太 郎 」 の 中 で 熊 谷 を 盲 人 福 祉 の 先 駆 者 の 一 人 と し て 評 価 し、 好 本 督、 中 村 京 太 郎、 熊 谷 ら を 論述しながら、近代日本における「盲人福祉の一つの系譜」を論証した。 ( 2) こ の シ リ ー ズ で は 視 覚 に 障 害 を 持 ち な が ら も、 そ れ を 克 服 し た 人 々 の 足 跡 が あ り、 そ の 背 景 に は 社 会 と の 軋 轢、 差 別 に 立 ち 向 か っ た 人 々、 差 別 を エ ネ ル ギ ー と し て 生 き た 人 々 の 偽 ら ざ る 吐 露 が 記 録 され、そこに共通する生き方や人生の意味、人権の課題などが読み取れる。 (3)例えば『日本キリスト教歴史大事典』 (教文館、 一九八九) 、『世界盲人百科事典』 (日本ライトハウス、 一 九 七 二 )、 『 関 西 学 院 事 典 増 補 改 訂 版 』( 関 西 学 院 大 学、 二 〇 一 四 ) で も 紹 介 さ れ て い る。 他 に 谷 合侑の『盲人の歴史』 (一九九六、 明石書店) 、『盲人福祉事業の歴史』 (明石書店、 一九九八)や『さ れ ど 育 て 給 う は 神 な り 』( 日 本 盲 人 キ リ ス ト 教 伝 道 協 議 会、 二 〇 一 一 ) と い っ た 通 史 等 で も 彼 が 取 り上げられている。 ( 4) 例 え ば 太 田 雅 夫 は「 『 自 伝 』 の 読 み 方 : 実 証 主 義 の 立 場 か ら 」( 『 桃 山 学 院 大 学 教 育 研 究 所 研 究 紀 要 』 九 号( 二 〇 〇 〇 ) と い う 論 文 で、 「 人 物 を 描 く と き に は、 そ の 人 物 に 惚 れ 込 む こ と が な け れ ば、 到 底 描 く こ と は で き な い で し ょ う。 し か し、 全 面 的 に 惚 れ 込 む の で は な く、 あ る 程 度 距 離 を お い て、 客 観 的 に そ の 人 物 を 観 察 し な け れ ば な り ま せ ん。 そ し て、 そ の 人 物 が 書 き 残 し て い る も の を 全 面 的 に 信 用 す る の で は な く、 実 証 的 に 検 証 す る 必 要 が あ り ま す 」 と 恩 師( 岡 本 清 一 ) の 言 葉 を 紹 介 し て いる。自伝についてのこの指摘は重要である。