ンス・ベルギーにおける景観調査より
著者
雪村 まゆみ
雑誌名
関西学院大学先端社会研究所紀要 = Annual review
of the institute for advanced social research
号
9
ページ
49-58
発行年
2013-03-31
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 研究ノート
1
.はじめに
アンリ・ルフェーブルによれば、都市計画の立案者は、専門知識にもとづいて、どのように建造 物を建て、道を通し、人々を配置するのかを決定することによって、空間を支配しようとする(ル フェーブル 2000 : 82−83)。パリの衛生問題と交通問題を解消するために行われた 19 世紀のオスマ ンによるパリ改造においても、建造物、広場あるいは大通りをいかに配置するのか、また大通りや 広場に面した建物のファサードをいかに統一するか、といった交通網の整備と景観の統一が目指さ れ、都市計画のひとつのモデルとなった。また、都市計画においては、新たに建築物や道路を配置 することと同時に、歴史的建造物をいかに扱うのかという点が重要な論点となっている。たとえ ば、19 世紀中ごろ、「歴史的建造物の周辺を撤去して周辺の都市組織から孤立させ遠くからでも認 識しやす」くする手法が欧州で頻繁に用いられていた(田中 2009 : 119)。この手法では、建造物 が眺望対象として堪えうるかどうか、について議論され、歴史的建造物をシンボルとすることのみ を目的としており、これまでの地域と建造物の結びつきについては省みられることはなかった。歴 史的建造物を孤立させ、野外に展示された芸術作品のようにみせる手法は、それが鑑賞対象となる という点で、結果的に地域とのかかわりのなかでの経験を剥ぎ取ることになる。この手法の是非は ともかく、歴史的建造物を取り壊し、新たな空間を生み出すのか、あるいはそれを残すのか、とい った判断は、その空間において、何を中心に据えるのかという問題と密接に関わる。あとで詳しく 述べるが、中心の創出は、社会秩序の維持ひいては空間の支配に必要不可欠な実践となるという点 で、都市計画の要といえる。 現代社会においては、世界遺産登録制度に代表されるように、歴史的建造物の保存が唱えられて いる。歴史的建造物単体の保存にとどまらず、その周辺まで保存の範囲を拡大する傾向にある。こ れは、地域に中心を創出する営みの一つであると考える。ただし、それだけでは社会秩序を維持す ることができないという問題も同時に生み出される。本稿では、都市空間において、歴史的建造物 のみならず広場、交通網がいかに配置されているのか、また、その配置を通じていかにして中心が 創出されているのか、フランスとベルギーの都市開発と景観保存について考察することを目的とす る。 まず、フランスにおける、歴史的建造物の周辺地域の保存に関する制度の始まりについてみてみ る。都市空間における中心の創出
−フランス・ベルギーにおける景観調査より−
雪 村 まゆみ
(関西学院大学社会学部助教) 関西学院大学 先端社会研究所紀要 第 9 号2
.ヴィシー政権と景観法
フランスの歴史的建造物の保護が公権力と密接に結び付いたのは、フランス革命期に遡る。実質 的な出発点となったのは、七月王政期の 1830 年、歴史的記念物総監の設置である。また、歴史的 建造物の周辺の保護に関する法制度は 1930 年法により保護区域制度が導入されたことによるが、 これは所有権との兼ね合いのなかで、強い効力を発揮できたとはいえなかった(稲森 2000 a : 49− 51)。 この状況が大きく変わったのは、第 2 次世界大戦期のヴィシー政権下である。ヴィシー政権は、 1940年 6 月にドイツ軍の侵攻を受けたフランスにおいて、フィリップ・ペタンを国家主席とし、 樹立された政権である。ヴィシー政権において重要な課題は、パリを含む国土の約 6 割がドイツに よって占領されたことによって失われる国家の自立性を保障することであった。この時期のフラン スは、敗北と国土の占領によって、国家意識にゆらぎが生じていたため、その醸成を図るため様々 な方策がうちだされていた。たとえば、占領を免れた北アフリカの植民地は、フランス国民の国家 意識の拠りどころとなった。つまり、ヴィシー政権は、以前はあまり関心が示されていなかった植 民地を利用することで、国家意識の醸成を図ろうとした(雪村 2011 : 66)。 1943年 2 月 25 日法律では、歴史的記念物法に歴史的記念物の「視界」という概念を導入した。 つまり、歴史的建造物のみならず、その視界(500 メートルを超えない界域内)に入る不動産につ いても、その改築を行う際に事前許可を取る必要があることを定めたのである(稲森 2000 a : 54− 57)。ここで興味深い点は、国家意識にゆらぎが生じている戦時期に、歴的建造物とその周辺の保 存についての制度が整備されたという点である。歴史的建造物およびその周辺の保存は、国家意識 の醸成と密接に関わっており、歴史的建造物が、国家の中心となり国民を統合していく役割を担っ ていることを意味している。つまり、伝統的な建築物やそれを含めた景観もまた、国家意識を醸成 するための装置として捉えられた。 ヴィシー政権下に制定された多くの法令が民主主義に反するとして、戦後、無効とされたなか、 歴史的建造物の保護に関する制度は、その有効性を認められた。ただし、1950 年代末からの都市 再開発において、具体的な許可基準が欠如していた。また、破壊された建物の再建としての再開発 に対して行政の補助がなされる一方で、建造物の修復に対する財政支援はなされなかった。そのた め、保護と再開発を両立する制度として、1962 年「歴史的街区保存地区」制度が創設された。こ の制度は、アンドレ・マルローが主導したことから、マルロー法とも呼ばれており、歴史的建造物 に付随するものとして周辺を位置づけていた従来の制度とは異なり、一定の区域をそれ自体として 保護する制度への転換となった(稲森 2000 a : 54−57)。 荻野昌弘によれば、「聖なる中心の構築は、社会秩序維持の問題と深く関わっている」(荻野 2009 : 15)。聖なる中心は、生きている者が神々、祖先と交流できる場所として構築され、それが 社会秩序形成に関わっていると考えられている。つまり、歴史的建造物が中心としての役割を担う ことができるのは、その建造物が歴史性を有しているという点にある。それは、神々との交流の場 ということで教会が歴史的建造物として保存されるだけでなく、その周囲もまた、古くから日々の 生活が営まれていた場として重要と考えられ、祖先との結節点として保護の対象となったといえる。 中心の創出に資する営みが、フランス、ローヌ・アルプ地方のリヨンおよびベルギーの首都ブリ ュッセルにおいて、いかなる空間を生み出したのだろうか。次に、各都市に関して、歴史的建造物 の保存と都市開発について、中心の創出という観点から考察する。
3
.中心の創出
3−1 歴史的建造物とその周辺の保存 リヨンは、フランス、ローヌ・アルプ地方に位置し、パリ、マルセイユに続くフランス第三の都 市である。その歴史は、紀元前 43 年に築かれたローマ帝国の植民市に始まるといわれている。リ ヨンの都市の特徴は、東から西へ都市が移動したため、異なる時代の建造物がそれぞれの界隈を形 成している点である。東のフルヴィエールの丘にはローマ時代の遺跡があり、次にソーヌ川の右岸 から丘の麓まで中世の旧市街が広がっている。そして、19 世紀から 20 世紀にはローヌ川の左岸ま で都市は拡大した(Pelletier 2007 : 106)。1998 年には、市の 10% を占める歴史地区が世界遺産に 指定された。 それぞれの歴史地区が現在いかに保存され、活用されているのかみてみよう。 (1)フルヴィエールの丘 フルヴィエールの丘には、旧市街からケー ブルカーで登ることができる(歩いて登るこ ともできる)。ローマ時代の円形劇場の遺跡 があり、毎夏、フルヴィエールの夜(Les Nu-its de Fourvière)というイベントが開催され る。2011 年は、6 月 7 日(火)から 7 月 30 日(土)まで、音響や照明機材が運び込ま れ、オペラ、バレエといった演劇やコンサー トホールとして使われていた(写真 1)。ま た、その周辺では、アーチストの写真の展示 やサーカスのテント、仮設の売店が設置され ていた。 (2)旧市街 フルヴィエールの丘から旧市街を見下ろすと、赤い瓦屋根の建物が見渡す限り広がっている。24 ヘクタールの規模を誇るルネッサンスの史跡である。それぞれの建物の壁は、クリーム色や薄いピ ンク色で塗られている。これらの建物は、その美しさ以上に、トラブールという抜け道があること で有名である。トラブールとは、「一つまたは複数の建物にまたがった長い通路と、それに続く中 庭からなる細い抜け道」で、第二位次世界大戦期、レジスタンスの中心であったリヨンにおいて、 レジスタンスの抜け道として活用されていた。旧市街には 500 ものトラブールが保存され、一部は 一般に公開されている(写真 2)。一部のトラブールの入り口には「Mémoire de Lyon」と書かれた 写真 1 円形劇場の遺跡からコンサートホールへ 都市空間における中心の創出銅版が設置されており、それぞれの説明が記されている(写真 3)。ただし、単にメモリアルとし て保存されているというのではない。ここは、現在も住居として使われており、市民の生活空間で もある(写真 4)。 (3)新たな中心の創出 しかし、旧市街地やフルヴィールの丘といった歴史的町並みを保存したからといって、それらが 中心となり、社会秩序の維持に結びつくというわけではない。それは、その歴史性が、すべての地 域住民の中心となりえないことに起因する。リヨンは、20 世紀の後半、経済的、社会的、地理的 変化を経験した(Pelletier 2007 : 102)。繊維や皮加工といったかつての産業から化学や自動車とい った新しい産業に転換した。また、ドュシェ(Duché)やマンゲット(Minguettes)といったリヨ ン郊外の町に低所得者や移民のための住宅を設置したため、1962 年から 1982 年の 20 年間でリヨ ンの人口は 13 万人減少した(Pelletier 2007 : 102)。移住政策ののち、新たな団地で生まれた若者 写真 2 トラブール 写真3 トラブールの入口、「Mémoire de Lyon」と書かれた銅版 写真 4 トラブールの住民の郵便ポスト
らは、何のよりどころもない廃れた空間で不 満が常態化していた。1979 年 9 月に起こっ たリヨン郊外のヴォ=アン=ヴラン(Vaulx- en-Velin)の街区グラピニエール(Grappin-ière)における移民の若者と警官隊の衝突は、 最初の大規模な郊外暴動といわれている。ま た 1981 年 7 月、リヨン郊外ヴェニシュー (Vénissieux)の街区マンゲットの団地で大規 模な暴動があり、メディアで大きく報じられ た(ドンズロ 2006=2012 : 230)。このよう な暴動は、新たな住宅団地において、秩序を 維持するための中心が欠如していることに起 因する。 リヨンにおいては、このような移住政策と対になって、駅周辺の再開発が行われた。現在、リヨ ンで一際目立つパール・デュータワーは、1974 から 1977 年にかけて、パール・デュー駅に隣接し て建設された(写真 5)。パール・デュー駅はリヨンの主要ターミナルの一つとなっている。リヨ ン中心部のベルクール広場は新たに整備され、「ONLY LYON」という文字をかたどったオブジェ が据えられている。さらに、リヨンを流れるソーヌ川とローヌ川の河川敷も、近年整備され、小規 模な公園がいくつか配置されている(写真 6)。高層建築物の建設や広場の整備が、都市計画を主 導する行政が新たな中心を創出することが実践されている。ただ、都市中心部が整備される一方 で、郊外では移民による暴動が引き起こされていることに注視する必要がある。 以上のように、リヨンでは、第二次世界大戦期のレジスタンスの通り抜けといった建物の保存と 同時に、パール・デュータワーの建設、ベルクール広場の整備といった新たな中心の創出は、都市 計画の重要な要素となる。これらは、保存と開発という点では、一見間逆の実践として捉えられる が、地域の中心を創出するという点で、共通の機能を有するといえる。ただし、新たな中心は、単 に住民を統制するためだけに機能しない。デモなどの運動の拠点となることもある。たとえば、ベ 写真 5 旧市街(手前)とパール・デュー タ ワ ー (奥の高層建築物) 写真 6 ローヌ川の整備 写真 7 ベルクール広場に結集するライダーたち(2011 年 7 月 9 日) 都市空間における中心の創出
ルクール広場では、Un motard=un vote(ラ イダー 1 人=1 票)を掲げ、ライダーらがデ モを行っていた(写真 7)。 (4)ブリュッセルにおける歴史的建造物 ブリュッセルにおいても、歴史的建造物の 保存と新たな中心の創出は同時に進行してい る。ブリュッセルは、オスマン計画に倣い、 大規模な都市改造が行われた都市の代表であ る。1863 年ブリュッセル市長に就任したア ンスパック市長の主導により行われた都市改 造計画は、大規模な財政赤字を生んだだけで なく、歴史的町並みが消失したことが批判さ れた。都市計画の一環で、聖ミッシェル・エ ・ギュデュル大聖堂は、周囲の建物を取り壊 し、前面に道路を直線に引くことで孤立させ られた。現在の大聖堂は、交通量の多い道路 に囲まれており、周囲の建造物とは異なる時 代の建造物であるということがよくわかる (写真 8)。 アンスパック市長のあと、1881 年に市長 に就任したシャルル・ブリュスは、大改造で はなく、今ある資産を活かす方法で、都市問 題の解決に努めた。「住民の愛着を高めるこ とや、住む町の持つ歴史への興味を持たせ る」ために、歴史的建造物の修復・保存を行 ったのである。たとえば、グラン・プラスに 面するギルドハウスのファサードに対して、 その修復費用のほとんどを市が負担するかわ りに、市の許可なしにファサードの改変を行 うことを禁止した(田中 2005 : 122−124)。 グラン・プラスは、1998 年には世界遺産に 登録されている。 (5)中心としての漫画文化 ブリュッセルにおいて、新たな中心となり うるものに漫画文化が挙げられる。1989 年に開館したベルギー漫画センター(Centre Belge de la Bande Dessinée)は、開館以来、毎年 2 万人もの来館者がある。ベルギーは、漫画発祥の地といわ れており、タンタン(TINTIN)など、世界的に知られているものも少なくない。館内には、1960 写真 9 グラン・プラスに面するギルドハウス 写真 8 現在の聖ミッシェル・エ・ギュデュル大聖堂 (中央) 写真 10 ベルギー漫画センター
年代から 90 年代の漫画やタンタンの表紙のコレクションなど、さまざまな展示物がある。また、 ベルギーの漫画のみならず、日本の漫画のキャラクターのオブジェが置かれ、売店では、日本の漫 画の翻訳が並んでいる。海外の漫画人気を受けて、ブリュッセルが漫画発祥の国であるという再認 識が、ベルギー漫画センターの開館に結びついたのではないかと考える。 また、建物は、1906 年にアール・ヌーヴォー建築家のヴィクトール・オルタによって建てられ たものを利用しており、1960 年代の再開発により、アール・ヌーヴォー建築が取り壊されたこと もあり、建物自体も高く評価されている。 センターだけでなく、ブリュッセルの街中の建物の壁面に漫画のイラストが描かれていたり(写 真 11)、3 メートルほどの巨大なキャラクターのオブジェが置かれていたりする(写真 12)。漫画 文化が新たな中心となっていることを示している。
4
.移動の結節点
都市計画において、建築物の建設とならんで重要なことは交通網の整備である。人々は、通りに 沿って歩き、乗り物に乗って移動する。したがって、人々の移動を順路づける大通りや鉄道の配置 は、空間を統制するうえで必要不可欠となる。 ローヌ・アルプ地方の都市グルノーブルは、1968 年冬季オリンピックの開催地として有名であ るが、アルプスの山々を背景として、近代的なロープウエーやトラムといった移動手段が張り巡ら されている(写真 13)。移動のためのさまざまな選択があることは、単に利便性が良くなるという だけでなく、空間をいかに移動するのかを統制することに結びつく。 また、グルノーブル駅前は、旧市街とは対象的に近代的な建物(ワールドトレードセンター)が 写真 11 街中の壁画 写真 12 街中のオブジェ 都市空間における中心の創出あり、広場には鉄の蝶々のオブジェが据えら れている(写真 14)。移動の結節点となる駅 周辺は再開発され、旧市街は保存されるとい うのが都市計画において典型的なパターンで あることがわかる。 同じくローヌ・アルプ地方の都市アヌシー は、積極的に建物保存を推進しており、建物 保存を通じて、移動を順路づけている。アヌ シーは、アヌシー湖とそこから流れ込むティウー運河の中洲にある旧市街を中心としたスイス国境 の町である。旧市街は、ポルティコと呼ばれる建物の 1 階部分が屋外で廊下のようになっている建 築方式が特徴的で(和田 2007 : 35)、現在も土産物屋やレストランが軒を連ねている。観光客は、 ポルティコの地上回廊をとおり、建物を見物しながら、アヌシー湖にたどり着く。途中、旧市街の 運河には、宮殿(旧牢獄)があり、観光名所となっている。そして、アヌシー湖には、1 時間から 2時間のコースで遊覧船に乗ることができる。 つまり、アヌシーの町は、観光客が、アヌシー駅から、旧市街に向かって歩き、旧市街ではポル ティコの地上回廊をとおり、途中、宮殿(旧牢獄)を見物し、最終的にアヌシー湖に到着するとい う順路を通るように設計されている。駅から旧市街の順路のなかで、宿泊、食事、買物のすべてが できるようになっていて、横道にそれることは道に迷ったことを意味し、順路に戻らないといけな い気持ちになるだろう。観光地における都市計画では、観光客が順路を外さないように、通りを整 備する必要がある。 写真 13 張り巡らせるトラム 写真 14 グルノーブル駅前広場 写真 15 観光地として整備されたアヌシー湖周辺 (右奥は宮殿)
5
.おわりに
本稿では、フランス、ベルギーにおける歴史的建造物とその周辺の保存の制度化と、新たな中心 の創出が、都市計画としていかに実践されているか、欧州の各都市の事例を挙げながら考察した。 歴史的建造物とその周辺が、地域住民の中心として機能するためには、その歴史性が共有される 必要がある。共有できない場合は、新たな中心を創出する必要が生じる。荻野によれば、現代社会 においては、先祖や神々と結びついた聖なる中心に代わって、移動の結節点となる駅や高層建築物 などが新たな中心として想定される(荻野 2009 : 16−17)。中心の創出は、都市の社会秩序を維持 するために必要不可欠な実践なのである。それは、都市計画の一部として行政主導で行われる場合 もあれば、自然発生的に生み出される場合もある。ただ、欧州の場合は、都市の景観は、建造物を 保存するにせよ、改修するにせよ、都市計画に基づいて構築されることが多いといえよう。 フランスは、景観に関する法制度が整備されているという点で、町並み保存を目指す日本の行 政、市民団体、あるいは研究者に注目されている。とりわけ、歴史的建造物の保護のみならず、そ の周辺地域についてもさまざまな規制を設けているという点が評価されている。一方、日本におい ては、歴史的建造物の背後に、高層マンションが建設されることは、必ずしも規制の対象ではな い。そのため、建設推進派と反対派のコンフリクトが生じ、景観問題として、しばしば問題化され る。歴史的建造物の周囲だけでなく、自然の山並みや海岸線などの景観保護をめぐって、同様のコ ンフリクトが生じている。日本において、このような景観をめぐる意見の対立がみられるのは、土 地の利用がその所有者の自由裁量にゆだねられる部分が大きいという点にある。一方で、ヨーロッ パにおいて、景観が公共的なものとして了解されていることで、その統制が個人の自由を制限する というよりも、むしろその景観の公共性に価値が見出されるのである。この差異は、土地の所有意 識の日本とヨーロッパの根本的な違いによると考えるが、この点に関しては今後の課題としたい。 付記 本研究は、関西学院大学先端社会研究所 2010−2011 年度共同研究プロジェクト、景観/空間 「空間をめぐる/景観をえがく」の研究成果の一部である。 参考文献Donzelot, Jacques, 2006, Quand la ville se défait : Quelle politique face à la crise des banlieues?, Seuil(=2012,宇 城輝人訳『都市が壊れるとき−郊外の危機に対応できるのはどのような政治か』人文書院).
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