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学習者の「解離」が示す文学教育の課題と可能性

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Ⅰ 研究論文

学習者の「解離」が示す文学教育の課題と可能性

河  上  裕  太 キィワード:解離 学習者研究 文学教育 〈作者〉 1 .問題の所在 1.1. 学習者研究の問題 原田(2009)は、「従来の学習者研究が学習者を 集団の単位だけで捉えてきたことにより、個が抱え ている困難を理解したり、個に必要な「ことばの学 び 」 を 検 討 す る も の に な り 得 て い な か っ た 」 (p. 11)研究状況を鑑み、「個としての学習者の実態 把握を基礎と」(p. 12)しながら、「(1)個が抱える 困難への視点、(2)個としての生涯発達の視点、 (3)個としての自分自身への視点」(p. 16)という 三つの学習者研究の枠組みを提出した。 原田論の「個としての学習者の実態把握を基礎 と」するというスタンスから学習者研究を開始する ことは重要である。しかし原田論の枠組みについて は、次のような問題が考えられる。 原田は(1)の視点から「障害・身体的な特徴や 性格的な気質・各疾患の有無・家族や友人とのかか わり・虐待 いじめ・経済的貧困・地域差別・民族差 別・宗教・他国の言語を母語とする難しさ・性的少 数者の問題やジェンダー、DVなど性をめぐる難し さ・ドラッグをめぐる問題など」(p. 16)をあげてい る。これらの困難さには、学習者自身や教師らに意 識されていない学習者の問題が含まれていない。 原田(2009)が取り上げた健太郎は教師から発達 障害を疑われている。また同論文の菜摘についても 困難の中心として「元ヤンキー」の父親との「家族 の関係性」が挙げられている。下田(2017)で取り 上げられた啓も母親から衝動性のアスペルガー症候 群という申告が教師側に提出されている。春木 (2016)で取り上げられたF児とG児についても、 それぞれの日記にirrational beliefを覗かせていたた め、それぞれが学習者研究の対象となっている。 しかし、学習者の問題が学習者自身や周囲から意 識されていない場合がある。丸田(2020)で例示さ れているろう者きょうだいは、「自身が手話言語話者 であることをマイノリティだとは考えない」(p. 3) ために、自分自身のマイノリティに気付くことがで きず、「関わる他者に合わせて言語を無意識に選択 する」(p. 4)ため、外部からもマイノリティだとみ なされていない。さらに、外部からろう者の「通 訳」として評価されることで、「通訳」としてのア イデンティティを獲得していく。同時に「通訳」に 「生きづらさ」を感じる生々しい自己は構造的に見 えなくなっていく。 また文学の教室にも、学習者の見えない自己を作 り出す「解離」構造がある(河上,2019)。ここで いう「解離」とは、学習者が教師や教室の読みを自 分の読みとすることで、自分の読みが見えなくなる という現象、あるいはその全体構造を指している (詳しくは後述する)。しかし河上(2019)では「解 離」の理論部分が提示されたのみであった。本論文 では、「個」としての患者と「個」としての学習者 のそれぞれの主観的体験が記述されることで、そこ から帰納的に「解離」の問題が明らかになることを 目指している。 そもそも文学教材は、学習者の居場所として生徒 と読者という二つの位相を抱え込んでいる(本論で は便宜上文学と対する読者、教師と対する生徒、全 体としての学習者と呼び分ける)が、研究者が学習 者研究を掲げた場合においても、学習者は生徒とし て記述されてしまうという現状がある(藤森,2014)。 しかし、学習者の「解離」を記述することは文学 教育にとって価値がある。なぜなら「解離」を記述 することは、学習者の支配的自己と抑圧的自己を構造 的に示すことであり、文学が学習者の生々しい一面と 響き合っている可能性を示すことになるためである。 また、このような生々しい学習者の姿を「解離」 の構造から明らかにしようとすることは、授業だけ からは見えない学習者を記述しようとした原田の問 題意識とも重なりつつ、学習者自身が捉えていない 生々しい自己の問題を原田の視点(1)に組み入れ る可能性を持つ。 1.2. 「解離」の定義 解離性障害は、DSM-IV(1994)1)で「Dissociative

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Identity Disorder(解離性同一性障害)」として登場 し、DSM-5(2013)2)では「解離性健忘・離人感・ 現実感消失障害」を疾患として加え、「意識、記憶、 同一性、情動、知覚、身体表象、運動制御、行動の 正常な統合における破綻(disruption)および/ま たは不連続(discontinuity)」と定義された。 さらに解離性障害は診断困難性をその特徴として 持つ(岡野,2015・柴山,2017)。それは障害が意 識や感覚に現れるという分かり難さと、病的な解離 から健常的な解離までが日常の中で幅広く体験され るという構造的な問題による。例えば岡野(2015) は解離を「強い解離」と「弱い解離」と呼び分け、 「弱い解離」の例として「過去に起きたことを思い 出すとき、その回想に出てくる自分」(p. 10)や「も う一人の自分としてふるまうということ」(p. 10) などを提示している。子どもの解離性障害の診断の 実態を調査した緒川(2014)でも「日常生活におけ る些細な没頭や想像上の友達とやりとりする体験、 想 像 力 に よ っ て 現 実 を 再 構 築 し た 遊 び な ど 」 (p. 123)の「正常解離」の存在が子どもの有病率を 明らかにし難い一要因として挙げられている3) また、患者は自分が解離性障害によって生きづらさ を抱えていることを内に抱え込もうとする。柴山 (2017)は自身の臨床経験から、解離性障害が「誰に でもある普通のこと」(p. 5)として患者に受け止めら れており、「行動や感情についてはある程度理解され ることがあっても、解離の主観的体験は、患者からも4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 治療者からも切り離され、受け止められて理解される4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ことなく漂っている4 4 4 4 4 4 4 4 4 (傍点ママ)」(p. 5)と報告して いる。岡野(2015)でも「症状により自己アピールを する人たちとは程遠い」(p. 5)、「解離症状や人格交代 について自分でもあまり把握していないことが多い」 (p. 5)、「他人にできるだけ隠そうとする」(p. 5)など の患者の特徴が挙げられている。 また緒川(2014)の調査では、18歳以下の解離性 障害の論文における50事例の内21事例(42%)で 「手がかからない」「まじめ」「いい子」「優等生」「優 秀」などの性格的特徴が抽出されており、解離性障 害の問題が「よい子」(山川,2007)の問題と接続す ることも示唆されている。このような性格的特徴も 解離の診断困難性を助長していると考えられる。 ここまで見てきたように、「弱い解離」から「強 い解離」までの幅広い解離が全人的に体験されてお り、病的な場合であっても患者自身にそれが特異な ことであると自覚されにくい。また、患者が自身の 体験に違和感を持ったとしても、解離性障害の特性 上まさにそのような「主観的体験」を切り離し、違 和感を持っていないかのように振る舞うため周囲に も理解されにくくなっている。 本論文では文学の教室にもこれに類似するような 構造があると考える。生々しい自己(読み)が切り 離されることがあり、また、このような読み(自 己)の切り離しは一部の学習者にとって「普通」の ことであるため、周囲から問題視され辛い。結果と して教室(教師)用に生み出された読み(自己)が 「本来の自分(の読み)」のように教室で位置付けら れ、流通していく。 このように文学の授業で読み(自己)が生産され る過程と、解離性障害を抱えた患者の主観的体験に 重ねながら、文学の教室に特有の「解離」について 考察していく。 2 .研究の目的・方法 本論の目的は、①文学の教室で「解離」する学習 者の主観的体験を示すこと、②「解離」から示唆さ れる文学教育の課題と可能性を記述することの2点 である。そのために次の3点の方法を採用する。 ⑴  精神科医である柴山の臨床場面と理論を中心と して「解離」の主観的体験を構造化する。 ⑵  作文・会話・アンケートから国語の教室におけ る学習者Tの主観的体験を記述する。 ⑶  ⑴と⑵をもとに文学の教室における「解離」を 構造化して示し、文学教育の課題と可能性につ いて考察する。 3 .「解離」の主観的体験の構造化 3.1. 「空間的変容」の構造 柴山(2007)には、母親に暴力をふるわれていた香 奈(仮名18歳)の次のような言葉が挙げられている。 昔から意識をとばしていた。小学校のとき、母親に叱 られたりすると、自分の体はそこにあるけど、それに並 んで、あるいは斜め後ろに自分がいた。母親から距離を とれるところにいた。母親によると、叱っている間は ボーッとした表情をしているらしい。叱られるのが終わ ると、普通に戻って母親にまとわりつくのです。(p. 43) 香奈は後に解離性障害と診断されている。柴山に よれば解離性障害ではこのような体外離脱体験が他 の精神科の各病態の中で最も多くみられるという。

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また、解離性障害の診断を受ける患者は幼少期から このような体験をしていることが多い。これに類す る感覚を今日子(仮名27歳)も語っている。 保育園時代から泣いている自分と冷静な自分が分かれ ていた。背中のほうから冷静な自分が、泣いている自分 の姿を見ている感じがしていた。上からジオラマのよう に見ていることもある。テレビの画面を見ているよう に、周りをモノとして、風景としてとらえる。ストレス が貯まってくると、相手と会っているときにも、自分が 話している状況が風景のように見える。(p. 45) ストレスの高まりに従って、分裂した自分が知覚を 得ていることが分かる。次の今日子の言葉には、分 裂した自分からの知覚について細かく語られている。 自分にとって肉体は重荷なのです。鎖みたいなもので す。死体が自分にくっついているみたい。死体がなかっ たらもっと自分の好きなところへ行ける。ビルの方へ自 分を翔ばすことができます。心はそちらの方にあってこ の身体にはない。体外へ魂が飛ぶと、眼だけが空中から 俯瞰して抜け殻の自分を見ることができる。ブラジルの ことを考えると、小屋の窓際にステンレス製のコップが 置いてあって、その窓から海が見える。ベッドがどんな 感じかもはっきりと見える。感じるのです。(中略)現 実よりも、心の目で見ているもののほうが私には現実味 がある。(pp. 46‒47) 今日子は分裂した視点を「翔ばす」と語っている。 今日子にとっての空想は、我々が目の前のコップを知 覚する感覚に近く、この時肉体は認識されているが、 実感はされておらず、むしろ今日子には肉体の方が空 虚に感じられている。「心の目で見ているもののほう が私には現実味がある」という今日子の言葉は、今日 子の体感を象徴的に表していると思われる。 柴山(2007)は上記のような自己像視点の獲得を 解離性障害における離隔4)の病態として捉え、こ の離隔の病態を「「眼差しとしての私」と「存在者 としての私」の分離0 0 とその交代0 0 の構造として捉える ことができる(傍点ママ)」(p. 92)と述べる。 さらに柴山(2007)は「存在者としての私」の意 識のあり方を「周囲世界の全体ないしは一部が自分 に異様に迫ってくる」(p. 95)、「「当事者性」から逃 避できない、緊張した私」(p. 96)という「近接化」 (p. 95)の状態、一方「眼差しとしての私」の意識 のあり方を「周囲外界の実感がなくなり、遠ざかっ て感じられる」(p. 95)という「遠隔化」(p. 95)の 状態であると説明している。 この「眼差しとしての私」は「メタ認知」と構造 上の類似を持つが、性質は異なる。国語科教育学に おける「メタ認知」は河野(2015)によって「自分 自身の認知的活動に関する認知をいう」(p. 34)と 定義されているが、冒頭に引用した18才女性の場 合、叱られている時は「ボーッとしている」ので あって、明らかに「自分自身の認知活動を認知」し ていない。 また、今日子の体感を参照すると、「眼差しとし ての私」は別の時間・空間に翔ばすことが可能であ り、その翔んだ先であらゆる対象を「現実」として 知覚する場合がある。 3.2. 「眼差しとしての私」の没入 柴山(2007)は「眼差しとしての私」の二つの振 る舞いを指摘している。一つは身体の外部で漂う 「体外型離隔」(p. 93)、もう一つは外部からもう一度 「存在者としての私」の内部に潜り込みつつも「眼差 しとしての私」の性質を損なわない「体内型離隔」 (p. 93)で、どちらの場合も自分が私であるという感 覚は不安定である。柴山(2007)では自己の不安定 感を語る舞(仮名22才)の言葉が引用されている。 私は幼稚園の時に存在しない子と遊んでいた。いつも 夕方になるとブランコで遊んでいた男の子がいた。唯一 の友達だった。彼が途中でいなくなってしまったと思っ ていた。大人にその子がどこに行ったのかと聞いても、 「そんな子はいなかった」と言われる。たぶん私と同じ 次元から来た子だったと思う。その子は唯一「私と同類 かもしれない」と思った人でした。その子といるときだ けは子どもの役を演じなくても話ができた。小さいとき から、家庭は決して自分の居場所ではなかった。常に自 分はどこにいても浮いてしまう。彼もきっと同じ考えを もつ人間だった。(p. 129) 存在しない子(IC)と「同じ次元」にいる舞の体 感からは、今日子の「心の目で見ているもののほう が私には現実味がある」という言葉を思い出させ る。舞も今日子も自分の「現実」にこそ存在感を見 出しており、一般的な現実では「浮いてしまう」と いう感覚を述べている。ゆえに舞は現実では子ども の役を演じざるを得なかったのだろう。舞は「眼差 しとしての私」に分裂し、そこに「現実」を発見し ながら、周囲と定める現実が違う違和感から、幼稚 園児にして既に演じるという振る舞い行っている。 3.3. パースペクティブの多重化 柴山(2017)では由紀(仮名40歳)による以下 のような体感が語られている。

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昔は視点が変わっても、世界は同じものだとわかって いた。最近は、この体のこの眼から視線が出ているのをと ても不自然に感じる。この視点に違和感がある。外から カメラアイみたいに見えるほうが自然に感じる。どんな アングルでもかまわないけど、この器のなかに眼があるの は不自然なんです。空間の外、劇場の外、舞台の外に自 分はいる。これが自分だという意識はあまりない。世界 は映画のようなもの。複数のカメラで複数のアングルで 撮っている。こういったカメラの視点から、かろうじて世 界を多面体として捉えている。自分はどこにでもいるが、 どこにもいない。視点が定まらない。電話をしていると、 相手のほうに私の意識があるように感じることがある。 そっちのほうに自分がいる感じがする。(pp. 164‒165) 「眼差しとしての私」が「複数のカメラアングル」 のそれぞれの場所に動き回り、それぞれのアングル からの景色に「現実」感があるために、由紀の視点 は定まらず、多重化する。岡野(2015)でも、「解離 性の人格部分が形成される状況の一つ」(p. 7)とし て「他人の意図や願望や感情が、自分のものと混同 されるような場合」(p. 7)が挙げられており、「眼差 しとしての私」が他人に没入する場合も考えられる。 緒川(2014)で指摘されている「よい子」の問題 は、「眼差しとしての私」が養育者に没入し、その パースペクティブを共有化する形で起こっていると 考えられる。由紀にとっては、「この器」=肉体から のパースペクティブよりも、他人からのパースペク ティブの方が自然に感じられており、そこでは「存 在者としての私」の価値判断よりも、他人の価値判 断が優先されると思われる。このような形でのパー スペクティブの多重化と混濁は、「眼差しとしての 私」の離脱と没入によって引き起こされている。 3.4. 主観的体験の構造化 香奈、今日子、舞、由紀らのエピソードを総合す ると、解離性障害では、①「眼差しとしての私(b)」 と「存在者としての私(a)」の分裂、②「眼差しと しての私」の没入((c)他者や(d)物語世界等へ 没入する)、③パースペクティブの多重化、④「存 在者としての私」視点への違和感というプロセスが 起こっていることがわかる(図1)。 ①∼④のプロセスは主体に意識されずに起こって おり、主体は自ずと主体を捨て、他者の意見は自分 の意見として頭に浮かび、世界が並列化する中で世 界Aは潜在化していく。 4 . 学習者 T の場合 4.1. 『山月記』実践の概観 これまでの『山月記』実践は①→②のような推移 を ってきた(前田(2016))。 ① 主人公中心主義的、あるいは李徴=〈生身の作者〉と する私小説批評的な読みの慣習に基づく主題探究的な 読み(正解到達主義) ② 語り・語り手論・テクスト論を踏まえた、精緻・豊 か・些末な事物調べ、お上品な読書の感想発表会的な 読み(上からの正解到達主義的な授業の精算) しかし②のような授業は現場の教員に、苦戦を強 いる。実践者であれば、学習者の読みが並列し、そ れら全てが認められるような状況における学びはほ とんどないと分かっているし、かといって①のよう に教師が自身の読みを押し付けていく授業の不毛さ も知っているためである。 このような問題意識を踏まえた実践として川嶋 (2012)、仁野平(2012)、斎藤(2013)などがある。 川嶋らは文学研究者の田中実の理論を援用しなが ら、③のような実践を展開している。 ③ 語り・語り手を相対化し、作品全体を構造化する(「ナ ンデモアリ」を生む作品の根拠を読む授業) このように『山月記』実践は、①中島敦と李徴の 未分→②中島敦と李徴の峻別→③語り手・作品原理 の対象化という形で積み上げられてきている。 4.2. 『山月記』の実践 本実践は2019年6月、私立の中高一貫校、高校2年 生の文系・能力別編成最上位クラス11人を対象に論 者が行った『山月記』の授業である。本実践も③の 立場から、〈自閉〉的な李徴の問題(田中,2018)を 意識しながら授業を行った(なお以下でTの言葉を引 用することについて、本人の承諾を得ている)。 授業では「李徴はこの後人間に戻れたのか」を李 徴の語りの内容と、李徴の振る舞い(語りの内容と 図 1 解離の主観的体験

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矛盾するような)の両面から掘り下げている。 図2は、李徴の詩について議論した授業の学習記 録である。これを参照すると、「〈読者のパースペク ティブ〉―虎になった理由は分からない―〈不条理〉 →条理にあてはめて考える。理由づける→災患相仍 不可逃」と結論されている。ここでは、読者からす ると〈不条理〉でしかない「虎になる」という出来 事を、李徴は「災患相仍不可逃」と理由づけている 様子が確認されている。 図3は図2に続く学習記録である。これを参照す ると、「俺の全てだったのだ̶虎になり人間として の自分を対象化できた←完全なのか」と疑問視し、 「妻子の衣食を頼む→慟哭→順序についての矛盾 [を述べる(補足論者)]」について「・同情をさそ う・かわいそうな自分に酔っている・(自嘲的)く せ」など自分を客観視できない李徴の姿を読み取っ ていることが分かる。 授業はこの後、自分を客観視できない(のに自分 の全てを分かっていると考えた)李徴の問題を指摘 できる可能性があるのは誰か、として袁傪に着目し た。袁傪は李徴が対象化し得なかった部分について 分かっていたのかという部分を議論し、「どこか非 常に微妙な点において」という言葉で語ることがで きるくらいには気付けている、しかし温和な袁傪は そのことで李徴を批判しないという結論を得た。 「李徴はこの後人間に戻れたのか」という問題に ついては、自分を完全に対象化したと考える李徴と、 温和な袁傪の性格が相まって、李徴は自分を対象化 できず、完全な虎になってしまうだろうと結論した。 4.3. T の山月記論 Tの初読の感想は以下の通りであった。 「結局何が言いたいのか分からなかった。李徴は役人 にもなりきれず詩人にもなりきれなくて自己実現ができ ていないと思う。李徴はもとにもどらんけど美女と野 獣っぽい。」 またTは、授業の最後に『山月記論』という題の 以下のような自由作文を書いた。 李徴の自己語りには、自分のことを客観的に見ること ができているという自らの全てを対象化した感じがあ る。しかし読者から見た李徴にはズレが生じている。 人には自分では絶対に意識することのできない無意識 の領域があり、自分の全てを対象化することは決してで きない。その証拠に、李徴は自己語りの大半を言った後 も順序についての矛盾を自嘲的に言っている。自嘲とい う癖が直っていないのは、自分の分析と現実にズレがあ るということであり、癖を克服することができないとい う自分の能力の低さを認められていないから尊大な羞恥 心という言葉に逃げているのだ。 また李徴は臆病な自尊心から一番の友人であった袁傪 ならば自己語りを聞き受け入れてくれると考え温和な性 格の袁傪に甘え長い自己語りをした。袁傪は欠けている 点を感じたが優しいのでわざわざ李徴に言ったりはしな い。そして自己語りに対して泣く。このことにより李徴 は自分の語りで人を泣かせられたと思うことができる。 よって李徴は、自分を他から承認された文学者として 自己実現をしたと思いたかったから自己語りをした。 『山月記論』の筋は以下の通りである。 A 李徴のズレを示唆 B 無意識領域でのズレの指摘(Aについて展開) C  李徴から袁傪への甘え⇔袁傪は李徴の欠点を指 摘しない=李徴の自己語りの成立と閉鎖 D  自己語りの意図 授業内容をほぼそのまま書いているところを波線 と二重線で示した。このようにTは授業最後の自由 作文でほぼ授業の内容をまとめている。 また、Tの作文には、①文単位の接続が分かりに くい、②段落単位の接続が分かりにくい、③省略が 多く読みにくい、④結論と結論までの過程が接続し ていない、等の問題がある。 ①・②は、Tに文章を統合する視点が欠けている ことを示している。③は相手意識の欠落、あるいは 自己の思考への没入が見られる。 ④について、「文学者として自己実現をしたと思い 図 2 T以外の学習記録⑴(論文引用部を論者が太字に 加工した) 図 3 T以外の学習記録⑵(論文引用部を論者が太字に 加工した)

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たかったから自己語りをした。」という結論をよく読 むと、ここではまだTの「李徴は役人にもなりきれ ず詩人にもなりきれなくて自己実現ができていない と思う。」という初読が意識されているとわかる。 しかし、上掲A∼Cはほぼ授業内容の繰り返しと なっており、結論部分の主張の根拠としては文章の 結束性が弱い。 以上のことはTの初読と、授業が噛み合っていな いことと、その二つの読みが統合されず、Tの中に 別々に存在することを示している。 4.4. Tの発話場面 次のプロトコルは2019年11月、『山月記』の授業 を行ったクラスの冒頭の談話である。話題は他人の 読みを聞いて、読みが変わることはあるか、という ことであった。(Tの発言に下線を施した) 教師: ちょっとボイスメモをとって、ちょっとみんなに 聞きたいことがあるんですけど、小説の読みの時 に他のクラスメイトの意見を聞いて、読みが変わ ることってありますか?(中略)はい、どうすか、 K君 K:小説ですか? 教師:小説小説。 K: なんか、登場人物の気持ちがよく分からんって、そ んで、他の人を参考にするんですけど、 (中略) K:いやそれが書いてない場合があるじゃないすか、 T:雰囲気? K: 雰囲気。で、それがずっと分からなくて、中学校の 時から T:え K: その点では他の人が、あぁこう思うのが正解なんだ とか、参考にしますけど W:へー、怖い T:じゃあ『こころ』も分かってなかった、実は K: いや事実関係については、ちょっと自信があるん で、ほかの人から正しいこと言われたときは、まぁ、 こらってますけど、心の中ではこう、なんか、思っ てます。 C:えぇ∼ 教師: どういうこと? 事実関係に自信があるってどうい うこと? K:いや心情面ではあまり自信がないんですけど、 T:書いてあることか K: 書いてあることを読み取るんには、自信があるん で、でも、それでも間違っていたとき、他の人が間 違ってるよっていわれたら T:えーってなる、くそうみたいな? K:くそう、くそうみたいな… W: そうおもっとるけぇなんか、間違ってるっていわれ たら、あーなるほどねーって言いつつ、俺の方が あってるし、みたいな K:いや、合ってるとは思わないけど、 T:納得して、納得してとりあえず。 Y:なんで違ったんやって K:クソがって(笑) W:なんかわるいぞー(笑) 教師: という感じになってると、ふんふん。Tって聞い たっけ、喋った?え、どんな感じなん君、 T: 小説のとき?えーなんか、自分の読みがあって、他 の人の読みをいわれて、なんか、言われ方とかにも よるんですけど、なんかその人がすごい強く、え、 なんかこうだからこうでしょみたいな、で、違った りして、で、その時はちょっとだけ意地をはってな んか、え、でも、こうじゃない、みたいな、納得は しても、えでもなんか、こうじゃないとか。えなん か、やわらかく、こうですかみたいに言われたらあ あそうか、違ったら、あ結構吸収していって、私は なんか、なんかこういう読みで、でプラスでこうい う読みがあるんだよって他の人に説明する時とか は、なんかこう、吸収していくみたいな感じ、です。 ここではTが会話を調節したり、相手から発言を 引き出したりしている姿を確認できる。話題について は、相手の読みにとりあえず納得しつつも、自分の読 みを持つと発言している。また納得する際の体感に ついては「吸収」という言葉が二度使用されている。 4.5. 「解離」のアンケートの際のT 2019年12月に「小説の(国語の)授業を受けて いてあなた自身が〈解離〉した(自分の読みが実感 的な読みと客観的な読みとに分かれた)ことがあり ますか? それはどのような感覚でしたか? 〈解 離〉を抱えたあなたはその時教室でどのように振る 舞い、後にどのような気持ちになりましたか? で きるだけ詳しく書いて下さい。」という内容でアン ケートを取り、Tは以下のように回答した。 自分がもともと思ってた読み(多分実感的な読み)と 授業の中で深めていった読み(客観的な読み)が同居し ていたときは、授業内では客観的な読みを心の底から 思っているように発言していた。あとで近い友達に実感 的な読みを少しだけ言ってみて、気をすませていた。他 では、あまり親密ではない人と話すとき、自分の記憶の 中の友達になったつもりで話すとか。 このアンケートにはTの授業時における私の切り 捨てと授業への没入という形で、「解離」が直接的 に現れていると思われる。追加のエピソードでも私 の切り捨てとイメージへの没入が見られる。

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5 .Tの体感にみられる「解離」 Tは論者の教室で文学の読みに関連して、(1)文 章を統合する視点の欠如、(2)相手意識の欠落、(3) 自他視点の混濁、(4)会話を調節したり、相手から 発言を引き出したりする、(5)相手の読みにとりあ えず納得しつつも、自分の読みを持つ、(6)納得す る際の体感については「吸収」という語を用いる、 (7)私の切り捨てと授業への没入、等の姿を見せた。 (4)を除いた(1)∼(7)のTの姿をみると、授 業(他人)の読みとT自身の読みが根本的にすれ 違って統合されず、Tの中で複数のパースペクティ ブが多重化していることがわかる。 このようなTの「解離」は、1で述べたような文 学教材の構造に由来すると思われる。文学の教室に は生徒と読者という二つの受け手としての位相があ り、文学は語り・語り手(d)を対象化する(D) の視点に立つことで、授業は学習者に明示されない 教育目的(F)を間接的に達成しようとする(f)こ とで、それぞれが構造化されている(図4)。 Tは常に出来事(語り手が語る内容)・授業(教師 が語る内容)と直面しつつ、〈作者〉(語り手にその ように語らせる必然性)・〈教師〉(教師にそのように 語らせる必然性)を紐解こうとしている。教師は生 徒に向かって授業用の読みを提示するので、Tは 〈作者〉とコミュニケーションしようとする自己(読 み)を切り離し、〈教師〉とコミュニケーションしよ うとする自己(読み)を代表化する。この場合、両 者の自己(読み)は接点を持たないため、すれ違う。 さ ら に、『 山 月 記 』 の「 李 徴 」 は「 人 間 」 と 「虎」という二つの自己をうちに抱え込み、やがて 自己を統御できなくなる、解離を象徴した存在であ り、読者はTの初読のように「袁傪」の視点からそ の「李徴」について「どこか(非常に微妙な点にお いて)欠けるところがある」という感覚を抱えなが ら、その「李徴」=解離の問題を対象化していく。 その中でTの「解離」が浮上してきたのがTの山月 記論であったと思われる。Tの山月記論では、初読と 授業の読みが切り離されつつ一つのものとして示され ていた。これは3.4.で言及した解離性障害の患者 の主観的体験である「③パースペクティブの多重 化」に強いられながらも「私」を演じている解離の 問題と接続する。 一方で、小説の読みを書くという行為によって結 果的に授業の読みと初読が構造化されることは文学 の教室に特有の「解離」現象だと考えられる。 6 .Tの「解離」から示唆される、文学教育の課題 と可能性 Tが山月記論で「解離」を示したことは、実践に よって、Tの「解離」が刺激され、表出したというこ とを示している。これは自身の「解離」を知り、その ような性質と向き合っていくための第一歩として価値 がある。文学はこのような形でも学習者との対話の可 能性を開いており、この場面だけを切り取ってもまだ 教材としての価値を十分に保っていると言える。 一方で、山月記の実践がTの初読を置き去りにし、 支配的な読みを提示したことも事実である。文学の教 室では、「解離」という視点から評価しない限りこの ような「初読における分からなさ」→「授業での権威 的な読みの提示」→「初読と授業の読みの切り離し」 が慢性的に行われる構造が成立していることもまた明 らかとなった。この点は文学教育の課題と言える。 7 .成果と課題 本研究の成果は以下の通りである。 ① 「解離」の主観的体験を学習者研究の枠組みに持 ち込んだこと。 ② 「解離」の構造を明らかにし、文学教育の課題と 可能性を示唆したこと。 これからの課題は、「解離」を踏まえた文学教育 の実践構想と評価基準の作成、さらにカリキュラム 構想である。また、生々しい自己が揺さぶられる文 学教材とそうでない文学教材といった文学教材間の 差異化と、生々しい自己を揺さぶる文学教材につい て小学校から高校までの系統性も示していきたい。 〈注〉

1) American Psychiatric Association: Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, fourth Edition,

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DSM‒4. American Psychiatric Association, Washington, D.C., 1994

2) American Psychiatric Association: Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Fifth Edition, DSM-5. American Psychiatric Association, Washington, D.C., 2013 3) ファンタジーへの没入や回想などを解離性障害の 一側面として捉えるのは緒川に特異な発想ではな く、 岡 野(2007)・(2015)、 斎 藤(2005)、 柴 山 (2007)・(2017)など複数の論文で同様の記述が 見られる。 4) 柴山(2007)は「解離の病態を理解するための基 本的な分類」(p. 36)として「離隔(detachment)」 (p. 36)と「区画化(compartmentalization)」(p. 36) を示している。離隔は「分離感覚によって特徴付 けられる意識変容」(p. 36)を表し、離人・自己像 視などが該当する。区画化は「通常ならば取得で きる情報に意識的に気づくことができなくな」 (p. 37)ることを表し、健忘・ 走・交代人格など が該当する。 〈参考文献〉 岡野憲一郎(2007)『解離性障害 多重人格の理解と 治療』岩崎学術出版社 岡野憲一郎(2015)『解離新時代―脳科学,愛着, 精神分析との融合―』岩崎学術出版社 緒川和代(2014)「子どもの解離性障害に関する研 究展望―事例論文を中心に―」『名古屋大学大学 院教育発達科学研究紀要.心理発達科学』61巻, 123‒136 河上裕太(2019)「「解離と国語教室」試論」『国語 教育思想研究』第18号,国語教育思想研究会, 23‒29 川嶋一枝(2012)「〈語り得ぬこと〉がある」と語 る:―『山月記』の教室から―」『日本文学』61巻, 日本文学協会,2‒13 河野順子(2015)「メタ認知」高木まさき他編『国 語科重要用語事典』,34,明治図書 斎藤環(2005)「解離の時代にアイデンティティを 擁護するために」上野千鶴子編『脱アイデンティ ティ』,勁草書房,137‒166 斎藤智也(2013)「教室における〈第三項〉と〈語 り〉:―「十人十色を生かす文学教育」論を超え るとはどういうことか―」『日本文学』62巻,日 本文学協会,28‒40 柴山雅俊(2007)『解離性障害―「うしろに誰かい る」の精神病理―』筑摩書房 柴山雅俊(2017)『解離の舞台 症状構造と治療』金 剛出版 下田実(2017)「「場」との関わりに目を向けた学習 者研究―当事者が「物語る」ことの必要性―」 『国語科教育』第81集,全国大学国語教育学会, 14‒22 田中実・須貝千里・難波博孝(2018)『21世紀に生 きる読者を育てる 第三項理論が拓く文学研究/ 文学教育 高等学校』明治図書 難波博孝(2018)「母語教育という思想―国語科解 体/再構築に向けて―」世界思想社 仁野平智明(2012)「『山月記』の語り手を読む可能 性:物語行為の教材価値」『人文科教育研究』39 巻,人文科教育学会,1‒12 原田大介(2009)「国語科教育における新たな学習 者研究の構築」『国語科教育』第65集,全国大学 国語教育学会,11‒18 原田大介(2013)「国語科教育におけるインクルー ジョンの観点の導入」『国語科教育』第74集,全 国大学国語教育学会,46‒53 春木憂(2016)「その子なりの論理を活かした児童理 解の方法の開発:論理療法を援用した分析」『広島 大学大学院教育学研究科紀要.第一部,学習開発関 連領域』第65集,広島大学教育学研究科,93‒102 藤森裕治(2014)「学習者研究としての予測不可能 事象」『論叢国語教育学』復刊5号,広島大学大 学院教育学研究科国語文化教育学講座,51‒60 前田角藏(2016)「文学教材「山月記」の可能性に ついて(特集 教材としての文学の歴史性と可能 性)」『日本文学』65巻,日本文学協会,46‒58 丸田健太郎(2020)「〈見えないマイノリティ〉の存 在と自己形成の課題」『国語教育思想研究』第19 号,国語教育思想研究会,1‒8 山川法子(2007)「大人から高い評価を受ける子に 対する「よい子」の観点からの再検討の必要性: 演劇・音楽活動ワークショップ参加児童を事例と する分析と検討を通して」『教育方法学研究』第 32巻,日本教育方法学会,13‒24 (広島大学) 2020.8.28 発送

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学習者の「解離」が示す文学教育の課題と可能性

河 上 裕 太

本論文の目的は、学習者の主観的体験と解離性障害の診断を受けた患者のエピソードを比較し、 文学の教室における「解離」を明らかにすることである。 解離性障害の患者の個別的なエピソードには、自己の内部に複数のパースペクティブが統合され ずに並列する様相が見られる。学習者Tの『山月記』論でも自身の読みとして授業の読みを提示し ながら、初読の際の問題意識に触れるという形で、統合されない二つのパースペクティブが表現さ れていた。 教室で文学を扱う場合、学習者は教師と作品に引き裂かれ「解離」する可能性がある。また『山 月記』に特有の作品構造も学習者の「解離」を刺激する可能性がある。学習者が「解離」し、授業 の読み(=自己)を自分の読み(=自己)として流通させる構造には解離の病理がある。一方で学 習者が「解離」することは、文学がそれ自体で学習者に対話を仕掛けているという文学の教材とし ての可能性も示唆している。

Challenges and Possibilities for Literature Education as Indicated

by Learners’ “Dissociation”

Yuta KAWAKAMI

This study aimed to identify “dissociation” in the literature classroom by comparing the learners’ subjective experiences with the episodes of patients diagnosed with dissociative disorders.

In the personal episodes of patients with dissociative disorders, there is a parallel aspect of multiple perspectives inside the self without integration. Learner T’s discussion of “Sangetsuki” also expressed two unintegrated perspectives in the form of presenting the class reading as her own reading and discussing her awareness of the problem at the time of her first reading.

When dealing with literature in the classroom, learners may be torn and “dissociated” between the teacher and the work. The unique structure of “Sangetsuki” may also stimulate learners’ dissociation. There is a pathology of dissociation in the structure that allows learners to “dissociate” and circulate the class reading (=self) as their own reading (=self). On the other hand, the fact that learners “dissociate” also suggests the

参照

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