アジ研ワールド・トレンド No.237(2015. 7)
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グローバル化がいっそう進むな
かで、従来の考え方では人びとの
移動を捉えきれなくなっている。
働く場を求める出稼ぎ者や移民が
そうであるように、アスリートも
また活躍の場を求めて、これまで
と
は
異
な
る
動
き
を
み
せ
る
よ
う
に
なった。本稿では、ナイジェリア
の
ス
ポ
ー
ツ
を
め
ぐ
っ
て
生
じ
た
変
化をあとづけてみたい。
●
カ
レ
ッ
ジ
ス
ポ
ー
ツ
か
ら
プ
ロ
へ
アフリカ人アスリートの活躍で、
まず想起されるのは全米バスケッ
トボール協会(NBA)の長身プ
レ
イ
ヤ
ー
た
ち
で
は
な
か
ろ
う
か。
スーダン南部(現、南スーダン共
和国)に居住し、長身で知られる
民
族「
デ
ィ
ン
カ(
Dinka
)」
を
出
自とする選手たち、たとえば一九
八〇年代から活躍したマヌート・
ボ
ル(
Manute
Bol
)
や、
二
〇
〇
〇年代にデビューしたルオル・デ
移
ナイジェリア
動
す
る
ア
ス
リ
ー
ト
望月
克哉
❖特集❖
途上国・新興国のスポーツ
ン(
Luol
Den
)
と
い
っ
た
名
が
す
ぐに挙がるだろう。しかしながら
実績という点では、ボルと同世代
で、ナイジェリア出身のオラジュ
ワ
ン(
Hakeem
Olajuwan
)を
挙
げ
ないわけにはいかない。彼は学生
時代から最優秀の名をほしいまま
にし、一九九三年にアメリカ市民
権を獲得したのち一九九六年のア
ト
ラ
ン
タ
五
輪
で
は
ア
メ
リ
カ「
ド
リームチーム」の一員として金メ
ダルに輝き、二〇〇八年にはネイ
スミス記念バスケットボール殿堂
入りも果たしている。
一九六三年、ナイジェリア最大
の都市ラゴスで生まれたオラジュ
ワンは、地元のハイスクールに進
学し、その長身を生かしてスポー
ツにいそしんでいた。そんな彼を
リクルートしたのがヒューストン
大学で、その在学中に三度も全米
大学体育協会(NCAA)男子バ
ス
ケ
ッ
ト
ボ
ー
ル
の
セ
ミ
フ
ァ
イ
ナ
ル・トーナメントへの進出を果た
している。こうした実績により、
「
ス
ー
パ
ー
ス
タ
ー」
マ
イ
ケ
ル・
ジョーダンらとともに一九八四年
のNBAドラフトの目玉となり、
人
気
チ
ー
ム
の
ヒ
ュ
ー
ス
ト
ン・
ロ
ケッツに入団することになった。
その後の活躍については、ロケッ
ツでの彼の背番号
34が永久欠番に
なっていることを語れば十分であ
ろう。
オラジュワンのキャリアは「ア
メリカン・ドリーム」そのもので、
ナイジェリア人ばかりではなく、
多くのアフリカ人アスリートが夢
見
る
も
の
で
も
あ
る。
カ
レ
ッ
ジ
ス
ポーツで実績を積み、プロフェッ
ショナルとして成功をおさめ、市
民権を得る。プロスポーツのなか
にはアフリカ人に馴染みの薄い野
球や、およそプレーの素地がない
アイスホッケーなど例外はあるに
しても、アメリカはアフリカ人ア
スリートの活躍の場であり、その
夢の地なのである。
●
「
ア
マ
チ
ュ
ア
」
と
し
て
の
成
功
アメリカを足場にした成功とい
う意味では、アマチュアスポーツ
もまた大きな可能性を有している。
とりわけ陸上競技では、大きな競
技会が頻繁に開催され、賞金が積
み増しされたこともあって、アフ
リカ人アスリートの活躍が顕著に
なっている。バスケットボールが
そうであったように、有望な選手
をアフリカで発掘し、アメリカに
招聘する道筋が築かれてきた。日
本におけるアフリカ人長距離選手
の活躍を想起すれば、カレッジレ
ベルから、さらにハイスクールレ
ベルの選手獲得に向かったことが
容易に理解されるはずである。
あまたいる女性アスリートのな
かで、短距離の世界を代表するナ
イジェリア人ランナーとして、ま
ず
は
オ
サ
ヨ
ミ(
Oludamola Osayomi
)
の名前を挙げておきたい。一九八
六年、ナイジェリア南西部オシュ
ン州生まれの彼女は、テキサス大
学エルパソ校に進学してから国際
大会で頭角をあらわし、二〇〇四
年のアテネ五輪で四〇〇メートル
リレーのナイジェリア代表となり、
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シニア・デビューを果たした。二
〇
〇
七
年
以
降、
オ
ー
ル・
ア
フ
リ
カ・ゲームやアフリカ選手権で輝
かしい成績をおさめ、二〇〇八年
の北京五輪では四〇〇メートルリ
レーで銅メダルを獲得した。二〇
一〇年にニューデリーで開催され
たコモンウェルスゲームズの一〇
〇メートルで金メダルに輝いたも
の
の、
ド
ー
ピ
ン
グ
テ
ス
ト
で
禁
止
物
質
が
み
つ
か
り、
こ
れ
を
剥
奪
さ
れ
て
しまったが、ナイジェリアでの彼
女の名声は依然として高い。
現役アスリートとして特筆すべ
きは、二〇〇八年に北京五輪の女
子走り幅跳びで銅メダルを獲得し
たオカバレ(
Blessing
Okagbare
)
であろう。同五輪以降、アフリカ
大陸での活躍はもとより、二〇一
三年のモスクワ世界選手権、二〇
一四年コモンウェルスゲームズで
も
複
数
の
メ
ダ
ル
を
獲
得
し、
ト
ッ
プ・アスリートとしての名声を獲
得した。彼女は一九八八年にナイ
ジェリア南部デルタ州で生まれ、
ハイスクール時代はサッカー選手
として過ごしていたが、陸上競技
に転向するや頭角をあらわし、二
〇〇六年の世界ジュニアでは走り
幅跳び、三段跳びで決勝進出を果
たすまでになった。顕著な活躍は
オサヨミ同様、テキサス大学エル
パソ校に進学してからのものであ
り、アメリカの選手養成の仕組み
がもたらした成果であることは間
違いない。
●
実
力
者
の
国
籍
変
更
今日、アスリートの国籍変更が
それほど珍しいことではなくなっ
たとはいえ、その経緯や背景を知
れば、出身国をめぐる複雑な事情
がみえてくる。アフリカ諸国では、
競技施設などハード面はもちろん、
選手の待遇やケアといったソフト
面の立ち遅れが著しい。アフリカ
人アスリートをめぐり世界的に注
目された出来事として、ケニアの
三
〇
〇
〇
メ
ー
ト
ル
障
害
の
選
手
ス
テ
ィ
ー
ブ
ン
・
チ
ェ
ロ
ノ
(
Stephen
Cherono
)の
カ
タ
ー
ル
へ
の
帰
化
が
あった。二〇〇三年のパリ世界選
手
権
の
直
前
に
国
籍
を
変
え、
サ
イ
フ・
サ
イ
ー
ド・
シ
ャ
ヒ
ー
ン
(
Saif
Saaeed
Shaheen
)と
改
名
し
て
の
ぞ
んだレースで彼は金メダルを獲得
した。翌二〇〇四年には世界記録
を樹立したものの、国籍条項から
同年開催のアテネ五輪には出場で
きなかった。国籍変更の理由をめ
ぐり出身国ケニアで論議が沸き起
こったことでも記憶に残るケース
であった。
シャヒーンと同世代のナイジェ
リア人アスリートのなかにも、国
籍
を
変
更
し
て
活
躍
し
た
ス
プ
リ
ン
ターがいた。一九七八年ナイジェ
リア南東部アナンブラ州で生まれ
たオビクェル
(
Francis
Obikwelu
)
は、一九九〇年代後半に陸上世界
ジュニア、世界選手権の短距離種
目でメダルを獲得し、将来を嘱望
されていた。しかし陸上競技団体
による待遇に満足していなかった
オビクェルは、この頃すでに拠点
をポルトガルに移そうとしており、
同国女性との養子縁組までも行っ
ている。二〇〇〇年になってよう
やく彼を受け入れるクラブが決ま
り、翌二〇〇一年にポルトガル国
籍を取得する。
国
籍
変
更
後
は、
二
〇
〇
二
年
の
ヨーロッパ選手権の一〇〇メート
ルで一位、二〇〇メートルで二位
となるなど実力を発揮し、二〇〇
四年アテネ五輪の一〇〇メートル
で銀メダルを獲得、二〇〇メート
ルでも五位入賞を果たした。これ
はオリンピックの短距離種目にお
けるポルトガル選手としては初の
メダル獲得であり、その意味でも
賞賛を浴びた。北京五輪の一〇〇
メートルで決勝進出を逃したこと
から引退を表明したものの、現役
を続行し、翌二〇〇九年にもポル
トガル語圏諸国ゲームで優勝して
いる。いまや地元のスター選手と
なったことはいうまでもない。
●
む
す
び
に
か
え
て
ナイジェリアの人口はすでに一
億七〇〇〇万人を突破したといわ
れ、なかでも若年層が圧倒的な割
合を占めている。スポーツに秀で
た若者も少なからずおり、その能
力発揮の場を求めている。
ところが、こうしたアスリート
の待遇は、ナショナル・チームで
すら満足なものではない。いわん
や
学
校
ス
ポ
ー
ツ
な
ど
は、
「
有
志
」
が支えている状況で、その才能を
伸ばすことは期待できない。伝手
をみつけてタレントを送り出すこ
とがコーチたちにとっても最良の
判断となる。
アスリートが安心して競技に専
念できる環境と待遇、そうしたも
のが保障されない限り、ナイジェ
リア、そしてアフリカ大陸からの
移動は止まらないのである。
(
も
ち
づ
き
か
つ
や
/
東
洋
英
和
女
学院大学
国際社会学部教授)