南アルバータ日系人社会の生成と発展 (上) : BC州日系人社会との比較研究
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(2) 日系 人 た ち が い か に ホ ス ト社 会 に 適 応 ・同化 して い った か を 明 らか に した い 。説 明 の便 宜 上 、 南 ア ルバ ー タの 日系 人社 会 をそ の 発 展段 階 に応 じて次 の4つ の 時期 に区 分 す る 。 この 時期 区分 に用 い られ た 基 準 は あ くまで も便 宜 的 な もの で あ る が、 南 ア ル バ ー タ に おけ る 日系 人 の地 位 の変 動 に 最 も決 定 的 な影 響 を 及 ぼ した と思 わ れ る事件 を考 慮 して時 期 区 分 を 設 定 した こ とを あ らか じめ 断 って お きた い 。 第一 段 階 の 「生 成 期」 は1905年 か ら1914年 まで の10年 間 で あ る。1905年 とい う年 は 、 た ま た ま アル バ ー タが 州 に 昇 格 した年 に 当た るが 、 日系 人 が南 ア ル バ ー タに恒 常 的 に 定 住 し始 め た の は 、 ち ょ うど この頃 で あ った 。 ヴ ァ ンク ー ヴ ァーを 中心 とす るブ リテ ィッ シ ュ ・コ ロ ン ビア 州太 平 洋 沿 岸 部 の 日系 人 社 会 が 、 生成 期 か ら発 展 期 に 入 った の が1908年 頃 で あ るか ら、 そ れ との 比較 で 見 る とか な りの タ イ ム ラ グが 見 られ る。4 1914年 は第 一 次 世 界 大 戦 が勃 発 した年 で あ るが 、 レイ モ ン ドの み な らず 、 南 アル バ ー タ在 住 の 日系 人 の 互助 組 織 と して も っ と も 重 要 な 役 割 を 果 た した 「レイ モ ン ド日本 人 協 会 」(Raymond Japanese Society)が 組 織 され た の も この 年 で あ った 。い うま で もな く日本 人会 の結 成 は 、日系 人 の カナ ダ社 会 へ の 適応 ・同化 とい う視 点 か ら見 る と、 と りわ け 大 きな意 義 を もつ 出 来 事 で あ った。 また、 第 一 次世 界 大戦 に おい て 日本 は カ ナ ダ とは 同盟 関 係 に あ り、 カナ ダ在 住 の 日系 人 の 多 くが 義 勇兵 と して ヨー ロ ッパ戦 線 で戦 った こ とも あ って 、 この 戦 争 を 契機 に 日系 人 に た い す る 白人 の 態度 に 変 化 が 見 られ た こ とに 注 目 した い。5 第 二 段 階 の 「発 展期 」 は1915年 か ら1941年 まで の27年 間 で あ る。 この時 期 の前 半(1915年. 一19. 28年)は 南 アル バ ータ の 日系 人 に と って相 対 的 に 恵 まれ た 時 代 で あ った とい え る。 南 アル バ ータ の 日系 人 た ち が 、 そ れ 以前 の 「出稼 ぎ者 意 識 」 か ら脱 却 して 、 日系 人 と して の アイ デ ンテ ィテ ィ を保 持 しつ つ も、 積極 的 に カナ ダ社 会 に定 着 す るた め の 努 力 を 始 め た の が こ の時 期 で あ った 。 「 発 展 期 」 の 後 半(1929年. 一1941年)は. ニ ュー ヨ ー ク ・ウ ォール 街 の株 式 市 場 に お け る株 価 の. 暴落 に 端 を 発 した 世 界恐 慌 勃 発 の年(1929年)に 会」(Raymond Buddhist Church)が. 始 ま るが 、 た また ま この年 に 「レイ モ ン ド仏 教. 設 立 され て い る。仏 教 会 の僧 侶(開 教 使)た ち が 南 アル バ ー. タの 日系 人 社 会 で 果 た した役 割 は きわ め て大 きな もの が あ った 。 彼 らは 日系 人 に と って 文 字通 り 精 神 的 ・文 化 的 指 導 者 で あ った し、彼 らが二 世 た ち の 日本 語 教 育 に果 た した 役 割 も無 視 で きな い。 第三 段 階 の 「戦 中 期」 は1942年 か ら1948年 の7年 間 で あ る。 こ こで い う 「戦 中 期 」 は 第二 次世 界 大戦 ない し太 平 洋戦 争 の期 間 とは一 致 しな い 。1941年12月7日(現. 地 時 間)の 真 珠 湾攻 撃 は 、. 当 時 カ ナ ダに 在 住 して い たお よそ23,000人 の 日系 人(そ の大 部 分 がBC州 に在 住)の そ の 後 の運 命 を大 き く変 え ず に は お か なか った。 太 平 洋 戦 争 の 勃 発 の 翌年 、 カナ ダ連 邦 政 府 に よ って 日系 人 に 対す る強 制 移 住 命 令 が 出 され た こ とに よ り、BC州 に い た 日系 人 の うち お よそ2,600人. 弱 が アル. バ ー タ州 の 甜 菜 栽 培農 場 に送 り込 まれ た。 これ に よ って 、1941年 の 国勢 調 査 で は アル バ ー タ州 の 日系 人 人 口は578人 に過 ぎな か った のが 、 わず か1年 後 の1942年7月1日. に は3,160人 に激 増 して. い る。6 太 平 洋 戦 争 勃 発 の翌 年 か ら始 まる この7年 間 は 戦 時措 置 法(War Measures Act)に. よ って 日系.
(3) カナ ダ人 が 市 民 と して の 権利 を剥 奪 され て いた 期 間 で あ る。 この 時 期 は 日系 カナ ダ 人 に とっ て忘 れ る こ との で きな い 「 哀 しみ と恥 辱 の年 月 」(Years of Sorrow and Shame)7で. あ った 。 い うま. で もな く、 太 平 洋 戦争 中 の 日系 人 の生 活 は、 そ れ 以 前 と大 き く異 な る もの に な った。 連 邦 政 府 に よ る財 産 没 収 、 内陸 部 へ の 強制 移 住 、 忠 誠 心 調 査 と 日本 へ の 送 還 、 そ して な に よ りも強制 収 容 所 内で の 悲 惨 な 生 活 が 日系 人 の心 に残 した傷 は測 り知 れ な い もの が あ る。8 南 アル バ ー タの 日系 人 は 、太 平 洋 沿 岸 部 の そ れ に 比 べ る と、 地 域 社 会 へ の 適応 ・同化 が は る か に ス ム ーズ に進 ん で い た た め に 、 南 ア ル バ ー タ ではBC州 で見 られ た よ うな 激 しい 排 日感 情 や 日 系 人 排 斥 運 動 は 生 まれ な か った。 とは い え、 日系 人 を 見 る 目に 微 妙 な変 化 の兆 しが 出始 めた こ と も事 実 で あ る。 同 地 域 の 日系 人 た ち は、 カ ナ ダへ の忠 誠 心 を 積 極 的 に 示 す こ とに よっ て 、 白 人社 会 の信 頼 を か ち と る道 を 選 ん だ の で あ る。 最 後 の 第 四 段 階 の 「戦後 期 」 は1949年 か ら現 在 まで で あ る。 戦後 、 日系 カ ナ ダ 人 の社 会 的 地 位 は 戦 前 の そ れ とは 比較 に な らな い ほ ど向上 して い る。 この 原 因 と して は 次 の い くつ か の理 由 が考 え られ る。 第 一 に 、連 邦 政 府 が 日系 人 に対 して 「 散 在 政 策 」を 実 施 した た め 、 日系 人 は戦 前 の よ うにBC州 に 集 中 せ ず 、 カナ ダ全 土 に広 く分布 す る よ うに な った 。 また 、 各 都市 で も、戦 前 の 日本 人街 の よ うに 日系 人 だ け で 固 ま って住 まず 、広 く散 らば って 住 む よ うに な った。 南 ア ル バ ー タ の 日系 人 た ち も、 戦 後 、 エ ドモ ン トン、 ヴ ァ ン クー ヴ ァー、 モ ン トリオ ール 、 トロ ン トな どの大 都 市 へ 次 第 に 流 出 して い る。 そ れ で も南 アル バ ー タ に点 在 す る 町 々に は 、 日系社 会 が依 然 と して存 続 して い る。 現 在 南 アル バ ー タで 最 大 の 日系人 を抱 え る のが レス ブ リ ッジで あ り、 同市 の 日系 人 の人 口は 三 世 を 含 め て お よそ5,000人 といわ れ る。 同市 には2つ の 仏 教 会(「 仏教 会 」 と 「本 派 仏 教 会 」)と 隣 組(日 系 人 の社 交 ク ラ ブ)が あ り、 驚 くほ ど立 派 な 日本庭 園(「 日加 友 好 庭 園 」)が あ る。 この ほ か に も、 カル ガ リー、 テ ー バ ー 、 レイ モ ン ド、 コ ール デ ール 、 ピ クチ ャー ・ビ ュー トな ど に も か な りの 数 の 日系 人 が居 住 して い る。 第 二 に 、 日系 二 世 、 三 世 は戦 前 の一 世 の よ うに 、 限 られ た職 種 で は な く、広 い分 野 の職 業 に就 くよ うに な った 。 これ は一 世 が子 ども の教 育 に 力 を 入 れ た た め 、 二 世 、 三世 に は高 学 歴 の者 が多 い こ とに 起 因 して い る。二 世 、三 世 の間 には 弁 護 士 、 医 師 、 大 学 教授 な どの専 門職 や 管 理 職 従 事 者 の比 率 が ヴ ィ ジ ブル ・マ イ ノ リテ ィ(非 白人 マ イ ノ リテ ィ)の 中 で 最 も高 く、 日系 人 の社 会 的 地 位 を 押 し上 げ た 最 大 の 要 因 とな って い る。 ま た、 失 業 率 で 見 て も、 日系 人 は ヴ ィジ ブ ル ・マ イ ノ リテ ィ の中 で最 も低 く、1991年 の 国勢 調 査 で は6パ ー セ ン トとな って い る 。 第 三 に 、 二 世 、 三 世 の あ い だ で は 他 の エ ス ニ ッ ク ・グ ル ー プ に 属 す る 人 々 と結 婚 す る 交 婚 (inter-marriage)が 増 えた 。ほ とん どの都 市 で交 婚 率 は80パ ー セ ン トを超 え て お り、中 国や 韓 国 な ど の他 の ア ジ ア系 に 比 べ る と、 は るか に高 い交 婚 率 を 示 して い る。 これ は 日系 人 の 同化 が 予想 以上 に急 速 に 進 ん だ こ とを 意 味 して い る。 交 婚 率 の増 加 は 日系 人 の エ ス ニ ッ ク ・ア イ デ ンテ ィ テ ィを 希 薄 化 す る方 向に作 用す る もの と予 想 され た が 、 現 実 に は 自 分 の エ ス ニ ッ ク ・ア イ デ ン テ ィテ ィを 日系 とす る人 々の 割 合 は増 え て い る。.
(4) 第 四 に 、1960年 代 か ら 「 新 移 民 」(New Immigrants)が. 日本 か ら到 着 しは じめ た 。彼 らの 多 く. は高 学 歴 で 高 度 の 専 門知 識 や 技 術 を持 ち,意 識 面 で も戦 前 の 日系 人 のそ れ とは大 き く異 な る特 徴 を持 つ 。 また 、 戦後 高 度 経 済 成 長 を遂 げ た 日本 が 「 経 済 大 国」 とな った こ とで 、 カ ナ ダ に おけ る 日系 人 に 対 す る評 価 も戦 前 とは 比較 にな らな い ほ ど好 転 して い る。 さ らに、1988年 、 カ ナ ダ連 邦 政 府 が 戦 時 中 の 日系人 に対 す る 強制 収 容 な どに 代 表 され る不 当 な扱 い を謝 罪 し,生 存 者 に 対 す る 補 償(Redress)が. な され た 。 これ に よ り日系 人 の市 民 権 は 完 全 に 回復 され,そ の社 会 的 地 位 も戦. 前 とは 比 較 に な らな い ほ ど向 上 した と い え よ う。 紙 幅 の 関 係 で 、 本稿 で は 第一 段 階 の 「生 成 期 」、 第二 段 階 の 「発 展 期 」 の 前 半(1914年 年)ま. で を取 り上 げ るに と どめ 、 「発展 期 」 の 後 半(1929年. 段 階 「戦 後 期 」 に つ い て は 、 次 号 に譲 る こ とに す る。. 一1928. 一1941年)、 第三 段 階 「戦 中 期 」、第 四.
(5) Ⅰ. 1.日. 生 成 期. 系 人 来住 の 時期 と その 出身 地. 南 ア ル バ ータ に 最初 の 日系 人(記 録 に 残 って い る限 りで の)が. 到 着 した の は 、1905年 で あ っ. た 。9日 系 人 が集 団 で本 格 的 に 南 アル バ ー タに 定 着 す る に 当 た っ て決 定 的 な 要 因 と して 作 用 し た の は 、 同 地 域 の ビ ー ト栽培 農 場 の耕 作 労 働 者 が 絶 対 的 か つ 恒 常 的 に 不足 して い た こ と と、 日系 人 に この 労 働 に 対 す る適 性 が あ った こ と、 これ ら二 つ の 事 実 で あ った 。1903年 に ア メ リカ合 衆 国 の ユ タ州 出 身 のモ ル モ ン教 徒 レイ モ ン ド ・ナ イ ト(Raymond Knight)が 会 社 」(Knight Sugar Company)を. レイ モ ン ドに 「ナ イ ト製 糖. 設 立 し操 業 を 開 始 した が 、最 大 の 問 題 は い か に して安 価 で 良. 質 の労 働 力 を確 保 す るか に あ った 。 当 時 の西 部 カ ナ ダ に おけ る労 働 力 不 足 は ほ ぼ慢 性 的 とい っ て も よい状 態 に あ っ た し、 甜 菜 栽 培 農 場 の ほ か に も、鉄 道 建 設 、 鉱 山 な どで 労 働 力 不足 は 深刻 な も の が あ った 。 した が っ て、 な に よ りも経 済 的 要 因 、す なわ ち全 般 的 な 労 働 力 不 足 か ら くる 日系 人 労 働 力 に た いす る需 要 の高 ま りが 、 日系 人 の 南 アル バ ー タへ の移 住 を 促 進 した 最 大 の 要 因 で あ っ た とい え る。す で に述 べ た よ うに 、当 初 ナ イ ト製 糖 会 社 は、1903年 にBC州 か ら中 国 人 労 働 者 を 連 れ て きた が 、彼 らは甜 菜 栽 培 の仕 事 に は 向か な か った た め 、次 に 日本 人 が 連 れ て こ られ た とい う 経 緯 が あ る 。10 レイ モ ン ドの 日系 人 は そ の来 住 の時 期 に よ って 次 の 三 つ の グ ル ー プ に 分 け られ る 。 第 一 の グ ル ー プは 、1904年 に 、甜 菜 耕 作 労 働 者 と してBC州 か ら入 植 した105名 の人 た ち で あ り、 ア メ リ カ で 上 院 議 員 を勤 め たS・Y・ Supply Company)を. ハ ヤ カ ワの 父 親 早 川 一 朗 が 、 「日加 用 達 会 社 」(Canadian-Nippon. 通 して 連 れ て 来 た もの で あ る。 第 二 の グル ー プは1920年 頃 の炭 鉱 労 働 者 た. ち と農 夫 呼 び寄 せ で 来 た 人 た ち で あ る。第 三 の グル ー プ は、第二 次 大 戦 中 の強 制 移 動 でBC州 か ら 移 住 して 来 た 人 た ちで あ る。11ち な み に レイ モ ン ドの 日系 人 の あ い だ で は 、 レイ モ ン ドに戦 前 か ら住 ん で い る先 発 の移 住 者 を 「先 住老 」(old-timers)と 呼 び 、戦争 中 にBC州 か ら強制 移 動 で移 住 して きた 後 発 の移 住 者 を 「新 住 者 」(new-comers)と. 呼 ん で 区別 して いた 。. 南 アル バ ー タ の 日系 移 民 た ち は 、 日本 の どの地 域 か ら来 て い る のだ ろ うか 。 そ こに は 他 の地 域 と異 な る際 だ っ た特 徴 が 見 られ るだ ろ うか 。 この疑 問 に答 え る前 に 、 日本 か ら ア メ リカお よび カ ナ ダへ の移 住 者 の 出身 地 に つ いて 一 般 的 な特 徴 を 見 て み る こ とに し よ う。 1899年 か ら1903年 ま で の5年 間 に発 行 され た パ ス ポ ー トを調 査 した 吉 田弥 三 郎(ア 国 ウ ィス コ ンシ ン大 学 教 授)に. メ リカ合 衆. よれ ば 、 わ が 国 か ら海 外(中 国 、韓 国を 除 く)へ の 移 民 は 日本 の. ほ ぼ す べ て の 県 か ら来 て い る が 、西 日本 に 偏 って い る こ とが 明 らか で あ る。 また 東 北 地 方 で は 福 島 と宮 城 の 出 身 者 が 多 い こ とが 目立 つ 。12 次 に 、 わ が 国 か ら カナ ダへ の移 民 に 限定 す る と、1920年 の 国 勢 調査 で 出身 地 別 の 日系 カ ナ ダ人 の 数 字 を 見 る と、 滋 賀 、和 歌 山 、広 島 が圧 倒 的 多 数 を 占め 、 熊 本 、福 岡 、鹿 児 島 が これ に次 い で い る。 東 日本 で は 宮 城 と福 島 が 多 い くらい で、 や は り西 日本 に 偏 って い る こ とが読 み取 れ る。13 さ らに レイモ ン ド在 留 の 日系 人 に 限定 す る と、『加奈 陀 之寶 庫 』に よれ ば 、1918年 の 時 点 で の レ.
(6) イ モ ン ド在 住 の 日系 人 の 出身 地 は17の 府 県 に ま た が っ て お り、 なか で も沖 縄 、 鹿 児 島、 広 島 な ど 西 日本 出身 者 が 多 数 を 占 め て い る 。14南 ア ル バ ー タ に お い て沖 縄 出身 者 が取 り分 け 目に 立 つ の は 、 ハ ーデ ヴ ィル を 始 め とす る炭 鉱 街 に 沖縄 出 身者 が集 団 で入 植 して い るた め で あ ろ う。 最後 に、 デ ー ビッ ド ・イ ワア サ に よれ ば 、彼 自身 が イ ンタ ビ ュー した レイ モ ン ドの 日系 人 の 出 身 地 は 、 山 口、 福 岡 、広 島 、長 野 、 滋賀 、愛 媛 、 鹿 児 島、 三 重 、 岡山 、 鳥 取 、 東 京 、 沖 縄 で あ り、 や は り圧 倒 的 に 西 日本 に偏 って い る こ とが わか っ た。15 次 に 、南 アル バ ー タ 日系移 民 の 移 住 の 軌跡 を辿 っ て み よ う。 南 アル バ ー タへ 移 住 して きた 日系 人 の場 合、 最 初 か ら南 ア ル バ ー タを移 住 先 と して選 択 した も の は極 め て まれ で あ り、 カナ ダ の 他 の地域(と. りわ けBC州)も. し くは ア メ リカ か ら再 移 住 して南 ア ル バ ー タに 定 住 した もの が 大 多 数. を 占め て い る。BC州 か ら の移 住 者 は 、そ こで の 日系 人 に対 す る排 斥 運 動 の高 ま りに 嫌 気 が さ した り、一 獲 千 金 を 夢 見 て カ ナ ダ に移 民 して きた に もか か わ らず 、 そ こで の仕 事 が 思 った ほ ど金 に は な らな い こ とに失 望 して 、新 しい 仕 事 を 求 め て アル バ ー タ に再 移 住 して きた 者 た ち で あ った 。 し か し これ ら後 発 の来 住 者 の多 くは 、結 局長 くは滞 在 せ ず 、再 びBC州 へ も どった り、 ア メ リカ 合 衆 国へ転 出 した り して い る 。 ア メ リカ合 衆 国 か ら の移 住 者 は ユ タ州 や ア イ ダホ 州 出 身 者 が 多数 を 占 め て い た。 これ は南 アル バ ータ に は モ ル モ ン教 徒 が 多 く、 ユ タ州 ソ ール ト ・レイ クを 本拠 地 とす るモ ル モ ン教 徒 が 日系 人 の移 住 を媒 介 した ため と推 定 され る。. 2.南. ア ルバ ー タ移 住 の動 機. こ こで、 これ ら 日系 人 が南 ア ル バ ー タ へ の移 住 を 決 意 した 動 機 は い か な る もの で あ った のか に つ い て考 察 して み よ う。一 般 的 に い って人 々を 移 民 へ と駆 り立 て る 「押 し出 し要 因」(プ ッシ ュ要 囚)と. しては 、 経 済 的要 因 が まず あ げ られ る。 わ が 国 か ら戦 前 に ア メ リカへ移 民 した人 々 の動 機. の 大部 分 が この 経 済 的要 因 に よる もの で あ った 。16 明治 以降 、 西 洋 列 強 に遅 れ て近 代 化 を推 進 し始 め た 日本 は 、 日清 戦 争 、 日露 戦 争 に おけ る勝 利 に酔 い しれ て 、 欧 米諸 国 と同 じ帝 国主 義 へ の道 を 歩 み 始 め た 。 「 富 国 強 兵」 「 殖産興業」を スロー ガ ンに掲 げ た 明 治 政府 に とっ て 、 国 内 で は人 口の 激増 を 歓 迎 し、 余剰 人 口を海 外 に送 り出す とい う、 いわ ゆ る 「植 民政 策 」 を 採 っ て いた 。 た だ し、 わ が 国 の 場 合 、 欧 米諸 国 の よ うな本 格 的 な 植 民政 策 とい うよ りは 、移 民 の名 を借 りた 「出稼 ぎ労働 」 とい うの が実 態 に近 か った 。 当 時 の 貧 し い 日本 に と って 、 海外 の 出稼 ぎ移 民 が 本 国 に 仕送 りす る 金 は 、 貴重 な外 貨 だ った ので あ る。 「 生 め よ、増 や せ よ」 の人 口増 加 政 策 に よ る急激 な 人 口増 加 に食 糧 生 産 が 追 いつ か ず 、農 村 部 を 中心 に 慢 性 的 な食 糧 不 足 が 見 られ 、 農 民(と. りわ け次 男 、三 男)は そ こに と ど ま るか ぎ り窮 乏. 生活 か ら抜 け 出 す こ とが で きな い とい う構 造 に な って い た。17当 時 の 日本 の 農 村 に お け る小作 人 の生 活 は 、 い まで は想 像 もつ か な いほ ど貧 しい もの で あ った。 年 に一 、 二 度 、 盆 と正 月 に 、塩 辛 い 魚を 口に す る程 度 で、 朝 早 くか ら夜 遅 くまで働 きづ め で あ った。 こ の よ うな 絶 望 的 な経 済 的 困 窮か ら脱 出 で きる恐 ら く唯 一 の 道 と して 残 され て い た の が海 外 、 と りわ け ア メ リカ、 カナ ダへ の 移 住 とい う手段 で あ った 。.
(7) 南 ア ル バ ー タ の 日系 人 た ち の 場 合 も、 金銭 的 な動 機 が彼 らを 移 住 へ 駆 り立 て た 主 た る 要 因 で あ っ た。 この他 に、 知 的 探 求 心 や 徴 兵逃 れ な ど も、 わず か では あ るが 移 民 の 動機 と して あげ られ て い る。 彼 ら の なか で カ ナ ダや 南 アル バ ー タに つ い て の知 識 を わ ず か で も持 って い た者 は ほ とん どい な か っ た。 彼 らが 知 って い た 情報 とい え ば 、 た だ そ こでは 賃 金 が 高 く、 一 生懸 命働 けば 金 持 ち に なれ る とい っ た程 度 の知 識 に と ど ま って い た の で あ る。 彼 ら の多 くは カナ ダ とア メ リカ合 衆 国 との 区別 さ えつ か ず 、 おそ ら く両 者 を 同一 視 して い た と思 わ れ る。1907年 以 降 、 日系 人 が ア メ リカ本 土(ハ. ワイ を除 く)へ 渡 航 す る こ とは極 め て 困難 に な った た め に 、 万 が 一 合 衆 国へ の入 国. を拒 否 され て も、 ひ と まず 北 米 大 陸 の カナ ダ に 入 って しま えば 、 将 来 ア メ リカ合衆 国 へ再 移 住 す る道 も開 け るだ ろ うと考 えて い た 者 が 多 か った と思わ れ る。 彼 らに とっ て移 民 の第 一 の 目的 は 、 お金 を た め 、帰 国 して、 日本 で 少 しで もい い暮 ら しが した い 、故 郷 に錦 を 飾 りた い とい う夢 の 実現 で あ った。20世 紀 の初 め に ア メ リカへ渡 った人 々の 多 く が 口に した 目標 額 は1,000ド ル で あ った とい う。 これ は 当 時 の 日本 円 に換 算 す る と2,000円 で あ り、 それ だ け あれ ば 、 当 時 の 日本 で は一 生暮 ら して い け るだ け の 田畑 が 買 え て 、大 きな家 が建 て られ た とい う。 こ こに 見 られ るの は 、 ま さに 「出稼 ぎ者 意 識 」 以 外 の な に もの で もな い。18 南 アル バ ー タの 日系 人 移 民 の場 合 も、彼 らを移 民 へ 動 機 づ け た 主 た る要 因 は 、経 済 的 な もの で あ った と い うこ とが で き よ う。 しか し、 こ こで興 味 あ る事 実 が 明 らか に な った。 す なわ ち、 南 ア ル バ ー タ の先 発 移 住 者 の 多 くは 、実 は貧 農 の 出身 で は な く、 む しろ 中 農 の 出 身 で あ った とい う事 実 が そ れ で あ る。 な か に は か な り裕 福 な農 家 の 出身 者 もい た し、 高 い 教 育 を受 けた 女 性 さえ い た ので あ る。 デ ー ビ ッ ド ・イ ワ アサ が イ ンタ ビ ュー した 日系 一 世 の うち 、絶 望 的 な経 済 的 困 窮 か ら 逃 れ るた め に カナ ダへ 来 た とい う者 は一 人 も い なか った とい う。 この よ うに 、南 アル バ ー タの 日 系 人 移 民 の 間 に 貧 窮層 出 身者 が少 なか っ た と い う事 実 は 、 どの よ うに説 明 した ら よい の だ ろ うか。 これ に は 次 の二 つ の原 因 が考 え られ る。 第 一 に 、 ア メ リカや カ ナ ダ へ の移 住 に は か な りの 経 済 的 ・金銭 的 負担 が必 要 で あ った 。渡 航 費 (船 賃 ・汽 車賃)、 仲 介 業 者 に 支払 う手 数 料 、 当座 の生 活 費 、そ の他 の雑 費 を用 意 で き るだ け の経 済 的 余裕 が な け れ ば 、渡 航 は で き ない 。 そ の 日、 そ の 日の暮 ら しに追 わ れ て い る よ うな者 に は と て も これ だ け の費 用 を工 面 す る こ とは で きな か った で あ ろ う。 第二 に 、 現状 に甘 んず る こ とな く、 ま った く未 知 の 世 界 で新 た な生 活 を開 拓 して い くた め に は、 か な りの能 動 的 ・積 極 的 な意 欲(ア. ス ピ レー シ ョン)と エ ネ ル ギ ー が要 求 され る。 これ らの積 極. 性 や エ ネ ル ギ ー が 生 まれ て くるた め に は 、 あ る程 度 以 上 の経 済 的 ・社 会 的 ・文 化 的快 適 さを経 験 して い る こ とが必 要 とされ る ので あ る。 知 的好 奇 心 ・旺盛 な好 学 心 あ る いは 向 上 心 な どは 、 南 ア ル バ ー タ の 日系 一 世 、特 に 女性 の間 に 顕 著 に見 られ る特 質 で あ る とい え る。 筆 者 が イ ン タ ビ ュー し た マ ツ ヨ ・モ リヤ マ の 母 親 、 高 橋 (旧姓 島 田)マ. ンの場 合 、 ま さに この 典 型 的 な 事 例 とい って も過 言 で は な い 。 あ る時 モ リヤ マ さ. ん が筆 者 に語 っ て くれ た こ とで あ るが 、彼 女 の 母親 が 生前 口癖 の よ うに 言 って い た こ とが あ る と い う。 そ れ は 「 人 間 に と って 一 番 大 切 な の は学 問 で あ る。 どん なに 苦 し くて も学 問だ け は続 け な.
(8) け れ ば い け な い」 とい う もので あ った。 ま さに モ リヤ マ さん は 、 この母 親 の言 葉 を 遺 言 と して 、 そ れ を 忠実 に守 り実 行 した ので あ る。19 以 上 の考 察 か ら、 つ ぎ の よ うな結 論 が導 か れ る。 日系 移 民 を カナ ダ移 住 へ 動 機 づ け た 主 た る要 因(プ. ッ シ ュ要 国)は 、母 国 日本 の郷 里 に おけ る経 済 的 困 窮 か らの逃 避 とい うよ りは 、 生 活 水 準. や 社会 的地 位 の 上昇 へ の希 求 な い し アス ピ レー シ ョ ンで あ った と考 え るべ き で あ る。20経 済 的要 因 以外 の プッ シ ュ要 因 と して は、 当 時 の 日本 政 府 が外 国 へ の 移 民 を積 極 的 に奨 励 して い た こ とが あ げ られ る。 日本 か らの移 民 が 急激 に増 加 す る の は今 世 紀 に は い って か らで、 特 に 最 初 の10年 間 で あ る 。 日本 か ら移 民 と して 出国 した 人 々 の ほ とん どが 農 村 地 帯 の 出 身者 で 占め られ て い た こ と は 周知 の 事 実 で あ る 。 明治 期 の急 激 な近 代 化 政 策(「 富 国 強 兵」 「殖産 興 業 」 な どの ス ロ ーガ ンに 象 徴 され る)に よ って 生 じた農 村 地 帯 の経 済 的疲 弊 を 解 決 す るた め の一 手 段 と して 、 明 治政 府 は 外 国 へ の 「出稼 ぎ」 と もい うべ き移 民 を政 策 と して奨 励 した の で あ る。 これ ま で わ れ わ れ は 、 南 アル バ ー タの 日系 移 民 を移 住 へ と駆 り立 て た要 因、 す な わ ち 「押 し出 し要 因」(プッ シ ュ要 因)に つ い て検 討 して きた が 、次 に彼 らを 引 きつ け た要 因 、す な わ ち 「引 き 込 み 要 因」(プ ル 要 因)に つ い て考 察 して み よ う。 お よそ20名 に お よぶ 南 ア ルバ ー タ在 住 の 日系 一 世 に た い す るイ ワア サ の イ ン タ ビ ュ ーか ら明 ら か に な った こ とは 、 南 ア ル バ ー タの 日系 移 民 の大 多 数 は 、 す で にBC州 に 定 住 し て い た 「先 発 移 民 」 の親 族 や知 人 で あ り、 そ の 「先発 移 民 」 の もた らす 貴 重 な 情 報や 伝 を 頼 って 、 カナ ダ に移 住 して きた い わ ば 「 後 発 移 民 」 で あ った とい う事 実 で あ る。21 も う一 つ の 見逃 す こ と の で き な い 重 要 な 要 因 と し て は 、 労 働 者 斡 旋 業 者 「日加 用 達 会 社 」 (Canadian Nippon Supply Company)の. 存 在 を あげ な い わ け に は いか な い 。後 に詳 し く述 べ る よ. うに 、 この会 社 は1906年 に 後 藤 左織 とフ レデ リ ック ・ヨ ニ ー(Frederick Yonhy)に れ た もの で 、 日系 人 労働 力 の供 給 に 関 して雇 用 主 のCPR(カ. よ って創 設 さ. ナ ダ太 平 洋鉄 道)と の 間 に独 占的 な. 契 約 を取 り交 わ して い た。 以 上 の 検 討 を 要約 す る と、 日本本 国 に おけ る経 済 的 困 窮 、農 村 部 に お け る人 口増 加 の圧 力 、 日 本 政 府 の植 民政 策 な どが プ ッシ ュ要 因 と して作 用 し、 先 発 移 民(と. りわ け 家族 ・親 戚 ・知 人)の. 情 報 や移 民 先 の 受 入 れ体 制 な どが プル要 因 と して作 用 し、 これ らの客 観 的 な諸 要 因 と主 体 的 諸 要 因(ア ス ピ レー シ ョ ン、 向上 心 、 冒 険心 な ど)が 複 雑 に 絡 み 合 って、 人 々を移 住 へ と動 機 づ け た もの とい え よ う。22. 3.写. 真結 婚 に つ い て. わ が 国 の 移 民 は 、 当初 か ら帰 化 ・永 住 を 目的 と した もの で は な く、 数 年 間働 い て金 を稼 い で 故 郷 に 帰 る こ とを 前提 と した いわ ゆ る 「出稼 ぎ労 働 移 民」 な い し 「回帰 型 移 民」 で あ っ た ことは す で に述 べ た 。 した が って 、 当然 家族 ぐるみ の移 民 は きわ め て まれ で、 日本 か らの移 民 はそ の ほ と ん どが 単 身 男性(そ. の 多 くは若 年 の独 身 男 性)に. よ って構 成 され てい た 。 当 時 ア メ リカ合 衆 国 や. カナ ダ に 在 留 して い た 日本 人 独 身 男性 に とって 、 現 地 で結 婚 相 手 を見 つ け る こ とは至 難 の業 で あ.
(9) り、 ほ とん ど絶 望 的 で あ った とい って よい。 そ こで、 海 外 に あ って 配 偶 者 を探 す 方 法 と して考 え られ た のが 写 真 結 婚 で あ った。 こ の写 真 結 婚 が 最 も盛 ん に行 わ れた の は1910年 代 で あ った 。 これ に は カ ナ ダ政 府 の移 民 政 策 が 深 い関 わ りを 有 して い る。1907年 、 ヴ ァ ン クー ヴ ァーで 東 洋 系(中 国 系 ・日系)移 民 排 斥 を叫 ぶ 白人 暴 徒 が,中 国 人街 と 日本 人街 を襲 い、 商 店 な どを 破 壊 す る とい う事 件(世. に 言 う 「ヴ ァ ン. ク ー ヴ ァ ー暴 動」)が 起 こった 。23こ れ を 受 け て カナ ダ連 邦 政 府 は 日本 政 府 との 間 に 「 紳 士協 定 」 を 取 り決 め て い る。 す な わ ち 、 日本 か らカ ナ ダへ の 移 民 を 年 間400名 に 制 限 す る と い うの が そ の 内容 で あ った 。 この ル ミュ ー協 約 が成 立 した1908年 頃 の カナ ダ 在 住 の 日系 移 民 の数 は 、8,000人 前 後 で あ った と推 定 され る。 この協 定 を 締 結 した カナ ダ連邦 政府 の意 図 は、 日系 移 民 の これ 以 上 の 増 加 を抑 え 、下 層 白人 労働 者 の不 満 を 鎮 め る と ころ に あ った。 と ころ が、 そ の後 の 展 開 は 、 カ ナ ダ連邦 政 府 の期 待 を ま った く裏 切 る結 果 に な った の で あ る。24 ル ミュ ー協 約 は 、 日本 政 府 がBC州 の 「 排 日情 勢 」を 考慮 して 、 自主 的 にそ の カナ ダ渡 航 移 民 に た い す る効 果 的 な制 限措 置 を とる こ とを 表 明 し,移 民 の種 類 を① 再 渡 航 者 と、 カナ ダ在 住 の 日本 人 の妻 子 、② カ ナ ダ在 住 日本 人 の家 内 使 用 人 、 ③ カナ ダ在 住 の 日本 人 農 業 経 営 者 の 必 要 とす る契 約 移 民 、及 び④ 契 約 移 民 と し、 さ らに ② の 家 内 使 用 人 と③ の契 約 移 民(農 業 労 働者)に. ついては. 年 間400名 以 内に制 限 す る こ とを約 した いわ ゆ る 「紳 土 協 定 」 で あ る 。 この協 定 の最 大 の特 色 は、 第 一 に 、 そ れ が 日本 側 に よる 自主 規 制 措 置 で あ った とい う点 に あ っ た。 す なわ ち、 カ ナ ダ連 邦 政 府 の 許 可 を 要 す る④ の 「 契 約 移 民 」 を 除 い て 、他 は全 て旅 券 と 日本 領 事 発 給 の在 留 証 明書 また は 呼 寄 せ証 明 書 に よ って渡 航 で き る建 て 前 で あ り、実 質 的 な移 民 管 理 権 が 日本 側 に 属 して い た ので あ る。第 二 に 、 カ ナ ダ在 住 者 の 妻 子 は 制 限 数 の枠 外 と して 、そ の渡 航 は原 則 的 に 自 由で あ る との 理 解 の下 に運 用 され た。 この こ とは 、当然 の こ とな が ら、BC州 内 の ル ミュー協 約 へ の 不 満 を 増 大 させ る結 果 につ な が る。 協 定 が 実 施 され た1908年 以降 、 渡 航 者 の8 割 以 上 を カナ ダ在 住 者 の 妻 子 が 占 め 、 ま た写 真 花 嫁 も 目立 つ よ うに な り、増 加 し続 け る カ ナ ダ在 住 日系 人 の95パ ー セ ン ト以 上 がBC州 に 集 中 した か らで あ る。 1921年 の 人 口調 査 に よれ ば 、 日系人 は16,000人 弱 と,お よそ10年 間 で倍 増 して い る。 これ は 一 体 いか な る事 情 に よ るの か 。 この謎 を解 く鍵 が ま さに 写 真結 婚 だ った 。 す で に述 べ た よ うに 、 日 系 移 民 の 多 くは 単 身 の 男 性 で あ った。 そ の うち既 婚 男 子 は 、 日本 に 残 して きた妻 子 を後 か ら カ ナ ダに 呼 び 寄 せ る こ とが で きた。 も っと も妻 子 を呼 び寄 せ る まで に 要 した年 数 は平 均 で6年 で あ っ た とい うか らそ の 間 は 一 人暮 ら しを強 い られ るわ け で あ る。 問題 は 独 身 の 男子 で あ っ た。 日系 移 民 の多 くは 、 漁 業 、 鉱 山 、 山林 、製 材 、農 業 な どの分 野 で 働 く肉 体 労働 者 、 あ る い は、 日系 移 民 相 手 の 飲 食 店 や 旅 館 な どで働 く人 々 で あ った 。 要 す るに 、 教 育 、 技術 、専 門的 知 識 を も たな い 不 熟 練 肉 体 労 働 者 が そ の 大半 を 占 め て い た。 英 語 も片 言 しか 話 せ な い東 洋 人独 身 男性 が 、 白人 の カ ナ ダ人 女性 と結 婚 す る こ とは 、 ほ とん ど不 可 能 に 近 い 話 で あ った 。 か とい っ て 日本 人 の未 婚 女 性 を 結婚 相 手 と して 現地 で探 す こ とも きわ め て困 難 で あ った 。 そ れ で は花 嫁 探 しに 日本 へ 行 け ば い い で は な い か と思 わ れ る か も しれ な い。 しか し、 そ れ に も色 々な 障害 が あ った 。 まず 日本 に 行 く.
(10) に は 高 い 船 賃 が かか る。 さ らに ヴ ァン ク ー ヴ ァ と横 浜 の 間 の船 旅 に は少 な くと も2週 間 は か か る。 さ らに 日本 で 見合 いを し、 式 を 挙 げ て、 カナ ダに 花嫁 と2人 で戻 って く るま で には 、 数 ケ月 か か る こ とを 覚悟 しな けれ ば な らな い。 これ では 大 概 の 者 は 配偶 者 探 しを諦 め ざ る を え なか った だ ろ う。 か りに 経済 的 に多 少 のゆ と りが あ っ た と して も、 も う一 つ の大 きな 障害 が立 ち塞 が って い た 。 1908年 以 降 は ル ミュー協 約 に よっ て移 民 数 が 制 限 され て い る の で 、 カ ナ ダ在 住 者 で 市 民 権 を 持 た な い もの は 、 い っ た ん 日本 に 行 く とカ ナ ダに 戻 れ な い場 合 が で て くる の で あ る。 そ こで 苦 肉 の策 と して考 え ら れ た の が写 真 結 婚 で あ る。 これ は一 言 で い え ば、 写 真 や 手 紙 を 介 しての 見 合 い結 婚 で あ るが 、 具 体 的 には カナ ダに 住 む独 身 の 日本 人 移 民 の青 年 が 、 日本 に 住 む 両 親 が 選 ん だ 女性 との間 で写 真 や 経 歴 を 交 換 し,互 い に相 手 が 気 に 入 れ ば、 手 紙 の や り取 りを 行 い 、 両 者 が 合 意 に達 した時 点 で妻 と して入 籍 す る とい うプ ロセ スが と られ る のが 普 通 で あ った 。 した が って 、 結 婚 の 当事 者 同士 は 一 度 も直 接 顔 を 合 わ せ る こ とな く、 婚 姻 が 法 的 に 成 立 して し ま うの で あ る。 当時 の 白人 の 目には 、 当 然 の こ と なが ら、 この よ うな結 婚 の形 態 は きわ め て 奇 異 な もの に 映 っ た にち が い な い。 今 日 の 日本 人 か ら見 て も,ず い ぶ ん無 茶 な や り方 に 思 え るが,見 合 い結 婚 が 当 た り前 で あ った 当時 の 日本 社 会 で は、 さほ ど違 和 感 や 抵 抗 は な か った の で あ る。 こ うして 日本 を 後 に 未 だ 見 ぬ未 来 の夫 に 会 い に 太 平 洋 を越 え て カナ ダに 渡 って 来 た 日本 人 女 性 た ち は 「写 真 花 嫁 」(picture bride)と か 「写 婚 妻 」 な ど と呼 ばれ た 。 こ うした写 真 結 婚 に は 色 々 と問 題 も多 か った。 いわ ば 詐 欺 に 似 た 手 口が 使 わ れ る こ と もあ っ た ら しい 。例 え ば、 実物 以 上 に よ く見 せ るた め に写 真 を 大 幅 に 修 正 す る とか 、実 際 よ り若 く見 せ る た め に か な り以 前 の写 真 を用 い る とか 、時 に は本 人 ので は な く好 男 子 の友 人 の 写 真 を 用 い る と い った 乱暴 な ケ ー ス もあ った 。 手紙 に つ い て も、 多 くの 場 合 本 人 が 字 を 書 け な い ので 代 筆 は 日常 茶 飯事 で あ った 。 さ らに 、 カ ナ ダに来 てか ら の履 歴 を 偽 った り、資 産 の 見積 りを 実 際 よ り一 桁 上 げ た りす る。 服 装 に つ い て も、 男 は 山高 帽 、 ネ ク タイ 、 フ ロ ック コー トな ど を着 て 、 一 見紳 士 風 を 装 った りす るが 、実 は それ らはす べ て借 り着 だ った りす る。25 した が って 、写 真 結 婚 につ い て は、 これ まで 様 々な悲 劇 的 側 面 のみ が 強 調 され て きた 。 しか し、 写 真結 婚 に は悲 劇 的 な エ ピ ソー ドばか りで は な く、順 調 で幸 福 な 家 庭 生 活 に む す び つ い た ケ ー ス も少 な くな い。 この辺 の事 情 につ いて は 、 真 壁知 子著 『写 真 婚 の妻 た ち カ ナ ダ 移 民 の 女 性 史 』(未 来 社 、1983年)及. び 、 工 藤 美代 子 著 『写 婚 妻 』(ド メ ス 出版 、1983年)に. 詳 しい。. 工 藤 美 代子 の 『写 婚 妻 』 に は レイ モ ン ド在 住 の3人 の写 婚 妻 へ の イ ン タ ビ ュー が 出 て くる が、 こ こで は 岩浅 伊 都 と小 谷 田イ サ の話 を 紹 介 し よ う。 ち なみ に この 岩 浅 伊 都 は 、 「レイ モ ン ド日本 人 協 会」 の初 代 会 長 を 務 め た 岩 浅 享 淳 の 夫 人 で あ り,ま た デ ー ビ ッ ド ・イ ワア サ の祖 母 に 当 る。 彼 女 は マ ツ ヨ ・モ リヤ マ の母 親 、 高橋 マ ンと親 しか った ら し く、 マ ツ ヨ さん の話 のな か に も しば しば登 場 してい る。. それ で、 私 が10(歳)位. の年 で した。 日本 人 の ひ とた ち が仏 教 の お坊 さ んを 呼 ん で 、 日本 語.
(11) を子 ど もに教 え る よ うに しよ うって お 話 が進 ん で お った の で す。 そ した ら、 お 母 さん とイ ワ ア サ(岩 浅)さ. ん の ミセ ス(夫 人)が 家 へ きて 、 お話 し よ った のね 。 ミセ ス ・イ ワアサ に は 子 ど. もが8人 お られ た の です 。26. す で に述 べ た よ うに,1904年 に レイ モ ン ドの製 糖 会 社 が,甜 菜 栽 培 労 働 者 と してBC州 か ら 日本 人移 民 を連 れ て き た が、 こ の製 糖 会 社 は1914年 、 閉鎖 され る。 これ に 伴 いBC州 に 戻 る 人 も 出 た が 、未 開 の 土地 を購 入 し、小 麦 や 野 菜 作 りの 自作 農 に転 向 した 人 々が50名 ほ どいた 。 そ の 中 に 、 高橋 マ ンや岩 浅 伊 都 とそ の後 結 ば れ る こ とに な った ご主 人 た ち が いた の で あ る。 写 真 花 嫁 と して レイ モ ン ドに着 い た伊 都 は 、 まず あ ま りに粗 末 な住 居 に驚 か され る。. そ りや 初 め て主 人 に 会 った 時 は 、 不細 工 な の で 、 が っか りしま した 。 主 人 とは 、 イ トコ同 士 . お. な ん です よ。 で も、 も ち ろん 会 うた こ とは な い 人 です 。 写 真 結 婚 で す か ら。 そ れ で 、 レイ モ ン ドに着 い てみ た ら、 家 を 見 て また が っか りし ま した。 あれ 大 正4(1915)年. の5月 で す よ。 こ. ち ら に来 た の。27. も う一 人 の レイ モ ン ドの 写 婚 妻 、 小 谷 田 イ サ は 明治29(1896)年. 生 まれ で 、 大 正6(1917)年. に カ ナ ダに 渡 って い る。. 私 は 写 真結 婚 で す が 、や っぱ り親 戚 か ら も ろ うて も らい ま した 。 主 人 は 東 京 の 出身 だ け ど、 私 は 滋 賀 県 で す 。彦 根 町 、今 の彦 根 市 ね 。 昔 は ビク トリアに 船 が着 い て 、 きれ い な船 で し た。 ほ ん な に バ タバ タ と揺 す れ ま せ ん しね 。 や ん わ りと した もん で した 。 パ パ さん は10歳 ほ ど私 と 違 い ます 。36ぐ らい で した。 ビ ク トリアに 迎 えに 来 て て 、 は い 、 す ぐ解 りま した。 ち っ と も不 自 由 し ませ ん。 船 の 中 は 日本 着 で、 ビク トリアに 着 い て か ら着 替 え ま した。 ス カ ー ツに ハ ッ ト か ぶ って ね。 パ パ さんが 何 か こ しら えて 持 って 来 た ん で し ょ。 じき 身体 に合 い ま した 。28. マ ツ ヨ ・モ リヤ マ の両 親 高 橋 夫 妻 も、 この 写 真 結 婚 で結 ば れ て い る。 そ の経 緯 に つ い て マ ツ ヨ さん は次 の よ うに語 って い る。. お 父 さん は(お 母 さん へ)「 写 真 結 婚 す るの に カナ ダに 来 た ら、 まあ、濡 れ 手 に 粟 と言 い ます か、 そ うい う風 にお 金 が 儲 か るか ら、 来 た ら ど うか」 とい う手 紙 を書 いた ら しい で す 。す で に お母 さ ん も2度 目の 結 婚 で あ った ら しい の で す 、本 当 は。 それ で2人 の子 どもが い た ら しい の です 。29. マ ツ ヨさん の 母 親 もそ うで あ った が 、再 婚 だ った り、家 庭 の事 情 で 婚 期 が 遅 れ た 女性 が写 真 結 婚 に は 多 く見 られ た 。 また 、結 婚 相 手 は親 戚 同士 とい うのが か な りあ った と思 わ れ る。.
(12) レイ モ ン ドの 日系 人 の ばあ い 、 当 初甜 菜栽 培 農 場 の 耕 作 労 働 者 と して定 住 した もの が 多 く、彼 らに と って 自分 の 土地 を持 つ こ とが成 功 へ の第 一 歩 で あ った 。 と ころ が レイ モ ン ドで は 、結 婚 し て い る こ とが 土 地 を 手 に いれ るた め の条 件 に さ れ て い た とい う事情 が あ った 。 マ ツ ヨ さん は これ につ い て 次 の よ うに語 ってい る。. レイ モ ン ド ・ナ イ トとい う人 が 「ど この人 で も、 どの 国 か ら来 た人 で も、 土地 は 分 け てや る。 そ の か わ り、 お 酒 と博 打 と、 評 判 の悪 い遊 び場 、 女郎 屋 とか 、そ うい うこ とは絶 対 しち ゃ い け な い。 も し も、 そ うい うこ とに 手 を か け た人 は、 土 地 を取 り返 す とい う約 束 、 この約 束 をす る な ら町 を建 て て あ げ る」 と、 こ う言 うた ん です 。 … … そ して土 地 を ね 、百 姓 す る土 地 を欲 しい 人 に は 、是 非 ワイ フが な くて は い け な い。 そ れ は昔 の こ とで、 独 身 の 人 は とて もつ とま らな い、 こ う見 た の です 。 けれ ど も 「ワイ フ が あれ ば 、 我 慢 が で き るだ ろ う」 と言 うてね 、 そ れ で レイ モ ン ドに こ られ た ミセ スの 人 た ち は皆 、 写 真 結 婚 です 。 ワイ フが な くち ゃ い け な い の で、 な け れ ば土 地 を 自分 の ものに で きな い の で、 そ れ で 写 真 結 婚 が レイ モ ン ドで はね …… 。. 写 真 結 婚 は 白人 の 目に は非 人道 的 な結 婚 制 度 と映 り、 排 日運 動 の 口実 と して利 用 され た た め 、 日本 政 府 は1920年. 「 写 婚 禁止 」 を在 外 公 館 に 告 示 させ た 。 だ が カナ ダで は、 写 真 結 婚 は1928年 ま. で続 い た。 この 間 に カナ ダに は多 くの 「写 婚 妻」 が 入 国 して い る。最 盛 期 の1913年 に は 、 そ の 数 は300∼400人 に のぼ る と推定 され て い る。 した が って 、1928年 まで の お よそ20年 間 に 、 数 千 人 に のぼる 「 写 婚 妻 」 が カナ ダに渡 っ た と考 え られ る。 こ うして 、1921年 の セ ンサ スで 日系 人 は お よ そ15,900人 、1931年 に は23,300人 余 りを 数 え る よ うに な った の で あ る。 か くして ル ミュ ー協 約 と い う 日系 移 民 の実 質 的 停 止 をね ら い と して と られ た 政 策 が 、 カナ ダ 日系 人 の 人 口を逆 に増 加 さ せ る とい う皮 肉な 結 果 を 招 いた と い え る。 そ れ で は、 写 真 結 婚 に よっ て 日本 か ら ま った く未 知 の世 界 を訪 れ た 花 嫁 た ち を待 ち受 け て い た 現 実 は どの よ うな もの で あ った のだ ろ うか。 まず 母 国 日本 とは大 き く異 な る気 候 風 土 を第 一 に挙 げ なけ れ ば な らな い 。 ア ルバ ー タの 自然 地 形 は果 て しな く続 く大 草 原(プ. レー リー)に 要 約 され. る。 プ レー リーで は 夏季 は昼 間 の 気 温 は 高 く、 日差 しが強 く、空 気 は 乾燥 して い る が 、夜 間 に な る と急 激 に 気 温 が 下 が る。 つ ま り昼 夜 の温 度 差 が極 端 に大 き い とい う特徴 が あ る。 この気 温 の差 が アル バ ー タ産 の 小 麦 や ジ ャ ガイ モ の質 を良 く して い る の で あ る。 降 雨量 が極 め て少 な く何 日 も 雨 が 降 らな い こ と も まれ では な い 。植 物 の生 育 には あ ま り適 さ ない た め 自然 状 態 で は大 きな樹 木 は 育 た な い の で あ る。 したが って 、樹 木 や 芝 生 を 育 て るた め に は ス プ リンク ラ ー で絶 えず 給 水 す る こ とが 必 要 で あ る。 冬 季 は プ レー リー が 内陸 部 に 位 置 す るた め 零 下30度 ま で下 が る こ と もあ る。 秋 口か ら冬 に か け て 台 風 の よ うに 強 い 風(時. 速80-100km)が. 吹 きつ づ け る 。 地 元 の 人 々 が. 「シ ュ ヌ ー ク」 と呼 ぶ こ の強 風 は ロ ッキ ー山 脈 か ら吹 き降 ろす 暖 か い乾 燥 した 空 気 を 平 原 部 に も た ら し、 これ に よ って前 夜零 下20度 まで 下 が って い た 気 温 が 翌 日に は ぽか ぽ か 陽 気 に 一変 す る。 春 先 の 気 候 も気 ま ぐれ で、 あ る 日ブ リザ ー ドが 吹 き荒 れ た か と思 え ば 、次 の 日は 真 夏 の よ うな暑.
(13) さ と い う次 第 で あ る。 要 す るに 日本 の温 暖 な気 候 や 四 季 の 微 妙 な 変 化 に慣 れ た もの に は 、 あ ま り に も厳 しい気 候 で あ り、 あ ま りに も変 化 が激 し く、 これ に 適 応 す るの は 容 易 で は な い。 次 に 日常 生 活 の 質 を 左 右す る最 も重 要 な ポ イ ン トとな る家 屋 の 構 造 に 目を転 じる と、 当初 南 ア ル バ ー タ 日系 人 の 大 多 数 は 、穀 物 倉 庫 を改 造 した だ け の 極 め て 粗 末 な 家屋 に住 む こ とを余 儀 な く され た 。 そ れ は 家 と呼 べ る よ うな代 物 で はな く、 小 屋 とい った 方 が よ り適 切 な表 現 と い え よ う。 大 工 仕 事 に 不慣 れ な 素 人 の仕 事 だ か ら外 観 も不 細 工 な こ と この 上 な い。 もち ろ ん断 熱 材 な ど使 用 して い るわ け もな い か ら、薄 っぺ らな納 屋 の よ うな もの で 、壁 は 隙 間 だ らけ で、 冬 に な る と大 き な ツ ラ ラが 窓 の 内側 に たれ 、壁 は一 面 霜 が 張 りつ い て 白 くな る。 トイ レ も多 くが 外 便 所 で あ った か ら、 冬 に夜 間 トイ レに行 くの は気 が 重 か った に 違 い な い。 気 温 は家 の 中 で も外 気 と大 きな 違 い が な い か ら、汲 み置 き の飲 料 水 を 始 め す べ て の もの が 凍 って しま う。 暖 か い場 所 とい え ば 、 か ろ う じて ス トー ブ の周 りだ け で あ った 。 夏 は 夏 で 日中 は家 の 中 は熱 が こ も り、 ま るで サ ウナ の よ う な暑 さ とな る。 部 屋 の仕 切 りもな く、 カ ーテ ンー 枚 で 台所 と寝 室 を分 け て い る とい うの が大 方 で あ ったか ら、 プ ラ イバ シ ーな ど望 む べ くもな い 。 日本 の 田舎 で さ え電 気 が 点 い て い た の に ラ ン プ だ け の薄 暗 い不 自 由な 生 活 を 我 慢 しな け れ ば な らな い の は仕 方 な い と して も、 水道 は お ろか 井戸 も な いた め お風 呂に も思 うよ うに 入 れ な い とい う状 態 で あ った 。 写 婚 妻 の ほ とん どが農 村 出身 者 で あ った とはい え、 この よ うな 不 自由 な 生活 は つ らい も のが あ った に 違 い な い。 新 天 地 で の新 婚 生 活 の 夢 に 胸 を 膨 ら ませ て 太 平洋 を越 え て き た末 に、 こ の よ うな粗 末 な 小屋 に これ か ら住 ま なけ れ ば な らな い と分 か った 時 の彼 女 た ち の気 持 ち を想 像 す る と筆 者 な らず と もや りきれ な い思 い に 駆 られ ず に は お か な い 。 次 に 彼 女 た ち を 悩 ま せ た 問題 は孤 独 で あ る。 言 葉 も通 じな い文 化 や 生 活 習慣 を ま った く異 に す る 土地 に 来 て 、彼 女 た ち が頼 りにす る話 し相 手 とい え ば近 隣 の 同 じ 日系 人 の奥 さん とい うこ とに な るが 、 当 初 は そ もそ も 日系 人 の絶 対 数 が 少 な い 上 に 、妻 帯 者 とい え ば極 あ て 限 られ て い た 。 岩 浅 伊都 が1915年 に レイ モ ン ドに来 た と き、 日系 人 の婦 人 はわ ず か5名. で あ った とい う。 しか も、. 都 市 と違 って レイ モ ン ドの よ うな 農 村 で は一 軒 一 軒 が遠 く離 れ て い るた め 、 最 も近 い 隣 人 を訪 ね る の に さえ数 マ イ ル も の道 の りを 馬 車 や 馬 で行 か な けれ ばな らな か った こ とを 考 え る と、彼 女 た ち が いか に寂 しい思 いを した か お お よそ 想像 で きる。30 南 アル バ ー タ の 日系 人 の間 で 歌 われ て い た 「アル バ タ の花 嫁 」 は 上 に 述 べ た よ うな写 婚 妻 た ち の心 情 を よ く表 して い る。31. 1.妾. が 嫁 いで 来 た と こは. 遠 い遠 い海 越 え て 着 い た 港 が 西 の端 奥 へ 奥 へ と幾 百 里 よ くも来 た そ や平 原 州.
(14) 2.夫. 一 人 が頼 りに て. 朝 夕 眺 め る麦 の波 地 の果 染 め る金 色 の 沈 む 太 陽 の西 を見 て あ あ父 母 と呼 び し我. 3.去. 年 の不作 に 今年 又. ドライ の風 は 吹 き渡 る 帰 る路 金 の あ らば こそ ま と う着 物 も色 あせ て あ わ れ貧 しき母 とな る. 4.冬. は 零下 三 十 度. 窓 に は 湯気 が凍 りつ き 今 日 も暮 れ行 く雪 の 中 夜 の し じま に 聞 く音 は 餌 を求 め て 鳴 くカ ヨテ. この ほか 医 者 が 近 くに い な いた め 、 あ る い はか りに 医 者 が い た と して も診 察 費 が 払 えな い た め に 、病 気 や 出産 の 際 に は 適切 な処 置 を とる の が遅 れ て 手後 れ に な る こ と も少 な くな か った と思 わ れ る。 この よ うに 、 数 え 上 げれ ば き りが な い ほ どの苦 難 が彼 女 た ち を待 ち受 け て い た わ け だ が 、 そ れ らを一 つ 一 つ 乗 り越 え る こ とで彼 女 た ち は新 しい 世 界 に適 応 した くま し く生 き抜 い て子 ども た ち を 育 て上 げ て い った の で あ る。. 4.鉄. 道建 設 労 働 者 と炭 鉱 労 働者 の 到 来. 19世 紀 末 か ら20世 紀 初 頭 に か け て 、 カナ ダ西 部 で は盛 ん に 鉄 道 の建 設 が進 め られ た 。 この鉄 道 建 設 労 働 に は苦 力(coolie)と. 呼 ばれ て い た 中国 系 移 民 が主 と して 従 事 した こ とは よ く知 ら れ て. い る。 だ が 南 ア ルバ ー タ の鉄 道 建 設 の 場 合 に は 、 日系 人 が 大 きな 役割 を果 た した とい う事 実 を 強 調 した い 。 1906年 以 降 、CPR(カ. ナ ダ太 平 洋 鉄 道)と 独 占的 契 約 を結 ぶ 「日加 用 達 会 社 」 が 日系 人労 働 者. を供 給 し始 め た こ とに よ り、労 働 力 の 安 定 的供 給 が可 能 に な った 。「日加 用 達 会社 」 は 、ただ た ん に労 働 者 を 供 給 す る だ け に止 ま らず 、 現 場 監 督 者 や 主任 を も供 給 した の で あ る。 こ の 斡 旋 業 者 (俗 に言 う 「口入れ 屋 」)の おか げ で 、契 約 会 社 は 従 来 の よ うに個 々の 労 働 者 に賃 金 を支 払 う とい う面 倒 な業 務 が 必 要 な くな っ て、 「日加 用 達 会社 」 に労 賃 を一 括 して支 払 え ば よい こ とに な った 。 個 々の労 働 者 は 「日加用 達 会 社 」 と の間 で合 意 に 達 した基 準 に したが って 賃 金 を 支 払 わ れ る。 斡.
(15) 旋 業 者 は 斡旋 手 数 料 と して月 に1ド ル を 個 々の 労 働 者 か ら徴 収 し、 そ の他 労 働 者 の必 要 に 応 じて 食糧 、 衣類 、 日常 生活 用 品な どを有 料 で 提 供 した 。 この 他 に 、 医療 費 と して月50セ ン ト、 郵 便 物 手 数 料 と して 、 同 じ く月50セ ン トが労 働 者 か ら徴 収 され た 。32 1908年 、 お よそ600名 の 日系 労 働 者 が 南 ア ル バ ー タ地 域 に鉄 道 建 設 労 働 者 と して 集 団 で就 労 し て い る。 この 大 量 の 日系 労働 者 の労 働 市 場 へ の 参 入 に 対 して 、地 元 の組 織 労 働 者 た ちは どの よ う な 反 応 を 示 した で あ ろ うか。 当初 、南 アル バ ー タの 労 働 組 合 は 、 日系 人 の労 働 市 場 へ の参 入 に 対 し、 強 い 拒 否 感 を表 明 し、 自分 た ち 白人 の職 場 が 東 洋 人 に よ って 荒 され る ことへ の警 戒 心 を あ ら わ に した 。 事 実 この年 、CPRの. 機 械 工 た ち は 抗議 の ス トを打 ってい る。33. 「レス ブ リ ッジ ・デ イ リー ・ヘ ラル ド」 に よれ ば 、 地 元 の組 織 労働 者 は 日系 人 労 働 者 の 労 働 市 場 参 入 を め ぐ って 対立 す る二 つ の グル ー プに 分 裂 して い た 。 第1の グ ル ー プ は、 全 て の ア ジ ア人 を カナ ダか ら放 逐 す べ きで あ る と主 張 し、 日系 労 働 者 の 職 場 か らの排 除 を求 め た。 これ に 対 して 第2の. グル ー プは 、 日系 労働 者 を組 合 に 加 入 させ る こ とに よ って 、資 本 家 に対 抗 しよ うとす る戦. 術 を と った の で あ る。34 次 に炭 鉱 労働 者 に つ い て述 べ る と、BC州 の 日系 人 は早 くか ら炭 鉱 で働 いて い た が 、最 初 の 日系 炭 鉱 労 働 者 が 南 アル バ ー タの ガ ル ト炭 鉱(Galt Coal Mines)に. 来 た の は1909年 で あ った 。35最 初. は や は り日系 人 に対 す る排 斥 や 差 別 が 見 られ た が 、 次 第 に 受 け 入 れ られ る よ うに な る。 日系 の 炭 鉱 労 働 者 に は沖 縄 出 身者 が多 く、 彼 らの勤 勉 さ と空 手 の知 識 が 白人 た ち の信 頼 を 得 るの に役 立 っ た とい う。 これ らの 日系 人 は も と鉄 道 建 設 労 働 者(線 路 工 夫)と. して働 い て いた が 、 よ り賃 金 の. 高 い炭 鉱 へ転 職 した もの が多 数 見 られ た 。 炭 鉱 で の 労 働 は き つ く、危 険 も伴 った が 、 賃 金 は 日給 で2ド ル40セ ン トか ら2ド ル85セ ン トとい う当 時 と して は 高給 で あ っ た。 先 発 の炭 鉱 労 働者 た ち は そ の ほ とん どが単 身 者 で 占め られ て い た が 、 徐 々に世 帯持 ち が増 え てゆ き、1920年 代 に は 多 く の 日系 人家 族 が炭 鉱 町 に定 住 す る よ うに な る。36. 5.甜. 菜 栽 培 農 場 労 働 者 か ら 自作 農 へ. 南 ア ル バ ー タ に お け る 日系 人 移 住 の 歴 史 に お い て 、最 初 に本 格 的 か つ 恒 常 的 な 日系 人 の入 植 が な され た の は、 レイ モ ン ドの 甜 菜 栽 培 農 場 で あ った こ とはす で に述 べ た と こ ろで あ る。 レイ モ ン ド ・ナ イ トの経 営 す る ナ イ ト製 糖 会 社 が レイ モ ン ドに設 立 され 操 業 を 開 始 した の が1904年 で あ っ た が、 そ こで の最 大 の問 題 は い か に して 甜菜 栽 培 農 場 で 間引 きや 収 穫 の 作 業 に従 事す る農 業 労 働 者 を調 達 す るか に あ った 。 この 会 社 は そ の後 も慢 性 的 な労 働 力 不 足 に 悩 ま され続 け る こ とに な る。 東 洋 系 労 働 者 は 賃 金 も安 く勤 勉 で は あ るが 、 白 人社 会 に は 東 洋 系 に た い す る 強 い ア レル ギ ー が あ っ て、 会 社 と して もそ の 採 用 に は 二 の足 を踏 む こと に な る。 しか しな が ら絶 対 的 な 労働 力 不 足 とい う現 実 の前 では 選 択 の 余 地 は 無 く、 人種 的偏 見 は一 時 後 退 せ ざ るを え な か った。 当初 ナ イ ト 製 糖 会 社 はBC州 か ら50名 の中 国 系 移 民 を 連 れ て 来 た が結 果 は 思わ し くな か っ た 。 彼 らは こ の 種 の労 働 に は適 性 が な か った た め に 、 多 くの者 が他 の仕 事 を 求 め て去 って し ま った の で あ る。37 そ こで 、中 国 系 に か わ る もの と して 、1909年 の春 、 日系 人 百 数 名 がBC州 の海 岸 部 か ら レイ モ ン.
(16) ドに 連 れ て こられ た 。 これ は 日系 一 世 の早 川 一 朗(ア 父 親)が. メ リカ合 衆 国 上 院 議員S・Y・. ハ ヤ カ ワの. 「日加 用 達 会 社 」 を 通 じて 行 った事 業 で 、 この 日系 人 のな か に は 、後 に 「レイ モ ン ド日. 本 人 協 会」 の初 代 会 長 を 務 め た 岩 浅 享 淳 が い た 。 この 頃 、 ベ ル ギ ー人 労働 者 も大 量 に レイ モ ン ド に 集 団 入植 して い る。38 レイ モ ン ドに定 住 した 日系 人 た ちは 、農 業 労 働 者 と して の 地 位 に 甘 んず る こ とな く自作 農 を め ざ し、 や が て 自分 た ち の農 耕 地 を 購 入 し始 め る。彼 らの 多 くは ナイ ト製糖 会社 の農 場 で 働 い た 経 験 が あ り、独 立 して農 業 を 営 む た め の知識 や経 験 を す で に 身 に 着 け て い た の で あ る。 プ レー リー (大 草 原)に 位 置 す る南 アル バ ー タ の夏 の気 候 は 、 高 温 で乾 燥 して お り、昼 夜 の温 度 差 が 極 端 に 大 きい とい う特 徴 を持 つ 。 現 在 で も 同地域 の農 業 は 周 期 的 に 干魃 に襲 わ れ続 け て い る。 した が っ て、 そ こで の農 業 経 営 に と っ て最 大 の難 問 は 、 い か に し て農 業 用 の 水 を 確保 す るか に あ った 。 こ のた め 南 アル バ ー タ に は 「イ リゲ ー シ ョン ・カ ン ト リー」 の 別 称 が あ る くらい早 くか ら潅漑 が 発 達 して い るが 、 レイ モ ン ドの 日系 人 た ち は モ ル モ ン教 徒 た ちか ら この潅漑 農 業 の知 識 や 技 術 を 学 んだ の で あ る。 こ うして レイ モ ン ドに定 住 した 日系 人 の うち 、 干魃 や 凶 作 の た め にBC州 や 日本 に 戻 る こ とを 余 儀 な くされ た者 た ち の数 は決 して少 な くな か った 。1910年 の 時 点 で 、 レイ モ ン ドに 止 ま って い た 日系 人 の 数 は 当初 の百 数 名 か ら お よそ60名 まで に減 って い た 。 この 間 に早 川 一 朗 も カル ガ リー に去 って い る。 だ が1911年 、 つ い に豊 作 が来 て レイ モ ン ドの 農 業 は やや 明 る さ を取 り戻 す 。1913 年 に 日系 農 民 た ち は 、 さ さや か な も ので は あ った が野 菜 の 協 同組 合 を結 成 して、 ジ ャガイ モ を 中 心 とす る野 菜類 を カ ル ガ リーに 出荷 して い る。39 か くして 、1914年 の第 一 次 世 界 大 戦 勃発 の年 まで に は 、 レイ モ ン ドの 日系 人 は よ うや く同 地 域 の コ ミュ ニテ ィに根 を下 ろ し始 め た の で あ る。. Ⅱ. 1.第. 発 展 期. 一 次 大戦 と 日系 力ナ ダ 義 勇 兵. 1914年6月28日. 、 ボ ス ニ ア の首 都 サ ラエ ボ で オ ー ス ト リアの皇 太 子 が 射 殺 され る とい う事 件 を. き っか け に 、瞬 く間 に戦 火 が ヨ ー ロ ッパ に広 が った。 第一 次世 界大 戦 の勃 発 で あ る。 当 時 の 日本 は 日英 同 盟 に よ り、英 国、 カ ナ ダ とは 同盟 関係 に あ った 。8月23日. 、 日本 は ドイ ツに 対 し宣 戦 布. 告 を し、 ドイ ツ の ア ジ アに お け る根 拠地 青 島 を攻 撃 し、 た ち まち これ を 陥 落 して い る。10月3日 カ ナ ダ も また3万 余 の兵 を 英 国 に 送 り出 した。. 、. と ころ で 、 当時 の 日系 カ ナ ダ人 の 置 かれ て い た状 況 は い か な る もの で あ った か とい うと、 カ ナ ダに 帰 化 して も依 然 と して選 挙 権 は 認 め られ な い まま で あ った。 選 挙 権 が な い とい うこ とは な に を 意 味 した か。 どん な に人 種 差 別 的 な立 法 が な され て も、選 挙 権 が なけ れ ば そ れ に 対 抗 す る有 効 な 手 段 が な い。 日系 人 を 鉱 山 、 山 林 、漁 場 な どか ら締 め 出 そ うとす る法 律 が 、 次 々 と議 会 に か け られ て も、 票 に結 びつ か な い 日系 人 の た め にそ れ に反 対 し よ う とす る政 治 家 は ほ とん どい な か っ.
(17) た 。選 挙 権 さえ あ れ ば 、 日系 人 の声 も政 治 の 場 面 に 反 映 させ る こ とが で きる。 この よ うな 日系 人 の 悲痛 な まで の願 い を現 実 にす る ため の千 載 一 遇 の 好機 が つ い に 到来 した のだ 。 つ ま り、 カナ ダ 在 留 の 日系 人 が義 勇兵 と して欧 州 戦 線 へ 出征 す る こ とに よ って 、 カナ ダ に対 す る忠 誠 心 の証 を 立 て 、 そ うす る こ とで最 終 的 に は選 挙 権 を 獲 得 で き るの で は な い か 、 との夢 で あ る。 か くして 、 カ ナ ダ 日本 人会 は1915年12月 か ら 日系 人 義 勇 兵 を 募 り、 これ に応 え て200名 を 超 え る応 募 者 が あ った 。1916年1月. か らヴ ァン ク ー ヴ ァ ーの カ ドバ ・ホ ー ル(Cordova Hall)と パ ウ. エ ル ・グ ラ ウ ン ド(Powell Ground)を. 使 用 して、義 勇 兵 の教 練 が 始 め られ た 。 と ころ が、 カナ ダ. 政 府側 は 日系 人義 勇 兵 の取 り扱 い につ い て 明確 な 態 度 を 示 さな い まま 回答 を 引 き伸 ば して い た 。 そ こで 、 カナ ダ 日本 人会 は オ タ ワに代 表 を派 遣 し、 明 確 な政 府 の返 事 を迫 った が、 そ の 回 答 の 趣 旨は 「も し 日系 人義 勇 兵 を 一 個 大 隊(1,100名)編. 成 で き るだ け の 人 数 を 集 め られ る の な ら、許 可. を 出 して も良 い」 とい う もの で あ った 。 これ は 明 らか に カナ ダ政 府 が意 図的 に 日系 人 義 勇 兵 の 採 用 を拒 否 した とい うこ とを意 味 して いた 。 この 背 景 に は 、一 部 の排 日的 な政 治 家 に よ る猛 烈 な反 対運 動 が あ った こ とは 間違 い な い。40 色 々紆 余 曲折 は あ っ た が、1917年5月. に 入 って 、 アル バ ー タ州 軍 管 部 か ら 「日本 人 志 願 兵 を採. 用 した い」 旨の 申 入れ が あ っ た。 か くし て最 終 的 に 日系義 勇兵 た ち は、 アル バ ー タ州 第13騎 歩 兵 隊(the 13th Cavalry Battalion)へ の 入隊 を許 され 、42名 の 日系 義 勇 兵 が 第一 陣 と して ヨー ロ ッパ 戦 線 へ と向 か った 。 この よ うに カル ガ リーに あ った 第13騎 歩 兵 隊 が 日系 人 義 勇 兵 を 受 け 入 れ た と い う事 実 は 、 な に よ りもアル バ ー タ州 で はBC州. に 比 べ て 日系 人へ の排 斥 運 動 が 弱 か った こ とを. 反 映 して い る。 日系 人 の 戦死 者 数 の割 合 が か な り高 か った こ とは数 字 に 明確 に現 れ て い る。196人 の 日系 兵 士 の うち 、戦 死者 は実 に54人 、 負 傷 者 も93人 を 数 え た。 ヴ ァ ン クー ヴ ァー の ス タ ン レー公 園 の一 角 に これ らの 勇土 を た た えた 「 義 勇 兵 記 念 碑」 が建 って い る。41こ の よ うに彼 ら 日系 兵 土 た ち は 自 らの忠 誠 心 を身 を もっ て示 す た め に激 戦 地 で の 戦 闘 に 率 先 して参 加 し、 勇 敢 に 戦 った の で あ る。 レイ モ ン ドの 日系 人 の なか か ら も数 名 の義 勇 兵 が参 戦 して お り、10名 近 い戦 死 者 が 出 て い る。 特 筆 す べ き は フ ラ ンス戦 線 で戦 死 を 遂 げ た 杉 本 吉松 の た め に 、 レイ モ ン ドの町 を 挙 げ て 追 弔 の式 典 が催 され た とい う事 実 で あ る。42. 2.「 レイ モ ン ド日本 人 協 会 」 の結 成 1914年 は 、 欧州 で第 一 次 世 界 大 戦 が 勃 発 した 年 で あ るが 、 同 時 に 「レイ モ ン ド日本 人 協 会」 が 結 成 され た 年 に あ た る 。 「レイ モ ン ド日本 人 協 会 」 は 、 次 の5つ. の 目標 を 掲 げ て 発 足 して い. る 。43 1.レ. イ モ ン ド在 留 日本 人 の社 会 的 福 利 の 向上 を は か る。. 2.レ. イ モ ン ド在住 の 白人 との 関係 を 改 善 し、 彼 ら 白人 と よ り良 い協 力 関係 を保 つ べ く努 め る。. 3.レ. イ モ ン ド在 留 日本 人 の進 歩 発 展 を 促 進 す る。. 4.窮. 状 に あ る 日本 人 を金 銭 的 に援 助 す る。.
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