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J. R. SeeleyによるSteinの伝記 : 政治家Steinとその時代

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(1)43. 氏. SeeleyによるSteinの伝記. J.. とその時代一. 一致治家Stein. `Life. Robert. John. but. nothing. I elucidated. this. C表mbridge.. basis. a. of Stein,. Time?. in. 1878,. of wb_ich. he. devoted. as. are. the. in it, the. The. rnain. Stein. share. took. the. and. it is worth▲ while. on.the. purpose. lw占1las. and. inL his. historical. detai一s. In. the. preceding. paper,. lectures. delivered. at. in. the. of. Cambridge his. Seeley. Which. a. and. once. historical lectures. profound. study・ he. the. revival Germany. the. more. with. when. his. Prussia,. of. and. the disapand. EuroI. I think,,. work・. Seeley's that. we、see. principles. of German. Prussia. r61e. above-mentioned. extracted,. knowledge. particular. of German. of this great. outline. detailed. contains. dwelt. phases. post-war. bare. the-composition. revolution・. reform. the. to. which. of reorganizing. elucidate. method. and. Age,. Napoleonic. the. work,. Anti-Napoleonic. problem. to. politic早l 1essQn占from. On. subjects. Stein which -with ,watched politics,.This. papergives_only. as. the. on. him. in. elaborate energy. and. of the. nature. most. pointment. work. scholar branches. To. his. Prussia. and. and. time. much. idea regarding. foresight阜d. view. in. expounded. Germany. or. is his longest. kn岬1edge・. predilection. however,. fruit. the. for generalisation・. of Seeley's,. view. publishe′d. historical. as. to impa鴫a. o∇n. √. Life and. pean. of㌧his. creed. a. with. 、. as political science regarded 、of historical generalisation・ outcome. the. or. worth. played. Hotti. Sh6zabur6. Seel、ey,㌔a teacher. -J.R∴Seeley. by. rea.1ism, who. of. history were. 郎. of Stein',. and'Times By. ・ of robust. 三. 正. 発ノ智. in this. of_ politics. history. at・this. period.. Seeleyの史学及び政治学の講義の基調となる見解,即ち政治学と史学は分離しがた いという見解は,. `Introduction. Political. to. Science'(以下「政治学」)の序章に,班. 琴時に体系的に論述されてV,るoそして,国家と政府の学としての政治学は,抽象的思 索を排除し,. realisticな政治史の研究にねぎし,この意味で`科学的'恵方法を採用す. べきことが,政治学のSyStem. VZ:ついての彼の主張の要点であるoまた,彼が歴史研究. に実際的目的を導入し,政治家に有用である如き,ある問題の解決,原則の樹立をめぎ. j=',ど aJhistorical. essay. ゐ典型k,. `. Expansion. 6f. England. 'r. (以下`「膨娠論」)である。. それ蛭i夷帝国の遺産紅対する新しい熱情を夷国民に喚起させた。そして,との三善は.

(2) 44. 発. 智. 正. 郎. 三. 共に彼の講義を出版したものであって,歴史の広大な領域を処理するが,新しv,史実を 提供するものでなく,彼の卓絶は,既知の史実を利用し,透徹した史脈をもって歴史を 躍動させたことにある。1) Seeleyの唯一の大作, the. Napoleonic. `Life. and. Age・'(1878年). Times. of. Stein,. Germany. or. Prussia. and. in. (以T:rstein」)は,次の点で上述の二書とは異る性. 質をもつ。歴史家Seeleyはドイツ史学の業績に多くのものを負い,特に科学的方法に 対する尊重を彼等から獲たといわれる。そして「Stein」ば,英独VL怠ける彼の多年の 研究の所産であゎ・. 1806年から1822年に至るPrussiaの詳細な歴史と他のドイツ諸国. 及び全ドイツについての豊富な知識を包含し,この時代の顕著な政治家の伝記をStein の伝記と結合させて叙述するo. そして彼が基いた典拠は,序文に整然と配列されてい. るoまた彼の講義に魅力を与えた活気ある論述に比すれほ,本書の文体は冷静である。 ともかく本書は, Seeleyの諸著の中で唯一の本格的な歴妃書であって,彼の講義では 隠されている彼の歴史研究を示すものとされるo2). 史学の素養を欠く聾者は,,本書に豊富に示された史実について考察する力を全く持た ないo筆者の関心は.,. Seeleyにぉいて政治学と史学は分離し得ないならば,彼力哨想. した政治学の性格を知る為にも,本書は重要な意義を持つのでないかという点忙ある。 この点から見ると,第一に,豊富な史実の叙述に満ちた本書のうちにも,. Seeley独得. の概括論の展開が見られる。すべての概括の線を英国の膨脹という一点に菓申した「膨. 脹論」に見られたような,書物全体の統一は本書に欠けているが,史学は政治を指導す るという彼の主張は,ここでも歴史から政治的教訓を導きだす.第二に,. 「政治学」把. 怠ける,例えば自由やaristocracyの如き概念及びそれらの概念に基く国家分類ゐ原. 則は,本書が示す歴史研究のうちに形成され,本書が示す歴史的情耽を反映しているも のが多いと思われるo第三に,. Seeleyの諸著作は,歴史と政治と宗教-の広汎な軌b. を示すが,もしそれらすべてを貫く一つのものを求め得るとすれぽ,それは国民国家の. 観念であろう.国家に関する帰納的科学という彼の政治学の根底にあって,それを導く もoも,この観念である。そして,国民国家の観念もまた,歴史的に形成されたもので. あると思わiLるが,本書は,まさにこの観念の具現着であった政治家の生産と,彼が生 きた時代の歴史的情況を詳述する。小稿は,以上の見地から,筆者が興味を感Eた部分 を整理したものにすぎないo. 1)拙稿「JolmRobert 2). Fortnightly Historical. Seeleyの政治学講義Jは,以上の点について叙述した.. Review. Review・. (1896) Vol.・ 10. H.A・L・. Fisher;. (1895) J・R・. Tanner;. Sir. John. John. Seeley Robert. p.. 191.. Seele.y. p.. Engli.sh. 507-5P8,. 参照。 Steinが歴史に名を残し潅,. 1807年から1815年Vz:至る期間妊,. Napoleonの専制把. 対する欧州の軍事的反抗の時代でぁると共に,その重曹艶紅海いてフランス革命把比肩.

(3) 45. ∫,氏. SeeleyによるSteinの伝記 「Stein」の主題は,. する新しい革命が欧州に生起した時代である. Napoleonic. f・SeeleyがAnti-. と称するこの時代の性格を明らかにし,それがプラ㌢ス革論. ・Revolution. Seeley 紅対して持つ開拓,及び以後の欧州の事態に及ぼす影響を追求することに参る。 Stein が参加した革命の固有の意義を解明するこ がSteinの生産を記述する理由も, Ger-. とによっで,・通常Napoleonの生涯の一部として考察されてき潅,この時代の manyとPrussiaの推移を,ドイツ史の一部として適当な地位紅置くことにある。1)こ 1780年, younger Pittが英国f院に入った. の時代の代表的政治家であるSteinは,. 年に, Prussiaの官吏となる。そして彼を国民的独立と国内改革の象徴として登場させ. る事件は,フランス君主制の崩壊をも充らした1789年でなく,フランス草食のよ如司 接的な結果としての1806年のPrussiaとドイツ帝国の崩壊であるoそしてStein軌 政治から引退し海老年期把,この時代がその性格を変更するのを見,死の直前vL,ごの. 時代が七月畢缶の潮流に流れ去るのを見るo 註. 1)この点について.. 「本書が出版された当時,英国ではJenaの崩壊に続く建設的な改革の大. 事業は殆んど知られず,. Stein. は単なる名前にすぎなかった。. 一人の偉大な政治家と一つの英雄的時代の啓示であった(」 historians. in the. nineteenth. century.. ---英国にとって本書ほ, History (G・P・ Gooch;. and. 「プロシヤ史ほ英国史から非. p.345-346)また,. 常に異る故に,英国人がそれから学ぶべき多くのものが存在した。プロシヤ史の初期につ いて,. MacaulayとCarlyleプうミ書いた.. --Seeleyのプロシヤ史に対する関心は彼等と. 異るものであり,彼は異る教訓を見いだす。」なお,. 「本書を価値あるものとする特色の一つ. ほ,英仏のよりよく知られた歴史に言及することによって,ドイツ史が明らかにされるこ (Fisher:前掲寄, とである。 t--本書は英国の読者の為に善かれた外国史の模範である。」 p.192-194) Revolutionの性格と,フランス革命との開拓。. 1. Anti-Napoleonic Anti-Napoleonic. Revolutironは,英仏の事象に続く欧州の第三の革命であるとSeeley. はいうoそして,この三つの畢爵の性格把ついで次の如く述べる。英国の諸革命は,何 れかの階級の為でなく-,個人の自由或は地方自治の為に,政府の領域を貯小すべく努め. る。-Franceの革命ほ,貴族と倍旧の特権の廃止によって,全階級の上に等しく優越する 一般的献身の対象としての国家-その形式が君主制であれ共和制で朗トの樹立をめぎ し,また政府の領域を拡大する僚向を持つo事実,フランス革命の地方的自由に対する 戦ほ, Bourbonsの仕事を促進し,完成したものと,一般紅言い得る。また思弁的忽共 和主義がいかに公言され発としても,この世代の1iberalismは実際には非常に絶対的な. 形式の君主制に好意を示すoフランス革命をPolandの変革(1791年5月)とAustria 忙潜貯るJoseph(1790年死す)の流産した改革の試みと共に観察すれば,そこ紅外観が 示す程の差異はなく,この三連動に共通し,この時代を革命的にした観念は,自由の理 想でなく,万能な国家の理想-Prussiaで既にFrederick. 大王が成就し潅もの,. Joseph′が望み,. William一世とFrederick. Napoleonが後に実現し充もの-であった..

(4) 発. 46. (Vol. Seeley. I p・. 智. 正. 三. 郎. 183-184)英仏革命は以上甲差異を持ちつつ,しかし共に国家に関係し,. vLよれば厳に`政治的'な革命である。第三の革命は直接には国家に関係せず,. その政治機構の下に潜む民族の観念を明らかにし,英国の自由,. Franceの平等に対し. て,民族の独立をめぎす。しかし独立が達成される時,それは政治的革命に移行する憤 向を持つ.何故なら単なる人為的国家に適する政治機構は,国民精神にめざめた国家把 適合せず,事実,. Napoleonに対する国民戦争は,殆んどすべての国で,政治的革命の. 肱芽を内蔵してV,ら.. (ⅠIp. 41-42)1). らランス革命が辿った一連の変化の疲vL, Fran占eはPrussiaの組廠即ち大陸軍を Napoleon. 持つ純粋に軍事的な政府を採用し,しかも れた国民の力をもって,. Louis. に指導され,旧秩序から解放き. 十四世時代の欧州VCお舟る指導力を.回準する.. Napoieopの一生という歴史的悲劇を見る人Jkは,. Tilsitの講和に至るまでに,悲劇に. ふさわしき心情を持つに至るであろう。彼等の心は,神の梼理たっいての困惑を含む若 きと怖れに満たされるであろう.この時Napoleonの権力と成功がなお一層の前進を 示すが,驚異の念は既に点くされ,彼等の心をとらえる問題は,運命の力が,かくも長 き幸運の連続を悲劇に変える為把, るo. Napoleonはかって,. v,かなる状況を残して患いたかを推測することであ. Egypt遠征の失敗で挫折した計画,英帝国の打倒と新世界の. 征服という計画を再び採わ,まずSpainを完全に支配しようとする.この時に彼が為 した最も大胆なる,さん奪は,改革者の外観の下に征服を仮装するという,彼の通常の 政策にも反するものであったoしかしSeeleyがここに彼の悲劇の開始を認める時,問 題は彼の犯罪でなくて,彼の失策即ち る。. Spainの国民の抵抗を予期しなかったことであ. (ⅠIp. 8-9) Seeleyによれば,この失策は,次の二つの点で重要な意味を持つ。第. 一にそれはNapoleonが政治の重大な要素を明察する能力を持たなかったことに起因す. る。法王の影響力は四万人の軍に等しV,という彼の数学的表現に見る如く,宗教の力を 承認し,征服に利用することば,彼の政策の特色の一つであったoしかしそれが言語と 血縁の要素と結合して,. nationalityにキる新しい型の国家となる時,かかる国家の有 機的生命力は,その政府が腐敗のうちに弱体化する時にも,容易に克服しがたV,抵抗を: 生むことは,欧州に先例なく,彼皐,彼の失敗を待望してい売人々も,予測し得ないこ とであった. たらす。. (ⅠIp・ 17-19)2)第二にそa,tは全欧州に,特にPrussiaJに重大な結果をも. Spain. の蜂起は惨めな敗北をなしたが,結果から見ればそれはフランス革命. 以来の欧州の最も重大な事件であわ,歴史の新しV,一章の開始を示すo 耐え忍ぷSteinとScharnhorst,. 3)それは敗北を.. StadionとCharle8大公に,敗北を怖れるAlexander. に ,彼等が必要とする唯「甲教訓を与えた。. Spainの騒乱に始る一連の戦蜂ナそれ以前. p・ 23-25) 1809年のAustriaと1812 の欧州の儀と異るもの,国民琴争であった。-(ⅠI. 年のRu甲iaJは,. Spainの原則による戦を為すo. 4)しかしPrussiaの国民戦争は・1813′L. 年まで延引される。 註. 1)∫.Seeleyによ抑ま,国家と政府に関連する・も∵のが;/政治的現象やある1..そして政治学は-,.

(5) ∫.R. SeeleyによるSteinの伝記. 47. _第一に国家それ自身の内的構造とその発展,第二に諸国家の相互作用或は国家の対外的行. -動という・,二つの課嘩を時ち,この二?の課題は相互に国華して探究されるべきであっ 18 p・ 133)しかし「政治学」の内容は,国家の巧的構造によって国家を分 た(政治学p・ Seeleyの政治学の一. 類したものにすぎない。 「Stein」は,歴史の一時代についてであるが, 会課題を追受するものである.そして,. Anti-Napoleonic. Revolution. という名称は,. この時代において,対外的独立の問題と国内改革の問題が不可帝の関係にあったことを示 す。. 2)なお, *ai_nの国即職身しキものは,】Fichteの説く却き民族一個人の業績と精神生面が そこで-慮ゐ不滅性を望み得る如き不死の全体-ではなかった. Seeleyは, Spain. 「ドイツ国民に告ぐ.を・,. の琴起と共にStein. Fie.hte. の. に影響したものとして,草た後の (II p・ 29ニチ1)そ. Humboldt〉の教育改革に影響したもの-として,その内容を要約している。 -. して,近代欧洲における--づの偉大な推移を告知し説明するものとして高く評価する。しか し, Ficbte. の高き民族概念ほ恵まれた還墳の下に見いだされるが,民族のよりよき説明は. `いわば動物的である故に,国家に強い疏-を与えることのう それを結合する力 が本鹿駒, ちにある七いうo. 「政治学」において,国家を政治的有機体とする. Seeleyの見解をここに. も見得る古 3). Seeleyが歴史の指導的事件を選択し,その原因と結果を探兜してその事件の重要性を示し, これによって一時代の性格を把握す争と共に,その時代に統一を与えることは, における彼の方法であったo. 「膨張論J. ここにも,その適用の一例を見得る。. 4)こ甲二つの戦争の睦格について. 1809年の戦の結果はAustriaにTilsitと同じ災厄を荷 Austria. し, Metternichを登場させた。しかしSeeleyによれば,もしこの時. したならば,或は以後の戦でこの国の指導者がMetternicbでなくて,. が勝利. Stadionであった. ならば,国民戦争に甲蔵される政治革命ほ,まずこの国に実現し,琴治的自由への運動でも Austriaを最前列に置いたであろう。 ・(1Ⅰ.p.336-337)1812年, Alexanderの要請によっ Napoleonの侵入直前の. てRussiaに入ったSteinほ,. Moscow. で民衆のCzar. に対. する宗教的国民的熱狂を見,彼の自伝■に, `'Ehを高める,めざましき'光景と記述している。 Seel・ey. 】は,. もので なく,. StLeinが見た光景は.,単に半未開の国民の専制王に対する狂信的な崇敬を示す 1Steinのこの言葉には,彼が洞察した時代の教訓が示されているというo. (ⅠⅠ・. p.484チ486) 2.. -の屈従-rStein内閣の対仏政策と軍事改革 - Prussiaの崩壊とFrance Frederick William二世の統治(1786-1797)は,新しい軍事組織,助改組織,外交. 政策が必要どさ-*Lる時に,その何れをも鹿供し得ない王と大臣に指導され,貴重な歳月 を空費するo. i-)続i. Frederick. William三世の長い統治の前半ほ,不安な静橿に始わ, Seeleyは1795年のBasel条約から1806年の. 深V'不幸に陥ち,光栄と勝利把移る・.. 開戦に至る十-年間の. Prussia. の申立政策を,この二人の王の不決断によるものとし. で,またPrussiaの崩壊と,それに続く約六年間の絶望と屈辱の平和とをも宛らした 原因の一つとして,一案して批判する。2). Jenaの敗戦によるPrussiaの崩壊の深さ′.そしてTilsit条約(1807年7月)は Napoleon紅よ 1807年から1812年までの間, Napoleonlにとって一片の紙紅過ぎず,.

(6) 48. 発. 智. 正. 三. 郎. るPrussiaの餅合を妨けざたものは,彼の帝国の対外開拓から生ずる困難のみである。 彼が,. 1807年にRussiaにつV,て,. 1808年にSpaiムについて顧慮する必要が敷かっ. たならば,就中1812年にもっと思慮深くあったならば,いかなる人の努力もPrussia (I p・ 385) を劫v.得なやゝったであろうo 1807年8月, Napoleonに排除されたHardenbergを継V,守,羊あ絶望的状況のう. ちに破滅した国の事実上の首相の地位を委ねられたSteinは,彼の同僚と共に,この 困難に対して自らを欺かず, Prussiaを救うものは,殆んと不可能とVIV,得る垣に先例 なき災厄がFranceの上にふわカゝかることのみであることを知わながら,神慮を信t:,. その時を希望し・準備する。僅か13カ月(1807年10月-1808年11月)の在職中, 彼が主に従事し允仕事は,名声を獲た内政改革でなくて,よわ紫急を要するFranceと の交渉であったo3)そしてSpainの蜂起を転機として, 導く為に大胆な国民べの訴.. ・新しV,対仏戦争にPruss)-aをt. Austriaと同盟し,欧州の事態を転換芦せようとする外交. 政策.彼のこの努力は,彼の術策の不屈からでなく状況の困難の為に失敗し,彼に辞職 と追放をもたらし,以後三年間,. Stein. Prussiaの状況を改善せず・以後四年間・ によれば,. の名は欧州の政治の舞台から消え去る。また Prussiaを汚辱のうちに残す.しかしSeeley. Ste.in内閣の功績は,その偉大な内政改革のみでなく,. Prussiaに自敬の精. 神の一時的復活を与えたことである.それは,この瞬間には内政改革よわ貴重であった のみでなく,よ:q)深くSteinの特質を潜びるものである.そこにはBasel条約以来の Prussiaの外交政策を脱した最初のひらめき,解放戦争の序曲を認め得る。民族の理論. とドイツ統一の理論,そしてScharnhorstの軍事改革はここに育成され,それらは共 に結合して十九世紀のGermanyにその性格を与えるべきものである。. (ⅠIp. 399-400) 軍事組織の再建計画は,既に1807年6月に創設された軍事委員会に委ねられてい. た。そして,その長であるScharnhorstのmemOirは二,. Spainの蜂起やFichteの 講演以前に,国民戦争の原則を無類の正確さと力をもって示していたo Stein内閣の改 革の要点妊,旧制度が主に巾民階級の免除を伴う徴兵制であったのに対して,全国民に. 普遍的な徴兵制を採用したことであるo. Seeleyは:,徴兵制を普遍化するよわも廃止し,. 志願制を採用したならば,軍事改革とSteinの諸政策,殊に農民解放令に卦ける職業. の自由の政策とは,よわよく調和したであろうこと,しかしStein車Scharnhorst柊 とって志願制は財政的に高価と見えたこと糾旨摘し,さらに徴兵制の採用について次の 見解を示すo. 第一にそれ妊すべての市民に平等の義務を課するやのでな卵Lばならな. v,。彼等を餓えさせる国家を,野蟹な罰如と不充分な給与の下に,防衛すろことを強制 される農民oかかる,組織に伴う道徳的空虚o第二に適当冬草事組織の型ほ対外的な危 険の程度に依存し,徴兵制の採用は自衛の為に大軍事組織を必要とする国にぉいて申み. 論じ得るo米国の如くその必要なく,英国の如く危険が緊急でない国で,遠v,属領の練 持の如き目的の為に大陸軍を必要とするとしても,それを援用すべきでなvlo. (ⅠI p.. 100-105)しかしこの見地からPrussiaを顧みる阜き,プロシヤ史の根本的事実妊,症 倒的好摩勢な競争国を隣国牢持ち,しかも隣国との間に自然国境線を持充なv,ことであ.

(7) ∫.R. SeeleyによるSteinの伝記. ち.そLてとの_事実に起ノ因する国防の極度の困難は,. 響をも舞らすといい得る.. Prussiaの対外関係に多分次の影. Prussiaは同時に隣国に危険であることなし紅推自ら安全で William一世紅よる陸軍の創造は自衛の為. あp串得ない国であること。もとFrederick. PrussiaをAustria紅とって怖るべき強国にし発こと. で象ったが,.をの直接の結果は, であったo. 49. Frederick大王ほ七年戦争後の苦難を無視して陸軍を増大し跨が,彼亀父の. 考えを綻持し,概してGermanyの利益が直接に要求する時でな抄れば,武力干渉を試 みなカゝったo (I p. 174」176)そして,続く二人の王の中立政策に対するSeeleyの批判. の一っの理由強,彼等が`亀と自然国境線の代替物として創造され潅陸軍'を使用すべ (I. きであったと主張することである。. p.. 228). 革 Prussia. 1)この王の治世の始に, 見られ,. の周辺の諸国には,前述の如き,政府と反対党との闘争が. Prussiaのみが国内不和から免れていた.. Seeleyは,この時代の国内不和ほ外国. の干渉を好くものであ.9.,もしこの時Prussiaに有韓な政治家がいたならば,後に寄合フ (i p. 179) ランスが欧州を支配したのと摘じ機会が, Prussiaに存在したという。 2)居辛こ1790年のReichenbach条約は,. Prussiaの外交政策を. 立性を喪失させた. 1795年のBasel条約により, し,. Rhine左岸を実質上Franceの嶺有に委ねるo. 同盟に参加したならば,. Austria. に追随させ,独. Prussiaほ対仏第一同盟から単独離脱 1799年始,もしPrussiaが対仏第二. Lun基ville条耗(1800年末).に帰結した事態の進行は異ったもの. になったであろう。. ′王はこの時,この帰結から知り得る如き欧州殊にGermanyの危機の 切迫(それは既に1797年のCaⅡ1pO・Formio条約に示され,この条約の後になお申立政 策を維持することほNapoleonによる,ドイツ帝国の組織の変革に同意することを意味し た)を理解せず!主としてAustriaに対する警戒心から申立を維持した。. 1803年France. によるBannoverの占敏の時,もしPrussiaが起ったならば,全欧州の大同盟は1813年 を待たずして,この時実現したであろう.しかしPrussiaほ北ドイツの防衛者としての地 位を自ら放棄し,その申立は自衛の精神の喪失でないかとの疑惑を一層深める。 状況において,. Prussia. Prussia. 1804・年の. がそれまで危供してきた,. の自衛を脅威するものは, Austria或はRussia或ほ南国の国盟でなく,明らかにFranceであったが,. Prussiaほ. 第三対仏同盟に参加しない,この時代のPrussiaの中立政策は,その葡土の縮小を防いだ としても,不可避の運命として弁護し待ず,さらにPrussiaの位置は,この国をその周囲 に進行する闘争のそとに置きえなv.1故に, 1799年以来六年間のヰ立政策ほその闘争の何れ ●(Ip・ 219-223) Austerlitz以後, PrussiaIほ苦況に陥 の即ゝらも信頼を受けなかった。. ち,速に1806年9月最悪の事琴やうち∈羊,孤立ゐ戦をなす時,英国とAustri9め援助を 獲なかった理由はこ、の中立政策に対する疑惑であった. (I. p.. 228-229)かくてPruss主aの. 崩壊の原因は,軍事組織の崩壊及び戦d)決定的段階におけるRussiaの背信と`共に・こC? 申立政策にある. (I. p.. 262). 敗戦をなしたかの如くに,. Stein内閣の末期,. 1808年9月の新協定(Prussiaが再びj. 1ilsit条約に条項を付加し,殊に軍隊を四万二千に制限す畠). に導v 、たものも,絶望のうちをとも勇気を見いだし得ない王の達巡であったo反玩が故減に導 く憂いありとするも','従病もまた破滅に導くであろうとのSteinの見解(Seele哀栂,-すべゝ.

(8) 発. 50. 智. 正. 郎. 三. ての努力が無駄であるとしても,何かを試みることほpatriotノの義務であるとして,この 見解をifしとする_)ほ容れられず′ この協定の締鰐は,Steinの辞職,ひいてほ, r1809年 (ⅠI の対仏第四同盟への Prussia p. 48. 59)さらに, の不参加を結果としてもたらすo FranceとRtlSSiaの戦に際して,何の代. 1812年3月の協定は,近き将来に予測される,. 償なしに,. Prussiaの富と軍隊をFranceに提供することを約すo. 容れられず,王はNapoleonの強圧専こ屈して,. Hardenbergの反対は. Prussiaゐ屈従の最後の段階である,この. 協定に調印するoいまやRussiaとの執まNiemen河に始り,. Spain半島以外の全欧州を. Napoleonの勝利は当然予想し得ることであり,その勝利の後に彼は虫ussia. 味方とする. Hardenbergほその地位に留まる. への顧慮なしにPrussiaを処理し得るに至るであろう。 も,彼と共に. Scharnhorst. Russiaとの同盟を主張した人刺ま,、. Prussia再生の希望ほいまや空しと見えた。. (ⅠI p.. Stei'nの. 以下辞職し,. 440-459)しかし運命ほ最期に王にほ. ほえみ,統治の始からPrnssiaの地位を年毎に低下させてきた,その場限りの安易な政策 は,この最意の事態に,結果のみから判断すれば,より貴明であった。最も信頼に値する官 吏達を絶望させた,王の不決断は,あらゆるPrussia る. の不幸の終止,. Germanyにおけ. Prussia. の復活と新しい優越の基礎をもたらしたo かくて王ほ超自然的な知恵の所有 者との名声を獲た。しかしSeeleyほ,王がこの時に, NapoleonのMoscow遠征の失敗 及びその困となったRussiaの民衆の熱狂の力を,彼の助言者以上に認識していたという 想定ほ,全く事実に反するという、。 3). Seeleyによれば,. (ⅠI p. 463-464). Steinが権力を獲たとき,彼の最初の構想の誤謬は,フランス軍の撤収. (I を琴易に実現し得ると考えた点にあった。. p・. 347)彼の内閣の前半期に,卸まこの目的. の実現の為のFranceとの交渉,この交渉にCzarの干渉を招く試み,及び荒廃した国土 からFranceの要求する金銭を調達することに従事したム Prussia. て消えゆく うo. しかしNapoleonの要求によっ. の宮に際限なきことを知るやいなや,彼は新しい戦を考えたであろ. しかし軍事組織の再建も始めていない困窮した国によって企図される戦に何が期待さ. れ得るか, Steinがこの遼巡のうちにあったと想像される時に, Seeleyはいう。. (ⅠIp・. 28.-29) Steinの自伝ほ,. Spain. の蜂起が生じたと Spainの蜂起とFicbteの講演が,それ. ぞれPrussiaの国民及び教養ある人々の感情に及ぼした影響を記す. 3・,. (ⅠIp. 27-28). Napoleonに対する同盟国の勝利及びドイツ再組織の問題とStein. 既にBasel条約で決定的な打撃を受抄たGermanyの旧組織は,以後,. 1803年2月. の帝国代表決講, 1805年12月のPressburg条約に至る対仏第三同盟の戦でNapoleon あ側に参加したドイツ諸邦が存在したこと, 1806年7月のRhine同盟の創設,同年 8月の神聖tl←マ帝国の解散宣言という四つの三事実によって,根本的な変化を示す. Seeleyによれぼ,'帝国の滅亡を過去との開拓にぉいて考察するならば,むしろそれは 遅き紅過ぎ,. Regensburgの帝国議会の如き制度の解散は非常に重要ではない。しか. しその結果に関して,即ち崩壌した帝国に代るべきものとの関係に患いて考察するなら 描,この時,. Germanyの政治がドイツ教会から分離したこと,. Germanyが異質的な. 小邦の混合から,よわ広大な,よ少類似した諸国の,よ.わ単嘩な集合となっ溌こと,1) さらにこの変化を通してドイツ統一の理想が生き残ったことは,.ドイツ史にとらて重要. な昔時をもつp. こq)見地からSeeleyは,上記の四つの事実は結合して,. ≠Germarl.

(9) ∫.R. SeeleyによるSteinの伝記. Revolution'と呼ぶに値し,. Franceの近代史が三部会,. 制の崩壊から出発する如く,. Germany. (i. p.. 51. 1792年の君主. 1791年憲法,. の近代史はこの四つの事実から始るとV,うo. 212-216). steinは・;. Czarの要請に応じてRussiaに入り,. 1812年6月,. Germanyに関する. 政策の助言者として,欧州の政治に復活する。彼はこの第二の登場に際して次の見解を Napoleon. 示す.第一に,. -に対する反抗は,ドイツ国民を武装することによって成され. るべきこと.第二に,ドイツ再建の形式について,普ずドイツ民族の偉大と自由を期す Anti-Napoleonic. ること。この見解は,. Revolutionの政治家としてのSteinの不変の. 特質を示すと共に,これまでにPrussiaの改革者として功績を挙け・>たSteinが,以後 Prussianでなく,. a. Seeleyは,・. a. Germanとして登場することを示すo2).. Anti-Napoleonic. Revolutionの時代のGermanyの状況を概観する際. に,以上のSteinの見解をDalberg3)の見解と対象させて次の如く述べる.. Germany. でPatriolismが極めて稀であったことは,単にドイツ国民性の結果でなくて,. Germahy. nism. Cosmopolita-. を育成する国民的組織でなく. に統一を与える唯一の組織がPatriotism. i. を育成する帝国組織であったという事実の結果である.神聖ローマ帝国は普遍的. な性格を凍わず,欧州が自らを-と見なし,また見なそうと試みた時代の伝統を保持し. てV,た.かくてDalbergの思想は,自己の所属する国家を,他の民族と競う特殊の民族 の組織としてでなく, nationalityの差別を患畢う普遍的な組織として考えることに慣 れた人乾自ら生れる思想であ'vJ,そ′してそれは,この時代のドイツ思想家の思索を特殊 づけるCOS粗野01itanな僚向-Weimar文芸社会やJenaの哲学者を支配する見解と調 和するものであっ準。 Goetheの時代のこの1iberal. cosmopolitanな感情が,すべての. 狭さと偏見を伴う古牽型のPatriotismに道を譲ることは,ある意味では退化と見える かもしれなVlo. Steinが指導した運動,全ドイツを陣営に変え,研究や平和な産業に従. 事すべき国民に兵役の義務を課する連動は進歩よ力も反動の如く見えるかもしれない. Germany; そして半世糸己を経た現在,この時把摩かれ夷原則が充分に作用し,. Russia,. Franceが柏競って大陸軍の創造に努めるのを見る時,このような事態を究極の常態と. 考えて満足する人ほ少いで爵ろうo神聖tl. -マ帝国がその上に樹立された欧州統一の古. き理論株1それに代った民族の理論よわも,純粋の理論としては高備であった。帝国を Silesia侵入と. 一つの実在とすることが可能であるならば,そしてFrederick大王の. Po】and分割,さらにフランス革命と・. Napoleonが,破壊へ導いた,あの欧州の合法的. 状態の再現が可能であるならば,とのことは国民軍の創設や古曹型のPatriotism. の復. 洛よi)も遠かに望ましV'道であったろう.しかしそれが不可能で象るならば,それか可 Dalbergの如き人が,・. 能であると想像されること,. Napoleonの帝国を敵と見なすべき. か,或は欧州を統一する連合と:'見なすべきかにつV,て,あやふやに顧慮することほど有害 Napoleonismが利用したものは,この轟いまいさであったo. な結果に導くものはない. seeley. にとって,. かに磨っ_たo. Napoleon. の時代の欧州の問題は,統一と自由の何れを優先すf<き. Napoleonほ統-を提供する,しかし屈従と共に.. Steinの党は自由を箆.

(10) 52. 発. 智. 正. 三. 郎. 供する,しかし以前よ由以上の欧州の分割,並匠事8世紀がそれから脱却することを誇 りとし売偏見と琴視の復活を代償として。そ′してSteinの億の正当性は, 民族の統-とを区別することにあるoこの時代に患いて,極端な狭v,形式に患いてでも,. _噂一民族と諸. Patriotismが窟活することば,それが不信の念を蚤って見られ,退化さFL声徳とされ (ⅠIp. 381-388). るよi)ち,多分,望ましかったであろう.. 1813年2月のKaiisch条約と・. 3月のBreslauで調印され舞協定によっ.T成立した 啓普同盟は,欧州大同盟によるNapoleon打倒の核心であった. ∨、まや,二国は同盟 し,. CzarはGermanyの解申を目ぎし, Prム占siaはHardenbergのもとにSpainの. 原則によって全人口を武装し,ドイツ諸国もそれに、随うことが要求される.ニとして Prussiaは3月16日対仏宣戦,翌日the この事態は,. Appeal. to. NapoleonのRussia遠征の失敗以前に,. いたもLのであっ準oいまや,. my. peopleを布告する。すべて. Steinの心のうちに計画されて. Sleinの計画は欧州を支配するに至ると見えた.そしてま. た,このNapoleonに反対する諸国民の興臥その同盟,最期にその勝利は,決トて Russia遠征の失敗から生れた不可避の帰結では帥o. Napoleonの帝国は・彼のRussia.. にぉける敗退以後,な患安定を示し,特にAustrriaは興起せず,また露営同盟は利害 と機会の計算の容易な一致によって形成されたものでなかった。 この同盟の形成者としてのSteinの功績が,. Seeleyは,この時,. Prusslaの改革者としての名声に比して,. 過小に評価されていることを遺憾とし,次の如くいう.この時のSteinの所動軌彼 の生涯のうちでも最も強力にして有効なもの,最も明確VZ:彼のPersonalityの刻印を. 患びるものであるo民族的利益にとって偉大にして正しい道は,し早ましば危険なもので ある.この時,その道を明察し,しかもそれを挺案する勇気と,反対を克服する信念と 精力を持つ人はSte享nであった。. (ⅠⅠIp. 5-8,. 1813年,戦が同盟国に有利に退行するにつれて,. p.. 10ト103)4) Steinは,. Czarの圃間としての鞄 位を保つF=共に,同盟国の中央行政機構を主宰し,全ドイツに, 1814年にはFarnceの 大部分に・大なる権威とpatron甲eを行吏する。しかしMetternichの調停に始った, ニカ月の休戦(1813年6月-8月)妊,. Steinが危倶t-たであろラよう拓, Tilsitの如. き条約の序曲とはならなかったが・この休戦を境として戦の性格の変更を見る。そして 戦の再開,5'Austriaも参加して大同盟の成立,. の打固の達成o. Steinの生涯の目的で率っ牢Napoleon. しかしこの勝利はSteinが期待した方法によるものでなく,また彼. のCzarに対する影響力も減退し,彼の時代は既に去ってVtた。6). Steinの原則によわ. 鼓舞されたPruss享aの軍は存在した.しかしBIGcherの司令部はMetterpichの党 の間では`Jacobinismの巣'と呼ばれ,そしてSteinを革命家として, して語ることが通例となる。. Seeleyによれば,. `Jacobin・与. Steinを`Jacobin'と呼ぶことは全く. 的外れであるが,革命家と呼ぶことは適当であるo彼が説い潅のは人間の権利でなく,. 民族がその独立,その特殊な制度と歴史に対して持つ権利,廃位の威嚇をもって声にこ れらの条件を要求する権利であ-た。このAnti-Napoleonic Revolutionの理革埠, i ランス革命と全く異っ売方法と精神拓よってで勢るが,それ紅劣らず支配者への威嚇を.

(11) J・ R・ SeeleyによるSteinの伝記. 含み,彼等に歓迎されないo. C3. (ⅠⅠI p. 135-136)ーー. Germany また,準の再開の後三カ月, Rhine同盟の解体と の解放が成されその 未来の構造が延引し得孜v,問題とな?た軌Steinは彼の最初の構想Iドイ.ツ統一-の 過渡的手段左して,苦境二国の指導する二つの連邦にGermanyを・分重りすることは実. 現し得ないことを認めざるを得良い.この時代の嵐が, とによって,ドイツ統一-の願いを増すと同時に,. nationalityの本能を強めるこ Napoleon転よって創造され7E:ド. イツ諸王の主権は,ドイツ統一の実現を阻むくさびとして存在する。. (1813年9月)はこれらの主権の承認に一歩を進め, 約・ WhrtembergとのFulda条約が続く.. T6plitz条約. AustriaとBavariaとのReid条. Czarの支持を獲たMetternichの政策は,. これらの諸王忙対してNapoleonが持ってい、た力の少くとも一部を相続し,. Germany. に溶けるAustriaの党を創造し,かくて戦場に潜抄るPru-ssi'aの成功に対抗し得る新 勢力としてA・ustriaを復活させることであったo. それはまた,. Austria自身と類似し. て専制的封日うイン同盟諸国とAustriaとの縫合を示す。他方, napoleonic. Steinは,これらの. despotismの支由する諸国では,古きGermanyが,いかに欠陥あると. も・な患法の下に准持してきた,道徳と人の威厳の感は失われると考えていた. によれぽ,この時,. Seeley. PrussiaとAustriaが再登場する姿は,以後のドイツ史の進路を. 決定する。翌年のVienna会議におゅる両国の領土の決定7')と共に,それはAustria 敬,次の世代のnationalityと自由の主張との衝突に追いやる道を開く。 Vienna会読で,. Czarの非公式の顧問として,. 問題は,新しいGermanyの構成の問題であったo. (ⅠⅠIp.178-179). Steinが積極的役割を果した唯一の この間題に固有の顔難が存荏した. のみならず,この時にも専らドイツ全体の利益をめざす政治家は殆んどなく,. Steinが. 意図した解決は成就されなかった.8). かくて1814年6月のthe. Act. of Confederationに対する,. Steinの批半は,第一. 紅塵邦示その第一目的であるペきGermanyの防衛について旧帝国Iz=等しく無力のう ちに象るこ占o. そして第二にSteinは,この時,旧帝国よ9も悪しき連邦の性格とし. て,後に置きらか紅なるJ-<き反動的性格を予測する.彼は新しい連邦の諸国で,実質的 権力を持つEstatesが設立されるべきことを切望するo9)この点につV,てのSteinの. 見解は何か。号れはPrussiaの内政改革者としての彼の性格と共に考察されるべきで あろう。. 註. 1)この結果をもたらした最大の虜囚はNapoleonの政策であった。. Seel占yによれば,彼の. 征服の二つの主要な手段のうち,欧州諸国の革命的精神とその結果である国民と政府の対立. を利用する政郵ま,革命的精細のなお稀薄であったGermanyには有効でなかった。他方, 小国の儀牲において,その凍土をよ'り大なる国との取引において代償としで提供する政策 は・多くの小邦の存在した'dermanyで,軍事的成功と同じ樫の有効睦を持った。小邦,. 一輝にドイツ皇帝の勢力の基感であった教会嶺や帝国直属都南の凍土を没収し,それを取引の 具として,普瑛二国に脅威を感じる必要がなくなるまでは,二国と取引し,二国を相互に抗.

(12) 発. 54. 争的対立の地位に置き,さらに. 第三の勢力とする。 (I 2). p・. 智. 正. 三. 郎. Franceに友好的な申邦を創造し,これら中邦の連合を,. 203・210). 1812年11月St・由tersburgで善かれたSteinのmemOir参軌・なおこの頃のStein (Hannover大乱・Germanyの小国群のMetfernich.'ともいい得る人) Steinはいうo. 「貞男が私のうちにa の間の手紙ほ次の世代の政治的論争の払bを示すo とM血ster. prussianを,貴君白身のうちにa. 私は唯一. Hannoveanを認められることを悲しむo. の祖国を持ち,それはGermanyと呼ばれるo ろもろの歴代の王統は全く関心することでないo. -・・・この偉大な変化の時に・私にとっても ---責君がPrussiaの代りにAustria. を欲するならば,後者をGerman立の女王とせよ.それが実現し得るならば私はそれを望 (III. む・・・-」. 17)なお,. p・. Seeleyによれば・この時以儀aGermanとしてのSteinの Prussia. 功績は,彼の過去の功績より劣るかと疑い得る。しかし, denbergやScbarnbo′rstもSteinに比肩し得るo. Har-. -の寄与では・. Germanyへの献身と信念において・. steinほ真に彼自身であり,ただ孤りたつ。 3). Carl. August以後'Weimar文芸社会のPatron,真の善意をもって慈愛探き精神的王者. の役割を果した人,. humanityの為の光栄ある時代のあけぼのを信ずる人,一貫せるキ7). 1785年諸侯同盟の時,普瑛二国の間であいまいな態度を示すo スト数倍帆しかし他方, ・German Revolut.ion,の進行する状況をこおいて,利己的目的の為でなく・ドイツ教会の 寓と威宿を維持する為であったとしても・始め喚仏両国によからんと願い・帝国代表決議で Germanyをも含みNapoleonを皇 Rhine同盟の諸侯首席となり・. Napoleonを支持し,. 帝とする帝国の理想を.いだく。後に1813年Frankfurt大公であった時に領地を没収され る。高き良心を彼が持つことを何人も疑い得ないところの・偉大なscape-goat!-この DalbergとSteinは,直接に会ったことは殆んどなかったけれども・ 両者は共に帝国降士に生れ・その生涯を通して相互に近く生きていたo. Seeleyによれば・ 367-1381・. (ⅠIp・. ⅠⅠIp.204) 4)露普同盟の成立に決定的影響を与えたものほYorck将軍のTauroggen協定(1812年 12月)と-, Czarの委託を受けたSteinのK8nigsbergにおける二週間余の活動・. (1813. 年1月-2月)であったo.そして両者ほ共にPrussiaの王から独立して行動したが,. ・大き. な精神の差異がある。 Yorckは献身的に忠誠なるプロシヤ軍人として,軍事的義務を他の Steinほ国民が武者を採るべ. 方法では遮行し待ない故に,しかも弁解を為しつつ行動するo. きことは王の承認に関係なく採用されるべき政策であるとし,束Prussia,. Lithuania,. weichsel河以東の西Pruss.iaの等族的地方議会の召集を命じ・この議会で国民軍を創設 する。. Seeleyによれば,ここには,国民が王なしでもその独立を促進する準備を為したこ. とを王に告知する政策を,またPrussiaで始めて国民が自ら思考し行動し始めたことを認 め得るo. しかしSteinがこの時王に対して採った断乎たる態度は,彼の公的義務感や既存. の制度に対する尊敬の不足によるものでない。彼の全心は過去への忠誠と敬意に満たされ -の義務に比し第 ている。ただPrussia或はその王への義務ほ,より大なるGermany 二義的となっ′たことによるo また,当時Russia軍が期待された程に強力でないことが明 ・らかとなる時,. -Prussiaの王が積年の消極策に陥り,機会を失う危険がなかったとすれば・. この時のStein・の激烈は無思慮といい得る。しかしその危険があったならば,. Prussiaの. 価栄はSteinに負う。この時Prussia政府ほ圧倒的に優勢なフランス軍のうちにあって,.

(13) ∫.R, SeeleyによるStei血の伝記. 55. NapoleonをもSteinもを欺いた政策を採り,表面上Franceと同盟しつら,実ほ愛国的 な大臣と計画を蔵し,またCzarに了解を求めていた。遠隔の地にあったSteinは,それ故,. 王については若干,Harderlbergについては非常に誤った評価をしていた。しかしPrussia 宮廷のNapoleon.. Steinが,上記の危険を危挺したことに -の長き屈従を見るに疲れた Knesebeck は充分の理由があった. (ⅠⅠI P・?9-42, 49, 103)また,この時代のSteinは, (Kalisch∵条約の交渉におけるPrussiaの使節,彼の達巡を打破して, の締結に導いた)によって,. Prnssiaに不利な条件で条約を締結し. Steinはこの条約. した人として,またーM血stLerによらて,. Russiaの利益に奉仕 Seeley. poleonの専制をPrussiaゐ専制に代えるに過ぎないものとして非難されるo よれば,これらの非矧こ対しても, てのみ,. Pr山ssiaやドイツ諸国を考えたこ-とによって説明し得る。. 5)この時の戦の再開及び11月 NapoleoI1自身であった。. に. Steinの行動ほ,彼がGermanyの独立-の手段とし. 年のCzarのMoscow死守の決意についてはともかく, とするCzarの決意には,. Na-. Steinが参与した3月のBreslau協定は,. 1813年のGermanyを解放せん. Steinの影響を見得る。 Frankfurt Seeleyによれば,. (III p.103)なお1812. p. (ⅠⅠI. 21). に始った和議交渉の時に戦を継続させたのほ, NapoleoI-の行動を単に権力-の陶酔によっ. て説明することは怠惰な方法であるが,この場合には比較的に妥当性を持つ。しかし次のこ とも考慮されねばならない。彼は多分Russia;遠征失敗以後のFranceの世論を観察し, 平和のうちに咋自己の地位が安全であり得ないことを察知していたであろう.ともかくフ ランス国民の利益を考慮することは全く彼の性格にそわないことであり,彼ほ自己の運命を. 改善する微小の機会の為に祖国の運命を犠牲にしたことは明らかである。. (ⅠⅠI p.. 16ト.162. 215-・216). 6). P主ussi今の王はSteinの, K8nigsbergにおける活動に恐怖を感じ,その際既に両者の間に 疎隔があった。. Austriaほその国の特質により.戦から政治的変革の要素を除去すること. に全力を傾注する.常に1iberalな意見をもてあそび,また彼の民族の輝かしい独立の戦. を指導してきたCzarも,岳teinの国民への訴にいかに同感するとしても,Austriaとの 同盟を獲得,維持する必要があるo再開以後め執ま,国民-の直接の訴えなしに,大国の以 前より強固な担携によるものであった 7). Seel占yによれば,. Vienna会議にぉけるPrussiaの街土の再編成は,その書法上の改革. に劣ら-ない意義を持ち,. Aust`riaの敏土の変化と共に,近代ドイツ史の基本的事実である戸. 第一に後者は主にItal-yに拡大したが,前者の人口ほより多くGermanとなる.第二に Prussiaの地理的位乱殊にRhine坤方の鏡有払.やがてPrussiaをFranceに対抗 するGermanyの首嶺とするであろうーo-当粗Metternithは,. Prus9iaをこの困敷こ直 面させるこ・と・を勝利と考え, Prussiaの政治家も,この危険な位置をとることに抗議し? ?同意したのであったが,. 8)革命フランスと 織の欠酪を是正し,. 19世紀のPrussiaの棒大はこの位置による.. NapoleonのGermany. p. 30畠1306) (ⅠⅠI. -の侵入を招いた最大の原因,即ち旧ドイツ組. Germanyの全軍事力をその防衛の為に利用し得る恕織をエ夫するとと. がSteinの問題であった.. France.は敗北し,. Rhine同盟は懲罰を受けたとしても,. France咋自らの力を知り,またRhine国境線の喪失を正義の名に率い_T承認しない。こ Hardenbergにとっ しかしMetternichは勿論, ・こにほ普仏戦争o.嘩芽が蔵されているo ・ても・将来めセiahc占'・の対独攻撃はAustria或はP'russiaの地位の抵下を結果としても.

(14) 56. 発,智 たらす戯に愈供されたにすぎないo Prussjaの要求はRussiaに,. 正. 郎. 三. ′. さらに. この二大国も和好も主権の制限に同意しないo BavariaとW融temberg. Hannoverの要求は英国に,. Germanyの問艦の解決は欧州の問題の解決の一部 :によって支持され, である.. Vienna会議には,共同の戦においてさえ,和嘗の分裂を持っていた四強国のほか. の要求はFrance. に,旧ライン同盟諸国と. Franceが加わるo. この状況にあってTaノIleyran-dの外交の勝利 ほ驚異に値するものでほなかった. Stei・nは‡彼の究極の願い, (二大国と中邦を含み真に有 効な権威を持つ連邦の樹立)が実現し符ないことを知る時,それに代る唯一の道はPrussia Seeleyによ. の防衛力の強化であるとして, PrussiaのSaxony併合の要求を支持するo れば,この要求が保守派によって正統主義の名において,. 1iberals. によって民族の権利の. 名において反対されたことは不幸であった.前者の理論は誤った解釈の典型である。また後 ∧. 者の理論は,この時代になおStein 253-258, (上ⅠⅠ. 9). 280-283,. のドイツ民族の観念が鎚解されなかったことを示す。. 293-295). 1814年1月Russiaの内閣に提出した文書でSteinはいう。. 「ドイツ連邦の法は--民族. の独立と平安,政治的市民的自由を保障する原則によって起草されるべきである。. -・-連邦 構成国のうちにEstatesが形成され,法と課税に同意を与える権能と行政を監督する権能 が委ねられ,その権能ほ連邦により保障されるべきである---。」また, 連邦法の草案について,「すべてのドイツ語国で きであるというほか, 判する。 4.. (III. p.. 310,. a. constitution. by. Steinは, Estates. 5月末, が存在すべ. Estatesの権能,その保障についての規定が存在しない」ことを批 322). Stein-Hardenberg改革と,内政改革者としてのStein. Seeleyの「政治学」にぉける国家分類論に見られる一つの特色は,国家(むしろ統 治機構一筆者)の性格を,自由の精神の所産としてでなく,政府の必要即ち内列の破壊 的な影響力に対する紡衛の必要及び由難の程度との関連にぉいて考察することであっ 喪ol). Stein-Hardenberg改革を理解する準備として,まずプロシヤ国家の歴史的性格. を概観するときにも,この見解を見得る。. Seeleyによれば,一国家の歴史を決定する. ものは,しばしばその国の位置の特殊性であi). ,国家の性格を決Jjヒする′最大の要因は, Prussiaの位置に基く国l防の困 その国の自己保全である。プロシヤ妃の根本的事実は,-. 難,及びその宙懐の結果即ちその政府が必然的忙大なる活動領域を持ち,軍事的専制的 な形式を採ることで参るoその財政の大なる部分は軍事費に当てら肺,その行政機構は, 人口と国富との比併を超えて,軍の創造と緯持に奉仕する。その大陸軍は,君主の手中 にな捗れぼ必然的に君主制に,君主の手中にあれば同じく必然騎に自由思想紅致命的で 参るo. Ftederick. William. 一世の陸軍の創造は,この軍に依拠して無制限の権力を行. 使するp新しき型の君主制を創造するとV,う重要な`政治的'意味を持ってV,たo英国 Prussiaの憲政の発展は, の憲政の発展の主要な部分が,大常備軍建設の以前にあわ, それ以後であることは,両者の本質的差異を生む主な理由である。 (I p. 168-169, 357). また,一般 に大改革-導くものは,しばしば想像される如く進歩の精神で急く・,.必要の 痘力であるという seeleyの見解(Ⅰ. p. 407)ち.,未曾有の災厄から出発し,改革と防 衛が分離し難く関連してい兜. Stein・Hardenberg. 症)時代紅貌拓妥当ずB_と思ゎ執るo.

(15) 57. ∫. 良. SeeleyによるSteinの伝記. Prussiaと同じ道を採. seeleyほ,大陸諸国の憲政の発展は上述の点で,英国と異わ・ Frederick. っ潅ことを指摘し,2) stein-Hardenberg改革を,. William一世の軍事的行政的組織をその過去に持つ. Louis十四世の軍事脚専制政をその過去に持つフランス革. 命と比較して考察することば,両者の理解に資するであろうとV,い・次の如く叙述す るo Steinの義民解放令は1789年8月4日の宣言VL,行政改革ほ1791年憲法の永続. 的効力車推持した部分紅相応し,軍事改革は明らか転フランス革命軍から示唆を得たo 政治的自由の導入を,. Franceは頂点から,. Prussiaは底辺から始めたoフランス革命. は諾会制を創造したが,それ疫Napoleonによって無効托され,他方PrussiaはStein の都市改革を持つo以上の如く,両者の恒久的結果から見て,変革の麺類及び広さに類 Franceの変革は激情と興奮. 似が認められるが,他面変革の方法ほ東大の差異を示すo. のう`ちに為され,改革それ自身よわも,改革を成就させた思想と感情の革命が強調され た・oをこには多くのmetapOliticsの体系が創造さgL・あらゆる国の政治思想に最大の 影響を与えた.. Pr'ussiaの変革は,これに比眉すべきV,かなる知的興奮も伴わず,極め Seeleyは・. (ⅠIp. 182-183)この点について・ て轟穫に政府の立法によわ成就された.. prussiaがフランス革論に見る如き激烈忽国内不和の災厄を回遊し得たことを高く評価 し,. Stei、nのう、ちに失敗せぎるTurgotを見るoそしてこの改革の時代は,対外的従. 属を伴っ・たとしても,誇をもって恐怖なしに想起されるべき下イツ国民史の一時代を形 Prussiaの旧秩序が 成するという. (I p・ 162-163)さらに以上の類似と差異の原因は・ 一般的にはFranceのそれの如きものであわ忽がら,なお注目すべき差異をもっていた こと,3)その為に,. Franceの旧秩序のよわ大なる不正は・すべての問題を同時に捷起せ. ぎるをえ急かったのに対して,. Prussiaの改革の必要性はすべてJena.によって説明さ. 礼,ここで鍵起された問題は自然国境線を欠く貧しい国家を防衛する方法は何かという 古き問題であったことに求あ得る,tいう.. (ⅠIp・ 183) この時代ほまた,改革が王自身でなく,二人の独裁者によって指導され,そのもとに. 秀れた人材が存姦し,かくて苦難の庄刀による社会の崩壊を阻止したことでも,プロシ ャ史に独特であるo4). 1806年4月,開戦の直前,緊急の行政改革及び王の助言者となる. 1807年始,王の任命を ペき人を主に強制しようとし潅・Hardenbergの党'の成立, Seeleyによれば,それは少数の官吏と王の問の争であっ潅が, 拒否し舞Steinの解任. prussiaの政治の変化を示す。. (i p・ 295) 1807年4月,戦の危急のうちにEardenberg. の最初の独裁の開始,王直属委員会の創設によ少,改革の時代が始るo. Hardenbergの. ・プロシヤ国家の再建につV,てのmemOir'(1807年9月)は,連続性の破壊なしに進 歩が成されるペきこと, Napoleonの力は革命との結合にあること,故に再建の指導的 St9in内閣 原則は君主制に怠ける民主的原則の採用であることを一般原則として示し, Seeleyによれば,この再建計 の業績とされる広汎怒計画のすペてを包含していたo. 画の立案は上記の委員会の最初の四人の委員, mannによるのであわ,. Hardenberg. Schbn・. Niebuhr,. Stage-. Altenstein,. の功績は,この改革案を歓迎し是認した最初. の政治家であったこと,及びその遂行をまさにこの大事業を試みる勇気と負徹する精.

(16) 58. 発. 智. 正. 神と支配力を持つHohepzolllern型の一人物,. 三. 郎 Steinの手に委ね充ことである。・. ,(Ip.. 418) Seeleyは,. Steinの三大立法改革の内容を,. Hardenberg. (1810年6月再登場)の 改革と共に,概観し,.-また1809年4月からの一年間のプロシヤ史はH・umboldtに属 するとして・彼の教育改革を解明しているが,筆者の能力の不足の為にその詳細に触れ 得ないo5)主に,. Prussia. -の政治的自由の導入と,それについてのSteinの見解につ. いて以下に記すo. stein-Hardenberg改革全体の-質せる特質は,その全過程が`上からa?草野とし て遂行されたことであるが,. Seeley披この点Q7=ついて,次の如くいうo自由について. 論議する時,人は通常,偉大な国民の政府に対する頑強な闘争;父祖の流した血によっ て子孫に伝えられろペき黄金時代の開始について語る.しかしそれはPrussiaには存 在しないo. (II. 243) SteinはChathamと等しく全国民を拒導すべき資質と見解を. p・. 具備し,しかし彼以上に国民から分離されていたo は現在の想像を越え・. Prussiaの中等階級の政治的無関心. rSteinは議会も公的集会も選挙民に訴え-る手段もなく,彼枚数人. testament の官吏を鼓舞し, -辞職に際してpolitical (1808年11月)と耶まれたもの に署名し待たに過ぎないo (I p・ 463)そしてSteinはどにnationalityの精神と独立. の決意に然えた英雄はV,ないが・しかし彼の自由に対する感情汝全く異る.最も大胆な 改革の時でさえ,自由についての彼の見解は・政府甲力を増大させ,国費と大常備軍-. の道を開くべき無比の戦の武器として自由を推奨することであった。6) それ故に, Steinを彼の劃期的な都市改革の遂行-導いた動機も,. a. pity・ for. the. goYernmernt即ち市民が全く公事に関与せず,全負荷を政府に課することは公正でな いという感情にあったoそして1808年の都市条令の規定のうちに揺,自治を許容する. よわも命令するという売風, するo7)また,. Scharnhorstの軍事組織の原則を想起させる・ものが存荏. Seeleyによれぼ,. Prussiaの議会制度-の遅-る歩みが,深V,思慮. と,或は臆病,裏切わと,何れの名をもって呼ばれるとしても-,. Steinが政治機構の頂 点に議会を置か急かったことは単に時の不足に帰せられるoしかし議会制鮭につV'ての Steinの示唆も空た,彼の都市改革と同じ意図を示す。8) 註. 1). 「政治学」. p・. 10ト103,. 2)特にRussiaの発展は・. 131-137,. 31ト314参照。. Prussiaの発展とparallelであるとされる。. Petr大帝とAle-. ・ksand;二世の改革ほFrederick William一世とSteinの改革に酷似し, Prussiaの 発展における第三の時期(1848年に始る患政の採用)に相応するものぬ,なお未来に残さ れているという。 (I 357-358) 3)要点のみ列挙すれば次の如しo (1)王は共に専制的であったが, Hohenz.o11ernsは啓蒙専、 制主義の理論と共に,実際にもBourbons程公共の利益を彼等自身の利益の犠牲に供しな かったo. (2)変革は共に特権階級に対して為されたが,貴族-の攻撃の根拠は,. は・その無用性と国民からの分離にあり・. Franceで. (Abb6・ Si6yes), Prussiaでほ,㌧それが全権力を.

(17) 59. J. R. Seeley首とよるSteinの伝記 Prussiaの. (3)官僚制に伴う弊害は, Prussiaの官僚制に. 掌中にしながら国家と軍を崩壊させたことにあったo. 大臣がしばしば告白することであったが,なおFranceに比すれば,. はより多くLa)規律があった。 (4) Franceの財政の破産の直接の原因は宮廷の濫費にあった ■の苛烈な要 が, Prussiaの財政の困那・その貧配軍鳳近く桔戦の災厄とNapoleon (5) PrussiaがProtestant国家であ 求の結果であり,より少く政府の腐敗に困由するo (6) Prussia政府は・その軍事的必要 ったことほ外国からより多くの独立性を保たせるo から農民の福祉に配慮する。 (II p・ 174-183)なお,自然国境線を持たないPrussia,より 完全なるそれを獲得せんとするFranceにおいて,大帝備寧の建設は,強力な専制君主を必. despotism'. 然郎生むこと,そしてLouis十四世やFrederick大王の時代の・organic 或は`moⅡarChical. repnblic・は,それを生みだした必要が満たされた後にも残存し,耐. ぇ難い国数に梅るけれども,もとは健全な自然な慈恵的な政府の形式であったとされること p・ 181-187参照。 について「政治学」 4). rStein」は,. Stein内閣における彼の同僚及び後の改革に参与した政治家達の伝記,性格 Scharnborst (高き性格と民族の理論を具え. についての興味あるSketcbを含む。就中,. p・. た政治家,むしろcivilianの気質を持つ軍人I. 37ト374)と臥mboldt. (Goetheと ⅠI. steinがその両極であった,二つの生活観を調和し,教育改革を盈行すべき天与の人, p.. 422-427)が高く評価されていると思われるo. 5)三大立法改革へのSteinの寄与について, Personal 月9日の農民解放令は, (1). 1807年10. Seeleyの述べることのみ記したい。 selfの廃止,. (2)土地の完員,譲渡質入に閲し,普 in. land. た職業の選択欄し,貴族・市民・農民の間に存在した制限の撤廃(caste. and. (3)農民を賃鉄 personの禁止)という・それぞれ社会草創こ等しい掛こ重要な規定のほか・ 労働者に陥ちゆく危険から保護しようとする規定を含むoこの勅令の制定ほ,まず時代の精 神に,またその立案過程では王直属委員会の寄与に負うものであるが・なお直接には,戦に. ょり荒廃した農地の耕作考いかに救済するかの緊急の必要にうながされたこと・また,陸軍 のうちに無秩序を導入するとされてきた・. Caste. in. Tilsitにおける軍の崩塵であったことが指摘されるo. personの廃此可能にしたものは,. Steinの事実上の首相としての登場. 10月3日であり,提示された草案の内容に彼が変更を与えたのほ・法令の適用範囲を St弛emannの主張を容れて,敏地所有 全王国に拡大したことと,前記第三の点について! Seeleyは,十月勅 者による農民地の処分に法的制雛課したことにすぎないoこの点で,. は,. 令がSteinの名で呼ばれることほ・彼に伝説的名声を与えるものであるともいうが,しか し次の如く述べる。国家の変革を主宰した人々に名誉が帰せられるの時,主として彼等の発 明,独創性,技術的熟練の為でなく,自ら責任を負って自由に活動し,周囲の人々の責任を 軽くする大勇気の為である。 GreyがReformBillの制定者と呼ばれるのは・彼が彼自身 の党及び国民における優越的支配を, ・性格の高さと堅固さによって獲得したこと,より劣っ た指導者のもとでは試みられず・或は流血のうちに失敗したであろう立法を指導し実現した ことであ争o SteinはGreyの如く,指導すべき議会も統制すべき世論も持た坑この点 でGr毛yの場合と完全にparallelではないが,しかし官吏ほを勇気づ机宮廷や軍の 強い反対を断乎として無視しなければならぬo社会の全構造に影響し,最も包括的なこの勅 (I p・446-458)な 令のしかも迅速な実現はSteinの力なしには可能でなかったであろうo 払十月勅令の内容のうち,前記第一の点について,この勅令による隷農状態(Unter・.

(18) 60. 発. 智. 正. 郎. 三. tanigkeit)の廃止は何を意味するか,筆者の理解は及び得ない.ただ,封建的な土地保有 権を近代的所有権に転化することは,十月勅令でなく,. =ardenbergの18]1年9月の勅令. 及び以後の布告によるoそしてこの立法に対してSteinほ領主と農民の関係及び農民の家 族関係を破壌するものとして反対していること・他面, 西Prussiaにおける王意地農民(immediate. 1808年7月のSteinの勅令ほ,栄. peasant)についてのみ,義民に土地所有. 権を付与し・この点でⅢardenbergの立法を準備したといい得ることが注目されている。 (II. p.. 185-192). 行政改革ほ既に, Steinの解任を惹起した, 題であったo. `Hardenbergの鄭と王との争の主要な問. 1806年4月のmemoirと1807年6月に善かれたNassau覚要は.. St占inの. 最も初期における一般的見解を示すが,彼の主たる関心は行政改革にあり,それはPrussia の憲政史で重要な文書であるo 一の題目であって・. そして行政改革は, Steinが権力を掌握した時明言した唯. Seeleyによれば,諸改革の申で最も鉄著にSteinの手に成るもの,. 軍事組織を除けば最も明らかに組織の才を示すものである。 と経験によってのみ可能であり得た旧き行政組織は,. Frederick大王の異例の精力. Frederick. William三世のもとにあ. secretariesという行政 っては,その最高責任が王にも行政大臣にもない状態(Cabin占t. 省と何の関係もなく,何らの行政責任も負わない,王の助言者の存在)を招く。. Steinの意. 図した改革の要点は,行政に最大可能の統一,力・活動を与える為に,最高点に集中し,政府 の最高指導を・ 命するprivy. Council. of. State. (王に直属し・王子のほか,すべての行政大臣と王が任. Counムillorsからなる)に置き,さらに行政大臣のみからなるCabinetを. 創設すること,また行政機能の配分における混乱,特に事務の性質による合理的な原則と地 域的区分による地方的原則との間の渥店Lを是正することであった.しかし彼は法令の制定 前に辞職し,. 1808年12月の勅令を経て・. Hardenberg. (1810年Chancellor of して独裁的地位に就いた1■による1810年1o月の勅令に至るoその際, Council. ほ殆んど重要性を持たないものとなり,新設されたMinistry. of. Stateと of. State. Stateが全機癖の中心. となるoそして,一世代後に議会が導入された後にさえ,英仏の内閣に見られない万能性を 持つPrussiaの内閣制度の基礎がこの時に置かれた. 立法のうちに,. Seeleyは,このHardenbergの. Steinが意図した行政の統一の実現と共に,. 認め,特にSteinのCouncil う。 (主にPart V. Chap.. of. Steinの構播からの逸脱をも. Stateほ,内閣への一つの制約と成り得たであろうとい. 2). SeeleyはSteinの都市改革を独創的にして成功を伴ったものとして高く評価する。そ. の成功ほFranceの革命に対するSteinの改革の嘩質とされ, ・またSt、einは当時の英国 の制度の中で最も腐敗していたboroughのそれでなく,. Countyの自治の原則を選択し. て導入したとされるo (ちなみにSeeleyほG8ttingen大学の学生としてのSteinの研 究が・特に英国の歴史と制度であったことを述べる時,. Steinが自らを英国学瀕の政治家. と考えていたことは明らかであるという。) (i p. 33)なお, 1808年の都市条令の制定は Steinの心と世論のうちに同時に生れたという。この改革は,十字軍時代に古き黄金時代を. 持った中世都市の自由の回復ともいい得ること,また磯の経疲はこの改革を要求するかなり の世論を発生させたこと・しかしSteinはこの世論を待たずして,予測し,自己の確信に. よって着宇したことが指摘されている。. (Part. V.. chap.. 3). 6)J上からの改革の指導者Steinの業績、と思想は,慎型約な市民車命としてのフうンス寄合と.

(19) ∫.R. SeeleyによるSteinの伝言己. 61. いかなる関係にあるか。とても筆者の究明し得ない問題であるが,ただ,これについて本書 Anti-Napoleonic Revolutionの性格を解明するという に散在するSeeleyの見解にも, Seeleyによれ. 本書全体の意図を伺い得るかと思う。この点で次の如き叙述が注目される。 ば,. Steip.の生麺において,フランス革命の開始は,この時代の多くの∧に見る如き甚大 Steinがフランス革命に純粋な熱狂を示す為には,彼は十年若くな. な影響を及ぼさない.. ければならず,その時既に実際行革の冷静な調練を受けていた。またSteinはある意味で は媒偉力に富み,彼が関心を持つすべてを理解するが,彼の想像力ほ全く. (なおこの点についても,後述する如く. った.. たことも勿論考慮されねばならない。). practicalであ. Stein々が最も深く過去にねぎす貴族であっ. Prussiaの崩壊以前,. Steinは六年間Frederick. 大王に仕え,. -さらに二十年間,同じく絶対的なPrussiaの政府の行政に参与したが,その間 その支配のうちに苛杏な圧制的なものを見いだしたとは思えない.彼の発言は常に自由に 好意を示す僻向があったが,政府の厳しさに怒を爆発させたことはない。連に彼は政府輯に Prussiaの崩壊が,この政府の その財革紐繊が強さと弾力性を欠くことを憂慮していた。 無声を世界に示した時!彼は大願な徹底した改革者となるo改革者として彼は時代の動きを. 観過せず,特に十月勅令は,彼がフランス革命に伴う活発な力に盲目でなかったことを示 すo行革改革は重要な独自性を持つけれども,その一般的規模においてフランス革命によっ て暗示されたと考え得る。しかしこのことは彼の生涯を貫く,フランスの運動に対する敵対 を弱めないo彼はTurgotとAdam. Smithた耳を低け,より初期の1iberalismの人間. 的なものゐすべ七を, Prussiaの官吏の熟練をもって,彼の攻寄に採り入れたo. (なおこの. 点で, Steinは彼がPrussiaの官吏となる四年前に刊行された「国富論」を読んだこと, Prussia. Westphalia地方の総督或は. `しかし. 政府の財務大臣としての.. 1804年前後の. Steinの業績は,彼がなおTurgotを師としていたことを示すこと,しかし1807年の十 月勅令には, SteinがSmithの理論を承認したことの記念碑を見うることが指摘されて SteinはVoltaireや. いる。)しかし らず,. Napoleon、がideology. と呼んだo. 通常. France. Rousseau. に示唆されたと見える言葉は一語も語. として燃えたたせたものを一貫して軽侮しmetapolitics の運動に伴う人道主義的理憩は,それと一時的に結合された. Na,poleonの専制よりも,.遠かに大きな比重をもって,その運動の主要な部分と見なされる. であろう。しかしSteinにとって事物は革に見えた。後者こそ普遍的な殆んど抗し軌、程 に強力な恵であり,前者はその毒に付加された蜜に過ぎない。 226,- ⅠⅠI p.. 356-357,. p.. (I. p.. 75-76,. p.. 152,. ⅠI p.. 551). 7)都市条令の最も琴期的な点は,. Corporationやguildの代表でなく全公民の代表として. の市会を創設したことである。公民と住民を分ち,公民が市会を選挙し,市会が執行機関で ある市参事会を遠出する。その際,公民ほ彼等の同胞が彼等に課する公聴を拒召してはなら 'ない。市会議員は無給であり,他の公職も,それに就く人のすべての時間を要求するもので なければ無給である.. (ⅠIp. 245)地方の有産者が給与なしに地方政府に参与するならば,. 地方政府ほ廉価でなされ,政府に対する不満ほ除かれ,君主制の威宿を高め得るとの見解 は,. Prussiaの崩壊以前からSteinの見解であった。. 8)既にHardellbergの`Prnssiaの再建のmemOir'. (1807年)はPrussiaでおそらく. 最初の代議政府への暗示を含んでいた。そしてその凝案者とされる. をSteinに負うと述べるo?teinのPolitical. Testament. Altenstein. ほこの考. (1808年11月)ほその計画の.

(20) 発. 62. 正. 智. 三. 郎. 準備を進めていたことを示すo 「王の権力ほ常に神聖であれ!しかしこの権利とこの制約な き権力が華を成し得る為にほ,主権者に国民の願望を知らせ,主権者の命令に生島を与える 手段を備える必要がある. ・・・・--国のすべての能働的市民に代表の権利を与えよ.この方法 Humboldt (ⅠI p. 291)なお,後述, によってのみ,国民の精神は積極的に覚闘されるo」 の`患法についての覚書'へのStein?評註を参照。 5.. Revo上tltionの時代の終了と老年のStein. Anti・Napoleonic. 詩人は偉大な国民的勝利に繁栄と休居が続くと想像するかもしれないが,歴史家は通. 鷲,かかる勝利の後に,新しい欲望と不満そして新しい不安の時期が続くのを見るo Prussiaで,この新しい不安は,二人の攻草者がその誕生を助捜座ものであった.彼等 Frederick大王. の改革は,政府の手に成るが,国民の側に自由意志と性格を要求したo. の軍とBliicherの寧は全く異るものである。兵士が戦から帰る噂,なぁ専制的な政府. Prussiaの如き国では以前よわも熱情的平忠誠でさえある. に叛乱する意図を持たず,. が,しかし既に戦場で,狭量な王や反動の官吏が理解し得ない権利を獲得しているp自 由は戦の為に創造され,そして戦が終ったいま,論争問題娃変化する。自由な制度は,. 国家に力を与えるか香かでなく,それ自身よき政府の形式であるか否かの問題が提示さ れる。そしてPrussiaの11beralismはFranceのせれの色彩を採i)始め,政府は公. 衆と異る利害と見解を持ち.,虐政的であると見られるo他方,政府は力によって庄伏さ れるまで反動政策を固戟する。 Revolution. (ⅠIIp・ 357,. p1. 48ト482)この事態は.,. Stein-Hardenberg. の指導者をさえ困惑させ,. Anti-Napoleonic. の時代を終了させるに至. る。1)そしてSeeleyは,政府が世論を指導することを止め,両者が対立するに至った 過程のうちに,. I:人の独裁者の努力によってPrussiaが回避し得た堕落の瞳透を認め,. Steinと共VEその不幸を悲しむかと思われる。 Seeley. 1815年Steinの引退の兵因は, ないことであったo. (ⅠIIp. 367)以来,. によれば,いま始る時代V,こ彼の資質が適し 1817年以後のWestphalia地方のProvincial1. Estatesの為の活動を除酌ま,彼の政治-の影響は殆んどなく,老年の平和な時代が始 る。しかし. Prussiaの政治の推移は彼を失望させる。彼が見たものは上述の如く,. 彼が奉仕し改革に努めたT日き Iiberalism. Prussia. との闘争であったo. のヱ専制政と,彼がその誕生を助けた若い未熟な. 彼は断呼として反動を却ける。しかし同時に新しい. Iiberalismのうちに,彼の所謂metapoliticsとloose. journalismを見,それが旧き. 社会を解体させることを憂慮する。2) 当時, Prussiaの世論と政府Q)最大の問題は,. 1815年の勅令と,そ由約束不履行によ. って生じた。第一にいかなる国民代表組織を創設すべきか.第二にStei、nの農民解放. 令で重大な衝撃を受けた,貴族,市民,農民の身分制度秩序は,維持されるか廃申され るか,何れの道を採るべきか。3). Steinは,憲法についての王の約束の破棄を非難し,. 議会から実質的権限を奪う試みに反対するoしかし選択されるべき議会の形式につV,て は,. France. を範とする全く新しい形式を創造する道を採らず,.歴史的基礎を持つ. Estatesの古き形式を,時代が要求する変更を付して,固執する方法をよしとする。4)し.

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