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ヨーロッパ中世における聖職者のマスキュリニティ

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ヨーロッパ中世における聖職者のマスキュリニティ

著者

赤阪 俊一

雑誌名

埼玉学園大学紀要. 人間学部篇

7

ページ

67-78

発行年

2007-12-01

URL

http://id.nii.ac.jp/1354/00000842/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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― 67 ― ゾ・カラスが『少年から男へ』2 において明 らかにした。彼女は騎士身分、大学、都市と いう三つの異なる場において、いかにしてマ スキュリニティが獲得されていったかを追究 したのだ。騎士、大学人、手工業者それぞれ が異なった形で、異なったマスキュリニティ を獲得していった状況を豊富な史料を用いて 描き出したカラスを読みながら、さて、それ では西洋中世における聖職者のマスキュリニ ティとはいったいどのようなものであったの かと考えたのが、本稿の出発点になった。な ぜ聖職者についてわざわざマスキュリニティ を取り上げる必要があるのか、まずそのあた りを明らかにすることからはじめたい。以下、 しばらくの間、マスキュリニティという言葉 にかえて、少々ニュアンスが異なるが、男ら しさという言葉を使うことにする。耳慣れな いカタカナ語を使うよりは、理解しやすいと 考えたためである。 ₁ 聖職者が聖職者であるために  ヨーロッパ中世社会において一般的に聖職 者といわれる人たちには二種類存在する。在 俗の聖職者──司教や司祭、あるいは助祭な ど──と修道士である。このふたつは本来は 別個の存在であった。 はじめに  マスキュリニティという言葉がある。筆者 の持っている辞書は少々古すぎるのか、「男ら しさ」という訳しかあてられていない。最近 では、一般的に男性性という訳語が多く見ら れる。あまり信用できる情報を与えてくれて いるとはいえないが、現代人の平均的な見方 を教えてくれると思われるウィキペディアの 定義によると、「マスキュリニティとは理念的 に男や少年と結びつくか、あるいは特に男や 少年にふさわしいと、ある特定の文化によっ て判断された性質や行動のことを言う。生殖 システムと関連している生物学的生理的区分 であるオスであることとは異なり、マスキュ リニティは主として社会的に獲得された特質 ならびに二次的な性的特質のことを言う。」1 一見きわめて厳密かつ正確な定義のように見 えるのではあるが、ウィキペディアの定義に 従えば、おそらくある特定の文化においては、 マスキュリニティは単数で使用されることに なるのだろう。  しかしながらヨーロッパ中世の場合、人が いかなる組織あるいは身分に属するのかに よって、そのマスキュリニティのありよう が異なっているということをルース・メイ

ヨーロッパ中世における聖職者のマスキュリニティ

The Masculinity of the Clergy in Medieval Europe

赤 阪 俊 一

AKASAKA, Shunichi

キーワード:ジェンダー、マスキュリニティ、セクシュアリティ、聖職者 Key words :gender, masculinity, sexuality, clergy

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― 68 ― 女子どもを養うなどという大それた考えは捨 てなければならない。  もうひとつの徳目が従順である。従順は上 長の命令に従うことであるが、広く逆らわな いことを意味する。従順を守ろうとすれば、 マッチョな男にはなれない。女を守るために は、誰かに逆らい、武器をとって戦わねばな らないときがあるかもしれないのに、従順で は困るのである。  戦争が常態である社会の中で、武器を使わ ないことを呼びかける神の平和運動が聖職者 によって展開されるが、これは一見したとこ ろ武器=男らしさの象徴を捨てることを聖職 者以外に広げていこうという運動である。こ のことは男らしさの否定を武器に、社会を変 えようという運動と解釈することができる。 こうして見れば、聖職者とは男であることを 否定している存在であるように見えるのだ。  しかし三つの徳目だけが聖職者をしばって いたのではない。聖職者は聖衣を着るのだが、 この衣服のカットの仕方はといえば、当時の 女性の衣服と同じなのだ。4 労働したり、戦っ たりする人たちは動きやすいようにズボン系 統の衣服を着るが、聖職者は女性同様上から かぶる裾の長い衣服を着る。中世も末期にな ると、この衣服のゆえに、聖職者には女性的 だという悪罵が投げつけられるようになる。 確かにその意味ではこの衣服は男らしくない のだ。  もうひとつ最後に重要な点が忘れられてい る。トンスラである。聖職者は頭頂部を剃っ ている。これをトンスラというが、このトン スラの起源が実はよくわかっていない。一般 的にこのトンスラは世俗世界の拒否を示すと 考えられているが、それだけだろうか。古代 ギリシア・ローマでは頭を剃るのは奴隷のし  修道士出身の教皇たちによって推し進めら れた11世紀の教会改革によって司祭や司教の 結婚が禁じられるまで、彼らは普通に結婚し、 子どもももうけていた。もちろん司教といえ ど、剣をとって戦いに赴くこともあった。し かし11世紀の教会改革によって在俗の聖職者 は限りなく修道士に近づいて行くことになる。 こうしてひとつの聖職者身分が誕生したので ある。では教会改革後の聖職者はどのような 存在であったのだろうか。  12世紀ごろより修道誓願として三つの誓い がなされるようになった。貞潔、清貧、従順 である。これらは修道生活における自己奉献 の誓いであるが、やがては一般的に聖職者の 徳目ということになる。まずこの三つを男ら しさの点から考えてみることにする。  貞潔とは何か。男女が肉体的に触れ合わな いことである。もちろん結婚など問題外なの だ。しかし一般的に男らしさとは女との関係 で、性行為を通して発現される。たとえば、 カラスは次のように言う。中世において性行 為を行うことを表現するconcumboなるラテ ン語は、常に主語としては男を前提し、女は 常に目的語である。つまり「スル」のが男で、 「サレル」のが女だというのが、中世語から 出てくる性行為のありようなのだ。3 ここで 「スル」ことを否定することは男らしさを放 棄することになると考えるのが普通ではない か。  もちろん当時も性行為は結婚と結びついて いた。結婚して女子どもを養うことが男であ る証であり、男らしいことだと見なされてい たのである。ここで清貧という徳目が関係し てくる。清貧とはモノをもたないということ であり、誰かを養ってヤルという考えとは相 容れない。清貧を至上命令として生きる限り、

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― 69 ― いえるのではなかろうか。  以上見てきたように、聖職者が聖職者であ るためには男らしさを拒否しなければならな かったかのように見えるのである。彼らは実 際に男らしさを拒否しようとしたのであろう か。それとも彼らの男らしさが一般的に言う 男らしさとは違っているのだろうか。 ₂ 教会改革期における聖職者と結婚  聖職者の男らしさなどあたりまえすぎて、 11世紀以前にはほぼ問題にはならなかった。 たとえば6世紀のトゥールのグレゴリウスに は、剣をとって戦い、妻を持った司教などい くらでも登場する。10 しかし11世紀の教会改 革後には、そのようなことはありえなくなっ た。そして男らしさの問題が発生するのだ。11 それが問題になったのは、グレゴリウス改革 における独身強制のためである。したがって、 ここでは教会改革期における聖職者に対する 独身強制の問題のありようをまず簡単に整理 しておかねばならないだろう。12  11世紀における聖職者の結婚と聖職者のセ クシュアリティに対するキャンペーンは総体 として教義上かつ実際上の考慮に基礎づけら れていた。このキャンペーンの教義上の土台 は、性行為は不浄であり罪深いというおなじ みの観念に基づいていた。いやしむべき寝室 の喜びに手を染めた妻帯聖職者は自分自身と 聖なる秘蹟に泥を塗ったというのだ。祭壇で の聖務を執り行う者は肉の喜びを避けなけれ ばならないのだと改革者たちは信じていた。 肉の誘惑に屈した聖職者は、性行為の相手が たとえ合法的に結婚している妻であっても不 浄となり、その汚れは彼が行うすべての典礼 行為を汚染し、彼が触れる聖器や、彼が語る 聖なる言葉を汚すと考えられた。この汚れの るしであった。修道士がこの習俗を採用した のは、まさにそのためであったとカトリック 百科事典は書く。5 要するに従属者のしるし である。もちろん従属者は当時の世界では女 のありようであり、男としてはどうしても避 けたい状態であったはずである。  6世紀に書かれたトゥールのグレゴリウス の『歴史十巻』から髪に関する話題をいくつ か拾ってみる。  フランク族が自分たちの王を選ぶとき、 もっとも高貴な家柄から、長髪を有する人物 を自分たちの王としていただいた。6  クローヴィスがカラリックという敵を捕ま えたとき、クローヴィスは彼の頭髪を刈り 取った。7  スウェヴィ人とサクソン人の戦いの後、サ クソン人の中で生き残った者たちは、敵に復 讐するまでは誰も髯を剃らないし、髪も切ら ないことを誓った。8  クロタール王の息子と自称するグントヴァ ルドをキルデベルト王が引き取ったが、クロ タール王が自分のところへ送れと命じた。グ ントヴァルドを見ると、王は彼の頭髪を切る よう命じて、「私はこの子を生みはしない」と 言った。クロタールの死後、シギベルト王が 彼を呼び寄せ、再び彼の頭髪を刈り、ケルン の町へと送った。9  これらの例から判断すると、頭髪は単に世 俗世界の象徴とだけはいえないようである。 むしろ王のしるしであること、髪を切ること が命じられるのは必ず男であり、髪が力の源 泉として意識されていたようであるところか ら、髪そのものが、支配する者=男の象徴と して意識されていたのではないかと考えられ ていたと想像される。もしそうなら、トンス ラこそは、男らしさの拒否の象徴であるとも

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― 70 ― 節に彼が開いたローマ教会会議では、貞潔な らざる聖職者が祭壇上で司式を執り行うのを 禁じ、既婚聖職者に性行為を止めるように命 じた長々しくレトリック満載の教会法が提案 された。この時妻を離縁しない既婚聖職者は 即座に解職されるべきだとされた。翌年、グ レゴリウスはこうした教令を強制すべく精力 的な努力を開始した。この目的のために彼は 教会の役人たちだけではなく、ドイツの大公 たち、フランドル女伯、そして皮肉なことに 翌年彼自身が破門することになる皇帝ハイン リヒ4世にすら助力を要請した。  聖職者の結婚に対する闘いは12世紀の初め 二回の公会議でそのクライマックスに達した。 この時点まで改革者たちは司祭の結婚を、不 法ではあるが、有効として取り扱い続けてき た。この見解に従えば司祭は結婚するのを許 されてはいなかったが、そうではあってもも し結婚したならば、その結婚は法によって拘 束力のあるものとされた。1123年第一回ラテ ラノ公会議はこの政策を変更した。聖職の三 つの上級職(司祭職、助祭職、副助祭職)に 就いている者には結婚は不可能であると公会 議は宣言した。上級品級の聖職者がもはや まったく結婚できず、もし結婚したとして も、その結びつきからは法的な地位と法の保 護が奪われたということをこれは意味してい た。公会議は同様に聖職者による内縁関係も 禁じた。地方の教会会議はこれに続く数年の 間にこの禁令を強化した。第二ラテラノ公会 議は1139年に聖職者の結婚と内縁関係に対す る攻撃を再開した。この公会議は司祭の結婚 は解消されるべきであり、結婚していた司祭 もその別れた妻も双方とも贖罪を果たさねば ならず、それに抵抗する者からは聖職者とし ての地位と聖職禄が剥奪されるべきだと命じ 源泉は肉欲だと改革者たちは主張した。肉欲 がなかったら、性行為もないだろう。という のも両者は分かち得ないものだからだ。  結婚生活を送っているとき、妻帯聖職者は すすり泣く子どもたちの悪臭と泣き声のただ なかにあり、にたにた笑うみだらな妻に寄り 添われているとまで、ペトルス・ダミアニは 主張する。このようにして不浄なる思考、言 葉、行為へと日々誘惑されて悪魔に取り付か れ、その結果、自分の高貴なる仕事を裏切り、 その聖なる尊厳を汚すことになる。このよう な聖職者の結婚に対する嫌悪がグレゴリウス 改革のプロパガンダの中心的テーマとなった のだ。  主として経済的なものであるが、実利的な 配慮も非婚の聖職者を後押しした。既婚の聖 職者たちは生活維持のために教会の金を使っ ていると改革者たちは断言した。すなわち結 婚していた聖職者たちは泣き喚いている赤ん 坊やだらしのない妻のために食料、衣服、住 居を整えてやらねばならず、それによって教 会の財産は神への奉仕のためではなく、既婚 聖職者の妻や子どもの気まぐれに応じること で無駄に使われてしまう。さらに悪いことに は、既婚司祭、司教、その他の人たちはその 教会の職を家族の私有財産として取り扱い、 その聖なる財産を家族の遺産に変えたいとい う誘惑にかられると改革者たちは主張したの だ。ブランディジによれば、この最後の非難 は実情に近く、この事態は11世紀のヨ-ロッ パのうちいくつかの地域ではほとんど標準的 であったし、何世紀もの間、普通に見られて いたという。13  既婚聖職者、さらにはその妻や子どもに対 するキャンペーンは教皇グレゴリウス7世の 教皇在位中に激しさを増した。1074年の四旬

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― 71 ― 司教のジャンは、配下の聖職者に妻を捨てる ように命じたとき、憤慨した聖職者たちに よって石を投げられたという。一方北イタリ アの司教の中には自分の生命のことを考えて、 あえて独身教令を公にしなかった者もいた。  抗議は直接の攻撃、示威運動、暴動に限ら なかった。イモラ司教のウルリクは教皇ニコ ラス2世に聖職者独身強制に対する雄弁な抗 議を提出し、この政策を神意にそぐわず、教 会法に違反し、不正であると非難した。ヨー クの逸名著作家も同様に結婚する聖職者の権 利を精力的に擁護し、自然の正義も教会法も 司祭の息子たちに法の完全な保護と嫡出子と してのすべての権利を与えるべしと要求し た。ヘルスフェルトのランベルトゥスは改革 派の独身強制を狂気の沙汰と非難し、聖書に もそむくと付け加えた。独身強制に対するそ の他の批判者であり反対者である人の中には、 ウェールズのジェラルド、チョバムのトマス などが含まれていた。しかしこれら学識ある 人々は改革派の決定に打ち勝つことができな かった。独身に対する批判は効果的で首尾一 貫した反対集団を組織することができなかっ たし、逆にこの独身強制の唱導者たちはすで に教会の主要な管理的地位に就き、教会の支 配権を確保していたからである。  教会法はかなり前から聖職者による姦淫を 罰しており、改革期の教会法集成は聖職者に よる婚姻外の性行為に関して既存の規則にほ とんど新しいものを付け加えることはなかっ たのであるが、聖職者の結婚が禁止されたこ とと内縁関係が禁止されたことで、聖職者に よる性行為のすべてが姦淫と見なされること になった。聖職者はもはや法的には結婚でき なかったので、彼らには合法的な性的はけ口 がなくなった。彼らによるあらゆる種類の性 た。さらにこの公会議は教皇ニコラス2世の 政策を採用し、既婚聖職者あるいは内妻と同 棲している者によって執り行われるミサある いはその他の礼拝に出席することを平信徒に 禁じた。  このようにして1123年と1139年のラテラノ 教令は聖職者の結婚を法的に許容される制度 から教会法上の犯罪へと変えた。上級品級を もつ聖職者による性関係は自分の妻とであろ うとそうでなかろうと、そのとき以後は姦淫 と位置づけられ、司祭やその他の聖職者と結 婚していた女性はせいぜいよくて内妻の地位 へと落とされたり、あるいは娼婦として扱わ れることになった。既婚聖職者の子どもたち はもっと悲惨であった。ラテラノ教令は地方 教会会議の補足的立法によって強化され、こ うした子どもたちからは嫡出子としての身分 が剥奪された。以後彼らは自分たちが聖職者 身分になる資格なしとされ、結婚する資格す らないものとされた。  12世紀初頭のラテラノ教令は決定的に法を 変えたが、社会の現実を変えることはそれほ ど易しいことではなかった。聖職身分の多く はショックを受け、こうした変化に恨みを抱 いた。というのもこの変化は彼らの家族と何 世紀も続いてきたシステムを脅かしたからで ある。聖職者身分のほとんどは当時まったく 普通に結婚していたし、多くはその聖職者の 身分と地位を子どもに伝えていた。改革の強 制に対する聖職者身分の反応は激しいもので、 しばしば暴力的であった。パリ司教が配下の 司祭たちに妻と子どもを捨てなければならな いと申し渡したとき、彼らは司教をあざけり 打ち据え、教会から追い出した。司教は怒り 狂った聖職者たちを避けるために国王のもと に避難しなければならなかった。ルーアン大

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― 72 ― ただしエマスキュリニティは両性によって達 せられるべきものというのではなかった。男 のみがそのような地位に達したのだ。16  従来の聖職者が持っていた男らしさという 理想を捨てよという要求がグレゴリウス改革 でなされ、彼らはエマスキュリニティをもつ ようになるが、この結果、キリストに対する 態度が変化したとスワンソンは言う。すなわ ち勝利の十字架から謙譲の十字架へと変わっ たのだ。単純化していうと、従来一般的であっ た戦いを通しての男らしさの称揚の拒否がキ リスト像を変化させたのだ。ただしこの点を 証明するための手続きが省略されているので、 そういう見方もあるという程度にとどめてお きたい。  さて、もう一度問題を振り返ろう。聖職者 は男らしさを拒否してそれまでのジェンダー 秩序を打ちこわし、スワンソンの言うように、 エマスキュリニティとして第三のジェンダー を構築しようとしたのであろうか。スワンソ ンの主張にいましばらく付き合うことにしよ う。  結婚を拒否することによって、女との関係 の中で構築されていた男としてのアイデン ティティは消失することになるが、彼らはこ のようなことに関して、どのように考えてい たのか、そもそも聖職者は男らしさという点 に対して無関心であったのか、それともこだ わっていたのか。この疑問は教会改革者の 理想がpaupertasであったことと密接にかか わっている。paupertasとは日本語に訳して しまうと貧困であるが、意味しているのはそ れだけではない。むしろ無力さとでも訳すべ きものである。そしてこの改革運動によって、 聖職者は在俗であろうと修道院におろうと自 らを無力なる人々(pauperes)の中に置き始 的結びつきはそれがいかに安定的で永続的な ものであろうとも罪であり、教会法上の犯罪 となった。したがって聖職者の結婚と内縁関 係に関する改革立法は教会裁判所の刑法裁判 権の範囲を大きく拡大し、女と戯れる聖職者 すべてを刑事罰の脅威に服せしめた。  かくなる状況で、聖職者は自分の男らしさ をどのように再定義しなければならなかった のか。それを次に見ておくことにする。 ₃ 聖職者の男らしさ  もう一度聖職者の男らしさに戻ることにす る。聖職者は男らしさを拒否しようとしたの か、あるいはそもそもそのようなジェンダー 役割には無関心であったのか。  スワンソンは次のように言う。もし男らし さが、女を孕ませ、女を男に従属するものと して保護し、一家の大黒柱になることという 三重の行動によって定義されるなら、世俗世 界に属していない独身者としての中世の聖職 者は男らしくはないということになる。14 は聖職者の男らしさについてはどう考えれば いいのか。  まず我々は常に単純化の誘惑にさらされて いることを考慮するべきだとスワンソンは言 う。セックスとジェンダーを等価なものと思 いたいという誘惑、そしてふたつしかセック スがないところでは、ジェンダーもふたつし かありえないと仮定したいという誘惑であ る。しかし現実はそれほど単純なものではな い。その複雑さに対応するため彼は第三の ジェンダーを仮定する。エマスキュリニティ emasculinityなるジェンダーである。そして すべての聖職者(修道士ならびに副助祭以上 の在俗聖職者のすべて)はジェンダー横断的 な行動に従事していたと考えるのである。15

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― 73 ―  裁判記録を二点紹介する。  1397年ヨーク大聖堂の大聖堂礼拝役員で あったワットンのトマスが逮捕された。三人 の女性との姦通の故であったが、その取調べ 調書の中に、彼が酒屋でしゃべったという下 品な話の数々が登場する。そのひとつでは、 彼はある女性(名前不詳)と一日のうちに15 回もことに及んだということであるし、また 別の話では、リポンの町で7人もの乙女から 処女を奪ったということであった。22 ジェン ダー・アイデンティティが8歳までに形成さ れるとするなら、23 彼の男らしさが俗人のそ れとまったく同じであっても不思議ではない。  もうひとつの記録は、1421年のものである。 この年、助祭のリチャード・カークビと礼拝 堂付司祭のウィリアム・ワイヴァルがヨーク の街中で戦闘用の手斧を持ち、頭には戦闘用 のヘルメットをかぶっていたとして逮捕され た。いかなる理由があったかは問題ではなく、 彼らにはこの姿が祭に行くのに、ということ は、人目を惹くのにうってつけだと思えてい た点が重要である。24つまりこの姿が彼らに とっては男らしかったのである。  もちろん以上の二例は聖職者が己に課せら れたカノンを逸脱した例であり、彼らはいわ ば聖職者の落ちこぼれの人たちであった。だ から彼らは真の聖職者のジェンダー・アイデ ンティティを身につけるのに失敗した人たち であったと結論することが可能なのだろうか。 俗人のジェンダー・アイデンティティとは別 の聖職者のジェンダー・アイデンティティが 果たして存在するのであろうか。それとも聖 職者は単に己のジェンダー・アイデンティ ティを抑圧しているだけであったのだろうか。 次にこの点について考えてみたい。  男らしさは女との関係で作られる。女が存 めた点が見逃されてはならない。17 この無力 なる状態ははもちろんまさにそれまでは女た ちが置かれていた状況だったのである。こう した変化は自覚されており、12世紀に新たに 修道院に入る者たちは俗界での男らしさを拒 絶することを求められたという。具体的には 修道院に入った者は馬を捨て、ラバに乗るよ う求められたのだ。18 このように第三のジェ ンダーが要請されたのだが、しかし肉体的に は彼らはオスのままであり、多くの聖職者は 心の中では男のままであり続けていた。ここ にエマスキュリニティの弱さがあった。この エマスキュリニティがもろくてすぐに壊れそ うだという恐れに対する反応として、聖職者 の女性嫌悪の辛らつさが見られるとスワンソ ンは言う。19 そしてこのような聖職者による ジェンダー改変は男と女によって構築されて いる既存の家族関係を脅かすことになる。中 世後期に激しくなる反聖職者意識の根がここ にあるともスワンソンは言う。20  エマスキュリニティがもろいから聖職者の 女嫌いが強化され、さらには彼らが新たな ジェンダーを構築したから反教会意識が生じ ているというこのスワンソンの主張には説得 力があるとは思えないが、スワンソンの第三 のジェンダー論が、その射程として中世末期 の反教会運動をも取り込もうとしているとこ ろは、発想の点ではおもしろい。しかし実際 のところ聖職者による主観的な脱マスキュリ ニティ志向は果たして当時の聖職者の意識の 中に存在したのであろうか。スワンソンは言 い訳のごとく、男性性にのみふたつの種類が あるというが21、では本当に聖職者の男らし さは一般俗人の男らしさとは異なるもので あったのだろうか。次にこの点について考え てみることにする。

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― 74 ― を汝に託す」という文言が現れてくる。27 教と教会の結婚がここに暗示的に示されてい る。指輪はもちろん結婚指輪なのである。ど うしてこのような観念が発生したのか。  中世初期以来、旧約聖書中の『雅歌』の解 釈は大きな問題を投げかけてきた。28 あまり にも官能的であるため、肉欲の肯定へとつな がりやすいと考えられたからである。肉欲を 否定する教会はこの『雅歌』を内に取り込み ながら、それから肉欲の熱を取り去らねばな らなかった。こうした努力が教会と神=キリ ストの間の結びつきを『雅歌』が示している というアレゴリーの発生を促した。29 ここに 教会とキリストの結婚というモチーフが登場 する。  さて、もうひとつの流れがある。司教と教 区が一度結びついたら、それはもう切れない という観念の発生である。司教は叙任に際し て指輪を与えられるが、この指輪の授受に よって司教と教区が結びつき、その結果、司 教はその教区から他の教区へは移されないと いう観念が強化された。30 このふたつの流れ が結びついたとき、司教と教会の結婚という 観念が発生した。ペトルス・ダミアニがある 司教に宛てて書いた書簡には次のような文言 がある。  さらにあなたは夫であり、あなたの教会の 配偶者であり、それはあなたの指輪とあなた の命令の杖によって象徴されているので、洗 礼のサクラメントによって教会の中に生まれ る者すべては、あなたの子どもとしてあなた に属するものでなければならない。31  こうした観念を発生させるための契機と なったのが11世紀における教会改革の流れで 在しないところでは男らしさは存在しない。 男と女との関係を根源的なところで規定する のは性関係である。男からすれば子どもを孕 ますことであり、それを社会的に認知しても らうための前提として結婚という制度がある。 結婚できず、父になれないということは一般 的な意味での男らしさを捨て去ることを意味 していると理解することによって、エマス キュリニティが存在するという主張が登場し た。しかし聖職者が従来通り結婚して父にな るという行動の価値観をそのまま踏襲し、そ れを拡大しつつ、自らにもそれが可能である と主張したら、どうなるであろうか。本来の 意味での男は自分たちであるという主張につ ながらないであろうか。  このように言ってもおそらく意味が理解で きないであろうから、以下、具体的に論じて みることにする。  結婚には二種類あり、ひとつの結婚がもう ひとつの結婚を概念的には含みこんでいて、 その大いなる結婚は聖職者にのみ可能である が、小なる結婚は俗人にのみ割り当てられて いたと考えてみれば、どうだろうか。小なる 結婚を拒否しても、大いなる結婚を行いうる 聖職者はもちろん男らしさを拒否する必要な どないのだ。さて、この仮定はまったくの絵 空事なのだろうか。  フランスやスペインの司教はその公的な装 いの一部として指輪をつけるのが長い間慣習 となっていたという。25 この指輪が何を意味 していたのかという点について、すでにラン スのヒンクマールが、この指輪がある種の結 婚あるいは婚約指輪と同じものではないかと 示唆している。26 900年ごろには「この信仰の 指輪をもちて我々は汝が教会を清くかつ汚れ なく保つべく、キリストの花嫁たるこの教会

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― 75 ― このような考え方に猛然と反対した。改革派 のイデオローグたるペトルス・ダミアニの声 を聞いてみる。  もし彼ら[性交理論の擁護者たち]が結婚 が性交に基づくなどと主張するなら、それな ら公的な結婚式なしに結婚へと結び付けられ るのを聖なる教会が人々に禁じているのは、 どうしてだ。彼らはみんなの見ているところ で、妻と性交させたいのか。実際、結婚が性 交によってなされるというならば、自分の妻 と愛し合うたびに明らかに彼らは何度も結婚 することになるではないか。37  では、ダミアニによればどうすれば結婚が 完成するというのか。彼は、同意こそが結婚 形式の中心でなければならないと主張したの だ。これだと聖職者も結婚できることになる。 この同意論を発展させたのはシャルトルのイ ヴォであったが、そのもとはレオ1世の書簡 である。レオの書簡によると、男女が床入り して和合を完成させたかどうかにかかわりな く、結婚は彼らの間で成立している。という のは床入りされていない結婚ですら、キリス トと教会の間の紐帯を完全にシンボライズし ているからだとされている。この考え方を土 台としつつ、イヴォは男女間の同意を結婚形 式の中心においたのだった。  さて中世において結婚は主として子どもを もうけるためであった。男の側からいえば、 父親になることこそが男らしさの証明なので あった。それゆえいかに教会と結婚している というフィクションを現実のものだと主張し ても、子どもを生めず、父親になれなければ、 この男らしさも中途半端なものとならざるを 得ない。次にこの父親をめぐる問題をペトル ある。32 司教に結婚を禁じる教会改革のもと で、司教の男らしさを守るためには、この観 念は誠に好都合であったので、たちまち教会 全体に広がった。  このようにもともとはキリストと教会の結 婚という観念があり、司教はキリストの場を 埋めるものとして、司教と教会の結婚という 観念が発生したということを、アウクトル・ ガッリクスが明確に「教会はキリストの花嫁 だ。司教たちはキリストの場を埋める」33 書いて示してくれている。ペトルス・ダミア ニは正当に結婚していた司教の妻を売春婦と 呼んだが、ダミアニの頭の中では、司教がす でに教会と結婚していたのだという観念が あったからこそ司教の妻をこう呼んだのだ。34  結婚を否定する教会改革派は結婚そのもの を否定したのではない。司教はレベルの低 い結婚をするのではなく、レベルの高い結婚を するべきであると主張したのだ。このレベル の高い結婚こそが教会との結婚なのであった。 こうして叙任権闘争の過程で、婚礼を象徴する 指輪を用いての叙任という観念が広がった。35 そして改革者的な意識を持った11、12世紀初 頭の著作家たちが、司教同様、司祭も教会と 結婚するという主張に踏み込んだ。36  聖職者が教会と結婚できるというフィク ション──彼らにはもちろんそれはフィク ションなどではなかったが──を妨げる難題 がひとつ残っていた。それは何が結婚を完成 させるかという点に関してである。ランスの ヒンクマール以来、結婚を完成させるのは床 入りconsummationだという考え方が、教会 の中でも大きな力を持っていた。しかしこの 性交を重視する考え方だと、聖職者は大いな る結婚にはかかわれないことになる。これで は困るのである。こうして改革派の人たちは

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― 76 ―  もし教区付司祭がかつて一度であってもそ の贖罪を聞いたことがある女と過ちを犯した ならば、彼が教会会議の命令によって降格さ せられるに値することは誰しも疑わないだろ う。そして彼がかつてその贖罪を聴くか、あ るいは告解者としてそのもとに赴いたその司 祭もしくは上級品級の聖職者と過ちを犯した ならば、彼からその身分に付けられた聖職禄 が取り去られるのは正義にかなっていないだ ろうか。というのは彼を「贖罪による息子」 と呼ぶのは、我々が「洗礼による息子」とい うのと同じ表現だからだ。39  この書簡は、同性愛の禁止を訴えているの だが、司教だけではなく、司祭も洗礼によっ て父になることができたことを読みとるのは 難しくない。このように結婚を否定する改革 派の流れの中にいたペトルスが、聖職者が父 としてのアイデンティティをもっていること を繰り返し語っていることは、聖職者が男ら しさを再構築する必要性に迫られていたこと、 そしてそれを肉ではなく、霊の問題として解 こうと考えていたことを意味する。  この男らしさは、肉と霊の違いはあるとは いうものの、通常の男らしさという思考の枠 組みから出てくるものであり、通常の男らし さを聖職者が拒否していたのではないという ことは言葉遣いからも明白にうかがえる。  viriliterというラテン語がある。「男らしく」 という副詞である。モーリーン・C. ミラー によるとこの言葉はもちろん中世初期の教皇 たちもよく使用したが、中世初期において多 かったのは信仰心の篤い俗人が教会のために 行動してくれたときに使用される場合であっ た。ところが改革期になると教会が使用する viriliterの回数が目に見えて増大し、しかも ス・ダミアニの書簡を通して考えてみたい。  ペトルスがニコラス2世に宛てて書いた書 簡に次のような文言がある。  明らかにもし父親が近親相姦の相手として 自分の娘を誘惑するならば、彼は即座に破門 され、聖体拝領を禁じられ、投獄されるか追 放されるかでしょう。あなたが肉における娘 とともに──それだけでも十分に悪いことな のですが──ではなく、むしろ霊における娘 とともに滅びるという恐怖をもっていないの を見ると、それゆえあなたの堕落はどれほど ひどいものでしょうか。教会のすべてのこど もたちは明らかにあなたの子どもたちなので す。そしてこれまた明白なことですが、霊的 に子どもを生むことは肉体的に父親になるよ りももっと偉大なことなのです。38  ここであなたというのは、司教のことを指 している。要するに、司教たちが洗礼を施す ことによって、自分の子どもをもうけるとい う考え方であり、そのようにしてもうけられ た子どもの父親はまさに洗礼を施し、出生さ せた自分たち司教なのだというわけである。 実の娘との近親相姦と比較しているのは、こ の父親になるというのが、単に象徴的なもの ではなく、まさに事実なのだということをこ こで強調したいのであろう。  先に記しておいたペトルスの書簡で、「洗礼 のサクラメントによって教会の中に生まれる 者すべてはあなたの子どもとしてあなたに属 する」と書かれていたことも思い出しておく べきである。  父親になるのは司教だけではない。教皇レ オ9世に宛てた書簡で、彼はこのようにも 言っている。

(12)

― 77 ―

1 http://en.wikipedia.org/wiki/Masculinity(2007年 9月18日)

2 Ruth Mazo Karras, From Boys to Men. Formations

of Masculinity in Late Medieval Europe, University

of Pennsylvania, 2003.

3 Ruth Mazo Karras, Sexuality in Medieval Europe.

Doing unto Others, Routledge, 2005, p.3

4 R.N. Swanson, “Angels Incarnate : Clergy and Masculinity from Gregorian Reform to Reformation”, in

Masculinity in Medieval Europe, ed. by D.M. Hadley,

Longman, 1999, p.168.

5 The Catholic Encyclopedia, ISDN.0-9743644-0-1 6 兼岩正夫、臺幸夫訳注『トゥールのグレゴリウ ス 歴史十巻 Ⅰ』(東海大学出版会 昭和50年) 113頁。 7 同書、173頁。 8 同書、397頁。 9 兼岩正夫、臺幸夫訳注『トゥールのグレゴリウ ス 歴史十巻 Ⅱ』(東海大学出版会 昭和51年) 53頁。 10 一例を記すと、たとえばクレルモンの第8代目 の司教であった聖ナマティウスは妻を持っていた し(2-17、Ⅰ:125頁。以下、頁数は『歴史十 巻』の頁数)、ブルグントの司教、聖シドニウス も妻を有していた。(2-22、Ⅰ:131頁)第4巻 36(Ⅰ:317頁)には、リヨンの司教プリスクスに ついて「ニケティウスの後を継いだ司教プリスク スは、妻スサンナとともに、神の人と親しい関係 にあった人々の多くを追跡し殺し始めた」という 記事が見えるし、サロニウスとサギッタリウスと いう二人の司教は「ムンマルスがランゴバルト族 に対しておこなったかの戦闘において、俗人のよ うに武装して、たくさんの人々を自分自身の手で 殺した」(5-20、Ⅰ:425頁)と書かれている。 11 実は男らしさの問題は、聖職者だけに限らな い。まさにこの時期に男全体にアイデンティティ の危機が襲ってきたことをジョー・アン・マクナ マラが論証した。彼女の研究が中世のマスキュリ ニティ研究を方向づけたのは確かである。Jo Ann McNamara, “The Herrenfrage : The Restructuring

それが聖職者の行動を述べるために使われる ようになったという。40 たとえばウルバヌス 2世はドイツの司教団に対する1088年の書簡 において、「男らしく」教会を守り、仕えるよ うにという具合に、この言葉を5度も使用し ているのである。41 つまりウルバヌスの要請 は、司教たちが男らしさを拒否するのではな く、まさに男らしく行動せよというのである。 こうして彼らは男らしく戦ったのだ。改革期 以前の聖職者たちは手に武器をとって戦った であろうが、教会はこれも禁止する。やがて 「司教の武器は祈りと涙」42 などといわれるよ うになる。彼らは祈りを武器として戦いに赴 くことになるのだ。 おわりに  見てきたとおり、11世紀以後の聖職者は新 しいジェンダー意識を構築したのではないし、 構築しようとも考えなかった。当時のマス キュリニティ概念をそのまま踏襲し、その拡 大解釈の中で、自分たちのアイデンティティ を確保しようとしたのだ。彼らは決して自分 たちが従来のマスキュリニティとは異なるマ スキュリニティを構築しようなどと考えたこ とはなかっただろうし、彼らにとってその必 要すらなかった。彼らは立派に結婚すること ができ、父親になり、そして武器をとって戦 いに赴くことができたのであるから。彼らの 敵は、通常の人間ではなく、たいていの場合 は悪魔であり、騎士たちの戦いよりも困難な 戦いであると意識されており、それゆえ、自 分たちは騎士たちよりも男らしいと自己規定 することができたのである。

(13)

― 78 ―

 (新共同訳聖書による)

29 この点については、E. Ann Matter, The Voice of

My Beloved. The Song of Songs in Western Medieval Christianity, University of Pennsylvania Press, 1990,

pp.86-122.

30 Jean Gaudemet, “Note sur le symbolisme médiéval. Le marriage de l’évêque”, in La société ecclésiastique

dans l’Occident médiéval, Variorum Reprint, 1980,

p.73.

31 The Fathers of the Church. vol.3, Peter Damian.

Letters 61-90, tr. by Owen J. Blum, O.F.M., The Catholic

University of America Press, 1992, p.10.(Letter 61) 32 Mclaughlin, op.cit., p.215.

33 Mclaughlin, op.cit.,p.214. 34 Mclaughlin, op.cit.,p.222. 35 McLaughlin, op.cit., p.217. 36 McLaughlin, op.cit.,p.219.

37 Petrus Damiani, De tempore celebrandi nuptias 1, in PL 145, col660f.

38 Damian, Letter 61 (p.10).

39 The Fathers of the Church. vol.2, Peter Damian.

Letters 31-60, tr. by Owen J. Blum, O.F.M., The

Catholic University of America Press, 1990, p.19(Letter 31).

40 Maureen C. Miller, “Masculinity, Reform, and Clerical Culture : Narratives of Episcopal Holiness in the Gregorian Era”, in Church History, 72-1(2003), p.28. 41 Ibid., p.28, note 8.

42 Swanson, op.cit., p.168. of the Gender System, 1050-1150”, in Medieval

Masculinities. Regarding Men in the Middle Ages, ed. by Clare A. Lees, University of Minnesota

Press, 1994.

12 以下の叙述は、James A. Brundage, Law, Sex, and

Christian Society in Medieval Europe, The University

of Chicago Press, 1987, pp.214-23. に依拠した。 13 Ibid., p.215.

14 Swanson,op.cit., p.160. 15 Swanson,op.cit., p.161. 16 Swanson, op.cit., p.163.

17 R.I.Moore, The Formation of a Persecuting Society, Basil Blackwell, 1987, pp.102f.

18 Swanson, op.cit., p.168. 19 Swanson, op.cit.,p.166. 20 Swanson, op.cit., p.167. 21 Swanson, op.cit., p.176.

22 P.H.Cullum, “Clergy, Masculinity and Transgression in Late Medieval England”, in Masculinity in Medieval

Europe, ed. by D.M.Hadley, Longman, 1990, p.187.

23 Cullum, op.cit.,p.179. 24 Cullum, op.cit.,p.189.

25 Megan McLaughlin, “The Bishop as Bridegroom : Marital Imagery and Clerical Celibacy in the Eleventh and Early Twelfth Centuries”, in Medieval Purity and

Piety. Essays on Medieval Clerical Celibacy and Religious Reform, ed. by Michael Frassetto, Garland

Publishing, Inc.,1998, p.210. 26 McLaughlin, op.cit.,p.211. 27 McLaughlin, op.cit.,p.211. 28 『雅歌』は次のように始まる。  ソロモンの雅歌。  どうかあの方が、その口のくちづけをもって  わたしにくちづけしてくださるように。  ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く  あなたの香油、流れるその香油のように  あなたの名はかぐわしい。  おとめたちはあなたを慕っています。  お誘いください、私を。  急ぎましょう、王様  私をお部屋に伴ってください。

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