ボルドー地方の事例をつうじた原産地呼称制度前史
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著者
野村 啓介
雑誌名
国際文化研究科論集
巻
24
ページ
57-71
発行年
2016-12-20
URL
http://hdl.handle.net/10097/00120979
野 村 啓 介
はじめに
1935 年 7 月 30 日の法律デクレによって、ワイン生産の管理・統制を特徴とする AOC(原産 地統制呼称 Appellation d'Origine controlée)体制と、その管理運営組織である現 INAO(Institut national de l'origine et de la qualité)設立などが定められた。現在につづく AOC 法の誕生である。 その厳格な生産管理を基本とする呼称統制は、現代ではワインのみならず他の農産物へも拡大し つつある1。 この AOC 法体制の成立をめぐって、依然として基本的通史でありつづけるラシヴェは、19 世 紀末から 1907 年までの時期についてワイン製造における詐欺を是正する局面として、そののち 1927 年までの時期を原産地呼称に関する法制化の局面としてとらえ、1880 年代以降の諸法制を 綜合するものとして 1935 年 7 月 30 日法が制定されるにいたったとする基本的図式を示した2。 ラシヴェ以降も、この線にそう理解を軸として論じられるのが一般的である。この図式の背景に は、〈葡萄栽培 = ワイン生産者〉〔地主階級を意味することも多い〕と〈商人 = ワイン生産者〉の 利害対立、換言すればその生産物たる前者の「自然ワイン」と後者の「人工ワイン」のあいだの 対立が展開し、1935 年にいたって前者の勝利に帰するという歴史像が横たわる3。 たしかに一般的理解としてはそれでよいのかもしれないが、それによりあたかも歴史の説明が 完結するかのような錯覚があたえられてしまうこともまた事実である。では、地域的事情の差異 を勘案したとしても、上にみた二項対立の図式は十分に通用しうるのだろうか、あるいは先行す る歴史的経験を視野にいれる余地はないのだろうか4。筆者のとりくむボルドー地域史の立場か らみると、上のワイン関連諸法制が考察されるのは一般に全国的動向を鳥瞰的にみすえてのこと であり、地域の個別的事情はよほどインパクトがないかぎり、立法化プロセスに関する分析のな かで看過される傾向をもつ。たとえば、とくに南仏など世紀末から世紀初頭にかけて時の政府の ワイン政策に抗する運動が激化した地域が注目されることはあっても、そうではない地域の動向 は視界にはいらず、多様な地域的特性が一般化のなかで埋没しがちであった。 ところで筆者は、別稿においてボルドー地方における「クリュ概念」の史的展開に着目し、そ の商人論理の思想構造とその展開を論じた5。この角度から従来の研究史を眺めると、いくつか の欠落に気づく。第一に、ラシヴェが示したワイン製造上の詐欺抑圧と原産地呼称という二つの 異なる論理は、そもそもいかなる論理的解決により AOC 法へといたったのかという側面。第二に、 AOC 法体制の成立がもっぱら葡萄栽培業者と商人の社会的・経済的対立に還元されて論じられ るため、ワインづくりの方法そのものをめぐる思想対立に関する検討が背景に追いやられたこと である〔ここで「ワインづくり」とは、葡萄栽培から販売にいたる過程全体を視野においており、 すぐれて工業生産にみる「製造」とは区別しておく〕。以上の結果として、AOC 法体制の理解に おいて、商人論理の排除という側面が重視され、商人ワインを「詐欺(ないし偽造)fraude」な
近代フランスにおけるワインづくりと商人論理
―ボルドー地方の事例をつうじた原産地呼称制前史―
どとみなす傾向〔それはもはや一定のイデオロギー的偏向ともいいうる〕が強化されることにな る。もともと 18 世紀から 19 世紀にかけてのワインづくりに関する史的研究をおこなってきた筆 者の目には、これが解消すべき研究史的空白であるように映ずる。 この問題意識は、すぐさま第三の疑問へとつながる。すなわち、AOC 法体制下のワインづく りが過去との断絶によって成立したのか、という疑問である。これに関連して、フリュテは、葡 萄栽培をとりまく自然環境とワイン生産者固有の実践とのあいだにみられる相互連関の観念が内 包されることを AOC 法の特徴として指摘した6。これを敷衍すれば、ワイン生産者である葡萄 栽培業者と商人は、自然との関係においてけっして対立的関係におかれるとはかぎらない。この ことは、既述の〈地主 対 商人〉図式を相対化しうる可能性を示唆し、上の二点とも通底する問 題意識を提供する。いいかえればそれは、まさに自然との対峙のありかたに基礎をおくところの ワインづくりにおける思想的対立ともいいうる側面を表現し、それゆえにこそワイン製造の問題 と、ひいては原産地の問題とリンクしうる。 そこで本稿が課題として設定するのは、第二帝制期までのワインづくりの思想がその後いかな る経緯をへて AOC 法に流れこんだかという問題であり、その中心にはワインづくりと原産地呼 称の論理的接合化への思想的展開を追跡するという作業が位置づけられる。この課題はすなわち、 商人によるワインづくりそのものを考察対象とすることでもある。なぜなら、当該期のワイン づくりはすぐれて商人的実践だったからである7。もちろんこれには多岐にわたる分析対象が考 えられるが、さしあたり本稿では、まず商人的ワインづくりの主要側面をふまえたうえで、1850 年代に沸騰したワインづくりをめぐる世論動向を追う。次に、ボルドー地方の事例を勘案しつつ、 19 世紀的経験の歴史的連続と断絶の諸相を浮かびあがらせ、AOC 法体制の歴史的特質を展望す ることにしたい。ここで、19 世紀半ばに始点をとるのは、第二帝制期が葡萄栽培の危機局面に あったと同時に、ワイン業「繁栄」時代の幕開けであったとも考えられるからである8。そのの ち 1875 年ころまで、ワイン生産は上昇傾向をつづける9。それゆえ 19 世紀半ばのこの時期にワ インづくりをめぐるさまざまな議論が噴出したため、観察しやすいという利点がある。 使用する史料は、第 1 章については当時のワインづくりを知るうえで、シャプタル、コックス・ フェレ、ジュリアンといった同時代の代表的なワイン専門家による著作群が有益であった10。ま た、ボルドー商業界にかかわる史料としてはボルドーの商業エリートたる商業会議所の議事録、 および代表的な地方紙を活用した11。第 2 章以降では、関連法制について官報と法令公報で法令 テクストをピックアップし、必要に応じてその議会審議も参照した12。 1.商人のワインづくり 1.1 1855 年ころの状況 ―ワインづくりの技術とボルドー商業会議所の立場― 当時のワインづくりには葡萄栽培、醸造から小売の段階にいたるまで、伝統的にもちいられる 手法から化学的知見の深化に由来する技術にいたるまで、必要に応じてそのつどなんらかの加工 がなされた。このような加工を意味する語彙として、「ワインを洗練する sophistiquer le vin」と いう表現さえ使用された。本稿にもっとも深く関連するのは、主として醸造段階である13。 代表的な醸造手法をあげれば、収穫不足のばあい、後述の砂糖利用のほかに、収穫したての葡 萄果の代用として干し葡萄を利用するという手もあった。アルコール発酵の段階では、消費者の 嗜好にあわせて甘口にするために残糖分を多くしたいときには、アルコール発酵を途中で停止さ せるために二酸化硫黄がもちいられた14。また、葡萄果の糖分が過剰となり酸が不足するばあい、
石膏(plâtre)添加などによって補酸が、逆に過度の酸を柔和するためには酸化鉛(litharge)な どの利用によって除酸がおこなわれたりもした15。古ワイン対策としては、葡萄種子などをワイ ンにつけこむことによるタンニン添加(tannissage)が 19 世紀以降に多用されるようになった16。 さらには、ムイヤージュ(mouillage)という加水希釈(ワインに水を添加して薄める手法)も多 用されたが、それとは逆に、酒のアルコール濃度を増強するために、より簡便な手法としてヴィ ナージュと呼ばれるアルコール添加も多用された17。以上のとおり、ごく簡単にみただけでも、 ワインづくりのために少なからぬ操作がくわえられたことがわかる18。 ワインづくりの過程において適用されるさまざまな手法のうち、本稿ともっとも密接なかかわ りをもつのは砂糖の利用であり、とりわけ補糖(シャプタリザシオン)の技術である。考案者 シャプタルの構想は、未熟な葡萄果の醪(マスト)に加糖することによって十分なアルコール分 を獲得するというものであり、そのための砂糖としては甘蔗糖のほかに甜菜糖の利用も考案され た19。補糖の実践例としては、たとえばヴェルニェット = ラモット伯が 1846 年に報告したとこ ろによれば、アルコール度数を 1°上昇させるために、1 ピエス[筆者注:1 pièce = 228ℓ]あた り 3.24kg の砂糖が使用されたことが知られる20。ボルドーにおいては甘蔗糖が好まれ、甜菜糖 2 ㎏と同量のアルコールを生成させるのには甘蔗糖 1㎏で十分であるが、補糖はもっぱらアルコー ル度数の低い並級ワインに利用されるとの証言も残る21。いずれにせよ、ボルドー地方やブルゴー ニュ地方など上質ワイン産地として知られる地域においても、補糖はふつうに実践される手法 だったのである。 こうしたワインづくりのさまざまな手法は、ボルドー商業界のエリートたるボルドー商業会議 所においてもその多くが既定路線として認識されていたとみられる。そのことは、1851 年ころ からジロンド県内の葡萄畑に蔓延しはじめたウドンコ病(oïdium)が、年々その被害を拡大し、 葡萄果不足を招来していた時期に明瞭に観察される22。会議所で多く議題とされたのは、砂糖を めぐる問題である。たとえば、アルコール製造用の植民地産砂糖を無税化すべきとして、農商公 事業大臣に対してより明確な表現で要望が伝えられた。まず葡萄と砂糖の関係について、「ワイ ン由来のトロワ・シス[筆者注:蒸留酒]が、わが国の葡萄畑を襲った一連の病害によって、ほ とんど完全に不足している」ことを嘆き、他方で本国外産砂糖の利用については、「秀逸なトロ ワ・シスがわが市場にもたらされるならば、ワインの価格高騰が不幸にもうしなわせた重要性 を、わが国の蒸留酒輸出に対して強力に付与することに貢献する」として、フランス植民地のみ ならず外国植民地も含めた諸地域産の甘蔗糖の輸入促進と、それにもとづく酒造の推進が要求さ れた23。これと関連して、アルコール製造用の砂糖・糖蜜の輸入関税を廃止してほしいという要 望、輸入した砂糖のアルコール転化に対する認可を求める要望、さらには保税管理下の砂糖をア ルコール転化する認可の要望なども表明された24。ボルドー商業界がワインづくりとの密接な関 連のもとに砂糖需要に対応しようとしていたことは明らかであろう。この姿勢こそ、ボルドー商 業界が執拗なまでに砂糖関税改革(とりわけ 1860 年 5 月 23 日法のときなど)にこだわった有力 な理由のひとつを明確に示すものである。 砂糖のみならず外国産ワインの輸入自由化という要求もまた、ボルドー商業界におけるワイン づくりの一側面をよく表現する。というのも、複数のワインをブレンドする手法〔一般にクパー ジュ、ボルドーではアサンブラージュとも〕が、ボルドーにおけるワインづくりを特徴づけるか らである。『ソムリエ・マニュアル』の著者ジュリアンをはじめ、多くの同時代人による証言が 示すとおり、ボルドーで醸造されたワインは、主に南仏産やスペイン産などの酒質の濃厚なワイ
ンと混合されて出荷されることが一般的だった25。こうしたやりかたは、第三共和制期にボルドー でのワインづくりを観察したシモナンによっても報告される〔彼は、ブレンドされるものとして カオール産ワインにも言及する〕26。そのようにして商品化されたのは、異種のワイン等をブレ ンドするという前提でつくられた低価格帯ワインであって、会議所が言及していたように「労働 階級」などにむけた並級ワインであったと考えてよい。 その反面、会議所がアルコール度数の高い外国産ワインに対してムイヤージュをほどこすこと に猛反対したことは注目に値する27。この側面は、商人のワインづくりを考察するうえで非常に 興味深い。それは、ブレンドによるワインづくりを許容するのとは対照的であり、商業界におい て実践されるところの砂糖によるアルコール製造という商業利害とあわせて、ボルドーの商業利 害に密接な植民地砂糖輸入との強い関連のもとに実践されるという、商人によるワインづくりの ありかたを明瞭に表現するものにほかならない。 1.2 1860 年のインパクト ―「自然ワイン」と「人工ワイン」の対立的把握― 1860 年 1 月 23 日、イギリスとのあいだで秘密裏に通商条約が締結された。この条約締結は、 ナポレオン 3 世の経済改革大綱にもりこまれていた「禁輸体制の廃止」と「大国との通商条約締 結」を実行にうつしたもので、フランス産ワインの対英輸出に利した28。この状況に呼応して表 明されたのが、ワインの「質」をめぐるさまざまな言説である。 たとえば、1860 年 2 月から 4 月にかけて、『ジュルナル・ド・ボルドー』紙がワインの質の改 善を力説しつづけたことは、まさにそれにあたるだろう。同紙は、イギリス市場において、それ まで優勢でありつづける南アフリカ産、スペイン産、ポルトガル産のワインにとってかわるため には、ワインの質を維持し、改善する必要があるとの観点から次のようにいう。「とりわけ重要 なことは、信用をうしなわせる不快な混ぜもの(sophistication)を絶対にやめるということであ る。そのような問題についてイギリス人は、驚くべきことに即座に混ぜものの存在をみぬくこと が確実だからである。これから開放されていく(対英)諸関係において、液体のきわめて高い純 度が求められるということは、あらかじめよく得心しておかなければならない」29。『メモリアル・ ボルドレー』紙の助言もその線にそった論議であり、それがワイン生産者に対して警鐘を鳴らし たのは、当時のワインづくりにおいて「ワインが本来もつ芳香(アロマ)とアルコールそのもの」 が軽視されていると考えたからだった30。 とりわけ砂糖利用については、ブルゴーニュ地方においてすでに 1840 年代前半から過度の補 糖をめぐり批判の声があがっていた31。ボルドーについては、地元の専門誌 L’Oenophile が 1899 年にジロンド県も含めて全国に広がるシャプタリザシオンの実践について記事を掲載し、砂糖の 過剰使用による悪弊を指摘した32。「収穫がワインをつくる」と主張する同時代人ヴェルニェッ ト = ラモット伯の表現にしたがえば、補糖の実践とはすぐれて商業的な論理にすぎなかった33。 他方、砂糖のアルコール製造にかかわる事象としては、第二帝制期(1863 年)にマコン葡萄栽 培業協会(Société de viticulture de Mâcon)が南仏で一般化していたヴィナージュへの批判を指摘
することができる34。
以上にみる批判は、ごく一部の例示にすぎないが、ここには自然と人為の対立的把握がはっき り示されているといえる。ところで、すでに 19 世紀の早い段階から、ジュリアンはその二類型 をもちいて「自然ワイン vin naturel」と「人工ワイン vin artificiel」を区別することによりワイン
という次章にみる構図は、遅くとも 19 世紀前半期には出現していたそれをひきつぐものであっ たといえる。 この対立的側面は、「質」の問題に深く根ざすものと考えられる。いずれの主張も、純粋に葡 萄からつくりあげられるワインを重視し、このありかたから乖離する手法、つまり異質の液体を 混合したり、過度の化学的操作をくわえたりといったワインづくりを忌避する方向でなされた発 言である。ただしこうした論調は、葡萄果以外のあらゆる添加物にそのままあてはまるわけでは ない。たとえば砂糖利用についていえば、それにもとづくアルコール製造という当時の状況を批 判的にとらえる方向にあったことは疑いないが、それは砂糖の乱用を忌避するものでありこそす れ、その禁止をめざしたものではない。換言すれば、商業的論理に棹さす化学的操作を駆使する ワインづくりそのものが一刀両断に拒絶されたわけではないのである。 そこで問題となるのは、「質」と添加物の関係をめぐっていかなる論理が、「自然ワイン」と「人 工ワイン」それぞれの言説とどのように対応することになったのかということになろう。 2.ワインの「質 qualité」をめぐる法制的展開 2.1 「ワイン」名称に関する法的定義 ―「自然ワイン」と「人工ワイン」の法的対置― 「自然ワイン」と「人工ワイン」の対立的把握は、世紀末のフィロクセラによる葡萄栽培への 甚大な被害や経済的不況ともあいまってさらに深まっていく。 まず反「工業ワイン vins industriels」立法たる 1889 年 8 月 14 日法(通称「グリフ法」)は、「自 然ワイン」を自称して安価な「偽ワイン vins factices」を製造・販売し前者の生産者が損害をこ うむることを予防するため、「消費者とワイン生産者を同時に保護」する目的で制定された36。 これにより、「ワイン」の名称使用が許可されるのが「新鮮葡萄果の発酵」によってつくられる ものに制限され(グリフ法第 1 条)、砂糖や干し葡萄を利用したものが「ワイン」と名のもとに 販売されることを禁じた37。 ついで 1907 年 9 月 3 日デクレでは、新鮮葡萄原料の使用義務がさらに厳格化され、「新鮮葡 萄果ないし新鮮葡萄果汁の発酵にかぎる exclusivement de la fermentation du raisin frais ou du jus de
raisin frais」こととされた38。いいかえれば、それは「新鮮」つまり収穫直後の葡萄を使用すべき ことを明示したといえ、その対極におかれたのは当時ふつうに実践されていた干し葡萄の使用で あったと考えられる39。ところで、直前に成立した 1907 年 6 月 29 日法の第 4 条では「人工ワイン」 の表現が明示化され、禁じられた。ここで葡萄原料に着目すれば、「新鮮葡萄果」と「新鮮葡萄果汁」 の対極に干し葡萄が位置づけられたのであり、まさにこの後者こそが「人工ワイン」を象徴する 原料とみなされたわけである。さらに 1912 年 7 月 28 日法第 4 条は、「人工ワイン」製造者に対 する罰則を明記するにいたる40。 こうして、ワインづくりにおける過度の人為的操作は「人工ワイン」の名のもとに非難され、 これに対立する概念として「自然ワイン」が対置されたのである。それはいわばワインづくりに おけるイデオロギー対立の様相を呈したといえる。この対立は、グリフ法以降の立法に色濃く反 映することになったと考えられる。 2.2 ワイン偽造の法的要件―「質」確保のための添加物規制― 以上にみてきた「ワイン」定義の背景には、「人工ワイン」を「偽造」とみなす思想が多少な りとも内包されると考えられるのであるが、もともと 19 世紀にはすでに、食料品一般の「偽造
(ないし変造)falsification」にかかわる規制の法制備も同時にすすんでいた。ワインに関しても 偽造・変造に対する規制があり、「質を犠牲にして量を増加させる」目的でもって「葡萄果汁、 またはその派生物たるアルコール、葡萄シロップ、ワイン等とは無縁の物質」を混入し、販売す ることが規制されることになっていた。しかし、恣意的解釈・運用もあって死文化し、 1851 年か ら 1855 年をへて 1857 年にいたる食品関連立法によっても、この状況が根本的な変化をこうむる ことはなかった41。 グリフ法は、食品偽造の禁止を規定する 1851 年 3 月 27 日法および 1855 年 5 月 5 日法をワイ ンに適用したものであるが、後二者が「抑圧的ではあるが予防的ではない」との理由により、偽 造の抑止をより効果的におこなうことをめざした42。それゆえ、アルコール発酵ののちに添加さ れた場合に偽造とみなされる操作を、イチジク、イチゴマメ、大麦などの発酵・蒸溜物をくわ えたばあいというように具体的に提示する(同法第 7 条)。さらに 1891 年 7 月 11 日法はこの方 向性をおしすすめ、「何らかの着色物質の使用による着色」を偽造と規定するとともに、硫酸や 硝酸などの添加を禁じ、塩化ナトリウム添加は 1g/ℓまで、「石膏添加ワイン vins plâtrés」のため の硫酸カリウムないし硫酸ナトリウムの添加は 2g/ℓまでとする制限を付した43。これにくわえ 1907 年 6 月 29 日法が、ムイヤージュを禁ずるとともに、砂糖利用の制限を規定した44。 以上にみる一連の流れに一応の総括的規定をあたえたのが、既述の 1907 年 9 月 3 日デクレ であるとみることができる。というのも、ここでワインの偽造が「ワインの自然的状態を変更 することを目的とした操作および実践」という一般的定義によって提示されるからである(第 2 条)45。ここで「ワインの自然的状態」とは、「構成物質 qualités substantielles」と「原産地 origine」の両面から成立するものという前提にたつ(同条)。そこで次に、これら両面それぞれ についてみていこう。 まず「構成物質」に関連して、同デクレが例外規定をもうけたことは目をひく(第 3 条)。それは、 醸造段階とそれをつうじてできあがるワインそのものに対する操作という二側面にかかわる。前 者については、既述の砂糖利用と石膏添加の使用量を抑制しつつ、タンニンや酒石酸などの添加 を許容する(ただし砂糖と酒石酸の同時添加は禁止)。後者については、クパージュ、果汁凍結、 コラージュ、タンニン添加、白ワイン清澄のための純粋炭(charbon pure)使用などが許容された。 これらはすべて、「通常の醸造あるいはワイン保存のみを目的とする」作業であるとされる。 しかし「通常」とは何だろうか。実をいえば、法律を運用するためのより具体的な規定を盛りこ むデクレという法形式でありながら、同デクレは「通常」の定義を明示しない。いや、正確にい えば明示できなかったのではないか。というのも、上に言及した構成物質に関する例外規定は、 いずれも地域性の違いに応じたワインづくりのありかたを示しているからである。補糖はいうに およばず、ボルドー地方においてたとえばクパージュや卵白を用いてのコラージュなどは伝統的 にもちいられる手法であった。それどころか、北仏など十分な日照量が確保できない地域では、 つくられるワインのアルコール分を高めるために醸造段階で砂糖が利用されるのが一般的だっ た。要するに、「通常」の含意とはワインづくりにおける地域的固有性を尊重するという考えか たの表明にほかならない。 実をいえば、これまでの法規制ではワイン原料としての葡萄果やアルコール発酵後の添加物、 つまりワインの構成要素が対象とされてきたのであり、またそれはもっぱら醸造から小売までの 諸段階を対象にしており、葡萄栽培の局面が問題化したわけではなかった。いいかえれば、ワイ ンの「質」とはそれを構成する物質がいかに(あくまで当時の意味において)健全であるべきか、
したがってワインづくりがいかにあるべきかという問題をめぐる議論を軸にしていた。しかし、 「通常」の含意にみられたように、ワインづくりの地域的固有性を視野にいれなければならなく なれば、必然的にワインの生産地、ひいては葡萄そのものの栽培地をめぐる問題が立法化にかか わらざるをえなかったのではないかと筆者は考える。そこで注目されるのが、「ワインの自然的 状態」の要素として「原産地」という新しい概念が一大争点として浮上したことであり、ここに「質」 と生産地の両観念が結合するものとして語られている点である。次に、章をあらため原産地の問 題に焦点をあてて、この問題をより深く考えてみたい。 3.ワインの「質」と生産領域の架橋化 3.1 画期としての 1907 年両法令と 1908 年法 ―「生産圏」観念の登場― 1907 年 9 月デクレに出現する「原産地」を予告するかにみえるのが、同年 6 月 29 日法による 生産量申告の義務化の規定である。なぜなら、そこでは「ワインがつくられるコミュン」が問題 になっているからである。この「ワインがつくられるコミュン」の解釈について、議会(下院) 審議では「葡萄果が圧搾され、あるいは収穫物の出発地となる場所」との了解があった46。この ことからすれば、当該法令は葡萄の栽培地こそがワインの原産地であるという理解にたつという こと、しかしながらそれは収穫地以外において醸造がおこなわれることを否定するものではない ということがわかる47。 次に、「自然ワイン」の条件として添加物の例外規定と原産地規定が提示されたことに関連し て問われなければならないのは、それら二要素に関していかなる論理的接合が試みられたかとい うことである。それを知る手がかりとして、われわれは 1908 年 8 月 5 日法を参照することがで きる。ここで問題となるのは、当該法によって 1905 年法第 11 条に追加された条文である。 そもそも、1905 年法第 11 条は原産地呼称を商標とすることに関する規定であり、その解決は 政府の権限にゆだねられていた。同条では「原産地」に関して詳細な規定がなされておらず、議 会において原産地保護を求める提案がなされるにいたって 1908 年法により改正された。この改 正によれば、「生産物にかかる出所の呼称 appellation de provenance」のための地域設定は「継続
的に実践されるローカル慣行 usages locaux constants」にもとづくものとされた48。換言すれば、
立法者はワインの商標問題に関して全国一律の規制よりも個別的、具体的な地域の実情を優先し たといえるだろう。筆者にいわせれば、この法改正こそが、1907 年 9 月デクレによってワイン づくりに添加可能な「構成物質」の例外が設定されたことのひとつの重要な帰結であった。同様 にして、同デクレによる「構成物質」に関する例外規定は、「ローカル慣行」との関連において もりこまれざるをえなかったものと考えるのが妥当である。なぜならば、既述のとおりこの例外 規定には、ボルドー地方をはじめとする諸地域固有の、ワインづくりのまさに慣習化した実践が 含まれるからである。 以上から、1907 年の両法令は 1908 年法を準備するものであったといえるが、先行研究ではこ の点が見逃されてきたように思われる。たとえば代表的研究者であるインヌヴァンケルが「ロー カル慣行」問題の焦点化した画期として注目したのは、1919 年法であった49。たしかに、その時 期以降に「ローカル慣行」をめぐる訴訟が増加し、問題がより明示的に議論されたことは間違い ないが、その種子は遅くとも 1907 年段階には蒔かれていたのである。同時に、ここにローカル 次元での伝統的慣習がひきあいにだされたことは、生産領域の確定という問題にとって決定的な 意味をもつことになると考えられるが、それに関連してボルドーの事例をまずはみておこう。
3.2 ボルドー地方の事例 ―「ボルドーワイン」からの商人論理の排除?― そもそも、ボルドー商人たちはガロンヌ上流域とドルドーニュ上流域の葡萄栽培地域から葡萄 果を調達し、ボルドーにおいてワインをつくっていた。とりわけ隣県のドルドーニュ県、ロット = エ = ガロンヌ県、ロット県からの葡萄果供給は 20 世紀初頭までボルドーのワインづくりに不 可欠でありつづけた50。いいかえれば、次にみる 1909 年以降の時期には、ボルドー地方のワイ ンづくりは自県の葡萄果のみで十分に対応できたのである。他方、格付クリュに代表される上質 ワインは、ガロンヌ左岸・下流域からジロンド左岸域にかけて集中しており、AOC 体制のもと で葡萄調達地域がジロンド県域に限定化されたとしても影響うけない。それどころか、その「良 質性」の観念は、AOC 思想にも多少なりとも影響をあたえたのではないかとも考えられる。し たがって、葡萄果供給地域がジロンド一県のみに限定されるという最悪の場合に直面したとして も、ボルドー商人にとってかならずしも致命傷とはならない条件がととのっていた。 1909 年以降、全国各地の原産地呼称がたてつづけに政府により認可されるなか、ボルドーに 関する呼称認可もまたこの時期になされた51。AOC 法体制の成立にいたる経緯を追ううえで、 原産地呼称のありかたをめぐって展開されたボルドーのワイン関係者の動向が興味深いので、簡 単にみておこう。 発端は、1909 年 4 月に、ジロンド県、ドルドーニュ県、ロット = エ = ガロンヌ県の 3 県が「ボ ルドー」呼称の認定対象となることが政府(コンセイユ・デタ)により決定された時期にさかの ぼる。この決定じたいは、既述の歴史的ボルドー(「ボルドーワイン」の商業的伝統)を尊重す るという思考法を下敷きにしていたことが明らかである。しかしこれに対して、ボルドー地方の ワイン関係者から強硬な異議申立がなされると、政府は再検討を余儀なくされ、葡萄畑の気候・ 土壌・葡萄品種などの自然的条件を中心とする調査、および 13 世紀にまでさかのぼるワイン関 連の資料の探索に着手することとなった。また同時に、利害関係者からの意見聴取もふまえつつ、 最終的に 1911 年 2 月に大統領宛報告書が提出されるにいたった52。 こうして発出されたのが 1911 年 2 月 18 日デクレであり、ボルドー地方のワイン関係者の主張 を追認する形で「ボルドー」呼称が可能な領域がジロンド県域のみに限定された。この決定の根 拠としては、大きくいって二つの論点が提示された。すなわち、第一に「出所の呼称」認定のた めには「継続的に実践されるローカル慣行」が必要であること、しかしそこにクパージュという 「商業的実践」は含まれないこと、第二に 1905 年法から当該デクレにいたるまで政府の原産地呼 称認可権は「テリトワール territoires」を単位とする領域に限定されていること、である。ここで、 「テリトワール」とは行政的区画など国家の上からの領域設定を意味するから、地域名を呼称化 する際には県やコミュンなどの行政領域が基本的単位となるという法解釈がなされているわけで ある。 このデクレにおいて注目すべき点は、やはり第一点めの商業的実践に関する言及であろう。な ぜならば、「出所の呼称」の認定に関してボルドー地方においてもはや伝統となったクパージュ という商業的慣行を名指しで否定しているのだから。たしかにそれは商業的慣行そのものを否 定したわけではないものの、にもかかわらず先の 1907 年デクレにおいて例外規定に盛りこまれ たクパージュを呼称認可の要件から排除したため、深刻な矛盾を内包することになったといえ る53。この矛盾こそ―これが第二の注目点なのだが―問題化されたのが「原産地」ではなく、や や漠然とした語義をもつといわざるをえない「出所の呼称」にとどまらざるをえなかった理由で あろう54。
ところで、テリトワールの論理がかならずしも地域社会側の願望と合致するわけではなかろう。 その意味で、上の商業的慣行の排除にもとづく法的矛盾の解決がめざされることにならざるをえ なかったし、それこそが次にみる 1927 年 7 月 22 日法によって示された(あくまでも暫定的な) 解決法であったと考えられる。 3.3 1927 年 7 月 22 日法から 1935 年 7 月 30 日法へ ―「質」と「原産地」の概念的結合への 試み― とりわけ前章までにみたのは、ワインの「質」をめぐる問題、より正確には、いかなる構成物 質からなるものがワインと呼ぶにふさわしいとされたかという「適格性」の側面であったが、他 方において原産地の思想を「質」にかかわる別の側面であるところの「良質性」の議論に接合し ようとする最初の試みが 1927 年 7 月 22 日法であったといえる。 同法第 3 条では、原産地呼称の条件として「葡萄品種」と「生産圏 aire de production」が併 記された。後者の「生産圏」とは、「呼称ワインの生産に適する・・・コミュン communes ... propres à produire le vin d'appellation」からなる領域を意味するとされる。これをもってインヌヴァ ンケルは、それが土壌・気象条件などの自然的条件を含意しており、それゆえ今日的な狭義の「テ ロワール」観念が出現したと断定するが、それは速断というものであろう。条文をよく読めば、 その「生産圏」とは「忠実かつ継続的に実践されるローカル慣行」に依拠するものとされたこと が明白だからである55。 ここで、前節までにみてきたのが「継続的に実践されるローカル慣行」であったことを想起す れば、上記の第 3 条が「忠実」という制約要因を付加する文言であることに気づく。つまり、ワ インづくりにかかわる慣行がただ単に持続しているというだけではなく、それが過去の実践を そっくりそのまま(「忠実に」)継承しているかどうかという側面こそが重視されたわけである。 いいかえれば、そのような慣行がどのような領域的範囲において実践されつづけていたかという ことこそが問題となることになろう。それこそが、「出所」観念を「原産地」観念に昇華させる ために必要とされた思想的要素であったといえる。 以上にみた質と原産地とをローカル慣行によって接合しようとする発想は、現在にいたるまで フランスのワイン法をささえることになる 1935 年成立の AOC 法にも流れこんでいく56。AOC
法の成立に主導的役割をはたし、「AOC の父」57とも形容されるカピュ(Joseph Capus
1867-1947)によれば、「原産地呼称は、単なる産地表記ではない。そこには産地と質にかかわる一定の 思想が結びついている。・・・それゆえ、原産地呼称においては地理的産地 l’origine géographique と生産慣行 usages de production とを考慮し、保護せねばならない」58。実をいえば、1927 年法も 彼が法案の提案者であり、それゆえ AOC 法の基本的骨格はその 8 年前にができあがっていたと いえる。いや、より正確にいえば、すでに指摘したとおり「慣行」の種は 1907 年の両法令によ り蒔かれていた。その意味では、カピュは AOC 法体制の創始者ではなく、暫定的にせよ一応の 制度確立を成功させた人物といったほうが適切だろう。 それ以上に重要であると考えられるのは、「慣行」が「名声」によって裏打ちされるものとす る論理が前景化したことである59。「質」と「原産地」の両要素にくわえ「名声」をそれに両立 させようとする AOC 法の試みは、ある意味において神秘的な概念的結合であるともいえるが、 むしろここで注目されるのは「名声」の歴史的根拠が既述のジュリアンを代表とする前世紀の諸 業績に求められたということである。とりわけ「名声」という要素は、裏をかえせば販売の側面
と密接であるから、ワインの商業的ヒエラルキーにつうずる側面にほかならない。ここに商人に よるワインづくりの思想が生きのこる大きな余地がある60。 おわりに 従来、19 世紀末から 20 世紀初頭にかけてのフィロクセラ、不況、蜂起といった目をひきやす い大事件への着目から議論を開始し、それゆえ AOC 法体制にいたる過程として主要な考察対象 は生産と商業の対立図式のもと同時代の諸立法に偏重して理解されがちであったが、本報告はこ の見方が一面的であることを示すひとつの考察であった。換言すれば、本論でみてきたように、 AOC 法体制へとつらなる歴史事象はそうした時代的境界線を越えて、遅くとも 19 世紀半ばにま でさかのぼることができる。 たしかに、AOC 法体制の到来は、一見「ボルドーワイン」という歴史的呼称から商人論理(ワ インづくりの方法)を排除したかにみえた。しかし商人のワインづくりは、たしかに制約をうけ はしたものの、「質」と「原産地」の接着剤として「慣行」がくみこまれたとき、AOC 法体制を 力強く生きのこることを約束されたといえる。これに「名声」の要素が加味されたことは、その 傾向をいっそう強化したと考えられる。そのことは、ボルドーの上質ワインに関する 1855 年格 付(=商業論理の一端)が現在にいたるまで健在であることに象徴的に表現されているように思 われてならない。 もちろん、商人論理が現代の AOC(原産地統制呼称)法にいかにして適応していったのかと いう問題をめぐる、より詳細な分析はもちろん今なお多く残されている。筆者にいわせれば、 AOC 法体制の成立とは、見方をかえればワインづくりの一部を商人からうばい、ワイン生産の ありかたを葡萄栽培と商業とに配分しなおす試みに等しい。つまり、AOC 法体制のもとでは、 葡萄栽培と商業のバランスをいかに保持するかという問題が提起されつづけることになろう。こ の新たな作業仮説にたち、従来のように革新的側面が着目され、強調されたことへの再検討のう えにたって、歴史の連続と断絶の諸相を嗅ぎわける姿勢のもと、新旧要素の並存という側面こそ が検討対象とされねばならない。そのために、ローカルレベルでの「慣行」にかかわる問題や、 それをめぐる政治的・社会的対立の具体相の分析、AOC 法立案者カピュの原産地統制呼称に関 する構想とその思想的源泉などの諸課題がすぐさま浮上する61。とりわけ後者は、現代において すぐれて自然的条件を重視する「テロワール」観念につらなる問題性を内包する62。しかしそも そも、人為的操作なくしてワインは生まれないのであり、ここにこそ内包される「人」にかかわ る要素を検討する価値がある63。これを、上のワイン生産の配分にかかわる問題にひきつけて考 えれば、テロワールの問題は従来一般に自明と考えられてきた都市と農村の関係という枠組を再 検討する材料を提供してくれさえするかもしれない。それには、ボルドーとブルゴーニュ、シャ ンパーニュの比較分析が有効になるにちがいない。こうして判明する多くの残された課題は、別 稿においてとりくまれることとなる。 付記 本稿は、平成 25 ∼ 28 年度科学研究費補助金・基盤研究(C)「フランス第二帝制下の地域権 力に関する比較地域史研究」(課題番号 25370848 研究代表者:野村啓介)による研究成果の一 部である。
注
1 L. Bérard, Place de la culture technique locale dans la construction des AOC, Serge Wolikow et Florian Humbert (dir.),
Une histoire des vins et des produits d'AOC: l'INAO, de 1935 à nos jours, Dijon, 2015, pp.181-190. 2 Marcel Lachiver, Vins, vignes et vignerons : histoire du vignoble français, Paris, 1988, pp.490-495.
3 J.-F. Gautier, Histoire du vin, Paris, 1996; Philippe Roudié, Vignobles et vignerons du Bordelais (1850-1980), Talence, 1994 近年では、Florian Humbert, L’INAO, de ses origines à la fin des années 1960: genèse et évolutions du système des vins d'AOC, 2 vol., thèse de doctorat, Université de Bourgogne, 2011.
4 かろうじてスタンジアニが、AOC 法との連続性を視野に第二帝制下の商標法制(1857 年 6 月 23 日法)に 着目するものの、現在のところ例外的動向にとどまっている。A. Stanziani, À l'origine des appellations d’origine contrôlée: économie et droit des marques collectives en France au XIXe siècle, A. Drouard et J.-P. Williot(dir.), Histoire
des innovations alimentaires XIXe et XXe siècles, Editions L’Harmattan, 2007, pp.165-194.
5 野村啓介「近代フランス・ボルドー地方におけるワイン格付思想と商人的論理 ―「クリュ」概念の史的展開 を手がかりに―」『歴史』第 128 輯(2017 年 4 月)所収予定。
6 G. Flutet, Délimitation des AOC: la matérialisation des limites géographiques du lien au terroir d'une production, Wolikow et Humbert (dir.), Une histoire des vins et des produits d'AOC (op. cit), pp.191-197.
7 葡萄栽培者によって収穫された葡萄果は、それを買いつける商人のもとで醸造、樽詰め(あるいは瓶詰め) されるのが一般的であった。それゆえ、葡萄栽培者と商人はワインのいわば共同生産者であったという側面も 大きい。本文で指摘した〈地主 対 商人〉という図式は、この点からも最適とはいえない。
8 Philippe Roudié, Campagnes girondines et vins de Bordeaux à l’époque contemporaine (1850-1978), 4vol., présenté à l’Institut de Géographie et d’Études Régionales de l’Université de Bordeaux III pour l’obtention du Doctorat d’État, 1980, p. 352; Id., Vignobles et vignerons du Bordelais (op.cit.), p.111 ; Paul Butel, Les dynasties bordelaises, de Colbert à Chaban, Paris, 1991, p.263.
9 G. Gavignaud, Aspects de l'évolution du vignoble français d'après les enquêtes statistiques agricoles (1806-1929), Huetz de Lemps et al.(dir.), Géographie historique des vignobles, Paris, 1978, pp.93-110.
10 A. Jullien, Manuel du sommelier, 1re éd., Paris, 1813. 本稿で参考にしたのは第 5 版および第 6 版であるが、盛り こまれる内容は細部をのぞいて初版と基本的に同一である。 Ibid., 5e éd., Paris, 1836, pp.123-127; 6e éd., 1851, pp.116-122; Jean-Antoine Chaptal(comte), L'art de faire le vin, Paris, 3e éd., 1839〔初版は 1801 年、第 2 版は 1807 年に刊行〕; Charles Cocks, Guide de l'étranger à Bordeaux et dans la Gironde: Bordeaux, ses environs et ses vins classés
par ordre de mérite, Bordeaux, Féret et Fils, 1850; Ch. Cocks, Bordeaux et ses vins classés par ordre de mérite, V. Masson et Fils, Paris; Féret et Fils, Bordeaux, 1868. この『ボルドーとそのワイン』は、2014 年までに 19 版を数える。 11 Chambre de commerce de Bordeaux, Extraits des procès-verbaux, lettres et mémoires de la Chambre de commerce de
Bordeaux, Seconde série, sixième volume, année 1854〔以下、Extraits des procès-verbaux(1854)などと該当年次を 付記して略記〕; Archives Municipales de Bordeaux: La Gironde; Le Journal de Bordeaux; Le Mémorial bordelais. 12 日刊の『フランス共和国官報』が、公布された法令、主要法令の議会議事要録を掲載する。Journal officiel de
la République française. Lois et décrets; Journal officiel de la République française. Débats parlementaires. Chambre des députés : compte rendu.〔以下、J.O. と略記〕これに、法案上程や政府署名日などの詳細も掲載された『フランス
共和国法令公報 Bulletin des lois de la République française』を併用した。これらとあわせて、法令の解説や議会 審議での主要論点をまとめたデュヴェルジェの法解集成を補完的に使用した。J.-B. Duvergier(éd.), Collectoin
complète des lois, décrets, ordonnances, règlements et avis du Conseil d’État, Paris, 1824-1949.
13 19 世紀において、栽培から醸造にいたる 1 年のサイクルと作業内容そのものは基本的には現在とあまりかわ らない。前年の収穫後から翌春にかけて休眠するあいだに、畑には除草(nettoyage)、土寄せ(buttage)、施肥(fumure) が、葡萄樹には剪定(taille)などがほどこされ、春から秋にかけて葡萄樹は萌芽・展葉・花穂・開花・結実・ 果実肥大・着色・成熟という展開をみせる(この過程で必要に応じて剪定、摘房、除草、農薬散布などがおこ なわれる)。葡萄栽培の段階を終える秋ころには、収穫とそれについで醸造との段階をむかえる。収穫のタイ ミングを判断するためには、糖度計をもちいて葡萄果の成熟度が確認される。収穫後の畑はふたたび休眠期に はいる。醸造をへてできあがったワインは、樽か瓶に注入されたのち市場に流通する。Ch. Cocks, op. cit., 1868, pp.30-51; Petit-Lafitte, A., La vigne dans le Bordelais: histoire, histoire naturelle, commerce, culture, Paris, J. Rothschild, 1868. 現代に関しては、WSET(Wine & Spirit Education Trust), Wines and Spirits: Understanding Style and Quality,
London, 2011, pp.17-43.
14 二酸化硫黄は、遅くとも 17 世紀には樽材を殺菌したり、あるいは樽詰めワインが輸送中にバクテリアの繁殖 を抑制し、再発酵するのを防止したりするのに使用された。とくに後者の手法はオランダ商人によって駆使さ れたもので、«allumettes hollandaises» とも呼ばれた。J.-F. Gautier, op.cit., p.82. なお、ボルドーにおいてはメドッ ク地区で 1765 年に使用されたとの記録が残る。Lachiver, op. cit., p.225.
15 A. Jullien, op. cit., 5e éd., Paris, 1836, pp.123-127; 6e éd., 1851, pp.116-122.
16 19 世紀の前までは、古ワインにあらたに収穫された葡萄果をくわえたり、ブナや柏などの木片を樽中のワ インにつけこんで液体の清澄度をあげたりしていたという(こうしてできあがった再生ワインは «râpés» と呼 ばれた)。19 世紀には、葡萄種子、アレッポ産没食子(noix de galle)や小アジア産オーク材(chêne)などが、 ワインにつけこまれた。Lachiver, op. cit., pp.225-226. その他、ワインへの着色の手法(シャンパーニュではニ ワトコの漿果 baie de sureau によって赤色をおぎなったという)も化学的知識の深化とともに発展していった。 Lachiver, op. cit., p.273; Alessandro Stanziani, Histoire de la qualité alimentaire(XIXe-XXe siècle), Paris, 2005, pp.83-84. 17 ヴィナージュは、干葡萄とともに 19 世紀に積極的に活用されたと考えられ、添加するのに最適なアルコー ルの研究もなされたという(テナール男爵など)。Jean-Claude Martin, Les hommes de science, la vigne et le vin de
l'Antiquité au XIXe siècle, Bordeaux, 2009, pp.248-251.
18 他にもあらゆる試行錯誤がなされていた。たとえば、19 世紀半ばのボルドー・アカデミー紀要にみられるマ グティ(Magouty)なる人物による「人工ワイン vin artificiel」製造法に関する研究成果である。それによれば、 1 バリック(228 リットル)の並級白ワインをつくるために必要なのは、水 228ℓ、グルコース 35kg、重酒石酸 塩 450g、オーク材の樹皮 1,360kg、硫酸カリウム 50g、ニワトコの花 100g、ビール酵母 5kg であり、それにケ ルシ(Quercy)産またはラングドック(Languedoc)産のワインを 1/3 から 1/4 ほど混合すれば、一般大衆むけ の安価ワインができるという。J.-C. Drouin, Les journaux et périodiques consacrés aux problèmes de la vigne et du vin dans la Gironde (1800-1939), Huetz de Lemps et al.(dir.), Géographie historique des vignobles, (Paris, 1978), pp.49, 56-57.
19 葡萄果の糖分不足を解決する手段として、もっとも古くからおこなわれていたのは葡萄果汁を濃縮後にアル コール発酵するもので、古代ローマ時代から実践されていたといわれる。18 世紀になると、マケル(Macquer) やパルメンティエ(Parmentier)などによって砂糖の化学的研究がさかんになる。J.-C. Martin, op. cit., pp.236-242,249. これはアンティル諸島産の甘蔗糖が大量に輸入されたのと同時代でもある。ナポレオン支配期に植民地 産砂糖の輸入に困難が生じたとき、シャプタルがこれにかわる砂糖原料としてフランス国内での甜菜栽培とそ の拡大を計画した。同時に彼は補糖技術も体系的に研究したが、この技術は普及者の名をとってシャプタリザ シオン(chaptalisation)とも呼ばれる。その補糖技術はフランスにおいて絶大な影響力を誇ったとされる。シャ プタルによれば、「砂糖の添加には、二つの利点がある。それは、ワインのアルコール分をかなり大きく増強さ せること、酒質の劣るワイン(vins faibles)が陥る酸化による劣化を予防することである」。Chaptal, op. cit., 3e éd., p.122.
20 A. de Vergnette-Lamotte, Mémoires sur la viticulture et l'oenologie de la Côte-d'Or, Dijon, 1846, cité par Loïc Abric, Les
grands vins de Bourgogne 1750-1870, Précy-sous-Thil, Éditions de l'Armançon, 2008, pp.53-54. 21 Ch. Cocks, op. cit., 1868, p.55.
22 県知事による県会開会時の基調報告(1854 年 8 月 21 日)が、ジロンド県内の被害状況を詳細に述べる。 Archives municipales de Bordeaux, 329/C/19: Séance du 21 août 1854, Conseil général de la Gironde, session de 1854,
procès-verbaux des délibérations, Bordeaux, 1854.
23 Séance du 19 juillet 1854: Extraits des procès-verbaux(1854), p.202; Lettre au Ministre de l'agriculture, du commerce et des travaux publics, lue dans la séance du 9 août 1854: Extraits des procès-verbaux(1854), pp.230-232.
24 Lettre au Ministre de l'agriculture, du commerce et des travaux publics, lue dans la séance du 11 octobre 1854: Extraits
des procès-verbaux(1854), pp.298-301; Lettres au Ministre de l'agriculture, du commerce et des travaux publics et au Ministre des finances, lues dans la séance du 29 novembre 1854: Extraits des procès-verbaux(1854), pp.324-327; Lettre au Ministre de l'agriculture, du commerce et des travaux publics, lue dans la séance du 17 janvier 1855: Extraits des
procès-verbaux(1855), pp.27-28.
25 A.Jullien, op. cit., 5e éd., pp.115-122; 6e éd., pp.108-115; James Simpson, Creating Wine: The Emergence of a World
26 L. Simonin, Les grands ports de commerce de la France, Paris, 1878, pp.108-109. この時期に輸入自由化が叫ばれた 外国産ワインは、スペイン産であったという指摘もある。Albert Charles, Le rôle du grand commerce bordelais dans l'évolution du système douanier français de 1852 à 1860, Revue historique de Bordeaux et du département de la Gironde, t.IX, nouvelle série, 1960, pp.65-88.
27 Séance du 28 février 1855: Extraits des verbaux(1855), p.48; Séance du 14 mars 1855: Extraits des
procès-verbaux(1855), pp.61-62.
28 経済改革大綱の具体的な内容については、野村『フランス第二帝制の構造』(九州大学出版会 2002 年)、129 ∼ 131 頁、196 ∼ 198 頁。同年 6 月の速報によれば、イギリスにおけるフランス産ワインの消費量は 87%増加 したのに対し、スペイン産ワイン消費量の増加は 7%でしかなかった。また同様に、イギリスによるフランス産 ワイン輸入は 133%の伸びを示し、スペイン産ワインの 70%増、ポルトガル産ワインの 30%増を大きく凌駕した。
La Gironde, le 3 juin; Le Journal de Bordeaux, le 7 juin. 29 Le Journal de Bordeaux, les 16 et 17 avril 1860.
30 記 事 は、 同 紙 に 2 回 に わ た っ て 転 載 さ れ た。A. Legoyt, Le traité de commerce et nos vins, in Le Mémorial
bordelais, les 25 mars et 11 avril 1860.
31 たとえばマシャールは、『砂糖乱用がひきおこす危険性』(1843 年)を著したし、1845 年に開催されたワイ ン生産者会議(Congrès des vignerons)も過度の砂糖使用に対する反対を表明した。Henri Machard, Dangers que
présente l'abus du sucre, 1843. ほぼ同時期、ヴェルニェット = ラモット伯なる人物も同様に補糖の弊害を指摘し、
それによって生産された凡庸なワインのせいで消費者が同地方の良質ワインからはなれたと主張する。A. de Vergnette-Lamotte, op. cit., cité par L. Abric, op. cit., p.387. ただし、第二帝制期に出版されたマシャールの『醸造大 全 Traité complet de vignification ou guide des propriétaires, négociants, vignerons, etc. dans toutes les opérations qui sont
relatives à la meilleure manière de traiter les vins』第4 版(1865 年)では、良質の砂糖であればシャプタリザシ オンによりワインを改善することが可能であるとの意見が表明された。Harry W. Paul, Science, Vine, and Wine in
Modern France, Cambridge University Press, 2002, p.136. なお、ワイン生産者会議については、L. Abric, op. cit., p.387; A. Stanziani, op. cit., p.85 を参照。
32 H.W. Paul, op. cit., p.136. 33 H.W. Paul, op. cit., pp.139-140.
34 1863 年に協会によって商務大臣に送られた陳情書には、「小売業者はベルシ Bercy でアルコール濃度の高い南 仏ワインを購入しています。小売業者は、色づきのよい葡萄 plants teinturiers に由来するワインを少しマコンワ イン少量と混ぜ、『フレッシュさ』をあたえます。次に彼は、水でワインの量を倍にします。その結果、ベルシ でアルコール 18 度あったワインが店頭では 7 度で販売されるのです」との説明があった。これは、アラモンと いう品種からつくられるアルコール度数の低いワインに蒸留酒を添加してアルコール強化した南仏ワインに対 する批判として指摘されたものである。Gilbert Garrier, Histoire sociale et culturelle du vin, Paris, Larousse, 2002, p.214. 35 しかも、既述のワインを「洗練」する行為を「偽造する frelater」それと同義で使用した。Jullien, op. cit., 5e
éd., pp.122-127, 137 et suiv.
36 J.-B. Duvergier, op. cit., 1889, p.437, n.1.
37 Loi du 14 août 1889, J.O., le 15 août 1889. 行政命令レベルでは、すでに 1879 年 9 月の司法大臣通達が同趣旨の 規定を含むものであった。M. Lachiver, op. cit., p.439. なお、グリフ法第 2 条および第 3 条により、新鮮葡萄果の 絞りかすに砂糖と水を添加して発酵させたものを「砂糖ワイン vin de sucre」と、干し葡萄と水によるものを「干 し葡萄ワイン vin de raisins secs」と呼ぶことが規定された。前者については、1891 年 7 月 11 日法によって若干 の改正がほどこされ、砂糖がくわえられないものについては「葡萄果絞りかすワイン vin de marc」との名称を 付すべきことが義務づけられた。Loi du 11 juillet 1891, J.O., le 12 juillet 1891.
38 Décret du 3 septembre 1907, J.O., le 5 septembre 1907.
39 これは、ボルドーでも 19 世紀半ば以降、輸入が増加していた干し葡萄の使用を排除することを意味する。こ れに関連して筆者は、第二帝制期の事例に即して干し葡萄が広く利用されていた可能性を指摘したことがある。 野村「フランス第二帝制下のボルドー商業界とワインづくり―1850 年代ボルドー商業会議所における砂糖関税 論議を手がかりとして―」『ヨーロッパ研究』(東北大学大学院国際文化研究科ヨーロッパ文化論講座)第 10 号 (2016 年)、155 ∼ 202 頁。
41 Jullien, op. cit., 5e éd., pp.266-268; E. Burgaud, La falsification des vins par coloration artificielle et la circulaire du 18 octobre 1876, Le vin à travers les âges: produit de qualité, agent économique, colloque organisé par le Centre d’études et de recherches d’histoire institutionnelle et régionale (Bordeaux, 2001), pp.93-103; A. Stanziani, À l'origine des appellations d'origine contrôlée (art. cit.).
42 J.-B. Duvergier, op.cit., 1889, p.437, n.1. 43 Loi du 11 juillet 1891, J.O., le 12 juillet 1891. 44 Loi du 29 juin 1907, J.O., le 4 juillet 1907.
45 Décret du 3 septembre 1907, J.O., le 5 septembre 1907.
46 Délibérations de la Chambre des députés, le 13 juin 1907, J.O., le 14 juin 1907.
47 1840 年代には、地名を商標とするばあい、「工業製品」には「製造地 lieu de fabrication」が、「自然産品」に ついては「収穫地 lieu de récolte」が表記されるべきとする判例が一般的だった。ワインは両面性をもつがゆえ に、どちらに分類するかについて微妙な判断がせまられたであろうことは容易に推察しうる。たとえば、シャ ンパーニュなどの発泡性ワインについていえば、19 世紀末の時点においてさえ、発泡のための加工工程がある ため「製造物 objets fabriqués」とする判決がくだされた。A. Stanziani, À l'origine des appellations d'origine contrôlée (art. cit.).
48 リヨン選出の下院議員カズヌヴ(Paul Cazeneuve: Lyon, 1852 - Paris, 1934)により、「公行政規則」の介入によっ て「原産地」呼称の保護を実現するにあたり、「商業的慣行」を尊重すべきことが主張された。J.-B. Duvergier,
op. cit., 1905, pp.301-302. ここで、ボルドーと同じくワイン商業の盛んなリヨンから選出された彼が「原産地」
と表現しながらも、それが結局のところ「出所」と同義という前提にたっていたとみられることは、次節の内 容とも関連していて興味深い。
49 J.-C. Hinnewinkel, Les usages locaux, loyaux et constants dans les appellations viticoles du Nord de l'Aquitaine: Les bases des aires d'appellations d'origine, Le vin à travers les âges: produit de qualité, agent économiquee, colloque organisé
par le Centre d'études et de recherches d'histoire institutionnelle et régionale (Bordeaux 2001), pp.133-146. 50 P. Roudié, op. cit., 1988, pp.199 et suiv.; J.-C. Hinnewinkel, art. cit., pp.134-135.
51 政府により認定された代表的な原産地呼称は以下のとおりである(いずれも J.O. 参照)。1908 年 12 月 17 日 デクレ「シャンパーニュ Champagne」;1909 年 5 月 1 日デクレ「コニャック Cognac」;同年 5 月 25 日デクレ「ア ルマニャク Armagnac」;1909 年 9 月 18 日デクレ「バニュルス Banyuls」。
52 Rapport au Président de la République française par le Ministre l'agriculture, le 17 février 1911, J.O., le 19 février 1911. 53 1911 年 2 月 18 日デクレが依拠する 1905 年 8 月 1 日法および 1908 年 8 月 5 日法は、そもそも産地呼称が可能 な対象として「原産地」のほか、「地域的」呼称と「クリュ」呼称をも認めていた。「地域的」の代表として「シャ ンパーニュ」があげられる。他方「クリュ」のほうは、筆者が別稿において論じたように、 18 世紀から 19 世紀 にかけてすぐれて商人により概念的に成長していき、1911 年デクレのころには上質ワインを生みだす葡萄畑と いう特質を意味する用語になっていた。野村前掲論文「近代フランス・ボルドー地方におけるワイン格付思想」。 54 「慣行」の重視とは、ある意味において、過去を固定化することを意図することでもある。現代に生じはじめ た AOC 制度に対する不満も、ここに一因が存すると思われる。その側面が強固であればあるほど、革新の側面 が抑圧される。筆者が示した「暫定的」という 1935 年に成立した AOC 法体制の位置づけは、このような考え にもとづいている。
55 Loi tendant à compléter la loi du 6 mai 1919 relative à la protection des appellation d'origine, J.O., le 27 juillet 1927. 56 現在の AOC 法規定書でも、「ワインは、忠実かつ継続的に実践されるローカル慣行にしたがって醸造される
ものとする」とされており、使用される文言は同一である。たとえば、Décret du 28 septembre 2015, Cahier des charges de l’A.O.C. «Bordeaux».
57 La vigne, no.158, octobre 2004, p.0.
58 Cité par G. Flutet, Délimitation des AOC(art. cit.). いいかえれば、AOC とは「質および名声 notoriété」にもとづ く原産地統制呼称である。つまり、「質 qualité」の両義性をささえるところの、上質ワインに代表される「良質性」 の側面と、ワインたるにふさわしい構成物質をそなえる「適格性」の側面の両立をめざしつつ、それを原産地の「名 声」によって保証しようとする試みであったともいえる。
59 F. Roncin, Évolution des outils scientifiques et de leur vulgarisation en agriculture et en viticulture de 1935 à 2006, Une
60 野村前掲論文は、こうした観点にたつ作業の一環であり、ワイン格付の思想に内在すると考えられる商業的 ヒエラルキーに根ざす論理の側面に着目するものである。
61 Joseph Capus, L'Evolution de la législation sur les appellations d'origine, genèse des appellations contrôlées, Paris, 1947.
62 イギリスのワイン専門家養成機関 WSET テクストにあるように(=“the ensemble of natural influences that give a wine a sense of place”)、「テロワール」概念とは、土壌や気候などの自然的環境がワインの個性を生みだす主要 因であると考えるのが一般的である。WSET, op. cit., p.16. そもそも、つくられるワインの質を問題にするとき、 それは土壌や気候といった自然的要因のみに依拠するのだろうか。筆者の考えでは、品種や土壌の選定など人 間の主体的な働きかけが不可欠な側面は多く、いわゆるテロワールをめぐる考察には人的要因を視野にいれな ければ不十分となろう。
63 ボルドーワイン史の碩学ルディエによれば、INAO のテロワール理解が自然環境的要因を過度に重視している としてこれを批判し、「テロワール」の二元論的解釈を志向して「物質的(自然的)テロワール terroir physique」 と「社会的(人文的)テロワール terroir social (humain)」という両面からアプローチすることを提案し、そのう ち人文的なそれを重視する。