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Mitsuyo MATSUNAGA I L ordre après la crise, voilà l ordre neuf que je réclame. C est pourquoi me haïssent les profiteurs de désordre et ne peuvent m e

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Academic year: 2022

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(1)

─ジャン・コクトーの作品構造をめぐって─

松 永 光 代   Mitsuyo MATSUNAGA

はじめに

ジャン・コクトーは詩人として様々なジャンルを横断し,華やかな創作活動 を行った.詩,小説,戯曲,批評,エッセイにとどまらず,映画,美術,舞 踊にまで幅を広げ,その自由な才能から「芸術の魔術師」とも呼ばれている.

これまで,一部の作品相互の類似を指摘した論文はあるものの1),コクトー作 品の根底にある構造に注目し,その作品世界を俯瞰的に理解しようとした研 究はない.本稿では,登場人物を四種類に分類した上で,それらの登場人物 によって展開される物語が,共通の枠組みにより成り立っていることを指摘 する.

I

.登場人物の分類

物語における共通の枠組みを設定する上で,まずは登場人物の分類を試み る.分類にあたっては,秩序と無秩序という二項対立を軸に考えたい.コク トーは,秩序と無秩序について以下のように述べている.

L’ordre après la crise, voilà l’ordre neuf que je réclame. C’est pourquoi me haïssent les profiteurs de désordre et ne peuvent m’entendre les gens pour qui l’ordre doit être le pastiche d’un ordre ancien2).

この記述からは,コクトーが意味する秩序と無秩序とは独特なものであり,

誰もがそれと認識出来るものではないことが分かるだろう.コクトーが求め るのは単なる古い秩序の模倣ではなく,危機の後に新しく立ち現われてくる

1)一例として青木は,戯曲『オルフェ』と戯曲『地獄の機械』における構造の類似を指摘して いる.(青木研二「ジャン・コクトーの戯曲『オルフェ』」『茨城大学人文学部紀要 コミュニ ケーション学科論集』 第1号, 1997, pp. 105-129.)

2)Jean Cocteau, Lettre à Jacques Maritain, in Œuvres complètes, tome IX, Marguerat, 1950, p. 291.

(2)

秩序であり,それが理解されないことを彼は嘆いているのだ.では,コクトー の求める新しい秩序とは,どのようなものなのだろうか.戯曲『アンチゴー ヌ』の翻案について,彼は次のように述べている.

Or l’instinct me pousse toujours contre la loi. C’est la raison secrète pour laquelle j’ai traduit ANTIGONE. Je détesterais que mon amour de l’ordre bénéficiât du sens que l’on prête paresseusement à ce mot.

Moi qui ne me mêle d’aucune politique et qui ne consulte pas le journal, certains acquittements séditieux me plaisent. Je dois, par ces témoignages obscurs, saluer, sous sa forme la moins haute, une force imprévue opposée à Créon, au mécanisme prévu de la loi3).

戯曲『アンチゴーヌ』においてコクトーが秩序であると認識していたものは,

国王や法によって規定された社会に抗う力である.つまり,国王クレオーン の命令に背く形で行われたアンチゴーヌの埋葬行為こそが,コクトーの求め る新しい秩序であると言えるだろう.ただし,アンチゴーヌは自らの信念を 貫きながらも運命により死を迎えるのであり,秩序は物語中において成立す べきもの,という明確なスタンスを取らない.アンチゴーヌを「反抗と理性 の叫び4)」と喩えていることからも分かる通り,秩序はあくまでも「叫び」と して,その存在を提示されるにとどまるものなのである.つまり,アンチゴー ヌは新しい秩序を提示する存在であり,秩序とは,一見それとは分からない ような独特のものであると言うことが出来る.そして,コクトー作品におい てそのような秩序が提示されていると考えるのならば,無秩序とは,秩序と 対立関係にあるというよりむしろ,秩序を明らかにするための補完関係をな すものであると捉えられるだろう.この作品の場合,遺体を野晒しにするよ うに命じた国王クレオーンが無秩序側の人物に該当する.

では,このような図式,すなわち一方で主人公は,新しい秩序を提示しなが らも運命により死を迎え,他方で主人公と対立する人物は,実は主人公が新 しい秩序の提示を行うのを助ける役割を果たすという図式が,他作品にも有 効であるのかについて考察したい.秩序(ordre)とは整頓,片づけることで

3)Ibid., pp. 290-291.

4)Jean Cocteau, Notes Antigone place de la Concorde, in Théâtre complet,« Bibliothèque de la Pléiade», Gallimard, 2003, p. 325.

(3)

あり,無秩序(désordre)とは,乱雑,散らかっていることであるが,例えば 小説『恐るべき子供たち』,戯曲『恐るべき親たち』などの作品の中では,物 語の構造における登場人物の役割としての秩序,無秩序だけでなく,実際に 部屋や家を片づける,散らかすという行為が描かれている.そこで,新しい 秩序の提示を「現実を片づける行為」であると捉えてみたい.「現実を片づけ る」とは,ここでは不要なものを捨てるということや,散らかったものを元 の位置に戻すということを意味するのではなく,新しい秩序の提示という言 葉通り,社会一般の価値観と全く違うものを提示することを指す.そして,

新しい秩序を提示した人物は,結末では運命により死を迎えることになる.

そこで,この主人公である秩序側の人物を「片づける人」と名付ける.また,

「片づける人」の行う新しい秩序の提示を第一の片づけ,「片づける人」自身 の死を第二の片づけとしたい.

そして,「片づける人」に対置する無秩序側の人物を「散らかす人」とする.

「散らかす人」とは,散らかすことで片づけるきっかけやヒントを与える人,

結果的には片づけを手伝う人のことである.「片づける人」を取り巻く状況は 初めから散らかっているわけではない.結局は「片づける人」も「散らかす 人」も,神などの「操る人」に支配されているとの事実を後に明らかにする が,コクトー作品における登場人物は,「操る人」によって定められた運命に 従って行動しているにすぎないのである.そこで「片づける人」「散らかす人」

「操る人」という存在から作品を検討する.

II

.片づける人

以後,戯曲『アンチゴーヌ』から抽出された分類について説明するが,本稿 では紙面の都合上,戯曲『オルフェ』を主に取り上げたい.オルフェはコク トーが生涯にわたり取り扱った主題であり,彼の思想が色濃く反映されてい るため,代表的に取り上げるにふさわしいと考える.なお,その他の関係作 品については末尾の表にて示す.

まず,戯曲『オルフェ』における「片づける人」はオルフェである.彼は,

妻ユーリディスの死に接し,自らも死を迎えて第二の片づけを行うが,その 前に,新しい秩序の提示である第一の片づけとして次のように発言する.

(4)

Que pense le marbre dans lequel un sculpteur taille un chef-d’œuvre ? Il pense : « On me frappe, on m’abîme, on m’insulte, on me brise, je suis perdu. » Ce marbre est idiot. La vie me taille, Heurtebise ! Elle fait un chef-d’œuvre. Il faut que je supporte ses coups sans les comprendre. Il faut que je me raidisse. Il faut que j’accepte, que je me tienne tranquille, que je l’aide, que je collabore, que je lui laisse finir son travail5).

「片づける人」であるオルフェの職業は詩人であるが,他の作品の「片づける 人」に相当する小説『山師トマ』のトマや小説『恐るべき子供たち』のエリ ザベートとポールには,足を引きずる動作が出てくる6).コクトーは,足を引 きずる動作は詩人のしるしであると度々記している為,実際に詩人という職 業にあるかどうかに関わらず,「片づける人」は詩人を表象していると考えら れる.

La beauté boite. La poésie boite. C’est dans sa lutte avec l’ange que le poète sort boiteux7).

Elle [la poésie] marche un pied dans la vie, un pied dans la mort. C’est pourquoi je la déclare boiteuse et c’est à cette boiterie que je la reconnais8).

以上の記述からは,詩人とは,生と死という二つの世界を行き来し,格闘し なければならない存在であることが分かる.創作を行うためには,この危険 を冒さざるを得ないと言えるだろう.この詩人の姿とオルフェの第一の片づ けにおけるセリフを踏まえると,「片づける人」である詩人が提示する新しい 秩序とは,現実に対する危険を厭わず自らの信念に従って行動し,過酷な運 命を受け入れることにより成り立つものであると言える.「片づける人」から は,危険を冒しながらも新しい秩序の提示という創作を行う詩人の姿が浮か び上がる.

5)Jean Cocteau, Orphée, in Théâtre complet, « Bibliothèque de la Pléiade», Gallimard, 2003, p. 415.

6)Jean Cocteau, Thomas l’imposteur, in Œuvres romanesques complètes, « Bibliothèque de la Pléiade», Gallimard, 2006, p. 391. Les Enfants terribles, ibid., p. 567, p. 581. なお,ポールには boiterでなくclaudiquerが用いられている.

7)Jean Cocteau, Secrets de beauté, Coupures de presse, in Œuvres complètes, tome X, Marguerat, 1950, p. 352.

8)Ibid., p. 367.

(5)

III

.散らかす人

戯曲『オルフェ』における「散らかす人」にはユーリディス,天使ウルト ビーズ,そして死神が当てはまる.ユーリディスは死ぬことにより片づけの きっかけを与えており,ウルトビーズも死の世界への行き方を教えることを 通じてオルフェの片づけを援助する.また死神も,ユーリディスを死なせた り,オルフェが後に死の世界へ行く際に使用する手袋を忘れるなど,結果的 に片づけを手伝う.

「散らかす人」において重要な点は,彼らがいるからこそ「片づける人」は 出来事を片づけることが可能になるということだ.例えば,もしウルトビー ズがいなければ,あるいは単なるガラス屋であれば,オルフェは「片づける 人」になることが出来ない.天使ウルトビーズについてコクトーは次のよう に記している.

Sans doute ce tortionnaire nocturne [l’ange Heurtebise] est-il de la famille d’Orphée et d’Œdipe, me pousse-t-il à endosser leur pourpre9).

天使は,コクトーにとって「拷問役人」,つまり,詩人に創作を強いる存在で ある.この天使の姿は,「片づける人」に出来事を片づけさせる「散らかす人」

そのものであると言えるだろう.詩人は,天使という「散らかす人」に強要 されてこそ,創作を行うことが出来るのだ.

IV

.参加しない人

これまで「片づける人」「散らかす人」「操る人」という人物の図式を提示し たが,作中人物にはこれらに当てはまらない人が出てくる.そのような人物 の特徴は,片づけの物語に一切関与していないということだ.そこで,この 人物を「参加しない人」と名付け,その役割について考えたい.

戯曲『オルフェ』では,第十一場と第十二場に「参加しない人」である警部 と書記が登場する.彼らは,社会秩序の中に生きる普通の人で,片づけに全 く気付かないし,片づけそのものに対しても役割を負わない10).なぜこれらの

9)Jean Cocteau, Le Cordon ombilical, Plon, 1962, p. 12.

10)片づけを理解出来ない人の視点を導入することで,物語は本当らしさを備えたものとして提 示されるという構造上の効果を指摘することは出来る.

(6)

人物は登場するのだろうか.コクトーは,詩は独自の道徳性を有しており,

自分を誤魔化したり行き当たりばったりに生きている人には不道徳に見える かもしれない11)としたうえで,次のように記している.

C’est en vertu de ce principe que j’ai écrit : Genet est un moraliste et « Je suis un mensonge qui dit toujours la vérité », phrase dont les ânes firent leur herbe tendre. Ils s’y roulent. Cette phrase signifiait que l’homme est socialement un mensonge12).

[...] la morale particulière et les œuvres qui en découlent ne peuvent être visibles à ceux qui vivent sans une morale, ou se contentent de suivre un code [...].13)

これらの文章からは,真実(la vérité)と詩人(un mensonge qui dit toujours

la vérité) と の 関 係 に 加 え て, 詩 人 と 真 実 を 理 解 し な い 人(un mensonge/

ceux qui vivent sans une morale, ou se contentent de suivre un code

)との関係 をも見て取ることが出来る.「操る人」である神は,真実を知る存在だが,全 てを思い通りにすることが出来るため,語る必要はない.一方,詩人は,社 会的に虚偽の存在である,つまり人間であると同時に真実を知る存在でもあ り,創作活動を通じて真実を語る.それに対して「参加しない人」すなわち 真実なしで生きる,あるいは社会的規範に従うことに満足している人は,い わば普通の人間であり,真実を理解することはないが,自身の意見や考えを 語ることが出来る.このことからは,詩人は「操る人」と「参加しない人」

の特徴をそれぞれ部分的に受け継いでいることが分かるだろう.「操る人」と 同様に真実を知る詩人にとって,社会的な虚偽という出自は創作するための 必要条件なのである.「参加しない人」は,作品における片づけそのものには 必要ではないが,その行為を表現するために不可欠な存在であり,彼もまた 詩人の一部であると言える.

V

.操る人から「物語を操る詩人」へ

ここでは最後に,片づけを主導する存在である「操る人」について検討す

11)Jean Cocteau, Journal d’un inconnu, « Les Cahiers Rouges», Grasset, 1983, pp. 15-16.

12)Ibid., p. 16.

13)Ibid., p. 17.

(7)

る.戯曲『オルフェ』における「操る人」は神である.コクトー作品におい て,「操る人」の存在は登場人物として表れるのではなく,語りやプロローグ において示唆されることが多い14).そのため,読者や観客は,語り等から「操 る人」の存在と片づけの結果を事前に知ることになる.「操る人」は,自分の 考えを表す必要がなく,全てを思い通りに出来るので,「なぜ『操る人』は片 づけを主導するのか」という問いへの答えを得ることは出来ない.ただ,コ クトーは詩人についてゲーテの『魔王』を取り上げ,次のような喩え話をし ている.

Admettons que le cheval, le père et le fils soient une seule et même personne. Il y a encore une autre personne dans le coup, je vous le dirai après. Le cheval galope, il devine quelque chose, il a l’instinct animal, il devine, il a peur, il galope. Le père n’a pas peur, le père a peut- être peur parce qu’il fait nuit, mais il ne devine rien. Le fils écoute, écoute le roi des Aulnes ; et il se sauve, il est mort, il se sauve, il quitte les bras de son père.

Admettons que le fils, le cavalier et le cheval soient une seule et même personne : c’est le poète.

Mais il y a encore une autre personne dans le coup, je vous l’ai dit, c’est le roi des Aulnes.

Car le roi des Aulnes, la voix du roi des Aulnes, ce que chante le roi des Aulnes n’arrive pas du fleuve, il arrive de nos profondeurs. Il y a donc dans le Roi des Aulnes de Gœthe un portrait très extraordinaire du poète en quatre personnes, en quatre personnages15).

この場面をモデルとして捉えると,何も気づかない父親は「参加しない人」,

魔王に誘われて死を迎える息子は「片づける人」,魔王を感じ,懸命に駆ける 馬は「散らかす人」,この場面を主導する魔王は「操る人」に相当する.そし て,これらをまとめたものが詩人を表象しているため,これまで検討した四 つのタイプの人物を凌駕する存在として詩人コクトーの姿が浮かび上がる.

つまりコクトーは,自らの作品に対しては,四種類の登場人物を更に操る存 在である一方,彼自身の人生においては神によって操られる詩人,すなわち

「片づける人」であったと言えるだろう.

14)コクトーは,作中人物を俳優や観客に,ある特定の場所を劇場,楽屋,舞台裏に喩え,テク スト内で芝居が行なわれているように表現している.これは,作中人物は「操る人」のプロ デュースする結末の決まった芝居に出ているに過ぎないことを暗示するためであろう.

15)Jean Cocteau, Entretiens avec André Fraigneau, Bibliothèque 1018, 1965, p. 57.

(8)

J’ai perdu mes sept meilleurs amis. [...] Sept fois, il [Dieu] a jeté sa ligne et l’a remontée sans me prendre. Je lâchais l’amorce et je retombais stupidement. N’allez pas croire qu’il tuait de la jeunesse ; il costumait des anges. Une maladie ou la guerre leur servait de prétexte pour se dévêtir16).

この記述からは,コクトーが親友の死をどのように解釈したのかを知ること が出来る.まず,魚釣りの喩えからは,コクトーが神の行いを気晴らしのよ うなものとして捉えていることが分かる.ここからは「操る人」が片づけを 主導する理由は分からないが,おそらくそれは「片づける人」に課せられる 深刻さに匹敵するようなものではない,とコクトーが考えていたことが推察 出来る.そして重要なことは,この不条理に対して,「神は天使を若者に仮装 させていたのだ」という独自の理由づけを行っていることである.天使は「散 らかす人」,つまり,詩人に創作を強いる存在であった.コクトーは,親友の 死を「自分に創作させる為に神が仕組んだ行為」として受け止めたのだ.

コクトーにとって,愛する者が次々と病気や戦争によって失われていくとい う現実は厳しいものであっただろう.しかし,繰返される親友との別離は,

創作の契機となった.コクトーがこのように解釈したのは,詩人として生き るためであったと言える.彼は,オルフェが提示した新しい秩序と極めて類 似したことを,自身のこととして次のように記している.

Car ce qui nous frappe comme une malchance, comme une aptitude au drame, compose ailleurs un chef-d’œuvre. Notre injustice vient d’une courte vue. Que pense la toile sur laquelle Picasso est en train de peindre ? « Il me tache, il me cache, il me salit. »17)

コクトーにとって,神,つまり実人生の「操る人」は残酷な気晴らしをする 存在であった.だた,彼はそれに対して,詩人として生きるための解釈を見 出し,その解釈を自らの作品において表現したと言える.

コクトー自身に照らし合わせて考えると,当時,コクトーが実人生において 体験した片づけは,第一の片づけ,すなわち新しい秩序の提示を伴う創作活 動までである.彼が作品中に用意した「片づける人」つまり詩人の死という

16)Jean Cocteau, Lettre à Jacques Maritain, op. cit., p. 274.

17)Ibid., p. 294.

(9)

第二の片づけは,実人生の模倣を超えたものであり,「操る人」をも手中に収 めたコクトーが創り出す詩人の宿命に他ならない.

La vie des poètes est une tragédie et il faut un dernier acte. Que la mort y baisse le rideau18).

片づけを余儀なくされ,それによって「操る人」を凌駕する立場に身を置 き,詩人はさらに悲劇の完成を求めた.実人生における残酷な「操る人」が いかにも好みそうな第二の片づけを創作し,自らの身にもそれを願うことで,

コクトーは実人生における「操る人」への復讐を果たしているのだろう.第 二の片づけには,第一の片づけ以上の表明,つまり,強いられた片づけを自 分の手で完全な悲劇に仕上げるという表明が隠されているのである.

おわりに

コクトーの最高傑作は彼の人生そのものである,と言われることがある.彼 の作品に片づけの形式を当てはめることで浮かび上がった詩人の姿は,まさ にコクトーそのものであった.四つのカテゴリーに分類される登場人物を通 じて軽やかに物語を操る魔術の舞台裏には,実人生での残酷な経験に対して 詩人コクトーがとった態度と,それをもたらした「操る人」に対する復讐の 表明がある.

ここで試みたような戯曲と小説という異なるジャンルの作品を同じような扱 いで論じるという方法は,いくらかの弊害を含むと考えられる.ただ,コク トーが「詩」という規定のもとで軽やかにジャンルを越えて創作活動を行っ たように,ある共通の枠組みを見出し,ジャンルにとらわれずにそれを当て はめることによってこそ,コクトー作品の全体像をつかむことが出来ると言 えるだろう.我々もまた,詩人を模倣して飛翔する必要があるのだ.

(奈良女子大学常勤講師)

18)Jean Cocteau, Démarche d’un poète, in Poésie critique II, Monologues, Gallimard, 1960, p. 12.

(10)

関係作品における主な登場人物の配置上の分類

作品名 操る人 片づける人 散らかす人 参加しない人

『アンチゴーヌ』

(1922) アンチゴーヌ

クレオーン ティレシアース ハイモ―ン

イスメーヌ

『大股びらき』(1923) 運命の神 ジャック

ジェルメーヌ ルイズ ピーター

ジャック母 ベルラン夫妻 オシリス

『山師トマ』(1923) 運命の神 トマ

ド・ボルム夫人 ヴェルヌ ヴァリッシュ デュポール アンリエット

トマ叔母

『オルフェ』(1926) オルフェ

ユーリディス ウルトビーズ 死神

警部 書記

『オイディプス王』

(1928) オイディプス

ティレシアース クレオーン イオカステー

アンチゴーヌ イスメーヌ

『恐るべき子供たち』

(1929) 部屋の精霊 エリザベート ポール

ジェラール アガート ダルジュロス ミカエル

ジェラール叔父 医者

『地獄の機械』(1934) 神 オイディプス

ティレシアース クレオーン イオカステー スフィンクス アニュビス

隊長 老母

『恐るべき親たち』

(1938) レオ

マドレーヌ

イヴォンヌ

ジョルジュ イヴォンヌ ジョルジュ マドレーヌ

ミシェル

(11)

Le poète qui manipule les histoires

Sur le mécanisme de la création chez Jean Cocteau

La création poétique de Jean Cocteau traverse différents genres. Dans cet article, nous portons notre attention sur les mécanismes d’écriture fondamentaux mis en œuvre par cet auteur, et notamment sur la division de ses personnages en quatre types  : l’un incarne l’ordre, un autre le désordre, le troisième est un manipulateur, et le dernier peut être qualifié de non-participant.

Ces quatre personnages ne sont, en fait, que différentes images du poète lui- même. Toutes les histoires développées autour d’eux sont composées à partir d’un mécanisme commun, dont les fondements sont établis sur la base de l’expérience de Cocteau lui-même. Ayant eu recours à ce dispositif pour sublimer les événements malheureux de son existence, tels que la perte de ses meilleurs amis des suites d’une maladie ou de la guerre, il en a tiré la dynamique de sa création.

Mitsuyo MATSUNAGA

Chargée de cours (titulaire)

à l’Université de Jeunes Filles de Nara

参照

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