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日本に於けるシェイクスピア紹介の歴史(明治十五年 迄)

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

日本に於けるシェイクスピア紹介の歴史(明治十五年 迄)

豊田, 實

https://doi.org/10.15017/2557137

出版情報:文學研究. 1, pp.123-152, 1932-03-10. 九州文學會 バージョン:

権利関係:

(2)

日本へ来た最初の英國人として知られて居るウイリァム・アダ鼻ズ︑即ち三浦按針がオランダの商

船号国の壷の︵愛號︶に乗り︑殆んど漂着の形で九州の一角に上陸したのが慶長五年即ち西暦二︿○

○年であり︑其後アダ鼻ズ等の誰力によって平戸に英閲商館が設けられるに至ったのが慶長十八︵一

六一三︶年であって︑日英關係史上における是等の特筆す寺へき出来事はシェイクスピアの存命中に起

ったのであったo然しアダムズが家康の親任を得て三浦半島の逸兄に釆地を斑って居たことは︑平戸

の英剛商館長コックスの日記及びアダムズ︑身の非翰から知ることができ︑家康が彼から数學を教は

ったことも彼の書翰に記されて居り︑叉英船長ヂョン︒セァリスが日英通商開始の使命を僻ぴ︑ヂェ

イムズ王の國書なるものを齋して日本へ来た時︑それを按針が先づ假名に課したことは︑それをもと

にしたと思はれる漢字交jの課文と共に︑金地院崇傅の﹃異剛日記﹄中に傳はって居り︑且つ平戸の英

刺葡術とま︑マレイ語がよくできて英謡も多少わかったと股はるLヂョン・ヂャポンを初めとして︑

−︲l砂川灸Ⅲ峠7.1j〜

三名ばかりの日本人通謀が居たにも係らず︑この時代にはまだ英研が日本で行はれるやぅ友氣蓮には

日本に於けるシェイクスピア絲介の雁史一二三 日本に於けるシェイクスピア紹介の歴史︵明治十五年迄︶

III1

墨田

−1−

I

L

(3)

然るに日本の洋學と一薑胞へば殆んどまだ閲學の獅舞聖であった文化七︵一八一○︶年の正月江戸の市村

仁Lろの一恥ぞとげたいろいと座で上波された﹃心謎解色絲﹄といふ勝俵砿へ後の繩屋大南北︶及び二批櫻田錆助の合作︵化し當而

の問趣たる綱五郎對お房の部分は南北によるとのことである︶とシェイクスピアの言1ミオー︑ア

ンド︑ヂューリェット﹄との間にかなりの類似鮎のあることが︑批評家の注意に上って届る︒例へぱ

﹃早稻川丈學﹄の沙翁記念號︵大正五年四月發行︶においては伊原青〃剛氏が﹁日本における沙翁劇﹂

なる皿吸深き一文中において︑前妃の二つの劇の間の類似を説明されて︑﹁此れだけの筋を話せば︑

此の劇が沙翁の﹃ロメォとジュリェット﹄の翻案である事は誰に咄考が附くでせう﹂と述べられて居

る︒是等二つの劇の問にはか次jの類似があるc一方が赤城家といふ武家と町人の家糸屋とを對立せ

丈學獅究錐一鮴一二四

なら次かつた︒さうして折伽州かれた平戸の英剛商鮒も︑そ奴より数年前同所に附かれて腓たオラン

ダ商餓の勢力に雌倒せられて︑十年の後即ち元和九︵一六二一二︶年には閉鎖するの止む次きに至った

が︑アダムズはそれ以前に既に日本の土と化して勝た・北︿後私英剛は日本との通商を川復しようとし

たが︑其目的は逵せら肌ず︑吉利支丹辿箸となり︑天草の剛と友j︑倣閥と旗j︑日英遡商の復薩は

遂に安政年間迄押し延くられること︑なった︒

斯る次第でシェィクュピァの存命巾に折角日英の雨剛が一日漉手したに係らず︑英側のこの棄象の

潴前すらも日本へは界易に仰はらなかった︒

︐ご■■

−2−

(4)

しめて勝るのに對して︑他方はモン|ブギューとキャピュレットといゞ浄エローナの窪家を對立せしめて

肘j︑ローミ|オーと是に常る綱五郎とは共に逐放の身となり︑花嫁に顧る筈のち房しテューリ一一ツト

が共に魔畔刻のために仰時假死状態に陥り︑その毒藥の訓合新としては僻のロレンスと鍔肴の東林が

ある︒且つやお房は知らずして赤藥を呑弐さ級て二十四時間假死状態に陥り︑ヂューリェットは川ら知

って服薬して四十二時間眠ったこと︑又シェイクメピァの方では悲劇であるのが︑南北吻方では喜劇

になって肘ること友どは却って﹁換什奪胎の妙﹂を得て居るとも考へ得られるであらう︒而して若しこ

れら二つの劇の間に關係がありとす弧ば︑伊原氏も想像され︑且つ竹村壁氏が昨年の秋火京で附かれ

た日本英文學會大倉の席上で純明さ奴た如く挺崎出烏の闘館で或は共販渡ぜられたかもしれぬ﹃ロー

ミオー︑アンド︑ヂューリエット﹄の筋が南北の耳に入ったと想像するのが雌も翼に近いであらう︒

然しこの頃果して出島の關館でシェイクスピア物が減ぜられたかについてはまだ確変に知られて勝る

わけではない︒但じこの二つの劇の間の關係に就いての井原氏其他の甫葉に對しては︑私は充分の愈

敬︾炉一もつものであるが︑それが確純と友るためには︑筋のあの藤度迄の類似の外に︑なぼ動かす可ら

ざる歴史的事変の准見が欲しいと魁ふのは弧ち私一人では友いやうである︒

と赤咋に︒︑って牡くが︑﹃心謎解色絲﹄の中でお腸が飲まされた咋蕊の劫采は二十門雌が川あるものとされて居るが︑之は一刻を上

下二味に数へての二十川昨︑即ちへ︐の一下川昨川であるらしく︑疵際削の仙疵を川・へて見ても︑﹃ての蕊を俄まされたお腸は二十川

叶Ⅲ後に綱兀郎によって蘇生させられて勝る︒ところが是と考へ介せられるのは揃加︾鯉丈作の﹃花肝八笑・と三細辿加下の中で眼

Ⅱ本に於けるシェイクスピア絲介の雁史一二五

■■■・ql

3−−

(5)

1

丈鯉研究姉一艸言一六

七が﹁人水巾に死して廿川峠が内は蘇生すと︑諭禰に川てゐるはサ﹂と箭って脈ることである︒諭諮は詩ふ迄もなく川鰊川である

が︑この柵川昨はやはり今の昨川の二十川昨川らしく︑皿つ﹃花肝八笑人﹄の上の文句を合む部分が番かれたのは文政川年の頃で

あって﹃心謎解色絲﹄より年代は徒であるが︑然し人水小に死して云為の雷莱は以前から四面ひならはしであったらしく︑何様に

人を汁川昨川假死壯態に陥れるといふやうな澁薬の考が班詐にもなかったであらうか︑私は媒聞にして知らないのであるが︑耕し

﹁心の誰﹂がシェイクスピアに手寄らずに解けるものとしたら︑この遥にその端緒が兄川されるのではあるまいか︒

なほ井脈氏は前記の一文巾に糸いて︑近松の﹃群迦如来誕生愈一の中に︑脚の肉を切って秤にかけ

るところがあるのと﹃ヴェ一スの商人﹄巾の所謝人肉硬入裁到とを比較して︑何れ咄稗迦に開する印

度の傳読がもとで︑一方は波斯を經て欧洲に博は少︑他方は支那を經て日本へ来たものであることを

述べられて居る︒

南北の前記の戯曲が市村座で上波されたのが文化七年の正月であるから︑そ奴が書き下されたのは

その前年であらう︒文化六年はその前年長崎における英船フェイトン雛の狼耕が脈凹となり︑閲防の

動機から︑幕府が長崎のオランダ通詞に英學の飛智を命じた年である︒尤もそ肌より半世紀咄前から

長崎のオランダ通詞の或考が英語との多少の親みをもって居た事は文化八年にできた日本における簸

アンゲリア

初の英學書︵爲本︶たる﹃諾厄利亜剛語和解﹄の序文によっても知り得るのであるが︑日本の英學は先

づ文化年間に愈牟その緒に就いた心のと両ひ得るであらう︒然し初めはやはり關學渚が英語を兼替し

たのであって︑シェ列クュピァの名が初めて日本へ伸はったの弛蘭學渚を遡して哩あった︒

I

4−

(6)

天保十一︑二年にかけて幕府の天女方澁川六澱が諜州した﹃英文蹄﹄といふ英文典がある︒是はリ

ンドレ・マレ︵国昌一のぐ冨員国己の英文典を閲諜から課したものであって︑東京帝剛大學の圃書館に

あったその爲本が︑大正十二年の震災で焼失して以米︑も芋や再び吾寺の眼に鯛れ得ないものと老へ

ら肌て居ったのであるが︑其後澁川家になぼ別の篤本があることがわかり︑故大槻如電翁の斡旋によ

って昭和三年十二月にその爲本の内容が膝篤版刷で六合餓から百部だけ出版された︒而してこの﹃英

文鑑﹄Zそシェイクスピアの名を含む日本にあける雌も古い文献であることが︑公の場跡面指摘され

たのは昨年の秋の日本英文學會の大命における竹村兇氏の誹漉においてどあった︒諜我澁川六砿が天

保十二︵一八四一︶年の四月に幕府に献上したその下細巷之一節一章第八の中に言庸92﹃①の名が

﹁シャーケュピールーと出て鵬る︒友ぼ同じ場所にはミルトン︑ポープ及び倉邑曾巨の︶ヱッチソ

ン︵鷲の目のの︶スチールン等も列畢されて居るが︑課女では是等の文人の特徴が皆作品の名とき肌て

居り︑シェイクュピアの場合はその号ぐ旨昌掲曼急鳴2即ち﹁創作力に悔める心﹂が﹁デ︑フィ

ンディンクレイケ︑ゲーュト﹂書名といふやうに許かれて居る︒

我が剛の文献中シェイクスピアの名前が出て居るもので︑その次に古いのは︑文久元二八六一︶年

に︑長門の湖知肚で訓鮎を附して祇刻さ肌た洩繩本﹃英剛志﹄である︒この﹃英剛志﹄は清間に渡来し

た韮群教新教宣教師で英人の蕪維脈︵言旨幽冒旨匡冒函eが托賜斯米爾納︵この人潴は新村柳士が恕

口木に於けるシェイクスピア茄介の脈史言一七

I8a1NIlllllll

−5

(7)

文班郷究雄一岬ごx

像されて居る如く己5日国曽言の﹃であらう︶の英叫史を淡文に課したものであって︑その第派巻の

絵にシェイクスピアの名前が舌克斯畢と出て居る︒

次に明治になっては︑先づ中村正祗即ち敬宇先生の詳さ肌た﹃西間立志綿﹄︵悔許明淌庚午︵三年︶初

冬新刻木李派一郎赦版︶が︑シェイクスピアの名前を傳へるのみ左らず︑短かい評傳とその作品の一

節の灘さへも紹介して居る︒﹁西側立志編﹄は有ふ迄も次ぐ︑盟日目の一m日房切の陣﹃ぬ専昏を課した

ものであって︑敬宇先生も表越に添へて原名︑助術と鮎川きれて居り︑且つ先生の擦られた原本が︑

フリーランド

一八六七年倫敦出版のものであって︑その翌年︑即ち明治元年に先生が倫敦を去られる時︑弗即蘭徳

︵軍の①蚕且︶といふ人が送別のために贈ったものであることは︑諜本の扉及び扉の要に記されて居る

所から知ることができる︒

先づこの洋書の第一綿十二はシェイクヱピァの排傳である︒除j長く$ないので︑敬字此生の緤丈

と脈文とを對照して次に記すことにしよう︒但し﹃西幽立志細﹄は︑私の所には明治三年悔詐四年版

もあるのであるが︑後の版では︑雌かながら︑訂正もあるやうであるから︑諜文は明治十年の版に喋

ることにする︒

シエークスピーア

舌克斯畢ノ事

シエークスピーアイ0″英國詞曲ノ名家ナル傭睡断雌︿︑元来何ナル種族ヨリ出デシャ︑ソノ碗種冷一一シテ定マラズ︑然レド

−6−

1

(8)

Zoo目①宍ロ○重︑8画︒①門冨日ご乱︺昌盟﹈鼻名①豊①勇尉菖昌目計︺ぃ昌昌二①切言○口韓三の農具言的冒︐自︑由3日画■ゅ

脚本に於けるシェイクスピア祁介の雁史一二九

シヱーグスピーア

モ︑卑賎ヨリ發逵シタルーハ疑ナシ︑ソノ父ぐ馬者及ピ牧人一一シテ︑舌克斯畢幼時湫毛ヲ硫スル

シユッセニクヤウシカヒ

アルヲ業トセリ︑或︿日ク︑舌氏始メープ郷塾一一在一プ助教タリ︑後一一或人家ノ書辨トナレリ︑舌氏ぐ凡

カキヤク

ソ所有人類ノ事ヲ知リタレバ﹁坪昨沖獅ハ撚舞錐﹂圦州誠諏加部潅拳雪一声幟奉ト名ヅクルモ可ナリ︑ソノ州

アラユル人ノ諺語ヲ用フルT切當一一シ|プ謬ラザルガュヱ一︑或ハ舌氏︽必ズ水手タリシ可アルペシトィヘリ︑

コトワザダシカ

ソノ著番中一一︑傳法教師ノ事ノ委曲ヲ識クシタレバ︑舌氏︽必ズ牧師ノ番班タリシーァルペシト

ゴトコマ抑衣オシヘノヤクカキヤク

老愉スルモノァリ︑叉ソノ馬ノ皮肉ヲ能〃分別定断シタレパ︑或︿馬商ナリシトモ云ヘリ︑﹂然〃一︑.ワケサ炎メ

タシカ赤ク︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑舌氏︽切一一優人ナリシナリ︑ソノ年時ヲ迭〆間︑平生ノ試験観察一一曲テ得ダル學識ヲ︑誰ク戯曲

ヤクシヤ

○○○○○Oナシバヰノウタ

アラ一一顯︵セリ︑蓋シ舌氏ぐ深沈ナル書生一一シ|ブ︑勉弧シ|ブ業ヲ倣セル人ナル可︿疑ナシ︑ソノ著ハーオチヅキダヅクオモンストコロノ害︑人心ヲ感ゼシメ︑我ガ英人ノ品行ヲ造り成ヱノ盆アリ︑今日一一至テ︑盛ン|一世一一重

ギヤウジヤウ

この部分を私の手もとにある明治四年版と比紋して見ると︑鱗三行の﹁或人家﹂が川年版では﹁一人家﹂となつ︑てゐろ︒Ⅲつこ

の十年版の﹁戯曲﹂及び﹁品行﹂の振假名はそれ人︑川年版の﹁戯Ⅲ﹂及び﹁品行﹂を訂正したものであって︑細かな鮎

シバヰノウタギヤウャンヤウシゞハイノウダギヨウジョウ迄課右の注迩が服いて居ることを示してゐる︒

ゼラル︑

右の諜文に對する英語の本文は次の如くである︒

−7−

(9)

I

文學研究節一脚一三○

壹巨日匡①冨目穴.国一の毎号⑦﹃三mm四ヶ員8関目︒噴農︼国.︾曽己里﹈呉名①胃①宣旨的①一︷﹄切望匂冒のa8︸︺男①

ケ①のロ障冒の﹄︻一︼二︷①騨謬﹃○○一IOC員︺ウ①﹃圭夛一己章胃○芹彦⑦一︲の四ぐ国︐︷ゴ聾︵一︺の夛酋の臼︺巨の画⑰﹃﹈ロ浄切○ず○○一︺曾︺ユ色︷言の氏I

尋胃烏酌の︒目ごg①時のo旨・一肉.国①再巨辱めの⑦日のg富ぐ①胃①ロ呉ロgo胃︾ず員農目自画ロ角切①宮9日の.︾︾弓CH

い二C︸﹈一ゆ一一︺①四○○巨汽画︒ご○︷︸︺一のの①煙Iでず﹃煙mめい再ゴ幽骨堅邑四ぐこ一ぐ国弄①烏幽二の︑①の︽﹄豈韓︵︸︺の門口この骨︸︺画ぐ①ウ⑦⑦︒麹め昌一1

︒R︸写昌一︺津︹鼬○一⑦﹃ぬ︶﹃園﹈画ロー口売①託の︾・雨﹃○呂冒営言①﹃己画一①く一旦⑦唇︒①﹄ロー︺︺印君国ご邑萌の︾↓毒画バー﹈⑦君騨めむ厩○ケ四ヶご鐸で画託1

切○ごゆの一の﹃一赤手鈎ロ︒騨旦一の庁︸戸︺ぬ匡耐面①Q︶匡旦函④C届ず○一.めゆ1雨一①ゆゴー国切一の厨庁一︺届爲︸﹄⑦目︺ロの計p諄く①彦①○口碑一︺C﹄.①Iユ⑦画一I

﹄ご餌昏一の弄暑○口︒③R帛巨﹂印行○局⑦のC︷岸邑○三曼一の9m①︷﹃Cロ︺騨一ご一Q①︷一命一︒○品①〆での国①ロ︒①曽︺Q○ケ①再く騨営○二︒目﹇﹈鯉口︺㈹1

くゆロ﹃︺一戸の口冒巨い︹岸︺煙く⑦ケの①国騨goの③m﹇巨旦①自庁圏︺旦画ご酋暁・鋲d房声①託︾ぬロニ喬○↓ゴー印・画一刊ゴーの二言・胃言ごぬいcc国宮口l

屋の8①潔の﹃gの①四宮君g巨冒冑goの︒国弓冗さ﹃日画言︒︒具国警の︸︺・盲目o厨﹃.l騨宇醇管︾3号.﹄.

以上の課文と本文とを比較する時︑吾人は明治の初年に全艘としてこれだけの課ができた事に先づ

雛くのであって︑︽︽国︒骨○コの︾g︹農g昌含号偏冒c冒餓ごを﹁人間醐類の搬要録﹂と課せら肌だなどは

賃に巧である︒但し﹁脇ノ皮肉﹂と謀された言勗価︲房一︺は若しその甑CQDでもあったら先生は

汀ちに此庭は﹁馬﹂の意であることを悟られたであらう︒二1

次は第九細の三﹁職業ヲ務メ︑乗テ文學一一名ヲ符ダル人ヲ班グ﹂といふ見出しの章巾に

i'し

−8−

(10)

シヱー〃スビーア

ミヅカホ﹃一リ

舌克斯畢ぐ戯場ノ司長一一シデ︑頗ル向ラソノ総務ヲ料即ユル1一一誇シガ︑ソノ歌曲ヲ作ルー︽

︲111シバヰザガシーントリアッカフ

絶テ︑負セザリシトナリ︑

ジマンと出て居る︒︵この詳丈は明治四年版も十年版恕﹁戯場﹂の振假名に至る迄同じである︒︶但し是は原

シバヰ文中のシェイクュピァに鮒する1つと長い記事の初めの一文章を謀し︑他は略したもので︑原文のこ

の課に對する部分は次の如くである︒望昊名3﹃価一ぐ鱒四mごRのの自国自侭閏具画弓の画言のI胃﹃冨湧

官︐︷巳目︒︑三国︺︑③一︷﹄己○︼︲①匡宅○目ゴーでR画○二の堅いこ四一茸苛一国一一︺員○画でme再﹈︵一国ロC画三耽乏﹃茸冒的○局亘蝕宮の四国g壱○齢言字

次は﹁金銭ノ當然ノ用︑及ビソノ妄用ヲ論ズ﹂と題せられた第十細の初めに附せられた標語中のシェ

イクュピァの文句である︒この細即ち原本の錐十章にはバーンズ︑シェイクュピァ及びプルワ・リト

ンから引用された標語が岡頭に世かれて居るのであって︑其中のシェイクメピァからの引用句の課は

次の如くである︒︵この課文咽明治四年版十年版共に同じである︒︶

シエークスピーアカカ

舌克斯畢ノ詩一一日ク︑金銭ヲ俗ル人トナルーナカレ︑叉金銭ヲ賃1人トナルーナカレ︑蓋シ人一一金

○○銭ヲ賃セぞ往々自己ノ担失トナリ︑弁セテ借ル人ノ損失トナル︑而〆人ヨリ金銭ヲ借レバ︑勤倹

イクラモ○○・○○二プラ○○○○ノ鋒弧ヲ鈍ス可ナリ︑

ホコサキ

とあるが︑是は﹃ハムレット﹄節一藤第三場中でポロー一アメがフランスへ旅立つ我が子を訓戒する

一節であって︑スマイルズの原本にはシェイクュピァの陳文が次の如くに禍げら肌て届る︒

川本に於けるシェイクスピア識介の雁史一三一

−9−

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(11)

丈礫研究錐一岬二一三

z凰昏閂画9局○急魚冒目色庁ロ号局ウn

国○時ざ四国○津ざの①のワ○計ゴー厨①霞四国・か.嚴国烏

皆:︒§舅言魁邑唖昏鳥:自己の冒目︑.I淫異名の胃の.

この原文と灘文とを比較して見ると︑第一行と第三行は巧に謀されて居るが︑第二行は市河博士が

註されて勝る如く﹁人に金を貸すと其炎金咄荻くし其友を弥失ふ﹂の意に課さるべきであった︒

なほポローニアスのこの言葉の淡諜が明治七︵一八七四︶年石村貞一細の﹁泰西名一こ︵大阪︑龍峨堂

發行︶の第十七丁の要に載せられて居るとのことである︒

次に同じく明治七年里︑ぎぎミミ倉軍ミSに掲げられた︽公レットの有名な獅白のローマ字課が

ある︒是については先づ祁代種亮氏が﹃明治文化﹄第一號︵昭和二年十月發行︶に﹁︽公レット獅白の

日本課﹂といふ題の下に紹介せられ︑その後﹃英語と英文學﹄の坪内博士沙翁杢諜記念號︵昭和三年十

一月蕊行︶中において︑同氏が菰ねて説明されて居る︒私はそのぎぎ言討ミ車ミミ誌の安物はまだ

見たことが荻いのであるが︑この雑誌は美漉紙に筆蹟をそのまL印刷したものであるとのことで︑チャ

ールズ・ワーグマン︵弓肩昌自︶がその明治七年版に禍げた︿ムレット獅白の鐸は︑その寓兵版が祁

代氏の紹介の中に出て居る︒それによって見ると︑課文の上に丁濡姿に一刀を侃ぴた人物が恐案に耽

って居る而もちで一室の中に立って居るが︑之は恐らくメムレットであらう︒さうして其の向って右

■壱

I

−10−

(12)

には片假名で﹁シバヰゴャ﹂と記さ奴︑左には﹁シヱクシピル﹂と記されて居る︒叉繪の上には園︲

言国g能﹃OB弓①口①司舂穏国$①ロ日日騨里目︺員①日切目﹀︽︻ロg員目鼻匡国○︻胃冒︾官○ぐ員弱昏①豆睡唱昌一⑮日切

急国警の︸︺胃の国日扁○胃胃屋P邑言ごと記され︑さてその雑の下に記さ奴た課は次のやうである︒

窪昌日勝胃貝昌開冒貰のプ国冒国︒⑦巽曽I

P胃○匙巨昏昌︺C陣O︹一里一○ヶ巨騨誇煙門巨四口巽弄謹﹀詳昌四国ロ︺弾の

z巽尹自白258ヶ騨片三ヶ酌冒乏員E冨一自閻邑言三ケ臼目

距境昌巨且⑦8昌冒易ゞ日E応C昌房ロgo屍CgE●目︾

のC鞍一再Cゴ○一︺ずの冠く茸色印一︺一二冒騨印○ぬ一二一●冒昌︾⑫一︺目ごQ四コ三一画①壗匡︾

シ崗動ユ農の○戸・匹康芦罵︷﹀口匡.匡Q①︸︺陛口陣のゴー昌巨○く○房.○巴﹈﹄

歸288烏E3易︑g員匡冒言三ケ○国ざ尉守D

dm巨日目雪麗冒曾.B国め﹀mC﹃①夛菖ユ異冒曽の言煙日○コC

自画宮切目の冨冨の胃四︾三国烏昌員1国の貝l

z①昌一o富国旨︑①富詳言一ma﹃○月三国の百m三mの愚日冨員

胃肉画﹃画幽口○切彦﹄己旦騨邑君崖○国①同巨︶口四国再口勗①畠﹈昌一堅口︵﹈①岸一員国の ■e

観○画○回目唱芦い匡員宮且一国○国○勺損い﹈昏旨︺閉匡冨︶

日本に於けるシェイクスピア紺介の雁史二一三

−11−

1

(13)

r且

以上はブムレット﹄第三幕第一場中の有名な獅白の一部分の︵逐語?.︶課であるといふ見営はつく

が︑難解な日本語であるので︑祁代氏が漢字交j文に番き鍵へら肌たものを紹介して世く︒但し特に

解り悪い第三行以下を記す︒括弧内の﹁羽﹂は︽︽員﹃・量のこの鐸として︑私が當てk見たのである︒

繩物とは︵羽?︶一番悪い澤山一藩 或腕とります向ふ面倒事海

そIしてきざミ致しますお仕舞死んだんじ獲る 未だそ奴から寝るで話も宜し 心痛いと一千毎日ポンコッ

ラし必とシさんありますそれわ出来戎したもの

澤山好きました死んだんじ寝る

寝る大方贋拝兄然様あちら少しセラ鼻パン 丈畢郷究第一卿

︑一︽○m︸ゴー員︺画︽煩い一国一○函

11●11

三○のぐこ⑦庁①︺の言も宮屋・耳⑦

淫自国m昌○目ご●麹﹀の○言①蔚宮唇看︶己.

11

一三川

−12−

(14)

但し諜者ワiグマンは︑或はこの樺から想像されるであらうやう友無學な人ではなかったらしい︒

今藤間作太郎博士箸﹃近世給謡史﹄の三五三頁から三五七頁の第一行に至る間における彼に開する事

項を抄録すれば︑先づ

﹁チャールズ・ワーグマン︵Q︺且の言詞ョ目︶は英吉利倫牧府の人︑ば℃め武官の職にありしが︑

僻してロンドン︒ニウス職に入り︑安政年間その特派員として日本に氷れり︒屡々わが剛の風景︑風

○O○

僻を蔦して︑蓋報を怠らず︒その技術腱だ優れたるものにはあらずといへども︑わが間の人が直ちに

西洋人に就いてその手法を傅へたるは︑曲一等がこの人に學くるより始或れり︒ワーグマン祇演居紹

地に住み︑わが國に認まる乙と三十除年︑川治二十四年︑五十七歳にして段す︒﹂とある︒

ワーグマンから直接両洋粥の手ほどきを受けたその商捕巾一︵江戸の人︶が後﹁遂に一家をなし︑明

治六年︑日本橘演町に天総祗︵のち天総學舎と改む︶を州きて︑子弗に教授す﹂るやうに衣ってから

日本に於けるシェイクスピア茄介の雁史一三五 からあの死んだんじの渡る何鵬拝兄 此の長い死んだんじもの︑霞廻しました 少し叉進上 ●ll あなたさよならそIして手ボンボン

j1︐−1 出来ます

−13−

I

(15)

次に明治八︵一八七五︶年に﹃西洋歌舞伎葉武烈士﹄即ち貢ムレット﹄の院本風の雛案が﹃李假名

給入新聞﹄︵東京發行︶に掲載され︑その祇案者は︑後で引川しようと岨ふ河竹繁俊氏の言葉によれば︑

假名埴碑文であった︒なぼ河竹氏によれば︑稗文のこの職業を後で﹁職阿彌の高弟友る故三代目河竹

新七︵先代の竹柴金作︶氏﹂が再び縦案したものが﹃蕊鋤外華率稚蹄鐸︵明治一子一革一八月の作として

あるとのことである︶となった次第であるが︑この雛案劇と前の郷文の硫案との關係につき︑河竹氏

が︑前記の﹃早稻凪文學﹄沙翁記念雛︵大正五年四月蕊行︶に寄せられた﹁沙翁と雑阿彌﹂といふ私共に

丈躍研究雄一卿言芙

は﹁名醗隆寺として場り︑.:⁝川端玉章︑荒木蒐畝も︑一時その門に入りて西洋謡を學くり﹂といふ

のであるから︑即ちワーグマンは間接ながら日本詩家をも盆するところがあったのである︒

なほ﹁ワーグー︑ンに學くる⁝.:少壯なるものには︑五姓川芳松︑山本芳翠等あり︒⁝:芳松は:⁝

幼にしてワーグマンに就いて祁童の名あり︑⁝⁝山本芳翠も⁝:.ワーグマン来るに及びて︑就いて乙

肌に學くる次り︒一とある︒

是を以て観れば︑蓋しワrグマンの日本に對する文献は英學史上のものであるよりも︑寧ろ日本洋

詩史に臆す可きものkやうである︒なぼハムレットの測白の邦諜には﹁新禮詩鉢﹂中に含められた︑

當時としては変に・立派な二つの熊もあるが︑是は数年後のものであるので︑後に紹介することにし

たい・

−14−

(16)

取って非常に有益な菱料を含む一女中に於いて︑述べられて居る要所をそのまk紹介すれば次の如く

である︒﹁私が此の翻案を此度親しく讃む乙との出来たのは︑常代竹柴金作氏の好意によってである

まる仕んが︑同氏の直話によれば︑其の材料を﹃総入新聞﹄に述載された假名垣郷文の院本風に翻案したヨ

ムレット﹄に得たといふことである︒﹂

友ぼ河竹氏は同じ一女巾において﹃葉武列士巧減劇﹄の樵迩を数頁に亘って紹介ざ肌て居り︑且つ

同じ文中の終の附言において︑稗交翻案の﹃葉武列士﹄は︑歎阿卿の手記﹃︽公レット﹄の梗概︵後

で紹介する︶と共に︑祁地櫻擬脇士から︑恐らく同一の機命に︑其の筋を得られたものであらうとので紹介する︶と共に︑一詞

想像〃一述べられて居る︒

明治十年には慶應義塾出版耽發行の﹃民間雑誌﹂︵毎日曜發行︶の九十八雛︵明治十年十二月三R發

行︶とその次號に亘って︑一脚肉の奇訟﹄が禍載さ肌た︒是は﹃マーチャント︑オヴ︑ヴェ一ス﹄の雛

シエクスピ十業であるが︑諜者の名は菰く﹁英剛沙士比阿小説の緋案﹂と労害してある︒私は京都帝大の剛書館で

九十八縦を見たのであるが︑場所も日本に移し︑人名咄杢然日本名に書きかへて︑話の筋を雛案した

ものである︒即ち場所は堺の油︑堺の問詰所となって居り︑アントー一ォは松枝節之助︑バッサー一

オは宝野梅次郎︑ポIシャは住吉の豪家の女清香︑シャバロックは慾張頑八といふ訓子である︒九十八

號には裁判の場の柿識があるが︑ポーシャは烏脈子をかむb︑シャィロックは丁溌姿で︑傍に出匁厄

日本に於けるシェイクスピア紺介の雁史一三七

−15−

I L

(17)

丈學研究雄一岬.三X

丁を股いて居る︒さうしてこの繪の向って左府に一識の課は次號に詳なり﹂とある︒この九十八號に

掲載された分は﹃愛詳趣味﹄第四年第一號︵昭和四年一月發行︶に艸載されて居るが︑それにはかな

りの遺揃がある︒今私の手許にある﹃民間雑誌﹄の本文の馬しに依って︑︵錘瞭假名は普通に改め︑假

名通の誤謬はそのま児︶初めの方を紹介すれば次の如くである︒価し句読紺が無いので︑便通上大悩

﹃愛諜趣味﹄の切り方に從って満いた︒

今は昔︑堺の浦に松枝節之助と云ふ術豪家ありける︒其父は原と關來の某侯に仕へ︑勲功も殊に

詩ぽへとら

多かりければ君の畳一と方友らず︑城に出芽したりしかば︑高木風に悪弐るの聡︑忽ち金を礫かす

うろたへおめ

衆口の謹舌に逢ひ︑今は訪律優勝して生面ノーと脇鍍の剣を賜わり︑死後の恥辱を飴さんより︑寧

ろ彼の功成身退きたる五湖釣翁の通に微ふに如かんやと早くも心に定め︑癖貴簡職は覗て敞履の若

く棄て去て︑烏が啼く齊妻の里を後に見て︑遥々と堺の浦にたどり来て︑心を貨殖に用いしかば︑

この忽ち陶朱公にもおきノー劣らぬ耐とぞ致しける︒節之助は生来武を喜み義侠の心ありて︑弱当を助

け弧きを拉き︑善に典し悪を黙すの性攻れば︑之が助けを被りて九死に一生を得し者も多かりける

あげまきそが中に︑愛に同じ郷に室野梅次郎は松枝が親しき友友り︒早く父を喪び総角の頃より︑住吉に世

しらぃで︑うんこいを遁れたる軍學者︑白繊臥雲齋が門に入り︑雪宵蒲晨も脈はずにいみじく勉め學ぴてければ︑年齢

じゃくくわん弐だ弱冠次れども才學凡友らず︑臥雲齋も末城母しき者とぞ思以ける︒其母は去る年より孟病に 且lr

−■屍一一16

(18)

すあが翫臥しければ︑梅次郎は大に悲しみ︑親ら湯藥に侍し︑異國の妙藥も秘法の良剰も家査を指てk購い︑

永の月日をまめノ︑しく孝心を誌せども︑天命如何とも蔵し難く︑終に果敢友き人となりぬ︒か腿

ろ薄命の重りて︑減る負憤に迫られて︑詮方なくも松枝に此事を談ぜしかば︑素より義氣ある松枝

は鞭く諾臥しが︑折節都合の悪しければ︑我持船の遠からず北岡より入津すべきを心當て︑三千雨

の大金を富商欲張頑八より︑三十日期限にて借受けたしと掛合αしに︑頑八は何か恩ふ子細ありけ

ん︑色和らげて申す様︑北閥よりの入船を疑ふて言ふにはあらねど︑願ふは和殿胸肉の一斤を證丈

に抵當として給べと︑鮒て松枝非道と恩へども︑眼慾の頑八に向い︑情理を碗くも詮なきを知れば︑

直ちに望の通り證文認め共金を備り受け︑室野に渡し一時の危急を救弘ける︒︵以下略︶

次は河竹獣阿彌手記ヨムレット﹄の筋書である︒是は河竹繁俊氏が前記の﹁沙翁と職阿彌﹂巾に

述べられて居る所によると︑大正三年の末同氏が職阿彌の傅記を調べられるに就て︑古い書き物を入れ

た箱の中から發見されたもので︑是について同氏は以下のやうに記さ肌て届る︒﹁私の推測によると

確かに明治十一年か十二年の手番であると岨ふ︒年代を證肌するの那山は二三にとぜまらぬが︑今は

その畑を避ける︒而して今一つの推測はその梗概が十中八九は禰地櫻朧雁士から得たものであらうと

考へられることである︒﹂さうして友ぼ同氏はその﹁筋書の第一頁に別人の手跡で︑ハムレットを里

峨らちやう

見義盤︑前岡王を里見義尭︑現間王を同蛍尭︑洞憂︵ホレーショのこと︶を正木大鵬︑桝内卿︵ポロ|一

日本に於けるシェイクスピア祁介の雁史一三九

UbBM

−17

(19)

I

丈醗研究錐一鮴一間○

ャろを坑里谷信昭と書いてある﹂こと︑又それが﹁多分禰地氏の手跡であらうと似はれる﹂ことを記

したあとで︑ヨムレット﹄のその筋番の奈部を描出されて居る︒それは一頁十六行︑一行大抵四十

六字詰の印刷で正味五頁半に亘るものであるが︑その初めの方だけを此庭に記して見よう︒︵六號活

字の説明は河竹繁俊氏の挿入である︶n

鋪一幕燕とある・へきが脱文では場となってゐる︶︒e城外︒武官ベナルド︑マルセリス︑洞長三人先帝の

幽霊に逢ふ︒e御殿︑宮内卿ホロ一ス﹁息レイルテス︑王即位の疵に來りし事︒﹁親王ハムレット

一人喪服にて出る﹁兄嫁と夫姉になるも剛を納める鰯と現國王ハムレットにいふ︒﹁レイルテュ即

位が濟めばフランスへ武術修業に行きたいと願ふう星レットは今帝コロデエスと我母と夫姉に攻

きさきりしを心で変へる﹁后は年四十位︑みなノー︑入る︑コムレット一人残り︑昨日までは姉と言いし

を今日は妻と液せしは︑剛の仇我身の恥なりと歎く︒﹁幕明きの洞長︑マルセリス︑ペナルド三人

来る﹁此ホラテゥは︽公レットと兵學寮に一所に居た所︑先帝の葬式を見に来た﹁兵士を辿れて來

たはどういふ課だと聞く﹁幽雛が出るといふ故見届けに参った︒﹁いづれへ出る﹁毎夜一時頃に御

霊屋の邊bへ・災くノ︑見れば先帝のお姿故何御用あってと雛かくれど轌答なく︑いかりの眼さも

恐ろしき御姿にて二三度お通り故︑齢をかけれど答蔵し︑この事を巾上裂する︒﹁親王今宵は我向

ら行って見よう︑他言致すな︒︵以下略︶

1

1

18−−

(20)

にんげんまんじかねの上の可か獣阿彌が櫻擬居士からリトン郷の小沈の話ときk︑それを翻案した﹃人間醐事金世中﹂といふ三幕

物の喜劇は明治十二年に新揃座で演ぜられて居るが︑ブムレット﹄の方は︑如何在る故か職阿彌は

その梗概を手記したのみで︑芝腔にはせずに終った︒

友ぼ斯る早い頃にシェイクスピア物の梗概を書き記したものに箇荘居士︵和田垣謙三︶の漢諜﹃李王﹄

がある︒是は﹃キング︒リァ﹄の筋の大意を漢文で書いたものであるが︑私は早稻田にありと聞くその礎

物をまだ見る機會と有しないで居る︒然し是に開しては︑故和田垣博士の助手と数年務められた武者

金吉氏が﹃英語青年・﹄の第四十三巻第十二號︵大正九年九凡十五日發行︶に寄せられた﹁日本で初めて

課さ奴た沙翁﹂友る一文中において︑その山來を説明され︑且つ謀そのものk一部をも示されて居る・

尤咄この漢詳については︑早くも坪内博士が︑その﹃マクペヱ﹂の課の附録として添へられた﹁日本に

於ける沙翁研究︑雛澤︑雛案及び上演の略誌﹂︵大正五年二月初旬稲︶中に︑﹁沙翁の統捧を試かた卒

先恭は︑和田垣氏の話に握ると︑同氏らしい︒氏は明治十二年コレラ病流行の年に︑共學友四五名と︑

避若を兼ねて︑之を総根に避けて︑七八雨凡の間に︑漢文で﹃リャ王﹄を瀞し︑﹃李王﹄と題としたこ

とがあるさうだ﹂と記されて居る︒さうして匙に對して︑和川堀博士は︑武我氏も紹介されて居るや

うに︑大正五年のシ︽イク肴ァ殴後三河年記念識驚ぁ聯上で次のやぅに迦へられて鳩るI﹁戒

は常時一方には沙翁物と學ぴ︑一方には故中村敬字先生に就て左傅を學んで居って英文の意味と共に

日本に於けるシェイクスピア祁介の歴史一四一

−19−

(21)

丈娯眺究餓一紺一四二

漢文に一種獅特の妙所あると知って︑n面の一稗生英洩雨兎を迫びっL六十日の夏の日の淌光の具に

供せんが爲めにやった仕事である︒殆んど四十年後の今日悲稲を開いて見ると︑雛くのは其の大慾︑

根氣位である︒もとより世に示すべき爲めではなく︑今讃んで兄るとチンプンカンに過ぎない︒唯一

の誇とすべきは︑世の所訓才子隣を異似ずして努力を惜し弐なかった︑唯この一事である︒﹂︵和川垣

博士迩薪﹁道遥遊﹄参照︶︒以上の旗磁の文句の中に﹁常時一方には沙翁物を學ぴ﹂とあるのは︑其亜和

田垣氏が東京帝國大學の出身たる東京大學で米人救師ウィリァム・ホートン︵国︒侭言︵ら︶のシェイク

スピアの講義を聴かれたのを指して居るものと岨は奴る︒なぼ武考氏は和川垣博士の迩稲を整卸中に

筐底から發見された一紙片︑初必に﹁十二年二月大試業煽級長如故﹂と記され︑それにっ煙いて東京

大學における教科書講義題目様のものが列鋸してあるものを紹介されて居るが︑其中にはシェイクス

ピア關係では﹁ハムレット諭﹂と﹁李王偲﹂がある︒和田垣氏は翌明治十三年に︑井上哲次邸︑岡愈

壁三の諸氏と共に東京大學の丈學部を卒業さ弧だのであって︑同氏等八名は同文學部第一回卒業生で

あった︒さうして﹃李王﹄を課された明治十二年には和田垣氏は数へ年二十歳であった︒

鋳莊居士﹃李王﹄の由來は以上の如くであるが︑其の砿本そのものには︑武君氏の報ぜらる腿所によ

れば︑その始に﹁明治十二年七月十四日於箱根山中垪之澤玉之湯﹂とあり︑その終に﹁七月二十八日

堂ヶ島近泉櫻﹂とあるとの事である︒即ちこの﹃李王﹄は︑よし添佃は後でき奴だとしても︑この二 L■■rlbpI

−20−

(22)

つの日附の間約半月の剛に一應書き総へられたものであらう︒さうしてその穂本そのものは﹁半紙判

縦罫の日本紙百枚程綴ぢた帳面に︑片端から毛筆で謀しっ︑書いて行かれたもので︑朱で蝦しい添刑

が施してある︒紙数五十五枚︑字数凡二瓜二千三百字とは博士nら巻末に記して居られる所である︒

黄色の表紙には左の上部に一︲李王﹂右の下部に﹁和鋳莊﹄と記し︑表紙の裏而には﹁箏久斯波著鐇莊

居士諜﹂とある︒﹂なぼ巻末には︑此の頃から既に和川垣氏一流の茶氣を准揮して︑﹁書林駿河姦西

紅梅町十九番地一而己稀舍丸屋善八︑禰深諭吉﹂と記されてあるとの事である︒

さうして其の内容は﹁謀﹂とはあるものの︑前記の通り一︲キング・リァ﹂の筋のあらましを博へた

ものであって︑武者氏はその開巻第一︑二頁の部分を紹介されて肝るが︑私はその弐た初めの方を次

に掲げて見よう︒即ち鋪一章第一節李王分凪謙徳諫甫の初めの部分である︒

李王者英図之王也︒査性聰明︒及王即位百膳共旭︒悪弊立止︒民各樂其業︒王祢女三︒日椛寧︒

日職洋︒日孝清︒三女皆美︒爲父所愛︒而王特愛孝怖︒及王年漸老︒欲三分其剛典三女︒而己則優

退n通︒以迭除年︒一日召三女︒詔日︒父已毛突︒亦不能兄剛事︒而汝等今既笄︒早晩當嫁也︒女

等嫁之後︒老父欲高秋球志以樂除年︒女等之中愛齊蛾深者誰乎︒暹女桃寧應語誓天日︒女愛慈父之

怖︒非言語之所能誰︒雌︑愛之怖深︒何若愛慈父怖乎︒王聞之碗日︒蕃哉女言也︒向新亜公請女︒

某地某郡吾其授之女典亜公︒子孫繁昌︒傅之無窮︒詔二女職泳日︒女昆王之姉︒女愛父之怖奈何︒

日本に於けるシェークスピーア紺介の雁史一W三

−21−

(23)

P

丈礫研究第一岬一四四

禮雌亦醤天地答日︒女所欲萢希︒粁姉既言焉︒呼天下人多︒而何人有炎於慈父︒王亦悦日︒某地某

境此女之亦也c喬未終︒王前膝遊三女孝浦日︒女我愛女︒佛王莫伯欲箏而得女美︒女能發好言︒以

得勝姉瀦︒女有何惹︒孝清日︒無実c王瀧剛︒呼此何言也︒女共再試之︒孝清沈思久之徐而答日︒

女欲誰常識而已︒

以上﹃李王﹄に就て述べた序に米人教師ウィリァム︒ホートンのことを記したが︑明治十年に開成

學校が東京大學となり︑初めて文學部が設栂せられた時以來明治十五年迄︑この米人教師が同學部で

英語︑英文學を教へたことは砿にかなりよく知ら肌て居る事変があって︑是迄同氏は我が國において

シェイクュピァを講じた初めの人といふやうに普通老へられて居たが︑か友j以前に京都の諏久氏か

ら渋った手紙の中に︑日本でシェイクスピアを講じたのはホ1トンより英人ヂェイムズ・サマーズ

︵舂日の切普ヨョ閏の︶の方がさきのやうに岨はれるが︑といふ意味のことが書かれてあった︒然るに其

後私の手に入れた開成學校肌淌九年の一驚はそれを裏書きするやうに恩はる腿︒その一随といふのは

白のクロスの装釘の四六版であって︑右から開いて約半分は日本語の一覧で︑左から開けば英文一覧

である︒さうして表紙には︑日本語に對する方には﹁東京開成學校一魔嬰児座とあり︑英語に對す

る方には次の如くにあるl弓函旦艮目塚口酋ご自弓国旦目○国○嶽旨m国︲のシ歸悶○︾一月一

胃冨も詞困冒缶思ご琢国局詞望弓邑○田一目○〆胃○・一句○弓国園劇画シ詞一房弓.

■I︒1日I

− −

(24)

日本語及び英語一魔の内雰は同じであるから︑今日本譜の部によって記すと︑先づ﹁教員﹂の中に

﹁英文學及論理ジヱムぞサンマルス英國﹂友る一項があり︑普通科課程中に﹁英語學﹂が出て

居る外︑﹁諸學科要略﹂第一英文學︑修辞學︑論理學の條下の﹁教科書目﹂中に﹁ジェークュビール﹂

の一項がある︒是等から想像するとヂェィムズ︒サマーズはホートン以前に︑既に我が國において

シェイクスピアを講じて居たものと忠はれる︒但しサマーズが何時頃から開成學校で教へて居たか︑

文部有第一年報︵明治六年︶開成學校の條中﹁外側教師﹂中に﹁文學教師英一人﹂とあるのが︑サマー

ズであるか︑私にはまだ調べが届いて居ないc

友ぼシェィクュピァを誰じた初めての日本人は高田早苗博士であるらしい︒同博士がまだ束京大學

丈學部の學生であった時l和田煩氏が三年生の時高Ⅲ氏些年生であって︑三年生のことは既に述

べたが︶當時の二年生中には都築雑六︑嘉納治五郎氏等が居られ︑一年生中には坪内雄職︑有賀長雄

の諸氏が鵬られたとの事であるI同氏は本郷の雌文學職といふ學校で内臓に先生をして勝られ︑識

間ホートン先生から教はったシェィクュピァを右から左へ夜教へられたとの事である︒進文學肚から

は三上参次博士や原嘉近博士などが出られたが︑此庭で商川氏のシェィクュピァの講義を蕊かれた人

の中には︑後新聞記考として称名に友った朝比奈知呆氏等も届られたとの事である︒この事について

は高田博士n身の話が︑﹃日本シェイクスピア協命會報﹄鋪一號︵昭和五年十月發行︶に出て居る︒

H木に於けるシェイクスピア紹介の脈史一四五

出日日11日

−23−

(25)

I

文學研究隼一鮴︲一凹六

市河三喜博士と山口武美氏共細の﹁日本シェイクュピァ諜誌﹂︵刷究砒發行﹃英語研究﹄の昭和六年

三川雛以來描載されっ︑ある咄の︶によれば︑前記明治三年新刻愉許の﹃西國立志細﹄中におけるシェ

イクスピアの評傳の課は別としても︑明治十二年吉田五十穂諜纂﹁伊呂波分西洋人名字引﹂︵東京吉田

氏發行︶には二一四頁から二一五頁にかけて﹁シエークヱピーァ︵ウィリャと﹂と題して︑傅記の紹介

があるとの事であり︵この本は翌年改課されて﹃西哲小傳﹄として同じく吉田氏が發行されて居る︶︑

明治十三年乾立夫詳﹁泰西名士錦上細﹄︵東京︑小泉堂發行︶には一三一頁から二三七頁に一日一って﹁沙

士比阿傅﹂と題する一項があるとの事であるが︑是等の傳記の擁った脈本は今の所不明である︒

なほ前記の﹁日本シェイクスピア書誌﹂の示す所によれば︑同じく明治十三年﹃伊勢古事記日曜叢

誌﹄︵二董︑墜鑑耐發行︶の鋪十七號に﹃ローミオー︑アンド︑ヂューリエット﹄に就いて︑十二︑三

行の紹介があるとの事である︒

明沿十四年には﹁東洋學蕊雑誌﹄鋪六號に術今勝士︵矢田部良吉︶課﹁︽ムレット中の一段﹂が載っ

て勝るとの事であるが︑是は翌明治十五年に初版を出した﹁新慨靜紗﹄︵丸屋善七礁行︶巾に含められ

て居る︒︵私の所にあるのは明治十七年の再版であるが︑︶扉の右の部には外山正一︑矢田部良吉︑井

上哲次郎︵但し原本では三名列記︶同撰︑初締とあり︑表紙題簔の下部にも三人の姓名が列記してあ

る︒Zの誹集が當時新進のこの三人の學渚によってなさ肌た一つの新らしい試みであったことは︾凡 ■■日日旧旧旧■1︼■

−−24

(26)

軒は井上教授である︒︶

此の持集の中には創作も含まれて居るが︑多くは英誹の課であって︑前記尚今居士のハムレットの

濁白の課の外︑なほシェイクスピアの文章の課を含んで居る︒先づ内容の一般を示すために目次を引

用すれば次の如くである︵次の雅號中尚今は既に述べた辿り矢川部教授であり︑︑山は外山教授︑巽 例の番き出しの次の文句からも想像できるであらうl

均シク是レ志ヲ肴フナリ︑而シテ支那一一テハ之ヲ緋ト云上︑本邦一一プハ之ヲ歌ト云上︑未ダ歌ト詩

トヲ總稲スルノ名アルヲ間カズ︑此書一一載スル所ぐ詩一一アラズ︑歌一一アラズ︑而シテ之ヲ詩ト云

う︽泰西ノ﹁ポエトリー﹂ト云う語即チ歌ト詩トヲ総称スルノ名︾一當ツルノミ︑古ヨリイハュル詩/︽泰西ノ﹁ポエ

玉の絶の歌 プルウムフヰールド氏兵士蹄郷の緋︵凡山仙士︶カムプペル氏英剛海軍の排︵術今脇士︶テ一ソン氏輕騎隊進雌の排︵︑川肘士︶グレー氏城上戚懐の詩︵尚今居士︶ロングフェルロー氏人生の緋︵︑川仙士︶ ニアラザルナリ︑

川本に於けるシェイクスピア耗介の雁史

/一、 ノレ

對臘 ロ

軒 I

届氏 士人

一" ′【.

配■■9日F ■︒Ⅱ14・ロー胆北

−25−

I

(27)

一プ一ソン氏船牌の排︵尚今川士︶

抜刀隊の排︵k・山仙士︶

勘學の歌︵尚今居士︶

チャールそキングスレー氏悲欣︵︑川仙士︶

搬介の大佛に詣で凡戚ありへ術今峅士︶

高附ウルゼーの排︵L川仙士︶

シャール︑ドンアン氏非の排︵術今崎士︶

趾會學の原理に題す︵k川仙士︶

ロングフェルロー氏児童の排︵尚今居士︶

シェーキスビール氏ヘンリー第四世中の一段︵︑山仙士︶

シェークスピTル氏ハムレット中の一段︵術今居士︶

シエーキスピール氏ハムレット中の一段︵k山仙士︶

春夏秋冬の詩︵術今居士︶

念のために記して牡くが︑巽軒居士の﹁玉の緒の吠﹂はその直ぐ前のL山仙士のものとMじく︑ロングフェローの﹄︑匂ミミミ

嗣零の課である︒ と

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巧し〃し

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−26−

(28)

以上の中シェイクスピア關係のものだけに就いて述ぶ肌ぱ︑先づ﹁高僧ウルゼーの詩﹂であるが︑

是は﹁ヘンリ八世﹄第三幕第二場三五○三七二行の課であって︑

おさらはさらばいざさらば再び會はい暇乞α 榮騨に永く別るべし 人の智は皆都て 利運の端の芽出し攻ば八重咲きにほふ花盛り 位に位亜友りて榮曜榮華を極むれば 患な胸に恩ふ様運命覗く願かなひ

がん

天にも登る誰なりと 悦びいきむをろかさよ

云冷といふ調子である︒

その次は﹁シェーキスビール氏ヘンリー第四世中の一段﹂である︒この初めにははし許きやうのも

のが附いて居て︑やはり七五調で︑ヘンリー四世の生派を概純し︑﹁此一筋はこれぞこれ其有様を

うつしたるシェーキスビールの名作ぞ﹂云々で結んであるが︑是は上山仙士の作であると似はるk・

きうして其後に

最と下賎なる我人の枕を高く高いぴき 今しも眠る其数は幾千閏かある友らん

日本に於けるシェイクスピア茄介の雁史一四九

−27−

l﹂

(29)

一五○

文蝶研光第一岬 あL美し茨し眠の洲ょ眠b刺

云々と警階シゞイク象ビア粥をヨン︐:﹄笙蔀の笙一燕墓場四三行叩ち不

眠の苦流を歌ったものである︒

そ奴から欺後は﹃︽公レット﹄第三幕弟一場のハムレットの獅白で︑是は矢川部︑外山咽教授が各

nに課されて居るが︑その初めの方を對照すれば次の如くであるl

ながらふ︑へきか但し叉ながらふゞへきに非るか 愛が思案のしどころぞ運命いかにった友きも これに堪ふるが大丈夫か叉さはあらで海よりも

ま す

む 寿

. 深

き 遺

恨 に

手 向

ふ て

之を晴らす︒がものLふか

どうも心に落ちか函る 扱咄死なんか死ぬるのは 眠ると同じ眠る間は心痂のみか肉鵬の

あらゆるうきめ打拾つる 是ぞ望のはて友らん ア︑しぬ︑ねむる︑ねむる時繭が一ゆめみるならば

︿アこだわりが有るやうぢや︵以下略︶

是は尚今居士の謀であるが︑鳴川仙士の群は次の如くであるI

−28−

(30)

岨案とするはこ﹂ぞかし

字囲︑町I列

死ぬるが増か椎くる力艸力 ったなき蓮の情なくうきめからさめ重なるも

叉もおもへぱさはあらで 堪へ忍蕊が甥と塊ぞょ

こり

一そのことに二つ友き蕗の玉の緒うちきりて

いつ

死んで眠りてそれぎりとからきくるしき世の中を さらりと去って淌え行くも卑怯の業にあら楓かや

わざ

一眠りにてつもりこし胸の焦れや現身の

ひとうつし.

瓜の銀苦それぎりに去りて去らるLものならば

それに戎される乙とな当一も︵以下略︶

なほ﹃新慨詩紗﹂の内容を取拾し皿っ他の排を加へた﹃新慨廊歌﹂第一集︵竹内隆信編︶が同じく明

治十五年に山梨の徴古堂から發行されて居るが︑この方は私は未見である︒

弐た宇田川丈海か﹃アズ︑11︑ライク︑イット﹄の筋を縦案した﹃四つの緒﹄が︑明治十四︑五

年の嘘大阪朝日新聞に述載されたとのことであるが︑私は是も未見である︒

明治十六年になると︑シェィクュピァの一つの劇杢慨を日本語に原文から課出した最初のものたる 河島敬澱翁の﹃蝿州ジュリァ子シiザルの劇﹄が立悲政黛新聞に連載されて居り︑この河島翁につい

n本に於けるシェイクスピア紺介の歴史一五一

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丈學研究第一脚一五二

ては最近竹村兇氏が﹃英語研究﹄第二十四巻鋪十號︵昭和七年一月一日發行︶に寄せられた﹁シエイ

ークスピャ緋諜の噛欠﹂及び﹁書物展望﹂鋪二巻第二雛︵昭和七年二月一日發行︶巻頭の﹁河島敬瓶翁﹂

において委しく紹介され︑翁は愛に我が剛においてシェイクスピアの杢諜を企てた妓初の人であるこ

とを詳述されて居る︒なほ同じ明治十六年にはラムのシェイクスピア物語からの邦課たる翠嵐先生課

マキシム述西韮斯比耶叢書z○・一.﹃佛間某州領主凧吉侯情話﹄︵東京︑非夢椣發行︶及び井上勤課﹃人肉質入

裁判﹄︵東京︑今古堂駿行︶が川て居る︒前看は﹃アズ︑11︑ライク︑・イット﹄︑後宕は言ふ迄もな

くコーチャント︑オヴ︑ヴェ|一旦の梗概である︒さうしてZの中﹃人肉質入裁判﹂はかなり長い

間︑ラムの物語からのこの種の群の初めのものと老へら肌て居たのであるが︑︵同年ではあるが︶それ

よりも寧ろ翠嵐先生群﹁肺吉侯情話﹂の方が先に出版されたであらうことを初めて發表されたのは︑

私の知って居る限りでは重久鯆太郎氏であり︑同氏は﹃同志趾文學﹄2︵昭和三年五月發行︶に寄せられ

た﹁明治初期沙翁邦諜老﹂︵九頁に亘る一文︶中にむいて︑その事に言及されて居る︒

以上の次鋪で明治十六年迄来ると︑日本にむけるシェイクスピア紹介研究は愈々本無蕊に入りかけ

た域があるのであるが︑紙面の都合もあるので︑この稲は明治十五年迄を稲詳述したのみで段落を着

けることにした︒十六年以後のことは弐た稲を改めて述べたいと岨って居る︒︵昭和七年二月九H砂

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参照

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