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The Official Rank and Ch’ing-Cho (清濁) ofChün-T’ai-Shou (郡太守) in the SouthernDynasties

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The Official Rank and Ch’ing-Cho (清濁) of Chün-T’ai-Shou (郡太守) in the Southern Dynasties

野田, 俊昭

https://doi.org/10.15017/2230272

出版情報:史淵. 127, pp.77-110, 1990-03-31. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:

権利関係:

(2)

南 朝 の 郡 太 守 の

班 位 と 清 濁

俊 昭

南朝の官制上における郡太守の地位について考える際︑現在差し当りつぎの二点が問題となろう︒

梁の天監七年︿五O八︶に︵文宮としての︶流内十八班制が施行されてい忍が︑その際の郡太守の斑位はどの

程度 のも ので あっ たの か︒

同郡太守は六朝官制の特色のひとつとされる官の清濁とは無関係であったのか︑

官︑濁官の別があったのか︒ それとも郡太守についても清

については︑﹃障害﹄巻二十六百官志上︑及び﹃通典﹄巻=一十七職富十九梁官品に︑それぞれの官が第何班に

位置するかが示されている︒しかし︑郡太守については具体的な記載はない︒こうした流内十八班制における郡太守

の斑位については︑夙に厳耕望氏の言及があり︑以下のように述べられている︒

﹃漢制︑郡国守相秩二千石︑三輔秩中二千石︒秩禄表官位︒自説立九品制︑遂以晶表位此正史官志及通典記之頗

詳︒惟斉梁之制︑則闘而不詳︒按梁制以班序位︑而以斑多者為貴︒但陪書百官志記梁制云・・﹁郡守及丞各十班︒﹂通

按此云﹁十班﹂︑意謂十等︑但班第不明︒考食貨志述梁制云・・﹁丹陽︑呉郡︑会稽等郡同太子倉事︑尚 H 

典三

七問

南 ︒ 朝の 郡太 守の 班位 と清 濁

七七

(3)

南朝

の郡

太守

の班

伎と

清濁

七八

書班︑高涼︑晋康等小郡︑三班而︒﹂検太子倉事第十四班︑列曹向書第十三班︑是大小郡之地位恰為十等︑

合︒亦即大郡地位高至第十三四班︑小郡地位低至三班也︒可補百官志未所備︒﹄

との﹃陪書﹄百官志上︑﹃通典﹄梁官品にみえる﹁郡太守を十班と為す﹂とする﹁十班﹂を十等に分かれた班位を

意味するとする厳氏の見解をとらず︑右の﹁十斑﹂を文字通り斑位としての流内第十班と解し︑流内十八瑳制施行以

2

V

降の郡太守の班位を一律に流内第十斑とする見解も依然として存在しているようである︒乙れは恐らく︑厳氏が自己

の見解を証す忍論拠として引用された﹃障害﹄の﹁丹陽︑呉郡︑会稽等郡同太子倉事︑尚書班︑高涼︑晋康等小郡︑

︿3

V

三班己而﹂という記事が︑﹃楕書﹄では食貨志にみえ︑各宮の秩禄を述べた文脈のなかに存在していること︑厳氏が

丹陽罪︑呉郡太守︑会稽太守などが官序上太子倉事︑列曹尚書の班位に相当するととを具体例について示されなかっ

たか らで はな かろ うか

与百宮志

小論ではまず︑厳氏の一不された郡太守の班位についての理解が︑すでに宋から斉にかけて郡太守の官位について分

化がみられるととなどから︑充分に妥当性をもつものであると思われるととについて述べる︒

つぎに︑同についてであるが︑東晋南朝の官人は︑梁の天監七年を頂点として断行された所調天監の改革︵以下と

れを﹁改革﹂という︒との﹁改革﹂の一環として流内十八班制が施行されたわけである︶以前についていえば︑郷晶

一・ニ品をもっ階属に属するもの︵以下とれを甲族という︶︑郷品三・四・五晶をもっ階層に属するもの

郷品六・七・八・九品をもっ階層に属するもの

︵以

下と

を次

門と

いう

﹀︑

︵以 下と れを 後門 とい う︶ の= 一層 に大 別さ れる

︒と

れらは同時に甲族を最上位とし︑刊以下次円︑後円とつづくヒエラルキーを構成するものでもあ忍︒

梁の 武帝 は﹁ 改革

﹂に おい て︑

とこ

ろで

以降後門が官人たるべきととを否定している︒したがって︑﹁改革﹂以

降にあっては︑宮人たるべきものは原則上甲族︑次門のものに限られるようになったわけである︒

南朝にあっては︑清宮は通常甲族出身者のみが排他的独占的につくべきであった︒甲族出身のものが起家以降につ

(4)

いていく一連の清官からなる官序は︑清塗などと称された︒

4

V 

もの であ った

一方︑濁官は次円以下の出身のものがもっぱらつくべき

5ζろで︑清官︑濁官にどのような官があったかについては︑先学によってかなり明らかとなった︒しかし︑地方

6︶ 官︑小論で問題とする郡太守については清官︑濁官の区別とは.無関係であったとする見解も存する︒小論ではつぎ

に︑郡太守についても決して清宮︑濁宮の区別と無関係ではなく︑清宮とされる郡太守と濁宮とされる郡太守が存在

︵と

ζとは地方官といえども官の清濁ということと決して無関係でなかったことを意味

した

ζ

につ いて 述べ る︒

す忍

︒な

お︑

いうまでもないが郡内史も郡太守にふくめて論ずる︒︶

宋斉時代における郡太守の官位の分化

周知のように︑郡太守は宋時代︑宮晶表のうえでは一律に第五品に位置づけられている︒これは斉時代にあっても

7同様であろう︒しかし︑天監七年の流内十八班制の施行に当たって︑郡太守の班位に分化が生じていたとするなら︑

それに先行する宋から斉にかけて︑すでに郡太守の官位に分化が生じていたであろうととが当然予測される︒以下そ

のととについてみ忍が︑それにさきだって確認しておかなくてはならないのは丹陽デの官位についてである︒丹陽予

は宋斉時代︑官晶表のうえでは第三品とされている︒結論からさきにいえば︑宋斉時代を通じて丹陽号ノは名実ともに

第三 品官 であ った

︒ と と ろ で

︑ 宮 崎 市 定 氏 は 大 著

﹃ 九 品 官 人 法 の 研 究

﹄ の な か で

︑ 著 作 佐 郎 な ど に

起家する階層の人々︑小論でいう甲族層に属する人々がとる官序について芳察され︑彼らが一般的にいうと︑

﹁清 要官 の発 達﹂ と題 して 秘書 郎︑

つぎ

ような官序をとるととを明らかにされた︒

南朝

の郡

太守

の班

位と

清濁

七九

(5)

南朝

の郡

太守

の班

位と

清濁

中書侍郎・黄門侍郎・太子中庶子のうち二官||尚書吏部郎または司徒左長史||侍中

という官序である?中書侍郎︑黄門侍郎は説晋以来第五品で︑乙れは宋斉時代にあっても変化なかった︒

吏部郎︑司徒左長史は宋斉時代︑官晶表のうえではそれぞれ第六品とされているが︑当時何れもその実質的官位を上

︿B昇させ︑第四品相当の官位をもつにいたっている︒侍中は名実ともに第三品官である︒とののち中村圭爾氏は︑さら

一方

︑尚

に侍中より以上の官序について考察を加えられ︑彼らが一般的にいうと︑侍中よりのちに列嘗尚書︑中書令︑太常︑

領軍将軍︑護軍将軍︑向書︵左右︶僕射︑向書令などの第三品官につくととを明らか吏部尚書︑中領軍︑中謹軍︑

︿9にされた︒丹陽罪は右の宮序に引き当てた際︑列曹尚書などの侍中より以上の第三品官と同等の官位を一貫して保持

していたわけである︒具体例についてみる︒

﹃宋 書﹄ 巻四 十六 越倫 之伝 に︑ 組伯 之の 子伯 符に つい て︑

︵元 嘉二 十二 年︶

︵四 四一

︶︑ 為護 軍将 軍︑ 復為 丹陽 罪︑

とある︒護軍将軍は第三品官で︑さきに述べたように宮序上侍中の上位に位置する︒

つぎ

に︑

﹃宋 書﹄ 巻五 十一 宗室 に︑ 長沙 景王 道憐 の孫 乗に つい て︑

太宗︵宋明帝︶泰始初︑為侍中︑頻徒左衛将軍︑丹陽予︑太子倉事︑吏部尚書︑

とある︒左衛将軍は宋斉時代︑官晶表のうえでは第四品に位置しているが︑前述した尚書吏部郎︑司徒左長史などと

同様にその実質的官位を上昇させ︑当時第三品宮に相当する官位をもつにいたってい忍︒とれは右衛将軍についても

︿m v

同様である︒吏部尚書は第三品宮で︑すでにふれたようにその官序上の位置は侍中の上位にある︒したがって︑乙の

記事は乗が三品宮を渡り歩いたが︑そのなかに丹陽予があったと理解すべきものである︒さらに︑

裳豹 伝に

︑実 豹に つい て︑ 選御 史中 丞︑

::

:孟 永卒

︑豹 代為 丹陽 罪︑

﹃宋 書﹄ 巻五 十二

(6)

とあ 答︒ 御史 中丞 は名 実と もに 第四 品官 であ る︒ さら に︑

﹃宋 骨一 日﹄ 巻五 十二 橋叔 鹿伝 に︑ 叔祷 度の 兄秀 之に つい て︑ 歴顕 位︑

::

:侍 中︑ 左衛 将軍

︑左 民尚 書︑ 丹陽 夕︑

とある︒左民尚書︵列曹尚書︶はすでにふれたように第三品官で︑その宮序上の位置は侍中の上位にある︒つぎに︑

との人事は結局実現しなかったが︑﹃宋書﹄巻五十三庚畑之伝に︑庚畑之について︑

頃之

︑転 侍中

︑本 州大 中正

︑遷 吏部 尚書

︑領 義陽 王師

︑太 祖︵ 宋文 帝︶ 欲出 為丹 陽︵ ヰア

︶︑

とある︒さらに︑﹃宋事﹄巻五十三謝方明伝に︑謝方明について︑

遷侍 中︑ 永初 三年

︿四 二二

︶︑ 出為 丹陽 罪︑

とあり︑﹃宋書﹄巻五十四孔季恭伝に︑孔季恭の弟量符について︑

自侍中為輔国将軍︑完州刺史︑入為丹陽罪︑

とあ り︑

﹃宋 書﹄ 巻五 十四 羊玄 保伝 に︑ 羊玄 保に つい て︑

入為都宮両書︑左衛将軍︑加給事︑丹陽デ︑

とある︒都官尚書︵列曹尚書︶の官位についてほすでにふれた︒つぎに︑﹃宋書﹄巻六十四鄭鮮之伝に︑鄭鮮之につ

い て

遷 ︑ 太常

︑都 宮向 書︑ 永初 二年

︵四 二一

﹀︑

::

:出 為丹 陽ヂ

︑復 徴為 都官 尚書

︑加 散騎 常侍

とある︒所調諸卿のなかには宋斉時代︑官晶表のうえでは第三品に位置しているのにもかかわらず︑その実質的官位

︿m

を黄門侍郎程度︑つまりは第五晶官程度に低下させたものも生じているが︑きさにみたように太常についてはそうし M

たととはなく︑名実ともに第三口問としての官位をもち︑その宮序上の地位は侍中の上位にあった︒さらに︑﹃宋書﹄

巻六十六何尚之伝に︑何向之について︑

︵元

嘉︶

・目

十︑

二年

︵四

三五

﹀︑

選侍

中︑

︿太

子︶

中庶

子如

故︑

尋改 領務 撃将 軍︑

:;

:乃 以尚 之為

︵丹 陽︶ 罪︑

::

:乃 徒

荷崩

の郡

太守

の班

位と

清濁

i

(7)

南轄 の郡 太守 の斑 位と 清濁

)¥ 

とあ

る︒

尚之為調部向書︑領国子祭酒︑

澗部尚書︵列曹尚書︶の宮位についてはすでにふれた︒

つぎ

に︑

﹃宋書﹄巻六十王准之伝に︑王准之につ

いて

明 ︑ 年︵ 元嘉 三年

︶︵ 四二 六︶

︑従 為都 宮尚 書︑ 改領 吏部

︑:

:: 出為 丹陽 罪︑

::

:十 年卒

︑:

:: 追贈 太常

とあり︑﹃宋審﹄巻七十二宗室文九王に︑建平宣簡王宏の子景索について︑

とあ

る︒

刀ミ

李 太

左 子衛 左

率 衛

は宅

井 加

時 給

代 苦

楊予

官晶表のうえでは第五品に位置づけられているが︑実質的にはその官位を上昇さ

せ︑第四品宮相当の官位をもつにいたっている︒ζれは太子右衛率についても同様である︒

八劉廷孫伝に︑劉廷孫について︑

世視︿宋孝武帝︶即位︑以為侍中︑領前軍将軍︑:::挙建元年︵四五四﹀︑遷丹腸罪︑

つぎ

に︑

吋宋 書﹄ 巻七 十

とあり︑﹃宋書﹄巻八十一劉秀之伝に︑劉秀之について︑

大明元年︵四五七﹀︑徴為右衛将軍︑明年︑選丹陽罪︑其年︑遷向書右僕射︑

とある︒右衛将軍の宮位についてはすでにふれた︒尚書︵左右︶僕射の官位はもとより第三品であり︑その官序上の

地位は侍中の上位にある︒以上の例から︑宋時代丹陽予が名実ともに第三品官としての地位を保持していたことが理

解さ れよ う︒

つぎに︑斉時代についてであるが︑管見の及ぶ限りでは各人の宮序のうえで丹陽ヂは単独で現われるととはなく︑

他官を併せもつかたちで現われており︑宋時代のように明確ではないが︑その殆んどが宋時代と同様に侍中以上につ

いたのちに現われており︑斉時代にあっても︑各実ともに第三品官としての宮位を保持していたとしてあやまりなか

M

るう

(8)

以上 を確 認し たう えで

ととで﹃宋書﹄巻五十八宗室武二王をみると︑

︵劉斌︶自司徒右長史擢為︵司徒︶左長史︑:::︵彰域王﹀義康欲以斌為丹陽夕︑言次啓太祖︑陳其家貧︑上覚其

皆︑義康言未卒︑上目︑以為呉郡︑後会稽太守羊玄保求還︑義康又欲以斌代之︑又啓太祖日︑羊玄保欲還︑不審以

誰為会帯︑上時未所擬︑倉卒目︑我巳用王鴻︑

とある︒右に見える羊玄保については︑司宋書﹄巻五十羊玄保伝に︑

入為都宮尚書︑左衛将軍︑加給事中︑丹陽罪︑会稽太守︑又徒呉郡太守︑加秩中二千石︑太祖以玄保廉素寡欲︑故

頼授

名郡

とある︒さらに︑﹃宋書﹄何尚之伝に︑孟観について︑

兄組 貢盛

︑顕 不就 貯︑ 組死 後︑

::

:遂 歴呉 郡︑ 会稽

︑丹 陽コ 一郡

︑侍 中︑ 僕射

︑太 子倉 事︑ 復為 会稽 太守

︑卒 官︑

とある︒乙れらは呉郡太守︑会稽太守の官位が丹陽予のそれとほぼ同等のものであるととを察せしめるところがあろ

ぅ︒ そう する と︑

ζこで会稽太守︑呉郡太守の官位が実質上第三品であったとする想定が可能となる︒具体例に即し

てみ てい って みよ う︒

まず︑会稽太守についてであるが︑﹃宋書h巻五十三謝方明伝に︑諸方明について︑

遷侍 中︑ 永初 三年

︵四 二二

︶︑ 出為 丹陽 罪︑

::

:転 会稽 太守

とあり︑﹃宋書﹄孔季恭伝に︑孔季恭の弟霊符について︑

世祖 大明 初︑ 自侍 中為 輔国 将軍

︑克 州刺 史︑

::

:入 為丹 陽ヂ

︑:

:: 霊符 自丹 陽︵ 早乙 出為 会稽 太守

さ =

り に

とある︒これらの例も会稽太守と丹陽予の官位がほぼ同程度であったととを察せしめよう︒

六張 部伝 に︑ 張部 につ いて

︑ 転侍 中︑ 孝建 二年

︵四 五五

︶︑ 出為 会稽 太守

︑卒

﹃宋 書﹄ 巻四 十

南朝

の郡

太守

の班

位と

清濁

八 一 ︸

(9)

南朝

の郡

太守

の班

位と

清濁

J¥ 

とあり︑﹃宋書﹄巻四十七劉懐粛伝に︑劉懐粛について︑

高祖︵宋武帝︶以旧恩︑懐粛見寵授︑至会稽太守︑尚書︑金紫光禄夫夫︑

とある︒先述したように︑列曹尚書は官序上侍中の上位にある︒さらに﹃宋書﹄椿叔度伝に︑格叔度の兄淡之につい

高 て ︑ 祖受 命︑ 為侍 中︑

::

:乃 以淡 之為 会稽 太守

とあり︑﹃宋書﹄五十三張茂度伝に︑張茂度について︑

徴為都宮尚書︑加散騎常侍︑固辞以疾︑就拝光禄大夫︑加金章紫授︑:::元嘉十八年︵四四一︶︑除会稽太守︑:

明年

卒於

官︑

とあり︑﹃宋書﹄孔季恭伝に︑孔季恭の子山士について︑

歴顕位︑侍中︑会稽太守︑坐小弟駕部郎道穣逼略良家子女︑白衣領郡︑元嘉二十七年︵四五O

︶︑

卒宮

とあ り︑

﹃宋 書﹄ 巻六 十三 王華 伝に

華従父鴻︑五兵尚書︑会稽太守︑

とある︒とれはさきに劉斌についてみた時に︑文帝によって倉卒に会稽太守とされた王鴻と同一人物であろう︒さら

に︑﹃宋書﹄巻七十九宗室文五王に︑王翼之について︑

官至御史中丞︑会稽太守︑広州刺史︑

とある︒御史中丞の官位についてはすでにふれた︒

名実ともに第三品官たる丹陽デとほぼ同等の官位をもっととを察せしめる記事と︑それゆえに官序上持中以上に位

置づけられていた乙とを示す記事から︑宋斉時代会稽太守が実質的には第三品官相当の官位を保持していたことが想

定さ

れよ

う︒

(10)

つぎに︑呉郡太守についてであるが︑﹃宋書﹄巻五十三江夷伝に︑江夷について︑ 尋拝 吏部 尚書

︑為 呉郡 太守

︑:

:: 復為 丹陽 罪︑

とある︒これは呉郡太守と丹陽ヂがほぼ同等の官位にあったζとを察せしめよう︒さらに︑﹃宋書﹄巻八十一顧韻之

伝に

︑顧 韻之 につ いて

︵大明︶二年︵四五八︶︑転吏部尚書︑四年︑致仕︑不許︑加左軍将軍︑出為呉郡太守︑八年︑復為吏部尚書︑加給

事中

︑米 拝︑ 欲以 為会 稽︵ 太守

︶︑ 不果

︑還 為呉 郡太 守︑ とあ り︑ 可南 斉書

﹄巻 三十 二王 延之 伝に

︑王 延之 につ いて

遷侍中︑領射撃校尉︑未拝︑出為呉郡太守︑:::除吏部尚書︑侍中︑領右軍︑並不拝︑復為吏部尚書︑領駿騎将

軍︑出為後軍将軍︑呉興太守︑遷都督湖東五郡︑会稽太守

とある︒乙の二つの記事は呉郡太守が会稽太守とほぼ同等の官位をもつものであったととを察せしめる︒

とこ で︑

﹃宋 書﹄ 巻四 十二 劉穆 之伝 をみ ると

︑劉 穆之 の子 式之 につ いて

還為太子右︵衛﹀率︑左衛将軍︑呉郡太守

とある︒太子左衛率と左衛将軍の官位についてはすでに述べた︒

孫濯

につ

いて

つぎ に︑

﹃宋 書﹄ 巻五 十一 宗室 に︑ 長沙 景王 道憐 の

太宗世︑既黄門侍郎︑都宮尚書︑呉郡太守︑

とあ り︑

﹃宋 書﹄ 巻五 十三 原登 之伝 に︑ 庚登 之に つい て︑ 元嘉 五年

︵四 二八

︶︑

::

:入 為司 徒右 長史

︑尚 書吏 部郎

︑司 徒左 長史

︑:

:: 出為 呉郡 太守

︑:

:: 以事 免官

︑ とあ り︑

﹃宋 書﹄ 巻五 十三 張茂 度伝 に︑

南朝

の郡

太守

の斑

位と

清濁

茂度同郡陸仲元者︑晋太尉元曽孫︑以事用見知︑歴清職︑吏部郎︑右衛将軍︑侍中︑呉郡太守︑

 

(11)

南朝

の郡

太守

の班

位と

清濁

とある︒右衛将軍の官位についてはすでにふれた︒つぎに︑﹃宋書﹄巻五十七察興宗伝に︑察興宗について︑

世祖 践昨

︑:

:: 遷侍 中︑

::

:留 為左 民向 書︑ 出興 宗呉 郡太 守︑ 固辞 郡︑

とある︒この人事は結局実現しなかったが︑察興宗は列曹尚書にあった時に︑呉郡太守につけられようとしたわけで

ある︒さらに︑﹃宋書﹄巻五十九段淳伝に︑股淳の父穆について︑

因子祭酒︑復為五兵尚書︑呉郡太守︑太祖即位︑為金紫光禄大夫︑韻寛陵王師︑遷

転散

騎常

待︑

︵高

祖︶

及受

禅︑

護軍

︵将 軍︶

とある︒護軍将軍の官位についてはすでにふれた︒さらに︑﹃宋世一宮何尚之伝に︑何尚之の父叔度について︑

時叔度為尚書︑後為金紫光禄大夫︑呉郡太守︑加秩中二千石︑元嘉八年︵四三一︶︑卒︑

とあり︑﹃宋書﹄巻八十一顧環伝に︑丘淵之について︑

太極即位︑以旧恩歴顕官︑侍中︑呉郡太守︑都宮尚書︑卒於太常︑

とある︒太常の官位についてはさきにふれた︒さらに︑﹃宋書﹄巻八十五謝荘伝に︑謝荘について︑

又除呉郡太守︑荘多疾︑不楽去京師︑又除前職︑

とあるが︑前職とは吏部尚書領国子博士である︒さらに︑﹃宋書﹄巻六十三王曇首伝をみると︑王曇首について︑

遷太子倉事︑侍中如故︑:::時兄弘録尚書事︑又為場州刺史︑曇首為上︵文帝︶所親委︑任兼両宮︑野城王義典与

弘並録︑意常快快︑又欲得揚州︑形於任要︑以曇首居中︑分其権任︑愈不悦︑曇首固乞呉郡︵太守︶︑

とある︒これは緊急避難的な人事で︑かっこの曇首の要求は文帝によって拒否されているが︑太子倉事侍中たる曇首

が求めた地方官が呉郡太守であったことは︑小論の論旨から注目すべきである︒さらに︑

﹃南

斉書

巻三十二何戟伝

に︑ 何裁 につ いて

︑ 復為 侍中

︑:

:: 出為 呉郡 太守

︑以 疾婦

︑為 侍中

︑秘 書監

︑の 転中 書令

(12)

とあ り︑

﹃南 斉書

﹄巻 三十 三張 緒伝 に︑ 張緒 につ いて

7

7

︶ 

緒又 遷侍 中︑ 郎如 故︑

::

:即 出緒 為呉 郡太 守︑

::

:遷 洞部 向書

︑領 中正

とああ︒呉郡太守が丹陽罪︑会稽太守とほぼ同等の宮位をもっていたことを察せしめる記事と︑官序上侍中以上に位

置づけられていたととを示す記事は︑宋斉時代呉郡太守の官位が第三品宮相当にまで上昇していたζとを察せしめよ

wつ ︒

とと

ろで

ζ

で﹃ 宋骨 一日

﹄巻 五十 二謝 述伝 をみ ると

︑謝 述に つい て︑ 転左 衛将 軍︑

・:

・: 除呉 郡太 守︑ 以疾 不之 官︑ 病差

︑補 呉興 太守

︑在 郡清 省︑ 為吏 民所 懐︑

︵元 嘉︶ 十二 年︵ 四二 五︶

︑ 卒 ︑

とあ

る︒

ζれは呉興太守が呉郡太守と同等の官位をもつものであったととを察せしめよう︒そとで呉郡太守︑会稽太

守の場合と同じように各人の官序の過程で呉興太守がどのようなかたちで現われるかをみてみる︒まず︑

﹃宋

害﹄

劉 穆之 伝に

︑劉 穆之 の孫 矯に つい て︑ 大明 元年

︿四 五七

︶︑

::

:明 年︑ 遷呉 輿太 守︑

::

:及 為吏 部向 書︑ 意弥 憤憤

︑ とあ り︑

﹃宋 書﹄ 巻四 十五 王謙 之伝 に︑ 王謙 之に つい て︑ 世祖 初︑ 歴蟻 騎将 軍︑ 御史 中丞

︑呉 輿太 守︑

::

:大 明三 年︵ 四五 九︶

︑卒 とあ り︑

﹃宋 書﹄ 巻五 十一 宗室 に︑ 長抄 景王 道憐 の孫 範に つい て︑

太宗嘉其誠︑以為黄門郎︑太子中庶子︑侍中︑加荊︑湘︑期売州刺史︑呉興太守︑侍中︑領左軍将軍︑

とあ り︑ 同じ く範 の弟 輯に つい て︑ 侍中

︑呉 輿太 守︑ 後廃 帝元 徽元 年︵ 四七 三︶

︑卒

︑ とあ り︑ 同巻 に劉 思考 につ いて

商戦

の郡

太守

の斑

位と

清濁

/¥ 

(13)

南朝

の郡

太守

の班

位と

清濁

}¥ 

J¥ 

起為散騎常侍︑五兵尚書1

遷呉 興太 守︑ 秩中 一一 千石

︑︵ 元嘉

﹀ニ 十五 年︵ 四四 八﹀

︑徴 為領 軍︿ 将軍

︶︑

とあ

り︑

﹃宋

室田

﹄巻

五十

三張

︑氷

伝に

︑張

︒永

につ

いて

︑ 其年

︵大 明八 年︶

︵四 六四

︶︑ 召為 御史 中丞

︑前 廃帝 永光 元年

︵四 六四

︶︑ 出為 呉興 太守

︑遷 度支 尚書

︑ とあ り︑

﹃宋 書﹄ 巻五 十八 王恵 伝に

︑主 恵に つい て︑

遷太子管事︑転尚書1呉興太守︑少帝即位︑以察廓為吏部尚書︑不青拝︑乃以恵代湾︒

とあ り︑

﹃宋 書﹄ 股淳 伝に

︑殿 淳の 弟沖 につ いて

復為太子中庶子︑尚書吏部郎︑御史中丞︑有司直之称︑出為呉興太守︑入為度支尚書︑

とある︒御史中丞の官位についてはすでにふれた︒﹃宋書﹄巻六十王翻之伝に︑王詔之について︑

少帝 即位

︑遷 侍中

︑駿 騎ハ 将軍

︶如 故︑ 景平 元年

︵四 二三

︶︑ 為呉 興太 守︑

::

:ハ 元嘉

︶十 年︵ 四三 三︶

︑徴 為嗣 部

尚書

︑加

給事

中︑

とあ り︑

﹃宋 書﹄ 巻七 十回 出依 之伝 に︑ 洗依 之に つい て︑

ζ

人事 は結 局実 現は しな かっ たが

︑ 泰始 四年

︿四 六八

︶︑ 徴般 之為 呉輿 太守

︑辞 不拝

︑の 除左 衛将 軍︑ 領太 子中 庶子

︑ とあ り︑

﹃宋 書﹄ 巻七 十八 粛思 話伝 に︑ 繭思 話に つい て︑

歴黄門侍郎︑御史中丞︑司徒左長史︑呉興太守︑後廃帝元徹末︑卒官︑

とあ り︑

﹃宋 書﹄ 巻八 十一 顧環 伝に

︑顧 環に つい て︑ 事平

︑遷 呉興 太守

︑孝 建元 年︵ 四五 四︶

︑徴 為五 兵尚 書︑ 未拝

︑ とあ り︑

﹃宋 書﹄ 巻九 十三 隠逸 に︑ 王曇 生に つい て︑

歴顕位︑吏部尚書1

太常 卿︑ 大明 末︑ 為呉 興太 守︑ とあ り︑

﹃南 斉書

﹄巻 三十 五宗 室高 祖十 二王 に︑ 臨川 献王 映の 子子 晋に つい て︑

(14)

歴東陽呉興二郡太守︑秘書監︑領後軍将軍︑永元初︑為侍中︑遷左民尚書︑

とあ り︑

﹃南 斉書

﹄巻 四十 三謝 檎伝 に︑ 謝檎 につ いて

︑ 選司 徒左 長史

︑出 為呉 興太 守︑

::

:吏 部尚 書︑ とあ り︑

﹃南 斉書

﹄巻 四十 四徐 孝嗣 伝に

︑徐 孝嗣 につ いて

︑ 建元 初︑

:;

:転 充御 史中 丞︑

::

:出 為呉 輿太 守︑ 上︵ 斉高 帝﹀ 徴孝 嗣為 五兵 尚書

︑ とあ り︑

﹃南 斉書

﹄巻 四十 回出 文季 伝に

︑日 出文 季に つい て︑ 転秘 書監

︑出 為呉 興太 守︑

とある︒秘書監は第三品官と思われる︒さらに︑﹃南斉書﹄巻四十六粛恵休伝に︑粛恵休について︑

遷侍中︑領歩兵校尉︑永元元年︵四九九︶︑徒呉輿太守︑徴為︵尚書︶右僕射︑

とあり︑﹃梁書﹄巻十六玉壁伝に︑王監について︑斉時代のこととして︑

乃遷 侍中

︑:

:: 復為 侍中

︑領 射襲 校尉

︑:

:: 遷呉 興太 守︑ とあ り︑

﹃梁 吾﹄ 巻二 十一 柳樺 伝に

︑柳 惇に つい て︑

天監元年︵五O

一︶

︑除

長兼

侍中

︑:

::

二年

︑出

為呉

興太

守︑

とある︒呉郡太守とほぼ同官位であることを察せしめる記事が存在すること︑宮序上侍中よりも上位に位置づけられ

ていたと思われるととろから︑呉興太守についても︑宋斉時代その官品を第三品程度に上昇させていたζ

とが 想定 さ

れる

であ

ろう

以上より︑宋斉時代︑会稽太守︑呉郡太守そして呉輿太守がその官位を官品表の示す第五品から実費的には第コ一品

程度に上昇させていたζとが想定できよう︒なお︑丹陽予は名実ともに第三品官としての官位をもっていたわけであ

る ︒

南朝

の郡

太守

の班

位と

清濁

}¥ 

(15)

南朝

の郡

太守

の斑

位と

清濁

一 方 ︑

宮晶表通りに第五品︵以下?︶の官位に止まっている郡太守も当然存在している︒﹃南斉書﹄巻四十七主融

− 五 乙 ︑

AI. ︐

ι u 

父道竣︑康陵太守︑融神明暫敬︑博才有文才︑:::融以父官不通︑弱年便紹興家業︑啓世祖︵斉武帝︶求自試︑

とある︒虚陵太守が道淡の極官であったと考えられる︒宋斉時代︑各人の官序について﹁通﹂といった際︑それはそ

UVのものが第四品以上の宮につくことをいう︒そうすると︑虚陵太守就官を﹁不通﹂とする右の記事は︑底陵太守の官

位が官晶表通り第五品であったことを示したものとなるが︑腫陵太守の官位は中書侍郎程度もしくはそれ以下のもの

であったと考えられ忍︒乙乙で︑﹃宋書﹄巻八十四郵碗伝をみると︑晋安王は僧称に際して︑自らの側に投じた宮人

その 際︑ 腫陵 内史 であ った 股損 の富 を進 めて 中世 一国 侍郎 とし てい る︒ さら に︑

﹃南 斉書

﹄ をそ れぞ れ昇 進さ せて いる が︑

巻四十六裳象伝に︑実家について︑

出為腫陵太守︑橡州治中︵従事史︶︑太祖︵斉高帝︶太侍主簿︑秘書丞︑遷中書侍郎︑兼太子中庶子︑

とある︒秘書丞は官序上中毒侍郎の下位にある︒かくて宋斉時代︑虚陵太守が中書侍郎と同等もしはそれより以下の

官位

つまりは第五品︵以下?︾の官位しかもたなかったζ

とが 理解 され よう

なお︑﹃宋書﹄巻六十三活時伝をみると︑活障について︑

頃之

︑選 尚書 吏部 郎︑ 元嘉 九年

︵四 三二

﹀冬

︑:

:: 左遷 宣城 太守

とある︒乙れは宣城太守の官位が尚書吏部郎︑つまりは第四品官よりも下位にあった乙とを示したものとなろう︒

流内十八班制施行以降の郡太守の班位

すでにみたように宋斉時代郡太守について︑第三品以上の高い官位をもっ郡太守と︑官晶表通り︵もしくはそれ以

(16)

下︶の官位しかもたない郡太守とに分化していたとするならば︑当然そうした官位の分化というζとが流内十八班制

に反映しているはずである︒侍中︑列曹向書などの旧来の第三品官は流内第十ニ班以上に位置づけられているととか

ら︑右にみた高い官位をもっ郡太守も必ずや流内第十二班以上の宮位をもったであろう︒以下ζのととを前節でみた

︿

各郡太守ごとに分列にみていく︒︵

︶は 班位 であ る︒ まず

︑丹 陽罪 につ いて であ るが

︑﹃ 梁官 官﹄ 巻二 十三 爾藻 伝に

︑地 鮒藻 につ いて

︑ 大通 二年

︵五 二八

︶︑ 為中 権将 軍︵

?︶

︑太 子倉 事︵ 十四

︶︑ 出為 丹陽 デ︑

::

:入 為安 左将 軍︵

?︶

︑尚 書左 僕射

︿十

五︶

︑加

侍中

︵十

一己

とあり︑﹃梁書﹄巻二十九宗室高祖三王に︑部陵措王論について︑

︵普 通︶ 七年

︵五 二六

︶︑ 拝侍 中︵ 十二

︶︑ 中大 通元 年︵ 五二 九︶

︑為 丹陽 罪︑

とあり︑﹃陳書﹄巻九呉明徹伝に︑呉明徹について︑

徴為 中領 軍︵ 十四

︶︑

︵陳

︶廃 帝即 位︑ 授領 軍将 軍︵ 十五

︶︑ 尋遷 丹陽 罪︑

とある︒事例は少いが︑宋斉時代丹陽デが一貫して第三品の官位密保持していたととを併せ考えると︑流内等十ニ班

以上の班位をもっていたとして誤りなかろう︒つぎに︑呉郡太守についてであるが︑﹃梁書﹄巻四十一王規伝に︑王

規に

つい

て︑

大通三年︵五二九︶︑選五兵尚書︵十三︶︑俄領歩兵校尉

︵ 七 ︶ ︑

::

:的

為呉

郡太

守︑

::

:俄

徴左

民尚

書︵

十三

﹀︑

とあ り︑

﹃梁 書﹄ 巻七 皐后 花︑ 太宗

︿梁 元帝

︶簡 皐后 の父 王宮 需に つい て︑ 尋徒 呉郡

︵太 守︶

︑︿ 天監

︶八 年︵

五O

九﹀

︑入 為太 府卿

︵十 一一 一︶ 領後 軍将 軍弘 司︑ 遷太 常卿

︵十 四︶

︑ とあ り︑

﹃陳 畜﹄ 巻二 十四 貴憲 伝に

︑ ハ太 建﹀ 六年

︵五 七四

︶︑ 入為 侍中

︵十 二︶

︑六 年︑ 除呉 郡太 守︑ 以父 任固 辞︑ 改授 明威 将軍

︵?

︶︑ 南康 内史

︿?

︶︑

南朝

の郡

太守

の班

位と

清濁

(17)

南朝

の郡

太守

の班

位と

清濁

::

:九 年︑ 秩満

︑除 散騎 常侍

︵十 二︶

︑兼 吏部 尚書

︿十 四︶

︑尋 而為 真︑ とあ り︑

﹃陳 書﹄ 巻十 七王 沖伝 に︑ 王沖 につ いて

︑ 歴:

:: 侍中

︵十 一一

︶︑ 出監 呉都

︑満 歳却 真︑ 徴為 通直 散騎 常侍

︵十 一︶

︑兼 左民 間書

︵十 三一

とあ

る︒

ζれらの例から︑流内十八班制において呉郡太守がほぼ流内第十三班程度に位置づけられていたζ

とが 想定

できよう︒さきにみた﹃陪書﹄食貨志の﹁丹陽云々﹂とある記載にしたがえば︑列曹尚蓄の斑位に相当す石︒

つぎ に︑ 呉興 太守 につ いて であ るが

︑﹃ 梁意 図﹄ 柳俸 伝に

︑柳 俸に つい て︑ 徴為 秘書 監︵ 十一

︶︑ 領左 軍将 軍︵

?︶

︑:

:: 復為 呉興 太守 六年

︑天 監十 六年

︿五 一七

︶︑ 卒︑ 贈侍 中︵ 十ニ

︶︑ 中護

軍︵

十四

︶︑

とあ り︑

﹁梁 書﹄ 巻二 十八 夏侯 聾伝 に︑ 夏侯 費に つい て︑ 還除 給事 黄門 侍郎

︵十

︶︑ 普通 三年

︵五 二二

︶︑ 代兄 童為 呉興 太守

︑尋 遷仮 節征 遠将 軍︵

?︶ 西陽 式昌 二郡 太守

︵?

︶︑

七年︑徴為衛尉全土己︑

とあ り︑

﹃梁 書﹄ 巻三 十四 張賛 伝に

︑張 賛に つい て︑

︵大

通﹀

一ニ

年︵

五二

九︶

入為

度支

尚書

︵十

三︶

・・

・・

・・

出為

呉興

太守

・大

同一

一年

︵五

一一

一六

︶︑

徴為

吏部

尚書

︵十

四 ︶ ︑

とあ り︑

﹃梁 書﹄ 巻四 十三 張燥 伝に

︑張 燥に つい て︑ 中大 同元 年︵ 五四 六︶

︑徴 為太 府卿

︵十 三﹀

︑俄 遷呉 興太 守︑ とあ り︑

﹃梁 書﹄ 皇后 に︑ 王鶏 につ いて

︵天

監︶

十一

年︵

五一

二﹀

︑選

中書

令︵

十一

ニ︶

︵十

一一

一︶

︑加

給事

中︵

四︶

︑領

射撃

校尉

︵七

︶︑

加員

外散

騎常

侍︵

十︶

::

:出 為呉 興太 守︑

;:

:徴 還復 為度 支尚 書

(18)

とあ り︑

﹃梁 書﹄ 巻十 五謝 覧伝 に︑ 謝覧 につ いて

普通二年︵五二一︶︑為散騎常侍︵十二︶︑信威将軍︵?︶︑四年︑転散騎侍郎︵八﹀︑中領軍︵十四︶︑出為呉輿太

守︑

::

:大 通二 年︵ 五二 八︶

︑徴 為仁 威将 軍︵

?︶

︑衛 尉卿

︵十 二︶

︑尋 為侍 中︵ 十二

﹀︑ 兼領 軍将 軍︵ 十五

︶︑

とあり︑﹃梁書﹄巻二十六篇疎伝に︑粛環について︑

遷呉 興太 守︑

::

:普 通元 年︵ 五ニ

O︶

︑徴

為宗

正卿

︵十

三﹀

︑ とあ り︑

﹃陳 書﹄ 巻十 七裳 枢伝 に︑ 実枢 につ いて

紹泰元年︵五五五﹀︑除員外散騎常侍︵十︶︑兼侍中︵十二︶︑二年︑兼吏部尚書︵十四︶︑其年︑出為呉興太守︑永

定二 年︵ 五五 八︶

︑徴 為左 民尚 書︵ 十三

︶︑ とあ り︑

﹃陳 書﹄ 巻三 十一 任忠 伝に

︑ 入為 領軍 将軍

︵十 五︶

︑加 侍中

︵十 二︶

︑:

:: 出為 呉興 太守

︑加 秩中 二石

とある︒班内第十三班についたのちに呉興太守につきついで流内第十四班の官につく例︑流内第十一一一斑の官と流内第

十三斑の官に挟まれて現われる例が多くみえるととから︑呉輿太守の班位もほぼ流内十三班程度︑

記載にしたがえば︑列宙開尚書の班位とほぼ同等の班位をもつものとしてよかろう︒

﹃陪 書﹄ 食貨 志の

なお︑会稽太守についてほ単独で現われるととがなく遺協ながら具体的な斑位ぞ考え難い︒もちろん他の官を併せ

もって現われる場合︑その殆んどが流内十二班以上の宮についてのちのととであ700会稽太守の班位についても︑呉

郡太守などと同様のことを想定してもさしっかえないのではなかろうか︒

一方︑流内第十二班以下の低い班位の郡太守も当然存在する︒木来とれについては躍陵太守についてみるべきであ

ろうが︑残存史料から虚陵太守の斑位を推定す忍ζとは困難であるから︑比較的班位の推定しやすい建安太守を例に

とる

︒︵

︶は 班位 であ る︒

南朝

の郡

太守

の班

位と

清濁

(19)

南朝

の郡

太守

の班

位と

清濁

﹃梁書﹄巻二十ニ王余伝に︑王余について︑天監七年以降のとととして︑

除長 兼秘 書郎

︵二

︶︑ 歴太 子中 舎人

︵八

︶︑ 出為 建安 太守

︑:

:: 還除 黄門 侍郎

︵十

︶︑ とあ り︑

﹃梁 書﹄ 巻三 十五 菊子 範伝 に︑ 報酬 子範 につ いて

︑同 じく 夫監 七年 以降 の

ζ

とし

て︑

累遷 丹腸 ヂ丞

︵八

︶︑ 太子 中舎 人︵ 八︶

︑出 為建 安太 守︑ 大司 馬南 平王 戸曹 属︵ 八﹀

︑従 事中 郎︵ 九︶

とある︒右の南平王は梁の武帝の第八子偉のことである︒したがって︑との大司馬府は皇帝皇子のそれに当たる︒

︵丹 陽予 丞を 流内 第八 班と した とと につ いて は︑ 後述 参照

︒︶ つぎ に︑

﹃梁 書﹄ 巻三 十七 何敬 容伝 に︑ 何敬 容に つい て︑ 恐ら く天 監七 年以 降の とと とし て︑ 歴太 子舎 人︵ 一ニ

︶︑ 尚書 殿中 郎︵ 五︶

︑太 子洗 馬︵ 六︶

︑中 書舎 人︵ 四﹀

︑秘 書丞

︵八

︶︑ 選最 州治 中従 事︿ 九︶

︑出 為

建安

太守

︑:

::

遷除

黄門

郎︵

十﹀

︑ とあ り︑

﹃梁 書﹄ 巻四 十到 瓶伝 に︑ 到灘 につ いて

︑ 歴︵ 尚書

︶殿 中郎

︵五

︶︑ 出為 建安 太守

︑遷 中書 郎︵ 九︶ 兼︵ 尚書

︶吏 部郎

︵十 一︶

とあり︑﹃梁書﹄巻四十一帯治伝に︑粛治について︑恐らく天監七年以降のζ

とと

して

︑ 出為 南徐 州治 中︵ 従事

︶︵ 八︶

︑:

:: 遷司 空従 事中 郎︵

t

九︶

︑為 建安 太守

︑坐 事免

とある︒右の苛空従事中郎については皇帝皇子府のそれか︑それ以外のものか具体的人名をかくので明確にしえなか

ったが︑それにしても︑右にあげたいくつかの例から︑建安太守の斑位として流内第九班程度が想定できよう︒

以上煩雑な考証を行なったが︑宋斉時代すでに郡太守の官位に分化が生じ︑第三品に相当する郡守が存在していた

こと︑流内十八班制施行以降にあっても︑流内第十二班以上の高い斑位をもっ郡守が存在す忍一方で︑流内第九斑程

度の班位しかもたない郡太守が存在していたζ

とは

︑﹃ 惰書

﹄百 官志 上︑

﹃遇 典﹄ 梁官 品に みえ る﹁ 郡守 及郡 丞各 為十

班﹂とある記事を郡太守が一律に流内第十班に位置づけられていたものと解釈することが不可能であることを示して

(20)

おり

いきおいとの記事は︑厳氏の解釈されたように郡太守の班位が十等の班位に分かたれていたととを示したもの

として解釈しなくてはなるまい︒

郡丞及び県令の班位

おの位置づけられていたと解釈するならば︑ 以上述べたように﹁郡守及丞各為十班﹂とある﹁十斑﹂を十等の意と解し︑郡太守が十等に分かたれた斑位におの

乙の記事の書き様からみて︑郡丞の斑位も当然一律に流内第十班に位置

づけられていたと解すべきでなく︑郡太守と同様にその班位が十等に分かたれていたと解しなくてはならない︒とれ

を証するためには史料的に郡丞就官者の数が少くなく︑困難がつきまとうが︑比較的まとまってみえる丹陽デ丞の班

位が流内第十班であったとは解し難いととから︑やはり︑郡太守の場合と同様のζとが想定されると思う︒なお︑郡

丞は宋斉時代一律に第八品とされてい忍︒h︑ ︐ −

r−J

f T T l h  

丹陽ヰア丞についてはすでに他の郡丞よりも高官位にあったかも

しれない︒︶以下︑天監七年の流内十八班制施行以降に丹陽ヂ丞についた人々の官序を示す︒︵︶は例によって班位

であ

る︒

まず

︑﹃ 梁書

﹄巻 三十 三王 錆伝 に︑ 王錆 につ いて

累遷

太子

洗馬

企ハ

︶︑

︵太 子︶ 中舎 人︵ 八﹀

︑:

:: 出為 丹陽 罪丞

︑北 中郎 諮議 参箪

︵九

︶︑ 遷中 書郎

︵九

︶︑

とある︒諮議参軍にも色々あるが︑右の北中郎府の諮議参軍は流内第八斑の太子中舎人と流内第九班の中世一国侍郎の間

に挟 まれ て現 われ てい 忍と とろ から

とれは皇帝皇子府のそれとすべきである︒したがって︑その斑位は流内第九班

であ

る︒

つぎに︑﹃梁書﹄巻三十五粛子協伝に︑第六弟子範について︑

南朝

の郡

太守

の斑

位と

清濁

(21)

南朝

の郡

太守

の斑

位と

清濁

又為 司徒 主簿

︵六

︶︑ 累遷 丹陽 ヂ丞

︑太 子中 舎人

︵八

︶︑ とあ り︑

﹃梁 書﹄ 巻三 十五 粛子 顕伝 に︑ 繭子 顕に つい て︑ 累遷 太子 中舎 人ハ 八︶

︑建 康令

︵八

︶︑ 部王 友︵ 八︶

︑丹 陽ヂ 丞︑ 中審 郎︵ 九︶

︑ とあ る︒

︵建 康令 の班 位に つい ては 後述 参照

︒︶ さら に︑

﹃梁 書﹄ 巻二 十二 宗室 太祖 五主 に︑ 粛静 につ いて

︑ 歴太 子舎 人︵ 三︶

︑東 宮領 直︵

?︶

︑遷 丹腸

︵安

︶丞

︑給 事黄 門侍 郎︵ 十︶

︑ とあ り︑

﹃梁 書﹄ 巻三 十五 蒲子 雲伝 に︑ 繭子 雲に つい て︑ 累遷 北中 郎外 兵参 寧︵ 三︶

︑晋 安王 文学

︵五

﹀︑ 丹陽 ヂ丞

︑:

:: 遷北 中郎 置陵 王諮 議参 軍︵ 九︶

︑兼 尚書 左丞

︵九

︶︑

とある︒右の腫陵王は梁の武帝の第五子続のととであ秘したがって︑ζの諮議参軍は皇帝皇子府のそれとなる︒つ

ぎに

︑冨 喜一 日﹄ 巻四 十到 報伝 に︑ 到蹴 の孫 蓬に つい て︑

歴太

子舎

人会

一︶

︑宣

城主

主簿

︵四

︶︑

太子

洗馬

全ハ

︶︑

尚書

殿中

郎ハ

五︶

︑:

::

除丹

陽苦

ノ丞

︑:

::

卒︑

とある︒右の宣城王は爾縛︵のちの元帝︶の世子哀太子大器のζとであ匂したがって︑ζの王の府は嗣王府という

こと

にな

る︒

つぎ に︑

﹃陳 書﹄ 巻二 十一 王国 伝に

︑王 国に つい て︑ 遷太 子抗 馬︵ 六︶

︑掌 東宮 領直

︵?

︶︑

::

:除 丹陽 弔ア 丞︑

::

:元 帝承 制︑ 以為 相国 戸嘗 属︵ 八﹀

︑掌 管記

︿

とあ

7G

︒右 に相 国と ある のは 一応 帝の

ζとである︒したがって︑との府は皇弗皇子府に相当る︒さらに︑﹃陳書﹄巻二

十一 孔灸 伝に

︑孔 灸に つい て︑

︵司 徒王 僧弁

︶引 失為 左西 曹録 公ハ

︶︑ 又除 丹腸 安丞

︑:

:: 除太 尉従 事中 郎︵ 八︶

とある︒右に太尉とあるのは王僧弁のとととされる︒したがって︑ζの従事中郎は庶姓府の従事中郎のとととされよ

︐ つ ︒

流内第八斑の官についてのちに丹腸予丞につき︑つぎに流内第九班の官につく場合がニ例

︿王

錆伝

︑粛

子顕

伝︶

(22)

丹陽 晋ノ 丞に つい たの ちに 流内 第九 班の 官に つく 場合 が一 例︵ 繭子 雲伝

︶︑ 丹陽 晋ノ 丞に つい たの ちに 流内 第八 班の 官に

っく例がニ例︿繭子範伝︑孔失伝﹀みえる︒とれらから丹陽ヂ丞の班位は到底流内第十班とは考え難く︑

その 班位 は

流内八斑程度のものであったと考えてあやまりなかろう︒当時恐らく︑郡丞のなかで丹陽ヂ丞の斑位が最も高かった

とれが流内第八斑程度の班位しかもたなかったというととは︑郡丞の班位を一律に流内第十班とする

解釈の成立を困難なものとする︒郡丞の班位も郡太守の場合と同様に︑十等に分かたれていたとする解釈の傍証とな で

あろ

うか

ら︑

ろう

ちなみに︑太子中舎人から丹陽ヂ丞へ︑丹陽ヂ丞から太子中舎人に遷る例が三例ほどみえるが︵王錆伝︑粛子雲伝︑ ︒

新子

顕伝

﹀︑

太子中舎人|丹陽ヂ丞ないしは丹楊ヂ丞|太子中舎人という官序は斉から梁にかけて官序上ひとつのコ

ースとして定着していたのではないかと考えられる︒﹃梁官官﹄巻四十九到抗伝に︑到抗について︑

︵天 監︶ 四年

︵五

O

五︶

︑遷 太子 中舎 人︑

::

:其 年︑ 遷丹 陽デ 丞︑ とあ り︑

﹃梁 書﹄ 巻五 十二 止足 に︑ 繭廊 につ いて

天監初︑復為太子中舎人︑丹陽予丞︑

とあり︑﹃梁書﹄巻二十三競敷伝に︑荷数について︑天監七年以前のζ

とと

して

遷丹陽ヂ丞︑入為太子中舎人︑

とあ る︒ 幸に して

との推測にあやまりないとするならば︑

との

ζとも丹陽予丞の班位が流内第八班程度のものであ

ったとする小論の推定を助けるものとなろう︒

とと ろで

︑﹃ 陪書

﹄百 官志 土︑

﹃通 典﹄ 梁官 品に は︑

﹁郡 守及 丞云 々﹂ とあ るの につ づい て︑

県についても記載があ

り︑﹁県制七斑﹂とある︒郡守︑郡丞についての﹁十班﹂を十等に分かたれた班位と解するならば︑この﹁七斑﹂も

県令︑県長が一・一律に流第内七班に位置づけられていたと解することを困難なものとし︑いきおいこの﹁七班﹂も︑郡

商剖

相の

郡太

守の

班位

と清

九七

(23)

南聴

の郡

太守

の斑

位と

清濁

九J¥ 

太守︑部丞の場合と同様に七等に分かたれていた班位と解すべき乙ととなるう︒以下乙のととを︑郡丞の場合と同様

の方法で考えてみるととにする︒なお︑宋斉時代にあっては︑周知のように県令と県長とではもともと官位が異なっ

ており︑県令は第六品と第七品︑県長は第八品にそれぞれ位置している︒︵したがって︑県令︑県長の場合もともと

その宮位は分化していたということになる︒︶建康令を例にとろう︒︵︶は例によって班位である︒

まず

︑﹃ 梁書

﹄巻 四十 一劉 潜伝 に︑ 劉潜 につ いて

︑ 何補

︵太 子︶ 洗馬 会ハ

︶︑ 遷︵ 太子

︶中 舎人

︵八

︶︑ 出為 戎昭 将軍

︵?

︶︑ 陽羨 令︵

?︶

︑:

:: 甚有 称績

︑擢 為建 康令

︑ 大同 三年

︿五 三七

︶︑ 遷中 書郎

︵九

︶︑

とあり︑﹃梁書﹄巻四十一橋球伝に︑補球について︑恐らく天監七年以降のとととして︑

遷太 子洗 馬会 ハ︶

︑散 騎侍 郎︿ 八︶

︑兼 中書 通事 舎人

︵四

︶︑ 出為 建康 令︑

::

:除 北中 郎諮 議参 軍︵ 九︶

︑俄 遷中 書郎

︵九

︶︑

復兼

中書

通事

舎人

︵四

︶︑

とある︒右の北中郎将については具体的な人名をかくが︑流内第八班たる散騎侍郎についたのちについているζ

と ︑

つぎにただちに流内第九班たる中書侍郎についている乙とから︑流内第九班たる皇弟皇子府の諮議参軍のζ

とと すべ

きであろう︒つぎに︑﹃梁書﹄巻四十三油竣伝に︑出波ついて︑天監七年以降のとととして︑

歴山 陰︵ 令︶

︵?

︶︑ 呉︿ 令︶

︵?

︶︑ 建康 令︑ 並有 能名

︑入 為中 書郎

︵九

︶︑ 尚書 左丞

︿九

︶︑

とあり︑﹃陳書﹄巻二十一張種伝に︑族子稚才について︑恐らく陳時代のとととして︑

仕為 尚書 金部 郎中

︵五

︶︑ 選︵ 尚書

︶右 丞ハ 八︶

︑建 康令

︑太 舟卿

︵九

︶︑

とある︒さらに︑さきにあげた﹃梁書﹄繭子顕伝に︑蒲子顕について︑

累遷 太子 中舎 人︵ 八﹀

︑建 康令

︑部 睦王 友︵ 八︶

︑丹 陽安 丞︵ 八︶

︑中 書郎

︵九

︶︑

とあった︒また︑﹃梁書﹄巻四十二伝岐俸に︑父調について︑恐らく天監七年以降のとととして︑

(24)

天監 中︑ 歴山 陰︵ 令︶

︵?

︶︑ 建康 令︑ 並有 能名

︑官 至標 騎諮 議︵ 参軍

︶︵ 九︶

とあり︑岐自身についても︑同じく天監七年以降のとととして︑

除廷

尉正

︵六

︶︑

入兼

中書

舎人

︵四

︶︑

::

:出

為建

康令

︑坐

一公

事免

とある︒右の願騎将軍府については具体的な人名をかくので判断に苦しむが︑皇帝皇子の府とすべきであろう︒

流内第八斑の宮についたのちに建康令となり︑つぎに流内第九斑の官につく例が三例︵劉潜伝︑祷球伝︑張稚才

伝︶︑建康令についたのちにつぎに流内第九斑の官についた例が二例︿油竣伝︑停闘伝︶︑読内第八涯の宮に挟まれる

かたちで建康令が現われる例が一例︵蘇子顕伝︶である︒とれらから︑建康令の斑位ば流内第八班程度であったと理

解し てよ かろ う︒

すでに流内第八班程度の班位をもっ県令が存在している以上︑﹃障室冨百官志上︑﹃通典﹄梁官品に﹁県制七班﹂と

ある﹁七班﹂を県令︑県長が一律に流内第七斑の班位に位置づけられていたと解することはできず︑

とれ もま た︑ 郡

太守︑郡丞の場合と同様にその﹁七斑﹂を七等に分かたれた県令︑県長の班位と解するのが妥当であろう︒

郡太守の清濁

イ)

清官の郡太守

南朝 にあ って は︑

次門と後門出身者には宮序のうえで

﹁止 法﹂ が存 在し た︒ 次門 出身 者は

﹁改 革﹂ 以斗 間に あっ て

は︑第五品官︵名実ともに第五品官であるもの︒以下同じ︶を極官とすべきであり︑後門出身者は第七品宮のうちの

ニ晶勲位をその極富とすべきであった︒﹁改革﹂以降にあっても︑次門出身Kついては﹁止法﹂が存在していた︒次門

出身者はその流内十八班制において︑流内第十一斑の官を極官とすべきであった︒したがって︑﹁改革﹂以前にあっ

南朝

の郡

太守

の斑

位と

清濁

九九

(25)

南朝 の郡 太守 の斑 位と 清濁

00

ては甲族出身者のみがつくべき第四品以上の宮は全て清宮からなるということになり︑

ハ 岨

じく甲族出身者のみがつくべき流内第十二班以上に位置する官は全て清宮からなるというζ

とに なる

︒そ うす ると

﹁改 革﹂ 以降 にあ って は︑ 同

前節まででみた第三品以上︑流内第十二班以上に位置する郡太守は自から清官ということになろう︒さきにみたよう

に宋斉時代︑会稽太守︑呉郡太守はその実質的官位を第三品以上に上昇させていた︒幸い︑この会稽太守︑呉郡太守

については︑とれらが清宮であった乙とを明示する史料が存在する︒

﹃宋書﹄巻五十一宗室に︑劉思考について︑

歴朝 官︑ 極清 顕︑ 為抽 隊章

︑会 稽太 守︑

::

:泰 始元 年︵ 四六 六︶

︑卒 於散 騎常 侍︑ 金紫 光禄 大夫

とある︒右の﹁清顕﹂というのは甲族のつくべき鮮やかな官という意味で︑もちろん清宮を意味す鵠これは宋時代︑

会稽太守が清官とされていたととを示している︒さらに︑﹃南史﹄巻三十一の伝論に︑

・張 裕︵ 張茂 度の

ζと︶有宋之初︑早参覇権︑出入所歴︑実非清顕︑

とあ る︒

﹁清 顕﹂

についてはすでにふれた︒右は張茂度が宋王朝の創設にあたって功績があり︑宋王朝創設後そのつ

いた宮が全て清宮であったととを示したものとされるが︑茂度は︵宋王朝創設後の︶元嘉十八年︵四四一﹀に会稽太

守についている︵﹃宋警﹄張茂度伝︶︒とれも宋時代︑会稽太守が清宮であったととを示している︒ζれは斉時代にあ

って も同 様で あろ う︒

つぎに︑﹃宋書﹄張茂度伝をみると︑さきにみたように︑

茂度間郡陸仲元者︑晋太尉玩曾孫也︑以事用見知︑歴清資︑吏部郎︑右衛将軍︑侍中︑呉郡太守︑自玩泊仲元四世

為侍中︑時入方之金︑張二族︑

とあ

る︒

ζ ζ

に﹁清資﹂という言葉がみえるが︑この際の﹁清資﹂というのは清宮によって構成され忍官位序列とい

ω︶ った意味とされる︒尚書吏部郎︑侍中が清官であったζとはいうまでもない︒右衛将軍もすでに述べたように宋斉時

(26)

代︑その実質的官位は第三品官に相当しているから清宮である︒とれは宋時代︑呉郡太守が清宮とされたことを示し

ている︒なお︑陸仲元の属する家は回世連続して侍中就官者を出したというから︑その家格は甲族のそれとして差し

支え なか ろう

︒つ ぎに

︑﹃ 南斉 書﹄ 巻二 十三 椿淵 伝に

︑弟 澄に つい て︑ 歴官 清顕

︑:

:: 建元 中︑ 為呉 郡太 守︑

とある︒建元は斉の年号である︒﹁清顕﹂についてはすでにふれた︒澄の起家官は不明であるが︑彼の父滋之は宋の

高視 の第 七女 に尚 して 著作 佐郎 に起 家し

︑ 澄自 身も 宋の 文帝 の女 に尚 して おり

︑ のちに尚喜左僕射︵第三品宮︶などについている︵﹃宋書﹄巻五十二緒叔

見淵は著作佐郎に起家している︒これから澄の家格は甲族のそれとし

てまちがいない︒以上より宋斉時代︑呉郡太守が清宮とされていたことが理解できる︒そうす忍と宋斉時代︑会稽太

守︑呉郡太守などと同様にその実質的官位を第三品以上に上昇させていた呉興太守︑そして名実ともに第三品宮とし

ての実質をもっていた丹陽予も︑直接的明証をかくが︑清宮とされていたと想定してもあやまりなかろう︒

つぎ

に︑

度伝

︶︒

天監七年の流内十八班制施行以降についてであるが︑

﹃南 史﹄ 巻二 十六 裳憲 伝を みる と︑ 裳憲 につ いて

︑ 陳時 代の こと とし て︑ 自侍 中遷 呉郡 太守

︑:

:: 憲以 久居 清顕

︑累 表求 解任

とある︒乙れは天監七年以降にあっても宋斉時代と同様に呉郡太守が清官とされていたことを示してい名︒なお︑憲

その 家格 はも とよ り甲 族と して のそ れで ある

︒さ らに

︑﹃ 陳書

﹄ は秘 書郎 に起 家し てお りハ

﹃陳 害﹄ 巻二 十四 家憲 伝︶

︑ 巻十 七の 史臣 の条 に︑ 王沖 以貴 瀞早 弁清 貫︑ とあ る︒

﹁清 貫﹂ とい うの は滑 な名 官位 とい った 意味 で︑

ハ む

もち ろん 清宮 の官 位の とと であ る︒ 主一 沖は 秘書 郎に 起家 し

てお

りハ

﹃陳

書﹄

巻十

七王

沖伝

︶︑

その家格はもとより甲族としてのそれである︒乙の﹁早弁清貫﹂というのは沖の全

南朝

の郡

太守

の斑

位と

清濁

(27)

南朝

の郡

太守

の班

位&

清濁

官序を通じてのとととされよう︒沖は梁の大同三年︵五三七︶以降の或る時期に呉郡太守についている︒かくて︑

ζ 

れも﹁改革﹂以降にあっても︑呉郡太守が清官であったととを示したものとなる︒

呉郡太守が宋斉以来の高い官位を天監七年以降も保持しており︑流内第十二班以上の班位を得ていたととについて

はすでに述べた︒とのととは自ら流内十二班以上の斑位をもっ郡太守が﹁改革﹂以降にあっても清官とされていたと

とを察せしめる︒そうした郡太守として︑呉郡太守のほかに会稽太守︑呉輿太守︑そして丹陽予があったとして間違

いな

かろ

う︒

さら

に︑

つぎに︑会稽太守︑呉郡太守などのように宋斉時代にあっては第三品以上︑

以上の宮位はもちえなかったであろうが︑清宮とされた郡太守についてふれておく︒

まず︑さきにあげた﹃宋書﹄宗室にみえる劉思考の記事かちり︑渡章太守が宋時代清官とされていたととがわかる︒

とれもさきにあげた﹃宋書﹄張茂度伝によれば︑茂度は宋王朝創設ののち︑ききにみた会稽太守のほかに義

義興太守も宋時代清宮とされていたわけである︒また︑﹃宋書﹄巻四十二王弘伝

﹁改 革﹂ 以降 にあ って は流 内第 十二 班 興太

守に つい てい る︒ した がっ て︑ に︑ 王弘 の子 錫に つい て︑

少以宰相子︑起家員外散務︵侍郎︶︑鹿清職︑中書郎︑太子左衛率︑江夏内史︑

とある︒右の﹁清職﹂は清宮と同様の意味である0・申書侍郎︑太子左衛率は何れも清宮である︒なお︑王弘の家ば南

朝第一の名家である浪邪の王氏に属し︑しかもその主流を形成するものである︒員外散騎侍郎に起家したその子錫の

家柊はもとより申族としてのそれである︒また︑可梁書﹄巻二十劉季連伝花︑劉季速について︑

季連 有名 誉︑ 早歴 清宮

︑:

:: 建元 中︑ 季連 為尚 書左 丞︑ 永明 初︑ 出為 江夏 内史

とある︒季連はさきの思考の子である︒建元︑永明は何れも斉時代の年号である︒以上あげた二例から︑宋斉時代江

夏︿内史﹀太守が清官とされていたととが分かる︒つぎに︑﹃南斉審﹄巻三十八繭景先伝に︑競景先の子毅について︑

参照

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