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魏略の佛傳に關する二三の問題と老子化胡説の由來

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

魏略の佛傳に關する二三の問題と老子化胡説の由來

重松, 俊章

https://doi.org/10.15017/2344324

出版情報:史淵. 18, pp.1-25, 1938-04-30. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University

バージョン:

権利関係:

(2)

j帝蛸催需雲 鬮認率融誰司峨毒 率側誹皿垂諦振討毒 罰崇鈴︾認︾︾耐雪

罐詰漁司一↑厚ダダ鳶内 霊ゴ訓/I︑卜︒︒d再

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︵日■日︶

nllll " 繩 露 鼓 脚 患巴s騨盈濤蝋桃 価悶璽sI III Io,叫謡祠褒壽s案欝

(3)

魏略の佛傅に閲する一二一の問迦と老子化胡就の由來二

ケチ砂カゾ

弟子景脆︒受二大川氏王仙伊仔︽・旧受二浮鳩維一︒日二役立一券︒其人也︒浮崎川し赦︒臨洲韮・桑門・伯

オモヘうク

剛・疏問・白疏剛・比丘・雌間侍弟子號也︒浮階川v戦︒典二中剛老子經一机出入︒蓋︐以爲老子西川y

ユキ卜Lがフ

關J過二西域一之二天竺︾c教y胡︒浮階/脇弟子別號︒合有二一千九一・不し能二詳赦一・故略y之如v此・︵魏志

巻三十︑斐松之注︶・

○︵俊一芭浮隅身・・・赤加州︒史記六三正義︒引二浮階維一作︒身色蛍下︒袋如二青絲一・乳布二青色一・爪赤如y鋤︒

祇設劉注同し之︒

○從母左脅一出︑御寵作二右脅一︒○生而打し紬︒枇説劉注結作レ篝︒○博士弟子景臓・魏書樺老志︒景嘘 作二泰景憲一︒○日二復立着︒世説劉注︒迩典趣防︒此作二復一罫︒○之二天竺一教し胡︒御蠅識胡下有二爲 字一・︵以上参照張鵬一魏略猟本巻二十二︶・

此の魏略の本文は一見して各朋に文字や語楜の誰談が發見せらる晶許りでなく︑叉全髄の結柵から眺め

ても同一人の手に曲る首尾一賀的の趣に縦けたる雄がある︒併し此の鮎の論議は姑く後節に談ることとし

て.今常面の問題考究の必要上︑姑く陳文を下の如くに分割する︒

帥臨兒剛浮屠維云:⁝・此幽在二天竺城中一・

⑥天竺又有二川人一︒名二沙律一︒

に普漢哀帝⁝・・日二復立一考︒其人也J

の浮屠川咳載・・・:袴弟子號也︒

(4)

呵浮屠所γ載:・・・之二天竺一教γ胡︒

㈹浮屠脇弟子別號・・・:故略v之如ソ此・

此の中.佃堂の文句について見れば︑脇妃幽︵旨ご︺亘一二三日巨三ごや屑頭邪︵屑頭那?言昌一︺○烏一国︶︒

つO

臨湘韮︵伊洲韮︐後姿韮ご冨閏百.変手記州甜韮作二岻洲塞一・臨恐雌之談嘉︶などはいづれも括弧内に示

した文字山異文訣子であるとしても.伯聞・疏間・口疏仙などの文句は通典の伯附・口間や褒宇記の疏

聞・口間など〃異文を老唯に入れても仰弟子の別號中で之に相潤すべきものは等寺騨冒尿aQo昌一︺.篇・ゞ

目ご︲岩冒︾ごg二︶.左どの學げた如く嘩剛会扇ぐ鳥らなど心外には心當りはない︒殊に前掲⑭いの二文

の如きは文肱吻上から一見して︐遜絲一世せる文章であゐや否やを決定することは噸る困難のやうに思は

れる︒之等二文の連絡の如何に依てはい文末尾の日復立云糞の解樺に大なる相逹を来すことになると共

に復立その者も亦此を復豆の批談と見ると否とで㈹⑥咽文の鮮樺に雲泥の差が生ずる︒

常盤︵大定︶椰士は復立を以て復豆の談となし脚q剛文を切り離して︑

昔淡衷帝兀毒北年︒博士弟子餓脆・受墓大月氏王使伊存︑n|受が附維一︑目似立窪麺磯︶者批︿人也︒傘鋤

○○○○と訓じてゐる︒之は博士の推定せられた如く︑矢張︑復立は復豆心談鋤と認むる方が︑前描倒心叩文を連

絡一黄せるものと見ると否とに係はらず佛傳の説明としては蚊も愛常の見鮮であらう︒況や枇説新語︵文

學筋︶梁の劉孝標の注にも.店の社佑の通典︵逃防︶の附注にも︑明かに復立を以て復豆としてをる鮎か

魏略の佛解に脚する二三の問題と老子化胡説の由来三

純の研究︒東洋學了報第拾巻壹號︒当

I

(5)

魏略の佛傳に開する一・一三の問題と老子化胡誕の由來四

ら推しても此の見解の正しいことが資證せらる上諜である︒

然るに此の魏略佛傳の研究に開する佛閲西側の東洋鋼者はp團匡雪国や﹈崖.智の︒三を始め等写閏冒

尿量や﹈自.Q国冨冒︺⑦叩から現時の團巳思三具氏に至るまで︑皆友悉く復立を以て箙愉と認め︑之を佛

國語に翻課し︑中にも愚急の如きは此の︵復立の︶謡に對して一新異説矛提出し︑Q昌冒二三①いや扉三○行

氏までも之に對して滿腱の謎意を表して祁糞の概鮎から之冷癖護してゐる︒

今此の問題の雌決の端緒として之等佛岡の東洋躍者の研究の成果を一併し度い︒先づ始めに團巨言員

は前節魏略本文の⑥希佛課して

F独冒⑦g﹈貝①旨晟⑦︺︑○言曽︲斥冨○口号登と号︑国巳︺G己爵P喜員ごg昂貸⑦︶︾屍冒叩さFSm且︺房

Q雪匡目︑湧く浄芦詳房﹇胃心門①︵ヰロ庁旦巨HC−G①mcH湧己Q︑屋口①︲言三巨己g︺ごC︼①ごC固昌.ご句帛厨匡旨1戸のCロ︾一﹈H③ロ呉⑦口冒︺の旨①予口

厨冒冨巨ローく厨ごOpQ皇︺ごロ①︵岸昌Sm己言︽︽の堅昌P巳いの国酔P三一口①ごC匡ぐ①騨冒︺︒︾の異︵し黒琴○目目星︶︶︵国〆角9句ヨ

ロ融菩Ce︵壱⑦旦命︑註詳①切口巳CO﹈︺の①冒臼昌庁﹃二︺冒〆︲言言﹄︾三︺.﹈鯵乙

︐としてゐる︒之に擁ると﹃洩哀帝元毒元年︵西紀前二年︶博士弟子︵Sm︒ご①堅巳︺圏冒昌︾博學者の弟子

?︶景臓は伊存口と稲する大月氏悶王からの使節を迎え︑同時に︵その者から︶︑﹁新に立たん︲とする者

(室)

魏略沸傳に關する佛國學者の見解

(6)

は︵正に︶その人である﹂6①目名園①国恥冨望号冒○目①眉︾・一①黒のの庁言日日の︶と説かれてある佛經を

受け︵授けられ︶た﹂といふのである︒併し復豆を以て復立と考えて魏略の日復立者共人也の文を斯様に

銃課したから︑前記の様な意味不明の鐸文が成立した課である︒霞巨登⑦﹃の此の讓文に一段の私意彫琢を

加えたものはぎ①︒胃の緋諜である︒gの︒言の云ふ所に由ると彼は魏略の原文を遡究せんが爲めに後代の

注疏家に因て引用せられた多数山異文を比較對考して前掲魏略の⑬⑥雨文を連て下の如き折衷的の諜文

﹇ご巴勗冒胃丘①︒⑦昌国厨一言﹈画く皇芹昌︺圏一員面○日日①四三︶①一m○胃︲二口虫﹈胃胸官⑦日誌園の︒①叩画冒弓舟めど○厘脚ロ︲

庁g①○口号匿含号切閏営曾目m昌騨言夛9門①胃①︶・汽言阻○巨一・昌醒o量①号gggの日︾﹃段具合Hg号如

の国ロ鳥屋ロの︲再三ロロ①ロぐ○﹈cpg昌息甲庁呂口︲斎○口︶g旨一旦︒﹈旨画巨ゴーごH①ウ○匡邑巳︼昌巨の色巳巳酎己冨︽毎口騨園

房Ho﹃P巨冒⑦︾の里巳︵壱一m①国甦①夙旦の目︶厘く2戸︵吻昌庁冒言①︶︼o一①︑庁のgゴ○目日①一︾︾︵zo蔚吻員庁︑琶口⑦︲

月三︾︺○二国︺・毎m.︾﹈④P月浄宅.骨︒﹄ぬ︑︶

即ち之に披ろと︑壺日︑中印度に沙律︵師?.︶といふ聖者があった︒淡の哀帝元詳の元年︵西紀前二年︶

に此の博士︵沙徹を指す?︶の弟子たる景肱か︐伊存口と呼ぶ大月氏王からの使節を迎えて︑﹁此の國中

で新に︵王位に︶即く者は︵正に︶此人である﹂と説かれた佛經を其の使節に授けた﹂といふのである︒

此の諜文に擦ると大月氏王使伊仔が景脱に佛經を授けたのではなく︑反對に後者が前者に之を授けた事に

なってゐる︒大月氏王の使節伊存口も思昌三国の場合と同じく︑伊存の談で︑口字は下文の受字にか上る

魏略の伽鮮に開する二三の問題と老子化胡説の由來五

を提出した︒即ち︑

(7)

霞蜑Q墨珪旦麗や岬111119厘鋼AJ榊伴翠悪侭Q田援イ〈

Y釦逗龍!IIIE、$雌挫凰。

0000誉Q昌一PauthierkjBらSpechtA」昌苞箒皆Q樫腸無揮i国Q朧健式lmiQAJ‑鴇窒緤侭負ぐ騏睡亀旦寮

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一揖塑厘脚ヨ。

(8)

然るにヨ﹂臼﹃一は共後又﹃王玄策印度行記﹄︵ご討痂一○こめq①君§ぬ関口g︲肝のg三里︾冒号篁○巨日・少め・︾目豊︲

︺E三︾一︺.︐一望︲︐易巴に於て呼び此の問題を収あけて詳論して語る︒其の要価を云へぱ︑閂﹂か二は先づ唐价迩宜

の厩弘明集ぞ始め.壱僻の喋沙門不唯痒俗や法琳の破邪論・涛嘔論及びその注澤等に引用せられたる魏略

の文と︑現存のそれとを比岐考察して︑現存の塊略は數登後人の改蹴猪經たものとなし︑嫌に災中に於け

る重大なろ過渓は沙椎︵舎利弗︶上龍末の茜巾匪との關係の雁蔽や景唯と大月氏との關係に對する矛盾錨る重大なろ過渓は沙椎︵舎刊 骨の︲鐸剖︾己○行①HンO

とあるの辛塞老して︑復立は結局老子化胡読に擁づき︑老子ぞ以て道徳經に閃ろ道教の第一附肌とし︑佛陀辛一以て其の弟子の鱒三川上見倣さん上する道譲徒側の意岡から川たもので︑結局佛陀〃老子の椛化に外ならぬ当のル寺ろ目解であるL目てゐろo︵zC尽め炉昌一$冑号︐mQ一言︑︺言巨g・餌︑.︾一目ご・︲誘冑・︾屍当.つ.

あると見た爲めであらう︒

併し此の陳子良の文は︑彼が佛迩胸師の目的から班略の脱文今ぞ遡江に改作したものと見るぺく︑此虚に

○○○○○O近世澁巾とあろば廠側の瀧法家半︵法琳・迩硴等の如き︶が怖畔の道教の道士溌指す雌僻に外ならず︑之

魏陥の佛仲に脇する二三の伽辿と老子化胡飛の川來七

渓の記述であるとしてをろ︒

惟怜晶亡峠町D胴妾︸弓貸啓D口

ふ に 妬 の 如 き 晟 己 の 見

解は塊略原文の︑﹃天竺又有二抑人一・名二沙律一・⁝・・白二復立一者︐無人也﹂の

文と法琳涛眼淌刀陳子良の淀雑文たる﹃︵臨兇︶阿有一祁人一名二沙碓一・年老髭白︒欣似二老子一・術激し民爲二

0000000︒﹄コフ0000つ

浮州一近冊黄巾o見二比頭巾一︒改祇沙祁↓・題二此老恥一︒﹄とを比較老合して沙律孝黄巾雌と必然の關係が

I

(9)

I

魏略の佛傳に閲する二三の問題と老子化胡説の由來八

が決して漢末張角等の黄巾匪に何等迩接の開係なきことは下の引例に依て明かである︒

ヘーノ○00○○○○○一貞襯十一年︒湖巡二洛邑一︒黄巾先右下與v僻論者k剛二之於上一云令︵道宜集古今佛道諭衡巷三︶く

︑ノ○○○○○○○○○二貞槻十四年︒先有箏黄巾︑西非洲秦仙英者一︒挾二方術一以自加云昂︵同上︶

彦i︑

︑ノ○○○○○

三有二黄巾李仲川一︒畢謝二特窺一・智恕二信度一云盈︵法琳嶽正諭巻六︶

然るに序ぐ一は上記︑陳子良等の︑勝時の道士に對する班榊を以て洩代の黄巾匪を指すものと誤解し︑之

と魏略中の沙律とを紬合して沙律が恰も漢末の黄巾匪の張角等と何らかの關係あるが如く誤解するやうに

なったものである︒加之.かかる尿風の謬見に誤られてc言ぐ弾巨巨①いも亦.魏略の佛課中に於て黄巾匪

と佛教との關係について下の如く述べてゐる︒

黄巾eo冒昂厨声E︼$︶は遁識の識會と宗旨との眞避の創始者で︑佛敦登會及び其の宗旨に直接反抗せ

んと努めた者である︒彼等は特に佛教の勢力を弱めんと試み︑老子が突然姿を没したので︑それが布教

の目的で西域に往ったものとし︑佛教も其故に︑畢党道識の印度よりの逆輸入であり︑佛陀すらも老子

の弟子の一人であるとした︒魏略は黄巾に依て流行せしめられた斯様な風説の反響を吾人に仰ふるも

のであらう︵﹇﹂①冨冨QC8廷①具島砦忌め﹈①三⑦昌○︾︑頃○戸届冨○﹀︑畔.旨.ぐ2.ぐ胃︾岳目や図︑︺己○房.︶

併ながら之は原く一やQ︼騨箇旨①吻等の単なる想像に過ぎずして.漢史には黄巾匪が佛教徒に反抗した

記事もなければ勿論その眼跡も認められない︒加之︑ぼく一や皀昌冒冒︺①め等のか上る毒は全く遁佛叩激の

歴史的發展過程を無脱せるものといはいばならぬ︒資際上此の叩教の對立抗争の表面化したのは早くとも

N

(10)

目﹂①ぐ一や︒﹈皇冒三︺硯等が魏略の復立の語を以て︑徴時の道教徒から老子の化身又は後轤者と目された畔

迦に擬定せんとする根本の材料は大朏厭代の謹法价等の手になれる文献に過ぎないが彼等は柵むらくは之

等ゆ文献が幾何の信狐に仙すべきかといふ文献単的批判と考察との用意を緋いでゐる︒

魏略の抑傳に閲する二三の問迦と老子化胡説の由来九

西晋末期︵四仙紀初期︶に天師道逆士の壬浮等が化胡経を侭作した頃からの事でなくてはならぬ︒從て之は漢末の黄巾脈飢當時を去ること麓に豆三十年を経過してゐて︑佛教は主として此の期間に顯著なる進歩を途けて支那川有の僻道二教の思想の一大脅威となったものであるが︑漢末茨巾匪勃發常時の佛教は未だ道佛雑採の通俗側耳の宗教の一として半ふじてその存在を認められてゐたものに過ぎない︒

次に晟昌が指摘した景暇と大月氏との關係について現仔の魏略が矛盾錯誤に陥ってゐるとの非難は恐

らく明帝顯夢説に韮いて支那の椰士弟子︵景嚥・秦景・秦景志︶は大月氏國使を迎えて之から佛典を受け

たものでなくむしろ反對に此の者が使節として大月氏剛に派遥されて其地で佛典の口授を受けたものとの

見解から起ったものであらうが︑支那史料としての価値から見れば魏略の佛傳は牟子理惑や四十二章經や

魏書︵樺老志︶などに基づく明帝醗夢説よりも遥に信頼に価するものである事は明帝時には既に夙に佛教

が流行してゐた事疫から見ても明かであるから之は問題とするに足らない僻説である︒

(三)

佛國學者の見解に對する批判

(11)

Q

班略の佛偲に開する二三の川題と老子化胡説の由来一○

束晋以来道佛二識が支那の祗称に於て各登間有の發展希途げろことになると︑瀧代から成立してゐた之

等雨愛徒冊の比較的親等を開係が破れて︑彼等は此にその布鐡汗煉の必要上から必然的に對立抗争の餘俄

なき迩命に逢着した︒而して此の場合に於ける逝識徒の教敵に對する顯菩なる政策は剛敦の間に夏災の辰

別を立て︑漢族の民族的感怖を鼓動刺激することに脚て新來の佛敷の發展を阻止せんとした︒之に對して

佛識側では︑一方に於て出来得る限り︑佛教を支那の肚愈的体統に同化剛合せしむることに努めると共

に︑他方に於ては深淵椰大なる印度思想の卓越性を弧調して之に山て通硲低級の道教為義に韮く信仰を制

啄せんとした︒此に於て之等雨教徒の問にはその教即の淺深廠狭だとか︑教法發源の新奮暹迩などに州し

て凡ゆる手段により︑凡ゆる角度から其の雄暹を手ひ︑その結果は終に多数の經典の偲作や古典悲職の蹴

飢改作などが臆面もなく涯行せらる上ことになった︒

先づ之を佛教側に就いて見るに︑清淨法行經・稚頭経・塚来脚縁經・須彌四域經・徳謹長考経︵申日

維︶・薬師繩・四天王経・淨土三味経などは殆ど六朝中期から附胖の醜にかけて上記の月的によって侭

作改蹴されたものであるが︑更に企の見る唯ぞ以てすれば流剛盆︒安宅・塚蕊等に開す︾ね佛典も概ね南北

朝時代に佛考が支那脈介の仰統禰枇に投合せんが魚めに故迩に佛陀の金︑浄撫りて慨作したものが多く︑

孟随盆の行事の如きも寧ろその起源は泄先染秤浄韮礎とせる支那脈稗にありと恩はれるのである︵道激思

想に影響せられたる侭經︒紫日信亭博士︑大疋大學誉報鏑一韓塞照︶・

以上は偏作佛典の一例であるが︑落し夫れ遁識側の侭典に至っては砧ど粒翠に進がない︒法琳の癖順諭

(12)

︵雀九︶に擦れぽ︑道圭陣修靜が宋明帝に献じ弁遺書同録中に雌載の遁書は莊子・列子・尹文子・鬼谷子︒准

南子などの先秦秦洩の諸子をも合計して繩に三三八巻に過ぎなかったものが︑唐初法琳常時の道書目錐

には一躍之が二○四○巻に墹加し而も其中の多では漢書藝文志目などから取って怪しげ歳注疏溌施したも

のが多いといふことである・陸修靜の目録に收められた通書について尚莊︑列・鬼谷・准南等の古來の諸子

百家の書以外は大抵魏評以來の道士・祁仙家等の手に蔵ろものであることは云ふまでちないが陸修靜以後

店初に至るまでに墹加した八百餘巻の道書の大部分は伽交一二川紀間に愉時の道教徒の手に依って︑或は

元始天尊だとか或は太上老飛などの説法に假託して︑古霄の改京せられたものか︑若くは新に傭作された

道教經典であると断言しても犬鰐莱支はない︒その中でも秤の道化王浮の明成化胡經の系統を引く傭典が

流行の中心となったらしく︑老子両昇經︑老子開天經を始め文始傅・玄妙捕・太上老飛迭京天地初記など

は六朝末から陦肝時代にかけて迩賊中に賊ら噸要の位世を占めてゐたやうである︒

か上る鮎から老ふ虹ぱ六帆中期以後に於ける逝佛刑敦徒心純典の改作宜凱などは殆ど蔀常描飯事に馬

し︑布も道佛論衡の事項に關係する限り︑彼等の發表提示する文献は多かれ少かれか出る不純な改蹴の嫌

疑を有するものと見ねばならない︒從て斯かる棚鮎から一睡瑚到雌将なる︑一↑⑦鼻︲厚巨鉤を施さrろ災りは

之等の文献を以て無條件的に正確な史料として利川することは川来ない︒

以股に因て辰己や︒旨冒昌扁蚫等が沙律と茄巾雌とを結合せんとする見解の誤れることが略蛇判かつ

たと考えるが︑かLろ誤解の根本の動機は彼等が魏略の役立の語を以て徳豆の誤馬上一認むることの出來な

魏略の伽傳に開する三一万問題と表干化胡挽の由来二

I

(13)

魏略の佛傳に關すゑ三の間越と老子化胡沈の由来二一

000かつた妬に存する︒尤も○言員一目①mは祉佑山迦叫︵避防︶に﹃幽岡二復豆一者共人也﹄といふ文句のある

ことに注意してゐるが︑團三の意見に謬られて︑之を以て杜佑心妄改として一蹴し︐何虚までも復立者︑︑︑︑︑b︑︑︑︑︑○○○○O︑︑︑︑b℃︑b︵罵冒巨宮﹃︶孝黄巾雌等の所説に本づく化胡仇老子の郷生者たる佛陀と兇倣して愚ぐ一の見解を数行皿述

してゐる︵房宮嵜Qooa①具色P官尉乏g︲言﹀︑更○E碩宅PC︾︑野.旨.く巳くH︾99亀︺・菖鍔己C苛己・

併ながら此の彼立が元糞復亙の洩潟であって決して祇佑の妄改でないことは世論新語︵文學筋︶注に引川せ

る梁の劉孝標の魏略の引文が明かに論明する虚である︒余の媒剛を以てすれば之は魏略佛体の妓古の引川

文にして思盾言⑦﹃︾響①伝言は勿論弓Lg﹈︾g覺昌﹈︺①いさては該博一価を雌する序三○行氏すら注意せざ︾わ所

のものである︒之等の學者はか上る魏略の綿纂當時に比較的近い梁代の史渦を閑却して勝代の誰法价など

の手になり︑道佛諭術の工具として利用せられたる不純の意味を多分に包含せる末代の材料に基いて立論

せんとするは顛る常を得ない︒殊に序罠具氏の如きは其の牟子理惑諭の佛謹の末尾に於て︑此の復豆の

文字は絶對に浮暦︵岡︶︑佛陀などに依て表はさる上習呂冨の文字と關係がないといふことを主張して

ゐるのであるが︵勺.弓①臺具︺三①○厘︲厨2○戸﹈⑦切口○具のm庁忌め︶︑唇C昌侭百○︸く2.〆﹇問.畠呂︶国○房PQQ三日︺︲

ロ豊①畠︶.由︶︑卑見に擦れば之も亦一の謬見に過ぎない︒序罠g氏の説に擦れば復豆︵守巨︲訂c厚︶といふ文

字は古代支那の雲○局昼匡①からすればウ言烏邑一2︾言冨匡○戸く匡巨匡にして昏目言︑音讓には絶對に

なり得ないと見てゐるのであるか︑復字の古音厄護手と同じく︑和音﹁ふく﹂﹁ぶく﹂の外に﹁ふう﹂﹁ぶ

う﹂の昔がある︒即ち復字は︑

(14)

︑︑ノ−房六切言伏︵睡韻・喋韻・韻會・正韻等︶く

︵︽ご君弓曽晶﹈官穴V︽ご官弄︶

の外に尚︑

二浮富切浮︵去雛︶︵集稲・訓會・正韻等︶

︵︵g智言や巳一︶憲二︵砂匡︶V︽嘔脆に︒巨順に.

などの一音がある︒浮︵︽g菅︾○厘母屋︶は浮屠若くは浮岡として瀧魏以來陪店の頃杢で脈に川ゐられたもの

である︒斯く云へぱ之等の反切ぞ示す府韻以下の言訓群は瀧魏六朝の古韻冴忠賛に鱒ふるか否かは疑問で

あるといふかも知れぬが︑菩韻上復字が古代浮字に通川したこ上|け誹夫雅綿の毛傳︑蹴韮左どの輝義に照

○O

して明かであるが︑仮に一歩辛讓って瀧魏六朝時代に復字に浮字の香が左かつたとしても︑六帆時代に

○O○○00は︑復と同一音の伏に既に佛の青があった密例は秤害・魏霄等の乞伏氏が宋書︵巻九八氏胡︶に乞佛氏とな

○00

ってゐるから復Ⅱ伏Ⅱ佛が少なくとも六朝時代に通川されてゐた事を拒汁課には行くまい︒

次に復豆の豆字に就いて見るに︑豆字は︑

豆l徒候切衝︵庶昔︶

︵︽会51︽忌巨V忌巳

豆1大透切喪︵集韻・献會・下仙︶

a曇登︾・匡冒︸llQ︽程V爬曜・宮晦嘔

魏脇の佛鮮に開する二三の問題と老子化訓批の由来三一

(15)

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(16)

の文句LlC文とぞ迩結して前後一文と見る時は﹃漢哀帝時に餓嘘か大胤氏王使伊仔から更けた復豆︵浮屠︶

く經は天竺の祁人沙律等の傅訓せるものであった﹄といふ事に鮎済するであらう︒而して沙律の人物につい

ては嶽脹論の陳子良の注に︑

沙神年老髪白︒常教γ人愈一一浮脚一︒人右一︽災祁一災難y子君︒糊行二浮岡砺戒一・令二扮し財順一レ葱︒云令

とある文浄信ずるとしても︐之に接紬せる典の下文の内容を見る時は秤宋時代に阿含系統の佛典の榊詳等

クワシに作ふて一般に流行蒋及し飴めたと忠はるろ過去佛出仙の思想などが拙き川されてゐ↓わので︑魚祭の魏略

の原文に果してかiろ記述が最初からあったかどうか老余は剛る疑ってゐるものである︒

次に大月氏王使伊存に就いてもQ畠くP一目⑦函は叉一の新説ぞ提川してをる︒彼の老に擁ろと第一に伊存

の二字はどうしても問打禍詞︵冒○冒官○宮︒︶とは藷へら虹ないし︐叉彼の知れる限りでは此の文字は搬課

上の仙川文字ではない︒雄二には支那に於て可なり硴置な雁史的体説から見ると︑椰士弟子最悲が大月氏

の使節葬迎へたのではなく︑却て彼自身か使節として大月氏に征つたといふことを語ってゐるとて︑雁代

三密紀ぞ始め︑園三等の指州した粍迦力志や破邪論・法苑珠林などに見えてをる魏略佛仰の異文を列梁

してゐる︒かくてQ旨言一目のいは進んで之等の異文と癖正諭の陳子良の注樺に記された

鋤略の佛鮮に閲する一三の問池と老子化胡説の仙來一五

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(四)

大月氏王使伊存に關する問題

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(17)

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(18)

を信川することは川來ない︒の言く臼冒①的等が常に共の論擦として引川する庭の癖疋論の注樺家陳子良とい

へるものは肝史には絶えて見えない一睡の烏有光生たるのみ底らず︵法琳も陳子良も共に頴川の陳氏川身

であるから其の砺慨は恐らく法琳か︶︑其の群が涛箙論中に引川せる魏略及び西城博など云へろ文章は

典のまLの形では.現存の稠壷史料巾では證俄たが昌溌兇することの川來ないものである︒從て息く︾や

Q昌冒目厨等がその見解を冒辱せんとするが爲めには先・っ陳子良の人物とその業蹟に開する諭證l

少くと關彼が一個の烏有先生でないといふ諭諦lを必要とする︒然らかして雁代正史P瀝疏家中︑最も

信頼を博せる三剛志の炎松之の淀疏文を放棄して漉然出所不明の府代誰法家︵而も烏有先生︶等の手にな

アルピトレールれろ任意の文献ぞ韮礎とせる立論である限りは似令それが如何に巧妙締博なものであっても︑結局常而の

問題の解決に對しては何らぎぃ一号①な効果はあり得ないと老へる︒

魏略佛傅中の最重要の問題は仙佛識の東仰と側老子化胡説との二唖であるが︑前者は既に前段各節に於

て之尋継辿したから︑次には輔二の老子化胡説について卑見ぞ州陳する︒

魏略佛傳の後半価に

オモヘラクユキ

浮崎川し減︒與二中剛老子經一机出入・蒜︑以爲老子西出し開︒過二西城一之二天竺教陛胡︒

班略の佛傳に關する三二の問迦と老子化胡飛の由来一七

(五)

老子化胡読の由来

(19)

|I

刎脇の佛傳に閲する三一石川越と老一十化棚説の由來一八

といふ文句がある︒史北叩細成の年代から兄ると此の魏陥の丈は服に支那に於ける現介史料中老子化胡説の

最古の記救と見るぺく︑之に次ぐものは劉宋の弛岬の手になる後淡北郎︵巻六十︶変併仲に見えたる

或言老子入二夷狄一︒爲二浮隅一云令 の文句である︒而して之等Ⅷ求岫は細嬢の年次から云へば魏略は大僻門紀二価紀の牛にあり︑池北岻は五仙紀 の前半に脇して︑北︿の間に約一価紀牛の陥りがある︒併し乍鳴弛輩坐榊傳吻文は格が無拙邪笂年︵西紀一六

六︶に後漢の桓帝に奏上した上疏小の文句であるから︑事査川越としては弛書の襄橋僻の上疏の文句は魚

ケワン祭の魏略成立に先立つこと変に一百餘年となる課である︒

傭又支那に於ける這教の成立は淡末から三両畔代にかけて.干吉・窟家や黄巾匪張角等の︑王張にか比ろ

太平通や.同時に巴漢地方に擦った三一張︵張陵・張衡︒脹秤︶等の徒によって唱川された五斗米道︵唾は

太平逝の一派に過ぎないらしいが︑之が乖皿以後天師道と呼ばれ︑後仙荊教の︑壬流を爲す︶等の思想系統か

ら發源して︑韮剛の葛洪や北魏の籏諏之話始め︑宋梁時代に一旦ろ陸修靜や陶弘景等2M鴇韮肌及に曲って始め

て一大發展卒遂げたもので︑此の中でも北魏の造諏之は特に支那間右の祁仙・巫帆︒占星・祭天などの道教

的哩素を紫那統︿印して天師遁から一雁支那剛尺的︽一本数たる逆数にまで發逹せしめた︑逆数の集大成者とも

日ふべき存在であるo全く窪諏之の迩敏に於ける位世は沙門道安の佛敏に於けるものと軌を一にし︑迩安

が老莊思想や逝教的風尚から佛敏を解放して︑印度川猯心本来の﹄挫而目に之を還兀せしめたと同じく進諏之

も亦伽教的臭味から脱却して漢族間右の思想務中心とせる國民的迩教の韮礎を築いた人物として當時の支

ilIl

(20)

那思想史上に特筆さるべき人物である︒さて斯の如き事置から見れば道教が一佃凋立の宗敦として公然佛

教と對立抗争するに至ったのは南北朝の初期︵五柵紀巾頃︶からである︒尤も支那に於ては漢魏の交から

新米の佛教思想と古来の倫数や道教的思想との間に多少摩擦術突の傾向はあった︒漢末から魏晋時代にか

けて逝教思想が急速の發展を逢けた一つの原捌は碓に新來の佛数思想の發展に對する9目の8号とも

老へられるが︑それにもか比はらず逝佛の諭術が漸く激化し始め・たのは南北朝の初期以後の事と見て莱支老へられるが︑更

ないや弓である︒

然るに上述の如く老子化胡抗は早くも後漢極帝延窯九年︵二仙紀牛︶の褒措の上疏文中にも見え︑降つ

クワンては魚祭の魏峪︵三柵紀牛︶中にも明記されてゐる︒從って之等の史料を信頼すれば老子化胡説は少くと

も二世紀牛から既に立派に成立して︑耽會妙一部に流行普及してゐたもので︑南北朝初期の道教成立の時

期に先立つこと約二面餘年︑西野末期の天師道の逝士王浮の化胡經偏作の時代︵凹仙紀測期︶から見るも

約百五十年淀維過してゐる課である︒從來一般佛者は老子化胡説毎以て西将末の道士王浮の明威化胡經の

侭作から始まると老へてゐろやうであるが︑それは少くとも魏略や弛曄後背の記述とは一致しない︒然

らば吾人は此の化胡経以前に胡化説か沈行してゐたといふ事疵を如何に解群すべ吉であらうか︒魏略や後

洩脊に對する後人の改蹴といふととも多少問題にはならうが︑誕楴の上疏文にまで立ち入って改蹴が行は

れたとは伝じられない︒価で此の問題を解決せんが爲めに︑姑く他の方面から︑常時山佛敦の布識事怖を

考察する︒考へて見るに佛敏は周知の如く前漢末期︵西紀前後の交︶に支那に体來して︑その始めは恐ら

魏略の佛偲に隙する二三の問題と老子化胡瀧の由來一九

(21)

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塊略の佛傅に開する三一万問題と老子化胡詫の由來二○

!斐那に届濡せる西域諾閏の商胡の間に行はれてゐたものと恩はれろ︒即︑此虎にも﹃体道は貿易から﹄

の朧史的織川が行はれてゐたものと見える︒然るに渡來の傅道師︵沙門︒伊茄来の類︶が埆加するに作ふ

て佛裁は次第に支那人の川に凶青仰せられ︑後洩の初期には一部の封建貴族などの洲にも之が流行したら

しい︒此の事は明帝の異母弟楚王英の場合に微しても明かである︒

併巌がら常時佛戦が支那に布教せられるに街って︑一路地良何ら荊疎の道ぞ歩むことなしに直に士藩の

漢族の間に此の識門が流行杵及し始めたと老ふろ者あらぱそれは大なる見當蓮ひである︒か上ることは宗

教の異剛布教の歴史上から見て殆ど不可有の事海である︒凡そ一シの宗数が未知の閥に偉道浄開拓する場

合には必ず多大の迫祥と受難とに辿遇することは必ずしも耶蘇識︑が我が餌に傳來した常時の雁史を同願す

る必要はなく︑既に渡來當初の佛教が我が剛古神道と思想信仰の上で一大衝突卒超し︑その結果蘇我・物

部川氏によって代表せられた新奮政椛の大鍵動が行はれ︑引いては大化改新の新政府にまで路浄砕いた事

礎に由っても此の事の一端が側かろわけである︒か上る大勢は渦り我が岡に限ったことではなく佛識が始

めて支那江南に流入した幟時にあって哨康僻會等が孫呉の江南政椛の爲めに異常の迫審辛↓更けたことは周

知の事柄に厨する︒

一般に宗教初陣の歴史を通槻するに︑甲地から乙地に傅來する場合︑甲地が乙地よりも文化の水準に於

て著しく高い場合には叩地の宗教は比較的容易に乙地に傅播せらる上傾向がある︒佛敦が始めて我國に傳

來した営時の支那大陸や耶蘇教の布教が公認された明淌維新常時の英米諸國の如きは︑我が國が之等を先

I

(22)

進幽とし尊城し︑その制度文物の輸八に熱中した時代であったから比較的容易にその布教の目的を達する

ことが出来たやうである︒然るに佛教か始めて傳來した當時の支那に於ては著しく之と事怖淀異にしてを

つたのであるc

佛教東漸時代の漢代り支那は枇界文化の中心を以て任じ︑自から中鬮・中夏を以て誇り四方諸幽を溌夷

戎狄を以て卑んでゐた︒其の爲め災狄の風俗信仰を以て中夏を素すことを雌も恐れ妓も嫌ってゐたもので

ある︒佛教東漸期より稲堂時代は降るが︑南齊の道士顧撤の如きは炎異論を著して胡俗の佛教を以て中夏

の風俗信仰を素すは﹃奥今趙爽にする﹄も妙であり︑文化を棄てて野鍍に還るものであると主張し︐漢族同

胞は宜しく閏蛇的宗識たる道教を信仰して外来の佛教を排斥すべしとの趣意を力説したのは人の能く知る

虚である︒か比れぱ願漱心時代︵五枇紀半︶から約四百年以上も遡った楚王英等の時代に於ける佛教の支

那傳道の胴雌な樫度は殆ど秀人の想像も及ばぬものであったらう︒

斯かる時代に苗って伽教徒か支那に傅道布教を行ふ唯一の手段方法はその剛間有の風俗習悩・思想・信

仰などに出来る限り結合湖和することであらねばならぬ︒此に於て後洩初期の沙門はその布教に常って巧

に仰救い般若梼筌説などを老子の虚無自然の道に結合し︑當時一般肺曾に流行した方士の不老渥生術に重

大鮒係ある行氣・導引などの生理的蓑生法や養氣暹性説などに由る糖艸修養法と︑佛寂の祁定靜槻等に

よる牙心の難正統一法との間に特殊の鮒係を附して︑佛駁も亦道士方術家等が説く鹿の不老長生の術を称

し︑而もそれは支那方術家のものよりも一歩進んだ新しい形悩のものであると説いて︑之に閃て楚王英等

魏略の佛傳に腱する三一万脚鼬と老子化胡説の由來一二.

1

(23)

の心を執へたものLやらである︒

佛岡現代の支那學者国21シ宮署の︻っ氏は此の問題について左記の様な考淀述べてゐる︒

﹃佛教が支那一M陣の︾初頭に轍つては︑先づ道家の子派として︵の○弓冒①巨己①m⑦︑富国C騨①︶︑即ち支那迩

家の淀行せるものと幾分異つ↑卜不老長生修得の一方術として出現したものである︒されば楚王英の行った

﹃浮屠r祠﹄といふものが遁家の雛式に關係があるとしても︑それは後枇の高僻傳の作考等が考える如く︐

楚王英が佛教に改宗したと云ふこ・とではなく︑寧ろその斑は楚王英が少くと凶或る時期に於て浮隅と黄老

とに封して同時に犠牲瀞捧けて叩考の柴拝を汎折し乍ら﹁佛識の色彩今熊耐ぴた逆敦﹂名己冨○房目①国三の

号壼C庫邑亘加g⑦︶〃修行してゐた生でのものである﹄?画○○冒冒昌昌こぶ宮屋屋一二m房号﹃﹄○冒品︾吉匡目・

器.︾宣言爵①冒呂︺言印︾s望︾一︶.臼・︶といひ︑更に氏は叉此の論文の結論の條に於て︑

﹃之までに知られた妓古の佛識糞側が組織せられたのも此の佛敏の第一の保謹者︵楚王英︶の周剛即ち

彰城附近に於てぜあった︒叉佛教化した逆数が︵よしんば批虚で組織されないまでも︶發逹したのも変は

楚の中心︵彰城︶に於て噌あった︒而して此の極の逝識が自己の数M中で窃に佛教の仰播葬獣認したが爲

めに︑それに曲て経に佛敦に穴傅布識の逆が開かれることになったやらである︒か上れば此の佛識化した

道教は惰も發生常時の莱将識に對して︑羅馬世界に於て︑猫太教が爲したと同一の役割溌佛識に對して爲

してゐる云廷﹄︵ごQ・畠︶.﹈急︲ご己︒

と述ぺてゐるのは佛教束徳初期の逝佛咽教關係の眞和を最も善く洞察した一言と云はいばならぬ︒

魏略の佛傳に閲する一三の問題と老子化胡読の由來

(24)

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(25)

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魏略の仰惇に開する一三の側迦と老子化胡説の山來二四

斯の如く兇来れば後沈畔代︵少くとも初︒中期に於ては︶の佛識が帥仙逝の不老褒生術浄彼川して逝家

と混合して巧にその職線審猟大してゐた事疵を閑却することは川来まい︒従てか上る事怖の下にあっては

老子の無爲価娠幽芭uも粋迦の特生息愁い鍛義も幼稚なる洩代一般人の頭には元交同一のものと考えら

れ︑その結果は蕊柑の上疏文中に見えたる如く

或言老子入二夷狄一︒爲二浮隅﹄︒

クワンとか︑或は魚祭の魏略佛体に戦せられたる

オセ季ソグユキ

浮屠肋y城︒典二中剛老子維一︒相川入︒蓋似魚︑老子西出v開︒過二西城一︒之二天竺一︒数V胡︒

︑︑b︑︑︑︑︑︑︑もも︑︑︑といふが如き老子と浮崎との況何靴粍の老か時代の經過と共に自然に發生したものと考えられる︒されば

老子化胡説は必ずしも後枇になって逝佛叩教かその前後を手ひ雄暹を鼓ひ妬めた時代に通教徒側が故意に

猟造したF品⑦昌であると見るわけにはゆかない︒少くとも此の佛老汎川の老は後洩中期史坐榊の醜︵二

祇紀牛︶迄には既に佛教の流行に作ふて自然に支那脈命凹に發逹したものと見られるが︑而もかLる老の發

生する根本の動機に遡ると倭人が災太仙螺川商であるとか︑.大案の超脱は支那人の杣民に耕接な開係があ

るとか︑凡て外幽に於ける纈薪催秀なる事物の起源を自阿に結びつけんとする注民放一流の民族的自負心

から川てゐろものLやうである︒

僻又洩魏を経て乖遮代に下ると北︿に逝佛咽識は各盈問有の發逹を途げて︑從米は形影州偽るが如く扣互に

依存してそ2琶凹の心Ⅷ極に巡逃したものか︑後にはそ2否口か著しく分離陥絶するに及び各自の識絲披張

11

1

(26)

に作ふて自然に附粁の間に感僻や利祥の術突が起るやうになった︒か比ろ時代に際して︑評の道士王淨は

偶然にも古來一部人士の間に行はれてゐた老子化胡読を拉し來って化胡經を製作し︑佛識の起源は老子西

遊化胡の事奮から曲來せるもので︑その魚めに浮屠維の所載が.中剛老子經と似通ふてゐるのであると主

張し︑從って逝家の思想は佛者のそれよりも遥に古くHつ勝れたものとして︐之を道教︵天師道︶宣仲の

工具に使川したものであらう︒

斯の如く見る時は汗の王浮の手になると体へらる上老子化胡經の由來淵源は既に漢代に發生せる佛老混

同の老子化胡読話に基づくものと考えても敢て不當の見解ではないと確信する︒︵昭和十三年三月十日︶

魏雌の抑螂に脚する三二の川哩と老子化胡沌の川來

参照

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