Der gegenwärtige Stand in der Kaempferforschung
ケンプファー研究の現在
――ドイツとの比較にみる日本の研究史――
Kaoru Okano
岡 野 薫
Das Japanbild Kaempfers, das suggerierte, Japan sei ein abgeschlossenes Land, stand seit der Aufklärung sowohl in Frankreich als auch in Deutschland im Kreuzfeuer der Kritik. Mithilfe der Übersetzung von Shizuki Tadao wurde der Begriff in Japan des 19. Jahrhunderts eingeführt und dank der Wortschöpfung "Sakoku" so salonfähig gemacht, dass er Teil des Selbstverständnisses der Japaner wurde. Im 20. Jahrhundert diskutierte man die Frage nach Verdiensten oder Versäumnissen der Landesabschließung und entdeckte in der Gegenwart einen erneuerten Sinn des Begriffs. So bedeutet das Nachdenken über die Landesabschließung für Japaner nichts anders als die Suche nach Selbsterkenntnis und die Suche nach einem Weg in die Tiefen der eigenen Geschichte. Deshalb fühlten sie sich von dem Gedankengut Kaempfers und der Landesabschließung angezogen. Die Landesabschließung wird weiterhin ein wichtiges Thema in Bezug auf die Kaempfer-Studie bleiben.
Die Japaner haben ein eigentümliches Interesse an der Kaempfer-Studie. Das zeigt auch die Vielzahl der Forschungen auf diesem Gebiet, was durchaus positiv zu bewerten. Auch bleibt es wünschenswert, dass unsere Kaempfer-Studien nicht so zugeschlossen bleiben mögen, wie es der Begriff “Sakoku”
impliziert. In diesem Artikel handelt es sich also um den Gesamtüberblick auf die Kaempfer-Studie und die Auseinandersetzung mit der gegenwärtigen Debatte um den “Sakoku” Begriff in Japan.
はじめに
北ドイツのレムゴ市に生まれたエンゲルベルト・ケンプファー(Engelbert Kaempfer, 1651-1716)は、ケンペルの名で日本において知られている。日本人の多くはこの名前を学 校の教科書で最初に目にする。例えば、高校生を対象とした歴史の教科書には、彼を紹介す る次の一文が見出される。「17世紀末、商館医として日本に滞在したケンペルはその著『日 本誌』のなかで、日本がオランダとのみ交渉をもち、閉ざされた状態であることを指摘し た」1。ここでケンプファーは日本とその鎖国政策との関連で言及されるのである。同様に
『広辞苑』も、彼が長崎に2年間滞在し、「日本の歴史・政治・宗教・地理を概説した『日本 誌』『廻国奇観』」2を著したことを説明する。ここでもケンプファーは日本との関係に局限し て取り上げられる。しかし、故国のドイツでの彼の扱いはこれと異なる。例えば、レムゴ市 にある彼の生家の記念盤は彼を「アジア研究家」3と呼び、1974年の『新ドイツ人名事典』は
1 笹山晴生、佐藤信、五味文彦、高埜利彦ほか編『高校日本史』(山川出版社)2013、155頁。また、日本史の教 科書を比較した著書は、教科書における鎖国の取り上げ方の変遷を次のように報告している。学習指導要領では 鎖国の語が消え、それに伴って江戸時代は四つの口を通じて海外に開かれていたと叙述する教科書が多くなって いる。その一方で、従来の鎖国の語を用いる教科書も残っているが、その場合でも、鎖国が「19世紀にドイツ人 医師ケンペルの著書が訳されたときに初めて用いられた語である」などのの記述を付加して、鎖国意識が江戸時 代後期に以降に形成されたことがわかるようになっている。高橋秀樹・三谷芳幸・村瀬信一『ここまで変わった 日本史教科書』(吉川弘文館)2016、114-115頁。
2 新村出編『広辞苑第七版』(岩波書店)2018、954頁。
3 記念盤の銘文には「ニコライ旧牧師館のゴシックの破風。アジア研究家の生家。エンゲルベルト・ケンプファー 1651-1716」と刻まれている。
冒頭で彼を「研究旅行家、ペルシアと日本研究家」4と紹介する。つまり、ケンプファーは日 本研究に限定されず、ペルシアを含むアジア研究家とドイツでは認識されるのである。もっ とも、1997年の『ドイツ人名百科事典』は「東アジア研究家」5という地域を限定した肩書を 採用している。それでも、この百科事典は、本文でケンプファーが日本以外にもロシア、ペ ルシアを訪問したこと、ペルシア、東インドに関する研究を残したことを明記する。要する に、ドイツではアジア研究家としてのケンプファーの広範な功績を視界に収めるのに対し て、日本では日本研究家としての側面のみを強調するのである。その意味で、日本での彼の 紹介は一面的に過ぎるといえるかもしれない。あるいは、このように考えてもよいだろう か。教科書にせよ、辞典にせよ、さまざまな情報を簡潔に説明するものなのだから、これは 妥当な記述である、と。だが、そうだとしても、なぜこのドイツ出身の旅行者に紙面を割き、
日本の辞典にあえて立項する必要があるのだろうか。日本とケンプファーとの関係はそれほ ど特筆に値するのであろうか。本稿は、この問題を出発点とする。この問いは、一見、教科 書や辞典の記述を必要以上に穿鑿するものにみえるかもしれない。だが、問題はより深いと ころにある。ケンプファーと日本との関係が特筆される背景には、日本における長いケンプ ファー研究の歴史がある。この日本における研究史が本稿の主題である。これを論じるに先 立って、次節では、これまでのケンプファー研究史の研究、すなわち先行研究の概観をおこ なう。先行研究の成果を参観しつつ、本稿の目的と意義とを明らかにしたい。
1.ケンプファー研究史の研究
ケンプファー研究史に関する研究は少なく、そのほとんどはドイツにおける研究史を論じ たものである。その意味で、これらは本稿の主題の厳密な意味での先行研究とは言えないか もしれない。しかし、研究史の研究の全体像をとらえる上で、以下の五つの研究は括目に値 する。
第一に挙げるべきは、ドイツのケンプファー研究者デートレフ・ハーバーラントによる 研究である。伝記的研究『レムゴから日本へエンゲルベルト・ケンプファーの数奇な生涯 1651-1716』の「影響史とケンプファー研究」6と題された章では、ドイツにおけるケンプ ファーの研究の転換点と重要人物が列挙され、同書の出版年たる1990年までの研究状況を 俯瞰することができる。第二に、中直一の「ケンペル研究の現段階」7がある。1990年代から 2000年代初頭におけるドイツのケンプファー研究の中心は、『日本誌』の精確さをめぐる書
4 Die Historische Kommission bei der Bayerischen Akademie der Wissenschaften (Hrsg.): Neue Deutsche Biographie. Bd.
10, Berlin (Duncker & Humblot) 1974, S. 729-30, hier S. 729.
5 Killy, Walther / Vierhaus, Rudolf (Hrsg.): Deutsche Biographische Enzyklopädie. Bd. 5, München (K.G. Saur) 1997, S. 395.
6 Haberland, Detlef: Von Lemgo nach Japan. Das ungewöhnliche Leben des Engelbert Kaempfer 1651-1716. Bielefeld (Westfalen) 1990, S. 90-104.
7 中直一「ケンペル研究の現段階」〔大阪大学大学院文学研究科編『阪大比較文学』創刊号(大阪大学比較文学会)
2003〕45-65頁。
誌学的、文献学的な議論8であった。中の論文は、この複雑な議論を整理し、それぞれの議 論の妥当性を検証している。ドイツのケンプファー研究史における重要な局面を分析した論 文といえる。また、研究論文ではないが、第三に、ケンプファー研究者として著名なヴォル フガング・ミヒェルのホーム・ページ9に掲載された2013年(日本語文献に関しては2011年)
までのケンプファー関連文献一覧も重要である。これは日本ならびにドイツのケンプファー 研究史を論じる上で不可欠の情報を提供する。第四には、ハーバーラントの「ケンプファー 研究の歴史」10がある。これは2018年に東京で開催された研究会「ケンペルの協働研究」に おける講演要旨である。上述した彼の伝記的研究における研究史を2018年まで拡大したもの と言え、2019年時点で最新の研究史の研究である。ところで、論者も同じ研究会において研 究発表を行っており、本稿はその発表原稿11に加筆したものである。以上の四つの先行研究 と並んで、鈴木楠緒子の「近代ドイツにおける顕彰文化と『国際交流』の記憶」12にも注目 したい。この論考はケンプファーのドイツにおける評価と顕彰の変遷を辿りつつ、それが近 代の政治や東アジア情勢と密接に関連してきたことを明らかにする。そして、ドイツにおけ るケンプファー顕彰の論理が、第一に彼の学者としての功績の顕彰、第二に彼が訪れた地域 との文化交流の貢献者としての功績の顕彰であったと結論付け、日本が後者のみに重点を置 いてきたことと対照をなすと結論づけた。13鈴木の論考は、直截にケンプファー研究史を扱 うものではないが、日独における彼の評価の差異を指摘した点で、本稿に重要な視点を提供 するものである。
以上の先行研究は、ケンプファー研究史の重要な局面を浮き彫りにするものではある。し かし、それらは主にドイツの動向に重点を置いたものであり、日本における研究史ひいては 日本人のケンプファーへの関心についてはほとんど論じられていない。そこで、本稿ではこ の点に光を当て、日本の研究史とその特徴を明らかにすることで、これまでの研究を補完し たい。もっとも、日本の研究史の特徴はドイツのそれとの比較によってより鮮明となろう。
それゆえ、次節ではドイツの研究史を俯瞰し、その後に、日本のケンプファー研究史の特徴 ならびに問題点と意義を考察する。ハーバーラントや中の研究を手掛かりとして、まず、ド イツのケンプファー研究史に注目する。
8 『日本誌』の原稿はドイツ語であったが、当初、英語(The History of Japan. 1727)で出版された。続いて、フラ ンス語(Histoire naturelle, civile et ecclésiastique de l'Empire du Japon. 1729)、オランダ語(Debeschryving van Japan.
1729)が英語からの重訳で出版される。最初のドイツ語版(Beschreibung des Japanischen Reichs. 1749)はフラン ス語からの重訳であった。さらに18世紀後期には新たなドイツ語版(Geschichte und Beschreibung von Japan. 1777- 1779)も登場する。いわゆるドーム版『日本誌』である。本文の『日本誌』の「精確さをめぐる議論」とは、上 記『日本誌』諸版をめぐる議論である。とくにケンプファーの草稿に対する英語版とドーム版の精確さが議論さ れた。ところで、西欧各国語版の書名には異同があるが、日本では慣例的にすべて『日本誌』と表記してきた。
混乱を避ける意味で、本稿も『日本誌』という呼称で統一する。
9 http://wolfgangmichel.web.fc2.com/index.html
10 講演の題目はThe History of Kaempfer-Researchである。次の要旨集に発表要旨と図版、渡邉直樹による要旨の日本 語訳が収められている。渡邉直樹研究代表『ケンペルの協働研究』2018、23-73頁。
11 前掲の要旨集、14-21頁。
12 鈴木楠緒子『ドイツ帝国の成立と東アジア』(ミネルヴァ書房)2012、211-229頁。
13 鈴木(2012)225頁。
2.ドイツにおけるケンプファー研究
ケンプファーの『日本誌』は、彼の死後11年を経た1727年に英訳で出版された。その後、
『日本誌』の新たなドイツ語の原稿が1773年に発見され、これに基づくドイツ語版が編者 ドーム(Christian Wilhelm von Dohm, 1751-1820)によって出版される。ドーム版は20世紀ま で『日本誌』の定本となった。この未刊行原稿の考証、出版によって、ドイツのケンプファー 研究は緒に就く。とはいえ、資料調査と原典批判に基づく、近代的な研究は20世紀のカール・
マイヤーを待たねばならない。彼は大英博物館に眠るケンプファーの遺稿の調査を行い、そ こから本格的な研究の端緒が開かれることとなった。マイヤーの数多のケンプファー研究の なかで、特筆すべきは、ケンプファーの著述の抜粋と伝記からなる『東洋奇観』14、伝記的研 究の『エンゲルベルト・ケンプファー ドイツ最初の研究旅行家』15である。だが、彼の研究 に問題がなかった訳ではない。マイヤーは、ケンプファーを断固たる意志と行動力を有する 近代的研究の先駆者として描出する。しかし、これは、現代のドイツにおいて、不十分な資 料に基づいて構築されたケンプファー像として批判される。16とりわけ、マイヤーは彼が生 きた時代、つまり、ナチス・ドイツ時代のイデオロギーを通じてケンプファーを理解しよう としたとされる。17第二次世界大戦後の研究者にとって、かかるケンプファー像は共有しがた いものになっていった。こうしてドイツの研究は、マイヤーによるケンプファー像の解体と 新たな像の構築という方向性を有することとなる。伝記的研究においては、ハーバーラント の上述の研究がこの方向性を体現する。彼はマイヤーを念頭に置きながら次のように述べる。
「これからの新たな伝記ならび旅行史に関する研究は、理想化されたイメージを伝えることを 目的としてはならない。そうではなく、歴史的文脈において妥当で蓋然性の高いと思われる ことを明確にし、かかる方法を通じて〔…〕実像に迫らねばならないのである」18。つまり、
厳密な時代研究と資料批判が、マイヤー以降のケンプファー研究を特徴づけることとなる。
こうした研究動向のなかで注目を浴びたのが、ケンプファー研究の嚆矢となったドーム版
『日本誌』である。ボダルト=ベイリー19、マサレラ20によるドーム版の文献批判の精確さ、
真正性に対する疑義は、新たな『日本誌』の出版へと結実することとなった。すなわち、二
14 Meier-Lemgo, Karl: Engelbert Kaempfer: 1651-1716. Seltsames Asien. Detmold (die Meyersche Hofbuchhandlung) 1933.
同書は1960年に増補改訂版が出版され、同版の日本語訳は以下の通り。カール・マイヤー(宮坂真喜弘訳)『東 洋奇観』(八千代出版株式会社)1980。
15 Meier-Lemgo, Karl: Engelbert Kämpfer, der erste deutsche Forschungsreisende 1651-1716. Stuttgart (Streder und Schrode) 1937.
16 Haberland (1990), S. 93.
17 マイヤーとナチスとの関係については以下の論文を参照されたい。Scheffler, Jürgen: Karl Meier, Engelbert Kaempfer und die Erinnerungskultur in Lemgo 1933 bis 1945. In: Engelbert Kaempfer (1651-1716) und die kulturelle Begegnung zwischen Europa und Asien. Hrsg. von Sabine Klocke-Daffa, Jürgen Scheffler und Gisela Wilbertz, Lemgo (Institut für Lippische Landeskunde) 2003, S. 305-341.
18 Haberland (1990), S. 12.
19 Bodart=Bailey, Beatrice M.: Warum noch einmal Kaempfer? In: Lippische Mitteilungen. Bd. 57, Detmold (Selbstverlag des Vereins) 1988, S. 149-167.
20 Massarella, Derek: The History of the History. In: The Furthest Goal. Hrsg. von Beatrice M. Bodart=Bailey und Derek Massarella, Folkestone (Japan Library) 1995, S. 96-131. (中直一、小林早百合訳)「『日本誌』史」〔『遥かなる目的地』
(大阪大学出版会)1999〕139-190頁。
つの原典批判版『日本誌』(『ケンプファーの日本』、『今日の日本』)21である。とくに、後者 はケンプファー著作集の一環として出版され、その著作集は2001年から2003年までに『書簡 1683-1715』、『日本の植物図録』、『シャムのエンゲルベルト・ケンプファー』、『マラバルの 覚書』、『ロシア日記』22をもって完結した。ケンプファーは『日本誌』を著したのみではな い。ロシアからアジア各地を廻って多くの記録を彼は遺したのである。新たな著作集によっ て、ケンプファーの功績を一望することが可能となった。かくして研究の基盤は整備され、
マイヤーの時代の問題点の多くは克服されたのである。残された課題は、著作集に収録され なかった、ケンプファーのもうひとつの主著『廻国奇観』の原典批判版である。すでにリプ リントやドイツ語の抄訳があり23、同書の大部分を占めるペルシアの記述については、2018 年に注釈つき英訳版24が出版されている。それでも『廻国奇観』の完全な原典批判版は2019 年時点で完成の途上にある。25
ドイツのケンプファー研究の発展に寄与してきたのはさまざまな記念論集である。それは
『ケンペルとシーボルト記念論集』にはじまり『ケンペルの「廻国奇観」―学問的革新、人 文主義的学識、ネオ・ラテン語のレトリック』に至るまで合計6冊にのぼる26。この中には東 洋学はもちろんのこと、植物学、医学、書誌学、言語学、地理学などさまざまな視点の論文 が含まれている。こうした記念論集以外にも、画期的な研究が多くある。『廻国奇観』に関 する新たな研究書たるヴァイスの『ケンペルの廻国奇観』27、そして、ケンプファーの影響 史という点では、カピッツアの『ケンプファーとヨーロッパの啓蒙主義』28が最も重要な研
21 Kaempfer, Engelbert: Kaempfer's Japan Tokugawa Culture Observed. Hrsg. und übers. von Beatrice M. Bodart-Bailey, Honolulu (University of Hawai'i) 1999.; Kaempfer, Engelbert: Heutiges Japan. 2 Bde. (Textband und Kommentarband), hrsg. von Wolfgang Michel und Barend Terwiel, München (Iudicium) 2001.
22 ケンプファー著作集の各巻は以下の通り。Briefe 1683–1715. Hrsg. von Detlef Haberland München (Iudicium) 2001.;
Zeichnungen japanischer Pflanzen. Hrsg. von Brigitte Hoppe, München (Iudicium) 2003.; Engelbert Kaempfer in Siam.
Hrsg. von Barend Terwiel, München(Iudicium) 2003.; Notitiae Malabaricae. Hrsg. von Albertine Gaur, München (Iudicium) 2003.; Russlandtagebuch 1683. Hrsg. von Michael Schippan, München (Iudicium) 2003.
23 Kaempfer, Engelbert: Amoenitatum exoticarum politico-physico-Medicarum fasciculi V, variae relationes observatoines&
descriptiones rearum Persicarum & ulterioris Asiae. Lemgo (Meyer) 1712 (Nachdruck, Teheran 1976).; Kaempfer, Engelbert: Am Hofe des persischen Großkönigs (1684-1685). Hrsg. von Walther Hinz, Leipzig (K. F. Koehler) 1940.;
Kaempfer, Engelbert: Der 5. Faszikel der Amoenitates Exoticae - die japanische Pflanzenkunde. Hrsg. und kommentiert von Brigitte Hoppe und Wolfgang Michel-Zaitsu, Hildesheim (Weidmannsche Verlagsbuchhandlung) 2019.
24 Kaempfer, Engelbert: Exotic Attractions in Persia, 1684-1688 Travels & Observations. Übers. und hrsg. von Willem Floor und Colette Ouahes, Washington DC (Mage Publischers) 2018.
25 原典批判版『廻国奇観』はヴォルフェンビュッテルのアウグスト公図書館にデジタル版として一部公開されてい る。http://diglib.hab.de/wdb.php?dir=edoc/ed000081&distype=start&pvID=start
26 Die Deutsche Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens (Hrsg.): Engelbert Kaempfer (1651-1716) Philipp Franz von Siebold (1796-1866) Gedenkschrift. Deutsch-Japanisch. Tokyo (OAG) 1966.; Hüls, Hans/ Hoppe, Hans (Hrsg.):
Engelbert Kaempfer zum 330. Geburtstag. Lemgo (F. L. Wagener) 1982.; Haberland, Detlef (Hrsg.): Engelbert Kaempfer Werk und Wirkung. Stuttgart (Franz Steiner) 1993.; Klocke-Daffa u.a. (2003, Anm. 17).; Haberland, Detlef (Hrsg.): Engelbert Kaempfer (1651-1716), Wolfenbüttel (Herzog August Bibliothek) 2004.; Haberland, Detlef (Hrsg.): Engelbert Kaempfers Amoenitates Exoticae von 1712. Wiesbaden (Harrassowitz) 2014.
27 Weiß, Lothar: Die exotischen Köstlichkeiten des Engelbert Kaempfer. Bielefeld (Verlag für Regionalgeschichte) 2012.
28 Kapitza, Peter: Engelbert Kaempfer und die europäische Aufklärung. In: Engelbert Kaempfers Geschichte und Beschreibung von Japan. Beiträge und Kommentar. Hrsg. von der Deutschen Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens, Berlin / Heidelberg / New York (Springer) S. 41-63. 改 訂 増 補 版 が2001年 に 出 版 さ れ て い る。Engelbert Kaempfer und die europäische Aufklärung. München (Iudicium) 2001.
究といえる。同じ著者による『ヨーロッパにおける日本』29は、ヨーロッパの日本関連文献 を集めた原典資料集である。ケンプファーの18世紀における影響の大きさは、この資料集に 収められた数々の資料が物語っている。書名や論文の題名は、ドイツのケンプファー研究が 扱ってきた領域の広さと多様性をあらわしている。ドイツにおいて、ケンプファーは「日本 研究家」に限定されはしないのである。こうしたドイツの研究状況に対して、日本の研究は これまでケンプファーといかに向き合ってきたのだろうか。
3.翻訳史
日本のケンプファー研究は三つの方向性から特徴づけうる。第一は、ケンプファーの日本 への紹介、すなわち、翻訳である。第二は、ドイツを対象とした研究である。この中にはド イツにおける日本像、ドイツにおけるケンプファーの影響といった研究が含まれる。第三は、
日本を対象とした研究である。この中には日本におけるケンプファーの影響、鎖国概念に関 する研究が含まれる。この三つの他に伝記的研究があるが、こうした研究は外国語の翻訳、
すなわちカール・マイヤー、ボダルト・ベイリー30によるものであるため、本稿においては 取り上げない。この三つの方向性について順番に論じてゆくが、まず、ケンプファーの翻訳 史に注目しよう。
日本における翻訳の歴史は長い。ケンプファーの著作はヨーロッパにおいて18世紀に出版 されたが、すでに19世紀に日本語訳が登場している。19世紀を通じ、翻訳は8点あり、最初 の5点31が江戸期の翻訳である。いずれも写本で、ほとんどが『日本誌』の抄訳、あるいは 同書所収の図版の説明文を翻訳したものである。全訳もなされたが、現存しない。すべての 写本はオランダ語から訳出されている。20世紀まで、日本人はオランダ語を通じてケンプ ファーを受容していたのである。
江戸期の写本の中で、後世への影響という点で特に重要なのは、蘭学者志筑忠雄による 1801年の訳業である。ケンプファーは『廻国奇観』のなかで、日本の鎖国ついての論文を発 表した。32この論文は、後に英語版『日本誌』の附録として再録される。33英語版のオラン ダ語訳を志筑は、「鎖国論」という表題で訳出した。鎖国という日本語は、その際に作られ
29 Kapitza, Peter (Hrsg.): Japan in Europa. 2 Bde. und Begleitband, München (Iudicium) 1990.
30 マイヤー(1980、注14)。B・M・ボダルト=ベイリー(中直一訳)『ケンペル』(ミネルヴァ書房)2009。
31 5点の内訳は、年代順に次の通り。志筑忠雄訳『鎖国論』1801。高橋景保訳『蕃賊排擯訳説』1808。武部遊、今 井馨訳『新訳大西洋日本志図解』1813。三宅信友『西洋人検夫児日本誌』1832。箕作阮甫、杉田成卿、竹内玄同、
宇田川興斎、高須松亭訳、題名不詳、1844-48。最初の4点が抄訳で、最後のもののみが全訳である。ただし、こ れは明治維新の際に失われ、題名も伝わっていない。『日本誌』の翻訳史については次のものを参照されたい。
沼田次郎「日本におけるケンペルの影響」 In: Die Deutsche Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens(1966, Anm. 26), S. 169-187. 大島明秀『鎖国という言説』(ミネルヴァ書房)2009、62-64頁。
32 Kaempfer (1712, Anm. 23), S. 478-502.
33 Kaempfer, Engelbert: An Enquiry, whether it be conducive for the good of the Japanese Empire, to keep it shut up, as it now is, and not to suffer its inhabitans to have any Commerce with foreign nations, either at home or abroad. In: The History of Japan, Giving an Account of the Ancient and Present State and Government of that Empire. Hrsg. von Johann Caspar Scheuchzer, London (Printed for the Translator) 1727, the Appenix to the History of Japan, S. 53-75.
た志筑の造語である。後に、この語は江戸時代の大部分を象徴する概念として人口に膾炙し てゆくことになる。そして、この概念をめぐって、20世紀に多くの研究が発表されるのだが、
この点は後述する。もちろん、概念としての鎖国のみが人々の関心をひいた訳ではない。志 筑の「鎖国論」も読者を獲得し続けた。彼の翻訳は、当初、筆写されて流布する。そして、
1850年には木版で出版された。34志筑の翻訳は、これ以降、さまざまな版で出版されるよう になる。
江戸期が終わり、明治・大正期(1868-1926)に入っても連綿と翻訳は続いた。新たな翻 訳は坪井信良による『検夫爾日本誌』35、島田壮介『日本古代商業史』36の2点である。坪井の 翻訳は現存する最古の『日本誌』の全訳である。この他に、志筑の翻訳が4度(1891、1914、
1916、1917)37出版された。「鎖国論」への日本人の関心を示す数といえるだろう。もうひと つ、注目すべきは、この時期に翻訳の底本が変わりはじめたことである。志筑と坪井はオラ ンダ語からケンプファーを訳出しているが、島田は英語版『日本誌』を底本として使用して いる。こうして、オランダ語を介したケンプファーの受容はここに終焉する。それに代わっ て、ドイツ語のドーム版『日本誌』が底本として使用されることになる。次にみるものはす べて、ドーム版からの翻訳である。
昭和期から現在(1926-2019)まで、呉秀三『ケンプェル江戸参府紀行』38、小堀桂一郎の 翻訳39、斎藤信『江戸参府旅行日記』40の抄訳3点、今井正『日本誌』41の全訳が1点ある。呉 と小堀は、新たに「鎖国論」をドイツ語から翻訳している。さらに、2015年には、志筑の
『鎖国論』の影印本が校註付きで新たに刊行された。42ケンプファーの翻訳は、これからも 増えてゆくことになろう。というのも、先述した原典批判版『日本誌』(『今日の日本』)を 今村英明が訳了し、出版を模索しているという新聞報道が2017年になされた43。同書の日本 語訳の登場を遠からず期待できるのである。
ケンプファーの数多の翻訳は、日本人のケンプファーに寄せる関心の大きさを表している。
なかでも、「鎖国論」は強く日本人を惹きつけたのである。翻訳にみられるこうした特徴は、
次にみる研究のなかでも確認されるだろう。
4.ドイツを対象とした研究
ドイツを対象とした研究においてケンプファーが扱われる場合、その主題には次のものが
34 黒沢翁満編『異人恐怖傳』1850。
35 坪井信良訳『検夫爾日本誌』1880。坪井信良訳『検夫爾日本誌』(霞ヶ関出版)1997(影印)。 36 ゼー・ジー・ジョイヒケル訳、島田壮介抄訳『日本古代商業史』(博聞社)1887。
37 大島(2009)、64頁。
38 呉秀三訳注『ケンプェル江戸参府紀行』上下巻(駿南社)1928-29。
39 小堀桂一郎訳「ケンペルの日本観―『鎖国論』・本文と註解―」〔『鎖国の思想』(中央公論社)1974〕58-124頁。
40 斎藤信訳『江戸参府旅行日記』(平凡社)1977。
41 エンゲルベルト・ケンペル(今井正訳)『日本誌―日本の歴史と紀行―』上下巻(霞ヶ関出版)1973。
42 志筑忠雄訳、杉本つとむ校註・解説『鎖国論―影印・翻刻・校註―』(八坂書房)2015。
43 「『日本誌』原典を完訳」〔『毎日新聞』夕刊(毎日新聞社)2017.2.19.〕
ある。ひとつは、ドイツの日本像、もうひとつは、ドイツにおけるケンプファー影響であ る。前者について、まずみてゆきたい。日本における最初の研究は牧健二『西洋人の見た日 本史』44である。同書は、マルコ・ポーロからシーボルトまでの文献を渉猟し、さまざまな 日本像の特徴を明らかにした。彼は17、18世紀の日本像を「蘭館型」と「耶蘇会型」との二 つに分け、ケンプファーを前者の典型とみなしている。イエズス会とケンプファーとが比較 され、ケンプファーの日本観察はより「科学的」45であると評価される。牧は、ケンプファー の日本像の位置づけを行ったのである。詳細な文献調査に裏付けられた、今なお一読に値す る研究である。
牧の著作は、ドイツだけでなくヨーロッパの日本像を論じたが、焦点をドイツの日本像に しぼった研究がある。代表的なものは、宮永孝『日独文化人物交流史』46、中埜芳之『ドイツ 人がみた日本』47である。両者はともに16世紀から20世紀に至るドイツの日本像を扱う。こ の中で、ケンプファーは18世紀の日本像を代表するものとして紹介されている。48
日本像の研究として、ドイツではカピッツアの先述の論文と資料集が画期的な研究とし て評価されている。原典資料集『ヨーロッパにおける日本』は、日本でも早くから紹介さ れ、例えば、加藤周一が朝日新聞のコラム49でこれを高く評価したことで広く知られること となった。しかし、カピッツアの成果は直接に引用されるよりも、50むしろヨーゼフ・クラ イナーの日本語の諸論文「ヨーロッパ思想史における日本観」51、「ケンペルとヨーロッパの 日本観」52を介して日本に広く定着した。なかでも後者は『ケンペル展』のカタログに掲載 された後、他の形態で2度出版されることによって、53日本に多数の読者を得たと思われる。
以上が日本像に関する研究で、次にケンプファーの影響に関する研究に目を向けよう。
最初に、カント研究の視点からケンプファーに言及した桑木厳翼「カントの観たる日本」54 を挙げることができる。次に、前述の牧健二が、ケンプファーのヴォルテールやモンテス キューといったフランスの啓蒙思想への影響を論じた。この後、ケンプファーの影響に関す る研究は、ドイツよりもフランスについて多様な研究がなされた。重要な論文に、市川慎一
44 牧健二『西洋人の見た日本史』(弘文堂)1949。
45 牧(1949)199頁。
46 宮永孝『日独文化人物交流史』(三修社)1993。
47 中埜芳之『ドイツ人がみた日本』(三修社)2005。
48 宮永(1993)33-46頁。中埜(2005)22-26、41-44、48-50、53-54、59-60、62-63頁。
49 加藤周一「夕陽妄語」〔『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)1991.2.19.〕。次の書籍に再録されている。「『欧州にお ける日本』を読む」〔『夕陽妄語』第1巻(筑摩書房)2016〕389-393頁。
50 ただし、カピッツアの原典資料集を積極的に活用して日仏交流史を論じた次の例もある。山内昶『青い目に映っ た日本人』(人文書院)1998。
51 ヨーゼフ・クライナー「ヨーロッパ思想における日本観」〔『民博通信』第42巻(国立民族学博物館)1988〕2-30頁。
52 ヨーゼフ・クライナー「ケンペルとヨーロッパの日本観」〔国立民族学博物館/ドイツ‐日本研究所編『ドイツ 人が見た元禄時代―ケンペル展―』(国立民族学博物館/ドイツ‐日本研究所)1991〕122-131頁。
53 ヨーゼフ・クライナー編『ケンペルのみたトクガワ・ジャパン』(六興出版)1992、26-51頁。ヨーゼフ・クライ ナー編『ケンペルのみた日本』(日本放送出版協会)1996、29-54頁。
54 桑木厳翼「カントの観たる日本」「附『カントの観たる日本』増補」〔『桑木厳翼著作集』第3巻(春秋社)1949〕
371-392頁。
「ケンプファーの読者ヴォルテール」、中川久定「一八世紀フランス『百科全書』の日本観」、 小関武史「ジョクールによるケンプファー『日本誌』の利用」、同じ著者の「情報の使い回 し」55がある。
ドイツについていえば、論者が『ツェードラー百科事典』とクリューニッツ『経済百科事 典』へのケンプファーの影響を論じている。56しかし、このなかでもとりわけ注目すべきは、
次にみる鎖国に関する多数の論文である。
18世紀のドイツにおいて「鎖国論」は批判的に受容された。とりわけ、『日本誌』の編者 たるドームは、みずからの論文でケンプファーの主張に強く反論した57。このドームの反論 は、早くから牧健二、小堀桂一郎といった前述の日本人研究者によって言及されてきた。そ れでも、さらなる研究の余地は多く残されていた。例えば、ドームとはいかなる経歴をもっ た人物なのか、あるいは、なぜ彼はケンプファーに反論したのか。つまり、ドームの思想 的な背景である 。この疑問を、中直一は「ケンプファー『日本誌』と編者ドーム」58で論じ、
ドームがベルリンの啓蒙主義と深く関係していることを明らかにした。つまり、啓蒙主義時 代における「鎖国論」の受容がこの論文で論じられたのである。これ以降、啓蒙主義と「鎖 国論」というテーマで、さまざまな研究が登場する。その中心に、渡邉直樹の数多くの論 文59がある。
「鎖国論」への思想史的アプローチとして、中川久定「日本の鎖国を前にしたケンプ ファー、フランスの哲学者たち、およびカント」60を忘れることはできない。この論文は、
鎖国をめぐる18世紀の多様な議論を取り上げる。ケンプファーにおいて、鎖国の是非を決め
55 市川慎一「ケンペルの読者ヴォルテール」〔早稲田大学比較文学研究室『比較文学年誌』(早稲田大学比較文学 研究室)1976〕1-18頁。中川久定「18世紀フランス『百科全書』の日本観(上)」〔『思想』2月号(岩波書店)
1975〕205-231頁。中川久定「18世紀フランス『百科全書』の日本観(下)」〔『思想』3月号(岩波書店)1975〕
409-434頁。以下に再録。中川久定『啓蒙の世紀の光のもとで』(岩波書店)1994、329-408頁。小関武史「ジョ クールによるケンペル『日本誌』の利用」〔一橋大学一橋学会編『一橋論叢』第124巻第3号(一橋大学一橋学会)
2000〕407-420頁。小関武史「情報の使い回し―ケンプファー『日本誌』からプレヴォ『旅行記集成』へ、さらにラ・
アルプ『旅行記集成摘要』へ―」〔中川久定編『「一つの世界の」の成立とその条件』(財団法人国際高等研究所)
2007〕35-52頁。
56 岡野薫「一八世紀前期ドイツにおける二つの日本観」〔石川文康編『多元的世界観の共存とその条件』(国際高等 研究所)2010〕105-122頁。岡野薫「クリューニッツ『経済百科事典』の「日本」項目」〔日本ヘルダー学会編『ヘ ルダー研究』第16号(日本ヘルダー学会)2011〕91-107頁。
57 Dohm, Christian Wilhelm von: Nacherinnerungen des Herausgebers. In: Geschichte und Beschreibung von Japan. Bd. 2, hrsg. von C. W. von Dohm, Lemgo (Meyer) 1779 (Nachdruck 2011), S. 414-422.
58 中直一「ケンペル『日本誌』と編者ドーム」〔大阪大学大学院言語文化研究科編『ドイツ啓蒙主義研究』(大阪大 学出版会)2001〕27-41頁。
59 代表的なものに渡邉直樹「ケンペルとドーム」〔宇都宮大学外国文学研究会編『外国文学』第57号(宇都宮大学 外国文学研究会)2008〕169-186頁。渡邉直樹「啓蒙主義者ドームとケンペル」〔宇都宮大学国際学部編『宇都宮 大学国際学部研究論集』第27号(宇都宮大学国際学部)2009〕39-54頁。「ケンペルとヨーロッパの啓蒙主義」〔宇 都宮大学国際学部編『宇都宮大学国際学部研究論集』第35号2013〕23-33頁。
60 中川論文はフランス語で書かれ次の著作に収録されているが、日本語訳が先に出版された。Nakagawa, Hisayasu:
Kæmpfer, les philosophes français et Kant face à la fermeture du Japon. In: L'image de l'autre vue d'Asie et d'Europe. Hrsg.
von Hisayasu Nakagawa und Jochen Schlobach, Paris (Honoré Champion) 2007, S. 49-65. 中川久定(多賀茂訳)「日本の 鎖国を前にしたケンペル,フランスの哲学者たち,およびカント」〔中川久定/ヨヘン・シュローバッハ編『十八 世紀における他者のイメージ』(河合出版)2006〕51-70頁。
るのは神の摂理であった。だが、18世紀を通じて、それは「商業の精神」へ移行した。この ように中川は指摘する。「鎖国論」の思想史上の影響を論じた優れた論文である。18世紀ド イツの議論については、論者が「〈閉ざされた世界〉と〈開かれた世界〉の狭間で」61という 論文を発表している。
5.日本を対象とした研究
日本を対象とした研究には次の二つがある。一方は日本におけるケンプファーの影響、他 方は鎖国の概念に関する研究である。前者について、まずは、沼田次郎「日本におけるケン ペルとその影響」62が挙げられる。これは江戸期の翻訳を調査した論文で、この論文は後の 研究の基礎となった。
沼田に続くのは、小堀桂一郎『鎖国の思想』63である。志筑「鎖国論」は、江戸知識人に 読まれた。小堀は、知識人たちの「鎖国論」に対する評価を考察している。とくに目を引く のは、平田篤胤、黒澤翁満といった国学者による国粋主義的な立場からの「鎖国論」への言 及である。彼らは異国の軍事的な脅威を主張する蘭学者たちに対して、日本が強国たること を主張する。その際、日本の強さを傍証するものとして「鎖国論」が利用されたのである。
ケンプファーは、いわば、国粋主義の弁護人として利用されたのであった。このように小堀 は日本思想史におけるケンプファーの影響を詳細に論じている。『鎖国の思想』は、日本の ケンプファー研究における必読書といえる。
井田清子「ケンペル『鎖国論』写本を読み継いだ人々」64は書誌学的な研究である。江戸 期の写本の調査、分類を行うとともに、写本の所蔵者についての考察がなされる。「鎖国論」
の流布を考える上で重要な論考である。日本を対象とした研究ではないが、井田の重要な論 文にもうひとつ言及しておきたい。18世紀末に、オランダ人ファン・ハーレンは、ひとつ の告発を行っている。ケンプファー『日本誌』は、実は、オランダ人のカンプホイスの著 作の盗用だ、というものであった。『日本誌』の盗用疑惑である。井田の「ケンペル『日本 誌』もう一人の著者について」65は、この疑惑を検証している。井田は、これ以外にもケン プファーと志筑に関する論文を執筆しており、現在それは『江戸知識人の世界認識』66で読 むことができる。
鳥井裕美子「ケンペルから志筑へ」67は、志筑の翻訳の方法に注目する。それまで志筑「鎖 国論」は、オランダ語の逐語的な翻訳と考えられていた。しかし、鳥井それを否定する。オ ランダ語原文と志筑の翻訳とを検証し、鳥井は、志筑が原文の意味を意図的に改変したと述
61 「〈閉ざされた世界〉と〈開かれた世界〉の狭間で」〔高橋輝暁先生定年退職記念論集特別編集委員会編『高橋輝 暁先生定年退職記念論集1 日独文化論考』(立教大学ドイツ文学研究室)2014〕77-92頁。
62 沼田(1966, Anm. 31).
63 小堀(1974、注39)125-162頁。
64 井田清子「ケンペル『鎖国論を読み継いだ人々』」〔『思想』2月号(岩波書店)1991〕25-50頁。
65 井田清子「ケンペル『日本誌』もう一人の著者について」〔『思想』12月号(岩波書店)1978〕82-104頁。
66 井田清子『江戸知識人の世界認識』(水声社)2008。
67 鳥井裕美子「ケンペルから志筑へ」〔日本思想史懇話会編『季刊日本思想史』第47号(ぺりかん社)1996〕115-133頁。
べる。それによって、日本賛美論であったケンプファー「鎖国論」は、排外的な志筑「鎖国 論」へと変化したという。
ケンプファー研究の発展にとって新しい資料の発見は欠かせない。なかでも片桐一男によ る発見について看過することはできない。来日時、ケンプファーには、彼の研究を助ける協 力者が多くいた。だが、肝心の助手は謎のままであった。その名前をケンプファーは、20世 紀末まで隠し通すことができたのだ。片桐は、1990年に開催された「ケンペル展」の展示品 のなかに、匿名のままであった助手の名前を発見する。この発見を、片桐は論文「ケンペル と今村源右衛門英生」68として発表している。
最後に、鎖国の概念についてみてゆく。「江戸期は鎖国の時代であった」。このことは日本 人にとって長い間、疑う余地がなかった。しかし、鎖国時代をいかに評価するのか、それに ついてさまざまな議論があった。鎖国はしばしば、前近代性と結びつけられ、否定的に評価 される。明治以降、近代化を目指してきた日本人にとって鎖国とは克服されるべき過去だっ たのである。その一方で、日本独自の文化を形成する要因として鎖国が肯定的に評価される こともあった。鎖国の得失をめぐるこうした議論は多岐にわたった。そのなかで特筆すべき は、哲学者、和辻哲郎の歴史哲学的著作『鎖国』69である。第二次世界大戦の敗戦をふまえ、
その原因に和辻は「科学的精神の欠如」70を挙げる。この欠点を彼は鎖国に求める。日本独 特の悪しき閉鎖性として鎖国は描写されたのである。ところで、和辻において、日本の鎖国 は疑い得ない前提とされている。しかし、果たして鎖国はそのようなものだろうか。そもそ も鎖国という言葉はいつごろから用いられるようになったのか。
この疑問をはじめて考察したのは板澤武雄「鎖国及び『鎖国論』について」71であった。
鎖国という言葉は志筑(つまり、ケンプファー)に由来するという、事実ははじめて板澤に よって確認されたのである。志筑以前(1801)に、この言葉は存在しなかった。つまり、鎖 国時代において人々は自らが鎖国しているという認識を有していなかったのである。また、
この言葉が外国人ケンプファーの日本像に由来するということも重要である。つまり、本 来、鎖国とは日本人自身による自己認識ではなかったといえる。「江戸期は鎖国の時代であ る」という前提は、20世紀を通じて次第に疑問視されるようになる。
1970年代以降、鎖国得失論に代わる議論が登場する。歴史学者たちの間で、鎖国の概念 そのものが批判的に検討されるようになった72。歴史学者たちの議論は主として次の二点で
68 片桐一男「ケンペルと今村源右衛門英生」〔ヨーゼフ・クライナー編『ケンペルのみた日本』(日本放送出版協会)
1996〕222-245頁。
69 和辻哲郎『和辻哲郎全集 第15巻(鎖国)』(岩波書店)1963。
70 和辻(1963)15頁。
71 板澤武雄「鎖国及び『鎖国論』について」〔尾佐竹猛編『明治文化研究論争』(一元社)1934〕111-123頁。
72 この点については、次の箇所を参照されたい荒野泰典『近世日本と東アジア』(東京大学出版会)1988、i-ix。
ロナルド・トビ『鎖国という外交』(小学館)2008、102-105頁。山本博文『鎖国と海禁の時代』(校倉書房)
1995、252-257頁。この他にも鎖国をめぐる論文は数多ある。以下の論文集には、1960年代から1990年代までの 研究状況を示す主要な論文が再録されている。紙谷敦之、木村直也編『展望日本歴史14 海禁と鎖国』(東京堂 出版)2002。
あった。第一に、歴史学者たちは鎖国時代の日本が中国、朝鮮、琉球、蝦夷地といった国外 の地域と交流(四つの口)があったことを示し、日本が決して鎖国状態ではなかったことを 強調する。つまり、鎖国のイメージは、アジアと日本との間に構築されていた関係を捨象し、
外国すなわちヨーロッパという構図によって成り立つとされる。第二に、鎖国は日本固有の 外交ではなく、ヨーロッパとは異なるが、東アジアに一般的な海禁という外交であったとさ れる。こうした鎖国の批判的理解は、歴史学者たちに限らず、本稿の冒頭にみたように近年 では一般にも認められつつある。いずれにしても、現代の歴史学の観点からすれば、ケンプ ファーの示した鎖国という日本像は虚像といえるかもしれない。少なくとも、それは日本の 実態を精確に反映したものではないのである。
日本を対象としたケンプファー研究史を概観すると、 一方に志筑「鎖国論」の研究があ り、他方に鎖国概念の批判的研究がある。二つの方向は、これまで別々に研究されてきた。
大島明秀『「鎖国」という言説』73は、二つの方向性をケンプファーというキーワードで結び 付けて研究している。彼は志筑「鎖国論」の流布、鎖国概念の定着過程を膨大な資料の分析 を通じて行った。現時点で最も充実した研究である。
おわりに
閉ざされた国というケンペルの日本像は、18世紀においてドイツやフランスの啓蒙主義思 想のなかで批判的に議論された。そして19世紀には志筑によって、鎖国という日本語の名称 を与えられて日本に輸入され、次第に鎖国は日本人の自己認識となってゆく。20世紀には鎖 国の得失が議論され、現代ではその概念が見直されつつある。このように鎖国を考えること は、近代の日本人の自己認識や歴史を考えることである。だからこそ、日本の研究者の多く はケンプファーと、彼に端を発する鎖国という用語ならびに概念にこれほど心ひかれてきた のである。そして、鎖国は、これからも日本のケンプファー研究の重要なテーマの一つであ り続けるであろう。いずれにしても、本稿の冒頭にみた教科書や辞典の記述は、日本におけ るこうした研究の関心を反映したものである
日本のケンプファー研究には、独自の関心と蓄積がある。この点は正当に評価しなくては ならない。しかし、同時に日本のケンプファー研究そのものが鎖国的であってはならない。
日本の研究はケンプファーと日本との関係を注視しがちであるのに対し、ドイツの研究はケ ンプファーの多面的な業績を広くとらえようと試みている。その姿勢は、ドイツの人名事典 の「ペルシア研究家」というケンプファー紹介に端的にうかがうことできよう。ドイツにお ける研究の成果を共有し、連携しつつ、よりいっそういっそう開かれたケンプファー研究 が、今後は求められる。そのために、本稿はこれまでの日本におけるケンプファー研究の歩 みと到達点を明らかにした。
73 大島(2009、注31)。