その他のタイトル Prehistoric Cultures of Japan and its
Surrounding Regions as seen from the Nanpo
著者 橋本 征治
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 37
ページ A49‑A67
発行年 2004‑04‑01
URL http://hdl.handle.net/10112/12581
H 本の先史文化と周辺地域 ―南方の視点から一—
橋 本 征
ム 口︑1
P r e h i s t o r i c C u l t u r e s o f Japan and i t s Surrounding Regions a s seen from t h e Nanpo
S e i j i Hashimoto
I n o r d e r t o i n v e s t i g a t e t h e p r o c e s s o f f o r m a t i o n and d e v e l o p m e n t o f t h e p r e h i s t o r i c c u l t u r e o f J a p a n , t h e c u l t u r e s o f t h e s u r r o u n d i n g r e g i o n s ( E a s t A s i a n , N o r t h A s i a n , O c e a n i c , and S o u t h E a s t A s i a n C u l t u r a l S p h e r e s ) were a n a l y z e d i n t h e framework o f e a s t ‑ w e s t and n o r t h ‑ s o u t h a x e s . A l s o t h e r a c e s and t h e f o u r m a j o r c u l t u r a l e l e m e n t s , namely l a n g u a g e s , s t o n e t o o l s , e a r t h e n w a r e and a g r i c u l t u r e were a n a l y z e d .
A c c o r d i n g t o t h e r e s u l t o f t h e a n a l y s i s , t h e f o r m a t i o n and t h e d e v e l o p m e n t o f t h e
p r e h i s t o r i c c u l t u r e o f J a p a n were v e r y complex and m u l t i p l e x , which b r o u g h t t h e
r e g i o n a l d i v e r s i t i e s . As f o r t h e r e l a t i o n s w i t h t h e s u r r o u n d i n g r e g i o n s , m u l t i p l e a x e s
s u c h a s n o r t h e r n a x i s , e a s t ‑ w e s t a x i s and s o u t h e r n a x i s were o b s e r v e d , and a t w o ‑
way r e l a t i o n s d e v e l o p e d a l o n g e a c h a x i s . S o , i n o r d e r t o e x p l a i n a b o u t t h i s m u l t i ‑
l a y e r e d and complex J a p a n e s e c u l t u r e , i t t a k e s p a t i e n t e f f o r t s t o t r y t o d i s e n t a n g l e
t h e p r o c e s s f r o m t i m e and s p a c e a x e s w h i l e k e e p i n g t h e two‑way p e r s p e c t i v e , and
t o r e c o n s t r u c t i t on t h e mesh o f c a u s a l i t y . One o f t h e m a j o r t a s k s f o r t h a t p u r p o s e
i s t o r e g r a s p t h e J a p a n e s e c u l t u r e f r o m t h e v i e w p o i n t o f t h e nanpo, c o n s i d e r i n g t h e
w i d e r a n g e o f i n f l u e n c e o f t h e s o u t h e r n c u l t u r a l s p h e r e s on t h e p o s i t i o n i n g o f t h e
p r o t o t y p e o f J a p a n e s e , A u s t r o n e s i a n l a n g u a g e e l e m e n t i n t h e o l d J a p a n e s e
l a n g u a g e , some s t o n e t o o l s l e a d i n g t o T a i w a n , s o u t h e r n e a r t h e n w a r e , t h e r e l a t i o n s
b e t w e e n Jamon c u l t i v a t i o n a n d r o o t ‑ c r o p c u l t i v a t i o n t h a t p r e c e d e d t h e r i c e c u l t i v a t i o n . They w e r e e x a m i n e d
int h i s p a p e r .
1 日本列島をとりまく文化圏
地球上の海陸分布は,更新世の氷河時代(約 170万 ~1 万年前)における寒暖の繰り返しに よる海水準変動に応じて,大きく変化してきた。図
1
には日本列島を中心とする西太平洋地域 における現在の水深2 0 0
メートルの等深線の概略が示 されている。この等深線は ほ ぼ 大 陸 棚 の 境 界 ( 水 深
1 4 0
メートル付近)に準じ,最 終 氷 期 ( そ の 最 盛 期 は 18000~20000年前)には おおむね陸地であったと考 えられる範囲の外縁となっ ている。これによると,ア ジア大陸を縁取る東南アジ ア の 島 々 は ス ン ダ
( S u n d a )
半 島 を 形 成 し て 大陸と連なり,オーストラ リア大陸とニューギニア島 も陸続きでサフル( S a h u l )
大陸を形成していた。当時は,日本列島もアジア大陸 の東端に位置して,陸続き で北はサハリン,南は東シ ナ海・台湾方面へと連なっ ていた。当然,北から,西 から,あるいは南から日本 列島へとヒトや文化が流れ 込み,列島における人類の
^5屯
. ら
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図l 西太平洋地域における原人・ 1日人・新人分布と大陸棚 図中の破線はウォーレス(ハクスリー修正)線
〔典拠〕竹内理三他編, 1982, 22‑23頁。ベルウッド, 1989, 27頁。
諸相を豊かにし,また複雑にもしてきた。
その後,気候の温暖化につれて沿岸域の陸 地は水域によって相互に隔てられながらも,
大小の陸塊が飛び石状に連なり,いわゆる
はなづな
花採列島を形成した。こうした島々を伝っ て,あるいは浅海を渡って 1)のヒトや文 化の列島への流入・伝播は後を絶たなかっ
た。
こうした自然環境を踏まえて,日本文化 の起源と展開を周辺の文化圏との関係も視 野に入れて考えるに当っては,西太平洋と それに属する諸地域(以下,西太平洋地域
と呼ぶ)がその直接的な検討対象となろう。
そこで,日本列島を中心とする西太平洋地 域の諸文化圏を検討するに当たって,ヒ
A‑D: 本文参照 S. C. : 中国東南部 S. E.A.: 東南アジア o: オセアニア
図2 日本列島をとりまく文化圏と文化伝播経路
ト・文化の交流回廊として図
2
に示したようなヨコ軸とタテ軸を設定したい。すなわち,ヨコ 軸は西南日本〜朝鮮半島〜東アジアを結ぶ軸(図のB・C
経路とほぼ重なる)であり,タテ軸 は北アジア〜サハリン〜東北日本を結ぶ北軸(同 A経路とほぼ重なる)と西南日本〜台湾・大 陸南東岸域〜東南アジア・オセアニア西部を結ぶ南軸(同D経路にほぽ重なる)からなる。そ れぞれの軸は,東アジア文化圏,北アジア文化圏,東南アジア文化圏・オセアニア文化圏に連 なり,各文化圏との文化交流の回廊となってきた。なお,北アジア文化と東南アジア文化が大 陸寄りの経路を辿って伝播する場合は,東アジア文化圏を経由して日本列島に入ってくることになる。以下,これらの回廊を伝っての文化交流,特に文化流入を視野に入れながら,「南方 の視点」 2)からD経路に注目して日本の先史文化の一端を照射し,日本文化の起源と展開に ついて議論するための筆者なりの足がかりを構築しようとするのが本論の狙いである。
2 いくつかの視点から
さて,日本列島をとりまく四つの文化圏を識別し,列島が東西と南北の
2
方向の基軸によっ てそれら諸文化と交流し,結ばれてきたことを確認したわけだが,それはまさに日本文化が複 合的な文化であることを示唆している。しかしながら,南方文化については,これまで柳田 (1961) の「海上の道」が否定的にとらえられ,岡(岡・八幡• 江上• 石田, 1948) の「イモ栽培文化論」についても十分な展開がなされてこなかったという経緯がある。しかし,沖縄で 発見された古人骨が東南アジアの島々の古い人種と通じる面が多いこと,オーストロネシア語 が原日本語の成立と関わりをもつこと,土器についても南方系の土器群との関連性が注目され ること,プロト農耕においてもイモ栽培に南方要素が色濃く認められることに鑑みるならば,
日本の先史文化の展開における南方文化の位置について十分に議論を深める必要がある。そう した観点から積極的な発言を展開してきた佐々木が最近その成果を一書に纏めている(佐々木,
2 0 0 3 )
。その内容については,多くの部分で筆者も頷けところである。本論では,筆者なりの 観点でもって,四つの文化圏との関連に注目しつつ,先史時代の日本列島における文化複合の 形成過程とその結果をいくつかの文化指標から,最近の研究成果を吸収しつつ,探ることにし たい。いくつかの具体的な論点を示しておこう。人種に関しては,遺伝学の発展をうけて形質 人類学や分子人類学の分野において日本人の起源について,特にプレ縄文人について,単一起 源というよりも異系統の混交という議論が展開されるなど,論ずべき点は多様である。言語に ついても,ツングース系言語に加えてオーストロネシア語の要素の日本語への混入が指摘され るなど,その構成はなかなか複雑である。また,石器や土器に関しても,細石刃文化の伝播と 受容の仕方,縄文土器の発展過程から弥生土器出現に至る過程でみられる地域分化・融合の姿 にこれら文化要素の複合性が如実に表れている。また,農耕面では,雑穀・イモ類を中心とす る畑作の伝播• 発達と稲作の伝来• 普及に日本農耕の複合性が十分に読みとれる。そこで,上 記の文化指標として人種と,言語・石器・土器・農耕という四つの文化要素を取り上げ,検討を進めていきたい。なお,農耕については,既に論じたところがあり(橋本,
2 0 0 1 ,2 0 0 2 ) ,
先に佐々木( 2 0 0 3 )
も十分に議論しているところであるので,本論でば必要な範囲で触れるに止めておきたい。
2 . 1
人 種図
1
に旧石器時代の古人骨の主たる発見場所を示しておいた。これによると,中国や東南 アジアには古い人類の痕跡が多く残されていることがわかる。日本列島の最南端,沖縄島の具しがみ
志頭村港川でも約
1 . 8
万年前のものと推定される旧石器時代の人骨がほぼ完全な形で発見され,港川人と命名された。この港川人は,がっしりとした顎をもち,彫りの深い顔立ちをしているあご
ところから,当初は縄文人や中国東南部の柳江人との類似性が指摘されたが,体形が華奢であきゃしゃ
る こ と や 卵 形 の 頭 骨 を も つ こ と からジャワ島のワジャク
( W a j a k )
人 や ボ ル ネ オ 島 の ニ ア( N i a h )
洞 窟 の 新 人 , す な わ ち 南 方 の 人 類 と の 近 縁 性 の 高 さ が 指 摘 さ れ て い る 3) (小田,2 0 0 0 , 1 5 0 ) 。
賓来
( 1 9 9 3 ,6 9 ‑ 9 8 )
らは,現日本人や中国人・韓 国人らのミトコンドリアDNA
分 析4)' および古人 骨分析からグループI・II
の2
類型を抽出し,縄文 人はDNA
グループI I
に分類され,南系スンダランまぷた
ドに通じるとした。すなわち,小さな歯・ 二重瞼•
わきがなど,古モンゴロイド的特徴をそなえたイン ドネシアからミクロネシア・ポリネシアに至る南系 モンゴロイド5) (図3)との近縁性が示唆されたわ けである。
DNA
グループI I
に対して,DNA
グルー プI
は中国人・翰国人などに近似し,現代日本人と の類似性が高いことから,縄文人とは異なった人々,おそらくモンゴル・中国からの南下グループのうち 遅れて日本列島に渡来した人たちであり,弥生人の
中核をなしていった人類集団であるという。
しかし,縄文人=南方系,弥生人=北方渡来系と する考え方に対しては異論もある。例えば,
HLA
(ヒト白血球抗原)を分析した徳永
( 1 9 9 3 , 2 7 5 )
は, 弥生期に南系モンゴロイドー海のモンゴロイドないし古モンゴロイドを指す(片山,
1 9 9 3 , 1 4 )
一の移Ilb ヽ
ーー ' Ila
I北 系 モ ン ゴ ロ イ ド II南 系 モ ン ゴ ロ イ ド (IIaマレ ー系 II bミクロネシア系 II C ポリネシア系) 皿 オ ーストラロイド Wその他(メラネシア人・パプア人)
図3 モンゴロイドとオーストラロイドの 分布
〔典拠〕二宮書店編集部, 1998, 83頁。ベルウ
ッド, 1989, 9‑44頁。片山, 1993,16頁。 住があったことを示唆している。馬場
( 1 9 9 0 ,1 1 4 ‑ 1 1 5 )
はGm
遺伝子の分析から,アイヌや南 西諸島の大部分の人々が古モンゴロイド的特徴を維持したのに対して,本土倭人の方は渡来人 と混血したものとみている。一方,頭骨小変異測定法で縄文人・ 弥生人・現代人を比較した 百々( 1 9 9 5 , 1 8 1 ‑ 1 8 2 )
は,意外と琉球・奄美の人たちは弥生人に近いとして,弥生人が南西 諸島にまで進出した可能性を示唆している。さらに遡って,プレ縄文人またはプロト縄文人と 縄文人との間の各種データのズレに注目すれば,縄文人の成り立ちには人の移住や人種混交が あったことがうかがわれることを指摘しておきたい。なお,アイヌと沖縄人について触れてお くと,賓来( 1 9 9 3 , 6 9 ‑ 9 8 )
は両者ともモンゴロイド系であり,アイヌは縄文人の名残をとど めるものの,塩基配列が弥生人と異なるなど,弥生系の要素は乏しいとしている。佐原(佐々 木•森島, 1993,2 6 3 ‑ 2 6 7 )
は,弥生人そして弥生文化そのものも当初は北海道や沖縄には及 ばなかったとみられるとしている。以上のように,細部にわたってみていくと日本人のルーツについてはかなり見解が分かれて
いて,意見の一致はなかなかみられず,検討すべき課題が多く残されている。その主要なポイ ントは,①縄文人そのものをどのように規定するのか。アプリオリに原日本人=縄文人とする のか,それともプレ縄文人を措定するのか。後者の場合,プレ縄文人そのものを明らかにする とともに,縄文人の形成過程とその空間的展開を解明すること,および②弥生人のルーツと日 本列島におけるその空間的展開過程をより詳細に論じる必要があろう。③さらに,①と②の議 論において,特にアイヌと沖縄人の位置づけがなかなか難しく,議論の分かれるところである ので,より一層の議論の深化が求められる。だからこそ,本論でも日本人形成における南方要 素の関わり方に注目しているわけである。なお,埴原
( 1 9 9 3 , 2 7 3 )
は日本人の形成について,在来系縄文人と渡来系弥生人の混交の地域偏差に基づいた二重構造を提唱している点を付け加 えておきたい。すなわち,日本人そのものが両要素を帯びていたという。ともあれ,現在のと ころは,プレ縄文人のルーツあるいは類似人種の分布域については,単一の地域を想定するよ りも,北アジア,朝鮮半島から黄河下流域,中国東南部,南島から東南アジア方面などとのつ ながりを想定しておいた方がよかろう。
2 . 2
言 ‑ = = ロ 五 ロ縄文以前の日本列島には,北アジア系細石刃(荒屋 型細石刃…次項参照)を使用する人々が住み,プロト 東北アジア語,より特定的にいえばアルタイ系言語,
特にツングース系言語を用いていたとみられる。崎山
( 1 9 9 3 a , 2 9 4 ‑ 2 9 5 )
は,縄文前期以降,特に縄文中〜後期に当たる 4000~5000年前頃にオーストロネシア語 族の大移動があって,日本列島にも西オーストロネシ ア語(東部インドネシア・フィリピン・台湾などの諸 語に通じ,さらには西部ミクロネシアの諸語にも通じ る…日本語を形成した要素にはオーストロネシア語起 源 と み な さ ざ る を え な い も の が 多 く 認 め ら れ る と い う)が入ってきたとみる。それに対して,村山(村 山・大林,
1 9 7 3 , 1 9 8 , 2 0 8 ‑ 2 0 9 )
は朝鮮半島ですでに オーストロネシア語系の言語に接触していたアルタイ 語系の言語を話す集団が日本列島に渡来し,固有の文 法の中に日本列島の西南部の集団のオーストロネシアヽv
0 3000Km ( ) ' /
r }
I I _ : / ~
m
Iアルタイ系 IIシナ・チベット系 皿オーストロ ネシア系 Wオーストラリア系
a韓国・朝鮮語 b 日本語 cオーストロアジア語 dタイ・カダイ語 eパプア諸語
図4 西太平洋地域の言語
〔典拠〕 Wurm, S. A. & S, Hattori, 1983, pl.25。
二宮書店編集部, 1998,83頁。ベルウ ッド, 1981, 141頁。
系言語の要素を採り入れて原始日本語が成立したとし,オーストロネシア語との接触・ 導入時 期や場所については崎山説と違いをみせている。日本語や韓国・朝鮮語は単純にシナ・チベッ
ト語系やアルタイ語系に所属させることのできないことを図
4
が示していることからもわかる ように,日本語の成り立ちは複雑である。それは,縄文人がいくつかのグループから成ること,あるいは多様な文化の影響を受けてきたとする考え方に通じる。
日本語の基層部に南方のオーストロネシア語の要素があることに注目して,琉球・台湾・フ ィリピン諸語について触れておこう。台湾のヤミ語はアミ語やイバダン語などと類似し(その 一方言という見方もある),メラネシア語やポリネシア語と相通じる語彙(例えば,「九」は,
ヤミ語では
s i y a m ,
メラネシア語ではc i w a ,
ポリネシア語ではh i v a )
をもつ(土田,1 9 7 7 , 2 9 6
‑ 3 1 4 )
。南西諸島内部では,先島諸島と沖縄諸島以北との間には一つのかなり明確な境界(「笑 い」は,先島諸島ではb a r i ,
沖縄諸島ではwarai
という)があるのに対して,沖縄諸島と奄美 諸島以北の島々とを比べると,両者の言語境界は曖昧であるといわれる。ここでは,南方諸語 の影響が先島諸島まではかなり明確に認められるということに止めておきたい。2 . 3
石 器日本列島における石器製作技術体系は,縦長または横長の剥片剥離技術が先行的に存在し,
そこに北アジアから伝来したとみられる細石刃文化がまず北海道に出現し,やがて全域に細石 刃文化が広まっていく。図
5
に示したように,この細石刃群は荒屋型と呼ばれ,西はバイカル 湖周辺から東は中国東部・ロシア極東部にかけて広く分布し,日本では旧石器時代末期に東北 日本を中心に西南日本の日本海側地域までみられた(この圏域は東北日本のブナ・ナラ林文化 圏やサケ漁文化圏,アイヌ文化圏とも重なる)。他方,西南日本には細石核の特徴• 構成• 石 器組成において黄河.t
斤河グループ(小畑,1 9 8 9 , 4 8 ‑ 5 1 )
と共通項の多い細石刃文化(例え ば,円錐形細石核や横形ナイフ形石器など一竹内理三他編,1 9 8 2 , 4 2 ‑ 4 3 )
をもった人々がみられた。
図
5
に示したようにこの荒屋型細石刃文化の普及過程で,九州地方が在来の技術体系を保持 しながら新技術を受容するという柔軟性を示したのに対して,中部・関東地方は在来の技術体 系の崩壊の上に新技術を受け入れた(白石,1 9 8 9 , 6 6 ‑ 6 9 )
。そのことは,プレ縄文時代の日本 列島に文化的な地域差がすでに存したこと,やがて時間の経過とともにそうした差異が平準化 されていったことを示唆している点で興味深いし,次に述べる縄文土器の地域的展開の考察に おいても参考となろう。こうした九州以北地域における平準化の動きに対して,九州南部を含めた南の島々ではかな
り異なった時間が刻まれてきたようである。
かこい
例えば,鹿児島県加世田市の棺ノ原遺跡から 出土した円筒型片刃石斧を始め,沖縄本島の 丸ノミ型の石斧など,一連の磨製石器は南の 東南アジアやオセアニアに広くみられる円筒
→方角→有肩という石斧発展系列に属するも のとみられ,南の文化が北上した様子が読み とれる(小田,
2 0 0 0 , 1 7 9 ‑ 2 1 7 )
。先島には,沖縄本島にはないビラ型石器などがみられ,
それはフィリピンの新石器技術に由来し,同 じく両端刃石器の技術も南方に由来するとい う 。 ま た , 熱 田 原 貝 塚 出 土 の 有 孔 貝 鏃
( 1 4 8 0
迅OBC)
は台湾北部の円山文化の有孔 石鏃と類似しているという。これらの事実か ら,南方の要素が先島諸島に,さらにはそこ から北の地域にも及んだことがみてとれる。なお,台湾本土のバツ型石器の名残とみら
.
.
.
..荒屋型彫器主要出土地
•
. . . .
•• 荒屋型彫器分布圏a北海道型 b中部型 c九州型
図5 荒屋型彫器分布と石器製作技術体系の地域相
〔典拠〕竹内理三他編, 1982, 41‑44頁。白石,1989頁, 69 頁。堤, 1997, 184頁。
らんゆい
れる蘭嶼のヘラ状耕具は,その機能からしてイモ栽培と関連があるとみられる。また,八重山 の先史遺跡から数多く出土する焼き石は地炉に用いられたとみられるが(トカラ列島の宝島の 縄文後期の地層からも出土),台湾のルカイ族も地炉を用いることを勘案すると,両地域では そうした料理法を用いる食料生産がともに行われていたことになる。さらに付け加えるならば,
台湾の局部磨製石器は,インドシナ半島の後期ホアビン
(HoaB i n h ,
ほぽ一万年前から農耕 開始)文化またはバクソン( B a e ‑ S o n )
文化の石器に類似しているという。なお,八重山・蘭 嶼• バタン島には類似のヘラ状掘り具およびピック状石器と関わりをもつとみられる棒状掘り 具との組み合わせがあるという(国分,1 9 8 6 , 1 8 1 ‑ 2 0 3 )
。いずれも,南西諸島とその南の島々との間に何らかの関連があることを示唆している。
2. 4
土 器縄文時代の各時代の土器様式の分布を見渡すと,西南日本は,九朴
I
地方と本州西部(おおむ ね中部地方より西の地域)とに分かれていたのが,晩期に至って全域的に凸帯文土器様式が優 勢となる。一方,東北日本では,北海道が一定の地域性を維持しているものの,他の地域(特に関東• 北陸)では各時代ごとに土器様式の分布範囲は大きく変わる。しかし,この東北日本 の土器様式も,晩期には地域的偏差を残しながらも図
6
に示したように亀ヶ岡様式に収敏され てくる。そうした趨勢の中にあって,本州中央部付近は,常に土器様式分布の境界をなし,そ れだけに土器様式の変化も著しかったが,縄文晩期には日本列島を東西に分かつ土器様式漸移 帯をなすに至った。前期と後期の土器様式分布地域を示した図6
にはそうした地域性がよく反 映されている。かかる縄文文化の東西差が生じた要因は詳らかではないが,その検証に当たっ ては,生態学的には東北日本:西南日本の間の,ナラ林型:照葉樹林型というエコロジカルな 環境の差異(橋本,2 0 0 2 , 1 5 4 ,
図5‑2
参照)や,採集:採集・半栽培,ナラ林型雑穀農耕:照葉樹林型焼畑農耕といった生産様式の差異(佐々木,
1 9 9 3 , 1 1 7 ‑ 1 2 5 ) ,
およびそうした文化 を担った人々の異同関係について考慮する必要がある。また,早期の東北日本にみられた貝殻 文の技術がシベリア・中国東北部の櫛目文に,また前期の九朴l
にみられた曽畑式土器が朝鮮半 島の櫛目文土器に近いとの意見もあるところから(全教図,1 9 7 7 ,3 4 ) ,
日本列島以外の地域と〇 縄 文 前 期
;ー・`、:縄文晩期
I縄 文 尖 底 II円筒下層 旧 大 木 W諸磯 V浮島 VI北白川下層 Vil轟・曽畑
A幣 舞 BタンネトウL C亀ヶ岡 D佐 野 ・ 中 屋 E前 浦
F晩 期 安 行 G凸 帯 文 系 土 器
図6 縄文時代の土器様式の地域性
〔典拠〕竹内理三他編, 1982, 47‑91頁。
の関係も考慮に入れる必要があるといえよう 6)0
朝 鮮 半 島 と 日 本 ( 九 州 ) と の 関 係 に つ い て は,島津
( 1 9 9 2 , 5 8 )
は 両 者 の 間 に 「 交 流 の 路」があったとみるべきであるとしている。それに対して,大塚
( 1 9 9 2 , 6 8 ‑ 7 0 )
は隆起文 については彼我の間に時間差があり,九朴l
の 隆起文は本朴l
方面と常に密接な関係があり,朝鮮半島のものとは直接的な系統関係は無い としている。水之江
( 1 9 9 2 ,7 7 )
は,半島にお ける隆起文→押引文→櫛目文,九州における 轟 B 式(隆起文をもつ)→深堀•野口式→曽 畑式という土器様式の変化系列の間に一定の 関係があったことを認めながらも,基本的に は九州における縄文期土器は列島の縄文文化 全体の中に位置づけられるとしている。水 稲 作 を 中 心 と す る 弥 生 文 化 を い ち 早 く 受 容 し た の は , 凸 帯 文 系 土 器 を 擁 し た 西 南 日 本 の人々であった。この弥生土器が外来のもの なのか,それとも縄文土器の内的発展による
ものなのかが問題となる。北九州の遠賀川式土器が朝鮮半島の無文土器の影響を受けたことは 否めない(家根,
1 9 8 7 ,1 9 )
。しかし,ろくろを用いず,低温酸化焔による野焼き焼成という製 作技術・方法の面では,縄文土器と弥生土器との間にはあまり大きな差異はみられないことか ら,両者の間には技術的連続性が認められる。したがって,弥生土器は基本的には縄文土器の 内的発展に基づいており,両者の区分は稲作の本格的展開との関連でなされるべきであるとい う(エ楽,1 9 8 7 , 1 4 , )
。しかし,弥生土器と縄文土器を比較すると,その形態や用途(特に穀 物の保存・料理)には大きな差異がみられることも無視できない。また,先の遠賀川式土器の 弥生時代前期における九州から東方への急速な伝播は水稲作普及の空間的・時間的展開と重な ること,および弥生文化の外来的要素の多くは朝鮮半島の西部や南部を経て日本にもたらされ たことも考慮する必要があろう。なお,弥生土器が縄文土器の内的発展の結果であるという見 方をするのであれば,エ楽( 1 9 8 7 , 1 4 )
は,稲作の本格的展開期をもって弥生とみなし,その 期の土器が弥生土器であるとした方がよいとしている。こうした縄文から弥生という土器様式 の大きな変化が基本的には内的発展に因るのか,それとも外部からの導入ないし影響があるの かという点に関しては,一層の議論の深化が求められる。南西諸島では,沖縄本島中部の読谷村の遺跡から縄文前期前半の曽畑式土器が,そしてさら にその下層からは早期の爪形文土器(あ麗鼠式)が出土したことから,縄文文化は,その早期 ないし前期のかなり早い時期から九州方面より南漸して沖縄本島に到達していたとみられる
(高宮,
1 9 9 1 ,1 0 ‑ 2 7 )
。そして,後期になると沖縄固有の土器が発達し,逆に北に向けての伝播 の傾向が読みとれる。さらに,従来は弥生文化は琉球諸島にまで伝播しなかったとされてきた が,弥生前期から中期の遺物が奄美大島笠利町のサウチ遺跡から出土し,最近では沖縄本島で も多数の弥生士器が出土するなど,弥生文化が南西諸島の中部辺りまでは伝播していたことが 明らかにされつつある(本論2 .1
参照)。すなわち,土器の面からも,南西諸島は九朴I
以北の 縄文• 弥生文化の影響を受けるとともに,独自の土器文化を発展させてきたといえよう。先島し も た ば る
諸島については,波照間でカーボン年代3850~3260bp と,ほぽ縄文後期に当たる下田原式土 器と称される低火度焼成の無文赤色土器が出土しており,台湾の影響を受けているとみられて いるが,その系譜関係は明確ではない。ともあれ,南西諸島の土器文化の起源と性質について は,孤立したものとみるよりも,周辺文化との交流の中で読み解くべきであろう。
そこで,南方の土器について若干触れておきたい。台湾南部のアヤタル (Ayatal)式土器
じょうせき
は大陸南部の縄席文土器の流れを汲むとみられるが(西谷,
1 9 9 2 , 2 8 ) ,
大陸極東部の土器群 とは系譜を異にするとされる(大貫,1 9 9 2 , 2 0 )
。ベルウッド( 1 9 8 9 , 2 6 1 ‑ 2 8 6 )
によると,フ ィリピンやチモールからは赤色スリップがけの無文土器(紀元前3 0 0 0
年以前)が出土する。これらは,オーストロネシア語を話す栽培民のそれぞれの地域への初期拡散と十分に関係があ るという。さらに,台湾やフィリピンで似通った装飾土器制作が紀元前2000年(台湾) ~1500 年(フィリピン)ころから始まる。なお,フィリピンのタボン
( T a b o n )
地区のドゥヨン洞窟 の装飾土器は究極的には台湾の縄腑文土器や円山文化から生じているようにみえるという。そ れは,先史時代において台湾とフィリピンとの間に交流関係があったことを示唆している。そ して,その交流の輪は両地域を越えた広がりをみせた。一方,紀元前 1600~1500年頃からオ セアニア一帯に急速に広がったモンゴロイド系の人々(オーストロネシア語を話す人々一いわ ゆるラピタLapita
人)は,ラピタ土器と呼ばれる歯状印文,沈線,貼付文をもつ赤色土器を 用いた。この土器群は,東南アジアの土器の発展型とみられ,フィリピンや台湾のものに類似 するが,縄席文をもたない点で異なり,むしろチモールやスラウエシの紀元前3 0 0 0
年ころのかめ
無文土器により近いという
( K i r c h ,1 9 9 7 , 4 7 ‑ 5 2 )
。また,甕棺は出土しない。このことは,フ ィリピンで甕棺葬が出現する時期が紀元前1 5 0 0
年ころであったことと勘案するならば,彼ら の東南アジア東部からオセアニアに向けての移住開始年代は甕棺葬が広まる以前,すなわち紀 元前 1600~1500年以前であったという先の見解と一致することになる。これらの事実からは,縄文後期・晩期になると,南の文化が台湾や南西諸島へと北漸するというよりも,逆の流れが あらわれてくるようにみえる。このことは,南西諸島を含めた日本列島の古い文化層における 南方的要素(一部というべきか)は,それよりももっと古い時代に流入ないし根付いていたの ではないかと思わせるのである。ともあれ,この点については,今後の研究のいっそうの進展 を待ちたい。
2 . 5
農 耕農耕については,既に別稿(橋本,
2 0 0 1 , 2 0 0 2 )
で論じたので,ここでは本論に沿ってその 主意を要約しながら,いくつかの点についてはさらに議論を深めておきたい。縄文時代における基本的な食料確保は狩猟,漁榜,および堅果類などの採集によった。特に 東北日本では「成熟せる採集文化」が発達していたという(佐々木,
1 9 8 6 , 1 0 5 ‑ 1 2 5 )
。しかし,西南日本でも縄文後・晩期にはプレ農耕段階としてアワ・ヒエなどの雑穀やヤマノイモ類・サ トイモ類(この
2
類のイモの種別の呼び分けについては,拙稿参照一橋本,2 0 0 1b , 3 1 5 )
な どのイモの採集ないし半栽培が行われ,晩期にはそれらの作物を栽培する初期農耕が営まれる ようになり,その末期から次の弥生時代にかけての稲作受容・拡大の基盤をなしたと推定され る(坂本,1 9 8 4 , 6 1 ‑ 6 9 )
。こうした東北日本と西南日本における農耕展開の境界線は現在の暖 帯林と温帯林の分布境界とほぼ一致する。しかも,この境界線の西の方は前述の縄文土器様式の分布にみられる東西の境界域(橋本,
2 0 0 2 , 1 5 4 ,
図5‑2
参照)とも重なる点が興味深い。中央アジア・インド北西部原産とみられるアワ・キビなどの雑穀はかなり早い時期に中国か ら日本列島に伝わり,在来のヒエなどとともに栽培されていたとみれれる。また,サトイモ類 も東西軸(ナガイモ伝播)や南軸(ダイジョウ=ヤムイモ伝播)から伝わり,在来の山芋とと もに栽培されていたようである。これらの雑穀やイモ類が食物として栽培(半栽培のケースも 含めて)されるようになった時期については,コメ栽培の導入時期との時間的な前後関係とい う文脈で語られることが多い。例えば坪井
( 1 9 7 9 , 2 0 3 ‑ 2 0 9 )
は,正月にコメのモチに代わっ て山芋(東北日本),里芋(西南日本…奄美諸島まで),アワ(西南日本),タロイモ(奄美諸 島以南)などが用いられる,いわゆる「モチ無し正月」を行う地域(橋本,2 0 0 2 , 1 5 2 ,
図5‑
1
参照)が北海道を除く本朴l
以南地域のあちらこちらにみられることを指摘している。そして,それらの地域におけるハレの儀式において,コメよりもこれらの作物により重要な地位が与え られているのは,これら作物の導入の先行性を示唆するものであるとしている7)。なお,南の 奄美大島以南地域ではヤムイモ(ダイジョウ)が栽培され,先島諸島では儀礼をともなう(吉 成・庄武,
1 9 9 7 , 1 ‑6)
ことを付け加えておきたい。上記の作物の中で,タロイモ・ ヤムイモ 以外の作物は温帯性であり,いずれもその直接的な起源は温帯アジアに求められる。それに対 して,奄美諸島以南地域で栽培されているタロイモ・ヤムイモは熱帯性の作物で,熱帯地域に 起源する。南西諸島,特にその北部地域はまさにタロイモと里芋,ヤムイモと山芋が交会する 地域,さらにいえば熱帯作物と温帯作物の交会地域ともいえよう(橋本,2 0 0 2 , 1 4 9 ‑ 1 5 0 ,
図4‑1
参照)。なお,サトイモ類の伝播について若干の付言をしておきたい。吉野
( 2 0 0 3 , 1 3 3 ‑ 1 3 8 )
は, 作業仮説としながらも,インド東部をサトイモ類の原産地と措定し,伝播経路としては温帯中国を経由する北ルートと東南アジア島嶼部を経由する南ルートを挙げている。また,日本の本 州・琉球列島
( 1 1 5
系統)および中国本土・台湾・ベトナム( 9 5
系統)で採集されたサトイモ 類のDNA
分析した松田( 2 0 0 3 , 1 4 7 ‑ 1 5 0 )
は,本州で圧倒的に多い三つのパターンは中国本 土・ベトナムに通じ,温帯系統の一環をなすのに対して,琉球諸島のパターンはそれらの地域 ではみられず,台湾に通じるとし,南方系統をなすことを示唆している。ただし,琉球諸島の ものが3倍体であるのに対して,台湾のものは 2倍体であるという。この点に関しては, 2倍 体 .3
倍体別の伝播経路を論じたイエンらの説( Y e n& W h e e l e r , 1 9 6 8 , 2 5 9 ‑ 2 6 7 )
を再検討す る余地がある。南西諸島では,イモ類と並んでアワがイネに先行する作物として儀礼の上で重要な位置を占 める。したがって,このアワを始めとする雑穀や麦類のプロト農耕における位置づけが重要な
課題となる。関連していえば,台湾のヤミ族はアワ・タロイモ・ヤムイモをハレの食物として 用いるといわれ,またフィリピンのバタン島ではヤムイモはケの食物であるのに対してアワが ハレの食物となっていることなどとの比較検討も欠かせない。ともあれ,こうした民俗儀礼か らの証言は,南の島々でもイモ類と雑穀類の栽培が稲作に先行したことを示唆するものとして 有意であるといえよう。
東南アジアから太平洋を東へと渡ったと考えられているラピタ人との関係について若干触れ ておきたい(橋本,
2 0 0 2 ,1 ‑9 ,
図1‑1
参照)。東南アジアでは,稲作が入る前からタロイモ 耕作がなされていたと考えられる。農法の比較検討をおこなった田中( 2 0 0 3 , 2 4 4 )
は,東・東南アジアの稲作技術は作物個体を対象に磨き上げられた技術が基礎になっていて,その出自 は同じく個体を対象とする養育農法によってイモ類などを栽培した根栽農耕に求められるとし ている。この点を踏まえるならば,ラピタ人は稲作を知らないわけだから,プレ稲作段階,す なわち根栽農耕文化段階において原郷である東南アジアを出発したことになる。言い方を変え れば,ラピタ人が最後に東南アジアを後にした地域(小スンダ列島からフィリピンにかけての 地域)への稲作導入は彼らが故地を離れた
BC1600
年頃以降ということになる。このラピタ人 の原郷と日本文化にみられる南方的性格とを結びつけることが許されるならば,ラピタ文化は 根元の所で日本の南島文化となにがしかの繋がりをもつということになる。しかし,現在のところ両者を直接結びつけるような証左はあがっていない。
稲作の起源地については,作物学・ 植物遺伝学の立場から雲南を中心とする照葉樹林帯(中 尾,
1 9 6 6 , 2 1 ‑ 5 8 ) ,
アッサム( A s s a m ) ・
雲南センター(渡部,1 9 7 7 , 1 9 4 ‑ 2 1 4 ) ,
雲南・インド シナ半島北部(中川原,1 9 8 5 , 1 9 6 ‑ 2 0 2 ) ,
そして考古学的見地からは長江中・下流域(厳,1 9 9 6 , 1 8 ‑ 2 1 )
などが候補地として挙げられてきた。しかし,近年の研究ではイネの栽培化地 域は長江中流域であろうとされ,おそらく1
万年以上前から稲作が行われていたことが明らか になりつつある。その栽培品種はジャポニカりa p o n i c a )
種とされてきたが,最近,長江下 流の新石器時代(約6 5 0 0
年前)の三星遺跡の炭化米のDNA
分析から,1
粒は熱帯型であるこ とが判明したという 8)。したがって,初期栽培種が温帯種であると限定することはできない。日本における稲作開始はおそらく縄文晩期であったろう。そうだとすると,大陸における稲 作開始時期と時間的に大きくズレることになるが,その自然的要因としては,温暖期を迎えて 海進が進み,日本列島と大陸を結ぶ陸路は水域によって隔てられたこと,また海進によって列 島における平地は狭められ,水稲作適地も乏しくなっていたことなどがあげられよう。その頃 の縄文経済は,地域差を伴いながら堅果類を中心とした採集・狩猟段階,あるいは雑穀・イモ 類を栽培ないし半栽培する初期農耕段階にあったことは既に述べたところである。縄文晩期の
海退期に入って,日本列島においても沖積平野が形成され水稲作適地が拡大してくると,稲作 が本格化してくる。それは,縄文末期から弥生初期にかけての時代である(紀元前 8~3 世紀
…最近の研究によると,時代はもう少し遡る可能性が高い)。
大陸から日本列島への稲作の伝播経路は,おおむね次の四つの経路に集約される(橋本,
2 0 0 2 , 1 5 6 ,
図5‑3
参照)。①長江中・下流域から北上して山東半島→朝鮮半島南部→北九州(渤海湾沿いになおも北上を続けてから朝鮮半島を南下するというケースも考えられる),② 長江中・下流域→朝鮮半島南部→北九朴
, I
③長江中・下流域→九州(海上横断ルート),④(雲南→)中国南部または東南アジア→台湾→南西諸島→九州という「海上の道」などである。
寺沢
( 1 9 9 6 , 7 0 ‑ 7 6 )
は①のルートを措定し,日本列島における本格的な温帯型水稲作の直 接的な淵源を黄河下流域〜山東半島の華北雑穀文化と河南稲作文化の融合する「落葉広葉樹林 型」稲作文化に求め,半島経由で玄界灘沿岸部に流入したとしている(陳もイモ類栽培や高床 式住居など1 7
の指標からこの河南ルートを支持している…陳,1 9 8 9 , 4 0 ‑ 4 4 )
。しかし,佐藤( 1 9 9 3 , 1 7 5 ‑ 1 7 8 )
は,ジャポニカの水稲晩生種(晩生がイネ本来の性質である)の半島経由 伝播は難しいとし,もし可能性があるとするならば,それは暖かい半島南部をかすめて日本に 至るというコースであろうとしている。日本列島でも,温帯ジャポニカ以外に熱帯ジャポニカも栽培されていたとみられる。この熱 帯ジャポニカは,その作物特性からして南軸,または南に振れた東西軸(上記のルートでいえ ば④ないし③のルート)で入ってきたと考えるのが順当であろう。事実,沖縄で見つかってい る縄文〜弥生時代に連なる出土米(佐藤,
1 9 9 3 , 1 7 0
…沖縄に今日に連なる本格的稲作の導入 はグスク時代であるとされてきたから,これはそれよりもかなり時代を遡った伝播があったこ とを示唆することになる)は熱帯ジャポニカで,今日の東南アジアで焼畑耕作されている陸稲 に非常に近いという。その伝来ルートとしては,南から海上または沿岸ルートを採る④のコー スが措定されている(佐藤,1 9 9 3 , 1 7 0 )
。ここに,再び稲作伝播の「海上の道」の再検討が要 請されることになる(外山,1 9 9 6 , 4 2 )
。当初は雑穀生産や堅果類採集の経済とが並行的に行われ,稲作の普及テンポはそれほど早く はなかったであろう(安田,
1 9 9 6 a ,1 4 ‑ 1 7 )
。しかし,日本の中で熱帯種と温帯種の交配が進み,かつ高度な灌漑技術が発達し,早生化が進んだことによって,日本列島における稲作は急速に 普及した。なお,この間に列島への稲作伝播の波は何回もあったと考えた方がよかろう。結局,
イネ遺物の検出件数は,縄文時代から弥生時代前期にかけて200以上の遺跡• その他に及び,
縄文晩期後半以降の水田址の発掘は
3 0 0
カ所にも及んでいるという(外山,1 9 9 6 , 3 0 )
。3 「南方の視点」からみた日本文化
日本の先史文化の姿と,その形成過程および展開を解き明かすために,それに関わったとみ られる列島を取り巻く周辺文化(東アジア文化圏,北アジア文化圏,オセアニア文化圏,東南 アジア文化圏)を東西軸と南北軸という枠組みでとらえ,人種,および言語・石器・土器・農 耕という四つの文化要素からアプローチした。
日本人の成り立ちについては,まず日本列島内およびそれを取り巻く周辺地域との人の往来 を視野に入れ,多面的に考える必要があることが確認された。そして,プレ縄文人ないしプロ
卜縄文人から縄文人に至る過程,縄文人の空間的展開,および弥生人のルーツと日本列島にお けるその空間的展開過程というダイナミズムを論じる必要があることを指摘した。さらに,そ こにおいてアイヌと沖縄人が適切に位置づけられなければならない。なお,プレ縄文人のルー ツとその分布域については,単一の地域を想定するよりも,北アジア,朝鮮半島から黄河下流 域中国東南部,南島から東南アジア方面などとの繋がりを想定しておいた方がよいとした。
縄文語にはオーストロネシア語起源とみられるものが多く認められるが,それは南方から直 接入ってきたものなのか,それとも朝鮮半島ですでにオーストロネシア語系の言語と接触して いたアルタイ語系言語を話す集団が日本列島に渡来して日本列島西南部のオーストロネシア系 言語の要素を採り入れて成立したものなのかは意見が分かれるところである。ともあれ,原日 本語に南方のオーストロネシア語要素が入っていることは紛れもない事実であるといえよう。
石器文化については,プレ縄文時代の日本列島では文化的地域性がみられたが,やがて時間 の経過とともにそうした差異が平準化されていった。しかし,九州以南の島々ではかなり異な った時間を刻まれていた。すなわち,沖縄の一連の磨製石器は,東南アジアやオセアニアに広 くみられる円筒→方角→有肩という石斧発展系列に属するものとみられるところから,南の文 化が北上した様子がうかがわれる。また,地炉やヘラ状掘り具など,南方の農耕文化との関わ
りを示す石器群も先島諸島で認められる。
縄文土器や弥生土器の展開と地域性には,それぞれの地域における食料生産• 加工技術のあ り方や周辺文化の影響ないし交流が大きく関わっている。そのことは,北九州の隆起文土器の 形成•発展における朝鮮半島文化の影響や,遠賀式土器の形成とその東方への伝播などにおい て確認された。なお,南西諸島は九州以北の縄文・弥生文化の影響を受けるとともに,独自の 土器文化を発展させてきた。先島諸島では下田原式土器と称される低火度焼成の無文赤色土器 が出土していて,台湾の影響を受けているとの見方もあるが,その系譜関係は明確ではない。
ともあれ,南西諸島の土器文化の起源と性質については,孤立したものとみるよりも,周辺文
化との交流の中で読み解かれるべきであろう。
日本列島における採集・農耕文化の形成とその展開には,北からの狩猟・採集文化,東西軸 を次々と渡ってくる雑穀・イネ栽培文化,そして南からの根栽農耕文化が,時間的・空間的に さまざまな形で大きく関わってきた。「南方の視点」からは,南西諸島の南に連なる台湾・フ ィリピン,そしてその先の東南アジアの島々やそこから分かれたラピタ人が辿った道筋との関 係を視野におさめながら,イモ・雑穀文化だけでなく熱帯ジャポニカ種やインデイカ種といっ たイネの流入についても検討すべきであることを述べた。
以上の検討から見えてきたのは,日本の先史文化がその形成・展開過程からみれば非常に複 合的かつ多重的であり,そのことが地域的な多様性をもたらしているということである。また,
周辺文化との関係からは,北軸,東西軸,南軸と多軸的に展開していて, しかも南西諸島にみ られるように,一方向的な関係というよりも双方向的な面も認められる。したがって,この多 重的で複合的な日本文化を読み解くには,双方向的な視点を保持しつつ,時間軸と空間軸から それぞれの形成・展開過程を一枚一枚解きほぐすとともに,因果関係の編み目に組み直してい くという根気のいる作業が必要となる。その大きな一つの作業として,プロト日本人と港川人 の位置,原日本語におけるオーストロネシア語的要素,台湾に通じる石器群,南方系土器群,
稲作に先行する縄文農耕と根栽農耕の関係などに南方文化圏の影響が広く認められることを踏 まえて,「南方の視点」から日本文化を捉え直す必要がある。そのことが,本論で確認できた のではないかと思う。
[付記]
本研究は,平成
1 5
年度関西大学研修員研修費によって行ったものである。注
1)太 平 洋 地 域 に お け る 航 海 術 の 起 源 と 発 達 を 論 じ た シ ャ ー プ (Sharp,1956) はカヌーでもって 300~
500kmの航海はそう困難ではなかったとしている。古代においても長距離の航行が可能であることを証 明するための試験的航海も何度か試みられている。ちなみに,ハワイからタヒチヘと古代の装備• 航法 で航行した双胴カヌーのホクレア号が, 5000kmの海を渡ることに成功している。
2) ここでいう「南方」は,日本列島から見て南に位置する地域の意で,具体的には中国東南部,東南ア ジアおよびオセアニア西部を指す。なお,場合によってはそれらの地域に連なる南西諸島を含めていう 場合もある。
3)近年,静岡県西部で発見されていた浜北人の古人骨を放射性炭素年代法で計測したところ,約1.4万
年前のものと判明したという(近藤恵•松浦秀治両氏,朝日新聞2002.9.14朝刊)。
4) DNA分析の結果,その65%は高顔型の弥生人系で, 35%が低顔型の縄文人の要素を具有しているとい
う。なお, ミトコンドリアは細胞中のエネルギー生産に関わる器官で,母方のDNAを伝える。
5)この南系モンゴロイドのうち,ルソン島のボントク族・イフガオ族,スマトラ島のバタク族,セレベ ス島のトラジャ族などはオーストラロイド的特徴も有することから,先住オーストラロイドと南下して きたモンゴロイドとの混血によるという見方もある。また,メラネシア人については,オーストラロイ
ドに帰属するという意見と南系モンゴロイドとの混交を重くみる意見とがある。ここではN:その他
(メラネシア人・パプア人)としておく。
6)野村 (1992, 39‑42)は,北海道にみられる縄文土器の基本的性格は本朴Iの縄文文化の北進によって 形成されたとしながらも,サハリンのサルゴリ文化との関連性も示唆している。
7)ただし,モチ無しだからといって,その地域一帯でイネに先行してアワなどの雑穀が栽培されていた とは一概にいえないことにも留意しておく必要がある。
8)佐藤…朝日新聞2002.4.7,朝刊。温帯ジャポニカは雑種弱勢のHwc‑2遺伝子をもつのに対して,熱帯 ジャポニカは雑種強勢のhwc‑2の遺伝子をもつ(佐藤, 1993, 169)。
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