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1 調査 の経 過

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(1)

H章  

調査概 要

調 査 概 要

II 土早 第

1  調査 の経 過

1993年 11月 25日、平城京左京六条一方十二坪・七条一坊十五・十六坪 (奈良市八条町

5丁

452 他43筆 )にお ける、(仮称)ダイエー奈良南店建設 に伴 う埋蔵文化財発掘届がい ヒラサ フか ら奈良 県教育委員会 に提出された。敷地面積31,497m2、 建築面積

17,468m2に

もお よぶ大規模 な計画 であった。奈良県、奈良市、地元 との間で開発 に対す る協議が進 め られ る一方で、1994年 1月 には、事前 に発掘調査 を実施す ることにな り、1994年 4月 には、奈良県教育委員会か ら、奈良 国立文化財研究所 に発掘調査 の依頼があった。

これを受 けて、奈良国立文化財研究所 は、発掘調査 を実施す るにあた り、店舗建設が予定 さ れ、かつ事業地 にその大部分が含 まれ る十六坪 を集中 して発掘す るとともに、事業地の東辺 に 想定 され る東一坊大路西側溝 を可能 な限 り発掘す る、 とい う調査計画 をたてた。奈良県教育委 員会、奈良市教育委員会 と協議 した結果、発掘調査 は開発面積約

31,500m2の

うち、まず十六坪

を中心 とす る約

11,500m2を

対象 とし、調査期間は、1994年 5月 か ら1995年 3月 となった。

発掘調査 は、最初 に東一方大路 の位置 を確定 し、その後、十六坪 をほぼ四分割 して

4回

にわ たって調査す ることになった。調査期間が限 られていることもあって、早急 に調査 を開始すべ

きところであったが、諸般 の事′時により、調査が可能 となったのは、 5月31日であった。

最初 に実施 した第251次調査 は、東一坊大路の位置 と規模 の確認 を目的 として、六条大路想定 地の北で東西 に長 い調査 区を設定 した。 この調査 は、治初 の予測 に反 して、東一方大路想定位 置 において、沼状 の堆積が広がっていることを確認 したに とどまり、東一坊大路西側溝 の位置 を確定す ることがで きなかった。これが、その後 の調査区の設定 に少なか らず影響 を及ば した。

調査期間 は1994年 5月31日か ら6月21日、調査面積 は約

190m2で

ぁった。

ひき続 いて実施 した第252次調査 は、十六坪北東部 と東一方大路西側濤の調査である。第251 次調査 と並行 してお こなった重機 による排上が終了 した段階で、調査 区東辺 には、第251次調査 区 と同様 の様相 を呈す る個所があったが、調査 区東端 において東一方大路西側溝 の西岸 を検出 す ることがで きた。 その結果、西側溝 は当初設定 した調査 区内では収 まらない ことが明 らか に な り、 また、六条大路、東一坊大路 といった条坊遺構 を明 らかにで きるのは、本調査 をおいて 他 にないため、調査 区の拡張 をす ることとなった。 また、東一坊大路西側溝 の西で、平城京の 調査では初 めて、平安時代 の木棺墓 を検 出 した。調査期間 は1994年 6月 1日 か ら10月 26日、調 査面積 は、拡張 を重ねた結果、約

4,010m2に

なった。

253次調査 は、第252次調査 区の南、十六坪 の南東部 と東一坊大路西側溝、お よび七条条間 北小路東半の調査である。調査期間 は1994年 10月 13日か ら12月 27日、調査面積 は約

3,790m2で

あらた。

252・ 253次調査 において、当初 の計画通 り東一坊大路西側溝 をほぼ完掘 し、 また、金属製 人形 をはじめ、琴形な どの木製祭祀遺物、墨書人面上器・ 土馬等の土製祭祀遺物が出上 し、平

調 査 に至 る 経

  

調査 の概要

(2)

城京 における祭祀 の良好 な資料 をうることがで きた。 その一方で、坪 の東半部 は、建物遺構が 希薄であることが明 らかになった。

254次調査 は坪南西部 の調査で、七条条間北小路 の西半 を検出す る とともに、調査 区南西隅 を一部西へ拡張 して、東一坊坊間東小路 との交差状況 を明 らかにした。前2回の調査 と異 な り、

遺構密度が高 く、坪の東西で敷地の利用状況 に違 いがあることが明 らかになるとともに、七条 条間北小路南側溝 の底 において、馬骨・ 馬歯 を納めた祭祀土坑 を検 出 した。調査期間 は1994年 11月 15日か ら1995年 4月 6日 、調査面積 は約

3,600m2で

ぁった。

255次調査 は、坪北西部 の調査である。当初、坪 の中心部 に建 つ民家 を撤去 して調査 をお こ な う予定であったが、調査期限が追 っていたため、第254次調査 と並行 して、民家 と進入路部分 を除いて重機 による排土作業 をお こない、可能 な限 り発掘す ることにした。本調査 も遺構密度 が高 く、時間に追われ る調査 となったが、ほぼ予定の期 日に調査 を終了す ることがで きた。調 査期間 は1995年1月10日か ら4月 6日 、調査面積 は約

2,610m2で

ぁった。

これ らの調査で十六坪 の約

75%を

発掘 した ことによ り、平城京南半 における坪 内の様相 を把 握す るとともに、祭祀関連の良好 な資料 をうることがで きた。

5次

にわた る調査面積 は、計約

14,200m2で

ぁった。

奈奈

 │

良 良

`持 出工 張事

̲務

所事 所

十1    `

1 2541

1」 llll FゼЩ推

Fig l 

調査 次数 と区域

(3)

H章  

調 査概 要

2調 査 地 域

A  位置 と環境

平城京 は、東 は春 日山系、北 は奈良山丘陵、西 は矢田丘陵か ら派生す る支丘上 と中小 の河川 が形成す る沖積地 に造営 されている。今 回の調査地 は、平城京の中央 に近 く、丘 陵縁辺か らも 離れている。調査地の南東 を佐保川が北東 か ら南西 に向けて流れているが、現状 で は、勾配が ほ とん ど認 め られない平坦地 といって よ く、調査前 は湿地状 を呈 していた。 また、調査地の周 辺部 には、平城宮小子部門前 に通 じる東一坊大路 をはじめ とす る、奈良時代 の条坊 が遺存地割

として、水 田畦畔 にその痕跡 を とどめてい る。

今回の主た る調査地である左京七条一坊十六坪 は、北 は六条大路、東 は東一坊大路 に面 して いる。 そ こで、調査地 を中心 として、

2条

の大路 に面す る

4坊

について、過去 の発掘調査の成 果 を概観 してお くことにす る。平城京 にお ける発掘調査 は、従来か ら開発事業 との関係で実施 され ることが多 く、幹線道路 の通 る左京三条二坊や区画整理事業が進 む右京二条三坊 を中心 と した一帯等では、かな りの面積 の調査が進 み、平城京の様相が明 らかになって きてい る。 しか し、今回の調査地 は、その西 に接 して、奈良盆地 の南北 の主要幹線道路である国道24号線が通 ってはいるものの、1971年にバ イパ ス として開通 した後 も、調査地周辺 に開発 の波が急激 に押 し寄せ ることもな く、ある程度水 田が 目立 つ景観 を呈 していた。 したがって、調査地 の周辺 に お ける発掘調査 の事例 もそれほ ど多 くはない。

調査地周辺 における最初 の発掘調査 は、1974年に左京六条一方二坪 において実施 した もので

 

周辺の発掘 調 査 事 例 ある。これは、朱雀大路 の調査 に際 し、隣接す る街 区の確認 を目的 とした小規模 な調査1)であっ

た。 その後、十〜十二・ 十四坪で発掘調査 を行 っているが、発掘面積 もそれほ ど広 い もので は な く、十二坪 における東西廂付 の南北棟建物りの存在が 目立つ程度で、いずれ も、小規模建物や 建物 の一部 を検出 したに過 ぎず、具体的な状況 は不詳である。 なお、条坊関係 として は、十 。 十五坪 の坪境 で実施 した発掘調査ので、東一坊坊間東小路 を検 出 してお り、両側溝心々距離約

6.5mと

い う成果 をあげている。

東 に隣接す る左京六条二坊 は、現在、菩提川 と合流 した佐保川が北東か ら南西 に流れ、 それ に北か ら菰川が合流 している。六条条間路 に重 なるように県道が東西 に通 っている こともあっ て、

4坊

のなかでは、 もっ とも調査例が多い。そのなかで、三坪北半中央で は、約

1,000m2の

発掘調査。を行 っている。掘立柱建物

9棟

、掘立柱塀

3条

、井戸

1基

等 を検 出 し、遺構 の重複関 係か ら、奈良時代 について、

4時

期 の変遷 をた どることが明 らかになっている。 また、坪 の東 西 を三分す る位置 に、清、塀 な ど、坪 内 を区画、あるいは分割す る施設が認 め られなか ったた め、三坪 は、

2分

1町

以上の宅地であった と考 えられている。 なお、 この調査で は、坪東辺 に も調査 区を設 け、東二坊坊間西小路 の西側溝 を検 出 してお り、 その北辺で実施 した調査

9で

も、西側清 を検出 している。 なお、 これ らの調査で、坪 の北辺、東辺 における築地等 の外周閉 塞施設やそれに伴 う雨落溝等 については、いずれ も確認で きなかった。一方、九 。十坪 の調査① では、六条条間北小路お よびその両側清 を検出す るとともに、雨落溝 の存在 か ら、十坪北面 に

(4)

は、築地 等 の外 周閉塞施設 の あった こ とが 明 らか にな ってい る。十 四坪南西部 の調査ので は、坪 の ほぼ

4分

1近

くの面積 を調査 し、掘 立柱建物46棟、掘立 柱 塀

9条

、井戸

4基

等 を検 出 し、

建 物 の重複 関係 だ けでみて も、少 な くとも

3時

期 の変遷 が た どれ る。坪 を東西 に三 分 す る位 置 に南北溝 が あ り、その西側約

4mに

溝 が部 分 的 に残 る こ とか ら、当初 は坪 内 に南北道 路 が あ り、

後 に東側 の溝 だ けが残 り、宅地割 の機 能 を有 して いた と考 え られ て い る。 また、宅 地 内 の南 西 隅 の上 坑 か らは、土 師器 皿 に載 せ られ た状 態 で、 ガ ラス玉 と金 箔 片 を納 めた三彩小 重

2点

が 出 上 して お り、宅地全体 の地鎮 のた めに埋 納 した と考 え られてい る。

左 京七 条一 方 で は、九坪 の南西部 にお ける調査

0で

、掘立 柱建 物

5棟

、掘立柱塀

2条

、南 北溝

1条

、井 戸

1基

を検 出 し、井戸 か らは、奈 良時代 中頃 か ら後半 の上 師器・須恵器 とともに斎 串、

銅 鈴 、漆 紙 文 書 の断片等 が 出上 した。また、十 一 坪 の西 端 にお け る調 査

9で

は、東一坊坊 間路 東 側 浦 と坪 の西 面 を区画 す る と考 え られ る掘 立柱 塀 を検 出 して い る。

左 京七 条二坊 で は、六坪 のほぼ中央 にお ける調査1の で、掘立柱建物

6棟

、掘立柱 塀

2条

、井 戸

2基

等 を検 出 した。

2基

の井戸 か らは、土 師器 、須 恵器 とともに、唐三彩片 と斎 串が 出土 し てい る。 また、十一坪 の南半 で約

1,000m2の

調 査11)を行 って い るが 、沼状 の堆積 を確認 した の みで、奈 良時代 の遺構・ 遺物 は残 ってい なか った。

以 上 、比較 的顕著 な遺構 を検 出 した調査 を中心 に、調査地周辺 の発掘調査 の概 要 を記 して き たが、発掘調査 は約 20件 、面積 に して計約

8,700m2で

全体 の

1%に

も満 たない状況 であ る。出 土遺物 に は、注意 をひ くものが あ る とはい う ものの、調査面積 も狭 い ものが多 く、 また、坪 内 の一部 を調査 した にす ぎない こともあって、宅地 の規模 等 は、 ほ とん ど明 らか になってい ない のが現状 で あ る。 また、 これ らの調査 で検 出 した掘立柱建物 も、 その規模 を明 らか にしえなか った ものが多 いが、その なかで最大 の もの は、身舎 が

2間 5間

で廂付 、柱 間 は

8尺

程 度 で あ る。

これが平城 京南半 にお ける最大規模 の建 物 として一般 的で あ ったので あ ろ うか。 この よ うな状 況 の下 、広大 な面積 を対 象 とした発掘調査 を行 うこ とに よ り、上述 した ような問題 を解決 す る 手 が か りを得 る とともに、平城京南 半 の具体 的 な様 相 が 明 らか にな る もの と期待 された。

1)奈

良市 『平城京朱雀大路発掘調査報告』1974 pp 7・ 8

2)奈

良市教委「平城京左京六条一坊十二坪 の調査」『奈良市概要昭和58年 度』1984 pp 42・43

3)奈

良市教委「平城京左京六条一坊十 。十五坪坪境小路 の調査 第139次 」『奈良市概要昭和62年 度』

1988 p.49

4)奈

良市教委「平城京左京六条二坊三坪発掘調査報告」『奈良市概要昭和56年 度』

1982 pp.45‑52

5)奈

良市教委「平城京左京六条二坊三坪 の調査」『奈良市概要平成3年度』1992 pp.68・69

6)奈

良市教委「平城京左京六条二坊九・ 十坪 の調査」 註

2)前

掲書

 1984 pp 44‑47

7)橿

考研「奈良市平城京左京六条二坊十三 。十四坪発掘調査概報」『奈良県概報1987年 度』別刷

 1988

pp l―‑18

8)奈

良市教委「平城京左京七条一坊九坪 の調査 第128次 」『奈良市概要昭和62年 度

J1989 pp.21‑25 9)奈

良市教委「平城京左京七条一坊十一坪 (東一坊坊間路)の調査」 註

2)前

掲書

1984 pp.71‑73 10)奈

良市教委「平城京左京七条二坊六坪 (第93次

)の

調査」 属奈良市概要昭和60年度』

1986 pp.31‑

35

11)奈

良市 教 委 「 平 城 京 左 京 七 条二 坊 十 一 。十 二 坪 の調 査 」 註

2)前

掲 書

1984 p70

8

(5)

第 二I章

 

調査概 要

B  地 区害 Jと 測量

地区割

 

地 区割 は奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部が1989年度か ら採用 している平城 宮・京の発掘調査地 区割1)に従 った。今回の調査 区域 には東一坊大路 と六条大路 の交差点が入 る ため、大地 区で

4地

区、中地 区で

8地

区にわた る。地 区害Jと各調査 区の関係 はFig.2、 各 中地 区 の基準座標値 はTab。

2の

通 りである。

測量

 

奈良市教育委員会が1980・ 81年度 に設置 した、奈 良市埋蔵文化財発掘調査測量用基準点 の17番辰市小学校 か ら柏木二等三角点 に結合す る トラバ ース を組 み、調査地域 およびその周辺 に、発掘調査 の基準 となる多角点 を

7点

設 けた。トラバ ース測量 の路線長 は2,355.283m、 角閉 合差23〃、水平位置 の閉合差 は26 mm、 閉合比 は1/89,000で あった。調査 区域 内に設 けた

3点

の 高 さは奈良市水準点

4か

ら、直接水準測量で求 めた。

これ らの成果 に基づ き、遺構 の平面および高 さの実測 を行 った。第251次調査 は トータルステ ーシ ョンを用いた手計 りで行 ったが、第252次調査か ら第255次 調査 までは航空写真測量で行 い、

航空写真測量後 に検 出 した遺構 な どの実測 は、第251次調査 と同様 の方法で行 った。なお、補足 測量 の高 さの測定 には、水楽器か ら直接 に標高数値 を読 み とれ る標高換算式標尺 を用いたの。

航空写真測量での撮影では、ヘ リコプターに搭載 した航空写真測量用 カメラを使用 し、1/200

〜1/400の垂直写真 を、すべてネガカラー フィルムで撮影 した。使用 したカメラのレンズの焦点 距離 は主 として

210 mmで

あったため、撮影高度 はお よそ42〜

84mで

あった。各撮影の 日時等 は

Tab.1の

通 りである。図化では当研究所のデジタルタイプの解析図化機

(WILD一 AC3)と

互 換性 のある機種 を使用 し、縮尺1/200の写真 を用いて縮尺1/20で データ採取 を行 い、縮尺1/50、

1/100、 1/200の平面図を作成 した。なお、図面の校正 は、空撮後 の断ち割 り調査の結果、遺構

カー ド、 日誌、写真等 を用いて行 った。各調査の遺構 図が完成 した段階で、それ らを合わせた 編集図 を作成 した。 この段階で手計 りで実測 した第251次 調査の実測図、第252次調査の六条大 路南北両側溝 な らびに東一方大路 の西側溝 の完掘後 の実測 図 も入力 した。

次 数 撮影年 月 日 写真枚数

 

 

標 高換 算 式 標

   

図 化 縮 尺 盲否 重 写 空 航 測

1994.9 . 8

1994.12 15

1995.2 .22

1995. 3 .23

カ ラー

カ ラー

カ ラー

カ ラー

1 23

1 13

1 10

1 11

1)奈

文研 「平城 宮・ 京 の発掘調査地 区割 り」『1989年 度平城 概 報』

1990 pp 2‑6 2)奈

文研 「発 掘調査支援機械 システムの試作研 究」『年報1995』

1996 p35

Tab.1 

航空写真撮影一 覧

1

(6)

Tab,2 

調査 次数 と中地 区 との関係

(X,Y座

標値 は国上方眼座標系第Ⅵ系に基づ く)

中 地 区 名

Aラ

イ ン (X) 10ライ ン

 (Y)

調 査 次 数

6AHH一 G 6AHH― H 6AHH一

I

6AHD一 A 6AHG― P 6AHG― Q

6AHG― R 6AHC―

J

―‑148,314.000

‑‑148,254.000

‑148,194.000

‑‑148,143.000

‑148,314.000

‑‑148,254.000

‑‑148,194.000

‑‑148,143.000

‑18,100

‑18,054.000

‑‑18,054.000

‑18,054.000

‑‑18,054.000

‑17,790.000

‑17,790.000

‑17,790.000

‑‑17,790.000

253 254 252 253 254 255 252 255 251 252 253 252 253 252 251

Y‑18,150

40

‑18,050

10 υ

――

X‑148,150

一―

 ‑148,200

Fig.2 

地 区割図

(7)

H章  

調査概 要

3  調査 の枢

今 回の調査 は、左京七条一坊十六坪 を中心 とす る約

31,500m2を

対象 として、約10ケ月間5次 にわたって実施 した。調査面積 は、計約14,200m2、 検 出 した奈良時代以降の主 な遺構 は、建物 58棟、塀49条、井戸11基、土器埋納遺構

5基

、祭祀土坑

1基

、溝15条、道路

4条

お よび両側濤 等であ り、 このほか、古墳時代 の竪穴住居址 と平安時代 の本棺墓 を検 出 した。遺物 としては、

東一方大路西側溝 を中心 に、木簡、瓦簿類、土器、土製品、木製品、金属製品、石製品等が出 上 した。

A  第251次 調査

東一方大路の位置 と規模 を明 らか にす るために、六条大路想定位置の北

(6AHC一

」区、

6AHD

A区

)で実施 した調査 である。東西 に長 い調査 区を設定 したが、後世 の沼状 の堆積が広が って お り、東一坊大路 とその東西両側溝 は遺存 していなかった。

B  第252次 調査

左京七条一方十六坪 の北東部、及び東一方大路、六条大路

(6AHD一 A区

6AHG一 QoR区

6AHH一

H・I区 )の調査である。東一方大路 と六条大路の位置 と規模が明 らか になるな ど、平城 京 の条坊 に関 して一定 の成果 を得たのであるが、坪内の遺構密度 は希薄であった。

検 出 した遺構 は、東一坊大路、六条大路 およびそれ らの両側溝 のほか、掘立柱建物

8棟

、掘 立柱塀

3条

、井戸

1基

等である。遺構の重複関係 は、

3棟

の建物 をそれぞれ同位置、あるいは 近接 した位置で建 て替 えてい ることが確認で きたに過 ぎず、遺構 に伴 って出上 した遺物 も少な く、遺構 の変遷や時期 を知 る手がか りは乏 しかった。わずかに、調査 区南辺で検 出 した

2間

5

間の東西棟建物が、坪東半 を東西二等分す る位置 にあ り、中心的建物群 を構成 す る可能性が考 えられた。なお、坪 を南北 にほぼ二等分す ると考 えられ る位置 には、東西清

SD6430が

あるが、

坪東端 まで達 してお らず、また、途 中で溝が途切れ、通路状 の遺構

SX6429が

あるので、宅地内 の区画清、あるいは地割溝 になる と考 えられた。

東一坊大路 については両側溝心々距離

22.5mで

あることが明 らかにな り、その西側溝 は、奈 良時代末 に一度掘 り直 してい るが、過去 における上流部分 の調査 と同様 に幅約

8mと

規模が大

き く、平城京内の基幹排水路 にぶ さわ しい ものであった。出土遺物 には、木簡 をはじめ、金属 製人形や木製形代、人面墨書土器、土馬等の祭祀関連遺物や鋳造関連遺物 が ある。特 に、鉄製 人形の出土 は、従来例が少 なか っただけに注 目され るであろう。西側濤 は、 その後、規模 を縮 小 しつつ も、平安時代 にいた って も、清 として機能 してお り、最後 は水 田の用水路 となってい た ことが明 らかになった。十六坪 の北か ら1/3付近では、西側溝 に架か る橋状遺構 を検 出 した。

時期 を決定 しえなかったが、大路側濤 に架かる橋 とす ると、十六坪 の性格 とも関わわ る可能性 があ り、今後の坪内の調査が注 目された。

一方、六条大路 については、初 めてその両側溝 を併せて調査 した。 当初想定 していた位置 よ り北で検 出 したのであるが、両側溝心々距離が

14.3mで

、従来知 られてい る他 の大路 より狭 い

沼状 の堆積

東―坊 大路 西

 

 

六 条 大 路

(8)

ことが明 らかになった。平城京 の条坊研究 に新 たな資料 を加 えることがで きたのであるが、同 時 に新 たな問題 も提起す ることとなった。

 

 

  

なお、東一坊大路西側清 の西岸近 くで は、平安時代 の木棺墓 を検 出 し、銅銭(承和昌賓

)や

漆 器 を含む豊富な副葬品か らその年代が推定で き、平城京廃絶後 の土地利用の一端 をうかが うこ とがで きた。 このほか、六条大路 の路面上で は土器埋納遺構

1基

を検 出 し、東一方大路 の路面 上で は古墳時代の竪穴住居址 を検 出 した。

C  第253次 調査

第252次調査 区の南、十六坪南東部 と十五坪北辺東半

(6AHG一

P・

Q区

6AHH一

G・

H区 )の

調査 で、条坊関係で は、ひ き続 き東一坊大路西側濤 を調査す るとともに、七条条間北小路 と南 北両側溝 の東半 を調査 した。

東一方大路西側溝 は、今回の調査で、当初 の計画通 り

1坊

分 を発掘す ることがで きた。 出土 遺物 には、第252次調査 と同様、大量 の木簡、木製品、金属製品、土器・ 土製品等がある。

七条条間北小路 は、従来知 られている小路 の規模 の範疇 に収 まるものであったが、六条大路 道路心か ら推定 され る位置 よ り南で検 出 した。 その結果、道路心々距離 は条坊計画寸法 よ り長 い460尺ほ どにな り、第252次調査で検 出 した東西溝

SD6430は

、道路心々間 を南北 にほぼ二 等分 す る位置 にあることが半」明 した。

坪 内で は、掘立柱建物

8棟

(内

2棟

は第252次調査 と重複)、 掘立柱塀

3条

を検 出 したが、第252 次調査 と同様、建物遺構の密度 は高 くな く、調査 区南西部 と北東部 には、広 い空間があ る。第 坪東半の中

 252次

調査 区南辺で検出 した東西棟建物 は、南 に廂 を伴 うことが判明 し、建 て替 えに際 して南廂 心的建物群

を廃 していることが明 らかになった。 その南 にはほぼ同規模 の南廂付 きの東西棟建物

SB6500

が建 ち、 さらに小規模 なが ら脇殿風 の南北棟建物 (SB6490・

6490も

あ り、 これ らが、十六坪東 半 における中心的な建物群 を構成 してい ることが明 らかになった。 また、井戸 も、坪北東部 の

1基

のみであることか ら、少な くとも十六坪東半 は一体で利用 していた と考 えられた。 また、

南辺 に門 になる と考 えられ る遺構

SX6475を

検 出 した ことによ り、外周閉塞施設 の存在 を想定 しうるようになった。

一方、十五坪 は、北辺 を調査 したに過 ぎず、掘立柱建物 の一部 を検 出 したのみであった。調 査 区西端近 くで は、七条条間北小路南側溝 の幅 を狭 くしている部分

(SX6473)が

あ り、板 を架 け渡 して橋 とした可能性がある。 この ように、本調査 によ り、それぞれの坪への出入 りに関す る手がか りを得 ることがで きた。

なお、七条条間北小路 との交差点 に近 い東一方大路路面上の西側溝東岸 に近接す る位置 で2 基、西側清西岸近 くで

1基

、それぞれ土器埋納遺構 を検 出 した。

D  第254次 調査

第253次調査 区の西、十六坪南西部 と十五坪北辺西半

(6AHH一 GoH区 )の

調査で、第 253次 調査 にひ き続 き、七条条間北小路 の西半 を調査する とともに、七条条間北小路 と東一坊坊 間東 小路 の交差点 を調査 し、東一方坊間東小路東側濤 に架か る橋 を検 出 した。

これ までの東半の状況 とは一変 して、遺構密度が高 く、十六坪 内では、掘立柱建物19棟(内1

(9)

11章

 

調査概要

棟は第253次調査 と重複)、 掘立柱塀19条、井戸

1基

等、十五坪 内で は掘立柱建物

4棟

(内1棟 は第 253次調査 と重複)、 掘立柱塀

2条

等 を検 出 した。十六坪 の遺構変遷 については、遺構 の方位 の振 れ、重複 関係、位置関係 な どか ら

4時

(その後の検討の結果、本報告では

6時

期に区分 している)

に区分す る ことがで きた。加 えて、本調査 で、十六坪 の約

6割

近 くを調査 した ことにな り、敷 地 の利用形態や性格等 について、検討 しうるようになった。

坪 を東西 に二等分す る位置で検 出 した南北掘立柱塀 は、南端近 くに柱間の広い個所が あ り、

坪南半 については、 そ こを通路 として東西で使 い分 けていた と考 えられ るにいたった。調査 区 北西部 には廂付 の掘立柱建物群があ り、十六坪西半 の中心が ここにあった と見 られ、 さらに、

総柱建物 の倉庫や貯蔵施設 と見 られ る建物 の存在か ら、整然 とした建物配置 を とる南東部 に対 して、南西部 は日常生活 をまかなう厨的空間 と位置づ けた。一方、建物や塀 の位置か ら、十六 坪南辺 には、築地等の外周閉塞施設が存在 しない時期 のあることも明 らかになった。 また、調 査 区南東部 では奪J抜井戸 を検 出 し、 その出土遺物か ら、調査地 においては、平安時代 まで活動 が及 んでいた ことが判明 し、第252次調査の木棺墓 とともに、平城京廃都後の状況 を知 る手がか

りを得 ることがで きた。

本調査 において も、七条条間北小路 と東一方坊間東小路 の交差点 において土器埋納遺構

1基

を検 出 した。 また、東一坊坊間東小路 との交差点近 くの七条条間北小路南側溝 の底で、祭祀土 坑

SX6530を

検出 した。これは側溝 に水がない段階で掘 り、馬歯、馬骨、墨書人面上器 な どを納 めた ものである。 このような祭祀 は、平城京で は、従来知 られていなかっただ けに注 目され る であろう。 なお、北側溝のほぼ同位置 に も同様 な土坑 を検 出 したが、 こち らか らは顕著 な遺物 の出土 はなかった。

E  第255次 調査

十六坪北西部

(6AHH―

H・I区

)の

調査である。検 出 した遺構 は、掘立柱建物21棟 、掘立柱塀 10条、井戸

3基

等で、遺構 の重複関係等、遺構変遷 を知 る手がか りが少なかったが、第254次 調 査の成果 に したがい、建物の位置関係等か ら

4時

期 に区分 された。

調査 区の関係で、第252次調査検 出の坪 を南北 にほば二等分す る位置 にある東西溝

SD6430の

有無 を確認す ることはで きなかった。一方、第254次調査で検 出 した坪 を東西 に二等分す る位置 に設 けられた南北掘立柱塀 は、坪の北半 には及んでいない ことが判明 した。 さらに、調査 区北 東隅で検 出 した南北廂付東西棟

SB6630が

坪 を東西 に二等分す る線上 に位置 し、区画施設等 を 検 出 していない ことか ら、北半 について も、一体 の敷地利用 と考 えられ、十六坪 は奈良時代 を 通 して、

 1町

の敷地利用であることが明 らか になった。坪北西部 は、 この南北廂付東西棟 とそ の西 に並ぶ東西棟

SB6635を

除 くと、比較的小規模 な建物 を雑然 と配置 してお り、十六坪 の主要 な建物群 は、や は り南東部 にあることが明 らか になった。

最後 に、第252次調査 の北西拡張区で検 出 した十六坪北面築地の雨落清

SD6446は

、調査 区ゴヒ 辺中央付近 で途切れ ることが判明 した。西方 については削平 された可能性 も考 えられたが、雨 落溝が想定 され る個所 において、溝 と重複す る、 あるいは併存 しがたい位置で掘立柱建物 を検 出 してい ることか ら、外周閉塞施設が存在 しない時期 も考 えられ、今回の調査区では解決 しえ なかった。

坪 内は東西 で使 い分 け

祭 祀 土 坑

I町

占 地

(10)

調

A  第251次 調査

5・

31 

調査 区(東西43m・南北

6m)を

設定 し、重 機 による表上、耕上、床上の除去 をはじめ る。

6・

排水溝 を掘 りはじめる。調査 区北側 にも 水抜 き用の溝 を掘 る。

6・

地 区杭 を打つ。

6。

排水溝 を掘 り終わ る。調査 区四壁 の整形 後、西側か ら遺物包含層(黄灰土層)を除去 し、遺 構検 出にかか る。

6・

調査 区の西端部で は、遺物包含層の下 は 砂 と粘上の堆積層 になる。遺物 は南北溝 で取 り上

げたが、溝ではな く、また、道路 と想定 された部 分 は、沼状 の堆積である可能性 が高 くなる。

6。

排水溝 をさらに掘 り下 げるが、地 山に達 しない。とりあえず、沼状堆積層 の北半部 につい て部分的 に掘 り下 げはじめる。遺物 は灰色土 とし て取 り上 げる。道路側溝 は存在 しない可能性がで て きた。」188区 で土坑状 の点 を検 出す る。

B  第252次 調査

6・

251次調査区にひ き続 き、第252次 調査 区、第253次調査区を併せて、北東か ら重機 によ る表上、耕上、床上の除去 をは じめる。

6。

調査 区の東限を一応11ライ ン とす る。 こ れで、第252次調査 区は東西50m・ 南北48m、 第 253次調査 区は東西50m。南北

63mと

な る。重機 による排上 は、湧水が多 く難航す る。事業地全域 の排水 と並行 して進 めることにす る。

6・

14 

調査 区西側の排水溝 を掘 りはじめる。

6。

15 

地 区杭 を打つ。

6・

29 

252次調査区、第253次調査 区の排水溝 を掘 り終わ る。

6・

30 

西か ら遺構検出。南半 には遺構 らしきも のがあるが、北半 は何 もない。

7・

現場班交代 し、ひ き続 いて25〜26ライン 間 までの遺構検出をす るが、遺構密度 は極 めて低

14

日 誌

6AHC一 J区 、 6AHD― A区

1994年5月 31日

6月 21日

10       95      90

Fig.3 

第251次 調査 区遺構略図

6AHD一 A区

6AHG一

Q・

R区

6AHH―

H・I区 1994年

6月

1日〜 10月 26日

6・

沼状堆積 の範囲 は、11ライ ン付近か ら89 ライン付近 に及ぶ。J190〜91区付近 には、さ らに 下層の堆積層があ り、灰色上下層 と命名す る。J 188区 の上坑状 の穴 を掘 りはじめる。

6,10 

調査 区北壁断面で、93・94ライ ン付近 に2 条の溝状 の堆積 を確認。これの検 出面 を暗青灰上

とす る。

6・

14 

暗青灰土層 を掘 り下 げた ところ、94ライ ン付近で、沼状遺構 の底 で斜行溝 (SX6403)を 検 出。」188区 の上坑 は野井戸 (SE6401)の ようであ る。掘 り下 げ後、写真撮影。

6・

15 

昨 日検 出 した斜行溝 の東で、 もう 1条 の 斜行溝 (SX6404)を 検 出。遺構検 出終 了 し、午後か

ら写真撮影 と平面実測。

6・

16 

平面実預」終了 し、上層図作成 にかか る。

6・

17 

土層図作成終了。

8・

21 

砂入れ して、調査終了。

い。東西畦の北 は暗灰上の混 じる灰色砂質上であ るが、南 は黄褐上が多 い。ともに所々 に下層の青 灰砂質上がでている。5条の溝 を検 出 したが、い ずれ も耕作溝であろう。

7・

梅雨開け宣言 あ り。H」24区 、HJ25区 にお いて小柱穴 を5個検 出す る。東西溝 数条 が ある が、他 に顕著な遺構 はみ られない。

7・

5 HQ24区

、I B24区で柱穴 を検 出す る。そ れぞれ、これ らを西妻 とす る梁行2間の東西棟掘 立柱建物 にな りそ うである。

7・

昨 日検 出の柱穴 は、 それ ぞれ桁行 3間 の 東西棟 (SB6435'SB6440)と して ま とまった。一部 小穴が柱穴 に重 な りはじめる。

7・

7 1A21〜

I C21区で、南北 に並ぶ柱穴3個 を検 出す る。 I地 区の掘立柱建物 (SB6440)は 東 に廂 を伴 うのであろうか。調査 区南端近 くで も、

(11)

21・22ライ ン付近で柱穴 5個 を検 出 し、東西棟 に な りそうである。I D21区で は、径

2,7mの

上坑 を

検 出す る。

7・

8 20ラ

イ ンまで遺構検 出。昨 日、調査区南 端付近で検出 した柱穴 の続 きを検 出す る。

7・

1l H地

区の掘立柱建物 は、一部が南北畦 に かか る4間目の柱穴 を検 出す る。

7・

12 H地

区の掘立柱建物 は、18ライン西で東 妻 を検 出 し、2間 5間の東西棟 (SB6426)で まと

まる。南東隅の柱抜取穴 には、土器が入っている。

調査 区西端 か ら続 いていたNライ ン北 の東西溝 (SD6430)は 、18ライ ン まで は延 び て い な い。

HS19区か らI C18区ぐらい まで は、遺構検 出面 が、西側 は灰色砂質土層、東側 は茶灰褐土層 と違 いがある。

7・

13 

本 国より、作業 を分 け、遺 構のチェック もはじめる。西か ら26ライ ンまで を精査す る。

N

H章  

調査概 要 ライ ン耳との東西溝 (SD6430)を18ライ ン東 で再 び 検 出 し、この溝が18ライ ンでいったん途切 れ るこ とが判明する。この溝 は、坪 を南北 に三分する想 定位置 に近 い。

7・14 14〜15ライン間で、東側が一段落 ちる。

東一坊大路西側溝 の堆積が広が っている と考 え、

南北大溝 と命名 す る。 これの範囲 を確認 す るた め、東西畦の南で試掘 した ところ、 この堆積 は、

調査 区内で は収 まらない ことが半」明 したので、調 査 区を東 に拡張す ることにする。

7・

15 

西側 のベル コンは、年後電圧低下のため、

遺構精査がで きず。東側で は、昨 日検出 した南北 大溝の輪郭線 を確定す るとともに、堆積層の暗灰 粘質土 を一部下 げはじめる。

7・

18 

調査 区を東 に拡張す るため、第253次調査 区の南東隅 よ り、重機 による排土 をはじめる。一 部試掘 した ところ、遺構検 出面か ら

1.3mほ

どは

‑   6AttG― o

20      15      10       95 6AHH―H      6AHG―o

Fig。

第252次 調査 区遺 構略図

̲ 20         15‑―

││ │││ ││ │

(12)

暗灰色の粘質上が堆積す る。

HM13の

地 区杭 の南 と東 に埓、石が集 中す る。

HO〜 HS区

12ライ ン と13ライ ンの中間で、南北 に一本線が通 る。ここ か ら東が西側溝 になるのであろうか。

7・

19 

調査 区の東への拡張 は、11ライ ンか ら東

4mま

で とし、重機 による排土 は本 国で終 了す る。さらに、調査 区北端では、東側溝 を検 出す る ため、

8m幅

で東へ

26m拡

張す ることにす る。

7・

20 

遺構 検出は、当初設定 した調査 区の東端

(11ライン)に達す る。南北大溝の暗灰粘質土層 を 掘 り終わ り、その下 の灰黄粘質上 の掘 り下 げをは じめる。重機 による東拡張区の排土 は、本 国 1日 で終了。

7・

21 

東拡張区に続 き、六条大路の位置 と規模 を確認 す るた め、重機 による北西拡 張 区(東西8 m・南北46m)の

''上

にかか る。

7・

22 

調査 区東端近 くの灰黄粘土層か ら、奈良 末〜平安 の上器が出土。この層の下 に奈良時代 の 遺構が ある と考 えられ る。東一方大路西側溝 の西 岸 は、偶然 にも、当初設定 した調査 区の東排水溝 とほぼ一致す るようである。北西拡張区に続 き、

西側溝 と六条大路南側溝 との合流部 を確認 すべ く、重機 による北東拡張 区(東西■m・南北20m) の排上 にかか る。

7・

25 

北東拡張区、東拡張区の地 区杭 を打つ。

南北大溝 は灰黄粘土層 の下 の暗茶灰粘土層 の掘 り下 げをはじめる。

7・

26 

西側か らの精査 は22〜23ライン間 まで到 達す る。22〜24ライ ンで、東西畦 をまた ぐ掘立柱 建 物 (SB6436)を 検 出。東 で や や 北 に振 れ る。

HP24区付近で は、黄灰上 の下 の整地層である灰 褐土層 を取 りはじめる。

7・

27 

遺構精査で検 出 した調査 区南西部 の「コ」

字状溝 (SD6431)を 掘 る。柱穴 の精査 をした結果、

調 査 区南 端 の東西棟 につ いて は、新 旧

2時

(SB6425。SB6426)あ ることが半」明す る。

7・

28 

東西畦 の南 で南北 大溝 を試掘 した とこ ろ、東 に拡張 した にも関わ らず、溝が収 まらない ことが明 らか になったので、北東拡張 区 と合 わ せ、東 にさらに

5m拡

張す ることにす る。調査 区 南端 の掘立柱建物 (SB6420に ついて、抜 き取 り

も含 め、新 旧柱穴 の重複関係 を検討す る。輪郭が 決定 した ものか ら掘 り下 げはじめる。

7・

29 

北西拡張区の排水溝 を掘 り、東西の壁で 溝 を検 出す る。重機 による排土終了。

8・

東拡張区の排水溝 を掘 る。西か らの精査 は18ライ ンの東 まで。北西拡張区での知見 に基づ き、北東拡張 区をさらに北 に拡張すべ く、重機で 排土す る。北 は

X=‑148,1495と

したが、明 日

さらに50 cm北 へ延 ばす予定。

8・

坪南 北 三分 の一溝 (SD6430)の 途 切 れ る

16

部分の北 に柱穴 2個 を検 出す る。出入 り口になる のであろうか。東拡張区で は、90ライ ンの東西で、

東一方大路東側溝 の両岸 を検 出。幅約3m。 西側 溝東岸 も確認 し、東一坊大路 は側溝 心々で約23

mと

なる。北東拡張区の重機 による排土。北限を

X=‑148,149と

す る。

8。

3 Nラ

イン北の区画溝(SD6430)│ま16ライ ン近 くでな くなる。東拡張区の東一坊大路東側溝 の堆積土 を半 スコさげる。遺物 は東側溝青灰粘質 上で取 り上 げる。東一坊大路 の路面上 に方形 の遺 構 を検 出。埋上 は黄灰粘土。竪穴住居址 になるの か もしれない。北東拡張区は、重機排土 と並行 し て、東西 に排水溝 を掘 る。東辺 の再拡張(11ライン か ら東へ10m)は、第253次調査 区南端か ら重機 に よる掘削 を開始。西側溝 は、当初調査 区の北端部 (Fラ イン北)で、試掘 した ところ、砂質気味の粘 土(後に、灰色粘土層 と褐色砂に分層)の下 は、青灰 粘土層、茶灰土(本暦層)と続 くことが判明す る。

8・

西か らの精査 は13ラインまで到達す る。

東拡張区で は、東側溝 を掘 り下 げる。西側溝 は、

東岸の検 出 とFラ イン北 の東西畦の上層図作成。

8・

東拡張 区は東側溝、竪穴住居址の上層図 作成 と地上写真撮影。東辺の拡張では、第253次 調査 区の東西畦予定地 (Aラ イン)の北側 で試掘 し、西側溝 の東岸 を確認。その深 さまで、重機で 掘削す ることにす る。ただ、第253次調査 区の南 半で は、西側溝東岸 は、拡張部 の東 になるようで ある。基本的 には、溝 を掘 り上 げることを目的 と す るが、排上が近接 して危険なため、重機 で可能 な限 り排上 を東 に移動す ることにす る。

8・

北東拡張 区で は、重機で拡張区を整形す る とともに、排水溝掘 りと並行 して、遺構 検出を はじめる。

HP14区

の井戸(SE6432)は、南半 を掘 り下 げはじめる。14ライ ン東、南北大溝の上部堆 積土 は灰褐砂土 とす る。

8・

北東拡張 区で は、

Mラ

インか ら北が六条 大路南側溝 になるようであるが、拡張区内では、

北岸が確認で きない。I K12区で埋上 に上器 を含 んだ土坑 (SK6423)を 検 出す る。

8・

10 HP14区

の井戸(SE6432)の 掘 り下 げを続 けた ところ、一辺約90 cmの 縦板組 の井戸枠 を検 出す る。六条大路南側溝 と東一坊大路西側溝の関 係 を検討す るため、土層観察用 に畦 を残す ことに す る。また、南側溝 の北岸 を検 出す るため、北東 拡張区を北 に拡張す ることにす る。

8。

11 

六条大路南側溝 の北岸 は拡張 して も確認 で きず、北東拡張 区の西端 を重機 で北へ さらに3

m拡

張す る。西側溝西岸 は、13ライ ン東 に、南北 でい くつ もの上 の違いがあ り、複雑 な状況 を呈 し ている。西側溝で は、堆積が西 に広が る

HL■

区 の北西 に土層観察用の畦 を残 して掘 る。畦の南側

(13)

は、幅40 cm程 度 の溝 となった。

8。

12 

西側溝西岸 の検 出作業。拡張 した本調査 区東壁 の整形。

8。

16 

西側溝 は96ライ ン付近 で東岸が確定 し、

東西畦の南で は、掘 り下 げをは じめる。北東拡張 区では、南側溝北岸 は再拡張 して も確認で きず。

さらに、】とに拡張す る ことにす る。

8。

18 

西側溝堆積上 の灰黄粘土層、灰色粘土層 の うち、上層の灰黄粘上 の除去 を続 ける。北東拡 張 区で は、上層の暗茶灰粘土 を除去 した後、下層 の灰色 粘土 層 を掘 りは じめ る。I K12区の上 坑 (SK6423)の 写真撮影。

8。

19 

西側溝灰黄粘土層の掘 り下 げ。北東拡張 区では西排水溝 を掘 る。

8・

22 

西側溝灰黄粘土層 の掘 り下 げ。I L10区か ら瓦器が出土。北東拡張 区で は、暗茶灰粘土層 に 続 き、灰色粘土層の除去。東西畦 の うち、西側溝 にかか る部分 をはず しはじめる。

8・

23 

西側溝灰色粘土層 の掘 り下 げ。灰色粘土 を除去す ると、テ ラス状 の平坦面が現れ、そ こで 溝幅が牧 くな り、そ こか ら再 び傾斜 を強 めて落 ち 込む ようである。北西拡張 区の六条大路南側溝 で も、ほぼ同様 の状況が窺 え、

Nラ

イ ン南45 cmの 位置で、2段目の落 ちを検 出す る。

8・

24 HLll〜 HL13区

に設定 した東西畦で、珪 藻分析・花粉分析 のための上壊 サ ンプ リングをお こな う。西側溝 で は灰色粘土層 の掘 り下 げを続 け る。I K12区の上坑 (SK6423)の 掘 り下 げを再開す る。上半部 より布 目痕跡 のある漆膜片が出上。

8。

25 

西側溝 は、灰色粘土層 の掘 り下 げ。調査 区南端 のQJ97区 で、杭・横木 。人頭大 の礫か らな る東西方向の しが らみ (SX6452)を 検 出。ここで、

溝 は東へ曲が る。11世紀代 の瓦器が出土す る。東 西畦か ら北 は、灰色粘土層 の除去が東岸 まで達す る。I K12区の上坑 (SK6423)の 埋土 は、昨 日まで が土元1、 本 国か ら下層部分 を暗灰粘質土 とし、

遺物 を取 り上 げる。また、土坑 中央 に東西畦 を設 け、 そこで地 区を南北 に分 けることにす る。

8・

26 

西側溝灰色粘土層 の掘 り下 げは、北東拡 張区を除 き、ほぼ終了す る。溝 は用水路 の様相 を 呈 してお り、 それが調査 区南端 で堰 き止 め られ て、東へ流路 を変 える。これが、11世紀頃の西側 溝の姿であろう。西側溝か ら東へ支流が分岐す る 地点では、溝底がやや深 くな り、灰色粘上が比較 的厚 く堆積 してい る。北東拡張 区の西側溝灰色粘 土層の除去 を再開。I K12区の上坑 は、底が近づ く

につれ、遺物が少 な くなる。

8・

29 

北東拡張 区で は、西側溝灰色粘土層 を掘 り下 げる。東へ達 し、折 り返 しも灰色粘上で遺物 を取 り上 げる。

8。

30 

北東拡張 区の上坑(SK6423)、 西側溝 しが

第 Ⅱ章

 

調査概 要

らみな どの写真撮影。北東拡張区では、西側溝灰色 粘土層 の除去。北西拡張区にベル コンを並べ る。

8・

31 

北東拡張区の西排水溝 を

X=‑148,138.8

まで重機 で北へ延長 し、六条大路南側溝 の北岸 を 探す。標 高

53.6m付

近 の砂層 を追 うが、砂層が続 いた ままである。

9。

北東拡張 区で は、

RH〜

R」 ライ ン間で、

西側溝 の支流が西 にのびる。北西拡張 区で は、遺 構検 出面 まで を本調査 区 と同様、黄灰土 として遺 物 を取 り上 げるが、

IMラ

イ ン以北 は、遺構検 出 面が一段下が り、その上 には、灰色 の粘質上が堆 積 している。

AC〜ADラ

インの中央以北 は、灰色 粘土層 をはずす と粗砂 になる。

9。

北東拡張 区のI K12区の上坑(SK6423)と 西側溝か ら西へ広が る溝 (SD6421)を 完掘す る。

9。

北西拡張 区で は、一段高い

IMラ

インの 南で遺構検 出。

IPラ

イ ンで東西 に線 がつ くが、

その北側 の上層 の判 断がつかず、下 げきれない状 況である。排水溝 で確認 した東西溝が六条大路南 側濤 とす ると、路面推定幅か ら、北側溝が拡張区 内に収 まらない ことも考 えられたため、北端 の東 半 を約3m、 重機 で拡張す る。

9・

空撮用の対空標識打 ち。北西拡張区で は 黄灰土層 をはずす。北側溝 は、

A〜

Cライ ン間で 灰色粘質上が広が り、判 断に苦 しむ。南側溝 は、

東壁 で は浅 い窪み しかな く、その下 には、溝 とは 考 えに くい土坑があ る。西か ら南側溝埋土黄褐土 として掘 り下 げる。北側溝で は、灰色粘質土層の 下 の暗灰 シル ト層で合 わせ 口甕棺 を検 出す る。

9,7 

北西拡張 区で は、北側溝暗灰 シル ト層、

南側溝黄褐土層 の排上。脂肪酸分析 のため、土器 埋納遺構 (SX6448)の 上壌 を採取。

9・

空撮後、ひ き続 き地上写真撮影。

9・

地上写真撮影。北西拡張区は、北側溝暗 灰 シル ト層の下 の暗灰砂質粘土層、暗灰粘土層の 掘 り下 げ。その下 は灰黒粘土層 となる。土器埋納 遺構 は、実測後、土器 を取 り上 げる。東拡張区北 壁 の上層図作成。

9。

12 

本調査 区の北壁、西壁 の排水溝 を掘 り下 げ、土層図の作成 に とりかか る。北西拡張区では 北側溝灰黒粘上層の排土。灰褐砂で底 になる。北 側溝 の底 では、これ に先行す る溝が、北西か ら南 東 に斜行す る。南側溝 は茶灰 シル ト層 を除去 した ところ、灰色粘上 を埋土 とす る東西溝 を検 出。東 壁で は土坑 とみていたが、南側溝 を掘 りなお した 溝であることが判明 した。

9。

13 

北西拡張 区で は、南側溝 の掘 り下 げ後、

写真撮影。北東拡張 区で は、南側溝 と西側溝の支 流 (SD6421)の 掘 り下 げをはじめる。遺物 は、青灰 粗砂 として取 り上 げる。一部 の柱穴 の断ち割 りを はじめる。上層図作成 のため、南北畦 の東側 を1

17

(14)

スコ下 げる。

9,14 

昨 日に続 き、北東拡張 区の掘 り下 げを続 ける。北西拡張区で は、雨落溝 の深 さを東壁 で確 認。南側溝 の掘 り下 げ終了。建物群 の柱穴 の断 ち 害」り│こかか る。

 

東西畦 にかか る建 物(SB6435)ヤこ は柱根が残 ってお り、建物群 のみ平面実測す る こ とになる。

9。

19 

北西拡張区では、雨落溝 を掘 りきる。調 査区南端 の掘立柱建物(SB6425。SB6426)は 、断 ち 割 りの結果、新旧関係が逆転 す る ものがあ り、柱 穴 の組 み合 わせが問題 にな る。上層 図作 成 のた め、東西畦の際 を掘 り下 げる。

9,20 

北東拡張区では、西側溝 を掘 る。 」〜

M

ライ ンでは、青灰細砂層 を、IH・II区の10〜12ラ インでは青灰細砂層の下 の暗灰粘上 を掘 る。北西 拡張区では、雨落溝、南側溝 の写真撮影。南 の柱 穴 の断ち割 り。調査 区南端 の掘立柱建物 の柱穴 の 断ち割 り。

9。

21 

北東拡張区の掘 り下 げ と並行 して、柱穴 の断 ち割 りを続 ける。畦土層図の作成。

9。

22 

北西拡張区は平面実測。

H22〜

X」22区 で 建物 (SB6445)の 西妻 を検 出す る。北東拡張 区 は、

西側溝灰色粘砂層の掘 り下 げ。木簡 、一本歯 の下 駄、刀子等が出上。HP14区の井戸 (SE6432)の 掘

り下 げの準備 にはいる。

9。

26 

柱穴 の断ち割 りと上層図作成 のため掘 り 下 げた畦際の埋 め戻 し。北西拡張 区で は、平面実 測終了。北東拡張区で は、西側溝暗灰砂層 の掘 り 下 げ。東側で は、木暦層がでているが、中央 で は 薄 い。木暦層の下 は粗砂 になる。南側溝部分 は、

暗灰粘上、青灰粗砂 として掘 り下 げる。

9。

27 H013区

で木棺墓 (SX6428)を 検 出。北東 拡張区では、南側溝部分 は灰色粘砂、西側溝部分 は暗灰砂 として掘 り下 げる。暗灰砂層 には、土馬、

硯 の他 に、8世紀後半か ら10世紀 の墨書土器 が含 まれ る。

9。

28 

西側溝 は、灰色砂粘層、暗灰砂層 の掘 り 下 げ。動物遺存体等が出土す る。木棺墓 には、銭、

漆箱、須恵器平瓶等が副葬 されている。上器 は奈 良時代 よ り新 しい。現地説明会 の準備。

9・

29 

北東拡張区では、西側溝暗灰砂層 の掘 り 下 げを続 ける。I」11区で、曲物 を埋設 した取水遺 構 (SX6422)を 検 出す る。現地説明会 の準備。

9。

30 

西側溝 は、昨 日にひ き続 き暗灰砂層 の掘 り下 げ。HP14区の井戸(SE6432)の 写真撮影。木 棺墓 は、畦 を残 し棺輪郭部 内側 の落 ち込 み部分 を 掘 り下 げ、遺物 を出 して写真撮影。その後、平面

と断面の実瀕1。 現地説明会 の準備。

10,1 

現地説明会。

10・

本 国か ら秋 の現場班 も稼動す る。第252次 調査 区の うち、西側溝の Fラ イ ン以南 と

HP14区

18

の井戸 を秋の現場班が引 き継 ぐ。西側溝 は、Fラ イ ン北 とRラ インの11ライ ン以東 に畦 を再設定。

D〜

Fラ インでは青灰粘土層の上面 を確認する。

R〜

Dラインで は、青灰細砂層 を掘 り下 げ、奈良 時代後半期 の西側溝東岸 の検 出作業 をす る。北東 拡張区で は、西側溝部分 の暗灰砂層 の掘 り上 げ。

I」11区の曲物埋設取水遺構 (SX6422)は 、実測後、

写真撮影。木棺墓 は、畦 をはず した ところ、頭部 付近で水晶玉 を検 出す る。遺物 出土状況の写真撮 影後、方形漆器 を除 く、土器、漆器等 の遺物 を取 り上 げる。畦 を再設定 し、棺輪郭線 の内側 を掘 り 下 げる。掘形 ライ ンが現状掘削面 よ り、深 く落 ち てい くようにみえるが、なお、精査 が必要。井戸 (SE6432)の 実測。

18・

西側溝 の堆積状況 を観察 す るため、 Cラ イ ンとRラ イン南で試掘。Rライ ン南 では、ほぼ 溝底 まで掘 り下 げ、木屑層 も確認す る。Rラ イン 以南で は、掘 り下 げの範 囲 を

Nラ

イ ラまで広 げ る。西側溝東岸確認 のため、青灰細砂層 を掘 り下 げ、暗灰粘土面 に達す る。遺物 は非常 に少 ない。

北東拡張区で は、西側溝最下層 の褐色粗砂層 の掘 り下 げ。I N10区で木杭 を検出。木棺墓 は棺身部 分 の掘 り下 げ。高台付土師器椀 の下 か ら銅銭 出 土。遺物 を取 り上 げた ところ、棺材(底板)が遺存 していた。南北畦沿 い南端で も断ち割 る。棺身部 と掘形 の落 ちは明瞭であるが、掘形 の底 は依然 と して不明。断ち割 った底面で、横桟 の痕跡 と思わ れ る灰色粘土帯 を検 出す る。

10。

西側溝堆積上 の うち、暗灰粘土層 と灰色 砂粘層 については、土層 の境が不明瞭のため、遺 物 は一括 して暗灰粘上で取 り上 げる。北東拡張区 では、写真撮影の後、平面実測 の準備 。木棺墓 は、

棺身部分 の掘 り下 げ後、実測図の補足。棺西側の 縦桟状 の灰色粘上帯 は、棺側 の圧痕 と判断 し、桟 で はない と理解す る。棺 内完掘後 の写真撮影。脂 肪酸分析 のため、木棺墓 の上壊 を採取す る。

10・

西側溝 は、Nライ ンまで は暗灰粘土層 を ほぼ完掘す る。暗灰砂層の掘 り下 げにかか り、

C

ライン以北 を除 き完掘す る。暗灰砂層 の下の木層 層 は、Bラ イン以北で は東岸、

B〜

Pラ インでは 西岸 に堆積す る。暗灰砂層か らは、金属製人形、

神功開費、刀子、木印等が出土。

QT10区

で、南 北 に並ぶ柱根3本を検 出。橋脚 にで もなるのであ ろうか。溝対岸 にある石 も、これ と関連する可能 性がある。北東拡張区は実測終了。木棺墓 は、掘 形底 も現状 の棺底 と変わ りのない浅 い もので あ ることが判明。横桟 も掘形底 に食 い込 んでいるも の と判断す る。掘形埋土 も掘 り上 げたが、遺物 は な く、埋 め戻 して終わ る。

10・

西側溝 は、西岸 の木屑層 の掘 り下 げ。

R

ライン畦以南 は、木暦層 とその下 の褐色粗砂層 も

(15)

掘 り下 げる。Rライ ン畦以北で は、東岸 の検 出作 業後、西岸 の木屑層 を掘 り下 げをお こな う。Dラ イ ン以北で は、東岸側 を掘 り下 げる。

10。

1l Rラ

イ ン以北で は、溝両岸 の精査。褐色 粗砂 層 を残 して完掘 に近づ く。Rライ ン以 南 で は、褐色粗砂層 を完掘する。

B〜

Cラ イ ンの溝西 側底 で しが らみの杭 とみ られ る木杭6本を検 出。

HL12〜

13区の東西畦 をはずす。畦 の北 に残 って いた石 と埓の入 った灰色砂質土 は浅 く、これ を除 去す ると、

HK12区

か ら続 く南北溝が終わってい

ることが半J明した。

10。

12 Rラ

イ ン以北 は西側溝最下層の褐色粗砂 層 を完掘。和 同開弥、鉄人形、銅人形等が出土。

複雑 な様相 を呈 していたため、保留 していた

Nラ

イ ン以南 の作業 を開始する。西側溝東岸 はほぼ確 定 で きたが、西 は一部不明瞭。地 山が崩壊 した黄 粗砂 を含 む青灰細砂層 を掘 り下 げるが、西 の溜 り か らの流入上 によ りわか りに くくなってい る。

10。

13 Fラ

イ ン北 の畦 を、層 ごとに遺物 を取 り 上 げなが らはずす。Nライン以北 は、後 日の写真 撮影 に備 え清掃。Nライン以南では、西側溝上層 の青灰細砂層 を掘 る。調査区南端 の 」ライ ン北 で 試掘 した ところ、かな り深い ところか ら中世(10 世紀末〜■世紀)の上師器が出上 した。 しが らみ を設 けたのは、それ以降の ことになろう。

C  第253次 調査

10。

13 

調査 区(東西61m。南北63m)の西辺 に、第 254次調査 区の重機排上の搬出路が必要 なため、

26ライ ン以東 か ら調査 をはじめ る。ベ ル コ ンを セ ッ トし、26ライ ンか ら東 に向けて、遺物包含層 の黄灰上 を除去 しつつ遺構検出 を開始。遺物 は少 ないが、東西畦の北で、柱穴がい くつかでて きた。

10。

14 

遺構検 出面 は、

0〜

Hライ ンでは褐斑灰 色粘質上であるが、その北の

H〜

Jラ インは砂地 で、Oライ ンか ら南 は褐色土 となる。26ライ ン東 の

C〜

Fラ インに柱水が 4個 南北に並ぶ。東西畦 の南では25ライ ンまで進むが、遺構 はほ とん どな い。Nライン付近で は、褐斑灰色上が溝状 に東西 方向に延 びる。

10。17 24ラ インまで遺構検出。砂地 は、北端か ら

HB24区

まで広が り、その西側 の褐斑灰色粘質 土 は整地上 になるようである。Nライ ン付近 の溝 状 の褐斑灰色土 は24ライン西でな くなる。」ライ ン付近 にも砂層があ り、24ライン付近で は北 へ広 が る。

10。

18 

第252次調査区西側溝写真撮影 のため、作 業 な し。

10・

19 

十六坪南の七条条間北小路 は、六条大路

H章  

調 査概 要

10・

14 

昨 日にひ き続 き、調査 区南端で、西側濤 の掘 り下 げをお こな う。しが らみの部分 の下 に大 きな溜 りがある。Kライ ン南側 の石、杭 ともに、こ の溜 りに関係 す るもの と考 えられ る。昨 日の土師 器 はこの溜 りの底か ら出上 した ものであ る。この 溜 りは奈良時代 の東一坊大路西側溝 の一部 を掘 り下 げてつ くつた もの らしい。西側溝古→西側溝 新→石 と杭 で壁 を固めた溜 りをつ くる→ しが ら みを設 ける、 とい う変遷 をた どるのであろ うか。

10,17 Nラ イ ン以南の西側溝 は、暗灰粘土層 を 完掘 し、暗灰砂層 の掘 り下 げにかか る。

HP14区

の井戸(SE6432)を 掘 る。井戸枠 は上端 か ら

lm弱

で終わ る。井戸埋土 は粘上で、井戸底 は灰褐粗砂 である。井戸底か ら須恵器双瓶、木片が出土。

10・

18 

西側溝 はNライ ン以南 を完掘 し、写真撮 影。井戸の断ち割 りと断面図の作成 を終 える。

10・

19 

井戸枠の取 り上 げ。Rライ ン畦で土壊 サ ンプルの採取。西側溝実沢」の準備 にかか る。

10。

20 

完掘後 の西側溝の平面実測図 と上層 図の 作成。

10。

24 

平面実測 とRラ イ ン畦の上層図のチ ェッ ク。先入観 を排 し、改 めて線引 きし、図面作成。

10。

25 

平面実測終了。橋脚 (SX6420)部 分 の断面 図の作成。溝土層図の最終チ ェック。

10・

26 

橋脚3本を取 り上 げ、調査終了。

6AHG一

P・

Q区 、 6AHH一

G・

H区

1994年10月 13日

12月 27日

道路心か ら計算す ると、

Mラ

イ ンが ほぼ道路心 に なる。小路 は幅

6mほ

どと推定 され るので、Nラ イ ン北 の褐斑灰色上が北側溝 か とも考 え られ る が、この上 は24ライン付近 でな くなる。Oライ ン の南

lmに

も上 の違 いが あ るが、24ライ ンの東 では不明瞭 になる。Kライ ンか ら南

1.5mほ

どの 間 は、白斑赤橙色砂質上が溝状 に東へ続 くよ うで ある。 その南 は砂地(一部粗砂)とな る。

10。

20 

東西畦南 の

G地

区で は顕 著 な遺 構 はな い。Kライン南の自斑赤橙色砂質土 は東へ続 いて い る。東西畦北のHC22区、HE22区で柱根 の残 る 柱穴 を検 出。その間 には柱穴がみつか らない。さ らにその東、21ライ ンの西で柱穴4個を確認。23 ラインの

F〜

Hライ ンで、南北 に並ぶ柱穴4個を 検 出す る。

10。21 21ラ イン西の柱穴4個は、掘形 の大 きさ が一定 しない。Kライン南 の自斑赤 橙色砂 質土 は、 まだ東へ続いている。

10。

24 

東西畦の北では、柱穴 を順調 に検 出す る。

ただ し並びはそれほ どよ くはない。東西畦 の南 に は顕著 な遺構がな く、遺構検 出面 の上 の違 い を追 い続 けている。Kライ ン南 の白斑赤橙色 砂 質土

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