二八
﹁知杭州﹂蘇軾 │ │ いつから杭州を代表する名地方官となったのか │ │
小二田 章
はじめに
筆者はこれまで︑杭州の治績記載を通じて︑北宋期の地方統治がどのように記述され︑後世にどのように影響を与えるかを検討してきた 1︒その過程で︑北宋初期の時点で杭州にある程度地域意識の萌芽がみられること︑中期の仁宗期に行われた范仲淹の治績が同時代ではなく後世において﹁名地方官﹂像を形成したこと︑などを明らかにすることができた 2︒これら宋代の杭州における治績を分析するなかで︑必須の検討対象となるのが︑突出した業績を持ち︑現在に至るまで︵地元出身者ではないにもかかわらず︶杭州を代表する人物と目されている蘇軾である︒杭州の地方統治という視座からみる蘇軾は︑歴代地方官の治績により織りなされた﹁善政の系譜﹂のなかで中心的な地位を持ち︑杭州という﹁地域﹂に善政の系譜を根付かせた人物であると言える︒さらに︑後世その業績が極めて高く評価されていることを考え合わせると︑宋代全体における﹁名地方官﹂と善政の位置づけを理解する上でも鍵になる可能性を持った人物であるとも言える 3︒宋代を代表する﹁文人官僚﹂である蘇軾には︑さまざまな視点からの膨大な研究蓄積が存在する︒知杭州としての彼についても︑張其昀氏に始まり︑近藤一成氏の包括的な研究のほか︑多くの言及がある 4︒本稿では︑それらの成果を生かしながら︑筆者の問題意識に従い︑知杭州としての名声及び名地方官のイメージをどのように形成したのか︑という視座に限定して検討を行いたい︒治績研究として︑杭州の﹁名地方官﹂像確立の一事例︑さらには﹁地域﹂と﹁名地方官﹂像の融合
「知杭州」蘇軾二九 する過程を描き出せればと考えている︒
一. 「知杭州」蘇軾の来歴
蘇軾が知杭州となったのは︑元祐四年︵一〇八九︶三月であり︑その前に通判として熙寧四年︵一〇七一︶から七年︵一〇七四︶に滞在して以来の杭州赴任となる 5︒元祐六年︵一〇九一︶二月に離任するまでの二年弱という︑比較的短い任期でありながら︑その業績は多岐にわたり称賛されるものとなった 6︒﹃咸淳臨安志﹄には︑蘇軾について次のように記されている︒眉州の人︒翰林学士より郡を乞い︑三月丁亥︑旨を得て龍図閣学士から知杭州となった︒蘇軾自身は熙寧四年に通判杭州をした後︑十六年ぶりに杭州の任になった︒その年はたまたま水害︑飢饉疫病が相次いだ︒そのため朝廷に願い︑上供米を三分の一に減らしたため︑︵流通量が減らず︶穀物の値段が暴騰しなかった︒また︑賜った度牒を売って食糧を買って飢えた人々を救い︑翌年は常平倉の米を安く売りだし︑また粥の炊き出しを行ったり︑医官に命じて手分けして病人を診させた︒そのためこれらに頼って生活を取り戻した者は非常に多かった︒西湖を開浚し︑茅山・塩橋に運河を通し︑堤防や水門を修理し︑城中の六井を浚渫した︒民のために利益を興し害を除く施策は非常に周到であった︒地元の人はこれを徳とし︑生祠を作って祀った︒公の郡における民のための事蹟は最も多く︑各門に既に記したので︑ここでは詳述しない 7︒
何か︒まず︑知杭州としての蘇軾を主に﹃続資治通鑑長編﹄の記載を中心に検討する︒ ﹁民りのような評価をつく上る︒げる背景となったのはこい事目蹟最多﹂とされ︑この項で便詳述しないとまでされて まず︑その知杭州着任の背景としては︑中央での政治対立が主な要因とされる︒既に政争の中で多くの弾劾を受けており 8︑離任の上奏においても︑その党争の激しさを述べ︑理由の中心としている 9︒蘇軾の追い落としを図ったのは︑程頤を代表とする﹁洛党﹂であり︑その弟子と目された朱光庭・賈易らが諫官の立場を利用して度重なる弾劾を行っていた︒こ
三〇
の党争の構造は︑蘇軾が知杭州から中央に復帰した元祐六年まで続き︑その年のうちに賈易と蘇軾の双方が地方に出されるまで続いた︒蘇軾の上奏文を根拠とすれば︑自分の仲間︵﹁蜀党﹂と目される︶が巻き添えで弾劾を受けるなど︑弾劾を受け続ける環境から避難することを目的として︑自ら外任を願い出たとしている︒ただ︑後述するように︑この時期の杭州は飢饉問題に直面しており︑しかも熙寧年間に救荒策が失敗して多数の死者を出すなど
いた︒その対策を期待しての派遣であった可能性も十分にあると言える︒ ︑極めて重要な問題を抱えて 10
次に︑知杭州に着任してからの蘇軾の活動を考える︒実際の蘇軾が知杭州の時期に朝廷に送った文書を文集より抽出してみると︑六一件を数えることができる︒そのうち︑二〇件弱が飢饉対策に関するものであり︑西湖など水利関連が五件︑外国︵高麗︶関連四件というように︑ある程度集中して取り組んだ課題が浮かび上がる︒﹃続資治通鑑長編﹄には一二件の内容について︑蘇軾が上奏を行ったことが記載されている︒内訳は︑飢饉問題に関するものが六︑税納に関するものが二で︑その他は人事問題︑科挙の詩賦経義について︑高麗と杭州の僧・浄源について︑西湖の浚渫についてというものである︒先行研究が示すように︑﹃続資治通鑑長編﹄は史書の材料となる目的で作られた史料
燾熱心に飢饉対策などを行ったこと︑またその対策自体を中央が重視していたこと︑後世の編纂者︵李 短期間の間に︑これだけ地方官からの上奏が集中して記載されるのは異例であると言えよう︒その背景には︑蘇軾個人が であり︑そこに極めて 11
重要視したこと︑などが考えられる︒ ︶が蘇軾の行動を 12
次に︑知杭州から離任し︑中央に復帰した後の蘇軾の活動について考える︒その中央への復帰は︑当時の政治に大きな影響力をふるった宣仁太后の要請によるものであったが︑本来さらに早期に戻る予定を飢饉対策によって引き延ばされてこの時期に至ったことが史料に述べられている
継続というふたつの側面のために︑引き続き杭州の飢饉に関する上奏を続けることになった 饉対策に彼が中央に願って獲得した物資が多すぎるということを問題化し︑弾劾を行ったため︑蘇軾は党争と飢饉対策の ︒既に述べたように︑洛党との対立関係は継続しており︑蘇軾復帰後は飢 13
︒ 14
以上が蘇軾の知杭州であった時期の概略である︒この内容から見ると︑蘇軾の評価の背景には︑蘇軾自身が短期間に極めて熱心に上奏を行い︑杭州そして浙江の飢饉対策を推進したことがあると言えよう︒その上奏自体は︑政争のなかの必
「知杭州」蘇軾三一 要性で生み出されたものでもあったが︑結果として史料の中に目立つ業績として残る結果となった︒さらに︑その価値自体は︑近藤一成氏が指摘するように︑同じ内容についての上奏を反復していることが多く︑必ずしも蘇軾自身の計画した成果を挙げ得たとは考えられず︑さらに成果としては同時代の士大夫社会の中でも成果については疑問の声が上がる
ど︑論争の対象であった︒一方で既に杭州の人々によって祀られる な 15
る︒ など︑地域からの尊崇は確立させていたように思われ 16
二.蘇軾が「名地方官」たりえた理由 ─蘇軾自身から
蘇軾がなぜ﹁名地方官﹂たりえたのか︑その最終的な理由は︑既に述べたように︑蘇軾の治績がその文章や蘇堤など︑数多く︑また見えやすい成果として後世の人々に示されていたことにある︒﹁名地方官﹂像は︑後世の人々がその地方官を再解釈することで成立するものであり︑蘇軾は残った文献などから見ても極めて分かりやすい﹁名地方官﹂であったと考えられる︒では︑なぜ蘇軾は杭州において︑それほどまでに治績を残し得たのか︒蘇軾自身に関する要素をさらに詳細に分析する︒
まず︑大きな要素であった﹁政争﹂が挙げられる︒もともと︑﹁洛党﹂との政争のなかで発生した蘇軾の出外であっただけに︑その出先において業績を挙げることは︑その追い落とした相手である﹁洛党﹂に対するインパクトとなることが予想される
と続していたこ 党て︑人事をめぐり﹁洛蜀﹂﹁央党﹂間の抗争が継に中︒たこのことは︑既に述べよのうに︑蘇軾のいない間 17
と︑さらにその合間に杭州の蘇軾が大量の上奏文を送って極めて熱心にアピールを行っていたこ 18
上奏文などを通じ︑対立者以外に︑その成果が共有され︑史書や文集などに採録されていくということ ︑そして 19
きる︒蘇軾は政治家として︑治績を出し続けねばならない状況にあったのである︒ などからも傍証で 20
次に︑﹁地方統治﹂の側面から考えてみる︒これも既に述べたように︑当時の浙西地域は実際に飢饉による危機を迎えており︑その焦点となるのが︑﹁水陸之會﹂である杭州であった︒蘇軾は根本的対策として︑米価をどれだけ抑えられる
三二
かに腐心したが︑それは一方で中央の間接的コントロール下にある米価や物価の管理体制を︑制限の下でどれほど地方の管理下におけるかという管理体制改革の側面も有していた
和方│都市間の人口流動の緩 領地るよに正是の差格内域の︒米糧は︑のたっなと果成のそ 21
備︑水源や水利整備及び病坊︵慈善病院︶の設立による大都市としての基盤整 22
対策にみられるような都市の外部との貿易に対する管理化 ︑そして高麗 23
と同時に︑地方統治者の権威と存在感を明確に増すものであった︒ ︑などである︒これらは地域にとって︑目に見える成果である 24
そして︑蘇軾﹁個人﹂の側面からも考えてみる︒北宋期の士人階層にみられる住居・地域の移動性
るが詩に表れるようになっているとす 詩作の量は減少しまた技法の追及もあまり見られないが︑杭州への愛着はむしろ強まっており︑また地方官としての立場 の固め︑また地方官として政行声責務に追われたことで︑を名一の詠みこんでいるとする︒方で︑知杭州期は詩人として ると︑蘇軾の人生全体のなかでも︑通判杭州期は最も精力的に作詩を行った時期であり︑杭州特に西湖の山水風雅を多く 域に刻印するという目的もあったと考えられる︒蘇軾の通判・知杭州を併せた杭州時代の詩作を分析した内山精也氏によ して杭州に滞在していた経歴などからみると︑この地方統治を期により地域コミュニティと結び付き︑蘇軾﹁個人﹂を地 や︑もともと通判と 25
という地域に︑知杭州として赴任することが責任感をもたらしていた可能性を見て取ることができる︒ ︒この指摘からは︑蘇軾にとって︑通判時代に深く馴染み︑愛着を感じていた杭州 26
その詩などを通じて︑蘇軾と結び付く﹁人間関係﹂と地方統治の結び付きも考慮しなければならない︒知杭州の時期において︑蘇軾は通判時代より少ないとはいえ︑行政の合間に部下や在地の士人︑訪ねてきた上司や友人と会い︑連れ立って散策し︑詩文の会を開いた
ていた 折あれば銭勰が杭州を訪問し︑蘇軾と詩文を中心にした交流を行い︑当時の人々から元稹・白居易の再来のようだとされ 年︵一〇八八︶から隣の知州である知越州として赴任していた︒この銭勰と蘇軾は極めて頻繁に手紙を取り交わし︑また ︒その中で注目されるのは︑銭勰との交流である︒銭勰は呉越銭氏の末裔にあたり︑元祐三 27
が︑この銭氏との交流を手がかりに︑蘇軾は杭州地域との結びつきを深め︑また地方統治の際の課題となる﹁地域の事情 含め︑一族ぐるみで交流を行っていた︒銭氏が宋朝に入ってからも︑地域に影響力を残していたことには既に言及がある ︒さらには︑当人のみならず︑銭勰は息子の蒙仲を蘇軾の下に派遣して学ばせるなど︑弟の龢や息子の三郎なども 28
「知杭州」蘇軾三三 の理解﹂を深めたのではないだろうか︒蘇軾はその任の最後に銭氏の廟墓の修理と財源の確保を上奏し︑廟の管理者として銭勰の一族である僧・自然を指名しているが
かもいなはでのたっあ面側のてしとり返見 ︑これは地域の権威に注意を払ったことの表示であるとともに︑協力への 29
たに隠棲していたが︑その一族は沈遘︑沈遼と中央で活躍した官僚を輩出しており︑杭州の名族として扱われてい に︑江寧府︵南京︶にて沈括と面会していることである︒新法党として活躍した沈括はもともと杭州出身であり︑江寧府 赴るのは︑杭州と任さ帰任の際れ目︒州その他にも︑杭人注との交流として 30
州の前後に蘇軾が沈括と会っているのは︑杭州に向かうにあたり︑地域の事情を聞きたかったからではないだろうか ︒知杭 31
流をふかめ︑仏寺の﹁大檀那﹂としての立場を得るほどの結び付きを有していたこと れらの目立った名族との交流以外にも︑交友に杭州人・杭州在住者の姿がうかがえる︒さらに︑辯才や参寥など仏僧と交 ︒こ 32
権威や慣習に深く配慮した統治を行っていたことがうかがえるのである れらの人間関係からは︑蘇軾が知杭州として︑地域の事情を深く踏まえた統治を行おうとしていたこと︑さらには地域の もこの一部に加えられるだろう︒こ 33
︒ 34
加えて︑共に行政を行う地方官たちについても︑蘇軾は積極的な関係構築を図っていた︒知杭州着任時から︑地方官が着任・離任した際には挨拶を交換するのみならず︑前述のように積極的に交流の機会を設け︑共に外遊するなどしていた︒両浙提刑の楊傑︑王瑜︑馬や︑両浙運副の葉温叟︑その他路官や周囲の知県たちとも交友を結んでいた︒上司については︑水利工事の予定地を共同で実地検分し合意を作るなど
る︑地方統治の潤滑化を図ったものと思われ 35
補之・詠之兄弟や劉季孫など︑杭州の同僚や関係者を多く推挙していることも挙げられる ︒加えて︑晁 36
細な手紙を送っている 人と彼らの関係を築いたものと言える︒そして︑知杭州の後任となる林希とも交流し︑離任時には彼に救荒についての詳 ︒これは︑交友を通じ︑蘇軾個 37
を願う蘇軾の意図も含まれていたといえよう︒ ︒林希が﹁蘇公堤﹂の命名者であることを考えると︑そこには地方統治に対する自身の政策の継続 38
以上︑知杭州として蘇軾が施策を行った背景にある要素を整理した︒これらを併せて考えると︑蘇軾の知杭州の施策は︑彼自身にとって︑この杭州赴任が特別に重要であったという事情のもとで成立していた︒それは︑政治的に地方統治の名声が必要であったこと︑実際に当時の重要地域における飢饉という重大な問題が発生していたことに加え︑杭州とい
三四
う地域が蘇軾にとって重要な地域であったこと︑さらに地域の名族らとの交流を通して︑その地域に必要な施策を理解していたことが背景としてあった︒蘇軾は交遊を通じ︑深くその地域と結び付いた施策を展開したが︑それは地方統治を失敗させないという蘇軾の意識に基づくものでもあり︑またその地域に深く印象を与えるものともなった
の結果が︑大量の治績を残存させることに繋がったのである︒ 知杭州として治績をあげなければならず︑また杭州という﹁地域﹂のためにも充実した統治を行わねばならなかった︒そ ︒蘇軾にとって︑ 39
三. 「名地方官」と認められる過程 ─南宋期の評価から
蘇軾が﹁名地方官﹂になるべくしてなっていったことを述べたが︑実際に公認された﹁名地方官﹂にはどのようにして成ったのか︑南宋期の評価を対象に分析を行う︒
まず︑蘇軾に対する評価の変遷を考える
祐党籍 ︒知杭州の時期から党争にさらされていた蘇軾の評価は︑その後いわゆる﹁元 40
だ﹂により極めて否定的なものとなり︑祠廟碑額の破壊や文集の焚書絶版など地方にも影響が及ん 41
背後で蘇軾の書・詩が大流行しており ︒しかし︑その 42
交替期︑靖康年間に至って公式の名誉回復が行われ ︑士人階層内での蘇軾に対する好意的評価は伏流となって流れ続けていた︒南北宋 43
た︑幾人かの﹁小東坡﹂を出現させ 44
宋晩期の理宗期までに宋代を代表する﹁名臣﹂としての地位を確立している ︒その後断続的な追贈を経て︑南 45
生じていたことが窺える︒ 認のへ﹂官方地名た﹁れさ公を降︑以除解の﹂籍党祐元道歩と︑事がマンレジに価評で情のん別はに期宋南の︑のもだ﹁ る定えもに価評的治政れ︑ら加えが判批はに面側的想思限が軾名考を連関の﹂官方地と﹁加遷変のこた︒け続れらえの ︒一方で︑朱熹以降︑主に道学の見地から蘇 46
蘇軾の評価の変遷を考える上で︑その文集・詩集らの版刻流伝を考慮する必要がある︒蘇軾が在世の時点で︑既に詩集を中心に刊刻が開始されており︑﹁元祐党籍﹂の弾圧を乗り越える形で士人の間に浸透していた︒蘇軾自身は﹃東坡集﹄四○巻︑﹃後集﹄二○巻︑﹃奏議﹄一五巻︑﹃内制﹄一〇巻︑﹃外制﹄三巻︑﹃和陶詩﹄四巻という構想を持っていたが
こ︑ 47
「知杭州」蘇軾三五 れに南宋初期﹃応詔集﹄一〇巻が加えられて︑現行の﹁東坡七集﹂となったとされる︒南宋以降︑蘇軾の文章は科挙の模範となったこともあり︑さまざまな地域・形式で出版され︑人々の間に﹁家有眉山之書﹂となるまで浸透していた
とを推測できるのである︒ おり︑言い換えれば︑蘇軾の知杭州評価の基盤となった﹁奏議﹂が人々に浸透していった時期が︑南宋初期以降であるこ たことを示している︒この流伝過程は︑北宋期の詩を中心とした評価から︑南宋期に文章の評価が高まったことを示して 本としての影響は小さかったものの︑その文章の抜粋本が皇帝にまで進呈される事態は︑蘇軾の文章が十分な権威を持っ すべきは︑紹熙二年︵一一九一︶に光宗に進呈された﹃経進東坡文集事略﹄である︒この本自体は一般に刊刻されず︑版 ︒注目 48
次に︑杭州の人々にとっての蘇軾評価を考える︒蘇軾が常州にて死去した時︑杭州の人々は仏寺にて香を焚き供養を行ったという
に︒また︑蘇堤の傍らに祠を建て祀るというよう 49
した者として扱われるようになる 認識されていた︒南宋期に入り︑杭州に都が置かれたことで︑インフラの整備者から︑白居易らと並んで都の基礎を建設 ︑蘇軾は当地のインフラを整備した恩義ある統治者として 50
扱われるようになり︑追随する士人たちを生んだ ︒再建された祠をはじめ︑蘇堤や銭塘江など︑蘇軾の縁ある場が詩や文章の題材として 51
極的に補修するに至って︑政治的な意義をも持つようになる の晩期︑知臨安府や宰相・賈似道が︑文化の保護や首都の繁栄による名声を得ようとして蘇堤など蘇軾ゆかりの名跡を積 いは詩文を作り交流する人々︑さらには訪問する人々らが︑それぞれの文章に引用するような存在となった︒これは南宋 ︒南宋末期までには︑杭州において︑善政・改革を行った地方官︑ある 52
︒ 53
そして︑実際に杭州の名地方官として︑蘇軾が語られている事例を考えてみる︒前述したように︑蘇軾の治績は自身の上奏が基礎となっており︑それが墓誌銘・行状などを通じて史書に採録されたものがその中心となっている︒それらを除いたところで︑蘇軾の知杭州治績を語っているものについて分析を行った︒
蘇軾の知杭州治績は︑①救荒策︑②水利策︑③外交策︑④その他言及に分類される︒まず︑一見して気づくのが︑③外交策に対する言及の少なさである︒蘇軾の上奏及び史書の記載では外交︵対高麗︶に対する言及が一定程度あること
えると︑これは﹁外交﹂策が地域に直接結びつくものとして考えられづらい側面があったためと考えられる︒次に︑数と を考 54
三六
して多いのは①救荒策と②水利策であるが︑共に北宋期から言及が行われ︑南宋期の類書にもまんべんなく記載を得ていることが窺える︒特に︑②水利策としては︑その中心はやはり﹁蘇公堤﹂である︒さらに︑④その他分類には︑蘇軾の上奏からうかがえない﹁蘇軾が地域の豪強を処罰した﹂事例が一定数あり︑主に南宋期に言及されていることは興味深いものである︒蘇軾の﹁名地方官﹂評価が形成される過程で︑参照しやすい・評価しやすい事例として︑言及されるようになったのではないか︒
④その他言及に分類したなかで︑特定の事象・事件に言及するのではなく︑純粋に蘇軾の評価を扱っている物がある︒その中で特に注目すべきは︑杭州の﹁三賢堂﹂についての言及である︒孤山竹閣にはもともと白楽天・林和靖・蘇東坡の三像が有った︒後に廃れた︒乾道五年︑周安撫淙が水仙王廟の東廡に祀った︒嘉定十五年︑袁安撫韶が朝廷に願い出て言うには﹁臣がひそかに考えますに︑本府の三賢堂はまことに尊ばれるべき名勝の所です︒図経から来歴を考えますと︑この堂はしばしば移転してきました︒始めは孤山広化寺に白公竹閣が有り︑遺跡としてちなんで白公を祀っておりました︒後の人がそこに東坡と和靖を加えたものです︒南渡の後︑孤山に延祥観を開創したので広化寺を北山路口に移転させましたが︑竹閣だけを移転して堂はそのまま廃れてしまいました︒乾道五年︑知府事周淙が普安寺側の水仙王廟の東廡に堂を再建しました︒これは東坡の詩にある︑︵林和靖を︶水仙王に配食するの意を取ったものです︒⁝
55
この後︑袁韶はその位置が祀るのに不適当だとして批判し再度移転を願っているが︑この文からは蘇軾を地方官として最初に祀ったのが周淙であることが窺える︒﹃乾道臨安志﹄の編者でもある周淙の時期は︑杭州が首都・臨安として落ち着きを見せ始める時期であり︑過去の杭州の歴史を把握する目的で﹃乾道臨安志﹄が編まれた時期でもあった︒同じ時期が︑蘇軾が科挙参考書の花形として人口に膾炙しはじめる時期でもあり
及が表れる ︑同時期に蘇軾を宋代の代表的名地方官とする言 56
ることを考えると︑この周淙の﹁三賢堂﹂重建は︑知杭州蘇軾の評価を確立するものであった可能性があ 57
︒ 58
以上︑南宋における蘇軾﹁知杭州﹂評価の過程を検討した︒まとめて言えば︑南宋以降︑蘇軾はその関心の増大と並行して︑杭州の﹁名地方官﹂としての地位を︑臨安となった杭州にて確立した︒しかし︑道学の批判などもあり︑蘇軾自身
「知杭州」蘇軾三七 の評価が揺らいでいたこと︑杭州が南宋の都臨安であり︑皇帝の権威を押しのけるわけにはいかなかったこともあり︑蘇軾が﹁杭州と一体化した状態﹂にはまだ至っていない︒
四.文の代表から「知杭州」へ ─明代の評価
南宋の時点で﹁名地方官﹂として確立された蘇軾が︑杭州において定着する過程を︑明の蘇軾評価の動向と併せて考える︒
元朝の漢文化放任政策のもと︑蘇軾の南宋期の評価は明にそのまま持ち越しとなった
るみ定的な文脈での語どられることにな限なも策たように朱熹認める行政的施し する﹁漢族王朝の復興﹂イデオロギーの都合︑朱子学を国の学問と定めた︒結果︑蘇軾の政治及び主張は批判され︑前述 ︒その明においては︑元朝に対抗 59
派いは︑主に﹁詩人﹂の側面から強称軾賛が寄せられた︒それは︑﹁唐宋に蘇代てしと在存るす表を面化の ﹁う倣一で︑方きべの漢族王朝﹂の宋文 60
化の広がりによって︑多くの人々の共有する概念となった 唐宋期の詩作と詩人を尊びその方法に倣う人々を中心に︑次第に勢いを増し︑明代後期に入って経済発展と印刷・大衆文 ﹂と言われる 61
活し ︒南宋期の﹁科挙受験文の花形﹂としての地位もこのころに復 62
る︑何らかの形で蘇軾の詩文と人々が関わる﹁誰でも知る文人﹂としての地位を確定させることにな 63
関する多くの本が出版され︑人々に宋を代表する文人としての側面を印象づけることになるのである ︒蘇軾の詩文に 64
︒ 65
一方︑明代における杭州の地位を考えると︑元〜明初期の度重なる動乱により荒廃していた杭州は︑明後期の経済発展のもと︑江南の有数の経済都市として再び繁栄の糸口を得ることになった︒その時︑杭州という街に影響を与えたのは︑かつて南宋の首都・臨安であったことによる文化的遺産とそれを何らかの形︵文章︑詩作︑観光⁝︶で求める人々であり︑﹁歴史都市﹂として人々を吸引していった
文字通り引き付けていった ﹁旅行﹂の普及・浸透により︑杭州は多くの人々を︒特に︑明代後期以降︑ 66
︒ 67
これらの下で︑蘇軾の﹁知杭州﹂治績もまた︑人々に認知されていくことになる︒杭州に旅行してきた人々が参照する
三八
ガイドブック︵旅行案内︑名勝志︑地方志⁝︶には︑蘇軾の詩跡・名所として︑蘇堤などの﹁治跡﹂も記載される
る再験を詩・文により生の産して人々に伝え体そ的はれらを訪れ︑歴史なが事柄に触れ︑或いそ ︒人々 68
る州﹂治績が広まり︑杭州の﹁名地方官﹂として人々に認知されていくのであ ことで︑蘇軾の﹁知杭 69
︒ 70
しかし︑まだ明代の時点では︑蘇軾はあくまで﹁偉大なる文人﹂であり︑杭州を代表する﹁名地方官﹂としての立場には至らなかった︒それを暗に示しているのが︑南宋の時にその創建・重建の話題を述べた﹁三賢祠﹂の明代における成り行きである︒明の正徳三年︑郡守の楊孟瑛が西湖を重ねて浚渫した際に︑﹁四賢祠﹂を建てて李鄴侯と白蘇林の三人を祀った︒その後︑杭人は楊公本人も追加し︑﹁五賢﹂と称した︒さらにその後︑楊公を移して新たに周公維新と王公弇州を増祀し︑﹁六賢祠﹂と称した︒張公亮が言うには︑﹁湖上の祠は宜しくその地に久しくとどまって︑風流明美とともにあるべきである︒山水と深く契りを為した者がそこに列せられるべきであり︑周公は厳めし過ぎでしかも別の祠で祀られている︒弇州は文人であり湖とそれほど長く結びついていない︒今︑他の四人と並べるのは︑落ち着きがないのではないか﹂と︒人々はその道理ある議論に納得したのである
︒ 71
う︒ 受けたり︑度重なる再建により景勝地に移されたことも︑ますます﹁知杭州﹂としての存在感を薄めるものとなっただろ の後︑より一層の追加︵しかも張亮の議論のように︑杭州の城隍神である周維新と︑杭州に縁の薄い﹁文人﹂王世貞︶を てきた存在を祀っていたところにさらに追加したことで︑ひとりずつの存在感を薄める結果になったと言える︒さらにそ で著名な李泌を足すことで﹁四賢祠﹂としたことである︒これは︑白居易・林逋・蘇軾という長年にわたり地元に根付い という側面と︑自らの造堤工事のルーツ的アピールの二つの側面をもっていたが︑特徴的なのは︑祠に唐の﹁七井﹂開発 西側に新たな堤︵後に﹁楊公堤﹂と呼ばれる︶を造営した楊孟瑛の再建であった︒楊孟瑛の祠の再建は︑先賢崇拝の復興 ﹁またその一大転機となっのたは︑蘇堤の初明は︑﹂祠賢が︑いでたの動乱のなかでたびびて荒廃と再建を繰三返しり 以上をまとめると︑明代において︑蘇軾は﹁偉大な宋代の文人﹂として人々の常識のうちに認識され︑その﹁文﹂を
「知杭州」蘇軾三九 手がかりに︑﹁知杭州﹂としての治績も徐々に知られるようになった︒しかしながら︑﹁文人﹂として認識されることで︑却って杭州の名地方官としては認知されない状態であった︒
五.王朝が蘇軾を押し立てる ─清代崇拝の成立
明朝を﹁制圧﹂して前近代最後の王朝を開いたのは︑満洲族の王朝・清朝であった︒漢族と比べて小規模な民族集団である満洲族が漢族に対して優位性を得るために︑これまでの非漢族系王朝の歴史を鑑みた清朝は︑文化からその支配を浸透させる﹁文化統治﹂を試みた
たる・秩序を乱す文化を厳格に弾圧し 持できなくなったためであり︑それらを清朝は打倒して秩序を再構築するものである︑と自らを位置付け︑清朝に反抗す ︒即ち︑清朝が天命を得たのは︑明朝の社会・文化が腐敗して正しい秩序︵﹁風俗﹂︶を維 72
た尊っとを度態るす重てしと﹂想理きべす ︒その一方で︑漢族の﹁腐敗する前の偉大な文化﹂について︑それを推奨し﹁回帰 73
たて蘇軾の楷書手巻を臨書した一軸を賜っ 進上された詩文をみずから訳読し︑また漢文について論じた︒また喇沙里に漢字を書いて呈出するよう命じ︑御筆に をろ︑ことたし呈進詩文懋たっ作がちた﹁殿勤命は上皇た︒けうをの林と﹂よせ上進てに官翰が学の日︑こ士喇沙里 ﹁漢族の偉大な文化の体現者﹂として︑皇帝自身が尊敬を示すものであった︒ついては︑ の﹁文化統治﹂のなかで推奨をうけるものになった︒特に︑明朝末期に絶大な人気を獲得していた﹁偉大な文人﹂蘇軾に の﹂宋の﹁前︒こ﹂明﹁果︑結の女は︑の真・金朝がらみ部分を除いて︑清朝 74
︒ 75
康熙帝は︑漢族に南面する皇帝として︑漢人官僚から学問の講義を受けていた
領域と同じく文化も清朝皇帝の﹁所有物﹂なのである︒ 対する尊重︑特に蘇軾に対する重要視を示すと同時に︑それを理解し﹁皇帝として﹂所有する態度を表している︒漢族の に︑蘇軾の文章と書画について学び︑蘇軾の書体で書いた書を臣下に配るなどしていた︒これは︑清朝皇帝の漢族文化に で期早くごはかが︑なるれ現に注居起 76
このような清朝の﹁文化統治﹂下における杭州の位置づけを考えてみる︒杭州は﹁歴史都市﹂として人々が訪れる都市
四〇
であったが︑明清交替期の時には一時南明政権の拠点となったこともあり︑明朝崩壊後﹁漢族江南文化の象徴﹂と目されるようになった
たとって誇らしい﹁漢族の歴史と伝統﹂の溢れる土地であっ れ漢族主義者﹂の隠住遺む場となり︑彼らに臣・朝︒付多くの文人を引きけ明る環境は︑ともすれば﹁ 77
将軍と八旗の駐屯する拠点都市として軍事的なにらみを利かせ ︒このような危険な要素を持つ杭州に対し︑清朝はまず満洲 78
情況を細かく報告させ ︑さらに浙江巡撫や杭州織造らを通じて杭州の治安・社会 79
た権アピールするど︑﹁な威試いのみてを﹂立樹 旧跡に自らの足跡を残すことでそれらを﹁清朝の所有﹂へと切り替え︑或いは在地の著名士人と対話して自らの﹁文﹂を を所・名はい或れ︑訪州︑に繊細な注意を施していた︒さらは︑杭康熙帝や乾隆帝は︑南巡の際に 80
る﹁面倒な江南士人をよく治めた﹂ことで褒めていることからもうかがえる浙江総督の李衛に対し︑ 正あで者任責治統の州杭が︑帝雍︒巡その成果は︑南にたは行かなかっ 81
︒ 82
これらの情況の下︑蘇軾の﹁知杭州﹂は︑それまでとは違った扱われ方をされるようになる︒即ち︑﹁文人﹂としてのみならず︑﹁倣うべき行政者﹂として︑政府が﹁蘇軾﹂の尊崇を公的に行い始めたのである︒まず︑府治の中に﹁蘇白堂﹂が設置され︑杭州の偉大な前任者として白居易と蘇軾が役所のなかで祀られるようになる
復︵あるいは﹁創造﹂︶され︑﹁知杭州﹂としての蘇軾がアピールされていく ︒さらに︑蘇軾の﹁治跡﹂が修 83
祠に詣でる・治跡を訪ねることで︑蘇軾を尊崇する活動を行っていくのである ︒そして︑行政を行う地方官たちは︑蘇軾の 84
べき結び付きであろう 所にだいたい康熙帝の御碑などの足跡があるため︑同時に清朝皇帝への尊崇活動を兼ねる側面も持っていることは注意す ︒特に︑この蘇軾尊崇活動の場合︑同じ場 85
︒ 86
以上をまとめると︑清朝は﹁文化統治﹂の一環として︑蘇軾の尊崇を進め︑それは杭州における﹁知杭州﹂蘇軾の尊崇運動にまで至った︒この清朝の公的な﹁知杭州﹂蘇軾の打ち出しが︑現在に繋がる﹁杭州を代表する蘇軾﹂へと結び付いたのではないか︒
「知杭州」蘇軾四一
おわりに
蘇軾は杭州からの離任に際し︑﹁予去杭十六年而復来︑留二年而去︒平生自覺出處老少麤似樂天︑雖才名相遠︑而安分寡求︑亦庶幾焉︒︵私は杭州を去ってから一六年してまた来て︑二年間滞在してまた去ることになった︒普段から自覚はしていたが︑私の出処進退は概して白楽天と似ており︑才能名声は到底及ばないものの︑分に安んじ欲の少ない点は近いかもしれない︶﹂という︑長い注釈の付いた題名の詩を読んでいる
とすれば︑杭州の地方官として同じように名声を持ちたい︑という願望も暗に示されてはいないだろうか︒ 白居易が何をしたのかは︑西湖にある碑刻や地域に伝承された内容で蘇軾は熟知しているはずであり︑そこであこがれる い挙を績治たっとた﹁荒救設︑建の﹂げ地名とる︒あに提前がこ白たっあで﹂官方堤と﹁し赴て杭州渫に任し︑西湖の浚 心となっているが︑一方で白居易をここに引いたのは︑白居易と自らの出処進退が似ている︑つまり白居易も杭州刺史と 敢えてこの老いぼれを前賢と比べられようか﹂と詠んでいる︒白楽天︵居易︶の隠棲生活に対するあこがれがこの詩の中 が退進も﹁︒で中の詩然偶い白楽天と似たとっても 87
今回は︑蘇軾の知杭州としての治績が︑その成立時にどのような背景をもって生まれ︑その後どのような過程を辿ったのかについて分析を行った︒その結果︑他の知杭州とは異なり︑蘇軾は自らの治績を積極的に記載のなかに残していたこと︑また地方統治の際に地域に積極的に結び付いていたことを明らかにした︒さらに︑南宋期における﹁一代文章之宗﹂としての評価︑或いは杭州が首都・臨安となったことが︑その名地方官像の確立に寄与したこと︑明代に下り︑﹁偉大な文人﹂としての評価が﹁知杭州﹂治績を人々に認識させたこと︑清代にはその﹁偉大な文化の体現者﹂蘇軾を﹁文化統治﹂の一環として利用するために︑官の側からの﹁知杭州﹂蘇軾の崇拝活動が行われたこと︑を述べた︒
蘇軾の﹁知杭州﹂はあくまで大文人の一側面であり︑蘇軾に関する膨大な言及のなかでは微々たるものに過ぎない︒しかしその形成だけを取り出してみると︑文人の評価が現実の地域に流れ込んで﹁発見﹂され︑それを政府が自らの目的にて掬い上げるという展開がうかがえる︒それは偉大な﹁文﹂のシンボルを巡る︑文化と政治の引合といえるものではないだろうか︒
四二 蘇軾と杭州の関わりについて改めて考えてみる︒蘇軾は官僚としてその地方官の仕事を全うしたが︑一方で杭州地域にとってもその利益となる︑統治と地域の有効な妥協点を設定できる人物であった︒地域はその離任後も︑﹁蘇公堤﹂の名付けにみられるように︑蘇軾のイメージを取り込むことで︑地域にとってその存在を有効活用できるものとしていった︒それは言い換えれば︑蘇軾というイメージによって地域自体の特徴を形成しているとも言えるのである︒このような﹁地方官が地域の象徴となる﹂という事態はどのような状況で成立するのか︑さらに今後検討を重ねたい︒
最後に︑清末の興味深い一事例を付け加えて︑今後の議論の助けとしたい︒我が朝は康熙・乾隆の両朝にて︑普く天下の銭糧を八度も免じ︑普く天下の漕糧を四度も免じた︒嘉慶朝ではまた普く天下の漕糧を一度免じており︑大水・旱魃に至っては︑減免を行わない歳はないほどで︑動もすれば数百万もの﹁損上益下﹂を生み︑合計するならば既に京・垓以上の額に達するだろう︒これこそ寛民仁政の二である︒歴代の史伝に見える救済活動は数あれど︑あるいは物資を発掘し︑或いは移民させ食わせるといった限りあるものである︒⁝杭州の災害において︑蘇軾は僅かに度牒数百道を申請し︵て救済の原資とし︶たが︑本朝は凡そ災荒に遭えば仁恩が立ちどころに施され︑それは鉅萬に達することもある
︒ 88
以上は︑清末の高官であった張之洞が著した訓戒書の一節だが︑蘇軾の高く評価されてきた﹁飢饉救済﹂が︑清朝のそれと比べて程度の低いものとして切り捨てられている︒清朝という王朝自体が危機に瀕し始めた時期︑比較によりその﹁恩恵﹂を大きく見せる必要があったのが大きな理由であるが︑一方では︑蘇軾に代表されるような﹁名地方官﹂を語ることの役割が︑近代の到来の下でその意味を薄れさせていく姿を表したものともいえるだろう︒
[注]︵1︶本稿は︑第一九四回宋代史談話会︵於大阪市立大学︑二〇一七年三月四日︶にて報告した内容を改稿したものである︒主催の平田茂樹先生をはじめ︑コメントをいただいた小林隆 道・周佳・小野達哉の各氏に改めて感謝申し上げる次第である︒︵2︶拙稿﹁﹁名臣﹂から﹁名地方官﹂へ│范仲淹の知杭州治績に見る﹁名地方官像﹂の形成﹂︵﹃早稲田大学大学院文学研究科
「知杭州」蘇軾四三 紀要﹄第四分冊五三輯︑二〇〇八︶︑﹁北宋初期の地方統治と治績記述の形成│知杭州戚綸・胡則を例に﹂︵﹃史観﹄一六五冊︑二〇一一︶︒﹁名地方官﹂像とは︑治績の伝播などを通して︑広く人々に共有された﹁善政を行う地方官﹂のイメージである︒︵3︶宋代の﹁名地方官﹂像を考える上で鍵となるのが神宗・哲宗期にかけての新旧党争期であり︑この時期に人物評価の価値観変動や政策議論と相まって︑多くの治績記載が形成されている︒ただ︑それが﹁名地方官﹂像として確定するのは南宋後期に至ってからである︒前掲拙稿﹁﹁名臣﹂から﹁名地方官﹂へ﹂参照︒︵4︶張其昀﹁東坡先生在杭事迹﹂︵宋史座談會編﹃宋史研究集﹄二輯︑台北国立編訳館中華叢書編審委員会︑一九六四︶︑近藤一成﹁知杭州蘇軾の治績│宋代文人官僚政策考﹂︵同﹃宋代中国科挙社会の研究﹄︑汲古書院︑二〇〇九︶︒ここで引用した﹁文人官僚﹂は︑近藤氏の使用したタームである︒近年では山崎覚士﹁蘇軾の政治課題とその対策から見た北宋杭州﹂︵﹃唐宋変革研究通訊﹄五号︑二〇一四︶︑周暁音﹃蘇軾両浙西路仕游研究﹄︵杭州浙江工商大学出版社︑二〇一七︶がある︒なお︑基礎的な情報を得るために︑孔凡禮﹃蘇軾年譜﹄︵北京中華書局︑一九九八︶及び張士烈等編﹃蘇軾全集校注﹄︵石家荘河北人民出版社︑二〇一〇︶を適宜参照している︒︵5︶なお︑実際の着任・離任まで︑開封│杭州間の移動にそれぞれ四カ月がかかっている︒︵6︶本節の内容は︑前掲近藤論文に大きく拠っている︒ ︵7︶﹃咸淳臨安志﹄巻四六﹁秩官 古今郡守表 國朝 蘇軾﹂︒﹁眉州人︒自翰林學士乞郡︑三月丁亥得旨以龍圖閣學士知︒軾熙寧四年通判杭州後十六年為守︒歳適水潦︑饑疫相仍︑為請於朝︑得減上供米三之一︑故穀不翔踴︒復以所賜度牒益市粟濟飢殍︑明年賤糶常平米︑又作糜粥遺人︑命醫官分治疾病︑賴以全活者甚衆︒開西湖︑疏茅山鹽橋河︑修治堰閘︑濬城中六井︒與民興利除害講究甚悉︒邵人徳之︑為生立祠︒按公在郡便民事蹟最多︑已各見本門︑茲不詳著︒﹂なお︑最後の評価の部分を除き︑ほぼ先行する﹃乾道臨安志﹄と同じ文であり︑さらにその淵源をたどると︑﹃続資治通鑑長編﹄巻四三五﹁哲宗 元祐四年十一月丁丑﹂に見える蘇軾自身の上奏文に至る︒︵8︶例えば︑﹃続資治通鑑長編﹄巻四○一﹁哲宗 元祐二年八月辛巳﹂の賈易の上奏を参照︒︵9︶﹃続資治通鑑長編﹄巻四二四﹁哲宗 元祐四年三月乙酉﹂の蘇軾の上奏を参照︒︵
︵ られる蘇軾の上奏︵小注には七月戊寅のものとある︶を参照︒ 10資元﹃みに﹂月一十年五祐続治宗︶一﹁五四巻﹄編長鑑通哲
︵ ﹃宋代史研究﹄︑東洋文庫︑一九六九︶を参照︒ 11吉長周藤同﹂︵立成の﹄編鑑之﹁通︶資続と﹃燾李の宋南治
︵ を示す文章を残している︒ 12燾で李愛敬し対に軾蘇り︑あ︶は︶眉身︵出の郷同と軾蘇山
︵ を参照︒ 13資元﹃﹂戌丙月正春年六祐続治宗︶四﹁五四巻﹄編長鑑通哲 蘇軾の﹁自劾﹂を参照︒ 14続﹃の﹂辰壬月八年六祐元宗資哲︶六四巻﹄編長鑑通治三﹁
四四
︵
︵ ろう︒ 賛には蘇軾治績も手放しの称のにとなだる言え例いないてっ て掲いたという伝説がが︑載されている北宋期示し暗を脚失 す堤の﹁堤﹂が﹁低﹂に音通公る蘇とが︑その後の蘇軾のこ 15は︑蘇朱彧﹃萍州可談﹄巻一﹁子に瞻責黄州⁝﹂で始まる文︶
︵ ﹂生祠以報︒ 畫於其人家有飲像︑有食必祝︑又作德州︑﹁莅再間年十三公此 16亡兄子瞻端明墓誌銘﹂︒﹁墓誌銘後集巻二二﹃欒城集﹄蘇轍︶
︵ した上奏に見て取れる︒ を蘇軾離直後に蘇轍が朱光庭任飢理饉劾に由弾を対不の策備 宗哲四﹁巻五四﹄祐編元戌六年春正月丙﹂にある︑鑑長通 を争治四︶参照︒地方の績が政業に性資続影は︑﹃能可るす響 的軾性質和特徴﹂︵同﹃蘇九論稿﹄︑台北萬巻楼︑一九門﹂ 17﹁蘇前掲近藤論文及び王水照﹁﹁洛党﹂との関係については︑︶
︵ 上奏を参照︒ 奏︑月癸卯﹂の趙君錫の上ま夏た注一七前掲の蘇轍の四年四 18 通蘇軾着任直後の﹃続資治︶鑑編﹄巻四二五﹁哲宗元祐長
︵ この﹁蘇軾アピール説﹂が述べられている︒ のには︑蘇軾に糾弾され叔父た葉るで︑温合味意いす護擁を叟 照︒できる︒前掲近藤論文参話ま葉夢得﹃避暑録﹄巻下た︑ うの事情をがかがうことたりあ行こっていのるとからも︑こ ア績業のら自りあで示ーピいルに過ぎな大として糾弾を表 19誇の﹁洛党﹂関係者が︑蘇軾救が︑荒をめぐる上奏文の内容︶
て︑そ編まれ流通していた︒し集後述するように︑知杭州が 20らに軾の文章のうち︑詩文︶つ文いては既に彼の在官中か蘇 ︵ のである︒前掲﹃蘇軾全集校注﹄の﹁前言﹂を参照︒ 期浚るれら見が詩るわ関に開詩湖西や荒救たっ行の彼はにの
︵ かったためであった︒ 援であり必要な援助と必要な不助きなのてしりいっはが別区 中順不がスンポスレの央は︑も度たっなにめはう行を奏上の 21前掲近藤論よ文が指摘する︶うに︑この時の蘇が苦闘し何軾
︵ 22︶前掲近藤論文を参照︒
︵ 祐四年十一月丁丑﹂の上奏を参照︒ 奏︑開浚に関する蘇軾の上たま西前掲巻四三五﹁哲宗元湖 23 ︶四﹃続資治通鑑長編﹄巻二﹁四﹂哲宗元祐五年五月壬辰の
︵ 学︑二〇一〇︶を参照︒ 同﹃覚士﹁港湾都市︑杭州﹂︵国中山五代国家論﹄︑仏教大崎 24 ︶祐前掲巻四三五﹁哲宗元四及年十一月丁丑﹂の上奏︑び
︵ 巻一号︑一九八二︶を参照︒ 25沙﹂︵竺一四﹄究研史洋東﹃て雅い︶に居寄の僚官代宋章﹁つ
︵ 究│宋代士大夫詩人の構造﹄︑研文出版︑二〇一〇︶を参照︒ 26精太内山研詩軾蘇同﹃﹂︵守と也﹁客︶│代時州杭の軾蘇騒
︵ などを参照︒ 27藤列前﹂蟠楊掲苑文近伝二﹁論四︶巻﹄史宋た﹃ま文︑四
︵ 少師錢公墓誌銘﹂を参照︒ 28 故李贈士學直閣圖龍復追綱﹃梁︶誌墓七﹁六一巻﹄集溪宋
︵ た︒ やっあで間仲流交の文詩りはで︑子の道安銭は然自照︒参を 29︶﹁乞樁管錢氏地利房錢修表忠觀及墳廟狀﹂巻五九﹃東坡全集﹄
30に期初宋北掲﹁前は︑ていつ力︶響影るす対に州杭の氏銭の
「知杭州」蘇軾四五 地方統治と治績記述の形成﹂を参照︒︵
︵ 沈遼﹂を参照︒史﹄巻三三一﹁列伝 僧・沈遼の友人であったと謙師に交流している︒﹃宋も︑時任 31もともと蘇軾は通判時代に︶遼と交流しており︑知杭州赴沈
︵ ﹃元祐補録﹄の記載を参照︒銍された王 年長編﹄巻三百一﹁神宗豐二元十の二引に注補用条申庚月﹂ る︒たとされ資﹃續治通鑑なっによるす蔑軽を格人の括沈てう 蘇軾は却っが︑自分の再度の取り立てを願って蘇軾を歓待し︑ 32この面会贈で︑かつて蘇軾の︶った詩を弾劾材料した沈括に
︵ 姿がうかがえる︒ な前任者あった沈遘の強圧的で管さ理るいれて比対が軾蘇と 後法集巻二四﹁天竺海月は︑師塔碑﹂から知杭州の集﹄城欒﹃ 二察﹂︵﹃社会文化史学﹄考一一一九八五︶を参照︒蘇轍号︑ 33る重前掲近藤論文︑また石川雄﹁す宋代杭州上天竺寺に関︶
︵ なるだろう︒ っ配食といった行為を行て神いることも︑この傍証と像の逋 34その他︑在任中に伍子胥廟︶や仙王廟の修復︑後者への林水
︵ 首﹂を参照︒ 同與葉淳老侯敦夫張秉道相三視新河︑秉道有詩次韻二三﹁巻 35度﹃東坡全集﹄巻五八﹁乞相︶﹄石門河狀﹂及び﹃東坡詩集開
︵ も十分な成果を得られなかった︒前掲近藤論文を参照︒ ﹂︶葉温叟分擘度牒不公狀に六﹁も見えるように︑必ずし論五 36弾ただし︑葉温叟を蘇軾が糾︶巻ていること︵﹃東坡全集﹄し
巻九﹁擢用劉季孫状﹂︑同書巻乞八﹁擢用程遵彦状﹂などを乞 37 ﹄﹃宋史﹄巻四四四﹁列伝文︶苑晁補之﹂︑また﹃東坡奏議 ︵ 参照︒
︵ 38︶朱熹﹃晦庵集﹄巻八二﹁跋東坡與林子中帖﹂の付注を参照︒
︵ て印象深いものであったことを示している︒ 宋初期の老僧による蘇軾の思い出の回想は︑地域の人々にとっ 39溪﹂費袞﹃梁南る︑れらみに事漫官了︶西坡東四﹁巻﹄志湖
︵ れているように思われる︒ る蘇軾を取り上げて評してい価とジ表こマンレがの後︑にろ述 し︒るいてれ示を流ののそ唆朱言熹は録行﹄に臣名朝五︑﹃が 州スケのは婺︑る程過ーワークのに価軾蘇評南宋︑いなら留ま 朱問題と結び付き︑け熹の批判を受るに至応挙に主が価評︶た 答に心中を祖謙応の軾呂と蘇︑︵といてっな形花の書参考挙科 ersi9819ess, ty prnivn UetoPrinc論の議でがあ非熹︒る朱効有に常 Wibruzhou, The East Asian L, Pary Journal 8, no. 2rinceton: NJ, Song 40rn , RePetthe K. Boleradinu Shi in Soug S題この問てについは︑︶
︵ る︒ ま否定的価が知杭州の業績に評でを及いて示しとこるいでん 宗壬元符元年夏四月上辰﹂の蔡蹈の奏は︑その七﹁徽九四 中科挙社会の研究﹄︶を参照︒また︑﹃続資治通鑑長編﹄巻国 41代宋近藤一成﹁西園雅集考│代宋文人伝説の誕生﹂︵前掲﹃︶
︵ 展﹂︵﹃東呉中文学報﹄一九期︑二〇一〇︶を参照︒ 42近争前掲発其及禁学軾蘇看党藤祐︶従雲﹁美涂たま文︑論元
︵ 43︶前掲近藤論文を参照︒
記たあるが具体的な容が見当内ら名な復回誉のな体具い︒的 は間の追復に各地記載は康年靖のな照︒参を目項お︑﹂術學 44 ﹄巻要﹃備年編朝九六﹁二︶徽宗皇帝宣和年七月禁元祐五
四六
事は︑﹃建炎以來繫年要録﹄巻一五﹁建炎二年五月乙未﹂に見える︒︵
︵ 祖﹂を参照︒ 45﹄巻﹃光劉宋伝列七﹁九三び巻及﹂︶趙史伝列一﹁八三逵
︵ 咸淳元年九月壬子﹂を参照︒度宗︑巻四六﹁本紀丁酉﹂ 正本月丁亥﹂︑巻四二﹁紀年月理宗二年端平二二九乾道﹁ 46 ﹂び﹃宋史﹄巻三四﹁本紀孝辰宗二及乾道三年九月壬︶
︵ 47︶注一六前掲﹁亡兄子瞻端明墓誌銘﹂を参照︒
︵ 48︶注二〇前掲﹁前言﹂を参照︒
︵ 軾卒﹂を参照︒ 49編建﹃蘇九月七年元國靖中朝年帝︶宗徽六﹁二巻﹄要備皇
︵ 参照︒ 50﹄諸﹃を﹂湖西安臨宋下水南巻東渠河史志渠河七﹁九七︶
︵ 照︒ 51安西﹃参を﹂堂賢三咸湖淳志湖臨︶十川山二﹁三巻﹄二
︵ 参照︒ 52安西﹃をどな﹂堤蘇咸湖淳志湖臨︶十川山二﹁三巻﹄二
︵ 53︶注五二と同じ︒
︵ を参照︒ 54 掲績前﹂策麗高対のそ下治近︶軾蘇州杭知の﹁中文論藤の
跡閣︑祀而孤山廣化寺白公竹有因以靖其坡東和人後公︒白遺 名見本府三賢堂實為尊禮始勝之所︒攷之圖經更非一︒其竊易 嘉東十安撫淙即水仙王廟之定廡焉︒朝︑於請韶撫安袁年五祠 舊樂白有﹁閣︑竹山孤林天像︑和靖蘇東坡三後廢︒乾道五周年 55 ︶︒三賢堂﹂湖上﹁山川十一巻三十二﹃咸淳臨安志﹄潜説友 ︵ 廟之東廡︑葢取東坡詩配食水仙王之意︒⁝﹂ 堂周存︒而閣乾道五年知府事乃淙不重建於普安寺側水仙王廢 焉︒南觀︑渡之後就孤山剏延祥遷竹廣化於北山路口︑附移僅
︵ 56Peter K. Bol︶前掲論文を参照︒
︵ 尊德性齋小集序﹂を参照︒る︒周必大﹃文忠集﹄巻五四﹁序 必の学を行ているとして︑周っ大慨はいて嘆しを化変の代時 ら頤れる︒この程洵は程わの一族にも関らず蘇軾挙げが四﹂ い性意見として︑程洵﹃尊德集齋小﹄巻二﹁代作上殿箚子る 57て蘇南宋初期において︑既に軾しを宋代の地方官の代表と︶
︵ 軾評価の変化が表れているのではないか︒ のていることである︒の名前こ表の記ので間蘇宋に︑差の南 文し載掲をはじ同のい咸た﹃﹂淳東っ臨と坡なは﹁で﹄志安 と深味興が︑るいてれか書﹂る︒蘇は﹁軾蘇で︑所箇のそ軾 は一たった外で以﹂守所︑箇﹂﹁十三間樓は﹁の部分に留ま牧 58及佚﹃乾道臨安志﹄は︑その失言もあって︑蘇軾の治績への︶
︵ ︵﹃橄欖﹄一四号︑二〇〇七︶を参照︒経学と金代蘇学﹂ との支持を得ていたこあが士る︒高橋幸吉﹁王若虚の人のく 59評価の背景には︑華北の金︶朝も蘇軾の詩文が流行し︑多で
︵ 利政策を並列しているのは︑賞賛の分割を感じさせる︒ 制が︑同じ項目の中に川安撫四置に水使・けおる山眉の璆李 利るいてれさ載掲が策政水四巻西の軾蘇は︑に﹂道臣十﹁湖 60例えば︑宣宗けの臣下に向︶た御製教訓書でる﹃五倫書﹄あ 二は︑照︒﹁唐宋派﹂参嘉年間︵一五二靖 図表﹄︵桃園聖環九書︑一九七︶を動年活文派宋唐信﹃美学 61宋究研派毅﹃唐代明上黄﹄︵︶海古籍版社︑二〇〇八︶︑馬出
−六六︶前後に︑王
「知杭州」蘇軾四七 慎中・唐順之・茅坤・帰有光らが中心となって行った﹁文芸復興運動﹂であり︑明代の文壇のみならず士人階層の文体志向︑歴史認識にまで影響を与えた︒彼らの活動の影響の一端が︑宋の歴史の再編纂である︒呉漫﹃明代宋史学研究﹄︵北京人民出版社︑二〇一二︶を参照︒︵
︵ た﹂状況が発生した︒ たのなかで︑明末において作家﹁ちモはしとデルを体文の軾蘇 く嘉唐宋派の活躍する増靖年間以降急する︒そさしまは︑本 成巴蜀書社︑一九八八︶を照︒参明代における蘇軾の版都 62﹄︑本劉向栄﹁明代蘇軾文集選考叢述﹂︵同﹃蘇軾著作版本論︶
︵ のことを﹁宇宙第一文字﹂と絶賛している︒ たであなお︑この評点を施しる︒呉な偉軾でか蘇の文序は業 っ公た張溥が評点本﹃蘇長ん文集﹄を編でいることを誇力響 体するのが︑明末の﹁復社﹂の創設者であり政界にまで影現 63を集前掲劉向栄﹁明代蘇軾文選況本考述﹂を参照︒この状︶
︵ ︶が多く記載される︒湖水利︵特に﹁架田﹂ 限れる︒﹁知杭州﹂治績にてっめ言えば︑主に荒政と西ら広れ 64類書のなかに︑知杭州を含め︶様々な蘇軾の事績が記載さた
︵ 照︒ 栄﹁書も多く表れた︒前掲劉向籍明蘇軾文集選本考述﹂参代 物感相類籍︑は﹃にらさ﹄志前など︑蘇軾の名に偽託する書 な的﹄﹃﹄﹃坡禅喜集書東坡養生集東﹃坡酒経﹄などの趣味類東 65沿一方で︑﹁東坡﹂の流行に︶って︑﹃蘇沈医方﹄﹃東坡志林﹄
志二旅遊文化﹂︵﹃新史学﹄四杭巻四期︑二〇一三︶︑同﹁地州 66︶│馬孟晶﹁名勝志或旅遊書明︽程西湖游覧志︾的出版歴與 ︵ う︒ 名のも︑勝を強調し文旅行者人・便れいをとた表がのもる図 きに︑けかっ游を﹄志覧州杭地方とその周辺の官刻のに志湖 西﹃九人民文学出版社︑二〇︶と︑を参照︒馬孟晶氏による一 ︑胡海義﹃明末清初西湖小説研究﹄︵北京二二期︑二〇一四︶ 游刊︽西湖合志︾與晩明杭州的刻名勝志﹂︵﹃明代研究﹄與紀
︵ 究所︑一九九六︶などを参照︒ 文子編﹃明末清初の社会と化野﹄︑京都大学人文科学研和小︵ 67前掲馬孟晶﹁名勝志或旅遊︶書谷井俊仁﹁路程書の時代﹂﹂︑
︵ 68︶例えば︑田汝成﹃西湖游覧志﹄の関連個所を参照︒
七巻﹄集全生先野小倪正﹃宗 69十﹄鄭鄤﹃峚陽草堂詩文集倪二﹁﹂︑堤公蘇巻草︶洞霞靑天
︵ 三﹂などを参照︒方伯聯句韻四首 ﹁下岳王七用李邵二詩律言祠
︵ 答呉本如方伯﹂を参照︒書牘巻六十二﹁文 祈手るす念活を躍がてし紙ある︒鹿﹄集石裘室祚﹃鼎梅ばえ例 に︑載記を績事の軾蘇際ど人し任赴てしと官方地のかこたが 70明代後期﹂の蘇軾﹁知杭州︶治績に言及する記として︑知載
︵ ﹂州文人與湖非久︒要今並四公而坐恐難熟熱也︒人服其確論︒ 周標令︑為山水深契者列之︒乃公有冷矣︒祠別弇明爲且面神 賢亮公張祠︒州︑六稱弇公湖曰︑地上其之風與流居久以宜祠 乃王新維公周祀增公楊祧後人︒而賢︒五稱公︑楊以益人杭三 濬重瑛孟楊守郡年︑三湖︑西李立四賢祠︑以祀鄴侯白蘇林德 71明西張岱﹃西湖夢尋﹄巻一﹁湖⁝北路正六賢祠﹂より︒﹁︶ 化研究﹄二一号︑二〇一九︶を参照︒ 72拙州文洋東﹃﹂︵纂編志方地の杭稿﹁︶初清るみに﹄志湖西﹃期
四八
︵
︵ 九︶を参照︒ 73高北葉〇〇二社︑版出郷稲台樹﹃﹄︵︶政化文的期前朝清策
︵ 判などに対し蘇軾を擁護する議論等が表れた︒ に気は清代にも継続れ︑さらさ考ら︑批証熹朱のか地見的学 が人の軾蘇に︑うよるべ述文三論のこ照︒参︶七〇〇二号︑ 74莫礪峰﹁論清代幾蘇軾研究的︶個特点﹂︵﹃人中国学報﹄一文
︵ ﹂臨蘇軾楷書手巻一軸賜之︒ 復詩文自譯讀︑又講論漢文︒親命呈喇筆以覧︑御字漢書里沙 翰奉林官所作詩文進呈︑皇旨着進懋勤殿︒上將所進里將沙喇 十四︶の﹁康熙十六年四月八九日﹂の条より︒﹁是日︑學士九 75一編﹃中国第一歴史檔案館康局︑煕起居注﹄︵北京中華書︶
︵ 号︑二〇〇五︶である︒ ﹂︵が︑谷井俊仁﹁一心一徳考﹃い東洋史研究﹄六三巻四の深 76解その康熙帝の漢人・学問理と味その変化を描き出して興︶
︵ 照︒ 77掲杭前参を﹂纂編志方地の州期拙︶清るみに﹄志湖西﹃稿﹁初
︵ ︵﹃中国文哲研究通訊﹄一六巻二期︑二〇〇八︶を参照︒禁毀﹂ 隆﹁文系︶﹄七輯︑二〇〇︶︑彭萬八︽︾西目存的與志勝覧湖詩 廃﹂︵記與墟詩的中︾感中﹃憶極国学学大際中南里埔刊︵曁 顛見もに末なたっと書禁て取れ鄭雅尹﹁銭謙益︽西湖雑る︒ てを掲載しのいるとして︑詩ら蘇を︶し︑軾の詩愛好していた 湖﹄選詩勝覧西た﹃れら銭が︑益︵謙唐感に派宋共が身自彼 理に解しようとする人たちブ向けてガイドックとして作的に 78接れ例えば︑名勝・西湖を訪る間人たちと︑それを本にて︶
79熙﹄︵訳全摺奏批朱文満朝康︶訳﹃編館・案檔史歴一第国中北 ︵ 杭州に関する記載を参照︒ 中︶︑の﹄注居起煕康掲﹃前六国九九一社︑版出学科会社京
︵ すもので興味深い︒ 満めぐる対話は︑康熙帝の洲摺族の臣下との関係を示を奏の 80注七九と同じ資料参照︒な︶お︑州織造の孫文成と康熙帝杭
︵ ︵﹃浙江工商大学学報﹄二〇一四年第五期︶を参照︒ 南期︑二〇一二︶︑劉欣論乾隆萍﹁巡播対響影之﹂伝形南江象 学黒河学院三報﹄巻四﹂︵﹃究海研比対為行治政巡南乾康萍﹁ 81前掲拙稿﹁﹃西る湖志﹄にみ︶清初期杭州の方志編纂﹂︑江地
︵ 82︶﹃雍正上諭内閣﹄巻七十八﹁雍正七年二月二十六日﹂を参照︒
︵ かがえる︒ ろ府・馬如龍が康熙二一年ご十にし蘇がとこたう名と堂白命 り︑州熙康﹃れおてか書が志府杭﹄あ州知たっ杭で版者初の編 に龍は︑注字にて﹁知府馬如小白がつ蘇﹂たけ旨を前名の堂 巻﹂署府州杭署公二﹁十﹄堂れ︑志白が明記さ﹃民国杭州府 い熙康﹃るが︑てれさ載州杭志府府蘇﹂図治に︑の﹁七十巻﹄ 白設建の堂は蘇乾に﹄隆雍が﹁る正八年﹂であかのように記﹃ 83こ十﹃乾隆杭州府志﹄巻九﹁お︑公署二の杭州府署﹂︒な︶
︵ 前述の﹁蘇白堂﹂の他︑役所の奥には﹁東坡祠﹂が見える︒ 84︶﹃康熙杭州府志﹄巻十七﹁公署﹂に付された﹁府治図﹂では︑
︵ 照︒ 85掲杭前参を﹂纂編志方地の州期拙︶清るみに﹄志湖西﹃稿﹁初 乾州と言われていそして︑杭る︒のは︑名つくいかに理料物 のろご期初清は︑のるなに形在で現が﹂肉坡東の﹁こる︒あ 86ここでひとつる気にかか︶のは︑杭州の名料理﹁東坡肉﹂物
「知杭州」蘇軾四九 隆帝の南巡にまつわる伝承をもつものがある︒この﹁蘇軾尊崇運動﹂が︑﹁東坡肉﹂の形成を促した可能性があるのではないか︒このことについては︑同時代の﹃東坡養生集﹄など蘇軾と生活のつながりを生む書籍なども踏まえ︑別稿を用意して考える︒︵
︵ 照︒ 淨来別南北山諸道人而天竺惠下師三参以﹂句絶を作贈石醜行 幾寡求亦庶月焉三六日安分而出覺相名才雖天樂似麤少老處遠 87﹃東坡詩集﹄杭巻三三﹁予去︶十六年而復来留年而去平生自二
﹂蘇軾僅請度牒數百道︑本朝凡遇災荒仁恩立霈︑動輒鉅萬︒ 有於史傳者爲數有或發現限︑之⁝倉之州杭災︑食︒民移或就 已以垓京逾而之計合下︑是上︒厯曰代寛䘏賑見也︒二政仁民 數無之︑動輒損百萬無上益年緩天蠲旱水於至次︒一糧漕下免 次︑八糧錢天下免普朝︑免普次︒天下漕糧四隆嘉慶朝復普兩 88乾篇﹁張之洞﹃勸學篇﹄巻上内教熙忠第二﹂より︒﹁我朝康︶
五〇
Su Shi as a Magistrate of Hangzhou:
What Made Him Famous as a Great Magistrate
KONITA Akira This paper explores Su Shi s image as a magistrate of Hangzhou. It was said that Su Shi had great achievements. He is still recognized as a representative governor of Hangzhou today. This study discusses what made him famous as a great magistrate.
Su Shi earnestly hoped that the state would seriously consider and take measures against the famine in Zhejiang province including Hangzhou, and he repeatedly reported about the famine to the emperor. This effort made him famous as one of the magistrates of Hangzhou. Since he became famous, his achievements as a magistrate were also recorded in various kinds of books.
Although he became famous as a great magistrate of Hangzhou among local elites, his study and achievements were criticized by scholars of neo- Confucianism in the Southern Song dynasty. In the Ming dynasty, Su Shi was known as a great scholar of the Song dynasty. As his reputation as a scholar grew, his achievements as a local magistrate of Hangzhou were also recognized by people during the Ming dynasty. In the Qing dynasty, since the state promoted cultural projects, the state officially celebrated him as a great magistrate of Hangzhou. This made him a notable magistrate of Hangzhou, and this policy made him win immortal fame as a magistrate.