れ』の1950年代
著者 川島 健
雑誌名 同志社大学英語英文学研究
号 99
ページ 1‑27
発行年 2018‑03
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2018.0000000005
『怒りを込めて振り返れ』の1950年代
川 島 健
はじめに
戦後のイギリスは大きな変化を被った。1945年の労働党政権の誕生、福祉 国家体制の準備、そして1950年代の未曾有の好景気。そのなかでも1956年は イギリス社会主義の転換期として記憶されている。2月にフルシチョフのス ターリン批判があり、6月はポーランドにはポズナン暴動、10月にはハンガ リー動乱とスエズ危機が勃発する。これらの事件により、社会主義の約束す る未来が裏切られ、左翼的言説が拠り所を失う。スターリン批判は、社会主 義の混迷の告白でもあった。
資本主義によってある程度実現されてしまった個人の(消費の)自由と福 祉政策によってもたらされた相対的な豊かさも、公共の理念を論じる社会主 義の役割を減じてしまった。文化と芸術はそのような変化を刻印している。
「怒れる若者たち」と呼称される一群の作家は、既存の宗教観を否定し、政 治をこけにし、既得権益を嘲笑した。ロンドンの「これが明日だ(“This Is Tomorrow“)」展(1956)の開催は、ポップアートの誕生を告げ、演劇界では『ゴ ドーを待ちながら(Waiting for Godot)』や『肝っ玉おっ母(Mother Courage)』(と もに1955)がイギリスの客間演劇の伝統を一新する。変化の潮流の中心にあっ たのはジョン・オズボーン(John Osborne)の『怒りを込めて振り返れ(Look Back in Anger)』(1956)だった。三幕劇と饒舌な台詞回しはイギリス演劇の 伝統であり、形式的にはやや古臭いが、主人公ジミーの剥き出しの感情は多
くの反響を呼んだ。1
本稿は、『怒りを込めて振り返れ』を取り巻く様々な言説を分析する。社 会主義の失墜が明らかになる1956年に初演された『怒りを込めて振り返れ』
に様々な議論が集中する。この劇作をとりまく熱狂は作品の内容をめぐる 議論を凌駕し、その時代を象徴する現象となった。それはまた1950年代英 国演劇界、あるいは英国社会全体が感じていた閉塞感の証左でもある。観 客の潜在的な不満がはけ口を求め、この作品に反応した(Sierz: “Myth of
Anger”138)。本稿の目的は作品の分析や評価ではない。現在は男性中心主義
的と批判される本作が、1950年代後半に評価された理由を考察するのが目的 だ。社会主義の訴えが空しいこの時代に、『怒りを込めて振り返れ』はどの ように迎えられ、どのような議論をもたらしたのか。本作がもたらした波紋 からどのような50年代をみいだすことができるのか。このような問いととも に議論をすすめていく。
若者の誕生
1950年代は新しい夫婦のかたちが模索された時代でもある。古いジェン ダー規範に縛られ、男女の役割が固定的な夫婦関係に代わり、「チームワーク」
ともいわれる新しい夫婦関係は「友人のような夫婦関係」ともいわれた。戦 前は、労働を基盤に男同士の連帯によって育まれる男性像が支配的であった。
新しい夫婦関係はそれに代わり、家事に積極的に参加し、家庭で形成される
「新しい男性」像を描き出す(Finch and Summerfield 7)。
1950年代は「新しい男性」像と「古い男性」像が共存し、相克した時代
だ(Webster, 205; Segal, 16)。それはまた男性たちのアイデンティティが職場
と家庭のあいだで揺れ動いていたことを意味する。そこに「若者(youth)」
というカテゴリーが浮上する。家庭でも職場でもない帰属と連帯の可能 性を模索した社会主義がそれをみいだしたのだ。ダン・レベラート(Dan
Rebellato)は1950年代半ばの文芸評論で “life” がキーワードであったことを 指摘する(1956 and All That 21)。倦怠感と閉塞感の打破を求める思考が “life”
という言葉に集中した。その流れが若者文化を浮上させる支えとなったこと は想像に難くない。
そのような若者文化を語るキーワードとして、ニック・ベントリー(Nick
Bentley)は「消費主義」、「アメリカ化」、「脱階級」、「豊かな社会」を挙げて
いる(“The Young Ones” 67)。豊かさが階級意識を希薄化し、消費によって アイデンティティを確立する若者たちが前景化されたのだ。リチャード・ホ ガート(Richard Hoggart)が『読み書き能力の効用(The Uses of Literacy)』(1957)
で嘆いたのは、若者たちがアメリカの劣悪な文化の餌食とされていることだ
(205)。文化帝国主義に支配される若者たちへの危機感は、古き良き時代の 男たちの連帯への憧憬を促す。一方、若者文化の新奇性を、支配層が保守し てきた伝統文化への抵抗とも考える者もいた(Wolff 138-39)。スチュワート・
ホール(Stuart Hall)は若者文化を積極的に評価しようとした評者のひとりだ。
[T]he “leisure” world of the teenager assumes an importance unrivalled by school or home, an independence of the adult world and a freedom from the constraints of maturity and conformity which constitutes, in itself, its major attraction. In response to the cultural exploitation, which the school assists in, many teenagers erect cultural barriers themselves: so that their leisure world absorbs and consumes all the emotional vitality and the fantasy and imaginative projections of adolescence, and becomes a wholly self-enclosed universe. (“Absolute Beginnings” 20)
家からも学校からも切り離された若者たちの作りだす文化は、大人たちの世 界からの独立と自由を意味する。十代の「余暇」の世界は消費文化への耽溺 と否定されるべきものではない。そこに潜む活力と想像力に着目するホール
は、若者たちを新たな文化の担い手として評価する。しかしそれは大人の安 易な理解を撥ね付けるような繭でおおわれている。その繭を壊さぬように、
なかで行われている創造を語ることの必要性をホールは示唆している。
別のエッセイでもホールはラディカルな若者文化が安易な(政治的)レッ テルを拒むことを指摘する。
Instinctively, young working class people are radical. They hate the stuffiness of the class system, though they cannot give it a political name: they hate the frustrations of petty conservative officialdom, though they cannot spell “bureaucracy”. But they feel and experience these things in private, emotional ways, for this is how adolescence encounters the world. Things don’t add together to make complete pictures. They find it difficult to search out the causes of things. “Profundity” and “intensity” are the cults of a “left- bank” middle class adolescence, but they mean very little for working class boys and girls. They may understand superficially: but they feel in depth.
(“Politics of Adolescence” 2)
中産階級左派の若者たちが「深さ」と「熱心さ」を特徴とするのに対し、労 働者階級の若者にはそれが欠如している。「軽薄」で「表層的」にみえる若 者たちの行動は一貫性を欠いているようにみえる。しかし、彼ら、彼女らは 見識よりも直感と感性で現実を掴む。カルチュラル・スタディーズは、それ を語る言葉を紡ぐために要請されたのだ。ホールの言葉で重要なのは、若者 のラディカルさの淵源を「本能」に同定している点だ。中産階級の青年が語 る深遠な言葉に代わり、労働者の若者の「本能」を語る言葉を作り上げなけ ればならないとホールはいう。若者の「本能」への期待は、理論的な支えを 失った社会主義の閉塞感の裏返しでもある。
熱狂を求めて
『怒りを込めて振り返れ』は熱狂的に迎えられた。後述するように、特に 社会主義者がそれに期待を表明した。息切れしそうな左翼思想の刷新を、若 者の生命力と本能に託したのだ。主人公ジミーは生命力に溢れ、熱狂的に振 舞う。ジミーの怒りの淵源はスペイン内戦で傷ついた父親の報われぬ死で あった。それは社会主義の理想の失墜を意味した。ジミーが度々、喪失を嘆 く「大義」はそのような理想の最後の輝きである。
We had all that done for us, in the thirties and the forties, when we were still kids. (In his familiar, semiserious mood.) There aren’t any good, brave causes left. If the big ban does come, and we all get killed off, it won’t in aid of the old-fashioned, grand design. It’ll just be for the Brave New-nothing-very- much-thank-you. About as pointless and inglorious as stepping in front of bus. No, there’s nothing left for it, me boy, but to let yourself be butchered by the women. (Look Back in Anger 83)
ジミーが訴える「大義」は、1930年代から40年代の階級闘争を喚起する。50 年代、福祉政策の導入がもたらしたのは女性の時代であった。ジミーがいう ように、それは男性性が女性性に駆逐される時代であった。社会主義の失墜 は男性性の喪失であったのだ。
したがって、ジミーの暴力的な言動と「熱狂」の希求は、男性性の喪失の 文脈で考える必要がある。
Oh heavens, how I long for a little ordinary human enthusiasm. Just enthusiasm – that’s all. I want to hear a warm, thrilling voice cry out Hallelujah! (He bangs his breast theatrically.) Hallelujah! I’m alive! I’ve
an idea. Why don’t we have a little game? Let’s pretend that we’re human beings, and that we’re actually alive. Just for a while. What do you say? Let’s pretend that we’re human. (11)
ジミーは「熱狂」を切望する。それは人間性を基盤にした感情の連帯である。
しかし、そのような熱狂が現代社会では不可能であることを知るジミーの振 る舞いは意識的で芝居がかっている。熱狂が虚構であり、その切望がアイロ ニーであることが示される。
ジミーは言葉を失った存在であった。なにを求めているのか、失われたも のがなんなのか彼自身もわかっていない。彼が苛立つのは自らの主義主張が 伝わらないことではなく、主義主張そのものがないことだ。劇作家のデビッ ド・エドガー(David Edger)は『怒りを込めて振り返れ』の男たちの不幸を
「革命のプラカードやマニフェストではなく清潔なシャツを渡されてしまう こと」(9)という。福祉政策により相対的な豊かさを手に入れた男たちはも はやハングリーであることは許されない。
ジミーの感情的な言動を男性性に起因させる指摘はこの作品の一面しかみ ていない。アレックス・シエツ(Aleks Sierz)の洞察がユニークなのは、そ のようなバイアスを逃れているからだ。
In today’s climate, it is even possible to see Look Back in Anger’s most original contribution to 1950s cultural sensibility – its expression of masculine feelings – as just part of confessional culture. What was rare in the 1950s – men talking about emotions – is now general. (Osborne’s Look Back in Anger 5)
感情の率直な発露が男性にとって稀であった時代にジミーは赤裸々に告白を する。コンプレックスを語り、孤独と弱さを認める。ジミーは職場で培われ
る労働者の絆に頼るわけでも、家庭の温かみに甘えるわけでもない。そのよ うな孤独を告白する無防備さこそが真実の証左となる。告白の真正さがその 空虚な内容を補完する。
初演時の劇評が注目するのはジミーの言葉の力だ。J・W・ランバート(J. W.
Lambert)は、「電流が火花を起こすように、会話が観客を活気づける」こと に瞠目する(Lambert 37)。ハロルド・ホブソン(Harold Hobson)は「世界 にたいする若者の糾弾」(Hobson 13)をみいだす。セシル・ウィルソン(Cecil
Wilson)は「怒りの理由が明らかにされない」など戯曲の欠点を指摘しなが
らも、「燃えあがるような情熱」があり、オズボーンに作家としての才能が あることは間違いないことを保証する(Wilson 3)。『怒りを込めて振り返れ』
の劇評に共通するのは、演劇構造の稚拙さを補う、ジミーの赤裸々な告白へ の評価だ。むしろその稚拙な構造が真実の証左と解された。語るべきことが なくても語り続ける言葉の力強さとそのエネルギーが賞賛されたのだ。
『怒りを込めて振り返れ』の評価に最も貢献したのはケネス・タイナン
(Kenneth Tynan)であることは間違いない。1952年に『イブニング・スタンダー
ド(Evening Standard)』誌に専属劇評家と採用され、1954年に『オブザーバー
(Observer)』誌に移ったタイナンの50年代半ばの劇評は、イギリス演劇の現 状への絶望とそれを突き破る若き力への期待とのあいだで揺れ動いている。
彼もまた熱狂を求め続けた知識人といえる。そのタイナンが『怒りを込めて 振り返れ』評で力説するのはジミーの人物造形だ。
All the qualities are there, qualities one had despaired of ever seeing on the stage – the drift towards anarchy, the instinctive leftishness, the automatic rejection of “official attitudes”, the surrealist sense of humour (Jimmy describes a pansy friend as ‘a female Emily Bronte’), the casual promiscuity, the sense of lacking a crusade worth fighting for and, underling all these, the determination that no one who dies shall go unmourned. (Theatre Writings
113)
タイナンはジミーの特徴をまとめている。明確な主張を持っていないが、「官 僚的な態度」を拒否し、すべての死者にたいして敬意を示そうとするジミー の心性を「本能的に左寄り」という。拠るべき主義もないジミーの、それで も保たれるある種の倫理性を「本能」に起因させている。社会主義の大義は 失われたが、その思想は心情的なものとして再回収される。若者の本能への タイナンの期待はスチュワート・ホールの論点と一致する。
タイナンは作品を度外視しジミーを語る。上記引用に続くパラグラフでも その思い入れは続く。
One cannot imagine Jimmy Porter listening with a straight face to speeches about our inalienable right to flog Cypriot schoolboys. You could never mobilise him and his kind into lynching mob, since the art he lives for, jazz, was invented by Negroes; and if you gave him a razor, he would do nothing with it but shave. The Porters of our time deplore the tyranny of “good taste”and refuse to accept “emotional” as a term of abuse; they are classless and they are also leaderless. Mr. Osborne is their first spokesman in the London theatre. (Theatre Writings 113)
第一次大戦後にイギリスに一方的に併合されたキプロスでは、第二次世界大 戦後、独立を求める運動が盛んになる。「キプロスの生徒たち」への言及は、
イギリスの統治政策に、ジミーは抗議するであろうというタイナンの想定だ。
一方、ジャズへの熱狂は、ジミーが有色人種に偏見を有していないことの証 とされる。また、イングランド的品位、つまり感情の抑制の美徳をジミーが 嘲笑っているという。ジミーのような若者が平等で水平な社会を作るのだと いう。本能的に左翼的な理性と倫理を育む若者の代表例としてジミーが据え
られる。ここで重要なのは、ジミー世代の若者たちが「「感情的」という言 葉を悪口とは受け取らない」というタイナンの断定だ。彼らの反抗と苛立ち はイデオロギーに立脚していない。だからこそ「感情的」に、「本能」に由 来しているようにみえる。
タイナンの「感情」と「本能」の礼賛はジミーがジャズ・トランペットを 演奏することに由来する。『怒りを込めて振り返れ』でジミーはジャズを熱 烈に支持する。“You like it all right. Anyone who doesn’t like real jazz, hasn’t any feeling either for music or people”(Look Back in Anger 46)。ジミーは、ジャズ への理解を人間的感受性の指標としている。タイナンはこの台詞から、自由 でアナーキーなジミー像を導き出している。しかしこの劇作でジミーが表し たのは、エドワード朝へのノスタルジーであり、軍隊や労働者階級によって 醸成されるホモソーシャルな絆の復活への願いである。それは必ずしも平等 な社会ではなかった。むしろ階級移動が容易でなく、階層が安定していた時 代として想起されている。ジミーは相対的な豊かさと自由を持て余した存在 なのだ。タイナンの解釈は作品のこのような複雑なニュアンスを無視したと ころで成り立っている。その劇評は、歴史的パースペクティブと福祉社会へ の視線を捨象し、人種差別など同時代問題を論じる方向にその焦点を合わせ 直す。作品が有していた1950年代の社会主義の困難にたいする認識を犠牲に している。
社会主義とジャズ
行き詰まった社会主義が若さに期待したことはすでに述べたとおりだ。し かし、演劇がその期待に十分応えたかは人によって評価が異なる。アービン グ・ワードル(Irving Wardle)は1958年の英国演劇の現状を振り返り、若手 劇作家が政治を主題にして劇作することが少ないことを嘆く。あったとして も政府への批判とやみくもな攻撃性に終始するという。ワードルがここでオ
ズボーンを標的にしていることは明らかだ。彼のいう政治は国内の党派政治 ではなく、植民地を含めた国際的な問題のことだ。その批判の根底にあるの は、ホールらが中心になって構築しようとしていた新しい社会主義の試みと 若手劇作家の連携が十分でないという認識である(Wardle 203)。
やや保守的にみえるワードルの視座だが、演劇界の現況と社会主義思想の 行き詰まりを的確にとらえている。1930年代以降、階級問題に特化してきた イギリス社会主義は、プロレタリアートに代わる新たな連帯先を探し求める ことに腐心し、国際的なパースペクティブを欠いていたのは事実だ。若手 作家のなかでワードルが唯一の例外と挙げていたのはドリス・レッシング
(Doris Lessing)だ。彼女もまた目的を失った社会主義を嘆き、植民地の知識
人との連帯を求めることで、英国社会主義の国際化の必要を訴えた(Lessing 24)。
レッシングのエッセイはトム・マシュラー(Tom Maschler)編集の『宣言
(Declaration)』(1957)に掲載されている。オズボーン、コリン・ウィルソ
ン(Colin Wilson)らとともにタイナンも寄稿しているこの本は、50年代に デビューした若者作家たちの文字通りの「宣言」であったが、これら若者を 結びつける強烈な主義主張は見当たらない。共有されているのは、社会主義 にたいする幻滅である。先に触れたレッシングが唯一肯定的な未来を提示し ているが、ほかの作家たちのテクストは、総じて「宣言」というカテゴリー には相応しくない諦念と呪詛に満たされている。
タイナンの「演劇と生活(“Theatre and Living”)」も例外ではない。タイナ ンは、知識人が大衆に語り掛ける言葉を失ってしまった窮状を訴える。演劇 もまた社会主義を信奉する知識人と大衆の断絶を解消できていない(“Theatre
and Living” 114-15)。その原因は社会主義の暗さにあり、その克服のために
熱狂と興奮を取り戻すことが急務とタイナンはいう。
Socialism should be a gay international affirmation, a joint declaration that
we are all equal members of a gigantic conspiracy to outwit the abysses of night and silence through which our planet coolly and predictably swings.
It is not a burning weapons. It is a lighting of festal bonfire. (“Theatre and Living” 122)
旧来の社会主義が予定調和的であり、血の通わぬものであったことを反省し、
未来の社会主義がより祝祭的で陽気なものであるべきと力説する。社会主義 の理論や対象を論じるのではなく、論調と雰囲気の問題に還元してしまうの は軽薄といえよう。それはタイナンの責というよりは、社会主義そのものが 陥っている窮境を表している。重要なのは、社会主義のはまり込んだ深淵と そこからの脱出が、ジャズ用語(coolly, swings)で表現されている点だ。
このジャズ用語の使用は偶発的なものではない。社会主義を激励するこの エッセイは、タイナンの友人の息子への手紙を丸々引用して締めくくられる のだが、そこでもジャズは重要な要素となっている。
You will hear that London is rapidly becoming the jazz centre of Europe;
that this is the only art in which our prestige is growing. And if you talk to the cats, you will find in them these qualities: an instinctive Leftism, an undemonstrative sympathy with anarchy, a dislike of classy politicians, a vivid vernacular made up of Hollywood, space fiction and local dialect, a polite interest in drugs, a good deal of shared promiscuous pleasure, and almost no drunkenness. These young people cannot look at Macmillan’s face without laughing, and they cannot work up much interest in our inalienable right to flog Cypriot school boys; though I feel they might be rather nettled if Liechtenstein were a Czarist colony and Russian sent over a gauleiter to enforce its loyalty. They are bright, unaggressive and authentically tolerant.
Few of them would be capable of doing anything with a razor except shaving
with it. You could never make a lynch-mob out of them, because the art they live for was invented by negroes. (“Theatre and Living” 128)
この手紙はオックスフォードを卒業する若者に宛てられている。ロンドンに 出てくることを促す文面でタイナンは、「本能的な左翼主義」の若者たちの ためのプラットフォームが必要だと訴える。若き友人に、彼ら、彼女らの無 目的な熱狂に思想的な足場を与えて欲しいというのがその意図だ。アナーキ ズムへの親和性と、伝統的なイギリス的価値観の拒否、独自の言葉遣い、政 治への不信、自由な性の謳歌、不平等への怒り、全体主義への抵抗。これら が「本能的な左翼主義」の若者の性質とされる。これらの表現が『怒りを込 めて振り返れ』劇評で使われた言葉の再利用であることは一目瞭然だ。ジミー のジャズへの熱狂と「本能的に左寄り」が敷衍され、ジャズクラブに集まる、
放埓ながらもリベラルな若者たちの属性として列挙されている。タイナンは ジミーを、ジャズクラブに集まるアナーキーでリベラルな若者たちの象徴と して据えている。
若者の放埓さとリベラルな連帯への希求がジャズによって結び付けられ ている。タイナンにとってジャズは若者の社会主義的性向を担保するもの であった。彼のジャズにたいする期待と希望は楽観的に過ぎることは確か だ。しかし、そのジャズ観はタイナンの妄想に帰するというより、当時の文 化言説と社会主義の行き詰まりによって醸成されたものと考えるべきであ ろう。1950年代、ジャズはエンターテイメントとしてだけではなく、文化 としての価値が認められるようになっていた。ディック・ヘブディジ(Dick
Hebdige)は『サブカルチャー(Subculture)』(1979)で、ニューヨークでの
ジャズの盛り上がりを「黒人と白人の前例なき融合」と位置づけ、「人種、性、
反抗などに集中して議論を巻き起こした」ことを評価している(47)。一方、
1959年に公開された映画『ジャズの叫び(The Cry of Jazz)』は対抗文化とし てのジャズの評価を決定的にする。エドワード・ブランド(Edward Bland)
によって制作されたそのドキュメンタリーは、ジャズの歴史をアフリカ系ア メリカ人のアイデンティティと結びつけ、奴隷制の歪みが生み出した抵抗と 位置づける。そのメッセージは、「黒人と白人の前例なき融合」という楽観 論を予め撥ねつけている。ジャズが白人に消費されることを拒む過激さは、
黒人知識人のあいだでも評価は割れた。
イギリスにおけるジャズの受容は1910年代にまで遡る。アメリカから流れ てきた演奏家たちがリバプールなど港湾都市を中心に集い、ジャズバンドが 増えていった。しかし「カラー・バー」などの人種差別を増長する条例により、
黒人ミュージシャンたちの演奏の場は限られてくる。20世紀中葉には、違法 に運営される「クラブ・イレブン」や「ロニー・スコッツ」などのロンドン のナイトクラブに、演奏の場を求めるようになる(Toynbee 9-12)。
このようなジャズのブームを思想的に擁護していたのが、『ニュー・ステ イツマン(New Statesman)』誌でジャズ批評を繰り広げていたフランシス・
ニュートン(Francis Newton)こと、マルクス主義歴史家エリック・ホブズボー ム(Eric Hobsbawm)であった。1959年にニュートン名義で出版されたジャ ズ礼賛の本は、人種、階級横断の力をジャズにみいだしている。
Jazz is a music of protest, because it was originally the music of an oppressed people and of oppressed classes: of the latter perhaps more obviously than of the former, though the two cannot be kept rigidly separate. It has, of course, made perhaps its most powerful appeal to middle- and upper- class aficionados because of these social origins[.] (234)
抑圧された黒人たちの音楽であるというジャズの起源。その記憶と歴史が人 種の違いだけではなく、階級の違いをも飛び越えるというホブズボームは、
連帯のユートピアをジャズに期待している。ジャズを音楽としてではなく、
それを取り巻く歴史と風俗から考察する社会学的視野はタイナンのものと相
似する。それが楽観的であるのも同じだ。
ロンドンの若者の生態を赤裸々に描いた聖典として名高いコリン・マッ キネス(Colin MacInnes)の小説『アブソリュート・ビギナーズ(Absolute
Beginners)』(1959)では、自由に満ち溢れたジャズクラブの雰囲気が再現さ
れている。
But the great thing about the jazz world, and all the kids that enter into it, is that no one, not a soul, cares what your class is, what your race is, or what your income, or if you’re boy, or girl, or bent, or versatile, or what you are – so long as you dig the scene and can behave yourself, and have left all that crap behind you, too, when you come in the jazz club door. (MacInnes 83)
語り手がジャズクラブにみいだしたのは、肌の色、階級、ジェンダーを問わ ない超領域的空間だ。マッキネスは若者文化の多様性と寛容性を強調する。
ジャズが、アメリカの借りものではなく、ロンドンの文化の一部として根づ きつつあることが活き活きと伝えられる。
ところで『アブソリュート・ビギナーズ』の最後部には「テディ・ボーイズ」
が黒人たちを襲う陰惨な人種暴動の記述がある(240-77)。これは実際に起 きたノッティングヒル暴動の衝撃に受けたマッキネスが、当初の構成を大き く変えて挿入した部分だ(Goulding)。かつての友人が“Keep England white!”
(268)と叫ぶ状況に嫌気がさし、アフリカ行きを目指し、はじめてのパスポー トを取得する語り手の心情は、前半でジャズクラブの自由を謳歌した楽天さ とは大きく隔たっている。ジャズクラブのユートピアを称揚する前半と、人 種暴動をドキュメンタリー風に描出する後半のあいだには明らかな裂開があ り、それが作家の動揺と小説の構造的問題を露呈させている。その一方で、
そのような不連続こそが、作家であるとともにジャーナリストであったマッ キネスの誠実さを表しているともいえる。前半の楽観論を全否定するかのよ
うな暴動の記述は、彼自身の認識の甘さを敢えて晒す。しかし、人種的に抑 圧されたものと階級的に抑圧されたものの連帯はたやすくないことを、マッ キネスは身をもって表現しているのだ。
トランペットと女たち
ケネス・タイナンは、『怒りを込めて振り返れ』のジミーとジャズの関係 を人種問題に引き付けて論じた。しかしマッキネスがある種の誠実さにより 示唆したように、人種問題と階級問題をひとつにして語ることは早計といえ よう。タイナンはジミーの感情の爆発に普遍的なプロテストをみいだしてい る。その怒りの象徴がトランペットなのだ。ところが、その視座がやや危う いのは、タイナンが『怒りを込めて振り返れ』でのジミーの演奏場面には全 く触れていないことに一因がある。『怒りを込めて振り返れ』は室内劇で、
女たちは入れ替わり、ジミーの親友クリフは最後に家を出る決心を吐露する。
対照的にジミーだけはずっとこの部屋に留まり続ける。トランペットを吹く ときもそうだ。演奏に込められた彼の感情は室内で消費される。しかも、舞 台裏に押し込められ演奏するジミーの姿は視覚的に表現されない。音は聞こ えども姿はみえないという音響と舞台の効果は、閉じ込められ、正当な言葉 と場所を与えられていないジミーのもどかしさと呼応する。
ジミーがトランペットを吹く場面は二回ある。第二幕冒頭、舞台でアリソ ンとヘレナがお茶の支度をしているなか、ジミーのトランペットが聞こえて くる。“Jimmy is playing on his jazz trumpet, in intermittent bursts”(36)。「断続 的に響く爆音」はジミーの苛立ちを示し、舞台上で家事に勤しむ女たちの言 動と対置される。前幕の終わりに登場するヘレナがジミーの獣性に火を点け る。ここでヘレナは「母権性の権化(matriarchal authority)」(36)と評され る。そのような母性がジミーの激しさと対比される。“In Jimmy, as one would expect, she arouses all the rabble-rousing instincts of his spirit”(36)。彼の「扇
動する本能」は母性によって目覚める。母性に対抗するように彼の政治的本 能が目覚める。しかしエドガーが指摘したように、ジミーは「プラカードや マニフェスト」を剥奪されている。政治に訴える言葉を失った男が頼るのが トランペットなのだ。
もうひとつは第三幕第二場冒頭だ。妊娠が発覚したアリソンは家を出て、
ヘレナがその後釜に収まり家事を担当している。そこに戻ってきたアリソン とヘレナのあいだに、緊張感の火花が静かに散る。その舞台後方からジミー のトランペットが聞こえてくる。アリソンとヘレナは自分たちのこと、ジミー のこと、流産した子どものことを語り合う。女性たちの会話の背景としてト ランペットが鳴り響く。自分に非があることを理解しているからこそジミー は身を隠す。しかし外出するのではなく、部屋に留まりトランペットで自己 主張する。
(The trumpet gets louder.)
Alison: Helena, (going to her) you mustn’t leave him. He needs you, I know he needs you –
Helena: Do you think so?
Alison: Maybe you’re not the right one for him – we’re neither of us right – Helena: (Moving upstage) Oh, why he stop that damned noise!
Alison: He wants something different quite from us. What it is exactly I don’t know – a kind of cross between a mother and a Greek courtesan, a henchwoman, a mixture of Cleopatra and Boswell. But give him a little longer –
Helena: (Wrenching the door open) Please! Will you stop that! I can’t think!
(There is a slight pause, and the trumpet goes on. She puts her hands to her head. )
Jimmy, for God’s sake!
(It stops.) Jimmy, I want to speak to you. (90)
アリソンとヘレンの会話を妨害するようにジミーのトランペットは鳴り響 く。女たちの会話にかぶさるように響く音色は、ジミーから女たちへの抗議 のようにも聞こえる。ここでトランペットは、不平不満を言葉にできぬ幼児 の心を代弁しているかのようだ。
ジミーのトランペットは、政治的言説の欠落を補うだけではない。能弁な 女性たちへの無力な野次でもある。政治的主張もなく、男性性の養護もでき ぬその窮状が最後に辿り着くのがトランペットであるならば、それは言葉を 失ったジミーの非分節言語であり、去勢された彼の弱さのサインだ。した がって、トランペットとジャズからジミーのヒロイックでリベラルな局面を 抽出しようとするタイナンの洞察は誤読といわざるを得ない。ジミーのトラ ンペットは、閉じ込められ、言葉を失った男性性の空しき叫びなのだ。
映画版『怒りを込めて振り返れ』
語ることはないのに語り続けるジミーの言葉は空虚を際立たせる。タイナ ンの誤読はそのような空虚に社会主義が好むような言葉を充填したことにあ る。そのような過誤はトニー・リチャードソン(Tony Richardson)監督の映 画版『怒りを込めて振り返れ』にもある。1959年に上映された映画は大まか なプロットはそのままに、細部に重要な変更がなされている。演劇批評家の アラン・ラベル(Alan Lovell)は早くも1959年に、先に引用したジミーの台 詞“There aren’t any good, brave causes left”(Look Back in Anger 83)が映画では カットされていることを指摘する(56)。その削除は、ジミーに明確な「大 義」が与えられていることに呼応している。映画では、ジミーとクリフが駄 菓子屋を出店するマーケットで働くインド移民カプーアのエピソードが付け 加えられている。カプーアは人種的差別により出店許可書を取り上げられ、
商店同士の過当競争のためマーケットから排除される。カプーアに代わり、
警察や閉鎖的な商店主たちと闘うという「大義」がジミーに与えられるのだ
(Nicholson 109-10)。
もうひとつの改変はジャズに関わる。映画では、ジミーがジャズを演奏す る様子が画面に映される。ジミーとヘレナが駅のパブで飲んでいるとき、呆 然とたたずむアリソンをみつける。フラットに帰ったジミーはベッドに寝転 がりトランペットで悲しげなメロディを奏でる。そこにアリソンが静かに現 れ、ジミーに別れを告げる。ここでのジミーのトランペットは、慈悲と後悔 の念を言葉にできぬ不器用さを代弁する道具として機能する。これは上記引 用のアリソンとヘレナの会話の代わりに挿入された場面であり、口下手な主 人公を強調していることが分かる。
最後の改変もまたジャズに関係する。映画冒頭、ジミーがクラブでトラン ペットを演奏する場面だ。ジャズのリズムが会場を盛り上げ、フロアーで熱 狂する観客の様子が映される。特に喚声をあげる黒人男性のクロースアップ は、人種を超越した一体感を醸し出す。
この演出には伏線がある。リチャードソンはプロの映画監督としてデ ビューするまえ、ロンドンの「ウッドグリーン・ジャズクラブ」を舞台に『マ マは許してくれない(Momma Don’t Allow)』(1955)という疑似ドキュメン タリーを制作している(Richardson 69)。リチャードソンは1950年代のジャ ズ文化の重要さを知悉している。しかし『ママは許してくれない』で演奏さ れるのがディキシーランド・ジャズであり、ミュージシャンも聴衆もすべて が白人である点を見逃してはならない。『ジャズの叫び』とは対照的に、奴 隷制の歴史や黒人のアイデンティティへの言及はなく、アメリカ経由のジャ ズはロンドンの若者たちの色恋を彩るバックグラウンド・ミュージックに徹 している。映画の舞台となるジャズクラブは、アメリカの消費文化のパロディ でしかない。『ママは許してくれない』の若者たちは確かに自由を享受して いる。しかし左翼的な国際問題への視座や不平等への怒り、人種や階級を越
えた一体感はない。中産階級の知的若者の、束の間の憂さ晴らしが描かれて いるだけだ。それは親の束縛からの解放であり、恋愛の自由に過ぎない。リ チャードソンのジャズへの理解は若者の風俗という認識を超えるものではな い。
映画版『怒りを込めて振り返れ』の冒頭場面もその延長線上にある。そこ には『ママは許してくれない』で演奏を披露したミュージシャンたちが登場 している(Nicholson 105-6)。中心となるのはイギリス生まれの白人ミュー ジシャン、クリス・バーバー(Chris Barber)。彼はディキシーランド・ジャ ズの流行に貢献し、60年代以降はアメリカのブルース・シンガーの紹介にも 尽力をする。彼が率いるバンドの演奏場面がもたらす興奮はアメリカ経由の 音楽への熱狂から生み出されたものだ。その解放感は舞台裏に閉じ込められ てトランペットを演奏するジミーの閉塞感と落差を演出するためのものだ。
アメリカ文化の解放感とミッドランドの鬱屈の対比がそこにみいだされる。
閉鎖的なイングランドの地方都市からの脱出願望とアメリカにたいする漠と した憧れをここにみつけることは難しくはない。
このような問題を見抜いていたのはスチュワート・ホールだ。映画版『怒 りを込めて振り返れ』への辛辣な映画評で、ホールは、カプーアのために大 義が与えられるジミーの演出は、闘う理由がない男の焦燥を描く原作の意図 を裏切るものだという(“Jimmy Porter” 11)。ホールの舌鋒は冒頭のジャズク ラブの場面に関してはより手厳しくなる。
It is altogether wrong for Jimmy to be the skillful, central performer at the local club, commanding the undivided attention and adoring watchful gaze of Cliff and others: it is far too stereotyped an opening, touching the fringes of bad Hollywood musical films, and it sets Jimmy up rather than apart. (“Jimmy Porter” 13)
原作のジミーは連帯の相手、憤りを共有する仲間を欠いていたが、ジャズク ラブの場面は彼を熱狂の中心におき、一体感を与えている。ここでジミーは 孤独ではない。その興奮と熱狂の演出を「ハリウッドの二流ミュージカル映 画」のようと揶揄するホールの指摘は、その場面を下支えするアメリカ消費 文化の存在を見抜いている。原作のジミーは確かにアメリカ時代の到来を予
告する(Look Back in Anger 13)。しかしそれはあくまでも自虐と皮肉に満ち
た言及であり、アメリカに憧れることを予め禁じる効果を持っている。映画 では、ジミーのトランペットの音が聞こえるたびに、冒頭のジャズクラブで の熱狂が思い起こされる。そのような場を奪われたことを不条理と仄めかし ている。
リチャードソンは自伝で『怒りを込めて振り返れ』の映画化の権利を買 い取ったときのことを回顧している。“But it was clear that any production by an established British studio would emasculate the play; and from the studio’s point of view emasculating Look Back seemed more of a problem than they originally thought”(Richardson 97)。リチャードソンは大手映画製作会社と競ってその 版権を死守する。そのために自らの製作会社を設立する。そこには作品が
「去勢化」されることを防ぐという大義があった。新参者がエスタブリッシュ メントに挑んだのは、ジミーの男性性を守るためだ。世代闘争がジェンダー 化されているのだ。実際、映画では、ジミーは熱狂を導き、弱者を守る救済 者として描き直される。それが、政治的連帯がなく、男性性が危機にあるこ とを訴える原作の意図と反するものであったことは銘記しておくべきであろ う。そしてジミーの男性性の保護のためにアメリカ産の文化に頼っているこ とも忘れてはならない。
結びにかえて
『怒りを込めて振り返れ』を論じる言葉には1950年代の社会主義の課題が 反映されている。階級意識喪失以後の新しい男性性の構築。アメリカ産の文 化帝国主義とは区別されるサブカルチャーの同定。黒人文化の影響の測定。
その行き詰まりを打破したいという欲望がこの劇作に収斂し、劇評を残した。
問題はジミーの怒りや苛立ちのコンテクストを読解しようせず、ジャズや若 者文化という喫緊の関心に接合してしまった点だ。特にタイナンのレヴュー とリチャードソンの映画化は、ジミーの剥き出しの感情と共鳴し、彼を英雄 化し、作品そのものの分析をないがしろにしている。『怒りを込めて振り返れ』
が戦後を代表する劇作となったのは、様々な誤読を受け入れる曖昧さがあっ たからだ。強烈な主人公の弁舌と正当なコンテクストを欠いた唐突な彼の怒 りは、読み手の欲望を反映する鏡のように機能した。
本稿の締めくくりに、そのような論説の典型として、リチャードソンの盟 友リンジー・アンダーソン(Lindsay Anderson)のエッセイ「映画批評にお けるコミットメント(“Commitment in Cinema Criticism”)」(1957)に言及し ておきたい。というのも『怒りを込めて振り返れ』に寄り添う社会主義の言 葉の典型がそこにあるからだ。このエッセイでアンダーソンは、映画批評家 の中立的な態度、あらゆる作品を受け入れ客観的に判断する態度に苦言を呈 する。そのような相対主義的凡庸さの原因を求めるアンダーソンは、1945年 の労働党の勝利の興奮を思い起こす。それは1950年代後半現在の社会主義の 空洞化への嘆きを伴っている。批評家の中立の欺瞞を指弾するアンダーソン は、与するべきイデオロギーがないことを指摘する。批評が総花的にならざ るを得ないのは頼るべき機軸がないことを彼は理解している。彼の批評への 苦言の背後には戦後の労働党と社会主義への失望がある。
「批評は(映画批評も含め)真空では存在しえない」(48)というアンダー ソンだが、共産主義やクリスチャン・リバイバルに期待するわけでもない。
出口なしの空白地帯を進む苦難を告白する「映画批評におけるコミットメン ト」はアンダーソンの鬱屈に満ちたテクストだ。わたしたちにとって大切な のは、そのような論調に伴奏するように『怒りを込めて振り返れ』からの 抜粋があることだ。アンダーソンは「失われた大義」を論じるジミーの例 の言葉を引用し(46-47)、社会主義の目的の喪失というメッセージに共鳴す る。エッセイの結論でも“To look back (and around) in anger may be a necessary beginning”(48)とこの戯曲の題名を援用する。しかしアンダーソンはなに をみつめるべきか明らかではないと、苦々しく付け加えることも忘れない。
エッセイを締めくくるのは、「大義」や「責任」や「ヒューマニズム」といっ た曖昧な言葉の羅列だ。そしてそのような「責任」と「大義」を担う「反逆 者(rebels)」(48)の重要性を訴える。
アンダーソンは『怒りを込めて振り返れ』の重要性を認めながらも、作品 が孕む問題を分析することからは遠ざかる。そのエッセイはジミーの喪失感 と苛立ちに共鳴するだけであり、閉塞的な現状の打破は「反逆者」や「若者」
に託される。ジミーの赤裸々な言葉と野性的な振る舞いに現状を乗り越える 力を期待する。このエッセイが重要なのは、1956年以降の社会主義の困難を 象徴しているだけではなく、『怒りを込めて振り返れ』の批評の典型をも示 しているからだ。
1950年代社会主義の若者論は無責任の謗りを免れない。安直な若者への期 待が階級や人種に関して粗雑な議論を繋いでしまった。特にその若者像が無 条件で男性に限定されていたことは特筆に値する。タイナンの若者とジャズ の無批判な称揚が、ジミーのトランペットを自由と平等の象徴とみなしたこ とは前述したとおりだ。しかし劇作ではそれは女性性の言説を抑圧しようと したノイズであった。必要なのはジミーに共鳴することではなく、『怒りを 込めて振り返れ』を分析することであった。ジミーのような男が窮境にあえ ぐ理由とコンテクストを読解することが肝要であった。それをせずに、その
「本能」に期待してしまったことこそがタイナンの過ちであり、社会主義の
過ちでもあった。
Notes
1 1959年の映画版主演のリチャード・バートン(Richard Burton)と1989年のテレ ビ版主演のケネス・ブラナー(Kenneth Branagh)はともにシェイクスピア俳優と して有名だった。この配役からも『怒りを込めて振り返れ』が伝統的な台詞回し を要求する芝居であることが分かる。
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DVD
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Look Back in Anger. Directed by Tony Richardson. Performances by Richard Burton, Claire Bloom, Mary Ure, and Edith Evans. Music by Chris Barber. Woodfall Film Production, 1959.
Momma Don’t Allow. Directed by Karel Reisz and Tony Richardson. Music by Chris Barber, 1955.
Synopsis
Youth, Jazz, and Socialism Look Back in Anger and the 1950s
Takeshi Kawashima
The purpose of this paper is to explore the massive impact John Osborne’s Look Back in Anger had on society, in particular its influence on British socialism. The focus of this play is the young male protagonist, Jimmy, who burns with anger for no clear reason. Premiered in 1956 when the public trust in British socialism was decisively lost due to Nikita Khrushchev’s denunciation of Joseph Stalin and the Hungarian Uprising, the play provoked various discussions. Enthusiasm aroused by the play signifies the sense of entrapment pervading not only the English theatre but also the society at that time. Criticisms and reviews of Look Back in Anger reflect the predicament of socialism, which lost sight of its objective. British socialism at that time faced challenges such as the establishment of new masculinity following the reduction of class consciousness, the identification of a subculture as distinguished from American cultural imperialism and the assessment of influence of Black culture. Socialist desires to overcome such challenges were echoed in Look Back in Anger, in which Jimmy passionately talks about his disbelief in socialism and about cultural impoverishment in Britain. The problem is that critics did not try to investigate what it was that irritated Jimmy and what exactly he was protesting against but instead set him up as the voice of youth culture in the late 1950s. In this paper, I would like to focus on a review of the play by the theatre critic Kenneth Tynan as a
notable example which sympathised with Jimmy’s raw feelings and regarded him as a hero at the expense of the analysis of the work. Look Back in Anger has been considered a masterpiece in post-war British theatre because it was susceptible to misreading and misinterpretation. This paper does not attempt to analyse Look Back in Anger but instead explores possible explanations for why this play was acclaimed and well received in the late 1950s. It aims to discover what kind of intellectual positions approved of the play and what arguments were generated by it.